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琉球王国

索引 琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。.

355 関係: 城間清豊おなり神おもろおもろさうし占領南西諸島口語台湾台湾人向元瑚吉屋チルー壺屋焼大航海時代大業大正天王寺天照大神太平寰宇記奄美大島奄美群島奄美群島の歴史宜野湾朝祥宜湾朝保宗門改安土桃山時代宋 (王朝)察度尚寧王尚巴志王尚徳王尚円王尚穆王尚真王尚豊王尚賢王尚金福王尚泰久王尚泰王尚清王尚敬王山口宗季島津氏崩御与那原良矩与那国島帝国大学中央集権中山世鑑中国中国大陸...中国人中国人による沖縄県への認識中国武術中国文明中継貿易世界遺産万国津梁の鐘万暦三司官平田典通平敷屋朝敏久米三十六姓仲村渠致元廃藩置県付庸国伊波普猷張献功佐賀藩徐葆光御主御座楽御後絵御殿 (沖縄)律令制念仏踊り志多伯天将志魯・布里の乱北史ミラード・フィルモアマラッカ王国マカオマシュー・ペリーマジャパヒト王国バーナード・ジャン・ベッテルハイムポルトガルムラカユリシーズ・グラントヨーロッパルートヴィヒ・リースブタドミニコ会ベトナム嘉永喜界島咸豊和歌和文アメリカ合衆国大統領アメリカ海軍アニミズムエイサーオヤケアカハチの乱キリシタンキリスト教クーデターグスタフ・シュレーゲルタイ王国唐手冊封円覚寺 (那覇市)八幡神八重山八重山キリシタン事件元 (王朝)元禄先島諸島兵站国立公文書館倭寇候文石垣島石垣永将玉城朝薫玉陵王国火刑琉球琉球の位階琉球古武術琉球大学琉球冊封使の一覧琉球八社琉球国琉球国王琉球王国琉球神道琉球競馬琉球独立運動琉球語琉球諸島琉球舞踊琉球藩琉球漆器琉米修好条約琉歌神社神父祖先崇拝福音書程順則空手道第一尚氏第二尚氏紅型紋章総地頭羽地朝秀真言宗県令組踊熊野権現芥隠承琥隋書鎖国聞得大君遺伝子道教鍋島直彬華族頼重行基図袋中親雲上首里首里城香港豊臣秀吉足利義満路次楽鹿児島県舜天阿片戦争薩摩藩間切開国那覇市肥前国鄭和臨済宗釉薬鉱山英祖 (琉球国王)通典考古学陶磁器柔遠駅恩納なべ提督李氏朝鮮東南アジア東京大学東アジア東シナ海東風平朝衛東郷平八郎松田道之梵鐘椿説弓張月正史武家政権武術歴代宝案殷元良殿内江戸上り江戸時代沖宮沖縄三十六歌仙沖縄県沖縄県の歴史沖縄諸島沖縄本島沖縄戦沖縄方言沖縄料理泡盛波上宮源為朝漢詩漢文漆器朝鮮朝鮮王朝実録朝貢末吉宮本部朝救札幌大学朱印船朱肉按司按司地頭惣慶忠義戦国時代 (日本)明治維新海禁浄土宗浄土真宗新約聖書文禄・慶長の役文献通考文語体日琉同祖論日清戦争日本日本人街日本列島摂政慶長手 (沖縄武術)曲亭馬琴普天満宮10月16日12世紀1336年13世紀1421年1429年1439年1449年1453年1462年1469年1476年1492年14世紀1500年1522年1531年1545年1567年1571年1585年1603年1609年1617年1622年1623年1624年1632年1634年1636年1643年1650年1651年1653年1658年1668年1669年1670年1673年1676年1678年1682年1684年1686年16世紀1700年1710年1715年1718年1719年1727年1729年1734年1741年1743年1745年1747年1749年1762年1765年1774年1789年1791年1797年1805年1811年1814年1827年1833年1836年1844年1846年1847年1851年1853年1854年1871年1872年1874年1875年1877年1879年1895年1897年1898年4月4日610年636年779年7世紀 インデックスを展開 (305 もっと) »

城間清豊

城間 清豊(ぐすくま せいほう、万暦42年10月18日(1614年11月19日) - 順治元年10月18日(1644年11月17日))は、琉球の絵師。雅号は自了。唐名は欽 可聖。琉球最古の絵師と言われ、口と耳が不自由であったと伝えられる。 絵の素質は抜群で、中国から来た冊封使・杜三策には顧愷之・王維に比され、日本の狩野派の絵師・狩野安信にも絶賛された。 徳の高い王の治世に現れるとされる白澤を描いた『白澤之図』は、清豊の絵といえる現存唯一の作品である。その他に数点の作品が残っていたが、ほとんどが沖縄戦にて焼失した。.

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おなり神

おなり神(おなりがみ)またはをなり神(をなりがみ)とは、妹(をなり/おなり/うない)が兄(えけり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する琉球の信仰(宮古島を除く)。また兄(男性)の守護者としての妹(男性の血族の女性)を神格化して呼称するもの。 民俗学上、伊波普猷が発表し、柳田國男、折口信夫が展開したことで知られる。.

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おもろ

おもろとは歌の意で、沖縄方言の「思い」から来た語である。沖縄の古い歌謡であり、14世紀末、中国大陸から三弦の伝来する以前に行なわれた歌曲の中心をなすもの。もっぱらノロ(巫女)や神職によって歌われたものが一般的に知られたが、王家の儀礼楽として節句などの儀式の時に首里城で歌われたものは「王府のおもろ」と呼ばれて神聖視され、秘密裏に伝承された。 尚真王代から尚豊王代に首里王府により編纂された歌謡集おもろさうしに多くのおもろが収められている。.

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おもろさうし

『おもろさうし』(おもろそうし)は、琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌謡集。「おもろ」の語源は「うむい(=思い)」であり、そのルーツは祭祀における祝詞だったと考えられており、「そうし」を漢字表記すれば「草紙」となり、大和の「草紙」に倣って命名されたものと考えられる。全22巻。.

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占領

占領(せんりょう)とは、.

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南西諸島

南西諸島(赤枠内)と当諸島を構成する島嶼群。 南西諸島(なんせいしょとう)は、九州南端から台湾北東にかけて位置する島嶼群である仲田(2009年)p.10『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』「南西諸島」(1991年)p.550中村(1996年)p.2河名(1988年)p.11。 北から南へ、大隅諸島、吐噶喇列島、奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島と連なり、沖縄諸島の東に離れて大東諸島、八重山列島の北に離れて尖閣諸島がある。.

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口語

口語(こうご)とは、普通の日常的な生活の中での会話で用いられる言葉遣いのことである。書記言語で使われる文語と違い、方言と呼ばれる地域差や社会階層などによる言語変種が応じやすく、これらと共通語などを使い分ける状態はダイグロシアと呼ばれる。.

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台湾

台湾(タイワン、臺灣 / 台灣、台: Tâi-oân)は、東アジアの国である。 1945年に当時中国大陸を本拠地とした中華民国の統治下に入り、1949年に中華民国政府が台湾に移転した。1955年以降、中華民国は台湾本島以外にも澎湖諸島、金門島、馬祖島、東沙諸島、南沙諸島の太平島を実効支配しているが、全体の面積に占める台湾(本島)の割合は99%以上になる。そのため、中華民国の通称として「台湾」と表記される(詳細は定義参照)。近隣諸国としては、東及び北東に日本、南にフィリピンがある。事実上の首都は台北市である。台北県が直轄市となったことにより成立した新北市は、台北市及びその外港である基隆市を囲む大都市圏を包含し、2018年時点では同島で人口最多の都市である。.

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台湾人

女児 台湾人(たいわんじん)では、現在台湾(台湾本島とその付属島嶼と澎湖諸島)に在住する者について説明する。2002年の人口は2300万人であり若林(2005年)18ページ、群族関係(エスニシティ)をみると、台湾の言語学者による母語を族群の指標とし推計した調査(黄宣範『言語社会與族群意識』1995年)によると、先住民族が1.7パーセント、福佬人が73.3パーセント、客家人が12パーセント、外省人が13パーセントとなっている若林(2005年)20ページ。 台湾の人口のうち、ホーロー人は七三・五%、客家人は一七・五%、外省人は七・五%、原住民は一・五%だが、十一月十八日付の自由時報の報道によると、林氏が最近発表したDNA調査の結果では、ホーロー人と客家人を合わせた「非原住民の台灣人」の八五%は原住民の血統であると言う。.

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向元瑚

向 元瑚(しょう げんこ、1784年12月24日(乾隆48年11月13日) - 1842年1月20日(道光21年12月9日))は、琉球王国の画家。和名は小橋川 朝安(こばしがわ ちょうあん)。.

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吉屋チルー

吉屋 チルー(よしや チルー、1650年 - 1668年)は、琉球王国の遊女で歌人(琉歌)。「吉屋チル」「よしや」「吉屋」とも表記する。.

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壺屋焼

窯元の一つ新垣家住宅(重要文化財) 壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村その他で焼かれる陶器。登り窯を中心に灯油窯やガス窯なども用いながら伝統の技術と技法を受け継いでいる。.

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大航海時代

大航海時代(だいこうかいじだい)は、15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。主にポルトガルとスペインにより行われた。.

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大業

大業(たいぎょう)は、隋の煬帝楊広の治世に行われた年号。605年 - 618年。.

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大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

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天王寺

あべのハルカス あべのキューズモール 四天王寺 天王寺(てんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区南部と阿倍野区北部の地域名称。.

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天照大神

天照大神(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ)は、日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本国民の総氏神ともされる。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。 天岩戸の神隠れで有名であり、記紀によれば太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされる。神社としては伊勢神宮が特に有名『八百万の神々』。.

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太平寰宇記

『太平寰宇記』(たいへいかんうき)は、北宋の楽史(がく し)によって10世紀後半に編纂された地理書。全200巻。 各地ごとの有名な人物や芸文を記すその体例は、後世の中国の地理書の模範になった『四庫全書総目提要』巻68・史部24・地理類1 太平寰宇記193巻。.

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奄美大島

奄美大島(あまみおおしま)は、九州南方海上にある奄美群島の主要な島で、単に大島(おおしま。奄美方言でうしま)ともいう。.

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奄美群島

奄美群島(薩南諸島南部) 奄美群島(あまみぐんとう)は、南西諸島の内薩南諸島南部にある島嶼群である。鹿児島県奄美市および大島郡の区域をいう。「奄美群島」が正式名称となっているが、未統一だったころの奄美諸島(あまみしょとう)がまだ用いられることもある。長さ約200km、面積約1250km、人口約12万人。全域が亜熱帯気候に属し、固有種を含めて、珍しい生き物も多数生息する。.

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奄美群島の歴史

奄美群島の歴史(あまみぐんとうのれきし)は、奄美群島の歴史を概説する。.

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宜野湾朝祥

宜野湾 朝祥(ぎのわん ちょうしょう、乾隆30年6月2日(1765年7月19日) - 道光7年9月16日(1827年11月5日))は、琉球王国第二尚氏王統の摂政。沖縄三十六歌仙の一人。.

