319 関係: 劉基、南京市、南朝 (日本)、南明、台湾、坤輿万国全図、塩、士大夫、大内氏、天工開物、天啓 (明)、天啓帝、天順 (明)、奪門の変、女真、宣徳、宣徳帝、室町幕府、宦官、安徽省、宋 (王朝)、宋応星、寧波市、小説、山西省、山東省、崇禎、崇禎帝、巡撫、不換紙幣、両税法、中国、中国の陶磁器、中国語、中書令、布、世界地図、世界遺産、万里の長城、万暦、万暦帝、万暦赤絵、三国志演義、三省六部、三田村泰助、一世一元の制、一条鞭法、庚戌の変、広南国、広州市、...、広西省、広東省、五島列島、五四運動、五行思想、五軍都督府、仁宣の治、建文、建文帝、会試、弘治 (明)、弘治帝、張士誠、張居正、徐光啓、御史台、後金、心即理、土木の変、北京と瀋陽の明・清王朝皇宮、北京市、北元、北朝 (日本)、ミャンマー、マテオ・リッチ、マカオ、チベット、ポルトガル、ムラカ、ムギ、メッカ、メキシコ、メコンデルタ、モンゴル (曖昧さ回避)、モンゴル高原、ユークリッド幾何学、ヌルハチ、トゴン・テムル、ティムール、ティムール朝、ホンタイジ、ダヤン・ハーン、ベトナム、嘉靖、嘉靖帝、呉三桂、呉鎮、呉派、アルタン・ハーン、アフリカ、アダム・シャール、アイスランドガイ、インド洋、イエズス会、エセン・ハーン、オルドス、オイラト、カトリック教会、カイコ、クワ、クビライ、グレゴリオ暦、コーカン族、シルクロード、タタール、唐、唐詩選、冊封、内閣大学士、六部、元 (王朝)、元号、元末四大家、四川省、四書大全、倪サン、倭寇、知行合一、王直、王蒙 (画家)、王陽明、王朝、王振、福建省、科挙、米、紫禁城、紅巾の乱、紙幣、羈縻政策、烏斯蔵、絹、生員、甘粛省、無錫市、牡丹亭、白蓮教、百科事典、銭貨、隆慶 (明)、隆慶帝、銀、靖難の変、顧炎武、行中書省、衛所、袁崇煥、複都制、西安市、西廠、西遊記、親王、魏忠賢、貨幣、足利義満、黎朝、黄公望、農本思想、農政全書、辛亥革命、錦衣衛、胡藍の獄、胡朝、郷紳、郷試、都察院、蘇州市、鄭和、鄭芝龍、鄭成功、重祚、致良知、里甲制、金瓶梅、長崎貿易、長江、英宗 (明)、雍正帝、雲南、雲南省、進士、考証学、陝西省、陳朝、陶磁器、陽明学、染付、枢密院 (中国)、李卓吾、李自成、李氏朝鮮、李成梁、李時珍、東南アジア、東廠、東林学院、東林党、松江区、正徳 (明)、正徳帝、正統 (明)、歴史、殿試、水滸伝、永暦帝、永楽 (明)、永楽大典、永楽帝、永楽通宝、江南、江西省、江蘇省、河南省、河北省、沈周、泰昌、泰昌帝、洪熙、洪熙帝、洪武、清、湖南省、湖広省、湖北省、満州、満州民族、漢、漢詩、朝貢、木綿、本草綱目、朱子学、朱常洵、朱元璋、朱翊鏐、朱熹、朱高煦、朱標、挙人、戚継光、成化、成化帝、戯曲 (中国)、明朝体、浙江省、新安商人、文人、文人画、文徴明、文禄・慶長の役、日本、日本国王、日本経済新聞、日明貿易、懐良親王、故宮博物院、景徳鎮市、景泰、景泰帝、時憲暦、1351年、1368年、1372年、1380年、1388年、1393年、1398年、1399年、1402年、1403年、1421年、1424年、1425年、1426年、1435年、1436年、1448年、1449年、1450年、1457年、1464年、1465年、1470年、1487年、1488年、14世紀、1505年、1506年、1517年、1521年、1522年、1550年、1557年、1563年、1566年、1567年、1572年、1573年、1582年、15世紀、1620年、1621年、1627年、1628年、1640年、1644年、1662年、16世紀、1724年。 インデックスを展開 (269 もっと) »
劉基
劉基 劉 基(りゅう き、1311年 - 1375年)は中国元末明初の軍人・政治家・詩人・軍師。字は伯温。諡は文成。浙江省温州文成県南田出身。出身地の文成が後に青田とよばれたことから劉青田とも称される。.
南京市
南京市(ナンキンし、、、)は、中華人民共和国の副省級市で、江蘇省の省都。古くから長江流域・華南の中心地で、かつては三国・呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、十国の南唐や明といった王朝や南京国民政府の首都であった。中国四大古都の一つ。14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。2016年の都市的地域の人口は678.14万人であり、総人口は827万人である。 金陵(きんりょう)は南京の別名である。また清朝のころには江寧(こうねい、簡体字:江宁)と呼ばれたことから略称は「寧(簡体字:宁)」である。夏はとても暑く、重慶、武漢と並ぶ中国三大ボイラー(三大火炉)の一つと言われている。.
南朝 (日本)
南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.
南明
南明(なんみん)は、明の皇族によって1644年から1661年までの間に華中、華南に立てられた亡命政権の総称。.
台湾
台湾(タイワン、臺灣 / 台灣、台: Tâi-oân)は、東アジアの国である。 1945年に当時中国大陸を本拠地とした中華民国の統治下に入り、1949年に中華民国政府が台湾に移転した。1955年以降、中華民国は台湾本島以外にも澎湖諸島、金門島、馬祖島、東沙諸島、南沙諸島の太平島を実効支配しているが、全体の面積に占める台湾(本島)の割合は99%以上になる。そのため、中華民国の通称として「台湾」と表記される(詳細は定義参照)。近隣諸国としては、東及び北東に日本、南にフィリピンがある。事実上の首都は台北市である。台北県が直轄市となったことにより成立した新北市は、台北市及びその外港である基隆市を囲む大都市圏を包含し、2018年時点では同島で人口最多の都市である。.
坤輿万国全図
坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず、正字: 坤輿萬國全圖)とは、明末に作られた世界地図の一種である。「亜細亜」「赤道」などヨーロッパの言葉が中国語に翻訳されている。.
塩
塩の結晶 塩(しお)は、塩化ナトリウムを主な成分とし、海水の乾燥・岩塩の採掘によって生産される物質。塩味をつける調味料とし、また保存(塩漬け・塩蔵)などの目的で食品に使用されるほか、ソーダ工業用・融氷雪用・水処理設備の一種の軟化器に使われるイオン交換樹脂の再生などにも使用される。 日本の塩事業法にあっては、「塩化ナトリウムの含有量が100分の40以上の固形物」(ただし、チリ硝石、カイニット、シルビニットその他財務省令で定める鉱物を除く)と定義される(塩事業法2条1項)。.
士大夫
士大夫(したいふ)は、中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。.
大内氏
大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.
天工開物
天工開物(てんこうかいぶつ)は中国の明末(17世紀)に宋応星によって書かれた産業技術書。「天工」は造化の巧み(自然の業)、「開物」は人間の巧みを意味する。中国の産業技術史を展望するための書籍として評価されている。.
天啓 (明)
天啓年製と書かれた茶器 天啓(てんけい)は中国、明代の元号(1621年 - 1627年)。第16代皇帝熹宗の在位中に使われた。このため熹宗は天啓帝と呼ばれる。.
天啓帝
明熹宗常服像 天啓帝(てんけいてい)は、明朝の第16代皇帝。諱は由校(ゆうこう)。廟号は熹宗(きそう)。日本では在位中の元号天啓を取って天啓帝と呼ぶのが一般的である。.
天順 (明)
天順(てんじゅん)は中国、明代の元号(1457年 - 1464年)。英宗が第8代皇帝として重祚した後の在世に使われた。このため英宗は天順帝と呼ばれることもある。 景泰8年(1457年)1月16日に奪門の変が起き、上皇であった英宗が代宗より帝位を奪い、1月21日に詔を発して景泰8年を天順元年とした。.
奪門の変
奪門の変(だつもんのへん)は、1457年(景泰8年)1月16日に、中国・明において発生したクーデター。上皇の英宗(当時)が、弟の景泰帝より帝位を奪って重祚した事件である。.
女真
女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.
宣徳
宣徳(せんとく)は中国、明代の元号(1426年 - 1435年)。第5代皇帝宣宗の在位中に使われた。このため宣宗は宣徳帝と呼ばれる。.
宣徳帝
宣徳帝(せんとくてい)は、明朝の第5代皇帝。諱は瞻基(せんき)。廟号は宣宗。しかし、日本ではその在位中の元号から一般的に宣徳帝と称される。.
室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
宦官
宦官(かんがん)とは、去勢を施された官吏である。去勢技術は家畜に施すものとして生まれたため、宦官は牧畜文化を持つ国にのみ存在するという説があるが、現実には牧畜文化を持たない国においても宦官は存在した。.
安徽省
安徽省(あんきしょう、アンホイしょう、中国語:安徽省、拼音:Ānhuī Shěng、英語:Anhui)は、中華人民共和国の省。名称は安慶の安、徽州(現黄山市)の徽による。省都は合肥市。略称は皖。.
宋 (王朝)
宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.
宋応星
宋応星(そう おうせい、1587年頃 - 1666年頃)は、明末清初に活躍した中国の学者。『天工開物』の著者として知られる。.
寧波市
寧波市(ねいはし、ニンポーし、、、、呉語寧波弁:Ning Pou)は、中華人民共和国浙江省に位置する副省級市、計画単列市に指定されている。長江デルタ南翼経済中心、浙江省経済中心。 沿海部の港湾都市として商工業が発達しているが、同時に古い歴史を誇り国務院から国家歴史文化名城に指定されている。年間貨物取扱量が世界一の港ー寧波港の所在地。.
小説
小説(しょうせつ、fiction(総称)、novel(長編)、story(短編)、roman(長編)、nouvelle(中編)、conte(短編))とは、文学の形式の一つである。.
山西省
山西省(さんせいしょう、中国語:山西省、拼音:Shānxī Shěng、英語:Shanxi)は、中華人民共和国の行政区分の一つ。省都は太原市。略称は晋。.
山東省
山東省(さんとうしょう、中国語:山东省、拼音:Shāndōng Shěng、英語:Shandong)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は周代の国名より魯。山東とは太行山脈の東方の意。北には渤海、東には黄海があり、黄河の下流に位置する。人口9579.3万人、面積157,126平方キロメートル。省都は、済南。他に青島、泰安などの主要都市がある。.
崇禎
崇禎(すうてい)は中国、明代の最後の皇帝である第17代皇帝毅宗の治世中で使用された元号。1628年 - 1644年。一世一元の制を採用していたため、毅宗は崇禎帝と称される。 崇禎17年3月19日、李自成により明は滅亡。李自成は、その年の1月に西安で皇帝を称し、年号を永昌としていたが、4月に清によって逐われた。その清の元号では、この年は順治元年である。 一方、南京では、崇禎帝の従兄弟である福王・朱由崧が5月15日に皇帝に即位し、明朝を復興(南明)、踰年改元法に則り、崇禎の年号を継承し、翌年正月をもって弘光に改元する。 李氏朝鮮では、明の滅亡後、明の後継者は朝鮮だとする小中華思想により、崇禎による崇禎紀元を使い続けていた。.
崇禎帝
崇禎帝(すうていてい)は、明朝第17代(最後)の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。廟号ははじめは思宗、のちに改めて毅宗(以上は南明弘光帝による)、威宗(隆武帝による)、懐宗(清による)。諡号は弘光帝が紹天繹道剛明恪儉揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝としたが、清が荘烈愍皇帝と改めた。また清は崇禎帝を明朝歴代皇帝と同じ北京昌平山に葬り、陵墓を「思陵」とした。.
巡撫
巡撫(じゅんぶ)は、中国の明代及び清代に存在した官職名。 明の洪武年間(1368年 - 1398年)から永楽年間(1403年 - 1424年)にかけては中央から地方に派遣される臨時官であったが、宣徳年間(1426年 - 1435年)から常設され、明代末期には1省あるいはその一部を管轄する地方官として20人を超えた。都御史を兼ね、しばしば軍事も兼務し、布政使・按察使・都指揮使の上位として、地方を管轄した。 清代には明の制度を踏襲して巡撫(giyarime dasara amban)は省(golo)の長官とされ、総督(uheri kadalara amban)とほぼ同格として皇帝に直属した(総督は複数の省を管轄するが巡撫は総督同様皇帝直属であった)。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した。.
不換紙幣
不換紙幣(ふかんしへい)とは本位貨幣(正貨たる金貨や銀貨)との兌換が保障されていない法定紙幣()のことをいう。政府の信用で流通するお金であることから、信用紙幣()とも呼ばれる。.
両税法
両税法(りょうぜいほう)は、中国に於いて唐中期から明中期まで行われた税制のことである。夏と秋の二回徴税されるのでこの名前がある。均田制・租庸調制に代わって施行された。.
中国
中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.
