ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

文禄・慶長の役

索引 文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

877 関係: 加賀藩加藤嘉明加藤光泰加藤清正劉テイ (明)原州市原田孫七郎原田喜右衛門垣屋恒総厳原港厳島神社お雇い外国人はなそぎ偽使千萬里南原城の戦い南原市南北朝時代 (日本)南部信直南蛮南蛮寺南蛮貿易南朝 (日本)南海道南海郡南斗六星古田重勝古田重然台湾出兵右筆名護屋城吉州郡吉川広家吉田豊坡州市堀内氏善堀秀治堀親良堀杏庵増田長盛士禍壱岐島多大鎮の戦い大友義統大名大同江大同江の戦い大坂の陣大宰府大島光義...大徳寺大内義弘大内氏大砲大韓民国大谷吉継大邱広域市大村喜前大槻磐渓大清皇帝功徳碑大政所天安市天下人天下統一天保天竺天正天正遣欧少年使節太宗 (朝鮮王)太田一吉太田牛一太閤太閤記太閤検地奥山盛昭奥州仕置女真奴婢奴隷好太王碑奇皇后妙満寺姜コウ定遠君宍戸隆家客家宣祖室町時代宮城豊盛宮部継潤宮部長房守護守護大名官僚制宗義調宗義智宗貞盛宗氏宇喜多秀家宇都宮国綱安城市 (京畿道)安堵安宅船安土桃山時代安国寺恵瓊安養寺安辺郡宋象賢宋明理学宋書寧夏回族自治区寧越郡寧辺郡寧波の乱寧波市寺内正毅寺西直次寺沢広高対馬対馬府中藩富田一白密陽市尚州の戦い尚州市小中華思想小出吉政小田原征伐小瀬甫庵小西主殿介小西行長小鴨元清小野木重勝小松緑小浜町 (福井県)小早小早川秀秋小早川隆景少弐氏射石砲将官山口啓二山崎定勝山崎家盛山中長俊山鹿素行山陰道山陽道岡本良勝岩沢愿彦岸本美緒島井宗室島津久保島津忠辰島津綱久島津義久島津義弘島津豊久崔湖川口長孺川上忠実川勝秀氏巡察使巡撫左右巨済島差別上田重安上杉景勝丁卯胡乱丁巳約条丁未約条両班中城王子中央集権中川秀成中川秀政中井竹山中和郡中国大返し中華人民共和国中村栄孝中江直澄中朝事実丹羽長重世宗 (朝鮮王)市橋長勝万暦万暦の三征万暦帝万治三南地方三別抄三国三韓征伐三鬼清一郎三跪九叩頭の礼三陟市三浦の乱下克上一柳可遊一柳直末一揆丙子の乱九州平定九州探題九鬼嘉隆干支平壌平安道平山平和条約平昌郡幸州山城の戦い久光島京の大仏京畿道京極高次五大老五奉行五島列島五島玄雅五島純玄井沢元彦事大主義亀井茲矩亀甲船今川貞世仁祖仮名 (文字)延吉市建文帝任那日本府任鉉仙石秀久伊達政宗伊賀伊藤盛景伊藤長弘伊藤東涯伊東祐兵伏見城伴信友伽耶弘文館佐々木潤之介佐々成政佐竹義宣 (右京大夫)佐竹義久影島区征夷大将軍征伐征韓論御史台徳富蘇峰徳川家康徳川将軍家徳川秀忠後宮後金後陽成天皇得居通幸忠州の戦い忠清道応永の外寇土佐物語地震の年表 (日本)地政学北島万次北京市北元北青郡北関大捷碑北条氏直北条氏盛北条時宗北朝 (日本)北海異談マニラマスケット銃ハサン (沿海地方)バテレン追放令ポルトガルポルトガル領インドムラカモノコックモンゴル (曖昧さ回避)モンゴルの高麗侵攻ヤマト王権僧兵僧録ルイス・フロイスボハイの乱ヌルハチボールステイト大学ヌエバ・エスパーニャトウ子龍パターナリズムフランキ砲フランシスコ会フアン・コボフィリピンフェリペ2世 (スペイン王)ドミニコ会ホンタイジ別所吉治利原郡刑曹刀伊の入寇刀狩嘉靖帝呂宋助左衛門咸鏡南道咸鏡道咸興市和船和暦アレッサンドロ・ヴァリニャーノイエズス会ウリャンカイガレオン船ガスパール・コエリョキムチクジャクグレゴリオ・デ・セスペデスグレゴリオ暦コリアゴア州ジュリアおたあジェームズ・マードックスペインスペイン帝国スペイン領フィリピンの総督セビョル郡サルフの戦いサン=フェリペ号事件備辺司唐辛子唐棹唐津市儒学者冊封冊封国内藤如安全州市全羅道八条宮智仁親王元 (王朝)元号元均元寇先史時代 (台湾)兵農分離兵曹 (李氏朝鮮)光陽市光海君前田利家前田利長前田玄以前田秀以前田綱紀前野長康副王勝本城勝本町動機国史編纂委員会国語辞典国文学研究資料館四川省倭城倭の五王倭寇倭館矢部定政知行石州銀石川康勝石川康長石田三成石田正澄石高石星玄海町玉浦海戦王直火縄銃火星珍島琉球王国碧蹄館の戦い磁器礼曹神功皇后祖承訓禁教令福原長堯福岡市博物館福島正則禅譲科挙秋田実季秋風嶺秋水鏡秋月種長稲葉貞通稲葉重通稷山の戦い穏城郡端川市竹島 (島根県)竹中重利竹中重門竜骨 (船)立花宗茂立花直次筑紫広門箱崎 (福岡市)糟屋武則細川忠興純祖紅巾の乱織田信包織田信秀 (侍従)織田信長織田信雄織田秀信群書類従義州義州郡真田信繁真田昌幸結城秀康絵本太閤記瑞興郡瓜生島生熊長勝生駒一正生駒親正生駒親清田中義成田保橋潔甲賀申リツ熊川熊谷直盛燃藜室記述異国日記畿内牧村利貞片桐且元片桐貞隆相良頼房相良氏白村江の戦い百済階級韓国併合韓国料理韓石峰莞島郡鎮海区 (昌原市)鎌倉幕府鎖国聚楽第聞慶市遣明使遼東半島聖福寺 (福岡市)荻生徂徠鍾城郡鍋島勝茂鍋島直茂鏡城郡菅達長菅茶山靖難の変青木一矩頼山陽領議政順天城の戦い順天市順安順和君衝角顕如袞衣西人西征日記西笑承兌西暦西海道覚深入道親王馭戒慨言観応の擾乱首実検駕籠騎馬民族許孚遠許イン許儀後許浚驪州市高句麗高台院高岡宗弼高田治忠高麗高麗史高橋元種鬼頭宏議政府谷城郡谷衛友豊臣秀吉豊臣秀保豊臣秀勝豊臣秀頼豊臣秀長豊臣秀次豊臣鶴松豊臣氏豊臣政権豆満江貝原益軒貨幣貴田孫兵衛賤民鳳山郡鳴梁海戦足利国朝足利義満足利義持足利義昭足利義教足軽鶴岡八幡宮鹵獲身分統制令麻貴麗水市 (全羅南道)黒田孝高黒田長政黄州郡黄世得黄石山城の戦い黄海道龍仁市辻善之助近衛信尹霊光郡錦山郡露梁海戦蜂須賀家政胥吏郭再祐都察院鈴木重朝鈴木良一 (歴史学者)船越景直赤松則房鵲院関の戦い関ヶ原の戦い関白関船薩摩川内市薬師寺閑山島海戦開城市藤堂高虎藤掛永勝藤木久志董一元蒲生氏郷蒔田広定那須資晴肥後国人一揆蔚山城の戦い蔚山広域市蔚山倭城蔵入地鄭テツ鄭道伝鄭運鄭撥脇坂安治醴泉郡野村直隆臨津江臨津江の戦い臨海君臼杵城釜山広域市釜山鎮の戦い釜山浦海戦里見義康金印金州区金ミョン金策市金誠一金森可重金森長近金海市金悌甲金時敏蕭衍長宗我部元親長崎奉行長谷川守知長谷川秀一長束正家鉄原郡鉄砲伝来若狭国耳塚逆説の日本史陳リン陶芸家柳川一件柳川調信柳成龍掌隷院林羅山恩徳郡恭譲王恭愍王李参平李如柏李如松李如梅李宗仁李寧李カク (朝鮮)李億祺李元翼李珥李福男李炯錫李舜臣李氏朝鮮李成桂李承晩来島通総東市来町美山東京大学史料編纂所東人東シナ海東莱城の戦い東莱府松浦鎮信村上頼勝村井章介杉若氏宗桑山一晴桑山貞晴 (小傳次)桂月香梁 (南朝)梁山市梅北一揆梅北国兼森忠政楊州市楊応龍の乱楊元楊鎬権知高麗国事権慄機張郡橋本道一武家事紀武藤資頼武断派歴史上の推定地域人口歴史群像毛利勝信毛利勝永毛利秀包毛利秀元毛利秀頼毛利高政毛利輝元毛利重政氏家行広氏家行継水原市水軍水野忠重水戸学永川市永楽帝民兵江原道江原道 (朝鮮八道)江戸幕府江戸時代池内宏池田光重池田秀氏池田長吉求礼郡河尻秀長沈惟敬沙也可波多親泰平寺 (薩摩川内市)泗川の戦い泗川海戦法藏館津田信成津軽為信洪原郡洛東江深水長智済州島清州市清道郡溝口秀勝満州滝川雄利漢城府漢江漆川梁海戦澎湖諸島服部一忠服部正栄朝尾直弘朝廷朝鮮半島朝鮮半島から流出した文化財の返還問題朝鮮八道朝鮮王朝実録朝鮮語朝鮮通信使朝鮮民主主義人民共和国朝貢木下吉隆木下延俊木下延重木下利房木下勝俊木下秀規木下重堅木村又蔵木村重茲本多康重本居宣長朱印状朱子学朱元璋有馬豊氏有馬晴信望闕礼最上義光惟政惣無事令戦役戦列歩兵戦国大名戦国時代 (日本)戸田勝隆戸田勝成戸曹星州郡明史明川郡明石則実明治春川市春秋館昭和昌寧郡昌徳宮昌慶宮流罪海禁海賊停止令海汀倉の戦い浅野幸長浅野長政斎村政広新庄直頼新羅新羅の入寇方広寺文化露寇文禄文治派日根野高吉日欧文化比較日清戦争日朝関係史日本日本外史日本二十六聖人日本刀日本国王日本語日本書紀日明貿易早川長政旌善郡懲ヒ録敦義門慶尚道慶州市慶長慶長伊予地震慶長伏見地震慶長豊後地震承久の乱曾根孫六景福宮景轍玄蘇晋州城攻防戦晋州市 (慶尚南道)1001年1019年1224年1274年1281年1375年1380年1389年1392年1396年1401年1403年1419年1510年1511年1544年1547年1554年1555年1557年1583年1585年1588年1591年1592年1593年1596年1597年1598年1599年1600年1605年1607年1616年1619年1624年1636年1659年16世紀17世紀1895年2012年369年391年4月12日 (旧暦)4月13日 (旧暦)562年5月24日5月2日 (旧暦)663年7月9日 (旧暦)812年8月23日 (旧暦)906年997年9月19日9月3日 インデックスを展開 (827 もっと) »

加賀藩

金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と加賀藩 · 続きを見る »

加藤嘉明

加藤 嘉明(かとう よしあきら / よしあき)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人。伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主。 通称は孫六、後に官位と同じ左馬助と改める。諱の嘉明も後の名乗りで、初めは茂勝(繁勝)と名乗っていた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と加藤嘉明 · 続きを見る »

加藤光泰

加藤 光泰(かとう みつやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と加藤光泰 · 続きを見る »

加藤清正

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と加藤清正 · 続きを見る »

劉テイ (明)

劉 綎(りゅうてい、嘉靖31年(1558年) - 万暦47年(1619年))は、中国の明末期の武将。南昌(現在の江西省南昌市)の人。字は省吾。父は倭寇を討伐したことで知られる劉顕。なお、諱の正しい表記は綎(糸偏に廷)である。彼の家系の元は龔姓であった。異名として劉大刀とも呼ばれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と劉テイ (明) · 続きを見る »

原州市

原州市(ウォンジュし)は大韓民国江原道南部に位置する市。江原は江陵と原州を意味する。 古くから韓紙の本場として知られている。 市のスローガンは「Healthy Wonju」。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と原州市 · 続きを見る »

原田孫七郎

原田 孫七郎(はらだ まごしちろう、生没年不詳)は、安土桃山時代の商人。また、「ガスパル」の洗礼名を持ちガスパル原田とも呼ばれる。 長崎で貿易を営む原田喜右衛門の部下であった。海外情勢に詳しかったため1591年豊臣秀吉の使者として、スペイン領フィリピンに日本国への朝貢を要求する内容の書状を持ってマニラのスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに出向き交渉した。 また、文禄3年(1593年)、現在の台湾にあるとされた「高山国」に秀吉の命で朝貢を促す文書を届けようとしたが、高山国が存在しない国家だったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。その後の孫七郎の消息は不明。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と原田孫七郎 · 続きを見る »

原田喜右衛門

原田 喜右衛門(はらだ きえもん、生没年不詳)は、安土桃山時代の長崎商人。キリスト教に帰依し「パウロ」の洗礼名を持ったが、のち背教している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と原田喜右衛門 · 続きを見る »

垣屋恒総

垣屋 恒総(かきや つねふさ、生年不詳 - 慶長5年(1600年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。垣屋光成の子。但馬国の国人衆。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と垣屋恒総 · 続きを見る »

厳原港

厳原港(いづはらこう)は長崎県の対馬南東岸(対馬市)に位置する港湾。港湾管理者は長崎県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。対馬の中心的な役割を持つ港である。国道382号の対馬島内陸上区間の終点であり、対馬 - 壱岐の海上区間の起点でもある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と厳原港 · 続きを見る »

厳島神社

境内 全景(弥山中腹より) 2016年G7広島外相会合における平舞台での雅楽。 厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と厳島神社 · 続きを見る »

お雇い外国人

お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された。お抱え外国人とも呼ばれることもある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とお雇い外国人 · 続きを見る »

はなそぎ

劓(はなそぎ、はなきり)は、人間の鼻を削ぐ行為を指す。目的としては、刑罰として科す場合と、戦において討ち取った首の代わりとして切り取る場合の二通りがある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とはなそぎ · 続きを見る »

偽使

偽使(ぎし)とは他人の名前を騙った偽の使節のこと。室町時代から江戸時代初頭にかけて、日本から朝鮮へ大量の偽使が通交(外交・貿易を包括した概念)し、日朝貿易史において15世紀半ばから17世紀前半は偽使の時代と呼ばれている。本項ではこの日朝貿易に出現した偽使についての解説を行う。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と偽使 · 続きを見る »

千萬里

千萬里(천만리、1543年~?)は、朝鮮の役を征討するため、李氏朝鮮へ派兵された明の武将である。李如松らと共に派兵され、戦場を共にする。中国河南省出身。号は思庵。諡号は忠壮。戦争終結後、帰国せずに李氏朝鮮にとどまり帰化する。朝鮮の氏族潁陽千氏の中始祖。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と千萬里 · 続きを見る »

南原城の戦い

南原城の戦い(なんげんじょうのたたかい)とは、慶長の役で日本軍が南原城を攻略した戦い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南原城の戦い · 続きを見る »

南原市

南原市(ナムウォンし、ナモンし,なんげんし)は大韓民国全羅北道の南東部にある市である。東は慶尚南道に、南は全羅南道に接する。小白山脈の西側の高原地帯に開けた盆地の町で、蓼川(ヨチョン)に沿って広がり、市街のすぐ北には蛟竜山(キョリョンサン)がそびえている。また智異山(チリサン)への玄関口でもある。古くから要害の地として城郭や都市が置かれてきたほか、春香伝の舞台としても知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南原市 · 続きを見る »

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南北朝時代 (日本) · 続きを見る »

南部信直

南部 信直(なんぶ のぶなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての陸奥国の武将、戦国大名。南部氏第26代当主で中興の祖といわれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南部信直 · 続きを見る »

南蛮

四夷の名称 南蛮(なんばん)あるいは蛮(ばん)は、四夷のひとつであり、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。 日本でも当初は同様の意味で用いられていたが、15世紀にヨーロッパ人との南蛮貿易が始まって以降は、主にヨーロッパや東南アジア・スペインやポルトガルの文物や人物を指す語となった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南蛮 · 続きを見る »

南蛮寺

南蛮寺(なんばんじ、なんばんでら)は、戦国時代から江戸時代初期まで、すなわちキリスト教伝来(1549年)から徳川幕府によるキリスト教禁教までの期間、日本に建てられた南蛮風の教会堂の通称。 狭義には、1576年(天正4年)イエズス会によって京都に建てられた教会堂、いわゆる「都の南蛮寺」(後述)をさす。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南蛮寺 · 続きを見る »

南蛮貿易

南蛮貿易(なんばんぼうえき)とは、日本の商人、南蛮人、明時代の中国人、およびヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易である。南蛮人とは、ポルトガル人とスペイン人を指す。時期は16世紀半ばから17世紀初期、場所は東南アジアから東アジアの海域にかけて行われた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南蛮貿易 · 続きを見る »

南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南朝 (日本) · 続きを見る »

南海道

南海道(なんかいどう、みなみのみち)は、五畿七道の一つ。紀伊半島、淡路島、四国ならびにこれらの周辺諸島の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南海道 · 続きを見る »

南海郡

南海郡(ナムヘぐん/ナメぐん)は、大韓民国慶尚南道の郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南海郡 · 続きを見る »

南斗六星

南斗六星のあるいて座 南斗六星 南斗六星(なんとろくせい)は、いて座の上半身と弓の一部からなる6つの明るい星の集まりである。位置とその形から北斗七星に対してこの名前が付いた。なお、ここでいう南北は天球上の南北であって地平から見える方位ではない。二十八宿の斗宿の別名。 日本の一部には、6星のうちマスに当たるζ、τ、σ、φの4つの星を箕星(みぼし)と呼ぶ地方がある。 英語圏でも、北斗七星が柄杓星と言われるに対してこの6星もひしゃくに見られており、その形からミルク・ディッパー(Milk Dipper:ミルクさじ)と呼ばれている。また、隣り合うγ、δ、ε、ηの4星からなる箕宿とあわせてティーポット (Teapot) ともいうが、こちらは日本ではほとんど使われない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と南斗六星 · 続きを見る »

古田重勝

古田 重勝(ふるた しげかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。伊勢松坂藩初代藩主。 新井白石は『藩翰譜』で茶人として有名な古田重然の甥としているが、根拠となる史料は残存しておらず、不明である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と古田重勝 · 続きを見る »

古田重然

織部作と伝わる南宗寺庭園(国の名勝) 古田 重然(ふるた しげなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と古田重然 · 続きを見る »

台湾出兵

台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への出兵である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と台湾出兵 · 続きを見る »

右筆

右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と右筆 · 続きを見る »

名護屋城

テレオ空中写真(1977年)国土航空写真 肥前名護屋城図屏風 名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町・呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった日本の城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた。国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と名護屋城 · 続きを見る »

吉州郡

吉州郡(キルチュぐん)は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道にある郡。1邑(町)、26里(村)からなる。郡所在地は吉州邑。 2005年、北朝鮮の核実験基地として報じられている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と吉州郡 · 続きを見る »

吉川広家

吉川 広家(きっかわ ひろいえ)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将。周防国岩国領初代領主長州藩の主張によれば広家はあくまでも毛利氏の家老であるため、岩国藩主と呼ぶのは誤りであるとしている。。毛利氏の家臣。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と吉川広家 · 続きを見る »

吉田豊

吉田豊(よしだ ゆたか).

新しい!!: 文禄・慶長の役と吉田豊 · 続きを見る »

坡州市

坡州市(パジュし/はしゅうし)は大韓民国京畿道北西部に位置する市。板門店のある軍事境界線(38度線)を隔てて北朝鮮と接する最前線で、市域に非武装地帯がある唯一の市である。 この項目では、かつて存在した長湍郡についても述べる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と坡州市 · 続きを見る »

堀内氏善

堀内 氏善(ほりうち うじよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。熊野水軍の将。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と堀内氏善 · 続きを見る »

堀秀治

堀 秀治(ほり ひではる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越後福嶋藩の初代藩主。堀秀政の長男。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と堀秀治 · 続きを見る »

堀親良

堀 親良(ほり ちかよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。信濃飯田藩堀家初代。堀秀政の次男。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と堀親良 · 続きを見る »

堀杏庵

堀 杏庵(ほり きょうあん、天正13年5月28日(1585年6月25日) - 寛永19年11月20日(1643年1月10日))は、江戸時代初期の儒医・儒学者。近江国の生れ。祖父は近江国野村城主堀定澄で、父は医師堀徳印。名は正意。字は隆夫。通称は与十郎。号は杏庵のほか、杏隠・敬庵・蘇巷・茅山山人。 医術を曲直瀬正純に、句読を南禅寺塔頭帰雲院の梅心正悟に、儒学を藤原惺窩に学び、惺門四天王(林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵)の一人に数えられた。博学で、文章能力が高いと評価された。安芸国広島藩主浅野幸長・長晟、尾張国名古屋藩主徳川義直に仕え、江戸幕府の『寛永諸家系図伝』の編纂にも関与した。 長男の立庵は広島藩に、次男忘斎と三男道隣は名古屋藩にそれぞれ仕えている。 著書には『堀杏庵文集』『杏陰集』『東行日録』『有馬温湯記』『朝鮮征伐記』がある。 Category:江戸時代の儒学者 Category:17世紀の学者 Category:江戸時代の医師 Category:近江国の人物 Category:1585年生 Category:1643年没.

新しい!!: 文禄・慶長の役と堀杏庵 · 続きを見る »

増田長盛

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と増田長盛 · 続きを見る »

士禍

士禍(しか、サファ、사화)は、李氏朝鮮時代における、士(官僚)に対する粛清(弾圧)の事を差す。「士林(士林派)の禍」の略語。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と士禍 · 続きを見る »

壱岐島

壱岐島(いきのしま)は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島である。九州と対馬の中間に位置する。『古事記』によれば、別名を天比登都柱(あめひとつばしら)という。 周囲には23の属島(有人島4・無人島19)が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。官公庁の定義では「壱岐島」と呼ぶ場合、周囲の属島は含めない。 現在は長崎県壱岐市の1市体制で、長崎県では島内に壱岐振興局(旧・壱岐支庁、壱岐地方局)を置いている。また、全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と壱岐島 · 続きを見る »

多大鎮の戦い

多大鎮の戦い(ただいちんのたたかい、朝鮮読み:タデジン)は、文禄元年4月13日-14日(1592年5月24日-25日)、釜山鎮の戦いとほぼ同時に行われた文禄・慶長の役の最初の戦いである。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と多大鎮の戦い · 続きを見る »

大友義統

大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大友義統 · 続きを見る »

大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大名 · 続きを見る »

大同江

大同江(だいどうこう・テドンガン、대동강)は、朝鮮半島の北西部を流れる河川である。 本河川は439kmの延長と20,000km2の流域面積を有する第5の大河である。 余談ではあるが、平壌において本河川の名を採った大同江ビールが製造されている。 北朝鮮は、大同江流域で5000年前にエジプト・メソポタミア・インダス・黄河と並ぶ世界五大文明の1つである大同江文化が栄えたとしている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大同江 · 続きを見る »

大同江の戦い

大同江の戦い(だいどうこうのたたかい)は文禄の役において日本軍と朝鮮軍との間で戦われた戦闘。この戦闘で日本軍は平壌城を占領した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大同江の戦い · 続きを見る »

大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大坂の陣 · 続きを見る »

大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大宰府 · 続きを見る »

大島光義

大島 光義(おおしま みつよし)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、江戸時代初期の大名で、美濃国関藩主。大嶋 光義とも記される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大島光義 · 続きを見る »

大徳寺

大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大徳寺 · 続きを見る »

大内義弘

大内 義弘(おおうち よしひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護。大内家の第25代当主。 第24代当主・大内弘世の嫡子。弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など。子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいる。幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗る。 室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築く。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎた事が有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大内義弘 · 続きを見る »

大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大内氏 · 続きを見る »

大砲

大砲(たいほう)は、火薬の燃焼力を用いて大型の弾丸(砲弾)を高速で発射し、弾丸の運動量または弾丸自体の化学的な爆発によって敵および構造物を破壊・殺傷する兵器(武器)の総称。火砲(かほう)、砲とも称す。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大砲 · 続きを見る »

大韓民国

大韓民国(だいかんみんこく、대한민국、漢字: 大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島(韓半島)南部を実効支配する東アジアの共和制国家であり、戦後の冷戦で誕生した分断国家。 憲法上は鴨緑江、豆満江以南の「朝鮮半島及び付属島嶼」全域を領土とするが、現在、北緯38度付近の軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治下にあり施政権は及んでいない。朝鮮戦争で争った北朝鮮とは1953年に休戦したが、その後も断続的に軍事的対立や小規模な衝突が発生している。 政治面は1980年代半ばまで独裁体制が取られていたが、1987年の民主化宣言によって成立し、現在まで続いている第六共和国憲法に基づく体制は民主主義政体と評価される。 経済面は1960年代前半まで世界最貧国グループにあったため朝鮮戦争で荒廃した韓国は、当時1人あたりの国民所得が日本の5分の1に満たず世界の最貧国に数えられていた。一方、北朝鮮は経済の5カ年計画(*)に成功し、1人あたりの国民所得が韓国の2倍を超えていた。NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 -世界の中で- 第1回「信頼回復への道」2015年6月19日放送。(*)北朝鮮はソ連型の計画経済を導入した。当時の韓国の一人あたりの国民所得は、日本の五分の一に満たない82ドルで、朝鮮戦争の荒廃から立ち直っておらず、世界の最貧国のひとつだった。NHK さかのぼり日本史「戦後“経済外交”の軌跡」第三回 経済援助 積み残された課題 2012年4月17日放送、キャスター 石澤典夫、解説 学習院大学教授 井上寿一。、独自に資金や技術を調達できなかった岩田勝雄,, 立命館大学コラム「あすへの話題」2006年7月(第44回).

新しい!!: 文禄・慶長の役と大韓民国 · 続きを見る »

大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大谷吉継 · 続きを見る »

大邱広域市

大邱広域市(テグこういきし、たいきゅうこういきし、대구광역시、Daegu)は、大韓民国南部の都市である。人口は約250万人で、ソウル、釜山、仁川に次いで韓国で4番目であるが、仁川はソウルのベッドタウンとしての性格も強いため、実質的には韓国第3の都市である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大邱広域市 · 続きを見る »

大村喜前

大村 喜前(おおむら よしあき、永禄12年(1569年) - 元和2年8月8日(1616年9月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国大村藩初代藩主。大村純忠の長男。母は西郷純久の娘。正室は有馬義純の娘。子に大村純頼。官位は従五位下丹後守。嘉前とも表記される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大村喜前 · 続きを見る »

大槻磐渓

大槻 磐渓(おおつき ばんけい、享和元年5月15日(1801年6月25日) - 明治11年(1878年)6月13日)、名は清崇、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した漢学者。文章家としても名高い。 仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。 父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で『言海』編者)がいる。親戚に養賢堂の学頭、大槻平泉がいる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大槻磐渓 · 続きを見る »

大清皇帝功徳碑

大清皇帝功徳碑(だいしんこうていこうとくひ、ᡩᠠᡞᠴᡞᠩᡤᡠᠷᡠᠨ ᡳᡝᠨᡩᡠᠷᡞᠩᡤᡝᡥᠠᠨ ᡳᡤᡠᠩᡝᠷᡩᡝᠮᡠᡞᠪᡝᠢ 転写:daicing gurun-i enduringge han-i gung erdemui bei、大清国之聖汗之功徳之碑)は、大韓民国のソウル特別市松坡区三田渡に建立された石碑であり、建立地の名を取った三田渡碑(さんでんとひ、サムジョンドビ、삼전도비、Samjeondo-bi、Samjeondo Monument)とも呼ばれる。韓国では後述の経緯から「恥辱碑」とも言われる。大韓民国指定史跡第101号である。地下鉄の最寄り駅は蚕室駅である。 碑の満州語以外の名称は以下である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大清皇帝功徳碑 · 続きを見る »

大政所

大政所(おおまんどころ)は、本来「大北政所」の略で、摂政・関白職にある者の母親に対して天皇の宣旨によって贈られる尊称であるが、一般的には特に太閤・豊臣秀吉の生母をさす。 この人物は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、名は仲(なか、永正13年(1516年) -天正20年7月22日(1592年8月29日))と伝えられる。法名は春岩(春巌)。院号は天瑞院。官位は二位尼君、従一位。秀吉、秀長、瑞龍院日秀、朝日姫の生母である。彼女について正しくは天瑞院春岩と呼ぶべきであるが、現在ではこの大政所の称で呼ばれることが主である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と大政所 · 続きを見る »

天安市

天安市(チョナンし)は大韓民国忠清南道の市。韓国の独立運動家・柳寛順の故郷で、郊外には独立記念館がある。2005年に広域電鉄が開業してソウルのベッドタウンになりつつある。忠清南道で唯一の特定市。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と天安市 · 続きを見る »

天下人

天下人(てんかびと / てんかにん)とは、天下の政権を掌握した人のことをいう。主に戦国時代から江戸時代初期にかけて、琉球(沖縄県)と蝦夷地(北海道)の大半を除く日本全土を自らの支配下に置き、日本全土を統一した者を指す。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と天下人 · 続きを見る »

天下統一

天下統一(てんかとういつ/てんがとういつ)は統治すべき地域を一人の権力者の下で統治すること。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と天下統一 · 続きを見る »

天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と天保 · 続きを見る »

天竺

天竺(てんじく)とは、インドの旧名。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と天竺 · 続きを見る »

天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と天正 · 続きを見る »

天正遣欧少年使節

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と天正遣欧少年使節 · 続きを見る »

太宗 (朝鮮王)

太宗(テジョン、たいそう、1367年6月13日 - 1422年5月30日)は、李氏朝鮮の第3代国王(在位:1400年 - 1418年)。 初代国王李成桂の五男。本名を李芳遠(イ・バンウォン、り・ほうえん)という。即位前は靖安君、靖安公。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と太宗 (朝鮮王) · 続きを見る »

太田一吉

太田 一吉(おおた かずよし、? - 元和3年(1617年))は、安土桃山時代の武将(大名)。豊臣氏の家臣。別名に政信・宗隆・政之・重之・重正などがある。父は太田宗清。子は太田一成。飛騨守。小源五。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と太田一吉 · 続きを見る »

太田牛一

太田 牛一(おおた ぎゅういち / うしかず / ごいち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、官僚。『信長公記』などの軍記と伝記の著者。官位は和泉守。通称は又助(又介)あるいは和泉を用いた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と太田牛一 · 続きを見る »

太閤

太閤(たいこう)、正式名称太閤下は、摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指す。敬称は「殿下」であり、呼びかけの場合は「太閤殿下」となる。 また出家した太閤のことを禅定太閤(ぜんじょう たいこう)、略して禅閤(ぜんこう)という。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と太閤 · 続きを見る »

太閤記

『太閤記』(たいこうき)は、広義には太閤・豊臣秀吉の生涯を綴った伝記の総称。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と太閤記 · 続きを見る »

太閤検地

太閤検地(たいこうけんち)は、羽柴秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と太閤検地 · 続きを見る »

奥山盛昭

奥山 盛昭(おくやま もりあき、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。佐久間盛重(大学允)の子。佐久間氏の一族だが、先祖のゆかりの地である越後国奥山荘(現新潟県胎内市)の地名を取って奥山姓を名乗った。別名に重定(しげさだ)とも。佐渡守。子に重成、正之。 丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585年)に丹羽長重の国替えの際に豊臣秀吉直属に召し出され越前国内に1万1000石を与えられた。 その後、秀吉に従って九州征伐や小田原征伐に従軍した。 小田原征伐の後、北条氏に仕えていた同族の佐久間安政・勝之兄弟が野に潜伏していたが、盛昭は秀吉の命によって兄弟を仕官させる説得にあたった。これは盛昭の姉(または妹)が兄弟の長兄佐久間盛政の妻であり、また父盛重が兄弟の父盛次の従兄であった縁による。 文禄の役の参加後に、死去した。遺領は正之が継いだ。正之の兄の重成は江戸幕府政権下で幕府旗本となった。 もりあき Category:織豊政権の大名 Category:戦国武将 Category:生没年不詳.

