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興宣大院君

索引 興宣大院君

興宣大院君((こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)・大院王(だいいんおう、テウォンワン)、1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日))は、李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(り・かおう、이하응、イ・ハウン)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。 1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変により閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。 また「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。.

158 関係: 垂簾聴政坡州市壬午軍乱大同江大鳥圭介大院君天津条約 (1885年4月)外戚妓生孝明世子守令宗親府安東金氏小作制度崔益鉉巨文島巫俗両班三浦梧楼三政の紊乱丙寅洋擾丙寅教獄乙未事変京畿道庶子五衛井上馨事大党仁祖弾圧徐載弼フランスフェリックス=クレール・リデル嘉慶 (清)咸鏡道アメリカ合衆国カール・イバノビッチ・ヴェーバーカトリック教会キリスト教ジェネラル・シャーマン号事件ソウル特別市備辺司哲宗 (朝鮮王)儒教全州和約全ボン準兪吉濬光武 (元号)勢道政治国王...神父神貞王后福寧君禹範善租税甲午農民戦争甲午改革甲申政変花房義質韓国放送公社鎖国鍾路区荘献世子袁世凱馬建忠訓錬都監驪興閔氏高宗 (朝鮮王)高陽郡議政府豊壌趙氏豆満江軍事軍役辛未洋擾露館播遷露朝密約事件閔升鎬閔妃開化派蔚山広域市金弘集金玉均金東仁英祖 (朝鮮王)雲ケン宮老論派暗行御史林泰輔揀択李完用李コウ (義親王)李ジュン鎔李球李秉源李鎮翼李載冕李載先李氏朝鮮李氏朝鮮後期の農民反乱李最応機関 (法)江華島江華島事件済物浦条約漢城条約朝鮮王朝五百年朴泳孝明成皇后 (テレビドラマ)昌徳宮斥和碑文化放送 (韓国)日清戦争日朝修好条規早稲田大学摂政政治憲宗 (朝鮮王)慶尚道書院景福宮時憲暦11月16日 (旧暦)11月3日11月6日12月10日12月13日12月21日12月8日1805年1820年1852年1862年1863年1865年1866年1869年1871年1873年1874年1875年1876年1877年1880年1882年1884年1885年1891年1892年1894年1895年1897年1898年2月22日2月2日 (旧暦)5月9日7月25日 インデックスを展開 (108 もっと) »

垂簾聴政

垂簾聴政(すいれんちょうせい)は、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うこと。.

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坡州市

坡州市(パジュし/はしゅうし)は大韓民国京畿道北西部に位置する市。板門店のある軍事境界線(38度線)を隔てて北朝鮮と接する最前線で、市域に非武装地帯がある唯一の市である。 この項目では、かつて存在した長湍郡についても述べる。.

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壬午軍乱

壬午軍乱(じんごぐんらん) または 壬午事変(じんごじへん) は、1882年(明治15年)7月23日(旧暦では光緒8年.

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大同江

大同江(だいどうこう・テドンガン、대동강)は、朝鮮半島の北西部を流れる河川である。 本河川は439kmの延長と20,000km2の流域面積を有する第5の大河である。 余談ではあるが、平壌において本河川の名を採った大同江ビールが製造されている。 北朝鮮は、大同江流域で5000年前にエジプト・メソポタミア・インダス・黄河と並ぶ世界五大文明の1つである大同江文化が栄えたとしている。.

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大鳥圭介

大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官。正二位勲一等男爵。家紋は鶴の丸。.

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大院君

大院君(たいいんくん、だいいんくん、テウォングン、)は、李氏朝鮮において、王位が父から子への直系継承が行われなかった場合に、新しい国王の実父に対して贈られる尊号である。歴史上、3人が存在した。 生前にこの称号を与えられたのは興宣大院君1人だけであり、また李氏朝鮮時代末期(19世紀後半)において多大な影響力をふるったため、単に「大院君」というと興宣大院君を指すことが多い。.

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天津条約 (1885年4月)

天津条約(てんしんじょうやく、英語:Convention of Tientsin)は、1884年12月に朝鮮において発生した甲申政変によって緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。日本側全権・伊藤博文と、清国側全権・李鴻章の名をとって「李・伊藤条約」とも呼ばれる。この条約によって日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵し、以後出兵する時は相互に照会することを義務付けられた。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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妓生

妓生 (きしょう、기생、キーセン) とは、元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性(「婢」)のことを意味する。 世界大百科事典 第2版、コトバンク。--> 甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(「キーセンハウス」など)の呼称として残存し、現在に至る。.

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孝明世子

孝明世子(ヒョミョンセジャ、こうめいせいし、효명세자、純祖9年8月9日(1809年9月18日) - 純祖30年5月6日(1830年6月25日))は、李氏朝鮮の王世子。諱は旲(ヨン、영)、字は徳寅(ドクイン、とくいん、덕인)、謚は孝明で、廟号は文祖(ムンジョ、ぶんそ、문조)。父は純祖である。 1812年王世子に冊封され、1819年10月嘉礼を挙げた。1827年父・純祖の命により代理聴政をして、安東金氏の勢道政治を牽制し、妻の実家・豊壌趙氏の人物を重用したが、3年後の1830年に没した。享年22(満20歳没)。 息子・憲宗が即位するや翼宗(イクジョン、よくそう、익종)に追尊し、1899年、高宗が再び文祖翼皇帝(ムンジョイクファンジェ、ぶんそよくこうてい、문조익황제)と追尊した。陵は京畿道九里市仁倉洞にある綏陵(東九陵の一つ)。.

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守令

守令(スリョン)は朝鮮王朝時代の地方官のことで、府尹、大都護府使、牧使、都護府使、郡守、県令、県監の総称のことである。 観察使(道の長官)の監督の下、「国王の代理人」としてその地域を統治した。守令の任務は「守令七事」と呼ばれた(下記参照)。 守令を管理するため、観察使が年二回守令の褒貶を報告したり、また守令は短期間でしか在任していない者が多かったので、六年間在任させる守令六期法(수령육기법)を世宗代に確立させた。だが、守令六期法は成宗代より後は、再び短くなり、平均在任期間が1年6ヶ月未満となった。.

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宗親府

宗親府(ジョンチンブ)は、李氏朝鮮における官府。宗室(王族)諸君が所属する。なお王の親族・外戚は敦寧府、公主や翁主の娘婿は儀賓府の所属である。京官職かつ正一品衙門。.

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安東金氏

安東金氏(あんとうきんし)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫を安東とする。新羅王族のを始祖とする家系(旧安東金氏)と、高麗建国の功臣である金宣平(김선평)を始祖とする家系(新安東金氏)がある。李氏朝鮮後期に勢威を振るった安東金氏は後者にあたる。.

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小作制度

小作制度(こさくせいど)とは、農民が生産手段としての土地をもたず、その土地の所有者や占有者から土地の使用権を得て農作物の生産に従事する制度。小作制度は土地の性格あるいは所有権や占有権の性格の差異によって多様な様相をもつ。.