中国の陶磁器
中国の陶磁器(ちゅうごくのとうじき)では、新石器時代から清時代に至る中国の陶磁工芸の流れと技法を概観する。 中国陶磁の歴史は新石器時代の紅陶や彩文土器から始まり、さまざまな技術革新を重ね、三彩、白磁、青磁、青花、五彩などの華麗な器を作り出し、世界の陶磁界をリードしてきた。英語のチャイナ(China)という単語は、普通名詞としては「磁器」を意味するが、このことに象徴されるように、中国は世界に先駆けてガラス質の白いやきものである磁器を生み出した。中国磁器は中国の宮廷で用いられたのみならず、主要な貿易品の一つとして、アジア諸国、イスラム圏、ヨーロッパなどにも大量に輸出された。こうした中国磁器は、日本では茶の湯の道具に取り入れられ、イスラム圏やヨーロッパでは王侯貴族のコレクションに収まるなど、世界の陶磁器の発展に多大な影響を及ぼしてきた。.
中国語
記載なし。
中書令
中書令(ちゅうしょれい)は、中国の漢代から明代にかけて存在した官職名。 漢代の中書令は内廷(後宮など宮廷の皇帝の私的な部分)の秘書長であり宦官が就任し、宦官となった司馬遷も就任した。宣帝以降側近として重用され、中書令の弘恭や石顕が権力を握った。しかし成帝の時に廃止された。 その後、魏の文帝の時代に復活し、宦官ではない皇帝の側近が就任した(孫資、李豊など)。さらに、中書令の役所である中書省が創設された。当初、中書省の長官は中書監といわれ、中書令はその次官であった。西晋期の官吏目録に中書監に荀勗、中書令に和嶠という記録がある。 隋と唐早期には、皇帝が出す詔勅の起草を行うという役職から、非常に強い権限を持ち、実質的な宰相職となっていた。唐の太宗の治世では、中書令は参議朝政などの名で国政に参与するようになり、同中書門下三品もしくは同中書門下平章事を兼任しない宰相には実質的権限がなかった。 宋代になると名誉職となっていたが、元代には名前だけを流用されて行政の最高職になった。その後、皇帝独裁を目指す明の洪武帝によって廃止された。 Category:中国の官名.
布
布(ぬの)とは多数の繊維を薄く広い板状に加工したものを指す。作り方によって織物、編み物(メリヤス生地)、レース、フェルト、不織布に分けられ、使用している繊維の種類、織り方、編み方により性質が決まる。古代日本では植物繊維で作られた物のみを指し、絹織物や毛織物は「布」とは呼ばれていなかったが、現在は繊維の材質に関わらず布と呼ぶ。衣類、装飾、税などに使用される。歴史上では、貴重な材質の布は、一種の貨幣としても流通した。.
世界地図
世界地図 世界地図(せかいちず)は、地球全体、あるいは大部分を表現した地図である。 主に以下の事柄が、シンボル化した記号・文字・図形・各種色彩などによって平面上に表現される。.
世界遺産
世界遺産(せかいいさん、World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。なお、慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、などに依拠して、主たる用語には英語を併記しておく。.
万里の長城
万里の長城(ばんりのちょうじょう、万里长城、、Цагаан хэрэм、、満州語: 、)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれている。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6kmである。 匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。 よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100kmも離れていない稜線上に設けられている。万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かった。 万里の長城は建設後常に維持・利用されていたわけではなく、積極的に長城を建設・維持する王朝と、まったく長城防衛を行わない王朝の2種が存在し、各王朝の防衛戦略によって長城の位置も大きく変動している。始皇帝による建設以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛をほとんど、あるいはまったく行わなかった。長城の建設位置に関しても、秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原に近い山岳地帯を中心に長城を建設した。 なお、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中華人民共和国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認することは出来ない。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した宇宙飛行士である楊利偉が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中華人民共和国の教科書から、この節は正式に削除された。2004年には、中国系アメリカ人の宇宙飛行士であるリロイ・チャオが、国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで「万里の長城」を写真撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している。.
万暦
万暦(ばんれき)は中国、明代の元号(1573年 - 1620年7月)。第14代皇帝神宗の在位中に使われた。このため神宗は万暦帝と呼ばれる。 本来、1620年いっぱい使われる予定であったが、万暦帝の後を継いだ光宗は即位の1か月後に急死したため、光宗独自の年号を立てる年が無くなってしまった。そのため、大臣の群議で万暦48年(1620年)の8月以降を泰昌元年とした。詳しくは、泰昌を参照。.
万暦帝
明神宗冕服像 万暦帝(ばんれきてい)は、明朝の第14代皇帝。諱は翊鈞(よくきん)。廟号は神宗。諡号は範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝。日本では一般的に治世の元号を取って万暦帝と呼ばれる。.
万暦赤絵
万暦赤絵(ばんれきあかえ)とは中国の明の万暦年間に景徳鎮で作られた陶磁器で、色絵の白磁のことである。日本での用語であり、中国では万暦五彩という。.
三国志演義
劉備と関羽、張飛(桃園の誓い) 『三国志演義』(さんごくしえんぎ、 )は、中国の明代に書かれた、後漢末・三国時代(魏、蜀、呉)を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。 著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。.
三省六部
三省六部(さんしょうりくぶ)は中国の隋唐王朝で行われた政治制度。また中国におけるその後の政治制度にも大きく影響を及ぼしている。.
三田村泰助
三田村泰助(みたむら たいすけ)、1909年(明治42年) - 1989年(平成元年)は、日本の歴史家(東洋史・中国史)。 福井県南条郡武生町(現越前市)出身。山口高校から京都帝国大学東洋史学科卒業。内藤湖南、羽田亨に師事した。1949年から80年まで、立命館大学教授、のち名誉教授。専攻は明清史。羽田と共に『満和辞典』の編纂に携わるなど、満洲史の権威として知られる。1963年、『宦官』で毎日出版文化賞受賞。1989年9月没(「明帝国と倭寇」中公文庫版著者紹介より)。.
一世一元の制
一世一元の制(いっせいいちげんのせい)とは、元号を君主(皇帝、天皇、国王)の在位中には変えない制度をいう。.
一条鞭法
一条鞭法(いちじょうべんぽう)は、中国の税制。丁税と地税を一括して銀納する税制であり、明王朝の後期には中国各地で施行された。 16世紀に入り、海禁政策が弛緩してアメリカ大陸や日本から多くの銀(メキシコ銀、日本銀)が流入したことが背景にある。16世紀中ごろには既に江南などで実施されており、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正のもとで全国に広まった。複雑化していた税制を、丁税(人頭税)と地税にまとめ、一括して銀で納税することを定めたものである。のちの清代における地丁銀制に影響を与えた。.
庚戌の変
庚戌の変(こうじゅつのへん)は、明の嘉靖29年(1550年)、モンゴルのアルタン・ハーンの軍勢が北京を包囲した事件。 モンゴルでは15世紀末から16世紀初頭にかけて、クビライの子孫を称するダヤン・ハーンの手で再統一が成し遂げられた。オルドスに封じられたその孫アルタン・ハーンは、16世紀前半、頻繁に明に侵入して略奪を行うようになり、朝貢や互市の要求も激しくなった。 嘉靖29年(1550年)には長城を越えて直隷に侵入し、3昼夜に渡って北京を包囲、朝貢と互市を要求した。この事件を庚戌の変と呼ぶ。この際は、明朝に脅威を与えただけで包囲を解いて立ち去ったが、翌1551年に再び交易を求めた。この要求を受けて大同で馬市が設けられ、モンゴルが提供した馬と絹織物とが交換された。しかし、まもなく明朝との関係が悪化して馬市が閉鎖されたため、両勢力の抗争は激化することになった。 こうしたアルタン・ハーンの活動は明にとって大きな脅威であり、長城の強化事業が行われた。.
広南国
広南国(かんなんこく、クァンナムこく,,1558年 – 1777年)は、ベトナムの後黎朝中期~後期において、重臣の広南阮氏が現在のベトナム南部に築いた半独立国家。阮氏広南国(げん / グエンし - )、あるいは広南朝( - ちょう)とも呼ばれる。.
広州市
広州市(こうしゅうし、、、、)は、中華人民共和国広東省に位置する副省級市で、広東省人民政府が置かれる省都。 広東省のみならず、華南地域全体の経済、文化、教育、交通などの中心都市の一つであり、国務院により、国家中心都市の一つに指定されている。2010年の常住人口は1,270万人、市内総生産は1兆0604億元(約13兆円)であり、昔から羊城と愛称され、花城、穂城の名もあり、穂()と略称される。地下鉄、高速道路網が発達している。 一般に北京市、上海市と共に、中国本土の三大都市の一つに数えられる。また、深圳市を含めた4都市は「一線都市」に分類されており、「北上広深」として四大都市に数えられることもある。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界56位の都市と評価された。中国本土では北京市、上海市に次ぐ3位である。.
広西省
広西省(こうせいしょう)は、かつて中華民国に存在した省。現在の中華人民共和国広西チワン族自治区の大部分に相当する。.
広東省
広東省(カントンしょう、中国語:廣東省(广东省)、中国普通話拼音:Guǎngdōng Shěng、広東語拼音:gwong2 dung1 saang2、英語:Guangdong)は、中華人民共和国南部にある行政区分の一つである。隣の広西チワン族自治区と併せて「両広」と呼ばれる事もある。.
五島列島
五島列島の位置 五島列島(ごとうれっとう)は、九州の最西端、長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて140あまりの島々が連なる列島。.
五四運動
五四運動(ごしうんどう)は、1919年パリ講和会議のベルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した、中華民国の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五四愛国運動、五・四運動、5・4運動とも表記される。抗日・反帝国主義だけではなく反封建主義の側面もあった。.
五行思想
250px 五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。 また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。 西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想である。.
五軍都督府
五軍都督府(ごぐんととくふ)は、中国の明代における最高統帥機関である。 太祖洪武帝は、明の建国当初は、軍事の最高機関として、元朝の枢密院を大都督府と改称して置いたが、1380年(洪武13年)に、胡惟庸の獄が起こり、中書省が廃止されたのに伴って、前・後・左・右・中の五軍都督府に改編した。 五軍都督府の前・後・左・右・中の五府には、それぞれ左右都督・都督同知・都督僉事らの官が置かれ、兵部直属の親軍衛以外の都司や衛所を統轄、軍隊の管理と訓練を司掌した。 左軍都督府は浙江・遼東・山東の都司を、右軍都督府は雲南・貴州・四川・陝西・広西の都司を、中軍都督府は直隷の衛所、中都留守司、河南の都司を、前軍都督府は直隷の一衛、福建・湖広・江西・広東の都司を、後軍都督府は北平・山西の都司、三護衛をそれぞれ管轄し、京衛は五府に分属した。 五軍都督府の官には爵位を持つ功臣の子孫が任じられたが、京営が設置されると統帥権が制約を受け、1550年(嘉靖29年)に戎政府が新設されると、実権を失った。 category:中国の制度史 category:中国の軍事史 category:明朝 くんととくふ.
仁宣の治
仁宣の治(じんせんのち)とは仁宗洪熙帝とその子宣宗宣徳帝の治世を指し、明王朝の絶頂期と評価されている。 後の洪熙帝こと朱高熾は病弱で、これを心許ないとみた父の永楽帝は廃嫡も考えていたが、孫で後の宣徳帝こと朱瞻基が英明の誉れが高かったので、改めて思いとどまった。父からはあまり期待されていなかった洪熙帝だったが、皇太子時代から度々父が親征していた留守に積極的に政務をこなし、モンゴル遠征の帰途で父帝が崩御し、即位した後はその行き過ぎた膨張政策を抑えるなど文治政治を推進したが、僅か一年で崩御した。その後の宣徳帝は父帝の政策を継承し、楊栄、楊士奇、楊溥のいわゆる三楊を積極的に起用した。叔父の漢王朱高煦の反乱に直面したが、即座に対処し、最終的には彼を焼殺した。田賦の減免も試みたが、これはさほどの成果は無かった。 宣徳帝も歴代皇帝の平均寿命に満たない36歳で崩御したが、次の英宗朝においても、その遺産であった三楊が健在の時までは平穏な日々が続いた。しかし、彼らがなくなると、宦官を重用した弊害がしだいに現れてきて、彼自身オイラートとの戦いで捕虜(土木の変)になる前代未聞の事態が起き、以後の明王朝は中興の祖といわれた弘治帝の治世を除き、その弊害に苦しみ続ける事になるのである。.
建文
建文(けんぶん)は中国、明代の元号(1399年 - 1402年)。第2代皇帝恵帝(恵宗)の在位中に使われた。このため恵宗は建文帝と呼ばれる。 建文の元号は、建文帝から帝位を簒奪した永楽帝によって非公式化されていた時期があった。すなわち、永楽帝の即位後、建文4年7月1日に、建文元年を洪武32年、建文2年を洪武33年、建文3年を洪武34年、建文4年を洪武35年とし、洪武35年の翌年を永楽元年とした。その後、万暦帝によって万暦23年(1595年)に建文の年号が復活された。.
建文帝
建文帝(けんぶんてい)は、明朝の第2代皇帝。諱は允炆(いんぶん)。靖難の変により永楽帝に帝位を簒奪されたため、明代には皇帝としての在位が否定されていた。日本ではその在位中の年号「建文」から一般的に建文帝と称される。.
会試
会試(かいし、満州語:acalame simnembi)は中国古代の科挙制度のうち、中央で行われる試験を指す。郷試の翌年、すなわち丑・辰・未・戌の年の春に礼部の主催で挙行された。そのため「礼闈」「春闈」とも呼ばれる。合格者を貢士、首席合格者を会元という。会試の後、貢士たちは皇帝が自ら行う殿試を受験し、最終的な順位が決定された。.
弘治 (明)
弘治(こうち)は中国、明代の元号(1488年 - 1505年)。第10代皇帝孝宗の在位中に使われた。このため孝宗は弘治帝と呼ばれる。.
弘治帝
弘治帝(こうちてい)は、明朝の第10代皇帝。諱は祐樘(ゆうとう)、廟号は孝宗(こうそう)。日本では治世の元号から一般には弘治帝と称される。.
張士誠
張士誠 張 士誠(ちょう しせい)は、元末の群雄の一人。娘婿に潘元紹。 蘇州を拠点として江東に強大な勢力を誇り、朱元璋、陳友諒と覇を競ったが、朱元璋によって滅ぼされた。 元末に蜂起した群雄の多くは白蓮教の影響を受けた紅巾軍の系譜に属していたが、張士誠は紅巾軍には属していない。.
張居正
張 居正(ちょう きょせい、1525年5月24日(嘉靖4年5月3日) - 1582年7月9日(万暦10年6月20日))は、中国明代の政治家。字は叔大、封号は上柱国。号は太岳、諡は文忠。万暦帝の元で強力な指導力を発揮して政治改革を推し進めたが、その一方で強引に政敵を蹴落とすやり方は恨みも買った。.
徐光啓
徐 光啓(じょ こうけい、嘉靖41年3月21日(1562年4月24日) - 崇禎6年10月7日(1633年11月8日))は、明代末期の中国の暦数学者。有名なキリスト教徒。字は子先。.
御史台
御史台(ぎょしだい)は、中国歴史上の官署の一つである。秦、漢の時代にあっては、御史が監察事務の任にあたった。御史の執務する役所を御史府といい、蘭台、憲台とも称した。南朝の梁、陳や北魏、東魏、西魏、北斉の時代に御史台と称された。隋、唐、五代、宋、金及び元の歴代の王朝においても設置された。御史台は中央政府の行政の監察機関であり、また中央司法機関の一つであって、百官の糾察、弾劾、綱紀の粛正にあたった。 唐朝の貞観年間以前は、御史台はただ百官の風聞を上奏するのみで、実質的な司法権力を持っていなかった。貞観年間に御史台に台獄(監獄)が設置され、特殊な案件を受理した。開元14年(726年)後半、御史をもってあてられる案件の受理を専門とする御史が設けられ、毎日一人が輪番で訴状を受理した。このときからすべての重大案件は、御史台、刑部及び大理寺(zh)の3司法機関で連合して審理した。大理寺は犯人の尋問と判決案の起草を、刑部は再審査を担当し同時に御史台に監督と審査の報告をした。 御史台は御史大夫を長官とし、御史中丞が次官となって侍御史、殿中侍御史(zh)、監察御史(zh)を統率した。中唐以後御史大夫は欠員となることが多くなり、御史中丞が実際上の長官となった。宋代では、御史は寄禄官となり、御史台のことには携わらず、監察事務の実際は門下省の給事中(zh)、などの官職の任務となった。金、元朝でも、御史大夫及び御史中丞が併せて設置されたものの、御史大夫は御史台の実務にはたずさわらず御史中丞が実質的な長官となった。 唐朝の光宅元年(684年)に御史台が改められ、京官(中央官)及び軍隊の監察を専門に左粛政台が設置され、別に地方の監察のために右粛政台が設置された。しばらく後に、左粛政台も地方の監察ができることとなった。両台は毎年春と秋に特使を巡察のため州県へ派遣し、春に派遣された者を風俗使、秋に派遣された者を廉察使と呼んだ。神龍元年(705年)に再び左右の御史台に改められた。太極元年(712年)に右台が廃止されたが、翌年再び設置され、さらにしばらく後にまた廃止された。唐朝はまた洛陽に御史台を設置し、東都留台と称した。中唐以後、節度使、刺史などの外官であっても御史台官衔を置けるようになり、これを外台と呼んだ。 宋代では、元豊の改革の後、再び官署として御史台が設置されたが、留台は設けられず、外官も御史台官衔を置けなかった。 元代では、御史制度が空前の発達をし、地方に行枢密院及び行中書省と同様に御史台の機能を持つ行御史台が設立された。 明代で、御史台が廃止され、改めて都察院が設けられ、清朝でも引き続き設置された。.
後金
後金(こうきん、1616年 - 1636年(1912年)(z、金國)は、17世紀前半に満洲に興った満洲人(女真人、jušen)の国家で、清の前身。 1588年までに女真の建州女直を統一し、マンジュ国(z, 滿洲國)を建てていたアイシン=ギョロ(愛新覚羅)氏のヌルハチ(z、努爾哈赤)は、1593年に海西女直との戦争に入って勢力を拡大した。ヌルハチは1616年までにイェヘ(z)部族を除く全女真を統一して、この年ハンの位につき、天命の年号を立てて建国を宣言した。ヌルハチはこのとき国号をアイシン国(z, 金國)と定めたので、かつて12世紀に完顔阿骨打の立てた金と区別してこの国を「後金」と呼ぶ。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラ(z、興京)に置かれた。.
心即理
心即理(しんそくり)は、宋明理学における命題の一つ。心こそ理であるとする。中国、南宋の陸九淵や明の王陽明が定義した。 人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はない。よって、心は即ち理であると主張した。 朱子学のように心と性とを分別しないのが特徴である。朱子学では聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人であったが、陽明学では「満街の人みな是れ聖人」(街中の人すべてが聖人)というように、すべての人が本来的に聖人であるとし、その心の良知を静坐により発揮しさえすれば(致良知)、それが聖人の証であるとした。 心即理説は人間そのものを認めるため、やがて人間の心が持つ欲望をそのまま肯定するようになる。王学左派、李贄(卓吾)がその代表的人物であり、彼は外的な規範をすべて否定し孔子をも批判するにいたった。また、すべての人に聖人となる可能性を認めたため、儒学を士大夫の学ではなく、庶民の地平にまで広げた。このため陽明学は反体制を擁護する思想となっていくのである。.
土木の変
土木の変(どぼくのへん)は1449年(正統14年)9月8日、交易の拡大を求めたオイラトの指導者エセンが明領に侵攻したのに対して、親征を行った明朝正統帝(英宗)が、土木堡(現在の河北省張家口市懐来県)でエセンの軍勢に大敗し、正統帝自身も捕虜となった戦いを指す。中国史上でも珍しい、皇帝が野戦で捕虜になった事件として知られる。土木堡の変(どぼくほうのへん)ともいう。 明の兵部尚書于謙が果断な対処を行ったために、エセンは大勝を収めたにもかかわらず正統帝を無条件釈放せざるを得ず、この戦いは明にとっては致命的な打撃には至らなかったが、明がその後100年以上にわたりモンゴル高原の遊牧民(いわゆる「北虜」)の間断ない侵攻に悩まされる端緒となった。.
北京と瀋陽の明・清王朝皇宮
北京と瀋陽の明・清王朝皇宮(ペキンとしんようのみん・しんおうちょうこうきゅう)は、中華人民共和国にあるユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された遺産名である。1987年に登録された北京の故宮博物院は世界最大の皇宮で、明と清の24代にわたる皇帝の宮城であった。また、2004年追加登録された瀋陽の瀋陽故宮は清の前身・後金の皇帝ヌルハチとホンタイジの皇宮ならびに清王朝の離宮であった。.
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北京市
北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.
北元
北元(ほくげん、拼音:Bĕiyuán)は、1368年に、元(大元)の第14代大ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の大元ウルス(モンゴル帝国の皇帝直轄政権)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん、拼音:dádá)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称も用いられる。.
北朝 (日本)
北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.
ミャンマー
ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်、Myanmar)、通称ミャンマー/ビルマは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦。ASEAN加盟国、通貨はチャット、人口は 5,142万人(2014年)、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。 南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。 多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ビルマ族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い(言語参照)。.
マテオ・リッチ
マテオ・リッチ(、 1552年10月6日 - 1610年5月11日)は、イタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭。中国名は利瑪竇()。フランシスコ・ザビエルの夢見た中国宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷において活躍した。中国にヨーロッパの最新技術を伝えると共に、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった。.
マカオ
中華人民共和国マカオ特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくマカオとくべつぎょうせいく)、通称マカオ(Macau、澳.
チベット
チベットの旗(雪山獅子旗) チベット(英語:Tibet,,,, )は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。.
ポルトガル
ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa、República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。.
ムラカ
展望台から見たマラッカ海峡側の風景 ムラカ(マレーシア語:Melaka、ジャウィ:ملقة)またはマラッカ(英語:Malacca)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。.
ムギ
美瑛町の夏の小麦畑 麦類の分類 麦(むぎ)とは、コムギ、オオムギ、ライムギ、エンバクなどの、外見の類似したイネ科穀物の総称である。 農林水産省の統計では、コムギおよびオオムギの3変種(、ハダカムギ、ビールムギ(Hordeum distichum))を四麦(よんばく)として扱っている。コムギと六条オオムギ(カワムギ、ハダカムギ)を三麦と呼ぶ場合もある。 二年草であることから、去年草(こぞくさ)という異称がある。 英語には、多くの種類を総称した日本語の「ムギ」に相当する表現はなく、種類によってbarley(大麦)、wheat(小麦)などと使い分けられている。.
メッカ
メッカ(مكة Makkah )は、サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。正式名はマッカ・アル=ムカッラマ(مكة المكرمة Makkah al-Mukarramah 「栄光あるマッカ」)。別名、ウンム・アル=クラー(أم القرى Umm al-Qurā 「町々の母」)。サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca から Makkah に改めた。.
メキシコ
メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。メキシコの総人口は約1億3千万人(2016年時点)で、スペイン語圏においては最も人口の多い国で、GDPは中南米2位である。しかし、人口の40%が貧困層である。.
メコンデルタ
メコンデルタ(、 英語:Mekong Delta)とは、ベトナムを構成する地方の一つであり、ベトナムの南部に位置している。他にもベトナム語ではMiền Tây Nam Bộ(ミエンタイ・ナムボ、沔西南部)、とくに南部人からは単にMiền Tây(ミエンタイ、沔西)とも呼ばれる。 また、地理学においては、カンボジア東南部をふくめたメコン川下流の三角州を指す。.
モンゴル (曖昧さ回避)
モンゴル (Монгол) 民族.
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モンゴル高原
モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.
ユークリッド幾何学
ユークリッド幾何学(ユークリッドきかがく、Euclidean geometry)は、幾何学体系の一つであり、古代エジプトのギリシア系・哲学者であるエウクレイデスの著書『ユークリッド原論』に由来する。詳しい説明は『ユークリッド原論』の記事にある。.
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ヌルハチ
ヌルハチ(努爾哈赤、z)は、後金の創始者。清の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン(genggiyen han)、モンゴル語でクンドゥレン・ハーン、廟号は太祖、諡号は高皇帝(dergi hūwangdi)である。なお、明の文献では童奴兒哈赤あるいは佟奴兒哈赤、朝鮮の文献では老乙可赤あるいは奴兒哈赤、清の文献では弩爾哈齊あるいは弩爾哈奇と記載されている。.
トゴン・テムル
トゴン・テムル(モンゴル語:、Toγon-Temür、漢字:妥懽帖睦爾、 1320年5月25日 - 1370年5月23日)はモンゴル帝国(元朝)の第15代皇帝(大ハーン)。廟号は恵宗であるが、明朝による追諡である順帝の名称が使用されることが多い。モンゴル語での尊号はウカアト・カアン Uqaγatu Qa'anで、『蒙古源流』『アルタン・ハーン伝』等ではオハート・トゴン・テムル・ハーン Uqaγatu Toγan Temür Qaγan 、トガン・テムル・ウハート・ハーン Toγan Temür Uqaγatu Qaγan と呼ばれている。 至正28年(1368年)に大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、『明史』では1368年に帝位を失い、元は滅亡したとして扱われる。.
ティムール
ティムール(تيمور Tīmūr/Taymūr, 1336年4月8日 - 1405年2月18日)は、中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370年4月10日 - 1405年2月18日)。 中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した羽田「ティームール」『アジア歴史事典』6巻、422頁。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。.
ティムール朝
ティムール朝(、)は、中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い。 王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。.
ホンタイジ
ホンタイジ(ᡥᠣᠩᡨᠠᡳᠵᡳ 転写:hong taiji、皇太極)は、清(後金)の第2代皇帝。君主としての称号は満州語でスレ・ハン(sure han)、モンゴル語でセチェン・ハーン。皇太極は皇太子、黄台吉とも表記される。三田村泰助は明の陳仁錫『山海紀聞』や李朝の『朝鮮王朝実録』の「仁祖実録」などを根拠に、本名は「ヘカン」であったとする説を提示している。 皇太子とも表記されることから、ヌルハチの生前から後継者と目されていたと考える向きもあるが、ヌルハチが死の際にそれに触れていないことと矛盾する。ヌルハチは自分を部族連合体の長であるとしか考えていなかったので、後継者も自分と同じように周囲の推戴によって選ばれるべきである、と認識していたと考える方が妥当であろう。史書(『清実録』)にはホンタイジは順当に何事もなく即位したように書かれているが、このあたりの記述には潤色があると考えられる。 なお、「ホンタイジ」という単語は上述の通り「皇太子」や「王」「福王」などの意味を含んでおり、満州族以外のユーラシア大陸北方遊牧民の間で広く使われた君主号の一種であり、彼以外にも「ホンタイジ」を名乗った者は多く、同時代だけを見ても複数いる。例えばホンタイジの死後、乾隆帝によって滅ぼされたジュンガルの歴代王は「ホンタイジ」の称号を名乗っていた。.
