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土佐勤王党

索引 土佐勤王党

土佐勤王党(とさきんのうとう)は、幕末の土佐藩において、尊王攘夷を掲げて結成された結社。土佐勤皇党と表記される場合もある。.

84 関係: 南部甕男古沢滋吉田東洋吉村虎太郎吉本祐雄坂本直坂本龍馬大利鼎吉大石弥太郎 (土佐藩)大政奉還天誅組の変宮内省安岡嘉助安岡直行安岡正美安政の大獄尊王攘夷小畑美稲小林よしのり尾崎忠治山内容堂山内豊範岡田以蔵岡田啓吉島村衛吉島村雅事島本仲道上士中岡慎太郎三条実美下士官平井収二郎幕末庄屋井原昂弘瀬健太後藤象二郎土佐藩土方久元北川村北代正臣北添佶摩八月十八日の政変元治勤王石川潤次郎精忠組結社田中光顕田中新兵衛...田所寧親片岡源馬菅野覚兵衛青蓮院西山志澄西田可蔵高見弥市迅衝隊間崎哲馬門田為之助那須信吾野老山吾吉郎長州藩陸援隊松山深蔵板垣高幸板垣退助檜垣直枝武市瑞山江戸池内蔵太河原塚茂太郎河野敏鎌清岡道之助望月清平戊辰戦争海援隊文久1861年1862年1863年1865年1867年5月6日 インデックスを展開 (34 もっと) »

南部甕男

南部 甕男(なんぶ みかお、弘化2年6月15日(1845年7月19日) - 1923年(大正12年)9月19日)は、明治期の日本の司法官僚。正二位勲一等男爵。号は南陽。.

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古沢滋

古沢 滋(ふるさわ しげる / うろう、1847年12月18日(弘化4年11月11日)- 1911年(明治44年)12月24日)は、幕末の土佐藩士、明治期の官僚、政治家。自由民権運動家、県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名・迂郎。.

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吉田東洋

吉田 東洋(よしだ とうよう)は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩士・参政。諱は正秋。東洋は号。後藤象二郎は義理の甥にあたる。.

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吉村虎太郎

吉村寅太郎寓居跡  京都三条木屋町上ル 吉村寅太郎之墓所、霊山護国神社、京都市左京区 吉村 虎太郎(よしむら とらたろう、天保8年4月18日(1837年5月22日) - 文久3年9月27日(1863年11月8日))は、幕末の土佐藩出身の志士。諱は重郷。一般には「寅太郎」と記されることが多い。 土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加すべく脱藩するが、寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。釈放後、再び京都へ上り孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光を擁立して天誅組を組織して大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。(天誅組の変).

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吉本祐雄

吉本 祐雄(よしもと すけお、生年不詳 - 1884年(明治17年)4月4日)は、江戸時代後期の土佐藩士、勤皇の志士。明治初期の近衛兵、明治時代の裁判官。 迅衝隊士。通称は吉本平之助(へいのすけ)。.

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坂本直

坂本直 坂本 直(さかもと なお、天保13年11月1日(1842年12月2日) - 明治31年(1898年)11月7日)は、武士・海援隊隊士。坂本龍馬の甥であり、龍馬暗殺後は家督を継いだ。幕末は高松太郎と名乗る。妻は瀬田友吉の娘である留(1847-1915)。子に坂本直樹(夭折)・坂本直衛、養子に兼次郎・潔、弟に坂本直寛がいる。坂本龍馬家の当主の一人で、龍馬から数えて2代目に当たる。.

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坂本龍馬

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬」という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。前者の例としては、平成11年(1999年)3月実施北海道 公立高校 入学試験の社会の大問4問5(2)の選択肢: 「ア 木戸孝允 イ 坂本龍馬 ウ 西郷隆盛 エ 徳川慶喜」などがあり、後者は、『中学社会 歴史』(教育出版。平成8年2月29日文部省検定済。教科書番号: 17教出・歴史762)p.181, 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:46帝国 歴史-713)p.144, 『新しい社会 歴史』(東京書籍。平成13年3月30日検定済。教科書番号: 2 東書 歴史702)p.120などで使われている。 。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。 土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。.

