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京極氏

索引 京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

309 関係: 加賀国執権半国守護南北朝時代 (日本)南朝 (日本)古文書吉野坂田郡多賀氏大原氏大名大坂の陣大覚寺統大津城大津城の戦い天皇天授 (日本)天正外様大名奉公衆妙法院子爵室町幕府室町時代宮津城宮津藩家督家系守護守護代守護使不入宗家宇多源氏寺町通寛永寛文小田原征伐小浜藩小早川秀秋小早川隆景小早川氏尼子経久尼子高久尼子氏将軍家山城国山崎の戦い山田氏峰山藩上総国...上田萬年中先代の乱丸亀藩常高院丹後国丹後田辺藩三上参次三河国三木氏九州平定京都京極京極孫童子丸京極忠高京極マリア京極勝秀京極竜子京極町京極騒乱京極高厚京極高吉京極高富京極高寛京極高中京極高三京極高久京極高之京極高広京極高延京極高住京極高徳京極高供京極高和京極高備京極高品京極高典京極高光京極高国京極高倍京極高知京極高矩京極高琢京極高秀京極高義京極高直京極高盛京極高鎮京極高行京極高規京極高詮京極高豊京極高賢京極高長京極高通 (多度津藩主)京極高通 (峰山藩主)京極高陳京極高栄京極高次京極高永京極高清京極高朗京極高有京極高或京極高明京極高文京極高数京極高慶 (多度津藩主)京極高景京極高晴京極杞陽京極材宗京極持高京極持清京極朗徹京極政光京極政経庶子庶家康暦康暦の政変延元延暦寺建仁寺建武 (日本)建武の新政伊香郡伊那郡引付衆佐々木宗綱佐々木宗氏佐々木信綱佐々木秀綱佐々木道誉佐々木高秀佐々木貞宗佐々木貞氏佐々木重綱佐々木氏佐々木氏信佐々木泰綱佐渡国使節遵行但馬国征夷大将軍侍所御供衆徳川家康徳川将軍家徳源院後光厳天皇後瀬山城後醍醐天皇信濃国応仁応仁の乱土岐頼康地頭北条高時北条時行北朝 (日本)北海道僧兵備後国出雲国八幡山城六角高頼六角氏元弘兵庫県光厳天皇光明天皇国主国人四職四條畷の戦い犬上郡矢作川管領箱根・竹ノ下の戦い細川頼之綸旨織田信長美濃国相伴衆相模川隠岐国鎌倉鎌倉幕府鎌倉時代菩提寺華族飛騨国西尾忠需評定衆高島郡 (滋賀県)高島氏讃岐国豊岡市豊岡藩豊臣秀吉貞和貞治越前国足利尊氏足利将軍家足利義詮足利義満足利義澄足利義昭足利義政足利義教黒田氏龍野藩近江国近江源氏能勢郡興国赤尾氏関ヶ原の戦い藩士蒲生郡長岡氏長男若狭国虻田郡暦応松山氏松江藩検非違使楠木正行正平 (日本)武家武田元明毛利輝元永禄永正江北江戸時代河辺郡源氏持明院統朝廷末期養子本姓本能寺の変朽木宣綱月山富田城戎光祥出版戦国大名戦国時代 (日本)明徳明徳の乱明治維新明智光秀浅井亮政浅井郡浅井長政浅井氏斯波義将新田義貞文和文禄文明 (日本)日本摂津国播磨国改易政所愛知郡 (滋賀県)敦賀郡慶長1333年1335年1338年1340年1348年1353年1362年1379年1391年1467年1469年1508年1560年1582年1584年1586年1590年1591年1593年1595年1600年1609年1634年1637年1666年1978年 インデックスを展開 (259 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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半国守護

半国守護(はんごくしゅご)とは、室町幕府が、本来は特定の国ごとに1名が定員である守護に2名の守護を補任した状態で、その片方を呼んだもの、ないし守護的な権力を持つものが二つあったため、外部からそう見なしたもの。 そもそも、一国を分割して一郡から数郡単位で守護を任命する分郡守護と呼ばれる制度があり、その延長線上で半国程度を占めたものや、一時的な措置として行われた場合など、その様態はさまざまである。分郡守護同様に、その多くが一族内部あるいは当該国に利害を持つ有力大名の間での勢力均衡の維持を目的として行われる事が多い。 近江国では、同じ佐々木氏族で北半分に京極氏が、南半分に六角氏が盤踞し、京極氏は出雲・隠岐・飛騨守護、六角氏は近江守護であった。京極氏も近江における守護権限を持っていたが、それは自己の領地に対する分郡守護にも満たない部分的なもので、京極氏自身や幕府は近江守護とみなしていなかったにも関わらず、事情をよくしらない他の者に近江半国守護とされることが多かった。 和泉国では細川氏一族2名が守護に任じられ、両名ともに和泉国全体に対する責任を負って共同統治を行っており、これも和泉半国守護として言及された。和泉両守護(和泉上守護家、和泉下守護家)の守護所はともに堺に置かれ、遵行の際も守護正員二名が共に行った。これは明徳の乱、応永の乱で反乱を起こした山名氏、大内氏がともに堺を拠点としたため、それを鎮圧した足利義満が単独守護による専制を防ぐ為に設けた特殊な複数守護体制であった。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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古文書

羽柴秀吉朱印状(25ヵ条の大陸国割計画書)/前田育徳会所蔵 古文書 (こもんじょ)とは、広く「古い文書」の意味でも使われるが、歴史学上は、特定の対象(他者)へ意思を伝達するために作成された近世以前の文書を指す。特定の相手に向けたものではない文書、例えば日記や書物などは古記録と呼んで区別される。日本史の分野で多く用いられる用語であり、日本以外をフィールドとする場合、古記録とまとめて文書史料、略して文書(もんじょ)と呼ぶことが多い。.

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吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

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坂田郡

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多賀氏

多賀氏(たがし)は、日本の氏族のひとつ。現在の滋賀県犬上郡多賀町にある多賀大社の社家で、後に武家に転向した。.

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大原氏

大原氏(おおはらし)は、敏達天皇後裔である古代氏族と、他に宇多源氏佐々木氏の支流の大原氏がある。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

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大津城

大津城(おおつじょう)は、安土桃山時代に近江国滋賀郡大津にあった日本の城。.

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大津城の戦い

大津城の戦い(おおつじょうのたたかい)は、慶長5年9月7日(1600年10月13日)から同年9月15日(同10月21日)まで、近江国大津城を巡って行われた戦い。関ヶ原の戦いの前哨戦と位置付けられる。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天授 (日本)

天授(てんじゅ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。文中の後、弘和の前。1375年から1381年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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奉公衆

奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。.

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妙法院

妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号を南叡山と称する。本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮津城

宮津城(みやづじょう)は、京都府宮津市にある日本の城跡。.

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宮津藩

宮津藩(みやづはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。.

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家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

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家系

家系(かけい)または血統(けっとう)とは、親子・兄弟・婚姻・養子など様々な関係性で結ばれる特定の家族、血族集団を指す。一定の血族集団の中で同一の階級または地位、氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合に使われることが多い。類似概念に家柄などがある。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護代

守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.

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守護使不入

如意輪寺) 守護使不入(しゅごしふにゅう)とは、鎌倉時代・室町時代において幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。守護不入(しゅごふにゅう)とも。 戦国時代には幕府による権限は否定され、代わりに戦国大名が守護・国主の権限の一環としてこれを付与するようになった。.

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宗家

宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.

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宇多源氏

宇多源氏(うだげんじ)は、第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。源姓では清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて著名である。.