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崔益鉉

崔 益鉉(チェ・イクヒョン / チェ・イッキョン、최익현、Choi Ik-hyun 1834年1月14日(時憲暦道光13年十二月初五日) - 1907年(光武11年)1月1日(時憲暦十一月十七日)は、李氏朝鮮末期の儒学者・政治家。保守的な国粋主義者で衛正斥邪運動・抗日義兵闘争を指揮したために日本によって捕えられた。字は賛謙。号は勉菴。京畿道抱川出身。 14歳で李恒老のもとで朱子学を学んだ後、1855年に文科に合格して官途につく。1873年に国王高宗の父・興宣大院君の財政政策と鎖国攘夷政策を非難する上疏を提出、大院君失脚の政変(癸酉政変)のきっかけを作ったが、益鉉は2年間済州島で流刑生活を送った。だが、彼の大院君批判は方法論の問題であり、鎖国攘夷の路線についてはむしろ強硬論の立場に立ち、1876年の日朝修好条規締結に際しては斧の担いで宮廷前に現れてこれを激しく非難した。だが、その過激行動を理由に今度は黒山島に流される。3年後に許されるものの、現状に失望して故郷に戻り、甲午改革反対論、断髪令拒否を唱えた。1896年と1898年に再出仕を求められるが、日本や独立協会を非難する意見書を出してすぐに辞任した。 第二次日韓協約締結直前、高宗の要請に抗し難く、再出仕に応じるものの、抗日独立運動家として日本側によって捕えられて漢城から追放されてしまう。 1906年6月、全羅北道泰仁(現在の井邑市泰仁面)で門人とともに義兵を挙げるが、日本陸軍によって捕えられて日本の対馬に連行されてしまう。だが、日本に連行されてもなお抗議の断食を続けて間もなく没した。 Category:李氏朝鮮の文臣 Category:朝鮮の儒学者 Category:京畿道出身の人物 Category:1833年生 Category:1906年没.

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巨文島

巨文島(コムンとう)は朝鮮半島の南部沿岸沖、済州海峡にある小群島()。3つの主要な島があり、うち2つの大きい島である西島(ソド)と東島(トンド)は、中央に小さな島(古島、コド、)を有する入り江を形成している。古島には1885年から1887年の間、イギリスの海軍基地が設置されていた。 丁汝昌が来島した際、筆談で情報交換を行った当地の儒者を「ここは大いなる文の島である」と褒め称えたことによって、巨文島という名が付いたという言い伝えがある。しかし、当時の外交文書や朝鮮王朝実録で、すでに「巨島」「巨文島」と言う語が用いられていることから、そうではないとする研究もある。 行政上、巨文島は全羅南道麗水市三山面の一部で、古島には三山面事務所がある。島々は多島海海上国立公園の一部でもある。.

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巫俗

巫俗(日本語読み:ふぞく、朝鮮語読み:ムーソク)は、朝鮮のシャーマニズム(Korean shamanism)である。ムーダン(ムダン)(巫堂、무당)というシャーマン(職業的宗教者)がクッ(굿)という神を憑依(ノリ)させ、お告げを行う祭儀を行う。朝鮮の土着の信仰として、古代から現代に至るまで続いている。 戦前の資料によれば、ムダンの男女比には地域性があり、男性が主流の地域もあれば、女性が多い地域もあった。また呼称についても済州島ではシンバンと呼ぶなど地域性がある。 戦後、古い迷信として衰退したが、近年の国家主義的価値観とも連動し、巫俗こそが朝鮮固有の宗教であるという思想が生まれ、表舞台に近年しばしば取り上げられることとなってきている。 戦後のムーダンは女性が多く、降神巫と世襲巫がある。男性のムーダンはパクスともいう。クッには、個人の幸福を祈ったり、病気の治療、死者の供養、村の神様を祀るなど、様々な種類がある。.

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両班

両班(りょうはん、양반〈ヤンバン・韓国〉、량반〈リャンバン・北朝鮮〉)は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。 李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。 王族の次の身分として享受することは享受し、納税・他国の士族が負うような軍役の義務さえなかったため、「朝鮮の官人はみんなが盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」と兵役免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役免除、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利や家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪していた。30歳になっても笠を被ること(科挙合格)ができない者は12~13歳に笠を被った者から、「童」と呼ばれて下に扱われた。 イザベラ・バードは科挙を通じて「官」になれば、君臨と搾取に没頭するのが茶飯事だったとして、1897年の朝鮮紀行「吸血鬼」に比喩した。マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは『朝鮮事情』で「世界一傲慢な貴族階級」として記録に残している。身分が売買されたために両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の相当多数が戸籍上両班となっていた。 北朝鮮では「三大階層五十一分類の上位、韓国でも国会議員、公務員、大学教授、財閥一族を現代の両班だとの指摘されている。.

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三浦梧楼

三浦 梧楼(梧樓)(みうら ごろう、弘化3年11月15日(1847年1月1日) - 大正15年(1926年)1月28日)は、日本の武士、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。栄典は従一位勲一等子爵。号は観樹。.

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三政の紊乱

三政の紊乱(さんせいのびんらん)は、李氏朝鮮時代に国家財政の3大要素である田政、軍政、還政(政府保有米穀の貸与制度)が紊乱したことを言う。.

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丙寅洋擾

丙寅洋擾(へいいんようじょう、병인양요、ピョンイニャンヨ、)とは、1866年10月、フランス人宣教師の処刑(丙寅教獄)を契機として、李氏朝鮮とフランス帝国との間で発生した戦い。丙寅については、干支による紀年法を参照。 他のアジア諸国と同じく李氏朝鮮においても近代化は遅れており、近代的な軍隊と最初に遭遇した戦いとなった。しかし戦いは文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに勝利した朝鮮軍側の優位に進み、フランス軍は大きく装備に劣る軍隊によって数倍の損害を与えられ最終的にフランス軍は敗走した。同時期に発生したゼネラル=シャーマン号焼き討ち事件によるアメリカ合衆国の介入を阻止した辛未洋擾と合わせて、興宣大院君による孤立主義・排外主義に正当性を与える戦いとなった。こうした孤立路線は10年後に結ばれる日朝修好条規締結まで継続した。.

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丙寅教獄

丙寅教獄(へいいんきょうごく)とは、1866年3月に朝鮮で起こったキリスト教弾圧事件。天主教大弾圧、丙寅邪獄、丙寅教難ともいう。.

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乙未事変

乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された」(平凡社『世界大百科事典』)、「日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らは、反日派の中心人物と目された閔妃を、10月8日未明王宮内で殺害」(小学館『日本歴史大事典』)。韓国では閔妃の諡号を採って「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。.

