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姫路藩

索引 姫路藩

姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田氏で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏があった。石高ははじめ52万石、のち15万石。.

195 関係: 加古郡加西郡加東郡印南郡千姫吉原遊廓大坂城大老外様大名奥平氏妙高院姫路城姫路市姫路港家島諸島守護大名寛延小寺氏小笠原長次小笠原氏専売制山崎藩山形藩岡山藩川合定恒川合宗見中国地方三河吉田藩三木城平福藩幕末仁寿山黌廃藩置県伊勢崎藩会津藩伊木忠次伯爵徳川吉宗徳川家康徳川将軍家徳川四天王徳川秀忠徳川氏徳川慶喜医学北条氏直圓教寺利神城内高兵庫県...前橋藩固寧倉国学督姫神西郡神東郡福島藩秋元安民織田信長織田氏猪飼敬所男爵無外流畿内版籍奉還登久姫白河藩花魁荒尾成房華族頼山陽飾磨県飾磨郡飾西郡飾東郡親藩駿府藩高台院高砂神社高田藩譜代大名豊臣秀吉豊臣秀頼鳥取藩鳥羽・伏見の戦い越前松平家足守藩転封黒田孝高黒田氏龍野城龍野藩近国郡山藩船屋形赤穂城赤穂藩赤松氏関ヶ原の戦い藩校酒井忠学酒井忠実酒井忠宝 (姫路藩主)酒井忠世酒井忠以酒井忠績酒井忠道酒井忠顕酒井忠邦酒井忠恭酒井忠清酒井忠惇酒井重忠酒井正親酒井氏速鳥丸老中林田藩揖西郡揖東郡松岡青蘿松平忠弘松平忠明松平信康松平直基松平直矩松平朝矩松平明矩村上藩榊原康政榊原忠次榊原氏榊原政岑榊原政倫榊原政祐榊原政純榊原政邦榊原政房武井守正永禄江戸城池田忠継池田忠雄池田利隆池田利政池田光政池田由之池田輝政池田長吉池田長政池田氏河合宗元河合道臣淡路国漢学朝敵木下家定木下氏木綿本多忠孝本多忠刻本多忠勝本多忠国本多忠義本多忠政本多氏本多政勝本多政朝戊辰戦争戦国時代 (日本)明石城明石藩新田播磨国播磨新宮藩支城1561年1600年1613年1617年1639年1644年1648年1704年1741年1749年1808年1865年1867年1871年1876年1887年1889年19世紀 インデックスを展開 (145 もっと) »

加古郡

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加西郡

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加東郡

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印南郡

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千姫

千姫(せんひめ)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。.

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吉原遊廓

吉原の遊女(明治時代) 明治5年(1872年)頃の吉原の様子 広重『名所江戸百景』より「廓中東雲」(かくちゅうしののめ)。どこぞの商店の番頭か手代あたりでもあろうか、夜明け前、朝帰りの遊び人が仲之町(廓内のメインストリート)へと出てきたところ。 吉原遊廓(よしわらゆうかく)とは、江戸幕府によって公認された遊廓である。始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。.

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大坂城

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(きんじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。.

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大老

大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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奥平氏

奥平氏(おくだいらし)は、戦国時代に三河北東部の作手地方(現・新城市)を中心に活動した日本の氏族の一つ。.

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妙高院

妙高院(みょうこういん、天正5年(1577年) - 寛永3年6月25日(1626年8月16日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。名は国姫、あるいは熊姫。妙光院とも記される。.

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姫路城

代表紋章:揚羽蝶 姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県の姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。坂東三津五郎 (10代目)『三津五郎城めぐり』(三月書房2010年11月)では数多くの城の最初に紹介している。。.

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姫路市

姫路市(ひめじし)は、近畿地方西部、兵庫県の南西部(播磨地方)に位置する市。 中核市に指定されており、周辺自治体を含めて約74万人の姫路都市圏を形成する。中播磨県民センターの管轄。.

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姫路港

姫路港(ひめじこう)は、兵庫県姫路市に位置する港湾。港湾管理者は兵庫県である。港湾法上の国際拠点港湾に指定されており、 関西地方における、海運や物流、貿易の重要拠点である。また、港則法上の特定港に指定されている。 港湾区域は東西18km以上にも及ぶ大型港で、飾磨港区・広畑港区・網干港区の3港区に分かれている。.

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家島諸島

家島諸島(いえしましょとう)は、瀬戸内海東部の播磨灘(姫路市から沖合い約18km)にあり、東西26.7km、南北18.5kmにわたり大小40余りの島嶼で構成される諸島。2006年、諸島全域が兵庫県姫路市に編入される。兵庫県の淡路島・香川県の小豆島・本州に囲まれている。面積は19.7平方km、人口は約8000人で約60%が家島本島が占め、主島は坊勢島、男鹿島、西島、太島、鞍掛島の6島。家島本島の真浦、宮が中心集落で、古くから天然の良港として瀬戸内海航路の要地、避難港であった。花崗岩の切り出しと漁業、海運業が主な産業だが、第2次大戦後の乱獲と水質汚染による漁獲減少で現在は観光漁業と養殖が中心。一部は瀬戸内海国立公園に属する。地元では「いえしま」ではなく「えじま」と呼ばれる。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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寛延

寛延(かんえん)は日本の元号の一つ。延享の後、宝暦の前。1748年から1751年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家重。.