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寺町通

寺町京極商店街 寺町通(てらまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴。三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたる。 都の東端の大路であったが、右京の衰退や相次ぐ戦乱等によって京都御所が移転してきたため、現在は京都御苑の東を限る通りとなっている。豊臣秀吉による京都改造によって天正18年、通りの東側に寺院が集められたことからこの名前になった。本能寺もこの時、現在の中京区元本能寺南町からこの通りに移された。寺町三条にある通りのずれは、ここに大寺である誓願寺が現在の上京区元誓願寺町から移されたため生じた。 寺を集めた目的は、税の徴収の効率化と京都の防衛であった。東の御土居に沿うように寺を配置することで東から進入する軍勢の戦意の低下をねらったと言われる。急遽移転させられた寺院の負担が大変であったことがフロイスの『日本史』に書かれている。鴨川に近く、狭隘な敷地が多かったためしばしば水害や火災に見舞われた。この頃、洛中北部にも、聚楽第の北辺を守る形で京都改造の一環として同じく寺院集中地区である「寺之内」が形成されたが、寺町と違って水害の不安の無い高燥地で、法華寺院のしかもいずれも大寺が配置されたため、寺町との環境の差は歴然としていた。このため、寺町の寺からは「奉行の前田玄以が法華宗だからいい場所を法華寺院に与えた」との不満が出たと伝えられるが、実際は寺町にも本能寺や妙満寺などの法華寺院が移されていた。相次ぐ火災に見舞われて江戸時代中期以降には寺地を寺町から洛東に移す寺院もあり、例えば真如堂も元禄の大火の後、寺町今出川付近から現在の左京区に移っている。 かつては南北方向の主要な通りの一つであり、今出川通から二条通にかけては京都電気鉄道寺町線(のちに買収され京都市電)の路面電車が走っていた。1920年代に河原町通が拡幅されると、市電のルートもそちらに移るなどメインストリートの座を譲った。市電の廃線後、しばらくは代わって市バスが通っていたが、それも廃止され、現在は騒音に悩まされることない静かな通りとなっている。 丸太町通から二条通までは、古美術店や画廊、古書店などが並ぶ寺町会の商店街である。御池通から四条通に至る区間は、アーケードの商店街となっており、日中は車両進入禁止である。御池通から三条通までは、寺町専門店街であり、新京極通と平行する三条通から四条通までは、寺町京極商店街である。また、四条通から高辻通にかけては、東京や大阪と比べると小規模ながら電気街になっており、京都の秋葉原や日本橋といってもよい通りであったが、近年は郊外型や大阪梅田・京都駅近辺の大型家電量販店の台頭で、秋葉原、日本橋や大須同様に、往時と比べて電気店の数が減少し、新しい都心型のマンションなどが建設されている。 御池通から四条通までが路上喫煙等禁止区域である。 鴨沂高校・京都市上京区 京都市歴史資料館・京都市上京区 同志社新島会館・京都市上京区 新島襄旧邸・京都市上京区.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

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小浜藩

小浜城に現存する本丸 小浜藩(おばまはん)は、若狭国一国および越前敦賀郡を領した藩。藩庁は小浜城。.

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小早川秀秋

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.

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小早川隆景

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。竹原小早川家第14代当主。後に沼田小早川家も継ぐ。 毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595年)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の主導者であった。.

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小早川氏

小早川氏(こばやかわうじ/こばやかわし)は、日本の氏族の一つ。著名な一族は中世から近世にかけての武家。.

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尼子経久

尼子 経久(あまご つねひさ)は、戦国時代の武将・大名。出雲守護代。 下記の事から十一ヶ国太守と言われる。.

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尼子高久

尼子 高久(あまご たかひさ)は、南北朝時代の武将。後の出雲国の戦国大名である尼子氏の祖。京極高秀の次男。.

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尼子氏

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.

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将軍家

将軍家(しょうぐんけ)は、日本の中世において、征夷大将軍または近衛府大将に叙任された武家の棟梁が、政権を樹立する際に公家の家政制度に倣って創始したものである。自身及び、世襲を確立した際には嫡子を始めとする家族と、家政機関である政所を含んだ。 最初にこの概念が導入されたのは、源頼朝が右近衛大将に叙任されたことにより、従来自身の主従関係をこれに当てはめたものである。彼とその家臣団である御家人が朝廷からの自治の確立のために称された。後に、頼朝自身が征夷大将軍に就任し、彼の子である源頼家および実朝へと征夷大将軍の世襲がおこなわれるようになった。そして、頼朝の職名である「征夷大将軍家」・「前右大将家」の略である「将軍家」の称が確立される。 また、源実朝が征夷大将軍兼帯で右大臣に就任したことにより、征夷大将軍が大臣に就任することが可能となった。鎌倉時代においては、摂家将軍・皇族将軍らは将軍職を辞した後も大臣には就任しなかった。再び将軍が大臣に就任したのは、室町時代に入り右近衛大将を任じられた足利義満の、内大臣就任からである。 室町時代には、征夷大将軍に対しては将軍家という言い方より公方(くぼう)と言う言い方が用いられる。江戸時代には御三家・御三卿や将軍庶子に対する将軍の嫡子に対して用いられた。 将軍家は武家政権の時代を通じて日本の統治者の一族としての役割を担った。勅令により任命されたが、武家政権の確立期には天皇家を凌ぐ威勢を誇った。形式上は朝廷の臣下であったが、実際には諸外国からも王家としての待遇を受けるのが通例であった。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山崎の戦い

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。.

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山田氏

山田氏(やまだし/やまだうじ)は、日本の氏族。.

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峰山藩

峰山藩(みねやまはん)は、丹後国に存在した藩。小藩とはいえ、戦国大名の京極高知が関ヶ原の戦いの戦功で得た丹後一国の領土の一部を受け継いてきた藩である。.

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上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

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上田萬年

上田 萬年(うえだ かずとし、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めた。小説家円地文子の父。教え子に新村出、橋本進吉、金田一京助、亀田次郎らがいる。また、文部省専門学務局長や、1908年に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。1908年帝国学士院会員。.

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中先代の乱

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.

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丸亀藩

丸亀藩(まるがめはん)は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒氏、山崎氏、京極氏と続きそれぞれ藩主独特の城下町を形成し廃藩置県を迎えた。 なお生駒氏は、高松城を本城とし讃岐一国を領したため、生駒氏が領した西讃を丸亀藩と呼ぶには適さないとも考えられるが、現在ではその頃も丸亀藩の歴史の一部として語られることが多いため、ここにも含める。.

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常高院

thumb 常高院(じょうこういん、永禄13年(1570年)寛永10年8月27日(1633年9月30日))は、戦国時代から江戸時代前期の人物。若狭小浜藩の藩主京極高次の正室。本名は浅井 初(あざい はつ)で、一般に「初」の呼び名で知られる。また、幼名は御鐺(おなべ)、於那。浅井三姉妹の一人。 父は近江国小谷城主・浅井長政、母は織田信秀の娘・市(織田信長の末妹)。姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)、妹は徳川秀忠正室(継室)の江(崇源院)。兄に万福丸、異母弟に万菊丸。 高次との間に子はなく、妹・江の娘で2代将軍・徳川秀忠の四女・初姫(興安院)や氏家行広の娘・古奈(母は高次の妹)らを養女とし、側室の子で嫡子の忠高(母は山田氏)や高政(母は小倉氏)、また詳細不明の養子1名を始めとした血縁・家臣らの子女の養育に積極的に関わったとされる。後に養女の初姫と忠高を娶わせるが、この両者にも子はできなかった。.

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丹後国

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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丹後田辺藩

丹後田辺藩の藩庁がおかれた田辺城(舞鶴城) 田辺藩(たなべはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。明治維新後に舞鶴藩(まいづるはん)と改称した。藩庁は田辺城(京都府舞鶴市)。.

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三上参次

三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日) - 1939年6月7日)は、日本史学者。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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三木氏

三木氏(みきし、みつきし)は、日本の氏族。中世から近世まで栄えた豪族・大名の一族。.

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九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京極

京極(きょうごく)は、平安京における東西の果てである。.

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京極孫童子丸

京極 孫童子丸(きょうごく まごどうじまる、文正元年(1466年) - 文明3年(1471年))は、室町時代後期の守護大名。出雲・隠岐・飛騨・近江守護、京極氏当主。京極勝秀の子、京極持清の孫。高清の弟。 応仁の乱の最中の応仁2年(1468年)に父が亡くなり、祖父も2年後の文明2年(1470年)に死去したため家督と守護職を継承した。補佐役は叔父政経と守護代多賀高忠が受け持った。しかし、もう1人の叔父政光と多賀清直がこれに反発、孫童子丸の庶兄・乙童子丸(高清)を擁立して六角高頼と組んで西軍へ寝返った(京極騒乱)。政経・多賀高忠は六角政堯と共に東軍へ留まったが、文明3年(1471年)に孫童子丸は夭折した。 家督は政経が継ぐが、乙童子丸派との抗争は応仁の乱終結後も継続し、京極氏の弱体化を招いた。.

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京極忠高

京極 忠高(きょうごく ただたか)は、江戸時代前期の大名。若狭小浜藩第2代藩主、出雲松江藩主。高次流京極家2代。 初代藩主京極高次の長男。母は側室。正室は江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の四女・初姫(高次正室・常高院の養女).

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京極マリア

京極 マリア(きょうごく マリア、天文11年(1542年)頃 - 元和4年7月1日(1618年8月20日))は、戦国時代の女性。名は不明。浅井久政の次女。京極高吉の妻。浅井長政の姉。 なお、当時は夫婦別姓なので、本来は京極姓で呼ぶのは適切ではない。.

