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永正の錯乱

索引 永正の錯乱

永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏(細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。.

129 関係: 坂本 (大津市)堺公方大内義興大物崩れ大永天狗天文 (元号)如意ヶ嶽の戦い室町幕府家督守護安芸国尼子氏尼崎市山城国山口市居城中嶋の戦い丹後国丹波国三好之長三好元長三好長秀三好氏一向一揆一色義有九条政基享禄享禄・天文の乱京職京極高清伊丹元扶伊賀国征夷大将軍修験道応仁の乱北畠材親周防国和泉国備後国備前国内藤貞正出雲国六角定頼勝瑞城国人石見国等持院の戦い管領...管領代細川尚春細川尹賢細川勝之細川勝元細川高国細川氏細川澄之細川澄元細川政元細川政賢細川政権 (戦国時代)細川晴元綸旨瓦林正頼甲賀郡畠山尚順畠山義英畿内畿内・近国の戦国時代芦屋河原の合戦鞆町養子縁組香西元盛香西元長証如魔術越水城足利義稙足利義維足利義澄足利義晴軍記物近江国茨木城船岡山合戦阿波国赤松義村赤沢長経赤沢朝経関白薬師寺元一薬師寺国長薬師寺長忠暗殺柳本賢治桂川原の戦い武田氏永正河内国波多野稙通淡路国木沢長政明応明応の政変浦上村宗摂津国播磨国1493年1499年1506年1507年1508年1509年1510年1511年1517年1518年1519年1520年1521年1524年1526年1527年1528年1530年1531年1532年6月 (旧暦) インデックスを展開 (79 もっと) »

坂本 (大津市)

坂本(さかもと)は、滋賀県大津市の町名、地区名。延暦寺および日吉大社の門前町(鳥居前町)として古くから栄えた。現行行政町名では坂本一-八丁目が置かれているほか、広義の坂本には町名変更前の所属であった坂本本町や隣接する下阪本なども含まれる。.

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堺(さかい)は、大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。 地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。.

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堺公方

堺公方(さかいくぼう)は、大永7年(1527年)から享禄5年(1532年)にかけての足利義維に対する呼称である。堺大樹(さかいたいじゅ)とも呼ばれた(大樹は将軍の意)。義維はこの時期和泉国堺にあって、異母兄の将軍足利義晴と対峙した。堺公方の奉行人はほとんど幕府同様に文書を発給していたことから、その体制を堺幕府と呼ぶ研究者もいる。 永正5年(1508年)以来曲がりなりにも室町幕府を担ってきた管領細川高国の陣営に内紛が起こり、それをきっかけに長らく阿波国に逼塞していた対立陣営の義維・細川晴元・三好元長らが堺に進出し、そこを拠点に将軍・細川管領家(京兆家)家督の座や畿内の支配を目指した。その活動期間中、将軍義晴はほぼ近江国内に亡命しており、江州大樹(ごうしゅうたいじゅ)などと呼ばれていた。巻き返しを図って奔走した高国は享禄4年(1531年)に敗れて(大物崩れ)自害したが、堺公方側は間もなく内訌を始め、将軍への接近を試みる細川晴元が三好元長を滅ぼすと、義維も阿波へ没落し、その活動に幕が下ろされた。 明応の政変以降、足利将軍家は将軍とその対抗者の両流に分かれたが、永正の錯乱・等持院の戦いと時に立場を入れ替え、やはり分裂していた京兆家の一方とそれぞれが結び付きながら相克を繰り返した。堺公方と幕府の両陣営が覇権を争って拮抗したのも、その流れの末に生じた事態であった。この時の堺公方陣営は、幕府並みの体制を敷いて畿内を勢力範囲に収め、しかも幕府側の中核であった細川高国を倒しながら、幕府(義晴政権)に取って代わる前に、あっけなく自壊したのであった。.

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大内義興

大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。 父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。.

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大物崩れ

大物崩れ(だいもつくずれ)は、戦国時代初期の享禄4年6月4日(1531年7月17日)、摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で行われた合戦。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦い。大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。.

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大永

大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.