新しい!!: 文禄・慶長の役と奥山盛昭 · 続きを見る »

奥州仕置

奥州仕置(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と奥州仕置 · 続きを見る »

女真

女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と女真 · 続きを見る »

奴婢

奴婢(ぬひ)は、中国と日本においては、律令制における身分階級の一つであり、良民(自由民)と賤民(非自由民)があるなかの後者の一つで、奴隷階級に相当する。奴(ぬ/やつこ)は男性の奴隷、婢(ひ/みやつこ)は女性の奴隷を意味する。朝鮮においては、起源と発展がやや異なるが、高麗時代に完成した。 奴婢は、一般的に職業の選択の自由、家族を持つ自由、居住の自由などが制限されているが、一定の年齢に達するなど、特定の条件を満たせば解放されることもあった。基本的には家畜と同じ扱いであり、市場などで取引されていた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と奴婢 · 続きを見る »

奴隷

鞭打ちによる傷跡のある黒人奴隷(米国1863年) 奴隷(どれい)とは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。 1948年に国連で採択された世界人権宣言では、次のような宣言がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と奴隷 · 続きを見る »

好太王碑

好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われ、付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)とも言われる。 4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と好太王碑 · 続きを見る »

奇皇后

奇皇后(きこうごう、1315年頃 - 1369年もしくは1370年以降)は、14世紀の元朝最後の皇帝である順帝トゴン・テムルの皇后。モンゴル名を表した漢字表記は完者忽都(Ölǰei Qutuq、オルジェイ・クトゥク)皇后。諡号は普顕淑聖皇后。高麗出身で、北元皇帝アユルシリダラを生んだ。本貫は幸州奇氏。 モンゴル帝国の高麗征服以後、高麗王室は忠烈王が世子時代にモンゴル皇帝クビライの下で近衛集団であるケシクに入侍し、さらに高麗国王として退下・即位するとその公主の降嫁を受けることが習わしとなった。以後、高麗王室は元朝の皇帝家であるクビライ家を宗主とする「高麗駙馬王家」の称号を許され、元朝を支える姻族のひとつとなった。これに伴いモンゴル皇帝や皇族の公主が歴代の高麗王に降嫁していた高麗王は、元の征東行省の長官かつ元帝の女婿、という独自の国際的地位を確保した。高麗王家とモンゴル皇帝家との姻戚関係を結ぶことで、それまでの武臣政権時代のような、有力家臣集団から高麗王家への政治的干渉を解除することにひとまず成功した。 こうして高麗王国内から、ケシク要員や官吏等として元朝宮廷に出仕する王族や貴族が増加した。同時に元朝中央での動乱が高麗王室に直接影響を及ぼすようになり、忠宣王、忠粛王、忠恵王のように元朝宮廷での争乱の影響で後援する皇族の消長に伴って王位が改廃される事態が続くようになった。このような13世紀後半から14世紀前半にかけての元朝宮廷・高麗政権間の人的・政治的関係の中で出現したのが、奇皇后、「完者忽都皇后奇氏」という高麗人元室皇后である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と奇皇后 · 続きを見る »

妙満寺

妙満寺(みょうまんじ)は、京都市左京区岩倉幡枝町にある顕本法華宗の総本山。山号は妙塔山。塔頭が四院ある(正行院、法光院、成就院、大慈院)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と妙満寺 · 続きを見る »

姜コウ

姜沆(きょうこう、강항(カン・ハン)、Gang Hang、1567年5月17日 - 1618年5月6日)は、朝鮮李氏王朝時代中期の官人。字は太初(テチョ、태초)。号は睡隠(スウン、수은)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と姜コウ · 続きを見る »

定遠君

定遠君(ていえんくん、チョンウォングン、정원군、万暦8年6月22日(1580年8月2日) - 万暦47年12月29日(1620年2月2日))は、李氏朝鮮の王族。第14代王宣祖の王子で母は側室 仁嬪金氏。第15代王 光海君の異母弟。第16代王仁祖の父。諱は琈(プ、부)。諡は恭良敬徳仁憲靖穆章孝大王。明からの諡号は恭良であり、明から諡号を受けた最後の人物である。廟号は元宗(げんしゅう、ウォンジョン、원종)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と定遠君 · 続きを見る »

宍戸隆家

宍戸 隆家(ししど たかいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国高田郡甲立(現在の広島県安芸高田市甲田町甲立)の五龍城を本拠とする国人領主・宍戸氏の当主。後に毛利氏の家臣となり、毛利元就の娘(五龍局)を妻として一門衆となった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宍戸隆家 · 続きを見る »

客家

客家(ハッカ)とは、客家語を共有する漢民族の一支流と規定され、中国の少数民族の扱いは受けていない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と客家 · 続きを見る »

宣祖

宣祖(ソンジョ、せんそ、嘉靖31年11月11日(1552年12月26日) - 万暦36年2月1日(1608年3月17日))は、李氏朝鮮時代の第14代国王。諱は昖(ヨン、연)、初名は鈞(ギュン、균)。即位前は河城君(ハソングン、ほうじょうくん)。父は第11代国王・中宗 恭僖王と昌嬪安氏の三番目の息子・徳興大院君李岹であり、中宗の孫、第12代王仁宗と第13代王明宗の甥にあたる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宣祖 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と室町時代 · 続きを見る »

宮城豊盛

宮城 豊盛(みやぎ とよもり、天文23年(1554年) - 元和6年(1620年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。本姓は大江氏。宮木とも。通称、長次郎または長次。官位は従五位下丹波守。法名は宗広。使用家紋は蝶紋の「揚羽蝶」が『寛政重修諸家譜』に載る。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宮城豊盛 · 続きを見る »

宮部継潤

宮部 継潤(みやべ けいじゅん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名、豊臣秀吉の側近。豊臣政権の五奉行の一人。 初代豊岡城主、鳥取城主。 秀吉による九州征伐において、島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、「日本無双」の感謝状を与えられた。 「豊後国にて防備を固めよ」という秀吉の命令を順守せず、独断で会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宮部継潤 · 続きを見る »

宮部長房

宮部 長房(みやべ ながふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名、鳥取城城主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宮部長房 · 続きを見る »

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と守護 · 続きを見る »

守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と守護大名 · 続きを見る »

官僚制

本記事では官僚制(かんりょうせい、bureaucracy)について解説する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と官僚制 · 続きを見る »

宗義調

宗 義調(そう よししげ)は、対馬国の守護大名・戦国大名。宗氏の第17代当主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宗義調 · 続きを見る »

宗義智

宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。対馬領主宗氏の20代当主。対馬府中藩の初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宗義智 · 続きを見る »

宗貞盛

宗 貞盛(そう さだもり、1385年(元中2年/至徳2年)?-1452年7月9日(享徳元年6月22日))は、室町時代前・中期の武将。対馬の守護大名で、宗氏の第9代当主。第8代当主・宗貞茂の子。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宗貞盛 · 続きを見る »

宗氏

宗氏(そうし、むねし)は、日本の氏族のひとつ。中世から近世にかけて対馬国を支配した守護・戦国大名・近世大名の氏族。秦氏の末裔惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宗氏 · 続きを見る »

宇喜多秀家

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宇喜多秀家 · 続きを見る »

宇都宮国綱

宇都宮 国綱(うつのみや くにつな)は下野国の戦国大名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宇都宮国綱 · 続きを見る »

安城市 (京畿道)

安城市(アンソンし)は大韓民国京畿道の南部にある市である。 近世(朝鮮王朝時代)には鍮器の製造をはじめとする商工業で栄えた。朝鮮語で「おあつらえ向き」を意味する慣用句「안성맞춤(アンソンマッチュム)」は、この町の鍮器生産に由来すると説明される(#アンソンマッチュム)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と安城市 (京畿道) · 続きを見る »

安堵

安堵(あんど)とは、古代末期から近世にかけて日本の土地私有制度において、主君(もしくは支配者)が家臣(もしくは被支配者)に対して所領知行(土地権利)や所職の存在・継続・移転などを保証・承認する行為を指す。 「堵」は垣・囲い、それらに囲まれた居所などと同じ意味があり、安堵とは本来は「堵 の中に安 んずる」という意味を持つ。転じて、他者から侵害行為から人身や土地・金銭などの財産の安全が守られている状態や侵害行為などに対する精神的な不安が無く心を安んずる状態(すなわち「安心」)を指すようになり、土地法制が大きく変わった近代以後には後者の意味でのみ用いられて、現在ではもっぱら「安堵」=「安心」の意味で用いられている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と安堵 · 続きを見る »

安宅船

安宅船(あたけぶね)は、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船の種別である。 巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができた。室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の関船と関船をさらに軽快にした小早があり、安宅船がその中核を成した。 近代艦種でいえば、安宅船が戦艦に相当し、関船が巡洋艦、小早は駆逐艦に喩えられるともされるが、安宅船・関船・小早の用途としての分担は、戦艦・巡洋艦・駆逐艦のそれとは異なるため、あくまで船体の大きさによる連想であり、比喩としては適切ではない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と安宅船 · 続きを見る »

安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と安土桃山時代 · 続きを見る »

安国寺恵瓊

安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる“安国寺恵瓊”の名は、住持した寺の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。 毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説だが、異説もある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と安国寺恵瓊 · 続きを見る »

安養寺

安養寺(あんようじ) 日本各地にある寺院、または地名。姓でもある(安養寺氏種など)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と安養寺 · 続きを見る »

安辺郡

安辺郡(アンビョンぐん)は朝鮮民主主義人民共和国江原道に属する郡である。日本海に面しており、ミサイル発射基地となった旗対嶺がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と安辺郡 · 続きを見る »

宋象賢

宋 象賢(そう しょうけん、1551年(明宗6年) - 1592年(宣祖25年))は、李氏朝鮮の官僚。字は徳求、号は泉谷、諡号は忠烈公。本貫は礪山。 宋復興の子。1576年(宣祖9年)文科に及第。司宰監正・軍資監正などを歴任した。1591年(宣祖24年)、慶尚道東莱府使となる。 1592年(宣祖25年/日本:文禄元年)4月、文禄の役(壬辰倭乱)が勃発すると、他の将軍や官僚が逃亡する中で東莱城にとどまり抗戦を指揮した。小西行長らの「戦則戦矣不戦則仮我道」(対抗したければ対抗しろ、 それとも道を退くか)という降伏勧告に対して「戦死易仮道難」(戦死するは易し、道を仮すは難し)と返書して拒否し、戦死した(東莱城の戦い)。 落城後、旧交のあった宗義智の家臣柳川調信は宋象賢を悼む碑を建てて弔った。 1595年に棺は忠清北道清州市に移され、現在もこの地に墓所がある。1605年、鄭撥(釜山鎮城守将)らとともに東莱の忠烈祠に祀られた。 釜山広域市の市庁舎近くには、彼の銅像が建てられ、顕彰されている。 Category:李氏朝鮮の文臣 Category:文禄・慶長の役の人物 Category:戦死した人物 Category:礪山宋氏 Category:1551年生 Category:1592年没.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宋象賢 · 続きを見る »

宋明理学

宋明理学(そうみんりがく)は、またの名を道学という。中国の宋代・明代の儒学を代表するテーマが理であったことから、理学(りがく)と名付けられた。清代の儒学者たちからは宋学(そうがく)と呼ばれた。欧米からは、英語のに代表されるように、「新儒学」と呼ばれる(現代の新儒家(現代新儒学)とは区別される)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宋明理学 · 続きを見る »

宋書

『宋書』(そうしょ)は、中国南朝の宋について書かれた歴史書。宋・斉・梁に仕えた沈約(441年 - 513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂した。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。二十四史の一つ。 宋代のうちに何承天、山謙之、蘇宝生、徐爰らが『宋書』を書いており、沈約はそれらを元に作業することができた。本紀・列伝は1年ほどで完成したが、志の完成には10年の歳月がかかり、完成は梁代に入ってからになる。宋が滅亡(479年)して間もない、まだ多くの関係者が存命の時代に編纂されたために同時代資料を多く収録しており、資料的価値は高い。 北宋の時代には欠落が多くなっていたため、『南史』や高氏(高峻)『小史』などの書を使って補ったという。 日本については「夷蛮伝」(いばんでん)の記述の中に、倭の五王と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが記されており、この時代の日本の貴重な資料となっている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と宋書 · 続きを見る »

寧夏回族自治区

寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)は、中華人民共和国西北部に位置する自治区である。ニンシヤホイ族自治区とも呼ばれる。首府は銀川市。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と寧夏回族自治区 · 続きを見る »

寧越郡

寧越郡(ヨンウォルぐん)は、大韓民国江原道にある郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と寧越郡 · 続きを見る »

寧辺郡

寧辺郡(ニョンビョンぐん)は朝鮮民主主義人民共和国平安北道の東南部にある郡。核開発施設が集中することで知られている(寧辺核施設)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と寧辺郡 · 続きを見る »

寧波の乱

寧波の乱(にんぽーのらん・ねいはのらん)とは、1523年(明では嘉靖2年、日本では室町時代の大永3年)に、明の寧波で起きた事件。寧波争貢事件、明州の乱、宗設の乱とも。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と寧波の乱 · 続きを見る »

寧波市

寧波市(ねいはし、ニンポーし、、、、呉語寧波弁:Ning Pou)は、中華人民共和国浙江省に位置する副省級市、計画単列市に指定されている。長江デルタ南翼経済中心、浙江省経済中心。 沿海部の港湾都市として商工業が発達しているが、同時に古い歴史を誇り国務院から国家歴史文化名城に指定されている。年間貨物取扱量が世界一の港ー寧波港の所在地。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と寧波市 · 続きを見る »

寺内正毅

寺内 正毅(てらうち まさたけ読みは「まさたけ」が一般的だが、「まさたか」(「陸海軍将官人事総覧 陸軍篇」)、「まさかた」(「歴代陸軍大将全覧(明治編)」)など異なる読み方がある。、、嘉永5年2月5日(1852年2月24日) - 大正8年(1919年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。 陸軍大臣(第15・16・17代)、外務大臣(第22・31代)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第22代)などを歴任した。 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。その後、曾禰荒助の後任として韓国統監に就任し、日本への併合を推し進めた。韓国併合後は朝鮮総督に就任した。のちに内地に帰還すると、寺内内閣を発足させ、内閣総理大臣を務めるとともに、外務大臣や大蔵大臣といった国務大臣を兼任した。なお、元帥府に列せられていることから、階級を呼称する際には元帥の称号を冠して「元帥陸軍大将」と称される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と寺内正毅 · 続きを見る »

寺西直次

寺西 直次(てらにし なおつぐ、弘治3年(1557年) - 慶安2年(1649年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。定時、信乗とも。通称、勝兵衛。従五位下、備中守。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と寺西直次 · 続きを見る »

寺沢広高

寺沢 広高(てらざわ ひろたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。肥前唐津藩の初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と寺沢広高 · 続きを見る »

対馬

対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である国立天文台編『平成19年 理科年表』p.565 ISBN 4621077635。島内人口は3万1105人である(2018年4月現在)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と対馬 · 続きを見る »

対馬府中藩

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称される事が多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と対馬府中藩 · 続きを見る »

富田一白

富田 一白(とみた いっぱく / かずのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。伊勢安濃津城主。豊臣秀吉の側近で、奉行衆の1人。 諱は複数伝わり、知信(とものぶ)、信広(のぶひろ)、長家(ながいえ)ともいう。通説では一白は号であるが、諱とする説もあり、隠居後は水西と号した。また官途から富田左近の通称でも知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と富田一白 · 続きを見る »

密陽市

密陽市(ミリャンし)は、大韓民国慶尚南道の東部にある市で北部を慶尚北道と接している。密陽アリランの発祥地。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と密陽市 · 続きを見る »

尚州の戦い

尚州の戦い(しょうしゅうのたたかい、朝鮮語読み:尚州はサンジュ)は、文禄元年(1592年)4月24日(旧暦)、尚州市の近くで戦われた文禄・慶長の役初期の戦闘の一つである。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と尚州の戦い · 続きを見る »

尚州市

尚州市 (サンジュし、しょうしゅうし)は大韓民国慶尚北道西部内陸地帯に位置する市。統一新羅時代には全国九州のひとつであり、李氏朝鮮中期までは慶尚道(嶺南)の政治的中心地であった。慶尚は慶州と尚州を意味する。1592年の日本軍侵入(文禄の役)以後その地位を失った。市の都市ブランドは「Just Sangju」で、JUSTはJustice Unlimited Success Togetherの略である。産業は農業が中心で、特に干し柿の生産量は韓国一である。 スポーツでは2011年より光州広域市から移転したサッカーKリーグ所属の「尚州尚武フェニックスFC(旧:光州尚武)」がホームタウンとしている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と尚州市 · 続きを見る »

小中華思想

小中華思想(しょうちゅうかしそう)とは朝鮮で唱えられた中華思想(華夷思想)の一変種であり中華文明圏の中にあって、漢族とは異なる政治体制と言語を維持した民族と国家の間で広まった思想。自らを「中国王朝(大中華)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなすもの(小中華)」と見なそうとする文化的優越主義思想である。この「文化」とは儒教文化のことであり、中華文明への同化の程度によって文化の高低が判断されるものであった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小中華思想 · 続きを見る »

小出吉政

小出 吉政(こいで よしまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。但馬出石藩主のち和泉岸和田藩2代藩主。出石藩小出家2代。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小出吉政 · 続きを見る »

小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小田原征伐 · 続きを見る »

小瀬甫庵

小瀬 甫庵(おぜ ほあん、1564年(永禄7年) - 1640年10月6日(寛永17年8月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての儒学者、医師、軍学者。『太閤記』『信長記』の著者として知られる。名は道喜(どうき / みちよし)、通称は又次郎、長太夫。甫庵は号である。甫菴、甫安とも。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小瀬甫庵 · 続きを見る »

小西主殿介

小西 主殿介(こにし とのものすけ、生年不詳(一説には永禄9年(1566年)) - 文禄2年1月8日(1593年2月9日))は、安土桃山時代の武将。戦国大名小西氏の一族で、弟・小西行長の家臣。実名は不詳ながら「長統(ながむね)」とする説あり。父は小西隆佐。母は不詳。官途が主殿介(主殿は「とのも」と読む。)で実名不詳のため「主殿介」と呼ばれているが、主殿助との表記もある。洗礼名はペトロ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小西主殿介 · 続きを見る »

小西行長

小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小西行長 · 続きを見る »

小鴨元清

小鴨 元清(おがも もときよ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。伯耆国久米郡岩倉城主。一部で羽衣石城主とする記述が見られるが誤りである。  .

新しい!!: 文禄・慶長の役と小鴨元清 · 続きを見る »

小野木重勝

小野木 重勝(おのぎ しげかつ)は、安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣。丹波国福知山城主。別名に公郷、重次など。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小野木重勝 · 続きを見る »

小松緑

小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月26日)- 昭和17年(1942年)1月16日)は明治・大正期の外交官で退官後は著述家として活躍した(コトバンク)。号は霞南。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小松緑 · 続きを見る »

小浜町 (福井県)

小浜町(おばまちょう)は福井県遠敷郡にあった町。現在の小浜市中心部にあたる。現在の小浜市とは別の自治体である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小浜町 (福井県) · 続きを見る »

小早

小早(こはや)は、中世(戦国時代)から近世(江戸時代)にかけて使われた日本の軍用船の種類のひとつで、大型の安宅船と中型の関船とで三分される内で最も小型の軍船を指す。名称の“小早”は、“小型の早船(関船)”という意味である。小早船(こばやぶね)の略ともされる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小早 · 続きを見る »

小早川秀秋

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小早川秀秋 · 続きを見る »

小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。 毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の主導者であった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と小早川隆景 · 続きを見る »

少弐氏

少弐氏(しょうにし)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と少弐氏 · 続きを見る »

射石砲

射石砲(しゃせきほう)は、ボンバードとも呼ばれ、中世に用いられた最も初期の大砲の一種。その名のとおり石を打ち出すもので、多く、攻城戦で用いられた。 一般に臼砲とされる場合が多いが、カノン砲のようなものもある。最も初期の射石砲は火薬も性能が悪く、威力も相当低く城壁はおろか簡単な壁すら破壊することは困難な代物であった。火薬の性能が上がるまでは射石砲の研究はできるだけ大きい石を飛ばすことに限られた。そのため戦場への運搬が困難など汎用性の低いものであったが、火薬の研究が進み性能が飛躍的にあがると次第に射石砲は小型化が進み、威力もかなり上昇し、さらには鋼鉄の弾を使用する型も現れるようになった。 代表的な射石砲にはモンス・メグがある。これはベルギーで1449年に作られたもので、 186kg の石を発射することができた。実戦では1455年のスリーヴ城攻城戦で用いられた。モンス・メグの大半は破壊されたが、一部はエディンバラ城で展示されている。現在でもイタリア語では榴弾砲を射石砲と同様に bombarda と呼ぶ。 Category:大砲 Category:攻城兵器.

新しい!!: 文禄・慶長の役と射石砲 · 続きを見る »

将官

将官(しょうかん)は、軍隊の階級区分の一。佐官の上に位置する。その区分は複雑で、国により軍種により多岐に亘るが、2階級制を採るものから4階級制を採るものなどがある。陸軍や空軍では将軍、海軍では提督と総称される。一般的には、階級としての元帥は、将官には含まないことが多い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と将官 · 続きを見る »

山口啓二

山口 啓二(やまぐち けいじ、1920年 -2013年7月7日)は、日本の歴史学者。日本近世史が専門。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と山口啓二 · 続きを見る »

山崎定勝

山崎 定勝(やまざき さだかつ、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将・大名。山崎家盛の長男といわれているが、年齢的に無理があり弟とするほうが自然である。右京進。豊臣秀吉の馬廻衆。伊勢国竹原領主。 文禄3年(1594年)、伏見城の普請を担った功により、伊勢国竹原で1万石を与えられた。関ヶ原の戦いでは軍勢400名で西軍に属し、慶長5年(1600年)7月大坂福島口を守備、8月には毛利秀元、長束正家らとともに安濃津城攻めに参加し勝利をおさめ、城を占領するが、本戦において敗れ、改易された。のちに豊臣秀頼に仕えた。大坂の役に散見しないのでそれ以前に没したと思われる。 やまさきさたかつ さたかつ.

新しい!!: 文禄・慶長の役と山崎定勝 · 続きを見る »

山崎家盛

山崎 家盛(やまざき いえもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。因幡国若桜藩初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と山崎家盛 · 続きを見る »

山中長俊

山中 長俊(やまなか ながとし、天文16年(1547年) - 慶長12年2月24日(1607年3月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。山中為俊の子。官位は従五位下山城守。山中橘内(やまなか きちない)を名乗り、通称:山きち。橘内は吉内とも書く。子は山中信俊、山中友俊(俊友)、山中盛俊。近江六人衆の一人。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と山中長俊 · 続きを見る »

山鹿素行

赤穂城二の丸門跡そばにある素行の胸像 山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。諱は高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。字は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行と号した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と山鹿素行 · 続きを見る »

山陰道

山陰道(さんいんどう、せんいんどう、そとものみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の西部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と山陰道 · 続きを見る »

山陽道

山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。 街道においては江戸時代を中心に、.

新しい!!: 文禄・慶長の役と山陽道 · 続きを見る »

岡本良勝

岡本 良勝(おかもと よしかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。通称は平吉郎、太郎右衛門尉、下野守。諱は重政(しげまさ)や宗憲(むねのり)ともされるが、「良勝」が正しいとされる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と岡本良勝 · 続きを見る »

岩沢愿彦

岩沢 愿彦(いわさわ よしひこ、1921年 - )は、日本の歴史学者、東京大学史料編纂所名誉教授。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と岩沢愿彦 · 続きを見る »

岸本美緒

岸本 美緒(きしもと みお、1952年4月 - )は、日本の歴史学者。専門は中国史(明清社会経済史)、お茶の水女子大学教授。日本学術会議会員。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と岸本美緒 · 続きを見る »

島井宗室

島井(嶋井) 宗室(しまい そうしつ、天文8年(1539年)- 元和元年8月24日(1615年10月16日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての博多商人、茶人。「宗叱」(読み同じ)とも表記される。名は茂勝。号は虚白軒。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれる。 「武士とキリシタンには絶対になるな」などの遺訓一七ヵ条が有名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と島井宗室 · 続きを見る »

島津久保

島津 久保(しまづ ひさやす)は、安土桃山時代の武将。島津義弘の次男。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と島津久保 · 続きを見る »

島津忠辰

島津 忠辰(しまづ ただとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・薩州家7代(最後の)当主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と島津忠辰 · 続きを見る »

島津綱久

島津 綱久(しまづ つなひさ)は、薩摩藩の世嗣。 正室は伊予松山藩第2代藩主・松平定頼の娘(眞修院殿)。側室は記録に残っていない。子に綱貴(長男、第3代藩主)、久季(三男、加治木島津家へ養子)、娘(酒井忠隆正室)、娘(鳥居忠英正室)ら。  .

新しい!!: 文禄・慶長の役と島津綱久 · 続きを見る »

島津義久

島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。 島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。 義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と島津義久 · 続きを見る »

島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎と号したため、との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。朝鮮出兵では鬼島津と言われた.

新しい!!: 文禄・慶長の役と島津義弘 · 続きを見る »

島津豊久

島津 豊久(しまづ とよひさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。名は初めは島津 忠豊で、後に改名した庄内の乱の顛末を記した『庄内軍記』までは「忠豊」の名で書かれている。。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と島津豊久 · 続きを見る »

崔湖

崔 湖(さい こ、1536年 - 1597年)は李氏朝鮮宣祖時代の武官。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と崔湖 · 続きを見る »

川口長孺

川口 長孺(かわぐち ちょうじゅ、安永2年(1773年) - 天保6年6月10日(1835年7月5日))は、水戸藩の歴史家・医学者。彰考館総裁。字は嬰卿、通称は三省、助九郎。号は緑野。 家業を継いで医者となった後、寛政5年(1793年)に立原翠軒の推薦により彰考館に入り、水戸藩主徳川治保の侍講も務める。文化12年(1815年)より彰考館総裁を務める。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と川口長孺 · 続きを見る »

川上忠実

川上 忠実(かわかみ ただざね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。佐土原藩士。薩摩国島津氏の陪臣。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と川上忠実 · 続きを見る »

川勝秀氏

川勝 秀氏(かわかつ ひでうじ)は、安土桃山時代の武将、後に江戸時代前期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の初代当主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と川勝秀氏 · 続きを見る »

巡察使

巡察使(じゅんさつし)は、中国では唐代に置かれた官名。日本では古代及び明治維新直後に置かれた地方監察官。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と巡察使 · 続きを見る »

巡撫

巡撫(じゅんぶ)は、中国の明代及び清代に存在した官職名。 明の洪武年間(1368年 - 1398年)から永楽年間(1403年 - 1424年)にかけては中央から地方に派遣される臨時官であったが、宣徳年間(1426年 - 1435年)から常設され、明代末期には1省あるいはその一部を管轄する地方官として20人を超えた。都御史を兼ね、しばしば軍事も兼務し、布政使・按察使・都指揮使の上位として、地方を管轄した。 清代には明の制度を踏襲して巡撫(giyarime dasara amban)は省(golo)の長官とされ、総督(uheri kadalara amban)とほぼ同格として皇帝に直属した(総督は複数の省を管轄するが巡撫は総督同様皇帝直属であった)。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と巡撫 · 続きを見る »

左右

この写真の場合、1, 2, 3, 4, 5がある方向が右、7, 8, 9, 10, 11がある方向が左となり、6と12は左右の区別の内に含まれない。 左右(さゆう、ひだりみぎ)とは、六方位(六方)の名称の一つで、横・幅を指す方位の総称。絶対的な方向ではなく、おのおのの観測者にとって、上(同時に下)と前(同時に後)の方向が定まった時に、そしてその時初めて、その観測者にとっての左と右の方向が決まる。前後、上下とは直角に交差し、左と右は互いに正反対である。 アナログ時計に向かって、7 から 11 までの文字盤がある方向を左(ひだり)、1 から 5 までの文字盤がある方向を右(みぎ)という。あるいは南を下、北を上とした時、東の方向が右、西の方向が左となる。 左右の概念は、また鏡像関係にある二つの存在を区別するためにも援用される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と左右 · 続きを見る »

巨済島

巨済島(きょさいとう、コジェド)は大韓民国の慶尚南道巨済市に属し、同市の大部分を占める島。釜山広域市の南西に位置する。面積は約 400 km2 で、韓国では済州島に次いで2番目に大きな島である。巨済島と日本の対馬との間は朝鮮海峡(対馬海峡西水道)が最も狭隘になる場所で、日本との関係も深い。 主な産業は造船と漁業。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と巨済島 · 続きを見る »

差別

差別(さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為である。それが優遇か冷遇かは立場によって異なるが、通常は冷遇、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為に注目する。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と差別 · 続きを見る »

上田重安

上田 重安(うえだ しげやす)、または上田 宗箇(うえだ そうこ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・茶人・造園家。通称は佐太郎、剃髪後に宗箇と名乗る。茶道の上田宗箇流の流祖で、茶人・造園家として現在も残る業績を残した。また武将としても数々の戦で一番槍の功を立てた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と上田重安 · 続きを見る »

上杉景勝

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と上杉景勝 · 続きを見る »

丁卯胡乱

丁卯胡乱(ていぼうこらん)は、1627年に後金のホンタイジ(太宗)が李氏朝鮮に侵攻した戦役の朝鮮での呼び名である。また、この戦いに続いて1636年には丙子胡乱が起こっている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と丁卯胡乱 · 続きを見る »

丁巳約条

丁巳約条(ていしやくじょう)とは、1557年(明宗10年/弘治3年)に朝鮮王朝と対馬の宗氏の間で合意された来航者取締規則のこと。明治の日本の朝鮮進出後には弘治条約との言い換えがなされた。 三浦の乱後の1512年に結ばれた壬申約条(永正条約)で宗氏に対して貿易再開と引換に過酷な要求を認めさせた朝鮮王朝であったが、1544年に発生した蛇梁倭変によって、日本と朝鮮王朝との通交は再度断絶、1547年には更に過酷な丁未約条(天文条約)が結ばれた。 1555年に発生した達梁倭変により全羅道を中心とした沿岸部で大打撃を受けた朝鮮王朝側は、宗氏に対して倭寇の禁圧に強く要望し、一方貿易再開を目指す宗氏も倭寇の討伐を行って貿易再開と壬申約条・丁未約条からの条件緩和を求めていた。1556年に日本国王使を派遣して行なった交渉によって、翌年の4月に丁巳約条が締結され、倭寇の取締と引換に宗氏の歳遣船を年25隻から30隻に増やされた。 以後、豊臣秀吉の朝鮮出兵までこの約条が朝鮮王朝と対馬との関係を規定することになる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と丁巳約条 · 続きを見る »

丁未約条

丁未約条(ていびやくじょう)とは、1547年に朝鮮王朝と対馬の宗氏の間で結ばれた来航者取締規則のこと。 1544年に発生した蛇梁倭変により、1512年に宗氏と朝鮮王朝の間で締結された壬申約条は破棄され、日本国王使(室町幕府使節)および大内氏・少弐氏の使節を除き、日本からの通交(外交を兼ねた貿易)は禁じられた。日朝貿易を経済的基盤としていた宗氏は事態の打開を図り、1547年に偽日本国王使を派遣した結果、締結されたのが丁未約条である。 三浦の乱の講和条約である壬申約条では、島主歳遣船(対馬から通交のため毎年派遣される貿易船)を50隻から25隻に削減、多くの深処倭(対馬以外の日本人のこと)名義の歳遣船の停止等、宗氏に通交の抑制を強いるものであった。その後の度重なる交渉により、島主歳遣船は30隻にまで回復していたが、丁未約条では再び25隻に削減される。またそれ以外に、50年以前の受図書人(朝鮮王朝により通交許可を受けた者)・受職人(朝鮮王朝より官位を受けた者)の通交権の停止、入港場を釜山浦・薺浦(慶尚南道昌原市)の二港から釜山浦一港に削減、加徳島以西に来泊する者は倭寇とみなす等、壬申約条よりもさらに通交の抑制を進める厳しい内容となっていた。 丁未約条締結後、宗氏は通交抑制の緩和を求める交渉を繰り返し、1557年に丁巳約条が締結されることとなる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と丁未約条 · 続きを見る »

両班

両班(りょうはん、양반〈ヤンバン・韓国〉、량반〈リャンバン・北朝鮮〉)は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。 李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。 王族の次の身分として享受することは享受し、納税・他国の士族が負うような軍役の義務さえなかったため、「朝鮮の官人はみんなが盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」と兵役免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役免除、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利や家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪していた。30歳になっても笠を被ること(科挙合格)ができない者は12~13歳に笠を被った者から、「童」と呼ばれて下に扱われた。 イザベラ・バードは科挙を通じて「官」になれば、君臨と搾取に没頭するのが茶飯事だったとして、1897年の朝鮮紀行「吸血鬼」に比喩した。マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは『朝鮮事情』で「世界一傲慢な貴族階級」として記録に残している。身分が売買されたために両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の相当多数が戸籍上両班となっていた。 北朝鮮では「三大階層五十一分類の上位、韓国でも国会議員、公務員、大学教授、財閥一族を現代の両班だとの指摘されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と両班 · 続きを見る »

中城王子

中城王子(なかぐすくおうじ)は、琉球王国の王世子(世子)の称号である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中城王子 · 続きを見る »

中央集権

中央集権(ちゅうおうしゅうけん、centralization)とは.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中央集権 · 続きを見る »

中川秀成

中川 秀成(なかがわ ひでしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊後国岡藩初代藩主。 中川清秀の次男。母は熊田宗白の娘。中川秀政の弟。正室は佐久間盛政の次女(新庄直頼の養女)・虎姫。子は中川久盛(次男)、娘(水野元綱正室)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中川秀成 · 続きを見る »

中川秀政

中川 秀政(なかがわ ひでまさ、1568年(永禄11年)- 1592年11月27日(文禄元年10月24日))は、戦国時代の武将。中川清秀の嫡男で、中川秀成の兄。妻は織田信長の娘・鶴姫。右衛門尉。 はじめ父と共に織田信長に仕えた。信長没後は羽柴秀吉に仕え、1583年に父が佐久間盛政の攻撃を受けて賤ヶ岳の戦いで戦死すると、家督を継いで摂津国茨木に5万石を領した。1584年の小牧・長久手の戦い、1585年の四国征伐で功績を挙げたため、秀吉から賞されて播磨国三木13万石に加増移封された。 1587年の九州征伐では3千(『日本戦史 九州役』参謀本部の算定)の軍勢を率いて2月5日に進発し、3月には細川忠興・堀秀政らと共に筑前方面へ展開した。 1590年の小田原征伐では2千の軍勢を動員して2月25日に進発し、3月29日からの韮山城攻撃に参加したが短期間で落とせずに持久戦となり、6月に北条氏規が降伏するまで包囲が続いた。 1592年の文禄の役では先発から外れたが8月以降に渡海。京畿道陽智の守備についていたが10月24日に水原の近くで鷹狩をしていた時に敵兵に包囲されて戦死した(『日本戦史 朝鮮役』参謀本部)。12月6日付けの秀吉朱印状によると見回り中に待ち伏せにあって討ち取られたという。享年25。 本来「無覚悟」による討ち死には家督相続を許さないところであり、中川家では事実を隠蔽し戦死と取り繕おうとしたが露見し、秀吉の怒りを買った。しかし、特に父清秀の賤ヶ岳の戦いでの武功に免じて、所領半減となったものの特別に弟秀成に相続を許し、諸将に無駄死にを注意をしている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中川秀政 · 続きを見る »

中井竹山

中井竹山(なかい ちくざん、享保15年5月15日(1730年6月29日) - 享和4年2月5日(1804年3月16日))は江戸時代中期の儒学者である。大坂の学問所 懐徳堂の四代目学主として全盛期を支える。中井甃庵の長男。中井履軒は実弟。中井蕉園は子。中井碩果、並河寒泉は孫。中井桐園(履軒の孫)は碩果の養子。中井木菟麻呂は桐園の子。 名を善太、元服後に積善と改名。字は子慶。号は竹山、同関子、渫翁、雪翁など。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中井竹山 · 続きを見る »

中和郡

中和郡(チュンファぐん)は朝鮮民主主義人民共和国の平壌近郊にある郡。かつては平壌直轄市に属していたが、2010年に黄海北道に編入されたと観測されている。面積は232.4km2、人口は推定13万4000人(1990年).

新しい!!: 文禄・慶長の役と中和郡 · 続きを見る »

中国大返し

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中国大返し · 続きを見る »

中華人民共和国

中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、中华人民共和国、中華人民共和國、People's Republic of China, PRC)、通称中国(ちゅうごく、China)は、東アジアに位置する主権国家である。 中華人民共和国は、13億8千万人以上の人口で世界一人口が多い国である。中華人民共和国は、首都北京市を政庁所在地とする中国共産党により統治されるヘゲモニー政党制である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中華人民共和国 · 続きを見る »

中村栄孝

中村 栄孝(なかむら ひでたか、1902年5月1日-1984年1月4日)は、大正・昭和期の歴史学者。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中村栄孝 · 続きを見る »

中江直澄

中江 直澄(なかえ なおずみ)は、安土桃山時代の武将・大名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中江直澄 · 続きを見る »

中朝事実

『中朝事実』(ちゅうちょうじじつ)は、山鹿素行が記した尊王思想の歴史書。寛文9年(1669年)に著わした。全2巻。付録1巻。山鹿素行は儒学と軍学の大家である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と中朝事実 · 続きを見る »

丹羽長重

丹羽 長重(にわ ながしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹羽長秀の長男。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と丹羽長重 · 続きを見る »

世宗 (朝鮮王)

世宗(セジョン、せいそう、せそう、세종、1397年5月7日) - 1450年3月30日)は、李氏朝鮮の第4代国王である 。姓は李、名は祹(文字は示へんに陶の旁)(ド、도)。即位前は忠寧君(チュンニョングン、ちゅうねいくん)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン、ちゅうねいたいくん)と呼ばれていた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と世宗 (朝鮮王) · 続きを見る »

市橋長勝

市橋 長勝(いちはし ながかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。美濃今尾藩主、伯耆矢橋藩主、越後三条藩初代藩主。仁正寺藩市橋家初代。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と市橋長勝 · 続きを見る »

万暦

万暦(ばんれき)は中国、明代の元号(1573年 - 1620年7月)。第14代皇帝神宗の在位中に使われた。このため神宗は万暦帝と呼ばれる。 本来、1620年いっぱい使われる予定であったが、万暦帝の後を継いだ光宗は即位の1か月後に急死したため、光宗独自の年号を立てる年が無くなってしまった。そのため、大臣の群議で万暦48年(1620年)の8月以降を泰昌元年とした。詳しくは、泰昌を参照。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と万暦 · 続きを見る »

万暦の三征

万暦の三征(ばんれきのさんせい、萬曆三大征)は、明の万暦年間に起こった3つの戦争を指す。万暦の三大征(ばんれきのさんだいせい)ともいう。; ボハイの乱; 朝鮮援兵; 楊応龍の乱 これら同時期に行われた3つの大規模な軍事行動には多大な軍費が投じられ、実態は不詳ながら『明史』王徳完伝によると「寧夏用兵、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役二百余万」とある石原道博 『万暦東征論』 1961年。 更に、万暦帝の私的な浪費によって、既に悪化しつつあった明の財政に大打撃を与えた。万暦帝は財政の悪化に対しては増税で対応したため、後に明を滅ぼすことになる内乱を誘発する遠因となった。また、朝鮮援兵では遼東方面に配置されていた兵力が朝鮮に差し向けられたため、その隙に乗じて後の清の太祖ヌルハチが勢力を拡大する結果を招いた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と万暦の三征 · 続きを見る »

万暦帝

明神宗冕服像 万暦帝(ばんれきてい)は、明朝の第14代皇帝。諱は翊鈞(よくきん)。廟号は神宗。諡号は範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝。日本では一般的に治世の元号を取って万暦帝と呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と万暦帝 · 続きを見る »

万治

万治(まんじ)は日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と万治 · 続きを見る »

三南地方

三南地方(さむなむちほう、삼남지방)は、朝鮮のうち南部地域に相当する慶尚道・全羅道・忠清道の三道のことを指した言葉である。 古くから朝鮮半島を代表する穀倉地帯として知られており、朝鮮国家の首都であった開城あるいは漢城に食糧及び租税を供給する重要地域であり、海上交通などを用いて輸送が行われた。 Category:朝鮮の地理.