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京極勝秀

京極 勝秀(きょうごく かつひで 永享5年(1433年) - 応仁2年6月17日(1468年7月6日))は、室町時代後期の京極氏の武将。京極持清の長男。兄弟に政光、政経、畠山政長室。子に孫童子丸、高清(弟とも)。 幼名は三郎。室町幕府第7代将軍足利義勝の存命中に元服、義勝から偏諱を賜って勝秀と名乗る。 その後、応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、父持清とともに、従兄弟にあたる細川勝元の率いる東軍に属する。翌応仁2年(1468年)に勝秀は近江で六角政堯と共に西軍についた六角高頼と戦うが、その最中に父に先立ち病死した。 2年後に持清も死去、京極氏は後継者を巡ってお家騒動(京極騒乱)を勃発させてしまった。.

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京極竜子

松の丸像(誓願寺蔵) 京極 竜子(きょうごく たつこ、生年不詳 - 寛永11年9月1日(1634年10月22日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。初めは武田元明の正室となり、寡婦となった後に豊臣秀吉の側室となった。 呼称は、大坂城の西の丸に屋敷を与えられたことから西の丸殿(西丸殿)、次いで伏見城に移ったことから松の丸殿(松丸殿)、あるいは京極殿(京極様)などと呼ばれた。秀吉の死後は出家して寿芳院(じゅほういん)と号した。.

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京極町

京極町(きょうごくちょう)は北海道後志総合振興局管内、羊蹄山(蝦夷富士)の麓にある町。 羊蹄山の湧き水が出るふきだし公園は、同町の観光名所である。 地名の由来は、開拓を率いた旧讃岐丸亀藩主家の京極高徳(後述)。.

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京極騒乱

京極騒乱(きょうごくそうらん)は、室町時代から戦国時代にかけて近江国において起こった京極氏の家督相続を巡る御家騒動の一つ。.

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京極高厚

京極 高厚(きょうごく たかあつ)は、但馬豊岡藩の第9代(最後)の藩主。豊岡藩京極家11代。 文政12年(1829年)5月29日、第8代藩主京極高行の長男として江戸麹町邸で生まれる。弘化4年(1847年)、父の死去により家督を継ぎ、同時に従五位下、飛騨守に叙任する。嘉永2年(1849年)、駿府加番となり、嘉永4年(1851年)に大坂加番になった。 文久2年(1862年)、幕末の海防政策として、津居山港に御台場を築き、11インチ砲や10貫砲を備えた。文久3年(1863年)の生野の変では幕府方として活躍し、平野国臣や横田友次郎らを逮捕するという功績を挙げている。 明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により豊岡藩知事となる。明治3年(1870年)、藩校の稽古堂を女学校に改めて、藩士子女の教育化に努めた。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により藩知事を廃されて東京へ移った。明治17年(1884年)、華族令によって子爵となる。明治18年(1885年)に正五位に叙され、その後も従三位、勲四等に叙された。明治30年(1897年)7月、貴族院子爵議員に選出され、明治37年(1904年)7月まで在任した。 明治38年(1905年)12月27日、東京本所邸にて死去した。享年77。 俳人としても優れていたと言われている。.

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京極高吉

京極 高吉(きょうごく たかよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。高佳・高慶と表記される場合もある。官位は長門守、中務少輔。京極高清の次男、異説として京極材宗の子で高清の養子ともされる。妻は浅井久政の娘(京極マリア)。子に高次、高知、松の丸殿(武田元明妻、後に豊臣秀吉側室)、娘(氏家行広室)、マグダレナ(朽木宣綱室)。 高吉は父の高清に寵愛され、兄の高延と家督を争ったが、浅見貞則や浅井亮政を始めとする国人達の支持を受けた高延に敗れ、追放された。後に高延も浅井亮政と対立し追放され、京極氏の衰退は決定的となった。 追放後の高吉は南近江の六角氏の支援のもと、高延・浅井亮政と争った。後に高延と対立した浅井氏に父と共に北近江に迎えられ北近江の領主に一時返り咲くものの、傀儡であったため結局近江を離れることになる。一時13代将軍足利義輝の近臣として仕えたが、永禄3年(1560年)に権力奪回を目指して再び近江に下り六角氏と結んで浅井賢政(後の長政)に対して挙兵するも失敗し、近江における残された支配権を全て失う。 永禄8年(1565年)永禄の変において義輝が暗殺されると、義輝の弟の足利義昭の擁立に尽力する。だが、義昭が織田信長と対立すると高吉自身は近江に隠居し、子の小法師(高次)を信長に人質として差し出した。小法師は元服後高次と名乗り、そのまま信長に仕えた。 天正9年(1581年)、妻と共に安土城にてグネッキ・ソルディ・オルガンティノからキリスト教徒としての洗礼を受けたが、その数日後に死去。突然の死に人々は仏罰で没したと噂したといわれる。 category:戦国武将 たかよし Category:キリシタン Category:近江国の人物 Category:1504年生 Category:1581年没.

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京極高富

京極 高富(きょうごく たかとみ、天保6年11月19日(1836年1月7日)- 明治22年(1889年)2月9日)は、丹後峰山藩の第11代藩主。第10代藩主・京極高景の長男。正室は稲垣長剛の娘。明治に入り子爵。官位は従五位下備中守、周防守、主膳正。幼名は啓治郎。 嘉永2年(1849年)3月7日、父高景の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下備中守に叙任する。後に周防守、主膳正に改める。安政4年(1857年)2月、大番頭に就任する。文久元年(1861年)9月14日、大坂玉造定番に就任する。天誅組の変や生野の変鎮圧で功を挙げている。慶応2年(1866年)1月7日、若年寄に就任する。同時に将軍徳川家茂から大坂への従軍を命じられる。同年5月25日、第二次長州征討に際し、四国方面軍の取締を命じられる。四国方面軍とは、徳島藩や松山藩、高松藩などを主力として、海路四国から徳山を経て、山口へ進攻する部隊である。それにともない、高冨は伊予松山に陣を構える。 慶応3年(1867年)4月8日、帰府を命じられる。同年6月18日、国内事務取扱を命じられる。同年10月27日、陸軍事務取扱を命じられる。同年12月2日、若年寄兼海軍奉行に就任する。慶応4年(1868年)2月14日、若年寄を退任する。同年閏4月15日、上洛し、新政府へ恭順の姿勢を示すも、佐幕派として見なされ、新政府により謹慎を命じられた。しかし、養嗣子の高陳が養父の名代として既に3月20日に天皇に拝謁していることや、新政府軍に兵を出していることなどが考慮され、同年5月14日に謹慎を許された。直後の5月28日、胸の持病を理由にして、高陳に家督を譲って隠居した。 明治8年(1875年)9月30日、養子高陳が隠居し、再び家督を相続する。明治17年(1884年)、子爵となる。明治22年(1889年)2月9日、55歳で死去。跡を新たに養子とした高致が継いだ。墓所は京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺。 Category:江戸幕府若年寄 Category:幕府陸軍の人物 Category:幕府海軍の人物 Category:幕末の大名 *11 たかとみ Category:日本の子爵 Category:1836年生 Category:1889年没.

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京極高寛

京極 高寛(きょうごく たかのり)は、但馬豊岡藩の第4代藩主。豊岡藩京極家6代。 享保2年(1717年)10月5日、第3代藩主京極高栄の長男として豊岡で生まれる。母が側室であったため、父よりはじめ黒田姓を名乗らせられ、別家を継ぐこととなるはずであったが、享保6年(1721年)に京極姓に復して世嗣に指名された。同年の父の死去により家督を継いだ。 しかし、享保11年(1726年)9月12日に死去した。享年10。継嗣がなかったため、豊岡藩京極家は一時的に改易された。 たかのり Category:豊岡藩主 Category:1717年生 Category:1726年没.

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京極高中

京極 高中(きょうごく たかなか)は、讃岐丸亀藩の第5代藩主。丸亀藩京極家7代。.

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京極高三

京極 高三(きょうごく たかみつ)は、丹後田辺藩(舞鶴藩)の初代藩主。但馬豊岡藩京極家初代。 慶長12年(1607年)3月17日、丹後国主・京極高知の三男として丹後田辺城で生まれる。慶長16年(1611年)、京都二条城で大御所の徳川家康と、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠に拝謁した。 元和8年(1622年)に父が死去すると、その所領は高知の息子2人と婿養子の高通で分割相続されることとなり、高三は加佐郡3万5000石を相続し、田辺藩(舞鶴藩)の初代藩主となった。寛永13年(1636年)9月13日に死去した。享年30。跡を長男の高直が継いだ。その後、京極家は孫高盛の代で豊岡に転封となったが、娘婿にあたる牧野富成の子孫が田辺藩を継承した。 たかみつ Category:外様大名 Category:丹後田辺藩主 Category:1607年生 Category:1636年没.

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京極高久

京極 高久(きょうごく たかひさ、享保14年4月24日(1729年5月21日)- 文化5年4月20日(1808年5月15日))は、丹後峰山藩の第6代藩主。峰山藩分家で1,000石を領した旗本・京極高庭の四男。母は京極高方の娘。正室は足守藩主・木下利潔の娘。弟に瀬名孫助、大岡直往、池田富郷。子に高備(長男)、高有(五男、但馬豊岡藩主)。官位は従五位下、備前守。.

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京極高之

京極 高之(きょうごく たかゆき、延宝6年4月14日(1678年6月3日)- 享保8年2月2日(1723年3月8日))は、丹後峰山藩の第4代藩主。第3代藩主・京極高明の長男。母は熊谷依貞の娘。正室は脇坂安照の養女(脇坂安村の娘)。子に娘(京極高長正室)。官位は従五位下、主膳正。 延宝6年(1678年)4月14日、江戸で生まれる。元禄12年(1699年)4月29日、父の隠居で跡を継いだ。このとき、弟の高重に500石を分与している。書画に巧みで、特に彼の描いた絵画は神技とまで謳われた。享保8年(1723年)2月2日、46歳で死去し、跡を婿養子の高長が継いだ。法号は隆源院天誉頭含道倫。墓所は京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺。 *04 たかゆき Category:1678年生 Category:1723年没.

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京極高広

京極 高広(きょうごく たかひろ)は、丹後宮津藩の第2代藩主。国持大名。.

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京極高延

京極 高延(きょうごく たかのぶ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。仮名は六郎。名は高広、高明とも。父は京極高清、母は斎藤妙純の娘。高吉の兄。高弥・高成の父。.

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京極高住

京極 高住(きょうごく たかすみ)は、但馬豊岡藩の第2代藩主。豊岡藩京極家4代。 万治3年(1660年)8月10日、丹後田辺藩主京極高直の四男として江戸柳原邸で生まれる。延宝2年(1674年)3月18日、初代藩主である兄の高盛の隠居にともない、その養子として跡を継ぎ、従五位下、甲斐守に叙任する。 正徳4年(1714年)7月29日、長男の高栄に家督を譲って隠居した。その後、剃髪して甲斐入道と号した。 享保6年(1721年)に高栄が早世し、その跡を継いだ嫡孫の高寛も早世すると、豊岡藩京極家は無嗣断絶で改易となる。しかし、高住が高寛の弟の高永の相続を認めるよう幕府に運動したこともあって、3万3000石から1万5000石に減知の上で高永に家督を継ぐことが認められた。 享保15年(1730年)8月13日、武蔵足立郡渕江の別邸で死去した。享年71。 たかすみ Category:豊岡藩主 Category:1660年生 Category:1730年没.

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京極高徳

京極 高徳(きょうごく たかのり、安政5年11月5日(1858年12月9日) - 昭和3年(1928年)5月21日)は明治時代から昭和時代初期の華族。従五位。子爵。.

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京極高供

京極 高供(きょうごく たかとも、元和9年1月24日(1623年2月23日) - 延宝2年2月28日(1674年4月4日))は、丹後峰山藩の第2代藩主。初代藩主・京極高通の長男。母は京極高知の娘。正室は松平忠明の娘。子は京極高明(長男)。官位は従五位下、主膳正。 元和9年(1623年)正月24日、江戸で生まれる。寛文5年(1665年)、父が近江水口城の在番中に死去したため、その後を受けて在番を務めた。家督は寛文6年(1666年)6月14日に継いでいる。このとき、弟の高昌に武蔵国・近江国内において1000石、高成に500石ほどを分与している。その後も水口在番を務め、延宝2年(1674年)2月28日、江戸で死去した。享年52。跡を長男・高明が継いだ。法号は常立院然誉春山道栄。 *02 たかとも Category:1623年生 Category:1674年没.

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京極高和

京極 高和(きょうごく たかかず)は、江戸時代前期の大名。播磨龍野藩主、讃岐丸亀藩初代藩主。丸亀藩京極家3代。.

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京極高備

京極 高備(きょうごく たかまさ、宝暦7年4月22日(1757年6月8日)- 天保6年5月3日(1835年5月29日))は、丹後国峰山藩の第7代藩主。第6代藩主・京極高久の長男。母は木下利潔の娘。正室は土方雄端の娘、継室は本多康桓の娘。子に京極高寧(長男)、京極高聡(次男)、京極高倍(五男)、京極高鎮(七男)、娘(黒田直方継室のち山口弘致正室)。官位は従五位下、周防守。 宝暦7年(1757年)4月22日、江戸にて生まれる。幼名は千之助。天明8年(1788年)、父が若年寄になると藩政を取り仕切る立場になった。文化5年(1808年)、父の死去により家督を継ぎ、大番頭を務めた後の文化9年(1812年)2月から若年寄に任じられて幕政に参与した。藩政では検地や寺社統治に尽力している。 天保3年(1832年)11月20日、家督を五男・高倍に譲って隠居したが、その高倍とさらにその跡を継いだ息子の高鎮がわずかな間に自身に先立って次々と早世するなど、不幸な晩年の中で天保6年(1835年)5月3日に死去した。享年79。墓所は京都府京丹後市吉原の安泰山常立寺。 Category:江戸幕府若年寄 *07 たかまさ Category:1757年生 Category:1835年没.

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京極高品

京極 高品(きょうごく たかかず)は、但馬豊岡藩の第6代藩主。豊岡藩京極家8代。 寛保元年(1741年)7月18日、第5代藩主京極高永の長男として江戸麹町邸で生まれる。宝暦10年(1760年)に父が死去したため家督を継ぎ、宝暦11年(1761年)に従五位下、甲斐守に叙任する。同年から文武の奨励、倹約の徹底、礼儀の徹底などを中心とした藩政改革を行い、15ヵ条の触れを出し、藩士の贈収賄を取り締まって綱紀粛正を図り、緊縮財政政策を採用した。しかし、藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次いだ。 寛政元年(1789年)に正室と離別し、嗣子がなかったため、弟の高大を養子として迎えていたが、病弱であったために寛政2年(1790年)に廃嫡し、改めて峰山藩京極家から高有を養子として迎え、寛政3年(1791年)5月10日、「放心に付」であるとして隠居し、家督を高有に譲った。その後、剃髪して甲斐入道と号した。 寛政4年(1792年)7月6日、豊岡で死去した。享年52。 たかかす Category:豊岡藩主 Category:1741年生 Category:1792年没.

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京極高典

京極 高典(きょうごく たかまさ、天保7年10月19日(1836年11月27日) - 明治39年(1906年)1月10日)は、日本の大名・華族。讃岐多度津藩の第6代(最後)の藩主。多度津藩京極家6代。 京極高宝(第5代藩主・京極高琢の庶弟)の次男。母は伊勢屋勘兵衛の娘。正室は幸(阿部正備の娘)、継室は鈺子(安藤信正の娘)。子は鈺子との間に梅子(坂本近敬のちに御牧現随妻)、京極高備(長男)、靏丸、竹三郎、富士高茂(富士重本養子)、恵三郎 、京極高頼(旧峰山藩主家、京極高致養子)。養子に京極寿吉(山崎治正六男治礼)。幼名は於菟之助。官位は従三位子爵、壱岐守、下総守、河内守。初名、高徳。.

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京極高光

京極高光(きょうごく たかみつ)は、室町時代中期の守護大名。室町幕府侍所頭人、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。.

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京極高国

京極 高国(きょうごく たかくに)は、丹後宮津藩の第3代藩主。国持大名。.

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京極高倍

京極 高倍(きょうごく たかます、文化5年(1808年)- 天保4年12月5日(1834年1月14日))は、丹後国峰山藩の第8代藩主。第7代藩主・京極高備の五男。幼名は万蔵、主膳。官位は従五位下、備前守。 天保元年(1830年)12月14日、父高備の嫡子となる。五男であったが、長兄の高寧、次兄高聡が早世し、三兄直貞(一色姓)と四兄正応(津田姓)は他家の養子に出されていたためである。天保3年(1832年)11月20日、父高備の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下備前守に叙任した。しかし在職1年あまりの翌年12月5日に26歳の若さで死去した。嗣子が無く、跡を弟の高鎮が継いだ。法号は徳彰院興誉和順道融。 *08 たかます Category:1808年生 Category:1834年没.

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京極高知

京極 高知(きょうごく たかとも)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。丹後宮津藩(宮津城)初代藩主。高知流京極家の祖。.

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京極高矩

京極 高矩(きょうごく たかのり)は、江戸時代中期の大名。讃岐丸亀藩4代藩主。丸亀藩京極家6代。.

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京極高琢

京極 高琢(きょうごく たかてる、文化8年8月7日(1811年9月24日)- 慶応3年3月22日(1867年4月26日))は、讃岐多度津藩の第5代藩主。多度津藩京極家5代。 第4代藩主・京極高賢の長男。母は菅氏。正室は京極高朗の娘。官位は従五位下、壱岐守。幼名は辰之丞。 天保4年(1833年)3月8日、父の隠居により跡を継ぐ。藩政では防波堤を築き、瀬戸内海に良港を築くなど、手腕を見せた。安政6年(1859年)3月11日、家督を養嗣子の高典に譲って隠居し、慶応3年(1867年)3月22日に57歳で死去した。墓所は香川県丸亀市中府の玄要寺。法号は雲関院殿前壱州刺史透翁道信大居士。 *05 Category:幕末の大名 Category:幕末丸亀藩の人物 たかてる Category:1811年生 Category:1867年没.

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京極高秀

京極高秀(きょうごくたかひで).

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京極高義

京極 高義(きょうごく たかよし、1874年(明治7年)12月19日『平成新修旧華族家系大成』上巻、519-520頁。 - 1923年(大正12年)9月1日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』42頁。)は、明治・大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。.

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京極高直

京極 高直(きょうごく たかなお)は、丹後田辺藩の第2代藩主。豊岡藩京極家2代。 初代藩主・京極高三の長男。寛永13年(1636年)、父の死去により跡を継ぐ。正保4年(1647年)、江戸増上寺の普請や江戸城修築などを務めた。承応3年(1654年)、隣藩である宮津藩主の京極高広と国境などをめぐって争う。高広と高直は伯父と甥でありながら仲が悪かった。藩政においては郷村支配の強化に努めている。 寛文3年(1663年)正月7日、田辺にて32歳の若さで死去した。このとき、家臣が5名ほど殉死している。それだけ高直は家臣を大切にしていたのかもしれないが、殉死の習慣が問題視されて幕府から殉死禁止令が出されたのは、高直の死後4ヵ月後のことであった。跡を長男の高盛が継いだ。 たかなお Category:外様大名 Category:丹後田辺藩主 Category:1633年生 Category:1663年没.

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京極高盛

京極 高盛(きょうごく たかもり)は、丹後田辺藩の第3代藩主、のち但馬豊岡藩の初代藩主。豊岡藩京極家3代。 田辺藩第2代藩主京極高直の長男として、江戸向柳原邸で生まれる。寛文3年(1663年)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、弟の高門に2,000石を分与した。寛文8年(1668年)5月3日、田辺藩から豊岡藩に移封される。しかしもともと病弱だったため、寛文7年(1667年)から養嗣子に迎えていた弟の高住に延宝2年(1674年)3月18日、家督を譲って隠居した。 宝永6年(1709年)2月1日、60歳で死去した。.

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京極高鎮

京極 高鎮(きょうごく たかつね、文化7年12月15日(1811年1月9日)- 天保5年6月23日(1834年7月29日))は、丹後国峰山藩の第9代藩主。第7代藩主・京極高備の七男。第8代藩主・京極高倍の弟。官位は不詳。 幼名は富五郎、篤吉、寅之助。天保4年(1833年)12月5日に兄で先代藩主の高倍が嗣子無くして死去したため、その跡を継いで翌天保5年(1834年)に藩主となった。しかし藩主に在職すること半年の同年6月23日に江戸にて死去した。享年25。嗣子が無く、跡を養子の高景が継いだ。 *09 たかつね Category:1811年生 Category:1834年没.

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京極高行

京極 高行(きょうごく たかゆき)は、但馬豊岡藩の第8代藩主。豊岡藩京極家10代。 寛政6年(1794年)6月16日、第7代藩主京極高有の長男として江戸麹町邸で生まれる。天保2年(1831年)5月10日、父の隠居にともない家督を継いだ。天保4年(1833年)に藩校・稽古堂を創設し、天保12年(1841年)からは大坂加番となる。さらに天保の改革に倣って、家臣の知行削減やリストラなどの財政改革を行なった。 弘化4年(1847年)9月29日に江戸麹町邸で死去した。享年54。跡を長男の高厚が継いだ。 たかゆき Category:豊岡藩主 Category:1794年生 Category:1847年没.

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京極高規

京極 高規 (きょうごく たかのり、寛永20年(1643年) - 宝永5年10月19日(1708年11月30日))は江戸時代の高家旗本。丹後宮津藩主京極高国の嫡男。生母は千菊姫。初名は高頼。通称は兵勝丸、采女、近江。官位は従四位下侍従、対馬守。 父が改易されなければ国持大名・丹後宮津藩主だったはずの人物である。曽祖父は関ヶ原の戦いで大功をあげ、家康より丹後一国を与えられた京極高知である。 明暦元年(1655年)1月28日将軍徳川家綱に御目見する。明暦3年(1657年)12月27日従四位下近江守に叙任する。後に対馬守に改める。寛文6年(1666年)5月3日父高国の改易により、藤堂高次のもとに預けられる。扶助料3,000俵を賜る。延宝8年(1680年)9月2日赦免されて、母方の実家伊達家の領地常陸竜崎に暮らす。 元禄3年(1690年)8月18日幕府の旗本となり、蔵米2,000俵を賜る。寄合に所属する。元禄8年(1695年)12月15日、高家職に就き、18日侍従に任官する。元禄10年(1697年)7月26日あらためて安房朝夷郡などで2,000石を賜る。元禄14年浅野長矩の刃傷事件に際し、その刀を奪い取ったのは自分だと主張をし、梶川頼照と論争を生んだ。宝永2年(1705年)7月25日辞職し、寄合に所属する。11月29日隠居し、養子高甫(実弟)に家督を譲る。宝永5年(1708年)10月19日死去、66歳。 正妻はいない。二男一女あり。その他に養子二人あり。 たかのり Category:江戸幕府旗本 Category:宮津藩の人物 Category:1643年生 Category:1708年没.

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京極高詮

京極 高詮(きょうごく たかのり)は、室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見守護。.

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京極高豊

京極 高豊(きょうごく たかとよ)は、江戸時代前期から中期の大名。讃岐丸亀藩2代藩主。丸亀藩京極家4代。.

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京極高賢

京極 高賢(きょうごく たかかた)は、讃岐多度津藩の第4代藩主。多度津藩京極家4代。 安永5年(1776年)6月20日、第3代藩主・京極高文の長男として生まれる。寛政6年(1794年)5月25日に世子に指名される。寛政8年(1796年)7月5日の父の隠居で家督を継ぎ、12月19日に従五位下・壱岐守に叙位・任官する。 享和2年(1802年)5月、駿府加番に任じられる。文政10年(1827年)、江戸幕府に対して陣屋の建築を嘆願して許され、10月に多度津に入った。天保4年(1833年)3月8日、長男・高琢に家督を譲って隠居する。天保9年(1838年)3月6日、江戸麻布の永坂下屋敷で死去した。享年63。 たかかた *04 Category:1776年生 Category:1838年没.

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京極高長

京極 高長(きょうごく たかなが、元禄8年5月1日(1695年6月12日)- 明和6年4月3日(1769年5月8日))は、丹後峰山藩の第5代藩主。陸奥棚倉藩主(のち越後村上藩主)内藤弌信の三男(四男との説もある)。正室は京極高之の娘。官位は従五位下、備後守、主膳正。 元禄8年(1695年)5月1日、陸奥棚倉で生まれる。正徳4年(1714年)、先代藩主・高之の婿養子となった。享保8年(1723年)、高之の死去で跡を継ぐ。明和2年(1765年)8月8日、養嗣子の高久に家督を譲って隠居し、明和6年(1769年)4月3日に江戸で死去した。享年75。 法号は源寥院廓誉常光道仙。墓所は東京都江東区白河の道本山霊巌寺。後に京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺に改葬。 *05 たかなか Category:内藤家 (信成系) Category:棚倉藩の人物 Category:1695年生 Category:1769年没.

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京極高通 (多度津藩主)

京極 高通(きょうごく たかみち、元禄4年6月23日(1691年7月18日) - 寛保3年4月20日(1743年5月13日))は、江戸時代中期の外様大名。讃岐多度津藩初代藩主。多度津藩京極家初代。 丸亀藩2代藩主・京極高豊の四男。母は側室。正室は越前松平直丘の娘、継室は山崎義方の娘。子は京極高慶(長男)、京極高伴(次男)。官位は従五位下、壱岐守。.

