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士禍

索引 士禍

士禍(しか、サファ、사화)は、李氏朝鮮時代における、士(官僚)に対する粛清(弾圧)の事を差す。「士林(士林派)の禍」の略語。

目次

  1. 27 関係: 士林派外戚宣祖尹元衡少論派己卯士禍中宗 (朝鮮王)世祖 (朝鮮王)乙巳士禍廃妃尹氏勲旧派粛清甲子士禍燕山君荘献世子餓死趙光祖辛壬士禍金宗直英祖 (朝鮮王)老論派李氏朝鮮朝鮮王朝実録戊午士禍明宗 (朝鮮王)新潮社景宗 (朝鮮王)

  2. 政治的抑圧

士林派

士林派(サリムパ、しりんは)は、李氏朝鮮の党派の一つ。世祖の功臣である勲旧派、戚臣(外戚)との対比で使われる事が多い。

見る 士禍と士林派

外戚

外戚(がいせき)は、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。

見る 士禍と外戚

宣祖

宣祖(ソンジョ、せんそ、1552年12月26日 - 1608年3月17日)は、李氏朝鮮時代の第14代国王。諱は昖、初名は鈞(ギュン、균)。即位前は河城君(ハソングン、ほうじょうくん)。父は第11代国王・中宗と昌嬪安氏の三番目の息子・徳興大院君李岹であり、中宗の孫、第12代王仁宗と第13代王明宗の甥にあたる。

見る 士禍と宣祖

尹元衡

尹元衡(いんげんこう、윤원형、ユン・ウォニョン、1509年 - 1565年11月18日)は、李氏朝鮮の文臣・外戚。字は「彦平」。本貫は坡平尹氏。

見る 士禍と尹元衡

少論派

少論派(しょうろんは、ソロンパ)は、李氏朝鮮の党派の一つ。粛宗の外戚に対し妥協的な老論派(ろうろんは、ノロンパ)との対比で使われる事が多い。

見る 士禍と少論派

己卯士禍

己卯士禍(きぼうしか、キミョサファ)は、李氏朝鮮中期の1519年(中宗14)に、士林派のリーダー的存在であった趙光祖(チョ・グァンジョ)を中心とする急進的な若手官僚の多くが、保守的な勲旧派の中宗への上疏によって失脚させられた事件。発生した年の干支をとって「己卯士禍」と呼ばれ、この時犠牲となった儒臣たちは、のちに「己卯名賢」と呼ばれるようになった。

見る 士禍と己卯士禍

中宗 (朝鮮王)

中宗(チュンジョン、ちゅうそう)は、李氏朝鮮の第11代国王である(在位:1506年 - 1544年)。諱は懌。諡は恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王、略して中宗恭僖大王。第9代成宗の次男で、第10代燕山君の異母弟。

見る 士禍と中宗 (朝鮮王)

世祖 (朝鮮王)

世祖(セジョ、せいそ、1417年11月7日 - 1468年9月23日、在位:1455年閏6月11日(新暦7月25日) - 1468年9月7日(新暦9月22日))は、李氏朝鮮の第7代国王。諱は瑈(ユ、유)。即位前は晋平大君(チンピョンデグン、しんへいだいくん)→咸平大君(ハムピョンデグン、かんへいだいくん)→晋陽大君(チニャンデグン、しんようだいくん)を経て1445年に首陽大君(スヤンデグン、しゅようだいくん)に冊封された。一時、領議政に就任。孫に第9代国王成宗などがいる。第4代国王世宗の第2王子であり、第3代国王太宗の孫である。

見る 士禍と世祖 (朝鮮王)

乙巳士禍

乙巳士禍(いっししか、을사사화、ウルササファ)は、1545年、李氏朝鮮の明宗時代に起きた、明宗の外戚尹元衡(文定王后・尹氏の弟)らによる、鳳城君を推戴しようとした反対勢力である先代仁宗(明宗の異母兄)の外戚の尹任と彼に登用された士林らの粛清事件(士禍)。

見る 士禍と乙巳士禍

廃妃尹氏

廃妃尹氏(はいひいんし、ペビユンシ、폐비윤씨、1455年7月15日 - 1482年8月29日)は、李氏朝鮮第9代国王成宗の2人目の王妃で、第10代国王燕山君の生母。本貫は咸安(ハマン)。尹起畎(又は尹起畝)(ユン・キギョン)と 後妻・申氏(申叔舟の従妹)の長女。燕山君の在位中の1504年に復位、斉献王后(さいけんおうごう、チャホンワンフ)と追号されたが、1506年9月、中宗反正の後に再び復位を取り消された。

見る 士禍と廃妃尹氏

勲旧派

勲旧派(くんきゅうは)は、李氏朝鮮の派閥の一つ。士林派との対比で使われる。 大地主の両班が多く、1455年の世祖の擁立に功の有った勲臣と、その子孫たちで構成されていた。士林派の台頭に脅威を感じ士禍を引き起こすが、1567年の宣祖即位以降は士林派が積極的に登用されるようになり、勲旧派はやがて政治の舞台から消えていくこととなった。 高麗末期の李成桂擁立の功臣とその子孫も勲旧派と呼ぶ場合がある。

見る 士禍と勲旧派

粛清

粛清(しゅくせい)とは、原義では「厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること」、または「不正者・反対者などを厳しく取り締まること」。政治的には、政党や政治結社において、理論上あるいは政策上の対立を一方が他方を組織から排除して政治的に抹殺し組織の純化をはかることブリタニカ国際大百科事典。英語ではパージ(purge)、フランス語ではエピュラシオン(épuration)、ロシア語ではチーストカ(чистка)と呼ばれる。しばしば同音異義語の「粛正」と混同されるが、こちらは「綱紀粛正」などに見られるように、厳しく取り締まって、不正を正すことを意味する。

見る 士禍と粛清

甲子士禍

甲子士禍(こうししか・カプチャサファ・갑자사화)とは、李氏朝鮮第10代国王、燕山君の独裁政治の中で起こった粛清事件である。他の士禍とは性格をやや異にし、士林派だけでなく、国王(君主)に反対する勲旧派の一部の勢力も弾圧の対象となった。 1498年(燕山君4年)の「戊午士禍」によって煩わしい士林派を一掃した燕山君は、自らの周囲に追従者ばかりを侍らせて、権力者の欲望のままに、背徳的で反社会的な行為を繰り返した。奢侈な生活により破綻した国家財政に充当するために税金を課したり、官吏の功臣田の削減などの政策により、民衆だけでなく宮廷内の良識派の官僚たちにも王政の変革を望む機運が生じていた。 燕山君の行動がさらに狂的な様相を帯びるようになるのは1503年(燕山君9年)頃からで、翌1504年(燕山君10年)に入ると、外戚を中心とした宮中派と議政府によった府中派との対立を利用して権力の掌握を狙った側近のと宦官(内侍)のが、燕山君に生母(廃妃)尹氏の賜死の経緯を告げ口し、亡き母の遺品を見せた。燕山君はこれに逆上し、賜死にかかわった関係者のすべての調査と処罰を命じた。こうして、7か月以上にわたる過酷な疑惑の追及が行なわれ、勲旧派、士林派を問わず、賜死事件に関連した多くの要人が死刑、流刑に処された。

見る 士禍と甲子士禍

燕山君

燕山君(ヨンサングン/えんざんくん、1476年11月23日 - 1506年11月20日、在位:1494年12月29日(1495年1月25日) - 1506年9月2日(9月18日))は、李氏朝鮮の第10代国王。名は㦕(りっしんべんに隆)(りゅう/ユン、융)。第11代国王中宗の異母兄。第7代国王世祖の曾孫で、朝鮮王朝史上前例のない暴君とされる。

見る 士禍と燕山君

荘献世子

荘献世子(そうけんせいし、チャンホンセジャ、雍正13年1月21日(1735年2月13日) - 乾隆27年閏5月21日(1762年7月12日))は、李氏朝鮮の第21代国王英祖の次男。諱は愃(ソン、선)。思悼世子(しとうせいし、サドセジャ、사도세자)とも呼ばれる。第22代国王正祖の父。第23代国王純祖の祖父、第24代国王憲宗の高祖父、第25代国王哲宗の曾祖父である。

見る 士禍と荘献世子

餓死

餓死(がし、starvation)とは、食物の摂取を絶たれる(絶つ)ことにより、著しい栄養失調から死亡することを指す。

見る 士禍と餓死

趙光祖

趙 光祖(チョ・グァンジョ、ちょう こうそ、ハングル: 조광조、1482年 - 1519年)は、16世紀前半の朝鮮時代中期の儒学者・政治家。高麗末の鄭夢周以来の儒学の伝統を受け継ぎ、朝鮮性理学の学問としての端緒を確立した儒家で、自ら提唱した「道学政治」を実践した改革派の政治家でもあった。 字は孝直、号は静庵。本貫は漢陽趙氏。著書としては『静庵集』が遺されている。

見る 士禍と趙光祖

辛壬士禍

辛壬士禍(しんじんしか)又は辛壬の獄(しんじんのごく、신축옥사)は、李氏朝鮮20代目の国王・景宗が即位した1年後である1721年から翌年の1722年までの間、党派の老論と少論が王世弟である延礽君(ヨニングン・後の英祖)の冊封問題で衝突した事件である。

見る 士禍と辛壬士禍

金宗直

金 宗直(きん そうちょく、キム・ジョンジク、1431年6月 - 1492年8月19日)は、李氏朝鮮時代前期の思想家。儒学者、政治家、教育者、詩人である。慶尚道咸陽郡守職を務めた。

見る 士禍と金宗直

英祖 (朝鮮王)

英祖(ヨンジョ、えいそ、1694年10月31日 - 1776年4月22日)は、李氏朝鮮時代の21代国王(在位:1724年10月16日 - 1776年4月22日)。諱は昑(クム、금)。字は光叔(クァンスク、こうしゅく、광숙)。諡号は至行純徳英謨毅烈章義弘倫光仁敦禧体天建極聖功神化大成広運開泰基永堯明舜哲乾健坤寧配命垂統景暦洪休中和隆道粛荘彰勲正文宣武熙敬顕孝大王(清国からの諡号は荘順王)。元の廟号は「英宗」だったが、1857年に「英祖」とあらためられた。即位前は延礽君(ヨニングン)と称し、粛宗の次男にあたる。母は和敬淑嬪崔氏。朝鮮王朝の歴代君主中最も長生きした君主であり、在位期間もおよそ52年間と最も長かった。

見る 士禍と英祖 (朝鮮王)

老論派

老論派(ろうろんは、ノロンパ)は、李氏朝鮮の朋党の一つ。粛宗の外戚に対し批判的な少論派(しょうろんは、ソロンパ)との対比で使われる事が多い。この派閥にも僻派(貞純王后)と時派(金鐘秀)と2つの勢力がある。 元は西人で、1680年の庚申換局の時に少論と老論に分裂した。主に宋時烈の支持者で構成されたが、1684年にが死去、1689年に宋時烈が処刑されたことで勢力が減退した。老論派を支持した仁顕王后は1701年に死去したが、1724年に英祖が即位すると政権に返り咲いた。 老論派は、英祖の息子である荘献世子の餓死事件にも関与している(壬午士禍)。

見る 士禍と老論派

李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年8月から1897年10月1910年8月まで大韓帝国として存続した。にかけて朝鮮半島に存在した国。高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝である。

見る 士禍と李氏朝鮮

朝鮮王朝実録

『朝鮮王朝実録』(ちょうせんおうちょうじつろく)は李氏朝鮮の初代太祖の時から純宗に至るまで27代519年間の歴史を編年体で編纂した1967巻948冊の実録。かつては『李朝実録』(りちょうじつろく)と呼ぶことが多かった。なお、現在の朝鮮民主主義人民共和国での正式的な呼び名は『朝鮮封建王朝実録』(ちょうせんほうけんおうちょうじつろく)である。 李氏朝鮮時代の政治、外交、軍事、経済など各方面の史料を記載しているといわれる。1997年(平成9年)にはユネスコの世界の記憶 (Memory of the World) 計画に登録された。

見る 士禍と朝鮮王朝実録

戊午士禍

戊午士禍(ぼごしか、ムオサファ、무오사화)とは、李氏朝鮮王朝中期(15世紀末 - 16世紀半ば)に、前後4回にわたって起こった「士林派」に対する政治的迫害事件(のちに「四大士禍」と呼ばれる)のうち、燕山君(在位:1494年~1506年)の時代に最初に起こった士禍で、燕山君の即位した干支をとって「戊午士禍(ぼごしか)」、また史草が発端となったので「戊午史禍(ぼごしか)」ともいう。

見る 士禍と戊午士禍

明宗 (朝鮮王)

明宗(ミョンジョン、めいそう、1534年7月3日 - 1567年8月3日)は、李氏朝鮮の第13代国王(在位:1545年 - 1567年)。諱は峘(山偏に亘)。字は對陽。諡は恭憲献毅昭文光粛敬孝大王。君号は慶源大君(キョンウォンデグン、けいげんたいくん)。 第11代国王中宗の嫡次男で、母は文定王后尹氏。第12代国王仁宗は異母兄。先代に引き続き在位当初から8年間は母親の文定王后尹氏が実権を握り、母方叔父の尹元衡が専横を振るった。尹元衡率いる小尹派が、乙巳士禍をはじめとする大尹派に対する弾圧を繰り広げた。

見る 士禍と明宗 (朝鮮王)

新潮社

株式会社新潮社(しんちょうしゃ)は、日本の出版社。

見る 士禍と新潮社

景宗 (朝鮮王)

景宗(キョンジョン、けいそう、1688年11月20日 - 1724年10月11日)は李氏朝鮮の第20代国王(在位:1720年 - 1724年)。諱は昀。字は輝瑞。

見る 士禍と景宗 (朝鮮王)

参考情報

政治的抑圧