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宜湾朝保

宜湾 朝保(ぎわん ちょうほ、道光3年(尚灝20年・1823年)3月5日 - 光緒2年(尚泰29年・1876年)8月6日)は、琉球王国末期の著名な政治家で歌人。当時の正式な呼称は宜湾親方朝保。琉球の五偉人の一人。 小禄御殿の支流である向氏宜湾殿内(系祖・六世前川親方朝年)の12世。首里の生まれである。唐名は向有恆。父の宜野湾親方朝昆(唐名は向廷楷)は、尚育王時代の三司官であった。父が亡くなり、朝保は13歳で家をつぎ、宜野湾間切を領した。当初は、宜野湾の家名を名乗っていたが、1875年(明治8年)に尚泰王の次男・尚寅が宜野湾間切を賜り宜野湾王子と称するようになったため、宜野湾の名を避け、宜湾と称するようになった。 和漢洋の学問に通じ、英語をよくした。接貢船修甫奉行となり、その後、異国船御用係、学校奉行、系図奉行を経て三司官となった。当時は清、フランス、アメリカ、オランダと通商し、琉球は国事多端の時であったが、献身的に尚泰王を助け、信任を得た。ヤマトに派遣されること6たび、遣清は2たび、また伊江王子朝直の副使となって東京に行き、琉球藩を設け尚泰を藩王とする命を拝したが、帰琉後、強い排斥を受け、隠退した。 幕末は、鹿児島に使し、歌人の八田知紀に和歌を学び、帰琉して別業を営み、悠然亭と命じ、自分は松風斎と号し、歌を講じた。のち福崎季連と相携え、琉球歌壇の基礎を築いた。明治5年(1872年)、東京滞在中、吹上離宮の歌会に陪侍し、「水石契久 動きなき御世を心のいはかねにかけてたえせぬ滝の白糸」と詠み、天皇のお褒めを頂いた。一説に、上り口説、下り口説、四季口説は朝保の作であるという。 大正4年(1915年)、従四位追贈。著書に、「遺稿松風集」「沖縄三十六歌仙」「沖縄集」「琉球解釈」「上京日説」「宜湾朝保書」など。 伊波普猷・真境名安興『琉球の五偉人』(1916年)で、琉球の五偉人の一人に選ばれている。.

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宗門改

宗門改(しゅうもんあらため)は、江戸時代の日本で江戸幕府によって行われた宗教政策および民衆統制政策。民衆の信仰する宗教を調査する制度である。禁教令の発布に伴いキリシタンの摘発を目的に整備された制度であったが、江戸中期以降は住民調査的な制度に変移していった。 宗門人別改という名称もあるが、これは別の調査制度である人別改が、江戸中期以降に宗門改と事実上統合したことからくる名称である。宗門人別改帳も、本来は宗門改帳と人別改帳という全く別種のものであった。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

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察度

察度(さっと、1321年(至治元年) - 1395年11月17日(洪武28年10月5日))は琉球の国王の一人。三国統一以前で初代中山王を名乗る。現在の宜野湾市の出身だという。宜野湾市の偉人の一人。神号は、大真物(うふまもの)。.

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尚寧王

尚寧王(しょうねいおう、1564年(嘉靖43年) - 1620年10月14日(万暦48年/泰昌元年9月19日))は琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王(在位1589年 - 1620年)。.

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尚巴志王

尚 巴志王(しょう はしおう、1372年(洪武5年) - 1439年6月1日(正統4年4月20日))は、尚思紹王の子で、琉球王国・第一尚氏王統、第2代目の中山王(在位:1422年 - 1439年)である。1429年、三山(中山、山北、山南)を統一し、琉球王国を成立させた。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。.

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尚徳王

尚 徳王(しょう とくおう、1441年(正統6年) - 1469年6月1日(成化5年4月22日))は琉球王国の第一尚氏王統の第7代国王(在位1461年 - 1469年)。第6代琉球国王。第一尚氏王統最後の国王。尚泰久王の子。神号は八幡按司または世高王。.

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尚円王

尚円王(しょうえんおう、旧字で尚圓王、永楽13年(1415年) - 成化12年7月28日(1476年8月17日))は琉球王国の王。クーデタで第一尚氏王統を倒し、第二尚氏王統の初代国王(在位:1469年 - 1476年)となった。即位以前の名は金丸(かなまる)、童名は思徳金(うみとくがね)と言った。神号は金丸按司添末續之王仁子(かなまるあじすえつぎのおうにし)。.

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尚穆王

尚穆王(しょうぼくおう、1739年5月3日(乾隆4年3月26日) - 1794年5月7日(乾隆59年4月8日))は、琉球王国第二尚氏王朝の第14代国王(在位:1752年 - 1794年)。 寝廟御殿を創建。また、このころ琉球科律完成。さらに、褒章制度を整備し、国民の模範となるものに物品や役職を授けた。 1788年に世子の尚哲が死去している。.

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尚真王

尚 真王(しょう しんおう、旧字で尚 眞王、1465年(成化元年) - 1527年1月13日(嘉靖5年12月11日))は、琉球王国第二尚氏王統の第3代国王(在位1477年(成化13年) - 1527年(嘉靖5年))。第二尚氏王統・初代国王尚円王の子。童名は真加戸樽金(まかとたるかね)。神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。.

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尚豊王

尚豊王(しょうほうおう、1590年12月9日(万暦18年11月13日) - 1640年6月23日(崇禎13年5月4日))は、琉球王国第二尚氏王統の第8代国王(在位1621年 - 1640年)。童名は思五郎金。神号は天喜也末按司添(てにぎやすゑあんじおそい)。 第5代国王尚元王の三男・尚久、大金武王子朝公の四男。始め佐敷王子朝昌と称した。尚賢王・尚質王の父。 1636年(崇禎9年)、琉球国王の王号を薩摩藩から剥奪され、琉球国司を名乗る。.

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尚賢王

尚賢王(しょうけんおう、1625年10月16日(天啓5年9月15日) - 1647年10月19日(順治4年9月22日))は琉球王国第二尚氏王統の第9代国王(在位:1641年 - 1647年)。生誕時から薩摩で育つ。しかし、17歳で即位後、「遠見番」をつくり、烽火の制を定めた。また、黒糖、ウコンの専売制はこの時代に始まった。.

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尚金福王

尚 金福王(しょう きんぷくおう、1398年(洪武31年) - 1453年5月26日(景泰4年4月18日))は、琉球王国の第一尚氏王統・第5代国王(在位1450年 - 1453年)。第4代琉球国王、神号は君志(きみし)。尚巴志王の子、尚忠王の弟。.

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尚泰久王

尚 泰久王(しょう たいきゅうおう、1415年(永楽13年) - 1460年6月23日(天順4年6月5日))は琉球王国の第一尚氏王統・第六代国王。在位1454年 - 1460年。神号は那之志与茂伊(なのしよもい)、または大世主(おほよのぬし)。第一尚氏王統第五代・尚金福王の弟である。.

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尚泰王

尚泰侯の葬儀 尚 泰王(しょう たいおう、1843年8月3日(道光23年7月8日) - 1901年(明治34年)8月19日)は、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王(在位:1848年6月8日 - 1872年10月16日)、後に日本の華族として琉球藩王(在位:1872年10月16日 - 1879年4月4日)、侯爵。童名は思次良金。父は、第18代国王尚育王。.

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尚清王

尚清王(しょうせいおう、1497年(弘治10年) - 1555年7月13日(嘉靖34年6月25日))は、琉球王国第二尚氏王統の第4代国王。神号は天続之按司添(てにつぎのあんじおそい)。第3代国王・尚真王の第5王子(在位:1527年 - 1555年)。童名は真仁堯樽金。 1526年(嘉靖5年)12月11日に父が死去した後の翌年に即位する。1534年、明王朝に冊封を受ける。1537年には奄美大島で起こった与湾大親による反乱を鎮圧し、同時に倭寇に対する圧力、防備も強化するなど軍事面で大きな功績を挙げた。 1555年(嘉靖34年)6月25日、59歳で死去。死後、王子たちの間で王位継承争いが起こり、翌年に尚清が生前に後継者として定めていた第2王子の尚元王が継いだ。.

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尚敬王

尚敬王(しょうけいおう、1700年8月3日(康熙39年6月19日) - 1751年2月24日(乾隆16年1月29日))は琉球第2尚氏王朝第13代国王(在位:1713年 - 1751年)。第12代国王尚益王の子。 蔡温を三司官にして多くの改革を行った。また教育や文化振興に力を入れ、琉球を文化大国へ導くなどその手腕は近世の名君とうたわれた。 1712年(康熙51年)、薩摩藩から許され、琉球国司から琉球国王の王号に復した。.

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山口宗季

山口 宗季(やまぐち そうき、康熙11年11月3日(1672年12月21日) - 乾隆8年2月2日(1743年2月25日))は、琉球王国の画家。字は子敬、号は雲谷、後名は保房。唐名は呉 師虔(ご しけん)。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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与那原良矩

与那原 良矩 (よなばる りょうく、1718年6月29日-1797年10月23日)は、尚穆・尚温王時代の琉球王国の政治家で、著名な歌人。当時の正式な称号は与那原親方良矩。.

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与那国島

立神岩 与那国島の全体図 与那国島の位置 与那国島(よなぐにじま)は、南西諸島八重山列島の島。日本の最西端に位置する国境の島である。.

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帝国大学

帝国大学(ていこくだいがく、旧字体:帝國大學)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された旧制高等教育機関(大学)である。内地に7校(七帝大:北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州)、外地に2校(京城、台北)が設置された。 この項目では、戦前における旧制教育機関の一種別としての帝国大学に加え、現行の新制大学における「大学群」の一種として、旧・内地にあたる日本国内で用いられる「旧帝国大学」(旧七帝大)についても扱う。.

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中央集権

中央集権(ちゅうおうしゅうけん、centralization)とは.

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中山世鑑

『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)は、薩摩支配下において書かれた琉球王国の初めての正史である。羽地朝秀が王命により編纂。1650年成立。全6巻。和文体で書かれている。正史としての性格上、神話的な琉球開闢説話など正確な歴史とは言い難い。和暦の採用や、源為朝(鎮西八郎)が琉球に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとする(『琉球神道記』、『保元物語』、『平治物語』などを参考にしたと見られる)記述がある。為朝が琉球へ逃れ、その子が舜天になった事の真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中国大陸

中国大陸(ちゅうごくたいりく、Mainland China)とは、台湾(中華民国)・香港・マカオを除いて、中華人民共和国が実際支配及び直接統治するアジア大陸(ユーラシア大陸東部)の広い陸地(亜大陸)である。古くは日本列島と地続きであった。本項では、中華人民共和国成立以前の日本語圏の中国関連分野と今の中国語圏での政治的な意味合い、この二つの事を含む用法について詳述する。.

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中国人

中国人(ちゅうごくじん)とは、ユーラシア大陸東部に存在する地域としての中華圏、またはそれに根ざした国家、民族などにまつわる多数の意味を持つ広範な概念上の呼称であり、さまざまな場所、あるいは立場上により全て異なる概念になることがある。.

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中国人による沖縄県への認識

中国人による沖縄県への認識(ちゅうごくじんによるおきなわけんへのにんしき)では、中華人民共和国と中華民国の認識に反し、一部のメディア、歴史学者、政府・軍関係者、その他の中国人が、琉球処分や沖縄返還を国際法上の根拠はなく合法的主権がないとする主張や、中国も主権を有しているという主張について説明する。.

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中国武術

朝に上海の広場で健康体操の簡化太極拳をしている人々 中国武術(ちゅうごくぶじゅつ)とは、中国大陸に起源を持つ武術の総称。「中国武術」は中華人民共和国(中国大陸)では単に武術(ウーシュー、wǔshù)、中華民国(台湾)では國術(グォーシュー、guóshù、日本国でこれから転じて国術)、広東省など両広地方では功夫 とも呼ばれる。また、中国で単に「武術」というと世界中の武術、武道、格闘技全般を指すこともある。.