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京極高通 (峰山藩主)

京極 高通(きょうごく たかみち、慶長8年9月9日(1603年10月13日) - 寛文5年12月14日(1666年1月19日))は、丹後峰山藩の初代藩主。 朽木宣綱の次男。母は京極高吉の娘。京極高知の甥で養子。正室は京極高知の娘。子に京極高供(長男)、京極高昌(次男)、京極高成(三男)、娘(溝口宣知正室)、娘(柳生宗冬正室)、娘(村上正直室)。官位は従五位下、主膳正。 元和2年(1616年)、徳川秀忠の小姓となり3,000石を賜う。元和8年(1622年)には丹後宮津藩主の養父高知の遺領のうち中郡1万石を分与され、旧領と併せて峰山1万3,000石を領することとなり、峰山に立藩した。峰山藩京極家は宗家の宮津藩京極家が改易に、同じ支藩である田辺藩(舞鶴藩)京極家が但馬豊岡へと転封になる中、高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功で拝領した丹後の地を、一部とはいえ廃藩置県まで守り続けた。 *01 たかみち みねやま Category:朽木氏 Category:宮津藩の人物 Category:近江国の人物 Category:1603年生 Category:1666年没.

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京極高陳

京極 高陳(きょうごく たかのぶ、天保9年(1838年)9月22日 - 明治26年(1893年)5月13日?)は、丹後峰山藩の第12代(最後)の藩主。幕臣500石で御小姓の京極高紀の次男。正室は笹田氏。官位は従五位下。備中守。通称は采女、右近。.

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京極高栄

京極 高栄(きょうごく たかよし / たかしげ)は、但馬豊岡藩の第3代藩主。豊岡藩京極家5代。 元禄3年(1690年)7月23日、第2代藩主・京極高住の長男として江戸向柳原邸で生まれる。宝永元年(1704年)に世嗣に指名される。初名は高継であったが、正徳3年(1713年)に将軍徳川家継の諱を避けて高栄と改名した。正徳4年(1714年)7月29日に父の隠居にともない家督を継ぎ、従五位下、加賀守に叙任する。 弟の善興(重次)に2000俵を分与し、小普請組京極三右衛門家を創設した。享保6年(1721年)6月13日、麹町邸で急死した。享年32。 跡を長男の高寛が継いだ。 たかよし Category:豊岡藩主 Category:1690年生 Category:1721年没.

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京極高次

京極 高次(きょうごく たかつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。若狭小浜藩の初代藩主。.

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京極高永

京極 高永(きょうごく たかなが)は、但馬豊岡藩の第5代藩主。豊岡藩京極家7代。.

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京極高清

京極 高清(きょうごく たかきよ)は、室町時代末期から戦国時代初期の武将、守護大名(戦国大名)。飛騨・出雲・隠岐・近江守護、後に近江半国守護で北近江の大名。京極勝秀の子で、京極持清の孫。幼名・乙童子丸。 家中を2分した京極騒乱を収めたが、自分の2人の息子を巡る別のお家騒動を止められず、京極氏の弱体化と浅井氏の台頭を招いた。.

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京極高朗

京極 高朗(きょうごく たかあきら)は、讃岐丸亀藩の第6代藩主。丸亀藩京極家8代。.

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京極高有

京極 高有(きょうごく たかあり)は、但馬豊岡藩の第7代藩主。豊岡藩京極家9代。 安永4年(1775年)9月26日、丹後峰山藩主京極高久の五男(異説として次男)として江戸木挽町の屋敷で生まれる。寛政3年(1791年)2月10日に豊岡藩の第6代藩主京極高品の養子となり、5月10日の高品の隠居にともない家督を継いだ。 寛政6年(1794年)、大坂加番となる。文政6年(1823年)、藩営の産物会所を開設し、柳行李流通の独占を図り、財政の再建に努めた。しかし、文政8年(1825年)には豊岡町民による産物会所や金銀売買商屋敷の打ち壊しに遭うなどして銀札の暴落を招き、さらに物価上昇も起こって窮民による暴動まで起こって、藩政改革は失敗に終わった。 天保2年(1831年)5月10日、病気により家督を長男の高行に譲って隠居する。天保12年(1841年)9月18日(異説として7月26日)に死去した。享年67。 たかあり Category:豊岡藩主 Category:1775年生 Category:1841年没.

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京極高或

京極 高或(きょうごく たかもち)は、江戸時代中期の大名。讃岐丸亀藩3代藩主。丸亀藩京極家5代。.

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京極高明

京極 高明(きょうごく たかあき、万治3年4月25日(1660年6月2日)- 享保11年12月2日(1726年12月24日))は、丹後峰山藩の第3代藩主。第2代藩主・京極高供の長男。母は松平忠明の娘。正室は熊谷依貞の娘。子は京極高之(長男)、京極高重(次男)、本間季明(四男)。官位は従五位下、隼人正、備後守、主膳正。 万治3年(1660年)4月25日、近江にて生まれる。延宝2年(1674年)、父の死去により跡を継ぐ。藩政では検地に尽力した。元禄12年(1699年)4月29日、病気を理由に家督を長男・高之に譲って隠居し、宝永7年(1710年)閏8月に剃髪して道意と号した。享保11年(1726年)12月2日、67歳で死去した。 *03 たかあき Category:近江国の人物 Category:1660年生 Category:1726年没.

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京極高文

京極 高文(きょうごく たかふみ)は、讃岐多度津藩の第3代藩主。多度津藩京極家3代。.

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京極高数

京極 高数(きょうごく たかかず)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城国守護、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。.

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京極高慶 (多度津藩主)

京極 高慶(きょうごく たかよし)は、讃岐多度津藩の第2代藩主。多度津藩京極家2代。 享保5年(1720年)、初代藩主・京極高通の長男として生まれる。享保20年(1735年)9月24日、父の隠居で家督を継ぐ。寛保2年(1742年)に駿府加番に任じられる。飢饉が続いた上、役人の不正もあって寛保3年(1743年)1月には百姓一揆が起こった。宝暦6年(1756年)2月26日、丸亀で死去した。享年37。跡を六男・高文が継いだ。 たかよし *02 Category:1720年生 Category:1756年没.

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京極高景

京極 高景(きょうごく たかかげ、文化8年11月29日〈1812年1月13日〉 - 文久3年7月20日〈1863年9月2日〉)は、丹後峰山藩の第10代藩主。肥前島原藩主・松平忠馮の六男。正室は牛久藩主・山口弘致の娘。子は高富(長男)。官位は従五位下、右近将監。幼名は滝之進。 先代藩主・高鎮が天保5年(1834年)に死去したため、その養嗣子となって跡を継いだ。しかし、天保の大飢饉で多数の餓死者を出したうえ、天保の改革で商業的な悪影響を受けるなど、藩政は多難であった。嘉永2年(1849年)3月7日、長男・高富に家督を譲って隠居する。文久3年(1863年)7月20日、江戸で死去した。享年53。法号は成徳院行誉高景道完。墓所は京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺。 *10 たかかけ Category:深溝松平氏 Category:島原藩の人物 Category:1812年生 Category:1863年没.

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京極高晴

京極 高晴(きょうごく たかはる、1938年1月18日 - )は、豊岡京極氏15代当主。.

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京極杞陽

京極 杞陽(きょうごく きよう、1908年2月20日 - 1981年11月8日)は、東京市出身の俳人。高浜虚子に師事、「木兎」(もくと)主宰。本名は高光(たかみつ)。豊岡京極家13代当主で、少年期から壮年期までは子爵の爵位を持つ華族であった。靖国神社元宮司の京極高晴は次男である。また、五男の高幸は京極高鋭の養子となり峰山京極家を継いでいる。.

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京極材宗

京極 材宗(きょうごく きむね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。京極政経の子。吉童子丸の父。初めは父より一字を与えられて経秀(つねひで)と名乗っていたが、後に室町幕府第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を賜り改名した。 文明17年(1485年)、室町幕府から侍所頭人に任命、多賀高忠を所司代に任命された。この処置は父政経を京極氏当主に復帰させ、従兄の京極高清を追放する目論見があった。しかし、父が配下の所領横領を阻止出来なかったことが将軍足利義材の怒りを買い、家督を高清に代えられると材宗も失脚、明応の政変で義材が廃位されると京極氏復帰を狙った。 父が高清に敗れて出雲へ下向した後も高清と戦い、文亀元年(1501年)に浅井直種を従えて今浜を攻めたが、上坂家信の防戦で失敗。文亀2年(1502年)、永正2年(1505年)にも高清を攻撃したが失敗、同年に高清と和睦したが、永正4年に高清に自殺させられた。 翌永正5年(1508年)に父も亡くなり、子の吉童子丸は父から家督を譲られたとされるがその後行方不明、出雲は守護代尼子経久の領国となった。また、京極高吉の父ともされている。.

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京極持高

京極 持高(きょうごく もちたか)は、室町時代中期の武将、守護大名。出雲・隠岐・飛騨・山城守護。京極高光の嫡男で弟に持清、妹に細川持之室。 持高の「高」の字は京極氏の通字であるものを父・高光から取ったものであるが、高光のもう片方の1字(「光」の字)により持光(もちみつ)を別名とするものもある。いずれにせよ、「持」の字は室町幕府第4代将軍足利義持から偏諱を賜ったものである。 応永20年(1413年)に父が亡くなり出雲・隠岐・飛騨3ヶ国の守護職を継ぐ。応永31年(1424年)から正長元年(1428年)まで山城守護にも補任された。 永享6年(1434年)に6代将軍足利義教から反抗する延暦寺への攻撃を命じられ、六角満綱と共に山門を囲み降伏させる。さらに近江国内に多くあった延暦寺領の差し押さえを命じられている。 永享11年(1439年)に子を残さないまま亡くなった。享年は39とされる。後を継いだのは薩戎記によれば叔父の高数とされ、西讃府史によれば弟の持清とされる。.

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京極持清

京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔、大膳大夫。.

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京極朗徹

京極 朗徹(きょうごく あきゆき)は、讃岐丸亀藩の第7代(最後)の藩主。丸亀藩京極家9代。.

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京極政光

京極 政光(きょうごく まさみつ)は、室町時代の武将。京極持清の次男。 初めは佐々木氏庶流の黒田氏の養子に入ったが、応仁の乱の只中に父と兄がそれぞれ応仁2年(1468年)、文明2年(1470年)に死去した。そのため家督と守護職は甥の孫童子丸が継承、政経と守護代多賀高忠が補佐した。しかし、政光はこれに不満を覚え多賀清直と共に孫童子丸の庶兄・乙童子丸(高清)を擁立して六角高頼と組んで西軍へ寝返った(京極騒乱)。政経・多賀高忠は六角政堯と共に東軍へ留まった。文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折したが、政経が次の当主になったため京極氏の抗争は継続した。 文明4年(1472年)に政経派を撃破、政経らを追放して乙童子丸を当主に据えて多賀清直と共に後見人となったが、翌年に死去。.

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京極政経

京極 政経(きょうごく まさつね)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、近江・出雲・隠岐・飛騨4ヶ国の守護。京極持清の3男。勝秀、政光は兄、高清は甥(弟とも)。姉妹に畠山政長室。子に経秀(材宗)。官位は従五位下大膳大夫。 次兄・政光と同様、室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱の授与を受け、政経と名乗る。また、別名に政高(まさたか)。.

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庶子

庶子(しょし)は、正室ではない女性から生まれた子供を指す語。結婚(婚姻)制度の確立により生じた概念である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた以外に嫡出庶出といった区別は意味を持たなかった。 結婚制度は、(1)相続権、親族関係の明確化といった世俗的な要求と、(2)性交渉に拘わるモラルの確立といった道徳的、宗教的な要求から生じて来たものであり、その枠外である庶子は、世俗的権利とモラルの両面において嫡子と差別をこうむることになる。 大小の差別を受けるにも拘わらず、庶子が存在したのは次のような理由が考えられる。.

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庶家

庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.

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康暦

康暦(こうりゃく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。永和の後、永徳の前。1379年から1380年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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康暦の政変

康暦の政変(こうりゃくのせいへん)は、南北朝時代の天授5年/康暦元年(1379年)に室町幕府管領・細川頼之が失脚した政変である。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。.

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建仁寺

建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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伊香郡

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伊那郡

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引付衆

引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。.

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佐々木宗綱

佐々木 宗綱(ささき むねつな)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。京極氏2代当主。京極宗綱とも。佐々木道誉は外孫に当たる。.

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佐々木宗氏

佐々木 宗氏(ささき むねうじ)は、鎌倉時代後期の武士・御家人。佐々木氏支流京極氏4代当主。京極宗氏とも。.

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佐々木信綱

佐々木 信綱(ささき のぶつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人。.

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佐々木秀綱

佐々木 秀綱(ささき ひでつな)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、上総国守護。.

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佐々木道誉

佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。.

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佐々木高秀

佐々木 高秀/京極 高秀(ささき たかひで/きょうごく たかひで)は、南北朝時代(室町時代初期)の守護大名。室町幕府評定衆、侍所所司、出雲国・飛騨国・隠岐国守護。.

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佐々木貞宗

佐々木 貞宗(ささき さだむね)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。佐々木氏支流京極氏3代当主。京極貞宗とも。.

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佐々木貞氏

佐々木 貞氏(ささき さだうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。鏡貞氏とも。.

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佐々木重綱

佐々木 重綱(ささき しげつな)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。近江国大原氏の祖であることから大原重綱ともいわれる。.

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佐々木氏

佐々木氏(ささきし)は、日本の氏族のひとつ。家系は宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し全国に勢力を広げた。.

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佐々木氏信

佐々木 氏信(ささき うじのぶ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。佐々木氏支流京極氏の始祖。京極氏信とも。鎌倉の桐ヶ谷にも住しており、桐谷氏とも呼ばれた。.

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佐々木泰綱

佐々木 泰綱(ささき やすつな)は、鎌倉時代中期の武将・御家人、近江国守護。六角氏の祖ともいわれており、六角泰綱ともいわれる。.

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佐渡国

佐渡国(さどのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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使節遵行

使節遵行(しせつじゅんぎょう)とは、中世日本において、不動産をめぐる訴訟(所領相論)に対し幕府が発した裁定を執行するための現地手続きをいう。使節遵行の制度は鎌倉時代に始まった。室町時代初頭には 守護の権能に加えられ、守護の権限強化へとつながり、守護大名の登場および守護領国制成立への契機となった。.

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但馬国

但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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侍所

侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.

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御供衆

御供衆(おともしゅう)は、室町幕府将軍の出行に供奉した人物である。また、御相伴衆のように幕府における身分・格式を示す一種の称号でもあった。その格式は、御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐものであったが、将軍の出行に供奉するという点で、将軍に最も親近な名誉的な職であったと推測されている。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳源院

徳源院(とくげんいん)は、滋賀県米原市にある京極氏の菩提寺。清瀧寺(せいりゅうじ、または、きよたきでら)とも呼ばれる。山号を霊通山と称する。宗派は天台宗。境内にある京極家墓所は国の史跡に指定されている。.

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後光厳天皇

後光厳天皇(ごこうごん てんのう、建武5年3月2日(1338年3月23日)- 応安7年1月29日(1374年3月12日))は、南北朝時代の北朝第4代天皇(在位:観応3年8月17日(1352年9月25日)- 応安4年3月23日(1371年4月9日))。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。.

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後瀬山城

後瀬山城(のちせやまじょう)は、福井県小浜市にあった日本の城(山城)。若狭最大級の城であったが、比較的標高の高い山上に築かれていたため、北山麓に水堀を廻らせた常時住まいする大規模な守護館(武田氏館)が設けられていた。東山麓の発心寺も城砦の一部と考える見方もある。城跡は「国の史跡」に指定 されている。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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応仁

応仁(おうにん)は、日本の元号の一つ。文正の後、文明の前。1467年から1468年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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土岐頼康

土岐 頼康(とき よりやす)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃・尾張・伊勢守護。土岐氏の一族土岐頼清(頼宗)の長男で土岐頼貞の孫。明智頼兼、頼雄、康貞、直氏、頼忠の兄。子に娘(二条良基室)。養子に康行。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

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北条時行

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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北海道

北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。.

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僧兵

僧兵(そうへい)とは、日本の古代後期から中世、近世初頭にかけて存在した僧形の武者である。.

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備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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出雲国

出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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八幡山城

八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市宮内町周辺(近江国蒲生郡)に存在した日本の城(山城)。羽柴秀次の居城として知られる。別名近江八幡城とも呼ばれている。.

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六角高頼

六角 高頼(ろっかく たかより)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。近江国守護、南近江の戦国大名。六角氏12代当主。.

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六角氏

六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族。宇多源氏佐々木氏の流れで、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)。藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりは無い。佐々木六角氏とも言う。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

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国主

江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、国持大名ともいう。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つである。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源。本国持10家(後12家)及び一国持ちではないが、大領を有した大身国持がある。 陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)を国主扱いにしている。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、志摩一国一円知行の稲垣和泉守(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)。 また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)も国主・国持という家格には加えない。 また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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四職

四職(ししき/ししょく)は、室町時代の武家の家格。.