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小寺氏

小寺氏(こでらし)は、日本の氏族の一つ。 播磨の守護大名・赤松氏一門宇野氏の庶流であり、姫路城のち御着城を本拠として勢力を伸ばした。.

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小笠原長次

小笠原 長次(おがさわら ながつぐ)は、江戸時代初期の譜代大名。播磨龍野藩主、のち豊州中津藩初代藩主。忠脩系小笠原家初代。.

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小笠原氏

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

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専売制

専売制(せんばいせい, Government monopoly)とは、国家などが財政収入を増加させるために、特定物資の生産・流通・販売などを全面的に管理下に置いて、そこから発生する利益を独占する制度。品質保証、安全管理、公衆衛生上の意味合いもある。 専売制を導入するためには対象となる消費物資の生産・流通が集中的である必要がある。例えば、特定の地域でしか生産が出来ず生産地域及び生産者が限定的であることが重要である(生産地も全国的に拡散しているよりも産地が限定されていた方が生産・流通の把握の面で望ましい)。また、消費物資に対する需要が恒常的・普遍的に高いことも重要であり、「生活必需品」であればなお望ましいと言える。専売制の対象となるケースになりやすい塩や酒、煙草などはその条件に近い場合が多く、逆に耕作地が全国的に広がっており大量生産されている穀物類の専売は実例はあるものの多くはない。 また、専売の対象が域内であるか域外であるかも、重要な要素となる。域内の人民に対して租税の代わりとして専売を行う方法と域外の市場に対して独占的に販売する専売が考えられる。生産に対する姿勢は両者の場合で異なり、前者においては生産も統制される場合があるが、後者においてはやや緩やかで生産奨励策が合わせて行われる場合もある。.

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山崎藩

山崎藩(やまさきはん)は、播磨国宍粟郡周辺を知行した藩。藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれた。宍粟藩(しそうはん)とも呼ばれる。.

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山形藩

山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。.

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岡山藩

後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.

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川合定恒

川合 定恒(かわい さだつね)は、江戸時代中期の前橋藩、姫路藩家老。.

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川合宗見

川合 宗見(かわい むねみ)は、江戸時代中期の姫路藩家老。.

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中国地方

中国地方(ちゅうごくちほう)は、本州の西部に位置する、日本の地域のひとつ。 鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県より構成される『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.730 ISBN 4-09-523101-7。なお、行政上の管轄としては気象庁は山口県を除き、海上保安庁は山口県西北部、国土交通省海事事務所は下関市を除く。.

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三河吉田藩

三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.

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三木城

三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(兵庫県三木市上の丸町)にあった日本の城。平山城。釜山城や別所城とも呼ばれる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。.

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平福藩

平福藩(ひらふくはん)は、播磨国佐用郡(兵庫県佐用郡佐用町)に江戸時代初期に存在した外様大名の藩。藩庁は利神城。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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仁寿山黌

仁寿山黌(じんじゅさんこう、じんじゅざんこう 旧字体: 仁壽山黌)は、江戸時代後期に姫路藩領の播磨国飾東郡奥山村(現:兵庫県姫路市奥山)にあった私塾・学問所。姫路藩家老を務めた河合道臣(寸翁)が後進を指導した。現地には土塀が残っており、北原と兼田の境には河合家墓所が残っている。仁寿山校とも表記される。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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伊勢崎藩

伊勢崎藩(いせさきはん)は、かつて上野国佐位郡(現:群馬県伊勢崎市曲輪町)を治めた藩。藩庁は伊勢崎陣屋に置かれた。.

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会津藩

若松城 会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。.

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伊木忠次

伊木 忠次(いぎ ただつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。伊木氏初代当主。.

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伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川四天王

徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の概念として更に12人を加えた徳川十六神将がある。 本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した三名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。その後、本多・榊原・井伊の三名は翌月、徳川家康上洛に随行して何れも叙位され、これに酒井を加えた四名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている。 四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代兼勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて国学院大教授の根岸茂夫は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の三名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は、以前の松平信康自刃事件の責任を取らされて低い禄高に甘んじたとしている。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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医学

医学(いがく、英:Medicine, Medical science)とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である広辞苑「医学」。 医学は、病気の予防および治療によって健康を維持、および回復するために発展した様々な医療を包含する。.

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北条氏直

北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。.

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圓教寺

圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん)に位置する寺院で、天台宗の別格本山である古寺を巡る24 (2007)、2頁。山号は書寫山(書写山)書写山 (1991)、1頁。西国三十三所第27番古寺を巡る24 (2007)、2・7頁書写山 (1991)、9頁。現住職は第140世。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である。.

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利神城

利神城(りかんじょう)は、播磨国佐用郡平福(現在の兵庫県佐用郡佐用町平福)に存在した日本の城(山城)。平福は朝霧の名所であり、江戸時代初期には天守がありその姿が霧の上に浮かんだ偉容から雲突城とも呼ばれた。.

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内高

内高(うちだか)は、江戸時代の大名や旗本の所領内において、領民に年貢を課す際の算定基準として用いられた石高のことである。将軍に認められた額面上の石高である表高に対する語で、実高(じつだか)ともいう。.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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前橋藩

前橋藩(まえばしはん)は、上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に置かれた藩。はじめ厩橋藩(うまやばし/まやばし はん)といい、藩庁は厩橋城に置かれた。後に酒井家第5代藩主・酒井忠挙の時代に地名・藩名・城名を一括して前橋・前橋藩・前橋城と改めた。.

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固寧倉

固寧倉(こねいそう)は、江戸時代後期に姫路藩が整備した非常用食糧備蓄倉庫。原型は唐から伝来した社倉の制度である。江戸時代諸藩でこれに似た制度がつくられた。 姫路市妻鹿にある固寧倉 姫路市刀出にある固寧倉.

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国学

国学(こくがく、正字・國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。.

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督姫

督姫(良正院)像(東京国立博物館蔵) 督姫(とくひめ、永禄8年11月11日(1565年12月3日)- 慶長20年2月4日(1615年3月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の次女。母は家康最初の側室・西郡局(鵜殿長持の娘)。別名は於普宇、富子、播磨御前、良正院。.

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神西郡

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神東郡

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福島藩

福島藩(ふくしまはん)は、陸奥国南部(岩代国信夫郡)、現在の福島県福島市にあった藩である。居城は福島城。藩主は本多氏、堀田氏、板倉氏の3氏で、いずれも譜代大名であった。.

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秋元安民

秋元 安民(あきもと やすたみ、1823年2月11日(文政6年1月1日) - 1862年9月22日(文久2年8月29日))は播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)藩士、国学者。名は正一郎、正蔭、御民、逸民とも称した。字は正朔、号は空室。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田氏

家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.

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猪飼敬所

敬所(いかい(いがい) けいしょ、宝暦11年3月22日(1761年4月26日) - 弘化2年11月10日(1845年12月8日))は、日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博(よしひろ)、字は文卿、希文。近江国出身。 経書や史書など、各種書物に詳しく、大和の儒学者谷三山の質問数十条にも答えたように、たいへん博識であった。中でも経書、特に三礼に精通していた猪飼敬所『葛原詩話標記』。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。 初めは石田梅岩の心学に傾倒して手島堵庵に師事するが、天明3年(1783年)に儒学を志して巌垣竜渓の門下に入る。京都、淡路洲本、但馬豊岡など各地で講説。天保2年(1831年)伊勢津藩主藤堂高猷に招かれて津藩儒となる。天保3年(1832年)9月8日、伊勢の津へ行くに際し挨拶のため頼山陽を訪れたが、山陽が瀕死の床にあるとは知らず、歴史を論じて北朝正統論を強く主張し、「今の朝廷は北朝の系統であるから、君は北朝の臣ではないか」といって山陽の怒りを買った。しかし、敬所は自説を曲げなかった。山陽は、9日後の9月17日にこの論争について篠崎小竹に語り、その6日後に没した。 天保9年(1838年)、藩主や門人の願いにより、京都から津に移住。晩年は両目を失明したが、それでも藩主に対し講義を続けた。弘化2年(1845年)11月10日死去、享年85。 現在、津市立西橋内中学校の北隣にある龍津寺の門前に、猪飼敬所先生墓所と刻んだ石柱が建っている。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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無外流

無外流(むがいりゅう)は、延宝8年(1680年)に辻月丹により開かれた剣術の流派である。.

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畿内

畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.

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版籍奉還

籍奉還(はんせきほうかん)は明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。.

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登久姫

登久姫(とくひめ、天正4年(1576年) - 慶長12年10月18日(1607年12月7日))は、岡崎信康(徳川家康長男)の長女。母は徳姫(織田信長の娘)。信濃松本藩初代藩主・小笠原秀政の正室。法名は峯高院。.

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白河藩

白河藩(しらかわはん)は、江戸時代に陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した藩。藩庁は白河城。支藩として、一時期存在した白河新田藩がある。.

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花魁

手彩色絵葉書東京吉原(明治大正時代) 花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。現代の高級娼婦、高級愛人などにあたる。18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある と言われる事が多いが、これはどれも通説であり現在典拠に基づいた説は存在しない。 上記脚注の「いろの辞典(改訂版)」編者の小松奎文は川柳研究家であり、学術的な典拠は示されておらず、また、この通説が一般化したのは近世風俗志(守貞謾稿)の記述の一部を引用した上記脚注書のような一般書籍が多数発行されているからに他ならず、近世風俗志(守貞謾稿)の記述自体が原典引用の無いものは「聞き書き」だと大前提だと断っており、また、第廿編娼家下「花魁」の項目は「おいらん」という音であって、「花魁」を「おいらん」と読む証左はなにも無い。 近世風俗志及び、これも一般書籍で引用される"いつちよく咲たおいらが桜かな”の初出は「吉原讃嘲記(寛文7年・1667)」であるが、この後、「増補俚言集覧」と「近世事物考」に類似した川柳が引用されたため、これがあたかも語源であるような錯誤が生まれたと思われる。 江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。 下記に江戸時代の花魁について記述する。.

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荒尾成房

荒尾 成房(あらお なりふさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。池田氏の家臣。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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頼山陽

書斎山紫水明處・京都市上京区 頼山陽の署名「頼襄」 頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位。.

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飾磨県

飾磨県庁舎 飾磨県(しかまけん)は、1871年(明治4年)に播磨国を管轄するために設置された県。現在の兵庫県南西部にあたる。本項では前身の姫路県(ひめじけん。第1次府県統合後)についても記す。.

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飾磨郡

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飾西郡

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飾東郡

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親藩

親藩しんぱんは、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。.

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駿府藩

駿府藩(すんぷはん)は、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)を中心に静岡県の駿河・遠江・愛知県の三河・山梨県の甲斐の地域に江戸時代初期に存在した藩である。駿河府中藩もしくは府中藩とも呼ばれる。なお明治2年8月7日(1869年9月12日)に成立した藩は静岡藩(しずおかはん)と呼ぶ。.

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高台院

台院(こうだいいん、生年は諸説あり - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。.

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高砂神社

拝殿 高砂神社(たかさごじんじゃ)は、兵庫県高砂市にある神社。相生の松で知られ、能・謡曲の『高砂』の舞台の一つとも言われている。旧社格は県社。.

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高田藩

藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).

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譜代大名

譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.

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鳥取藩

鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。.

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鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。.

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越前松平家

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.

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足守藩

陣屋遺構 藩主庭園・近水園(おみずえん) 足守藩(あしもりはん)は、備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。一時は領地の大半が陸奥国に移された。藩庁を足守陣屋(岡山県岡山市北区足守)に置いた。.

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転封

転封(てんぽう)は、知行地、所領を別の場所に移すことである。国替(くにがえ)、移封(いほう)とほぼ同義である。 史料上は「国替」、「所替」(ところがえ)、「得替」(とくたい)等が使用された。.

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黒田孝高

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。.

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黒田氏

黒田氏(くろだし)は、日本の氏族のひとつ。 江戸時代の大名家となった黒田氏には次の2氏がある。.

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龍野城

龍野城(たつのじょう)は兵庫県たつの市龍野町にある日本の城跡。別名、霞城。.

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龍野藩

龍野藩(たつのはん)は、播磨国龍野周辺を領有した藩。藩庁は龍野城(現兵庫県たつの市)に置かれた。.

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近国

近国(きんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 律令制のもとで国家体制を整えていた古代の日本において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「近い位置にある国」が近国とされた(畿内の国は分類されない)。.

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郡山藩

郡山藩(こおりやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。.

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船屋形

船屋形(ふなやかた)は、兵庫県神戸市中央区の相楽園内にある歴史的建造物"川御座船"である。御座船とは江戸時代に大名が参勤交代や遊覧に使用した船を言い、今日まで残っているものは数件である。なかでもこの船屋形は川御座船としては唯一現存するもので、その希少性と歴史的文化的価値の高さから1953年(昭和28年)に国の重要文化財に指定されている。 この建物は江戸時代、姫路藩(姫路市)で使用されていた川御座船の屋形部分にあたる。建造年については、飾り金具の本多氏家紋の痕跡から1682年から1704年の間とされている。幕末は飾磨港(現在の姫路港)にあったが、明治になって移築する際に船体部分が破棄され屋形部分も大幅に改変された。昭和14年、垂水区舞子に復元移築され、1980年(昭和55年)には現在の相楽園に移築された。.

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赤穂城

赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩)主の居城。国の史跡に指定され、本丸庭園と二の丸庭園は名勝に指定されている。別名・加里屋城、大鷹城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は、赤穂城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」などと表記するものもあった。.

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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藩校

弘道館(水戸藩) 藩校(はんこう)は、江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校。、、藩学校ともいう。 内容や規模は多様だが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられた。後に、皆に開放された藩校もある。広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。藩校は、藩の費用負担により藩地に設立されたが、一部の例外として江戸藩邸に併設された学校もあった。藩士に月謝の支払い義務はない上に、成績優秀者には藩から就学支援金を給し、江戸等に遊学させることがあった。 全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14〜15歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。 藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味であり、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げる。内容の解釈はともかく、読みの誤謬(読み間違い)、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まる。江戸幕府では10月頃に行われていた。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられる。特に三度の落第者には厳しい厳罰が設けられている。それは藩校によって様々だが、主な厳罰として、嫡男なら相続の際、家禄の減俸。更に親の役職を継ぐにもままならず無役のまま生涯を送ることもなりかねない。.