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中国文明

中国文明(ちゅうごくぶんめい)また中華文化(ちゅうかぶんか)は、中国大陸における文明・文化などの総称である。中華文明とも。世界最古の文明の一つであり、東アジアにおける中心文化でもある。歴史的には同文化圏内で広大な地域や人口を保有し、各地の文化は四千年もの発展を経て、「共通性を持ちながらも、鮮明な地方特色を帯びている」という中国独自な特徴になった。そして、中国大陸だけでは限らず、台湾・香港・マカオ・シンガポール等の中華圏や、日本・韓国・ベトナム・モンゴル等の漢字文化圏の国々にもかなり重要な影響を与えた。.

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中継貿易

中継貿易(なかつぎぼうえき)とは中間貿易(ちゅうかんぼうえき)ともいい、一国の周辺他国との貿易の形態のひとつ。自国で原材料から生産、加工したものを他国に輸出し、自国では生産できなかったり、不足するものをその代わりに輸入するというのではなく、他国から輸入したものをさらに別の他国に輸出するというものである。いわゆる加工貿易とは異なり、輸入したものをそのまま、輸出することを指す。 また、保税地域で加工・製造して不特定国へ再輸出することも含む。.

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世界遺産

世界遺産(せかいいさん、World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。なお、慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、などに依拠して、主たる用語には英語を併記しておく。.

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万国津梁の鐘

万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)は、1458年に琉球王国第一尚氏王統の尚泰久王が鋳造させた釣鐘。 表に刻まれた銘文に、琉球の海洋国家としての気概が謳われていることで有名である。かつては首里城正殿に懸けられていたが、現在は沖縄県の所有となっている(沖縄県立博物館・美術館にて保管)。1978年(昭和53年)6月15日に「銅鐘(旧首里城正殿鐘)」の名称で国の重要文化財に指定された。.

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万暦

万暦(ばんれき)は中国、明代の元号(1573年 - 1620年7月)。第14代皇帝神宗の在位中に使われた。このため神宗は万暦帝と呼ばれる。 本来、1620年いっぱい使われる予定であったが、万暦帝の後を継いだ光宗は即位の1か月後に急死したため、光宗独自の年号を立てる年が無くなってしまった。そのため、大臣の群議で万暦48年(1620年)の8月以降を泰昌元年とした。詳しくは、泰昌を参照。.

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三司官

三司官(さんしかん)は、琉球王国の宰相職のことである。漢訳で法司と言い、「世あすたべ」とも言った。 三司官は首里王府の実質的な行政の最高責任者である。三司官の上には摂政(シッシー)が存在するが、辣腕をふるった羽地朝秀などを例外とすれば、通常は形式的な儀礼職であり、行政の実務は三司官が取り仕切った。三司官は三人制で投票により親方(ウェーカタ)の中から選ばれた。選挙権を持つ者は王族、上級士族ら200余名であった。王族には選挙権はあるが、被選挙権は無かった。 三司官の職掌は、用地方、給地方、所帯方に分かれ、3人がそれぞれを分担した。三司官の品位は正一品から従二品で、士族(サムレー)が昇進できる最高の位階であった。 代表的な三司官には蔡温がいる。.

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平田典通

平田 典通(ひらた てんつう、1641年10月23日(尚賢元年9月19日) - 1722年7月12日(尚敬10年5月29日))は、琉球王国の陶工。唐名は宿 藍田(しゅく らんでん)。.

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平敷屋朝敏

平敷屋 朝敏(へしきや ちょうびん、1701年1月1日(尚貞32年11月23日) - 1734年7月26日(尚敬22年6月26日))は、琉球王国の士族で和文学者、平敷屋の脇地頭(親雲上)。 1734年、王府の高官だった友寄安乗(ともよせ あんじょう)らとともに、当時首里王府において実権を握っていた蔡温を批判した文を薩摩在番奉行の川西平佐衛門の宿舎に投げ入れるなどして捕らえられ、安謝港近くにて磔刑に処せられた(平敷屋・友寄事件)。.

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久米三十六姓

久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)は、1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる閩人(現・福建省の中国人)の職能集団、及びその後三百年間にわたり閩から渡来した者や首里・那覇士族から迎え入れた人々の総称。.

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仲村渠致元

仲村渠 致元(なかんだかり ちげん、1696年9月15日(尚貞王28年8月19日) - 1754年8月6日(尚穆王3年6月18日))は、琉球王国の陶工。中興の祖とされる。唐名は用 啓基。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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付庸国

主権国家体制において付庸国(附庸国、ふようこく)、従属国(じゅうぞくこく)(vassal state)とは、宗主国から一定の自治権を認められているが、その内政・外交が宗主国の国内法により制限を受ける国家を指す。大国の一部が分離独立する過程で誕生する。宗主国との関係は付庸関係と言う。個々の付庸国ごとに宗主国との関係は一様でなく、国際法主体として対外主権の行使が認められていることもある。しかしながら、いずれにしても国際社会においては宗主国の一部とみなされ、宗主国が締結した条約に付庸国も拘束されうる。この点で被保護国とは異なる。ブルガリア、エジプトなどオスマン帝国を宗主国とする事例が多い。 主権を不完全にしか持たないため、被保護国と合わせて半主権国(semisovereign state)、従属国(dependent state)とも呼ばれる。 現在、この意味での付庸国は存在しない。新たに大国の一部が分離独立するも引き続き大国の保護が必要な場合、付庸関係ではなく、国家主権が対等である自由連合が採用されている。.

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伊波普猷

伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。.

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張献功

張 献功(ちょう けんこう、生年不詳 - 1638年(尚豊18年))は、琉球王国に帰化した朝鮮人陶工。別名、一六。和名は仲地 麗伸。1616年、他の2人とともに琉球に招かれて本格的な陶芸技法を伝え、那覇の湧田村に住み製作に励んだ。.

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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徐葆光

徐 葆光(じょ ほこう、1671年 - 1723年)、字は亮直、号は澄斎。清の官僚。漢詩・書に堪能で、自ら二友老人と号した。 康熙10年(1671年)、江蘇省長洲県(現・蘇州市)に生まれる。康熙51年(1712年)に一甲第三名進士として科挙に登第し、翰林院編修となる。康熙51年(1720年)、琉球王国に冊封副使として赴き、尚敬王を冊封した。帰国後に、約8ヶ月間の滞在記録を『中山伝信録』としてまとめた。雍正元年(1723年)没。.

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御主

御主(うしゅー、または、うすー)は、琉球国王の国内称号である。朝貢関係にあった明及び清からは琉球國中山王の封号を受け、対外的には琉球國中山王(琉球國王)と称した。.

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御座楽

御座楽の演奏(御座楽復元演奏研究会 提供) 御座楽(うざがく、おざがく)とは、琉球王国の室内楽である。冊封使歓待を目的として発展した明清系の音楽である。その起源は16世紀頃まで遡るが、琉球王国の滅亡とともに伝承が絶え、幻の音楽となった。.

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御後絵

琉球第18代尚育王の御後絵のモノクロ写真。鎌倉芳太郎撮影。 御後絵(おごえ、沖縄語:うぐい)は、琉球国王の肖像画。いつごろに起源があるか不明だが、15-19世紀のころに琉球独特の様式をつくりあげた。 死後に描かれ、円覚寺(那覇市)に納められた。絵は彩色で、形式は定型化しており、国王を中心に重臣・従者が配置される。国王の姿はひときわ大きく描かれ、その権威と偉大さを強調して表現されている。実物の他に、「お扣え(おひかえ)」と呼ばれる写しが多く作成された。 しかし1945年の沖縄戦により円覚寺もろ共焼失したため、戦前に鎌倉芳太郎が撮影した「お扣え」のモノクロ写真が10点現存するのみである。これらは首里城公園南殿に展示されている。 現在では残された写真及び中国側の資料などを元に復元が試みられている。まず1996年に佐藤文彦がアクリル絵の具などを用いた10点の復元を発表した。そして、2012年に第18代尚育王の御後絵が東京芸術大学により復元された。.

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御殿 (沖縄)

御殿(うどぅん、または、おどん)は、主に琉球王族の邸宅、またはそこに住む人をさす尊称である。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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念仏踊り

念仏踊り(ねんぶつおどり)は、念仏を唱えながら踊る日本の伝統芸能で、さまざまな様式で全国に分布している。踊り手と歌い手が分かれているものと、自ら念仏を唱えながらおどるものがあり、後者は踊念仏とも言う。 踊り手と歌い手が別れている念仏踊りの起源は、菅原道真が886年から889年の4年間、讃岐国司を務めた時に行った「雨乞いの踊り」とされ、翌年から村人達が感謝の意味で踊ったのが今に残るとされる。「念仏踊り」となったのは1207年に法然上人が宗教上の争いから讃岐に流され、この踊りを見てセリフとして「念仏」を唱えるようにさせた事による。現在でも香川県綾歌郡綾川町滝宮では8月25日に「滝宮の念仏踊」が行なわれ、全国に残る「念仏踊り」のルーツとして国の重要無形民俗文化財に指定されている。 念仏を唱えながら踊るものは、平安時代に空也上人が始め、鎌倉時代に一遍上人によって広められた言われ、空也念仏とも呼ばれる。 国の重要無形民俗文化財に指定されている念仏踊りには、前述の滝宮の念仏踊のほか、長野県下伊那郡阿南町の「和合念仏踊り」、京都の「六斎念仏」踊りがある。.

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志多伯天将

志多伯 天将(したはく てんしょう、1645年1月4日(順治2年12月8日)- 1725年1月29日(雍正2年12月16日))は、琉球王国の歴史家、官僚。正史『中山世譜』を編纂。志多伯家10世で蔡温の父。金城親雲上梁沢の子で後に志多伯家の養子になった。唐名を蔡 鐸(さい たく)という。童名は思徳(うみとく)。 1677年(康熙16年)に尚貞王の命により、『歴代宝案』を修正し、さらに1697年からは『中山世鑑』の漢文訳・補訂し、『中山世譜』を完成させた。生存中、多く詩を残している。その一部が『中山詩文集』に収録されている。 蔡鐸は正室の真呉瑞との子・蔡温を嗣子にしようとしたが真呉瑞が反対し、側室の眞多満との子・蔡淵を嗣子としたといわれる。.

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志魯・布里の乱

志魯・布里の乱(しろ・ふりのらん)は、1453年に琉球王国第一尚氏王統・第5代尚金福王の死後、王位をめぐって王世子・志魯と王弟・布里が起こした争い。 この乱で当時の首里城は焼失し、志魯・布里の双方が傷付き薨(たお)れた。城が焼失した痕跡は正殿跡の発掘調査からも確認されている。 そのため王位は尚忠王・尚金福王・布里らの弟にあたる尚泰久が継ぐこととなった。 これらの経緯は、中国の史書である『明実録』にも記述が見られる(乱後の翌年2月に琉球使者が城が焼失した経緯を説明している)。 乱後3年には城も再建され、朝鮮の漂流民がこれを目撃し、報告したものが『李朝実録』に記録されている。.

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北史

『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。.

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ミラード・フィルモア

ミラード・フィルモア(Millard Fillmore, 1800年1月7日 - 1874年3月8日)は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士で、第12代副大統領および第13代大統領。大統領の死に際して副大統領から昇格した2人目の大統領で、ザカリー・テイラーがコレラで死去した後の大統領職を継いだ。 フィルモアは米墨戦争の間に併合された領土に奴隷制度を導入しないという提案に反対し(南部諸州を宥めるため)、1850年協定を支持し、同協定に署名した。その中には逃亡奴隷法(ブラッドハウンド法)も含まれた。インディアンに対しては徹底排除の方針を採り、1851年には「」を締結させ、ミズーリ川以西の多数のインディアン部族からその領土を奪った。 外交政策においては日本との貿易を進め、ハワイを併合しようとするナポレオン3世と衝突、フランスやイギリスと共にキューバに侵入しようとしたの動きに対抗した。大統領職後はノーナッシング・ムーブメントに加わり、南北戦争の間にはリンカーン大統領に反対、レコンストラクションの期間にはジョンソン大統領を支持した。 フィルモアはバッファロー大学の共同設立者であり、バッファロー・エリー郡歴史協会の設立に尽力した。 日本史においては、ペリーを日本に派遣した大統領として記憶されている。幕府は正式にこれを受理した。このことで国際的に検討を必要としたので、日本は開国に向けて前進せざるをえなくなった。1854年の開国に繋がる要因となる。.

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マラッカ王国

マラッカ王国(、)は、15世紀から16世紀初頭にかけてマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家(1402年 - 1511年)。漢籍史料では満刺加と表記される。16世紀初頭にマラッカに滞在し、『』を著したポルトガル人によれば、「マラッカ」の語源は「隠れた逃亡者」に由来するとされている。マレー半島という交易において重要な位置に立地していたことが国家の形成に多大な影響を与え、香料貿易の中継港としてインド、中東からイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点ともなった。 当初から中国・明王朝の忠実な朝貢国であり、同時期に交易国家として繁栄した琉球王国とも通好があった。.

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マカオ

中華人民共和国マカオ特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくマカオとくべつぎょうせいく)、通称マカオ(Macau、澳.

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マシュー・ペリー

1855-56年頃のダゲレオタイプの写真 マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)は、アメリカ海軍の軍人。 エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた。.

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マジャパヒト王国

マジャパヒト王国(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は、1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いたとの説があるが一方で、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。なお、表記に「マジャパイト」と書くこともある。綴りは"Majapahit"であるが、ジャワ語では、h音を発音しないからである。.

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バーナード・ジャン・ベッテルハイム

バーナード・ジャン・ベッテルハイム バーナード・ジャン・ベッテルハイム(伯徳令、Bernard Jean Bettelheim、1811年 - 1870年2月9日)は、日本に派遣されたキリスト教宣教師。また沖縄県地域最初のプロテスタント宣教師でもある。ハンガリーではBettelheim John Barnardéと表記される場合が多い。ちなみにハンガリーではBettelheimはベッテルヘイムと発音される。なお、ハンガリーの資料では1869年9月11日に没したことになっている。.

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ポルトガル

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa、República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。.

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ムラカ

展望台から見たマラッカ海峡側の風景 ムラカ(マレーシア語:Melaka、ジャウィ:ملقة)またはマラッカ(英語:Malacca)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。.

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ユリシーズ・グラント

ユリシーズ・シンプソン・グラント(Ulysses Simpson Grant、1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の一人である。 軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。.

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ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

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ルートヴィヒ・リース

ルートヴィヒ・リース ルートヴィヒ・リース(Ludwig Riess, 1861年12月1日 - 1928年12月27日)は、ドイツのユダヤ系歴史学者、お雇い外国人。.

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ブタ

岐阜市畜産センターのビジターハウス内に展示) 岐阜市畜産センターにて) 仔豚に母乳を与える豚 豚小屋で飼育されている放牧豚 ブタ(豚、学名:Sus scrofa domesticus(仮名転写:スース・スクローファ・ドメスティクス)、英名:pig)は、哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ科の動物で、イノシシ(Sus scrofa)を家畜化したものである。主に食用(豚肉)とされる。.

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ドミニコ会

ドミニコ会(ドミニコかい)は、1206年に聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum) で、略号は「OP」である。.

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ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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喜界島

喜界島(きかいじま)は奄美群島の北東部に位置する島。 鹿児島県大島郡に属し、全島が喜界町に属している。奄美大島にほど近い、東経130度線上に位置している。百之台、阿伝集落、トンビ崎海岸、荒木海岸などが奄美群島国立公園に指定されている。.

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咸豊

咸豊(かんぽう、満州語:、転写:gubci elgiyengge)は清の文宗の治世中に使われた元号。1851年 - 1861年。一世一元の制を採用していたため文宗は咸豊帝と称される。.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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和文

和文(わぶん).

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アメリカ合衆国大統領

アメリカ合衆国大統領(アメリカがっしゅうこくだいとうりょう、, 略:"POTUS")は、アメリカ合衆国の国家元首であり行政府の長である。現職は2017年1月20日より第45代ドナルド・トランプが在任。 アメリカ合衆国大統領選挙(以下「大統領選挙」)によって選出される。.

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アメリカ海軍

アメリカ海軍(アメリカかいぐん、United States Navy、略称:USN)は、アメリカ合衆国が保有する海軍である。.

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アニミズム

アニミズム(animism)とは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』(1871年)の中で使用し定着させた。日本語では「汎霊説」、「精霊信仰」「地霊信仰」などと訳されている。この語はラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味である。.

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エイサー

イサー(恩納村瀬良垣青年会) エイサーは、沖縄県と鹿児島県奄美群島でお盆の時期に踊られる伝統芸能。 この時期に現世に戻ってくる祖先の霊を送迎するため、若者たちが歌と囃子に合わせ、踊りながら地区の道を練り歩く。また、かつては祝儀を集めて集落や青年会の活動資金とする機能も重視され、その金でため池を設けた例もある小松、2004年、P.54。地域によってはヤイサー、エンサー、七月舞(しちぐゎちもーい)、念仏廻り(にんぶちまーい)とも呼ばれる。 踊りを通して、他との関係が縁となって生起することで、五穀豊穣、大漁追福、商売繁盛、家内安全、無病息災、安寧長寿、夫婦円満、子孫繁栄、祖先崇拝や招福祈願、厄除祈念や「ハレ」に纏わることなど多岐に渡り繋がりを大事しながら踊っている。 近年では太鼓を持つスタイルが多くなり、踊り自体を鑑賞するために沖縄全島エイサーまつりをはじめとする、各地域のエイサーを集めたイベント等も開催され、重要な観光イベントとなっている。.

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オヤケアカハチの乱

ヤケアカハチの乱(遠弥計赤蜂の乱)は、1500年に八重山島大浜村(現在の石垣市大浜)の豪族オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)と、琉球王国(尚真王代)との間で行われた戦争である。琉球が勝利し、アカハチを殺害した。.

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キリシタン

リシタン(吉利支丹、Cristão)は、日本の戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた日本語(古語口語)である。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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クーデター

ーデター()は、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う。 フランス語で「国家の一撃」もしくは「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ) 、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup(クー)」と表記されることが多い。 社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦をそれぞれ参照されたい。.

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グスタフ・シュレーゲル

タフ・シュレーゲル(Gustave Schlegel (Gustaaf Schlegel) 、1840年9月30日 - 1903年10月15日)は、オランダの東洋学者、博物学者。ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授。オランダ語読みで「スフレーヘル」とも表記されることがある。著書に『中国星辰考』『天地会』『地誌学的問題』等。.

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タイ王国

タイ王国(タイおうこく、ราชอาณาจักรไทย )、通称タイ(ประเทศไทย )は、東南アジアに位置する君主制国家。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,718万人、首都はバンコク。 国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北部を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマーと国境を接する。マレー半島北部の西はアンダマン海、東はタイランド湾に面する。 2014年にプラユット将軍率いる国軍が軍事クーデターを起こし、従来の憲法(2007年憲法)と議会を廃止し実権掌握以降、軍事独裁政権が継続している。 2016年10月13日にプーミポン・アドゥンラヤデート(プミポン)国王が崩御。 同年12月1日にワチラーロンコーンが国王に即位した。 2017年4月7日に新憲法が公布され、同日施行された。.

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唐手

唐手.

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冊封

冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.

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円覚寺 (那覇市)

円覚寺跡(総門・放生池・放生橋) 円覚寺(えんかくじ、琉球語:ウフティラ)は沖縄県那覇市の首里城北面にかつて存在した臨済宗の寺院。.

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八幡神

八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。.

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八重山

八重山(やえやま他).

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八重山キリシタン事件

八重山キリシタン事件(やえやまキリシタンじけん)は、17世紀前半に琉球王国で起きたキリシタン禁圧事件。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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先島諸島

先島諸島(さきしましょとう)は、日本の南西諸島に属する琉球諸島のうち、南西部に位置する宮古列島・八重山列島の総称である。尖閣諸島を含めることもある。沖縄県に所属する。.

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兵站

兵站(へいたん Military Logistics)は、戦闘地帯から後方の、軍の諸活動・機関・諸施設を総称したもの。戦争において作戦を行う部隊の移動と支援を計画し、また、実施する活動を指す用語でもあり、例えば兵站には物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などが含まれる。 兵站の字義は「軍の中継点」(Wiktionary 「站」)であり、世界中で広範に使用される英語つまりはでの「logistics」は、ギリシア語で「計算を基礎にした活動」ないしは「計算の熟練者」を意味する「logistikos」、またはラテン語で「古代ローマ軍あるいは東ローマの行政官・管理者」を意味する「logisticus」に由来する。 類義語としては、戦闘を実施する上で部隊の作戦行動を支援する戦闘支援(Combat Support)、作戦行動を行う部隊の軍事的な機能を保持させる後方支援(Combat Service Support)があり、これらに比べて兵站はより広い範囲を指示する概念である。.

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国立公文書館

国立公文書館(こくりつこうぶんしょかん)とは公文書を一般公開している国立機関。本頁では日本の国立公文書館について記述する。.

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倭寇

倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇.

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候文

候文(そうろうぶん)は、日本語のうち、中世から近代にかけて用いられた文語の文体の一つである。文末に丁寧の助動詞「候」(そうろう、そろ、歴史的仮名遣いではサウラフ)を置く。.

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石垣島

石垣島の位置 石垣島(いしがきじま)は、沖縄県石垣市に属する八重山列島の島である。沖縄県内では沖縄本島、西表島に次いで3番目に広く、日本全体(本土と沖縄本島を含む)では21番目の面積を持つ。人口は約4万7千人。.

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石垣永将

石垣 永将(いしがき えいしょう、? - 1635年(尚豊15年))は、近世琉球の人物。八重山キリシタン事件の首謀者として処刑された。.

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玉城朝薫

玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん、康熙23年8月2日(1684年9月11日) - 雍正12年1月26日(1734年3月1日))は琉球王国の官僚、劇作家、演出家。組踊を創始した。 向氏辺土名殿内十世で唐名は向受祐(しょうじゅゆう)、童名を思五郎といい、尚真王の三男:尚韶威・今帰仁王子朝典の後裔。.

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玉陵

玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1526年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。.

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王国

王国(おうこく)は、君主制の国家のうち、国王を元首とする国家を指す。.

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火刑

火刑(かけい)は、受刑者に火をつける、あるいは火であぶることにより絶命させる死刑のひとつ。火罪(かざい)、火焙り(ひあぶり)、焚刑(ふんけい)とも呼ばれる。 火刑は、公開処刑で見せしめ(一般予防)的要素が強く、一度の処刑で多数の人間に対し、凶悪犯罪の結果は悲惨な死であるというメッセージを与える事が出来るという点で効果的である。また多数の受刑者を一時に処刑できるという点も効率的だが、処刑準備に時間がかかるという欠点も持ち合わせている。 火刑では、火傷で死ぬことより、煙で窒息死したり、ショック死したりすることのほうが多い。また、あらかじめ絞首刑などで殺した死刑囚を焼くために行われることもある。また生きている人間を焼き殺すというのはあまりにも残酷なので、「温情」という名目で刑吏が火をつける前に絞殺したり、胸に杭を打ち込んだりして殺害する例もあったという。.

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琉球

琉球(りゅうきゅう)、りゅうきゅう、リュウキュウ.

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琉球の位階

琉球の位階(りゅうきゅうのいかい)とは、沖縄本島を中心に存在した琉球王国の身分序列である。第二尚氏王統の第3代・尚真王の治世(在位1476年 - 1526年)に位階制度の基本が確立された。まず、1509年、金銀の簪(ジーファー、かんざし)によって貴賤の別を定め、次に1524年には、六色の冠(ハチマチ)によって等級が制定された。 その後、18世紀初頭に程順則らによって「琉球国中山王府官制」(1706年)が制定され、九品十八階の位階制度が確立し、1732年には、蔡温らによって位階昇進の細目を記した「位階定」が制定された。国王、王子、按司などの王族は、九品十八階のさらに上に位置し、平民はその下に位置した。.

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琉球古武術

琉球古武術(りゅうきゅうこぶじゅつ)は、沖縄県の古武術の総称である。空手を含める場合もあるが、一般には主に武器術を指す。琉球古武道、沖縄古武道、沖縄古武術ともいう。なお、ほとんどの流派・会派では武器術以外に空手も併伝している。.

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琉球大学

沖縄県唯一、また、日本最南端かつ最西端の総合大学、国立大学である。.

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琉球冊封使の一覧

以下では、琉球王国の冊封使の一覧を挙げる。.

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琉球八社

琉球八社(りゅうきゅうはっしゃ)とは、琉球王国において「琉球八社(官社)の制」により王府から特別の扱いを受けた8つの神社である。.

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琉球国

琉球国(りゅうきゅうのくに)は、かつての琉球王国の版図(沖縄県)に相当する地域に用いられた地名。 なお、本項目においては簡便のため、太平洋戦争以降の期間は考慮しない。.

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琉球国王

琉球国王(りゅうきゅうこくおう)は、1872年(清: 同治11年、日本: 明治5年)まで沖縄県に存在した琉球王国の君主及びその外交称号であり、明及び清に貿易上の理由から朝貢した際に授けられた封号もそれに含まれる。琉球国内では御主と呼ばれた。外交上の別名称は、琉球國中山王(りゅうきゅうこくちゅうざんおう)。 本項目では、琉球王国成立(1429年)より以前に琉球に君臨し、または君臨したとされる王統についても併記する(#琉球国王の一覧).

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琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。.

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琉球神道

琉球神道(りゅうきゅうしんとう)は、沖縄本島を中心に信仰されてきた多神教宗教である。琉球王国時代、王国各地の宗教支配の手段として祭政一致体制に整備され、現在は民間信仰として残る。王国は宗教支配を徹底する為、地域信仰であるユタを度々弾圧した。ニライカナイ信仰、御嶽信仰とも称する地域もある。.

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琉球競馬

今帰仁村・仲原馬場(ナカバルババ)で開催された琉球競馬の模様 琉球競馬(りゅうきゅうけいば)とは、沖縄の古式競馬である。 琉球王朝以来の沖縄の伝統文化であり、速さではなく、美しさを競う。太平洋戦争中に伝統が途絶えたが、2013年に70年ぶりに競技が復活した。.

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琉球独立運動

琉球独立運動(りゅうきゅうどくりつうんどう、英: Ryukyu independence movement)は、1879年の琉球処分以降に始まった、琉球王国の再興、または国家の独立を求める運動。沖縄独立運動(おきなわどくりつうんどう)とも言う。琉球王国は、1609年の琉球侵攻や、1872年から1879年にかけての琉球処分などによって、日本に併合された歴史がある。.

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琉球語

琉球語(琉球方言)で書かれた交通標語。(沖縄県金武町) 琉球語(琉球方言)で書かれた交通標語。那覇バスターミナルにて 琉球語(りゅうきゅうご、琉:島言葉・しまくとぅば)もしくは琉球方言(りゅうきゅうほうげん)とは、日本の沖縄県と鹿児島県奄美群島で用いられる言語である。日本本土の日本語と系統を同じくするものの、口頭では互いに全く通じ合わないほどの違いがあるため、日本語とは別の言語と見なす立場と、日本語内部の一方言と見なす立場とがある(#言語か方言か参照)。また琉球語内部でも地域差が著しいため、諸言語の集合として琉球諸語(りゅうきゅうしょご)あるいは琉球語派(りゅうきゅうごは)と見なす立場もある(#下位区分か、個別言語か参照)。本項では、言語説と方言説の両論を考慮して、琉球語(琉球方言)と併記する。 独立言語として見た場合、日本語と系統が同じ唯一の言語と見なされ、日本語と琉球語を合わせて日本語族あるいは日琉語族と呼ばれる。一方、日本語の一方言とする立場からは、「琉球方言」または「南島方言」(なんとうほうげん)と呼ばれ、日本語は琉球方言と本土方言の2つに大きく分類できる、とする。.

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琉球諸島

琉球諸島(りゅうきゅうしょとう、琉球語:Ruucuu-reptoo)は、南西諸島の中の琉球国に属する部分の総称。これを現在の沖縄県と同範囲にするかどうかは諸説あり、奄美群島を含めたり、大東諸島を含めない場合もある。.

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琉球舞踊

280px 右 琉球舞踊(りゅうきゅうぶよう)とは、琉球、特に現在の沖縄県内で継承されている踊りの総称。琉舞(りゅうぶ)と通称される。通常は琉球古典音楽の複数曲を組み合わせた楽曲に乗せて踊られ、地謡(地方:じかた、演奏する楽師のこと。ウチナーグチでは「じうてー」と呼ぶ)は三線(さんしん)、箏(こと)、笛、太鼓、胡弓(こきゅう)で構成される。 本来は男性のみによって踊られたが、明治以降、特に戦後は多くの女流舞踊家が誕生した。近年では沖縄県立芸術大学や国立劇場おきなわの若手実演家育成により多数の男性舞踊家が誕生している。種類としては古典舞踊、雑踊り(ぞうおどり)、創作舞踊に大別される。 薩摩藩の琉球侵攻(1609年)後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた江戸上りの使節には、琉球舞踊を踊るための踊童子が含まれており、徳川将軍の御前や薩摩江戸藩邸などでも披露された。2011年2月、日本橋三越劇場(東京)にて160年ぶりに「よみがえる琉球芸能 江戸上り」が催され大盛況となった 1879年、いわゆる琉球処分によって沖縄県が設置されると、それまで士族だった舞踊家たちは禄を失った。彼らは王府のあった首里から那覇の街に移って芝居小屋を建て、民衆を相手に芝居興行を営むようになる。その中で、庶民の民謡や生活などを題材にした踊りが作られるようになり、人気を博して多くの名作が生まれた。これが「雑踊り」である。最初は布で仕切ってタダ見を防ぐ程度の粗末な造りの小屋が多かった。1891年に本格的な劇場が誕生した。御冠船踊りなどの再演ばかりでは飽きられるため、琉球民謡を取り入れるなど、仕草や衣装などが庶民の好みに合わせて次第に多様化・変化していった。女性が舞台に立つ「アングヮーモーイ(娘さん踊り)」も人気となった。 また、平成29年10月2日には、国の重要無形文化財「琉球舞踊」(総合認定)の新たな保持者27名(舞踊13名、歌・三線8名、箏5名、太鼓1名)が追加認定された。.

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琉球藩

琉球藩の印 琉球藩(りゅうきゅうはん)は、明治初期に現在の沖縄県を治めた藩。藩庁は首里城(沖縄県那覇市首里)。藩王は第二尚氏。.

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琉球漆器

琉球漆器(りゅうきゅうしっき)は、沖縄県に伝わる伝統工芸品の一つである。 1974年に沖縄県指定伝統工芸品、1986年に経済産業大臣指定伝統的工芸品となったp12 参考-->。.

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琉米修好条約

琉米修好条約(りゅうべいしゅうこうじょうやく)とは、1854年7月11日(咸豊4年6月17日)に琉球王国とアメリカ合衆国が締結した条約。正式名称は「亜米利加合衆国琉球王国政府トノ定約」であり、一般に「琉米条約」と省略されるが、条約内容を込めて「琉米修好条約」とも言われる。.

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琉歌

琉歌(りゅうか)は、奄美群島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島に伝承される叙情短詩形の歌謡である。和歌と同様にウタとも言われる。詠むための歌であると同時に謳うための歌でもある。奄美群島においては、主に島唄と呼称される。.

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神社

出雲大社(神代創建と言われる、島根県出雲市) 八坂神社(飛鳥時代創建)(京都府京都市東山区) 蒙疆神社(昭和時代創建、張家口。写真は1952年のもので、当時はもう廃社された) 神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られる。文部科学省の資料では、日本全国に約8万5千の神社がある。登録されていない数万の小神社を含めると、日本各地には10万社を超える神社が存在している。また、近畿地方には生国魂神社など創建が古い神社が多く存在する。.

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神父

(しんぷ、πατήρ, pater, Father, don, отец (батюшка))とは、正教会・東方諸教会・カトリック教会で、司祭に対して呼びかける際に用いられる敬称正教会の出典:カトリック教会の出典:。.

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祖先崇拝

霊信仰(それいしんこう)もしくは祖先崇拝(そせんすうはい)とは、既に死んだ祖先が、生きている者の生活に影響を与えている、あるいは与えることができる、という信仰である。 中国、朝鮮、日本(とりわけ沖縄)など東北アジアのものが特に有名であるが、ズールー人など、世界的にも見られる。中国では祖先崇拝と呼ばれ、清明節などの習慣がある。日本では、学問的には祖先崇拝の名称が用いられているほか、祖霊信仰という名称も用いられている。先進国では、過去に存在しても、一神教などに置き換わられて、超越されている事が、一般的とされる。 日本では社会学分野で「先祖祭祀」の用語が定着している。明治以降1950年代ごろまでは「祖先崇拝」が多く使用された.

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福音書

福音書(ふくいんしょ、ευαγγέλιον, ラテン語: Evangelium)は、イエス・キリストの言行録である。通常は新約聖書におさめられた福音書記者による四つの福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書)を意味する。その他にトマスによる福音書などがあるが、正典として認められなかった外典文書である。 日本正教会では福音経(ふくいんけい)とも呼ばれる。これは福音書を、奉神礼において詠まれる祈祷書(経典)の一つでもあると捉える考えに基づいている。.

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程順則

程 順則(てい じゅんそく、1663年11月27日 - 1735年1月1日)は、第二尚氏王統の琉球王国の士族。琉球名は寵文(ちょうぶん)。名護親方(なぐうぇーかた)を務めた。 琉球で最初の公的教育機関となる、明倫堂(1714年開設)の創設を建議した。また、後に日本各地の寺子屋に普及する六諭衍義を清から琉球へ持ち帰った。 Category:琉球王国の人物 Category:久米三十六姓出身の人物 Category:1663年生 Category:1735年没.

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空手道

手道(からてどう)もしくは空手(からて)は、琉球王国時代の沖縄で発祥した拳足による打撃技を特徴とする武道・格闘技である。空手道の起源には諸説があるが、一般には沖縄固有の拳法「手(ティー)」に中国本土の武術が加味され、さらに薩摩藩示現流や夕雲流など日本武術の影響も受けながら発展してきた(詳しくは「起源」を参照)。.

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第一尚氏

一尚氏(だいいちしょうし)は尚思紹王を始祖とし、7代63年間(1406年(永楽4年)- 1469年(成化5年))続いた琉球最初の統一王朝をつくりあげた王家およびその姓の通称。正式には尚氏だが、第二尚氏と区別するために、一般には第一尚氏と呼ばれる尚氏については太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第2巻』(角川書店、1934年)2948頁参照。。.

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第二尚氏

二尚氏(だいにしょうし)は、尚円王を始祖とし、尚円王即位の1469年(成化6年)から1879年(光緒5年)までの410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家およびその姓の通称。琉球最後の王朝。正式には尚氏だが、第一尚氏と区別するため、一般には第二尚氏と呼ばれる。第二尚氏は、初代・尚円王から最後の尚泰王まで、19代続き、廃藩置県後は日本の華族となった。.

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紅型

紅型(びんがた)とは、沖縄を代表する伝統的な染色技法の一つ。14世紀の紅型の裂が現存しており、技術確立の時間を考慮すると、その起源は13世紀頃と推定されている。 「紅」は色全般を指し、「型」は様々な模様を指していると言われる。この定義をしたのは鎌倉芳太郎と伊波普猷とする説があるが、鎌倉芳太郎が1924年に初めて使用。「紅型」の漢字表記が広く普及され始めたのは昭和期に入ってから。沖縄県は「びんがた」と平仮名表記する場合が多い。古文書に現れる文字は「形付」、「形附」で「紅型」表記はない。高年者や下級士族向けの藍色の濃淡で染めるものは藍方(えーがた)と呼ぶ。.

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紋章

en)(紋章保持者の名前などに掛けた洒落を紋章にしたもの)の代表例のひとつ 紋章(もんしょう、)とは、個人および家系を始めとして、公的機関、組合(ギルド)、軍隊の部隊などの組織および団体などを識別し、特定する意匠又は図案である。ここでは、主にヨーロッパを発祥とする紋章について述べる。.

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総地頭

総地頭(そうじとう)は、琉球王国において、一間切を采地(領地)として総領する地頭職のこと。狭義には親方部に属する地頭職を言い、広義には按司地頭をも含む。惣地頭とも表記する。.

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羽地朝秀

羽地 朝秀(はねじ ちょうしゅう、万暦45年5月4日(1617年6月6日) - 康熙14年11月20日(1676年1月5日))は、琉球王国の政治家、歴史家。1650年、琉球最初の正史、中山世鑑を編纂する。また、1666年には摂政(しっしー)の地位につき、数々の政治改革を断行した。その時期の布達は『羽地仕置』として残されている。 唐名、向象賢(しょう じょうけん)。.

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真言宗

右 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう) - コトバンク/世界大百科事典、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。.

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県令

令(けんれい)は、.

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組踊

組踊(くみおどり)とは、琉球王国時代の沖縄で向受祐・玉城親方朝薫が創始した琉球の歌舞劇である。組踊は、能楽・狂言・歌舞伎・京劇・崑劇・福建省に伝わる閩劇などの影響を受け創作されたといわれ、中国や日本の故事、琉球の民話を題材に琉球舞踊や琉球古典音楽を基礎として発展した歌舞劇。2010年にユネスコ無形文化遺産リストに登録された。.

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熊野権現

野権現(くまのごんげん、または熊野神〈くまののかみ〉、熊野大神〈くまののおおかみ〉とも)は、熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。熊野神は各地の神社に勧請されており、熊野神を祀る熊野神社・十二所神社は日本全国に約3千社ある。.

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芥隠承琥

芥隠承琥(かいいんしょうこ、? - 1495年6月8日(明応4年5月16日))は、室町時代の日本の禅僧。琉球王国に初めて臨済宗を伝えた。.

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隋(呉音: ずい、漢音: すい、 、581年 - 618年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。.

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隋書

『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である(後述)。.

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銀(ぎん、silver、argentum)は原子番号47の元素。元素記号は Ag。貴金属の一種。.

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鎖国

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた『』 P.183 小林庄次郎 1915年。 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。及びオランダネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。(オランダ東インド会社本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。 なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。。.

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聞得大君

聞得大君(きこえおおぎみ、きこえのおおきみ、チフィジン)とは、第二尚氏時代の琉球神道における最高神女(ノロ)。.

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遺伝子

遺伝子(いでんし)は、ほとんどの生物においてDNAを担体とし、その塩基配列にコードされる遺伝情報である。ただし、RNAウイルスではRNA配列にコードされている。.

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道教

道教(どうきょう、)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある横手(2008)、p.001-008、中国史の中の道教。.

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鍋島直彬

鍋島 直彬(なべしま なおよし)は、肥前鹿島藩の第13代(最後の)藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の甥。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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頼重

頼重(らいじゅう、生年不詳 - 察度35年8月21日(1384年9月6日))は、南北朝時代の真言宗の僧。琉球波上山護国寺の開山。頼重法印とも。 三山時代の琉球、中山王察度の代(1349年 - 1394年)に薩摩国坊津の龍源寺(京都仁和寺の末寺)一乗院から琉球に渡ったと伝えられる。察度王の帰依を受け、王の祈願寺として護国寺を開創したという。 Category:真言宗の僧 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:琉球王国の人物 Category:1384年没.

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行基図

行基図(ぎょうきず)とは、古式の日本地図。 奈良時代の僧侶・行基が作ったとする説があるが、当時に作成されたものは現存しておらず、実際に行基が作ったものかどうかは不明である。ただし、この図が後々まで日本地図の原型として用いられ、江戸時代中期に長久保赤水や伊能忠敬が現われる以前の日本地図は基本的にはこの行基図を元にしていたとされている。このため、こうした日本地図を一括して「行基図」、「行基式日本図」、「行基海道図」と呼ぶケースがある。.

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袋中

袋中(たいちゅう、天文21年1月29日(1552年2月23日)- 寛永16年1月21日(1639年2月23日))は、江戸時代前期の浄土宗の学僧。陸奥国磐城郡の出身で、道号を弁蓮社入観(べんれんじゃにゅうかん)、法諱を良定(りょうじょう)と号した。まだ見ぬ仏法を求めて明に渡ることを企図し、渡明の便船を求めて琉球王国に滞在。滞在中に琉球での浄土宗布教に努めた。渡明の便船が見つからず帰国した後は、京都三条の檀王法林寺をはじめ多くの浄土寺院の創建や中興をおこなった。.

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親雲上

親雲上(ペーチン、または、ペークミー)は、琉球王国の士族の称号の一つ。主に中級士族に相当する者の称号である。黄冠を戴き、銀簪を差した。.

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首里

首里(しゅり、沖縄方言:スイ)は沖縄県那覇市の一地域。那覇市の北東部を占める。かつて首里市(市制施行前は首里区)だった地区である。また、さらに以前は琉球王国の王都として栄えた。 本項では首里市、同市の市制前の名称である首里区(しゅりく)についても述べる。.

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首里城

首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾である。 琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。 周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある。.

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香港

中華人民共和国香港特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくホンコンとくべつぎょうせいく)、通称香港(ホンコン、、)は、中華人民共和国の南部にある特別行政区(一国二制度)である。同じ特別行政区の澳門からは南西に70km離れている。東アジア域内から多くの観光客をひきつけ、150年以上のイギリス植民地の歴史で世界に知られる。 広大なスカイライン及び深い天然の港湾を抱える自由貿易地域であり、の面積に700万人を超す人口を有する世界有数の人口密集地域である。 .

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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路次楽

路次楽(るじがく)は、琉球王国の中国伝来の宮廷音楽。俗に「ガク」「ガクブラ」「ピーラルラー」などとも呼ばれる。宮廷の室内楽であった御座楽(うざがく)に対して、路次楽は、国王の行列が行進しながら吹奏する「道中楽」であった。 沖縄県の県選択無形民俗文化財として選択されている。.

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鹿児島県

鹿児島県(かごしまけん)は、九州地方南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。南北の距離は600km、海岸線は2,722kmに及ぶ。県庁所在地は鹿児島市。 世界遺産の屋久島や種子島宇宙センター、霧島山、桜島などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有している。.

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舜天

舜天(しゅんてん、1166年(乾道2年) - 1237年(嘉煕元年))は、舜天王統の開祖とされる人物で、琉球の正史では初代琉球国王と位置づけられている。在位51年(1187年(淳煕14年) - 1237年(嘉煕元年))。神号は尊敦(そんとん)。 琉球に渡った源為朝を父とする出自伝説をもつが、舜天と彼を含む王統に関しては伝説上の人物と考えられる。舜天は15歳で浦添按司となり、その後、天孫氏を滅ぼした逆臣・利勇を討ち、22歳で琉球国中山王に即位したとされる。 72歳で死去し、世子の舜馬順煕が王位を継いだ。「舜天」という名は、死後に付けられた諡号ではないかと考えられている。.

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阿片戦争

阿片戦争(アヘンせんそう、第一次鴉片戰爭、First Opium War)は、19世紀前半に清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたため、アヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間で戦争となり、イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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間切

間切(まぎり)は、沖縄における、琉球王国時代の行政区分のひとつ。概念としては、琉球王国全土を現在の日本全国と見立てた場合における都道府県にあたるが、区割りは現在の市町村に相当する。(ただし市町村合併等により、現在の市町村の区割りとは異なる。) 琉球の歴史の中では大きく2度、間切の区割り変更が行われている。また奄美群島では、薩摩が支配下に置いた後も間切制を続け、増減も行っている。 1907年(明治40年)の勅令第46号沖縄県及島嶼町村制が示され、翌1908年、間切は廃止された。.

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開国

開国(かいこく)とは、「鎖国」という言葉の対義語として、すなわち外国との交流を行うことを表す意味でよく用いられる。大日本帝国では、開国進取が国是とされていた。 この言葉には歴史的な用例として同時に〈建国〉、〈開拓〉などの意味もあった。また、この言葉には「鎖国」と同様に文明的に〈進んでいる/遅れている〉ことに対する眼差しも内包されており、日本が歴史書の中で、中国や朝鮮の歴史を「鎖国」/「開国」と刻印していった営為の背景には、そのような眼差しが潜んでいるという説がある。(大島明秀『「鎖国」という言説―ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史―』ミネルヴァ書房、2009年。大島明秀「「開国」概念の検討―言説論の視座から―」(『國文研究』第55号、2010年).

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那覇市

那覇市(なはし、沖縄方言:ナーファ、ナファ)は、沖縄本島南部の中核市で、県庁所在地並びに沖縄県最大の都市である。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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鄭和

鄭 和(てい わ、, 1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。.

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臨済宗

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.

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釉薬

釉薬(ゆうやく、うわぐすり、釉、上薬、)とは、陶磁器や琺瑯の表面をおおっているガラス質の部分である。陶磁器などを製作する際、粘土等を成形した器の表面にかける薬品のこと。粘土や灰などを水に懸濁させた液体が用いられる。.

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鉱山

鉱山(こうざん)とは、資源として有用な鉱物を採掘・選鉱・製錬し、主として工業用の原料として供給する事業所の事を指す。.

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英祖 (琉球国王)

英祖(えいそ、1229年(紹定2年)? - 1299年8月31日(大徳3年8月5日)?)は、『中山世鑑』や『中山世譜』などの琉球王国の歴史書に登場する王である。.

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通典

通典(つてん)は唐の杜佑が書いた、中国の歴史上初めての形式が完備された政書で、十通の1つ。全200巻、加えて考証1巻。.

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考古学

考古学(こうこがく、英語:archaeology)は、人類が残した物質文化の痕跡(例えば、遺跡から出土した遺物、遺構などの考古資料)の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。.

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陶磁器

野々村仁清『色絵藤花茶壺』(国宝) 陶磁器(とうじき、pottery and porcelain)は、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。 陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが含まれる。成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。『古陶磁の科学』の著者内藤匡は、この過程をおこしに喩えている。おおまかに言えば、陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである。.

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柔遠駅

柔遠駅(じゅうえんえき)、明代時の正式名称は「進貢工柔遠駅」で、一般的には琉球館(りゅうきゅうかん)と呼ばれている、福建省福州市台江区琯後街40号にある建物。1469年(成化5年)に建てられ、明朝から清朝末期まで琉球国が中国へ朝貢する拠点として用いられた。琉球使節団は閩江を遡り、万寿橋で下船して同館へ向かった。そして1876年に琉球と中国が断交してからは建築面積が段々と縮小された。現在は福州市対外友好関係史館という名称になっている。.

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恩納なべ

恩納 なべ(おんな なべ、琉球語:うんな なびー、生没年不詳)は、18世紀の琉球王国の農民・女性歌人(琉歌)。尚敬王(在位1713年-1751年)または尚穆王(在位1752年-1794年)の時代に生きたとされる。.

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提督

提督(ていとく) 提綱監督の意。.

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

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東南アジア

東南アジア(とうなんアジア)は、中国より南、インドより東のアジア地域を指す。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島などを含む。主に、大陸部東南アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。 '''東南アジア''' 東南アジアの地図 東南アジアの範域.

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東京大学

記載なし。

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東アジア

東アジア(ひがしアジア)は、ユーラシア大陸の東部にあたるアジア地域の一部を指す地理学的な名称である。北西からモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾列島、琉球諸島、日本列島などを含む。北東アジア(東北アジア)、極東、東亜などと呼ぶ場合もある。.

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東シナ海

東シナ海(ひがしシナかい、東支那海、東中国海、East China Sea)は、太平洋西部の海。南西諸島とユーラシア大陸に挟まれている。.

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東風平朝衛

東風平 朝衛(こちんだ ちょうえい、1701年 - 1766年)は、琉球王国の政治家、歌人。沖縄三十六歌仙の一人。正式には東風平親方朝衛と称する。唐名は向傑(しょうけつ)。称号は親方。豊見城御殿の門中である向氏当銘殿内(系祖・久志按司朝右)二代目(豊見城御殿門中としては三世)。父・久志按司朝右、母・毛氏真牛の長男として生まれる。組踊『万歳敵討』などの作者で知られる田里親雲上朝直は朝衛の弟である。 詳しい経歴は不明であるが、蔡温のあと、1752年に三司官に就任、1765年までの14年間その任にあった。歌人としても著名で、真境名安興の『沖縄一千年史』に古より有名な琉歌の名人6人のうちの1人に挙げられている。宜湾朝保『沖縄集』に、 の和歌が収録されている。.

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東郷平八郎

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により英雄視され、「陸の大山 海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれた。世界三大提督(ジョン・ポール・ジョーンズ、ホレーショ・ネルソン、東郷平八郎)の1人。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。.

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松田道之

松田 道之(まつだ みちゆき、天保10年5月12日(1839年6月22日) - 明治15年(1882年)7月6日)は、日本の内務官僚・政治家。大津県令、滋賀県令(ともに初代)、東京府知事(第7代)などを務めた。琉球処分において中心的な役割を果たしたことで知られる。.

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梵鐘

滋賀・園城寺(三井寺)の「弁慶引き摺り鐘」(奈良時代) 梵鐘(ぼんしょう)は、東アジアの寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)。撞木(しゅもく)で撞(つ)き鳴らし、重く余韻のある響きが特徴。一般には除夜の鐘で知られる。 「梵」は梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものである。作られた国によって中国鐘、朝鮮鐘(高麗鐘・新羅鐘)、和鐘(日本鐘)と呼ばれる。別名に大鐘(おおがね)、洪鐘(おおがね、こうしょう)、蒲牢(ほろう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)などがある。 法要など仏事の予鈴として撞(つ)くという、仏教の重要な役割を果たす。朝夕の時報(暁鐘 - ぎょうしょう、昏鐘 - こんしょう)にも用いられる。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされる。こうした梵鐘の功徳については多くの鐘の銘に記されている。 青銅製が多いが、小型のものにはまれに鉄製もある。小型のもの(一説には直径1尺7寸以下)は半鐘(喚鐘、殿鐘)といい、高い音で、用途も仏事以外に火事などの警報目的でも使われる。 響きをよくするために鋳造の際、指輪(金)を入れることがあるといわれ、江戸時代には小判を鋳込んだ例もある。雅楽と鐘の関係を記す文献もある。.

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椿説弓張月

『椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)は、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本。文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行。全5篇。 『保元物語』に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、『南総里見八犬伝』とならぶ馬琴の代表作である。.

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正史

正史(せいし)とは、.

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武家政権

武家政権(ぶけせいけん)は、日本史の平安時代後期から江戸時代にかけて、武家の棟梁(軍事貴族)を長として、地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す。武士政権(ぶしせいけん)とも呼ぶ。.

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武術

武術(ぶじゅつ).

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歴代宝案

歴代宝案(歴代寳案、れきだいほうあん)は、琉球王国の外交文書を記録した漢文史料。1集49巻、2集200巻、3集13巻、目録4巻、別集4巻の全270巻からなるが、現存するのは1集42巻、2集187巻、3集13巻、目録4巻、別集4巻の計250巻である。.

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殷元良

殷 元良(いん げんりょう、康熙57年12月21日(1719年2月9日) - 乾隆32年3月29日(1767年4月27日))は、琉球王国の画家。琉球画壇の代表的絵師の一人。本名は座間味 庸昌(ざまみ ようしょう)。字は廷器。.

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殿内

殿内(とぅんち)は、琉球士族の内、総地頭職にある親方家を指す尊称。広義には脇地頭家にも用いる。王族である御殿の下に位置し、高い格式を誇る家柄である。御殿と一括して御殿殿内(うどぅんとぅんち)と呼ばれ、大名方とも呼ばれた。.

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江戸上り

江戸上り(えどのぼり)とは、江戸幕府へ派遣された琉球国中山王府の慶賀使節。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)とも呼ばれる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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沖宮

沖宮(おきのぐう)は沖縄県那覇市にある神社。琉球八社の一つであるが、近代社格制度では社格を与えられていない(無格社)。奥武山公園の東部に位置する。.

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沖縄三十六歌仙

沖縄三十六歌仙(おきなわさんじゅうろっかせん)は、宜湾朝保が編纂した沖縄初の和歌集『沖縄集』(1870年)に掲載された琉球王国時代の沖縄の代表的な歌人36名の総称である。.

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沖縄県

沖縄県(おきなわけん)は、日本で最も西に位置する県。沖縄本島・宮古島・石垣島など多くの島々から構成される。県庁所在地は那覇市。.

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沖縄県の歴史

沖縄県の歴史(おきなわけんのれきし)は、現在の沖縄県にあたる領域を中心とした歴史である。沖縄県となる以前の、先史時代、琉球王国時代、琉球藩時代もここで述べる。.

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沖縄諸島

沖縄諸島(おきなわしょとう)は、南西諸島の中央部に位置し『沖繩大百科事典 上巻』「沖縄諸島」(1983年)p.531、琉球諸島北半分を占める島嶼群である。.

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沖縄本島

沖縄島の地形図。 沖縄本島(おきなわほんとう)、または沖縄島(おきなわじま)は、沖縄県を構成する160の島の中で最大の島であり 『日本歴史地名大系』「総論 自然環境」(2002年)p.23上段 - 中段、また東シナ海と太平洋(フィリピン海)の間に位置する南西諸島においても最大の島である。.

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沖縄戦

沖縄戦(おきなわせん、沖縄の戦い)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦(Operation Iceberg、氷山作戦)。琉球語では、Ucinaaikusa (ウチナー(沖縄)いくさ(戦、軍)、の意)ともいう。.

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沖縄方言

沖縄方言(おきなわほうげん)または沖縄語(おきなわご)、沖縄中南部方言(おきなわちゅうなんぶほうげん)は、琉球語(琉球方言)のうち、沖縄諸島中南部で話される方言(言語)の総称である。話される範囲には沖縄本島中南部と慶良間諸島・久米島・渡名喜島・粟国島・奥武島・浜比嘉島・平安座島・宮城島・伊計島が含まれる。国頭方言との境界は太平洋側ではうるま市石川と金武町屋嘉の間に、東シナ海側では恩納村恩納と谷茶の間にある。現地ではウチナーグチと呼ばれる南西諸島以外の日本で使われる言語(日本語本土方言)は、ヤマトグチ、ヤマトゥグチなどと呼ばれる。ヤマトとは大和、日本のこと。。 琉球語には沖縄方言以外に、奄美方言、八重山方言などがあり、しばしば互いに意思疎通が困難なほど言語学的に隔たりがあるため、それぞれ沖縄語、奄美語、八重山語などと一個の独立した言語とみなす立場もある。この立場の場合、これら言語を総括して琉球諸語、あるいは琉球語派と呼ぶことがある。 ここでは、言語説と方言説の両意見を考慮して琉球語沖縄方言(琉球語派沖縄語)と併記する。.

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沖縄料理

ーヤーチャンプルー(右)とオリオンビール(右上)は、いずれも沖縄の食卓で定番 沖縄料理(おきなわ りょうり)は、沖縄県の郷土料理のこと。琉球料理(りゅうきゅう りょうり)とも呼ばれるが、この場合は琉球王朝時代の宮廷料理を指すことが多い。.

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泡盛

泡盛(あわもり)は米を原料として、黒麹菌(アワモリコウジカビ)を用いた米麹である黒麹によってデンプンを糖化し、酵母でアルコール発酵させたもろみを一度だけ蒸留した琉球諸島産の蒸留酒である。単式蒸留焼酎(旧焼酎乙類)の一種。3年以上貯蔵したものは'''古酒(クース)'''と呼ばれる。 石垣島の泡盛 泡盛は酒として味わうほか、沖縄料理の調味料としても多く利用されている。1671年に琉球中山王が徳川家へ献上した物の目録に泡盛とあるのが文献上の最古であり、それ以前は、琉球酒や焼酎と記載されていた。.

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波上宮

波上宮(なみのうえぐう)は沖縄県那覇市にある神社。近代社格制度では官幣小社に列格され、現在では神社本庁の別表神社に指定されている。那覇港を望む高台の上に位置し、「なんみんさん」「ナンミン」として親しまれてきた。琉球八社の一つで、全国一の宮会より琉球国新一の宮に認定されている。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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源為朝

源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。 身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。.

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漢詩

漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。中華文明の伝来に伴い、8世紀から日本でも詠まれた。.

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漢文

漢文(かんぶん)とは、古代中国の文語体の文章のこと。または近代中国人・朝鮮人・日本人・ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、漢字を用いて中国語の文法で書かれたものをいう。.

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漆器

中山胡民作、虫籠蒔絵菓子器 江戸時代 19世紀 東京国立博物館蔵 漆器の文箱に、沈金の技法で描かれた松葉。 乾燥作業中の様子 漆器(しっき)は、木や紙などに漆(うるし)を塗り重ねて作る工芸品である。日常品から高級品、食器、根付、または車体までと様々な用途がある。狭義には「漆を塗った食器」の意味であるが、それに捉われない。漆を表面に塗ることで器物は格段に長持ちする。 ウルシから採れる加工した樹液を漆と言い、これを加工された素地(きじ:素材が木の場合には「木地」)に下地工程、塗り工程と、細かく挙げると30から40になる手順を経て漆器に仕上げていく。この工程は漆工と言われそれぞれに名前があり、生産地別で考え出された漆工も合わせると多岐にわたる。 利用される素地には、よく乾燥された木材、竹、紙、金属などがあり、現代では合成樹脂も使われている。更に、漆にセルロースナノファイバー(CNF)を混ぜて光沢や強度を高める技術が開発されるなど、時代とともに変化している。.

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朝鮮

統一旗 朝鮮(ちょうせん、チョソン、조선)は、朝鮮半島および済州島、巨文島、鬱陵島など周囲の島嶼・海域を併せた地域を表す呼称。ユーラシア大陸の東端に位置し、北西に中華人民共和国、北東にロシア、南東に対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を隔てて日本と隣接する。 この地の全域を、大韓民国(韓国)も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も共に自国の領土に定めており、両国の領土は完全に一致重複している。しかし現実は朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)を境に北半部は北朝鮮が、南半部は韓国が実効支配している。.

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朝鮮王朝実録

『朝鮮王朝実録』(ちょうせんおうちょうじつろく)は李氏朝鮮の初代太祖の時から純宗に至るまで27代519年間の歴史を編年体で編纂した1967巻948冊の実録。かつては『李朝実録』(りちょうじつろく)と呼ぶことが多かった。なお、現在の朝鮮民主主義人民共和国での正式的な呼び名は『朝鮮封建王朝実録』(ちょうせんほうけんおうちょうじつろく)である。 李氏朝鮮時代の政治、外交、軍事、経済など各方面の史料を記載しているといわれる。1997年(平成9年)にはユネスコの世界の記憶 (Memory of the World) 計画に登録された。.

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朝貢

朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.

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末吉宮

本殿昭和11年(1936年)に国宝の指定を受けていたが太平洋戦争により焼失し、昭和47年(1972年)に再建された。 社務所脇から見上げた拝殿 末吉宮(すえよしぐう)は、沖縄県那覇市首里末吉町の末吉公園内にある神社で琉球八社のひとつ。旧社格は無格社。.

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本部朝救

本部 朝救(もとぶ ちょうきゅう、乾隆6年10月20日(1741年11月27日) - 嘉慶19年7月14日(1814年8月28日))は、琉球王国の歌人。沖縄三十六歌仙の一人。正式には本部按司朝救と称する。唐名は、向国珍(しょうこくちん)。向氏本部御殿五世。位階は按司。真境名安興の『沖縄一千年史』に、古より最も有名な琉歌の歌人6人のうちの1人に挙げられているが、詳細な経歴は不明。1773年、浄岸院の進香使として薩摩へ上国している。また、同じ三十六歌仙である摂政・読谷山王子朝憲や三司官・与那原親方良矩らとともに歌会に参加した記録が残されている。 『古今琉歌集』に10首あまりの歌が伝えられている。恋を詠んだ歌が多い。そのうちの一つに が収録されている。.

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札幌大学

記載なし。

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朱印船

朱印船(しゅいんせん)は、16世紀末から17世紀初頭にかけて日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て、海外交易を行った船を言う。朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。 朱印船(荒木船).

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朱肉

朱肉 朱肉(しゅにく)とは、印鑑を用いる際に使われる赤い(朱色の)印肉のことである。朱肉を入れる容器のことを肉池(にくち)または印池(いんち)という。.

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按司

按司。右が大礼服、左が通常服の姿。 グスク跡 按司(あじ、または、あんじ)は、琉球諸島に存在した称号および位階の一つ。王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家にあたり、日本の宮家に相当する。他に按司は王妃、未婚王女、王子妃等の称号にも用いられた。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた。.

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按司地頭

按司地頭(あじじとう)は、琉球王国において、王子・按司が一間切を采地(領地)として総領する場合の地頭職の呼称。広義には総地頭(惣地頭)とも呼ばれる。.

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惣慶忠義

惣慶 忠義(そけい ちゅうぎ、康熙25年11月11日(1686年12月25日) - 乾隆14年10月30日(1749年12月9日))は琉球王国の歌人。沖縄三十六歌仙の一人。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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海禁

海禁(かいきん)とは、中国明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策のことである。海賊禁圧や密貿易防止を目的とし、海外貿易等の外洋航海、時には沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)が規制された。本来は下海通蕃の禁と呼び、海禁は略称であった。 またこれを「領民の私的な海外渡航や海上貿易を禁止する政策」と捉え、江戸幕府の行った国家による対外交流独占政策(鎖国政策)や李氏朝鮮の同様の政策、あるいは元朝の行った商人の出海禁止政策(「元の海禁」)もまた、海禁と位置付けられることもある。.

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浄土宗

#伝統宗派としての浄土宗。浄土宗諸派の総称としての浄土宗。鎮西派と西山派に分かれる。.

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浄土真宗

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させる。「浄土真宗」の英訳は、浄土真宗本願寺派ではJodo Shinshuとし、真宗大谷派・真宗佛光寺派ではShin Buddhismとしている。.

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新約聖書

『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエス(イーサー)を預言者の一人として認めることから、その一部(福音書)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。「旧約聖書」「新約聖書」は、新旧の別による「旧いから無視してよい・誤っている、新しいから正しい」といった錯誤を避けるため、旧約聖書を『ヘブライ語聖書』、新約聖書を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはキリストが生まれる前までを旧約聖書、キリスト生誕後を新約聖書がまとめている。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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文献通考

『文献通考』(ぶんけんつこう)は、上古から南宋寧宗朝の開禧3年(1207年)に至る歴代の制度の沿革を記した中国の政書。 元の延祐4年(1317年)、馬端臨(1254年 - 1324年)が完成させた。全348巻、考証3巻を付す。.

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文語体

文語体(ぶんごたい)は、文語を用いて書かれた日本語の文章形式のこと。第二次世界大戦前までは特に公文書などで標準的に使われていた。現代の日本語における文語は、明治時代からの言文一致運動と、第二次世界大戦後の国語改革の影響により、話し言葉に比較的に近いものになっている。現在の日本語で一般的な文体は(書き言葉であっても)口語体とよばれる。(いわゆる口頭のみの言葉遣いを指し示す口語とは意味合いが異なる)。.

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日琉同祖論

日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)は、日本人と琉球(沖縄)人は、その起源において民族的には同一であるとする説。日琉同祖論は、歴史的には16世紀の京都五山の僧侶等によって唱えられた源為朝琉球渡来説に端を発し、それが琉球へ伝わり17世紀に摂政・羽地朝秀が編纂した『中山世鑑』に影響を与えて、明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開された。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本人街

日本人街(にほんじんがい・にほんじんまち)とは、日本国外において、在外日本人が多く暮らす地域のことである。歴史的には日本人町ともいう。英語では「Japantown」と一語で呼称する。.

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日本列島

日本列島(狭義)の地形図ユーラシア大陸東の沿岸沖に位置し、4つの比較的大きな島と、その周辺の3700程の島々で構成されている大辞林第3販 項目「日本列島」。日本海、オホーツク海、太平洋、東シナ海に囲まれている。NASA's Blue Marble project'' ''(*)'' 左端はカムチャツカ半島 日本列島(にほんれっとう、にっぽんれっとう、Japanese archipelago)は、ユーラシア大陸東端の沿岸沖、東アジアに位置、また太平洋北西の沿海部に位置する弧状列島の一つである。範囲にはいくつかの説があるが、いずれもほぼ全域が日本の領土となっている。日本列島は列島の名前であり、国家や領土とは独立した概念であるが、日本においては日本の領土を意味する語としても混同して使用されている。日本の領土としての日本列島については日本の地理を参照。 列島は広いところで300km程度の幅があり、長さは3500km程ある。陸地面積の75%に及ぶ範囲が山地、山麓で、平地に乏しい。大部分は温暖湿潤気候に属し、梅雨や台風、また季節風の影響による豪雪の影響などにより侵食が激しい。 周囲は日本海、オホーツク海、太平洋、フィリピン海に囲まれている。列島の太平洋側には千島・カムチャツカ海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、南海トラフなどの深い海溝があり、全体が地殻変動、造山活動が盛んな活動地域となっている。また、地球上に確認されている火山の10%程度が日本列島内にあると言われている。 地質学的には、ユーラシアプレートの東端および北アメリカプレートの南西端に位置する。これら2つの大陸プレートの下に太平洋プレートとフィリピン海プレートの2つの海洋プレートが沈み込む運動によって、大陸から切り離された弧状列島になったと考えられている。 始新世(5,600万年前 - 3,400万年前)頃からその原型が形成され、中新世(2,300万年前 - 530万年前)に日本海が形成されてユーラシア大陸と分離した。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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手 (沖縄武術)

手(ティー、ティ、Tee,Tii、hand)とは、空手以前に存在したとされる、沖縄県の琉球王国時代の武術である。 「手(ティー)」という武術が何であるかについては、空手家や研究者によって見解が異なる。しかし、今日では、大体以下に示すように二通りの意味で使われている。.

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曲亭馬琴

曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、)で、後に解(とく)と改める。号に著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など(#名前について参照)。 代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。.

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普天満宮

鳥居 本殿 奥宮 普天満宮(ふてんまぐう)は、沖縄県宜野湾市普天間にある神社。宜野湾市で唯一の神社でもある。 現在の正式な社名は普天満宮となっている。別称は普天満権現。一般的には普天満神宮と呼称される。琉球八社の一つ。.

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10月16日

10月16日(じゅうがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から289日目(閏年では290日目)にあたり、年末まであと76日ある。.

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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1336年

記載なし。

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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1421年

記載なし。

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1429年

記載なし。

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1439年

記載なし。

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1449年

記載なし。

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1453年

記載なし。

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1462年

記載なし。

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1469年

記載なし。

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1476年

記載なし。

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1492年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1500年

15世紀最後の年である。.

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1522年

記載なし。

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1531年

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1545年

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1567年

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1571年

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1585年

記載なし。

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1603年

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1609年

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1617年

記載なし。

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1622年

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1623年

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1624年

記載なし。

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1632年

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1634年

記載なし。

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1636年

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1643年

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1650年

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1651年

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1653年

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1658年

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1668年

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1669年

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1670年

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1673年

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1676年

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1678年

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1682年

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1684年

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1686年

記載なし。

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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1700年

17世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1710年

記載なし。

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1715年

記載なし。

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1718年

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1719年

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1727年

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1729年

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1734年

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1741年

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1743年

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1745年

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1747年

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1749年

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1762年

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1765年

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1774年

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1789年

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1791年

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1797年

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1805年

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1811年

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1814年

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1827年

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1833年

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1836年

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1844年

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1846年

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1847年

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1851年

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1853年

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1854年

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1871年

記載なし。

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1872年

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1874年

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1875年

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1877年

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1879年

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1895年

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1897年

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1898年

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4月4日

4月4日(しがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から94日目(閏年では95日目)にあたり、年末まであと271日ある。誕生花はアジアンタム、トリテリア。.

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610年

記載なし。

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636年

記載なし。

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779年

記載なし。

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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