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四條畷の戦い

四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)における、南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣高師直との間の戦い。 また、四條縄手という地名や、味方であった水走氏が東大阪市五条町に館があったことなどから、大阪府東大阪市の四条(縄手)付近で戦いがあったという説もある。.

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犬上郡

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矢作川

作川(やはぎがわ)は、長野県、岐阜県および愛知県を流れ三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本流。矢作川の水は明治用水などに使われている。矢矧川とも書く。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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箱根・竹ノ下の戦い

箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、建武の新政時代の1336年1月24日(ユリウス暦)(建武2年12月11日)に、足利尊氏の呼びかけに応じた足利軍と、後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞に、参集した軍勢との間で行われた合戦。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権崩壊の第一幕となった。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。.

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細川頼之

細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.

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綸旨

綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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相伴衆

伴衆(しょうばんしゅう、御相伴衆とも)は、室町幕府における役職的な身分の一つ。将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。管領家の一族や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった(ただし、三管領家も社会的身分としては相伴衆中の上位に位置づけられていたとする見方もある木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」木下 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-192-9)。.

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相模川

模川(さがみがわ)は、山梨県・神奈川県を流れる相模川水系の本流で、一級河川である。.

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隠岐国

岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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鞆(とも)とは、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具である。古語では「ほむた・ほむだ」といい、鞆という字は国字である。.

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菩提寺

菩提寺(ぼだいじ)は、代々その寺の宗旨に帰依して、(先祖の)位牌を納めてある寺。菩提所とも呼ばれる。ここでいう菩提とは「死後の冥福」を指し、菩提を弔う寺院という意味である。例えば、徳川家の寛永寺や増上寺が有名。古代・中世では一般的に氏寺と呼ばれていた。 香華院(こうげいん)は、仏前に香や花を供える役割を担う寺院のこと。香華寺(こうげじ)や香華所(こうげしょ)とも呼ばれる。陵墓・霊廟・墓所などに隣接して置かれる。例えば、皇室の陵墓に隣接する泉涌寺、伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」に隣接する瑞鳳寺などがこれにあたる。 檀那寺、旦那寺(だんなでら)は、檀信徒(檀家)の布施、すなわち檀那(旦那)によって運営される寺のこと。本来の意味では信徒と寺との経済的関係を示しているに過ぎないが、江戸時代に寺請制度によって個人は必ず1つの寺に管理されるようになり、多くの庶民は経済的支援をする寺と先祖の墓を管理してもらうそれが一致する。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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飛騨国

飛騨国(ひだのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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西尾忠需

西尾 忠需(にしお ただみつ)は、遠江横須賀藩の第3代藩主。横須賀藩西尾家6代。.

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評定衆

評定衆(ひょうじょうしゅう)とは、鎌倉・室町時代に置かれた役職の一つである。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高島郡 (滋賀県)

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高島氏

島氏(たかしまし)は、日本の武家。宇多源氏の一派近江源氏 佐々木氏流。佐々木信綱の次男高島高信を祖とする。近江国高島郡より発祥。居城は清水山城。.

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讃岐国

讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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豊岡市

豊岡市(とよおかし)は、兵庫県の北部(但馬地域)に位置する市。但馬県民局管轄地域。豊岡都市圏を形成する県北部の中心都市で、兵庫県で最も面積が大きい市でもある。 日本で最後の野生コウノトリの生息地として知られ、コウノトリの保護・繁殖・共生の事業が行われている。市内には城崎温泉、重伝建の出石、竹野浜などの海水浴場、神鍋高原のキャンプ場・スキー場がある。.

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豊岡藩

豊岡藩(とよおかはん)は、但馬国城崎郡周辺を領有した藩。藩庁は当初、豊岡城(現在の兵庫県豊岡市)のち豊岡陣屋。 豊岡県庁正門と豊岡市立図書.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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貞和

貞和(じょうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康永の後、観応の前。1345年から1349年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、崇光天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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貞治

貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.

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越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義澄

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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黒田氏

黒田氏(くろだし)は、日本の氏族のひとつ。 江戸時代の大名家となった黒田氏には次の2氏がある。.

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龍野藩

龍野藩(たつのはん)は、播磨国龍野周辺を領有した藩。藩庁は龍野城(現兵庫県たつの市)に置かれた。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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近江源氏

近江源氏(おうみげんじ)とは、中世に近江国に土着し本拠とした源氏の流れを汲む一族の呼称。以下の数流がある。最も著名な佐々木氏一族については佐々木源氏などとも呼ばれる。.

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能勢郡

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興国

興国(こうこく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇、北朝方が後光厳天皇、光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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赤尾氏

赤尾氏(あかおし、あかおうじ)は、日本の氏族のひとつ。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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藩士

藩士(はんし)は、江戸時代の各藩に仕えた武士及びその構成員を指す歴史用語。 江戸時代には「藩」という言葉自体と同様、「藩士」も呼称として用いられなかった。例えば、薩摩藩の藩士なら自らのことを「薩摩藩士某」と名乗るのではなく「島津家家臣某」と名乗った。.

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蒲生郡

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長岡氏

長岡氏(ながおかし)は、武家のひとつ。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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若狭国

若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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虻田郡

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暦応

暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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松山氏

松山氏(まつやまし)は北近江の在地豪族、国人。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の庶流にあたり、近江佐竹氏・佐竹松山氏とも称される。.

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松江藩

藩庁松江城 松江藩(まつえはん)は、出雲1国または隠岐国を加えた2国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。.

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検非違使

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。.

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楠木正行

楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。初名は正之(まさより、まさこれ)と伝わる。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦った。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武田元明

武田 元明(たけだ もとあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。若狭武田氏最後の第9代当主。後瀬山城(旧・若狭小浜城)主。諱は元次(もとつぐ)ともいう。.

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毛利輝元

毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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江北

江北(こうほく、えきた); 日本の自治体.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河辺郡

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源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

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持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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末期養子

末期養子(まつごようし)は、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のことである。これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲の者がそれを隠して当主の名において養子縁組を行う場合も指す。.

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本姓

本姓(ほんせい)は、日本において、古代以来の氏族名。氏を参照。名字(苗字)や家名とは異なる「本来の姓」という意味である。単純に姓(せい)とも言うが、「姓(かばね)」のことではない。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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朽木宣綱

朽木 宣綱(くつき のぶつな、天正10年(1582年) - 寛文2年5月1日(1662年6月16日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。朽木元綱の長男。友綱、稙綱の兄。官位は従五位下兵部少輔。号は立斎。妻は京極高吉の娘のマグダレナ(洗礼名)。子に智綱、京極高通、良綱、元綱(父と同名)、大島義唯室、岡本介球室、川口宗次室、高麗道覚室。.

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月山富田城

月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田に所在した日本の城。月山(標高197m)に営まれる。戦国時代に山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった。城郭跡は国の史跡に指定されている。.

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戎光祥出版

戎光祥出版株式会社(えびすこうしょうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある神道、日本史、鉄道、銭湯などに関する書籍を刊行する出版社。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明徳

明徳(めいとく)は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1393年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。.

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明徳の乱

明徳の乱(めいとくのらん)は、南北朝時代(室町時代)の元中8年/明徳2年(1391年)に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱である。内野合戦とも呼ばれる。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

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浅井亮政

浅井 亮政(あざい すけまさ、淺井 亮政)は、戦国時代の武将。北近江の国人浅井氏の当主。.

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浅井郡

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浅井長政

浅井 長政(あざい ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。.

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浅井氏

浅井氏(あざいし、あざいうじ、)は、日本の氏族。京極家の家臣。近江国の国人、戦国時代の近江北部で勢力を持った戦国大名である。.

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斯波義将

斯波 義将(しば よしゆき「義将」の読みに関しては、一般的には「よしまさ」と読まれる(平将門などと同様)ことが多いが、実際は「よしゆき」のようである。偏諱(「将」の字)を賜った人物についても同様のことが言える。)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。 幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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文和

文和(ぶんな、ぶんわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。観応の後、延文の前。西暦では1352年から1355年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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政所

政所(まんどころ)は、.

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愛知郡 (滋賀県)

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敦賀郡

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1333年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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1338年

記載なし。

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1340年

記載なし。

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1348年

記載なし。

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1353年

記載なし。

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1362年

記載なし。

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1379年

記載なし。

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1391年

記載なし。

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1467年

記載なし。

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1469年

記載なし。

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1508年

土曜日から始まる。.

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1560年

記載なし。

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1582年

記載なし。

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1584年

記載なし。

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1586年

記載なし。

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1590年

記載なし。

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1591年

記載なし。

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1593年

記載なし。

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1595年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1609年

記載なし。

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1634年

記載なし。

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1637年

記載なし。

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1666年

記載なし。

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1978年

記載なし。

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佐々木京極氏

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