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一条家

索引 一条家

一条家(いちじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。桃華(とうか)家とも称される。.

137 関係: 南北朝時代 (日本)南部利英塔頭大内晴持大炊御門師前嫡流室町時代家紋家格尋尊山城国一条実孝一条実家一条実経一条実輝一条実良一条実通一条実文一条家経一条家房一条富子一条師良一条忠香一条忠貞一条忠輔一条忠良一条冬経一条冬良一条内基一条内実一条内経一条内政一条兼定一条兼香一条兼良一条美賀子一条経嗣一条経輔一条経通一条道香一条輝良一条房基一条房家一条房冬一条房通一条昭良一条政親一条政房一条教輔一条教房...一条智光一條實昭九条家九条道孝九条道家九条流幕末久我建通乙訓郡二条家二条良基今出川公久佐野常羽佐野禮子徳川慶喜後光厳天皇後陽成天皇土佐一条氏土佐国公卿公家公爵国立歴史民俗博物館四条隆謌皇后皇別摂家玉葉竹田宮恒久王紀伊郡綸旨相楽郡芬陀院鎌倉時代道昭 (天台宗)菩提寺華族西園寺実韶西条藩鷹司基輝鷹司家鷹司輔平鷹司房輔近衛家関白閑院宮直仁親王藤原北家藤原氏葛野郡醍醐家醍醐忠順醍醐冬基醍醐冬熙醍醐兼純醍醐経胤醍醐輝久雲章一慶東福寺武家江戸時代清華家戦国大名戦国時代 (日本)明治天皇明治維新昭憲皇太后旧高旧領取調帳摂家摂政・関白の一覧愛宕郡1223年1284年1358年1402年1418年1423年1465年1475年1480年1481年1514年1539年1605年1672年1693年1751年1849年1914年 インデックスを展開 (87 もっと) »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南部利英

南部 利英(なんぶ としひで、1907年(明治40年)9月19日 - 1980年(昭和55年)12月15日)は、南部家第44代当主。現当主の南部利文の祖父。爵位は伯爵。貴族院議員。後陽成天皇の男系子孫にあたる。.

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塔頭

塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説がある。 塔中(たっちゅう)、塔院(とういん)、寺中(じちゅう)、院家(いんげ)とも。 やがて塔頭に類する塔台を建立するようになった他宗派も現れたり、後に改宗や廃絶したものの塔が残ったりなど現存例は混然としている。.

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大内晴持

大内 晴持(おおうち はるもち、大永4年(1524年) - 天文12年5月7日(1543年6月9日))は周防山口(山口県)の戦国大名。多々良姓大内氏当主大内義隆の養嗣子。実父は土佐中村、土佐一条氏の一条房冬、記述によっては一条房家の四男『大内義隆記』『大内義隆記』異本『房顕記』で房冬の弟と記すものもある。母は房冬の側室であった大内義隆の姉。没後、養父の幕府への働きかけで将軍家から一字が追贈され大内となった。.

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大炊御門師前

大炊御門 師前(おおいのみかど もろさき、嘉永6年10月25日(1853年11月25日) - 大正15年(1925年)5月18日)は、幕末・明治期の公家・官吏。大炊御門家信の長男。子に重孝(後の一条実孝)がいる。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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家紋

家紋(かもん)とは、日本固有の紋章である。.

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家格

家格(かかく)とは、歴史において、ある氏族や家系が得た又は与えられた格式・評価をいう用語。.

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尋尊

尋尊(じんそん、永享2年8月7日(1430年8月25日)- 永正5年5月2日(1508年5月31日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧。父は一条兼良。母は中御門宣俊の娘。興福寺180世別当。大乗院第20代門跡。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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一条実孝

一条 実孝(いちじょう さねたか、明治13年(1880年)3月15日 - 昭和34年(1959年)12月3日)は、明治・大正・昭和時代の日本海軍軍人、政治家。貴族院公爵議員。.

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一条実家

一条 実家(いちじょう さねいえ)は鎌倉時代の公卿。従一位太政大臣。父は円明寺関白一条実経、母は内大臣大炊御門家嗣の娘、あるいは右少将坊門有信の娘。兄弟に後光明峰寺摂政一条家経、一条師良、一条忠輔、一条家房らがいる。号は一条、又号町。室は滋野井公光の娘、子に一条内家がいる。.

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一条実経

一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代の公卿。従一位、摂政 関白、左大臣。五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。 九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経女准三后綸子。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。.

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一条実輝

一条 実輝(いちじょう さねてる、旧字体:一條實輝、慶応2年8月24日(1866年10月2日) - 大正13年(1924年)7月9日)は、日本の華族、海軍軍人。海軍大佐・正二位・公爵に上り、東宮侍従長を務める。陸軍中将・侯爵の四条隆謌七男。一条家は藤原北家、九条道家の三男実経を始祖とし、五摂家の一つに数えられる。実輝は、自身のはとこにあたる一条忠貞の跡を受け家督を継ぐ。昭憲皇太后は義理の叔母。.

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一条実良

一条 実良(いちじょう さねよし、天保6年2月28日(1835年3月26日) - 慶応4年4月24日(1868年5月16日))は江戸時代後期の公家。一条忠香の子で、母は伏見宮邦家親王第2王女順子女王。昭憲皇太后(明治天皇皇后)の異母兄。妻は近衛忠煕の娘総子。子に良子(一条実輝の妻)、一条忠貞は養子。法号は華厳光寺。横浜港の閉鎖などを建言する。慶応3年(1867年)12月に王政復古の大号令が発せられ、公武合体派であることを理由に参内を停止された。.

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一条実通

一条 実通(いちじょう さねみち、天明8年8月2日(1788年9月1日)-文化2年5月25日(1805年6月22日))は、江戸時代後期の公卿。左大臣一条忠良(後に関白)の嫡男。弟に一条忠香・久我建通がいる。清源院と号する。 享和元年(1801年)に元服して、従五位下左近衛権少将に任ぜられ、その年の内に従四位下左近衛権中将に、更に翌年には正四位下へと昇進する。 享和3年2月19日(1803年4月10日)、従三位に昇進して公卿に列する。文化元年(1804年)には権中納言兼左衛門督に任じられるが、翌年に18歳で病死した。このため、弟の忠香が実通の養子として一条家を継ぐ事になった。.

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一条実文

一条 実文(いちじょう さねふみ、大正6年(1917年)8月10日 - 昭和60年(1985年)8月25日)は一条実孝の子。妻は松平頼庸の長女の好子。子は一条実昭。孫は一条実綱。.

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一条家経

一条 家経(いちじょう いえつね、宝治2年12月6日(1248年12月22日) - 永仁元年12月11日(1294年1月8日))は鎌倉時代の公卿。一条家の祖・摂関従一位左大臣一条実経の子。正字では一條家經。号に後光明峯寺関白。.

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一条家房

一条 家房(いちじょう いえふさ、文永7年(1270年) - 没年不詳)は鎌倉時代の公家。父は一条実経。母は園基氏女。兄弟に一条実家、一条師良、一条忠輔、一条家経らがいる。正二位。非参議。.

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一条富子

一条 富子(いちじょう とみこ、寛保3年2月4日(1743年2月27日) - 寛政7年11月30日(1796年1月9日))は、桃園天皇の女御、後桃園天皇および伏見宮貞行親王の母。准三宮、皇太后、女院。院号は恭礼門院(きょうらい もんいん)。.

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一条師良

一条 師良(いちじょう もろなが、正嘉2年(1258年) - 永仁元年9月29日(1293年10月29日))は鎌倉時代の公家。一条実経の子。兄弟に一条実家、一条家経、一条忠輔、一条家房らがいる。正二位。非参議。.

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一条忠香

一条 忠香(いちじょう ただか、文化9年2月13日(1812年3月25日) - 文久3年11月7日(1863年12月17日))は江戸時代後期の公卿。法号は後大勝寺。一条忠良の四男。母は細川斉茲女従三位富子。室に順子女王(伏見宮邦家親王第二王女)がいる。兄に一条実通、弟に久我建通がいる。子に一条実良、明子(柳沢保申正室)、美子(明治天皇皇后、昭憲皇太后)、養女・峯(三条実万女、細川韶邦正室)、養女・美賀子(今出川公久女、徳川慶喜御台所)、養女・千代(醍醐忠順女輝姫、慶喜の婚約者だったが疱瘡のため破談し後に毫摂寺善慶室)らがいる。従一位左大臣。14代将軍継嗣問題では一橋派を支持。公武合体派で、尊攘派の公家と対立した。.

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一条忠貞

一条忠貞(いちじょう たださだ、文久2年(1862年)5月 - ?)は江戸時代後期の公家。醍醐忠順の三男。慶応4(1868)年、一条実良の三女・良子と結婚し、その婿養子となった。しかし、明治15(1882)年、不品行のため廃嫡・離縁され、実家醍醐家に戻った。その後一条実輝(四条隆謌の七男)が同様に実良の婿養子(同じく良子と結婚)となり、一条家の後継ぎとなった。従五位。没年は不詳。 たたさた たたさた Category:江戸時代の公家 Category:明治時代の人物 Category:1862年生.

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一条忠輔

一条 忠輔(いちじょう ただすけ、生没年不詳)は鎌倉時代の公家。一条実経の四男。母は藤原定高女。兄弟に一条実家、一条師良、一条家経、一条家房らがいる。従二位。非参議。.

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一条忠良

一条 忠良(いちじょう ただよし、安永3年3月22日(1774年5月2日) - 天保8年6月3日(1837年7月5日))は、江戸時代の公卿。 一条輝良の子で、大勝寺と号す。正室は肥後熊本藩主細川斉茲女富子。子に一条実通、一条忠香、久我建通、一条秀子(徳川家定室)、知君(寛彰院。池田斉輝室)、通子(松平頼学室)、崇子(鷹司輔熙室)らがいる。 天明3年(1783年)従三位となり(のち寛政11年(1799年)には従一位となった)、内大臣、右大臣、左大臣を歴任。文化11年(1814年)には、関白となった。のち文政6年(1823年)関白を辞めたが、同11年(1828年)准三后となっている。 Category:摂関 Category:江戸時代の公家 たたよし たたよし Category:1774年生 Category:1837年没.

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一条冬経

一条 冬経 (いちじょう ふゆつね )は、江戸時代中期の公卿。霊元天皇の第一の側近であり、近衛基熙と権勢を争った。初名は内房(うちふさ)、晩年には兼輝(かねてる)と称する。官位は従一位・関白及び摂政。円成寺と号した。父は、右大臣一条教輔。.

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一条冬良

一条 冬良(いちじょう ふゆよし、寛正5年6月25日(1464年7月29日) - 永正11年3月27日(1514年4月21日))は戦国時代の公卿、関白。名はふゆらとも呼ぶ。号は後妙華寺。一条兼良の第二十三子。母は町顕郷女南御方。室は二条政嗣の娘。子に女子(一条房通室)、慈尊(大乗院門跡)がある。 文明4年(1472年)応仁の乱のため、避難していた奈良で元服。正五位下に叙される。兄教房が土佐国にあり、また、教房の嫡男政房が摂津国福原で横死したため、教房の養嗣子となり家督を継ぐ。文明9年(1477年)兼良とともに帰京する。長享2年(1488年)関白内大臣となる。明応2年(1493年)には太政大臣に任ぜられる。同年関白を辞任したが明応6年(1497年)再度関白職に復帰した。永正11年(1514年)3月27日薨去。享年51。京都東山の東福寺に墓がある。父兼良の影響を受け、学問に熱心で古今和歌集の講義を行ったり、新撰菟玖波集の編纂に尽力した。 跡継ぎが居なかったため、兄教房の孫の房通を婿養子にして家を継がせた。 Category:摂関 Category:室町・安土桃山時代の公家 ふゆよし ふゆよし Category:1464年生 Category:1514年没.

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一条内基

一条 内基(いちじょう うちもと名の読みは「うちもと」と思われるが、土佐滞在中に偏諱を与えた内政の名の読みは「ただまさ」である。、天文17年(1548年) - 慶長16年7月2日(1611年8月9日))は、戦国時代後期から江戸時代初期にかけての公家である。本能寺の変が起きた時の関白。藤原北家摂関家一条家当主。号は自浄心院・翫月など。一字名は杏。.

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一条内実

一条 内実(いちじょう なかさね、建治2年(1276年) - 嘉元2年12月17日(1305年1月13日))は鎌倉時代の公卿。父は一条家経。母は松殿良嗣女。弟に一条冬実、子に一条内経がいる。号は棲心院。正二位。.

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一条内経

一条 内経(いちじょう うちつね、正応4年7月17日(1291年8月12日) - 正中2年10月1日(1325年11月7日))は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。父は内大臣一条内実、母は内実の父である一条家経の異母妹(すなわち内実の叔母)。妻は西園寺公顕の娘。号は芬陀利華院関白(ふんだりかいん かんぱく)。 正安元年(1301年)に元服して翌年に公卿に列する。嘉元2年(1304年)、父の急死によって14歳で一条家を継いだ。『玉葉和歌集』以下の勅撰和歌集や『文保御百首』・『続現葉集』などに採録される優れた歌人であったが、政治的な才には乏しかったという。それでも文保2年(1318年)には従一位関白・藤氏長者に昇ったが、35歳の若さで病死する。法号は、芬陀利華院。 一条家の菩提所として東福寺に芬陀院(ふんだいん)を建立した。 Category:摂関 Category:鎌倉時代の公家 Category:鎌倉時代の歌人 うちつね うちつね Category:1291年生 Category:1325年没.

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一条内政

一条 内政(いちじょう ただまさ)は、安土桃山時代の公家。土佐一条氏第6代当主。権中納言・一条兼定の嫡男。.

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一条兼定

一条 兼定(いちじょう かねさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのキリシタン・戦国大名、土佐国司。土佐一条氏の事実上の最後の当主。従三位・一条房基の子。.

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一条兼香

一条 兼香(いちじょう かねよし/かねか、元禄5年12月16日(1693年1月12日)-寛延4年8月2日(1751年9月21日))は、江戸時代中期の公卿。桜町天皇の側近として活躍し、従一位関白左大臣・太政大臣を歴任して14年にわたって朝廷の中枢にあった。「後円成寺」と号する。.

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一条兼良

一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。.

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一条美賀子

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』(月岡芳年画) 一条 美賀子(いちじょう みかこ、徳川 美賀子、天保6年7月19日(1835年9月11日)- 明治27年(1894年)7月9日)は、幕末から明治の公家女性で、最後の征夷大将軍・徳川慶喜の正室。実父は今出川公久、養父は一条忠香、昭憲皇太后は義妹。幼名は延君(のぶきみ)、当初の諱は省子。.

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一条経嗣

一条 経嗣(いちじょう つねつぐ、正平13年/延文3年(1358年) - 応永25年11月17日(1418年12月14日))は、室町時代前期の公卿(関白)。関白二条良基の三男で、一条経通の猶子として一条家を継いだ。子に一条兼良・僧雲章一慶がいる。.

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一条経輔

一条 経輔(いちじょう つねすけ)は室町時代の公卿。関白・一条経嗣の長男。初名良忠。.

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一条経通

一条 経通(いちじょう つねみち)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。1336年の南北分裂後は北朝側に属し、北朝第2代光明天皇の下で、建武5年(暦応改元前、1338年)から暦応5年(康永改元前、1342年)まで関白を務め、同時に藤氏長者となった。.

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一条道香

一条 道香(いちじょう みちか、享保7年10月10日(1722年11月18日) - 明和6年9月5日(1769年10月4日))は江戸時代の公卿。一条兼香の子。母は家女房。正室は池田政純の娘、静子(池田継政の養女)。子は一条輝良、八代君(徳川治保室)、真君(久我信通室)、教君(三宝院継)らが、他に早世した2男4女がいる。号は得成寺。藤氏長者。八代君は江戸幕府15代征夷大将軍徳川慶喜の曾祖母であるため、道香は慶喜の高祖父に当たる。.

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一条輝良

一条 輝良(いちじょう てるよし、宝暦6年11月7日(1756年11月28日) - 寛政7年10月14日(1795年11月25日))は、江戸時代の公卿。一条道香の子。正室は徳川重倫の娘懿姫。子に一条忠良 、西園寺実韶、和子(鶴君、三条公修室)、輝子(壽美君、伏見宮貞敬親王御息所)がいる。 明和8年(1771年)に内大臣となり、以後、右大臣、左大臣を歴任し、寛政3年(1791年)に関白になった。 Category:摂関 Category:江戸時代の公家 てるよし てるよし Category:1756年生 Category:1795年没.

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一条房基

一条 房基(いちじょう ふさもと)は、戦国時代の公家・大名。土佐国司。土佐一条氏4代当主。.

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一条房家

一条 房家(いちじょう ふさいえ)は、戦国時代の公卿(土佐国の国司)、大名。土佐一条氏の第2代当主。関白・一条教房の次男。.

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一条房冬

一条 房冬(いちじょう ふさふゆ)は、戦国時代の公家・戦国大名。土佐一条氏の第3代当主。.

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一条房通

一条 房通(いちじょう ふさみち、永正6年(1509年) - 弘治2年10月30日(1556年12月1日))は、戦国時代の公卿・関白。土佐一条氏第2代当主一条房家の次男。大叔父の一条冬良の婿養子になった。子に兼冬・内基、養子に兼定(実子とする説もある)がいる。妻は冬良の娘。官位は従一位左大臣、内覧。 永正14年(1517年)4月30日に9歳で元服。正五位に叙せられる。同年に従四位上、右少将・左中将に叙せられ、翌永正15年(1518年)には従三位に叙任。 天文14年(1545年)6月2日には養父・冬良と同じく関白にもなった(-天文17年(1548年)12月27日)。土佐一条氏からの関白就任は、冬良の兄、そして房通自身にとって祖父でもある初代当主教房以来2度目である。また、実家の土佐一条氏では一条房基、兼定と幼い当主が続いたために、土佐国に下向して当主代理として政務をとっていた時期がある。 弘治2年(1556年)、48歳で死去した。 Category:摂関 Category:室町・安土桃山時代の公家 ふさみち ふさみち ふさみち Category:1509年生 Category:1556年没.

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一条昭良

一条 昭良(いちじょう あきよし)は、江戸時代前期の公卿。 後陽成天皇の第九皇子。五摂家のひとつ一条家の養子になり第14代目当主となる。これにより一条家は皇別摂家となった。.

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一条政親

一条 政親(いちじょう まさちか)は、安土桃山時代の人物。土佐一条氏第7代当主。一条内政の嫡男。名前は、父の偏諱「政」と、外祖父である長宗我部元親の「親」をそれぞれとったものとされているが、実名を確定する史料はなく、「政親」の名前も後世の創作とみられる秋澤繁「織豊期長宗我部氏の一側面-土佐一条氏との関係(御所体制)をめぐって-」(初出:『土佐史談』215号(2000年)/所収:平井上総 編『シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-125-7))。.

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一条政房

一条 政房(いちじょう まさふさ、嘉吉3年(1443年)? - 文明元年10月17日(1469年11月20日)は、室町時代の公卿。関白左大臣・一条教房の長男。官位は従二位・権大納言。.

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一条教輔

一条教輔(いちじょう のりすけ)は江戸時代前期の公卿。名は始め伊実、次いで教良。父は一条昭良(後陽成天皇第9皇子)。正室は備前国岡山藩主池田光政の娘(徳川家光養女)・通姫。正二位・右大臣。弟に醍醐家初代の冬基、子に従一位・摂政・関白冬経(兼輝)がある。.

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一条教房

一条 教房(いちじょう のりふさ)は、室町時代後期から戦国時代の公卿(関白)で、土佐一条氏の祖。一条兼良の長男。 永享10年(1437年)元服。一条家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、当時の将軍足利義教(第6代将軍)から偏諱を受け教房と名乗る(弟の教賢(きょうけん、僧)も同様である)。長禄元年(1457年)左大臣。長禄2年(1458年)関白となる。寛正4年(1463年)に関白を辞す。応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、応仁2年(1468年)一条家領のあった土佐国幡多荘に下向し、四万十川下流の中村の館に住んだ。土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父兼良の下向を誘ってみたり、父が帰洛した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。文明12年(1480年)10月5日薨去。享年58。長男の政房は既に応仁の乱の中で戦死していたため、家督は40歳ほど年の離れた実弟の冬良が継いだ。 尚、次男・房家はそのまま土佐に土着して在地領主・大名化し、この子孫(系統)が土佐一条氏となった。 File:Tomb of Ichijo Norifusa.jpg|一条教房墓(高知県四万十市).

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一条智光

一条 智光(いちじょう ちこう、明治40年(1907年)10月23日 - 平成12年(2000年)1月25日)は、浄土宗大本山善光寺大本願の第120世法主。尼公上人。大僧正。光照院門跡兼務。 子爵小倉英季の娘として東京に生まれる。公爵一条実輝の養女となり、大正2年(1913年)、善光寺に入山し大宮智栄法主のもとで得度した。京都の光照院で修行ののち、浄土宗知恩院にある尼衆学校(現・尼僧道場)を卒業し、善光寺に戻る。昭和36年(1961年)、智栄法主の引退に伴い、120世法主となる。児童福祉施設として、を開設した。また、全日本仏教婦人連盟、全日本仏教尼僧法団やガールスカウトの要職に就いた。平成9年(1997年)4月の開帳中に法主の座を鷹司誓玉現法主に譲り、平成12年(2000年)に92歳で没する。.

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一條實昭

一條 實昭(いちじょう さねあき、1945年8月6日- )は、日本の弁護士。かつての摂家・公爵家である一条家の当主。アンダーソン・毛利・友常法律事務所顧問。一條實文の子。子で次期一条家当主に一条実綱がいる。.

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九条家

九条家(くじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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九条道孝

九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本の公家、政治家(貴族院議員)。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者。 昭和天皇の外祖父である。.

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九条道家

九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。.

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九条流

藤原頼通 |支流.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久我建通

久我 建通(こが たけみち、文化12年2月1日〈1815年3月11日〉- 明治36年〈1903年〉9月26日)とは、江戸時代の公家。 翠君、素堂と号す。実父は関白・一条忠良、実母は熊本藩第8代藩主細川斉茲の娘・富子。養父は内大臣・久我通明、養母は熊本藩第7代藩主細川治年の娘・就。正室は関白鷹司政通の娘・麗子。子に権大納言・久我通久、愛宕通旭、北畠通城(妻は石山基正の娘・正子、正子の外祖父は澤為量)、加賀藩第14代藩主前田慶寧継室・通子、福井藩第17代藩主・松平茂昭継室・幸子。.

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乙訓郡

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二条家

二条家(にじょうけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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二条良基

二条良基邸・二条殿址・京都市中京区両替町通御池上る東側 二条良基邸・二条殿御池址・京都市中京区室町通押小路下る東側 二条 良基(にじょう よしもと)は、の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。 最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度(数え方によっては4度(理由は後述))にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。.

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今出川公久

今出川 公久(いまでがわ きんひさ、文化3年5月23日(1806年7月9日) - 天保7年8月17日(1836年9月27日))は、江戸時代後期の公卿。主に光格天皇(119代)と仁孝天皇(120代)の二帝にわたり仕え、官位は正二位権中納言まで昇った。父は権大納言今出川尚季。母は関白鷹司輔平(閑院宮直仁親王王子)の娘。子息に権中納言今出川実順。娘に江戸幕府15代将軍徳川慶喜正室・一条美賀子がいる。 文化4年(1807年)に叙爵。以降累進して、侍従・右近衛権少将を経て、文政元年(1818年)に従三位となり、公卿に列する。その後も左近衛権中将・踏歌節会外弁を経て、文政7年(1824年)に従二位権中納言となる。天保3年(1832年)よりは大歌所別当を兼務。しかし天保7年(1836年)にすべての任職を辞した。同年に死去。享年31。.

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佐野常羽

佐野 常羽(さの つねは、1871年8月18日(明治4年7月3日) - 1956年(昭和31年)1月25日)は、日本の海軍軍人。海軍少将、伯爵。東京麹町生まれ。日本のボーイスカウトにおける指導者の訓練体系を確立した。 父は日本赤十字社の創始者である佐野常民。妻は保科正益の次女・尚子。養子の常光(つねみつ)は一条実輝公爵の子。.

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佐野禮子

佐野 禮子(さの あやこ、1913年(大正2年)7月4日 - 2003年(平成15年)9月3日 )は日本の元皇族で、竹田宮恒久王の第1王女。旧名、禮子女王。佐野常光伯爵夫人。兄は竹田宮恒徳王。 1934年(昭和9年)3月、伯爵・佐野常光と結婚。その後は4子に恵まれた。青山霊園にある墓誌によると、洗礼名はマリヤ。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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後光厳天皇

後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.

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後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

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土佐一条氏

土佐一条氏(とさ いちじょうし)は、日本の武家の一つ。本姓は藤原氏で、五摂家の一条家の分家。家紋は「一条藤」。 戦国時代に土佐国に土着し、武家化した戦国大名。姉小路氏・北畠氏と共に戦国三国司の一つに数えられる。.

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土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公爵

公爵(こうしゃく、、)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。 日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった。 日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。.

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国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

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四条隆謌

四条隆謌卿之墓(妙傳寺) 四条 隆謌(しじょう たかうた)は、江戸時代後期から明治時代にかけての日本の華族、陸軍軍人。官位は陸軍中将正四位勲二等侯爵に昇り、元老院議官・貴族院議員を務める。権大納言四条隆生(たかあり)の二男で、醍醐輝久の孫。安政勤王八十八廷臣の一人。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇別摂家

皇別摂家(こうべつせっけ)とは、五摂家のうち江戸時代に皇族が養子に入って相続した後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。太田亮が近衛家に対して用いたのが最初であるが、学術用語・専門用語として定着することはなく、系図愛好家・好事家らの間の隠語でしかなかった。 弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸から帰化した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ造語である。.

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玉葉

『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。.

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竹田宮恒久王

竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年(明治15年)9月22日 - 1919年(大正8年)4月23日)は日本の皇族・陸軍軍人。.

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紀伊郡

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綸旨

綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.

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相楽郡

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芬陀院

図南亭から望む東庭 芬陀院(ふんだいん)は、京都市東山区にある臨済宗の寺院。臨済宗東福寺派大本山・東福寺の塔頭である。雪舟が作庭したという庭園があることから雪舟寺とも呼ばれる。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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道昭 (天台宗)

道昭(どうしょう、弘安4年(1281年)- 文和4年12月22日(1356年1月24日))は、天台宗の僧侶、歌人である。.

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菩提寺

菩提寺(ぼだいじ)は、代々その寺の宗旨に帰依して、(先祖の)位牌を納めてある寺。菩提所とも呼ばれる。ここでいう菩提とは「死後の冥福」を指し、菩提を弔う寺院という意味である。例えば、徳川家の寛永寺や増上寺が有名。古代・中世では一般的に氏寺と呼ばれていた。 香華院(こうげいん)は、仏前に香や花を供える役割を担う寺院のこと。香華寺(こうげじ)や香華所(こうげしょ)とも呼ばれる。陵墓・霊廟・墓所などに隣接して置かれる。例えば、皇室の陵墓に隣接する泉涌寺、伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」に隣接する瑞鳳寺などがこれにあたる。 檀那寺、旦那寺(だんなでら)は、檀信徒(檀家)の布施、すなわち檀那(旦那)によって運営される寺のこと。本来の意味では信徒と寺との経済的関係を示しているに過ぎないが、江戸時代に寺請制度によって個人は必ず1つの寺に管理されるようになり、多くの庶民は経済的支援をする寺と先祖の墓を管理してもらうそれが一致する。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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西園寺実韶

西園寺 実韶(さいおんじ さねつぐ、安永6年12月7日(1778年1月5日) - 天明6年11月23日(1787年1月12日))は、江戸時代後期の公卿。光格天皇(119代)に仕え、官位は従三位左近衛中将。父は一条輝良。養父は西園寺公兼。 天明2年(1782年)に叙爵。以降累進して天明6年(1786年)に従三位となり公卿に列した。この年に左近衛権少将から左近衛権中将となり、元服もしたのだが、11月23日に薨去している。享年10。西園寺賞季の子西園寺公氏が名跡を継いだ。.

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西条藩

西条藩(さいじょうはん)は、江戸時代に伊予国に存在した藩。藩庁は伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)の西条陣屋。 江戸時代初期には外様大名の一柳氏が治めたが3代約30年で改易。その後徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。.

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鷹司基輝

鷹司 基輝(たかつかさ もとてる)は、江戸時代中期の公家。従二位内大臣。 一条兼香の子。鷹司房熙の養子となり、鷹司家を継承するも、17歳で急死した。これにより鷹司家は断絶の危機を迎えたが、養子に閑院宮直仁親王第四皇子の淳宮(鷹司輔平)を迎え、危機を免れた。.

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鷹司家

鷹司家(たかつかさけ)は、五摂家のひとつで公家である。.

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鷹司輔平

鷹司 輔平(たかつかさ すけひら)は、江戸時代中期の公家。藤氏長者。従一位、関白。幼名は淳宮。 東山天皇の皇孫。五摂家のひとつ鷹司家の養子になり、第21代当主となる。以降鷹司家は皇別摂家となった。.

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鷹司房輔

鷹司 房輔(たかつかさ ふさすけ、寛永14年4月30日(1637年6月22日) - 元禄13年1月11日(1700年3月1日))は江戸時代の公卿。父は鷹司教平。母は冷泉為満女。側室は毛利秀就の娘・竹。兄弟には鷹司信子、鷹司房子、九条兼晴。子に鷹司兼熙、西園寺実輔(西園寺安姫の婿に入る)、鷹司輔信、一条兼香がいる。従一位(1672年(寛文12年)1月5日叙)。.

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近衛家

近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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閑院宮直仁親王

閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう、宝永元年9月9日(1704年10月7日) - 宝暦3年6月3日(1753年7月3日))は江戸時代の皇族。弾正尹。准三宮。幼名は秀宮。宝永7年(1710年)に世襲親王家の一つ、閑院宮家を創設する。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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葛野郡

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醍醐家

醍醐(だいご)家は、清華家の家格をもつ公家(新家)。五摂家の一つ一条家の支流。 江戸時代前期一条昭良の二男・冬基を祖に創立された。家禄は、312石。家紋は下り藤。.

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醍醐忠順

醍醐 忠順(だいご ただおさ)は、江戸時代末期の公卿、廷臣。仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三帝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。明治時代には政治家となり、特に初代大阪府知事として知られる。父は内大臣醍醐輝弘。母は関白鷹司政熙の娘。子に醍醐忠告、醍醐忠敬、一条忠貞、醍醐忠直、娘に好子(賀陽宮邦憲王妃)、親子(鶴殿忠善妻)がいる。.

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醍醐冬基

醍醐 冬基(だいご ふゆもと)は、江戸時代前期から中期の公卿。一条昭良の次男。醍醐家の祖。.

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醍醐冬熙

醍醐 冬熙(だいご ふゆひろ)は、江戸時代中期の公卿。主に東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の四帝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。初名は冬実(ふゆざね)・昭尹(あきただ)。一字名は召。号は後信性普明寺。.

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醍醐兼純

醍醐 兼純(だいご かねずみ)は、江戸時代中期の公卿。.

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醍醐経胤

醍醐 経胤(だいご つねたね)は、江戸時代中期の公卿。中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)の五帝にもわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。初名は兼潔(かねきよ)。号は妙観寺。父は左大臣・醍醐冬熙後陽成天皇の男系の曾孫。母は対馬府中藩主・宗義真の娘・お家。.

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醍醐輝久

醍醐輝久(だいご てるひさ)は、江戸時代中期から後期の公卿、廷臣。後桃園天皇(118代)・光格天皇(119代)の二帝にわたって仕え、官位は正二位・権大納言まで昇った。.

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雲章一慶

雲章一慶(うんしょういっけい、至徳3年/元中3年5月12日(1386年6月9日) - 寛正4年1月23日(1463年2月11日))は、室町時代中期の臨済宗聖一派の僧。諱は一慶。字は雲章。父は一条経嗣で、一条兼良の兄。 6歳の時山城国山崎の成恩寺の通言について童子となり、1401年東福寺に入って出家・受戒した。翌年、明の天倫道彛・一庵一如が来日すると、これに面会して教えを受けた。後に聖寿寺にて岐陽方秀の門人となり、更に1413年には南都にて華厳宗・法相宗を学んだ。1426年東福寺ののち堂寮で秉払(ひんぽつ=住持に代わり払子(ほっす)をもって説法する僧)となった。1430年普門寺の住持となり、奇山円然の拝塔嗣法(死後の門人として教えを継承することを宣言する)を行った。永享6・7年(1434年-35年)伏見宮貞成親王に元亨釈書を講義している(看聞日記)。嘉吉元年(1441年)東福寺住持(132世)となり、宝徳元年(1449年)南禅寺に移り、172世住持となる。同年、東山常在光寺へ隠居する。五山の粛正に務めるとともに臨済宗及び朱子学の振興に務めて多くの著作を残した。死後に、弘宗禅師と勅諡される。 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:一条家 Category:1386年生 Category:1463年没.

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東福寺

京都名所之内 通天橋紅楓(歌川広重) 通天橋 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指すが、のちに、広幡・醍醐を加えて9家となった。また、豊臣政権時に五大老だった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしており、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けている。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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昭憲皇太后

昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 1914年(大正3年)4月9日)は、明治天皇の皇后。旧名・一条美子(いちじょう はるこ)。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。 欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。史上初めて洋装をした皇后。1914年(大正3年)で崩御(64歳)。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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摂政・関白の一覧

日本の摂政および関白(摂関)の一覧。 なお、摂政・関白の具体的な職掌などについてはそれぞれの項目を参照のこと。.

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愛宕郡

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1223年

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1284年

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1358年

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1402年

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1418年

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1423年

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1465年

記載なし。

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1475年

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1480年

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1481年

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1514年

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1539年

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1605年

記載なし。

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1672年

記載なし。

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1693年

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1751年

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1849年

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1914年

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