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大利鼎吉

大利 鼎吉(おおり ていきち、天保13年(1842年) - 慶応元年1月8日(1865年2月3日))は、土佐勤王党の一人。 文久3年(1863年)に脱藩。池田屋事件では武田観柳斎とみられる隊士と戦っている。禁門の変で敗走。 その後田中光顕らと大坂焼き討ちを計画するが新選組に情報が洩れてしまう。新選組は石倉屋に踏み込み大利と斬りあいになる。大利はよく戦ったが4人がかりで斬られ死亡する(ぜんざい屋事件)。享年24。 死亡の前日(1月7日)に詠んだと言う歌が残る。.

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大石弥太郎 (土佐藩)

大石 弥太郎(おおいし やたろう、1829年11月30日(文政12年10月17日) - 1916年(大正5年)10月30日)は、日本の土佐藩士、迅衝隊士。弥太郎は通称で、諱は初め元敬、のち圓(まどか)と改めた。位階は従五位。 土佐勤王党結成に尽力し、盟約書の起草を手掛けるなど同党幹部として活動、戊辰戦争においては板垣退助の率いる迅衝隊で小軍監などを務め各地を転戦した。明治維新後は新政府に出仕するが程なく辞し、以降は高知政界における「古勤王党派」の中心人物として影響力を有した。 同じく勤王党員で吉田東洋暗殺の実行犯の大石団蔵は従兄弟にあたる。.

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大政奉還

大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的出来事である。 「大政奉還図」これは「10月13日に二条城において将軍・徳川慶喜が諸藩重臣に大政奉還を諮問した様子を描いた絵」であり「慶喜が明治天皇に大政を奉還している様子を描いた絵」ではない。 邨田丹陵.

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天誅組の変

天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)は、幕末の文久3年8月17日(1863年9月29日)に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅された事件である。大和義挙、大和の乱などとも呼ばれる。.

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宮内省

宮内省(くないしょう)は、1947年(昭和22年)まで日本に存在した官庁名。古代のものと近代のものがあり、近代のものが1949年(昭和24年)以降の宮内庁の前身となる。.

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安岡嘉助

安岡 嘉助(やすおか かすけ、天保7年11月22日(1836年12月29日) - 文久4年2月16日(1864年3月23日)は、幕末の志士。名は正定。 土佐国香美郡山北村の土佐藩郷士・安岡正理(文助)の二男として生まれる。母は同村・藤田柳蔵の娘・みつ。 土佐勤王党に所属し、文久2年(1862年)那須信吾・大石団蔵とともに政敵であった吉田東洋を暗殺して脱藩、京都で久坂玄瑞の保護を受け、一時薩摩藩邸に居留した。文久3年(1863年)いわゆる天誅組の変に参加して敗北。戦闘で負傷して捕えられて京都六角獄舎に入り、翌年に処刑された。 小説家の安岡章太郎は嘉助の子孫で、嘉助ら安岡一族を題材とした『流離譚』を著した。 Category:土佐勤王党の人物 Category:刑死した人物 Category:1836年生 Category:1864年没.

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安岡直行

安岡 直行(やすおか なおゆき、天保10年(1839年) - 文久4年2月16日(1864年3月23日))は、幕末期の土佐藩の郷士。名は斧太郎。 1839年、安芸郡安田村の庄屋の息子として生まれる。1861年、土佐勤王党に参加する。翌年、50人組の一人として江戸に赴き、山内容堂の護衛を務めた。1863年には容堂の命により、勝海舟の海軍塾に入って様々なことを学んだ。そして北方警備や蝦夷地開拓などに大きな興味を持ち、北添源五郎と共に蝦夷地の調査を行なっている。 1864年、天誅組の反乱に砲隊伍長として参加したが、鷲家村の戦いで負傷して捕らえられ、京都六角の獄中において斬首に処せられた。享年26。 Category:土佐勤王党の人物 Category:刑死した人物 Category:1839年生 Category:1864年没.