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酒井忠学

酒井 忠学(さかい ただのり)は、江戸時代後期の大名。播磨姫路藩第5代藩主。雅楽頭系酒井家宗家13代。.

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酒井忠実

酒井 忠実(さかい ただみつ)は、江戸時代後期の大名。播磨国姫路藩酒井家第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家12代。.

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酒井忠宝 (姫路藩主)

酒井 忠宝(さかい ただとみ)は、江戸時代後期から末期の大名。播磨姫路藩第6代藩主。雅楽頭系酒井家宗家14代。 旗本・酒井忠讜(ただなお:「言に黨」、第4代藩主酒井忠実の五男)の長男。本家に男子がなく、先々代忠実の孫にあたることから、第5代藩主忠学(忠讜の従兄弟にあたる)の婿養子となる。弘化元年(1844年)、忠学の死去に伴い家督を継ぐ。嘉永6年(1853年)、25歳で死去し、跡を従弟で養子の忠顕が継いだ。.

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酒井忠世

酒井 忠世(さかい ただよ)は、江戸時代初期の大名。江戸幕府の老中、大老。上野那波藩主、伊勢崎藩主を経て厩橋藩の第2代藩主。雅楽頭系酒井家宗家2代。 後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊とともに家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている。.

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酒井忠以

酒井 忠以(さかい ただざね)は、江戸時代中期から後期の播磨姫路藩第2代藩主。雅楽頭系酒井家宗家10代。.

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酒井忠績

酒井 忠績(さかい ただしげ)は、江戸時代末期の大名、老中、大老。播磨姫路藩第8代藩主。雅楽頭系酒井氏宗家16代。江戸幕府最後の大老である。.

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酒井忠道

酒井 忠道(さかい ただひろ / ただみち)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨姫路藩第3代藩主。雅楽頭系酒井家宗家11代。若狭小浜藩十四代藩主酒井忠禄の子で明治維新後伯爵となった酒井忠道とは別人。.

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酒井忠顕

酒井 忠顕(さかい ただてる)は、江戸時代末期の大名。播磨姫路藩第7代藩主。雅楽頭系酒井家宗家15代。.

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酒井忠邦

酒井 忠邦(さかい ただくに)は、播磨姫路藩の第10代(最後の)藩主。雅楽頭系酒井家宗家18代当主。.

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酒井忠恭

酒井 忠恭(さかい ただずみ)は、江戸時代中期の大名、老中首座。上野前橋藩第9代藩主。のち播磨姫路藩初代藩主。雅楽頭系酒井家宗家9代。.

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酒井忠清

酒井 忠清(さかい ただきよ)は、江戸時代前期の譜代大名。江戸幕府老中、大老。上野厩橋藩の第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家4代。第4代将軍・徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世の孫にあたる。.

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酒井忠惇

酒井 忠惇(さかい ただとし/ただとう)は、江戸時代末期から明治時代の旗本、大名、華族。播磨姫路藩第9代藩主。雅楽頭系酒井家宗家17代。江戸幕府の老中でもあった。幕府最後の大老で先代藩主酒井忠績は兄。.

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酒井重忠

酒井 重忠(さかい しげただ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。武蔵川越藩初代藩主、後に上野厩橋藩初代藩主。雅楽頭系酒井家宗家初代。.

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酒井正親

酒井 正親(さかい まさちか、永正18年(1521年)- 天正4年6月6日(1576年7月2日))は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。松平氏(徳川氏)の家臣で、松平清康・広忠・徳川家康の3代に仕えた。父は酒井清秀。妻は石川清兼の娘。子に酒井重忠、酒井忠利。娘は形原松平家の松平家忠、長沢松平家一門の松平近清に嫁している。一説に初名は政家とする。 三河国坂井郷出身。主君家康の初陣に付き従い、その働きを感嘆している。家康が人質として駿府に送られた際には、行動を共にして駿府に行っている。永禄4年(1561年)に三河西尾城を攻め、落城後に城主となった。 天正4年(1576年)6月6日、56歳で病死。墓地は愛知県岡崎市の龍海院。なお、兵庫県姫路市の姫路神社は、姫路藩主の祖である正親を祭神としている。.

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酒井氏

酒井氏(さかいし)は、日本の氏族のひとつ。三河国の在地領主から、徳川政権下で譜代大名となった氏族である。.

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速鳥丸

速鳥丸(はやとりまる)は、幕末に、姫路藩が建造した西洋式帆船。外国船に救助された漂流民の知識を活用して建造された。.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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林田藩

林田藩(はやしだはん)は、江戸時代、播磨国揖東郡にあった藩。藩庁として林田(現・兵庫県姫路市林田町聖岡)に林田陣屋が置かれた。表高は1万石。.

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揖西郡

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揖東郡

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松岡青蘿

松岡 青蘿(まつおか せいら、元文5年(1740年) - 寛政3年6月17日(1791年7月17日))は、江戸生れの俳人で、のちに加古川に庵を結ぶ。山李坊令茶、幽松庵、三眺庵、栗庵、栗之本などの別号を持つ。本名、松岡鍋五郎。.

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松平忠弘

松平 忠弘(まつだいら ただひろ)は、江戸時代前期から中期の大名。播磨姫路藩主、出羽山形藩主、下野宇都宮藩主、陸奥白河藩主。奥平松平家2代。.

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松平忠明

松平 忠明(まつだいら ただあきらデジタル版 日本人名大辞典+Plus)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。江戸幕府大政参与。奥平松平家の祖。三河国作手藩、伊勢国亀山藩、摂津国大坂藩、大和国郡山藩、播磨国姫路藩主。 同名の人物に、小姓組番頭・書院番頭・日光奉行・蝦夷地見分隊長などを務めた江戸時代の旗本(1765年 - 1805年)がいる。.

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松平信康

松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。.

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松平直基

松平 直基(まつだいら なおもと)は、江戸時代前期の大名。直基系越前松平家初代。.

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松平直矩

松平 直矩(まつだいら なおのり)は、江戸時代前期の大名。直基系越前松平家2代。.

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松平朝矩

松平 朝矩(まつだいら とものり)は、江戸時代中期の大名。はじめ播磨姫路藩主、ついで上野前橋藩主、さらに武蔵川越藩主。直基系越前松平家5代。松平明矩の長男。.

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松平明矩

松平 明矩(まつだいら あきのり)は、江戸時代中期の大名。直基系越前松平家4代。.

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村上藩

村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上氏が当地に入ったが1618年に改易。外様大名の堀氏3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤氏が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤氏が5万石の藩を統治した。.

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榊原康政

榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。.

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榊原忠次

榊原 忠次(さかきばら ただつぐ)または大須賀 忠次(おおすか ただつぐ)は、江戸時代前期の譜代大名、大政参与。はじめ大須賀家を継ぎ、後に榊原氏を継いだ。遠江横須賀藩主、上野館林藩主、陸奥白河藩主、播磨姫路藩主。榊原家3代当主。従四位下式部大輔、侍従。.

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榊原氏

榊原氏(さかきばらし)は、日本の氏族のひとつ。.

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榊原政岑

榊原 政岑(さかきばら まさみね)は、江戸時代中期の旗本、大名。播磨姫路藩の第3代藩主。榊原家宗家の8代当主。.

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榊原政倫

榊原 政倫(さかきばら まさみち)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩第3代藩主、越後村上藩初代藩主。榊原家5代当主。 父・政房の急逝により、当時熊之助と名乗っていた政倫が3歳で家督を継いだが、播磨姫路藩は西国を抑える要地ということで幼少の大名には不適と判断され、越後村上藩に転封を命じられ、同地で子がないまま没する。家督は一門榊原勝直の子・政邦が継ぐ。 武蔵国岩槻藩主阿部正邦の娘と婚約していたが、娘が早世したため婚姻には至っていない。.

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榊原政祐

榊原 政祐(さかきばら まさすけ、宝永2年5月21日(1705年7月11日) - 享保17年8月29日(1732年10月17日))は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第2代藩主。榊原家7代当主。 榊原政祐の墓(圓教寺).

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榊原政純

榊原 政純(さかきばら まさずみ)は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第4代藩主、越後高田藩初代藩主、榊原家9代当主。ただし、早世後に異母弟の榊原政永が身代わりで擁立され、公式には同一人物とされた。.

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榊原政邦

榊原 政邦(さかきばら まさくに)は、江戸時代中期の大名。越後村上藩第2代藩主。播磨姫路藩初代藩主。榊原家6代当主。 分家の旗本榊原家の榊原勝政(榊原康勝の庶子。1,000俵)の子の榊原勝直(1,000石)の長男として誕生する。若くして嗣子なく没した榊原本家の政倫の養嗣子となり、越後村上藩を相続、その後に姫路藩に転封となる。.

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榊原政房

榊原 政房(さかきばら まさふさ)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩第2代藩主。榊原家4代当主。.

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武井守正

武井 守正(たけい もりまさ、天保13年3月25日(1842年5月5日) - 大正15年(1926年)12月4日)は日本の武士(姫路藩士)、政治家、実業家。幼名寅三。鳥取県再置後第2代知事。男爵。作曲家武井守成の父。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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池田忠継

池田忠継廟 池田 忠継(いけだ ただつぐ)は、備前岡山藩初代藩主。鳥取藩池田家宗家初代。播磨姫路藩主・池田輝政の次男(実は五男)。母は徳川家康の次女・督姫。.