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京畿道

京畿道(キョンギド、けいきどう、韓国語表記:)は、大韓民国北西部すなわち朝鮮半島中西部に位置する行政区で、朝鮮八道における「京畿道」からソウル特別市と仁川広域市、及び朝鮮民主主義人民共和国の統治範囲を除いた地域。道庁所在地は水原市。西は黄海に面している。 1945年の南北分断及び1953年の朝鮮戦争により京畿道は分断された。京畿道のうち、北朝鮮の実効支配下に置かれた開城地区は、北朝鮮では京畿道とは呼ばず、一時は直轄市とされていたが、現在は黄海北道の所属とされ、また開城工業地区が設定されている。 人口はソウル特別市より多く、韓国で最も人口の多い広域自治体である。.

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庶子

庶子(しょし)は、正室ではない女性から生まれた子供を指す語。結婚(婚姻)制度の確立により生じた概念である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた以外に嫡出庶出といった区別は意味を持たなかった。 結婚制度は、(1)相続権、親族関係の明確化といった世俗的な要求と、(2)性交渉に拘わるモラルの確立といった道徳的、宗教的な要求から生じて来たものであり、その枠外である庶子は、世俗的権利とモラルの両面において嫡子と差別をこうむることになる。 大小の差別を受けるにも拘わらず、庶子が存在したのは次のような理由が考えられる。.

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五衛

五衛(オウィ)は、李氏朝鮮の官庁。五衛都総府管轄。正三品衙門。 当初は全国防衛組織として機能していたが、成宗期以降の勲戚政治により、宗親が五衛の要職につくことが慣例化すると制度的崩壊がみられた。文禄・慶長の役において五軍営が設置されたことで、事実上の職務は大幅縮小されて宮殿警備のみとなっていた。これは大韓民国首都防衛司令部に近似している。.

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井上馨

長州五傑 井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係はない。 幼名は勇吉、通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、要職を歴任した。栄典は従一位大勲位侯爵、元老。.

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事大党

事大党(じだいとう、사대당、サテダン)は李氏朝鮮末期の保守的な党派に対する、開化派からの呼称。別称守旧派。1882年の壬午事変から日清戦争に至るまで朝鮮の政界を10年間支配した。 1882年壬午事変で大院君を退けた閔氏一族を中心に形成され、日本と結んで清からの自主独立と政治の革新を主張する独立党(開化派)に対し、伝統を守って宗主国の清への臣属を主張し政権の維持を図った。閔一族が袁世凱邸に特使を度々派遣、その意見を諮詢したことから、事大党には袁が推薦した閔慶植、閔泳駿、閔泳換、趙秉式らが属した。 1884年の甲申政変の後さらに清に接近し、優勢であったが、日清戦争に清が敗北し、乙未事変が起こるとともに衰え、多くは親露派に変わった。.

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仁祖

仁祖(インジョ、じんそ、万暦23年11月7日(1595年12月7日) - 順治6年5月8日(1649年6月17日)、在位:1623年3月13日 - 1649年5月8日)は李氏朝鮮時代の第16代国王。諱は倧(ジョン、종)。クーデターによって即位し、親明反後金政策を取ったため、後金軍の侵攻を受け、後に清と改称した後金に再度侵攻され服属を余儀なくされた。.

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弾圧

弾圧(だんあつ)は、加害行為。権力者側による弾圧を組織的弾圧と呼ぶこともある。.

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徐載弼

徐 載弼(ソ・ジェピル(朝鮮語:서재필)、じょ さいひつ、英語名:Philip Jaisohn(フィリップ・ジェイソン)、1864年1月7日 - 1951年1月5日)は、朝鮮の革命家。「韓国のヴォルテール」と呼ばれる。號は松齋、雙慶、筆名はOsia。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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フェリックス=クレール・リデル

フェリックス=クレール・リデル(、1830年7月7日 - 1884年6月20日)は、フランスのカトリック教会司教。パリ外国宣教会の宣教師として朝鮮に渡った。興宣大院君によるキリスト教弾圧(丙寅教獄)を生きのび、その後も朝鮮に対する宣教につとめた。漢名は李福明。.

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嘉慶 (清)

嘉慶(かけい、満洲語:、ローマ字表記:saicungga fengšen)は清の仁宗の治世中に使われた元号。1796年 - 1820年。一世一元の制を採用していたため仁宗は嘉慶帝と称される。.

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咸鏡道

咸鏡道(かんきょうどう、 ハムギョンド)は、李氏朝鮮の行政区分・朝鮮八道の一つ。1467年から1470年までと1498年から1896年まで使われていた名称。1896年に咸鏡北道と咸鏡南道に分割された。西を平安道と接し、南を江原道と接し、北は中国と国境を接していた。 咸鏡道という名称は主要都市の咸州と鏡城(咸鏡北道鏡城郡)から取ったものである。 朝鮮半島の東北部に位置し、朝鮮三国時代の一国である高句麗が領有しており、後に渤海が領有した。渤海が滅びると北部は女真族の地となり、朝鮮半島の王朝が占有していたのは南部のみとなった。高麗末期から李氏朝鮮初期にかけては東北面と呼ばれていた。太宗13年(1413年)に永吉道(永興・吉州より、永興は太祖李成桂の故郷)と改名され、道に組み込まれる。さらに太宗16年(1416年)咸吉道(咸州と吉州より)に改名された。 初めて咸鏡道と言う名前が出てくるのは世祖13年(1467年)であるが、成宗元年(1470年)に李施愛の乱に加担した李仲和の出身地・咸興が、府から郡への格下げと観察使営も永興に移されたことから、永安道(永興・安辺より、安辺は現在の北朝鮮の江原道安辺郡)と改称された。 永安道から咸鏡道に再び改名されたのは燕山君4年(1498年)4月4日である。.

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アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

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カール・イバノビッチ・ヴェーバー

ール・イバノビッチ・ヴェーバー(Karl Ivanovich Weber、1841年7月5日 - 1910年1月8日、Карл Иванович Вебер、韋貝、위패、日本語ではウェーバーまたはウェベルとも呼ばれる)はロシア帝国の外交官。.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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ジェネラル・シャーマン号事件

ェネラル・シャーマン号事件(ジェネラル・シャーマンごうじけん、)は、1866年(李氏朝鮮暦:高宗3年)にアメリカ合衆国の帆船ジェネラル・シャーマン号(1986年刊行の平凡社編『朝鮮を知る事典』では「武装商船」であるとする)が李氏朝鮮後期の朝鮮半島・羊角島に来航した際に起きた一連の事件。、アメリカ人乗組員が朝鮮の住民に対し殺害や略奪を行ったために朝鮮側が報復として焼き討ちし、撃退した事件としているが、。.

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ソウル特別市

ウル特別市(ソウルとくべつし、、漢字: 서울特別市 、英語:Seoul)、通称ソウルは、大韓民国の首都。かつての朝鮮王朝の首都「漢城府」である。日本統治時代の朝鮮では漢ではなく京を使い「京城府」と呼ばれた。.

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備辺司

備辺司(ピビョンサ)は、16世紀から19世紀中葉まで、ほぼ300年間存続した朝鮮王朝の軍事行政機関。1555年の乙卯倭変以来、常設機関となり、1865年、興宣大院君によって正式に廃止された。正一品衙門。.