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天狗

天狗(てんぐ)は、日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。また後白河天皇の異名でもあった。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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如意ヶ嶽の戦い

如意ヶ嶽の戦い(にょいがたけのたたかい)は、永正6年6月17日(1509年7月4日)の夜半に現在の京都市左京区の如意ヶ嶽周辺で行われた戦い。大規模な戦闘になったのか、京都への再侵攻を試みたのか、阿波国への帰着の突破を計ろうとしたのかは不明。地図などによると如意ヶ谷と記載されることもある。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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尼子氏

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.

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尼崎市

尼崎市(あまがさきし)は、兵庫県南東部に位置する市である。中核市に指定されている。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山口市

山口市(やまぐちし)は、中国地方西部(九州・山口地方北東部)の市。山口県の県庁所在地である。.

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居城

居城(きょじょう)とは、領主が普段から住む城。または、領主が拠点とする城をいう。しばしば本城と呼ばれる場合もある。城に領主などが住む、または本拠としていることを意味する形容動詞の言葉として使われることがある。 また、拠点とする建造物が館である場合には居館(きょかん)という。館は城郭に比して防御力に劣るため、合戦に備えて防衛拠点(山城や支城など)を近くに設けることが多く、戦国時代中期ごろまでは、平時は山麓などの居館に領主が住み、合戦が始まると山城などに籠もった。戦国時代後期以降は、平時・有事ともに対応する大規模な城郭(平城・平山城)を構築するようになり、居館は城郭と一体化するようになった。.

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中嶋の戦い

中嶋の戦い(なかじまのたたかい)は、享禄4年3月10日(1531年3月28日)から同年5月後半までの摂津中嶋・天王寺周辺で行われた戦い。別名「天王寺の戦い」とも呼ばれており、その後の大物崩れにつながっていく。.

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丹後国

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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三好之長

三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代の武将。三好長慶の曽祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。.

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三好元長

三好 元長(みよし もとなが)は、戦国時代の阿波国の武将。細川晴元(六郎)に仕え、その偏諱を与えられて元長と名乗る。 父に関しては三好長秀という説が有力であるが、祖父で長秀の父・三好之長の子という説もある。本来ならば之長の後継者だった長秀が早くに戦死したため、之長が元長を長秀の養子にしたという説もある。.

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三好長秀

三好 長秀(みよし ながひで)は、戦国時代(室町時代後期)の武将。細川氏の重臣。三好之長の嫡男。子に元長、康長など(但し、元長は之長の子といわれる説もあり、長秀の弟であるとする説もある)。三好長慶の祖父に当たる。.

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三好氏

三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。.

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一向一揆

三河一向一揆 六字名号(蓮如筆)/本願寺所蔵 一向一揆(いっこういっき)とは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。.

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一色義有

一色 義有(いっしき よしあり)は、戦国時代の武将、守護大名。.

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九条政基

九条 政基(くじょう まさもと、文安2年5月7日(1445年6月12日) - 永正13年4月4日(1516年5月5日))は、室町時代末期から戦国時代初期の公家。関白・九条満家の子。従一位・関白・左大臣・准三宮。「政」の字は足利義政から偏諱を受けたものである。慈眼院と号す。.

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享禄

享禄(きょうろく)は、日本の元号の一つ。大永の後、天文の前。1528年から1531年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴。.

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享禄・天文の乱

享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)は、戦国時代初期の浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発されて発生した対外戦争の総称。.

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京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

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京極高清

京極 高清(きょうごく たかきよ)は、室町時代末期から戦国時代初期の武将、守護大名(戦国大名)。飛騨・出雲・隠岐・近江守護、後に近江半国守護で北近江の大名。京極勝秀の子で、京極持清の孫。幼名・乙童子丸。 家中を2分した京極騒乱を収めたが、自分の2人の息子を巡る別のお家騒動を止められず、京極氏の弱体化と浅井氏の台頭を招いた。.

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伊丹元扶

伊丹 元扶(いたみ もとすけ)は、戦国時代の武将。細川氏(京兆家)の家臣。摂津国伊丹城主。.

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伊賀国

伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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修験道

野の深山にて修行中の修験者 修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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北畠材親

北畠 材親(きたばたけ きちか)は、伊勢国の守護大名・公家。伊勢国司北畠家の第6代当主でもある。.

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周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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内藤貞正

内藤 貞正(ないとう さだまさ)は、室町時代の武将。細川氏の家臣。丹波国守護代。丹波八木城主。.

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出雲国

出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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六角定頼

六角 定頼(ろっかく さだより)は、戦国時代の武将・守護大名。室町幕府管領代、近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏14代当主。.

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勝瑞城

勝瑞城(しょうずいじょう)は、徳島県板野郡藍住町勝瑞(阿波国板野郡勝瑞)にあった日本の城(平城)。平城跡と居館跡が2001年(平成13年)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年(平成19年)に追加指定された。阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。現在も断続的に発掘調査が行われている。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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石見国

石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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等持院の戦い

等持院の戦い(とうじいんのたたかい)は、戦国時代の永正17年(1520年)5月5日に山城国等持院(現在の京都府京都市北区)で細川高国軍と三好之長軍との間で行われた戦い。この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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管領代

管領代(かんれいだい)とは室町幕府の職名。 永正5年(1508年)、室町幕府10代将軍足利義稙が将軍に再任された時、管領細川高国とは別に山城守護大内義興が管領代に任ぜられたとの記録がある。 戦国時代には実質上管領家は細川氏のみであったため、管領は将軍の就位儀式時以外は補任されず、その時管領に故障があった場合、管領代が指定されて管領の職務を代行した。史料的には天文15年(1546年)、13代将軍足利義輝が近江坂本で将軍に就任した時、近江守護六角定頼がこの職に補任されたのが唯一の例である。 なお、応仁の乱後に細川政元が明応の政変を引き起こし、細川氏が事実上幕府を壟断するようになって、同氏の内衆が幕府奉行人と並んで重要政務に奉書を発給するようになるが、これら細川氏奉行人は幕府から右京兆代(京兆は細川氏の極官である右京大夫の唐名を指す)と呼ばれたため、細川氏奉行人を管領代、その発給文書を管領代奉書と呼ぶ研究者もある。 Category:室町幕府の職制 Category:中世日本の称号.

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細川尚春

細川 尚春(ほそかわ ひさはる)は、戦国時代の武将。細川氏一門・淡路守護家の事実上、最後の当主となった。.

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細川尹賢

細川 尹賢(ほそかわ ただかた)は、戦国時代の武将。細川氏の庶流・典厩家当主。細川氏野州家分家の当主・細川春倶の子で和泉下守護家を継いだ高基の兄。本家に当たる京兆家を継いだ高国は従兄に当たる。.

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細川勝之

細川 勝之(ほそかわ かつゆき、生没年不詳)は、室町時代の武士。細川氏一族の野州家出身で、応仁の乱において東軍の大将となった細川勝元の猶子。実父は細川教春(勝元の再従兄弟)で生母は不詳。弟に細川政春。子に湯浅宗正。諱(実名)の「勝之」は、養父・勝元と同じく将軍足利義勝から偏諱(「勝」の字)を賜って名乗ったものと思われる。.

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細川勝元

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.

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細川高国

細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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細川澄之

細川 澄之(ほそかわ すみゆき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。第29代室町幕府管領。第13代細川京兆家当主。第24、26、27、28代室町幕府管領・細川政元の養子となった。.

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細川澄元

細川 澄元(ほそかわ すみもと)は、戦国時代の武将・守護大名。第30代室町幕府管領。丹波・摂津・讃岐・土佐守護。第14代細川京兆家当主。 細川高国と争い(両細川の乱)管領に就任し一時的に政権を樹立するも短期間で崩壊、管領の座も高国に奪われる形で解任。養父の細川政元には嫡子として認められていたものの、管領としての力は無きに等しかった。.

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細川政元

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.

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細川政賢

細川 政賢(ほそかわ まさかた)は、戦国時代の武将。細川政国の子、あるいは和泉下守護家からの養子。細川典厩家当主。摂津中嶋郡の分郡守護。阿波守護家の細川義春の娘との間に、足利義澄より偏諱の授与を受けた細川澄賢(すみかた、子に細川晴賢)がいる。また、娘が細川高国に嫁いで稙国を生んだ。.

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細川政権 (戦国時代)

細川政権(ほそかわせいけん)は、明応2年(1493年)から天文18年(1549年)まで存在した日本の戦国時代における武家政権である。この時期に足利将軍の権威は弱体化していた室町幕府で、細川家宗家の京兆家当主が管領を独占して実権を握っており、足利将軍を推戴しつつも実質的に政権を担った。細川京兆家による専制であることから「京兆専制」とも呼称される。.

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細川晴元

細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名。.

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綸旨

綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.

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瓦林正頼

林 正頼(かわらばやし まさより)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。細川氏の家臣。瓦林城主。.

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甲賀郡

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畠山尚順

山 尚順(はたけやま ひさのぶ / ひさより「尚順」の読みについては、「順」の字を受けた遊佐順盛の読みから、前者が有力である。遊佐順盛についてはを参照。)は、戦国時代の武将、守護大名。室町幕府紀伊・河内・越中守護。足利氏の支流畠山氏出身で畠山氏の一派畠山尾州家の当主。 畠山政長の子。稙長、長経、政国、晴熙(はるひろ)の父。初名は尚慶(ひさよし/ひさのり)、後に尚順と名乗るが、更に父・政長の1字を取って尚長(ひさなが)と改名した。いずれも「尚」の字は室町幕府第9代将軍・足利義尚より偏諱を受けたものである。通称は次郎、官位は尾張守。号は卜山。法号は勝仙院竜源徳陽。 生涯を通して足利義稙の有力な与党として活動した。明応の政変で父政長を殺され、紀伊での逼塞を余儀無くされたが、流浪の義稙を支持して宿敵の畠山義豊を討ち、細川政元に抵抗し続けた。義稙の将軍復帰後は領国へ下向し、実効支配を確立しようとしたが、紀伊で謀反を起こされ没落。その後出奔した義稙に呼応するも、復帰を果たせぬまま死去した。.

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畠山義英

山 義英(はたけやま よしひで)は、戦国時代の武将。畠山義豊の嫡子。畠山義就を祖とする畠山氏総州家の4代当主で義就の孫に当たる。子に義堯。通称は次郎、上総介。 明応3年(1494年)に8歳で元服。早い元服は父が同族で尾州家(畠山政長を祖とする)の畠山尚順と対立していて、万が一の場合に備えて行った処置と見られる。明応8年(1499年)に父が尚順に敗れて戦死したことにより家督を継承、領国河内から出奔したが、間もなく庇護者の細川政元が尚順を破ったため河内へ戻った。 最初は政元の傀儡として過ごしていたが、永正元年(1504年)頃から赤沢朝経と薬師寺元一の謀反など細川氏の内訌が起こり激しくなると、義英は政元からの独立を模索し、同年尚順(改め尚長)と和睦し、息子の畠山勝王をその猶子とさせたが、永正3年(1506年)に政元と和睦した赤沢朝経の攻撃を受けて没落した。翌永正4年(1507年)6月の永正の錯乱で政元が暗殺されると混乱に乗じて河内高屋城へ入城したが、12月に尚長が和睦を破り政元の養子細川澄元と結び、これに応じた澄元の部将赤沢長経に籠城していた嶽山城を攻められ、永正5年(1508年)に陥落して逃亡した。 河内を奪った尚長が澄元から将軍足利義稙・細川高国・大内義興一派に替えると義英は足利義澄・澄元らと結んで尚長との戦いを継続、永正8年(1511年)に一時河内を奪い返すが、義澄の急死、澄元が船岡山合戦で高国らに敗北すると旗色が悪くなり、河内を再び尚長に奪われた。永正10年(1513年)に尚長に敗北してからは逼塞、永正17年(1520年)3月に尚長の嫡男稙長を破り高屋城を奪うも5月に奪い返され、大永元年(1521年)10月に高国と対立して出奔した義稙を擁立した尚長と再度和睦したが、11月に稙長に敗北した記録が残っている。 以後は徴証が知れないが、興福寺大乗院門跡の日記の大永2年(1522年)4月30日条に「畠山濃州他界」という記録があり、大永3年(1523年)3月にもう一人の息子(嫡子)の義堯が観心寺に判物を発給していることから大永2年に没した畠山濃州が義英ではないかとされている。 義英政権では守護奉行所・守護代奉行所が創設され、畠山総州家の領国経営の基盤が整備された。.

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畿内

畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.

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畿内・近国の戦国時代

畿内・近国の戦国時代では畿内とその近国、おおよそ現在の近畿地方の戦国時代について記す。 戦国時代の区分については諸説あるが、この項では狭義の戦国時代の始まりとされる明応の政変が起きた明応2年(1493年)から小谷利明・弓倉弘年(編) 『南近畿の戦国時代』 戎光祥出版、2017年、p.1。、戦国時代の下限とされる天正元年(1573年)までを戦国時代として扱う。.

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芦屋河原の合戦

芦屋河原の合戦(あしやがわらのかっせん)は、戦国時代初期の永正8年(1511年)7月26日から8月10日まで摂津国鷹尾城と芦屋河原周辺で行われた合戦。細川澄元軍は軍勢を二分して進軍、一隊が阿波国より堺に上陸、7月13日に深井城の合戦となり、もう一隊が兵庫に上陸、芦屋河原の合戦となった。別名葦屋河原の戦いや鷹の尾城の戦いとも呼ばれている。.

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鞆町

1939年当時の鞆町の中心部を描いた切手 鞆町(ともちょう)は、広島県沼隈郡にあった町である。1956年に福山市に編入された。観光地として鞆の浦が有名。.

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養子縁組

養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.

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香西元盛

香西 元盛(こうざい もともり)は、戦国時代の武将。管領・細川高国の重臣。 丹波国の有力国人である波多野稙通の実弟で、長兄の勢力拡大に従って、その命令により香西氏(上香西氏)の名跡を継いだ(年代的に考えて香西元長の跡を継いだものと思われ、名前の「元」の字も香西家の慣例により付けたものである)。元盛は細川高国に仕え、大永4年(1524年)10月、次兄・柳本賢治と共に高国と対立する細川晴元の残党を和泉国で打ち破るという武功を挙げた。 しかし、大永6年(1526年)7月13日、細川尹賢の讒言を信じた高国によって上意討ちにされた。元盛は武将としての力量はあったが教養が無く、文盲であったという。このため尹賢は元盛が細川晴元や三好元長に対して内通を約しているという偽造文書を作り上げて高国に讒訴し、それを高国が信じてしまったのが事の起こりとされる。 死後、兄の稙通・柳本賢治らが高国の暴挙に激怒して挙兵し(桂川原の戦い)、この事件は高国政権崩壊の契機となった。 もともり category:波多野氏 category:戦国武将 category:丹波国の人物 Category:暗殺された人物 Category:生年不明 category:1526年没.

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香西元長

香西 元長(こうざい もとなが)は、戦国時代の武将。細川氏の家臣。山城国半国守護代。嵐山城主。.

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証如

証如(しょうにょ、證如)は、戦国時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第10世宗主・真宗大谷派第10代門首。山科本願寺住職。諱は光教。院号は信受院。法印権僧正。父は円如。本願寺第8世蓮如の曾孫。九条尚経の猶子。第11世顕如は長男。.

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魔術

術(まじゅつ)とは、仮定上の神秘的な作用を介して不思議のわざを為す営みを概括する用語である。魔法(まほう)とも。 人類学や宗教学の用語では呪術という。魔術の語は手品(奇術)を指すこともある。.

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越水城

越水城(こしみずじょう)は摂津武庫郡(兵庫県西宮市)にあった日本の城。現在は西宮市立大社小学校に案内看板・石碑が建っている。.

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足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

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足利義維

足利 義維(あしかが よしつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男(※実際には12代将軍・足利義晴より年長で長男とされる、後述参照)。第10代将軍・足利義稙の養子。第14代将軍・足利義栄の父。堺公方・平島公方と呼ばれた。.

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足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.

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足利義晴

足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であった『菅別記』とする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。.

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軍記物

# 中世末期から近世初期にかけて、戦国武将や大名家の武勲・武功について記述した書物。本項で解説する。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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茨木城

茨木城(いばらきじょう)は大阪府茨木市にあった日本の城である。現在の城跡は宅地化され、茨木神社に移築されたと言われている搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない。.

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船岡山合戦

船岡山合戦(ふなおかやまがっせん)は、永正8年(1511年)8月23日、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いである。応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。.

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阿波国

阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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赤松義村

赤松 義村(あかまつ よしむら)は戦国時代前期(室町時代後期)の播磨の守護大名・戦国大名。赤松家の第10代当主(当主在職:明応4年(1496年)4月 - 永正17年(1520年))。 播磨・備前・美作の3国を支配した戦国大名で、赤松家中興の第9代当主・赤松政則の婿養子に当たる。義村の家系は第5代当主・範資から始まる七条家の家系で、義村は範資の6代孫に当たる。父は七条政資(まさすけ)で、以後の赤松宗家は江戸時代直前に滅亡するまで義村の家系が家督を相続した。 義村は政則の代から行われていた赤松家の戦国大名化をさらに推し進めるべく大名権力の強化を図ったが、守護代の浦上村宗がそれに反発して対立。播磨など赤松領で内紛となる。義村は村宗に敗れ、家督を嫡子の才松丸(のちの晴政)に譲って隠居したが、復権を図って再度村宗と対立したため、村宗により暗殺されて赤松家は没落した。.

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赤沢長経

赤沢 長経(あかざわ ながつね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。細川氏の重臣。.

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赤沢朝経

赤沢 朝経(あかざわ ともつね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。家系は小笠原氏の庶流赤沢氏。家督を譲った後は澤蔵軒宗益(たくぞうけん そうえき)と称した。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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薬師寺元一

薬師寺 元一(やくしじ もとかず)は、戦国時代の武将。細川氏の重臣。摂津国守護代。.

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薬師寺国長

薬師寺 国長(やくしじ くになが)は、戦国時代の武将。細川氏(京兆家)の重臣で摂津国守護代である。.

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薬師寺長忠

薬師寺 長忠(やくしじ ながただ)は、戦国時代の武将。細川氏(京兆家)の重臣で摂津守護代。 父元長の死後、薬師寺家当主の座と摂津守護代職は共に兄の薬師寺元一が継いでいた。しかし元一が永正元年(1504年)に細川政元の養子の一人である澄元を擁立すべく挙兵した際にこれを鎮定し、その功によって守護代職と家督は長忠が跡を継いだ。 永正4年(1507年)6月23日、香西元長・竹田孫七らと謀って政元を暗殺する(永正の錯乱)。そして政元の養子である細川澄之を擁立した。これは長忠が政敵である三好之長を排除するため、之長を重用する政元を殺害して細川家の権力を握ろうとしたとする説が有力である。 しかし約40日後の8月1日、細川高国方に属していた甥(元一の子)の万徳丸(薬師寺国長)に茨木城で攻撃を受けて敗北し、澄之や香西元長らと共に討死した。.

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暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

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柳本賢治

柳本 賢治(やなぎもと かたはる)は、戦国時代の武将。.

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桂川原の戦い

桂川原の戦い(かつらかわらのたたかい)は大永7年2月12日(1527年3月14日)夜中から2月13日まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは堺公方の誕生のきっかけとなった。桂川の戦いとも言う。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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波多野稙通

波多野 稙通(はたの たねみち)は、戦国時代の武将。別名の波多野 元清(はたの もときよ)の名でも知られる。.

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淡路国

淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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木沢長政

木沢 長政(きざわ ながまさ)は、戦国時代の武将。河内、山城南部の守護代。官位は従五位下左京亮。河内飯盛山城城主、大和信貴山城城主。木沢右近、木沢又八郎は一族と思われる。.

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明応

明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.

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明応の政変

明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。.

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浦上村宗

浦上 村宗(うらがみ むらむね)は、戦国時代の武将。備前国・美作国・播磨国の戦国大名。浦上宗助の子(一部、宗助の叔父・浦上則宗の実子とする家系図もある)。 赤松氏に臣従し、主君・赤松義村から偏諱(「村」の字)を受けて村宗と名乗るも、のちに義村から独立する姿勢を見せてこれを殺害した。その後も義村の子・政村(政祐)と抗争し一旦は和睦するが、大物崩れの際に政祐の攻撃に遭い討ち死にした。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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1493年

記載なし。

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1499年

記載なし。

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1506年

記載なし。

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1507年

記載なし。

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1508年

土曜日から始まる。.

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1509年

記載なし。

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1510年

記載なし。

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1511年

記載なし。

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1517年

記載なし。

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1518年

記載なし。

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1519年

記載なし。

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1520年

記載なし。

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1521年

記載なし。

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1524年

記載なし。

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1526年

記載なし。

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1527年

記載なし。

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1528年

記載なし。

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1530年

記載なし。

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1531年

記載なし。

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1532年

記載なし。

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6月 (旧暦)

旧暦6月(きゅうれきろくがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から6番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、大暑を含む月を6月とする。新暦では6月下旬から8月上旬ごろに当たる。 6月の別名は水無月(みなづき)である。名前の由来は6月を参照のこと。異称は「きか(季夏)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、6月29日までで6月30日は存在しない年もある。.

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