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池田忠雄

忠雄墓碑(通称・芋墓) 池田 忠雄(いけだ ただかつ)は、江戸時代前期の大名。淡路国洲本藩主、のち備前国岡山藩第2代藩主。鳥取藩池田家宗家2代。播磨姫路藩主・池田輝政の三男(実は六男)。母は徳川家康の次女・督姫。岡山藩初代藩主・池田忠継の同母弟。.

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池田利隆

和意谷池田家墓所二のお山、池田利隆夫妻の墓所。左が利隆の墓。 池田 利隆(いけだ としたか)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家2代。.

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池田利政

池田 利政(いけだ としまさ、文禄3年(1594年) - 寛永16年8月11日(1639年9月8日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士。池田輝政の九男(実は四男)。母は側室の安藤氏。通称は初め左近、後に摂津守と改める。子に池田政信、池田知利、池田長泰室、日置忠治室(池田光政養女)らがいる。 文禄3年(1594年)、三河国吉田に生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、父・輝政が播磨姫路藩に移封されると、利政は船上城の城代となり、4170石(後に加増され5000石)を知行した。また、長兄の利隆に従い大坂の陣に参戦した。元和3年(1617年)、甥の光政の因幡鳥取藩への移封に伴い、汗入郡逢坂に移住した。さらに、寛永9年(1632年)の光政の備前岡山藩への移封で岡山に移った。同16年(1639年)8月11日、京都で死去した。46歳。法号・法清院殿月桂浄秋大居士。墓所は岡山県備前市にある和意谷池田家墓所。.

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池田光政

池田光政夫妻墓所 池田 光政(いけだ みつまさ)は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田宗家3代。.

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池田由之

池田 由之(いけだ よしゆき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。天城池田家初代。.

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池田輝政

池田 輝政(いけだ てるまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。.

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池田長吉

池田 長吉(いけだ ながよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。池田恒興の三男。長吉流池田家初代当主で、因幡鳥取藩初代藩主。.

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池田長政

池田 長政(いけだ ながまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。片桐池田家初代。.

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池田氏

池田氏(いけだし)は、日本の氏族の一つ。諸国の「池田」の地名(池田荘・池田郷など)を発祥とする氏族。.

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河合宗元

---- 河合 宗元(かわい むねもと)は江戸時代後期から幕末の武士、姫路藩士、尊王攘夷派志士である。初名は宗邦(むねくに)。惣兵衛、また勸次郎と称し、姫路藩尊攘派の首魁と目された。号は松塢。贈従四位。家紋は違い鷹の羽。替紋は銀杏打違。俸禄は250石。.

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河合道臣

河合 道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)は、江戸時代後期の姫路藩家老。一般には晩年の号の寸翁(すんのう)で知られる。酒井氏4代に50年余にわたって仕え、姫路藩の財政再建に貢献した。.

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淡路国

淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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漢学

漢学(かんがく)とは、特に江戸時代の日本において、中国伝来の学問の総称。 なお、現代の中国語では、「漢学」は、「中国学(シノロジ―)」を意味する。 洋学(蘭学)・国学に対して、漢籍を通して古典的な思想文物を学び、漢詩文等の作成ができるよう学習する学問の総称。なお、清朝の学問傾向を引き継いで、宋明理学に対する伝統的(この意味で王朝名としての「漢」を用いる)な経学及びの考証学を、清朝における用語にあわせ漢学と呼ぶこともあるが希である。.

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朝敵

朝敵(ちょうてき)は、日本において天皇とその朝廷に敵対する勢力を意味する呼称である。.

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木下家定

木下 家定(きのした いえさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名。備中足守藩初代藩主。足守木下氏初代。晩年は出家し、法名は浄英(紹英)。.

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木下氏

木下氏(きのしたし)は、日本の氏族の一つ。.

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木綿

収穫期の綿 走査型電子顕微鏡で見た木綿繊維 木綿・木棉(もめん)は、ワタの種子から取れる繊維。コットン(cotton)とも。ワタ自体のことを木綿と呼ぶこともあるが、ここでは繊維としての木綿について述べる。 ワタとはアオイ科ワタ属の多年草の総称で、木綿は種子の周りに付いている。繊維としては伸びにくく丈夫であり、吸湿性があって肌触りもよい。このため、現代では下着などによく使われるが、縮みやすいという欠点もある。主成分はセルロース。 単に棉・綿(めん)とも言う。摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿だが、区別しないことも多い。 ただし、「綿」と書いて「わた」と読むのは、本来は塊状の繊維全般を指す語である。布団や座布団の中身を繊維の種類を問わず「綿(わた)」と呼ぶが、これはその本来の用法である。古くは、中でも真綿(絹の原料)を意味することが多かった。.

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本多忠孝

本多 忠孝(ほんだ ただたか、元禄11年(1698年) - 宝永6年9月13日(1709年10月15日))は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第2代藩主、越後村上藩初代藩主。忠勝系本多家宗家7代。姫路藩主・本多忠国の三男。官位はなし。 宝永元年(1704年)5月10日に父の死により家督を相続する。しかし、姫路は西国の要となる場所であることから、幼少を理由に忠孝は5月28日に越後村上藩に移封された。 村上城に一度も入城しないまま、宝永6年(1709年)9月13日に12歳で死去した。無嗣であったため本来であれば断絶であったが、本多忠勝以来の名門の家系であったため、幕命により一族の本多忠良が家督を相続した。しかし、禄高は15万石から5万石に減封され、さらに、三河刈谷藩に移封された。 Category:譜代大名 Category:村上藩主 Category:姫路藩主 たたたか Category:1698年生 Category:1709年没.

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本多忠刻

本多 忠刻(ほんだ ただとき)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路新田藩の初代藩主。.

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本多忠勝

本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。.

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本多忠国

本多 忠国(ほんだ ただくに)は、大和郡山藩、陸奥福島藩を経て播磨姫路藩の藩主。忠勝系本多家宗家6代。.

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本多忠義

本多 忠義(ほんだ ただよし)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路新田藩3代藩主、遠江掛川藩主、越後村上藩主、陸奥白河藩初代藩主。.

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本多忠政

本多 忠政(ほんだ ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢桑名藩第2代藩主。後に播磨姫路藩初代藩主。忠勝系本多家宗家2代。正室は家康の孫の熊姫である郡 p.20。.

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本多氏

本多氏(ほんだし・ほんだうじ)は、日本の氏族の一つ。本田氏と同じ氏族であり「本多氏」と「本田氏」は同じ氏族の別表記に過ぎなかったが、いつの間にか分別されたという。 江戸時代の譜代大名・旗本家となった三河の本多氏が著名である。他に、織田伊勢守家の家臣から外様大名となった本多利久・本多利朝の一族(大和高取藩家)も存在する。.

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本多政勝

本多 政勝(ほんだ まさかつ)は、江戸時代前期の大名。播磨姫路新田藩第3代藩主、播磨姫路藩第3代藩主。大和郡山藩初代藩主。忠勝系本多家宗家4代。本多忠朝の次男。「鬼内記」「大内記」などの異名を持つ豪勇の士であったという。.

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本多政朝

本多 政朝(ほんだ まさとも)は、江戸時代前期の大名。上総大多喜藩第3代藩主、播磨龍野藩主、播磨姫路藩第2代藩主。忠勝系本多家宗家3代。 慶長4年(1599年)、本多忠勝の長男本多忠政(後に姫路藩の初代藩主)の次男として生まれる。母は松平信康の娘・熊姫。 叔父である上総大多喜藩主本多忠朝が慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で討死すると、幼少である忠朝の子・本多政勝に代わって大多喜藩を相続する。元和3年(1617年)に播磨龍野藩5万石に移封される。その後、寛永3年(1626年)に兄であり本多家宗家播磨国姫路藩の嫡子である本多忠刻が病死すると、宗家の嫡子となる。 寛永8年(1631年)、父の死去により家督を相続して姫路藩主となった。なお、相続前に所有していた5万石は、弟の本多忠義に1万石、従兄弟の本多政勝に4万石を分与した。 寛永15年(1638年)死去。跡を政勝が養子となって継いだ。 まさとも Category:姫路藩主 Category:姫路新田藩主 Category:龍野藩主 Category:大多喜藩主 Category:1599年生 Category:1638年没.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明石城

城の天守台 明石城(あかしじょう)は日本の城。所在地は兵庫県明石市明石公園。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅん-)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。.

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明石藩

明石藩(あかしはん)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区など)を領した藩。藩庁は明石城に置かれた。 明石城跡.

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新田

新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のことである。また、その地名。その開墾までの流れを新田開発といい、本項では新田開発も含めて解説する。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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播磨新宮藩

新宮藩(しんぐうはん)は、江戸時代初期に播磨揖東郡内で1万石を領有した藩。 当初は藩庁を同郡内の鵤村(いかるがむら、現在の兵庫県揖保郡太子町鵤)に置いていたが、寛永3年(1626年)に新宮陣屋(現在のたつの市新宮町新宮)へ移転させた。この移転前の藩を鵤藩とも呼ぶ。.

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支城

支城(しじょう)とは、本城を守るように配置された補助的役割を持つ出城・砦・陣屋などのことを指す。枝城(えだじろ)などとも呼ばれた。戦国時代には、本城・支城間に支城網(しじょうもう)と呼ばれる多彩な連絡網が形成されるようになった。.

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1561年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1613年

記載なし。

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1617年

記載なし。

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1639年

記載なし。

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1644年

記載なし。

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1648年

記載なし。

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1704年

記載なし。

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1741年

記載なし。

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1749年

記載なし。

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1808年

記載なし。

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1865年

記載なし。

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1867年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1887年

記載なし。

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1889年

記載なし。

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19世紀

19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.

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