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安岡正美

安岡 正美(やすおか まさよし、天保6年(1835年) - 慶応4年8月25日(1868年10月10日))は、江戸時代後期の土佐藩の郷士、勤皇の志士。迅衝隊小軍監。通称は安岡覚之助(かくのすけ)。「皆山堂」と号した。.

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安政の大獄

安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。 江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。。.

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尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。.

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小畑美稲

小畑 美稲(おばた うましね、1829年10月22日(文政12年9月25日) - 1912年11月12日)は、幕末の土佐藩士、明治の裁判官・政治家。元老院議官、貴族院議員、錦鶏間祗候、正二位、男爵。幼名・孫二郎または孫次郎。.

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小林よしのり

小林 よしのり(こばやし よしのり、1953年8月31日 - )は、日本の漫画家、評論家。「よしりん企画」社長、「ゴー宣道場」主催。福岡県福岡市出身(出生は大野城市)。本名、小林善範(読み同じ)。福岡大学人文学部フランス語学科卒業。1976年に『ああ勉強一直線』を投稿しデビュー。『東大一直線』『おぼっちゃまくん』などのヒット作を持つ。 1992年の『ゴーマニズム宣言』以降、ギャグ路線だけでなく政治思想路線や時事ネタなどの社会評論的な活動も行うようになり、また2002年から季刊誌『わしズム』責任編集長なども務める。 設定の矛盾をものともしない展開と飛びぬけた発想を身上としている。これは「細かい設定にこだわっていると、結果として内容がつまらなくなる」との作者の考えのためであり、より良い設定を思いつけば、あえて過去の設定は切り捨てるという。.

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尾崎忠治

尾崎 忠治(おざき ただはる、天保2年2月2日(1831年3月15日) - 1905年(明治38年)10月16日)は、日本の武士、政治家。正二位勲一等男爵。.

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山内容堂

山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1848年1月21日) - 明治5年(1872年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。.

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山内豊範

山内 豊範(やまうち とよのり)は、江戸時代末期の大名。土佐藩の第16代(最後の)藩主。爵位は侯爵。三条実美の従弟にあたる。.

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岡田以蔵

岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年1月20日(1838年2月14日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、江戸時代末期の土佐藩郷士。 司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振(読みについては「よしふる」の他「たかのぶ」、「のぶたつ」等諸説あり不明)。幕末の四大人斬りの一人。.

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岡田啓吉

岡田 啓吉(おかだ けいきち、天保14年(1843年)? - 明治15年(1882年)10月7日)は、幕末の土佐郷士。岡田義平の次男。岡田以蔵は実兄。諱は宜稔。最初の通称は慶次。.

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島村衛吉

島村 衛吉(しまむら えきち、天保5年10月(1834年)天保6年10月(1835年)とも。 - 元治2年3月23日(1865年4月18日))は幕末の土佐藩士。名は重険。当初は八次郎を称した。.

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島村雅事

島村 雅事(しまむら まさこと、文政4年1月29日(1821年3月3日) - 明治18年(1885年)7月30日)は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩郷士。勤皇の志士、迅衝隊士。諱は初め壽榮、のち雅事と改めた。通称は島村寿之助。 大男で禿げていたので「入道」と綽名されていたという。.

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島本仲道

島本 仲道(しまもと なかみち、天保4年4月18日(1833年6月5日) - 明治26年(1893年)1月2日)は、明治時代の官僚、法律家である。通称は審次郎、号は北洲。 土佐藩士。土佐勤皇党に参加し終身刑の宣告を受けたが、戊辰戦争で松山藩の征伐を命じられる。明治維新後、明治新政府で兵部省、司法省の官僚を歴任、江藤新平の右腕として近代日本国家の検察、警察、弁護士の機構制度の確立に尽力した。1873年、江藤の下野とともに司法省を退職し、東京と大阪に弁護士事務所を開く。 その後、自由民権運動に参加、1887年に保安条例で東京退去の処分を受けるも、明治憲法発布の恩赦で赦免された。1893年、心臓病のため死去。.

