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新続古今和歌集

索引 新続古今和歌集

『新続古今和歌集』(しんしょくこきんわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。二十一代集の最後にあたる。.

43 関係: 千載和歌集宝治室町幕府室町時代尊円法親王尭孝中納言一条兼良九条良経京極派二条為定二条派亀山天皇弘安征夷大将軍後宇多天皇後小松天皇後嵯峨天皇後花園天皇後鳥羽天皇応仁の乱嘉元冷泉派勅撰和歌集続古今和歌集頓阿順徳天皇飛鳥井雅世飛鳥井雅経飛鳥井雅有貞和足利義教藤原定家藤原家隆 (従二位)藤原俊成永享新古今和歌集新古今時代文保慶運1433年1438年1439年

千載和歌集

『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)とは、平安時代末に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。略称『千載集』(せんざいしゅう)。.

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宝治

宝治(ほうじ)は、日本の元号の一つ。寛元の後、建長の前。1247年から1249年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、執権は北条時頼。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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尊円法親王

尊円法親王(そんえんほうしんのう、永仁6年6月23日(1298年8月1日) - 正平11年9月13日(1356年10月7日)は、青蓮院第十七世門跡。伏見天皇の第6皇子。母は三善俊衡の娘。初名は守彦親王。尊円入道親王とも。.

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尭孝

尭孝(ぎょうこう、明徳2年/元中8年(1391年)- 享徳4年7月5日(1455年8月17日))は、室町時代中期の僧・歌人。武家の二階堂氏。父は僧で歌人の尭尋。和歌四天王の一人頓阿の曾孫にあたる。養子に僧で歌人の尭憲、弟子に尭恵・三条西公保がいる。 曽祖父の代から引き継いだ和歌所を預かった。二条派の歌壇の中心的歌人となり、冷泉派の清巌正徹に対抗した。永享5年(1433年)和歌所開闔(かいこう)に任じられ、勅撰和歌集の「新続古今和歌集」を撰出している。 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:二階堂氏 Category:1391年生 Category:1455年没.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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一条兼良

一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。.

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九条良経

九条 良経(くじょう よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。従一位、摂政、太政大臣。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政。摂政関白・九条兼実の次男。 小倉百人一首では「後京極摂政前太政大臣」。 「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ.

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京極派

京極派(きょうごくは)は、鎌倉中期から室町初期にかけての和歌の流派の一つ。 「和歌の家」としての京極派は、藤原北家御子左流に属し、御子左家の嫡男二条為氏の庶弟京極為教とその子為兼に始まるが、実質的には為兼によって和歌の流派としての京極派は生まれた。御子左嫡流で、大覚寺統(のちの南朝)と結びついた二条派に対し、為兼は伏見院の歌道師範として迎えられたのを契機に持明院統(のちの北朝)宮廷において歌壇を築き、斬新な歌風を流行させた。実感を尊び繊細な感覚的表現による歌は鎌倉時代末期の沈滞していた当時の歌壇に新鮮味を与えたが、その奇抜で型破りな表現によって二条派からつよい非難を浴びることになった。為兼の歌論書として『為兼卿和歌抄』がある。 京極派歌壇には、(1)歌の家としての京極家(および当時はまだ一家を成すにいたっていなかった冷泉家)、(2)京極派歌風を信奉する歌人たちの集まり、(3)伏見院宮廷における文学サロンの三つの面があり、それぞれが互いに重なりあいつつ全体として「京極派」と呼ぶべきものをかたちづくっている。通常鎌倉期のそれを前期、南北朝期以降のそれを後期と呼んで区分しているが、前期京極派においては京極為兼、伏見院、久明親王、永福門院、藤原為子(従三位為子)、冷泉為相(娘が持明院統の久明親王に嫁す)らが主要な歌人として活躍し、十三番目の勅撰集『玉葉和歌集』(伏見院下命、為兼撰)が編まれた。後期京極派においては、永福門院、花園院、光厳院らが主要な歌人として活躍し、十七番目の勅撰集『風雅和歌集』(花園院下命、光厳院親撰)が編まれたが、観応の擾乱によって光厳院ら持明院統の要人が南朝側に監禁された結果、持明院統宮廷が大きな打撃を受け、そして光厳院が監禁されている間に持明院統を継いだ後光厳院が二条派を重んじたため、思わしい後嗣を得ないままに断絶した。 中世・近世においては高く評価されることがなく、長らく埋もれたままになっていた京極派ではあるが、近代に入ってから再評価が行われ、特に折口信夫や土岐善麿がその歌風をつよく称揚した。戦後に入って岩佐美代子らによる研究が進み、その全貌が徐々にあきらかになりつつある。.

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二条為定

二条 為定(にじょう ためさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。(為通)の子。 父は早くに死去し、元亨3年(1323年)に参議となる。叔父のの感化を受け、正中2年(1325年)に後継者として『続後拾遺和歌集』を撰集した。はじめ姉妹の権大納言三位局(懐良親王らの母)が宮人として仕えていた後醍醐天皇に近侍したが、元弘の変以後は天皇に従わず、北朝側に通じて延文4年/正平14年(1359年)に『新千載和歌集』(二条良基や足利尊氏の推挙による)を撰出し、南北朝動乱の時期の歌道師範の家を守った。なお、文和4年/正平10年(1355年)8月17日に出家し釈空と称するようになった。 為定の和歌は、『玉葉和歌集』以下の勅撰和歌集や『続現葉和歌集』以下の私撰和歌集に多数入集し、『文保御百首』などの定数歌もある。彼の詠歌を集めた『為定集』は2系統あり、一方は私撰集で、他方は為定の家集だが、いずれも為定自身ではなく、後人の撰によるものである。 ためさた Category:鎌倉時代の公家 Category:室町・安土桃山時代の公家 Category:鎌倉時代の歌人 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:1293年生 Category:1360年没.

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二条派

二条派(にじょうは)は、中世における和歌の流派。 藤原北家御堂流である御子左家は、藤原俊成・定家・為家と和歌の家としての地位を確立した。為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていた。為氏の庶弟為教・為相と相続をめぐって不和となり、為教は京極家、為相は冷泉家に分家した。二条為氏の子為世、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(のちの南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(のちの北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立して勅撰和歌集の撰者の地位を争った。二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派実権は為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶してしまう。 その後秘伝は、東氏(千葉氏の支流で武家)をへて三条西家(藤原氏で公家)に伝わり明治を迎えた。世に言う古今伝授である。また、三条西家高弟細川幽斎からは近世初頭の天皇家、宮家、堂上家、地下家(じげけ)にも広まったが、三条西家は、これ以降も、二条家嫡流の宗匠家としての権威を保ち続けた。中院家、烏丸家も二条派に属する。 近世、三条西家に伝来した古文書の多くは早稲田大学とカリフォルニア大学に所蔵されている。.

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亀山天皇

亀山上皇像(福岡市博多区、東公園) 亀山天皇(かめやまてんのう、建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1260年1月9日) - 文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。.

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弘安

弘安(こうあん)は、日本の元号の一つ。建治の後、正応の前。1278年から1287年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇、伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗、北条貞時。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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後宇多天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。.

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後小松天皇

後小松天皇(ごこまつてんのう、天授3年6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日))は、室町時代北朝最後の第6代、歴代第100代の天皇(在位:弘和2年4月11日(1382年5月24日) - 応永19年8月29日(1412年10月5日))。諱は幹仁(もとひと)。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後花園天皇

後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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嘉元

嘉元(かげん)は、日本の元号の一つ。乾元の後、徳治の前。1303年から1305年までの期間を指す。この時代の天皇は後二条天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条師時。.

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冷泉派

冷泉派(れいぜいは)は、鎌倉時代中期から現代にいたるまでの和歌の流派の一つ。二条派の分派。.

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勅撰和歌集

勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)は、天皇や上皇の命により編集された歌集のことである。古今和歌集(延喜5年(905年)成立)に始まり、新続古今和歌集(永享11年(1439年)成立)までの534年間で21の勅撰和歌集があり、総称して「二十一代集」という。このほかに南朝で編纂された新葉和歌集を準勅撰集とする。 また編集時期による分類として、三代集(古今集・ 後撰和歌集・拾遺集)・八代集(古今集から新古今集)・十三代集(新勅撰集から新続古今集)とする。(三代集と八代集の対象は重複していることに注意).

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続古今和歌集

『続古今和歌集』(しょくこきんわかしゅう)は鎌倉時代の勅撰集で、二十一代集の第十一番目。春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、神祇、釈教、離別、羇旅、恋(五巻)、哀傷、雑(三巻)、賀の全20巻からなる。総歌数1915首(伝本によって異同がある)。.

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頓阿

頓阿(二階堂貞宗) 頓阿(とんあ / とんな、正応2年(1289年) - 文中元年/応安5年3月13日(1372年4月17日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の僧・歌人。父は二階堂氏一族の二階堂光貞(みつさだ)とされるが、藤原師実の子孫という説もある。俗名は二階堂貞宗(にかいどう さだむね、「貞」字は父・光貞または生まれた当時の執権北条貞時の1字、「宗」字は光貞の父・二階堂宗実(むねざね)の1字と思われる)。子に僧・歌人の経賢がいる。 若い頃に比叡山で篭居して天台教学を学び、その後高野山でも修行。20歳代後半に金蓮寺の真観に師事し時衆となった。西行を史蹟を慕って諸国を行脚、京都東山双林寺の西行の旧跡に草庵を構えるなど隠遁者の生活を送った。二条為世に師事して活躍、二条派(歌道)再興の祖とされ、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人とされた。地下(じげ)の歌人であり、歌壇での活躍は晩年であった。「新拾遺和歌集」撰進の際には撰者二条為明(ためあき、為世の次男・為藤の子)が選集の途中で亡くなったことから、頓阿がそれを引き継いで完成させたが、撰者となったのは76歳の時である。北朝の実力者二条良基(二条派とは別系の五摂家の一つ、二条家の当主)の保護を受けた。 『続千載集』以下の勅撰和歌集に44首が入集。著書に『井蛙抄』、『愚問賢註』などがある。 Category:鎌倉時代の僧 Category:鎌倉時代の歌人 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:南北朝時代の人物 (日本) Category:二階堂氏 Category:1289年生 Category:1372年没.

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順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

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飛鳥井雅世

飛鳥井 雅世(あすかい まさよ)は、室町時代中期の公家。飛鳥井家7代当主。.

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飛鳥井雅経

飛鳥井 雅経(あすかい まさつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公家・歌人。刑部卿・難波頼経の次男。二条または明日香井を号す。飛鳥井家の祖。小倉百人一首では参議雅経。.

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飛鳥井雅有

飛鳥井 雅有(あすかい まさあり)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公家・歌人。飛鳥井家3代当主。父・飛鳥井教定と共に関東祗候雲客諸大夫の一員として、鎌倉幕府に信用され、京都・鎌倉で活動した。.

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貞和

貞和(じょうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康永の後、観応の前。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.

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藤原家隆 (従二位)

藤原 家隆(ふじわら の いえたか)は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名は顕隆。法名は仏性。壬生二位と号する。中納言・藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆の次男。官位は従二位・宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人。小倉百人一首では従二位家隆「風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける」。.

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藤原俊成

藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市) 愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある蒲郡市ホームページ(http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/shunzei.html)久曽神昇「特別展『藤原俊成の古典』に寄せて」(蒲郡市博物館『特別展 藤原俊成の古典』、1991年 p.62-64) 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。.

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永享

永享(えいきょう)は、日本の元号の一つ。正長の後、嘉吉の前。1429年9月5日から1441年2月17日までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義教。.

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新古今和歌集

『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)とは、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾るもの。略称を『新古今集』(しんこきんしゅう)と称す。.

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新古今時代

新古今時代(しんこきんじだい)は、日本文学の歴史における区分で、平安時代文学(中古文学)と鎌倉時代文学(中世文学)の間の移行期に当たる。 文学の中心は和歌である。 年代はあいまいであるが藤原定家の生きた80年(1162年 - 1242年)、あるいは後鳥羽院の生きた60年(1180年 - 1239年)を当てることが多い。.

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文保

文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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慶運

慶運(けいうん、きょううん、永仁年間(1293年 - 1299年) - 正平24年/応安2年(1369年)頃)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての天台宗の僧・歌人。青蓮院法印浄弁の子。父浄弁とともに和歌四天王の一人に数えられる。 京都青蓮院との関係が深く祇園別当目代を3度務めている。 二条家流の歌人であるが、晩年は冷泉派に近づいたといわれている。叙景歌に優れ、歌は「風雅和歌集」「新後拾遺和歌集」「新続古今和歌集」に入集している。 家集には「慶運法印集」「浄弁並慶運集」がある。 Category:鎌倉時代の僧 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:天台宗の僧 Category:鎌倉時代の歌人 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:南北朝時代の人物 (日本).

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1433年

記載なし。

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1438年

記載なし。

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1439年

記載なし。

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