ダヤン・ハーン
ダヤン・ハーン(Даян хаан、 Dayan Khan、1464年 - 1524年)は、モンゴルの第34代(北元としては第20代)大ハーン。長らく分裂状態にあったモンゴル諸部を再統一し、ハーンの権威を回復させた。本名はバト・モンケ(Batu Möngke、Батмөнх)。明朝で編纂された漢文史料では大元大可汗や小王子、或いは達延汗と記されている。 ダヤン・ハーンはモンゴル中興の祖として称賛されており、モンゴルの諸王公はチンギス・カン(太祖テムジン)、セチェン・カーン(世祖クビライ)に次ぐ偉人としてダヤン・ハーンを位置づけている。現在のモンゴル国における「チンギス・カンの末裔」は大部分がダヤン・ハーンの流れをくんでいる。.
ベトナム
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.
嘉靖
嘉靖(かせい)は中国、明代の元号(1522年 - 1566年)。第12代皇帝世宗の在位中に使われた。このため世宗は嘉靖帝と呼ばれる。.
嘉靖帝
嘉靖帝(かせいてい)は、明朝の第12代皇帝。諱は厚(こうそう)(の字は火偏+悤)。廟号は世宗(せいそう)。日本では治世の元号から一般的に嘉靖帝と称される。.
呉三桂
呉三桂が佩用したと伝わる大刀 呉 三桂(ご さんけい、)は、明末清初の軍人、周の初代皇帝。遼東で清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の乱を引き起こした。子に呉応熊ら、孫に呉世璠。.
呉鎮
洞庭漁隠 呉 鎮(ご ちん、Wu Zhen、1280年(至元17年) - 1354年(至正14年))は、元時代の文人画家。字は仲圭、号を梅花道人(梅道人)、梅花和尚。嘉興(現在の浙江省)の魏塘鎮出身。黄公望、倪瓚、王蒙と並ぶ元末四大家の一人で、元の山水画様式を確立した。.
呉派
呉派(ごは)とは、中国明代中頃に形成された書画の一派である。呉門派ともいう。沈周・文徴明を祖とし、江南の蘇州(現在の江蘇省蘇州市)を中心に活動した。浙派と激しく対立し、明末に至ってこのライバルを退潮に導いた。 その画法は遥か遠く北宋の董源や巨然に淵源があり、南宗文人画の流れと轍を一としていると主張された。祖となった沈周や文徴明はともに元末四大家に師法し、その主張は評論家の何良俊、明末の董其昌や陳継儒によって体系化され清代になっても文人画の王道とされた。 呉派には多くの優れた名士が輩出された。沈・文に続き、文彭・文嘉・文伯仁・陳淳・王穀祥・陸治・銭穀などが現れ絶頂期に至り、以降も陸師道・陸士行・張堯思・徐弘澤・銭貢・宋珏・謝時臣・文震亨・米万鐘・卞文踰・李流芳などが活躍し永く隆盛した。沈・文が活躍する以前、彼らに画法が近く影響を与えた作家達がいた。これを特にプレ呉派と呼ぶことがある。元末から明初の趙原・王紱・夏㫤・徐賁・杜瓊・沈恒吉などである。 沈・文と同時期に蘇州で活躍した周臣・唐寅・仇英を院派と呼び謝時臣や張夢を含める場合もある。画法が南宋画院に遡られることから、日本において院派と命名されたが、浙派と呉派の中間的な位置づけにある。しかし、近似した画法もみられ、蘇州画壇として一括りに扱われる。 明末になると呉派の拠点は松江華亭県(現在の上海松江区)に移った。これは都市間の盛衰、蘇州のマンネリ化、董其昌による革新的な画論の登場などが重なった為である。殊に董其昌の画論の影響は大きく浙派を壊滅的に衰退せしめ、後進の画家達の指針となり現在に至ってもその絵画理論を超えるには至っていない。松江派(あるいは華亭派ともいう)の祖は顧正誼であるが、董其昌を代表に陳継儒や莫是龍などが活躍した。 以降、呉派は細かく諸流派に分裂し、上記の顧正誼の華亭派・四王呉惲の南宗正統派・趙左を祖とする蘇松派・沈士充の雲間派などの支流が現れた。しかし、いずれも伝統に囚われ創造性を発揮できず、エキセントリックな新興の作家達がそれに替わった。.
アルタン・ハーン
アルタン・ハーン(Altan Qaγan、中国語:俺答汗、モンゴル語:Алтан Хаан、1507年 - 1582年1月)は、モンゴルを支配したハーン。ダヤン・ハーンの孫(在位:1551年 - 1582年)。「アルタン」は「黄金」を意味する。.
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アフリカ
衛星画像 NASA) 南部アフリカ アフリカ(ラテン語:Āfrica、英語:Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。阿州。漢字表記は阿弗利加。.
アダム・シャール
ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell、1592年5月1日 - 1666年8月15日)は、ドイツのイエズス会士。明末清初の中国で宣教活動を行い、また科学者として活躍した。 日本の歴史教科書では「アダム・シャール」と表記され、かつては西洋でも Schaal と書かれることも多かった。しかし、Schallのドイツ語での発音は「シャル」が近い。中国名は「湯若望」()。.
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アイスランドガイ
アイスランドガイ (Arctica islandica) は、マルスダレガイ目に属する二枚貝の1種。.
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インド洋
インド洋(印度洋、インドよう、英:Indian Ocean、羅:Oceanus Indicus オーケアヌス・インディクス)は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7355万平方kmである。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。インド洋の推定水量は292131000km³である。「インド洋」の名はインドに由来する。.
イエズス会
イエズス会(イエズスかい、)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にパウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による (イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記。.
エセン・ハーン
ン・ハーン(、、? - 1454年)は、15世紀中頃のオイラトの首長。はじめエセン・タイシと称し、漢文史料では也先と表記される。 オイラトの最大版図を築き、1449年には明に侵攻して土木堡(現在の河北省張家口市懐来県)の地で明軍を破り、皇帝・英宗正統帝を捕虜とした(土木の変)。その後、非チンギス・カン裔のモンゴル貴族として初めてハーンを称したが、部下の反乱によって滅ぼされた。.
オルドス
ルドス(、ラテン文字表記:Ordos、、中国語:鄂爾多斯 Èěrduōsī)は、近世以降にあらわれるモンゴル遊牧民の部族集団。この集団が明代以降、中国の黄河屈曲部(「河套」)に居住したことからこの地域は現在オルドス高原と呼ばれ、内モンゴル自治区のオルドス市が置かれている。 15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。.
オイラト
イラト(Oirad、Oyirad、瓦剌、衛拉特)は、モンゴル高原の西部から新疆の北部にかけて居住する民族。.
カトリック教会
トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.
カイコ
イコ(蚕、蠶)はチョウ目(鱗翅目)・カイコガ科に属する昆虫の一種。正式和名はカイコガで、カイコは本来この幼虫の名称だが、一般的にはこの種全般をも指す。クワ(桑)を食餌とし、絹を産生して蛹(さなぎ)の繭(まゆ)を作る。有史以来養蚕の歴史と共に各国の文化と共に生きてきた昆虫。 学名(ラテン語名)は「(仮名転写の一例:ボムビークス・モリー)」。.
クワ
ワ(桑)は、クワ科クワ属の総称。カイコの餌として古来重要な作物であり、また果樹としても利用される。.
クビライ
ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.
グレゴリオ暦
レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.
コーカン族
ーカン族(英語 Kokang people、中国語 果敢族 Guǒgǎnzú)はミャンマー(ビルマ)の民族集団。中国から移住した漢民族(華人)で、中国語北方方言の西南官話を話し、主にミャンマー東北部のシャン州コーカン地区に居住する。 なお、コーカン族にはヤンゴンなど他の都市部や地域に住む華人は含まれていない。.
シルクロード
ルクロード(絹の道、Silk Road, Seidenstraße, 繁体字:絲綢之路, 簡体字:丝绸之路)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられた。その一部は2014年に初めて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録された。 シルクロードの主要なルート.
タタール
18世紀のタタールの女性 タタール(Tatar)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系およびサモエード系とフィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。.
唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
唐詩選
『唐詩選』(とうしせん)は、明の李攀竜が編纂したといわれる唐代の漢詩選集。出版年代は李攀竜の死後、16世紀末から17世紀初頭とされる。.
冊封
冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.
内閣大学士
内閣大学士(ないかくだいがくし、満州語:dorgi yamun i aliha bithei da)は、中国明朝および清朝に存在した官職名。殿閣大学士とも呼称され、任官者は中堂という尊称を受けていた。 なお、日本と現代中華圏の内閣制度の呼称はここに由来する。.
六部
六部(りくぶ、ろくぶ).
元 (王朝)
元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.
元号
元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.
元末四大家
元末四大家(げんまつしたいか)は、中国元代末期の文人画家である4人のこと。.
四川省
三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.
四書大全
『四書大全』(ししょたいぜん)は、明の時代に、永楽帝の命で胡広(ここう)らが編集した四書の注釈書。.
倪サン
倪 瓚(げい さん、1301年 - 1374年)は、元末の画家。元末四大家の一人に挙げられる。字は元鎮、号は雲林、他に別号が多い。.
倭寇
倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇.
知行合一
知行合一(ちぎょうごういつ、ちこうごういつ)は、中国の明のときに、王陽明がおこした学問である陽明学の命題のひとつ。知(知ること)と行(行うこと)は同じ心の良知(人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力)から発する作用であり、分離不可能であるとする考え。論語の為政第二にある「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う」が元になっている。 王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、知っている以上は必ず行いにあらわれると述べた。真の知行とは「好き色を好むが如く、悪臭を悪むが如し」と説く。例えば、好きな色というものはそれを見た(知った)瞬間に好んでいるのであり、色を見て(知って)から好きになろうと判断するわけではないのである。朱熹の学(朱子学)が万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」であることを批判して主張した。 江戸時代初期の陽明学者である中江藤樹や幕末の頃の陽明学者や維新の志士たちに大きな影響を与えた。 知行合一は「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である)」「行動を伴わない知識は未完成である」とも言い表される。.
王直
王直または汪直(おうちょく、生年不詳 - 嘉靖38年12月25日(1560年1月22日))は、中国の明代の貿易商人(海商)で、後期倭寇の頭目。王直はあだ名で、本名は王鋥(おうとう)と言い、徽王や老船主とも称した。.
王蒙 (画家)
王 蒙(おう もう、ピンイン:Wáng Méng、、1308年 - 1385年)は、元末期の画家である。黄公望、呉鎮、倪瓚らと並ぶ元末四大家の一人である。呉興(現在の浙江省湖州市呉興区)の人。王国器の子。.
王陽明
王 陽明(おう ようめい、成化8年9月30日(1472年10月31日) - 嘉靖7年11月29日(1529年1月9日)は、中国の明代の儒学者、思想家、高級官僚、武将。思想家として朱子学を批判的に継承し、読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした。一方で武将としても優れ、その功績は「三征」と呼ばれている。.
王朝
王朝(おうちょう、Dynasty)とは歴史の分類方法の一つで、君主の系列あるいはその系列が支配した時代を分類するための歴史用語である。「朝」は朝儀 に由来する。歴史家は歴史研究の都合上、君主の系列を各々の時代や文化圏にあわせて王朝として便宜的に分割してきた。そのため、王朝の定義や分類方法に世界共通の規則はなく、王朝の範囲は歴史家によって異なることがある。すなわち、現君主国が自ら王朝名を名乗ることはない。.
王振
王振(おう しん、、生年不詳 - 1449年)は、明代の宦官。英宗の下で政治を壟断したが、土木の変で戦死した。 蔚州(河北省蔚県)の出身。宦官を養成する機関である内書堂の出身で、学識が高く、宣徳年間に皇太子(後の英宗)の教育を担当したため、英宗即位後に司礼監の長である掌仰太監となり、文書の改竄などの専横な行動をとった。正統7年(1442年)に英宗の祖母に当たる太皇太后張氏が没し、さらに宣徳年間以来の朝廷の有力者であった楊栄、楊士奇、楊溥の3人が死んだり引退したりすると、ますます権勢を強め、収賄によって財産を蓄え、錦衣衛を掌握して反対者を弾圧した。当時、宦官ゆえに髭がない王振に阿諛して「閣下に髭がないのにどうして私ごときが髭をたくわえられましょう」と自分が髭を伸ばさない理由を述べた侍郎がいたという(三田村泰助「明帝国と倭寇」中公文庫P223)。 正統14年(1449年)にオイラトが山西に侵入すると、英宗に親征を勧め、自らも従軍した。しかし、大同まで進軍したところでオイラト軍の予想外の強さに撤退する途中、土木堡(現在の河北省張家口市懐来県)で明軍は大敗を喫し、英宗は捕虜となり、王振は戦死した(土木の変)。いくつかの記録によると専横により恨みを買っていた王振は、配下の将官・樊忠によって乱戦のどさくさにまぎれ瓜(瓜型の鉄球をつけた棍棒)で撲殺されたという。 土木の変後、王振の一族は罰せられ、財産も没収された。 category:明代の人物 Category:中国の宦官 Category:張家口出身の人物 Category:1449年没.
福建省
福建省(ふっけんしょう、中国語:福建省、拼音:Fújiàn Shěng、英語:Fujian)は、中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を中華民国(台湾)が統治している。省都は福州市。.
科挙
科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.
米
米(こめ、rice)は、稲の果実である籾から外皮を取り去った粒状の穀物である。穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼ぶ。東アジア・東南アジア・南アジア以外では一般的に主食として特別視することが希薄であり、日本語でいう「米」「稲」「飯」といった、収穫前・収穫後・調理前・調理後などによる区別がない言語が多数ある。例えば英語圏ではすべてriceという同一の単語で扱われる。.
紫禁城
紫禁城(しきんじょう、、、満州語:、転写:dabkūri dorgi hoton)または故宮(こきゅう、、)は、中華人民共和国北京市に所在する明清朝の旧王宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。面積は 725,000m2 あり、世界最大の木造建築群である。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は博物館(故宮博物院)になっている。.
紅巾の乱
紅巾の乱(こうきんのらん、、、1351年 - 1366年)は、中国元末期の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱。白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。.
紙幣
紙幣(しへい)とは、紙製の通貨の事である。.
羈縻政策
羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。.
烏斯蔵
烏斯蔵(うしぞう;拼音: wūsīzàng)は、元代より清代の康熙中期にかけての中国文献において使用された中央チベットに対する呼称。「烏思蔵」も同じ。 チベットのウー・ツァン地方のチベット語表記「dbus gtsang」を転写したものであるが、漠然とチベット全体を指す呼称としても使用された。 主として康熙帝期に編纂された『明史』鄧愈伝には、明朝成立直後の1370年、鄧愈による烏斯蔵攻略について書かれている。 康熙後期以降は、西蔵という呼称が一般的になった。 『西遊記』において、天界を追放された天蓬元帥(猪八戒)が、三蔵法師一行に出会うまで、半人半豚の姿に身をやつし、高翠蘭(こう・すいらん)の婿養子として暮らしていた土地を「烏斯蔵国」というが、小説中に描写されている人々の風俗習慣には、ほとんどチベットらしさはみられない。 Category:チベットの別名 Category:中国史の民族 zh:烏思藏.
絹
絹 蚕の繭 絹(きぬ、sericum、Seide、silk、soie)は、蚕の繭からとった動物繊維である。独特の光沢を持ち、古より珍重されてきた。蚕が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインを主成分とするが、1個の繭から約800 - 1,200メートルとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。絹織物などに用いる。 蚕の繭(まゆ)を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)というが、これに対して生糸をアルカリ性の薬品(石鹸・灰汁・曹達など)で精練してセリシンという膠質成分を取り除き、光沢や柔軟さを富ませた絹糸を練糸(ねりいと)と呼ぶ。ただし、100%セリシンを取り除いたものは数%セリシンを残したものに比べ、光沢は著しく劣る。生糸は化学染料、練糸はいわゆる草木染めに向くが、歴史的に前者の手法が用いられはじめたのは明治維新以降であり、昔の文献や製品にあたる際、現在の絹織物とは別物に近い外観と性質をもつ。また、養殖(養蚕)して作る家蚕絹と野性の繭を使う野蚕絹に分けられる。.
生員
生員(せいいん、満州語:šusai)とは、中国明朝及び清朝において国子監の入試(院試)に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得たもののことをいう。生員となったものは、府学・県学などに配属される。また、秀才と美称され、実質的に士大夫の仲間入りをしたことになり、徭役免除などの特権を得た。なお、諸生(しょせい)とは童試の中の最初の二つの試験である県試・府試に合格したもののことを差すが、院試には合格していないので科挙の受験資格は得られていない。 郷試に合格するのは毎回400人程度であるのに対して、諸生は50万人もいたとされている。.
甘粛省
粛省(かんしゅくしょう、中国語:甘肃省、拼音:Gānsù Shěng、英語:Gansu)は、中華人民共和国北西部にある省級行政区である。省都は蘭州市。.
無錫市
無錫市(むしゃく-し、中国語:无锡市、英語:Wuxi)は中華人民共和国江蘇省の南部に位置する地級市。 改革開放以来、急激に工業が発展し、とりわけ日本企業の進出が多い。長江デルタに位置し、東の上海からは128km、西の江蘇省省都・南京からは183kmの距離。東隣は蘇州市、西隣は常州市。 無錫の市域の北部境界は長江南岸にあたり、無錫市管轄下の港湾都市・江陰市が泰州市を対岸に臨む。南部の境界は太湖北岸だが、市域はさらに太湖をはさんで飛び地となっている宜興市も管轄している。宜興市は北と西を常州市に囲まれ、南は浙江省に接している。.
牡丹亭
牡丹亭(ぼたんてい、)は、明代の劇作家湯顕祖の代表作。55幕。「牡丹亭還魂記」、「還魂記」ともいう。.
白蓮教
白蓮教(びゃくれんきょう)は、中国に南宋代から清代まで存在した宗教。本来は東晋の廬山慧遠の白蓮社に淵源を持ち、浄土教結社(白蓮宗)であったが、弥勒下生を願う反体制集団へと変貌を遂げた。.
百科事典
科事典(ひゃっかじてん、encyclopaedia)とは、あらゆる科目にわたる知識を集め、これを部門別やアルファベット順・五十音順などに配列し、解説を記した書物のこと広辞苑 第五版 p.2272 百科辞典・百科事典。「百科」と略記されることもある。 thumb.
銭貨
銭貨(せんか)は、主に東アジアで流通した硬貨を指す。同音で泉貨とも記述される。多くは円形で中心部に方形の穴が開けられた(円形方孔)有孔貨幣であることが多い。金貨や銀貨といった貴金属製の硬貨の対義語として、卑金属製の硬貨を指すこともあるが、金貨および銀貨のうち円盤状で中央に孔が開いた形状をしているものを含めて銭貨ということもある。多くは銅貨であるが、銅の不足などにより、鉄製のものや錫等との合金とした真鍮製の物が銭貨として発行されたこともある。 銭貨の通貨単位としては、一般に文が用いられた。.
隆慶 (明)
隆慶(りゅうけい)は中国、明代の元号(1567年 - 1572年)。第13代皇帝穆宗の在位中に使われた。このため穆宗は隆慶帝と呼ばれる。.
隆慶帝
隆慶帝(りゅうけいてい)は、明朝の第13代皇帝。諱は載垕(さいこう)(垕の字は后の下に土)。廟号は穆宗(ぼくそう)。日本では在位中の元号から一般的に隆慶帝と称されている。.
銀
銀(ぎん、silver、argentum)は原子番号47の元素。元素記号は Ag。貴金属の一種。.
靖難の変
靖難の変の地図 靖難の変(せいなんのへん)は、明王朝初期の政変、内乱。1399年7月にはじまり、華北を舞台に1402年まで続く。「靖難」とは、「君難を靖んじる」という意味で、乱を起こした燕王朱棣(永楽帝)が挙兵する際に掲げた主張に基づく。.
顧炎武
顧 炎武(こ えんぶ、ピン音:Gù Yánwŭ、万暦41年5月28日(1613年7月15日) - 康熙21年1月9日(1682年2月15日))は中国明末、清の歴史で初めての儒学者。明の滅亡に際して反清運動に参加した。経学や歴史学の研究の傍ら経世致用の実学を説き、考証学正統派の始祖とされる。.
行中書省
元の行中書省の配置 行中書省(こうちゅうしょしょう)は、モンゴルの王朝元が中国の地方統治の最高単位として設置した行政機関。行省(こうしょう)ともいう。現在の中国における地方行政の最高単位である省は、元の行省に由来している。.
衛所
衛所(えいしょ)とは、十進法に基づく明朝の軍事組織の制度。及びその単位。 唐の府兵制を範とする兵農一致の軍事編成で、明代軍事体制の中核をなす。.
袁崇煥
袁 崇煥(えん すうかん、万暦12年4月28日(1584年6月6日) - 崇禎3年8月16日(1630年9月22日))は、明末の武将。字は元素。広州府東莞県石碣鎮水南郷(現・広東省東莞市)の人。 その優れた軍略で遼東・遼西(現在の遼寧省南部)で後金の軍隊にたびたび勝利し、三国時代の名軍師諸葛孔明になぞらえてたたえられた。兵に対しても思いやり深い人物だったという。しかし、身内の明王朝内部に疑われて処刑された。.
複都制
複都制(ふくとせい)は、国家に複数の都を置く制度で、都をひとつだけ置く単都制に対する概念。広大な領土を有する国に多く採用される。都が2つの場合は両都制(りょうとせい)、両京制(りょうけいせい)ともいう。 また、国家の首都機能を複数の都市に置く制度を指すこともある。現代的な複都制については首都#複都制を参照。 中央集権国家の複都制では、皇帝が常住する都を上京、上都、京城、皇都、京師などといい、その他の都を陪都(ばいと)、留都(りゅうと)などという。しかし、陪都に対応する語句は西洋になく、これは東洋的なものとされ、陪都制(ばいとせい)と呼ばれる。日本史で言われる難波遷都などは、正確には天皇の陪都巡守や皇都昇格であり、都を移す遷都とは異なる。 皇帝が陪都に滞在し、皇帝不在の皇都で国政をみさせるために代理を置くときは、権限を制限したうえで太子を置いたり(太子監国の制)、信頼の厚い重臣などの有力者を置いたりした(留守官の制)。.
西安市
西安市(せいあんし/シーアンし、、、)は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの観光客も多い。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市にも指定されている。.
西廠
西廠(せいしょう)は、中国の明代に置かれた特務機関。 同様の組織としては、永楽年間に東廠が設置されていたが、成化13年(1477年)、李子龍の宮中侵入未遂事件を機に、宦官の汪直を長として新たに警察権を行使する官署として設置された。 密偵を駆使して朝臣を監視し、しばしば大獄を引き起こしたが、汪直の失脚を受けて成化18年(1482年)に一旦廃止された。正徳元年(1506年)には再興され、新設された内行廠と共に、劉瑾を筆頭とする宦官たちの専横に利用されたが、正徳5年(1510年)に劉瑾が処刑されると、内行廠と共に西廠も廃止された。 category:中国の制度史 Category:明朝の政治.
西遊記
西遊記の登場人物を描いた絵画(頤和園) 京劇の『西遊記』 『西遊記』(さいゆうき、、、)は、中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。中国四大奇書に数えられる。 著者は、『淮安府史』(明、天啓年間成立)に、呉承恩(1504年頃 - 1582年頃、江蘇省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、後述のように批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。詳しくは後述。 『西遊記』の流行を受けて、明代から清代にかけ呉元泰、呉政泰と余象斗が、仏教と道教に関わる戯曲・雑劇と神話伝説に基づいて編纂したのが『東遊記』・『南遊記』・『北遊記』で『四遊記』と称される。.
親王
親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.
魏忠賢
魏忠賢(ぎちゅうけん、1568年2月27日(隆慶2年1月30日) - 1627年12月11日(天啓7年11月4日))は、中国、明朝の宦官。皇帝を傀儡にして実権を握り恐怖政治を敷いた最も悪辣な宦官の権力者であり、すでに危機的状況にあった明の滅亡を加速させた。.
貨幣
貨幣(かへい、money)とは、.
足利義満
足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.
黎朝
黎朝(レちょう、れいちょう、、1428年 - 1527年、1532年 - 1789年)は、黎利(レ・ロイ、)によって建てられたベトナムの王朝である。 ベトナム史において「黎朝」が2度存在したため、10世紀に黎桓の建てた王朝を前黎朝()とし、こちらを後黎朝()と呼んで区別することがあるが、一般的に「黎朝」といえば19年しか続かなかった前黎朝でなく、前期後期あわせて250年を超える後黎朝を指す。また、莫氏()の簒奪による一時断絶を境に前期(初黎朝、)と後期(中興黎朝 、)に分ける。.
黄公望
公望 黄 公望(こう こうぼう、1269年 - 1354年)は、中国元朝末期の水墨画家。倪瓚、呉鎮、王蒙と並び「元末四大家」と賞され、その中でも、もっとも広い画風をもち、後代に与えた影響も一番大きいと言われる。.
農本思想
農本思想(のうほんしそう)とは、東アジア諸国で発展した「農は国の本」とする社会思想である。「農本主義」( - しゅぎ)とも称し、近現代の日本で発展した同様の思想を包括する場合もあるが、ここでは主として、前近代の中国・日本における思想について述べる。.
農政全書
農政全書(のうせいぜんしょ)は、明代の暦数学者・徐光啓 (1562–1633) によってまとめられた農書。 農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したさつまいもについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後である崇禎12年(1639年)に刊行された。.
辛亥革命
辛亥革命(しんがいかくめい)は、1911年(宣統3年)から1912年(民国元年)にかけて、清(中国)で発生した共和革命である。名称は、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。 この結果、アジアにおいて史上初の共和制国家である中華民国が誕生した。.
錦衣衛
錦衣衛(きんいえい)は、明朝の秘密警察・軍事組織で、禁衛軍の1つ。 明朝の洪武15年(1382年)に、儀鸞司が再編・改称されたもので、侍衛上直軍の1つとして親軍指揮使司に属し、勲戚の都督の下に南北両鎮撫司・十四所を統轄して儀仗と宮禁守護が職務とされたが、実際には特務機関としてその側面が強くなり、北鎮撫司の処理する招獄が別称となった。東廠設置後は、その下部組織として兵刑両権を行使して恐怖政治を実現し、人々から恐れられた。.
胡藍の獄
胡藍の獄(こらん の ごく)は、中国明代初期の洪武13年(1380年)に宰相胡惟庸の造反計画をきっかけに起きた粛清事件「胡惟庸の獄」と、同26年(1393年)に起きた将軍藍玉に関する同様の粛清事件「藍玉の獄」をあわせた総称である『アジア歴史事典』。(1390年に起きた李善長の獄を胡惟庸の獄の延長と見なして、これを含める場合もある)。洪武帝治世後期の徹底した恐怖政治を象徴する事件群であり、いずれも一万人以上の犠牲者を出したといわれる大粛清である。明国内にとどまらず、日本との外交にも影響を及ぼす大事件となった。このほかにも洪武帝の治世に起きた同様の粛清事件は多く、洪武9年(1376年)の「空印の案」、同18年(1385年)の「郭桓の案」をあわせて「明初四大案」「洪武四大案」などと呼ばれることもある。本項では、上記の4事件のほか洪武帝期に行われた粛清事件である「林賢事件」「李善長の獄」なども含め、洪武帝治世の粛清事件全般を概説する。.
胡朝
胡朝(こちょう、ホーちょう、)は、ベトナムを支配した王朝(1400年 - 1407年)。首都はタインホア。.
郷紳
郷紳(きょうしん、満州語:tesu ba i sula hafan)とは、1911年までの君主制下の中国の地方社会で、社会的・文化的地位を有する人を指す。紳士・士紳・縉紳ともいう。 一般的に科挙で得られる肩書き(生員以上)を持っている人を指す。郷紳は君主制中国の地方社会において大きな役割を果たした。官員と民衆とのパイプ役として、一方では官員の地方統治に協力し、また一方では官員に対して民衆の意見を代弁する役割を果たした。 しかしその地位を利用し、中間の利益を得て、郷里の民衆を食い物にしていた「劣紳」も少なからず存在していた。 郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国でも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。.
郷試
郷試(きょうし、満州語:golotome simnembi)は、中国で行われた科挙の中の地方試験である。 唐や宋の時代には「郷貢」「解試」といった。明・清代では3年に一度、すなわち子・午・卯・酉の年の8月に省城で行われた。このため「秋闈」ともいう。3年に一度の正科のほかに新帝の即位など国家の慶事があったとき、特別に恩科と称して郷試がおこなわれることもあった。 試験の際には、朝廷から正副の主考官が派遣され、四書五経・策問(時事論述)・八股文などを試験した。郷試の行われる場所を貢院という。合格者を挙人といい、首席合格者を解元といった。 生員・貢生・監生に受験資格があったが、過失によって罷免された官吏・街頭芸人・妓館で働く者・父母の3年の喪が明けていない者は、受験を認められなかった。 Category:科挙.
都察院
都察院(とさついん、満州語:uheri be baicara yamun)は、諸官の政務を監察するために置かれた官署で、中国の明朝から清朝にかけて存在した。 漢代以来続いていた御史台という監察機関を明朝に入り改めたもので、後の清朝もこれを受け継いだ。 六部や五軍都督府と共に三権の1つとされ、刑部や大理寺と共に三法司と呼ばれ、百官の不正を糾弾し、重大な刑事事案を審議した 左右ある都御史を中心にして、副都御史、監察御史、僉都御史、経歴などの諸官が存在した。 明朝中期以降、次第に総督や巡撫が兼職するようになったが、これは政令の統一を図ったためである。清は基本的に明の制度を継承しつつ、僉都御史を廃して左都御史・左副都御史を都察院の専官とし、右都御史・右副都御史を総督や巡撫の兼官と定めた。雍正元年(1723年)に、明代以来別の監察機関とされていた六科が、都察院に統合された。 とさついん とさついん とさついん.
蘇州市
蘇州市(そしゅうし、、、)は、中華人民共和国江蘇省東南部に位置する地級市。 古くから絹織物で発展した国家歴史文化名城であり、上海市に隣接する地の利があり、現在も省の経済的中心である。 蘇州で話されている蘇州語(蘇州方言/蘇州話)は、北部呉語を代表する方言と考えられていたが、現在は上海語にその座を譲っている。蘇州方言と上海方言とでは、異なる語彙や発音があるが、しばらく会話すれば意志の疎通に大きな支障はなくなる。但し、学校での普通話(標準語/共通語)一辺倒による教育により、上海語の事例同様、若者は蘇州語を話せなくなってきている。その問題に対し、学校・教育側は方言の授業を設ける等を検討している。また、上海に比べ方言(蘇州語)によるTV番組が多く見られる。.
鄭和
鄭 和(てい わ、, 1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。.
鄭芝龍
鄭芝龍 鄭 芝龍(てい しりゅう、拼音:Zheng Zhī-lóng、Nicholas Iquan、チェン チーロン、1604年(万暦32年) - 1661年(順治12年))は、中国明朝末期に中国南部および日本などで活躍した貿易商、海賊、官員である。字は飛黄、飛虹。 彼は閩南語、南京官話、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語を話し、剣道を得意とし、スパニッシュ・ギターも弾けたという。 弟に鄭芝虎、鄭芝豹、鄭鴻逵(鄭芝鳳)、従弟に鄭芝莞(鄭芝鶴)。子に鄭成功(国姓爺)と田川七左衛門の2人の息子がいる。.
鄭成功
鄭 成功(てい せいこう、拼音:Zhèng Chénggōng、チェン チェンコン、、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日) - 大明永暦16年5月8日(1662年6月23日))は、中国明代の軍人、政治家。出身は福建省泉州市。元の諱は森。字は明儼。日本名は福松 - よかネット。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。.
重祚
重祚(ちょうそ)は、一度退位した君主が再び即位することである。一般に中華文明圏の君主について用いられる。.
致良知
致良知(ちりょうち)は、中国の明代に王守仁(王陽明)がおこした学問である陽明学の実践法の一つ。 人間は、生まれたときから心と体(理)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致する。王守仁は、実践に当たって私欲により曇っていない心の本体である良知を推し進めればよいと主張した。 『大学』にある「格物致知」という言葉に対する解釈より生じたものであり、朱熹が「知を致すは物に格(いた)るに在り」とし、万物の理を一つ一つ極めて行くことで得られる知識を発揮して物事の是非を判断するとするのに対し、王守仁は「知を致すは物を格(ただ)すに在り」として物を心の理としてそれを正すことによって知を致す、すなわち「良知を致す」ことであると解釈した。 Category:儒教 Category:中国の言葉の文化.
里甲制
里甲制(りこうせい)は中国明代から清代にかけて実施されていた政治制度。110戸を1グループとし、その中で裕福な10戸を長とし、納税・労役の管理に当たらせた。 元を追い落とし、明を立てた太祖朱元璋は1381年(洪武14年)に全国に賦役黄冊を作る事を命じた。これは戸籍簿と租税台帳を合わせた物である。 賦役黄冊を元に、全国の民衆を110戸を1グループとし、その中で裕福な者1(里長戸)に対し、それ以外10戸(甲首戸)を合わせ、11戸を納税・労役の最小単位とした。110戸を里、11戸を甲と呼んだので、この制度は里甲制と呼ばれる。この里の中の収税・治安維持などの公的業務(正役)を甲が1年毎に持ち回りで行い、10年で一回りとなる。 この制度は朱元璋の理想とした重農主義を実現しようとするものだったが、明中期以降には経済が発達し、郷紳・豪商・富農への土地の集中と都市への移住が進んだためにこの制度は立ち行かなくなった。これに代わり1580年(万暦8年)に宰相張居正は一条鞭法を施行した。 清も当初は里甲制を採用したが、ほどなく地丁銀制に変わった。 category:明朝の政治 category:清朝の政治 category:中国の制度史 Category:朱元璋.
金瓶梅
『金瓶梅』(きんぺいばい、)は、明代の長編小説で、四大奇書の一つ。著者は蘭陵の笑笑生ということになっている。万暦年間(1573年 - 1620年)に成立したと考えられている。序にあるように猥書すなわち官能小説として知られ、しばしば発禁処分をうけた 。タイトルの『金瓶梅』はストーリーの中心となっている3人の女性、潘金蓮、李瓶児、春梅(龐春梅)の名前から1文字ずつ取ったものである。 『金瓶梅』は『水滸伝』の 第二十三話から二十七話までの武松のエピソードを敷衍させたものであり、『水滸伝』からのスピンオフ作品である。『水滸伝』の武松の虎退治のエピソードを入り口とし、そこに登場する武松の兄嫁の潘金蓮は姦通した後殺されずに姦夫の西門慶と暮らし始めるという設定となっている。ストーリーが『水滸伝』から分岐した後は、富豪の西門慶に、金蓮も含めて6人の夫人やその他の女性がからみ、邸宅内の生活や欲望が展開してゆく。『水滸伝』同様に北宋末を舞台とするが、綿密かつ巧みに描写されている富裕な商人の風俗や生活には、明代後期の爛熟した社会風俗が反映している。.
長崎貿易
江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いたイラスト(17世紀) 江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いた浮世絵(19世紀) 長崎貿易(ながさきぼうえき)は、日本の安土桃山時代から江戸時代に長崎において行われた貿易である。.
長江
長江(ちょうこう、中国語拼音字母: )は、青海省のチベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でも第3位。 中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、Yangtze River)の名で良く知られる。古語では江(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。 青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。 その流域には成都、武漢、重慶などの重要工業都市、上海、南京などの商業都市を含む中国の19の省(市、自治区)があり、全流域の人口は4億5000万にも達している。古くから水上交易の盛んだった華中でも中心的な交通路として利用されてきた。.
英宗 (明)
英宗(えいそう)は、明朝の第6代、第8代皇帝。明の皇帝は一世一元の制があるため日本では元号を冠して呼ぶのが習いであるが(永楽帝など)、英宗は第6代と第8代の重祚を行い、元号を2つ使ったため廟号で英宗と称されることが多い。ただし、元号を用いて正統帝、天順帝と呼ぶ場合もある。土木の変でモンゴルの捕虜となった。中国統一王朝の皇帝の中で唯一野戦で捕虜となった皇帝である。.
雍正帝
雍正帝(ようせいてい)は、清の第5代皇帝。諱は胤禛(いんしん(禛の字は示眞))、廟号は世宗、謚号は憲皇帝(temgetulehe hūwangdi)。在世時の元号を取って雍正帝と呼ばれる。.
雲南
雲南(うんなん).
雲南省
雲南省(うんなんしょう、中国語:云南省、拼音:Yúnnán Shěng、英語:Yunnan)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は滇(てん)。省都は昆明市。省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることに由来する。.
進士
明代の進士服 進士(しんし、満州語:dosikasi)とは、隋から北宋中期にかけては科挙の六科の一つ。王安石の改革で進士科以外が廃止された後は、科挙の登第者(合格者)を指し、以降の南宋から清まで続いた制度である。.
考証学
考証学(こうしょうがく)とは、中国において、清代に入って流行した学問であり、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度のことを、こう呼んでいる。.
陝西省
陝西省(せんせいしょう、中国語:陕西省、拼音:Shǎnxī Shěng(シャンシーシェン)、英語では山西省と区別するため「Shaanxi」と表記)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。略称は秦、または三秦。古代中国の長安一帯を含む地域。.
陳朝
陳朝(チャンちょう、ちんちょう、、)は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝。国号は大越。首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)。.
陶磁器
野々村仁清『色絵藤花茶壺』(国宝) 陶磁器(とうじき、pottery and porcelain)は、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。 陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが含まれる。成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。『古陶磁の科学』の著者内藤匡は、この過程をおこしに喩えている。おおまかに言えば、陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである。.
陽明学
王守仁(王陽明) 陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた『大辞泉』。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする。.
染付
染付(そめつけ)とは、白色の胎土で成形した素地の上に酸化コバルト(II)を主とした絵の具で模様を絵付し、その上に透明釉をかけて高温焼成した陶磁器。おもに磁器で、模様は藍青色に発色する。 中国語で""(、日本語読み:せいか)、または""(、日本語読み:ゆうりせい.
枢密院 (中国)
枢密院(すうみついん)は、唐代中期に設置された主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが、軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、金、宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。.
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李卓吾
李贄(李卓吾)の肖像画 李 卓吾(り たくご、嘉靖6年10月26日(1527年11月19日) - 万暦30年3月16日(1602年5月7日))は中国明代の思想家、評論家。陽明学左派に属する。 原名は林 載贄(りん さいし)。後に姓を李と改める。また1566年、即位した隆慶帝朱載垕の避諱により「載」字を除き、李 贄(り し)と名乗った。号は卓吾(一説に字とも言われる)・宏甫・篤吾・龍湖叟。別号は温陵居士。.
李自成
李 自成(り じせい)は、中国明末の農民反乱指導者。明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして都北京を陥落させ、順王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、清に滅ぼされた。.
李氏朝鮮
李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.
李成梁
李 成梁(り せいりょう、1526年 - 1615年)は、明代の武官。遼東総兵として遼東一帯を統括し、女真族の鎮撫に当たった。 字は如契。朝鮮から移民した李英の子孫である。李成梁の出自(世家)を“李成梁為朝鮮族後裔。朝鮮先祖可査四代”と公式見解を示している。遼東鉄嶺衛(遼寧省鉄嶺)の指揮僉事の職を代々世襲していたが、隆慶4年(1570年)に遼東総兵となり、当時侵入の激しかった女真族に対する防御に当たることとなった。 李成梁は軍備を拡充しつつ、建州女直・海西女直などに分かれていた女真族が明との交易権を巡って争っていることに付け込み、内部分裂を図ることにより、遼東の安定に多大な功績を上げた。この時期、李成梁の後援を得て勢力拡大に成功したのが、後の清の太祖ヌルハチである。 長年にわたって遼東を統括し、地方の実力者として私兵を養い割拠した李成梁は、一方で軍費の流用などの汚職や専断が多く、万暦19年(1591年)に弾劾されて失職、治安情勢の悪化により一旦は復職したものの、万暦36年(1608年)に再度罷免された。 息子に文禄・慶長の役で日本軍と戦った李如松、サルフの戦いに参加した李如柏らがいる。.
李時珍
李時珍、生家にて 李時珍(り じちん、1518年7月3日(正徳13年5月26日) - 1593年(万暦21年))は、字を東璧、号を「瀕湖仙人」といい、中国・明の医師で本草学者。中国本草学の集大成とも呼ぶべき『本草綱目』や、奇経や脈診の解説書である『瀕湖脈学』、『奇経八脈考』を著した。.
東南アジア
東南アジア(とうなんアジア)は、中国より南、インドより東のアジア地域を指す。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島などを含む。主に、大陸部東南アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。 '''東南アジア''' 東南アジアの地図 東南アジアの範域.
東廠
東廠(とうしょう)は、中国の明代に置かれた特務機関。 成祖永楽帝は、靖難の変によって甥である建文帝から政権を奪って北京に都を遷したが、かつて建文帝の側近である宦官たちを内通させて宮廷内の事情を探り出した経緯に鑑みて、永楽18年(1420年)に東安門の北に宦官を長とする東廠を設置した。 東廠の下部組織は、錦衣衛の諸官によって構成され、職務は政治的な陰謀の摘発を中心に、失火や落雷、市井の物価の報告まで含まれ、多岐に渡った。その権勢は朝廷での宦官の勢力の増長と共に高まり、特に天啓年間に魏忠賢がこの東廠を最大限に用いて朝廷の反対派を弾圧し、政治を壟断したことは有名である。.
東林学院
東林書院の石牌坊 東林学院(とうりん・がくいん)は、宋代以後の中国に存在した私学校(書院)の一つ。.
東林党
無錫・東林書院 東林党(とうりんとう)は、中国、明朝末期の江南の士大夫を中心とした政治集団・学派。学術的側面からは東林学派(とうりんがくは)という。 明の万暦22年(1594年)、江蘇省無錫出身の顧憲成は、悪政を続ける万暦帝とそれに追従する内閣に反対したため政界を追放された。下野を余儀なくされた彼は故郷の無錫に帰り、弟の顧允成と北宋の楊時が講学した東林書院を再建し、講学を始めた。ここに国事に志す在野の知識人が結集し、もっぱら時事問題を論じた。その代表的人物には高攀竜や銭一本などがいる。 時に内閣に欠員が出て鉱税反対論者の李三才を採用するかが論議された。このとき、顧憲成ら下野した官僚たちもこの論争に加わり、顧憲成は時の宰輔葉向高に手紙を送り、李三才を支持するよう要請した。これにより葉向高・李三才が「東林党人」と非難されたことで「東林党」の名称が生まれた。 東林党は組織的な政治活動を展開し、時の政局に大きな影響力を与え、一時は政権を握るにいたった。しかし、天啓年間(1621年 - 1627年)、反東林派のもと、宦官の魏忠賢が権力を握ると、東林書院は閉鎖され、楊漣・左光斗・高攀竜・黄尊素・周順昌・周起元といった人物たちがつぎつぎ投獄・殺害された。さらに『東林点将録』という文献を作って東林党の人士を一網打尽にしようとした。天啓7年(1627年)、崇禎帝が即位すると魏忠賢は逮捕され、東林党の人士への迫害は終わった。 思想的には、彼らは陽明学に対して批判的な立場であり、心即理説や無善無悪説を批判した。彼らの学問の目的は社会の現実的な要求に応えることであり、道徳的修養と政治的な社会活動とを区別し、社会的欲望を調和することに「理」を見いだそうとした。このため水利や農業の技術開発・合理的な農業経営に取り組み、キリスト教宣教師と交流してヨーロッパの自然科学的知識の摂取にも努めている。また「公」によって君主批判を行い、地方分権論を主張するなど明末清初の経世致用の学につながる思想を遺した。.
松江区
松江区(しょうこうく、、、)は中華人民共和国上海市に位置する市轄区。古より繊維業が発達してきたが、近年は上海市中心部の主要な衛星都市としてニュータウンの造成や軽工業団地が建設され、外資系企業も多く立地している。.
正徳 (明)
正徳(せいとく)は中国、明代の元号(1506年 - 1521年)。第11代皇帝武宗の在位中に使われた。このため武宗は正徳帝と呼ばれる。.
正徳帝
正徳帝(せいとくてい)は、明朝の第11代皇帝。諱は厚照(こうしょう)。廟号は武宗 (ぶそう)。日本では治世の元号から一般に正徳帝と称されている。 弘治帝が立て直した国勢を再び衰退させ、明朝滅亡の要因を作り出した皇帝であると言える。.
正統 (明)
正統(せいとう)は中国、明代の元号(1436年 - 1449年)。第6代皇帝英宗の在位中に使われた。このため英宗は正統帝と呼ばれることもある。ただし、英宗は後に、第8代皇帝として重祚し、年号を天順とするため、天順帝とも呼ばれる。 14年(1449年)9月:英宗はオイラトに敗北し、捕虜とされた(土木の変)。英宗の弟代宗が新帝として即位し、翌年から景泰に改元した。.
歴史
Historia (Allégorie de l'Histoire). ニコラオス・ギジス(Nikolaos Gysis) (1892年) The Historian E. アービング・クーゼ(1902年) 歴史(れきし、羅: historia)は、何かしらの事物が時間的に変遷したありさま、あるいはそれに関する文書や記録のことをいう。主に国家や文明など人間の社会を対象とする。記述されたことを念頭に置いている。ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの科学分類に拠れば、「自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つもの」と定義している。また、現在に至る歴史を「来歴」と言う。.
殿試
殿試(でんし、満州語:deyen de simnembi)とは、中国の科挙の最終試験で、進士に登第した者が、皇帝臨席の下に受ける試験を言う。試験であるが不合格者は出さず、合格者の最終的な順位を決めるだけのものであった。 宋代より始まったもので、既に進士の地位は得ている者たちの順位がこの最終試験によって決められ、後々の処遇に大きく影響した。 殿試は皇帝自らが行う建前だが、実際には朝廷の大臣が試験官を務めた。これを読巻大臣という。読巻大臣は8名であり、その中には内閣大学士が含まれている。 上位より3名はそれぞれ、第1位が状元、第2位が榜眼、第3位が探花と呼ばれ、高官としての将来が約束された。 皇帝自ら行うため時には皇帝の気まぐれに左右されることもあり、趙翼のようにそれで状元を逃した例もあった。.
水滸伝
『水滸伝』(すいこでん、水滸傳)は、明代の中国で書かれた伝奇歴史小説の大作、「四大奇書」の一つ。 施耐庵(あるいは羅貫中)が、それまでの講談(北宋の徽宗期に起こった反乱を題材とする物語)を集大成して創作されたとされる。なお、「滸」は「ほとり」の意味であり、『水滸伝』とは「水のほとりの物語」という意味である(「水のほとり」とは、本拠地である梁山泊を指す)。.
永暦帝
永暦帝(えいれきてい、拼音:Yǒng-lì dì)は、南明の第4代(最後)の皇帝。諱は由榔(ゆうろう)。廟号は昭宗(しょうそう)。帝号は存在しないが、日本では在位中の元号永暦より一般的に永暦帝と称される。 嫡母(父の正妻)は王太后、母は馬太后、妻は王氏(王太后の一族)、子は朱慈爝、朱慈𤇅、朱慈炫(太子の朱慈煊)、朱慈𤇥、朱慈煒、朱慈熠、朱慈焯。.
永楽 (明)
永楽(えいらく)は中国、明代の元号(1403年 - 1424年)。第3代皇帝成祖の在世中に使われた。このため成祖は永楽帝と呼ばれる。.
永楽大典
永楽大典(えいらくたいてん)とは、中国明代に編纂された中国最大級の類書のことである。22,877巻・目録60巻・11,095冊からなる。1408年(永楽6年)に成立した。.
永楽帝
永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝。姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された。諡号は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。.
永楽通宝
永楽通宝(えいらくつうほう)は、中国の明朝第3代皇帝・永楽帝の代、永楽9年(1411年)より鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭、永銭などと呼ばれた。.
江南
江南(日本語:こうなん、中国語:チャンナン、朝鮮語:カンナム).
江西省
江西省(こうせいしょう、江西省、、Jiangxi)は、中華人民共和国中部、長江南岸に位置する内陸部の省。省都は南昌市。.
江蘇省
江蘇省(こうそしょう、、、)は、中国東部にある行政区。長江の河口域であり、北部は淮河が流れ黄海に面する。名称は江寧(現南京市)の江、蘇州の蘇による。省都は南京市(中華民国政府が公表している省都は鎮江市)。略称は蘇。.
河南省
河南省(かなんしょう、中国語:河南省、拼音:Hénán Shěng、英語:Henan)は、中華人民共和国の省の1つ。地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫州があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市。古代の中原の中心地であり、中国の中でも歴史のある地域である。.
河北省
河北省(かほくしょう、中国語:河北省、拼音:Héběi Shěng、英語:Hebei)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。省都は、石家荘市。河北の省名は、黄河の北にあることに由来する。河北省の旧称冀州から、略称は冀。.
沈周
沈周(しん しゅう、宣徳2年11月21日(1427年12月9日) - 正徳4年8月2日(1509年8月17日))は、中国の明代中期の文人にして画家である。文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をとどめ、書家としても活躍した。詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。家訓を守り生涯にわたって仕官することなく明朝に抗隠した。 長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州市相城区陽澄湖鎮)の出身。字を啓南、号を石田・石田翁・白石翁とした。享年83。.
泰昌
泰昌(たいしょう)は中国、明代の元号(1620年8月 - 12月)。第15代皇帝光宗の在位期の年号であり、このため光宗は泰昌帝と呼ばれる。 中国では皇帝の代替わりによる改元は、本来は踰年改元といって、翌年の元日に改められる。すなわち、皇帝が崩御した年の次の年の元日からは、新皇帝の為に、新しい年号が用いられるのである。万暦48年(1620年)7月に万暦帝が崩御し、8月に光宗が即位した。今述べた原則に従えば、1620年いっぱいは、万暦48年とされ、翌年から新しい年号となる。実際に、光宗も、即位時に翌年(1621年)を泰昌元年とすると発表した。しかし、光宗が9月に急死し、熹宗が即位した。再び原則に従えば、翌年(1621年)の年号を泰昌以外の新しいものにしなくてはならない。だが、光宗の治世を示す年号が、このままでは立たないままで終わってしまう。そのため、群臣は、万暦48年(1620年)の8月以降を「泰昌元年」とした。.
泰昌帝
明光宗常服像 泰昌帝(たいしょうてい)は、明朝の第15代皇帝。諱は常洛(じょうらく)。廟号は光宗(こうそう)。日本では在位中の元号を取って一般的に泰昌帝と呼ばれる。.
洪熙
洪熙(こうき)は中国、明代の元号(1425年)。第4代皇帝仁宗の在世中に使われた。このため仁宗は洪熙帝と呼ばれる。.
洪熙帝
仁宗朝服図 洪熙帝(こうきてい)は、明朝の第4代皇帝。諱は高熾(こうし)。廟号は仁宗。日本ではその在位中の元号から一般的に洪熙帝と称される。.
洪武
洪武(こうぶ)は中国、明代の元号(1368年 - 1398年)。初代皇帝である太祖・朱元璋の在世中に使われたため、朱元璋は洪武帝と呼ばれる。 元朝の至正28年(1368年)1月9日より使用開始。元年から一世一元の制を採用した。洪武31年(1398年)6月24日、洪武帝が崩御し、皇太子朱允炆(建文帝)が即位するが、明朝は踰年改元法(先帝が崩御した年の末まで従来の年号を継続する方式)を採用するため、翌年正月に建文に改元。ところが、靖難の変によって1402年に皇帝となった永楽帝は、対立者であった建文帝の即位を認めず、建文の年号もなかったこととし、建文年間を洪武32年から35年とした。しかし、万暦帝が再び洪武32年から35年を建文に戻した。 なお、明建国の1年前になる至正27年(1367年)、呉王を称していた朱元璋はこの年を元年とする在位紀年を建てている。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
湖南省
湖南省(こなんしょう、中国語:湖南省、拼音:Húnán Shěng、湘語(雙峰語):/ɣəu13 læ̃ 13/、英語:Hunan)は、中華人民共和国の省の一つ。省都は長沙市。略称は湘。.
湖広省
湖広省(ここうしょう)とは、かつて中国に存在した行政区域。省都は武昌(現在の武漢)。現在の湖北省・湖南省。.
湖北省
湖北省(こほくしょう、フーペイしょう、中国語:湖北省、拼音:Húběi Shěng、英語:Hubei Province)は、中華人民共和国中部地方にある第一級行政区画である。揚子江中流域に位置し、洞庭湖以北にあるため、「湖北」と言う名称がつけられた。略称は鄂、楚、荊で、荊楚とも呼ばれる。省都は武漢市である。.
満州
満洲(まんしゅう、マンジュ、拼音:Mǎnzhōu、英語:Manchuria)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。渤海・金朝・後金・清朝を建国した満洲民族や、夫余・高句麗を建国した濊貊族、鮮卑・烏桓・契丹・奚などモンゴル民族の故地である。なお、漢字表記は法令や一部の文献では「満洲」が用いられるものの、一般には「満州」が用いられることが多い。 「満洲」という言葉は、もともとは12世紀にはおもに民族名を指していた。しかし19世紀の日本では満洲、満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。.
満州民族
満州民族(満洲民族、まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満州族(満洲族、まんしゅうぞく、マンジュぞく、ᠮᠠᠨᠵᡠᡠᡴᠰᡠᡵᠠ 、転写:manju uksura)は、満洲(中国東北部、沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八つのグサ(.
漢
漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.
漢詩
漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。中華文明の伝来に伴い、8世紀から日本でも詠まれた。.
朝貢
朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.
木綿
収穫期の綿 走査型電子顕微鏡で見た木綿繊維 木綿・木棉(もめん)は、ワタの種子から取れる繊維。コットン(cotton)とも。ワタ自体のことを木綿と呼ぶこともあるが、ここでは繊維としての木綿について述べる。 ワタとはアオイ科ワタ属の多年草の総称で、木綿は種子の周りに付いている。繊維としては伸びにくく丈夫であり、吸湿性があって肌触りもよい。このため、現代では下着などによく使われるが、縮みやすいという欠点もある。主成分はセルロース。 単に棉・綿(めん)とも言う。摘み取った状態までのものが棉、種子を取り除いた後の状態のものが綿だが、区別しないことも多い。 ただし、「綿」と書いて「わた」と読むのは、本来は塊状の繊維全般を指す語である。布団や座布団の中身を繊維の種類を問わず「綿(わた)」と呼ぶが、これはその本来の用法である。古くは、中でも真綿(絹の原料)を意味することが多かった。.
本草綱目
本草綱目(ほんぞうこうもく)は、中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作である。作者は明朝の李時珍(1518年 - 1593年)で、1578年(万暦6年)に完成、1596年(万暦23年)に南京で上梓された。日本でも最初の出版の数年以内には初版が輸入され、本草学の基本書として大きな影響を及ぼした。中国では何度も版を重ねたが、日本でもそれらが輸入されるとともに和刻本も長期に亙って数多く出版され、それら和刻本は3系統14種類に及ぶ。 慶長12年(1607年)、林羅山が長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上している。これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となる。 2011年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.
朱子学
朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.
朱常洵
朱 常洵(しゅ じょうじゅん、1586年2月22日(万暦14年1月5日) - 1641年3月2日(崇禎14年1月21日))は、中国明朝の皇族で、初代の福王。万暦帝の第3子として生まれた。母は貴妃鄭氏である。.
朱元璋
朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の始祖であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅ こうそう)と改名し、紅巾(こうきん)軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。.
朱翊鏐
朱 翊鏐(しゅ よくりゅう、1568年 - 1614年)は、明の皇族。第13代皇帝である隆慶帝(朱載垕)の四男で、第14代皇帝である万暦帝(朱翊鈞)の同母弟である。4歳で潞王に封じられた。万暦帝と同母兄弟であったことから兄の信任は厚く、皇族の中でも特に厚遇された。そのためか朱翊鏐もわがままに育ち、兄帝にたびたび新領地を要求し、朱翊鏐の封地は歴代の明皇族の王の中でも最大となり、.
朱熹
朱 熹(しゅ き、1130年10月18日(建炎4年9月15日) - 1200年4月23日(慶元6年3月9日))は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。と尊称される。祖籍は徽州婺源県(現在の江西省)。 南剣州尤渓県(現在の福建省)に生まれ、建陽(現在の福建省)の考停にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者である。.
朱高煦
朱 高煦(しゅ こうく、1380年 - 1426年)は、明の皇族。第3代皇帝・永楽帝の第2皇子。爵位は漢王。 永楽帝の次男で、第4代皇帝洪熙帝の弟にあたる。武勇に優れ、風貌も父に似て長身で巨漢だったという。そのため、異民族討伐などで活躍した。1399年(建文元年)に発生した靖難の変では大将として朱棣(後の永楽帝)軍を率いた。建文帝側が優位な戦況となり諸将が講和を論じた際には、諸将を恫喝して父を鼓舞し、勝利に貢献したという。 靖難の変後に朱棣が即位すると、丘福など諸将から柔弱な性格であった朱高熾を廃太子し朱高煦を立太子すべく推挙されたが、朱高煦は短気で粗暴な性格だった上、永楽帝も朱高熾の柔弱は承知していたが、その息子の朱瞻基の素質を認め立太子は見送られた。粗暴な性格を永楽帝より忌諱されていたが、永楽帝即位の褒賞として雲南(ビルマ)方面の高陽王に封じられている。だが、朱高煦は赴任は拒否し北京に留まり、父の親征に参加し続けて武功を挙げている。後に雲南から青州へ赴任地の漢王が変更されたが、これも拒否して北京に留まっている。 1424年(永楽22年)に永楽帝が崩御すると 兄の朱高熾が即位した(洪熙帝)が、在位8ヶ月にして1425年(洪熙元年)崩御、その皇太子である朱瞻基が即位した(宣徳帝)。宣徳帝即位に際し私兵を用いて皇位簒奪を計画したが、事前に計画が露見して宣徳帝に逮捕された。宣徳帝は叔父にあたる朱高煦の助命を考慮したが、朱高煦は無罪を主張し、更に各方面との連絡を取ろうとした上、宣徳帝と会見した際に蹴りつけるという粗暴さを見せた事が決定打となり遂に死刑を命じられた。宣徳帝は最初、朱高煦を重さ300斤以上の銅釜に閉じ込めたところ、怪力の朱高煦が蓋を動かしたので、宣徳帝は銅釜の周りに木炭を積み上げて点火した。燃え上がった木炭の炎によって銅釜は焼けただれ、中にいる朱高煦もろとも溶けてしまったという。享年47。彼の家族も皆殺しとされた。.
朱標
朱 標(しゅ ひょう、1355年 - 1392年)は、中国・明朝の初代皇帝洪武帝の長男で皇太子。第2代皇帝建文帝の父。母は馬皇后。.
挙人
挙人(きょじん、満州語:tukiyesi)は中華圏の人材登用に関する称号。時代によって概念が異なる。.
戚継光
右 右 戚 継光(せき けいこう、拼音:Qī Jì-guāng、嘉靖7年十月初一日(西暦で1528年11月12日) - 万暦15年十二月初八日(西暦で1588年1月2日)は、中国の明代の武将である。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。字は元敬。諡は武毅。竜行剣という剣法の開祖とも伝えられる。.
成化
成化(せいか)は中国、明代の元号(1465年 - 1487年)。第9代皇帝憲宗の在世に使われた。このため憲宗は成化帝と呼ばれる。.
成化帝
成化帝(せいかてい)は、明朝の第9代皇帝。諱は見深(けんしん)。廟号は憲宗(けんそう)。日本では治世の元号から一般的に成化帝と称される。.
戯曲 (中国)
戯曲(ぎきょく)とは、中国の古典的な演劇の一種。「戯」は舞踊や雑技、「曲」は歌謡の意味で、劇中に舞踏や歌謡が用いられることを特徴とする。科(しぐさ)・白(せりふ)・曲(うた)によって構成され、科白のない散曲と対照される言葉である。日本で一般に戯曲とは文学作品のことを指すので、英語でチャイニーズ・オペラと呼ぶことがある。.
明朝体
明朝体(みんちょうたい)とは漢字や仮名の書体の一種で、セリフ書体に分類される。漢字や仮名の表示や印刷において標準的な書体である。中国語では宋体、明体とも。日本においては、明治の活字技術の導入期にひらがな・カタカナを漢字とは別様のまま遣ったためバリエーションが生じた。.
浙江省
浙江省(せっこうしょう、中国語:浙江省、拼音:Zhèjiāng Shěng、英語:Zhejiang)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は浙。華東地区中部に位置し、東シナ海に面す。省都は杭州市。浙とは省内最大の河川・銭塘江を指す。銭塘江は蛇行が激しいことから曲江・之江・折江・浙江などと呼ばれてきた。.
新安商人
新安商人(しんあん しょうにん)は、中国で、大部分現在の安徽省に属する徽州府(歙県を中心とする)に籍を置き、辛亥革命前に活躍した商人集団(商幇)の総称である。別名は徽商、徽州商人、徽幇。.
文人
文人(ぶんじん)とは、中国の伝統社会に生じたひとつの人間類型であり、「学問を修め文章をよくする人」の意である。.
文人画
文人画(ぶんじんが)とは、中国において職業画家の画(院体画)に対し、文人が余技として描いた絵画のことをいう。.
文徴明
文徴明(ぶん ちょうめい、男性、成化6年11月6日(1470年11月28日) - 嘉靖38年2月20日(1559年3月28日))は、中国明代中期に活躍した文人である。詩書画に巧みで三絶と称され、とりわけ画においては呉派文人画の領袖である沈周の後を受け継ぎ、沈周・唐寅・仇英とともに明代四大家に加えられた。 長洲県(江蘇省蘇州市)の人。幼名を壁または璧、字を徴明としたが名前のようになってしまったので徴仲と改めた。衡山、衡山居士、停雲生と号し、文衡山と呼ばれることも多く、また官名から文待詔とも称された。.
文禄・慶長の役
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本国王
日本国王(にほんこくおう)は、日本の国王を意味する称号。 通常は中世期から近世期において特に武家政権の長が対外的に使用した称号を指す。室町幕府3代将軍足利義満が、明皇帝から「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」の封号を与えられ、日本国王に冊封されて以降、室町将軍の外交称号として使用された。.
日本経済新聞
日本経済新聞(にほんけいざいしんぶん、題字:日本經濟新聞、The Nikkei)は、日本経済新聞社の発行する新聞(経済紙)であり、広義の全国紙の一つ。略称は日経(にっけい)、または日経新聞(にっけいしんぶん)。日本ABC協会調べによると販売部数は2017年10月で朝刊約260万部、夕刊約127万部である。最大印刷ページ数は48ページである。.
日明貿易
日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.
懐良親王
懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。.
故宮博物院
故宮博物院 中国の歴代の皇帝らによって収集され、北京の紫禁城(故宮)に保管されていた歴史的文化財を保存、展示する博物館。.
景徳鎮市
景徳鎮市(けいとくちんし)は中華人民共和国江西省東北部に位置する地級市。古くから陶磁器の生産地として有名で、国家歴史文化名城に指定され、対外開放市でもある。.
景泰
景泰(けいたい)は中国、明代の元号(1450年 - 1457年1月)。第7代皇帝代宗の在世に使われた。このため代宗は景泰帝と呼ばれる。 景泰8年(1457年)1月16日、奪門の変が起き、上皇となっていた英宗が、代宗より帝位を奪い重祚、直ちにその年を天順元年に改元した。.
景泰帝
景泰帝(けいたいてい)は、明朝の第7代皇帝。諱は祁鈺(きぎょく)(鈺は金偏+玉)。諡号は符天建道恭仁康定隆文布武顕徳崇孝景皇帝(しばしば景帝と略される)。廟号は代宗。日本では治世中の元号から一般的に景泰帝と称されている。.
時憲暦
西暦1895年に調印された下関条約。右頁に書かれている締結日は、既にグレゴリオ暦を導入していた日本の日付が「明治二十八年四月十七日」となっているのに対して、時憲暦であった清の日付は「光緒二十一年三月二十三日」となっている。 時憲暦(じけんれき、満州語: 、転写: forgon i yargiyan ton)は中国暦の一つで、公式なものとしては中国で最後に使われた太陰太陽暦の暦法である。西洋天文学の成果を取り入れ、太陰太陽暦では初めて定気法が採用された。.
1351年
記載なし。
1368年
記載なし。
1372年
記載なし。
1380年
記載なし。
1388年
記載なし。
1393年
記載なし。
1398年
記載なし。
1399年
記載なし。
1402年
記載なし。
1403年
記載なし。
1421年
記載なし。
1424年
記載なし。
1425年
記載なし。
1426年
記載なし。
1435年
記載なし。
1436年
記載なし。
1448年
記載なし。
1449年
記載なし。
1450年
記載なし。
1457年
記載なし。
1464年
記載なし。
1465年
記載なし。
1470年
記載なし。
1487年
記載なし。
1488年
記載なし。
14世紀
ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.
1505年
記載なし。
1506年
記載なし。
1517年
記載なし。
1521年
記載なし。
1522年
記載なし。
1550年
記載なし。
1557年
記載なし。
1563年
記載なし。
1566年
記載なし。
1567年
記載なし。
1572年
記載なし。
1573年
記載なし。
1582年
記載なし。
15世紀
大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.
1620年
記載なし。
1621年
記載なし。
1627年
記載なし。
1628年
記載なし。
1640年
記載なし。
1644年
記載なし。
1662年
記載なし。
16世紀
16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.
1724年
記載なし。