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哲宗 (朝鮮王)

哲宗(チョルジョン、てっそう、철종、道光11年6月17日(1831年7月25日) - 同治2年12月8日(1864年1月16日))は、李氏朝鮮の第25代国王(在位:1849年 - 1863年)。諱は昪(ビョン、변)、初名は元範(ウォンボム、원범)。諡は忠敬 朝鮮日報 2007/09/16熙倫正極粹徳純聖欽命光道敦元彰化文顕武成献仁英孝大王。大韓帝国時代の1908年、哲宗章皇帝を追贈される。別名は江華童子(강화도령)であった。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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全州和約

全州和約(ぜんしゅうわやく)は、1894年6月10日(太陽暦)に、朝鮮政府と甲午農民戦争の指導者全琫準の間で結んだとされる和約。ただし、根拠となる一次史料は発見されていない。.

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全ボン準

全琫準 全 琫準( 전봉준、ぜん ほうじゅん、1854年 - 1895年4月24日(旧暦3月30日))は、朝鮮国(李朝)後期の人物。東学の主要人物のひとりで、甲午農民戦争の契機をつくった。.

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兪吉濬

兪 吉濬(ユ・ギルチュン、1856年 - 1914年9月30日)は、李氏朝鮮末期の政治家、啓蒙思想家。本貫は杞渓。字は聖武。号は矩堂。.

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光武 (元号)

光武(こうぶ、、クァンム)は李氏朝鮮・大韓帝国で用いられた元号。建陽2年(1897年)8月16日に改元して光武を用い、同年10月に国号を大韓帝国と改めた。光武元号は1907年8月2日に隆熙に改元されるまで使用された。.

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勢道政治

勢道政治(せいどうせいじ、)とは李氏朝鮮の後期の政治形態。「世道政治」とも。王の信任を得た人物あるいは集団が政権を独占的に担う状態を指す。もともとは「有能な人物が王を輔佐し世の中を教化する」という士林派の思想を基礎にしたものであるが、正祖の子純祖以降は幼君が相次いだため外戚や寵臣が政権を壟断する状態に変質し、国政の私物化が進み李氏朝鮮の衰退を招いた。.

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国王

国王(こくおう、英語:king, フランス語:roi, ドイツ語:König, ノルド語:kong, ラテン語:rex)は、国の君主(王)を指し、その称号(君主号)でもある。特に男性である場合(男王)を指す。.

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神父

(しんぷ、πατήρ, pater, Father, don, отец (батюшка))とは、正教会・東方諸教会・カトリック教会で、司祭に対して呼びかける際に用いられる敬称正教会の出典:カトリック教会の出典:。.

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神貞王后

貞王后(しんていおうこう、嘉慶13年12月6日(1809年1月21日) - 光緒16年4月17日(1890年6月4日))は、第24代朝鮮王憲宗の実母。孝明世子(第23代国王純祖の長男)の正室。また第26代朝鮮王高宗の養母。 憲宗が即位後、父の孝明世子に翼宗の廟号を追贈したことにより、神貞王后も王后になった。また大韓帝国創建後、養子の高宗から皇后も追贈された。正式な諡号は、孝裕献聖宣敬正仁慈恵弘徳純化文光元成粛烈明粋協天隆穆寿寧禧康顕定徽安欽倫洪慶泰運昌福熙祥懿謨睿憲敦章啓祉景勲哲範神貞翼皇后である。歴代の朝鮮王后の諡号の中で最も長い。実家は豊壌趙氏で、父は趙万永(豊恩府院君)、母は徳安府夫人宋氏。高宗が即位する際、高宗の実父興宣大院君とともに高宗擁立に大きな役割を果たした。.

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福寧君

福寧君(ふくねいくん、プクニョングン、복녕군、崇禎12年(1639年) - 康熙9年10月15日(1670年11月27日))は、李氏朝鮮中期の王族。本名は李栯(イ・ユ、이유)。父麟坪大君と母福川府夫人呉氏の長男である。血統からいえば嫡長子なので、承襲者としての恩恵を受けることができた。昭顕世子や孝宗とは親密な間柄で粛宗期には三福とよばれ、政治的大きな影響を及ぼして、謀逆の疑惑などを潜り抜け、王族の身位を保持した。32歳という若さで夭折するが、国王と親しい間柄であったので、葬儀は盛大に執り行われた。党派は南人で実際には兄弟2人が処刑されている。ちなみに直系6世孫に興宣大院君がおり、それ以降の血統は李王家王統につながる。また7世孫高宗からは孝献の諡号を追尊された。.

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禹範善

禹 範善(ウ・ボムソン、우범선、1858年 - 1903年11月24日)は乙未事変で閔妃殺害に加わった朝鮮王朝末期の武官。.

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租税

租税(そぜい、税(ぜい)、tax)とは、国や地方公共団体(政府等)が、公共財や公共サービスの経費として、法令の定めに基づいて国民や住民に負担を求める金銭である。現代社会においてほとんどの国が物納や労働ではなく「お金(おかね、その国で使用されている通貨)」による納税方法を採用しており、日本では税金(ぜいきん)と呼ばれている。 税制(ぜいせい)とは、「租税制度」を指す用語であり、国家の運営に係る歳入歳出(財政)の根幹、また政治経済(経世済民)そのものである。商売や契約・取引等の行為及び所得や有形無形の財産などに対して税を賦課することを課税(かぜい)、課税された税を納めることを納税(のうぜい)、徴収することを徴税(ちょうぜい)、それらについての事務を税務(ぜいむ)という。政府の財政状況において租税徴収額を減額することを減税、逆に増額することを増税という。.

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甲午農民戦争

午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年(甲午)に朝鮮で起きた農民の内乱である。関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱とも呼ばれる。なお、大韓民国では東学農民運動や東学農民革命と呼ばれている。 この戦争の処理を巡って、大日本帝国と清国の対立が激化し、日清戦争に発展する。.

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甲午改革

午改革(こうごかいかく)は、李氏朝鮮で1894年(干支で甲午)から1895年にかけて行われた急進的な近代化改革である。1895年から1896年にかけて行われた乙未改革も甲午改革の一部として、全体を甲午改革と呼ぶこともある。.

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甲申政変

申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。.

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花房義質

花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1917年(大正6年)7月9日)は、明治、大正期の外交官。岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は枢密顧問官、日本赤十字社社長など。.

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韓国放送公社

韓国放送公社(かんこくほうそうこうしゃ、한국방송공사, Korean Broadcasting System, KBS)は、大韓民国(韓国)のラテ兼営公共放送局である。略称は、2001年以降は韓国放送も併用している。 2003年から2004年にかけて、ドラマ『冬のソナタ』が日本でヒットして韓流ブームに火をつけた。 2018年の指標(スローガン)は「希望と感動 KBSがともにあります」。.

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鎖国

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた『』 P.183 小林庄次郎 1915年。 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。及びオランダネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。(オランダ東インド会社本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。 なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。。.

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鍾路区

鍾路区(チョンノく、)は大韓民国、ソウル特別市都心部にある区である。 青瓦台など大韓民国の主要公共機関や、鍾路や寛鉄洞などの繁華街がありソウル都心の一部となっている。また景福宮、昌徳宮など歴史的な建造物も多い。大学路を中心にソウル大学など多くの大学が立地する文化の街としても知られる。また日本でも有名な東大門市場のある繁華街「東大門」は東大門区ではなくこちら鍾路区にある。この様に多くの繁華街を抱える鍾路区は昼夜を問わず賑やかな街である。.

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荘献世子

荘献世子(そうけんせいし、チャンホンセジャ、雍正13年1月21日(1735年2月13日)-乾隆27年閏5月21日(1762年7月12日))は李氏朝鮮の第21代王英祖の次男。諱は愃(ソン、선)。思悼世子(しとうせいし、サドセジャ、사도세자)とも呼ばれる。第22代王正祖の父。第23代王純祖の祖父、第24代王憲宗の高祖父、第25代哲宗の曾祖父である。.

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袁世凱

袁 世凱(えん せいがい、 ユエン・シーカイ 1859年9月16日(咸豊9年8月20日) - 1916年6月6日)は、中国清末民初期の軍人・政治家。北洋軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任。一時期中華帝国皇帝として即位し、その際に使用された元号より洪憲皇帝と呼ばれることもある。字は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。.

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馬建忠

建忠(ば けんちゅう、Ma Jianzhong、1845年2月9日 - 1900年8月14日)、は、清末の思想家・外交官・言語学者。字は眉叔。江蘇省鎮江出身で馬建勛・馬相伯の弟。.

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訓錬都監

訓錬都監(フルリョントガム)は、李氏朝鮮の首都防衛を行う軍営の1つ。.

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驪興閔氏

驪興閔氏(れいこうびんし、여흥민씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は京畿道驪州市である。2000年調査では、142572人。 始祖は、孔子の弟子である閔子騫の末裔であり、元々は中国山東地方の人閔称道である。高麗に使者として渡来し、驪興付近に定住した。 李氏朝鮮の3代王太宗の妃(彰徳昭烈元敬王后)を出し、4代世宗以降はこの血統を受け継いでいるが、驪興閔氏自体は17世紀末に19代粛宗の妃仁顕王后を出しただけで、王朝では決して有力な家門ではなかった。 19世紀中ごろ、驪興閔氏出身の女性の一人が、本流から外れた王族の李昰応の夫人となった。彼女が生んだ次男の命福が26代高宗となり、李昰応が興宣大院君となった。 外戚として勢威を振るっていた安東金氏の影響力を排除するため、高宗の妃も驪興閔氏の閔致禄の娘が選ばれた。閔妃(明成皇后)である。閔妃は一族を積極的に登用し、大院君が失脚すると驪興閔氏が政権の重職を占めた(閔氏政権)。.

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高宗 (朝鮮王)

宗(ゴジョン、こうそう、、1852年7月25日 - 1919年1月21日)は、李氏朝鮮第26代国王(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)、後に大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)。韓国併合後は大日本帝国の王族として徳寿宮李太王と称された。 姓は李(イ、)、諱は㷩(熙の異体字(れっかではなく火)、ヒ、)、初諱は載晃(ジェファン、)、幼名は命福(ミョンボク、)、小字は明夫(ミョンプ、)、字は聖臨(ソンニム、)、号は珠淵(チュヨン、)。諡は統天隆運肇極敦倫正聖光義明功大徳尭峻舜徽禹謨湯敬応命立紀至化神烈巍勲洪業啓基宣暦乾行坤定英毅弘休寿康文憲武章仁翼貞孝太皇帝。即位時の年号をとって光武皇帝(クァンムファンジェ、こうぶこうてい、광무황제)と呼ぶこともある。即位前は翼成君(イクソングン、よくせいくん、익성군)に封じられていた。.

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高陽郡

陽郡(こうよう-ぐん)は、かつて存在した郡。.

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議政府

議政府(ぎせいふ、ウィジョンブ)は、李氏朝鮮における最高行政機関。正一品衙門。 この機関が創設されたのは、1400年(定宗2年)に都評議使司、門下府を統合して創設される。翌年1401年(太宗元年)門下府の機能を独立させ、司諫院とした。.

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豊壌趙氏

豊壌趙氏(ほうじょうちょうし、풍양조씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は豊壌(南楊州)である。 豊壌は三国史記にもある地名で、高句麗の骨衣内(骨衣奴)を景徳王が荒壌県と改名したものである。 始祖は高麗建国の功臣・趙孟。趙孟は豊壌県の有力者ではじめは趙巌と名乗っていたが、後三国時代に王建に味方し、王建から孟の名を下賜された。 李氏朝鮮後期には、安東金氏との権力抗争を行ったことで知られている。安東金氏を牽制するために純祖によって趙万永ら豊壌趙氏の一族が重用された。孝明世子の妃に趙万永の娘が選ばれ(神貞王妃)、彼女は憲宗を生んだ。豊壌趙氏と安東金氏はそれぞれ外戚として権力を争ったが、憲宗の没後、安東金氏によって哲宗が立てられると、敗れた。 Category:朝鮮の氏族.

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豆満江

豆満江(咸鏡北道会寧市松鶴里・吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市白金郷付近) 豆満江(とうまんこう、朝鮮語:두만강)は、中朝国境の白頭山(中国名:長白山)に源を発し、中華人民共和国(中国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシアの国境地帯を東へ流れ日本海に注ぐ、全長約500kmの国際河川である。 豆満江(두만강)は朝鮮語での呼称で、韓国と北朝鮮に於いての違いはない。語源は「万」を意味する満州語「トゥメン」であり、満州語ではトゥメン・ウラ( 転写:tumen ula)と称する。中国語では図們江と表記する(Túmenjiāng, トゥーメンチャン、簡体字:)。.

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軍事

軍事(ぐんじ、Military affairs、Res militaris レース・ミーリターリス)とは戦争、軍人、軍隊などに関する事柄の総称であるこの定義は決して厳密なものではない。。.

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軍役

軍役(ぐんやく、ぐんえき)は、戦時、武士が主君に拠出すべく課せられる軍事力や兵糧その他である。.

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辛未洋擾

辛未洋擾(しんみようじょう、신미양요、シンミヤンヨ)とは、ジェネラル・シャーマン号事件を発端として1871年(明治4年)に起きた、朝鮮国軍によるアメリカ艦隊の測量船への奇襲に端を発した交戦である。辛未については干支による紀年法を参照。.

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露館播遷

露館播遷(ろかんはせん、아관파천、Бегство Коджона в русскую миссию、1896年2月11日 - 1897年2月20日)とは、李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことを言う。韓国でも古くは日本語での表記と同じように「露館播遷」と呼ばれたが、最近では俄館播遷と呼ばれることが多い。俄館露遷との記述もある。 高宗がロシア公使館で政務を執り行った結果、ロシアは年表に示す利権を獲得し、他の欧米列強も同等の利権を獲得することになった。 また、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、後に日露戦争時に中立を宣言したが日露両国から無視されるような結果となった。.

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露朝密約事件

露朝密約事件(ろちょうみつやくじけん)とは、19世紀末の朝鮮政府が清や日本、イギリスを牽制するため、秘密裏にロシア帝国と交渉を行い、軍事的援助と保護を求めたとされる一連の事件。1885年(第一次)、1886年(第二次)の二つがある。.

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閔升鎬

升鎬(びん しょうこう、ミン・スンホ、1830年 - 1874年11月)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗 李煕の妃 閔妃の義兄。興宣大院君の府大夫人閔氏の弟。父は府大夫人閔氏の父、閔致久であるが、閔致禄に養子となり閔妃の義兄となった。 本貫は驪興閔氏、字は復卿、諡は忠正。 閔妃が王妃となってからは高官にのぼりつめ、閔氏一族による勢道政治の中心となったが、大院君派からと噂される爆弾で死亡した。.

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閔妃

妃(びんひ、ミンピ、ミンビ、1851年10月19日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后(めいせいこうごう、ミョンソンファンフ)、朝鮮王后(閔氏)とも呼ばれる。本貫は驪興閔氏。尊号は孝慈元聖正化合天 、諡号は孝慈元聖正化合天洪功誠徳斉徽烈穆明成太皇后。 国王の正妃として強い権力を持ったが、真霊君の預言に依存し、世道政治と官吏の汚職、そして義父興宣大院君との権力闘争により政局を混乱させた 朝鮮訓錬隊、朝鮮警務使などに開化派や大院君派など閔妃の国政壟断に不満を持つ朝鮮人に加えて、日本軍守備隊、領事館警察官、大陸浪人らが乙未事変で王宮内に侵入し、閔妃は景福宮・乾清宮内で禹範善に暗殺された。死後、高宗の父で対立していた興宣大院君によって平民に降格されたが、のちに復位している。 そもそも本来「閔妃」とは「閔氏の王妃」という意味で固有名詞ではないが、近代朝鮮史で「閔妃」と言えばこの高宗の妃を一般に意味する。.

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開化派

開化派(かいかは、개화파、ケファパ)は、李氏朝鮮末期の政治グループ。別称独立党。.

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蔚山広域市

蔚山広域市(ウルサンこういきし、韓国語表記:)は、大韓民国南東部に位置する広域市。1997年7月15日に広域市に昇格する前は慶尚南道に属していた。市のスローガンは「Ulsan for you」。.

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金弘集

金 弘集(キム・ホンジプ、ハングル表記:김홍집).

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金玉均

金 玉均(キム・オッキュン、、きん ぎょくきん、1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家で朝鮮独立党の指導者。李朝時代後期の開明派として知られる。字は伯温(ペゴン、)、号は古愚(コウ、)。本貫は安東(新安東金氏)。朝鮮の近代化を目指し、日本・中国と同盟し3国でアジアの衰運を挽回するべきだという「三和主義」を唱えた。.

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金東仁

金 東仁(きん とうじん、1900年10月2日 - 1951年1月5日)は朝鮮の小説家である。自然主義作家。歴史小説家。号は琴童、または春士。金東仁の描写法は、作家の主観とか賢言が省かれた客観と正確を試み、李光洙の文章には見られなかった洗練されたものを匂わせている。.

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英祖 (朝鮮王)

英祖(ヨンジョ、えいそ、康熙33年9月13日(1694年10月31日) - 乾隆41年3月5日(1776年4月22日))は李氏朝鮮時代の21代国王(在位:1724年8月30日 - 1776年3月5日)。諱は昑(グム、금)。字は光叔(クァンスク、こうしゅく、광숙)。諡号は荘順 朝鮮日報 2007/09/16至行純徳英謨毅烈章義弘倫光仁敦禧体天建極聖功神化大成広運開泰基永堯明舜哲乾健坤寧配命垂統景暦洪休中和隆道粛荘彰勲正文宣武熙敬顕孝大王。即位前は延礽君(ヨニングン)と称し、粛宗の次男にあたる。母は和敬淑嬪崔氏。朝鮮王朝の歴代君主中最も長生きした君主であり、在位期間もおよそ52年間と最も長かった。.

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雲ケン宮

雲峴宮(うんけんきゅう、운현궁、ウニョングン)は、現在の大韓民国ソウル特別市鍾路区に位置する李氏朝鮮時代の宮殿。興宣大院君の旧居であり、子高宗も12歳で即位するまでを過ごした。1863年に正式に雲峴宮として呼ばれるようになった。大院君は1873年の弾劾後ここで一旦隠居し、さらに壬午事変後の1885年から再びここで暮らし院政の本拠とした。閔妃一派との政争に明け暮れるが1894年からは1898年に死去するまでここに幽閉された。.

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老論派

老論派(ろうろんは、ノロンパ)は、李氏朝鮮の党派の一つ。粛宗の外戚に対し批判的な少論派(しょうろんは、ソロンパ)との対比で使われる事が多い。この派閥にも僻派(貞純王后)と時派(金鐘秀)と2つの勢力がある。 元は西人で、1680年の庚申換局の時に少論と老論に分裂した。主に宋時烈の支持者で構成されたが、1684年にが死去、1689年に宋時烈が処刑されたことで勢力が減退した。老論派を支持した仁顕王后は1701年に死去したが、1724年に英祖が即位すると政権に返り咲いた。.

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暗行御史

暗行御史(あんこうぎょし、アメンオサ、朝鮮語:암행어사)は、李氏朝鮮において、地方官の監察を秘密裏に行った国王直属の官吏である。正規の地方行政監察制度の不備を補い、国王権力を強化するために設置されたが、政争に利用されることもあった。史書に初めてこの語が現れるのは1555年(明宗5年、明:嘉靖34年)であるが、実質的に最初の暗行御史は1509年(中宗4年、明:正徳4年)であったと見られる。高宗時代の1892年まで存在した。.

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林泰輔

林 泰輔(はやし たいすけ、1854年(安政元年) - 1922年(大正11年))は、日本の漢学者。下総の人。号は進斎。 東京高等師範学校教授を務め、著書『周公と其時代』で学士院恩賜賞を受賞、『亀甲獣骨文字』の刊行で日本の甲骨学の先駆者となる。その甲骨文の研究は羅振玉にも影響を与え、甲骨学の大成に貢献した中西 P.812貝塚(書道全集) PP..13-14。.

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揀択

揀択(カンテク、正式名称は揀擇)とは、李氏朝鮮で王室の女性となる者(王妃、世子嬪など)を選ぶ行事である。.

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李完用

李 完用(り かんよう、1856年7月17日(旧暦咸豊6年6月7日) - 1926年2月12日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家。勲等は大勲位。爵位は侯爵。 大韓帝国の内閣総理大臣、大日本帝国の朝鮮総督府中枢院副議長などを歴任した。.