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上士

上士(じょうし)は、武士の身分のひとつ。江戸時代の上級藩士である。上士や平士、郷士などとわけたときの最上位の家格のことである。騎乗が許されたことから騎士とも。.

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中岡慎太郎

円山公園の坂本龍馬と中岡慎太郎像(写真は戦後再建された2代目の像) 中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日(新暦・1838年5月6日) - 慶応3年11月17日(新暦・1867年12月12日))は、日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。.

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三条実美

若き日の三条実美(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。.

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下士官

下士官(かしかん、)は、軍隊の階級区分の一つ。士官(将校)の下、兵(兵卒)の上に位置する。多くの場合、兵からの昇進者であり、士官との間に入って兵を統率する。士官学校を含めて高等教育を受けていない者が職業軍人となる場合は下士官となることがほとんどで、さらに士官に昇進することは少ない。中国人民解放軍、中華民国国軍では下士官とは称さず士官または軍士と、大韓民国軍では副士官と称す。.

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平井収二郎

平井 収二郎(ひらい しゅうじろう、天保6年7月14日(1835年8月8日) - 文久3年6月8日(1863年7月23日))は、幕末の土佐藩士。諱は義比、志敏。通称を幾馬、徳助。雅号:隈山。収二郎は通称。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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庄屋

庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・肝煎(きもいり)は、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長 三省堂 2013年12月18日閲覧。身分は百姓(薩摩藩以外) 新村出編「広辞苑」1983年 岩波書店。.

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井原昂

井原 昂(井原 、いはら のぼる / たかし、1840年 11月6日(天保11年10月13日)『高知県人名事典 新版』73頁。 - 1923年(大正12年)1月8日)は、幕末勤王の志士、明治期の内務官僚。官選島根県知事。通称・応助、守一。号・松礀、天遊、鉄扉。別名・岩神主一郎。.

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弘瀬健太

弘瀬健太(ひろせ けんた、天保7年(1836年)3月 - 文久3年6月8日(1863年7月23日))は幕末の土佐藩士。名は年定。土佐勤皇党の幹部の一人として幕末に活躍した。 天保7年(1836年)3月、土佐藩井口村(現在の高知市井口町)に郷士の長男として生まれる。文久元年(1861年)8月に武市瑞山が結成した土佐勤皇党に参加。文久3年(1863年)6月8日)、青蓮院宮令旨事件の責で平井収二郎・間崎哲馬と共に山内容堂に切腹させられた。ここから容堂による土佐勤皇党への弾圧がはじまることになる。享年28。 Category:土佐勤王党の人物 Category:高知県の歴史 Category:1836年生 Category:1863年没.

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後藤象二郎

後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日) - 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の幕末から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助・佐々木高行)。 幼名は保弥太、良輔。象二郎は通称。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。.

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土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

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土方久元

土方 久元(ひじかた ひさもと、天保4年10月12日(1833年11月23日) - 大正7年(1918年)11月4日)は、日本の武士(土佐藩士)・政治家である。爵位は伯爵。幼名は大一郎。通称は楠左衛門。号は秦山。.

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北川村

北川村(きたがわむら)は、高知県にある村である。.

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北代正臣

北代 正臣(きただい まさおみ、生年不詳 - 1908年(明治41年)1月25日)は、幕末の土佐藩士、明治期の官僚・裁判官。青森県権令。名・恕『高知県人名事典 新版』253頁。、幼名・忠吉『新編日本の歴代知事』93頁。。.

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北添佶摩

北添 佶磨(きたぞえ きつま、天保6年(1835年) - 元治元年6月5日(1864年7月8日))は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷派志士。佶麿(よしまろ)、源五郎とも。変名は本山七郎。池田屋事件の「階段落ち」で知られる。 土佐藩高岡郡岩目地(いわめじ)村の庄屋北添与五郎の五男で、西田可蔵の弟。16歳で庄屋職をつぎ、19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となる。 開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)、本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学ぶ。その後、安岡直行、能勢達太郎、小松小太郎と共に奥州や蝦夷地などを周遊して北方開拓を発案。これは、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画だった。なお、この策には坂本龍馬が一枚かんでいたとみられ、事実、龍馬は計画実現のために大久保一翁などに働きかけている。 その後、所属していた神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたにも関わらず、同じく土佐出身の望月亀弥太らと京都へ赴いて公卿達と面会を重ねたが、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件に遭遇し死亡した。この際、新選組によって斬殺されたと思われていたが、近年の研究によって自刃して果てたことが判明している。享年30。 明治24年(1891年)、従四位を贈られた。 Category:土佐勤王党の人物 Category:1835年生 Category:1864年没.

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八月十八日の政変

八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、江戸時代末期(幕末)の文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする過激な尊皇攘夷派と三条実美ら急進派公卿を京都から追放した事件である。文久の政変、堺町門の変とも呼ばれる。 その背景には、文久期政局の主導権をめぐる薩摩藩と長州藩の激しい確執があった。.

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元治

元治(げんじ)は日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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勤王

勤王(きんのう、勤皇とも言う)とは、王や天皇に忠義を尽くすことである。.

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石川潤次郎

石川 潤次郎(いしかわ じゅんじろう、天保7年(1836年) - 元治元年6月5日(1864年7月8日))は、幕末期に土佐藩に仕えていた足軽。諱は直義。 元治元年、土佐藩の命を受けて京都黒谷三条家別宅の警備を勤めていた。同年6月5日、土佐脱藩望月亀弥太を池田屋に訪ねたところ、池田屋事件に巻き込まれて死亡。享年28。明治31年(1898年)、正五位を贈られる。 Category:土佐勤王党の人物 Category:1836年生 Category:1864年没.

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精忠組

精忠組(せいちゅうぐみ)は、幕末の薩摩藩に存在した藩内組織。誠忠組とも。.

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結社

結社(けっしゃ、英語:association)は、共通の目的のために組織される継続的な団体のこと。なお、associationは協会と訳されることが多いが、協会は結社の一形態である。.

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田中光顕

中 光顕(たなか みつあき、1843年11月16日(天保14年閏9月25日) - 1939年(昭和14年)3月28日)は、日本の武士・土佐藩家老深尾氏家臣、官僚、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。フリーカメラマンの田中光常は孫。.

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田中新兵衛

中 新兵衛(たなか しんべえ、天保3年(1832年) - 文久3年5月26日(1863年7月11日))は、薩摩藩士。諱は雄平。尊王攘夷派で、幕末の四大人斬りの一人。.

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田所寧親

所 寧親(たどころ やすちか、1812年(文化9年) - 1873年(明治6年)8月11日)は、江戸時代土佐藩の武士、砲術家、土佐藩砲術指南役。通称は左右次(そうじ)、惣次、作太郎。.

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片岡源馬

片岡 源馬(かたおか げんま、天保7年10月9日(1836年11月7日) - 明治41年(1908年)11月2日)は、江戸時代後期(幕末)の武士(土佐藩士)、明治時代の官僚。維新後は片岡利和(としかず)と称した。男爵。次代は従五位男爵片岡丈人。.

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菅野覚兵衛

中央:菅野覚兵衛、左右の人物未詳 菅野 覚兵衛(すがの かくべえ、天保13年旧10月21日(1842年11月23日) - 明治26年(1893年)5月30日)は、幕末の志士、海援隊隊士、明治時代の軍人である。 旧名 千屋 寅之助(ちや とらのすけ)。妻は起美(君江、坂本龍馬の妻・お龍の妹であるため、龍馬とは義兄弟にあたる)。.

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青蓮院

宸殿前庭、右近の橘、左近の桜 青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗の寺院。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である。現在の門主(住職)は、旧伯爵東伏見家出身の東伏見慈晃。.

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西山志澄

西山 志澄(にしやま ゆきずみ、天保13年6月6日(1842年7月13日) - 明治44年(1911年)5月27日)は、幕末土佐藩の迅衝隊士、日本の明治初期の軍人、政治家。幼名直次郎。旧姓・平井、植木。.

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西田可蔵

西田 可蔵(にしだ かぞう、文政5年(1822年)- 明治15年(1882年)11月19日)は、幕末の尊皇攘夷派志士。名は供治。 土佐藩高岡郡岩目地村の庄屋・北添与五郎の三男で、北添佶摩の兄。家老の深尾家家臣・西田惣左衛門の養子になる。 佶摩と共に土佐勤王党に加盟。上京して他の志士と共に活動する。明治維新後は高岡郡神母野に寺子屋を設け、村の子弟を教えて、その生涯を終えている。.

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高見弥市

高見 弥市(たかみ やいち、天保2年(1831年)1月 - 明治29年(1896年)2月28日)は、幕末の志士。名は俊良あるいは祐之。幼名は鹿之助。初名は大石団蔵、後に松元誠一・安藤勇之助と変名した。 土佐国香美郡野市村の土佐藩郷士・大石磯平の長男として生まれる。万延元年(1860年)父の没後、家督を継承して久板台場小頭役などを務めた。 文久元年(1861年)土佐勤王党に加盟し、長州に使者として出ている他、薩摩へも視察へ向かった。文久2年(1862年)那須信吾・安岡嘉助と計って、高知城下で土佐藩参政の吉田東洋を暗殺し、首級を鏡川河原に晒す。そのまま脱藩し、京都で久坂玄瑞に保護され、後に薩摩藩士・奈良原繁の養子として薩摩藩に所属するようになる。慶応元年(1865年)薩摩藩第一次英国留学生として、五代友厚らとともにイギリスへ密留学する。イギリスでは森有礼と下宿を共にしながら測量や機関学、数学を学び、慶応3年(1867年)帰国。 維新後は鹿児島県立中学造士館で数学教師となり、明治25年(1892年)沖縄県庁に勤めるも、やがて辞職して鹿児島へ帰った。 Category:土佐勤王党の人物 Category:幕末薩摩藩の人物 Category:日本の中等教育の教員 Category:日本から密出国した人物 Category:1831年生 Category:1896年没.

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迅衝隊

迅衝隊(じんしょうたい)は、戊辰戦争における東山道御親征先鋒総督軍(土佐藩)の主力部隊。1868年(慶応4年)1月6日に編成され、1870年(明治3年)11月藩命により解散。隊士総数は約600名。これとは別に土佐藩の上士で構成された「胡蝶隊」という部隊もある。.

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間崎哲馬

間崎 哲馬(まさき てつま、天保5年(1834年) - 文久3年6月8日(1863年7月23日))は幕末の土佐藩士。哲馬は通称で、名を則弘という。号は滄浪(そうろう)。.

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門田為之助

之助(かどた ためのすけ、天保9年1月15日(1838年2月9日) - 慶応3年11月6日(1867年12月1日))は、幕末の志士。名は克兵衛あるいは実毅。幼名は福太郎。.

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那須信吾

那須 信吾(なす しんご、文政12年11月11日(1829年12月6日)- 文久3年9月24日(1863年11月5日))は、幕末期の土佐藩の郷士。名は虎吉。真吾。重民。別名に石原武之進。 土佐藩の家老を務める浜田光章の三男として生まれる。幼くして父を失ったため、郷士・那須俊平の娘婿となる。田中光顕の叔父にあたる。坂本龍馬に深く傾倒し、文久元年(1861年)に土佐勤王党に加わった。文久2年(1862年)には安岡嘉助や大石団蔵らと共に尊王を無視して藩政改革、佐幕を唱える吉田東洋を暗殺した上で脱藩し、長州藩に逃亡する。 文久3年(1863年)、天誅組の変に参加し、軍監を務めるが、鷲家村にて狙撃されて戦死した。享年35。 武勇に優れた怪力の持ち主で、走ることにおいては馬より速いとまで噂されたという。身長は六尺(約180cm)近くあり、「天狗様」と称されたという。.

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野老山吾吉郎

野老山 吾吉郎(ところやま あきちろう、弘化3年10月10日(1846年11月28日) - 元治元年6月27日(1864年7月30日))は、江戸時代末期(幕末期)の土佐藩士。名を輝朗、のち所山五六郎を名乗った。.

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長州藩

長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.

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陸援隊

中岡慎太郎 陸援隊(りくえんたい)は、江戸時代末期(幕末)の1867年(慶応3年)6月27日、薩土討幕の密約に基づき土佐藩出身の中岡慎太郎によって組織され、活動した武力討幕のための武力集団(浪士隊)である。 海援隊に続き、中岡の同志・坂本龍馬との協議により発足する。隊長は中岡で、京都を本拠とする。隊員は尊皇攘夷の思想を持つ脱藩浪士などが集められ、総員は70名以上であった。 薩摩藩からは洋式軍学者鈴木武五郎が派遣され、支援隊の十津川郷士ら50名と共に、洋式調練を行った。中岡、坂本が京都河原町で暗殺された後は、同志の田中光顕、谷干城らが指導し、官軍挙兵後は高野山で紀州藩兵を牽制する等した。御一新により御親兵に吸収された。 陸援隊の内部には新選組など幕府方の密偵が入り込んでいたといわれる。食事は河原町の土佐藩邸から支給された。.

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松山深蔵

松山 深蔵(まつやま しんぞう、天保8年2月11日(1837年3月17日) - 元治元年7月21日(1864年8月22日))は土佐国高岡郡津野山郷北川村庄屋(高知県高岡郡東津野村北川)出身の郷士。幼名は金三郎。名は正夫、熊蔵。号は津山。.

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板垣高幸

板垣 高幸(いたがき たかゆき、1838年(天保9年) - 1885年(明治18年)9月17日)は、江戸時代後期の土佐藩士、土佐板垣氏の第9代当主。勤皇の志士で、土佐勤王党の党員。通称は板垣寛之助(ひろのすけ)。.

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板垣退助

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲。自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。.

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檜垣直枝

檜垣 直枝(ひがき なおえ、1839年(天保10年) - 1894年(明治27年)10月4日)は、幕末の土佐勤王党員、明治時代の警察官。諱は清治、正治。従三位勲三等。.

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武市瑞山

武市邸と道場跡の碑(高知市桜井町) 武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日(1829年10月24日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。 土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。 優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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池内蔵太

池 内蔵太(いけ くらた、天保12年(1841年) - 慶応2年5月2日(1866年6月14日))は、幕末期の土佐藩の郷士。諱は定勝。別名に細川左馬之助。細井徳太郎。 土佐藩士の中でも身分の低い微禄の家柄の息子として生まれた。1861年、江戸に出て安井息軒に師事し、様々な藩の志士と交流した。武市半平太と共に土佐勤王党の結成に尽力する。1863年、山内容堂の命令を受けて大坂・江戸の視察を命じられた。しかし容堂があくまで佐幕的な態度を貫いていたため、尊皇攘夷に好意を抱いていた内蔵太はこれを契機に土佐藩から脱藩して長州藩に逃げ込み、長州の尊皇攘夷運動に参加することにしたのである。そして長州軍の遊撃隊参謀となり、1863年5月10日のアメリカ船砲撃を指揮した。その後、天誅組の反乱に参加して天誅組が壊滅すると京都に潜伏し、1864年に長州藩が軍を率いて禁門の変を起こすと、長州軍の忠勇隊を指揮するなどして活躍している。 1865年、坂本龍馬が亀山社中を結成すると、池内蔵太はそれに入社して龍馬と共に海軍創設に尽力する。しかし1866年、長崎から薩摩藩へ小型帆船・ワイルウェフ号を回航する途中で台風のため難破し、死亡する。享年26。 あまりに若すぎる死であり、龍馬は自分の後継者として期待していた内蔵太の死去を聞いたときに、「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに」と嘆き悲しんだといわれている。.

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河原塚茂太郎

河原塚 茂太郎(川原塚 茂太郎、かわらづか もたろう、文政13年9月1日(1830年10月17日) - 明治9年(1876年)10月16日)は、幕末の土佐藩士。川原塚重喜の子。名は重幸。廾戊という変名を用いた。 土佐藩徒士格の家に生まれる。文久元年(1861年)武市瑞山が結成した土佐勤王党に加盟し、またその同志糾合に尽力する。元治元年(1864年)南会所への決死建白を行って劣勢に陥った土佐勤王党の挽回を図り、その失敗後の対処にも奔走する。慶応4年(1868年)戊辰戦争では軍事掛徒目付として北越戦争に従軍した。 維新後は讃州金陵会議結、川之江民政局副参事を歴任するも、明治3年(1870年)職を辞して帰国。明治6年(1873年)教部省に出仕し、明治8年(1875年)辞職した。その後は土佐に帰っていたが、明治9年(1876年)国事犯として警視庁に抑留され、そのまま獄死した。 土佐勤王党時代は国事に奔走する中、母や姉の面倒を見るなど、家庭をも顧みていたという。姉の千野は坂本龍馬の兄で郷士坂本家当主の坂本権平に嫁いでおり、川原塚茂太郎に宛てられた龍馬の書翰も残っている。 Category:土佐勤王党の人物 Category:戊辰戦争の人物 Category:獄死した人物 Category:1830年生 Category:1876年没.

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河野敏鎌

河野 敏鎌(こうの とがま、天保15年10月20日(1844年11月29日) - 明治28年(1895年)4月24日)は、明治時代初期の藩閥政府の政治家。子爵。幼名は万寿弥(ますや、旧字体:萬壽彌)。.

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清岡道之助

清岡 道之助(きよおか みちのすけ、天保4年10月20日(1833年12月1日) - 元治元年9月5日(1864年10月5日))は、幕末の土佐藩の志士。諱は成章、旭梅軒と号した。.

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望月清平

望月 清平(もちづき せいへい、生没年不詳)は、幕末の土佐藩士。望月真澄の長男。名は弥塩。 土佐国土佐郡小高坂村の生まれ。文久元年(1861年)土佐勤王党が結成されると、弟の亀弥太とともにそれに加盟する。同年、大坂で瀬戸内海防備のために出動している。文久3年(1863年)藩に土佐勤王党の擁護を訴える建白を行っているが、間もなく土佐勤王党は解散している。維新前後には新居留守組に編入されている。 坂本龍馬との親交が深く、文久2年(1862年)吉田東洋暗殺の嫌疑がかけられた龍馬に身を隠すように勧めたり、慶応3年(1867年)龍馬が横死する直前に手紙のやり取りをしている。 Category:土佐勤王党の人物 Category:生没年不詳.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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海援隊

海援隊(かいえんたい)は、江戸時代後期の幕末に、土佐藩脱藩の浪士である坂本龍馬が中心となり結成した組織である。1865年から1868年まで3年余りに亘り、私設海軍・貿易など、薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、商社活動としても評価されている。運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、教育(修行科目 政法・火技・航海・汽機・語学等)等、隊の自活運営、政治・商事活動を行った。出版も手掛け和英通韻伊呂波便覧、閑愁録、藩論などがある。中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれる。.

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文久

文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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1861年

記載なし。

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1862年

記載なし。

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1863年

記載なし。

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1865年

記載なし。

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1867年

記載なし。

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5月6日

5月6日(ごがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から126日目(閏年では127日目)にあたり、年末まではあと239日ある。誕生花はシャクナゲ。.

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