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李氏朝鮮

索引 李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

592 関係: 垂簾聴政単一民族国家南人南漢山城古田博司古朝鮮君主士禍士林派壬午軍乱壬申約条大同法大妃大納言大義名分大統領大田広域市大韓帝国大韓帝国軍大韓帝国愛国歌大韓民国大韓民国の国旗大邱広域市大長今大東輿地図大正天皇大清皇帝功徳碑天子天下統一太宗 (朝鮮王)太上王女真奴婢妓生威化島回軍孝宗 (朝鮮王)孝明世子定宗 (朝鮮王)宣祖宣教師室町幕府室町時代室谷克実宦官宮家邦彦宮嶋博史宮脇淳子守護大名宗貞盛...安重根安東金氏宋 (王朝)宋明理学宋浚吉宋時烈対馬対馬府中藩対馬国封建制小島毅小中華思想尹元衡少論派山内弘一岡田英弘岸本美緒巨文島己卯士禍己酉約条上海市丁卯胡乱両班両江道中原中央公論新社中宗 (朝鮮王)中人 (朝鮮)中国中国の宰相中国人中国語中国文明中納言中華世界中華思想主権世宗 (朝鮮王)世祖 (朝鮮王)三島三・一運動三田村泰助三跪九叩頭の礼三浦の乱三政の紊乱下関条約一進会丙子の乱丙寅洋擾丙寅教獄平壌平安南道平安北道平安道幕下乙巳士禍乙未事変庚申換局京畿道京畿道 (朝鮮八道)亜紀書房広大広州市 (京畿道)事大主義事大党仁宗 (朝鮮王)仁川広域市仁祖仁穆王后仁粋大妃仏教廃妃尹氏伊藤博文彩図社征夷大将軍御都合主義後金保護国忠清南道忠清北道忠清道応永の外寇医女医学北島万次北人北元ナガチュナショナリズムマッキューン=ライシャワー式ハングルハーグ密使事件ポート・ハミルトン事件ポーツマス条約ヤン・ヤンセ・ウェルテフレーラテン文字ロシアロシア帝国ロシア・ツァーリ国ヘンドリック・ハメルパンソリピン音テンデン・ハーグフランスフランス人ホンタイジ列強咸鏡南道咸鏡北道咸鏡道アメリカ合衆国アルファベットイギリスイザベラ・バードオランダオンドルオタネニンジンカラコルムカトリック教会キリスト教クーデターコンブシャルル・ダレジェネラル・シャーマン号事件ソンビソールソウル特別市タルチュムサルフの戦いサツマイモ哲宗 (朝鮮王)儒学者儒教冊封内臣全州李氏全ボン準全羅南道全羅北道全羅道典圜局元 (王朝)元号光州広域市光海君前漢勢道政治勲旧派国史編纂委員会国号国家国民国家四方博倭寇倭館倉山満皇太子皇帝矢木毅石井正敏王妃 (朝鮮)王ウ (高麗王)王公族王朝王昌 (高麗王)琉球琉球王国睿宗 (朝鮮王)磁器科挙章敬王后端宗 (朝鮮王)第三次日韓協約第一次王子の乱第一次日韓協約第二次王子の乱第二次日韓協約箕子箕子朝鮮簡体字米朝修好通商条約粉引粉青沙器粛宗 (朝鮮王)糟谷憲一純宗 (朝鮮王)純元王后純祖繁体字義江彰夫羅先特別市統監府経国大典絵画甲午農民戦争甲子士禍甲申政変申潤福燕山君片仮名独立門白丁白磁韓医学韓国併合韓国併合ニ関スル条約韓日合邦を要求する声明書鎖国職田法遼陽市遼東半島荘献世子荒野泰典華僑顕宗 (朝鮮王)衛氏朝鮮袁世凱風水西人西欧親日派首領許浚訓民正音驪興閔氏高宗 (朝鮮王)高麗高麗青磁高麗茶碗鬱陵島議政府豊臣秀吉豆満江貞純王后貞熹王后貨幣貨幣経済資本蓄積鴨緑江足利氏趙光祖黄海南道黄海北道黄海道辛未洋擾迎恩門露館播遷露朝陸路通商条約興宣大院君間島閔妃開城工業地区開城市開化派藤永壮邸下蔚山広域市鄭汝立臨海君釜山広域市金弘道金弘集 (政治家)金剛山観光地区金玉均金誠一金野郡金正浩釉薬英祖 (朝鮮王)英語老論派陶磁器陸奥宗光陽明学陛下Google ブックスPHP研究所投資柳川一件染付恭譲王恵民署李完用李之蘭李ク (朝鮮)李王家李珥李鴻章李氏朝鮮の家族制度李氏朝鮮の科挙制度李氏朝鮮の経済李氏朝鮮の身分制度李氏朝鮮後期の農民反乱李朝白磁李成桂李施愛の乱東京大学出版会東人東医宝鑑村井章介梶村秀樹権知高麗国事檀君朝鮮欧米正祖武官武帝 (漢)武王 (周)武田幸男殿下水原市水原華城永昌大君江原道 (南)江原道 (北)江原道 (朝鮮八道)江華島江華島事件江華郡江戸江戸幕府江戸時代池内宏洪国栄活字済州島済州特別自治道済物浦条約清史稿満州満州民族漢城府漢字漢民族漢文演劇朝鮮朝鮮における漢字朝鮮の君主一覧朝鮮の歴史朝鮮の歴史観朝鮮の民間療法朝鮮の文化朝鮮半島朝鮮人朝鮮八道朝鮮国王の廟号と諡号の一覧朝鮮王室儀軌朝鮮王陵朝鮮王朝実録朝鮮紀行朝鮮燕行使朝鮮語朝鮮貴族朝鮮通信使朝鮮民主主義人民共和国朝鮮民画朝鮮民族朝貢木綿木村誠本位銀貨本貫朱子学朱元璋朴一朴元宗朴正煕朴泳孝戊午士禍成宗 (朝鮮王)戦争明史明宗 (朝鮮王)春香伝昌原市海獺新人物往来社新義州特別行政区新潮新書文定王后文官文宗 (朝鮮王)文化観光部2000年式文禄・慶長の役文語日露戦争日清戦争日朝修好条規日本日本人日本経済新聞旗田巍摂政憲宗 (朝鮮王)慶尚南道慶尚北道慶尚道慶應義塾大学出版会慈江道慕華館扶桑社書堂景宗 (朝鮮王)10月12日10月26日1388年1389年1392年1393年1394年1398年13世紀1400年1401年1402年1404年1418年1419年1422年1431年1437年1443年1446年1455年1467年1469年1470年1492年1494年1498年1504年1506年1509年1510年1512年1519年1545年1555年1559年1562年1567年1575年1584年1589年1590年1591年1592年1593年1594年1597年1598年1606年1607年1608年1609年1615年1618年1619年1623年1624年1627年1628年1636年1637年1654年1658年1660年1666年1674年1678年1680年1683年1689年1694年16世紀1720年1721年1722年1724年1728年1762年1763年1776年1780年1784年1791年1795年1796年1800年1801年1802年1804年1805年1811年1812年1815年1827年1838年1839年1845年1846年1861年1862年1863年1866年1871年1872年1873年1875年1876年1882年1883年1884年1885年1888年1894年1895年1896年1897年1904年1905年1906年1907年1909年1910年1967年1月15日 (旧暦)2002年2月12日 (旧暦)4月13日 (旧暦)8月22日8月29日 インデックスを展開 (542 もっと) »

垂簾聴政

垂簾聴政(すいれんちょうせい)は、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うこと。.

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単一民族国家

単一民族国家(たんいつみんぞくこっか)とは単一の民族からなる国家のことである。言い換えると少数民族をもたない国家という事である。対義語は多民族国家である。ただし他民族が存在していても単一の民族の文化や言語や価値観を前提として国の執政がとられる場合も単一民族国家であると捉えることができる。.

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南人

南人(なんじん).

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南漢山城

南漢山城(ナムハンサンソン、남한산성)は、京畿道広州市、河南市、城南市に広がる南漢山にある山城。行政上の住所では広州市南漢山城面山城里である。丙子の役の際、 仁祖が入城して清と対抗した場所である。1950年代に李承晩大統領によって公園化されたのち、現在、道立公園に指定され、多くの市民の訪ねる場所となった。2014年にはUNESCOの世界遺産リストに登録された。.

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古田博司

古田 博司(ふるた ひろし、1953年(昭和28年)7月18日 - )は、日本の政治学者・歴史学者。筑波大学人文社会科学研究科教授。専門は政治思想・東洋政治思想史・北朝鮮政治・韓国社会論・朝鮮中世史・思想教化研究。.

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古朝鮮

紀元前108年頃の古朝鮮 古朝鮮(こちょうせん)は、前漢の武帝による漢四郡設置以前の古代朝鮮(紀元前?年 - 紀元前108年)の総称で、後代の李氏朝鮮と対応して使用される。.

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君主

フランス国王ルイ14世 君主(くんしゅ)とは、一般に、世襲により国家を治める最高位の人。伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合、その主権者が君主であり、王・帝王・天子・皇帝・きみ等ともいう。.

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塩の結晶 塩(しお)は、塩化ナトリウムを主な成分とし、海水の乾燥・岩塩の採掘によって生産される物質。塩味をつける調味料とし、また保存(塩漬け・塩蔵)などの目的で食品に使用されるほか、ソーダ工業用・融氷雪用・水処理設備の一種の軟化器に使われるイオン交換樹脂の再生などにも使用される。 日本の塩事業法にあっては、「塩化ナトリウムの含有量が100分の40以上の固形物」(ただし、チリ硝石、カイニット、シルビニットその他財務省令で定める鉱物を除く)と定義される(塩事業法2条1項)。.

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士禍

士禍(しか、サファ、사화)は、李氏朝鮮時代における、士(官僚)に対する粛清(弾圧)の事を差す。「士林(士林派)の禍」の略語。.

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士林派

士林派(しりんは)は、李氏朝鮮の党派の一つ。世祖の功臣である勲旧派、戚臣(外戚)との対比で使われる事が多い。.

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壬午軍乱

壬午軍乱(じんごぐんらん) または 壬午事変(じんごじへん) は、1882年(明治15年)7月23日(旧暦では光緒8年.

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壬申約条

壬申約条(じんしんやくじょう)とは、1512年(中宗7年/永正9年)に李氏朝鮮(朝鮮王朝)から対馬の宗氏に対して通告された来航者取締規則である。.

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大同法

大同法(たいどうほう、デドンボプ)は、1608年に李氏朝鮮で施行された税制。 実施された地域は、平安道、咸鏡道、済州島を除いた地域。この税制は李朝初期からの貢納制による弊害が甚大であった為、改善して施行された。貢納制は農民に田税、軍役とその地方の特産物を貢納、進上を行った。だが、特産物に関わっていない農民は、その地方の特産物を商人から買ったが、商人は特産物の値段を数倍に引き上げるなどして、農民は貧窮を極め、国家の歳入は減少した。 そのため大同法では、基本的に土地1結につき米12斗を収めるようにし、また貢納は対象から外した。また山間部では米の代わりに大同木や大同銭で収めていた。.

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大妃

大妃(テビ)は、朝鮮王朝において用いられた、先代の国王のキサキ(后または妃)で、現に在位している国王の母である女性の地位・称号である。王大妃や大王大妃と同じ意味で使われることもある。 日本の王家ではこれに相当する称号として皇太后・太皇太后を用いている。また、1945年の敗戦以前は、宮家の当主が死去し、後継者が宮号を継承したとき、先代当主の妃を指して「○○宮大妃(たいひ)」と呼ぶことがあったが、朝鮮の大妃が国王から授与される正式な称号なのに対し、日本の大妃は単なる通称・新聞用語であり法的な根拠はいっさいない。 国王の母親であるため、国王が在位している間はほとんど存在していた。なかには国王に代わって実権を掌握した大妃もおり、睿宗の母后である貞熹王后や明宗の母后である文定王后などが挙げられる。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大義名分

大義名分(たいぎめいぶん)とは、儒教に由来する考え方で、本来は臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指した。今日では転じて、「行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠」を指す事が多い。 儒教文化圏では古くから、君臣・父子などの関係(名)には、相応の責任・役割(分)が付随し、それは正当なる人倫の分限に基づいた価値判断(大義)に基づいて正否が定まると考えられていた。このため、古来より現実及び過去の経験的実証的知識の蓄積である史実と「華夷内外」・「是非善悪」といった名分を組み合わせて大義名分の有り様についての議論が行われるとともに、これに基づいた倫理的価値判断をもって現実の事象を評価することが試みられた(ただし、それは時に抽象的にあるいは相対的で価値基準自体が不安定になりがちである)。その理念的源泉は孔子がまとめたとされる『春秋』であり、宋・司馬光の『資治通鑑』や朱熹の『資治通鑑綱目』はこれを継承しようとする試みであった。 日本では儒学者のみならず国学者の間でも様々な説が立てられた(大義名分論)。特にその延長上に位置づけられるのが、幕末の尊王攘夷論である。ただし、尊王論も攘夷論も本来は内に「君臣の義」、外に「華夷の弁」を強調するもので実際の政治体制(幕藩体制)と直ちに対立するものではなかった。しかし、その価値基準は個々の価値判断(大義)に基づくものであったから、社会の安定期には儒教と皇室の権威に基づいた保守的な現状維持論に過ぎなかった尊王攘夷論が、江戸時代後期の政治・社会の不安定期には一転して政治の革新を求める運動に転化することとなり、山縣大弐の『柳子新論』(1759年)や藤田東湖の『正名論』(1791年)のように体制変革に踏み出す主張も現れるようになったのである。更に幕末最末期すなわち尊王攘夷運動終盤には中岡慎太郎のように尊王攘夷論を外圧に対抗して国家の独立を維持するための理念と捉えて本来は排撃すべきである「夷狄」アメリカ合衆国の建国者たちの活躍をその模範とすべしと唱える者まで現れるようになり、現実的な内外認識に合わせて変革思想の合理的解釈と正当化のための理論武装として大義名分論が持ち出されるようになった。.

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大統領

大統領(だいとうりょう、President)は、共和国の元首の呼称の一つ。 国によって、正式には共和国大統領や連邦大統領と称することもある。また、例外的に、国家元首たる合議体の議長や政府の長の呼称として用いられることもある。.

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大田広域市

大田市街風景 大田広域市(テジョンこういきし、대전광역시)は、大韓民国の都市。韓国で5番目の大都市である。5区と79行政洞よりなる。現在は広域市に位置づけられ、道には属さないが、1988年までは忠清南道に属していた。 西には名山・聖山として知られた鶏龍山がそびえる。古来より近郊の儒城温泉が知られていたが大きな町はなく、公州所属の農村地帯に過ぎなかった。ゆえにこの地域を「大きな田畑」を意味する固有語でハンバッ(한밭、Hanbat)と曖昧に指し示していた。日本統治下の自治体統廃合の際に「大田」と漢字が当てられ、さらに京釜線・湖南線などが開通して交通の要衝となり急速に発展、大きな都市となった。 大田国際博覧会が1993年に開催されたほか、市内の儒城区にハイテク団地「大徳研究団地」を有するなど科学技術都市として知られる。1973年に研究学園団地として指定された大徳研究団地は、韓国科学技術院(KAIST)や韓国電子通信研究院(ETRI)など政府・民間の研究所100以上が集中しており、原子力や宇宙開発、生命工学などの研究を行っている。また特許庁や統計庁など首都機能の一部が大田に分散されており、韓国鉄道公社(KORAIL)の本社も置かれている。.

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大韓帝国

純宗 勲章を纏っている高宗 大日本帝国の大礼服と大勲位菊花章頸飾など様々な勲章を纏った純宗 大日本帝国の大礼服と勲章を纏って座っている純宗 『大韓全図』(1899、玄采『大韓地誌』附図) 大韓帝国(だいかんていこく、대한제국〈テハンジェグク〉)は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(だいかんこく、대한국〈テハングク〉)、韓国(かんこく、한국〈ハングク〉)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。 朝鮮半島最後の専制君主国であるが、日露戦争後は日本の保護国となり、1910年8月の韓国併合によって滅亡した。 現在の韓国政府はこの「大韓帝国」の領土に竹島(韓国名: 独島〈독도; 獨島〉)も含まれていたと主張する。.

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大韓帝国軍

大韓帝国軍(대한제국군、だいかんていこくぐん)は大韓帝国の国軍である。皇帝の統帥権の下に置かれた。.

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大韓帝国愛国歌

大韓帝国愛国歌(だいかんていこくあいこくか、대한제국애국가)は大韓帝国(李氏朝鮮)の国歌である。 1901年(光武5年)、『君が代』の編曲に携わったフランツ・エッケルトが高宗による指示を受け作曲し、1902年(光武6年)9月9日、初めて演奏された。作詞は閔泳煥により行われた。ただ現在残っている記録によれば、大韓帝国時代に軍隊でバンドが結成され、そこで「大韓帝国愛国歌」という1902年に作曲された曲が演奏されたという。この「大韓帝国愛国歌」は国の重要な行事において演奏されていた。.

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大韓民国

大韓民国(だいかんみんこく、대한민국、漢字: 大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島(韓半島)南部を実効支配する東アジアの共和制国家であり、戦後の冷戦で誕生した分断国家。 憲法上は鴨緑江、豆満江以南の「朝鮮半島及び付属島嶼」全域を領土とするが、現在、北緯38度付近の軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治下にあり施政権は及んでいない。朝鮮戦争で争った北朝鮮とは1953年に休戦したが、その後も断続的に軍事的対立や小規模な衝突が発生している。 政治面は1980年代半ばまで独裁体制が取られていたが、1987年の民主化宣言によって成立し、現在まで続いている第六共和国憲法に基づく体制は民主主義政体と評価される。 経済面は1960年代前半まで世界最貧国グループにあったため朝鮮戦争で荒廃した韓国は、当時1人あたりの国民所得が日本の5分の1に満たず世界の最貧国に数えられていた。一方、北朝鮮は経済の5カ年計画(*)に成功し、1人あたりの国民所得が韓国の2倍を超えていた。NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 -世界の中で- 第1回「信頼回復への道」2015年6月19日放送。(*)北朝鮮はソ連型の計画経済を導入した。当時の韓国の一人あたりの国民所得は、日本の五分の一に満たない82ドルで、朝鮮戦争の荒廃から立ち直っておらず、世界の最貧国のひとつだった。NHK さかのぼり日本史「戦後“経済外交”の軌跡」第三回 経済援助 積み残された課題 2012年4月17日放送、キャスター 石澤典夫、解説 学習院大学教授 井上寿一。、独自に資金や技術を調達できなかった岩田勝雄,, 立命館大学コラム「あすへの話題」2006年7月(第44回).

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大韓民国の国旗

大韓民国の国旗(だいかんみんこくのこっき)は、太極旗(たいきょくき・テグッキ)という名称の旗である。白地の中央に置かれた赤と青の2色からなる「陰陽」で「太極」を表し、その周囲四隅に「卦」が配置されたデザインとなっている。太極旗の名称・デザイン・用法は大韓民国の法令によって定められており、太極の青色部を上にして旗を掲揚するのは逆さであり誤りである。 太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年旧暦1月27日に朝鮮国の国旗として初めて公布され、朝鮮独立運動を通じて朝鮮民族を象徴する旗として認知された。その後、1948年8月15日に大韓民国が独立を果たすと、1949年10月15日に大韓民国の国旗として法令でデザインが確定した。この頁では、大韓民国の国旗として制定されるまでの太極旗の歴史についても記述する。.

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大邱広域市

大邱広域市(テグこういきし、たいきゅうこういきし、대구광역시、Daegu)は、大韓民国南部の都市である。人口は約250万人で、ソウル、釜山、仁川に次いで韓国で4番目であるが、仁川はソウルのベッドタウンとしての性格も強いため、実質的には韓国第3の都市である。.

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大長今

長今(ちょうこん、チャングム、生没年不詳)は、李氏朝鮮の中宗期の医女。.

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大東輿地図

于山と記されている。 『大東輿地図』 『大東輿地図』(だいとうよちず)は、金正浩が1861年に完成した李氏朝鮮の全国地図である。姉妹編に『青丘図』2巻と『大東地志』32巻がある吉田(1988)。.

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大正天皇

大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。.

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大清皇帝功徳碑

大清皇帝功徳碑(だいしんこうていこうとくひ、ᡩᠠᡞᠴᡞᠩᡤᡠᠷᡠᠨ ᡳᡝᠨᡩᡠᠷᡞᠩᡤᡝᡥᠠᠨ ᡳᡤᡠᠩᡝᠷᡩᡝᠮᡠᡞᠪᡝᠢ 転写:daicing gurun-i enduringge han-i gung erdemui bei、大清国之聖汗之功徳之碑)は、大韓民国のソウル特別市松坡区三田渡に建立された石碑であり、建立地の名を取った三田渡碑(さんでんとひ、サムジョンドビ、삼전도비、Samjeondo-bi、Samjeondo Monument)とも呼ばれる。韓国では後述の経緯から「恥辱碑」とも言われる。大韓民国指定史跡第101号である。地下鉄の最寄り駅は蚕室駅である。 碑の満州語以外の名称は以下である。.

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天子

天子(てんし)とは、中国や日本で用いられた君主の称号。天命を受けて天下を治める者の意。中国の周王や漢代以降の皇帝、日本の大王・天皇の別号として用いられた。 王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。 皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。密教における十二天の日天子・月天子としても用いられそれらが支配する太陽と月の世界のことを指す。 中国の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ、聖徳太子は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っている。律令においては天皇が祭祀において用いる称号として規定されているが、天皇を指す語の1つとして広く使われるようになる。.

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天下統一

天下統一(てんかとういつ/てんがとういつ)は統治すべき地域を一人の権力者の下で統治すること。.

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太宗 (朝鮮王)

太宗(テジョン、たいそう、1367年6月13日 - 1422年5月30日)は、李氏朝鮮の第3代国王(在位:1400年 - 1418年)。 初代国王李成桂の五男。本名を李芳遠(イ・バンウォン、り・ほうえん)という。即位前は靖安君、靖安公。.

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太上王

太上王(韓国語:テサンワン・태상왕)は、李氏朝鮮で譲位後の国王に対して使われた尊号。上王または太上国王とも呼ばれる。中国では譲位後の皇帝を太上皇、日本では譲位後の天皇を太上天皇と呼んだことに由来する。 上王が存命中に次の国王がまた譲位すると、譲位後のその国王が新しく上王と呼ばれるようになり、それまでの上王だった前国王は太上王と呼ばれる。 李氏朝鮮第26代国王の高宗は、大韓帝国の成立とともに皇帝となったため、その譲位後は太上皇とよばれた。.

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女真

女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.

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奴婢

奴婢(ぬひ)は、中国と日本においては、律令制における身分階級の一つであり、良民(自由民)と賤民(非自由民)があるなかの後者の一つで、奴隷階級に相当する。奴(ぬ/やつこ)は男性の奴隷、婢(ひ/みやつこ)は女性の奴隷を意味する。朝鮮においては、起源と発展がやや異なるが、高麗時代に完成した。 奴婢は、一般的に職業の選択の自由、家族を持つ自由、居住の自由などが制限されているが、一定の年齢に達するなど、特定の条件を満たせば解放されることもあった。基本的には家畜と同じ扱いであり、市場などで取引されていた。.

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妓生

妓生 (きしょう、기생、キーセン) とは、元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性(「婢」)のことを意味する。 世界大百科事典 第2版、コトバンク。--> 甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(「キーセンハウス」など)の呼称として残存し、現在に至る。.

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威化島回軍

威化島回軍(いかとうかいぐん)は、高麗王朝末期(1388年、王禑14年)に、遼東討伐軍の将軍であった李成桂が、鴨緑江の中洲・威化島から討伐軍の主力部隊を首都開京(いまの開城)に回軍して崔瑩を中心とした政権を倒した政変である。高麗王朝崩壊の重要なきっかけとなった。.

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孝宗 (朝鮮王)

孝宗(ヒョジョン、こうそう、万暦47年5月22日(1619年7月3日) - 順治16年5月4日(1659年6月23日))は、李氏朝鮮の第17代国王(在位:1649年 - 1659年)。諱は淏(ホ、호)。即位前は鳳林大君(ポンリムデグン、ほうりんだいくん)だった。号は竹梧(チュゴ、ちくご、죽오)。 父・仁祖が清の皇帝ホンタイジに跪いて臣下の礼を取らされた恥辱を雪ぐべく、即位後は清を討伐()するために軍備拡充に努めた。その軍事力(特に銃砲等の火力)を清に買われ、黒竜江を超えて南下していたロシア勢力の討伐を行う清軍に1654年と1658年の2回軍勢を参加()させられている。.

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孝明世子

孝明世子(ヒョミョンセジャ、こうめいせいし、효명세자、純祖9年8月9日(1809年9月18日) - 純祖30年5月6日(1830年6月25日))は、李氏朝鮮の王世子。諱は旲(ヨン、영)、字は徳寅(ドクイン、とくいん、덕인)、謚は孝明で、廟号は文祖(ムンジョ、ぶんそ、문조)。父は純祖である。 1812年王世子に冊封され、1819年10月嘉礼を挙げた。1827年父・純祖の命により代理聴政をして、安東金氏の勢道政治を牽制し、妻の実家・豊壌趙氏の人物を重用したが、3年後の1830年に没した。享年22(満20歳没)。 息子・憲宗が即位するや翼宗(イクジョン、よくそう、익종)に追尊し、1899年、高宗が再び文祖翼皇帝(ムンジョイクファンジェ、ぶんそよくこうてい、문조익황제)と追尊した。陵は京畿道九里市仁倉洞にある綏陵(東九陵の一つ)。.

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定宗 (朝鮮王)

定宗(チョンジョン、ていそう、1357年7月18日 - 1419年10月15日)は、李氏朝鮮の第2代国王(在位:1398年 - 1400年)、権知高麗国事。本名を李芳果(イ・バンカ、り・ほうか)という。世子になる前は永安君(ヨンアングン、えいあんくん)。.

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宣祖

宣祖(ソンジョ、せんそ、嘉靖31年11月11日(1552年12月26日) - 万暦36年2月1日(1608年3月17日))は、李氏朝鮮時代の第14代国王。諱は昖(ヨン、연)、初名は鈞(ギュン、균)。即位前は河城君(ハソングン、ほうじょうくん)。父は第11代国王・中宗 恭僖王と昌嬪安氏の三番目の息子・徳興大院君李岹であり、中宗の孫、第12代王仁宗と第13代王明宗の甥にあたる。.

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宣教師

宣教師(せんきょうし)は、ある特定の思想や宗教を伝えるために、自分の属する共同体を離れて活動する者のこと。もともとはキリスト教用語で、イエス・キリストの高弟たちのことを使徒と呼ぶが、そのギリシア語表現であるアポストロス(απόστολος)本来の意味は「遣わされた者」であり、これがラテン語に訳された際に、同じ意味を持つ"missio"の語が充てられた。宣教師を意味するヨーロッパの各言語における表記は、このラテン語表記に由来する。(missionary、Missionarなど。)現代では本来のキリスト教用語として意味だけでなく、広義で新思想の普及者を指してそう呼ぶことがある。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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室谷克実

室谷 克実(むろたに かつみ、1949年(昭和24年) - )は、日本の評論家・ジャーナリストである。.

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宦官

宦官(かんがん)とは、去勢を施された官吏である。去勢技術は家畜に施すものとして生まれたため、宦官は牧畜文化を持つ国にのみ存在するという説があるが、現実には牧畜文化を持たない国においても宦官は存在した。.

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宮家邦彦

宮家 邦彦(みやけ くにひこ、1953年(昭和28年)10月12日 - )は、日本の元外交官、評論家、研究者。キヤノングローバル戦略研究所研究主幹、株式会社外交政策研究所代表、立命館大学教育開発推進機構客員教授、中東調査会顧問。.

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宮嶋博史

宮嶋 博史(みやじま ひろし、1948年(昭和23年)10月2日 - )は、日本の朝鮮史学者。東京大学名誉教授。専攻は朝鮮社会経済史。.

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宮脇淳子

宮脇 淳子(みやわき じゅんこ、1952年9月21日 - )は、日本の歴史学者。専門は東洋史(中央アジア)。本名は岡田淳子。東洋史学者の岡田英弘は夫である。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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宗貞盛

宗 貞盛(そう さだもり、1385年(元中2年/至徳2年)?-1452年7月9日(享徳元年6月22日))は、室町時代前・中期の武将。対馬の守護大名で、宗氏の第9代当主。第8代当主・宗貞茂の子。.

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安重根

安 重根(日本語読み: あん じゅうこん、朝鮮語読み: アン・ジュングン、朝鮮語ハングル表記: 안중근、1879年9月2日旧暦では1879年7月16日。 - 1910年3月26日)は、大韓帝国時代の朝鮮の独立運動家である。1909年10月26日に、前韓国統監の伊藤博文を、ハルビン駅構内で暗殺した。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑された。(テロリストか義士かの評価については下記).

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安東金氏

安東金氏(あんとうきんし)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫を安東とする。新羅王族のを始祖とする家系(旧安東金氏)と、高麗建国の功臣である金宣平(김선평)を始祖とする家系(新安東金氏)がある。李氏朝鮮後期に勢威を振るった安東金氏は後者にあたる。.

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宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

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宋明理学

宋明理学(そうみんりがく)は、またの名を道学という。中国の宋代・明代の儒学を代表するテーマが理であったことから、理学(りがく)と名付けられた。清代の儒学者たちからは宋学(そうがく)と呼ばれた。欧米からは、英語のに代表されるように、「新儒学」と呼ばれる(現代の新儒家(現代新儒学)とは区別される)。.

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宋浚吉

宋 浚吉(そう しゅんきつ、ソン・ジュンギル、朝鮮語:송준길、1606年12月28日-1672年12月2日)は、李氏朝鮮の文臣、政治家、性理学者、哲学者。第1次礼訟論争における西人の穏健派人の1人である。宋時烈と西人党の理論家であり礼学の大家の1人だった。金長生・金集の門人。字明甫、号は同春堂・同春、諡号は文正。 大田広域市にある別荘が「懐徳同春堂(대전 회덕 동춘당)」として大韓民国指定宝物に選定され、保存・公開されている。.

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宋時烈

宋 時烈(そう じれつ、송시열、1607年11月12日-1689年7月24日)は李氏朝鮮の政治家。儒学者。字は「英甫」、号は「尤庵」、「華陽洞主」。孝宗のころから粛宗のころまで仕えた。.

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対馬

対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である国立天文台編『平成19年 理科年表』p.565 ISBN 4621077635。島内人口は3万1105人である(2018年4月現在)。.

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対馬府中藩

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称される事が多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。.

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対馬国

対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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封建制

封建制(ほうけんせい)は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度。諸侯たちは、領有統治権のかわりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。日本史においては主に、鎌倉時代から江戸時代にかけての「武家の世」の社会・政治制度を表す言葉として用いられている。封建制は、中国古代の統治制度に由来する概念であるとともに、ヨーロッパ中世の社会経済制度であるフューダリズムの訳語でもあり、2つの意味が相互に影響している面もある。 中国では、封建制と郡県制の是非について「歴千百年」の議論が続いた。日本では中国古典とともに封建制の概念も持ち込まれ、頼山陽など江戸時代の知識人は、鎌倉幕府成立以来の武家政権体制を中国古代と似たものと考え、封建制の概念を用いて日本史を論じた。明治維新で実施された版籍奉還や廃藩置県には、こうした頼山陽らの封建制についての議論が影響している。一方、ヨーロッパ特にドイツでは、中世を特徴づける社会経済制度としてフューダリズム(ドイツ語:Feudalismus、英語:Feudalism)やレーエン(ドイツ語:Lehen)が盛んに研究されていた。明治時代半ばにレーエンを中心にフューダリズムが日本に紹介されると、フューダリズムと封建制は類似しているとされ、フューダリズムの訳語として封建制が用いられるようになった。その後、ドイツの歴史学派による経済発展段階説やマルクス経済学の唯物史観が日本に紹介されると、封建制(フューダリズム)は農奴制に結びつく概念となった。.

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小島毅

小島 毅(こじま つよし、1962年5月 - )は、日本の思想史家、東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は中国思想史。 群馬県多野郡新町(現・高崎市)生まれ。1981年麻布高等学校卒業。1985年東京大学文学部中国哲学専修卒業、1987年同大学院修士課程修了、同東洋文化研究所助手、1992年徳島大学講師、1994年助教授、1996年東大人文社会系研究科助教授、2007年准教授。2012年教授。 儒教史、陽明学、東アジア王権論などを研究する。 上杉謙信に仕えた戦国武将・小島弥太郎の子孫を自称している。 麻布中学・高校の同級生に、脚本家の戸田山雅司がいる。.

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小中華思想

小中華思想(しょうちゅうかしそう)とは朝鮮で唱えられた中華思想(華夷思想)の一変種であり中華文明圏の中にあって、漢族とは異なる政治体制と言語を維持した民族と国家の間で広まった思想。自らを「中国王朝(大中華)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなすもの(小中華)」と見なそうとする文化的優越主義思想である。この「文化」とは儒教文化のことであり、中華文明への同化の程度によって文化の高低が判断されるものであった。.

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尹元衡

尹 元衡(いん げんこう、ユン・ウォニョン)は李氏朝鮮の文臣。外戚。.

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少論派

少論派(しょうろんは、ソロンパ)は、李氏朝鮮の党派の一つ。粛宗の外戚に対し妥協的な老論派(のうろんは、ノロンパ)との対比で使われる事が多い。.

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山内弘一

山内 弘一(やまうち こういち、 - )は、日本の歴史学者、上智大学文学部教授。専攻は、朝鮮王朝史、朝鮮儒教。 1976年東京大学文学部東洋史学科卒業。1978年東京大学人文科学研究科東洋史学専門課程修士修了。1983年東京大学人文科学研究科東洋史学専門課程博士単位取得満期退学。.

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岡田英弘

岡田 英弘(おかだ ひでひろ、1931年1月24日 - 2017年5月25日)は、日本の東洋史学者。東京外国語大学名誉教授。東洋文庫専任研究員。 専攻は満洲史、モンゴル史であるが、中国・日本史論についても多くの著作がある。.

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岸本美緒

岸本 美緒(きしもと みお、1952年4月 - )は、日本の歴史学者。専門は中国史(明清社会経済史)、お茶の水女子大学教授。日本学術会議会員。.

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巨文島

巨文島(コムンとう)は朝鮮半島の南部沿岸沖、済州海峡にある小群島()。3つの主要な島があり、うち2つの大きい島である西島(ソド)と東島(トンド)は、中央に小さな島(古島、コド、)を有する入り江を形成している。古島には1885年から1887年の間、イギリスの海軍基地が設置されていた。 丁汝昌が来島した際、筆談で情報交換を行った当地の儒者を「ここは大いなる文の島である」と褒め称えたことによって、巨文島という名が付いたという言い伝えがある。しかし、当時の外交文書や朝鮮王朝実録で、すでに「巨島」「巨文島」と言う語が用いられていることから、そうではないとする研究もある。 行政上、巨文島は全羅南道麗水市三山面の一部で、古島には三山面事務所がある。島々は多島海海上国立公園の一部でもある。.

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己卯士禍

己卯士禍(きぼうしか、キミョサファ)は、李氏朝鮮中期の1519年(中宗14)に、士林派のリーダー的存在であった趙光祖(チョ・グァンジョ)を中心とする急進的な若手官僚の多くが、保守的な勲旧派の中宗への上疏によって失脚させられた事件。発生した年の干支をとって「己卯士禍」と呼ばれ、この時犠牲となった儒臣たちは、のちに「己卯名賢」と呼ばれるようになった。.

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己酉約条

己酉約条(きゆうやくじょう)とは、慶長14年(1609年)、対馬の宗氏と李氏朝鮮の間で結ばれた条約のこと。慶長条約とも。己酉とは、条約締結年の干支。全12条。これにより、文禄・慶長の役以来断絶していた朝鮮との貿易が再開された。内容は朝鮮に日本から渡航する使者の資格などについて定めたもの。明治初期まで効力を持った。.

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上海市

上海市(シャンハイし、、 ()、呉語発音: 、)は、中華人民共和国の直轄市である。 有数の世界都市であり、同国の商業・金融・工業・交通などの中心地、香港・北京と並ぶ中国最大の都市の一つである。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界9位と評価された。 2012年6月時点の常住人口は2,400万人を超え、市内総生産は2兆3,560億元(約45兆円)であり、いずれも首都の北京市を凌ぎ中国最大である。中華人民共和国国務院により国家中心都市の一つに指定されている。 略称は滬(/こ:フー)だが、古称の申(しん:シェン)も用いられる。.

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丁卯胡乱

丁卯胡乱(ていぼうこらん)は、1627年に後金のホンタイジ(太宗)が李氏朝鮮に侵攻した戦役の朝鮮での呼び名である。また、この戦いに続いて1636年には丙子胡乱が起こっている。.

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両班

両班(りょうはん、양반〈ヤンバン・韓国〉、량반〈リャンバン・北朝鮮〉)は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。 李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。 王族の次の身分として享受することは享受し、納税・他国の士族が負うような軍役の義務さえなかったため、「朝鮮の官人はみんなが盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」と兵役免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役免除、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利や家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪していた。30歳になっても笠を被ること(科挙合格)ができない者は12~13歳に笠を被った者から、「童」と呼ばれて下に扱われた。 イザベラ・バードは科挙を通じて「官」になれば、君臨と搾取に没頭するのが茶飯事だったとして、1897年の朝鮮紀行「吸血鬼」に比喩した。マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは『朝鮮事情』で「世界一傲慢な貴族階級」として記録に残している。身分が売買されたために両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の相当多数が戸籍上両班となっていた。 北朝鮮では「三大階層五十一分類の上位、韓国でも国会議員、公務員、大学教授、財閥一族を現代の両班だとの指摘されている。.

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両江道

両江道(リャンガンどう)は、朝鮮民主主義人民共和国北東部(朝鮮半島北東部)の内陸部に位置する行政区。 歴史的には咸鏡南道(一部咸鏡北道および平安北道)に属していたが、朝鮮民主主義人民共和国建国後の1954年に両江道として独立した。白頭山を擁し、中国との国境をなす鴨緑江と豆満江の両大河が源を発し、その両江が名前の由来。 東には咸鏡北道、南には咸鏡南道、西には慈江道があり、北は鴨緑江、豆満江(図们江)を挟んで、中華人民共和国と接する。.

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中原

中原 冬の華北平原 中原(ちゅうげん)は中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のこと。狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになり、河南省を中心として山東省の西部から、河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる華北平原を指すようにもなった。 古代でいわゆる「中国」や「中州」、「中土」と同義で、異民族から隔てられる文明の中心地という意味があった。その後、南方へと発展していった漢民族にとって中原は民族の発祥の地とされてきた。また周王のいたこの地域は権力の象徴とみられることがあり、天下を取るために争うことを「中原に鹿を逐う」という成語が生まれた。 中国の大衆小説である武侠小説の世界においては、武林の覇権を争う場、もしくは世界の中心となる場、という意味で用いられることがある。 Category:中国の地域 Category:中国の歴史的地域 Category:中国の別名.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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中宗 (朝鮮王)

中宗(チュンジョン、ちゅうそう)は、李氏朝鮮の第11代国王である(在位:1506年9月2日 - 1544年11月14日)。諱は懌(ヨク、역)。諡は恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王、略して中宗恭僖大王。第9代成宗の次男で、第10代燕山君の異母弟。.

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中人 (朝鮮)

中人(チユンイン、중인)は、李氏朝鮮時代の官僚機構を担った階級身分であり、代々郡県の行政実務を担当した。 李氏朝鮮時代の中人は物書きができる専門職であったが、社会的上昇には限界があり、両班から激しく差別されていた。中人は実務・情報に長けており、1876年の開港以後、商人・地主になることにより、社会的成功を収め、日本統治時代の朝鮮の農村は中人出身の新興地主によって支配された。中人出身者は、朝鮮総督府の官僚・各種各級の協議会議員として活躍するなど社会的成功をもたらした日本の植民地支配におおむね協力的であり、1925年時、朝鮮に郡守を務める250人の朝鮮人がいたが、ほとんどが中人出身者であった。新興地主は、子弟を日本に留学させ、崔南善、李光洙、崔鉉培、白南雲など近代朝鮮の文化と学問はこれらの中から誕生した。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中国の宰相

宰相(さいしょう)は歴代中国の王朝で君主を補佐した最高位の官職。およびその通称。 中国の宰相は歴代王朝によって呼称が異なる。詳細は下表を参照。 表を見れば中国の中央行政機関が六官→三公→三省→内閣→軍機処、と移り変わっていくのが分かる。特に三公の丞相(秦、漢代)は権限が強く、まさに宰相の名に相応しい。三公が有名無実化したのちの三省では尚書省が最も重要で、『周礼』の天、地、春、夏、秋、冬の六官に淵源をもつ吏、戸、礼、兵、刑、工の6官庁(=六部)を総覧した。 尚書省の長を尚書令といい、副官を僕射(ぼくや)といった。唐代、太宗が尚書令に就いてからは空席となり、左右僕射が尚書省の実質的長官となった。また各部の長官は尚書と呼ばれた。僕射はのちに丞相と改称され、尚書のうち文官の人事を統括する吏部尚書は冢宰(ちょうさい)と呼ばれた。尚書省の制は元代に廃止されるが、六部は中書省に属し、明代に中書省が廃されてのちは皇帝直属として清末まで続いた。.

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中国人

中国人(ちゅうごくじん)とは、ユーラシア大陸東部に存在する地域としての中華圏、またはそれに根ざした国家、民族などにまつわる多数の意味を持つ広範な概念上の呼称であり、さまざまな場所、あるいは立場上により全て異なる概念になることがある。.

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中国語

記載なし。

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中国文明

中国文明(ちゅうごくぶんめい)また中華文化(ちゅうかぶんか)は、中国大陸における文明・文化などの総称である。中華文明とも。世界最古の文明の一つであり、東アジアにおける中心文化でもある。歴史的には同文化圏内で広大な地域や人口を保有し、各地の文化は四千年もの発展を経て、「共通性を持ちながらも、鮮明な地方特色を帯びている」という中国独自な特徴になった。そして、中国大陸だけでは限らず、台湾・香港・マカオ・シンガポール等の中華圏や、日本・韓国・ベトナム・モンゴル等の漢字文化圏の国々にもかなり重要な影響を与えた。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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中華世界

中華世.

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中華思想

中華思想の概念図 中華思想(ちゅうかしそう)は、中華の天子が天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くから持った自民族中心主義の思想。自らを夏、華夏、中国と美称世界大百科事典,コトバンクし、王朝の庇護下とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い夷狄 (蛮族) であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す百科事典マイペディア。実際には、「中華思想」とは、華夷思想という誤った印象で、日本人の造語である。 周辺民族を文化程度の別に東夷、南蛮、西戎、北狄と呼んだ。漢民族はこれらの民族を異民族ととらえたが、多くは民族的に同一である。また、これらの言葉には当初は蔑視の意味はなかったが、宋代になると北方民族の侵入、宋代の朱子学では中国支配の正当性を強調するため、華夷思想で華夷の別を強調するようになった。 ただし「漢民族」の意味が古代と現代では異なる点には留意である。古代のオリジナルの漢民族は黄河文明に住む極めて限られた。 中国語では「華夷秩序」(簡体字:、英語:)、また中国中心主義(簡体字:、英語:) とも呼ばれる。.

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主権

主権(しゅけん)とは、国家の構成要素のうち、最高・独立・絶対の権力中沢 和男「国際政治における主権の機能とその将来」東海大学紀要.

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世宗 (朝鮮王)

世宗(セジョン、せいそう、せそう、세종、1397年5月7日) - 1450年3月30日)は、李氏朝鮮の第4代国王である 。姓は李、名は祹(文字は示へんに陶の旁)(ド、도)。即位前は忠寧君(チュンニョングン、ちゅうねいくん)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン、ちゅうねいたいくん)と呼ばれていた。.

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世祖 (朝鮮王)

世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日) - 成化4年9月8日(1468年9月23日)、在位:1455年閏6月11日(新暦7月25日) - 1468年9月7日(新暦9月22日))は、李氏朝鮮の第7代国王。諱は瑈(ユ、유)。即位前は晋平大君(チンピョンデグン、しんへいだいくん)→咸平大君(ハムピョンデグン、かんへいだいくん)→晋陽大君(チニャンデグン、しんようだいくん)を経て1445年に首陽大君(スヤンデグン、しゅようだいくん)に冊封された。一時、領議政に就任。孫に第9代国王成宗などがいる。第4代国王世宗の第2王子であり、第3代国王太宗の孫である。.

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三島

三島(みしま、さんとう).

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三・一運動

三・一運動(さんいちうんどう)は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの朝鮮独立運動。独立万歳運動や万歳事件とも(日本では三・一事件、三・一独立運動という名称もある)。韓国では3月1日を三一節として祝日に指定している。.

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三田村泰助

三田村泰助(みたむら たいすけ)、1909年(明治42年) - 1989年(平成元年)は、日本の歴史家(東洋史・中国史)。 福井県南条郡武生町(現越前市)出身。山口高校から京都帝国大学東洋史学科卒業。内藤湖南、羽田亨に師事した。1949年から80年まで、立命館大学教授、のち名誉教授。専攻は明清史。羽田と共に『満和辞典』の編纂に携わるなど、満洲史の権威として知られる。1963年、『宦官』で毎日出版文化賞受賞。1989年9月没(「明帝国と倭寇」中公文庫版著者紹介より)。.

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三跪九叩頭の礼

三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい、繁体字:、拼音:Sān guì jiǔ kòutóu zhī lǐ、満州語: 、転写:ilan niyakūn uyun hengkin i doro)は、清朝皇帝の前でとる臣下の礼の1つ。単に三跪九叩頭または三跪九叩と呼ばれる場合もある。.

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三浦の乱

三浦の乱(さんぽのらん、サムポのらん)とは、1510年(中宗4年)に朝鮮国慶尚道で起きた、対馬守護宗氏と恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱。朝鮮名庚午三浦倭乱(경오 삼포 왜란)。.

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三政の紊乱

三政の紊乱(さんせいのびんらん)は、李氏朝鮮時代に国家財政の3大要素である田政、軍政、還政(政府保有米穀の貸与制度)が紊乱したことを言う。.

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下関条約

下関条約(しものせきじょうやく)は、日清戦争で日本が清国に戦勝したことにより、1895年4月17日に下関の春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て調印された条約である。正式名称は日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)。 会議が開かれた山口県の赤間関市(現下関市)の通称だった「馬関」をとって、一般には馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称である。もう一方の当事国である中国では、現在でも「馬関条約」()という。.

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一進会

一進会(いっしんかい、イルチンフェ)は、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した政治結社。 中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった大日本帝国(日本)に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と大韓帝国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。 当時、大韓帝国では最大の政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人 アジア歴史資料センター、レファレンスコードB03041514200, pp.12, "種別 政社, 名称 一進会, 設立年月 光武八年八月, 事務所 永楽町二丁目, 重ナル役員 会長 李容九 副会長 洪肯燮, 会員数 ?八十万名" 。一説には実数は4,000人未満にすぎなかったとの見解もある内田良平『日韓合邦秘事』下巻 合邦主唱者タル一進会ガ実数四千ニ満サル会員ヲ以テ漫リニ百万ト称スルハ虚勢モ亦甚シが、日露戦争をロシア帝国(ロシア)に代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止しようと考えた李容九は、日本に協力し、日本が武器弾薬を北方へ輸送するために鉄道(後の京義線)を建設した際、その工事に無償で参加した一進会員は全部で15万人であったとされ、また北鮮から満州国(満州)へ軍需品を運搬する業務に動員された会員は11万5000人で、あわせて約27万人が日露戦争時に一進会として活動したという話も残っている。 日韓併合の目的を達成した一進会は、その後、韓国統監府が朝鮮内の政治的混乱を収拾するために朝鮮の政治結社を全面的に禁止したため、解散費用として十五万円を与えられて他の政治結社と同様に解散したが日韓合邦秘史、一進会を率いた宋秉畯らは朝鮮総督府中枢院顧問となり、合併後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続けた。合邦善後策として桂太郎首相に資金百五十万円を懇請したところ、千万円でも差し支えなしと答えられ、活動に猛進した。.

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丙子の乱

丙子の乱(へいしのらん)は、1636年から1637年にかけて、清が李氏朝鮮に侵入し、制圧した戦い。韓国では『朝鮮王朝実録』以来、敵対感が込められた呼称である丙子胡乱 (ピョンジャホラン、へいしこらん)が用いられたが、自国中心主義であるとして丙子戦争の呼称も使用されている。胡の字は、古来より漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものであり、胡乱は北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。中国では丙子之役と呼ばれている。.

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丙寅洋擾

丙寅洋擾(へいいんようじょう、병인양요、ピョンイニャンヨ、)とは、1866年10月、フランス人宣教師の処刑(丙寅教獄)を契機として、李氏朝鮮とフランス帝国との間で発生した戦い。丙寅については、干支による紀年法を参照。 他のアジア諸国と同じく李氏朝鮮においても近代化は遅れており、近代的な軍隊と最初に遭遇した戦いとなった。しかし戦いは文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに勝利した朝鮮軍側の優位に進み、フランス軍は大きく装備に劣る軍隊によって数倍の損害を与えられ最終的にフランス軍は敗走した。同時期に発生したゼネラル=シャーマン号焼き討ち事件によるアメリカ合衆国の介入を阻止した辛未洋擾と合わせて、興宣大院君による孤立主義・排外主義に正当性を与える戦いとなった。こうした孤立路線は10年後に結ばれる日朝修好条規締結まで継続した。.

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丙寅教獄

丙寅教獄(へいいんきょうごく)とは、1866年3月に朝鮮で起こったキリスト教弾圧事件。天主教大弾圧、丙寅邪獄、丙寅教難ともいう。.

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平壌

平壌(ピョンヤン)は、朝鮮民主主義人民共和国の首都、直轄市であり、最大の都市。 朝鮮八道では平安道、十三道制では平安南道に属するが、同国の行政区画においては道に属さず、平壌直轄市(ピョンヤンちょっかつし)として道級の直轄市となっている。 日本統治時代の行政区分は「平壌府」、当時の正式な読みは「へいじょう」である。.

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平安南道

平安南道(ピョンアンナムどう)は、朝鮮民主主義人民共和国中西部(朝鮮半島北西部)に位置する行政区。 平野が大半を占め、農業・工業が発達している。石炭などの地下資源にも恵まれている。工業都市南浦には同国トップクラスの港がある。.

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平安北道

平安北道(ピョンアンブクどう)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)北西部に位置する行政区。.

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平安道

平安道(へいあんどう、평안도、ピョンアンド)は、李氏朝鮮の行政区分・朝鮮八道の一つ。主要都市の平壌と安州から取って名付けられている。高麗時代から李氏朝鮮初期には西北面と呼ばれており、太宗13年(1413年)に平安道と改名された。1896年に平安北道と平安南道に分割された。東を咸鏡道と接し、南を黄海道と接し、西は黄海に面し、北は中国と国境を接していた。 道の中心は平壌にあり、平壌府が置かれた。.

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幕下

幕下(まくした)は、大相撲の番付の階級。十両の下、三段目の上。.

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乙巳士禍

乙巳士禍(いっししか、을사사화、ウルササファ)は、1545年、李氏朝鮮の明宗時代に起きた、明宗の外戚尹元衡(文定王后・尹氏の弟)らによる、鳳城君を推戴しようとした反対勢力である先代仁宗(明宗の異母兄)の外戚の尹任と彼に登用された士林らの粛清事件(士禍)。.

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乙未事変

乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された」(平凡社『世界大百科事典』)、「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らは、反日派の中心人物と目された閔妃を、10月8日未明王宮内で殺害」(小学館『日本歴史大事典』)。韓国では閔妃の諡号を採って「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。.

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庚申換局

庚申換局(キョシンファングク)とは、朝鮮王国の19代国王粛宗が行った政策で、西人と呼ばれる一派が南人と呼ばれる一派に取って代わり政治の執権を取った政変である。.

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京畿道

京畿道(キョンギド、けいきどう、韓国語表記:)は、大韓民国北西部すなわち朝鮮半島中西部に位置する行政区で、朝鮮八道における「京畿道」からソウル特別市と仁川広域市、及び朝鮮民主主義人民共和国の統治範囲を除いた地域。道庁所在地は水原市。西は黄海に面している。 1945年の南北分断及び1953年の朝鮮戦争により京畿道は分断された。京畿道のうち、北朝鮮の実効支配下に置かれた開城地区は、北朝鮮では京畿道とは呼ばず、一時は直轄市とされていたが、現在は黄海北道の所属とされ、また開城工業地区が設定されている。 人口はソウル特別市より多く、韓国で最も人口の多い広域自治体である。.

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京畿道 (朝鮮八道)

京畿道(キョンギド、けいきどう)は李氏朝鮮の行政区画、朝鮮八道の一つ。現在の大韓民国の京畿道、ソウル特別市、仁川広域市の大部分、及び朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の開城工業地区を合わせた地域。北を黄海道に、東を江原道に、南を忠清道に接する。西は、黄海(朝鮮名西海(ソヘ))に面している。 京畿道は高麗時代に成立したが、現在とは異なり開城周辺の限られた地域のみで、ソウルを含む大部分の地域は楊広道であった。李氏朝鮮時代になると楊広道が分割され、北半分を京畿道に編入し、残りの部分を忠清道として再編した。 首都漢城府(ソウル)は京畿道内にあったが、外官職(地方官庁)ではなく、京官職(中央官庁)とされ、中央官僚たる漢城判尹が統治した。.

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亜紀書房

株式会社亜紀書房(あきしょぼう、Akishobo Inc.)は、日本の出版社。.

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広大

広大(こうだい、ひろだい).

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広州市 (京畿道)

広州市(クァンジュし)は大韓民国京畿道の中部にある市である。 光州広域市とは、漢字表記では区別できるが、ハングル表記では同じ「광주」となるため、区別のために京畿広州(경기광주)と表記することがある。.

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事大主義

事大主義(じだいしゅぎ)は、小が大にえること、強い勢力に付き従うという考えを意味し、行動様式の1つ。東アジアでは外交政策の方針として用いられたこともある。 事大の語源は『孟子』の「以小事大」(=小を以って大に事える)の一節である。孟子には越が呉に仕えた例が知恵として書かれている。つまり「小国のしたたかな外交政策(知恵)」というのが本来の意味であった。しかし後世になると、大義名分論と結びついて「小国である自国はその分を弁えて、自国よりも大国の利益のために尽くすべきである」や、「支配的勢力や風潮に迎合し自己保身を図る考え」といった否定的なニュアンスも帯びるようになった。 孟子の語源にあるように元は中国の戦国時代の諸国群雄割拠における外交策略であったが、漢代以降、中国では冊封体制すなわち周辺諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。こういった背景から中国(中原)への事大主義と小中華思想は複雑な緊張・影響関係を保った。.

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事大党

事大党(じだいとう、사대당、サテダン)は李氏朝鮮末期の保守的な党派に対する、開化派からの呼称。別称守旧派。1882年の壬午事変から日清戦争に至るまで朝鮮の政界を10年間支配した。 1882年壬午事変で大院君を退けた閔氏一族を中心に形成され、日本と結んで清からの自主独立と政治の革新を主張する独立党(開化派)に対し、伝統を守って宗主国の清への臣属を主張し政権の維持を図った。閔一族が袁世凱邸に特使を度々派遣、その意見を諮詢したことから、事大党には袁が推薦した閔慶植、閔泳駿、閔泳換、趙秉式らが属した。 1884年の甲申政変の後さらに清に接近し、優勢であったが、日清戦争に清が敗北し、乙未事変が起こるとともに衰え、多くは親露派に変わった。.

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仁宗 (朝鮮王)

仁宗(インジョン、じんそう、正徳10年2月25日(1515年3月10日) - 嘉靖24年7月1日(1545年8月8日))は、李氏朝鮮の第12代国王(在位:1544年 - 1545年)。諱は峼(山偏に告)(ホ、호)。字は天胤(チョンユン、てんいん、천윤)。諡は栄靖献文懿武章粛欽孝大王。 父は第11代国王の中宗、母は章敬王后尹氏。朝鮮王朝の歴代君主中、最も在位期間が短い君主として知られる。.

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仁川広域市

仁川広域市(インチョンこういきし、じんせんこういきし、韓国語表記:、英語:Incheon)は、大韓民国西北部の都市。黄海に面した韓国を代表する港湾都市の一つである。 仁川国際空港がある。 人口は約300万人で、ソウル、釜山に次いで韓国で3番目である。仁川の繁華街の中では富平、九月洞、月尾島などが有名で、松島国際都市、青羅国際都市など大韓民国1位の経済自由区域である仁川経済自由区域が開発されている。.

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仁祖

仁祖(インジョ、じんそ、万暦23年11月7日(1595年12月7日) - 順治6年5月8日(1649年6月17日)、在位:1623年3月13日 - 1649年5月8日)は李氏朝鮮時代の第16代国王。諱は倧(ジョン、종)。クーデターによって即位し、親明反後金政策を取ったため、後金軍の侵攻を受け、後に清と改称した後金に再度侵攻され服属を余儀なくされた。.

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仁穆王后

仁穆王后 金氏(じんぼくおうこう きんし、インモクワンフ キムシ、万暦12年11月14日(1584年12月15日) - 崇禎5年6月28日(1632年8月13日))は、李氏朝鮮第14代国王宣祖の継室。仁穆大妃として知られている。本貫は延安。諡号は昭聖貞懿明烈正粛光淑荘定仁穆王后。.

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仁粋大妃

仁粋大妃(にんすいたいひ/インステビ、正統2年9月8日(1437年10月7日) - 弘治17年4月27日(1504年5月11日)、昭恵王后(しょうけいおうこう/ソヘワンフ、))は、李氏朝鮮第9代国王成宗の生母。本貫は清州韓氏。諡号は仁粋徽粛明懿昭恵王后(にんすいきしゅくめいいしょうけいおうこう、)。兄は佐理功臣・韓致仁(ハン・チイン)。従兄は韓致亨(かん ちきょう/ハン・チヒョン、1434年 - 1502年)。朝鮮史における稀有の女傑、もしくは鉄の女として知られる。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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廃妃尹氏

廃妃尹氏(はいひいんし、ペビユンシ、景泰5年閏6月1日(1455年7月15日) - 成化18年8月16日(1482年8月29日))は、李氏朝鮮第9代国王成宗の2人目の王妃で、第10代国王燕山君の生母。本貫は咸安。尹起畎(又は尹起畝)と 申氏(申叔舟の従妹)の娘。燕山君の在位中の1504年に復位、斉献王后(チェホンワンフ)と追号されたが、1506年、中宗反正の後に再び復位を取り消された。.

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伊藤博文

伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。 周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清国から朝鮮を独立させた(第一条)ことが特記できる。 1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の朝鮮人安重根に暗殺された。.

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彩図社

株式会社 彩図社(さいずしゃ)は、東京都豊島区にある出版社である。ベストセラー『裏のハローワーク』を初めとした実録レポートのほか、旅行記、歴史、雑学、ビジネス、名言集などを刊行している。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御都合主義

御都合主義(ごつごうしゅぎ)とは.

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後金

後金(こうきん、1616年 - 1636年(1912年)(z、金國)は、17世紀前半に満洲に興った満洲人(女真人、jušen)の国家で、清の前身。 1588年までに女真の建州女直を統一し、マンジュ国(z, 滿洲國)を建てていたアイシン=ギョロ(愛新覚羅)氏のヌルハチ(z、努爾哈赤)は、1593年に海西女直との戦争に入って勢力を拡大した。ヌルハチは1616年までにイェヘ(z)部族を除く全女真を統一して、この年ハンの位につき、天命の年号を立てて建国を宣言した。ヌルハチはこのとき国号をアイシン国(z, 金國)と定めたので、かつて12世紀に完顔阿骨打の立てた金と区別してこの国を「後金」と呼ぶ。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラ(z、興京)に置かれた。.

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保護国

保護国(ほごこく、protectorat、protectorate)とは、保護を名分とした条約により、他国に干渉、とくに外交処理を代わりに行う国家を指す。保護される国家は被保護国、両国の関係を保護関係という。単に保護国といった場合、被保護国を指す場合もある。近世以来、帝国主義国家が植民地を支配するときにとった統治形態である。被保護国は条約で定められた範囲でのみ拘束され、それ以外では相手国とは独立した関係にある点で付庸国とは異なる。また対象となる地域に国家が存在しない場合は「保護領」とも呼ばれるが、英語・フランス語などでは特に区別されない。.

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忠清南道

忠清南道(チュンチョンナムド、ちゅうせいなんどう、韓国語表記:)は、大韓民国中部(朝鮮半島中西部よりやや南)に位置する行政区。現在の道知事は南宮英(権限代行)。1896年、勅令第36号で朝鮮八道における忠清道の西半分を「忠清南道」と定めた。1945年以降は大韓民国の行政区となり、現在に至る。通常は忠南と略される。 かつて忠清南道の一部であった大田市は1989年に「大田直轄市」(1995年より大田広域市)として分離した。その後も道庁は大田広域市に置かれていたが、2012年12月28日に洪城郡(本館)と礼山郡(議会)にまたがる地域に移転した。 2004年、韓国の行政首都の燕岐・公州地区への移転が決定されたものの、憲法裁判所で遷都を違憲とする判決が下され、行政機能の一部移転にとどまる形となった。この地区は2012年7月1日、忠清北道清原郡の一部とともに「世宗特別自治市」として忠清南道から分離した。.

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忠清北道

忠清北道(チュンチョンプクト、ちゅうせいほくどう、韓国語表記:)は、大韓民国中部(朝鮮半島中部よりやや南)に位置する行政区である。1896年、勅令第36号で朝鮮八道における忠清道の東半分を「忠清北道」と定めた。1945年以降は大韓民国の行政区となり、現在に至る。道庁所在地は清州市。通常は忠北と略される。.

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忠清道

忠清道(チュンチョンド、ちゅうせいどう)は、李氏朝鮮の行政区画(朝鮮八道)の一つ。別名を湖西(ホソ/호서)という。 現在の韓国の忠清北道・忠清南道・大田広域市・世宗特別自治市一帯の地域にあたる。.

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応永の外寇

応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による倭寇討伐を名目とした対馬攻撃を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征()と言われる。当時足利義持が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は彼らが「島賊」と称した『宗氏家譜』「應永二十六年己亥六月廿日、朝鮮將李從茂率戰艦二百二十七艘、卒一萬七千二百八十五人、到對馬州與良郡淺海浦。州兵拒之海濱不利。朝鮮兵到仁位郡、分道下陸、竟進屯糠獄。貞茂率州兵、到糠嶽下。侵矢石攻之。連戰數日、七月初一日、與左軍朴松戰大破之。朝鮮兵狼狽走海濱乘船、貞茂使海人放火。以燒賊船。齋藤、立石等發兵撃之。賊兵大潰而還。我兵戰死者百二十三人。斬賊二千五百餘級。」、台風の接近もあって、漁村と船を焼き払ったのち10日余りで対馬から撤退した。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほどが、結局実現しなかった。朝鮮は以後二度と対馬に対する外征は行わず、土地を与えたり米を送ったりと鎮撫策に終始した。前期倭寇はそれ以前からすでに衰退傾向であったが、朝鮮が終息したと公式に判断したのはこの遠征の25年後の世宗26年(1444年)である。一方、侵略を受けた対馬はその後の朝鮮との交渉を通じて日朝貿易を独占し、朝鮮との唯一の窓口へと成長した。.

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医女

医女(いじょ)は、李氏朝鮮に於ける両班や王族などに属する高貴な女性を診察するための婢身分の医師である。医女は全て朝鮮王朝が管理し、王朝に属した。女医とも呼ぶ。「薬房妓生」とも称されて芸道にも通じたことから、風紀が乱れて末期には妓生(売春婦)と実質的に同一化した。 医女に相当する制度は、日本に於いては『養老律令』の『養老医疾令』の中に既に見られる為、同時代の唐にもこの制度が存在したと思われる。日本においてこの制度は消滅している。また、高麗時代に医女に相当するものが存在した事を証明できないため、過去の医女制度と李氏朝鮮時代の医女制度の関係は不明である。.

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医学

医学(いがく、英:Medicine, Medical science)とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である広辞苑「医学」。 医学は、病気の予防および治療によって健康を維持、および回復するために発展した様々な医療を包含する。.

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北島万次

北島 万次(きたしま まんじ、1935年1月3日 - )は、日本の歴史学者。専攻は日本中近世対外関係史。.

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北人

北人(ほくじん、韓国語:북인、プギン)は、李氏朝鮮の官僚・士林派の派閥の一つ。1591年に東人から分裂した2つの派閥のうちのひとつであり、光海君の治世下で政権を掌握した。 名称は、指導的立場にあったが漢江の北に館を構え、李潑が北岳山のふもとに家があった事にちなむ。.

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北元

北元(ほくげん、拼音:Bĕiyuán)は、1368年に、元(大元)の第14代大ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の大元ウルス(モンゴル帝国の皇帝直轄政権)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん、拼音:dádá)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称も用いられる。.

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ナガチュ

ナガチュ(Naghachu、納哈出、? - 1388年)は、元朝末期に中国東北地方に勢力を持っていた元の将軍。ジャライル部の王族。 元末に満州地方を支配していたが、元が北走してからはモンゴル高原にある北元の本軍と連携してモンゴルの中国奪還を目指した。20万とも言われる大軍で南下の機を窺っていたが、1387年、兵糧不足により馮勝率いる明の北伐軍に降伏した。.

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ナショナリズム

ナショナリズム(nationalism)とは、国家という統一、独立した共同体を一般的には自己の所属する民族のもと形成する政治思想や運動を指す用語。日本語では内容や解釈により民族主義、国家主義、国民主義、国粋主義などとも訳されている。.

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マッキューン=ライシャワー式

マッキューン=ライシャワー式(マッキューン・ライシャワーしき、McCune–Reischauer)は、朝鮮語のラテン文字転写の方法の1つである。略称はM-R式またはMR式。 大韓民国では1984年から2000年まで、この方式を若干修正した「文教部1984年式」を使用していた。韓国国外では広く使用が続いている。.

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ハングル

ハングル(한글)は、朝鮮語を表記するための表音文字である。1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が「訓民正音」(훈민정음、Hunmin Jeong-eum、略称: 正音)の名で公布した。 意味は「偉大なる(ハン)・文字(グル)」である東京外国語大学・趙義成「チアチア語のハングル表記体系について」学術論文集28、2011.朝鮮奨学会が、「ハン」を「大韓帝国」の「韓(ハン)」とする説もある。.

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ハーグ密使事件

ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)は、1907年(明治40年)に大韓帝国皇帝高宗がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に3人の密使を送り、第二次日韓協約によって日本に奪われていた自国の外交権回復を訴えようとするも具体的な成果は得られなかった事件。事件後、高宗は統監府統監伊藤博文によって追及され退位した。 後の大韓民国では「ハーグ特使事件」(헤이그 특사 사건)と呼ぶ。.

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ポート・ハミルトン事件

巨文島事件、あるいはポート・ハミルトン事件とは、巨文島(ポート・ハミルトン、コムン島とも)が英国海軍によって、1885年4月15日から1887年2月27日にかけて占領された事件のことである。 ロシア帝国はこの島を給炭港とすることを目論んでいた。 事件に先立ち、ロシア帝国と韓国との間において密約が結ばれたとの情報に英国は脅威を覚えていた。しかし、巨文島の占領が決定されるまでは英国内閣は特段何も手段を講じずにいた。 この港の占領は、ポート・ハミルトンをイギリスの意のままに扱うことの出来る港として確立させることで、極東におけるロシアとの戦闘行為に備え、さらに中国の中立勢力の潜在的脅威を和らげることを目的としたものだった。公式声明においては、ロシアの巨文島併合に対し先手を打つための占領であるとしている。これを受けてフランスの駐日大使や Novoe Vremiya といった新聞は、ロシアが対抗処置として Port Lazarevやチェジュ島を占領するのではないかという懸念を表明していた。 ロシアはこの英国のポート・ハミルトン占領に対し韓国の一部を占領すると通告するなど事態は緊張したものの、最終的には韓国のいかなる領域も占領しないことをロシアが保証したことを受け、イギリスも巨文島より撤退することとなった。 このポート・ハミルトン占領計画は英国内閣によって1875年7月に検討されていたものの、先例が無いとして外務大臣 Lord Derby により却下されていたものだった。.

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ポーツマス条約

ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、大日本帝国とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。 1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、大日本帝国全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。 また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。.

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ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー

デ・レイプにあるヤン・ヤンセ・ウェルテフレー像 ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー (Jan Janse de Weltevree、1595年 - 没年不詳) は、オランダ出身の船乗りで、私掠船(海賊船)の水夫であり、おそらく朝鮮を訪問した最初のオランダ人の一人である。小銃製法の技術を持ち、女真族侵略の際に活躍した紅夷砲の製造と操作を伝えたとされる。 朝鮮名は朴延(パク・ヨン)で、しばしば通訳も務め、鎖国時代の李氏朝鮮に土着した。彼の冒険は、オランダ東インド会社の会計士で1653年から1666年まで朝鮮に滞在したヘンドリック・ハメルの報告により記録された。.

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ラテン文字

ラテン文字(ラテンもじ、abecedarium Latinum、Latin alphabet、ラテンアルファベット)は、表音文字(音素文字・アルファベット)の一つである。ローマ文字、ローマ字(alfabeto Romano、Roman alphabet)とも呼ばれる。 文字を右書きで横に並べることで単語を表記し、単語間を分かち書きで区切って並べることで文章を構成する。それぞれの文字は子音か母音を表す。 今日、人類社会で最も解読者人口が多い文字である。 元来ラテン語の文字で、古くから西欧・中欧の諸言語で使われているが、近代以降はこれら以外にも使用言語が多い。ただし発音の文字への表記方法は各言語ごとに異なっており、同じ綴りでも言語によって違う発音をすることはラテン文字においては全く珍しくない。英語など、古い時代に表記法が定められた言語においては表記と発音の間の乖離も大きなものとなってきている。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ロシア帝国

ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.

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ロシア・ツァーリ国

ア・ツァーリ国(ロシア・ツァーリこく、ロシア語:Царство Русское)は、1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称である。.

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ヘンドリック・ハメル

ホルクムにあるハメル像。 麗水市にあるヘンドリック・ハメル博物館 ヘンドリック・ハメル(Hendrick Hamel, 1630年 - 1692年2月12日)は、オランダのホルクム出身の船乗りで、難破して13年間も李氏朝鮮で幽閉されたが、日本に脱出して帰国を果たし、『朝鮮幽囚記』を著して朝鮮をヨーロッパに紹介した。.

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パンソリ

パンソリ(판소리)は、朝鮮の伝統的民俗芸能。19世紀に朝鮮で人気のあった音楽であり、口承文芸のひとつである。1人の歌い手(ソリックン 소리꾼)とプク(太鼓)の奏者(鼓手 コス 고수)によって奏でられる物語性のある歌と打楽器の演奏である。パンソリのパン(판)は、多くの人々が集まる場所を意味し、ソリ(소리)は音を意味する。 2008年、パンソリはユネスコの無形文化遺産に登録された。.

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ピン音

(ピンイン)は、中国語で音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系を指す。一般的な場合この語は、(かんごピンイン、Hànyǔ Pīnyīn)と呼ばれる1958年に中華人民共和国が制定したという表記法、またはそれに基づくという文字を指す。 のように中国大陸とは異なる「」もあり、ウェード式などの他のラテン文字による表記法も中国語ではと称することがある。の名称は、それらと特に区別する必要がある場合用いられる。 は、当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。.

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テン

テン(貂『広辞苑 第5版』、岩波書店、黄鼬、)は、哺乳綱ネコ目(食肉目)イヌ亜目 イタチ科テン属に分類される食肉類。北海道に生息するエゾクロテン(蝦夷黒貂、)は同属異種。.

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デン・ハーグ

デン・ハーグ( デン・ハーハ/ スフラーフェンハーヘ、日本語では多くハーグ)は、北海沿岸に位置するオランダ南ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)であり、同州の州都。事実上のオランダの首都で、アムステルダムとロッテルダムに次ぐオランダ第3の都市でもある。 スターテン・ヘネラールと称されるオランダ議会の議事堂が所在している。議事堂のほかに、王室の宮殿、中央官庁、各国の大使館などが置かれており、ほぼすべての首都機能を担う、国内政治の中心都市である。そのほかにも、国際司法裁判所や旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、国際刑事裁判所等の重要な国際機関が複数置かれ、「平和と司法の街」とも呼ばれる。一般に首都とされているアムステルダムは、憲法において首都と規定され、かつ王宮も存在する(ただし実質的には離宮)ものの、歴史的に首都機能はハーグが担ってきている。 イングランド王ジェームズ2世が亡命してきたり、逆にオランダ王ウィレム2世をイギリスへ亡命させたりした、緊密な英蘭関係を象徴する都市である。ロイヤル・ダッチ・シェルの本社がある。 北海に面した郊外に、行楽地であるスヘフェニンゲンがある。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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フランス人

フランス人(フランスじん、peuple français)は、フランス(フランス共和国、フランス王国、フランス帝国など)の国籍を有する人々を指し、2004年時点で約6200万人を数える。.

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ホンタイジ

ホンタイジ(ᡥᠣᠩᡨᠠᡳᠵᡳ 転写:hong taiji、皇太極)は、清(後金)の第2代皇帝。君主としての称号は満州語でスレ・ハン(sure han)、モンゴル語でセチェン・ハーン。皇太極は皇太子、黄台吉とも表記される。三田村泰助は明の陳仁錫『山海紀聞』や李朝の『朝鮮王朝実録』の「仁祖実録」などを根拠に、本名は「ヘカン」であったとする説を提示している。 皇太子とも表記されることから、ヌルハチの生前から後継者と目されていたと考える向きもあるが、ヌルハチが死の際にそれに触れていないことと矛盾する。ヌルハチは自分を部族連合体の長であるとしか考えていなかったので、後継者も自分と同じように周囲の推戴によって選ばれるべきである、と認識していたと考える方が妥当であろう。史書(『清実録』)にはホンタイジは順当に何事もなく即位したように書かれているが、このあたりの記述には潤色があると考えられる。 なお、「ホンタイジ」という単語は上述の通り「皇太子」や「王」「福王」などの意味を含んでおり、満州族以外のユーラシア大陸北方遊牧民の間で広く使われた君主号の一種であり、彼以外にも「ホンタイジ」を名乗った者は多く、同時代だけを見ても複数いる。例えばホンタイジの死後、乾隆帝によって滅ぼされたジュンガルの歴代王は「ホンタイジ」の称号を名乗っていた。.

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列強

国連安保理で拒否権を持たない列強:日本, ドイツ 列強(れっきょう、great powers, major powers)とは、世界規模の影響力を持つ複数の国家を指す用語である。 列強は経済的、軍事的、外交的、文化的、政治的などの力を持ち、しばしば他の小国の行動に影響を与える。国際関係の理論では列強の位置づけは、その力を発揮できる能力や、領土などの空間や、国際的な地位などの面から特徴づけられる。 いくつかの諸国が広く列強と呼ばれているが、その明確な定義は存在せず、ウィーン会議などの国際会議や国際連合安全保障理事会などの国際組織によって公式に認識されるDanilovic, Vesna.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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咸鏡南道

咸鏡南道(ハムギョンナムどう)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)北東部に位置する行政区。.

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咸鏡北道

咸鏡北道(ハムギョンブクどう)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)北東部に位置する行政区。.

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咸鏡道

咸鏡道(かんきょうどう、 ハムギョンド)は、李氏朝鮮の行政区分・朝鮮八道の一つ。1467年から1470年までと1498年から1896年まで使われていた名称。1896年に咸鏡北道と咸鏡南道に分割された。西を平安道と接し、南を江原道と接し、北は中国と国境を接していた。 咸鏡道という名称は主要都市の咸州と鏡城(咸鏡北道鏡城郡)から取ったものである。 朝鮮半島の東北部に位置し、朝鮮三国時代の一国である高句麗が領有しており、後に渤海が領有した。渤海が滅びると北部は女真族の地となり、朝鮮半島の王朝が占有していたのは南部のみとなった。高麗末期から李氏朝鮮初期にかけては東北面と呼ばれていた。太宗13年(1413年)に永吉道(永興・吉州より、永興は太祖李成桂の故郷)と改名され、道に組み込まれる。さらに太宗16年(1416年)咸吉道(咸州と吉州より)に改名された。 初めて咸鏡道と言う名前が出てくるのは世祖13年(1467年)であるが、成宗元年(1470年)に李施愛の乱に加担した李仲和の出身地・咸興が、府から郡への格下げと観察使営も永興に移されたことから、永安道(永興・安辺より、安辺は現在の北朝鮮の江原道安辺郡)と改称された。 永安道から咸鏡道に再び改名されたのは燕山君4年(1498年)4月4日である。.

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アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

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アルファベット

アルファベット(alphabet)は、ひとつひとつの文字が原則としてひとつの子音または母音という音素をあらわす表音文字の一種であり、また、それを伝統的な配列で並べたものをいう。「アルファベット」という語は、ギリシア文字の最初の2文字 α, β の読み方である「アルファ」(ἄλφα)、「ベータ」(βήτα)に由来する。 日常語において「アルファベット」という単語は主にヨーロッパ系の言語の文字一覧を表すが、学術的には後述する定義を満たしさえすればヨーロッパ系の言語でなくともよい。また、文字一覧はどの言語習得においても初期に学ぶことであるから、「学習の初歩」を意味することもある。 なお、英語の「alphabet」という単語は日常語においてもヨーロッパ系言語に限らない文字一覧を表す。たとえばハングルはKorean alphabetと呼ばれる。 日本においては「アルファベット」の語は、世界でもっとも広く通用している代表的なアルファベットであるラテン文字(ローマ字)の代名詞としても定着しており、一方で(歴史的経緯により)「ローマ字」の語を日本語のラテン文字化に限定する用法も一般的である。 形式言語とオートマトンの理論の用語では、その対象とする文字列や文などに現れる要素(終端記号)を「アルファベット」という。これは、一般的な用語のアルファベットとだいたい同様に文字のことを指すこともあるが、文字というよりは語にあたる「トークン」のことである場合もある。詳細は、アルファベット (計算機科学) の記事を参照。.

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イギリス

レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.

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イザベラ・バード

満州民族の衣装を着たバード イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年(天保2年)10月15日 - 1904年(明治37年)10月7日)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト。と共同で、インドのジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された。1881年(明治14年)に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップ(Isabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称された。.

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オランダ

ランダ(Nederland 、; Nederlân; Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーおよびルクセンブルクと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。 カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。他、カリブ海に海外特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。.

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オンドル

ンドルの原理を説明したイラスト。台所の竈の煙を居室の床下に導き、部屋を暖める 百済時代のオンドル遺跡 オンドル(、、温突)とは中国で発明されたを元にした朝鮮半島で普及している床下暖房である。クドゥル()ともいう。朝鮮式の漢語では「」もしくは「」とも。.

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オタネニンジン

タネニンジン(御種人蔘) は、ウコギ科の多年草。原産地は中国の遼東から朝鮮半島にかけての地域といわれ、 中国東北部やロシア沿海州にかけて自生する。 薬用または食用に用いられ、チョウセンニンジン(朝鮮人蔘)、コウライニンジン(高麗人蔘)、また単に人蔘とも呼ばれる。 一方、野菜のニンジンはセリ科であり、本種の近類種ではなく全く別の種である。.

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カラコルム

ラコルム( 転写:Qaraqorum)は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市、かつてのモンゴル帝国の首都である。 カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。ペルシア語資料では قراقوروم Qarā-qūrūm と表れ、漢語資料では哈剌和林、略して和林と表記される。また現代モンゴル語ではハラホリン(Хархорин)と表記される。 「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるという。1260年に書かれたペルシア語資料『世界征服者史』によれば、カラコルムの名前の由来は都市の近くにある「カラコルム山」という黒色の石材が取れる山の名前に由来していると伝えられている。.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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クーデター

ーデター()は、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う。 フランス語で「国家の一撃」もしくは「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ) 、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup(クー)」と表記されることが多い。 社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦をそれぞれ参照されたい。.

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コンブ

ンブ(昆布)は、不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 (学名: )に属する数種の海藻の(一般的)名称である。生物学が生まれる以前からの名称であるため、厳密な定義はできないが、葉の長細い食用のものがコンブと呼ばれる傾向がある。コンブ科に属する海藻でも、オオウキモ(ジャイアントケルプ)は通常、コンブとは呼ばれない。 生物学ではカタカナ書きの「コンブ」が使われるが、単なる「コンブ」という種は存在せず、マコンブやリシリコンブ、ミツイシコンブなどのように、コンブ科植物の種の標準和名に用いる。他方、食品など日常的には昆布やこんぶ(こぶ)の表記も使われる。ウェブスター辞典などにもそのままkombuとして記載されている。.

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シャルル・ダレ

ード・シャルル・ダレ(仏語:Claude Charles Dallet、1829年10月18日 - 1878年4月25日)は、1874年に『朝鮮教会史』(Histoire de L'Eglise de Corée.)を著したフランス人司祭、宣教師。.

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ジェネラル・シャーマン号事件

ェネラル・シャーマン号事件(ジェネラル・シャーマンごうじけん、)は、1866年(李氏朝鮮暦:高宗3年)にアメリカ合衆国の帆船ジェネラル・シャーマン号(1986年刊行の平凡社編『朝鮮を知る事典』では「武装商船」であるとする)が李氏朝鮮後期の朝鮮半島・羊角島に来航した際に起きた一連の事件。、アメリカ人乗組員が朝鮮の住民に対し殺害や略奪を行ったために朝鮮側が報復として焼き討ちし、撃退した事件としているが、。.

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ソンビ

18世紀、ソンビの書道の様子 ソンビ(선비)とは、学識が優れて礼節があって義理と原則を守って権力と富裕栄華を貪らない高潔な人柄を持った人に対する呼称。特に高麗、朝鮮時代の社会に儒教的理念を具現しようとした階層を示す。ソンビは熱心に勉強して官僚になることができる身分として士農工商で第一身分である士民にあたる。.

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ソール

ール、ソウル(Seoul, Sole, Soulなど).

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ソウル特別市

ウル特別市(ソウルとくべつし、、漢字: 서울特別市 、英語:Seoul)、通称ソウルは、大韓民国の首都。かつての朝鮮王朝の首都「漢城府」である。日本統治時代の朝鮮では漢ではなく京を使い「京城府」と呼ばれた。.

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タルチュム

タルチュム タルチュムは朝鮮半島の民俗芸能で、紙やヒョウタンで作った仮面をかぶって行われる踊り、演劇である。タルは〈仮面〉,チュムは〈踊り〉を意味し,踊りを主とする歌舞部分と演劇的なストーリー部分からなる。野外で行われ,内容は民衆的な日常や支配階級への批判などを風刺的に扱ったものが多い。.

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サルフの戦い

ルフの戦い(サルフのたたかい、薩爾滸之戰、)は、1619年にヌルハチが率いる後金(のちの清)が明・朝鮮の後金討伐軍を破った戦い。大小の火器を動員し全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃した明軍に対し、ヌルハチは夜襲によって銃砲の優位を封じたうえで混乱した敵軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。特に最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフ(sarhū、薩爾滸、)で行われたため、この戦役全体がサルフの戦いと呼ばれる。兵力・装備では圧倒的に優っていたにも関わらず、諸将の対立によって各軍の連携・統制を欠いたこともあって、明・朝鮮の連合軍は4万5千人もの死傷者を出す大敗北を喫した。 建国間もない後金の存亡をかけた決戦であり、この戦いに勝利したことが後金興起の第一歩となり、やがて明・清の王朝交代へと繋がることになる。.

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サツマイモ

掘り出したサツマイモ サツマイモのアミノ酸スコア http://www.nal.usda.gov/fnic/foodcomp/search/『タンパク質・アミノ酸の必要量 WHO/FAO/UNU合同専門協議会報告』日本アミノ酸学会監訳、医歯薬出版、2009年05月。ISBN 978-4263705681 邦訳元 ''http://whqlibdoc.who.int/trs/WHO_TRS_935_eng.pdf Protein and amino acid requirements in human nutrition'', Report of a Joint WHO/FAO/UNU Expert Consultation, 2007 サツマイモ(薩摩芋、学名: Ipomoea batatas)は、ヒルガオ科サツマイモ属の植物。あるいはその食用部分である塊根(養分を蓄えている肥大した根)。別名に、甘藷(かんしょ)、唐芋(からいも、とういも)、琉球薯(りゅうきゅういも)、とん、はぬす等がある。近縁の植物に、アサガオやヨウサイ(アサガオ菜)がある。 英語圏の一部では、サツマイモ「sweet potato」を「Yam」などの別の名前で呼んでいるニュージーランドではkumaraと呼ぶ。ヤム芋を育てていたアフリカ系奴隷が、アメリカで作られた水っぽい「ソフトスイートポテト品種」をヤム芋と似ていたことから「ヤム」と呼ぶようになった。アメリカなどでは本来のヤム芋は輸入食料品店ぐらいにしか置いてないことから、ヤムと表示されていれば「ラベルに注意書き」が無い限り「ソフト」スイートポテトのことである。.

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哲宗 (朝鮮王)

哲宗(チョルジョン、てっそう、철종、道光11年6月17日(1831年7月25日) - 同治2年12月8日(1864年1月16日))は、李氏朝鮮の第25代国王(在位:1849年 - 1863年)。諱は昪(ビョン、변)、初名は元範(ウォンボム、원범)。諡は忠敬 朝鮮日報 2007/09/16熙倫正極粹徳純聖欽命光道敦元彰化文顕武成献仁英孝大王。大韓帝国時代の1908年、哲宗章皇帝を追贈される。別名は江華童子(강화도령)であった。.

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儒学者

儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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冊封

冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.

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内臣

内臣(うちつおみ/ないしん)は、飛鳥時代から平安時代初めにかけて置かれた役職で律令政治下では令外官にあたった。歴史上4名が任命されているがいずれも藤原氏出身である。 天皇の最高顧問で天皇を擁護して政務の機要を掌握する大臣に匹敵する官職であったが、常設の官職ではなく、その職掌はその時々に応じて全く違うものであった。.

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全州李氏

全州李氏の紋章「李花紋」 全州李氏(ぜんしゅうりし、전주이씨、チョンジュイシ)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は全羅北道全州である。14世紀に李成桂が出て李氏朝鮮を建国した。.

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全ボン準

全琫準 全 琫準( 전봉준、ぜん ほうじゅん、1854年 - 1895年4月24日(旧暦3月30日))は、朝鮮国(李朝)後期の人物。東学の主要人物のひとりで、甲午農民戦争の契機をつくった。.

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全羅南道

全羅南道(チョルラナムド、ぜんらなんどう、韓国語表記:)は、韓国南西部(朝鮮半島南西部)に位置する行政区。1896年、朝鮮八道における全羅道の南半分を「全羅南道」と定めた。1948年より韓国の一部となり、現在に至る。かつて全羅南道所属であった光州市は1986年に「光州直轄市」(1995年より光州広域市)として分離した。道庁は十三道制施行当初から光州に置かれたが、2005年に木浦市に隣接する務安郡に移転している。通常は全南(チョンナム)と略される。.

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全羅北道

全羅北道(ぜんらほくどう、チョルラプクト、韓国語表記:)は、大韓民国南西部(朝鮮半島南西部)に位置する行政区。1896年、勅令第36号で朝鮮八道における全羅道の北半分を「全羅北道」と定めた。1945年以降は大韓民国の行政区となり、現在に至る。通常は全北(チョンブク)と略される。道庁所在地は1896年以前から全羅道の中心であった全州市。.

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全羅道

全羅道(チョルラド、ぜんらどう)は、李氏朝鮮の行政区分朝鮮八道の一つ。名前の由来は、現在全羅北道に属する全州と、全羅南道に属する羅州の頭文字。一時、全南道、全光道と呼ばれたこともある。 現在の韓国の行政区分、全羅北道・全羅南道・済州特別自治道・光州広域市に相当する。現在において全羅道地域という場合は、通常、上記から済州特別自治道を除いた全羅北道・全羅南道・光州広域市の1広域市2道を指す。 慶尚道出身が多い韓国の歴代大統領の中で、唯一金大中だけが全羅道出身である。金大中が結成した平和民主党の流れを汲む政党(現在は共に民主党)の強固な支持基盤である。2016年4月の総選挙では共に民主党の前身の新政治民主連合から分裂した政治家によって結成された国民の党に支持基盤を奪われる結果となったが、翌2017年5月の大統領選挙では、全羅北道・全羅南道・光州広域市いずれも共に民主党の文在寅が国民の党の安哲秀に大差をつけて圧勝した。.

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典圜局

典圜局(てんかんきょく、전환국)は李氏朝鮮後期の1883年(高宗20年)7月に設置されて、1904年(光武8年)に廃止された造幤機関。1883年の財政危機を補正し、乱れた通貨政策を整備する目的から設立された。 初代典圜局は、漢城(ソウル)昌徳宮の横に設置され、閔泳翊がその管理に当たった。最初に鋳造された貨幣は、當五銭貨幣である。1886年には世昌洋行を通し近代的な鋳造設備を購入する。典圜局はその後、1892年仁川に移転した。しかし、1900年になると、再びソウル(現在の龍山区)に移転した。 1883年以後、1904年に至る21年間に典圜局で鋳造した貨幤総額は18,960,658ウォン87銭であり、その中でも白銅貨は 16,743,522ウォン65銭で、鋳造総額の88%を占めた。白銅貨の濫発と偽造、日本への密輸などで国内の通貨量が急増し、貨幤価値が暴落し、物価が暴騰するなど国家財政は圧迫した。 典圜局の設立は朝鮮社会に近代的な貨幤制度を取り入れるのにある程度の先鞭をつけたが、結果としては悪貨の横行を防ぐことができなかった。1904年財政顧問に就任した目賀田種太郎により廃止され、その後日本と同等の通貨制度が導入された。 Category:李氏朝鮮 Category:朝鮮の経済.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

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光州広域市

光州広域市(クァンジュこういきし、韓国語表記:)は大韓民国の広域市。 朝鮮半島の南西部、全羅南道に八方を囲まれる形で位置しており、過去には全羅南道の道庁所在地だったことがある。人口は約147万人である。 光州広域市は経済・行政・文化の中心都市として、光州・全羅地域を管轄する官公署と多くの企業の本部と支社などが置かれている湖南地方の中心の役目をしている。 昔から光の町、光の都市と呼ばれる。 光州学生事件、光州事件に象徴される「民主と人権を象徴する都市」として知られる。 京畿道にも同音の地名が存在するが漢字表記では広州市であり、混同に注意。.

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光海君

光海君(クァンヘグン、こうかいくん、万暦3年4月26日(1575年6月4日) - 崇徳6年7月1日(1641年8月7日))は、李氏朝鮮の第15代国王(在位:1608年 - 1623年)。名は琿(ホン、혼)。なお第10代国王燕山君同様暴君として廃位された王であるため、廟号、尊号、諡号、陵名はない。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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勢道政治

勢道政治(せいどうせいじ、)とは李氏朝鮮の後期の政治形態。「世道政治」とも。王の信任を得た人物あるいは集団が政権を独占的に担う状態を指す。もともとは「有能な人物が王を輔佐し世の中を教化する」という士林派の思想を基礎にしたものであるが、正祖の子純祖以降は幼君が相次いだため外戚や寵臣が政権を壟断する状態に変質し、国政の私物化が進み李氏朝鮮の衰退を招いた。.

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勲旧派

勲旧派(くんきゅうは)は、李氏朝鮮の派閥の一つ。士林派との対比で使われる。 大地主の両班が多く、1455年の世祖の擁立に功の有った勲臣と、その子孫達で構成されていた。士林派の台頭に脅威を感じ士禍を引き起こすが、1567年の宣祖即位以降は士林派が積極的に登用されるようになり、勲旧派は政治の舞台から消えていく。 高麗末期の李成桂擁立の功臣とその子孫も勲旧派と呼ぶ場合がある。.

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国史編纂委員会

国史編纂委員会(こくしへんさんいいんかい、국사편찬위원회)は、朝鮮の歴史を研究する為に設置された大韓民国の国家機関。 1946年3月に、申奭鎬らが朝鮮史編修会の資料を引き継ぐ形で、「国史館」を景福宮緝敬堂に設置したことが始まり。その後、「国史館」は1949年7月に「国史編纂委員会」として職制を改編し、大韓民国教育部の傘下に設置された。.

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国号

国号(こくごう)とは、主に国の称号、あるいは名称のこと。2通りの意味において使用されており、1つは「帝国」、「王国」、「大公国」、「公国」、「首長国(土侯国)」、「共和国(民国)」などの統治体制(政体)を表す部分を含めた国の名称を指す場合と、もう1つは政体を除いた国の名称を「国号」ということがある。 政体を含めない用例としては「韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件」(明治43年勅令第318号)がある。同勅令は「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今朝鮮ト称ス」としており、政体(当時の韓国は帝政を布いていた帝国)を含めないで国号という語を用いている。なお、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)では互いの国名を「日本国・韓国」と表記しているが、それを遡る日韓議定書(1904年2月23日)では互いの国名を「大日本帝国・大韓帝国」としている。.

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国家

国家(こっか)とは、国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである。領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体である。 政治機能により異なる利害を調整し、社会の秩序と安定を維持していくことを目的にし社会の組織化をする。またその地域の住民は国家組織から国民あるいは公民と定義される。.

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国民国家

『民衆を導く自由の女神』(ウジェーヌ・ドラクロワ画) 国民国家(こくみんこっか、Nation-state、État-nation、Nationalstaat)とは、国家内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「国民」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、単一の民族がそのまま主権国家として成立する国家概念やそれを成り立たせるイデオロギーをも指している。 近代国家の典型の1つとされることも多い。英語では、"Nation-state" は「一民族により構成される国家」の意で用いられることが多く、この意味からは「単一民族国家」が原意に近い。stateとnationについては、しばしば "The state is a political and geopolitical entity; the nation is a cultural and/or ethnic entity."(「stateは政治的あるいは地政学的なもの、nationは文化的あるいはまた民族的なものである。」)と説明される。 ヨーロッパは一般に「国民国家」成立のモデル地域とされており、その先進国とされるのがイギリス、フランスであった坂井(2003)。.

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四方博

四方 博(しかた ひろし、1900年1月2日(東京経済大学図書館、2010年6月)『「現代物故者事典」総索引: 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、525頁。 - 1973年5月13日)は、日本の経済学者。専門は朝鮮社会経済史。.

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倭寇

倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇.

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倭館

倭館(わかん、)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。江戸時代には対馬府中藩が朝鮮との外交、通商を行った。.

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倉山満

倉山 満(くらやま みつる、1973年〈昭和48年〉12月18日 - )は、日本の歴史評論家、作家である。 日本のこころを大切にする党自主憲法起草委員会顧問。執筆活動等では「憲政史研究者」という肩書きを用いている。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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矢木毅

木 毅(やぎ たけし、1964年 - )は、日本の歴史学者、京都大学教授。専攻は高麗史、朝鮮王朝史。 1964年、富山県生まれ。京都大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科修士課程修了、博士課程学修退学。京都大学人文科学研究所助手、宮崎大学教育文化学部助教授、京都大学人文科学研究所准教授、京都大学人文科学研究所教授。.

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石井正敏

石井 正敏(いしい まさとし、1947年2月8日 -2015年7月6日 )は、日本の歴史学者。専門は日本古代史、対外関係史。中央大学文学部教授、日本古文書学会理事、國學院大學博士(歴史学)。論文の題は「日本渤海関係史の研究」。.

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王妃 (朝鮮)

王妃(ワンビ/おうひ)は、李氏朝鮮時代における王の正妃(正妻)の身位、またはその身位にある人をいう。王后。敬称は「殿下」であり、品階は定められていない。歴代の王妃については朝鮮王后の一覧を参照に。 居住する「中宮殿」から一般には、「中殿」と呼ばれ、その他には「国母」「内殿」「坤殿」「壼位」「壼極」「聖女」の異称がある。.

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王ウ (高麗王)

王禑(ワン ウ、おう ぐ、朝鮮語:왕 우、1365年7月25日 - 1389年12月31日)は、第32代高麗王(在位:1374年 - 1388年)。姓は王、名は禑。禑王、驪興王。初名は牟尼奴高麗史卷44 世家44 恭愍王「乙巳賜牟尼奴名禑、封爲江寧府院大君。百官賀、命政堂文學白文寶・田祿生・大司成鄭樞等傅之。」(乙巳、牟尼奴にと名のるを賜ひ、封じて江寧府院大君と爲す。百官賀す、政堂文學白文寶・田祿生・大司成鄭樞等に命じてこれに傅たらしむ。)。恭愍王と侍婢・般若の子。恭愍王の後を継いで王位に就いたが、李成桂の威化島回軍により廃位、殺害された。 『高麗史』(1451年成立)では、王に仕えた寵臣辛旽の子であるとされ、辛旽の姓を以て辛禑と呼ばれているが、この記述は恭譲王から王位を禅譲された李成桂を正当な王位継承者とみなす朝鮮王朝時代の官製史観に由来するものと見られ、疑わしい。.

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王公族

王公族(おうこうぞく、왕공족)は、大日本帝国により併合された旧大韓帝国皇室である李王家とその一族の日本における身分。本記事では制度としての王族・公族について記述し、家系については李王家で記述する。.

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王朝

王朝(おうちょう、Dynasty)とは歴史の分類方法の一つで、君主の系列あるいはその系列が支配した時代を分類するための歴史用語である。「朝」は朝儀 に由来する。歴史家は歴史研究の都合上、君主の系列を各々の時代や文化圏にあわせて王朝として便宜的に分割してきた。そのため、王朝の定義や分類方法に世界共通の規則はなく、王朝の範囲は歴史家によって異なることがある。すなわち、現君主国が自ら王朝名を名乗ることはない。.

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王昌 (高麗王)

王昌(おう しょう、1380年9月6日 - 1389年12月31日)は第33代高麗王(在位:1388年 - 1389年)。前王王禑の子。昌王、允王。 1388年に李成桂により王位に就けられ、翌1389年直ちに廃位、父とともに殺された。 『高麗史』(1451年成立)では父・王禑が寵臣辛旽の子であり、王昌も正統な王位継承者ではなく、王位を禅譲された李氏朝鮮の太祖李成桂が妥当な王位継承者とされているが、この記述は疑わしいこととされている。 なお、父とともに辛旽の血を引く偽の王族として王位継承権を否定されたために辛昌とも呼ばれている。 Category:高麗王 Category:1380年生 Category:1389年没.

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琉球

琉球(りゅうきゅう)、りゅうきゅう、リュウキュウ.

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琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。.

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睿宗 (朝鮮王)

睿宗(イェジョン、えいそう、景泰元年1月1日(1450年2月12日) - 成化5年11月28日(1469年12月31日))は、李氏朝鮮の第8代国王(在位:1468年9月7日 - 1469年12月31日)。諱は晄(ファン、황)。字は平甫(ピョンボ、へいほ、평보)、即位後に明照(ミョンジョ、めいしょう、명조)と改称。君号は海陽大君(ヘヤンデグン、かいようだいくん、해양대군)。第7代国王世祖の第2王子。母は貞熹王后尹氏。治世中に李氏朝鮮最初の垂簾聴政が行われた。.

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磁器

磁器(じき、Porcelain)とは、高温で焼成されて吸水性がなく、叩いた時に金属音を発する陶磁器を一般に指す。しかし西洋などでは陶器と区別されないことが多く、両者の間には必ずしも厳密な境界が存在するわけではない。素地が白くて透光性があり、機械的強度が高いという特徴がある。また、焼成温度の高い硬質磁器と、比較的低温で焼成される軟質磁器に分けられる。 Porcelainの語源は『東方見聞録』にある。マルコポーロが磁器を見た際に、白地で硬い殻をもつポルセーラ貝に似ているということでポルセーラと表記したことによる。.

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科挙

科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.

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章敬王后

敬王后 尹氏(しょうけいおうこう いんし、チャンギョンワンフ ユンシ、弘治4年7月6日(1491年8月11日) - 正徳10年3月2日(1515年3月16日)は、李氏朝鮮第11代国王中宗の2番目の王妃。諡号は淑慎明恵宣昭懿淑章敬王后。本貫は坡平尹氏。坡原府院君 靖憲公 尹汝弼と順天府夫人朴氏の娘。.

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端宗 (朝鮮王)

端宗(タンジョン、たんそう、正統6年7月23日(1441年8月9日) - 天順元年10月24日(1457年11月11日))は、李氏朝鮮の第6代国王(在位:1452年(景泰3年) - 1455年(景泰6年))。姓は李、名は弘暐(ホンウィ、홍위)、諡号は恭懿温文純定安荘景順敦孝大王。父は第5代国王文宗。母は顕徳王后権氏。妃は礪良府院君宋玹寿の娘、定順王后。.

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第三次日韓協約

三次日韓協約(だいさんじにっかんきょうやく)は、1907年(明治40年)7月24日に締結された協約。 ハーグ密使事件をうけて、大韓帝国議会は1907年7月18日に高宗を退位させた。第二次日韓協約によって外交上の日本の保護国となり、すでに直接の外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により高級官吏の任免権を韓国統監が一部権限を持つこと(第4条)、韓国政府の一部官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は日本の強い影響下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散と司法権・警察権の委任が定められた。.

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第一次王子の乱

一次王子の乱(だいいちじおうじのらん)は李氏朝鮮王朝初期の政争事件。.

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第一次日韓協約

一次日韓協約(だいいちじにっかんきょうやく)は、日露戦争中の1904年(明治37年)8月22日に日本と韓国(李氏朝鮮)が締結した協約。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。協約締結に際しての日本側代表は日本政府特命全権公使の林権助、韓国側の代表は外部大臣尹致昊であった。.

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第二次王子の乱

第二次王子の乱(だいにじおうじのらん)は1400年1月、李氏朝鮮の政治的実権を握っていた靖安君・李芳遠(太祖の五男、のちの太宗)が、同腹の兄懐安君・李芳幹(太祖の四男)の反乱を鎮圧し、自らは王世弟となって王位の継承を確立した事件。 事件そのものは、王位継承権をめぐる兄弟間の抗争であったため、政治的影響は少なかったが、この事件の結果、もはや芳遠に対抗できる政治勢力はなくなり、李芳遠の独裁による一連の王権強化策が実現されて、朝鮮王朝の基盤が固まった。 1398年の第一次王子の乱の当事者で、この事件の結果権力を掌握した李芳遠は、軍制の改革に着手し、王権の不安定要素である王族の私兵の廃止を推し進めた。当時、太祖の王子たちの中で、芳遠に対抗できるのは、すぐ上の兄・李芳幹しかいなかった。私兵の廃止を迫られた芳幹は身の危険を感じ、密かに私兵を強化していた。そんな時第一次王子の乱で功がありながら、その後の処遇に不平を抱き、芳遠に恨みを抱いていた朴苞が、芳遠の殺害計画を芳幹に密告したため、芳幹は開京に進軍し、激しい市街戦ののちに芳遠の軍に鎮圧された。朴苞は処刑され、芳幹は生涯流刑となった。このために、この事件を「朴苞の乱」ともいう。 この情況を見ていた国王定宗とその妃・定安王后は、このままではいずれ自分たちに害が及ぶことは必至であることを悟り、世弟芳遠に対し譲位を申し出た。こうして1400年11月に、芳遠は第3代国王(太宗)として即位した。     category:李氏朝鮮 Category:朝鮮におけるクーデター Category:朝鮮の事件 Category:1400年の朝鮮 Category:1400年の戦闘.

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第二次日韓協約

二次日韓協約(だいにじにっかんきょうやく)は、日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。日韓保護条約ともいい、乙巳年に締結したという意味で、乙巳条約、乙巳五条約、乙巳保護条約とも。締結当時の正式名称は日韓交渉条約であった。 大日本帝国側代表は特命全権公使林権助、大韓帝国側代表は外部大臣朴斉純。 1965年、本条約は日韓国交を正常化する日韓基本条約の第2条で「もはや無効」であることが確認された日韓基本条約 第2条 千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。。.

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箕子

箕子(きし、生没年不詳)は、中国殷王朝の政治家。文武丁の子で帝乙の弟。帝辛(紂王)の叔父にあたる。箕の国に封じられたので箕子と呼ばれる。名は胥余。朝鮮で箕子朝鮮を建国した。.

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箕子朝鮮

箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀? - 紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ箕子が建国した朝鮮の古代国家.

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簡体字

簡体字(かんたいじ、简体字、)または規範字(きはんじ、、)は、1950年代に中華人民共和国で制定された、従来の漢字を簡略化した字体体系である。簡体字という呼称は通称・俗称であり、正式には簡化字(かんかじ、、)と言う。 中国大陸のほか、シンガポールやマレーシアなどでも採用されている。.

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米朝修好通商条約

米朝修好通商条約(べいちょうしゅうこうつうしょうじょうやく、US-Korea Amity and Trade Treaty)は1882年(明治15年)5月22日、アメリカ合衆国と李氏朝鮮の間で締結された条約である。 アメリカ合衆国と大清帝国の条約案文を朝鮮側が事後承諾する形で締結。大清帝国の馬建忠が立会人となり、アメリカ海軍提督シューフェルト、朝鮮正使・申木憲、副使・金弘集らの間で英文、漢文共に三通による十四ヶ条の条約に調印がなされた。 李鴻章は、第一条に李氏朝鮮は清の属国であることを明記しようとしたが、アメリカに拒否されたため、李氏朝鮮国王自らが朝鮮は清の属国であるとする趣旨の文書をアメリカ大統領に送付することで妥協した。.

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粉引

粉引(こひき)とは、李氏朝鮮から日本に伝わった陶器のこと。粉吹(こふき)ともいう。由来は「粉を引いた(吹いた)ように白い」といわれたことから。当時、磁器に対しての憧憬から生まれた。褐色の素地の上に白化粧土を施したものである。日本では主に酒器や茶碗で高い評価、名品が生まれている。.

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粉青沙器

粉青沙器(ふんせいさき)は、朝鮮半島で、李氏朝鮮時代の前半、15世紀を中心に作られた磁器の一種である。鉄分の多い陶土に肌理細かい白土釉で化粧掛けを施し、透明釉を掛けて焼造した。本来は、粉粧灰青沙器の略語。高麗時代末期の14世紀半ばに発祥し、15世紀に最盛期を迎え、16世紀前半には消滅して、その後の朝鮮王朝の磁器は李朝白磁が主体となった。.

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粛宗 (朝鮮王)

粛宗(スクチョン、しゅくそう、順治18年8月15日(1661年9月8日) - 康熙59年6月8日(1720年7月13日))は、李氏朝鮮の第19代国王。諱は焞(スン、순)。子女に景宗、英祖など。.

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糟谷憲一

糟谷 憲一(かすや けんいち、1949年 - )は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授。専門は朝鮮史で朝鮮史研究会会長、歴史科学協議会代表理事なども務めた。.

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純宗 (朝鮮王)

純宗(じゅんそう、、片仮名転写:スンジョン、1874年3月25日(旧暦2月8日) - 1926年4月24日)は、大韓帝国第2代皇帝(在位:1907年7月20日 - 1910年8月29日、李氏朝鮮から通算して第27代君主)。最後の大韓帝国皇帝。韓国併合後は大日本帝国の王公族として初代李王。姓は李(イ、)、名は(チョク、)、字は君邦(クンバン、)、号は正軒(チョンホン、)。諡号は文温武寧敦仁誠敬孝皇帝。在位時の年号をとって隆煕皇帝(りゅうきこうてい、ユンヒファンジェ、)と呼ぶこともある。.

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純元王后

純元王后 金氏 (じゅんげんおうこう きんし、スンウォンワンフ キムシ、韓国語表記:순원왕후 김씨 1789年6月8日(陰暦5月15日) - 1857年9月21日(陰暦8月4日)) は、李氏朝鮮の第23代国王純祖の正室。第24代国王憲宗の祖母、第25代国王哲宗の養母。本貫は安東金氏。諡号は明敬文仁光聖隆禧正烈宣徽英徳慈献顕倫洪化神運粹穆睿成弘定純元王后。.

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純祖

純祖(スンジョ、じゅんそ、순조、乾隆55年6月18日(1790年7月29日) - 道光14年11月13日(1834年12月13日))は、李氏朝鮮時代の第23代国王(在位:1800年 - 1834年)。諱は玜(ゴン、공)。字は公宝(ゴンボ、こうほう、공보)。号は純斎(スンジェ、じゅんさい、순재)。諡は「宣恪 朝鮮日報 2007/09/16淵徳顕道景仁純禧体聖凝命欽光錫慶継天配極隆元敦休懿行昭倫熙化浚烈大中至正洪勲哲謨乾始泰亨昌運弘基高明博厚剛健粹精啓統垂暦建功裕範文安武靖英敬成孝大王」。元の廟号は「純宗(スンジョン、じゅんそう、순종)」だったが、1857年に「純祖」とあらためられた。 正祖の次男。実の母は綏嬪朴氏で、孝懿王后の養子。兄・文孝世子の死後、1800年に世子になり、同年に即位した。英祖の妃である貞純王后の摂政で僻派が政治を主導したが、1805年には純元王后の本貫でもある安東金氏による勢道政治が始まっており、次代国王・憲宗、次々代国王・哲宗まで続く事となる。純祖は安東金氏を牽制するために豊壌趙氏を重用して、1827年、孝明世子(憲宗の父)が摂政になったが、1830年に孝明世子の死のために失敗した。1834年11月に死去、享年45(満44歳没)。 陵はソウル特別市瑞草区内谷洞にある仁陵。 純祖の命令により編纂された『万機要覧』には、松島(現在の竹島)が于山島だとする『東国文献備考』からの転記があることから、大韓民国は竹島(独島)領有の根拠の一つとしている。.

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繁体字

繁体字(はんたいじ、、)または正体字(せいたいじ、、)は、中国語において、系統的な簡略化を経ていない筆画が多い漢字の字体を指す。特に中華人民共和国の一連の「文字改革」政策による簡体字(簡化字)との対比によりこう呼ぶ。現在では主に台湾のほか、中華人民共和国の特別行政区である香港・マカオで使用され、中華圏外の華人コミュニティーでも見られる。日本でいう「旧字体」に近いが同じではない。字体や用字法は地域ごとに異なる点が見られ、1980年代以降、それ以前に活字でよく見られた字体よりも筆写体に近づいたものが規範とされる。.

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義江彰夫

義江 彰夫(よしえ あきお、1943年11月7日 - )は、日本史学者。東京大学名誉教授。専門は中世史。文学博士(東京大学、1980年)(学位論文「鎌倉幕府地頭職成立史の研究」)。東京生まれ。.

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羅先特別市

羅先特別市(ラソンとくべつし)は朝鮮民主主義人民共和国北東部に位置する特別市。韓国では「ナソン()」と発音する。 羅先はかつて羅津・先鋒(旧称・雄基)と並称されていた2つの地域からなる。海外資本に開かれた特区「羅先経済貿易地帯」を擁する。.

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統監府

韓国統監府(かんこくとうかんふ)は、第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が、漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。正式名称は統監府。明治38年(1905年)12月21日、韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件(明治38年勅令第240号)に基づいて置かれた。明治43年(1910年)10月1日、韓国併合により、大韓帝国政府の組織と統合の上、朝鮮総督府に改組された。.

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絹 蚕の繭 絹(きぬ、sericum、Seide、silk、soie)は、蚕の繭からとった動物繊維である。独特の光沢を持ち、古より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800 - 1,200メートルとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。絹織物などに用いる。 蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。生糸は化学染料、練糸はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつ。また、養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。.

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経国大典

経国大典(旧字体:經國大典、けいこくたいてん、경국대전、キョングクテジョン)とは、李氏朝鮮時代の政治の基準になった法典。『周礼(しゅうらい)』の六官制に倣い、吏典・戸典・礼典・兵典・刑典・工典の六典からなる。 朝鮮の初期は明の法典『大明律』(1397年)を依用、太祖の代の『朝鮮経国典』を使用していたが、世祖が、崔恒・盧思愼らに命じて、1460年に戸典、1461年に刑典、1469年の成宗の代に残りの4典を撰進することをもって完成した。 1470年、1471年、1474年、1485年に改訂・校正。なお、この1485年の礼典婚嫁条には、「宗室」(王族)は、同姓たる「李」姓と婚姻できないとの規定が見られる。.

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絵画

絵画(かいが)は、物体の形象を平面に描き出したもの広辞苑。 日本語では類語の絵が幅広く用いられ、絵画という語は、特に芸術作品としての絵を指す場合がある。ただし、絵と絵画を区別して用いるとは限らない。また画を後ろにつけて描写の技法や対象を示す用語もある(水墨画、静物画など)。 フランス語の peinture(パンチュール)、英語の painting(ペインティング)、日本語の雅言的表現で絵と呼ぶこともある。 文字などを「書く」ことより早く、絵画を「描く」行動は幼少期から見られる行動である。発達心理学などの分野では、14歳から18歳程度で完成期と呼ばれる時期を迎え、多くの人はその頃から、ほとんど描かなくなる。子どもの絵に関する社会科学的研究は豊富だが、大人の絵に関する同様の研究は少ない。その一方で、多くの人が描かなくなる年齢を過ぎても活動的に絵を描く人々が居る。歴史的に代表的なのは画家であると言えるが、現代ではより多くの業種に見出される傾向である。なお、人間の発達には個人差があり、柔軟な姿勢が必要である。.

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甲午農民戦争

午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年(甲午)に朝鮮で起きた農民の内乱である。関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱とも呼ばれる。なお、大韓民国では東学農民運動や東学農民革命と呼ばれている。 この戦争の処理を巡って、大日本帝国と清国の対立が激化し、日清戦争に発展する。.

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甲子士禍

子士禍(こうししか・カプチャサファ・갑자사화)とは、李氏朝鮮第10代国王、燕山君の独裁政治の中で起こった粛清事件である。他の士禍とは性格をやや異にし、士林派だけでなく、国王(君主)に反対する勲旧派の一部の勢力も弾圧の対象となった。 1498年(燕山君4年)の「戊午士禍」によって煩わしい士林派を一掃した燕山君は、自らの周囲に追従者ばかりを侍らせて、権力者の欲望のままに、背徳的で反社会的な行為を繰り返した。奢侈な生活により破綻した国家財政に充当するために税金を課したり、官吏の功臣田の削減などの政策により、民衆だけでなく宮廷内の良識派の官僚たちにも王政の変革を望む機運が生じていた。 燕山君の行動がさらに狂的な様相を帯びるようになるのは1503年(燕山君9年)頃からで、翌1504年(燕山君10年)に入ると、外戚を中心とした宮中派と議政府によった府中派との対立を利用して権力の掌握を狙った側近のと宦官(内侍)のが、燕山君に生母(廃妃)尹氏の賜死の経緯を告げ口し、亡き母の遺品を見せた。燕山君はこれに逆上し、賜死にかかわった関係者のすべての調査と処罰を命じた。こうして、7ヶ月以上にわたる過酷な疑惑の追及が行なわれ、勲旧派、士林派を問わず、賜死事件に関連した多くの要人(貴人 嚴氏、貴人 鄭氏)が死刑、流刑に処された。勲旧派の巨頭・韓明澮もこの時「剖棺斬屍」(:ko:부관참시)に処された。生母尹氏の賜死を実行した張本人であり燕山君の祖母でもある仁粹大王大妃もこの時点で病死している。 この国王自身による「恐怖政治」は、開国以来の課題であった王権と臣権の関係に重大な影響をもたらし、朝鮮王朝史上最初の臣下による政変を引き起こした。燕山君は1506年(燕山君12年)9月2日に朴元宗・・らによる宮廷クーデター(中宗反正、ko)により王位を剥奪、そして燕山君に封じられ、およそ3ヵ月後に流刑先の江華島で死亡した。.

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甲申政変

申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。.

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申潤福

申 潤福(しん じゅんふく、シン・ユンボク、신윤복、1758年 - 没年不明)は、李氏朝鮮後期の風俗画家。金弘道と双璧を成し、張承業を含めて「三園」と称されている。 申潤福は慶尚南道の高霊(コリョン)を本貫とし、字は笠父、号は蕙園(ヘウォン)と名乗った。父の申漢枰をはじめ、代々が画員という一族に生まれる。李氏朝鮮の図画署画員の身分で、僉節制使という官職に就いていた。しかし俗画をたくさん描き、春意を以て絵を描いたり、『四益図(両班と妓生が後背側臥位)』『四時長春(「大開絵」を滝でカムフラージュ)』などの春画を描いたことを咎められ、ついに図画署を追い出されたともいわれる。 申潤福の画風は都市化の進む当時の上層階級の風俗を背景に、両班と妓生を中心にした男女間の愛情を扱った繊細で粋な風俗画を得意とした。また彼の風俗画は当時の暮し振りや服装などを生き生きと伝えている。代表作には「蕙園傳神帖(全30図)」「美人図」「端午図」 「仙遊図」 「蓮池の女」「月下情人」などがあり、外にも多くの風俗画が伝わっている。南宗画風の山水画、翎毛図などにもすぐれた。 申潤福と金弘道を主人公にしてSBSで2008年9月24日から放送が始まったテレビドラマ『風の絵師』や、同年公開の映画『美人図』では、申潤福は男装の女性だったという設定になっている。.

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燕山君

燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、成化12年10月7日(1476年10月24日) - 正徳元年11月6日(1506年11月20日)、在位:1494年12月29日 - 1506年9月2日)は李氏朝鮮の第10代国王。名は㦕(りっしんべんに隆)(ユン、융)(以下の記述には代字として「隆」の字を使用する)。第11代国王中宗の異母兄。第7代国王世祖の曾孫で、朝鮮王朝史上前例のない暴君とされる。.

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片仮名

片仮名(かたかな)とは、日本語の表記に用いられる音節文字のこと。仮名の一種で、借字を起源として成立した。.

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独立門

1897年当時の独立門。左手に柱を残して撤去された迎恩門。中央に慕華館を改名した独立館 独立門(どくりつもん)は、大韓民国ソウル特別市西大門区峴底洞(ヒョンジョドン)101番地の西大門独立公園(서대문 독립공원))内にある門。1896年11月21日定礎、1897年11月20日完成。徐載弼の案をもとにロシア人建築家のアファナシー・イバノビッチ・セレディン=サバチン(Афанасий Иванович Середин-Сабатин)が設計施工した。扁額は李完用の作品である。.

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白丁

白丁(ペッチョン/ペクチョン、はくちょう、はくてい)とは、中国・日本の律令制や、朝鮮における身分のひとつ。朝鮮では李朝時代に被差別民を指すようになった。.

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白磁

景徳鎮の白磁 白磁(はくじ)とは、白素地に無色の釉薬をかけた磁器の総称である。 ケイ酸とアルミニウムを主成分とする白色の粘土の素地に、鉄分のない植物灰と高陵石から精製された透明釉薬を掛け、高温の還元炎で焼き上げて作る磁器の一種。 また青白磁(せいはくじ)とは、白磁の一種であるが、とくに釉薬が文様の溝にたまって青みを帯び美しい水色に見えるものをいう。青白磁は宋代の景徳鎮産の梅瓶や香炉、鉢、水差の優品がその典型例で、宮廷や日本では大名クラス以上の人々に珍重された。 なお白磁や青白磁は日本において、色の表現としても使用されている。.

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銅(どう)は原子番号29の元素。元素記号は Cu。 周期表では金、銀と同じく11族に属する遷移金属である。英語でcopper、ラテン語でcuprumと言う。.

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銀(ぎん、silver、argentum)は原子番号47の元素。元素記号は Ag。貴金属の一種。.

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韓医学

韓医学(かんいがく、한의학)とは、朝鮮半島の三国時代頃から発達した中国医学系の医術・薬学を意味し、主に韓国で使われる呼び方である。以前は朝鮮語での発音もハングルでの綴りも同じ漢医学(한의학)、漢方医学、韓方医学(かんぽういがく)と呼ばれた。現在では、北朝鮮では高麗医学(고려의학)、中国では朝医学(조의학) 이민호 금강일보 2011.8.3と称されるが、これらは新しい呼称で、李氏朝鮮では医学・医師は東医と呼ばれていた。朝鮮半島の医学は李氏朝鮮時代に特に発展し、医学書も多く書かれた 日本東洋醫學雜誌54 社団法人日本東洋医学会。 また日本では、百済の法蔵(7世紀末 - 8世紀初頭)など、朝鮮半島から渡来した医師が古くから活躍し、『医方類聚』(1445年)、『東医宝鑑』(1661年)などの医学書が日本に渡来するなど、中国医学だけでなく、朝鮮の医学も日本に影響を与えた。鎖国していた江戸時代にも、朝鮮通信使に同道した医師と日本の医師たちが活発に交流しており、その問答の記録が残されている 『温知会会報』34号。 韓医学はその多くを中国医学に拠っているが、鍼灸学は中国・日本とも相当異なる制度・伝統を持って発展し 全日本鍼灸学会雑誌 第52巻5号、動物性生薬を多用する点にも特徴がある。「一鍼二灸三薬」と言われるほど鍼灸が重んじられており、現在の韓国は世界唯一の鍼灸専門医制度を持っている。また、李朝末に李済馬が提唱した体質を4つの型に分ける「四象医学」も日本で知られている。現在の韓国の医療は、現代医学と東洋医学の二本立て体制で、韓医師(Oriental Korean Medical Doctor: OMD)は、現代医学の医師同様大学で6年間の教育を受け、漢方専門医師資格と共に鍼灸の資格を持ち、鍼灸術と生薬を併用して治療を行う。.

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韓国併合

韓国併合(かんこくへいごう、Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される。この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。.

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韓国併合ニ関スル条約

韓国併合ニ関スル条約(かんこくへいごうにかんするじょうやく)は、1910年(日:明治43年 / 韓:隆熙4年)8月22日に漢城府(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用総理が調印し、29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」ことなどを規定した条約のこと。通称、「韓国併合条約」、「日韓併合条約」。大日本帝国はこの条約に基づき大韓帝国を併合した(詳細は韓国併合を参照)。 調印された条約文書、ならびに明治天皇と純宗がそれぞれの国に発した勅諭はソウル大学の奎章閣に保管・展示されている。.

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韓日合邦を要求する声明書

韓日合邦を要求する声明書(かんにちがっぽうをようきゅうするせいめいしょ)は、1909年12月4日、大韓帝国で親日団体一進会が皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った大韓帝国と日本の対等合併を要望する声明書である。韓日合邦建議書(かんにちがっぽうけんぎしょ)ともいう。.

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鎖国

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた『』 P.183 小林庄次郎 1915年。 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。及びオランダネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。(オランダ東インド会社本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。 なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。。.

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職田法

職田法(しょくでんほう)は朝鮮前期に施行された土地制度。1466年に施行。 以前に施行されていた科田法では土地を現職官僚だけでなく、退職官僚と死んだ官吏の家族にも支給したが、職田法では土地の不足で現職官吏にだけ土地を支給したし、支給される土地も減った。官吏の経済力を弱化させて国家の財政を強化するために施行された。 しかし職田法の実施のために退職後の経済力の弱くなった両班階層が耕作者を収奪したと、1407年国家が耕作者から直に税金を受けて官僚に支給する官収官給制が実施された。16世紀以後の職田の不足で1556年に職田の支給が中断されたため、職田法は廃止されて禄俸制(月給制)が導入された。 Category:李氏朝鮮の法 Category:土地制度史.

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遼陽市

遼陽市(りょうようし)は中華人民共和国遼寧省に位置する地級市。古代より遼東における中華帝国の中心であった軍事上の重要都市であり、また新興の工業都市である。.

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遼東半島

遼東半島の位置 遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンはんとう、中国語簡体字:辽东半岛 Liáodōng Bàndăo)は、中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、大連などの都市がある。遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。.

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荘献世子

荘献世子(そうけんせいし、チャンホンセジャ、雍正13年1月21日(1735年2月13日)-乾隆27年閏5月21日(1762年7月12日))は李氏朝鮮の第21代王英祖の次男。諱は愃(ソン、선)。思悼世子(しとうせいし、サドセジャ、사도세자)とも呼ばれる。第22代王正祖の父。第23代王純祖の祖父、第24代王憲宗の高祖父、第25代哲宗の曾祖父である。.

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荒野泰典

荒野 泰典(あらの やすのり、1946年 - )は、日本の歴史学者、立教大学名誉教授。専門は日本近世史。広島県呉市出身。.

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華僑

華僑(かきょう)とは、外国に移住している中国人のこと.

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顕宗 (朝鮮王)

顕宗(ヒョンジョン、けんそう、崇徳6年2月4日(1641年3月15日) - 康熙13年8月18日(1674年9月17日))は、李氏朝鮮の第18代国王(在位:1659年 - 1674年)。諱は棩(木偏に「淵」の旁を合わせた文字)(ヨン、연)。字は景直(キョンジク、けいじき、)。諡号は荘恪 朝鮮日報 2007/09/16昭休衍慶敦徳綏成純文粛武敬仁彰孝大王。第17代国王孝宗の第1王子。母は仁宣王后張氏。妃は金佑明の娘明聖王后。子女に粛宗、明善公主、明恵公主、明安公主。 1次礼訟論争(1659年)、2次礼訟論争(1674年)の時の王。1662年、大同法を湖南の山郡にも実施。.

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衛氏朝鮮

衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。.

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袁世凱

袁 世凱(えん せいがい、 ユエン・シーカイ 1859年9月16日(咸豊9年8月20日) - 1916年6月6日)は、中国清末民初期の軍人・政治家。北洋軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任。一時期中華帝国皇帝として即位し、その際に使用された元号より洪憲皇帝と呼ばれることもある。字は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。.

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風水

水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、気の流れを物の位置で制御する思想。「堪輿(かんよ)」ともいう。.

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西人

西人(せいじん、서인、ソイン)は、李氏朝鮮の官僚の派閥の一つ。 大地主両班が中心の勲旧派に対抗した、中小の地主が基盤になっている新興官僚の一派・士林派がそのルーツである。 士林派が、1567年、宣祖の即位により士林派政権を樹立する事に成功すると、1575年、今度は官職の任官権を巡り士林派の沈義謙と金孝元による党争が始まった。 その中の沈義謙派の事をその領袖が漢陽(ソウル)の西側に住んでいたので西人と呼んだ。この党争は、朱子学の解釈の違いにまで及び、西人は、李珥(栗谷)の学説を指示する主気派(朱子学の中で、宇宙の成り立ちの根元の気と理の内、気を本質的なものとして考える学派)が多かった。 これに相反する金孝元派の事を東人と呼んだ。 李珥が、西人と東人の間を仲裁していたが、1584年に亡くなると本格的な政治党争に入る。西人の沈義謙が失脚し、西人は一時勢力を失うが、西人から東人へ寝返った鄭汝立の謀叛事件により西人が政権を担う。しかし、1591年世子冊封に対する問題で、西人の領袖・鄭澈が失脚すると西人の多くは左遷され、東人に政権が移った。 この時期は、文禄の役の直前であり、西人の黄允吉が正使として、東人の金誠一が副使として、日本の動向を探りに行ったが、黄允吉が日本による侵略の可能性を訴えていたのに対し、金誠一がこれを否定したため、東人の領袖で政権を担当していた柳成龍が黄允吉の意見を握りつぶし、防衛対策を一切することを禁止させた。 1623年までは、東人から分裂した北人の押す光海君が政権を担っていたが、同年西人による宮廷クーデターが勃発し、綾陽君(仁祖)を即位させ、政権の主導権を握ることになる(仁祖反正を参照)。 顕宗の治世の際に服喪期間が問題となり、1659年から15年間の東人から分裂したもう一方の南人を退け政権を担当しつづけた。しかしながら、勢力が巨大化したため、南人と外戚の金錫冑はこれに抵抗し、1674年再び、孝宗妃の仁宣王后の服喪期間に対する論争がおき、西人はこの論争に負け(甲寅礼訟)、政界から多くの西人が追放され、西人勢力は朝廷から一掃される。 しかし、南人の伸張を恐れた粛宗が1680年、南人を大量に追放し西人に軍権を渡してしまう(庚申換局)。西人は政局に復帰したが、粛宗の外戚に対し批判的な少論と、妥協的な老論に分裂する。 1689年になると粛宗と西人が、南人出身の張氏とその王子を、王妃及び王世子にするかで対立し、再び西人勢力は一掃される(己巳換局)。 1694年、南人勢力が西人の勢力を追放しようと少論・老論がクーデターを企てているとしてこれらの勢力を追放しようとしたが失敗に終わり、逆に南人勢力が追放され、今度は少論による政権が樹立する。 それ以後は少論・老論による対立が激化し、西人は1701年前後に分裂、粛宗末期の王位継承後継問題(賜死した禧嬪張氏の生んだ世子か低い身分出身の淑嬪崔氏の生んだ延礽君か)でその対立は決定的になる。.

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西欧

西欧(せいおう).

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親日派

親日派(しんにちは)とは、一般に、「親日」の外国人を指す。この意味における「親日派」については「親日」「知日派」を参照のこと。 ここでは韓国と北朝鮮の2国における差別対象、処罰対象である親日派(チニルパ、친일파, Chinilpa)について述べる。韓国と北朝鮮の2国においては、「親日派」は彼らの主張するところの歴史的経緯から売国奴や日本時代に順応して出世していた者などへの否定的な意味合いで使用される。両国では実態よりも、レッテル張りとして政敵などへの攻撃にも頻繁に使われる。.

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首領

記載なし。

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許浚

許 浚(きょ しゅん、ホ・ジュン、허준、1539年 - 1615年)は、李氏朝鮮時代の医者。『東医宝鑑』の著者として知られる。本貫は陽川、字は清源、号は亀巌。.

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訓民正音

訓民正音(くんみんせいおん、훈민정음)とは、李氏朝鮮の世宗が制定した文字体系ハングルの古称、あるいはそれについて解説した書物のことをいう。ここでは主として書物のことについて説明する。文字自体についてはハングルの項を参照。.

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驪興閔氏

驪興閔氏(れいこうびんし、여흥민씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は京畿道驪州市である。2000年調査では、142572人。 始祖は、孔子の弟子である閔子騫の末裔であり、元々は中国山東地方の人閔称道である。高麗に使者として渡来し、驪興付近に定住した。 李氏朝鮮の3代王太宗の妃(彰徳昭烈元敬王后)を出し、4代世宗以降はこの血統を受け継いでいるが、驪興閔氏自体は17世紀末に19代粛宗の妃仁顕王后を出しただけで、王朝では決して有力な家門ではなかった。 19世紀中ごろ、驪興閔氏出身の女性の一人が、本流から外れた王族の李昰応の夫人となった。彼女が生んだ次男の命福が26代高宗となり、李昰応が興宣大院君となった。 外戚として勢威を振るっていた安東金氏の影響力を排除するため、高宗の妃も驪興閔氏の閔致禄の娘が選ばれた。閔妃(明成皇后)である。閔妃は一族を積極的に登用し、大院君が失脚すると驪興閔氏が政権の重職を占めた(閔氏政権)。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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高宗 (朝鮮王)

宗(ゴジョン、こうそう、、1852年7月25日 - 1919年1月21日)は、李氏朝鮮第26代国王(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)、後に大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)。韓国併合後は大日本帝国の王族として徳寿宮李太王と称された。 姓は李(イ、)、諱は㷩(熙の異体字(れっかではなく火)、ヒ、)、初諱は載晃(ジェファン、)、幼名は命福(ミョンボク、)、小字は明夫(ミョンプ、)、字は聖臨(ソンニム、)、号は珠淵(チュヨン、)。諡は統天隆運肇極敦倫正聖光義明功大徳尭峻舜徽禹謨湯敬応命立紀至化神烈巍勲洪業啓基宣暦乾行坤定英毅弘休寿康文憲武章仁翼貞孝太皇帝。即位時の年号をとって光武皇帝(クァンムファンジェ、こうぶこうてい、광무황제)と呼ぶこともある。即位前は翼成君(イクソングン、よくせいくん、익성군)に封じられていた。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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高麗青磁

麗青磁(こうらいせいじ)は、朝鮮半島の高麗時代(918年 - 1391年)に製作された青磁釉を施した磁器である。.

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高麗茶碗

麗茶碗(こうらいちゃわん)は、16世紀半ば頃から、日本の茶道で用いられた茶碗の分類の一つであり、朝鮮半島で焼かれた日常雑器を日本の茶人が賞玩し茶器に見立てたものである。高麗茶碗の「高麗」とは「朝鮮渡来」の意であり、「高麗茶碗」と称されるもののほとんどは高麗時代ではなく、朝鮮王朝時代の製品である。.

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鬱陵島

鬱陵島の位置 鬱陵島(ウルルンとう、うつりょうとう、울릉도)は、大韓民国慶尚北道鬱陵郡に属する日本海に浮かぶ直径10km程度の火山島である。 朝鮮半島から約130km沖合いに位置する。この島の最高峰は聖人峯(ソンインボン、성인봉)で標高984m。平地はほとんどなく、道が悪いので車はほとんどが四輪駆動車である。住民は約1万人で、4割が漁業、2割が農業に従事している。江戸期の日本名は「竹島」または「磯竹島」、明治期1905年までは「松島」。近代になって西洋においては「Dagelet」などと呼ばれていた。最大の付属島は島の北東に位置する竹嶼で、他に観光地となっている観音島などがある。豪雪地帯でもある。.

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議政府

議政府(ぎせいふ、ウィジョンブ)は、李氏朝鮮における最高行政機関。正一品衙門。 この機関が創設されたのは、1400年(定宗2年)に都評議使司、門下府を統合して創設される。翌年1401年(太宗元年)門下府の機能を独立させ、司諫院とした。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豆満江

豆満江(咸鏡北道会寧市松鶴里・吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市白金郷付近) 豆満江(とうまんこう、朝鮮語:두만강)は、中朝国境の白頭山(中国名:長白山)に源を発し、中華人民共和国(中国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシアの国境地帯を東へ流れ日本海に注ぐ、全長約500kmの国際河川である。 豆満江(두만강)は朝鮮語での呼称で、韓国と北朝鮮に於いての違いはない。語源は「万」を意味する満州語「トゥメン」であり、満州語ではトゥメン・ウラ( 転写:tumen ula)と称する。中国語では図們江と表記する(Túmenjiāng, トゥーメンチャン、簡体字:)。.

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貞純王后

貞純王后 金氏(ていじゅんおうこう きんし、チョンスンワンフ キムシ、乾隆10年11月10日(1745年12月2日) - 嘉慶10年1月12日(1805年2月11日))は、李氏朝鮮の第21代国王英祖の2番目の王妃(継室)。慶州金氏。諡号は睿順聖哲荘僖恵徽翼烈明宣綏敬光献隆仁正顕昭粛靖憲貞純王后。.

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貞熹王后

貞熹王后尹氏(ていきおうこう・いんし/チョンヒワンフ・ユンシ、永楽16年11月11日(1418年12月8日) - 成化19年3月30日(1483年5月6日))は、李氏朝鮮第7代国王世祖の正室。本貫は坡平。諡号は慈聖欽仁景徳宣烈明順元淑徽慎恵懿神憲貞熹王后。朝鮮最初の「垂簾聴政」を行った。.

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貨幣

貨幣(かへい、money)とは、.

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貨幣経済

貨幣経済(かへいけいざい, Monetized Economy)とは、貨幣によって商品の交換を媒介している経済の一形態。.

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資本蓄積

資本蓄積(しほんちくせき、)とは、.

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鴨緑江

緑江 2007年10月20日撮影 上流、長白朝鮮族自治県から見た南岸(恵山) 建設中の水豊ダム(1942年) 鴨緑江(おうりょくこう、おうりょっこう、北京語:Yālù Jiāng、満州語:、 転写:yalu giyang、朝鮮語:압록강)は、中華人民共和国(中国)東北部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国境となっている川である。白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注ぐ。水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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趙光祖

趙 光祖(ちょう こうそ、チョ・グァンジョ、조광조、1482年 - 1519年)は、16世紀前半の朝鮮時代中期の儒学者、政治家。高麗末の鄭夢周以来の儒学の伝統を受け継ぎ、朝鮮性理学の学問としての端緒を確立した儒家で、自ら提唱した「道学政治」を実践した改革派の政治家でもあった。 本貫は漢陽趙氏で、字は孝直、号は静庵で、著書としては『静庵集』が遺されている。.

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黄海南道

海南道(ファンヘナムどう、朝鮮語チョソングル表記:황해남도〔ファンヘナムド〕)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南西部(朝鮮半島中西部)に位置する行政区。1949年に黄海道が南北に分割されて形成され、現在に至る。.

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黄海北道

海北道(ファンヘブクどう、朝鮮語表記:황해북도)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南西部に位置する行政区。歴史上は黄海南道とともに黄海道を形成していたが、1949年に分割され現在に至る。.

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黄海道

海道(ファンヘド、こうかいどう)は、李氏朝鮮の行政区分朝鮮八道の一つ。主要都市である黄州と海州から頭文字を取って命名された。黄海に面していた故の名称ではない。高麗時代は「西海道」と呼ばれていた。 現在の北朝鮮の行政区分、黄海北道・黄海南道に相当する。なお、朝鮮八道の他の道と違い、北朝鮮政府成立後に南北に分割されたため、韓国では分割を認めておらず、以北五道にも「黄海道」として1つに数えられている。なお、かつて黄海道に属していた一部の離島(翎島、延坪島など)は現在韓国政府が実効支配しており、仁川広域市に属している。.

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辛未洋擾

辛未洋擾(しんみようじょう、신미양요、シンミヤンヨ)とは、ジェネラル・シャーマン号事件を発端として1871年(明治4年)に起きた、朝鮮国軍によるアメリカ艦隊の測量船への奇襲に端を発した交戦である。辛未については干支による紀年法を参照。.

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迎恩門

在の独立門の前の迎恩門柱礎 迎恩門(げいおんもん、ヨンウンムン)は、1896年まで存在していた門(牌坊)である。現在は、大韓民国ソウル特別市西大門区峴底洞(ヒョンジョドン)101番地の独立公園内の独立門の正面に、2本の迎恩門柱礎だけが残っており、大韓民国指定史跡第33号となっている。.

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露館播遷

露館播遷(ろかんはせん、아관파천、Бегство Коджона в русскую миссию、1896年2月11日 - 1897年2月20日)とは、李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことを言う。韓国でも古くは日本語での表記と同じように「露館播遷」と呼ばれたが、最近では俄館播遷と呼ばれることが多い。俄館露遷との記述もある。 高宗がロシア公使館で政務を執り行った結果、ロシアは年表に示す利権を獲得し、他の欧米列強も同等の利権を獲得することになった。 また、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、後に日露戦争時に中立を宣言したが日露両国から無視されるような結果となった。.

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露朝陸路通商条約

露朝陸路通商条約(ろちょうりくろつうしょうじょうやく)は、1888年8月20日にロシア帝国と李氏朝鮮が結んだ条約である。朝露陸路通商章程ともいう。 主な内容は次の通り.

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胡(こ)は、古代中国の北方・西方民族に対する蔑称。「胡瓜」、「胡弓」、「胡姫」のように、これらの異民族由来のものである事を示す用法がある。 もともとの意味は、「あごひげ」が長い人である。.

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興宣大院君

興宣大院君((こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)・大院王(だいいんおう、テウォンワン)、1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日))は、李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(り・かおう、이하응、イ・ハウン)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。 1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変により閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。 また「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。.

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間島

間島(かんとう)は、豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉。豆満江を挟んで、北朝鮮と向かい合う。墾島ともいった。.

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閔妃

妃(びんひ、ミンピ、ミンビ、1851年10月19日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后(めいせいこうごう、ミョンソンファンフ)、朝鮮王后(閔氏)とも呼ばれる。本貫は驪興閔氏。尊号は孝慈元聖正化合天 、諡号は孝慈元聖正化合天洪功誠徳斉徽烈穆明成太皇后。 国王の正妃として強い権力を持ったが、真霊君の預言に依存し、世道政治と官吏の汚職、そして義父興宣大院君との権力闘争により政局を混乱させた 朝鮮訓錬隊、朝鮮警務使などに開化派や大院君派など閔妃の国政壟断に不満を持つ朝鮮人に加えて、日本軍守備隊、領事館警察官、大陸浪人らが乙未事変で王宮内に侵入し、閔妃は景福宮・乾清宮内で禹範善に暗殺された。死後、高宗の父で対立していた興宣大院君によって平民に降格されたが、のちに復位している。 そもそも本来「閔妃」とは「閔氏の王妃」という意味で固有名詞ではないが、近代朝鮮史で「閔妃」と言えばこの高宗の妃を一般に意味する。.

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開城工業地区

普光ファミリーマート(現CU) 開城工業地区(ケソンこうぎょうちく)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部の開城市郊外にある経済特別区である。地区内には開城工業団地(ケソンこうぎょうだんち)が開発され、大韓民国(韓国)企業運営の工場が2016年2月まで操業していた。金正恩は大量の資金稼ぎになって北朝鮮の国益になった上に市場を排した国民管理の理想だとして、内陸部にも14箇所の経済地区の増設を命じている。.

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開城市

開城市(ケソンし)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部にある都市。高麗の王都として、また商業の中心として栄えた古都である。 朝鮮戦争の休戦後、周辺部も含めて長らく北朝鮮の直轄市として扱われてきたが、南北共同の工業団地「開城工業地区」の建設とその特区としての運営が行われるに伴い、開城周辺地域の行政区画が再編成されている。中心部は現在、「開城市」として黄海北道に所属しているとみられる。推定人口は約35万人(1998年現在)。.

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開化派

開化派(かいかは、개화파、ケファパ)は、李氏朝鮮末期の政治グループ。別称独立党。.

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藤永壮

藤永 壯(ふじなが たけし、1959年 - )は、日本の歴史学者、大阪産業大学教授。専門は朝鮮近現代史。山口県下関市生まれ。 朝鮮近現代史に関する研究・著書が多い。いわゆる「嫌韓流」批判の代表的論者の一人であり、複数の著書でその歴史認識を批判している。慰安婦問題に対しても積極的な発言をしている。.

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邸下

邸下(ていか、)は、高麗および李氏朝鮮時代に用いられた王世子または王世孫に対する敬称(王世孫は閣下と呼ばれたりした)。この場合、「邸」は貴人の住む家であることを指し、「下」は身分の低い者が直接その地位の者を呼ぶのは失礼に値するという考え方のため、「下の取り次ぎの方を通して貴方をことをお呼び致します」という意味がこめられている。これは、陛下・殿下に対応するものである。 高麗が元に服属していた時期に用いられるようになったが、恭愍王の時代からしばらく用いられなくなった。しかしその後、李氏朝鮮時代には明の冊封国となり、国王が殿下と呼ばれるようになったため、王世子を邸下と呼ぶようになった。 なお、日本をはじめ中国やベトナムでは見られなかった。.

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蔚山広域市

蔚山広域市(ウルサンこういきし、韓国語表記:)は、大韓民国南東部に位置する広域市。1997年7月15日に広域市に昇格する前は慶尚南道に属していた。市のスローガンは「Ulsan for you」。.

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鄭汝立

鄭 汝立(てい じょりつ、1546年 - 1589年)は、李氏朝鮮中期の文人・官僚。字は仁伯、号は竹島。本貫は東莱鄭氏。.

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臨海君

臨海君(りんかいくん、イメグン、임해군、隆慶6年8月14日(1572年9月20日) - 万暦37年5月2日(1609年6月3日))は、李氏朝鮮の第14代国王宣祖の長男(庶子)。名は珒(ジン、진)。.

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釜山広域市

釜山の山城(金井山) 水営区の広安里ビーチ 釜山広域市(プサンこういきし、韓国語表記:、英語:Busan)は、大韓民国南東部に位置する広域市。韓国第2の都市である。対馬海峡に面し、古くから朝鮮半島と日本とを結ぶ交通の要衝として栄えてきた港湾都市である。首都ソウルに次ぐ韓国第二の都市として、政治・経済・文化の面で重要な役割を担ってきた。.

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金弘道

金 弘道(きん こうどう、キム・ホンド、김홍도、1745年〈英祖21年〉 - 没年不詳)は、李氏朝鮮後期の画家。字は子能。号は檀園(タンウォン、단원)のほか、丹邱・西湖・高眠居士・輒酔翁などがある。本貫は金海。 朝鮮王朝後期を代表する画家の一人であり、金弘道(檀園)は申潤福(蕙園)・張承業(吾園)とともに「三園」と称されている。.

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金弘集 (政治家)

金 弘集(きん こうしゅう、キム・ホンジプ、1842年-1896年2月11日)は、李氏朝鮮末期の政治家。内閣総理大臣。甲午改革によって朝鮮の近代化を図ったが、親露派のクーデターによって殺害された。.

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金剛山観光地区

三日浦 金剛山観光地区(クムガンサンかんこうちく)は、朝鮮民主主義人民共和国統治領域東南部の金剛山一帯に、2002年から2011年まで設置された特別行政区域。2011年4月に新たに金剛山国際観光特別区が設置された。 景勝地として知られる金剛山(外金剛・海金剛)の一部は、1998年以降韓国人・外国人観光客に開放された。当初は船での出入域が行われたが、軍事境界線から金剛山に至る新しい道路が建設され、バスを用いた陸路での観光客輸送が行われるようになった。2002年、韓国人・外国人に開放された地区の周辺は江原道から切り離され、「観光地区」として独自の行政区画が編成されることになった。2011年4月に最高人民会議常任委員会の政令により金剛山国際観光特別区が設置された。これにより、それまでの「金剛山観光地区」は失効・廃止された。 この地域での観光事業については金剛山 (朝鮮)#韓国からの観光を参照のこと。.

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金玉均

金 玉均(キム・オッキュン、、きん ぎょくきん、1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家で朝鮮独立党の指導者。李朝時代後期の開明派として知られる。字は伯温(ペゴン、)、号は古愚(コウ、)。本貫は安東(新安東金氏)。朝鮮の近代化を目指し、日本・中国と同盟し3国でアジアの衰運を挽回するべきだという「三和主義」を唱えた。.

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金誠一

金 誠一(きん せいいち、朝鮮読み:キム・ソンイル(김성일)、1538年(中宗33年) - 1593年は、李氏朝鮮の文官。字は士純、号は鶴峯。諡号は文忠公。義城金氏。.

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金野郡

金野郡(クミャぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道の南部に位置する郡。 かつては永興郡(えいこうぐん/ヨンフンぐん)と呼ばれた。.

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金正浩

金 正浩(キム・ジョンホ、生没年不詳)は、李氏朝鮮の実学者、地理学者。朝鮮において初めて精巧な全国地図『大東輿地図』を作成した人物として知られているが、その詳しい経歴についての記録は残っていない。生没年不詳(1800年頃から1864年頃)。字は伯元、白溫、伯之。号は古山子。.

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釉薬

釉薬(ゆうやく、うわぐすり、釉、上薬、)とは、陶磁器や琺瑯の表面をおおっているガラス質の部分である。陶磁器などを製作する際、粘土等を成形した器の表面にかける薬品のこと。粘土や灰などを水に懸濁させた液体が用いられる。.

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英祖 (朝鮮王)

英祖(ヨンジョ、えいそ、康熙33年9月13日(1694年10月31日) - 乾隆41年3月5日(1776年4月22日))は李氏朝鮮時代の21代国王(在位:1724年8月30日 - 1776年3月5日)。諱は昑(グム、금)。字は光叔(クァンスク、こうしゅく、광숙)。諡号は荘順 朝鮮日報 2007/09/16至行純徳英謨毅烈章義弘倫光仁敦禧体天建極聖功神化大成広運開泰基永堯明舜哲乾健坤寧配命垂統景暦洪休中和隆道粛荘彰勲正文宣武熙敬顕孝大王。即位前は延礽君(ヨニングン)と称し、粛宗の次男にあたる。母は和敬淑嬪崔氏。朝鮮王朝の歴代君主中最も長生きした君主であり、在位期間もおよそ52年間と最も長かった。.

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英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

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老論派

老論派(ろうろんは、ノロンパ)は、李氏朝鮮の党派の一つ。粛宗の外戚に対し批判的な少論派(しょうろんは、ソロンパ)との対比で使われる事が多い。この派閥にも僻派(貞純王后)と時派(金鐘秀)と2つの勢力がある。 元は西人で、1680年の庚申換局の時に少論と老論に分裂した。主に宋時烈の支持者で構成されたが、1684年にが死去、1689年に宋時烈が処刑されたことで勢力が減退した。老論派を支持した仁顕王后は1701年に死去したが、1724年に英祖が即位すると政権に返り咲いた。.

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陶磁器

野々村仁清『色絵藤花茶壺』(国宝) 陶磁器(とうじき、pottery and porcelain)は、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。 陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが含まれる。成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。『古陶磁の科学』の著者内藤匡は、この過程をおこしに喩えている。おおまかに言えば、陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである。.

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陸奥宗光

奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日(1844年8月20日) - 明治30年(1897年)8月24日)は、日本の政治家、外交官、武士(紀州藩藩士)。明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えた。また、カミソリ大臣と呼ばれ、伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。 正二位・勲一等・伯爵。家紋は仙台牡丹。.

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陽明学

王守仁(王陽明) 陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた『大辞泉』。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする。.

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陛下

陛下(へいか)は、皇帝・天皇・国王等に対して用いる敬称。.

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Google ブックス

Google ブックス(英名:Google Books)とは、世界最大のインターネット企業Googleが、ポータルサイトGoogle内で提供している、書籍の全文検索サービスである。 書籍内の全文を対象に検索を行なうことができ、検索結果として表示された書籍の内容の一部(著作権切れの書籍であれば全ページ)が無料で表示される。検索・表示されるデータはGoogle社が紙製の書籍からスキャンしたもの。 著作権の保護期間が満了した書籍は、全文が公開されている。この場合 Googleブックスは電子図書館として機能する。これに対し、著作権保護期間が存続している書籍は、書籍の一部がプレビュー表示され、同時に書籍販売サイトへのリンクが表示される。この場合Googleブックスは広告・販売促進サイトとして機能する。.

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PHP研究所

株式会社PHP研究所(ピーエイチピーけんきゅうしょ、PHP Institute)は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助によって創設され、出版事業を主体に行っている出版社。2010年10月1日、政策シンクタンクを標榜する株式会社PHP総合研究所を吸収合併した。 東京本部は江東区豊洲5丁目6番地の52()、京都本部の住所は京都市南区西九条北ノ内町11()。.

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投資

投資(とうし、investment)とは、主に経済において、将来的に資本(生産能力)を増加させるために、現在の資本を投じる活動を指す(現代において、生産能力の増加しない商業活動はこれに含まない)。広義では、自己研鑽や人間関係においても使われる。 どのような形態の投資も、不確実性(リスク)が伴う。一般に、投資による期待収益率が高い場合、不確実性も高まる。この一般則に反する取引が可能な場合、裁定取引が行われ、収益率の低下またはリスクの増大が起こる。.

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柳川一件

柳川一件(やながわいっけん)は、江戸時代初期に対馬藩主・宗義成と家老・柳川調興が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造を巡って対立した事件。.

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染付

染付(そめつけ)とは、白色の胎土で成形した素地の上に酸化コバルト(II)を主とした絵の具で模様を絵付し、その上に透明釉をかけて高温焼成した陶磁器。おもに磁器で、模様は藍青色に発色する。 中国語で""(、日本語読み:せいか)、または""(、日本語読み:ゆうりせい.

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恭譲王

恭譲王(きょうじょうおう、1345年3月9日 - 1394年5月17日)は、高麗の第34代国王である(在位:1389年 - 1392年)。第20代神宗の7代孫。諡号は恭譲大王。はじめ定昌府院君に封じられていたが、李成桂(朝鮮の太祖)により高麗王として擁立された。後に李成桂に譲位し、李成桂の命令で子供とともに殺された。.

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恵民署

恵民署(ヘミンソ)は、朝鮮王朝時代に設置された官庁・医療施設(病院)。一般庶民の病気治療や、薬剤の調合・販売を目的とした。従六品衙門。.

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李完用

李 完用(り かんよう、1856年7月17日(旧暦咸豊6年6月7日) - 1926年2月12日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家。勲等は大勲位。爵位は侯爵。 大韓帝国の内閣総理大臣、大日本帝国の朝鮮総督府中枢院副議長などを歴任した。.

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李之蘭

李 之蘭(り しらん、1331年 - 1402年)は、高麗末期から李氏朝鮮初期の武将。女真族。 本姓は佟、初名(モンゴル語名)は豆蘭帖木児(ドラン・ティムール)。童豆蘭、李豆蘭ともいう。父は女真の豪族で元の金牌千戸の地位にあった阿羅不花(アラブカ)。咸鏡道は新羅、高麗の領土となったことはなく女真族の居住地であったが、この時代より高麗の影響下に入り、之蘭は配下を率いて帰化し北青に住する。 李成桂と出会い、弓術の腕比べから義兄弟の契りを結び、李姓を名乗る。1380年8月、倭寇が鎮浦口に上陸した後、全羅北道南原郡雲峰面に立てこもった。倭寇の中に金色の鎧で白馬に乗って槍をふるう首領がいたが、その首を矢で仕留めたのは李之蘭だった。首領を失った倭寇は総崩れとなり成桂軍が思いがけない勝利を得るなど、以後は成桂の側近として数々の戦闘で補佐し、李氏朝鮮建国では開国功臣の称号を得る。晩年は成桂の退位後の隠棲に付き従い、また数多くの命を殺めたことを悔いて仏門に帰依した。 李成桂の死後、太祖宗廟に功臣として陪祀された。青海李氏の祖である。.

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李ク (朝鮮)

臨瀛大君(イミョンテグン、永楽17年・世宗元年(1419年) - 成化5年・睿宗元年(1469年)は、李氏朝鮮の王族。諱は璆。字は献之。第4代国王世宗の第4王子。母は昭憲王后。第5代国王文宗、および第7代国王世祖、安平大君の同母弟、広平大君、錦城大君、平原大君、永膺大君の同母兄、桂陽君の異母兄である。第6代国王端宗、第8代国王睿宗の叔父。子に亀城君李浚。.

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李王家

王家の紋章「李花紋」 李王家(りおうけ、이왕가、イワンガ)は李氏朝鮮の歴代国王を出した家系で、韓国併合後は日本の王公族となり、皇族に準じる待遇を受けたが、第二次世界大戦後の日本国憲法施行に伴いその身分を失った(身位喪失)。.

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李珥

李 珥(り・じ、イ・イ、1536年 - 1584年)は、李氏朝鮮の儒学者。号は栗谷(りっこく、ユㇽゴㇰ)、字は叔献(しゅくけん、スコㇴ)。大韓民国では『東方の聖人』と呼ばれている。朱子学者として李滉(退渓)とならぶ二大儒と称される。李滉の主理説に対し主気説を展開した。朝鮮王朝に仕え、政界においても各方面で積極的な政治改革案を提議した。 大韓民国では5000ウォンの紙幣の肖像画である。.

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李鴻章

李 鴻章(り こうしょう、、1823年2月15日(道光3年1月5日) - 1901年11月7日(光緒27年9月27日))は、中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことでも知られる。.

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李氏朝鮮の家族制度

李氏朝鮮の家族制度について説明する。 李氏朝鮮の社会の単位は個人ではなく家族であり、李氏朝鮮の社会は家族を中心に形成運営されて来た。李氏朝鮮時代の家父長的家族制度は、政教の根本理念に採択された儒教でさらに厳格に統制され、生活の規範と儀式は全て儒教の教えによることを強要された。 李氏朝鮮時代の家長の権利は、高麗の時よりももっと強化された。たとえば、子孫・妻妾・奴婢が、謀反・反逆以外の罪状で父母や家長を官庁に告訴すると、かえって告訴した者の方が極刑を受けることになっていた。更に仁祖の時には、家長の反逆陰謀を告発しても、人倫を害する罪は反逆罪に劣らず重いと言って、先に死刑にしたことまであった。李氏朝鮮時代には、綱常罪に対しても反逆罪と同等に厳重に扱った。これと反対に、尊長に対する絶対服従と犠牲精神から湧き出る孝行や貞烈は、国家で大きく奨励したのは当然のことだった。 このようにその権威を国家から保証を受ける家長は、内では、先祖の祭祀を主宰し、家庭の管理、家族の扶養、分家や養子縁組、子女の婚姻・教育・懲戒・売買などに関する全権を持って家族成員を統率した。また、外では民間の契約は家長の署名なしには成立しなかったし、官庁でも家長を相手に全てのことを処理した。 また李氏朝鮮時代の家族制度の特徴は、宗族を一つの単位として、大家族制度を形成して相互扶助した点にもみることができる。ここから同族間の結合が促進されて族譜が生じたし、これによって同族に対する観念が更に発達するようになった。そして李氏朝鮮社会では厳格な族外婚が行われ、《続大典》では同姓同本は勿論、同姓異本でも互いに婚姻することができないという規定が用意されるに至った。 婚姻は男女とも早婚が特徴で、法的に男子は15歳、女子は14歳以上なら婚姻できたし、特別な場合には12歳でも婚姻が許可された。婚姻にも男尊女卑の観念が徹底され、男子は妻が死んだ後にいくらでもまた婚姻しても構わなかったが、女子の場合は制約がひどく、成宗の時からは再嫁を原則的に禁じ、再嫁した女子の子孫は文武官に任命されることができず、科挙に応試することもできなかった。 婚姻関係以外にも女子の社会的地位はとても微弱で、女子としての法律的行為は必ず夫や家長の許可がなければならなかった。また、交際や外出も厳格に制限され、家族や近い親戚でなければ男子と対面できなかったし、外出しなければならない時には上流階級ではノウルをかぶり、下流階級でもチャンオッ・ゴンモなどをかぶって顔を覆うようにした。 李氏朝鮮の社会のように嫡・庶の差別を苛酷にさせた社会は歴史上なかった。一夫多妻を公認しながらも、妾の生んだ子を差別待遇するようになったのは、太宗の時に作られた庶孽禁錮法から始まった。また同じ妾子でも、良妾子・賎妾子の区別によって身分・財産相続などに差等があった。 人が死ねば、身分の高低と寸数の遠近によって服喪の期間を5つに分ける五服制度が施行された。祭祀では、高麗の時には仏教的儀式が流行したが、高麗末期の朱子学の伝来とともに家廟の制度が生ずるようになり、中宗の時に趙光祖が政権を取った後にはその普及に力を尽くして、士大夫の家の中には皆家廟が建てられたと言う。家族制度の核心になる冠婚葬祭などの礼制は、既に高麗末期に朱子の家礼が基準になって多少普及された。 李氏朝鮮時代になって朱子学が崇尚されるのに伴い、家礼も初めには士大夫たちの間でだけ盛行したが、後には段々と儒教的な倫理観念が普遍化され、社会全般に影響力を及ぼして家族制度の変遷を招来した点も多かった。.

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李氏朝鮮の科挙制度

李氏朝鮮の科挙制度(りしちょうせんのかきょせいど)では、李氏朝鮮で行われていた科挙制度について説明する。.

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李氏朝鮮の経済

ここでは李氏朝鮮の経済(りしちょうせんのけいざい)について説明する。.

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李氏朝鮮の身分制度

李氏朝鮮の身分制度について説明する。 李氏朝鮮の社会の身分階級は、学者によって分類が違うこともあるが、一般的に両班・中人・常人・賎人の4つに大別されている。このような体制は、高麗の時から伝わる社会的な伝統の上に土台を置いたもので、李氏朝鮮の集権的な政治体制の確立及び制度の整備とともに次第に固まっていった。すなわち、李氏朝鮮の新興貴族たちは高麗の貴族の代わりに支配階級に成長しながら両班階級を形成したが、一方、それに属せなかった人々は中人階級に残るようになった。 被支配階級には相変らず常人・賎人がいたし、これらと両班の間に、一定の世襲的な職業を持つことで1つの階層に固定された中人という特殊な身分階級が生ずるようになった。しかし厳密に明らかにして見れば、同じ身分層にもさまざまな差等があっただけでなく、階級と階級の境界を定めるにも曖昧な場合が多かった。 両班というのは文班と武班を総称した言葉で、彼らは農・工・商に従事せず、儒学だけを勉強して科挙を経て何の制限もなく高級官職にも昇進することができる特権を持った。そして、官僚になれば土地と禄俸などを国家から受けるようになるので、地主階級を形成した。両班の中で李氏朝鮮の建国以来続出した各種の功臣たちと高級官僚たちは、彼らに様々の名目で支給された広大な土地を世襲・私有することで徐々に大地主になった。このような経済的な基盤を土台にして、権門勢家の門閥を成した両班も生ずるようになった。同じ両班でも文官は武官より優位を占めていたから、一般的な要職は勿論、軍事要職までも文官が長官になれば、武官をその下に置いた事が多かった。両班の庶孼出身者には文科に応試する資格を与えなかったが、一方で武科には賎人でさえなければ誰でも応試する資格を与えた結果、嫡庶の差別と文を崇尚し武を蔑んで見る社会的な因習が作られるようになった。 一方、両班身分の世襲による彼らの数的膨脹は、限定された国家政治機構への参与を取り囲んで、互いに利権と理念を異にする派閥を作るようになり、士禍と党争という血なまぐさい対立抗争を起こすようになった。中人は、外国語・医学・天文学・法律学など特殊技術を学んで世襲した。中人と両班の庶孼出身者を合わせて中庶といって、両班以外で官僚になることができる階級だったが、法で高い官職に上がることができないように制限したから、大部分低い官職に留まってしまった。中期以後に彼らの限品叙用に対する制限を撤廃しようとする機運が芽ばえたりしたが、別に成果を上げられなかった。特に庶孼たちは、出世の道が遮られたことに不満を抱いて、互いに群れをなして反逆や泥棒の主動者になったりして、社会に様々な波紋を投げかけた。 彼らより下位の身分層として、吏胥・駅吏・軍校などがあったが、末端の行政・警察事務を担当して、直接平民たちを支配する実権を握っていて、社会的に一つの大きい勢力を形成していた。常人は、農・工・商に従事する人を言うが、その大部分は農民だった。彼らは国家に対して租税・貢賦・軍役など各種の義務を負担したうえに、地方官や郷吏などの搾取対象になって、その生活は一般的にとても悲惨だった。こんな苦しい生活の中で、互いに団結して生きる道を捜すための動きは、農村共同体を作るようにしたし、相互扶助を目的にした様々な契が組職された。 一方、末期になるにつれて、より一層ひどくなった官吏たちの収奪に対する反抗として、民乱を起こしたりした。洪景来の乱、哲宗の時の民乱、甲午農民戦争などの主体は農民だった。商工業に従事する人は、ほとんど全部が奴婢だった。彼らは一種の財産と見なされて売買・相続などの対象になった。奴婢は公賎と私賎の2つに大別することができたが、彼らの中にも多くの階層があった。 この外に娼妓・巫堂・広大なども賎人に属したし、仏教の没落とともに僧侶も賎人の待遇を受けた。賎人中でも最も賎待を受けた身分層は白丁で、彼らは人間以下の待遇を受けたし、特殊部落を成して一般人とも隔離された中で、屠殺・柳器匠などの作業を世襲しながら暮した。 上で述べた4種類の身分階級を土台にして朝鮮社会の支配体制は形成維持された。文禄・慶長の役以後に多少変遷が生じて、平民や賎人でも戦功または納粟などの手段を通じて、堂上・堂下の位階や職名を得る場合も多かったが、特典というのは軍役を免除される程度に過ぎず、それも一身にだけ限るという制約があった。このような厳格な身分体制は、1894年の甲午改革以後に、身分階級の打破が制度化されることで漸次的に消滅して行った。.

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李氏朝鮮後期の農民反乱

ここでは、李氏朝鮮後期の農民反乱について説明する。.

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李朝白磁

ムネイル 李朝白磁(りちょうはくじ)は、李氏朝鮮で作られた白磁である。.

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李成桂

李 成桂(り せいけい、리성계、太祖 康献大王、1335年10月27日 - 1408年6月18日)は、元(モンゴル)の武官、1357年から高麗の武官、李氏朝鮮の創始者にして初代国王。咸鏡南道の永興(金野郡)の出身姜(2006)。『李朝太祖実録』によれば本貫は全州李氏という太祖實錄 總序によれば、「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。。大韓帝国期に太祖高皇帝の称号を送られた。.

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李施愛の乱

李施愛の乱(り しあい(イ・シエ)のらん)は、1467年(世祖12年)に咸鏡道で起こった朝鮮時代(李氏朝鮮)前期最大の反乱。広範な民衆を巻きこみ、宮中内部の重臣にまで波及して、世祖晩年における最大の政治的危機となった。.

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東京大学出版会

一般財団法人東京大学出版会(とうきょうだいがくしゅっぱんかい、英称:University of Tokyo Press)は、東京大学の出版部に当たる法人。東京大学総長を会長とし、東京大学の活動に対応した書籍の出版を主に行う。.

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東人

東人(とうじん、韓国語:동인、トンイン)は、李氏朝鮮の官僚の派閥の一つ。.

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東医宝鑑

東医宝鑑(とういほうかん、東醫寶鑑、トンイボガム、동의보감)は、李氏朝鮮時代の医書。23編25巻。許浚著。1613年に刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した。(東アジアでは漢文が公文書に用いられたため、教養人は漢文の素養を持っており、書籍は翻訳の必要がなく交流が盛んであった。) 初版本は光海君の1613年に発行され、重版が重ねられている。日本では江戸時代初の官版医書として、徳川吉宗の命で享保9年(1724年)に日本版が刊行されており 『温知会会報』34号、寛政11年(1799年)にも再版本が刊行されている。中国においては清代の乾隆28年(1763年)に乾隆版本が刊行されており、日本から版木が輸出され光緒16年(1890年)に日本再版本を元とした復刻本が出ている。 2009年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.

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村井章介

村井 章介(むらい しょうすけ、1949年3月12日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史・対外関係史。立正大学文学部史学科教授、東京大学名誉教授、大阪市出身。.

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梶村秀樹

梶村 秀樹(かじむら ひでき、1935年7月4日 - 1989年5月29日)は、日本の歴史学者。元神奈川大学経済学部教授。専攻は朝鮮近現代史。東京出身。.

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権知高麗国事

権知高麗国事(けんちこうらいこくじ)は、明が李氏朝鮮初期の国王に授けた封号。高麗王代理、あるいは高麗国知事代理を意味する。 李氏朝鮮の初代国王李成桂は1392年、明が冊封した高麗王の禑王、昌王と恭譲王を廃位して高麗王位を簒奪した後、権知高麗国事と称して明国へ使者を送り、その地位を認めさせた。 明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が「国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、李成桂政権は「朝鮮」(朝の静けさの国)と「和寧」(平和の国)の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。「和寧」は北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は前漢の武帝に滅ぼされた古代の王国の名前である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じた。「和寧」は李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。 だが明では、明が冊封した高麗王を廃位して別の王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位した李成桂を快く思わなかったらしく、李成桂を最後まで朝鮮王としては冊封しなかった。 明から朝鮮国王として正式に冊封されたのは、第3代国王である太宗からであった。.

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檀君朝鮮

檀君朝鮮(だんくんちょうせん)は、神話上の檀君王倹が紀元前2333年に開いたという国の名称。朝鮮半島ではこの年を起点とする記述から計算して檀君の即位した年を西暦紀元前2333年とし、これを元年とする檀君紀元(檀紀)を定め、1961年まで公的に西暦と併用していた。一部では現在も使用されている。.

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欧米

欧米(おうべい)とは、ヨーロッパ州(欧州)とアメリカ州(米州。北アメリカ州と南アメリカ州)の3大州を指す。 狭義では、ヨーロッパの先進国及びアメリカ合衆国とカナダの北アメリカ2か国とを合わせた集団を指す。イギリス人が建国した、オセアニアにあるオーストラリアやニュージーランドを含める場合もある。.

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正祖

正祖(チョンジョ、せいそ、英祖28年9月22日(1752年10月28日) - 正祖24年6月28日(1800年8月18日))は、李氏朝鮮の第22代国王。諱は祘(サン、산)。祖父は英祖、養父は孝章世子、妃は金時黙の娘孝懿王后。子女に純祖らがある。大韓帝国期に正祖宣皇帝の称号を送られた。.

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武官

武官(ぶかん)とは、国家若しくは君主から官吏たる軍人に任じられた者又はその軍人の官職をいう。一般的に終身官とされる。通常、軍人の職の総称として用いられるが、国家によっては官名として扱う場合もある。.

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武帝 (漢)

武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝。ら3人の同母姉がいる。彼の治世下で、前漢は最盛期を迎える。.

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武王 (周)

武王(ぶおう、)は、周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。 同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮、周公旦、蔡叔度、霍叔処、康叔封らがいる。子は成王、(晋の開祖)、邘叔、応叔、韓叔ら。.

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武田幸男

武田 幸男(たけだ ゆきお、1934年8月18日 - )は日本の歴史学者。東京大学名誉教授。文学博士。東方学会評議員・東洋文庫研究員・朝鮮学会幹事・史学会会員。専門は朝鮮史、東アジア交渉史。山形県出身。.

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殿下

殿下(でんか・てんが、英:Highness)は、皇族・王族等の敬称。「殿舎の階下」の意味で、中国を起源とし、同一国内の称号としては皇帝・天皇等に対する陛下より下位に、高官に対する閣下より上位に位置付けられる。漢字文化圏で皇帝に臣従する(冊封下にある)国の国王や皇族・王族に対して用いられ、日本では摂関にも用いた。また、Imperial Highness, Royal Highness等、漢字文化圏以外の国の君主や王族などに対する敬称の訳語としても用いられ、この場合には必ずしも陛下や閣下等と上下関係にはない。.

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水原市

水原市(スウォンし、韓国語:수원시)は、大韓民国北西部の都市。京畿道の道庁所在地。.

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水原華城

水原華城(すいげんかじょう、수원 화성、スウォンファソン)は、韓国京畿道水原市にある李氏朝鮮時代の城塞遺跡。華城、水原城とも言う。.

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永昌大君

永昌大君(えいしょうたいくん、ヨンチャンデグン、영창대군、万暦34年3月6日(1606年4月12日) - 万暦42年2月10日(1614年3月19日))は、李氏朝鮮の第14代国王宣祖が54歳の時に生まれた末子で唯一の嫡出子。名は㼁(ウィ、의)。母は仁穆王后。 永昌大君が生まれると、嫡流の後継者を望んでいた宣祖は次男(庶子)の光海君の代わりに永昌大君を世子に冊封しようと考え、柳永慶など小北派の支持を受けた。しかし、1608年に宣祖が急死すると、幼少の永昌大君ではなく光海君が即位した。 1613年、七庶獄事が起こると、李爾瞻率いる大北派の操作によって永昌大君と仁穆王后の父である金悌男に疑いがかけられた。金悌男は賜薬に処せられ、永昌大君は姉の貞明公主とともに、庶人(平民)に降格の上、江華島に流刑にされた。1614年2月10日、江華府使の鄭沆の手により極端に温度を上げたオンドル部屋に監禁され自身が寝ている間に蒸殺(焚刑)され、9歳(数え年)で死去した。ちなみにこの処罰法は朝鮮史上、大変罪の重い処罰法とされている。貞明公主はその後も生きていた。 1623年3月13日、仁祖の即位に伴い名誉を回復した。墓は京畿道安城市にある。 Category:李氏朝鮮の王族 Category:1606年生 Category:1614年没 Category:刑死した人物.

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江原道 (南)

江原道庁 江原道(カンウォンド、こうげんどう、韓国語表記:)は、大韓民国実効統治範囲の北東部(朝鮮半島中東部)にある行政区画。日本海に面している。 軍事境界線(北緯38度線)を挟んで、朝鮮民主主義人民共和国側にも同名の行政区画がある。.

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江原道 (北)

江原道(カンウォンどう、朝鮮語チョソングル表記:강원도〔カンウォンド〕)は、朝鮮民主主義人民共和国の南東部にある行政区画。日本海に面し、景勝地である金剛山がある。 軍事境界線(北緯38度線)を挟んで、大韓民国側にも同名の行政区画がある。.

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江原道 (朝鮮八道)

江原道(カンウォンド、こうげんどう)は李氏朝鮮の行政区画、朝鮮八道の一つ。現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にまたがる江原道を合わせた地域。現在は韓国側にある江陵と原州から頭文字を取って命名された。 北を咸鏡道に、西を黄海道と京畿道に、南を忠清道と慶尚道に接する。東は、日本海に面している。 李氏朝鮮初期に設置されたが、険しい山脈によって交通が妨げられたので、道名の由来となった原州と江陵が、それぞれ西と東の中心地として発展した。.

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江華島

江華島(カンファド、こうかとう)は、大韓民国(韓国)のソウル特別市の北西の京畿湾(黄海)に位置する島。行政上は仁川広域市江華郡に属する。日本では「こうかとう」の読みが馴染み深い。.

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江華島事件

海軍旗章(右大臣通達 明治6年12月24日)。なお、この当時の韓兵は白衣である。 江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。.

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江華郡

江華郡(カンファぐん)は大韓民国仁川広域市の郡。仁川西北部の京畿湾に面する。江華島、喬桐島、席毛島の3つの大きな島々と小さな付属島からなる基礎自治団体である。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池内宏

池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 1952年11月1日)は、東洋史学者。祖父は儒学者の池内大学。.

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洪国栄

洪 国栄(こう こくえい、ホン・グギョン、1748年 - 1781年4月5日)は李氏朝鮮時代第22代国王正祖時代の政治家。本貫は豊山。字は徳老。都承旨(トスンジ)兼宿衛所(スグィソ)の長官。 妹のを正祖の側室にするが病没。その後、正祖の異母弟 恩彦君の長男(李湛)を完豊君として亡き妹の養子にし、世継ぎとして教育する。 外戚が権力を持つ「勢道政治」を行うが、その野心のために朝廷に敵を多く作り、最終的に1779年9月に配流となった。1781年4月、流刑地で側女に看取られながら病没。享年34。 なお正祖の生母 恵慶宮洪氏とは、14代王宣祖とその継室仁穆王后の王女であるを祖とする遠縁にあたる(恵慶宮洪氏は貞明公主の次男 洪萬容の玄孫、洪国栄は貞明公主の三男 洪萬衡の来孫である)。.

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活字

活字(かつじ)は、狭義においては活版印刷の際に文字の図形を対象(特に紙)に印字するもので、木や金属に字形を刻み、それにインクをつけて何度も印刷できるようにしたものである。また広義では、写真植字の文字盤やデジタルフォントをはじめ印刷物など、広く文字を同一の字形で繰り返し表現するものを含む。 印刷技術については活版印刷を、印刷された本については刊本を、印刷された文章についてはテクストを、それぞれ参照のこと。.

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済州島

済州島(チェジュとう、さいしゅうとう)は、朝鮮半島の西南、日本海、東シナ海、黄海の間にある火山島。その付属島嶼と併せて大韓民国済州特別自治道を構成する。人口は約66万人、面積は1,845km2。 15世紀初め頃までは耽羅という独立した王国があった。以前の西洋では、オランダ統治時代の台湾から長崎に向かう途中に難破したオランダの商船に因んで、Quelpart(귤밭、橘밭、「みかん畑」の意)と呼ばれていた。 なお、朝鮮語では「島」と「道」は同じ音のため、「済州島」と「済州道」の区別に注意を要する。.

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済州特別自治道

漢拏山 済州特別自治道(チェジュとくべつじちどう、韓国語表記:)は、大韓民国本土南西部に位置する済州島全体と牛島、馬羅島などの付属小島嶼を道としている行政区。道都は済州市。南部には2002サッカーワールドカップの開催地、西帰浦市もある。2006年7月1日に「済州道」から変更された。 道内には、韓国政府統治地域最高峰の漢拏山がそびえたち、一帯は「済州の火山島と溶岩洞窟」としてユネスコの世界遺産に登録されている。韓国国内で鉄道、高速道路、一般国道が通っていない唯一の道でもある。.

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済物浦条約

済物浦条約(さいもっぽじょうやく)とは、1882年8月30日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。済物浦は朝鮮語読みで「チェムルポ」、仁川の旧称。 壬午事変(壬午軍乱)での日本公使館焼き討ち事件等の事後処理のために結ばれた。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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清史稿

『清史稿』(しんしこう)は、中国の辛亥革命による中華民国成立後に、趙爾巽が中心となって約100人余りの学者が編纂した二十四史を継ぐ清朝1代の未定稿の紀伝体歴史書。「二十五史」・「二十六史」と称する場合には同書が数えられる。 ここでは、清史稿を元に中華民国の国民政府によって編纂された清史(しんし)、及び中華人民共和国が全く新しく編纂を進めている清史についても合わせて解説する。.

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満州

満洲(まんしゅう、マンジュ、拼音:Mǎnzhōu、英語:Manchuria)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。渤海・金朝・後金・清朝を建国した満洲民族や、夫余・高句麗を建国した濊貊族、鮮卑・烏桓・契丹・奚などモンゴル民族の故地である。なお、漢字表記は法令や一部の文献では「満洲」が用いられるものの、一般には「満州」が用いられることが多い。 「満洲」という言葉は、もともとは12世紀にはおもに民族名を指していた。しかし19世紀の日本では満洲、満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。.

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満州民族

満州民族(満洲民族、まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満州族(満洲族、まんしゅうぞく、マンジュぞく、ᠮᠠᠨᠵᡠᡠᡴᠰᡠᡵᠠ 、転写:manju uksura)は、満洲(中国東北部、沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八つのグサ(.

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漢城府

漢城府(かんじょうふ)は、李氏朝鮮の首都であり、統治していた機関の名前。以前の漢陽府、後の京城府、現在のソウル特別市。.

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漢字

漢字(かんじ)は、中国古代の黄河文明で発祥した表語文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。また史上最も文字数が多い文字体系であり、その数は10万字を超え、他の文字体系を圧倒する。古代から周辺諸国家や地域に伝播して漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上の大きな影響を与えた。 現代では中国語、日本語、朝鮮語の記述に使われる。20世紀に入り、漢字文化圏内でも日本語と中国語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い。.

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漢民族

漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)、シンガポールで大多数を占める民族。人類の20%を占める世界最大の民族集団である。 中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。.

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漢文

漢文(かんぶん)とは、古代中国の文語体の文章のこと。または近代中国人・朝鮮人・日本人・ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、漢字を用いて中国語の文法で書かれたものをいう。.

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演劇

演劇(えんげき、英語:theatre, theater)とは、観客に対し、俳優が舞台上で身振りや台詞などで、何らかの物語や人物などを形象化し、演じて見せる、芸術のこと。俳優が観客を前にして、舞台上で、なんらかの思想や感情などを表現し伝達しようとする一連の行為。.

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朝鮮

統一旗 朝鮮(ちょうせん、チョソン、조선)は、朝鮮半島および済州島、巨文島、鬱陵島など周囲の島嶼・海域を併せた地域を表す呼称。ユーラシア大陸の東端に位置し、北西に中華人民共和国、北東にロシア、南東に対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を隔てて日本と隣接する。 この地の全域を、大韓民国(韓国)も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も共に自国の領土に定めており、両国の領土は完全に一致重複している。しかし現実は朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)を境に北半部は北朝鮮が、南半部は韓国が実効支配している。.

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朝鮮における漢字

朝鮮における漢字(ちょうせんにおけるかんじ)では、朝鮮で使用される漢字について述べる。 韓文漢字とも呼ばれ、朝鮮語では한자/漢字(ハンチャ)または、한문한자/漢文漢字(ハンムナンチャ)という。.

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朝鮮の君主一覧

朝鮮の君主一覧(ちようせんのくんしゅいちらん)は、古代の朝鮮半島(一部現在の中国東北部を含む・民族は中国系朝鮮系等特定の民族を指したものではない)で出来た国々の王、皇帝などを扱う。.

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朝鮮の歴史

朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。.

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朝鮮の歴史観

朝鮮の歴史観(ちょうせんのれきしかん)では、朝鮮の歴史観について説明する。日本統治期における朝鮮人による歴史学には、民族史学(民族史観)、社会経済史学(唯物史観)、実証史学という3つの大きな流れがあり朝鮮新報 2008年7月4日、日本から見た朝鮮史観(いわゆる「植民史観」)と対立していた。独立後は韓国では実証史学が、北朝鮮では唯物史学がそれぞれ主流となったが、韓国の歴史学界の外では民族史学(民族主義史観)が政治やメディアに影響を与えており、歴史学界でも民族史学と実証史学の論争が起きている。.

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朝鮮の民間療法

朝鮮の民間療法(ちょうせんのみんかんりょうほう)とは、朝鮮半島において民間に伝承されてきた治療行為である。他の国における民間療法と同様、科学的根拠が不明なまじない的なものが多く、現在ではほとんど行われていない。 なお本記事は民俗史的記事であり、朝鮮半島の伝統医学である韓医学とは異なる。.

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朝鮮の文化

朝鮮の文化は、李氏朝鮮時代に国家のイデオロギーとされた儒教、その中でも特に朱子学から、大きく影響されている。また、恨という朝鮮独特の感情が、朝鮮の文化の特色となっている。日本統治時代に朝鮮の近代化が進められる過程で、朝鮮の文化も大きく変化した。.

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朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

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朝鮮人

朝鮮人(ちょうせんじん).

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朝鮮八道

朝鮮八道(ちょうせんはちどう)は、李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島に置いた8つの道(行政区画)。 400年以上にわたって同一の区分が用いられたため、「八道」は転じて「朝鮮全土」のことも指した。鶏林八道(けいりんはちどう)と呼ぶ事もある。8つに区分された道は、現在も地域的なまとまりとして捉えられている(朝鮮の地方)。 また、現在の韓国と北朝鮮の行政区画の基礎にもなっている。.

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朝鮮国王の廟号と諡号の一覧

朝鮮国王及び大韓帝国皇帝の廟号と諡号の一覧(ちょうせんこくおうおよびだいかんていこくこうていのびょうごうとしごうのいちらん)では、朝鮮王朝の国王、および大韓帝国の皇帝の廟号と諡号を列記する。生前には国王・皇帝に即位しておらず、死後に追尊された人物は分けて記す。なお、廃位された燕山君と光海君は廟号も諡号も贈られていないが歴代には数えている。ちなみに中国から贈られた諡号は、宣祖代までが明、仁祖代からは清から与えられ、高宗以降はない。.

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朝鮮王室儀軌

朝鮮王室儀軌(ちょうせんおうしつぎき)は、李氏朝鮮時代の行事や準備過程や動員された人員、費用の収支、製作された物の材質や方法などを文章や絵画で記録した文書類の総称である。.

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朝鮮王陵

朝鮮王陵(ちょうせんおうりょう)は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にある朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵である。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られた。2009年6月27日に韓国が申請した朝鮮王陵40基がユネスコにより世界遺産として登録された。韓国で世界遺産として登録されたものとしては9番目である。.

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朝鮮王朝実録

『朝鮮王朝実録』(ちょうせんおうちょうじつろく)は李氏朝鮮の初代太祖の時から純宗に至るまで27代519年間の歴史を編年体で編纂した1967巻948冊の実録。かつては『李朝実録』(りちょうじつろく)と呼ぶことが多かった。なお、現在の朝鮮民主主義人民共和国での正式的な呼び名は『朝鮮封建王朝実録』(ちょうせんほうけんおうちょうじつろく)である。 李氏朝鮮時代の政治、外交、軍事、経済など各方面の史料を記載しているといわれる。1997年(平成9年)にはユネスコの世界の記憶 (Memory of the World) 計画に登録された。.

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朝鮮紀行

『朝鮮紀行』(ちょうせんきこう、Korea and Her Neighbours)はイザベラ・バードが1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、4度にわたり最末期の李氏朝鮮(朝鮮王朝)を訪れた旅行の記録。当時の朝鮮の風俗、社会、政治情勢などを知ることのできる歴史的資料である。.

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朝鮮燕行使

朝鮮燕行使(ちょうせんえんこうし)は、明および清の冊封体制下に置かれた李氏朝鮮が、燕京(北京)に派遣した朝貢使節。狭義に、清に対する使節のみを指す場合もある。.

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朝鮮語

朝鮮語(ちょうせんご)または韓国語(かんこくご)は、主に朝鮮民族が使う言語で、朝鮮半島の大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)および中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州・長白朝鮮族自治県の公用語。 韓国での政府呼称は「韓国語」、北朝鮮での政府呼称は「朝鮮語」である。日本において「韓国語」は、専ら韓国の言語を指す呼称として用いられ、南北を区別しない呼称としては、言語学・音韻論など学術的にも、標準表記として「朝鮮語」が用いられるので、ここでは言語名を全て朝鮮語に統一して記述する。.

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朝鮮貴族

朝鮮貴族(ちょうせんきぞく)は、貴族制度の一種で、李王の血族で王公族とならなかった者及び門地又は功労があった朝鮮人に与えられた身分。1910年(明治44年)の日韓併合条約第5条及びそれに基づく朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)によって設けられたもので、1947年(昭和22年)皇室令第12号(皇室令及附属法令廃止ノ件)によって廃止された。.

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朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.

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朝鮮民主主義人民共和国

朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく、)、通称北朝鮮(きたちょうせん)は、東アジアの朝鮮半島北部を実効支配する、最高指導者による事実上独裁体制を取る社会主義共和国。冷戦下で誕生した分断国家である。ただし大韓民国は朝鮮半島全域の領有権を主張しているほか、後述の通り日本も国家として承認していない。 軍事境界線(38度線)を挟み分断した片割れの大韓民国(韓国)と、豆満江を挟んで中華人民共和国及びロシア連邦と、鴨緑江を挟んで中国と接している。首都は平壌で、人口は約2515万人とされる。行政区画は平壌直轄市、開城工業地区、金剛山観光地区、新義州特別行政区、羅先特別市、羅先経済特区、南浦特級(特別)市と八つの道に分かれる。.

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朝鮮民画

朝鮮民画(ちょうせんみんが)は、朝鮮の庶民の実用的な民俗絵画である。結婚や還暦などの儀礼、装飾、魔よけ、開運などの実用的な目的のために、屏風や掛軸にしたり、壁に貼ったりして用いられる。 表現は稚拙ではあるが、滑稽味があり、素朴で大胆なところが、独特の味わいを出しているものが多い。宮廷付属の図画署の画家や両班の文人が描いた芸術的鑑賞の対象である正統絵画とは異なり、一般的に朝鮮民画には画家の署名や落款はなく、いつ誰が描いたのかは分からない。 民画という言葉は、民芸運動の創始者である日本人の柳宗悦が、日本の大津絵などの民俗絵画を指して使い始めたものである。柳は、日本統治時代の朝鮮でも美術品を収集研究し、朝鮮民画の収集研究も始めた。柳によって、それまでは収集研究の対象とは考えられていなかった朝鮮民画が、注目され収集研究の対象となった。 朝鮮民画の種類は多いが、大きく分ければ、道教系、仏教系、儒教系、装飾系に分けられる。虎の絵は、朝鮮民画の最も代表的なものである。鵲と虎を一緒に描いた鵲虎図や、山神が虎を従えた山神図などがある。長生図は、長寿の象徴である、鶴、亀、鹿、松、竹、などを描いたものである。青竜、白虎、朱雀、玄武などの方位神や、十二支神、竜、鳳凰、麒麟などを描いた物もある。山水画、動物画、植物画なども多いが、独特の物として、文字を絵にした文字図や、本などを乗せた棚を描いた冊架図がある。 ファイル:강-2 1~1.JPG|花鳥拘子圖 ファイル:Gukjeongchumyodo.jpg|菊庭秋猫圖 ファイル:Songhamaenghodo.jpg|松下猛虎圖 ファイル:Korea-Minhwa-Ssanghak.bandodo.jpg|雙鶴蟠桃図 ファイル:Minhwa-Deer and turtle.JPG|鹿と亀 ファイル:Minhwa-Tiger and magpie-03.jpg|鵲虎図 ファイル:Minhwa-Sansindo-01.jpg|山神図 ファイル:Korea-Minhwa-Munjado-01.jpg|文字図(信) ファイル:Korea-Minhwa-Hwajodo-flowers and birds-01.jpg|花鳥図 ファイル:Korea-Minhwa-Eohaedo-01.jpg|魚蟹図 ファイル:Minhwa-Chaekgeoli-01.JPG|冊架図 みんか Category:フォークアート Category:美術におけるトラ Category:美術における動物.

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朝鮮民族

朝鮮民族(ちょうせんみんぞく)は、朝鮮語をそのアイデンティティー・母語とする民族であり、主に朝鮮半島地域に居住し、人種的にはモンゴロイドに属する。しかし、蒙古斑が朝鮮民族には無く日本人やモンゴル人とは異なる。1948年に朝鮮半島南部に建国された大韓民国では、韓民族(かんみんぞく)、倍達民族(ベダルみんぞく)と呼ばれる。 現代の朝鮮民族による朝鮮半島の統治は軍事境界線(ぐんじきょうかいせん、朝鮮語: 군사분계선、英語: Military Demarcation Line〈略称:MDL〉)を境に分断されている。北側は北朝鮮で、南側は韓国である。どちらも国際連合に加盟し、半島唯一の主権国家であると主張している。実際は内戦の休戦中という建前のもとに、冷戦時代から続くアメリカとロシアの覇権争いの極東地域の緩衝のために分断されている半島である。軍事境界線は常に監視されており、不適切と判断される越境に対して取締りを行っている。 文化的には、中国からの影響を強く受けながら、近年になり改良を加えられたチマチョゴリなどの服飾文化、キムチ、朝鮮式焼肉などの食文化(朝鮮料理)やパンソリ、タルチュムなどに独特の特徴が見られる。多くがハングルを使用する。.

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朝貢

朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.

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木綿

収穫期の綿 走査型電子顕微鏡で見た木綿繊維 木綿・木棉(もめん)は、ワタの種子から取れる繊維。コットン(cotton)とも。ワタ自体のことを木綿と呼ぶこともあるが、ここでは繊維としての木綿について述べる。 ワタとはアオイ科ワタ属の多年草の総称で、木綿は種子の周りに付いている。繊維としては伸びにくく丈夫であり、吸湿性があって肌触りもよい。このため、現代では下着などによく使われるが、縮みやすいという欠点もある。主成分はセルロース。 単に棉・綿(めん)とも言う。摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿だが、区別しないことも多い。 ただし、「綿」と書いて「わた」と読むのは、本来は塊状の繊維全般を指す語である。布団や座布団の中身を繊維の種類を問わず「綿(わた)」と呼ぶが、これはその本来の用法である。古くは、中でも真綿(絹の原料)を意味することが多かった。.

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木村誠

木村 誠(きむら まこと).

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本位銀貨

本位銀貨(ほんいぎんか)とは、銀本位制が施行されている貨幣制度下において、本位貨幣として鋳造され発行、流通した銀貨のことである。補助貨幣とは異なり、硬貨に標記の額面と実質価値に差は無く、自由鋳造、自由融解が認められ無制限通用力を有している。 日本では明治時代に新貨条例において発行された1円銀貨と、貿易銀がこれにあたる。 また、日本以外の国では、15世紀以降スペインがメキシコを始めとするとる中南米諸国で鋳造した8レアル銀貨が当時の国際通貨になっていたほか、オーストリアのマリアテレジアの1ターラー銀貨、アメリカの1ドル銀貨、フランスの5フラン銀貨などが有名である。また日本、イギリスやアメリカなどでは海外貿易専用の貿易銀も鋳造された。基本的にこれらは先に述べたスペイン系の8レアル銀貨を模した420グレーン程度の量目を有する品位.900、直径38ミリ大の大型銀貨である。本位金貨は各種の量目、サイズのものが鋳造されたが、本位銀貨についてはほとんどの場合このサイズに限定されていた。 各国が金本位制に移行して、これら大型の本位銀貨は概ね1930年前後に姿を消した。.

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本貫

本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともに概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国・朝鮮半島では、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。.

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朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.

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朱元璋

朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の始祖であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅ こうそう)と改名し、紅巾(こうきん)軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。.

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朴一

朴 一(パク・イル、박일、1956年 - )は、在日韓国人3世の経済学者。大阪市立大学大学院経済学研究科教授(商学博士)。在日コリアンや日韓・日朝関係に関する多数の著書がある。ラジオ番組を中心に、テレビ番組にも多数出演している。兵庫県尼崎市生まれ。.

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朴元宗

朴 元宗(パク・ウォンジョン、ぼく げんそう、朝鮮語:박원종、1467年(世祖12年) - 1510年(中宗5年))は、朝鮮時代(李氏朝鮮)中期の軍人、政治家である。第11代国王・中宗の最初期の最側近人事の1人である。実姉は第9代国王・成宗の実兄の月山大君の後妻の昇平府夫人朴氏。また敬嬪朴氏は従妹であり、章敬王后は姪である。大伯母に第4代国王世宗の王妃・昭憲王后沈氏。1506年(燕山君12年)9月2日に発生した宮廷クーデター事件「中宗反正」(別名:朴元宗の乱、または丙寅の変)により暴君で名高い第10代国王・燕山君に引導を渡した筆頭人物で知られる。.

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朴正煕

朴 正煕(パク・チョンヒ、박정희、日本語読み: ぼく せいき、1917年11月14日〈時憲暦9月30日出生日を1917年9月30日とする文献等があるが、これは時憲暦での表記でありグレゴリオ暦に直すと11月14日となる。〉 - 1979年10月26日)は、韓国の軍人、政治家。 職業軍人だったが、1961年の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任し、1963年から1979年まで大統領(第5代から第9代)を務めた。彼の時代から約30年間にわたって『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現されて韓国は世界最貧国の層から脱したと評価される。 一方で1972年の改憲で大統領任期と重任制限を撤廃することで永久執権を図ろうとし、また民主化運動をスパイ操作・司法殺人などで弾圧したとして「独裁者」との批判的評価も受けている。 1979年に側近の金載圭によって暗殺された。 本貫は高霊朴氏。号は「中樹(チュンス、중수)」。創氏改名による日本名は高木 正雄(たかぎ まさお)。1番目の妻に金好南。2番目の妻に文世光事件で暗殺の犠牲となった陸英修。好南との間に長女の朴在玉。英修との間に、次女で第18代大統領の朴槿恵と、長男でEGテック現会長の朴志晩がある。.

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朴泳孝

朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代の朝鮮における貴族で実業家。日本名は山崎 永春。.

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戊午士禍

戊午士禍(ぼごしか、ムオサファ、무오사화)とは、李氏朝鮮王朝中期(15世紀末 - 16世紀半ば)に、前後4回にわたって起こった「士林派」に対する政治的迫害事件(のちに「四大士禍」と呼ばれる)のうち、燕山君(在位:1494年~1506年)の時代に最初に起こった士禍で、燕山君の即位した干支をとって「戊午士禍(ぼごしか)」、また史草が発端となったので「戊午史禍(ぼごしか)」ともいう。.

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成宗 (朝鮮王)

成宗(ソンジョン、せいそう、天順元年7月30日(1457年8月19日) - 弘治7年12月24日(1495年1月20日))は、李氏朝鮮の第9代国王(在位:1469年11月28日(12月31日) - 1494年12月24日(1495年1月20日))。諱は娎(ヒョル、혈)。諡は康靖仁文憲武欽聖恭孝大王。君号は乽山君(ジャルサングン、しゃさんくん)。 第7代国王世祖の第1王子李暲(桃源君、懿敬世子、追尊して徳宗)の第2王子にして世祖の孫。母は懿敬世子嬪韓氏(仁粋大妃)。前王睿宗は叔父にあたる。成宗は王道政治を貫き通した名君として知られており、士林派を積極的に登用したのも成宗の時代に入ってからである。.

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戦争

朝鮮戦争(1950年 - 1953年) 核兵器を使用した戦争・広島市(1945年) 戦争(せんそう)とは、複数の集団の間での物理的暴力の行使を伴う紛争である。国際紛争の武力による解決である。対義語は対話。広義には内戦や反乱も含む(戦争一覧)。人類が、集団を形成するようになる有史以来、繰り返されてきたものである。銀行などが引受けた巨額の戦費は慢性的な租税負担となる。市民生活に対する制限と攻撃は個人の尊厳を蹂躙する。時代ごとの考え方によって違法性が認定されてきた。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明史

『明史』(みんし、拼音:Míngshǐ)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から校正される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。.

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明宗 (朝鮮王)

明宗(ミョンジョン、めいそう、嘉靖13年5月22日(1534年7月3日) - 隆慶元年6月28日(1567年8月3日))は、李氏朝鮮の第13代国王(在位:1545年 - 1567年)。諱は峘(山偏に亘)(ファン、환)。字は對陽(テヤン、たいよう、대양)。諡は恭憲献毅昭文光粛敬孝大王。君号は慶源大君(キョンウォンデグン、けいげんたいくん)。 第11代国王中宗の嫡次男で、母は文定王后尹氏。第12代国王仁宗は異母兄。先代に引き続き在位当初から8年間は母親の文定王后尹氏が実権を握り、母方叔父の尹元衡が専横を振るった。.

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春香伝

春香伝(しゅんこうでん、チュニャンヂョン)は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語。 18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリの演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われた。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われている。.

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昌原市

昌原市(チャンウォンし)は、大韓民国慶尚南道の道庁所在地。大韓民国の地方自治法第175条に基づいて特例が適用される特定市である。1970年代に韓国最初の計画都市として建設された都市で、2010年に軍港都市である鎮海、港湾都市である馬山が市域に編入された。 韓国プロ野球のNCダイノス、韓国バスケットボールリーグの昌原LGセイカーズとサッカー・Kリーグの慶南FCの本拠地である。.

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海獺

海.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新義州特別行政区

新義州特別行政区(シニジュとくべつぎょうせいく)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の新義州市付近にある中国との国境地帯に設定された特別行政区。 かつては平安北道に属していたが、2001年1月に中国の上海を訪れて北朝鮮の改革開放に意欲を示した金正日によって、2002年4月に新義州市とその周辺の町の一部を範囲(下記を参照)として本格的な市場経済を試験導入するべく設定された。同行政区においては、約50年にわたる自主立法権・自主司法権・自主行政権という一国二制度に近い高度な自治権が認められた。 同行政区の初代行政長官には、中国系オランダ人実業家の楊斌が就任するも楊が脱税などの容疑で中国政府により身柄を拘束されたのを機に、同行政区は事実上凍結状態になり、2011年から中国は同行政区に含まれていた威化島に限定して新義州での経済協力を再開させた。 2014年7月23日に同行政区は「新義州国際経済地帯」に移行すると発表された。.

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新潮新書

新潮新書(しんちょうしんしょ)は、新潮社が発行する新書レーベルである。2003年(平成15年)4月刊行開始。キャッチコピーは「現代を知りたい大人のために 700円で充実の2時間」。.

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文定王后

文定王后 尹氏(ぶんていおうこう いんし、ムンジョンワンフ ユンシ、문정왕후 윤씨、弘治14年1月14日(1501年2月1日) - 嘉靖44年12月7日(1565年12月29日))は、李氏朝鮮第13代国王明宗の生母。李氏朝鮮第11代国王中宗の3人目の王妃。本貫は坡平尹氏。諡号は聖烈仁明文定王后。坡山府院君 靖平公 尹之任と全城府夫人 李氏の娘。.

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文官

文官(ぶんかん)とは、官吏のうち武官(軍人)以外の者を指す語である。 元来は中国における官吏の分類に関する概念であり、軍事をつかさどる官職を武官、文治をつかさどる官職を文官として、両者の待遇や服制を区別したものである。日本でも、律令制の導入とともに武官と文官の区別が行われ、江戸時代の幕府職制にも幕臣の間に「番方」と「役方」という形で武官と文官の区別に類したものがあった。 明治以降、国家行政組織法以前の日本では、内閣総理大臣や国務大臣をはじめ、軍人以外のすべての官職が文官に含められた。このため、文官と呼ばれる官吏は教師、警察官などまで含めてあらゆる職種にわたり、文官任用令が適用された。 今日の日本では、防衛省職員のうち、政府の公式見解で文民ではないとされている自衛官等を除く常勤の職員、すなわち防衛事務次官、参事官、書記官、部員、事務官、技官等を「文官」と呼ぶ場合がある。 旧制度では、文官の名乗る官名は、次官、局長、書記官、事務官、属など、職層や職種の別によって多数に分かれていた。しかし今日、かつての文官に相当する職にある国家公務員の大多数が名乗る官名は、「事務官」、「技官」、「教官」、などであり、局長、課長などは事務官や技官の官にあるものが充てられる役職の名となっているため、「警察官」、「海上保安官」などの公安職員も文官の種別に入る。.

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文宗 (朝鮮王)

文宗(ムンジョン、ぶんそう、永楽12年10月3日(1414年11月15日) - 景泰3年5月14日(1452年6月1日))は、李氏朝鮮の第5代国王(在位:1450年 - 1452年)。姓は李、名は珦(ヒャン、향)。王位継承以前に摂政を務める。.

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文化観光部2000年式

文化観光部2000年式(ぶんかかんこうぶ2000ねんしき)は、現在大韓民国で用いられている韓国語のラテン文字転写に関する規則である。2000年7月1日に「国語のローマ字表記法(국어의 로마자 표기법)」として大韓民国文化観光部(現・文化体育観光部)長官が告示した。 2000年の告示以来、韓国では人名などの例外を除き、原則としてこの表記法に従った表記がなされている。なお、北朝鮮ではマッキューン=ライシャワー式や北朝鮮1992年式が公式に用いられている。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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文語

文語(ぶんご)とは、文章、特に文学で使われる言葉遣いのこと。文章語。書き言葉。書記言語も参照。 言語によって口語の言葉遣いとあまり変わらなかったり、別の言語とされるほど異なったりする。差異の大きい状態はダイグロシアと呼ばれる。.

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日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война 、Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利で終わった。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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日朝修好条規

日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年、時憲暦光緒2年=高宗13年)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが通例として朝鮮國との修好条規、日朝修好条規、日鮮修好条規などと呼称する。江華島で調印されたため江華(島)条約(강화도조약)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約ともいう。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本人

日本人(にほんじん、にっぽんじん、Japanese)は、日本の国籍(日本国籍)を持つ日本国民。または祖先が日本列島に居住していた民族集団を指す。.

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日本経済新聞

日本経済新聞(にほんけいざいしんぶん、題字:日本經濟新聞、The Nikkei)は、日本経済新聞社の発行する新聞(経済紙)であり、広義の全国紙の一つ。略称は日経(にっけい)、または日経新聞(にっけいしんぶん)。日本ABC協会調べによると販売部数は2017年10月で朝刊約260万部、夕刊約127万部である。最大印刷ページ数は48ページである。.

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旗田巍

旗田 巍(はただ たかし、1908年11月7日 - 1994年6月30日)は、日本の東洋史学者、東京都立大学名誉教授。 朝鮮の慶尚南道馬山生まれ。1931年東京帝国大学東洋史学科卒業。卒業後満鉄調査部に所属し華北農村慣行調査に参加した。東京都立大学助教授、教授、72年定年退官、名誉教授、専修大学教授。79年退職。戦後、人間不在の東洋史学の克服、植民地支配否定の立場からの研究などでの朝鮮史研究で中心的役割を果たした。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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憲宗 (朝鮮王)

憲宗(ホンジョン、けんそう、道光7年7月18日(1827年9月8日) - 道光29年6月6日(1849年7月25日))は、李氏朝鮮の第24代国王(在位:1834年 - 1849年)。諱は烉(ファン、환)。字は文応(ムヌン、ぶんおう、문응)。号は元軒(ウォンホン、げんけん、원헌)。諡は荘粛 朝鮮日報 2007/09/16体健継極中正光大至聖広徳弘運章化経文緯武明仁哲孝大王。わずか8歳で即位し、病弱だったため、23歳で崩御した。純祖の孫で、孝明世子の息子。母は趙万永の娘神貞王后。純祖の妃である純元王后が摂政となっていたが、安東金氏(純元王后の実家)と豊壌趙氏(憲宗の母神貞王后の実家)の勢力争いがあった。なお、正祖の血を引く王としては最後の王である。 陵は京畿道九里市にある景陵。.

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慶尚南道

慶尚南道(キョンサンナムド、けいしょうなんどう、韓国語表記:)は、大韓民国の南東部(朝鮮半島南東部)に位置する行政区。全羅南道、全羅北道、慶尚北道に接している。慶尚とは主要都市、慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた言葉であり、この周辺地域を慶尚道と呼ぶ。行政区画としては李氏朝鮮の時代に東西に分けられたりなど試行錯誤が行われ、1896年、勅令第36号で朝鮮八道における慶尚道の南半分を「慶尚南道」と定めた。通常は慶南と略される。その後、釜山広域市と蔚山広域市が分離独立したが、梁山市は裁判管轄に関しては蔚山地方法院の管轄になっている。道庁は十三道制施行当初から永らく釜山市→釜山直轄市に置かれたが、1983年7月1日に昌原市に移転した。.

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慶尚北道

慶尚北道(キョンサンプクト、けいしょうほくどう、韓国語表記:)は、大韓民国の東南部(朝鮮半島南東部)に位置する行政区。「慶尚」とはかつての中心都市であった慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた合成地名であり、この周辺地域を慶尚道と呼ぶ。行政区画としては李氏朝鮮の時代に東西に分けられたりなど試行錯誤が行われ、1896年勅令第36号で朝鮮八道における慶尚道の北半分を慶尚北道と定めた。かつて慶尚北道の一部であった大邱市は1981年に「大邱直轄市」(1995年より大邱広域市)として分離した。その後も道庁は大邱広域市に置かれていたが、2016年2月12日に安東市に移転した。通常は慶北と略される。.

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慶尚道

慶尚道(キョンサンどう、日本読み:けいしょうどう)は、朝鮮八道の一つ。1896年に慶尚南道と慶尚北道に分かれた。現在は慶尚北道に属する慶州と尚州から頭文字を取って命名された。古代の遺跡や古都がある点は日本の近畿地方に似ている。韓国の歴代大統領12人(代行は除く)のうち8人が慶尚道出身であるなど、有名政治家、実業家を輩出している。広域市も釜山、蔚山、大邱の3つがある。慶尚道地域のうち、現在の大邱広域市と慶尚北道の領域はTK地域、釜山広域市と蔚山広域市と慶尚南道の領域はPK地域と呼ばれる。 韓国の主要政党で、李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)時代に与党だった自由韓国党(大邱市と慶尚北道を地盤としていた民主正義党と、釜山市と慶尚南道を地盤としていた統一民主党などが合同して1990年に結成された民主自由党の流れを汲む保守政党)はこの慶尚道を強固な支持基盤としていたが、2017年の大統領選挙では、自由韓国党の洪準杓が共に民主党の文在寅にPK地域で敗れるなど、近年は慶尚道地域の政党支持に変化がみられる。.

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慶應義塾大学出版会

慶應義塾大学出版会株式会社(けいおうぎじゅくだいがくしゅっぱんかい、英称:Keio University Press Inc.)は東京都港区三田に本社を構える日本の出版社である。ほとんどの大学出版社は大学の傘下に置かれているが、慶應義塾大学出版会は学校法人である慶應義塾とは独立した株式会社である。.

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慈江道

慈江道(チャガンどう)は、朝鮮民主主義人民共和国北中部(朝鮮半島北中部)に位置する行政区。歴史的には平安北道に属していたが、朝鮮民主主義人民共和国建国後の1949年に、同道の内陸部が慈江道として独立した。慈城郡と江界市が名前の由来。.

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慕華館

慕華館(ぼかかん)または慕華楼(ぼかろう)は、中国の皇帝の臣下であり、冊封国であった朝鮮の歴代の王が、中国皇帝の使者を迎えるための施設である。 「慕」は、朝鮮語で「サモハダ(思慕する)」=「心から愛する」、「華」は、中国であり、「慕華」とは、「中国を心から愛する」という意味であり、中国に対する事大・中国に対する服属を象徴する施設であった。.

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扶桑社

株式会社扶桑社(ふそうしゃ)は、東京都港区芝浦一丁目に本社を置く、フジサンケイグループ傘下の出版社である。.

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書堂

書堂(ソダン、しょどう)は朝鮮王朝時代の私塾のことである。日本で言う寺子屋に相当する。.

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景宗 (朝鮮王)

景宗(キョンジョン、けいそう、康熙27年10月28日(1688年11月20日) - 雍正2年8月25日(1724年10月11日))は李氏朝鮮の第20代国王(在位:1720年 - 1724年)。諱は昀(ユン、윤)。字は輝瑞(フィソ、きずい、)。.

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10月12日

10月12日(じゅうがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から285日目(閏年では286日目)にあたり、年末まであと80日ある。.

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10月26日

10月26日(じゅうがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から299日目(閏年では300日目)にあたり、年末まであと66日ある。.

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1388年

記載なし。

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1389年

記載なし。

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1392年

記載なし。

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1393年

記載なし。

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1394年

記載なし。

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1398年

記載なし。

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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1400年

14世紀の最後でもある。.

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1401年

記載なし。

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1402年

記載なし。

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1404年

記載なし。

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1418年

記載なし。

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1419年

記載なし。

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1422年

記載なし。

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1431年

記載なし。

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1437年

記載なし。

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1443年

記載なし。

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1446年

記載なし。

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1455年

記載なし。

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1467年

記載なし。

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1469年

記載なし。

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1470年

記載なし。

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1492年

記載なし。

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1494年

記載なし。

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1498年

記載なし。

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1504年

記載なし。

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1506年

記載なし。

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1509年

記載なし。

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1510年

記載なし。

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1512年

記載なし。

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1519年

記載なし。

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1545年

記載なし。

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1555年

記載なし。

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1559年

記載なし。

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1562年

記載なし。

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1567年

記載なし。

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1575年

記載なし。

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1584年

記載なし。

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1589年

記載なし。

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1590年

記載なし。

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1591年

記載なし。

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1592年

記載なし。

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1593年

記載なし。

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1594年

記載なし。

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1597年

記載なし。

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1598年

記載なし。

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1606年

記載なし。

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1607年

記載なし。

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1608年

記載なし。

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1609年

記載なし。

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1615年

記載なし。

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1618年

記載なし。

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1619年

記載なし。

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1623年

記載なし。

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1624年

記載なし。

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1627年

記載なし。

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1628年

記載なし。

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1636年

記載なし。

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1637年

記載なし。

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1654年

記載なし。

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1658年

記載なし。

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1660年

記載なし。

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1666年

記載なし。

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1674年

記載なし。

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1678年

記載なし。

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1680年

記載なし。

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1683年

記載なし。

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1689年

記載なし。

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1694年

記載なし。

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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1720年

記載なし。

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1721年

記載なし。

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1722年

記載なし。

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1724年

記載なし。

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1728年

記載なし。

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1762年

記載なし。

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1763年

記載なし。

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1776年

記載なし。

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1780年

記載なし。

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1784年

記載なし。

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1791年

記載なし。

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1795年

記載なし。

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1796年

記載なし。

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1800年

18世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1801年

19世紀最初の年である。.

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1802年

記載なし。

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1804年

記載なし。

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1805年

記載なし。

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1811年

記載なし。

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1812年

記載なし。

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1815年

記載なし。

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1827年

記載なし。

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1838年

記載なし。

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1839年

記載なし。

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1845年

記載なし。

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1846年

記載なし。

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1861年

記載なし。

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1862年

記載なし。

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1863年

記載なし。

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1866年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1872年

記載なし。

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1873年

記載なし。

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1875年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1882年

記載なし。

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1883年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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1885年

記載なし。

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1888年

記載なし。

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1894年

記載なし。

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1895年

記載なし。

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1896年

記載なし。

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1897年

記載なし。

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1904年

記載なし。

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1905年

記載なし。

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1906年

記載なし。

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1907年

記載なし。

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1909年

記載なし。

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1910年

記載なし。

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1967年

記載なし。

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1月15日 (旧暦)

旧暦1月15日は旧暦1月の15日目である。六曜は先負である。.

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2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

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2月12日 (旧暦)

旧暦2月12日(きゅうれき 2がつ12にち)、は旧暦2月の12日目である。六曜は先勝である。.

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4月13日 (旧暦)

旧暦4月13日は旧暦4月の13日目である。六曜は仏滅である。.

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8月22日

8月22日(はちがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から234日目(閏年では235日目)にあたり、年末まであと131日ある。.

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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