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李コウ (義親王)

李 堈(り こう(日本語読み)、イ・ガン(朝鮮語読み)、1877年3月30日 - 1955年8月17日)は、大韓帝国の皇族(親王)、のち大日本帝国の公族。朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝高宗の五男。.

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李ジュン鎔

李埈鎔(イ・ジュンヨン(朝鮮語読み)、り しゅんよう(日本語読み)、1870年6月25日 - 1917年3月22日)は、李氏朝鮮末期の王族、大韓帝国の皇族。李王家の一族で、日本の公族。 父は大韓帝国皇帝高宗の兄・李載冕(完興君・李熹公)。母は洪氏。興宣大院君の嫡長孫。純宗、李王垠、李堈公の従兄弟。養子に鍝(李堈の次男)。字は景極、号は石庭、松亭。日本での名は埈。李埈公。.

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李球

南延君李球(1788年 - 1836年5月5日)は、李氏朝鮮の宗親。本貫氏派は全州李氏延齢君派。李秉源第2子。初諱は「寀重」。諱は「球」。字は「時伯」。諡号は「忠正」。爵号は「南延君」。第4子は興宣大院君。 曽祖父安興君以降は王位承継権はなく、誕生から約30年間は貧困生活であった。延齢君派家督となり、爵位を叙爵されて、官職を歴任した。当時は勢道政治により宗親没落期で、当時の宗親代表格が南延君であり、純祖から保護された。一方で無勤務・不適切行為・職権乱用などで批判・弾劾が多数なされており、純祖実録では不適切人物としての記述が多いが、哲宗実録には模範的人物としての記述がなされた。 卒去後にドイツ連邦商人エルンスト・ヤーコプ・オッペルトが引き起した忠清南道礼山郡での副葬品破損事件は有名であり、当時の鎖国政策を強硬化させた。.

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李秉源

李 秉源(り へいげん、1752年(乾隆17年) - 1822年)は、李氏朝鮮の両班。本貫氏派は全州李氏麟坪大君派。李鎮翼第2子。諱号は「秉源」。字号は「景深」。第2子は南延君である。 系統は仁祖第3子で5代祖麟坪大君傍系である。生前時の実父李鎮翼は蔭位制により嘉善大夫・漢城府右尹であったが、若年時の李秉源は官位官職にありつけなかった。 1783年式年試合格者100人中44位であり、3等14位として生員認定された。1833年5月13日、第2子南延君上疏で70歳の李秉源に官位を要請すると、純祖が承諾した。5月16日、通政大夫に叙位。卒去後に議政府左賛成を追贈される。1864年2月17日、興宣大院君により議政府領議政を追贈される。.

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李鎮翼

李 鎮翼(り ちんよく、1728年 - 1796年6月1日)は、李氏朝鮮の両班。本貫氏派は全州李氏麟坪大君派。安興君第1子。諱号は「鎮翼」。字号は「雲卿」。 系統は仁祖第3子で高祖父麟坪大君嫡流である。高宗は玄孫である。 蔭位制登用により守令・武官などの要職を歴任した。卒去後は吏曹判書・議政府左賛成に追贈。.

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李載冕

李 載冕(イ・チェミョン、1845年8月22日(道光25年7月20日) - 1912年9月9日)は、李氏朝鮮の王族。高宗の兄。興宣大院君の長男。.

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李載先

李 載先(り さいそぬ 、? - 1881年10月28日)は、李氏朝鮮末期の武臣、政治家。 彼は興宣大院君は最初の息子だったが庶子であり、興宣大院君の技女妾が産んだ。高宗と興親王李載冕は彼の嫡兄弟であった。哲宗末期とき彼は武科に及第し、弟が高宗の朝鮮王即位した後彼は軍官職を歴任した。1874年11月には、摂政にあった興宣大院君がグォルムン出入りを拒否されて権力の座から追放された。しかし彼はずっと軍官を務めた。 1881年 興宣大院君の追放に不満を抱いた興宣大院君の側近は、衛正斥邪と一緒結託して高宗と閔妃を廃位させと彼を朝鮮国王に選出しようとした。 1881年8月29日政変2週間前、広州南漢山城の兵士たちが義禁府に報告しており、そして彼の妹婿李允用は高宗と明成皇后を訪ねて直接暴露した。同年9月3日、政変関係者30人が義禁府の逮捕されと同時に各所で彼も弾劾を受けて、続いた文武高官の弾劾、糾弾の末尾に彼は済州島済州牧に流刑された。政変関係者30人は義禁府の尋問後に斬首型された。1881年10月28日彼は高宗に死薬を受けて死刑した。.

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

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李氏朝鮮後期の農民反乱

ここでは、李氏朝鮮後期の農民反乱について説明する。.

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李最応

李最応(り さいおう、イ・チェウン、1815年 - 1882年)は、李氏朝鮮の王族で興宣大院君の兄。称号は興寅君。字は良伯、号は山響。謚号は文忠。 大院君政権では要職に就くことはなかったが、1873年大院君の失脚で閔氏政権に登用され、1874年左議政、翌年には領議政になった。 1880年統理機務衙門が設置されると、その総理大臣となった。1882年の壬午事変の際に自宅を襲撃され殺害された。.

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機関 (法)

法律用語としての機関(きかん、Organ)とは、ドイツ法や日本法における概念で、法人のために意思決定や行為を行う一または複数の者をいう。生物の器官(Organ)になぞらえた表現である。 なお、法令用語としては、省庁などの組織を指して「機関」ということもある(国家行政組織法など)が、本項ではこの用語については扱わない(行政機関を参照)。.

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江華島

江華島(カンファド、こうかとう)は、大韓民国(韓国)のソウル特別市の北西の京畿湾(黄海)に位置する島。行政上は仁川広域市江華郡に属する。日本では「こうかとう」の読みが馴染み深い。.

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江華島事件

海軍旗章(右大臣通達 明治6年12月24日)。なお、この当時の韓兵は白衣である。 江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。.

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済物浦条約

済物浦条約(さいもっぽじょうやく)とは、1882年8月30日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。済物浦は朝鮮語読みで「チェムルポ」、仁川の旧称。 壬午事変(壬午軍乱)での日本公使館焼き討ち事件等の事後処理のために結ばれた。.

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漢城条約

漢城条約(かんじょうじょうやく)とは、1885年(明治18年)1月9日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。「漢城」は朝鮮の首都で現在のソウル特別市。甲申政変後の日朝間の講和を目的に締結された。日本側全権大使は井上馨、朝鮮側全権大臣は金弘集であった。 甲申政変に関する条約は、他に日本が清国と締結した天津条約がある。.

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朝鮮王朝五百年

朝鮮王朝五百年または朝鮮王朝500年(ちょうせんおうちょう ごひゃくねん、朝鮮語: チョソンワンジョ オベンニョン、ハングル: 조선왕조 오백년)のタイトルを持つ作品のうち、本稿においては以下の2作品について述べる.

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朴泳孝

朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代の朝鮮における貴族で実業家。日本名は山崎 永春。.

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明成皇后 (テレビドラマ)

『明成皇后』(ミョンソンこうごう、朝鮮語: ミョンソン ファンフ、ハングル: 명성황후)は、韓国KBSにて2001年5月9日から2002年7月18日まで放送されたテレビドラマ(時代劇)。全124話。.

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昌徳宮

昌徳宮 (しょうとくきゅう、朝鮮語読み チャンドックン)は韓国ソウル特別市に所在する李氏朝鮮の宮殿。.

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斥和碑

斥和碑(せきわひ、척화비)ないし斥洋碑(せきようひ)とは、同治10年(1871年)に大院君政権(第一次)によって李氏朝鮮全土に建てられた鎖国政策維持の固い意志を示した石碑。.

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文化放送 (韓国)

株式会社文化放送()かぶしきがいしゃムナほうそう、朝鮮語:문화방송、朝鮮漢字:株式會社文化放送)は大韓民国の全国を放送エリアとするテレビ・ラジオ兼営放送局。略称はMBC。キャッチコピーは「좋은친구MBC(いい友達MBC)」。 日本語に直訳すると「株式会社 文化放送」であるが、東京都港区にあるラジオ局の文化放送と区別するために「韓国文化放送」と呼ばれたり、鹿児島県鹿児島市にあるラテ兼営局の南日本放送の略称MBCと区別するために「韓国MBC」と呼ばれたりしている。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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日朝修好条規

日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年、時憲暦光緒2年=高宗13年)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが通例として朝鮮國との修好条規、日朝修好条規、日鮮修好条規などと呼称する。江華島で調印されたため江華(島)条約(강화도조약)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約ともいう。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。.

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早稲田大学

大隈重信立像(朝倉文夫作) 登台した学生は退学の内規あり 東京専門学校 大正時代の早稲田大学の正.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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政治

本記事では政治(せいじ)とは何かについて解説していく。.

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憲宗 (朝鮮王)

憲宗(ホンジョン、けんそう、道光7年7月18日(1827年9月8日) - 道光29年6月6日(1849年7月25日))は、李氏朝鮮の第24代国王(在位:1834年 - 1849年)。諱は烉(ファン、환)。字は文応(ムヌン、ぶんおう、문응)。号は元軒(ウォンホン、げんけん、원헌)。諡は荘粛 朝鮮日報 2007/09/16体健継極中正光大至聖広徳弘運章化経文緯武明仁哲孝大王。わずか8歳で即位し、病弱だったため、23歳で崩御した。純祖の孫で、孝明世子の息子。母は趙万永の娘神貞王后。純祖の妃である純元王后が摂政となっていたが、安東金氏(純元王后の実家)と豊壌趙氏(憲宗の母神貞王后の実家)の勢力争いがあった。なお、正祖の血を引く王としては最後の王である。 陵は京畿道九里市にある景陵。.

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慶尚道

慶尚道(キョンサンどう、日本読み:けいしょうどう)は、朝鮮八道の一つ。1896年に慶尚南道と慶尚北道に分かれた。現在は慶尚北道に属する慶州と尚州から頭文字を取って命名された。古代の遺跡や古都がある点は日本の近畿地方に似ている。韓国の歴代大統領12人(代行は除く)のうち8人が慶尚道出身であるなど、有名政治家、実業家を輩出している。広域市も釜山、蔚山、大邱の3つがある。慶尚道地域のうち、現在の大邱広域市と慶尚北道の領域はTK地域、釜山広域市と蔚山広域市と慶尚南道の領域はPK地域と呼ばれる。 韓国の主要政党で、李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)時代に与党だった自由韓国党(大邱市と慶尚北道を地盤としていた民主正義党と、釜山市と慶尚南道を地盤としていた統一民主党などが合同して1990年に結成された民主自由党の流れを汲む保守政党)はこの慶尚道を強固な支持基盤としていたが、2017年の大統領選挙では、自由韓国党の洪準杓が共に民主党の文在寅にPK地域で敗れるなど、近年は慶尚道地域の政党支持に変化がみられる。.

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書院

書院(しょいん).

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曹(そう)は部屋を意味する漢字。転じて漢字圏の官制における名称となった。近代日本ではもっぱら軍隊における階級区分の一つとして用いられる。.

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景福宮

景福宮(けいふくきゅう、경복궁、キョンボックン)は、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮である。現在の韓国のソウル特別市にある。.

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時憲暦

西暦1895年に調印された下関条約。右頁に書かれている締結日は、既にグレゴリオ暦を導入していた日本の日付が「明治二十八年四月十七日」となっているのに対して、時憲暦であった清の日付は「光緒二十一年三月二十三日」となっている。 時憲暦(じけんれき、満州語: 、転写: forgon i yargiyan ton)は中国暦の一つで、公式なものとしては中国で最後に使われた太陰太陽暦の暦法である。西洋天文学の成果を取り入れ、太陰太陽暦では初めて定気法が採用された。.

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11月16日 (旧暦)

旧暦11月16日は旧暦11月の16日目である。六曜は友引である。.

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11月3日

11月3日(じゅういちがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から307日目(閏年では308日目)にあたり、年末まであと58日ある。.

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11月6日

11月6日(じゅういちがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から310日目(閏年では311日目)にあたり、年末まであと55日ある。.

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12月10日

12月10日(じゅうにがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から344日目(閏年では345日目)にあたり、年末まであと21日ある。.

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12月13日

12月13日(じゅうにがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から347日目(閏年では348日目)にあたり、年末まであと18日ある。.

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12月21日

12月21日(じゅうにがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から355日目(閏年では356日目)にあたり、年末まであと10日ある。.

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12月8日

12月8日(じゅうにがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から342日目(閏年では343日目)にあたり、年末まであと23日ある。.

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1805年

記載なし。

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1820年

記載なし。

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1852年

記載なし。

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1862年

記載なし。

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1863年

記載なし。

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1865年

記載なし。

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1866年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1873年

記載なし。

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1874年

記載なし。

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1875年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1877年

記載なし。

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1880年

記載なし。

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1882年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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1885年

記載なし。

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1891年

記載なし。

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1892年

記載なし。

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1894年

記載なし。

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1895年

記載なし。

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1897年

記載なし。

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1898年

記載なし。

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2月22日

2月22日(にがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から53日目にあたり、年末まであと312日(閏年では313日)ある。.

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2月2日 (旧暦)

旧暦2月2日(きゅうれきにがつふつか)は旧暦2月の2日目である。六曜は先負である。.

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5月9日

5月9日(ごがつここのか)はグレゴリオ暦で年始から129日目(閏年では130日目)にあたり、年末まではあと236日ある。誕生花はクレマチス。.

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7月25日

7月25日(しちがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から206日目(閏年では207日目)にあたり、年末まであと159日ある。誕生花はインパチェンス、スイセンノウ。.

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