新しい!!: 文禄・慶長の役と三南地方 · 続きを見る »

三別抄

三別抄(さんべつしょう、朝:삼별초)は、高麗王朝の軍事組織。崔氏政権(武臣政権)において、林衍(イム・ヨン)ら時々の実権を握った者の私兵として、しばしば政敵の暗殺や現代でいう所のクーデターのための武力として用いられた。後に、高麗のモンゴル軍の襲撃に際しては事実上の国軍に発展したとも言われる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と三別抄 · 続きを見る »

三国

三国(さんごく・みくに)は、3つの国(国家、令制国)のこと。国家の場合「さんごく」、令制国の場合「みくに」と読むことが多い。 日本では、「三国一」などと言った場合の三国は、唐土(中国)・天竺(印度)・本朝(日本/倭国)のことから転じて全世界の意味である。 主に「3つの令制国」の意味から、日本の地名・人名にも使われる。この場合「みくに」と読むことが多い。人名は三國とも書かれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と三国 · 続きを見る »

三韓征伐

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と三韓征伐 · 続きを見る »

三鬼清一郎

三鬼 清一郎(みき せいいちろう、1935年8月10日 - )は、日本の日本史学者、名古屋大学名誉教授。 東京生まれ。1960年東京大学文学部国史学科卒、66年同大学院人文科学研究科博士課程満期退学。1968年名古屋大学専任講師、70年助教授、83年教授、99年定年退官、名誉教授、神奈川大学特任教授。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と三鬼清一郎 · 続きを見る »

三跪九叩頭の礼

三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい、繁体字:、拼音:Sān guì jiǔ kòutóu zhī lǐ、満州語: 、転写:ilan niyakūn uyun hengkin i doro)は、清朝皇帝の前でとる臣下の礼の1つ。単に三跪九叩頭または三跪九叩と呼ばれる場合もある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と三跪九叩頭の礼 · 続きを見る »

三陟市

三陟市(サムチョクし・さんちょくし)は大韓民国江原道南部にある市。太白山脈の東側に位置し、日本海(韓国名:東海)に面している。漁業、農業、石灰岩・セメントなどの鉱業が主産業で、長い砂浜の海水浴場と石灰岩の洞窟(鍾乳洞)が有名な観光地でもある。かつては石炭の産出も盛んだった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と三陟市 · 続きを見る »

三浦の乱

三浦の乱(さんぽのらん、サムポのらん)とは、1510年(中宗4年)に朝鮮国慶尚道で起きた、対馬守護宗氏と恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱。朝鮮名庚午三浦倭乱(경오 삼포 왜란)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と三浦の乱 · 続きを見る »

下克上

下剋上 / 下克上 (げこくじょう)とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をさす。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と下克上 · 続きを見る »

一柳可遊

一柳 可遊(ひとつやなぎ かゆう、生年不詳 - 文禄4年(1595年))は、安土桃山時代の武将。一柳氏の出で、諱は直秀。右近将監、弥三右衛門。子に加藤光吉(加藤光泰養子)、加藤光泰室。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と一柳可遊 · 続きを見る »

一柳直末

一柳 直末(ひとつやなぎ なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と一柳直末 · 続きを見る »

一揆

一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。ドイツ語のPutschの訳語としても使われる(カップ一揆や、アドルフ・ヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆など)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と一揆 · 続きを見る »

丙子の乱

丙子の乱(へいしのらん)は、1636年から1637年にかけて、清が李氏朝鮮に侵入し、制圧した戦い。韓国では『朝鮮王朝実録』以来、敵対感が込められた呼称である丙子胡乱 (ピョンジャホラン、へいしこらん)が用いられたが、自国中心主義であるとして丙子戦争の呼称も使用されている。胡の字は、古来より漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものであり、胡乱は北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。中国では丙子之役と呼ばれている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と丙子の乱 · 続きを見る »

九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と九州平定 · 続きを見る »

九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と九州探題 · 続きを見る »

九鬼嘉隆

九鬼 嘉隆(くき よしたか、)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の第8代当主である。 志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、志摩国を支配して3万5,000石の禄を得た。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と九鬼嘉隆 · 続きを見る »

干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と干支 · 続きを見る »

平壌

平壌(ピョンヤン)は、朝鮮民主主義人民共和国の首都、直轄市であり、最大の都市。 朝鮮八道では平安道、十三道制では平安南道に属するが、同国の行政区画においては道に属さず、平壌直轄市(ピョンヤンちょっかつし)として道級の直轄市となっている。 日本統治時代の行政区分は「平壌府」、当時の正式な読みは「へいじょう」である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と平壌 · 続きを見る »

平安道

平安道(へいあんどう、평안도、ピョンアンド)は、李氏朝鮮の行政区分・朝鮮八道の一つ。主要都市の平壌と安州から取って名付けられている。高麗時代から李氏朝鮮初期には西北面と呼ばれており、太宗13年(1413年)に平安道と改名された。1896年に平安北道と平安南道に分割された。東を咸鏡道と接し、南を黄海道と接し、西は黄海に面し、北は中国と国境を接していた。 道の中心は平壌にあり、平壌府が置かれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と平安道 · 続きを見る »

平山

平山(ひらやま、へいざん).

新しい!!: 文禄・慶長の役と平山 · 続きを見る »

平和条約

平和条約(へいわじょうやく、peace treaty)とは戦争状態を終結させるための条約。講和条約(こうわじょうやく)、和約(わやく)ともいう。二つの敵対する勢力(通常は国家や政府)が、戦争や武力紛争の公式な終結を合意するものである。平和条約は、敵対状態の一時的な停止を合意する休戦協定(armistice)や、軍隊が武装を放棄することを合意する降伏(surrender)とは異なるものである。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と平和条約 · 続きを見る »

平昌郡

平昌郡(ピョンチャンぐん)は、大韓民国江原道の郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と平昌郡 · 続きを見る »

幸州山城の戦い

幸州山城の戦い(こうしゅうさんじょうのたたかい)は、文禄・慶長の役において、1593年(文禄2年)2月12日に、朝鮮半島の漢城西方に位置する、幸州山城(現在の高陽市徳陽区幸州内洞)で行われた戦闘。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と幸州山城の戦い · 続きを見る »

久光島

久光島(ひさみつじま)は、大分県の別府湾に位置していたが、沈んだとされる島。文献によっては、久満島の表記も見られる。 1596年9月4日の地震(慶長豊後地震)によって瓜生島と共に沈んだと言われているが諸説あり、1年後または2年後とする説もある。 実在したかどうかについても研究者によって意見が分かれており、瓜生島と混同しているという説、瓜生島と同様に半島だったとする説、島ではなく別府市(当時速見郡朝見郷)に位置する村だったとする説などがある。また村だとする説では、地震ではなく大雨で鶴見岳山頂から発生した土石流によって壊滅したとしている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と久光島 · 続きを見る »

京の大仏

京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏。 豊臣時代から江戸・徳川時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、江戸時代には日本三大大仏の一つに数えられた。江戸の後期も天保年間になって再建された4代目は昭和の後期まで存続していたが、昭和48年(1973年)、失火により焼失した。 本項では、大仏を主題に、大仏殿(方広寺大仏殿)についても述べる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と京の大仏 · 続きを見る »

京畿道

京畿道(キョンギド、けいきどう、韓国語表記:)は、大韓民国北西部すなわち朝鮮半島中西部に位置する行政区で、朝鮮八道における「京畿道」からソウル特別市と仁川広域市、及び朝鮮民主主義人民共和国の統治範囲を除いた地域。道庁所在地は水原市。西は黄海に面している。 1945年の南北分断及び1953年の朝鮮戦争により京畿道は分断された。京畿道のうち、北朝鮮の実効支配下に置かれた開城地区は、北朝鮮では京畿道とは呼ばず、一時は直轄市とされていたが、現在は黄海北道の所属とされ、また開城工業地区が設定されている。 人口はソウル特別市より多く、韓国で最も人口の多い広域自治体である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と京畿道 · 続きを見る »

京極高次

京極 高次(きょうごく たかつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。若狭小浜藩の初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と京極高次 · 続きを見る »

五大老

五大老(ごたいろう)とは、末期の豊臣政権の政務にあたった徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五大名を指す。五奉行の顧問として、政務を統括した。豊臣秀吉の死後、家康に実権が集中していき、関ヶ原の戦いにいたって崩壊した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と五大老 · 続きを見る »

五奉行

五奉行(ごぶぎょう)は、安土桃山時代の豊臣政権末期に秀吉遺言覚書体制に基き、主に政権の実務を担った浅野長政、石田三成ら5人の政治家(奉行職にあたる)的人物達を指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と五奉行 · 続きを見る »

五島列島

五島列島の位置 五島列島(ごとうれっとう)は、九州の最西端、長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて140あまりの島々が連なる列島。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と五島列島 · 続きを見る »

五島玄雅

五島 玄雅(ごとう はるまさ)は、肥前国福江藩の初代藩主。五島家第21代当主。大浜玄雅や宇久玄雅とも言う。 宇久純定の3男。先代当主・五島純玄の叔父に当たる。キリシタン大名でもあった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と五島玄雅 · 続きを見る »

五島純玄

五島 純玄(ごとう すみはる)は、戦国時代から安土桃山時代の大名。初めは宇久次郎純玄を名乗り、宇久氏第20代当主、五島氏の初代。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と五島純玄 · 続きを見る »

井沢元彦

井沢 元彦(いざわ もとひこ、1954年2月1日 - )は、日本の歴史小説作家・推理作家・歴史研究家。元TBS報道記者。愛知県名古屋市出身。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と井沢元彦 · 続きを見る »

事大主義

事大主義(じだいしゅぎ)は、小が大にえること、強い勢力に付き従うという考えを意味し、行動様式の1つ。東アジアでは外交政策の方針として用いられたこともある。 事大の語源は『孟子』の「以小事大」(=小を以って大に事える)の一節である。孟子には越が呉に仕えた例が知恵として書かれている。つまり「小国のしたたかな外交政策(知恵)」というのが本来の意味であった。しかし後世になると、大義名分論と結びついて「小国である自国はその分を弁えて、自国よりも大国の利益のために尽くすべきである」や、「支配的勢力や風潮に迎合し自己保身を図る考え」といった否定的なニュアンスも帯びるようになった。 孟子の語源にあるように元は中国の戦国時代の諸国群雄割拠における外交策略であったが、漢代以降、中国では冊封体制すなわち周辺諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。こういった背景から中国(中原)への事大主義と小中華思想は複雑な緊張・影響関係を保った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と事大主義 · 続きを見る »

亀井茲矩

亀井 茲矩(かめい これのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。因幡鹿野藩初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と亀井茲矩 · 続きを見る »

亀甲船

戦争記念館に展示されている亀甲船(復元)。鉄製の屋根の存在については論争がある。 亀甲船(きっこうせん、きこうせん、거북선)または亀船(きせん、거선)は、李氏朝鮮時代に存在したとされる朝鮮水軍の軍艦の一種。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と亀甲船 · 続きを見る »

今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と今川貞世 · 続きを見る »

仁祖

仁祖(インジョ、じんそ、万暦23年11月7日(1595年12月7日) - 順治6年5月8日(1649年6月17日)、在位:1623年3月13日 - 1649年5月8日)は李氏朝鮮時代の第16代国王。諱は倧(ジョン、종)。クーデターによって即位し、親明反後金政策を取ったため、後金軍の侵攻を受け、後に清と改称した後金に再度侵攻され服属を余儀なくされた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と仁祖 · 続きを見る »

仮名 (文字)

仮名(かな)とは、漢字をもとにして日本で作られた文字のこと。現在一般には平仮名と片仮名のことを指す。表音文字の一種であり、基本的に1字が1音節をあらわす音節文字に分類される。漢字に対して和字(わじ)ともいう。ただし和字は和製漢字を意味することもある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と仮名 (文字) · 続きを見る »

延吉市

延吉市(えんきつし)は、中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州に位置する県級市。自治州政府の所在地である。 朝鮮族が人口の過半を占め、韓国との合弁企業も多い。町はハングルの看板が溢れ、朝鮮語放送のテレビ局もある。ハングル表記は연길(ヨンギル)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と延吉市 · 続きを見る »

建文帝

建文帝(けんぶんてい)は、明朝の第2代皇帝。諱は允炆(いんぶん)。靖難の変により永楽帝に帝位を簒奪されたため、明代には皇帝としての在位が否定されていた。日本ではその在位中の年号「建文」から一般的に建文帝と称される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と建文帝 · 続きを見る »

任那日本府

任那日本府(みまなにほんふ)は、古代朝鮮半島にあったとする日本の出先機関である。『日本書紀』の雄略紀や欽明紀など日本書紀・巻第十九《欽明天皇二三年正月》の条「二十三年春正月。新羅打滅任那官家」という表記も見られる。に見られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と任那日本府 · 続きを見る »

任鉉

任鉉(임현、1549年 - 1597年)は、李氏朝鮮中期の文臣。本貫は楓川、字は士重。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と任鉉 · 続きを見る »

仙石秀久

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。 豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え(上田市立博物館)、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と仙石秀久 · 続きを見る »

伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と伊達政宗 · 続きを見る »

伊賀

伊賀(いが)とは、かつての令制国のひとつである伊賀国および、その領域にほぼ該当する現在の三重県西部・上野盆地一帯に当たる地域に対する呼称である。本項では現在の三重県の一地方である伊賀地方について記述する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と伊賀 · 続きを見る »

伊藤盛景

伊藤 盛景(いとう もりかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣氏の家臣。 かつては織田信長に馬廻として仕えた。後に豊臣秀吉に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐で功を挙げたことから美濃国大垣城を与えられた。文禄4年(1595年)、豊臣秀次事件に連座して処罰されたが、やがて復帰を許されている。慶長4年(1599年)、死去。 家督は子・盛正が継いだ。 Category:戦国武将 Category:織豊政権の大名 Category:生年不明 Category:1599年没.

新しい!!: 文禄・慶長の役と伊藤盛景 · 続きを見る »

伊藤長弘

伊藤 長弘(いとう ながひろ)は、安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣。別名に弥吉。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と伊藤長弘 · 続きを見る »

伊藤東涯

伊藤 東涯(いとう とうがい、寛文10年4月28日(1670年6月15日) - 元文元年7月17日(1736年8月23日))は、江戸時代中期の儒学者。儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂の2代目。異母弟に同じく儒学者の伊藤介亭がおり、母の嘉那は尾形光琳・乾山の従姉に当たる。名は長胤(ながつぐ)、字は原蔵・源蔵・元蔵、東涯と號し、又慥々齋と号す、諡は紹述先生。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と伊藤東涯 · 続きを見る »

伊東祐兵

伊東 祐兵(いとう すけたけ/いとう すけたか)は、安土桃山時代の武将・大名。日向伊東氏12代(伊東氏18代)当主。日向飫肥藩の初代藩主。『南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)』や『伊東氏系図』では、伊東氏中興の祖と書かれている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と伊東祐兵 · 続きを見る »

伏見城

伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区桃山地区にあった日本の城。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と伏見城 · 続きを見る »

伴信友

伴 信友(ばん のぶとも、1773年3月17日(安永2年2月25日) - 1846年12月2日(弘化3年10月14日))は、江戸時代後期の国学者。幼名は惟徳。通称は州五郎。号は事負。 博覧強記で、古典の考証に優れており、平田篤胤、橘守部、小山田与清とともに、「天保の国学の四大人」と呼ばれる。 若狭国小浜藩士・山岸惟智の四男として生まれたが、1786年(天明2年)、同藩の伴信当の養子となる。1801年(享和元年)村田春門を介して本居宣長没後の門人となり、宣長の養子の本居大平に国学を学ぶ。1821年(文政4年)、息子の信近に家督を譲り、以後、学問に専念した。 平田篤胤、黒川春村、本居内遠などと交流があり、篤胤からは君兄と慕われていたが、後に齟齬を来して決別した。師弟関係を好まず、弟子をとることはなかった。 1846年(弘化3年)、京都の堀川で死去。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と伴信友 · 続きを見る »

伽耶

伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と伽耶 · 続きを見る »

弘文館

弘文館(ホンムングァン)は、李氏朝鮮の行政機関及び研究機関。正二品衙門。玉堂とも称した。 王宮書庫に保管された図書を管理を任され、古典文学を専攻して王や官僚の問いに応じた。官員は全部文官であり、全員経筵の官職を兼任し、副提学から副修撰までは全員知制誥を兼任した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と弘文館 · 続きを見る »

佐々木潤之介

佐々木 潤之介(ささき じゅんのすけ、1929年7月16日 - 2004年1月23日)は、日本近世史学者、一橋大学名誉教授。文学博士(東京大学、1960年)。 一橋大学教授、早稲田大学教授、歴史学研究会編集長等を歴任。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と佐々木潤之介 · 続きを見る »

佐々成政

佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と佐々成政 · 続きを見る »

佐竹義宣 (右京大夫)

太田城址 佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。佐竹氏19代当主。出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と佐竹義宣 (右京大夫) · 続きを見る »

佐竹義久

佐竹 義久(さたけ よしひさ、天文23年(1554年) - 慶長6年11月28日(1601年12月22日))は日本の戦国時代の武将。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の新羅三郎義光の孫・佐竹昌義を祖とする佐竹氏。常陸国の戦国大名佐竹氏の一門。佐竹東家の当主佐竹義堅の次男。東義久とも。受領名は山城守、中務大輔従五位下。武熊城城主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と佐竹義久 · 続きを見る »

影島区

影島区(ヨンドく)は大韓民国釜山広域市の南部に位置する区。影島と附属の島からなる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と影島区 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と征夷大将軍 · 続きを見る »

征伐

征伐(せいばつ、conquest または subjugation)とは、反乱を起こした勢力を鎮圧したり、反社会的な犯罪集団・賊などを、武力で処罰(懲罰)したりすることをいう。 「征討」(せいとう)・「討伐」(とうばつ)も征伐とほぼ同義語であり、罪ある者や手向かう者を攻め討つ意味で使われ、歴史用語としては上位者・正当な国家権力(朝廷や幕府)が反逆した下位者・罪人を攻め討つという意味で使われる。反対語的に使用される用語に「反乱」(はんらん)があり、政府周辺や政権をめぐる軍事反乱などに使われる。 「征伐」・「征討」・「討伐」と呼ばれている事件の一部に対しては、差別用語と見なす立場をとる識者もいる。それに対し、当時の意識は、そのような後世における政策的意識とは相違があるので、歴史学上の見地とは峻別されるべきという批判がある。 最近は使用例が減り、征伐に代えて「平定」(へいてい)を用いる用語例が増えている。 また、東洋においては征伐には道徳的意味が込められており、伝統的に反乱を起こした諸侯を天子が討ち平らげることとされる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と征伐 · 続きを見る »

征韓論

征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。)。 西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と征韓論 · 続きを見る »

御史台

御史台(ぎょしだい)は、中国歴史上の官署の一つである。秦、漢の時代にあっては、御史が監察事務の任にあたった。御史の執務する役所を御史府といい、蘭台、憲台とも称した。南朝の梁、陳や北魏、東魏、西魏、北斉の時代に御史台と称された。隋、唐、五代、宋、金及び元の歴代の王朝においても設置された。御史台は中央政府の行政の監察機関であり、また中央司法機関の一つであって、百官の糾察、弾劾、綱紀の粛正にあたった。 唐朝の貞観年間以前は、御史台はただ百官の風聞を上奏するのみで、実質的な司法権力を持っていなかった。貞観年間に御史台に台獄(監獄)が設置され、特殊な案件を受理した。開元14年(726年)後半、御史をもってあてられる案件の受理を専門とする御史が設けられ、毎日一人が輪番で訴状を受理した。このときからすべての重大案件は、御史台、刑部及び大理寺(zh)の3司法機関で連合して審理した。大理寺は犯人の尋問と判決案の起草を、刑部は再審査を担当し同時に御史台に監督と審査の報告をした。 御史台は御史大夫を長官とし、御史中丞が次官となって侍御史、殿中侍御史(zh)、監察御史(zh)を統率した。中唐以後御史大夫は欠員となることが多くなり、御史中丞が実際上の長官となった。宋代では、御史は寄禄官となり、御史台のことには携わらず、監察事務の実際は門下省の給事中(zh)、などの官職の任務となった。金、元朝でも、御史大夫及び御史中丞が併せて設置されたものの、御史大夫は御史台の実務にはたずさわらず御史中丞が実質的な長官となった。 唐朝の光宅元年(684年)に御史台が改められ、京官(中央官)及び軍隊の監察を専門に左粛政台が設置され、別に地方の監察のために右粛政台が設置された。しばらく後に、左粛政台も地方の監察ができることとなった。両台は毎年春と秋に特使を巡察のため州県へ派遣し、春に派遣された者を風俗使、秋に派遣された者を廉察使と呼んだ。神龍元年(705年)に再び左右の御史台に改められた。太極元年(712年)に右台が廃止されたが、翌年再び設置され、さらにしばらく後にまた廃止された。唐朝はまた洛陽に御史台を設置し、東都留台と称した。中唐以後、節度使、刺史などの外官であっても御史台官衔を置けるようになり、これを外台と呼んだ。 宋代では、元豊の改革の後、再び官署として御史台が設置されたが、留台は設けられず、外官も御史台官衔を置けなかった。 元代では、御史制度が空前の発達をし、地方に行枢密院及び行中書省と同様に御史台の機能を持つ行御史台が設立された。 明代で、御史台が廃止され、改めて都察院が設けられ、清朝でも引き続き設置された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と御史台 · 続きを見る »

徳富蘇峰

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。 蘇峰は号で、本名は猪一郎(いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。筆名は菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸(おおえ いつ、逸郎とも)。雅号に山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青山仙客、伊豆山人など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。 小説家の徳冨蘆花は弟。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と徳富蘇峰 · 続きを見る »

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と徳川家康 · 続きを見る »

徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と徳川将軍家 · 続きを見る »

徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と徳川秀忠 · 続きを見る »

後宮

後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する。 一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなく、平安時代中期に書かれたとされる『源氏物語』や『枕草子』といった物語や随筆では殿上人のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されている。平安時代には天皇やそのきさきの側に控えた女房と呼ばれる女性たちが、内裏を舞台とした内容の宮廷文学を生み出したことはよく知られている(それらが書かれた場所が後宮であったとは限らない。実家などに戻った際に書いたものとされることもある)。ただし、平安末から鎌倉時代頃から徐々に男子禁制の場となり、江戸時代においては男性が入る余地はなくなってしまっていた。江戸時代の江戸城大奥は、完全な男性禁制の場であり、火事など緊急時以外の男性の出入りは厳しく制限された。 男子禁制をとっているのはオスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などであり、去勢された宦官が、家政一般にあたった。これに対して日本では、宦官は置かれずに宮人とも呼ばれる女官が発達して女性たちによって秩序が維持された。 また、後宮を意味するハレム(harem)は、オスマン帝国の後宮がそう呼ばれていたところから来ている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と後宮 · 続きを見る »

後金

後金(こうきん、1616年 - 1636年(1912年)(z、金國)は、17世紀前半に満洲に興った満洲人(女真人、jušen)の国家で、清の前身。 1588年までに女真の建州女直を統一し、マンジュ国(z, 滿洲國)を建てていたアイシン=ギョロ(愛新覚羅)氏のヌルハチ(z、努爾哈赤)は、1593年に海西女直との戦争に入って勢力を拡大した。ヌルハチは1616年までにイェヘ(z)部族を除く全女真を統一して、この年ハンの位につき、天命の年号を立てて建国を宣言した。ヌルハチはこのとき国号をアイシン国(z, 金國)と定めたので、かつて12世紀に完顔阿骨打の立てた金と区別してこの国を「後金」と呼ぶ。はじめ首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラ(z、興京)に置かれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と後金 · 続きを見る »

後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と後陽成天皇 · 続きを見る »

得居通幸

得居 通幸(とくい みちゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊予国の海賊衆。村上通康の子、来島通総の兄。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と得居通幸 · 続きを見る »

忠州の戦い

忠州の戦い(ちゅうしゅうのたたかい、朝鮮語読み:忠州はチュンジュ)は、文禄元年(1592年)4月28日、忠州市付近の弾琴台(朝鮮語読み:タングムデ)で戦われた文禄・慶長の役初期の戦闘の一つである。具体的な戦場の地名を取って「弾琴台の戦い」とも言う。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と忠州の戦い · 続きを見る »

忠清道

忠清道(チュンチョンド、ちゅうせいどう)は、李氏朝鮮の行政区画(朝鮮八道)の一つ。別名を湖西(ホソ/호서)という。 現在の韓国の忠清北道・忠清南道・大田広域市・世宗特別自治市一帯の地域にあたる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と忠清道 · 続きを見る »

応永の外寇

応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による倭寇討伐を名目とした対馬攻撃を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征()と言われる。当時足利義持が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は彼らが「島賊」と称した『宗氏家譜』「應永二十六年己亥六月廿日、朝鮮將李從茂率戰艦二百二十七艘、卒一萬七千二百八十五人、到對馬州與良郡淺海浦。州兵拒之海濱不利。朝鮮兵到仁位郡、分道下陸、竟進屯糠獄。貞茂率州兵、到糠嶽下。侵矢石攻之。連戰數日、七月初一日、與左軍朴松戰大破之。朝鮮兵狼狽走海濱乘船、貞茂使海人放火。以燒賊船。齋藤、立石等發兵撃之。賊兵大潰而還。我兵戰死者百二十三人。斬賊二千五百餘級。」、台風の接近もあって、漁村と船を焼き払ったのち10日余りで対馬から撤退した。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほどが、結局実現しなかった。朝鮮は以後二度と対馬に対する外征は行わず、土地を与えたり米を送ったりと鎮撫策に終始した。前期倭寇はそれ以前からすでに衰退傾向であったが、朝鮮が終息したと公式に判断したのはこの遠征の25年後の世宗26年(1444年)である。一方、侵略を受けた対馬はその後の朝鮮との交渉を通じて日朝貿易を独占し、朝鮮との唯一の窓口へと成長した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と応永の外寇 · 続きを見る »

土佐物語

『土佐物語』(とさものがたり)は、土佐国の戦国大名・長宗我部氏の興亡を描いた軍記物。作者は吉田孝世。宝永5年(1708年)成立。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と土佐物語 · 続きを見る »

地震の年表 (日本)

accessdate.

新しい!!: 文禄・慶長の役と地震の年表 (日本) · 続きを見る »

地政学

地政学(ちせいがく、:ジオポリティクス、:ゲオポリティク、:ジェオポリティク)は、地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するものである。イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国などで国家戦略に科学的根拠と正当性を与えることを目的として発達した。「地政学的」のように言葉として政治談議の中で聞かれることがある。 歴史学、政治学、地理学、経済学、軍事学、文化学、文明、宗教学、哲学などの様々な見地から研究を行う為、広範にわたる知識が不可欠となる。また、政治地理学とも関係がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と地政学 · 続きを見る »

北島万次

北島 万次(きたしま まんじ、1935年1月3日 - )は、日本の歴史学者。専攻は日本中近世対外関係史。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北島万次 · 続きを見る »

北京市

北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北京市 · 続きを見る »

北元

北元(ほくげん、拼音:Bĕiyuán)は、1368年に、元(大元)の第14代大ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の大元ウルス(モンゴル帝国の皇帝直轄政権)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん、拼音:dádá)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称も用いられる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北元 · 続きを見る »

北青郡

北青郡(プクチョンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道に属する郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北青郡 · 続きを見る »

北関大捷碑

靖国神社の境内に置かれていた北関大捷碑 北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)は、文禄・慶長の役の際、朝鮮北部の義勇兵が日本側の加藤清正軍などを撃退したことを記念し、1709年に咸鏡道北部(現在の北朝鮮)に建立されたとされる石碑である。「咸鏡道義兵大捷碑」とも呼ばれる。朝鮮民主主義人民共和国の国宝(:en:National Treasures of North Korea)193号。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北関大捷碑 · 続きを見る »

北条氏直

北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北条氏直 · 続きを見る »

北条氏盛

北条 氏盛(ほうじょう うじもり、天正5年(1577年)- 慶長13年5月18日(1608年6月30日))は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の大名。河内狭山藩の初代藩主。通称は助五郎。官位は従五位下美濃守。法名は松林院殿浄誉心徹大禅定門。墓所は専念寺(大阪市)。 北条氏規の長男で、母は北条綱成の娘の高源院。従兄の後北条氏5代当主北条氏直の養子。正室は旗本・船越景直の娘。子に氏信(長男)、氏利(次男)、氏重(三男)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北条氏盛 · 続きを見る »

北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。官位は、正五位下相模守。贈従一位。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北条時宗 · 続きを見る »

北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北朝 (日本) · 続きを見る »

北海異談

北海異談(ほっかいいだん)とは、文化5年(1808年)に講談師の南豊亭永助が著した前年に発生した文化露寇(フヴォストフ事件)にまつわる読本。その事件を機密扱いにしていた江戸幕府の怒りに触れ、永助は処刑されるなど関係者が処分を受けた。 ロシア軍が択捉島の幕府会所を襲撃した事件は幕府に衝撃を与え、この事件に関する情報を厳しく統制した。だが、実際には関係者から内外に真偽入り混じった様々な情報が流れていった。そんな中で後援者からこの事件の情報を入手した南豊亭永助がこの話は講談には向かないが小説には向くと考えて真偽織り交ぜながら20巻の本に仕上げて出版しようとした。これに気づいた幕府によって永助らは捕えられて、永助は死罪、後援者や貸本屋も遠島や追放とされた。 巻1-7がアダム・ラクスマンの来航、巻8-10がニコライ・レザノフの来航、巻11以降で文化露寇を扱うが、結末は史実とは異なり若年寄の堀田摂津守の命で蝦夷地に集結した奥羽諸侯の軍が救援にかけつけ、片倉小十郎の活躍で日本が逆転勝利を収めることになっている。 南豊亭永助が処刑された理由としては文化露寇に対する情報統制に引っかかったのが最大の理由ではあるが、他にも文中に掲載された書状の中に捏造されたと思われる公文書が大量に含まれていたこと、幕府が発禁処分をした林子平の『海国兵談』からの引用を含んでいたことが刑を重くしたとみられている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と北海異談 · 続きを見る »

マニラ

マニラ市(Maynilà 、Manila )は、フィリピン共和国の首都。メトロ・マニラとも呼ばれるマニラ首都圏に所属する都市。フィリピンのルソン島中西部にあり、マニラ湾東岸に位置している。 『東洋の真珠』などの美称があり、フィリピンがスペイン人によって植民地化された16世紀末よりフィリピンの首府であり、独立後も一貫して首都でありつづけている。市域人口は166万人(2007年)であり、人口1,155万人を抱えるメトロ・マニラの中核都市である。さらに近郊を含む都市圏人口は2016年時点で2,293万人であり、世界有数の大都市圏を形成している。 アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界66位の都市と評価された。東南アジアでは、シンガポール、バンコク、クアラルンプール、ジャカルタに次ぐ5位である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とマニラ · 続きを見る »

マスケット銃

南北戦争で使用されたマスケット マスケット銃(マスケットじゅう、Musket)は、銃身にライフリングが施されていない先込め式の滑腔式歩兵銃である。このため、散弾も発射可能であった。 正確にはマスケットであり、この語だけで銃であることも意味しているが、この語が一般的でない日本では「銃」を付して呼ばれることが多い。中国では「鳥銃」という。 ある語源では、火器には動物の名前が度々付けられ、Musketはフランス語で雄のハイタカを意味する mousquette を由来とし、また別の説ではイタリア語でクロスボウの矢を意味する moscetto, -etta から、16世紀のフランス語を経由してマスケットになったという。イタリア語でmoscettoは微小なハエの事である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とマスケット銃 · 続きを見る »

ハサン (沿海地方)

ハサン(Khasan、Хасан)は、ロシア沿海地方ハサン地区の都市型集落(町)。人口795人(2002年調査)、1,187人(1989年調査)。 ハサンは北朝鮮と唯一国境を接し、中国とも国境を接している町である。ウラジオストクと羅先を結び平壌に至る鉄道が通っており、駅(ハサン駅)もある。国境付近には、豆満江、ハサン湖がある。 ロシアと北朝鮮の間の国境である豆満江の川床は洪水の度に時々変わる。領土問題に発展することを避けるため、2003年以来、護岸工事が行われている。ロシア側で接している町は、クラスキノ、ポシェト、ザルビノ、およびスラヴャンカ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とハサン (沿海地方) · 続きを見る »

バテレン追放令

バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のに由来する。 原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の覚書(以下便宜的に「覚書」と記す)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の覚書が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とバテレン追放令 · 続きを見る »

ポルトガル

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa、República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とポルトガル · 続きを見る »

ポルトガル領インド

ポルトガル領インド(ポルトガルりょうインド、Estado Português da Índia)は、インドにかつて存在したポルトガルの植民地。イギリス領インド帝国が1947年に独立した当時、ポルトガル領インドはインド西岸の飛び地ゴアやダマン、ディーウ、現在のダードラー及びナガル・ハヴェーリー連邦直轄地域を所有していた。ポルトガル領インドの領土は、ゴアと総体してみなされることもある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とポルトガル領インド · 続きを見る »

ムラカ

展望台から見たマラッカ海峡側の風景 ムラカ(マレーシア語:Melaka、ジャウィ:ملقة)またはマラッカ(英語:Malacca)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とムラカ · 続きを見る »

モノコック

モノコック(フランス語:monocoque)、モノコック構造(モノコックこうぞう)とは、自動車・鉄道車両・ミサイル・一部の航空機などの車体・機体構造の一種で、車体・機体の外板に応力を受け持たせる構造のことをいう。応力外皮構造(おうりょくがいひこうぞう)、または張殻構造(はりがらこうぞう)ともいう。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とモノコック · 続きを見る »

モンゴル (曖昧さ回避)

モンゴル (Монгол) 民族.

新しい!!: 文禄・慶長の役とモンゴル (曖昧さ回避) · 続きを見る »

モンゴルの高麗侵攻

モンゴルの高麗侵攻(モンゴルのこうらいしんこう)は、朝鮮半島を統治していた高麗王朝に対して、モンゴル帝国が1231年から1273年にわたり繰り返し行った戦争を指す。この間、主要な戦いは6度行われ、高麗の国土は荒廃した。戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とモンゴルの高麗侵攻 · 続きを見る »

ヤマト王権

ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、大伴氏が本拠を置いた難波 (なにわ) に都を定めた仁徳天皇など、3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国 (わこく) の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。今の大阪平野や奈良盆地を中心とする大倭地方の国がまわりの国を従えたことからこう呼ばれる。旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説をする。 呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。 ヤマト王権の語彙は「大阪平野や奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方では出雲を代表格とする「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とヤマト王権 · 続きを見る »

僧兵

僧兵(そうへい)とは、日本の古代後期から中世、近世初頭にかけて存在した僧形の武者である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と僧兵 · 続きを見る »

僧録

僧録(そうろく)は、僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と僧録 · 続きを見る »

ルイス・フロイス

ルイス・フロイス( 、1532年 - 1597年7月8日(慶長2年5月24日))は、ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とルイス・フロイス · 続きを見る »

ボハイの乱

哱拝の乱(ボハイのらん)は、1590年(万暦20年)に明代中国の寧夏で起きた、副総兵のボハイ(哱拝)による反乱。寧夏兵変、寧夏の役とも呼ばれ、困窮した家丁兵士側の自主的蜂起の要素もあった。万暦帝の治下に発生した万暦の三征の一つ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とボハイの乱 · 続きを見る »

ヌルハチ

ヌルハチ(努爾哈赤、z)は、後金の創始者。清の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン(genggiyen han)、モンゴル語でクンドゥレン・ハーン、廟号は太祖、諡号は高皇帝(dergi hūwangdi)である。なお、明の文献では童奴兒哈赤あるいは佟奴兒哈赤、朝鮮の文献では老乙可赤あるいは奴兒哈赤、清の文献では弩爾哈齊あるいは弩爾哈奇と記載されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とヌルハチ · 続きを見る »

ボールステイト大学

ボールステイト大学(ボールステイトだいがく、Ball State University)は、アメリカ合衆国インディアナ州マンシーにある州立大学である。稀に「ボール州立大学」とも記される。 広島カープに所属しているブライアン・バリントンは卒業生である。 交換留学の提携をしているのは、東京学芸大学、愛知教育大学、札幌大学、国際教養大学などである。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とボールステイト大学 · 続きを見る »

ヌエバ・エスパーニャ

ヌエバ・エスパーニャ副王領(ヌエバ・エスパーニャふくおうりょう、)は、1519年から1821年までの、北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領を指す名称。スペイン語で「新スペイン」という意味。 江戸時代の日本では、「ノビスパン(濃毘数般)」、「新イスパニア(新意斯巴尼亜)」などと呼ばれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とヌエバ・エスパーニャ · 続きを見る »

トウ子龍

鄧 子龍(とう しりゅう 1531年 - 1598年)は中国明代の武将。慶長の役に明の朝鮮援兵の水軍副将(副総兵)として参戦し戦死した。 江西省豊城市出身。嘉靖年間の江西内乱を平定し、その功により広東把総となる。万暦11年(1583年)2月、緬甸(現ミャンマー)が雲南を侵犯した際には兵を率いて雲南に入り、敵軍数百人を切って緬甸各族を明に帰順せしめた。 万暦26年(1598年)、前年よりの日本軍の再侵攻にあたり、鄧子竜は既に七十近い老齢であったが二百の士卒を率いて援朝し水軍副総兵に任ぜられた。同年11月19日(明暦)、慶長の役最後の大規模海戦となった露梁海戦において、水軍総兵陳璘から、朝鮮水軍統制使李舜臣とともに兵千人・巨艦三隻を率いての先鋒を命じられ、自ら先陣を切って奮戦するも、突出した乗船を島津義弘の軍に囲まれ戦死する。これは朝鮮水軍主将である李舜臣とともに、日本側にはなかった同海戦における上級指揮官の戦死であった。遺体は故郷豊城に帰って葬られ、朝鮮は彼のために廟を立て祀った。 著書に『横矛集』がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とトウ子龍 · 続きを見る »

パターナリズム

パターナリズム(paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている。日本語では家族主義、温情主義、父権主義、中国語では家長式領導、溫情主義などと訳される。語源はパトロンの語源となったラテン語の pater(パテル、父)である。 実力が無い、または劣ることが判明しても即解雇にはならない雇用制度や、成果よりも企業への在籍期間で出世や給与が決まる年功序列制度の企業のように労働者を子として面倒を見ているような企業運営を経営パターナリズム、 経営家族主義とする。医者と患者の関係ならば、パターナリズムは患者の利益(生存、健康)を保護するためであるとして、医者が患者に干渉し、その自由・権利に制限を加えることである。医療では温情を受ける者が正しい選択肢を選べるとは限らず、幼児を含む未成年者、中毒(依存症)に陥っている者や自傷行為・暴力的言動をする者への干渉は認められることが多い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とパターナリズム · 続きを見る »

フランキ砲

フランキ砲(フランキほう)とは、16世紀の大砲の種類で、原始的な後装砲である。フランキとも。主に東アジア史で西洋人によりもたらされた後装砲を意味する用語である。 日本に最初に伝わった大砲ともされる。日本では大友宗麟が使った大砲として知られるが、正確には特定の砲ではなく砲の種類である。 フランキ(仏狼機)とはフランク人(、)の転訛で、元来はイスラーム圏からカロリング朝フランク王国によって中世初期に再生されたカトリック圏西方ローマ帝国政権とその正統原理を受け継ぐ西ヨーロッパ継承国家群を東方から見て呼んだ呼称(対する東方正教東ローマ帝国圏に対する呼称がローマに語源を有するルーム)であり、こうした西アジア・南アジア〜中央アジアといった中央ユーラシア勢力経由でこのフランク系西ヨーロッパ勢力の知識を得た中国や日本では特に16世紀になって東シナ海海上交易圏に割り込んできたポルトガル人やスペイン人といったイベリア半島カトリック諸国を意味した(「南蛮人」とほぼ同義)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とフランキ砲 · 続きを見る »

フランシスコ会

フランシスコ会の会章 フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 フランシスコ会は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とフランシスコ会 · 続きを見る »

フアン・コボ

フアン・コボ(Juan Cobo、1546年? - 1592年)は、スペインのドミニコ会修道士、中国学者。フィリピンの中国人居住区で宣教活動を行った。1592年に豊臣秀吉に対する使節として日本を訪れた。中国名は高母羨(、福建語:)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とフアン・コボ · 続きを見る »

フィリピン

フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく、Republika ng Pilipinas、Republic of the Philippines、) 通称フィリピンは、東南アジアに位置する共和制国家である。島国であり、フィリピン海を挟んで日本とパラオ、ルソン海峡を挟んで台湾、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んで中国およびベトナムと対する。フィリピンの東にはフィリピン海、西には南シナ海、南にはセレベス海が広がる。首都はマニラで、最大の都市はケソンである。国名のフィリピンは16世紀のスペイン皇太子フェリペからちなんでいる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とフィリピン · 続きを見る »

フェリペ2世 (スペイン王)

フェリペ2世(Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)。イングランド女王メアリー1世と結婚期間中、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。また1580年からは、フィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。 スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。その治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。 1925年発行の100ペセタ紙幣に肖像が使用されていた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とフェリペ2世 (スペイン王) · 続きを見る »

ドミニコ会

ドミニコ会(ドミニコかい)は、1206年に聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum) で、略号は「OP」である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とドミニコ会 · 続きを見る »

ホンタイジ

ホンタイジ(ᡥᠣᠩᡨᠠᡳᠵᡳ 転写:hong taiji、皇太極)は、清(後金)の第2代皇帝。君主としての称号は満州語でスレ・ハン(sure han)、モンゴル語でセチェン・ハーン。皇太極は皇太子、黄台吉とも表記される。三田村泰助は明の陳仁錫『山海紀聞』や李朝の『朝鮮王朝実録』の「仁祖実録」などを根拠に、本名は「ヘカン」であったとする説を提示している。 皇太子とも表記されることから、ヌルハチの生前から後継者と目されていたと考える向きもあるが、ヌルハチが死の際にそれに触れていないことと矛盾する。ヌルハチは自分を部族連合体の長であるとしか考えていなかったので、後継者も自分と同じように周囲の推戴によって選ばれるべきである、と認識していたと考える方が妥当であろう。史書(『清実録』)にはホンタイジは順当に何事もなく即位したように書かれているが、このあたりの記述には潤色があると考えられる。 なお、「ホンタイジ」という単語は上述の通り「皇太子」や「王」「福王」などの意味を含んでおり、満州族以外のユーラシア大陸北方遊牧民の間で広く使われた君主号の一種であり、彼以外にも「ホンタイジ」を名乗った者は多く、同時代だけを見ても複数いる。例えばホンタイジの死後、乾隆帝によって滅ぼされたジュンガルの歴代王は「ホンタイジ」の称号を名乗っていた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とホンタイジ · 続きを見る »

別所吉治

別所 吉治(べっしょ よしはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。丹波国由良藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と別所吉治 · 続きを見る »

利原郡

利原郡(リウォンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国の東北部、咸鏡南道に属する郡。 大韓民国における朝鮮語の発音・表記法では이원(イウォン)となる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と利原郡 · 続きを見る »

刑曹

刑曹(ヒョンジョ)は、朝鮮において、高麗末から李氏朝鮮にかけて置かれた行政機関。国家の司法、刑罰に関連した部分を管轄していた。正二品衙門。1392年(太祖元年)に光化門の南に設置され、1894年(高宗31年)の甲午改革で法務衙門に改称された。犯罪者に対する刑罰決定、重罪を犯した者に対する覆審、囚人と奴隷の管理などを担当。 現在の法務部に相当する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と刑曹 · 続きを見る »

刀伊の入寇

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と刀伊の入寇 · 続きを見る »

刀狩

刀狩(かたながり、刀狩り)とは、日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などから、武器の所有を放棄させること。鎌倉時代の1228年(安貞2年)に、第3代執権北条泰時が高野山の僧侶に対して行ったものが、日本史記録上の初見で「刀狩り」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、後に1242年(仁治3年)には、鎌倉市中内の僧侶とその従者(稚児、中間、寺侍、力者など)に帯刀を禁止する腰刀停止令を出し、違反者の刀剣は没収し大仏に寄付するとした。また1250年(建長2年)に第5代執権北条時頼は範囲を拡大し、市中の庶民の帯刀と総員の夜間弓矢の所持を禁止した。 戦国時代には諸大名によって行われている。天下を統一した豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年8月29日(天正16年7月8日)に布告した刀狩令(同時に海賊停止令)が特に知られており、全国単位で兵農分離を進めた政策となった。一般的には農民の帯刀を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策として知られているが、実際には刀以外の武器所有は禁じられていない。 柴田勝家も、1575年(天正3年)から翌年にかけて越前国の一向一揆の鎮圧のために武器の奨励と没収を行ったことがあり後述する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と刀狩 · 続きを見る »

嘉靖帝

嘉靖帝(かせいてい)は、明朝の第12代皇帝。諱は厚(こうそう)(の字は火偏+悤)。廟号は世宗(せいそう)。日本では治世の元号から一般的に嘉靖帝と称される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と嘉靖帝 · 続きを見る »

呂宋助左衛門

呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん、永禄8年(1565年)? - 没年不詳)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人。本名は、納屋助左衛門(なや すけざえもん)。堺の貿易商・納屋才助の子。 呂宋以外にも別名で菜屋助左衛門(なや すけざえもん)や魚屋助左衛門(ちや すけざえもん)ともいう。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と呂宋助左衛門 · 続きを見る »

咸鏡南道

咸鏡南道(ハムギョンナムどう)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)北東部に位置する行政区。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と咸鏡南道 · 続きを見る »

咸鏡道

咸鏡道(かんきょうどう、 ハムギョンド)は、李氏朝鮮の行政区分・朝鮮八道の一つ。1467年から1470年までと1498年から1896年まで使われていた名称。1896年に咸鏡北道と咸鏡南道に分割された。西を平安道と接し、南を江原道と接し、北は中国と国境を接していた。 咸鏡道という名称は主要都市の咸州と鏡城(咸鏡北道鏡城郡)から取ったものである。 朝鮮半島の東北部に位置し、朝鮮三国時代の一国である高句麗が領有しており、後に渤海が領有した。渤海が滅びると北部は女真族の地となり、朝鮮半島の王朝が占有していたのは南部のみとなった。高麗末期から李氏朝鮮初期にかけては東北面と呼ばれていた。太宗13年(1413年)に永吉道(永興・吉州より、永興は太祖李成桂の故郷)と改名され、道に組み込まれる。さらに太宗16年(1416年)咸吉道(咸州と吉州より)に改名された。 初めて咸鏡道と言う名前が出てくるのは世祖13年(1467年)であるが、成宗元年(1470年)に李施愛の乱に加担した李仲和の出身地・咸興が、府から郡への格下げと観察使営も永興に移されたことから、永安道(永興・安辺より、安辺は現在の北朝鮮の江原道安辺郡)と改称された。 永安道から咸鏡道に再び改名されたのは燕山君4年(1498年)4月4日である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と咸鏡道 · 続きを見る »

咸興市

咸興市(ハムンし、ハムフンし)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道の道都。李氏朝鮮発祥の地である。平壌とともに冷麺の本場として有名で、盛岡冷麺の創始者である在日1世の青木輝人(朝鮮名ヤン・ヨンチョル:양용철)も咸興出身である。 咸興市に属する沿海部の興南区域は、化学工業を中心とする工業都市・港湾都市である。 人口は70万9730人(1993年)、87万4000人(2005年)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と咸興市 · 続きを見る »

和船

広島県内海町漁協所属の打瀬船「内海丸」、2007年5月の最後の航海。広島観音マリーナにて。 滋賀県西浅井町(現長浜市)の「丸子船の館」に保存されている丸子船の船首部分 江戸時代に工楽松右衛門が開発した、通称「松右衛門帆」。 明治時代の廻船 thumb 和船(わせん)とは、日本において発達し、幕末以後の洋式船舶の導入の前まで、移動や漁業に用いられた構造船及び準構造船の総称である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と和船 · 続きを見る »

和暦

和暦(われき)は、元号とそれに続く年数によって年を表現する、日本独自の紀年法である。邦暦(ほうれき)とも。 この手法自体は東アジアで広く行われてきたが、日本独自の元号を用いているため日本固有の紀年法となる。飛鳥時代の孝徳天皇によって西暦645年に制定された「大化」がその始まりであり、以来15世紀に亘って使われ続けてきている。 たとえば、西暦2000年は平成12年に当たる。 また暦法について、明治改暦(明治6年/西暦1873年)で天保暦に代えてグレゴリオ暦を採用して以降は、月日についてはグレゴリオ暦と一致している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と和暦 · 続きを見る »

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ、、1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とアレッサンドロ・ヴァリニャーノ · 続きを見る »

イエズス会

イエズス会(イエズスかい、)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にパウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による (イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とイエズス会 · 続きを見る »

ウリャンカイ

ウリャンカイないしウリヤンカイ(、Uryangqai, Uriyangqai)はモンゴル高原北部周辺にいた民族集団のひとつ。近世・現代モンゴル語ではウリヤンハイ Урианхай Uriankhai となる。中期モンゴル語の複数形はウリヤンカン Uriyangqan 、またはウリヤンカト Uriyangqad 。漢文資料では、『遼史』に嗢娘罕、『元史』『元朝秘史』に兀良哈・兀良孩として表れ、明清代には兀良罕・烏梁海などと書かれた。『集史』には اوريانكقت Ūriyānkqat と書かれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とウリャンカイ · 続きを見る »

ガレオン船

デューラー画 ガレオン船(、 、 )とは、16世紀半ば〜18世紀ごろの帆船の一種である。単にガレオンまたはガリオンなどとも表記される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とガレオン船 · 続きを見る »

ガスパール・コエリョ

パール・コエリョ(、 1530年-1590年5月7日)はポルトガル出身で戦国時代の日本で活動したイエズス会司祭、宣教師。イエズス会日本支部の準管区長をつとめた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とガスパール・コエリョ · 続きを見る »

キムチ

ムチ(김치)は、白菜などの野菜と、塩・唐辛子、魚介塩辛、ニンニクなどを主に使用した漬物。かつては朝鮮漬けという呼称が一般的であったが、現在はキムチという名前が定着している。 単独で、あるいはつけ合せ(特に焼肉店)として食べられるほか、豚肉と一緒に炒めた「豚キムチ」などの材料や、チゲの具(キムチチゲ)としても用いられる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とキムチ · 続きを見る »

クジャク

マクジャク コンゴクジャク クジャクを観察する南蛮人たち クジャク(孔雀)はキジ科の鳥類で、中国から東南アジア、南アジアに分布するクジャク属2種とアフリカに分布するコンゴクジャク属1種から成る。通常クジャクといえば前者を指す。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とクジャク · 続きを見る »

グレゴリオ・デ・セスペデス

レゴリオ・デ・セスペデス(Gregorio de Céspedes、1551年 - 1611年11月)は、イエズス会の司祭、宣教師。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とグレゴリオ・デ・セスペデス · 続きを見る »

グレゴリオ暦

レゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。現行太陽暦として世界各国で用いられている。グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日 + (97/400)日.

新しい!!: 文禄・慶長の役とグレゴリオ暦 · 続きを見る »

コリア

統一旗 コリア(Korea, 코리아)は、英語で韓国の呼称。 大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、国際的な競技大会などで単一の合同チームとして行動する際に使用する名称でもある。本項では語源、および主にこの用法について説明する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とコリア · 続きを見る »

ゴア州

ア州(コンカニ語:गोंय、マラーティー語:गोवा、Goa)は、インド西海岸の州である。16世紀から20世紀半ばまでポルトガル領インドの一部であり、ポルトガルのアジアにおける拠点であった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とゴア州 · 続きを見る »

ジュリアおたあ

ュリア おたあ(生没年不明)は、安土桃山時代の朝鮮人女性。文禄・慶長の役の際に日本に連行され、のちにキリスト教に改宗して小西家の猶子となった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とジュリアおたあ · 続きを見る »

ジェームズ・マードック

ェームズ・マードック(James Murdoch、1856年9月27日 - 1921年10月30日)は、日本とオーストラリアで教師として働いたスコットランドの学者、ジャーナリストである。東京帝国大学などで教え、大著『日本歴史』を著した。マードックが教えた人物には夏目漱石がいる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とジェームズ・マードック · 続きを見る »

スペイン

ペイン王国(スペインおうこく、Reino de España)、通称スペインは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とスペイン · 続きを見る »

スペイン帝国

'''黄金の世紀'''におけるスペイン帝国(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年-1640年) スペイン帝国(スペインていこく、)は、スペインとその植民地・属領などの総称である。カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国がナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、イベリア半島からイスラーム勢力を一掃した1492年以降、1898年の米西戦争に敗北して、ほぼ全ての海外植民地を失うまでの期間を指す。「帝国」の名称はその広大な統治領域に由来する(共和制のもとでのローマ帝国のごとし)。君主号(皇帝)とは無関係である。1868年から1874年は革命政権の支配の下で、国王は空位となり、やがて共和制に移行した。 とりわけ、16世紀中盤から17世紀前半までの約80年間はスペインが史上最も繁栄した時期であり、黄金世紀(Siglo de Oro)と呼ばれている。スペイン君主のカルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位した際には、ヨーロッパにも本国以外の広大な領土を持つなど、その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とスペイン帝国 · 続きを見る »

スペイン領フィリピンの総督

ペイン領フィリピンの総督(スペインりょうフィリピンのそうとく)とは、16世紀後半から19世紀末までのスペイン統治時代のフィリピン(スペイン領東インド)における行政長官。スペイン国王によって任命され、軍事・行政・司法の三権(司法については1861年まで)を掌握した。スペイン語でGobernador y Capitan General de las Islas Filipinas。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とスペイン領フィリピンの総督 · 続きを見る »

セビョル郡

ビョル郡(セビョルぐん)は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道に属する郡。セビョルは朝鮮語の固有語で「あたらしき星(明けの明星)」の意味。セッピョル郡(샛별군)と記されることもある。旧称は慶源郡(경원군、キョンウォンぐん、けいげんぐん)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とセビョル郡 · 続きを見る »

サルフの戦い

ルフの戦い(サルフのたたかい、薩爾滸之戰、)は、1619年にヌルハチが率いる後金(のちの清)が明・朝鮮の後金討伐軍を破った戦い。大小の火器を動員し全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃した明軍に対し、ヌルハチは夜襲によって銃砲の優位を封じたうえで混乱した敵軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。特に最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフ(sarhū、薩爾滸、)で行われたため、この戦役全体がサルフの戦いと呼ばれる。兵力・装備では圧倒的に優っていたにも関わらず、諸将の対立によって各軍の連携・統制を欠いたこともあって、明・朝鮮の連合軍は4万5千人もの死傷者を出す大敗北を喫した。 建国間もない後金の存亡をかけた決戦であり、この戦いに勝利したことが後金興起の第一歩となり、やがて明・清の王朝交代へと繋がることになる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とサルフの戦い · 続きを見る »

サン=フェリペ号事件

ン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、文禄5年(1596年)に起こった日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件日本大百科全書『サン・フェリペ号事件』文責松田毅一。。豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害である日本二十六聖人殉教のきっかけとなったとされる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役とサン=フェリペ号事件 · 続きを見る »

備辺司

備辺司(ピビョンサ)は、16世紀から19世紀中葉まで、ほぼ300年間存続した朝鮮王朝の軍事行政機関。1555年の乙卯倭変以来、常設機関となり、1865年、興宣大院君によって正式に廃止された。正一品衙門。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と備辺司 · 続きを見る »

唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と唐 · 続きを見る »

唐辛子

みじん切りにした唐辛子 乾燥させた唐辛子 唐辛子畑 唐辛子(とうがらし、唐芥子、蕃椒)は、中南米を原産とする、ナス科トウガラシ属 (Capsicum) の果実あるいは、それから作られる辛味のある香辛料である。栽培種だけでなく、野生種が香辛料として利用されることもある。 トウガラシ属の代表的な種であるトウガラシにはさまざまな品種があり、ピーマン、シシトウガラシ(シシトウ)、パプリカなど辛味がないかほとんどない甘味種(甘唐辛子・あまとうがらし)も含まれるが、ここでは辛味のある品種から作られる香辛料について述べる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と唐辛子 · 続きを見る »

唐棹

唐棹(からざお/ からさお:殻竿とも)は日本の農具の一種で、麦や大豆など、穀物の脱穀作業に使用する道具。唐竿、連枷、くるりなどとも呼称する。長い竹竿の先端に、回転する短い棒を取り付けた形状をしている。この竿を持ち、むしろの上に広げられた穀物を、短い棒を回転させながらたたき、脱穀する。このような脱穀方法を、千歯扱きなどの「梳き」に対して「打穀」と呼ぶ。 この唐棹による脱穀は、稲や麦だけでなく他の作物にも幅広く応用できたので、世界各国に数多く似たようなものがある。 西洋では唐棹状の農具を元にしたフレイルと言う打撃武器が開発され、甲冑を身に纏い、剣では有効な打撃を与えることが難しい重装騎兵に対する対抗手段として大いに普及した。沖縄のヌンチャクも、唐棹をもとに考案されたと言われている。日本ではお殻打ち棒といわれ、竿と短い棒を連結していた金具は鉄鎖、短い棒は鉄造りとなった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と唐棹 · 続きを見る »

唐津市

虹の松原(国の特別名勝) 唐津市(からつし)は、佐賀県の北西に位置し玄界灘に面する市。福岡都市圏(福岡相対都市圏)を形成する都市の一部である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と唐津市 · 続きを見る »

儒学者

儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と儒学者 · 続きを見る »

冊封

冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.

新しい!!: 文禄・慶長の役と冊封 · 続きを見る »

冊封国

冊封国(さくほうこく)とは、前近代の東アジアで中国王朝を中心とした冊封体制の下で、中国王朝を宗主国とした従属国のこと。朝貢(ちょうこう)国、藩属国、服属国、附庸国などとも言う。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と冊封国 · 続きを見る »

内藤如安

内藤 如安(ないとう じょあん) / 内藤 忠俊(ないとう ただとし)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。 如安はキリスト教への受洗名ジョアンの音訳名で、諱は忠俊。小西飛騨守とも称す。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。丹波国の在地領主としてはじまり、小西行長に仕えた後浪人し、最後はキリシタン追放令によりマニラへ追放された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と内藤如安 · 続きを見る »

全州市

全州市(チョンジュし)は、大韓民国全羅北道中部の市。道庁所在地。全州ビビンバで有名。全羅道という名称は全州と羅州に由来する。また、全羅北道で唯一の特定市である。韓国で “最も住みやすい都市” のひとつに数えられる。そして韓国で “最も韓国的な都市” に通じている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と全州市 · 続きを見る »

全羅道

全羅道(チョルラド、ぜんらどう)は、李氏朝鮮の行政区分朝鮮八道の一つ。名前の由来は、現在全羅北道に属する全州と、全羅南道に属する羅州の頭文字。一時、全南道、全光道と呼ばれたこともある。 現在の韓国の行政区分、全羅北道・全羅南道・済州特別自治道・光州広域市に相当する。現在において全羅道地域という場合は、通常、上記から済州特別自治道を除いた全羅北道・全羅南道・光州広域市の1広域市2道を指す。 慶尚道出身が多い韓国の歴代大統領の中で、唯一金大中だけが全羅道出身である。金大中が結成した平和民主党の流れを汲む政党(現在は共に民主党)の強固な支持基盤である。2016年4月の総選挙では共に民主党の前身の新政治民主連合から分裂した政治家によって結成された国民の党に支持基盤を奪われる結果となったが、翌2017年5月の大統領選挙では、全羅北道・全羅南道・光州広域市いずれも共に民主党の文在寅が国民の党の安哲秀に大差をつけて圧勝した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と全羅道 · 続きを見る »

八条宮智仁親王

八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての皇族・歌人。八条宮(桂宮)家の初代。正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)。同母兄に後陽成天皇・興意法親王らがいる。幼称は六宮・胡佐麿(古佐麿)・員丸、通称は幸丸・友輔。一般には八条の皇子と呼ばれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と八条宮智仁親王 · 続きを見る »

元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と元 (王朝) · 続きを見る »

元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と元号 · 続きを見る »

元均

元均(げん きん、朝鮮読み:ウォン・ギュン、1540年2月12日 - 1597年8月2日)は、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱/朝鮮征伐)の頃に活躍した李氏朝鮮の将軍。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と元均 · 続きを見る »

元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と元寇 · 続きを見る »

先史時代 (台湾)

先史時代の台湾では、先史時代からオランダの東インド会社が台湾島南部に進出してくる1624年までの期間を説明する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と先史時代 (台湾) · 続きを見る »

兵農分離

兵農分離(へいのうぶんり)は、日本史における用語の一つで、戦国時代から江戸時代にかけて推し進められた、武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策を指す。江戸時代には、江戸幕府が国政を管掌する途上において、武士と他の階級を明確に区別し、武士を最上位に置く体制を確立した。 戦国時代を扱ったコンピューターゲーム等では徴兵制や古代ローマの職業軍人制と類似した制度として扱われているが、史実では内容も目的もそれら2つとは大きく異なる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と兵農分離 · 続きを見る »

兵曹 (李氏朝鮮)

兵曹(ピョンジョ)は、朝鮮において、高麗末から李氏朝鮮にかけて置かれた行政機関。軍事を管掌していた。正二品衙門。1392年(太祖元年)に光化門の南に設置され、1894年(高宗31年)の甲午改革で軍務衙門に改称された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と兵曹 (李氏朝鮮) · 続きを見る »

光陽市

光陽市(クァンヤンし)は大韓民国全羅南道の東部にある市。慶尚南道と接している。光陽湾に面した港湾工業都市で、ポスコ光陽製鉄所がある。光陽湾には蟾津江(ソムジンガン)が流入している。サッカー・Kリーグの全南ドラゴンズの本拠地でもある。市のスローガンは「Sunshine GWANGYANG」。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と光陽市 · 続きを見る »

光海君

光海君(クァンヘグン、こうかいくん、万暦3年4月26日(1575年6月4日) - 崇徳6年7月1日(1641年8月7日))は、李氏朝鮮の第15代国王(在位:1608年 - 1623年)。名は琿(ホン、혼)。なお第10代国王燕山君同様暴君として廃位された王であるため、廟号、尊号、諡号、陵名はない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と光海君 · 続きを見る »

前田利家

前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と前田利家 · 続きを見る »

前田利長

前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は篠原一計の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589年)頃に利長と改名する。若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と前田利長 · 続きを見る »

前田玄以

前田 玄以(まえだ げんい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶・武将・大名。豊臣政権の五奉行の1人。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と前田玄以 · 続きを見る »

前田秀以

前田 秀以(まえだ ひでもち)は、安土桃山時代の武将。前田玄以の長男。キリシタン武将でもある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と前田秀以 · 続きを見る »

前田綱紀

前田 綱紀(まえだ つなのり)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家5代。先代藩主前田光高の長男。母は徳川家光の養女・水戸藩主徳川頼房の娘、清泰院。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と前田綱紀 · 続きを見る »

前野長康

前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。但馬国出石城主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と前野長康 · 続きを見る »

副王

ポルトガル領インド初代副王フランシスコ・デ・アルメイダ 副王(ふくおう、virrey, vice-rei, viceroy)は、君主の代理人として植民地や属州を統治する官職、称号。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と副王 · 続きを見る »

勝本城

勝本城(かつもとじょう)は、安土桃山時代に現在の長崎県壱岐市勝本町坂本触に築かれた城である。別称風本(かざもと)城・武末城・雨瀬包(あませかね)城。国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と勝本城 · 続きを見る »

勝本町

勝本町(かつもとちょう)は長崎県壱岐郡にあった町。1935年の町制施行前は香椎村(かしいむら)と称した長崎縣告示第八號 長崎県公報 昭和10年1月11日付。1955年に鯨伏村と合併し新町制の勝本町発足後、2004年3月1日に郷ノ浦町、芦辺町、石田町と合併し市制施行、壱岐市となり自治体としては消滅した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と勝本町 · 続きを見る »

動機

動機(どうき)は、.

新しい!!: 文禄・慶長の役と動機 · 続きを見る »

国史編纂委員会

国史編纂委員会(こくしへんさんいいんかい、국사편찬위원회)は、朝鮮の歴史を研究する為に設置された大韓民国の国家機関。 1946年3月に、申奭鎬らが朝鮮史編修会の資料を引き継ぐ形で、「国史館」を景福宮緝敬堂に設置したことが始まり。その後、「国史館」は1949年7月に「国史編纂委員会」として職制を改編し、大韓民国教育部の傘下に設置された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と国史編纂委員会 · 続きを見る »

国語辞典

国語辞典(こくごじてん)とは、日本語の単語・連語・句などを規則的に配列し(主に五十音順)、説明した書物。見出しに立てた言葉の仮名遣いやアクセント、漢字表記、品詞、使用分野、意味、用法、さらには類義語、対義語、用例、文献上の初出例などの情報が示される。国語辞書・日本語辞典・日本語辞書とも言う。 現在は、約50万語を収める最大規模の『日本国語大辞典』(小学館)を始め、種々の中型辞典(10〜20万語規模)や、小型辞典(6万〜10万語規模)が編纂され、特色を競っている。また、電子辞書やインターネット辞書も、近年利用者を増やしている。これら電子版の内容は書物版に基くものが大多数だが、「デイリー新語辞典」(三省堂提供)のように、毎月200語程度の言葉を追加収録するものもある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と国語辞典 · 続きを見る »

国文学研究資料館

国文学研究資料館(こくぶんがくけんきゅうしりょうかん、英:National Institute of Japanese Literature)は、東京都立川市にある大学共同利用機関。大学共同利用機関法人人間文化研究機構を構成する6機関のうちの1つ。国立大学法人総合研究大学院大学文化科学研究科日本文学研究専攻が設置されている。本稿では2004年に国文学研究資料館の附置組織から内部組織に統合された「史料館」(文部省史料館・国立史料館)についても併せて述べる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と国文学研究資料館 · 続きを見る »

四川省

三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と四川省 · 続きを見る »

倭城

倭城(日本語読み:わじょう、朝鮮語読み:ウェソン)は、文禄・慶長の役に際して日本軍が朝鮮半島の南部各地に築いた日本式の城(城砦群)を、朝鮮側が呼んだ呼称である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と倭城 · 続きを見る »

倭の五王

倭の五王(わのごおう)とは、中国の歴史書に記述のある倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。倭の五王が誰であるかに関しては諸説ある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と倭の五王 · 続きを見る »

倭寇

倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇.

新しい!!: 文禄・慶長の役と倭寇 · 続きを見る »

倭館

倭館(わかん、)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。江戸時代には対馬府中藩が朝鮮との外交、通商を行った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と倭館 · 続きを見る »

矢部定政

部 定政(やべ さだまさ)は、安土桃山時代の武将。織田氏、豊臣氏の家臣。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と矢部定政 · 続きを見る »

知行

知行(ちぎょう)とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は微妙に変化していった。日本の歴史上の領主はヨーロッパの農奴制における領主のように無制限に所領の土地と人民を私有財産として所有したのではなく、徴税権・支配権にかかわる一定の権利義務の体系を所持した存在であった。この体系が知行であり、日本史における領主階層のあり方を理解する上で、知行の概念の理解は欠かせない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と知行 · 続きを見る »

石州銀

石州銀(せきしゅうぎん)は、16世紀後半に石見銀山で産出した銀で造られた丁銀である。毛利氏の領国貨幣とされる。石見国、石見銀山の産銀が主であるが、周防国、一之坂銀山を示す「天又一」極印の打たれた丁銀も存在する。石州丁銀(せきしゅうちょうぎん)あるいは萩丁銀(はぎちょうぎん)、萩古丁銀(はぎこちょうぎん)、萩判銀(はぎばんぎん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と石州銀 · 続きを見る »

石川康勝

石川 康勝(いしかわ やすかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。信濃奥仁科藩主。石川数正の次男。諱は員矩(かずのり)とも云う。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と石川康勝 · 続きを見る »

石川康長

石川 康長(いしかわ やすなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。信濃松本藩の第2代藩主。諱は三長(みつなが)、数長(かずなが)とも言う。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と石川康長 · 続きを見る »

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と石田三成 · 続きを見る »

石田正澄

石田 正澄(いしだ まさずみ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣氏の家臣。別名に重成、一氏。通称は木工頭。石田正継の子で、石田三成は実弟。 参議院議員石田昌宏は正澄の子孫を称するが、系譜は不明。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と石田正澄 · 続きを見る »

石高

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と石高 · 続きを見る »

石星

石 星(せき せい、? - 1599年)は、中国・明代の文官。字は拱辰、号は東泉。北直隷東明県(現在の山東省東明県)の出身。 1565年(嘉靖44年)に科挙に進士で及第。1567年(隆慶元年)に隆慶帝に内政の乱れを指摘したが、逆に帝の怒りを買い、職を辞して帰郷した。この時、妻の鄭氏は石星が死んだと伝えられたため自殺した。 万暦帝の代になると再起用され1573年(万暦元年)に尚賓卿大理丞南京太僕卿から僉都御史右副都御史を経て兵部左侍郎、1587年(万暦15年)2月に工部尚書、更に太子少保を加贈され、1590年(万暦18年)3月に戸部尚書、1591年(万暦19年)に兵部尚書を歴任した。 1592年(万暦20年)にボハイの乱が起きると総督に魏学会などを起用して乱を鎮めた。同年の文禄の役では8月に縁故の沈維敬を派遣して交渉で時間稼ぎをする一方、年末には宋応昌・李如松の指揮による大軍を朝鮮へ派遣し、平壌を回復した。しかし、続く碧蹄館の戦いで明軍が大敗すると消極的となり和平に傾いた。以後、日本へ封貢を許すか否かが明朝廷で長く議論されたが、石星の主導する和平路線が採用され、貢は許さないが豊臣秀吉を日本国王に封じるための使者が日本に送られた。これは日本の思惑とも異なる対応であり、和平はならず、1597年(万暦25年)に慶長の役が起きた。9月には交渉失敗の責任から石星は罷免されて牢獄に繋がれ、1599年(万暦27年)9月に獄死した。 朝鮮の氏族の海州石氏の始祖である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と石星 · 続きを見る »

玄海町

漁村の風景(仮屋湾に面した集落) 玄海ウィンドファーム(風力発電) 玄海町(げんかいちょう)は、佐賀県の北西部にある町で、東松浦郡に属する。現在、東松浦郡を構成する唯一の自治体となっている。町名は玄界灘の別名である「玄海」に由来する。 佐賀県の全市町の中で人口が最も少ない。 かつて福岡県に同名の町が存在したが、2003年に宗像市との新設合併により消滅した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と玄海町 · 続きを見る »

玉浦海戦

玉浦海戦(ぎょくほかいせん、朝鮮読みで玉浦はオクポ)は、文禄元年(1592年)5月7日、巨済島東側にある玉浦という入江において行われた海戦である。李舜臣、李億祺、元均の三将が率いる朝鮮水軍は全羅左水営(麗水)より出撃して、停泊中の日本の水軍と輸送船団とを襲撃し、文禄の役における初めての朝鮮側勝利をあげた。 朝鮮水軍は余勢を駆って攻撃を続け、同日中に合浦で、翌日は赤珍浦でも交戦して引き揚げたが、この項ではその合浦と赤珍浦で発生した小海戦についても続けて記述する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と玉浦海戦 · 続きを見る »

王直

王直または汪直(おうちょく、生年不詳 - 嘉靖38年12月25日(1560年1月22日))は、中国の明代の貿易商人(海商)で、後期倭寇の頭目。王直はあだ名で、本名は王鋥(おうとう)と言い、徽王や老船主とも称した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と王直 · 続きを見る »

火縄銃

火縄銃(江戸時代) 愛知万博のポルトガル館展示物) 火縄銃(姫路城天守閣蔵) 火縄銃(ひなわじゅう、Matchlock gun / Arquebus)は、初期の火器(火砲)の形態のひとつで、黒色火薬を使用し、前装式で滑腔銃身のマスケット銃の内で、マッチロック式(火縄式)と分類される点火方式のものをさす。通常、日本では小型のものを鉄砲、大型のものは大筒と称する。 マッチロック式は、板バネ仕掛けに火の付いた火縄を挟んでおき、発射時に引き金を引くと仕掛けが作動して、火縄が発射薬に接して点火する構造である。(詳細は#射法参照) 火縄銃は、15世紀前半にヨーロッパで発明され、特にドイツにおいて発展した 。最古の記録は1411年のオーストリア写本「Codex Vindobona 3069」にZ字型のサーペンタインロック式が見られる 。また1430年代に描かれたサーペンタインの金具の図が残っている。 現代の日本では銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)の規制対象となっており、骨董品として所有するにしても登録が必要である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と火縄銃 · 続きを見る »

火星

火星(かせい、ラテン語: Mars マールス、英語: マーズ、ギリシア語: アレース)は、太陽系の太陽に近い方から4番目の惑星である。地球型惑星に分類され、地球の外側の軌道を公転している。 英語圏では、その表面の色から、Red Planet(レッド・プラネット、「赤い惑星」の意)という通称がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と火星 · 続きを見る »

珍島

珍島(チンド)は朝鮮半島西南端付近に、半島本土と近接して存在する島。両者を隔てているのは幅約300mの鳴梁海峡である。大韓民国に属し、全域を全羅南道珍島郡が管轄している。韓国では済州島・巨済島に次いで3番目に大きな島である。人口は約3万2500人。郡名と同じ名の主島を特に区別する場合、体島(チェド/體島/체도、「本島」の意)と呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と珍島 · 続きを見る »

琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と琉球王国 · 続きを見る »

碧蹄館の戦い

碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。 文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現ソウル)めざして南下する提督李如松率いる約20,000の明軍を、小早川隆景らが率いる約20,000の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と碧蹄館の戦い · 続きを見る »

磁器

磁器(じき、Porcelain)とは、高温で焼成されて吸水性がなく、叩いた時に金属音を発する陶磁器を一般に指す。しかし西洋などでは陶器と区別されないことが多く、両者の間には必ずしも厳密な境界が存在するわけではない。素地が白くて透光性があり、機械的強度が高いという特徴がある。また、焼成温度の高い硬質磁器と、比較的低温で焼成される軟質磁器に分けられる。 Porcelainの語源は『東方見聞録』にある。マルコポーロが磁器を見た際に、白地で硬い殻をもつポルセーラ貝に似ているということでポルセーラと表記したことによる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と磁器 · 続きを見る »

礼曹

曹(イェージョ)は、朝鮮において、高麗末から李氏朝鮮にかけて置かれた行政機関。儀礼や祭事、外交などを司った。正二品衙門。1392年(太祖元年)に設置され、1894年(高宗31年)の甲午改革で学務衙門に改称された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と礼曹 · 続きを見る »

神功皇后

功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。 三韓征伐を指揮した逸話で知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と神功皇后 · 続きを見る »

祖承訓

祖 承訓(そ しょうくん 生没年不詳)は中国明代の武将。文禄・慶長の役に明の朝鮮援兵の将として最初に参戦した。 文禄の役当時は遼陽の副総兵であったが、明朝廷より朝鮮救援の命を受け、文禄元年(1592年)7月16日、少数の日本軍守備兵が残るのみであった平壌奪還を図って5,000の兵を率い奇襲攻撃をかけるも守備兵の善戦により撃退され、さらに急を聞いて駆けつけた小西行長、宗義智、大友義統、立花宗茂、黒田長政の追撃を受けて大損害を被って遼陽へ逃げ帰る。 その後、本格的な明軍の朝鮮派兵に伴い再び従軍し、第二次晋州城攻防戦の際には咸陽付近にあったが、その救援に動くことはなかった。 慶長の役では董一元率いる中路軍に属し泗川の戦いに参加し、敗れた。 Category:明代の人物 Category:文禄・慶長の役の人物 Category:生没年不詳.

新しい!!: 文禄・慶長の役と祖承訓 · 続きを見る »

禁教令

禁教令(きんきょうれい)は、ある宗教を信仰したり布教したりすることを禁ずる命令(法令)のことである。日本においては特にキリスト教を禁じていたものを指し、キリスト教禁止令(キリシタン禁制、禁令)とも呼ばれる。禁制扱いになった宗教は邪宗門と呼ばれた。通常、単に禁教令と言った場合には、日本で1612年(慶長17年)及び翌1613年に江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる法令を指す。 海外においては、ローマ帝国におけるネロやディオクレティアヌスなどの皇帝によるキリスト教禁止の勅令と、それに伴う弾圧が知られているが、一般にはキリスト教徒に対する弾圧、迫害と一括りに呼ばれ、禁教令の語を充てない(例えばディオクレティアヌスによる303年の勅令とそれに伴う弾圧は「最後の大迫害」と呼ばれる)。 本項では江戸時代のキリスト教政策を中心に安土桃山時代以降の日本で行われたキリスト教への禁教令および関連する事項について解説する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と禁教令 · 続きを見る »

福原長堯

福原 長堯(ふくはら ながたか)は、安土桃山時代の武将、大名。正室は石田正継の娘で、石田三成の妹婿。豊後国府内城(荷揚城)主としては、初名の直高(なおたか)の方が有名である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と福原長堯 · 続きを見る »

福岡市博物館

福岡市博物館(ふくおかしはくぶつかん)は、福岡県福岡市早良区に位置する市立博物館である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と福岡市博物館 · 続きを見る »

福島正則

福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と福島正則 · 続きを見る »

禅譲

禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と禅譲 · 続きを見る »

秣(まぐさ)とは馬や牛の飼料とする草。「蒭」とも表記されるが、『和名類聚抄』では、秣は「万久佐」、蒭は「加良久佐」(“乾草”の意)と表記されており、本来は両者の間に区別があったと考えられている。また、「馬草」とも表記される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と秣 · 続きを見る »

科挙

科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と科挙 · 続きを見る »

秋田実季

秋田 実季(あきた さねすえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。安東愛季の次男。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と秋田実季 · 続きを見る »

秋風嶺

秋風嶺(チュプンニョン)は、大韓民国忠清北道永同郡と慶尚北道金泉市の間にある峠である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と秋風嶺 · 続きを見る »

秋水鏡

秋水鏡(추수경、1530年~1600年)は、明代の武将。文禄・慶長の役の明軍の提督李如松に次ぐ副将軍。朝鮮の氏族全州秋氏の中始祖。 中国貴州省出身。1591年に武康刺史に任官。日本軍が李氏朝鮮へ侵攻すると、万暦帝の王命を受け、秋蘆と秋荻の2人の息子と5000人の兵士を率いて鴨緑江を渡河して参戦。その後、3男秋菊と4男秋芝5男秋蘭も参戦する。1593年2月、秋水鏡は、郭山において金應瑞将軍とともに日本軍を破り、開城と漢陽を奪還。 李氏朝鮮から功績をたたえられ、完山府院君と扈聖功臣に封ぜられる。秋水鏡の子孫一族が全州秋氏である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と秋水鏡 · 続きを見る »

秋月種長

秋月 種長(あきづき たねなが)は、戦国時代末期から江戸時代初期の武将・大名。日向高鍋藩の初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と秋月種長 · 続きを見る »

稲葉貞通

葉 貞通(いなば さだみち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊後国臼杵藩初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と稲葉貞通 · 続きを見る »

稲葉重通

葉 重通(いなば しげみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。稲葉良通(一鉄)の庶長子。春日局の伯父にあたり養父でもある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と稲葉重通 · 続きを見る »

稷山の戦い

稷山の戦い(しょくさんのたたかい)は慶長の役において日本軍と明軍との間で戦われた戦闘。文禄・慶長の役を通じて両軍が予断を行わずに、正面切って戦った唯一の野戦である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と稷山の戦い · 続きを見る »

穏城郡

穏城郡(オンソンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道に属する郡。北朝鮮統治範囲の最北端にあたり、名目上は大韓民国領土の最北端でもある。穏城郡の西北部にある南陽労働者区と、豆満江対岸の中華人民共和国図們市の間には図們国境大橋が架けられており、中朝物流の動脈の一つとなっている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と穏城郡 · 続きを見る »

端川市

端川市(タンチョンし、단천시、Tanchŏn-si)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道の都市。人口約28万人。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と端川市 · 続きを見る »

竹島 (島根県)

竹島の位置 竹島(たけしま)は、日本海の南西部に位置する島嶼群で、急峻な地形をなす2つの島と周辺の岩礁からなる。1952年以降、韓国が占領(実効支配)を継続しており、日本および北朝鮮北朝鮮も、竹島を「民族固有の領土」と主張し、南北共同の歴史学者討論会を開いたり、韓国での対日抗議行動を好意的に報道している。がそれぞれ領有権を主張している。「竹島」は日本における呼称で、韓国・北朝鮮では「独島(獨島、トクト、독도、Dokdo)」、第三国では中立的立場から「リアンクール岩礁 (Liancourt Rocks)」等と呼ばれている。 本来は人の住みにくい環境であることから無人島であったが、1946年、連合国司令部がSCAPIN 第677号で竹島(独島)を日本の施政区域から除外した後、韓国が実効支配を実施し、1952年1月には李ライン(平和線)を設定して竹島を韓国側水域に含めた。韓国は、1952年4月にサンフランシスコ条約が発行した後、武装警察官を多数常駐させて実効支配を続けている。日本はこれに対し「不法占拠」であるとして抗議を続けている。しかし韓国側は、独島(竹島の韓国名)は歴史的・地理的・国際法的に韓国の固有領土であると主張し、独島問題に領土問題は存在しないという立場を取っている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と竹島 (島根県) · 続きを見る »

竹中重利

竹中 重利(たけなか しげとし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊後荷揚城城主。府内藩初代藩主。諱は重信、重義、隆重、重隆とも。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と竹中重利 · 続きを見る »

竹中重門

竹中 重門(たけなか しげかど)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。戦国期の軍師として知られる竹中重治(竹中半兵衛)の嫡子。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と竹中重門 · 続きを見る »

竜骨 (船)

(りゅうこつ、keel キール)とは、おおむね2つの意味があり、 ひとつには、重船舶の構造材のひとつで、船底を船首から船尾にかけて通すように配置された構造材のことを指す。 また英語でkeel キールと言えば、船舶の下に配置された水中構造体も指す。 上記2つは古くは構造上深い関係があったので同一名称で呼ばれており、現在では別のものになったものの、現代の船でもタイプによっては部分的に重なることがある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と竜骨 (船) · 続きを見る »

立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将はいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と立花宗茂 · 続きを見る »

立花直次

立花 直次(たちばな なおつぐ)は、安土桃山時代の武将、大名、江戸時代前期の旗本。 高橋鎮種(紹運)の次男で、初めは高橋姓を名乗った。筑後柳河藩主立花宗茂の実弟。幼名は千若丸。通称は弥七郎、少輔太郎。官途は、主膳正、民部少輔。初名は統増(むねます)で、諱は次に宗一(むねかず)、重種(しげたね)、最後に直次とした。立花姓を家号としたのは慶長19年(1614年)頃以降であり、高橋統増、高橋直次の名でも知られる。号は宗卜。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と立花直次 · 続きを見る »

筑紫広門

筑紫 広門(つくし ひろかど)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥前国勝尾城主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と筑紫広門 · 続きを見る »

箱崎 (福岡市)

箱崎(はこざき)は福岡県福岡市東区の町名。現行行政地名は箱崎一丁目から箱崎七丁目。2011年5月末現在の人口は17,535人、世帯数は9,463世帯.。郵便番号は812-0053。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と箱崎 (福岡市) · 続きを見る »

糟屋武則

糟屋 武則(かすや たけのり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 姓は他に糟谷、粕屋、加須屋、賀須屋などとも記され、有名な名乗りとしては加須屋 真雄(かすや さねお/さねかつ)がある。他にも、数政、宗重、真安、宗孝など武則の別名として伝わっているが、年代によって違うことから、本人の名なのか子なのか混乱もある署名では晩年まで真雄が用いられている。。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と糟屋武則 · 続きを見る »

細川忠興

九曜紋 細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と細川忠興 · 続きを見る »

純祖

純祖(スンジョ、じゅんそ、순조、乾隆55年6月18日(1790年7月29日) - 道光14年11月13日(1834年12月13日))は、李氏朝鮮時代の第23代国王(在位:1800年 - 1834年)。諱は玜(ゴン、공)。字は公宝(ゴンボ、こうほう、공보)。号は純斎(スンジェ、じゅんさい、순재)。諡は「宣恪 朝鮮日報 2007/09/16淵徳顕道景仁純禧体聖凝命欽光錫慶継天配極隆元敦休懿行昭倫熙化浚烈大中至正洪勲哲謨乾始泰亨昌運弘基高明博厚剛健粹精啓統垂暦建功裕範文安武靖英敬成孝大王」。元の廟号は「純宗(スンジョン、じゅんそう、순종)」だったが、1857年に「純祖」とあらためられた。 正祖の次男。実の母は綏嬪朴氏で、孝懿王后の養子。兄・文孝世子の死後、1800年に世子になり、同年に即位した。英祖の妃である貞純王后の摂政で僻派が政治を主導したが、1805年には純元王后の本貫でもある安東金氏による勢道政治が始まっており、次代国王・憲宗、次々代国王・哲宗まで続く事となる。純祖は安東金氏を牽制するために豊壌趙氏を重用して、1827年、孝明世子(憲宗の父)が摂政になったが、1830年に孝明世子の死のために失敗した。1834年11月に死去、享年45(満44歳没)。 陵はソウル特別市瑞草区内谷洞にある仁陵。 純祖の命令により編纂された『万機要覧』には、松島(現在の竹島)が于山島だとする『東国文献備考』からの転記があることから、大韓民国は竹島(独島)領有の根拠の一つとしている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と純祖 · 続きを見る »

紅巾の乱

紅巾の乱(こうきんのらん、、、1351年 - 1366年)は、中国元末期の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱。白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名がある。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれる。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と紅巾の乱 · 続きを見る »

織田信包

織田 信包(おだ のぶかね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹波柏原藩初代藩主。信包系織田家初代。織田信秀の四男(異説あり)で、織田信長の弟。通称は三十郎。なお、一時長野工藤家に養子に入り、第17代当主となっている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と織田信包 · 続きを見る »

織田信秀 (侍従)

織田 信秀(おだ のぶひで)は、安土桃山時代の武将。織田信長の六男。祖父である備後守信秀と同名である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と織田信秀 (侍従) · 続きを見る »

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と織田信長 · 続きを見る »

織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と織田信雄 · 続きを見る »

織田秀信

織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。岐阜城主。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。公卿補任においては本姓で平 秀信(たいら の ひでのぶ)と記載されている。洗礼名はペトロ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と織田秀信 · 続きを見る »

群書類従

『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。 塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。 歴史学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と群書類従 · 続きを見る »

義州

義州(ぎしゅう).

新しい!!: 文禄・慶長の役と義州 · 続きを見る »

義州郡

義州郡(의주군、ウィジュぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国北西部の鴨緑江に面した行政区画。平安北道に属する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と義州郡 · 続きを見る »

真田信繁

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と真田信繁 · 続きを見る »

真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と真田昌幸 · 続きを見る »

結城秀康

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と結城秀康 · 続きを見る »

絵本太閤記

『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本(よみほん)。豊臣秀吉の生涯を描いた『川角太閤記』をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と絵本太閤記 · 続きを見る »

瑞興郡

興郡(ソフンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国黄海北道に属する郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と瑞興郡 · 続きを見る »

瓜生島

生島が存在したとされる別府湾 瓜生島(うりゅうじま)は、大分県の別府湾に位置していたが、安土桃山時代に1日にして沈んだとされている島である人文社編集部 『日本の謎と不思議大全 西日本編』 人文社〈ものしりミニシリーズ〉、2006年、134頁、ISBN 978-4-7959-1987-7。別名、沖の浜(おきのはま)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と瓜生島 · 続きを見る »

生熊長勝

生熊 長勝(いくま ながかつ)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と生熊長勝 · 続きを見る »

生駒一正

生駒 一正(いこま かずまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、2代高松藩主。生駒親正の長男。 .

新しい!!: 文禄・慶長の役と生駒一正 · 続きを見る »

生駒親正

生駒 親正(いこま ちかまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。三中老の一人。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と生駒親正 · 続きを見る »

生駒親清

生駒 親清(いこま ちかきよ)は、安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。生駒親重の次男。甥に一正がいる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と生駒親清 · 続きを見る »

田中義成

中 義成(たなか よしなり、安政7年3月15日(1860年4月5日) - 大正8年(1919年)11月5日)は、国史学者。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と田中義成 · 続きを見る »

田保橋潔

保橋 潔(たぼはし きよし、1897年10月14日 - 1945年2月26日)は、日本の歴史学者 北海道出身。本籍は石川県。1921年東京帝国大学文学部国史学科卒。1928年京城帝国大学教授。1933年から朝鮮総督府の朝鮮史編修会第6編修主任、ついで同会編纂主任兼任。日本近代外交史、朝鮮近代史の研究を行った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と田保橋潔 · 続きを見る »

甲賀

賀(こうか、こうが)は、日本の地名。転じて姓や物の名前にもなる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と甲賀 · 続きを見る »

申リツ

申砬(しん・りつ、1546年 - 1592年、リツは「石」偏に「立」旁)は李氏朝鮮の武将。字は立之。諡号は忠壮。 1567年に科挙に合格して、主に北の国境で女真族との戦いで活動した。文禄の役で日本軍の上陸の報告を受けた李氏朝鮮が急遽派遣した将軍(役職は三道都巡辺使)。忠清北道忠州市の弾琴台で日本軍の進撃を阻もうと小西行長らの一番隊を迎撃するが(弾琴台の戦い)、敗れて投身自殺。墓は京畿道広州市にある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と申リツ · 続きを見る »

熊川

川(くまかわ、くまがわ).

新しい!!: 文禄・慶長の役と熊川 · 続きを見る »

熊谷直盛

谷 直盛(くまがい なおもり)は、安土桃山時代の武将、大名。豊後国安岐城主。別名に直陳(なおつら)。通称は内蔵允。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と熊谷直盛 · 続きを見る »

燃藜室記述

『燃藜室記述』(ねんれいしつきじゅつ)は、朝鮮王朝後期(18世紀)に李肯翊()が編纂した朝鮮の歴史書。「燃藜室」は李肯翊の号。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と燃藜室記述 · 続きを見る »

異国日記

『異国日記』(いこくにっき)は、近世初期日本の外交記録文書である。2冊。以心崇伝らによる自筆本が京都の金地院に所蔵されており、国の重要文化財に指定されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と異国日記 · 続きを見る »

畿内

畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.

新しい!!: 文禄・慶長の役と畿内 · 続きを見る »

牧村利貞

牧村 利貞(まきむら としさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。別名:政治、政吉、高虎。通称:長兵衛。兵部大輔。子に牛之助、おなあ(後の祖心尼)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と牧村利貞 · 続きを見る »

片桐且元

片桐 且元(かたぎり かつもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降も、傅役として豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場で、方広寺鐘銘事件で大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と片桐且元 · 続きを見る »

片桐貞隆

片桐 貞隆(かたぎり さだたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。大和国小泉藩の初代藩主。 片桐直貞の次男で、片桐且元は兄である。21歳の時に兄と共に豊臣秀吉に仕え、播磨国に150石の所領を与えられた。その後、小田原征伐、文禄の役などに従軍したことから、播磨国内に1万石余の所領を与えられる。秀吉没後は兄と共にその子豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に就いて大津城の戦いに加わったが、所領は安堵された。慶長19年(1614年)6月、大野治長と共に徳川家康の口添えで五千石を秀頼より加増され、その礼として治長と駿府にいる大御所家康、次いで江戸の将軍徳川秀忠を訪ねる。だが、大坂に戻ってくるなり方広寺鐘銘問題が噴出し、これを契機に家康との内通を疑われるようになり、兄と共に豊臣氏の下を去って家康に仕えるようになり、大坂夏の陣の後、1615年、大和国小泉に1万6千石を知行された。 兄より遥かに激しい気性の持ち主であったと言われている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と片桐貞隆 · 続きを見る »

相良頼房

良 頼房(さがら よりふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。相良氏20代当主で、肥後国人吉藩初代藩主。頼房は初名で、晩年である元和2年に長毎(ながつね)と改名したので、先祖と同名の相良長毎が実名であるが、区別のために項目名は頼房としている。また父の義陽も初名は頼房であった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と相良頼房 · 続きを見る »

相良氏

良氏(さがらうじ / さがらし)は、肥後南部を支配した戦国大名の氏族である。江戸時代は肥後人吉藩主家として明治維新まで存続した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と相良氏 · 続きを見る »

白村江の戦い

白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と白村江の戦い · 続きを見る »

百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と百済 · 続きを見る »

階級

階級(かいきゅう).

新しい!!: 文禄・慶長の役と階級 · 続きを見る »

韓国併合

韓国併合(かんこくへいごう、Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される。この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と韓国併合 · 続きを見る »

韓国料理

韓定食 パンチャン(おかず) 韓国料理(かんこくりょうり。韓国語: 한국 요리 ハングク・ヨリ)、朝鮮料理(ちょうせんりょうり。文化語: 조선료리 チョソン・リョリ)、または大韓料理(だいかんりょうり。대한 요리 テハン・ヨリ)は、朝鮮民族の料理の総称である。韓国料理、韓食(한식 ハンシク)と言った場合は、狭義的に韓国の料理を指すこともあるが明確な区別はない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と韓国料理 · 続きを見る »

韓石峰

韓石峰(かん・せきほう、1543年 - 1605年)は、朝鮮(李氏朝鮮時代)の書家。石峰は号。名は濩。字は景洪。『韓石峰書千字文』で知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と韓石峰 · 続きを見る »

莞島郡

莞島郡(ワンドぐん)は、大韓民国全羅南道にある郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と莞島郡 · 続きを見る »

鎮海区 (昌原市)

鎮海区(チネく)は、大韓民国慶尚南道昌原市の区。韓国最大の軍港の町として知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鎮海区 (昌原市) · 続きを見る »

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鎌倉幕府 · 続きを見る »

鎖国

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた『』 P.183 小林庄次郎 1915年。 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。及びオランダネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。(オランダ東インド会社本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。 なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鎖国 · 続きを見る »

聚楽第

聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と聚楽第 · 続きを見る »

聞慶市

聞慶市(ムンギョンし)は大韓民国慶尚北道の北西部にある市である。道庁のある大邱広域市から北北西に90km。李氏朝鮮時代には、慶尚道と漢城を結ぶ主要街道・嶺南大路の中継点であり、聞慶の西の聞慶セジェ(鳥嶺)という峠で街道が白頭大幹(小白山脈)の鳥嶺山を超えていたことから国防上の要衝でもあった。また近代には産炭地として栄えたが、現在炭鉱は全て閉山となっている。市のブランドスローガンは「Running 聞慶」。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と聞慶市 · 続きを見る »

遣明使

遣明使(けんみんし、1401年-1547年)とは、室町幕府から明に派遣された使節のことをいう。室町幕府第三代将軍足利義満(在職1368年 - 1394年)が始めた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と遣明使 · 続きを見る »

遼東半島

遼東半島の位置 遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンはんとう、中国語簡体字:辽东半岛 Liáodōng Bàndăo)は、中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、大連などの都市がある。遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と遼東半島 · 続きを見る »

聖福寺 (福岡市)

聖福寺(しょうふくじ)は、福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院である。栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺として有名である。境内は国の史跡に指定されており、山門や仏殿などがある。山号は安国山(通称は安山)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と聖福寺 (福岡市) · 続きを見る »

荻生徂徠

荻生 徂徠(おぎゅう そらい、正仮名遣:をぎふそらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日)は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。名は双松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、実名としては「しげのり」、字としては「もけい」と読む。通称は総右衛門。徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、又蘐園と号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。本姓は物部氏で、「物茂卿」とも号した。父は5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。その弟の影響を受けて、『明律国字解』を著している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と荻生徂徠 · 続きを見る »

鍾城郡

鍾城郡(チョンソンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道の北部にかつてあった郡。15世紀に豆満江沿いに置かれた六鎮の一つに由来する。1974年に廃止され、大部分は穏城郡に併合された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鍾城郡 · 続きを見る »

鍋島勝茂

鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥前国佐賀藩初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鍋島勝茂 · 続きを見る »

鍋島直茂

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。 なお数回改名しており、本項では便宜的に後期の名乗りである直茂で統一して解説する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鍋島直茂 · 続きを見る »

鏡城郡

鏡城郡(キョンソンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道に属する郡。李氏朝鮮王朝時代の地方行政の中心地であり、咸鏡道の名も鏡城に由来する。また、朱乙温泉をはじめとする温泉が多い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鏡城郡 · 続きを見る »

菅達長

菅 達長(かん みちなが、生年不詳 - 慶長19年12月26日(1615年1月25日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。通称は平右衛門。淡路十人衆の1人。淡路島の東の海の水軍を率いた。本拠地は志知・釜口・岩屋・須本など諸説ある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と菅達長 · 続きを見る »

菅茶山

菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日(1748年2月29日)- 文政10年8月13日(1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と菅茶山 · 続きを見る »

靖難の変

靖難の変の地図 靖難の変(せいなんのへん)は、明王朝初期の政変、内乱。1399年7月にはじまり、華北を舞台に1402年まで続く。「靖難」とは、「君難を靖んじる」という意味で、乱を起こした燕王朱棣(永楽帝)が挙兵する際に掲げた主張に基づく。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と靖難の変 · 続きを見る »

青木一矩

青木 一矩(あおき かずのり)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の従兄弟。豊臣家の一門衆。越前大野城、府中城、次いで北ノ庄城の城主。千利休に師事した茶人としても知られ、名物の所持者でもあった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と青木一矩 · 続きを見る »

頼山陽

書斎山紫水明處・京都市上京区 頼山陽の署名「頼襄」 頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と頼山陽 · 続きを見る »

領議政

議政(りょうぎせい、朝鮮読み:ヨンイジョン、영의정)は、李氏朝鮮における議政府3議政の一つで、正一品にあたる最高の中央官職。現在の大韓民国の国務総理にあたる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と領議政 · 続きを見る »

順天城の戦い

順天城の戦い(じゅんてんじょうのたたかい)は、慶長の役における戦闘。(順天倭城の構造については順天倭城を参照のこと。)(この項の日付は和暦を用いる).

新しい!!: 文禄・慶長の役と順天城の戦い · 続きを見る »

順天市

順天市(スンチョンし)は大韓民国全羅南道東南部の市。16世紀末に日本軍が築いた順天倭城が残る。2013年に(国際園芸博覧会)が開催されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と順天市 · 続きを見る »

順安

順安.

新しい!!: 文禄・慶長の役と順安 · 続きを見る »

順和君

順和君(じゅんわくん、スンファグン、순화군、万暦8年10月10日(1580年11月16日) - 万暦35年3月18日(1607年4月14日)は、李氏朝鮮の第14代国王宣祖の第6子(庶子)。名は𤣰(王偏に土)(ボ、보)。 1592年、文禄の役に王命によって募兵の為に江原道を目指すが、咸鏡道で臨海君と共に反乱軍に抑留された後、加藤清正に引き渡されて捕虜となった。後に講和の条件として釈放された。 暴悪な性格だったため、1601年、君号を剥奪されたが死後に復された。諡号は僖敏。 柳夢寅が書いた『於于野談』には、兄である臨海君の物を奪って人を殺すなどの行動のために閉じこめられたが、順和君が「高聳獨家 八風長吹 凍死丁寧」という詩を作ると不憫に思った宣祖が解放したものの、翌年に死んだという。 Category:李氏朝鮮の王族 Category:全州李氏 Category:文禄・慶長の役 Category:1580年生 Category:1607年没.

新しい!!: 文禄・慶長の役と順和君 · 続きを見る »

衝角

衝角が敵艦の船腹を突き破る様子を描いた模式図。水線付近の舷側装甲帯を避け、その下を突いている。 衝角(しょうかく)は、軍船の船首水線下に取り付けられる体当たり攻撃用の固定武装である。 英語では ram と呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と衝角 · 続きを見る »

顕如

顕如(けんにょ、顯如)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。 顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、信樂院)。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣九条稙通の猶子。室は左大臣三条公頼三女の如春尼。長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。 神仏をないがしろにし武力による天下統一を狙う織田信長を仏敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて決戦を挑んだ。軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に、調略を巡らせて信長包囲網を築き10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と顕如 · 続きを見る »

袞衣

袞衣(こんえ、こんい)は、唐風の天皇衣装。礼服の一種で、天子御礼服ともいう。孝明天皇までは、即位の儀などに冕冠とともに用いられた。冕冠と合わせて袞冕(こんべん)ともいう。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と袞衣 · 続きを見る »

西人

西人(せいじん、서인、ソイン)は、李氏朝鮮の官僚の派閥の一つ。 大地主両班が中心の勲旧派に対抗した、中小の地主が基盤になっている新興官僚の一派・士林派がそのルーツである。 士林派が、1567年、宣祖の即位により士林派政権を樹立する事に成功すると、1575年、今度は官職の任官権を巡り士林派の沈義謙と金孝元による党争が始まった。 その中の沈義謙派の事をその領袖が漢陽(ソウル)の西側に住んでいたので西人と呼んだ。この党争は、朱子学の解釈の違いにまで及び、西人は、李珥(栗谷)の学説を指示する主気派(朱子学の中で、宇宙の成り立ちの根元の気と理の内、気を本質的なものとして考える学派)が多かった。 これに相反する金孝元派の事を東人と呼んだ。 李珥が、西人と東人の間を仲裁していたが、1584年に亡くなると本格的な政治党争に入る。西人の沈義謙が失脚し、西人は一時勢力を失うが、西人から東人へ寝返った鄭汝立の謀叛事件により西人が政権を担う。しかし、1591年世子冊封に対する問題で、西人の領袖・鄭澈が失脚すると西人の多くは左遷され、東人に政権が移った。 この時期は、文禄の役の直前であり、西人の黄允吉が正使として、東人の金誠一が副使として、日本の動向を探りに行ったが、黄允吉が日本による侵略の可能性を訴えていたのに対し、金誠一がこれを否定したため、東人の領袖で政権を担当していた柳成龍が黄允吉の意見を握りつぶし、防衛対策を一切することを禁止させた。 1623年までは、東人から分裂した北人の押す光海君が政権を担っていたが、同年西人による宮廷クーデターが勃発し、綾陽君(仁祖)を即位させ、政権の主導権を握ることになる(仁祖反正を参照)。 顕宗の治世の際に服喪期間が問題となり、1659年から15年間の東人から分裂したもう一方の南人を退け政権を担当しつづけた。しかしながら、勢力が巨大化したため、南人と外戚の金錫冑はこれに抵抗し、1674年再び、孝宗妃の仁宣王后の服喪期間に対する論争がおき、西人はこの論争に負け(甲寅礼訟)、政界から多くの西人が追放され、西人勢力は朝廷から一掃される。 しかし、南人の伸張を恐れた粛宗が1680年、南人を大量に追放し西人に軍権を渡してしまう(庚申換局)。西人は政局に復帰したが、粛宗の外戚に対し批判的な少論と、妥協的な老論に分裂する。 1689年になると粛宗と西人が、南人出身の張氏とその王子を、王妃及び王世子にするかで対立し、再び西人勢力は一掃される(己巳換局)。 1694年、南人勢力が西人の勢力を追放しようと少論・老論がクーデターを企てているとしてこれらの勢力を追放しようとしたが失敗に終わり、逆に南人勢力が追放され、今度は少論による政権が樹立する。 それ以後は少論・老論による対立が激化し、西人は1701年前後に分裂、粛宗末期の王位継承後継問題(賜死した禧嬪張氏の生んだ世子か低い身分出身の淑嬪崔氏の生んだ延礽君か)でその対立は決定的になる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と西人 · 続きを見る »

西征日記

『西征日記』(せいせいにっき)は、安土桃山時代に起きた文禄の役において、小西行長と宗義智の一番隊に従軍した人物の陣中日記。 内容から判断して記録者は宗義智の家臣であるが、署名がなく、室直清が主張した妙心寺(臨済宗)の外交僧・天荊であるというのが定説。しかし『征韓偉略』の著者川口長孺は別の外交僧景轍玄蘇と同じ聖福寺から従軍した僧・宗逸の作であるという異説を述べていた。いずれにしても、朝鮮国先駈勢の一番隊の内情に関する重要史料である。『続々群書類従』などに所収。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と西征日記 · 続きを見る »

西笑承兌

西笑承兌画像(大阪城天守閣蔵) 西笑 承兌(さいしょう(せいしょう) じょうたい、天文17年(1548年) - 慶長12年12月27日(1608年2月13日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。相国寺承兌とも呼ばれる。号は月甫、南陽「講談社 日本人名大辞典」。 山城国伏見(京都市伏見区)の人。豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務め、特に諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と西笑承兌 · 続きを見る »

西暦

西暦(せいれき)とは、キリスト教でキリスト(救世主)と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」又は「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 今年は2018年 (JST) である。西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)をBefore Common Era(BCE)に切り替える動きが広まっている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と西暦 · 続きを見る »

西海道

西海道(さいかいどう、にしのみち)は、五畿七道の一つ。九州とその周辺の島々の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と西海道 · 続きを見る »

覚深入道親王

覚深入道親王(かくしん/かくじん にゅうどうしんのう、天正16年5月5日(1588年5月29日) - 慶安元年閏1月21日(1648年3月15日))は、江戸時代前期の皇族、真言宗の僧。後陽成天皇の第1皇子。母は典侍・中山親子。仁和寺第21世門跡。出家前の諱は良仁親王(かたひと しんのう)。後南御室とも呼ばれる。覚深法親王(〜ほっしんのう)としたものも多いが、親王宣下は出家前にすでに受けているので正しくは法親王ではなく入道親王である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と覚深入道親王 · 続きを見る »

馭戒慨言

馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん/からおさめのうれたみごと)は、本居宣長による歴史書。江戸時代以前の日本外交史について記述している。2巻4冊大久保『国史大辞典』。 当初は『待異論』の題名で安永6年(1777年)12月に初稿が成立し、翌年安永7年(1778年)に最終稿が完成して『馭戒慨言』と改題、天明7年(1787年)2月に識語が付され、寛政8年(1796年)4月に刊行された百川『日本歴史大事典』。なお、田中康二によれば「馭戒」すなわち「西戎を制馭する」という概念は宣長以前にはみられず、「馭戒」自体が宣長による造語である可能性があるという。なお、『馭戒慨言』の読みについては、同書に序文を付けた弟子の渡辺重名は「からおさめのうれたみごと」と振り仮名を付けているが、宣長自身は息子の春庭に充てた書状には「ギョジウガイゲン」と読みが振られている。 宣長は崇神天皇が同7年(紀元前91年)にから大物主神から得た託宣を全ての外国が日本に朝貢してその暦を奉じるとする予言と解し、同年から江戸幕府の成立までを記す。 宣長は日本は世界を照らす太陽神(「日神」)の子孫が天皇として統治する万邦無比な国でありそれに相応しい尊厳を持つべきだとの観点で記しているが、これは中国中心の華夷秩序を反転させて日本を中心とした華夷秩序に基づいた発想と言える。 このため、中国の支配者を「天子」と呼んで尊び、死去を「崩」と表現することを非難し、例えば聖徳太子が遣隋使の小野妹子に持たせた国書にある「日出処天子云々」も(一般的には中国の皇帝に対する無礼な親書と解するところを)宣長に言わせると天皇が臣下である隋国王に下す詔書の形式で無いことを非難する。そもそも、戎王(西戎の王である中国皇帝)に使者を送る遣隋使や遣唐使を無益なことと断じている。 また、元寇を撃退した北条時宗の業績を称え、二条為氏が伊勢神宮に勅使として敵国降伏を祈った故事を引用しながら、日本は神々の庇護によって神風が吹いて敵軍を撃退したのだと述べ、更に外国人をこれを季節や地形の問題にするのは日本の神を霊験を知らない無知と負け惜しみであると非難している。 一方、豊臣秀吉の朝鮮出兵について敵である明軍は戦わずに逃亡したと評価しつつも、秀吉は敬神を怠り、配下の将兵は朝鮮の罪の無い民衆を無益に殺したために敗北したとする。 『馭戒慨言』の記述が江戸幕府以前に留めているように、宣長の執筆の意図は外交史の観点から漢意の批判・排除を目的としたもので、現実の外交を論じたものとは言えなかったが、宣長の没後に欧米の異国船の来航が始まると同書を現実の外交を論じたものとして拡大解釈されるようになっていく。 幕末期には平田派の国学者によって宣長の代表作にあげられ、広く読まれるようになった。吉田松陰が現実の外交の意味で「馭戒」の語を用い、大国隆正は『馭戒問答』、平田延胤は『馭戒論』を著している。当時の情勢と彼らの立場からしてこの場合の「馭戒」は攘夷の別称であったと考えられる。 昭和期に入ると藤田徳太郎・蓮田善明・保田與重郎らは『馭戒慨言』を対外戦争(大東亜戦争・太平洋戦争)への勝利や大東亜共栄圏に臨むにあたって日本人が必読すべき書であると述べており、「馭戒」は侵略の別称ともなった。 田中康二は著者である本居宣長は「漢意排斥」の意図により『馭戒慨言』を著したが、対外危機の時代にその時代のイデオロギーと共鳴する形で読み替えられていくことで、時代を先取りする本として高く評価されていったと、評している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と馭戒慨言 · 続きを見る »

観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と観応の擾乱 · 続きを見る »

首実検

首実検(くびじっけん)とは、前近代、配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級(くび・しるし)の身元を大将が判定し、その配下の武士の論功行賞の重要な判定材料とするために行われた作業。本当に申告した本人の戦功かどうかの詮議の場でもあった。夏期においては穂垂首は軍鑑の確認に止める場合もあった。 大将や重臣が、討ち取ったと主張する者にその首を提出させ、相手の氏名や討ち取った経緯を、場合によっては証人を伴い確認した上で戦功として承認する。首級の確認は、寝返りした、または捕虜となった敵方に確認させることもあった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と首実検 · 続きを見る »

駕籠

駕籠 駕籠(かご)は、人を乗せて人力で運ぶ乗り物のこと。人が座る部分を一本の棒に吊し、複数人で棒を前後から担いで運ぶ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と駕籠 · 続きを見る »

騎馬民族

騎馬民族(きばみんぞく)とは、馬を移動手段とし、非定住生活を送る遊牧民である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と騎馬民族 · 続きを見る »

許孚遠

許孚遠(きょ・ふえん、?~1604年)は中国明王朝の官僚。福建巡撫在任中、日本に間諜を派遣し、明軍の日本遠征を計画した。 許孚遠は浙江の徳清(現・湖州市徳清県)に生まれ、1582年科挙の進士科に合格した。官歴は工部主事から始まり、吏部主事に転じた後、通政使司右通政に昇進した。1592年福建巡撫(地方長官)張汝済が解任されたため福建巡撫に起用された。折りしも日本軍が朝鮮を占領しており(文禄・慶長の役)、北京の兵部尚書(軍務大臣)石星の命令で福建から日本に間諜を派遣することになっていたため、錦衣衛指揮・史世用を密航船の海商に変装させて大隅国内之浦(現・鹿児島県肝付町)に潜入させた。 史世用は薩摩の島津義久の侍医をしていた明人・許儀後から日本事情を聞きだし、日本の諸大名は豊臣秀吉の独裁権力を恐れていやいや臣従しているだけで、本心は秀吉を嫌っている者が義久はじめ数多いと知った。このため史世用は明軍20万を日本に派遣し、反秀吉の諸大名と連合すれば、秀吉は朝鮮から撤兵せざるをえないと許孚遠に通報してきた。そこで許孚遠は日本遠征軍派遣を北京に進言するとともに、第二の間諜を日本に派遣した。しかし、北京の石星は自らのエージェントである沈維敬のルートで日本との講和を進めていたため、経費のかかる遠征案を退けた。 一方、福建では1593年不作のため米価が高騰したため、許孚遠は米価の値上げを禁じる措置をとったが、米商人の売り惜しみが発生し、飢える者が続出した。このため「撫臣・許孚遠は道学を以って自負しているが、経済に疎く、軍民の上に立つのが難しい」と非難する官僚もあった。 翌1594年、スペインのフィリピン総督(呂宋酋長)の子が福州に使者を送り、華僑が反乱を起こして総督を殺し、その船を奪って逃げたと訴えてきた。許孚遠がこの件を上奏すると、ルソンの使者は厚くもてなし、日本事情を偵察させるようにせよと勅許が降りた。福州とマニラの間で外交交渉もあったようである。 この年、許孚遠は南京大理寺卿に転任を命じられた。明は副都南京にも中央官制を置いていたが、名目だけの閉職であった。日本との講和が破綻し石星が失脚すると、許孚遠は兵部右侍郎(北京)を拝命した。1604年病没。時論は賢人であると評した。著作に「敬和堂集」があり、そのなかの三篇が「明経世文編」に収録されている。 Category:明代の人物 Category:明代の進士 Category:日中関係史 Category:湖州出身の人物 Category:1604年没.

新しい!!: 文禄・慶長の役と許孚遠 · 続きを見る »

許イン

許の生家(江陵市) 許 筠(きょ いん、ホ・ギュン、허균、1569年 - 1618年)は、李氏朝鮮時代の文人、政治家、思想家、小説家。本貫は陽川許氏。字は端甫。号は蛟山(こうさん、キョサン、교산)、惺所(せいしょ、ソンソ、성소)、白月居士(はくげつこじ、ペグォルゴサ、백월거사)。ハングルで書かれた最古の小説『洪吉童伝』の作者。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と許イン · 続きを見る »

許儀後

許儀後または許儀俊(きょ ぎご、きょ ぎしゅん、生没年不詳)は、戦国・安土桃山時代・江戸時代の人物で、島津氏に仕えた医者である。許三官とも言う。島津義弘の医術の師であるともいわれる。 出身は『朝鮮王朝実録』などから中国・福建省とされてきたが、『全浙兵制考』や『薩藩旧記雑録』から江西省・吉安府の出身とする方が有力とされる。 中国・明の人物であったが、隆慶5年(和暦:元亀2年(1571年))倭寇に捕えられ捕虜として薩摩に連れてこられたところを島津義久に気に入られ、その侍医となりそのまま帰化した。義久と共に豊臣秀吉とも謁見している。 しかし、秀吉の起こした「文禄・慶長の役」の目的が明の征服と知ると、同じく薩摩に帰化していた郭国安(後の汾陽理心)と共に、明へ日本国内の事情などを記した密書を、同郷の海商である朱均旺に託し送っている(明からの使者が許と接触した際、秀吉を快く思わない義久と明が連合して秀吉を攻める提案をしたともされる)。但し、秀吉はそのことを知っており、義久と共に秀吉へ謁見した際に、秀吉は巨大な鍋を鋳造させ許を煮殺そうとした。しかし、徳川家康が秀吉を宥めたことで命拾いし、許はそのときの返礼として、家康が病になった際に薬を調剤して恩を返している。 文禄2年(1593年)に許孚遠により派された史世用が、商人に扮して内之浦へ来航、舟を提供した許豫と共に許儀後との接触を図らんとした。これを怪しんだ伊集院忠棟と正興寺住職の玄龍の二人は、許儀後を通訳にこれを取り調べている。史世用と許豫は来航の目的を頑なに通商の為であるとし、後に解放されると、許儀後はそれより間も無くの10月に義久の命により、島津勢の疫病治療のために朝鮮へ渡海している。 没年は不明であるが、慶長18年(1613年)の時点で410石を領しているとの記録がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と許儀後 · 続きを見る »

許浚

許 浚(きょ しゅん、ホ・ジュン、허준、1539年 - 1615年)は、李氏朝鮮時代の医者。『東医宝鑑』の著者として知られる。本貫は陽川、字は清源、号は亀巌。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と許浚 · 続きを見る »

驪州市

驪州市(ヨジュし)は大韓民国京畿道の南東部にある市である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と驪州市 · 続きを見る »

高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と高句麗 · 続きを見る »

高台院

台院(こうだいいん、生年は諸説あり - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と高台院 · 続きを見る »

高岡宗弼

岡 宗弼(たかおか むねすけ)は、安土桃山時代の武将。生駒氏の家臣。讃岐国長嶺城2代城主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と高岡宗弼 · 続きを見る »

高田治忠

治忠(たかだ はるただ)は、安土桃山時代の武将・大名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と高田治忠 · 続きを見る »

高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

新しい!!: 文禄・慶長の役と高麗 · 続きを見る »

高麗史

『高麗史』(こうらいし)は、朝鮮の高麗王朝(918年 - 1392年)のことを記した紀伝体の官史。編纂は李氏朝鮮の鄭麟趾らによって行なわれ、文宗元年(1451年)に完成した。成立の際、高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書朝鮮王朝実録に相当する高麗王朝実録があったとされる。この実録の存在は、世宗実録からも存在が確認されるが、高麗史成立後の存在は不明となっている。具体的には、高麗の実録は世宗 22年までは忠州開川寺史庫に収蔵されてから 高麗史纂修のために京中に輸送されて、纂修が終わった後の行方ははっきりしない。 出典はである。 また史庫に関する詳細は、 を参照されたい。 なお、焚書された元天錫の「野史」6巻によれば、高麗史は高麗王朝実録の書き換えであり、「高麗実録」を「高麗史」に書き換えた事情が書かれ、高麗末の禑王は辛旽の子ではなく、恭愍王の子と書かれていたという。現存は転記の耘谷集等詩歌の部分と記録のみである。 ・書籍が参照されたが、すべて焚書または消失李氏朝鮮 太祖の時代に 「書雲觀」等の記録を焚書した。さらに一般民の史書の所持と輸入は厳しく禁止していた。具体的には明朝會典 皇明通紀 明紀輯略等多岐にわたる。 例えば、平安道の儒生 桂徳海が中国からの史書を所持していた事件(1771年)で断罪されている。し、大部分は現存しないので、この『高麗史』と独立に編纂された春秋館編纂の編年体形式の『高麗史節要』(1452年)が高麗時代の史書となる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と高麗史 · 続きを見る »

高橋元種

橋 元種(たかはし もとたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。日向縣藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と高橋元種 · 続きを見る »

鬼頭宏

頭 宏(きとう ひろし、1947年3月2日 - )は、日本の経済学者(日本経済史・歴史人口学)。学位は経済学修士(慶應義塾大学・1971年)。静岡県立大学学長(第6代)・静岡県立大学短期大学部学長(第6代)、日本学術会議連携会員。 慶應義塾高等学校教諭、上智大学経済学部教授、上智大学大学院経済学研究科経済学専攻主任、上智大学経済学部経済学科学科長、上智大学地球環境研究所所長、上智大学研究機構常設研究部門部門長などを歴任した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鬼頭宏 · 続きを見る »

議政府

議政府(ぎせいふ、ウィジョンブ)は、李氏朝鮮における最高行政機関。正一品衙門。 この機関が創設されたのは、1400年(定宗2年)に都評議使司、門下府を統合して創設される。翌年1401年(太宗元年)門下府の機能を独立させ、司諫院とした。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と議政府 · 続きを見る »

谷城郡

谷城郡(コクソンぐん)は大韓民国全羅南道の北東部にある郡である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と谷城郡 · 続きを見る »

谷衛友

谷 衛友(たに もりとも)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹波山家藩の初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と谷衛友 · 続きを見る »

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豊臣秀吉 · 続きを見る »

豊臣秀保

豊臣 秀保(とよとみ ひでやす/とよとみ の ひでやす)/羽柴 秀保(はしば ひでやす)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀(とも)の子で、後に豊臣秀長の婿養子となる。大和国の国主で大和大納言と呼ばれた秀長を継ぎ、官位が中納言であったことから、大和中納言(やまと ちゅうなごん)の通称で呼ばれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豊臣秀保 · 続きを見る »

豊臣秀勝

豊臣 秀勝(とよとみ ひでかつ / とよとみ の ひでかつ) / 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀と三好一路の次男で、秀次の弟、秀保の兄。幼名は小吉(こきち)。 他の秀勝との呼び分けとして、史家は便宜上、小吉秀勝(または三好秀勝)と呼ぶことがある。しばしば於次秀勝と混同され、丹波少将や丹波中納言という同じ通称が用いられた。岐阜宰相とも言われるがこれは間違いで、遺領を継いだ織田秀信(三法師)が同じく称されたものとの混同である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豊臣秀勝 · 続きを見る »

豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豊臣秀頼 · 続きを見る »

豊臣秀長

豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となるに至る。また官位も従二位権大納言に栄進したことから、大和大納言と尊称された。秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豊臣秀長 · 続きを見る »

豊臣秀次

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豊臣秀次 · 続きを見る »

豊臣鶴松

豊臣 鶴松(とよとみ つるまつ)は、安土桃山時代の人物で、豊臣秀吉の嫡男。鶴松の名で知られているが、幼名は棄(すて)で、武運長久を祈るために、八幡太郎とも呼ばれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豊臣鶴松 · 続きを見る »

豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豊臣氏 · 続きを見る »

豊臣政権

豊臣政権(とよとみせいけん)は、天正18年(1590年)、(ただし、実質的には天正13年(1585年))から、慶長8年(1603年)まで成立していた豊臣氏による日本国の政権。豊臣氏政権(とよとみしせいけん)とも言われる。また羽柴氏政権とも言われる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豊臣政権 · 続きを見る »

豆満江

豆満江(咸鏡北道会寧市松鶴里・吉林省延辺朝鮮族自治州龍井市白金郷付近) 豆満江(とうまんこう、朝鮮語:두만강)は、中朝国境の白頭山(中国名:長白山)に源を発し、中華人民共和国(中国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシアの国境地帯を東へ流れ日本海に注ぐ、全長約500kmの国際河川である。 豆満江(두만강)は朝鮮語での呼称で、韓国と北朝鮮に於いての違いはない。語源は「万」を意味する満州語「トゥメン」であり、満州語ではトゥメン・ウラ( 転写:tumen ula)と称する。中国語では図們江と表記する(Túmenjiāng, トゥーメンチャン、簡体字:)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と豆満江 · 続きを見る »

貝原益軒

貝原益軒の座像(福岡市中央区・金龍寺) 貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日) - 1714年10月5日(正徳4年8月27日))は、江戸時代の本草学者、儒学者。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と貝原益軒 · 続きを見る »

貨幣

貨幣(かへい、money)とは、.

新しい!!: 文禄・慶長の役と貨幣 · 続きを見る »

貴田孫兵衛

貴田 孫兵衛(きだ まごべえ)は、 安土桃山時代の武将。加藤清正の家臣。実名は「統治」ともされるが不詳。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と貴田孫兵衛 · 続きを見る »

賤民

賤民(せんみん)とは、通常の民衆よりも下位に置かれた身分またはその者を指す。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と賤民 · 続きを見る »

鳳山郡

鳳山郡(ポンサンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国黄海北道に属する郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鳳山郡 · 続きを見る »

鳴梁海戦

梁海戦(めいりょうかいせん)は、鳴梁渡海戦ともいい、豊臣秀吉の慶長の役により慶長二年(1597年)9月16日(和暦/以下同)に陸に呼応して西進した日本水軍と朝鮮水軍との間に起こった慶長の役における海戦の一つ。 韓国では鳴梁大捷と呼ばれ、李舜臣率いる少数の朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦いとして名高い。しかし実際には、朝鮮水軍は日本水軍の先鋒と戦った後は、彼我の戦力差に鑑みたためか、それ以上の無理な攻撃を行わず、根拠地および制海権を放棄し、遠方まで撤退している。これにより戦場の制海権は日本側のものとなったため、朝鮮水軍の基地である(全羅道)右水営や対岸の珍島の攻略を許し、結果として日本水軍の侵攻は成功している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鳴梁海戦 · 続きを見る »

足利国朝

足利 国朝(あしかが くにとも)は、安土桃山時代の武士。弟の頼氏が称した名字に因んで喜連川国朝とも呼ばれる。諱の「国」(旧字体:國)、「朝」の両字は祖先にあたる河内源氏の人物が使用したものに由来するもので、何か特別な理由があって先祖・先人に肖る形で名乗ったのであろう。 なお、『喜連川判鑑』では男性の関東公方家当主としては唯一花押の記載がない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と足利国朝 · 続きを見る »

足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と足利義満 · 続きを見る »

足利義持

足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と足利義持 · 続きを見る »

足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と足利義昭 · 続きを見る »

足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と足利義教 · 続きを見る »

足軽

蓑を身に着け、雨中を火縄銃の射撃姿勢をとる足軽 火縄銃の一斉射撃を行う足軽部隊 射撃姿勢をとる足軽 足軽行列のパフォーマンス 足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と足軽 · 続きを見る »

鶴岡八幡宮

岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東界隈で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある俗に三大八幡とは「大分の宇佐神宮・京都の石清水八幡宮」に「福岡の筥崎宮」または当社のいずれかを合わせた三社を指す。幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社(田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。)として官幣大社に列せられている3社は「宇佐・石清水・筥崎」であるが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」を八幡神社の代表例としている(『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。)。境内は国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鶴岡八幡宮 · 続きを見る »

鹵獲

鹵獲(ろかく)は、戦地などで敵対勢力の装備品(兵器)や補給物資を奪うこと。接収(せっしゅう)とも。捕獲(ほかく)と称される場合もあるが、軍事用語としては鹵獲が適当な言葉である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鹵獲 · 続きを見る »

身分統制令

身分統制令(みぶんとうせいれい)は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉が発した3ヶ条の法令。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と身分統制令 · 続きを見る »

麻貴

麻 貴(ま き、マ・クウイ)は明末期の武将。朝鮮の氏族上谷麻氏の始祖である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と麻貴 · 続きを見る »

麗水市 (全羅南道)

麗水市(ヨスし、れいすいし)は、大韓民国全羅南道東部にある市。2012年に麗水国際博覧会(万国博覧会)が開催された。市庁舎は本庁舎(旧麗川市庁)、麗西庁舎(旧麗水市庁)(市議会がある)、突山庁舎(旧麗川郡庁)の分庁方式を採用している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と麗水市 (全羅南道) · 続きを見る »

黒田孝高

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と黒田孝高 · 続きを見る »

黒田長政

黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。 戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と黒田長政 · 続きを見る »

黄州郡

州郡(ファンジュぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国黄海北道に属する郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と黄州郡 · 続きを見る »

黄世得

世得(こう せいとく、ファン・セドゥク、황세득、1537年 - 1598年)は、李氏朝鮮の武将、朝鮮の氏族の星州黄氏の始祖である。 中国の後漢の重臣だった黄洛は、光武帝時代の28年に使臣としてベトナムに赴く途中に海上で遭難し新羅に漂着・帰化した。黄洛の子孫で高麗時代に上柱国の官職を務めた黄石柱の17代子孫が黄世得である。黄世得は、李氏朝鮮宣祖時代に武科に及第、長興府使を務め、壬辰倭乱の際には、李舜臣の傘下として戦闘に参加、武功を挙げた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と黄世得 · 続きを見る »

黄石山城の戦い

石山城の戦い(こうせきさんじょうのたたかい)は、慶長の役において朝鮮軍が守る黄石山城を日本軍が攻略した戦い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と黄石山城の戦い · 続きを見る »

黄海道

海道(ファンヘド、こうかいどう)は、李氏朝鮮の行政区分朝鮮八道の一つ。主要都市である黄州と海州から頭文字を取って命名された。黄海に面していた故の名称ではない。高麗時代は「西海道」と呼ばれていた。 現在の北朝鮮の行政区分、黄海北道・黄海南道に相当する。なお、朝鮮八道の他の道と違い、北朝鮮政府成立後に南北に分割されたため、韓国では分割を認めておらず、以北五道にも「黄海道」として1つに数えられている。なお、かつて黄海道に属していた一部の離島(翎島、延坪島など)は現在韓国政府が実効支配しており、仁川広域市に属している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と黄海道 · 続きを見る »

龍仁市

龍仁市(ヨンインし)は、大韓民国京畿道中部に位置する市。 ソウルの南約40キロに位置し、京釜高速道路・嶺東高速道路が通っていることから、ソウルのベッドタウンとして近年人口が急増している。また韓国民俗村があり、外国人観光客や韓国各地の修学旅行生が訪れる。大韓民国の地方自治法第175条に基づいて特例が適用される特定市に指定されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と龍仁市 · 続きを見る »

辻善之助

辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月15日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、戦前の日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は日本仏教史。仏教史研究から日本人の精神と日本文化の形成を探求し実証主義的研究を貫き、日本史学の発展に寄与。兵庫県出身。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と辻善之助 · 続きを見る »

近衛信尹

近衛 信尹(このえ のぶただ、旧字:近衞信尹)は、安土桃山時代の公家。近衛前久の子。母は波多野惣七の娘。初名、信基、信輔。号は三藐院(さんみゃくいん)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と近衛信尹 · 続きを見る »

霊光郡

霊光郡(ヨングァンぐん)は大韓民国全羅南道の北西部にある郡である。黄海に面しており、また北辺を全羅北道に接している。 1986年から霊光原子力発電所が稼動し、現在では6基の原子炉がある韓国最大の原子力発電所である。また太陽光発電所の建設計画もある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と霊光郡 · 続きを見る »

錦山郡

錦山郡(クムサンぐん)は、大韓民国忠清南道の郡。 郡内を統営-大田・中部高速道路が通る。仁川広域市江華郡と並ぶ、韓国有数の朝鮮人参(高麗人参)の産地として知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と錦山郡 · 続きを見る »

露梁海戦

露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。慶長3年(1598年)11月18日(和暦/以下同)に無血撤退の双方合意を取り付けた上で撤退しようとした順天城守備の小西行長らに対し、約束を違えて攻撃を加えようとした明・朝鮮水軍と、撤退する船団を援護するために海路出撃した島津軍を中心とした日本軍との間に露梁津で起こった海戦である。小西行長軍はこの戦いの最中、戦闘に参加することなく巨済島への撤退に成功した。 露梁津は、南海島と半島本土との間にある海峡の地名で、朝鮮水軍の主将李舜臣はこの戦いで戦死した。韓国では露梁大捷と呼ばれ、朝鮮・明連合水軍が日本軍に大勝した戦いとされるが、日本側の文献では成功した作戦として記述されている。両軍の戦力および損害については不詳の点が多く隻数については異説がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と露梁海戦 · 続きを見る »

蜂須賀家政

蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。蜂須賀正勝の子。父の代わりに阿波国の大名に任じられて徳島藩祖となる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と蜂須賀家政 · 続きを見る »

胥吏

胥吏(しょり)とは、旧体制下の中国や朝鮮において、庶民でありながらも役人の仕事をする者を規定した用語である。正規の高等官僚としての官人と対応し、両者を併せ、「官人」の「官」と「胥吏」の「吏」で官吏と呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と胥吏 · 続きを見る »

郭再祐

郭 再祐(日本語読み:かく さいゆう、朝鮮語読み:クアク・ジエウ、1552年 - 1617年)は、文禄・慶長の役時の李氏朝鮮の義兵の大将。字は季綬。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と郭再祐 · 続きを見る »

都察院

都察院(とさついん、満州語:uheri be baicara yamun)は、諸官の政務を監察するために置かれた官署で、中国の明朝から清朝にかけて存在した。 漢代以来続いていた御史台という監察機関を明朝に入り改めたもので、後の清朝もこれを受け継いだ。 六部や五軍都督府と共に三権の1つとされ、刑部や大理寺と共に三法司と呼ばれ、百官の不正を糾弾し、重大な刑事事案を審議した 左右ある都御史を中心にして、副都御史、監察御史、僉都御史、経歴などの諸官が存在した。 明朝中期以降、次第に総督や巡撫が兼職するようになったが、これは政令の統一を図ったためである。清は基本的に明の制度を継承しつつ、僉都御史を廃して左都御史・左副都御史を都察院の専官とし、右都御史・右副都御史を総督や巡撫の兼官と定めた。雍正元年(1723年)に、明代以来別の監察機関とされていた六科が、都察院に統合された。 とさついん とさついん とさついん.

新しい!!: 文禄・慶長の役と都察院 · 続きを見る »

鈴木重朝

鈴木 重朝(すずき しげとも)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。雑賀党鈴木氏の当主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鈴木重朝 · 続きを見る »

鈴木良一 (歴史学者)

鈴木 良一(すずき りょういち、1909年9月12日 - 2001年4月)は、日本の歴史学者。専攻は中世史。土一揆・国一揆の研究で先駆的業績をあげる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鈴木良一 (歴史学者) · 続きを見る »

船越景直

船越 景直(ふなこし かげなお、天文9年(1540年) - 慶長16年3月10日(1611年4月22日))は、戦国時代から江戸時代初期の武将で江戸幕府の旗本。父は船越景綸。子に永景、北条氏盛室。通称は五郎右衛門。官途は左衛門尉。 船越氏は藤原氏の流れを汲んだ淡路の国人で、鎌倉時代より戦国時代まで三原郡倭文の庄田を中心に支配し、室町時代には細川氏の被官となって活動していた。 景直は初め淡路庄田城主として、細川氏の重臣だった三好長慶の弟、安宅冬康に水軍を従えて仕えた。後に三好氏が滅んだことから織田信長に帰属し、天正9年(1581年)には淡路を攻めた羽柴秀吉から本領安堵を受ける。本能寺の変の後も秀吉の直臣として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参陣。後に淡路から播磨明石郡へと移され、4000石を受けて弓組と鉄砲組を率いた。その後も秀吉の家臣として小田原征伐や文禄の役にも従軍している。 ところが、文禄4年(1595年)に秀次事件に関わって秀吉から勘気を蒙り、陸奥の南部信直に預けられる。秀吉の没後、徳川家康の求めから摂津や河内に所領をあてがわれて復し、関ヶ原の戦いには東軍に加わった。その功から大和宇智郡にも1,500石を加増され、6000石あまりを知行する江戸幕府の旗本に列す。翌年には、家康に請われて堀尾吉晴や猪子一時、大島光義らと共に関ヶ原の戦いの話に興じている。慶長16年(1611年)に死去。享年72。 景直は子の永景と共に茶人として知られ、古田織部、小堀遠州らに師事した。茶道具に用いられる織物、名物裂にある船越間道は景直が用いたことに由来する。 Category:戦国武将 Category:江戸幕府旗本 Category:1540年生 Category:1611年没.

新しい!!: 文禄・慶長の役と船越景直 · 続きを見る »

赤松則房

赤松 則房(あかまつ のりふさ)は、戦国時代から安土桃山時代かけての武将。赤松氏13代当主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と赤松則房 · 続きを見る »

鵲院関の戦い

鵲院関の戦い(じゃくいんかんのたたかい、朝鮮語読みで鵲院関はチャグォングァン)は、文禄元年4月17日(1592年5月28日)、密陽市の南東にある洛東江の隘路で戦われた文禄の役の戦闘の一つである。黄山江の戦いとも言う。朝鮮軍が初めて野戦で日本軍を迎撃して、進撃を阻止しようとしたが失敗した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鵲院関の戦い · 続きを見る »

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と関ヶ原の戦い · 続きを見る »

関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と関白 · 続きを見る »

関船

関船(せきぶね)は、日本の水軍で中世後半(戦国時代)から近世(江戸時代)にかけて使われた中型の軍用船。大型の安宅船と、小型の小早との間に位置する規模の軍船である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と関船 · 続きを見る »

薩摩川内市

薩摩川内市(さつませんだいし)は、鹿児島県の北西に位置する市。 鹿児島県内で最大の面積を有する市であり、北薩地区の中心都市である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と薩摩川内市 · 続きを見る »

薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と薬師寺 · 続きを見る »

閑山島海戦

閑山島海戦(かんざんとうかいせん)は、文禄の役における海戦の一つ。 文禄元年(1592年)7月7日に閑山島と巨済島の間の海峡で単独出撃をした脇坂安治率いる1500人の水軍を、朝鮮水軍が誘引迎撃戦術により撃破した海戦。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と閑山島海戦 · 続きを見る »

開城市

開城市(ケソンし)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部にある都市。高麗の王都として、また商業の中心として栄えた古都である。 朝鮮戦争の休戦後、周辺部も含めて長らく北朝鮮の直轄市として扱われてきたが、南北共同の工業団地「開城工業地区」の建設とその特区としての運営が行われるに伴い、開城周辺地域の行政区画が再編成されている。中心部は現在、「開城市」として黄海北道に所属しているとみられる。推定人口は約35万人(1998年現在)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と開城市 · 続きを見る »

藤堂高虎

津城址にある藤堂高虎像 藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と藤堂高虎 · 続きを見る »

藤掛永勝

藤掛 永勝(ふじかけ ながかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名・旗本。丹波国八津合城主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と藤掛永勝 · 続きを見る »

藤木久志

藤木 久志(ふじき ひさし、1933年10月27日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。立教大学名誉教授、東北大学文学博士。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と藤木久志 · 続きを見る »

董一元

董 一元(とう いちげん)は中国明代の武将。(1542〜1598).

新しい!!: 文禄・慶長の役と董一元 · 続きを見る »

蒲生氏郷

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(またはレオ)。子に蒲生秀行。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と蒲生氏郷 · 続きを見る »

蒔田広定

蒔田 広定(まいた ひろさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。備中浅尾藩の初代藩主。通称は権佐(ごんのすけ)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と蒔田広定 · 続きを見る »

那須資晴

那須 資晴(なす すけはる)は、下野国の戦国大名。那須氏21代当主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と那須資晴 · 続きを見る »

肥後国人一揆

肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)は、天正15年(1587年)に勃発した肥後国人による一揆である。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)とも言う。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と肥後国人一揆 · 続きを見る »

蔚山城の戦い

蔚山城の戦い(うるさんじょうのたたかい、いさんじょうのたたかい)は、1597年および1598年に慶長の役で明・朝鮮連合軍と日本軍との間で行われた交戦(蔚山城の構造については蔚山倭城を参照)。当項の日付は和暦を用いるものとする。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と蔚山城の戦い · 続きを見る »

蔚山広域市

蔚山広域市(ウルサンこういきし、韓国語表記:)は、大韓民国南東部に位置する広域市。1997年7月15日に広域市に昇格する前は慶尚南道に属していた。市のスローガンは「Ulsan for you」。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と蔚山広域市 · 続きを見る »

蔚山倭城

蔚山倭城(ウルサンわじょう、いさんわじょう、울산왜성)は、現在の大韓民国蔚山広域市に慶長の役の際、日本人が築いた日本式の城(倭城)である。別名は甑城(こしきじょう)、または島山城。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と蔚山倭城 · 続きを見る »

蔵入地

蔵入地(くらいりち)は、戦国時代から江戸時代における領地区分の一つである。大名もしくは政権、幕府の直轄地のことである。所領のうち、家臣へ与える知行地に対するもの。蔵入地には、代官を派遣して直接支配を行い、年貢・諸役などの徴収にあたった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と蔵入地 · 続きを見る »

鄭テツ

鄭 澈(てい てつ、1536年 - 1593年)は、李氏朝鮮の文人・官僚。『関東別曲』など李氏朝鮮初期を代表する詩賦を作り、韓国における詩賦思想に対し大きな影響を与えた。政治的には西人に属し、右議政などを歴任した。字は季涵、号は松江、諡号は文清。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鄭テツ · 続きを見る »

鄭道伝

鄭道伝(チョン・ドジョン、てい どうでん、1342年 - 1398年)は、高麗末期から朝鮮最初期の政治家、道学者。字は宗之。号は三峰(サンボン)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鄭道伝 · 続きを見る »

鄭運

鄭運(てい うん、チョン・ウン、정운)、1543年 - 1592年9月1日)は、李氏朝鮮の水軍の将。文禄の役で活躍したが、釜山浦海戦で戦死した。 本貫は河東鄭氏で、生地は現在の韓国全羅南道海南郡玉泉面大山里。字は昌辰(しょうしん)、諡名は忠壮公、生地に彼を祀った「忠臣閣」がある。父は全羅南道霊巖郡出身の訓錬参軍鄭応禎。明暦・隆慶5年(1571)甲午(5月)武科に合格した。文禄の役(1591年)の際、鹿島万戸(軍官=将の階級)となり舟師を率いて李舜臣の部下に属し、随所で勝利したが、釜山浦海戦(1592年9月1日)で被弾し戦死。その後、李氏朝鮮は廟を鹿島に立て、田を給して祀った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鄭運 · 続きを見る »

鄭撥

鄭撥(ていはつ、朝鮮読み:チョンバルまたはチョンパル、1553年 - 1592年)は、李氏朝鮮時代の武官。字は子固。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鄭撥 · 続きを見る »

脇坂安治

脇坂 安治(わきざか やすはる)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路国洲本藩主。後に伊予国大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。家紋は「輪違い」。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と脇坂安治 · 続きを見る »

醴泉郡

醴泉郡(イェチョンぐん)は大韓民国慶尚北道の北西部にある郡である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と醴泉郡 · 続きを見る »

野村直隆

野村 直隆(のむら なおたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。近江国国友城主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と野村直隆 · 続きを見る »

臨津江

臨津江(韓国語ハングル表記:임진강 〔イムジンガン〕、朝鮮語チョソングル表記:림진강〔リムジンガン〕)は、朝鮮半島中部に源を発して黄海に注ぐ川。全長273km、流域面積8,138km2。下流では漢江と合流し、川幅が広がる。 河口には江華島がある。高麗時代、元の軍隊に脅かされた高麗が都を開城から江華島に移した。元の騎馬部隊は、川幅800メートルの臨津江を渡ることが出来なかった。 韓国と北朝鮮の軍事境界線に近いことから、南北分断の悲劇を語る舞台として登場する。この名を冠した楽曲「イムジン河」や、報道誌『臨津江』も存在する。 北朝鮮の方が上流にあるため、北朝鮮側のダムによって、韓国側が洪水、水不足に陥るのではという指摘がある。韓国は、北朝鮮のダムが建設されるたびに抗議をしているが、北朝鮮は応じず、一方的にダムを建設しているとされる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と臨津江 · 続きを見る »

臨津江の戦い

臨津江の戦い(りんしんこうのたたかい、朝鮮読みで臨津江はイムジンガン)は、文禄元年5月18日(1592年6月27日)、臨津江で戦われた文禄の役初期の戦闘の一つである。反攻を企てた朝鮮軍の襲撃を、日本軍の加藤清正がほぼ単独で撃退した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と臨津江の戦い · 続きを見る »

臨海君

臨海君(りんかいくん、イメグン、임해군、隆慶6年8月14日(1572年9月20日) - 万暦37年5月2日(1609年6月3日))は、李氏朝鮮の第14代国王宣祖の長男(庶子)。名は珒(ジン、진)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と臨海君 · 続きを見る »

臼杵城

臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と臼杵城 · 続きを見る »

釜山広域市

釜山の山城(金井山) 水営区の広安里ビーチ 釜山広域市(プサンこういきし、韓国語表記:、英語:Busan)は、大韓民国南東部に位置する広域市。韓国第2の都市である。対馬海峡に面し、古くから朝鮮半島と日本とを結ぶ交通の要衝として栄えてきた港湾都市である。首都ソウルに次ぐ韓国第二の都市として、政治・経済・文化の面で重要な役割を担ってきた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と釜山広域市 · 続きを見る »

釜山鎮の戦い

釜山鎮の戦い(ふざんちんのたたかい、プサンちんのたたかい)は、文禄元年4月13日(1592年)、釜山における日本軍と朝鮮軍との戦闘である。 この戦いはほぼ同時に行われた多大鎮の戦いとともに、文禄・慶長の役における最初の戦闘であった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と釜山鎮の戦い · 続きを見る »

釜山浦海戦

釜山浦海戦(ふざんほかいせん)は、文禄の役において朝鮮水軍が日本軍の拠点となっていた釜山を攻撃したが勝てずに退却した戦闘。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と釜山浦海戦 · 続きを見る »

里見義康

里見 義康(さとみ よしやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。里見義頼の長男。安房館山藩初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と里見義康 · 続きを見る »

金印

金印(きんいん)は金でつくられた印章のこと。 東アジアの冊封体制の元では、皇帝が諸国の王を臣下と認める証しとして、その定められた地位に応じ玉印・金印・銀印・銅印などが与えられた(印綬)。日本では、福岡県福岡市東区の志賀島で発見された「漢委奴国王印」が最も著名であり、国宝に指定され福岡市博物館(福岡市早良区)に収蔵されている。また、金印が発見されたとされる場所には現在金印公園がある。 滇に与えられた「滇王之印」、光武帝の子である広陵思王 劉荊に与えられた「廣陵王璽」が中国で出土しており、「魏志倭人伝」には卑弥呼に「親魏倭王」の金印を与えたことが記されている。 日本の現在の国璽・御璽、大韓民国の国璽も金印であり、中華民国の国璽は玉印である。 ヨーロッパにおいては、皇帝の出す文書に金印が付された。(→金印勅書参照)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金印 · 続きを見る »

金州区

金州の新博物館(北郊外) 金州区(きんしゅう-く)は中華人民共和国遼寧省大連市に位置する市轄区。区内には大連経済技術開発区がある。旅順、大連が成立する以前は、金州が地区の中心地であった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金州区 · 続きを見る »

金ミョン

金 沔(きん べん、김 면(キム・ミョン)、1541年 - 1593年)は、李氏朝鮮中期の朱子学者、義兵長。本貫は高霊、字は志海、号は松庵。文禄・慶長の役の李氏朝鮮三大義兵長に数えられる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金ミョン · 続きを見る »

金策市

金策市(キムチェクし)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道南部にある都市。旧称は城津(ソンジン/)。北朝鮮における製鉄業の中心地の一つである。 市名は、当地生まれの朝鮮人民軍司令官・金策(1951年に死去)にちなみ、1953年に改名された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金策市 · 続きを見る »

金誠一

金 誠一(きん せいいち、朝鮮読み:キム・ソンイル(김성일)、1538年(中宗33年) - 1593年は、李氏朝鮮の文官。字は士純、号は鶴峯。諡号は文忠公。義城金氏。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金誠一 · 続きを見る »

金森可重

金森 可重(かなもり ありしげ/よししげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。飛騨国高山藩2代藩主。従五位下・出雲守。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金森可重 · 続きを見る »

金森長近

金森 長近(かなもり ながちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。名ははじめ可近(ありちか)、後に織田信長から一字を賜り、長近を名乗った。通称は五郎八。法印素玄。飛騨高山藩初代藩主。従四位下、兵部大輔、飛騨守。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金森長近 · 続きを見る »

金海市

金海市(キメし)は大韓民国慶尚南道沿海部の市。釜山広域市と道庁所在地昌原市の間に位置する。市のスローガンは「Gimhae for you」。 区を持たない特定市、である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金海市 · 続きを見る »

金悌甲

金悌甲(김제갑、1525年 ~ 1592年)は李氏朝鮮中期の文臣。本貫は安東金氏、字は順初、号は毅斎、諡号は文粛。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金悌甲 · 続きを見る »

金時敏

金 時敏(きん・じびん、キム・シミン、1554年 - 1592年)は、文禄の役の初期に活躍した李氏朝鮮の将軍。本貫は安東金氏。字は勉吾。 1554年9月23日天安郡で金忠甲の三男として生まれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と金時敏 · 続きを見る »

蕭衍

梁武帝 梁武帝真像 蕭 衍(しょう えん)は、南朝梁の初代皇帝。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と蕭衍 · 続きを見る »

長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と長宗我部元親 · 続きを見る »

長崎奉行

長崎奉行(ながさきぶぎょう)は江戸幕府の遠国奉行の一つ。遠国奉行首座。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と長崎奉行 · 続きを見る »

長谷川守知

長谷川 守知(はせがわ もりとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。美濃長谷川藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と長谷川守知 · 続きを見る »

長谷川秀一

長谷川 秀一(はせがわ ひでかず)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と長谷川秀一 · 続きを見る »

長束正家

長束 正家(なつか まさいえ / ながつか まさいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の五奉行の一人。父は水口盛里(安芸守)といわれる。弟に直吉らがいる。近江国水口岡山城主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と長束正家 · 続きを見る »

鉄原郡

鉄原郡(チョルォンぐん、てつげんぐん)は、朝鮮半島中部の江原道にある郡である。軍事境界線を挟んで、韓国と北朝鮮の双方に同名の行政区域がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鉄原郡 · 続きを見る »

鉄砲伝来

鉄砲伝来(てっぽうでんらい)とは、16世紀にヨーロッパから東アジアへ火縄銃(鉄砲、鐵炮)が伝わったこと、狭義には日本の種子島に伝来した事件を指す。現物の火縄銃のほか、製造技術や射撃法なども伝わった。年代については、1542年説、1543年説やそれ以前とするなど、諸説ある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と鉄砲伝来 · 続きを見る »

若狭国

若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と若狭国 · 続きを見る »

耳塚

耳塚(みみづか)もしくは鼻塚(はなづか)とは戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚である。文禄・慶長の役における朝鮮および明兵の戦死者の鼻を弔ったものが有名。これ以外にも日本全国に耳塚と呼ばれるものは多数存在するが、実際に耳や鼻が葬られているものは確認されていない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と耳塚 · 続きを見る »

逆説の日本史

『逆説の日本史』(ぎゃくせつのにほんし)は、小説家の井沢元彦による日本史を扱った書籍。 小学館発行の『週刊ポスト』誌平成4年(1992年)1月1日号から連載されており、ある程度内容がたまると小学館から単行本として刊行され、さらに小学館文庫に収録されている。 日本の歴史を創るのは「言霊、和、怨霊、穢れ」への無意識の信仰に基づく非論理的な日本人の行動と分析し、史料絶対主義を排し、その書かれた、書かれなかった背景をも深く考察すべきこと、「時代で常識とされていたことは記録されなかった」こと及び通史的考察の重要性を強調し、シリーズ全体を貫くテーマとしている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と逆説の日本史 · 続きを見る »

陳リン

陳 璘(ちん りん、1543年 - 1607年)は、中国明代の武将。数度にわたる平民反乱の平定に功があり、明朝廷に重用された。慶長の役に明水軍の主将(総兵)として参戦した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と陳リン · 続きを見る »

陶芸家

陶芸家(とうげいか)は、陶芸を生業とする者を指す。陶工とも呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と陶芸家 · 続きを見る »

柳川一件

柳川一件(やながわいっけん)は、江戸時代初期に対馬藩主・宗義成と家老・柳川調興が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造を巡って対立した事件。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と柳川一件 · 続きを見る »

柳川調信

柳川 調信(やながわ しげのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。対馬宗氏の家臣。対馬藩家老(執事)。通称ははじめ甚三郎、後に権之助とする。官途は、対馬守、従五位下・下野守。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と柳川調信 · 続きを見る »

柳成龍

柳成龍(りゅう せいりゅう、朝鮮語読み:リュ・ソンニョン、1542年 - 1607年6月7日(大統暦万暦三十五年五月十三日))は、李氏朝鮮の宣祖に仕えた宰相で、文禄・慶長の役に活躍した。字は而見。号は西厓、諡は文忠。派閥は東人(分裂後南人)。柳仲郢の二男。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と柳成龍 · 続きを見る »

掌隷院

掌隷院(チャンネウォン)は 、李氏朝鮮において奴婢に関する業務を行う官衙。正三品衙門。世祖13年、西暦1467年設立された。司憲府、漢城府と共に司法三司と呼ばれる。英祖4年、西暦1764年刑曹に併合された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と掌隷院 · 続きを見る »

林羅山

林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる羅山、道春のほか、羅浮子・夕顔巷・胡蝶洞・梅花村その他の号がある。宮崎(1994)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と林羅山 · 続きを見る »

恩徳郡

恩徳郡(ウンドクぐん)は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道に属する郡。旧名は慶興郡(けいこうぐん/キョンフンぐん)。中心部・阿吾地(アオジ)周辺には朝鮮半島最大規模の褐炭の炭坑がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と恩徳郡 · 続きを見る »

恭譲王

恭譲王(きょうじょうおう、1345年3月9日 - 1394年5月17日)は、高麗の第34代国王である(在位:1389年 - 1392年)。第20代神宗の7代孫。諡号は恭譲大王。はじめ定昌府院君に封じられていたが、李成桂(朝鮮の太祖)により高麗王として擁立された。後に李成桂に譲位し、李成桂の命令で子供とともに殺された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と恭譲王 · 続きを見る »

恭愍王

恭愍王(きょうびんおう、1330年5月23日 - 1374年10月27日)は第31代の高麗王(在位:1351年 - 1374年)。忠粛王の子。姓は王、名は顓、初名は祺。蒙古名は伯顔帖木児(モンゴル語:、Bayan Temür)。諡号は恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王。妃は元の魏王女、 魯国大長公主高麗史89卷列傳2 后妃 魯國大長公主 恭愍王 徽懿魯國大長公主 寶塔失里 元宗室 魏王之女 王在元 親迎於北庭 元封承懿公主.

新しい!!: 文禄・慶長の役と恭愍王 · 続きを見る »

李参平

陶祖李参平の碑 李 参平(り さんぺい、生年不詳 - 明暦元年8月11日(1655年9月10日))は、 朝鮮出身の陶工で、有田焼(伊万里焼)の生みの親として知られている。日本名は金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)。現在も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いている。 なお「李参平」の名は、当時「三兵衛」を「参平」と表記した史料があること、金ヶ江家に伝わる古文書に李氏と記載があったことなどから、明治19年になって地元の蘭学者谷口藍田が名づけたものであり、参平が朝鮮で暮らしていたころのほんとうの姓名はわからない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李参平 · 続きを見る »

李如柏

李 如柏(り じょはく、1553年 - 1620年)は、明末期の武将。李成梁の息子で李如松の弟。 碧蹄館の戦いでは劣勢ながらも緒戦で日本軍と互角以上に渡り合うなど、文禄・慶長の役で活躍した。1619年、ヌルハチ率いる後金軍の討伐のため明・朝鮮連合軍の将としてサルフの戦いに参加したが、兵力・装備で優勢であったにもかかわらず明の諸将を討ち取られ、さらに朝鮮軍が捕虜になるなどの惨敗を喫したため、自決した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李如柏 · 続きを見る »

李如松

李 如松(り じょしょう、1549年(嘉靖28年) - 1598年(万暦26年))は、明代の武将。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李如松 · 続きを見る »

李如梅

李 如梅(り じょばい 生没年不詳)は、明末期の武将。李成梁の子、李如松・李如柏の弟。 文禄・慶長の役では1592年末から総兵である兄の李如松配下の参将として朝鮮に来援し、1593年1月6日より小西行長等の守る平壌城を攻撃してこれを奪回した。李如梅も撤退する日本軍を追って南下したが、続く2月26日の碧蹄館の戦いでは1000人を率いて参加したが日本軍に敗れて平壌まで撤退した。 講和交渉が決裂し、1597年に日本軍の全羅道侵攻で慶長の役が始まると、副総兵に昇進していた李如梅は年末より南下した経理楊鎬・総兵麻貴の指揮下で左協軍の大将として明軍1万3006人および李時言らの朝鮮軍を率いて他の二軍と共に蔚山倭城を攻めたが攻略できないまま日本の援軍に攻撃され大敗を喫して慶州まで撤退した(蔚山城の戦い)北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』1995年。 秋の三倭城に対する攻撃作戦では中路軍を率いて泗川の島津義弘を攻撃する予定であったが、1598年6月、遼東総兵に就任していた李如松が侵入した女真討伐中に塞外で伏兵により討ち取られると、中路軍の後任を董一元に代え、如梅は急遽朝鮮より呼び戻されて兄の後任として遼東総兵を務めた。しかし、翌1599年には遼東総兵を解任されている。1613年には遼東総兵の麻貴の後任として楊鎬に推挙されたが両者癒着の批判を受けて実現しなかった和田和広「李成梁一族の軍事的台頭」1986年。 李如梅はサルフの戦いの直前に朝廷の者から日本兵と満州兵の強弱について聞かれて「倭兵は体躯倭少なれども、敏捷にして、鳥銃をよくす。ただし一人同志の戦いとなれば、倭兵三十人をもってしても、満兵一人に敵せざるなり」と回答している陸戦史研究普及会『陸戦史集5 明と清の大決戦(中国古戦史)』1967年。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李如梅 · 続きを見る »

李宗仁

李 宗仁(り そうじん)は中華民国の軍人・政治家。中華民国軍陸軍一級上将。国民政府(国民革命軍)の軍人で、白崇禧・黄紹竑とともに新広西派(新桂系)の主要な指導者の1人と目される。また、一般には、その3人の中でも李が最高指導者とみなされる。国共内戦期には中華民国副総統に当選し、内戦最終盤に短期間ながら代理総統も務めた。字は徳鄰。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李宗仁 · 続きを見る »

李寧

李寧(り・ねい、李宁、Li Ning、男性、1963年9月8日 - )は、中国の元体操選手、実業家。現役時代は「体操王子」として親しまれ国民的英雄だった。その後李寧有限公司を立ち上げ、現在は会長を務める。広西チワン族自治区の柳州市出身で、中国最大の少数民族である壮族に属する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李寧 · 続きを見る »

李カク (朝鮮)

李 珏(日本語読み:り ぎょく、朝鮮語読み:イ・カク、生年不詳 - 1592年5月14日)は、李氏朝鮮に仕えた官吏。 文禄の役が始まった時に慶尚左兵使であった。蔚山北方の兵営城に駐屯していたが、釜山鎮の戦いには間に合わず、東莱城の戦いでは城の守備を府使宋象賢に任せて脱出。慶州城の戦いの前に、任地と軍を棄てて逃亡した罪に問われた。漢城府陥落後、臨津の金命元都元帥の陣中に現れたので逮捕され、『宣祖修正實録』によると5月14日(和暦13日)に、李朝は宣伝官を派遣して、斬首させた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李カク (朝鮮) · 続きを見る »

李億祺

李億祺(り・おくき、イ・オッキ、이억기、1561年 - 1597年)は、文禄・慶長の役のころの李氏朝鮮の水軍の将。字は景受。毅愍と諡される。太宗の長男である譲寧大君の5代孫。 17歳の頃武科に合格、慶興府使になって女真討伐に目覚しい活躍をした。 戦役を通じて全羅右水使(全羅右道水軍節度使、全羅道西半部を管轄する水軍長官)として李舜臣や元均等と共に日本と戦った。李舜臣が彼を嫉む人々の謀陷を受けて白衣従軍をするようになった時には彼のために弁護した。 1597年、慶長の役の準備のために釜山方面へ集結中の日本軍を攻撃する命令を受け、元均を主将とする水軍の一部として進出したが、有効な攻撃が行えないまま補給のために巨済島に後退・停泊中を水陸からの日本軍(藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、小西行長、島津義弘など)の逆襲を受けて朝鮮水軍は壊滅し、彼は海に身を投げて死んだ。(巨済島の海戦、漆川梁海戦).

新しい!!: 文禄・慶長の役と李億祺 · 続きを見る »

李元翼

李 元翼(り げんよく、イ・ウォニク(이원익)。1547年(明宗2年) - 1634年(仁祖12年))は、李氏朝鮮の重臣。字は公励、号は梧里、諡号は文忠。太宗の王子益寧君(李袳)の4代の子孫。父は李億載(咸川君)。姻戚に尹鑴、許穆、李舜臣などがいる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李元翼 · 続きを見る »

李珥

李 珥(り・じ、イ・イ、1536年 - 1584年)は、李氏朝鮮の儒学者。号は栗谷(りっこく、ユㇽゴㇰ)、字は叔献(しゅくけん、スコㇴ)。大韓民国では『東方の聖人』と呼ばれている。朱子学者として李滉(退渓)とならぶ二大儒と称される。李滉の主理説に対し主気説を展開した。朝鮮王朝に仕え、政界においても各方面で積極的な政治改革案を提議した。 大韓民国では5000ウォンの紙幣の肖像画である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李珥 · 続きを見る »

李福男

李福男(り ふくだん、1555年 - 1597年8月)は李氏朝鮮の武官。武科に及第。本貫は羽渓、諡号は忠壮。李氏朝鮮の軍部次官李光軾の曾孫。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李福男 · 続きを見る »

李炯錫

李 炯錫(イ・ヒョンソク、이형석、1909年 - 1991年)は大日本帝国陸軍、大韓民国陸軍の軍人。創氏改名による日本名は若松勇作。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李炯錫 · 続きを見る »

李舜臣

李 舜臣(日本語読み:り しゅんしん、朝鮮語読み:イ・スンシン、이순신、1545年4月18日(明暦: 嘉靖24年3月8日) - 1598年12月16日(明暦: 万暦26年11月19日)は、李氏朝鮮の将軍。字は汝諧(ヨヘ、여해)。文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍したとされるが、党争の影響でしばしば讒言を受け、また、抗命したことで兵卒に落とされるなど浮き沈みが激しく、元均の戦死で復権したが、露梁海戦で戦死した。死後に贈られた謚は忠武公(충무공)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李舜臣 · 続きを見る »

李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李氏朝鮮 · 続きを見る »

李成桂

李 成桂(り せいけい、리성계、太祖 康献大王、1335年10月27日 - 1408年6月18日)は、元(モンゴル)の武官、1357年から高麗の武官、李氏朝鮮の創始者にして初代国王。咸鏡南道の永興(金野郡)の出身姜(2006)。『李朝太祖実録』によれば本貫は全州李氏という太祖實錄 總序によれば、「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。。大韓帝国期に太祖高皇帝の称号を送られた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李成桂 · 続きを見る »

李承晩

李 承晩(り・しょうばん、イ・スンマン 1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫は全州李氏。号は「雩南」(ウナム、우남)。字は「承龍」(スンニョン、승룡)。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リ・スンマン」と呼ばれるが、これは韓国では語頭子音ㄹの脱落が起こるためである(朝鮮語の南北間差異参照。)。韓国でも1950年代以前には「리승만(リ・スンマン)」と綴られていた(英文での本人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と李承晩 · 続きを見る »

来島通総

来島 通総(くるしま みちふさ)は、安土桃山時代の伊予国の武将、大名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と来島通総 · 続きを見る »

東市来町美山

東市来町美山(ひがしいちきちょうみやま Higashiichiki-Chō Miyama)は、鹿児島県日置市の大字。旧日置郡伊集院郷苗代川村、日置郡下伊集院村大字苗代川、日置郡東市来町美山。人口は537人、世帯数は206世帯(2010年10月1日現在)。郵便番号は899-2431。 安土桃山時代に島津氏によって連行された朝鮮人陶工らが江戸時代になり、薩摩藩の各地からこの地に移され、苗代川村が成立した。現在でも多くの窯元で薩摩焼が生産されており、この地で作られた薩摩焼は苗代川焼とも呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と東市来町美山 · 続きを見る »

東京大学史料編纂所

東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称:Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所(共同利用・共同研究拠点)の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と東京大学史料編纂所 · 続きを見る »

東人

東人(とうじん、韓国語:동인、トンイン)は、李氏朝鮮の官僚の派閥の一つ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と東人 · 続きを見る »

東シナ海

東シナ海(ひがしシナかい、東支那海、東中国海、East China Sea)は、太平洋西部の海。南西諸島とユーラシア大陸に挟まれている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と東シナ海 · 続きを見る »

東莱城の戦い

東萊城の戦い(とうらいじょうのたたかい、朝鮮読み:トンネ)は、文禄元年(1592年)4月14日から15日に行われた、文禄・慶長の役の初期の戦闘の一つである。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と東莱城の戦い · 続きを見る »

東莱府

東莱府(とうらいふ)は、現在の釜山広域市東莱区に置かれた朝鮮王朝の地方行政機関。単に地方行政機関であるのみならず、中世以降近代初頭までの日朝関係において、朝鮮側の外交窓口として重要な機関であった。 正式名称は東莱都護府で、長官は東莱都護府使(従三品相当)だが、一般に東莱府・東莱府使と呼ばれている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と東莱府 · 続きを見る »

松浦鎮信

松浦 鎮信(まつら しげのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。平戸の松浦氏第26代当主。肥前国平戸藩初代藩主。 戦国大名大友義鎮(宗麟)より偏諱を与えられ鎮信を名乗る。晩年、山城上醍醐行樹院にて出家し、法号は宗信、後に無外庵宗静と称した。出家後は法眼に叙されて法印に昇り、式部卿に任ぜられたため式部卿法印、平戸法印とも呼ばれた。なお、曾孫にあたる第4代平戸藩主も、隠居後に重信から同じ字の鎮信に改名しており、改名後の表記で主に知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と松浦鎮信 · 続きを見る »

村上頼勝

(1623年11月18日)--> |改名.

新しい!!: 文禄・慶長の役と村上頼勝 · 続きを見る »

村井章介

村井 章介(むらい しょうすけ、1949年3月12日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史・対外関係史。立正大学文学部史学科教授、東京大学名誉教授、大阪市出身。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と村井章介 · 続きを見る »

杉若氏宗

杉若 氏宗(すぎわか うじむね, 生没年不詳)は、安土桃山時代の武将・大名。熊野水軍を率いた杉若無心(越後守)の嫡男。主殿頭。通称:伝三郎。姉妹に丹羽長秀室(藤堂高吉母)、神保相茂室、広橋総光室。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と杉若氏宗 · 続きを見る »

桑山一晴

桑山 一晴(くわやま かずはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名で、大和新庄藩の初代藩主。大和新庄藩桑山家2代。桑山一重の長男で、桑山重晴の嫡孫。幼名の小藤太は通称としても用いられた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と桑山一晴 · 続きを見る »

桑山貞晴 (小傳次)

桑山 貞晴(くわやま さだはる)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、茶人である。桑山重晴の三男。号は洞雲。同名の甥桑山加賀守貞晴がおり、区別して桑山小傳次あるいは桑山左近大夫とも書かれる。片桐石州は貞晴の門下生にあたり、茶人としては桑山宗仙を名乗った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と桑山貞晴 (小傳次) · 続きを見る »

桂月香

桂 月香(けい げっこう、ケ・ウォリャン、? - 1592年?)は、李氏朝鮮時代の平壌にいたとされる、朝鮮で語られる伝説上の女スパイ。韓国では美貌の義妓(愛国的な娼婦の意味)とされる。伝説とは言うものの、ストーリーは無数にバリエーションがあり、実在は極めて疑わしい。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と桂月香 · 続きを見る »

梁 (南朝)

梁(りょう、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。蕭梁とも呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と梁 (南朝) · 続きを見る »

梁山市

梁山市(ヤンサンし)は大韓民国慶尚南道の東部にある市である。市のブランドスローガンは「Active Yangsan」。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と梁山市 · 続きを見る »

梅北一揆

梅北一揆(うめきたいっき)は、文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣・梅北国兼が起こした一揆である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と梅北一揆 · 続きを見る »

梅北国兼

梅北 国兼(うめきた くにかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。文禄元年(1592年)に起きた梅北一揆の首謀者。諱は盛定とも云う。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と梅北国兼 · 続きを見る »

森忠政

森 忠政(もり ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃川中島藩主、後に美作津山藩の初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と森忠政 · 続きを見る »

楊州市

楊州市(ヤンジュし)は大韓民国京畿道の北部にある市である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と楊州市 · 続きを見る »

楊応龍の乱

楊応龍の乱(ようおうりゅうのらん)は、1591年(万暦19年)から1600年(万暦28年)にかけて明の播州で起きた反乱。播州の乱とも呼ばれる。明朝の万暦帝の治下における万暦の三征の一つ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と楊応龍の乱 · 続きを見る »

楊元

楊 元(よう げん、? - 1598年(万暦26年))は、明代の武将。文禄・慶長の役に参戦した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と楊元 · 続きを見る »

楊鎬

楊 鎬(よう こう/ヤン・ハオ;生年不詳 - 1629年)は中国明代の官僚。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と楊鎬 · 続きを見る »

宮本武蔵が槍で鵺と戦う画(画:歌川国芳) 槍(やり)は刺突を主目的とする猟具、武器・武具の一種。投擲することを目的としたものは投槍という。有史以前から人類が使用し続け、銃剣に代替されるまで長く戦場で使われ続けた。鎗、鑓とも書く。 現代中国語で、「槍」(qiang)という漢字は銃を表す(本来の槍と区別するために銃を「火槍」と表記することもある)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と槍 · 続きを見る »

権知高麗国事

権知高麗国事(けんちこうらいこくじ)は、明が李氏朝鮮初期の国王に授けた封号。高麗王代理、あるいは高麗国知事代理を意味する。 李氏朝鮮の初代国王李成桂は1392年、明が冊封した高麗王の禑王、昌王と恭譲王を廃位して高麗王位を簒奪した後、権知高麗国事と称して明国へ使者を送り、その地位を認めさせた。 明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が「国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、李成桂政権は「朝鮮」(朝の静けさの国)と「和寧」(平和の国)の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。「和寧」は北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は前漢の武帝に滅ぼされた古代の王国の名前である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じた。「和寧」は李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。 だが明では、明が冊封した高麗王を廃位して別の王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位した李成桂を快く思わなかったらしく、李成桂を最後まで朝鮮王としては冊封しなかった。 明から朝鮮国王として正式に冊封されたのは、第3代国王である太宗からであった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と権知高麗国事 · 続きを見る »

権慄

権慄(ごんりつ、朝鮮読み:クォン・ユル、1537年 - 1599年)は、文禄・慶長の役で活躍した李氏朝鮮の将軍。字は彦愼。贈り名は忠荘公。権轍の五男。李恒福の丈人である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と権慄 · 続きを見る »

機張郡

機張郡庁 機張郡(キジャンぐん)は、大韓民国釜山広域市の北東部にある郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と機張郡 · 続きを見る »

橋本道一

橋本道一(はしもと みちかず、生年不詳 - 慶長元年2月15日(1596年3月13日)) は、戦国時代の武将である。橋本伊賀守の6代目であり、現在の愛知県稲沢市辺りを支配していたという。父は織田信長の鉄砲師範である橋本一巴である。弟に矢合城主の橋本大膳がいる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と橋本道一 · 続きを見る »

武家事紀

『武家事紀』(ぶけじき)は、江戸時代前期に山鹿素行によって書かれた歴史書・武家故実書。全58巻。 素行が赤穂藩に配流中の延宝元年(1673年)の序文がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と武家事紀 · 続きを見る »

武藤資頼

武藤 資頼(むとう すけより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人・守護。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と武藤資頼 · 続きを見る »

武断派

武断派(ぶだんは)は、豊臣政権内部における派閥の1つ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と武断派 · 続きを見る »

歴史上の推定地域人口

歴史上の推定地域人口は、主要地域の人口の変遷を推定したものである。なお本項の表における人口の単位は総て千人である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と歴史上の推定地域人口 · 続きを見る »

歴史群像

『歴史群像』(れきしぐんぞう)は、学研プラスが発行する日本の歴史、軍事に関する隔月刊の専門雑誌である(1997年4月から2000年12月までの間は編集方針の変更により季刊となっていた)。 1992年6月に学習研究社(現・学研ホールディングス)より創刊され、2009年10月から2015年9月までは学研パブリッシングが発行していた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と歴史群像 · 続きを見る »

毛利勝信

毛利 勝信(もうり かつのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。別名は吉成(よしなり)、本姓は森氏で、森吉成を名乗った期間が長く、毛利吉成とも称する。官位は壱岐守。号を一斎。子に毛利勝永(吉政)など。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と毛利勝信 · 続きを見る »

毛利勝永

毛利 勝永(もうり かつなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。大坂の陣で活躍。また大坂城入りを励ました妻は、戦前は銃後の守りの手本として、『婦女鑑』(明治20年)などに取り上げられている。 勝永という諱は一次史料で確認できない。発給文書は全て吉政(よしまさ)と署名しており、史料では毛利吉政(森吉政)。この吉政の「政」は龍造寺政家からの一字拝領である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と毛利勝永 · 続きを見る »

毛利秀包

毛利 秀包(もうり ひでかね)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、筑後国久留米の大名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と毛利秀包 · 続きを見る »

毛利秀元

毛利 秀元(もうり ひでもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門長府藩の初代藩主。毛利元就の四男である穂井田元清の次男。母は村上通康の娘・妙寿院。正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。子に光広、元知など。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と毛利秀元 · 続きを見る »

毛利秀頼

毛利 秀頼(もうり ひでより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃飯田城主。 諱は初めは長秀(ながひで)で、史料では毛利河内守長秀との署名が多数残る。その後、豊臣政権になって侍従の官位と豊臣の姓と羽柴の氏を下賜されたため、天正15年の九州の役の頃か同16年の聚楽第行幸の頃より羽柴河内侍従豊臣秀頼と名乗るようになった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と毛利秀頼 · 続きを見る »

毛利高政

毛利 高政(もうり たかまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。キリシタン大名。豊後佐伯藩の初代藩主。 通称は勘八または勘八郎。受領名は民部大輔で、従五位下に叙された時に官位としても正式に受領した。さらにのちに伊勢守も受領している。初名は友重で、のちに高政に改名した。当初は森姓を名乗って森友重を称し、後に毛利輝元より毛利姓を賜って改姓して毛利友重となるが、諱を高政と改名したのは徳川の世になってからである。書籍では森高政とするものがあるが、実際には改姓前に高政名は用いておらず、一次史料にこの署名は見られない。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と毛利高政 · 続きを見る »

毛利輝元

毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と毛利輝元 · 続きを見る »

毛利重政

毛利 重政(もうり しげまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 通称は兵橘/兵吉(ひょうきつ)。官位は従五位下、豊後守。毛利重政は晩年の名乗りで、主に森重政または森兵吉を名乗った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と毛利重政 · 続きを見る »

氏家行広

氏家 行広(うじいえ ゆきひろ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。氏家氏14代当主。 氏家氏は宇都宮氏の庶流。元亀2年(1571年)、父・氏家直元(卜全)が伊勢長島攻めで戦死した後、家督は兄・直昌が継ぎ、引き続き織田信長に仕えた。 本能寺の変後、氏家氏は織田信孝に属したが、信孝が羽柴秀吉と対立すると秀吉方へ味方し、以降は秀吉に仕える。この前後に兄が病死し、天正11年(1583年)に行広が家督を継ぎ、美濃国三塚1万5,000石に移封される。天正16年(1588年)、従五位下・内膳正に叙任。その後、小田原征伐などで軍功を挙げ、天正18年(1590年)、伊勢国桑名2万2,000石に加増移封された。 秀吉死後、慶長5年(1600年)の会津征伐では徳川家康軍に合流するため東上中であったが、道中で石田三成挙兵の報を聞くと家康に断りを入れた上で伊勢に帰還、豊臣秀頼が幼少であることを理由に家康方・三成方いずれにも呼応せず中立の立場を取った。しかし桑名に西軍勢力が及んできたため中立の立場を維持できず、やむなく弟の行継と共に西軍に与し、伊勢路を防衛した。このため関ヶ原の戦い後、家康の命で改易されて浪人となる。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では荻野道喜と変名を用い大坂城に入城し豊臣氏に与して活躍した。家康は行広の器量を惜しんで仕官を呼びかけたが応じなかったという。翌年の大坂夏の陣のとき、大坂城落城と共に自刃した。彼の4人の子のうち三男以外は京に逃れたが、京都所司代の配下に捕らえられ、同年7月、妙覚寺にて自刃に追いやられている。三男のみは天海の弟子となっており、助命された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と氏家行広 · 続きを見る »

氏家行継

氏家 行継(うじいえ ゆきつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 氏家氏は宇都宮氏の庶流。西美濃三人衆の一人・氏家直元(卜全)の三男として生まれる。天正10年(1582年)3月、織田氏の甲州征伐のために信濃国へ出陣しているのが資料上の初見と思われる(『信長公記』)。諱は複数伝わるが、文書で確認できるのは「定元」。 同年6月の本能寺の変以降は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加。近江国・伊勢国などに1万5000石の所領を与えられた。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣、文禄3年(1594年)には伏見城の普請にも分担であるが参加している。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、兄・行広や寺西直次と共に桑名城に籠城した。戦後、高野山に上り、徳川家康によって改易されたが、翌年に許されて、細川忠興の家臣となり6000石を与えられた。没年は複数伝わり、関ヶ原同年の11月に没したなど諸説あるが、少なくとも慶長9年(1604年)8月までは細川忠興の書状で生存が確認できる。家督は嫡男・元高が継ぎ、子孫は熊本藩に仕えた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と氏家行継 · 続きを見る »

水原市

水原市(スウォンし、韓国語:수원시)は、大韓民国北西部の都市。京畿道の道庁所在地。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と水原市 · 続きを見る »

水軍

水軍(すいぐん)は、東アジアの漢字文化圏における伝統的な水上兵力の称である。西洋・近代の軍事における海軍に相当するが、東洋の水軍においては河川や湖沼における水上兵力の比重も大きい。水師、船師、舟師ともいう。集団化・組織化すると、海賊衆、警固衆(けごしゅう)、船手組(ふなてぐみ)、船党などの呼称もある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と水軍 · 続きを見る »

水野忠重

水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。水野忠政の九男。母は華陽院。子に水野勝成、水野忠清、清浄院(加藤清正継室)。徳川家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人に数えられている。法名は賢忠。道号は勇心『寛永諸家系図伝』。 水野忠重公墓所 (福山市若松町).

新しい!!: 文禄・慶長の役と水野忠重 · 続きを見る »

水戸学

水戸学(みとがく)は、江戸時代に日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された政治思想の学問である。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。全国の藩校でも水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられた。その「愛民」「敬天愛人」といった思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。徳川光圀の『大日本史』編纂のために集まった学者を中心としており、朱子学者が多かったが、あらゆる学派を網羅していた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と水戸学 · 続きを見る »

永川市

永川市(ヨンチョンし)は大韓民国慶尚北道の南東部にある市。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と永川市 · 続きを見る »

永楽帝

永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝。姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された。諡号は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と永楽帝 · 続きを見る »

民兵

民兵(みんぺい、 ミリシア、ミリシャ、ミリティア)は、正規の軍人ではない民間人を軍事要員として編成した武装組織のこと。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と民兵 · 続きを見る »

江原道

江原道(カンウォンド、朝鮮語:강원도)は朝鮮八道の一つであり、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に同名の行政区画が存在する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と江原道 · 続きを見る »

江原道 (朝鮮八道)

江原道(カンウォンド、こうげんどう)は李氏朝鮮の行政区画、朝鮮八道の一つ。現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にまたがる江原道を合わせた地域。現在は韓国側にある江陵と原州から頭文字を取って命名された。 北を咸鏡道に、西を黄海道と京畿道に、南を忠清道と慶尚道に接する。東は、日本海に面している。 李氏朝鮮初期に設置されたが、険しい山脈によって交通が妨げられたので、道名の由来となった原州と江陵が、それぞれ西と東の中心地として発展した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と江原道 (朝鮮八道) · 続きを見る »

江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と江戸幕府 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と江戸時代 · 続きを見る »

池内宏

池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 1952年11月1日)は、東洋史学者。祖父は儒学者の池内大学。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と池内宏 · 続きを見る »

池田光重

池田 光重(いけだ みつしげ、生年不明 - 寛永5年5月19日(1628年6月20日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。通称は弥右衛門、別名は重信。官位は従五位下・備後守。池田長正の次男。兄に知正。子に三九郎、重長(他紋丸)。 文禄元年(1592年)、朝鮮の役にて名護屋城に兵50名で休戦まで在陣した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは小山評定から、兄知正と共に東軍に属した。子・三九郎は兄の養子となって慶長9年(1604年)に家督を継いだが、翌慶長10年(1605年)、17歳で早世してしまい、光重が家督を継承することとなった。慶長14年(1609年)、大広寺に兄と長男の肖像画と釣鐘、10石の寺領を寄進した。また、次男・他紋丸(重長)の無事成長と武運長久を願い摂津国神田村(現池田市)の八坂神社本殿の再建などをしている。 慶長18年(1613年)、家臣の関弥八郎が貸金横領罪のかどで、翌19年(1614年)、光重は連座する形で所領を没収され、駿河国法命寺に蟄居した。同年、大坂冬の陣では徳川方として有馬豊氏隊に属して参戦した。戦後、重長と共に摂津池田氏再興を嘆願するため江戸に向かうも、志半ばで同地で没した。 子孫は江戸に留まり、重長、貞長、貞重、興貞、貞彦、貞夫、貞一、貞瑞と続き、貞瑞は明治7年(1874年)後嗣なく没するが、分家していた弟の東作が相続して現在に至る。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と池田光重 · 続きを見る »

池田秀氏

池田 秀氏(いけだ ひでうじ)は、安土桃山時代の武将、大名。伊予大洲城主。豊臣秀吉の家臣で、後に藤堂高虎に仕えた。諱は高祐ともし、池田高祐の名でも知られる。通称は孫二郎。受領名は父と同じく「伊予守」を名乗った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と池田秀氏 · 続きを見る »

池田長吉

池田 長吉(いけだ ながよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。池田恒興の三男。長吉流池田家初代当主で、因幡鳥取藩初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と池田長吉 · 続きを見る »

求礼郡

求礼郡(クレぐん)は大韓民国全羅南道の北東部にある郡である。東は慶尚南道に、北は全羅北道に接する。朝鮮半島の名山の一つである智異山(チリサン)が郡の北東にそびえ、登山者の玄関口になっている。 サンシュユ(山茱萸、山瀋按)・茶・野菜の栽培といった農業や農産品加工のほか、智異山登山や華厳寺などの観光が主な産業である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と求礼郡 · 続きを見る »

河尻秀長

河尻 秀長(かわじり ひでなが、生年不詳 - 慶長5年(1600年))は、安土桃山時代の武将・大名。苗木城城主。河尻秀隆の子。通称は、与四郎。名は直次、宗久とも。肥前守。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と河尻秀長 · 続きを見る »

沈惟敬

沈 惟敬(しん いけい、拼音:Shěn wéi jìng(シェン ウェイ チン)、? - 1597年(万暦25年))は、中国明代の使節。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と沈惟敬 · 続きを見る »

沙也可

沙也可(さやか、1571年? - 1642年)は、文禄・慶長の役の際、加藤清正の配下として朝鮮に渡ったが、投降して朝鮮軍に加わり、火縄銃の技術を伝えて日本軍と戦ったとされる武将。現代朝鮮語発音ではサヤガとなる。朝鮮では金忠善(キム・チュンソン、ハングル表記:김충선)の名で知られ、字は善之、慕夏堂と号したという。韓国においては英雄扱いされているが、その活躍の実態は不明な点も多い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と沙也可 · 続きを見る »

波多親

波多 親(はた ちかし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。肥前国鬼子岳城(岸岳城)主。波多氏17代当主。元服後の初名は鎮(しげし)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と波多親 · 続きを見る »

泰平寺 (薩摩川内市)

泰平寺(たいへいじ)は鹿児島県薩摩川内市大小路町にある真言宗の寺。正式名「医王山正智院泰平寺」。本尊は薬師如来。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と泰平寺 (薩摩川内市) · 続きを見る »

泗川の戦い

泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と泗川の戦い · 続きを見る »

泗川海戦

泗川海戦(しせんかいせん、朝鮮語読みで泗川はサチョン)は、文禄元年5月29日(1592年7月8日)、泗川湾で行われた文禄の役の海戦である。泗川浦海戦とも言う。亀甲船(亀船)が初めて実戦投入されたと云うが、この海戦自体についての記述が日本側にはなく、詳細は不明。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と泗川海戦 · 続きを見る »

法藏館

法藏館(法蔵館、ほうぞうかん)は、京都市下京区正面通烏丸東入にある、老舗の仏教系出版社。慶長7年(1602年)創業の仏教書肆・丁子屋の流れを汲む京都府立図書館館報「図書館きょうと」No.40。歴代当主は、西村七兵衛を襲名している(現在は五代目)。 浄土真宗の仏教書を基点に、多くの宗派・学問的立場に拠る仏教書全般を出版している。特に真宗大谷派式務部により編集された出版物の発行や、同部が校閲した出版物を発行するなど、大谷派(東本願寺)とのつながりが深い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と法藏館 · 続きを見る »

津田信成

津田 信成(つだ のぶなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名で山城御牧藩主。大名の衣装や日用品を収納する挟箱を考案した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と津田信成 · 続きを見る »

津軽為信

津軽 為信(つがる ためのぶ、)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。陸奥国弘前藩初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と津軽為信 · 続きを見る »

洪原郡

洪原郡(ホンウォンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道に属する郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と洪原郡 · 続きを見る »

洛東江

洛東江(らくとうこう、ナクトンガン)は韓国政府統治下最長の河川。全長525km、流域面積23,384km2。 朝鮮半島東部を南北に走る太白山脈に端を発し、大邱市、釜山市などの主要都市を貫流して朝鮮海峡に注ぐ。慶尚北道、慶尚南道のかなりの部分と、全羅北道、全羅南道、江原道の一部を流域に含む。 河川名の由来は駕洛国(現在の金海市)の東側に位置していることによる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と洛東江 · 続きを見る »

深水長智

深水長智(ふかみ ながとも、天文元年(1532年) - 天正18年8月21日(1590年9月19日))は、相良氏の家老、歌人。三河守。剃髪して三河入道、宗方(そうほう)または休甫を称した。父は深水頼金、子は深水摂津介。養子は深水頼蔵。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と深水長智 · 続きを見る »

済州島

済州島(チェジュとう、さいしゅうとう)は、朝鮮半島の西南、日本海、東シナ海、黄海の間にある火山島。その付属島嶼と併せて大韓民国済州特別自治道を構成する。人口は約66万人、面積は1,845km2。 15世紀初め頃までは耽羅という独立した王国があった。以前の西洋では、オランダ統治時代の台湾から長崎に向かう途中に難破したオランダの商船に因んで、Quelpart(귤밭、橘밭、「みかん畑」の意)と呼ばれていた。 なお、朝鮮語では「島」と「道」は同じ音のため、「済州島」と「済州道」の区別に注意を要する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と済州島 · 続きを見る »

清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と清 · 続きを見る »

清州市

清州市(チョンジュし/せいしゅうし、韓国語表記:)は大韓民国忠清北道西部の市。道庁所在地。忠清北道で唯一の特定市である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と清州市 · 続きを見る »

清道郡

清道郡(チョンドぐん)は大韓民国慶尚北道の南部にある郡である。郡庁所在地は華陽邑凡谷里。郡の南部は慶尚南道と境界を接している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と清道郡 · 続きを見る »

溝口秀勝

溝口 秀勝(みぞぐち ひでかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越後国新発田藩の初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と溝口秀勝 · 続きを見る »

満州

満洲(まんしゅう、マンジュ、拼音:Mǎnzhōu、英語:Manchuria)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。渤海・金朝・後金・清朝を建国した満洲民族や、夫余・高句麗を建国した濊貊族、鮮卑・烏桓・契丹・奚などモンゴル民族の故地である。なお、漢字表記は法令や一部の文献では「満洲」が用いられるものの、一般には「満州」が用いられることが多い。 「満洲」という言葉は、もともとは12世紀にはおもに民族名を指していた。しかし19世紀の日本では満洲、満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と満州 · 続きを見る »

滝川雄利

滝川 雄利(たきがわ かつとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢神戸城主、のち常陸片野藩初代藩主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と滝川雄利 · 続きを見る »

漢城府

漢城府(かんじょうふ)は、李氏朝鮮の首都であり、統治していた機関の名前。以前の漢陽府、後の京城府、現在のソウル特別市。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と漢城府 · 続きを見る »

漢江

漢江(ハンガン・かんこう)は朝鮮半島、大韓民国(韓国)統治圏の北部を流れる河川。全長494km、流域面積35,770km2。洛東江に続いて韓国2位の長さであるが、流域面積は洛東江より広く、韓国1位である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と漢江 · 続きを見る »

漆川梁海戦

漆川梁海戦(しっせんりょうかいせん。巨済島海戦とも)は、慶長の役の緒戦において、日本水軍と朝鮮水軍の間で戦われた海戦。敗北した朝鮮水軍は殆ど壊滅し、陸海で日本軍が西進する端緒となった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と漆川梁海戦 · 続きを見る »

澎湖諸島

澎湖諸島(ほうこしょとう、ポンフーしょとう)は、台湾島の西方約50kmに位置する台湾海峡上の島嶼群。澎湖列島、澎湖群島とも呼ばれる。島々の海岸線は複雑で、その総延長は約300kmを誇っている。大小併せて90の島々から成るが、人が住んでいる島はそのうちの19島である。また、かつて「澎湖」の名を冠した日本海軍の艦艇があった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と澎湖諸島 · 続きを見る »

服部一忠

服部 一忠(はっとり かずただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は小平太。名は春安、忠次とも。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と服部一忠 · 続きを見る »

服部正栄

服部 正栄(はっとり まさひで、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の馬廻。土佐守。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と服部正栄 · 続きを見る »

朝尾直弘

朝尾 直弘(あさお なおひろ、 1931年12月17日 - )は、日本史学者、京都大学名誉教授、文化功労者。近世史。大阪府吹田市出身。住友史料館館長。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝尾直弘 · 続きを見る »

朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝廷 · 続きを見る »

朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝鮮半島 · 続きを見る »

朝鮮半島から流出した文化財の返還問題

晋州市が返還要求する常宮神社の朝鮮鐘(日本の国宝)。文化財の返還運動や盗難事件が多発しているため現在は一般公開されていない。 安国寺(長崎県壱岐市)。盗まれた経典に酷似したものが1995年に韓国で国宝284号に指定された。 朝鮮半島から流出した文化財の返還問題とは、韓国が朝鮮半島から正式な手法を含めて他国に渡った文化財の返還を日本やフランスなどに求めている文化財返還問題。 日本は1965年の「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」と「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」により、日韓における文化財の返還が完全かつ最終的に解決済みであり、また正式の手続きにより入手した文化財に返還義務はないとするのが基本的な立場であったが、2010年の菅直人首相(当時)談話によって正式に古物商から購入したものも含む朝鮮王室儀軌1205点の引渡し(韓国側は返還と表記)を決定した。それ以降も韓国は、『略奪された』と主張する文化財の返還要求を行っている2010年08月12日 。 他方、日本の寺社で盗まれた仏像と同一のものが韓国で国宝に指定されるなどの事件(対馬仏像盗難事件など)が発生し、日本は文化財不法輸出入等禁止条約に基づき調査や返還を要求したが、韓国政府にいずれも拒絶された(韓国国宝284号に指定された安国寺高麗版大般若経は2001年に時効成立)。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝鮮半島から流出した文化財の返還問題 · 続きを見る »

朝鮮八道

朝鮮八道(ちょうせんはちどう)は、李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島に置いた8つの道(行政区画)。 400年以上にわたって同一の区分が用いられたため、「八道」は転じて「朝鮮全土」のことも指した。鶏林八道(けいりんはちどう)と呼ぶ事もある。8つに区分された道は、現在も地域的なまとまりとして捉えられている(朝鮮の地方)。 また、現在の韓国と北朝鮮の行政区画の基礎にもなっている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝鮮八道 · 続きを見る »

朝鮮王朝実録

『朝鮮王朝実録』(ちょうせんおうちょうじつろく)は李氏朝鮮の初代太祖の時から純宗に至るまで27代519年間の歴史を編年体で編纂した1967巻948冊の実録。かつては『李朝実録』(りちょうじつろく)と呼ぶことが多かった。なお、現在の朝鮮民主主義人民共和国での正式的な呼び名は『朝鮮封建王朝実録』(ちょうせんほうけんおうちょうじつろく)である。 李氏朝鮮時代の政治、外交、軍事、経済など各方面の史料を記載しているといわれる。1997年(平成9年)にはユネスコの世界の記憶 (Memory of the World) 計画に登録された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝鮮王朝実録 · 続きを見る »

朝鮮語

朝鮮語(ちょうせんご)または韓国語(かんこくご)は、主に朝鮮民族が使う言語で、朝鮮半島の大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)および中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州・長白朝鮮族自治県の公用語。 韓国での政府呼称は「韓国語」、北朝鮮での政府呼称は「朝鮮語」である。日本において「韓国語」は、専ら韓国の言語を指す呼称として用いられ、南北を区別しない呼称としては、言語学・音韻論など学術的にも、標準表記として「朝鮮語」が用いられるので、ここでは言語名を全て朝鮮語に統一して記述する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝鮮語 · 続きを見る »

朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝鮮通信使 · 続きを見る »

朝鮮民主主義人民共和国

朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく、)、通称北朝鮮(きたちょうせん)は、東アジアの朝鮮半島北部を実効支配する、最高指導者による事実上独裁体制を取る社会主義共和国。冷戦下で誕生した分断国家である。ただし大韓民国は朝鮮半島全域の領有権を主張しているほか、後述の通り日本も国家として承認していない。 軍事境界線(38度線)を挟み分断した片割れの大韓民国(韓国)と、豆満江を挟んで中華人民共和国及びロシア連邦と、鴨緑江を挟んで中国と接している。首都は平壌で、人口は約2515万人とされる。行政区画は平壌直轄市、開城工業地区、金剛山観光地区、新義州特別行政区、羅先特別市、羅先経済特区、南浦特級(特別)市と八つの道に分かれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝鮮民主主義人民共和国 · 続きを見る »

朝貢

朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朝貢 · 続きを見る »

木下吉隆

木下 吉隆(きのした よしたか)は、安土桃山時代の武将、大名である。豊臣氏の家臣で、秀吉の側近。字は半介、他の諱として吉俊・吉種も名乗った。書状などでは「木下半介」の名前で登場する。従五位下・大膳大夫。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と木下吉隆 · 続きを見る »

木下延俊

木下 延俊(きのした のぶとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人。豊後日出藩初代藩主。初名は勝忠とも云う。官位は従五位下右衛門大夫で、通称も右衛門大夫。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と木下延俊 · 続きを見る »

木下延重

木下 延重(きのした のぶしげ)は、安土桃山時代の武将。官位は従五位下周防守。通称は与右衛門。木下雅楽助の子。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と木下延重 · 続きを見る »

木下利房

木下 利房(きのした としふさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて武将、大名。備中足守藩第2代藩主。官途は従五位下宮内少輔。初名は勝義。諱は惟俊とする史料もある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と木下利房 · 続きを見る »

木下勝俊

木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名、歌人。 若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を若狭少将と言う。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」と伝わる。歌人としては長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、あるいは挙白(きょはく)、天哉爺(てんかおう)など様々の称を用いた。一般には木下長嘯子の名が高名。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と木下勝俊 · 続きを見る »

木下秀規

木下 秀規(きのした ひでのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。木下家定の七男。官途は左京亮。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と木下秀規 · 続きを見る »

木下重堅

木下 重堅(きのした しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。因幡若桜城主。官位は従五位下備中守。通称を平太夫や備中守とし、荒木重堅や木下備中守ともいった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と木下重堅 · 続きを見る »

木村又蔵

木村 又蔵(きむら またぞう)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。加藤清正の家臣。加藤十六将(二十六将)の一人。諱は正勝。実像よりも江戸時代以後に講談で有名となった人物であり、伝承の虚構と史実との境界は不明。相撲の達人として知られ、毛谷村六助との一番が有名。 著書に『清正記(一部)』『木村又蔵覚書』があるが、いずれも江戸中期以後の作で、後者は偽書。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と木村又蔵 · 続きを見る »

木村重茲

木村 重茲(きむら しげこれ、生年未詳 - 文禄4年7月15日(1595年8月20日))は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。 別名に定光、重隆、重高。通称は隼人正、常陸介。子に高成、重成。 千利休の弟子で、台子七人衆の1人。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と木村重茲 · 続きを見る »

本多康重

本多 康重(ほんだ やすしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。三河岡崎藩初代藩主。大名としての本多豊後守家初代。 本多広孝の長男。母は東条松平義春の娘。正室は大垣藩主・石川家成の娘。子に康紀(長男)、紀貞(三男)、重世(四男)、娘(諏訪頼水正室)、娘(飛鳥井雅庸室)、娘(堀利重正室)、娘(遠藤慶勝正室)ら。通称は彦次郎。官位は従五位下、豊後守。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と本多康重 · 続きを見る »

本居宣長

本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅のにて門人を集め講義をしたことからと呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身で、一族には日本の映画監督・脚本家の小津安二郎がいる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と本居宣長 · 続きを見る »

朱印状

織田信長朱印状/兵庫県立歴史博物館蔵 朱印状(しゅいんじょう)とは、日本において(花押の代わりに)朱印が押された公的文書(印判状)のことである。主に戦国時代から江戸時代にかけて戦国大名・藩主や将軍により発給された。 特に、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給したものは、領地朱印状とも呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朱印状 · 続きを見る »

朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朱子学 · 続きを見る »

朱元璋

朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の始祖であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅ こうそう)と改名し、紅巾(こうきん)軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と朱元璋 · 続きを見る »

有馬豊氏

有馬 豊氏(ありま とようじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹波国福知山藩主、のち筑後国久留米藩初代藩主。久留米藩有馬家2代。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と有馬豊氏 · 続きを見る »

有馬晴信

有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、肥前日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。 大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた。 なお正純、正俊と名乗った一時期があったするが、史料的に裏付けるものはない。名乗りが確認されるだけでも四つ、正純や正俊も含めるとそれ以上の数になり、これはその地位の不安定さによるものとされている。のちに島津義久からの偏諱で久賢(ひさまさ)、そして足利義晴から偏諱を受けた祖父の有馬晴純から一字取って晴信に改名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と有馬晴信 · 続きを見る »

望闕礼

望闕礼(ぼうけつれい)は、皇帝や国王と離れた場所にいて直接に拝謁できない時に、宮闕のある方を向いて礼を行う儀式である。 中国から冊封を受けていた李氏朝鮮では、元旦、冬至、聖節(中国皇帝の誕生日)、千秋節(中国皇太子の誕生日)に、朝鮮国王が漢城(ソウル)から中国皇帝がいる北京の方向を向いて遥拝する望闕礼を行っていた 두산백과, 네이버 백과사전(斗山世界大百科事典)。大韓帝国成立後に廃止された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と望闕礼 · 続きを見る »

最上義光

最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と最上義光 · 続きを見る »

惟政

惟政(いせい、ユ・ジョン、1544年 - 1610年)は、李氏朝鮮(朝鮮王朝)の僧。尊称は「松雲大師」。居所にちなみ「四溟堂」とも号する。文禄・慶長の役で、義僧兵の総指揮官として日本軍と果敢に戦い、また加藤清正や徳川家康と会談して講和交渉を行うなど外交面でも大きな役割を果たした。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と惟政 · 続きを見る »

惣無事令

惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。藤木久志によって提唱され定説化した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と惣無事令 · 続きを見る »

戦役

戦役(せんえき)は、戦争状態にある両軍が行う相互に関連する一連の軍事行動を言う。戦争の一局面であり、機動や戦闘などの行動の総和である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と戦役 · 続きを見る »

戦列歩兵

戦列歩兵(せんれつほへい、, )とは、17〜19世紀の欧州の野戦軍で主流となった歩兵の運用形態のひとつである。 同様の兵科は欧州各国のみならず、中国、インド(セポイ)、新大陸(大陸軍)など、世界中で組織された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と戦列歩兵 · 続きを見る »

戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と戦国大名 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

戸田勝隆

戸田 勝隆(とだ かつたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。通称は三郎四郎。民部少輔。諱は氏繁、氏知、政信とも。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と戸田勝隆 · 続きを見る »

戸田勝成

戸田 勝成(とだ かつしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。通称は半右衛門、武蔵守。名は重政・勝重ともいう。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と戸田勝成 · 続きを見る »

戸曹

戸曹(ホジョ)は、朝鮮において、高麗末から李氏朝鮮にかけて置かれた行政機関。正二品衙門。1392年(太祖元年)に光化門の南に設置され、1894年(高宗31年)の甲午改革で度支(財務)衙門に改称された。戸口、貢物、田糧、租税、食糧および国家財政に関連した部分を担当した。 現在の企画財政部に相当する。 大韓帝国高宗31年である1894年に度支衙門に改革後、度支部(大蔵省)になった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と戸曹 · 続きを見る »

星州郡

星州郡(ソンジュぐん)は、大韓民国慶尚北道にある郡。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と星州郡 · 続きを見る »

明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と明 · 続きを見る »

明史

『明史』(みんし、拼音:Míngshǐ)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から校正される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と明史 · 続きを見る »

明川郡

明川郡(ミョンチョンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道南部にある郡。面積は推定520km2、人口は推定67,262人(1991年)。景勝地・七宝山を擁し、温泉も多い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と明川郡 · 続きを見る »

明石則実

明石 則実(あかし のりざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。 織田氏の家臣・羽柴秀吉が播磨国に入国して姫路城主になった際、従兄弟の黒田孝高と共に秀吉に属した。 天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いに参加し、天正13年(1585年)3月の紀州征伐では紀伊国太田城攻めで功があり1万石となる。ついで四国征伐にも参加。戦後に但馬国豊岡城において2万2,000石を領し、左近将監に叙任された。天正15年(1587年)の九州平定では兵800を率いる。翌年の聚楽第行幸では関白となった豊臣秀吉の牛車に供奉している。小田原征伐では秀吉の馬廻として従軍する。 文禄元年(1592年)の文禄の役にも兵800を率いて朝鮮へ渡海し、大邱など釜山から漢城に向かう慶尚道内の要路の防衛を担当するなどしている。しかし、文禄の役後、秀次事件に連座して切腹を命じられた。 のりさね Category:戦国武将 Category:織豊政権の大名 Category:播磨国の人物 Category:切腹した人物 Category:16世紀生 Category:1595年没.

新しい!!: 文禄・慶長の役と明石則実 · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と明治 · 続きを見る »

春川市

春川市(チュンチョンし、韓国語表記:)は、大韓民国江原道の道庁所在地。面積1,116.35平方キロ(山林851平方キロ)。『冬のソナタ』のロケ地として知られるほか、タッカルビ(鶏の焼肉)が名物料理として知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と春川市 · 続きを見る »

春秋館

春秋館(チュンチュグァン)は、李氏朝鮮において、実録編纂を主管業務とする行政機関で、知事を長官、同知事を次官とする機関である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と春秋館 · 続きを見る »

昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と昭和 · 続きを見る »

昌寧郡

昌寧郡(チャンニョンぐん)は大韓民国慶尚南道の東北部にある郡である。郡の北部を大邱広域市と接している。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と昌寧郡 · 続きを見る »

昌徳宮

昌徳宮 (しょうとくきゅう、朝鮮語読み チャンドックン)は韓国ソウル特別市に所在する李氏朝鮮の宮殿。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と昌徳宮 · 続きを見る »

昌慶宮

昌慶宮(チャンギョングン、しょうけいきゅう)は、ソウル市にある李氏朝鮮時代の宮殿。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と昌慶宮 · 続きを見る »

流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と流罪 · 続きを見る »

海禁

海禁(かいきん)とは、中国明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策のことである。海賊禁圧や密貿易防止を目的とし、海外貿易等の外洋航海、時には沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)が規制された。本来は下海通蕃の禁と呼び、海禁は略称であった。 またこれを「領民の私的な海外渡航や海上貿易を禁止する政策」と捉え、江戸幕府の行った国家による対外交流独占政策(鎖国政策)や李氏朝鮮の同様の政策、あるいは元朝の行った商人の出海禁止政策(「元の海禁」)もまた、海禁と位置付けられることもある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と海禁 · 続きを見る »

海賊停止令

海賊停止令(かいぞくていしれい、かいぞくちょうじれい)は、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が出した海賊衆(水軍)に対する3ヶ条の定で、それぞれに海賊行為をしない旨の連判の誓紙を出させ、海民の武装解除を目的とした政策。 令の名称は通称であり、海賊禁止令(かいぞくきんしれい)、海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)、海賊鎮圧令(かいぞくちんあつれい)など幾つかの呼び方がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と海賊停止令 · 続きを見る »

海汀倉の戦い

海汀倉の戦い(かいていそうのたたかい)とは、文禄の役で韓克諴率いる朝鮮軍を加藤清正率いる日本軍が破った戦い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と海汀倉の戦い · 続きを見る »

浅野幸長

浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。紀伊国和歌山藩(紀州藩)初代藩主。浅野氏15代当主。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と浅野幸長 · 続きを見る »

浅野長政

浅野 長政(あさの ながまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣政権の五奉行筆頭。浅野氏14代当主。常陸国真壁藩初代藩主。 長政は晩年の改名で、初名の長吉(ながよし)を名乗っていた時期が長い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と浅野長政 · 続きを見る »

斎村政広

斎村 政広(さいむら まさひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。赤松政秀の子。初名は赤松広秀(あかまつ ひろひで)。播磨龍野城、のち但馬竹田城城主。通称を弥三郎。官名は従五位下左兵衛佐。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と斎村政広 · 続きを見る »

新庄直頼

新庄 直頼(しんじょう なおより)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。常陸麻生藩の初代藩主。通称は新三郎、官位は従五位下駿河守。父は近江朝妻城主新庄直昌、母は久我氏の娘。直忠の兄。正室は佐久間盛重の娘。直定、直綱、秀信、直房、娘(柴田某室)の父。養女(虎姫、佐久間盛政娘)は中川秀成室。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と新庄直頼 · 続きを見る »

新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と新羅 · 続きを見る »

新羅の入寇

新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)は、古代朝鮮半島に栄えた王国、新羅の流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。 新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。本項では新羅滅亡以後の賊徒侵攻についても概説する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と新羅の入寇 · 続きを見る »

方広寺

方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と方広寺 · 続きを見る »

文化露寇

日本側が記録したレザノフの船と部下 文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件(朝日新聞、2010年9月6日)。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件(Инцидент Хвостова)とも呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と文化露寇 · 続きを見る »

文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と文禄 · 続きを見る »

文治派

文治派(ぶんちは)とは、豊臣政権内部における派閥の1つ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と文治派 · 続きを見る »

日根野高吉

日根野 高吉(ひねの たかよし)は、戦国時代の武将。信濃諏訪藩(高島藩)の初代藩主。 はじめ美濃斎藤氏に仕えた。斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え、信長没後は織田信孝を経て、羽柴秀吉に仕えた。天正18年(1590年)の小田原征伐で山中城を攻略した功績を賞されて、信濃高島に3万8000石(寛政重修諸家譜では2万7000石)を与えられ、「諏訪の浮城」と呼ばれた高島城を7年かけて築城している。文禄の役では肥前名護屋に駐屯した。伏見城築城でも功を挙げている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与していたが、本戦直前の6月26日に急死した。享年62。跡を嫡男の吉明が継いだ。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日根野高吉 · 続きを見る »

日欧文化比較

『日欧文化比較』(にちおうぶんかひかく)は宣教師ルイス・フロイスが1585年に著した小冊子。日本滞在中にフロイスが得た日本に関する豊富な知見をもとに、日欧の間の文化的な差異を列記したもので「日欧文化相違の凡例集」と評される。。日欧の差異を主題として扱った文書としては最古の部類である。 表題は1965年に岩波書店の大航海時代叢書で日本語版(岡田章雄:訳・注)が出版された際の邦題で、ポルトガル語の原典には“Tratado em que se contem muito susintae abreviadamente algumas contradições e diferenças de custumes antre a gente de Europa e esta provincial de Japão”というタイトルが付けられている。岩波版は1991年発行の文庫版では『ヨーロッパ文化と日本文化』と改題された。。。中央公論新社版もあり、こちらは『フロイスの日本覚書』あるいは単に『日本覚書』と呼ばれる。 のこと。。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日欧文化比較 · 続きを見る »

日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日清戦争 · 続きを見る »

日朝関係史

日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では、日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日朝関係史 · 続きを見る »

日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日本 · 続きを見る »

日本外史

『日本外史』(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が著した国史の史書(外史とは民間による歴史書の意)。源平2氏から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述されている。文政10年(1827年)、山陽と交流があった元老中首座の松平定信に献上され、2年後に大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行された。明治以後、日本語口語体に訳された本も数社から刊行されている。幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日本外史 · 続きを見る »

日本二十六聖人

日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。この出来事を「二十六聖人の殉教」という。26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日本二十六聖人 · 続きを見る »

日本刀

日本刀(にほんとう)は、日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。 刀剣類は、日本では古墳時代以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり刀身の片側に刃がある刀剣のことを指す。 寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日本刀 · 続きを見る »

日本国王

日本国王(にほんこくおう)は、日本の国王を意味する称号。 通常は中世期から近世期において特に武家政権の長が対外的に使用した称号を指す。室町幕府3代将軍足利義満が、明皇帝から「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」の封号を与えられ、日本国王に冊封されて以降、室町将軍の外交称号として使用された。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日本国王 · 続きを見る »

日本語

日本語(にほんご、にっぽんご「にっぽんご」を見出し語に立てている国語辞典は日本国語大辞典など少数にとどまる。)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする多くの場合、外国籍であっても日本で生まれ育てば日本語が一番話しやすい。しかし日本語以外を母語として育つ場合もあり、また琉球語を日本語と別の言語とする立場を採る考え方などもあるため、一概に「全て」と言い切れるわけではない。。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 2017年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語に次いで7番目に多い。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日本語 · 続きを見る »

日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日本書紀 · 続きを見る »

日明貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と日明貿易 · 続きを見る »

早川長政

早川 長政(はやかわ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と早川長政 · 続きを見る »

旌善郡

旌善郡(チョンソンぐん)は大韓民国江原道の高原地帯にある郡。アリランの一種である旌善アリランが伝わることで知られる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と旌善郡 · 続きを見る »

懲ヒ録

『懲毖録』(ちょうひろく)は、17世紀前後に書かれた李氏朝鮮の史書で、著者は同王朝の宰相柳成龍。文禄・慶長の役を記録したもので、重要な資料として、韓国の国宝第132号に指定されている。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と懲ヒ録 · 続きを見る »

敦義門

撤去前の姿 敦義門(とんぎもん、 、朝鮮語読み:トニムン)は、朝鮮半島の京城(現在のソウル)にあった城門。別名として西大門(서대문)、塞門(새문)、新門(신문)がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と敦義門 · 続きを見る »

慶尚道

慶尚道(キョンサンどう、日本読み:けいしょうどう)は、朝鮮八道の一つ。1896年に慶尚南道と慶尚北道に分かれた。現在は慶尚北道に属する慶州と尚州から頭文字を取って命名された。古代の遺跡や古都がある点は日本の近畿地方に似ている。韓国の歴代大統領12人(代行は除く)のうち8人が慶尚道出身であるなど、有名政治家、実業家を輩出している。広域市も釜山、蔚山、大邱の3つがある。慶尚道地域のうち、現在の大邱広域市と慶尚北道の領域はTK地域、釜山広域市と蔚山広域市と慶尚南道の領域はPK地域と呼ばれる。 韓国の主要政党で、李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)時代に与党だった自由韓国党(大邱市と慶尚北道を地盤としていた民主正義党と、釜山市と慶尚南道を地盤としていた統一民主党などが合同して1990年に結成された民主自由党の流れを汲む保守政党)はこの慶尚道を強固な支持基盤としていたが、2017年の大統領選挙では、自由韓国党の洪準杓が共に民主党の文在寅にPK地域で敗れるなど、近年は慶尚道地域の政党支持に変化がみられる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と慶尚道 · 続きを見る »

慶州市

慶州市(キョンジュし)は、大韓民国慶尚北道の歴史文化都市。東は日本海に面し、西は永川市と清道郡、南は蔚山広域市、北は浦項市に接する。面積1,324.41平方キロ、人口258,156人(2017年6月30日)。市のブランドスローガンはGolden City, Gyeongju。 新羅王国の都・金城(クムソン)の地であり、石窟庵と仏国寺が1995年にユネスコの世界遺産に登録された。また、2000年には南山ベルト・月城ベルト・大陵園(古墳公園)に含まれる膨大な遺跡と芬皇寺などが慶州歴史地域として登録され、さらに、2010年には市の北部・江東面に位置する両班の伝統的民俗村である良洞村が、安東河回村とともに世界遺産に登録された。これで同市内には3件の世界遺産が存在する事になり、稀な世界遺産都市となった。 韓国(朝鮮半島)の古都という点で、韓国国内はもちろん、世界各地からたくさんの観光客が訪れる。現代的な建造物が遺構の周辺にないという点で、ある意味で当時のまま街並みが残っている都市であるといえる。 また、市街地東方にある普門湖(ポムンホ)地域では、新しい観光拠点としての開発が行われており、特級ホテルが立ち並ぶ。 慶州市は全体に桜の木が多く、毎年春に、慶州さくらマラソンという大会が開催され、日本からも参加者がある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と慶州市 · 続きを見る »

慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と慶長 · 続きを見る »

慶長伊予地震

慶長伊予地震(けいちょういよじしん)は、1596年9月1日(文禄5年閏7月9日亥刻)夜に伊予国(現在の愛媛県)で発生した地震である。慶長伊予国地震とも呼ばれる。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と慶長伊予地震 · 続きを見る »

慶長伏見地震

慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子の刻に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震である。慶長伏見大地震とも呼称される。 京都では伏見城1594年築の指月伏見城であり、桃山丘陵にある現在の伏見桃山城とは異なる。2015年に瓦が発掘された。桃山丘陵の麓、巨椋池が広がる湿地帯のすぐ側にある小さな丘で地盤が弱かった。現在の地名は京都府京都市伏見区桃山町秦長老。天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は1,000人を超える。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と慶長伏見地震 · 続きを見る »

慶長豊後地震

慶長豊後地震(けいちょうぶんごじしん)は、1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)に豊後国(現在の大分県)で発生した地震である。別府湾地震、大分地震などとも呼ばれる。死者800余人。 この地震によって別府湾にあった瓜生島及び久光島の2島が沈んだと伝えられる。ただし、これらの島は実在自体が未確認であり、瓜生島は島ではなく沖ノ浜と呼ばれる沿岸の港町であったとする説等もある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と慶長豊後地震 · 続きを見る »

承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と承久の乱 · 続きを見る »

曾根孫六

曾根 孫六(そね まごろく、生没年不詳)は、加藤清正の臣。越中出身で、孫六、孫七、孫八の三兄弟は「加藤家の三孫」と呼ばれて川潜りの名人とされた。肥後の治水など郷土史にも登場するが、講談に登場する逸話で有名。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と曾根孫六 · 続きを見る »

景福宮

景福宮(けいふくきゅう、경복궁、キョンボックン)は、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮である。現在の韓国のソウル特別市にある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と景福宮 · 続きを見る »

景轍玄蘇

景轍玄蘇(けいてつげんそ、天文6年(1537年)- 慶長16年10月22日(1611年11月26日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗中峯派の僧。字は景轍。号は仙巣。門人に規伯玄方がいる。対馬宗氏の外交僧として活躍した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と景轍玄蘇 · 続きを見る »

晋州城攻防戦

晋州城攻防戦(しんしゅうじょうこうぼうせん)は、文禄の役における2回の攻城戦。 朝鮮半島の晋州城(진주성(チンジュソン)、現在の晋州市)を守る朝鮮軍を日本軍が攻撃、文禄元年(1592年)10月4日から10日までの第一次晋州城攻防戦では朝鮮軍が守りきり、文禄2年(1593年)6月21日から29日までの第二次晋州城攻防戦では日本軍が攻城に成功した。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と晋州城攻防戦 · 続きを見る »

晋州市 (慶尚南道)

晋州市(チンジュし)は大韓民国慶尚南道西部にある市。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と晋州市 (慶尚南道) · 続きを見る »

1001年

11世紀および2千年紀における最初の年である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と1001年 · 続きを見る »

1019年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1019年 · 続きを見る »

1224年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1224年 · 続きを見る »

1274年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1274年 · 続きを見る »

1281年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1281年 · 続きを見る »

1375年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1375年 · 続きを見る »

1380年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1380年 · 続きを見る »

1389年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1389年 · 続きを見る »

1392年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1392年 · 続きを見る »

1396年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1396年 · 続きを見る »

1401年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1401年 · 続きを見る »

1403年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1403年 · 続きを見る »

1419年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1419年 · 続きを見る »

1510年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1510年 · 続きを見る »

1511年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1511年 · 続きを見る »

1544年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1544年 · 続きを見る »

1547年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1547年 · 続きを見る »

1554年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1554年 · 続きを見る »

1555年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1555年 · 続きを見る »

1557年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1557年 · 続きを見る »

1583年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1583年 · 続きを見る »

1585年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1585年 · 続きを見る »

1588年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1588年 · 続きを見る »

1591年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1591年 · 続きを見る »

1592年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1592年 · 続きを見る »

1593年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1593年 · 続きを見る »

1596年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1596年 · 続きを見る »

1597年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1597年 · 続きを見る »

1598年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1598年 · 続きを見る »

1599年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1599年 · 続きを見る »

1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と1600年 · 続きを見る »

1605年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1605年 · 続きを見る »

1607年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1607年 · 続きを見る »

1616年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1616年 · 続きを見る »

1619年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1619年 · 続きを見る »

1624年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1624年 · 続きを見る »

1636年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1636年 · 続きを見る »

1659年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1659年 · 続きを見る »

16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と16世紀 · 続きを見る »

17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と17世紀 · 続きを見る »

1895年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と1895年 · 続きを見る »

2012年

この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と2012年 · 続きを見る »

369年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と369年 · 続きを見る »

391年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と391年 · 続きを見る »

4月12日 (旧暦)

旧暦4月12日は旧暦4月の12日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と4月12日 (旧暦) · 続きを見る »

4月13日 (旧暦)

旧暦4月13日は旧暦4月の13日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と4月13日 (旧暦) · 続きを見る »

562年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と562年 · 続きを見る »

5月24日

5月24日(ごがつにじゅうよっか、ごがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から144日目(閏年では145日目)にあたり、年末まではあと221日ある。誕生花はムギワラギク。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と5月24日 · 続きを見る »

5月2日 (旧暦)

旧暦5月2日(きゅうれきごがつふつか)は旧暦5月の2日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と5月2日 (旧暦) · 続きを見る »

663年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と663年 · 続きを見る »

7月9日 (旧暦)

旧暦7月9日(きゅうれきしちがつここのか)は、旧暦7月の9日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と7月9日 (旧暦) · 続きを見る »

812年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と812年 · 続きを見る »

8月23日 (旧暦)

旧暦8月23日は旧暦8月の23日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と8月23日 (旧暦) · 続きを見る »

906年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と906年 · 続きを見る »

997年

記載なし。

新しい!!: 文禄・慶長の役と997年 · 続きを見る »

9月19日

9月19日(くがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から262日目(閏年では263日目)にあたり、年末まであと103日ある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と9月19日 · 続きを見る »

9月3日

9月3日(くがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から246日目(閏年では247日目)にあたり、年末まであと119日ある。.

新しい!!: 文禄・慶長の役と9月3日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

イムジンウェラン丁酉再乱丁酉倭乱壬辰の乱壬辰・丁酉の倭乱壬辰丁酉の倭乱壬辰丁酉倭乱壬辰倭乱壬辰戦争太閤秀吉の朝鮮出兵征韓の役唐御陣唐入り朝鮮の役朝鮮征伐朝鮮出兵朝鮮陣文禄の役文禄慶長の役慶長の役高麗陣

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »