ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

哲宗 (朝鮮王)

索引 哲宗 (朝鮮王)

哲宗(チョルジョン、てっそう、철종、道光11年6月17日(1831年7月25日) - 同治2年12月8日(1864年1月16日))は、李氏朝鮮の第25代国王(在位:1849年 - 1863年)。諱は昪(ビョン、변)、初名は元範(ウォンボム、원범)。諡は忠敬 朝鮮日報 2007/09/16熙倫正極粹徳純聖欽命光道敦元彰化文顕武成献仁英孝大王。大韓帝国時代の1908年、哲宗章皇帝を追贈される。別名は江華童子(강화도령)であった。.

71 関係: 垂簾聴政南人同治大韓帝国孝宗 (朝鮮王)孝明世子安東金氏密陽朴氏崔済愚両班三政の紊乱仁祖全渓大院君勢道政治純元王后純祖道光荘献世子高宗 (朝鮮王)豊壌趙氏錦城范氏興宣大院君金ムン根金海金氏英祖老論派恩彦君恩全君李王家李球李氏朝鮮李氏朝鮮後期の農民反乱李明 (李氏朝鮮)東学正祖永恵翁主江華島温陽方氏朝鮮の君主一覧朴泳孝昌徳宮憲宗 (朝鮮王)懿昭世子12月8日 (旧暦)1827年1831年1833年1837年...1838年1842年1849年1850年1853年1854年1858年1859年1861年1862年1863年1864年1866年1872年1878年1883年1889年1908年1月16日6月17日 (旧暦)7月25日 インデックスを展開 (21 もっと) »

垂簾聴政

垂簾聴政(すいれんちょうせい)は、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うこと。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と垂簾聴政 · 続きを見る »

南人

南人(なんじん).

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と南人 · 続きを見る »

同治

1871年9月13日の日清修好条規。左頁の右側に明治の日付と伊達宗城の花押、左側に同治の日付と李鴻章の花押が見える。 同治(どうち、満州語:、転写:yooningga dasan)は清の穆宗の治世中に使われた元号。1862年 - 1874年。一世一元の制を採用していたため穆宗は同治帝と称される。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と同治 · 続きを見る »

大韓帝国

純宗 勲章を纏っている高宗 大日本帝国の大礼服と大勲位菊花章頸飾など様々な勲章を纏った純宗 大日本帝国の大礼服と勲章を纏って座っている純宗 『大韓全図』(1899、玄采『大韓地誌』附図) 大韓帝国(だいかんていこく、대한제국〈テハンジェグク〉)は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(だいかんこく、대한국〈テハングク〉)、韓国(かんこく、한국〈ハングク〉)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。 朝鮮半島最後の専制君主国であるが、日露戦争後は日本の保護国となり、1910年8月の韓国併合によって滅亡した。 現在の韓国政府はこの「大韓帝国」の領土に竹島(韓国名: 独島〈독도; 獨島〉)も含まれていたと主張する。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と大韓帝国 · 続きを見る »

孝宗 (朝鮮王)

孝宗(ヒョジョン、こうそう、万暦47年5月22日(1619年7月3日) - 順治16年5月4日(1659年6月23日))は、李氏朝鮮の第17代国王(在位:1649年 - 1659年)。諱は淏(ホ、호)。即位前は鳳林大君(ポンリムデグン、ほうりんだいくん)だった。号は竹梧(チュゴ、ちくご、죽오)。 父・仁祖が清の皇帝ホンタイジに跪いて臣下の礼を取らされた恥辱を雪ぐべく、即位後は清を討伐()するために軍備拡充に努めた。その軍事力(特に銃砲等の火力)を清に買われ、黒竜江を超えて南下していたロシア勢力の討伐を行う清軍に1654年と1658年の2回軍勢を参加()させられている。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と孝宗 (朝鮮王) · 続きを見る »

孝明世子

孝明世子(ヒョミョンセジャ、こうめいせいし、효명세자、純祖9年8月9日(1809年9月18日) - 純祖30年5月6日(1830年6月25日))は、李氏朝鮮の王世子。諱は旲(ヨン、영)、字は徳寅(ドクイン、とくいん、덕인)、謚は孝明で、廟号は文祖(ムンジョ、ぶんそ、문조)。父は純祖である。 1812年王世子に冊封され、1819年10月嘉礼を挙げた。1827年父・純祖の命により代理聴政をして、安東金氏の勢道政治を牽制し、妻の実家・豊壌趙氏の人物を重用したが、3年後の1830年に没した。享年22(満20歳没)。 息子・憲宗が即位するや翼宗(イクジョン、よくそう、익종)に追尊し、1899年、高宗が再び文祖翼皇帝(ムンジョイクファンジェ、ぶんそよくこうてい、문조익황제)と追尊した。陵は京畿道九里市仁倉洞にある綏陵(東九陵の一つ)。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と孝明世子 · 続きを見る »

安東金氏

安東金氏(あんとうきんし)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫を安東とする。新羅王族のを始祖とする家系(旧安東金氏)と、高麗建国の功臣である金宣平(김선평)を始祖とする家系(新安東金氏)がある。李氏朝鮮後期に勢威を振るった安東金氏は後者にあたる。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と安東金氏 · 続きを見る »

密陽朴氏

密陽朴氏の紋章 密陽朴氏(みつようぼくし、밀양박씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫を密陽とする。韓国においては、金海金氏に次いで大きな氏族集団である。また、朴姓のうち最大の本貫である。 統一新羅末期の第54代王・景明王の長男・密城大君朴彦忱を始祖とする。朴彦忱は新羅初代王朴赫居世の30世孫とされており、朴赫居世を始祖とすることもある。 その末裔は、高麗で大臣を務めた朴彦孚を派祖とする門下侍中公派など、10余りの分派に分かれている。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と密陽朴氏 · 続きを見る »

崔済愚

崔 済愚(チェ・ジェウ、さい せいぐ、최제우、1824年12月18日(旧暦10月28日) - 1864年4月15日(旧暦3月10日))は、李氏朝鮮(李朝)後期の宗教家。排外的な新宗教、東学を創始した。『竜潭遺詞』、『東経大全』などを書いた。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と崔済愚 · 続きを見る »

両班

両班(りょうはん、양반〈ヤンバン・韓国〉、량반〈リャンバン・北朝鮮〉)は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。 李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。 王族の次の身分として享受することは享受し、納税・他国の士族が負うような軍役の義務さえなかったため、「朝鮮の官人はみんなが盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」と兵役免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役免除、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利や家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪していた。30歳になっても笠を被ること(科挙合格)ができない者は12~13歳に笠を被った者から、「童」と呼ばれて下に扱われた。 イザベラ・バードは科挙を通じて「官」になれば、君臨と搾取に没頭するのが茶飯事だったとして、1897年の朝鮮紀行「吸血鬼」に比喩した。マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは『朝鮮事情』で「世界一傲慢な貴族階級」として記録に残している。身分が売買されたために両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の相当多数が戸籍上両班となっていた。 北朝鮮では「三大階層五十一分類の上位、韓国でも国会議員、公務員、大学教授、財閥一族を現代の両班だとの指摘されている。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と両班 · 続きを見る »

三政の紊乱

三政の紊乱(さんせいのびんらん)は、李氏朝鮮時代に国家財政の3大要素である田政、軍政、還政(政府保有米穀の貸与制度)が紊乱したことを言う。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と三政の紊乱 · 続きを見る »

仁祖

仁祖(インジョ、じんそ、万暦23年11月7日(1595年12月7日) - 順治6年5月8日(1649年6月17日)、在位:1623年3月13日 - 1649年5月8日)は李氏朝鮮時代の第16代国王。諱は倧(ジョン、종)。クーデターによって即位し、親明反後金政策を取ったため、後金軍の侵攻を受け、後に清と改称した後金に再度侵攻され服属を余儀なくされた。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と仁祖 · 続きを見る »

全渓大院君

全渓大院君(ぜんけいだいいんくん、チョンゲテウォングン、乾隆50年3月21日(1785年4月29日) - 道光21年11月2日(1841年12月14日))は、恩彦君(思悼世子の庶長者)の七男そして庶子で、李氏朝鮮第25代国王・哲宗の実父。名は㼅(グァン、광)、本名快得(쾌득)、字は昌康(창강)、海東(해동)。生前彼は王族として扱われなかった。彼の爵号は三子哲宗が即位した後に追叙されたものである。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と全渓大院君 · 続きを見る »

勢道政治

勢道政治(せいどうせいじ、)とは李氏朝鮮の後期の政治形態。「世道政治」とも。王の信任を得た人物あるいは集団が政権を独占的に担う状態を指す。もともとは「有能な人物が王を輔佐し世の中を教化する」という士林派の思想を基礎にしたものであるが、正祖の子純祖以降は幼君が相次いだため外戚や寵臣が政権を壟断する状態に変質し、国政の私物化が進み李氏朝鮮の衰退を招いた。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と勢道政治 · 続きを見る »

純元王后

純元王后 金氏 (じゅんげんおうこう きんし、スンウォンワンフ キムシ、韓国語表記:순원왕후 김씨 1789年6月8日(陰暦5月15日) - 1857年9月21日(陰暦8月4日)) は、李氏朝鮮の第23代国王純祖の正室。第24代国王憲宗の祖母、第25代国王哲宗の養母。本貫は安東金氏。諡号は明敬文仁光聖隆禧正烈宣徽英徳慈献顕倫洪化神運粹穆睿成弘定純元王后。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と純元王后 · 続きを見る »

純祖

純祖(スンジョ、じゅんそ、순조、乾隆55年6月18日(1790年7月29日) - 道光14年11月13日(1834年12月13日))は、李氏朝鮮時代の第23代国王(在位:1800年 - 1834年)。諱は玜(ゴン、공)。字は公宝(ゴンボ、こうほう、공보)。号は純斎(スンジェ、じゅんさい、순재)。諡は「宣恪 朝鮮日報 2007/09/16淵徳顕道景仁純禧体聖凝命欽光錫慶継天配極隆元敦休懿行昭倫熙化浚烈大中至正洪勲哲謨乾始泰亨昌運弘基高明博厚剛健粹精啓統垂暦建功裕範文安武靖英敬成孝大王」。元の廟号は「純宗(スンジョン、じゅんそう、순종)」だったが、1857年に「純祖」とあらためられた。 正祖の次男。実の母は綏嬪朴氏で、孝懿王后の養子。兄・文孝世子の死後、1800年に世子になり、同年に即位した。英祖の妃である貞純王后の摂政で僻派が政治を主導したが、1805年には純元王后の本貫でもある安東金氏による勢道政治が始まっており、次代国王・憲宗、次々代国王・哲宗まで続く事となる。純祖は安東金氏を牽制するために豊壌趙氏を重用して、1827年、孝明世子(憲宗の父)が摂政になったが、1830年に孝明世子の死のために失敗した。1834年11月に死去、享年45(満44歳没)。 陵はソウル特別市瑞草区内谷洞にある仁陵。 純祖の命令により編纂された『万機要覧』には、松島(現在の竹島)が于山島だとする『東国文献備考』からの転記があることから、大韓民国は竹島(独島)領有の根拠の一つとしている。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と純祖 · 続きを見る »

道光

道光(どうこう、満州語:、転写:doro eldengge)は清の宣宗の治世中に使われた元号。1821年 - 1850年。一世一元の制を採用していたため宣宗は道光帝と称される。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と道光 · 続きを見る »

荘献世子

荘献世子(そうけんせいし、チャンホンセジャ、雍正13年1月21日(1735年2月13日)-乾隆27年閏5月21日(1762年7月12日))は李氏朝鮮の第21代王英祖の次男。諱は愃(ソン、선)。思悼世子(しとうせいし、サドセジャ、사도세자)とも呼ばれる。第22代王正祖の父。第23代王純祖の祖父、第24代王憲宗の高祖父、第25代哲宗の曾祖父である。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と荘献世子 · 続きを見る »

諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と諡 · 続きを見る »

諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と諱 · 続きを見る »

高宗 (朝鮮王)

宗(ゴジョン、こうそう、、1852年7月25日 - 1919年1月21日)は、李氏朝鮮第26代国王(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)、後に大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)。韓国併合後は大日本帝国の王族として徳寿宮李太王と称された。 姓は李(イ、)、諱は㷩(熙の異体字(れっかではなく火)、ヒ、)、初諱は載晃(ジェファン、)、幼名は命福(ミョンボク、)、小字は明夫(ミョンプ、)、字は聖臨(ソンニム、)、号は珠淵(チュヨン、)。諡は統天隆運肇極敦倫正聖光義明功大徳尭峻舜徽禹謨湯敬応命立紀至化神烈巍勲洪業啓基宣暦乾行坤定英毅弘休寿康文憲武章仁翼貞孝太皇帝。即位時の年号をとって光武皇帝(クァンムファンジェ、こうぶこうてい、광무황제)と呼ぶこともある。即位前は翼成君(イクソングン、よくせいくん、익성군)に封じられていた。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と高宗 (朝鮮王) · 続きを見る »

豊壌趙氏

豊壌趙氏(ほうじょうちょうし、풍양조씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は豊壌(南楊州)である。 豊壌は三国史記にもある地名で、高句麗の骨衣内(骨衣奴)を景徳王が荒壌県と改名したものである。 始祖は高麗建国の功臣・趙孟。趙孟は豊壌県の有力者ではじめは趙巌と名乗っていたが、後三国時代に王建に味方し、王建から孟の名を下賜された。 李氏朝鮮後期には、安東金氏との権力抗争を行ったことで知られている。安東金氏を牽制するために純祖によって趙万永ら豊壌趙氏の一族が重用された。孝明世子の妃に趙万永の娘が選ばれ(神貞王妃)、彼女は憲宗を生んだ。豊壌趙氏と安東金氏はそれぞれ外戚として権力を争ったが、憲宗の没後、安東金氏によって哲宗が立てられると、敗れた。 Category:朝鮮の氏族.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と豊壌趙氏 · 続きを見る »

錦城范氏

錦城范氏(금성범씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は全羅南道羅州市である。2000年調査では、3316人である。 始祖は、中国の琅邪郡出身で、元朝時代に禮部侍郞を歴任し、1274年に忠烈王に降嫁された荘穆王后の師父として高麗に入国した范承祖である。 范承祖の息子の范有睢は、高麗で門下侍郞を任命し、1334年に指揮使として女真族討伐に功を挙げ、一等功臣を叙勲、錦城君に封ぜられ、錦城を本貫にして錦城范氏を創始した。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と錦城范氏 · 続きを見る »

興宣大院君

興宣大院君((こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)・大院王(だいいんおう、テウォンワン)、1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日))は、李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(り・かおう、이하응、イ・ハウン)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。 1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変により閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。 また「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と興宣大院君 · 続きを見る »

金ムン根

金汶根(キム・ムングン(김문근)、1801年(純祖1) - 1863年(哲宗14))は、李氏朝鮮の権臣・国舅。字は魯夫、号は忠純。本貫は安東金氏で、父は金麟淳、後に金頤淳の養子になる、吏曹判書金洙根の弟、哲宗の義父にあたる。安東金氏の勢道政治を強化する一方で金銭で売官売職を行っていることで悪名高く知れ渡り、物欲が強かったこと、その上、体が肥満体であったことにつけて包物府院君(포물부원군)と蔑称されていた。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と金ムン根 · 続きを見る »

金海金氏

金海金氏の紋章 金海金氏(キメキムシ、きんかいきんし、김해김씨)は、朝鮮半島の氏族の一つ。本貫を金海とする。現在の韓国最大の氏族集団である。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と金海金氏 · 続きを見る »

英祖

英祖(えいそ).

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と英祖 · 続きを見る »

老論派

老論派(ろうろんは、ノロンパ)は、李氏朝鮮の党派の一つ。粛宗の外戚に対し批判的な少論派(しょうろんは、ソロンパ)との対比で使われる事が多い。この派閥にも僻派(貞純王后)と時派(金鐘秀)と2つの勢力がある。 元は西人で、1680年の庚申換局の時に少論と老論に分裂した。主に宋時烈の支持者で構成されたが、1684年にが死去、1689年に宋時烈が処刑されたことで勢力が減退した。老論派を支持した仁顕王后は1701年に死去したが、1724年に英祖が即位すると政権に返り咲いた。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と老論派 · 続きを見る »

恩彦君

恩彦君(おんげんくん、ウノングン、乾隆19年5月29日(1754年7月18日) - 嘉慶6年6月13日(1801年7月23日))は、朝鮮王朝の王族で、22代国王正祖と懿昭世孫の異母弟。名は䄄(イン、인)。のちに皇帝高宗により皇帝に追尊され「荘祖」と諡された荘献世子の息子である。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と恩彦君 · 続きを見る »

恩全君

恩全君(ウノンジョン クン、朝鮮語:은전군、1759年8月14日-1778年8月26日)は、韓国李氏朝鮮の王族で、思悼荘献世子の庶子と22代国王正祖、懿昭世孫の異母弟。諱は禶(찬)、字憐哉(연재)、別稱荷葉生(하엽생)、諡号孝愍(효민)ある。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と恩全君 · 続きを見る »

李王家

王家の紋章「李花紋」 李王家(りおうけ、이왕가、イワンガ)は李氏朝鮮の歴代国王を出した家系で、韓国併合後は日本の王公族となり、皇族に準じる待遇を受けたが、第二次世界大戦後の日本国憲法施行に伴いその身分を失った(身位喪失)。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と李王家 · 続きを見る »

李球

南延君李球(1788年 - 1836年5月5日)は、李氏朝鮮の宗親。本貫氏派は全州李氏延齢君派。李秉源第2子。初諱は「寀重」。諱は「球」。字は「時伯」。諡号は「忠正」。爵号は「南延君」。第4子は興宣大院君。 曽祖父安興君以降は王位承継権はなく、誕生から約30年間は貧困生活であった。延齢君派家督となり、爵位を叙爵されて、官職を歴任した。当時は勢道政治により宗親没落期で、当時の宗親代表格が南延君であり、純祖から保護された。一方で無勤務・不適切行為・職権乱用などで批判・弾劾が多数なされており、純祖実録では不適切人物としての記述が多いが、哲宗実録には模範的人物としての記述がなされた。 卒去後にドイツ連邦商人エルンスト・ヤーコプ・オッペルトが引き起した忠清南道礼山郡での副葬品破損事件は有名であり、当時の鎖国政策を強硬化させた。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と李球 · 続きを見る »

李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と李氏朝鮮 · 続きを見る »

李氏朝鮮後期の農民反乱

ここでは、李氏朝鮮後期の農民反乱について説明する。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と李氏朝鮮後期の農民反乱 · 続きを見る »

李明 (李氏朝鮮)

懐平君(朝鮮語: 회평군、1827年10月31日(道光7年9月11日) - 1844年10月17日(道光24年9月6日)は、李氏朝鮮の王族。本貫は全州李氏。諱は「明」。初諱は「元慶」。諡号は「孝愍」。全渓大院君の第一子。享年は16歳。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と李明 (李氏朝鮮) · 続きを見る »

東学

天道教の旗 東学(とうがく)は、朝鮮半島において1860年に慶州出身の崔済愚が起こした排外的な新宗教。東学を信奉する者を東学教徒、その集団を東学党と呼ぶ。 また、第3代教祖孫秉煕からは天道教(천도교, Cheondogyo)と呼ばれる。東学の本質は従来の思想である朱子学とも、西洋の新しい思想である西学(天主教)とも異なる朝鮮独自の思想体系を成すことを旨とした。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と東学 · 続きを見る »

正祖

正祖(チョンジョ、せいそ、英祖28年9月22日(1752年10月28日) - 正祖24年6月28日(1800年8月18日))は、李氏朝鮮の第22代国王。諱は祘(サン、산)。祖父は英祖、養父は孝章世子、妃は金時黙の娘孝懿王后。子女に純祖らがある。大韓帝国期に正祖宣皇帝の称号を送られた。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と正祖 · 続きを見る »

永恵翁主

永恵翁主(ヨンヘオンジュ、えいけいおうしゅ、영혜옹주、1859年 - 1872年7月4日)は、李氏朝鮮第25代国王哲宗と後宮・淑儀范氏の間に生まれた娘で、哲宗の子女の中で唯一10代まで生き残ったが、14歳(数え年)で子女無く死去し、哲宗の血筋は途絶えた。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と永恵翁主 · 続きを見る »

江華島

江華島(カンファド、こうかとう)は、大韓民国(韓国)のソウル特別市の北西の京畿湾(黄海)に位置する島。行政上は仁川広域市江華郡に属する。日本では「こうかとう」の読みが馴染み深い。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と江華島 · 続きを見る »

温陽方氏

温陽方氏(온양방씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は忠清南道牙山市である。2015年調査では、80445人である。 始祖は、中国の唐朝の翰林学士として669年に羅唐同盟の文化使節として新羅に九経をもたらし、その後、嘉猷県に定着した方智である。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と温陽方氏 · 続きを見る »

朝鮮の君主一覧

朝鮮の君主一覧(ちようせんのくんしゅいちらん)は、古代の朝鮮半島(一部現在の中国東北部を含む・民族は中国系朝鮮系等特定の民族を指したものではない)で出来た国々の王、皇帝などを扱う。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と朝鮮の君主一覧 · 続きを見る »

朴泳孝

朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代の朝鮮における貴族で実業家。日本名は山崎 永春。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と朴泳孝 · 続きを見る »

昌徳宮

昌徳宮 (しょうとくきゅう、朝鮮語読み チャンドックン)は韓国ソウル特別市に所在する李氏朝鮮の宮殿。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と昌徳宮 · 続きを見る »

憲宗 (朝鮮王)

憲宗(ホンジョン、けんそう、道光7年7月18日(1827年9月8日) - 道光29年6月6日(1849年7月25日))は、李氏朝鮮の第24代国王(在位:1834年 - 1849年)。諱は烉(ファン、환)。字は文応(ムヌン、ぶんおう、문응)。号は元軒(ウォンホン、げんけん、원헌)。諡は荘粛 朝鮮日報 2007/09/16体健継極中正光大至聖広徳弘運章化経文緯武明仁哲孝大王。わずか8歳で即位し、病弱だったため、23歳で崩御した。純祖の孫で、孝明世子の息子。母は趙万永の娘神貞王后。純祖の妃である純元王后が摂政となっていたが、安東金氏(純元王后の実家)と豊壌趙氏(憲宗の母神貞王后の実家)の勢力争いがあった。なお、正祖の血を引く王としては最後の王である。 陵は京畿道九里市にある景陵。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と憲宗 (朝鮮王) · 続きを見る »

懿昭世子

懿昭世子(いしょうせいし、イソセジャ、의소세자、1750年 - 1752年)は、朝鮮王朝の王子。正祖の同母兄。名は琔(ジョン、정)。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と懿昭世子 · 続きを見る »

12月8日 (旧暦)

旧暦12月8日(きゅうれきじゅうにがつようか)は、旧暦12月の8日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と12月8日 (旧暦) · 続きを見る »

1827年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1827年 · 続きを見る »

1831年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1831年 · 続きを見る »

1833年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1833年 · 続きを見る »

1837年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1837年 · 続きを見る »

1838年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1838年 · 続きを見る »

1842年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1842年 · 続きを見る »

1849年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1849年 · 続きを見る »

1850年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1850年 · 続きを見る »

1853年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1853年 · 続きを見る »

1854年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1854年 · 続きを見る »

1858年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1858年 · 続きを見る »

1859年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1859年 · 続きを見る »

1861年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1861年 · 続きを見る »

1862年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1862年 · 続きを見る »

1863年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1863年 · 続きを見る »

1864年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1864年 · 続きを見る »

1866年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1866年 · 続きを見る »

1872年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1872年 · 続きを見る »

1878年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1878年 · 続きを見る »

1883年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1883年 · 続きを見る »

1889年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1889年 · 続きを見る »

1908年

記載なし。

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1908年 · 続きを見る »

1月16日

1月16日(いちがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から16日目に当たり、年末まであと349日(閏年では350日)ある。誕生花はデンドロビューム、ラッパズイセン、ジンチョウゲ、黄色のヒヤシンス。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と1月16日 · 続きを見る »

6月17日 (旧暦)

旧暦6月17日は旧暦6月の17日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と6月17日 (旧暦) · 続きを見る »

7月25日

7月25日(しちがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から206日目(閏年では207日目)にあたり、年末まであと159日ある。誕生花はインパチェンス、スイセンノウ。.

新しい!!: 哲宗 (朝鮮王)と7月25日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

徳完君李元範江華童子江華道令

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »