469 関係: 加納藩、加茂町 (岡山県)、垪和氏、南北朝時代 (日本)、南部信民、古河藩、名神大社、吉井川、吉備国、吉野郡 (岡山県)、堀親常、堀親良、堀親昌、塩焼王、大同 (日本)、大庭郡、大伴兄麻呂、大関増勤、大治 (日本)、大津大浦、天安 (日本)、天平、天平宝字、天平勝宝、天平神護、天徳 (日本)、天保、天喜、天和 (日本)、天領、天暦、外様大名、奥平定能、奥平忠昌、奥平信昌、奥平昌章、奥平昌男、奥平昌邁、奥平昌暢、奥津町、宝亀、室町幕府、宮本武蔵、宇喜多直家、宇喜多氏、宇都宮藩、安土桃山時代、安東氏 (曖昧さ回避)、富村、寛仁、...、寛弘、寛徳、寛文、小幡藩、小張藩、小田県、小諸藩、小野藩、小早川秀秋、小早川茂平、小早川春平、尼子氏、尼子晴久、山名義理、山名氏、山名政清、山名教清、山名時義、山形藩、山陽道、岡山市、岡山県、岩村藩、川之江藩、左岸、上国、上野国、上房郡、中山神社、中国山地、中津山藩、中津藩、常陸国、七戸藩、万寿、三村家親、三村氏、三河国、三日月藩、下総国、一宮、一宮 (津山市)、一柳直家、平宗盛、平安時代、平山城、平忠盛、平範国、幕藩体制、久米南条郡、久米北条郡、久米郡、久米氏、久美浜県、康平、康和、二宮村 (岡山県)、広戸風、今治藩、仁寿、令制国、令制国一覧、延宝、延久、延喜、延喜式神名帳、延暦、建部、建部町福渡、廃藩置県、仙台藩、伊達忠宗、伊達綱宗、伊達重村、伊達村和、伊達斉村、伯耆国、弘仁、弘治 (日本)、佐用町、佐用郡、作州絣、当理流、御家人、忍藩、保延、信濃飯田藩、応和、土浦藩、北区 (岡山市)、北条県、北条氏、北房町、和名類聚抄、和田義盛、和銅、備中国、備後福山藩、備前国、円明流、元禄、兵庫県、勝南郡、勝山藩、勝北郡、勝田郡、因幡国、国府、倉敷県、倉敷支配所、石川名足、石見国、神王、神護景雲、福岡藩、竹内畝流、竹内流、紀飯麻呂、続日本紀、総社、美作市、美作三浦氏、美作後藤氏、美作勝山藩、美作国の式内社一覧、美作国分寺、美作総社宮、美作町、美咲町、美濃国、真岡藩、真島郡、真庭市、真庭郡、烏山藩、生野奉行、生野県、瀬戸内海、白河藩、百済王南典、鎌倉幕府、鎌倉時代、鏡野町、菅原氏、青木重龍、預地、飛地、養老、西北条郡、西西条郡、西苫田村、角川日本地名大辞典、高瀬舟、高階為家、高野神社 (津山市二宮)、貞観 (日本)、賀茂吉備麻呂、越境合併、越前松平家、越智松平家、足利氏、麻田藩、黒羽藩、黒田一成、龍野藩、近国、郡衙、阿倍帯麻呂、阿部正静、阿部正識、阿部正武、阿波村 (岡山県)、赤穂藩、赤松義則、赤松義村、赤松貞範、赤松氏、赤松満祐、赤松持貞、赤松政則、赤松晴政、関ヶ原の戦い、藤原実綱、藤原乙縄、藤原乙麻呂、藤原佐理、藤原俊成、藤原種継、藤原真夏、藤原行道、藤原行成、藤原顕季、藤原顕家 (小野宮流)、藤原資平、藤原資頼、藤原重家 (左近衛少将)、藤原長房、藤原通季、藤原通任、藤原氏宗、藤原文範、藤原斉信、藤原懐平、藩庁、蒜山、蒜山高原、蔵王堂藩、長寛、長州征討、長徳、長保、長元、長暦、良岑安世、良岑清風、色葉字類抄、苫田郡、苫西郡、苫東郡、英田郡、老中、院庄、林秀貞、林通具、東南条郡、東作誌、東北条郡、松平定基、松平定房、松平定時、松平乗紀、松平乗薀、松平乗政、松平直きよ、松平直丘、松江藩、梶原景時、棚倉藩、森忠典、森忠敬、森氏、橘好古、正暦、毛利氏、水野勝俊、水野勝種、永観、永承、江原親次、江川村 (兵庫県)、江戸幕府、河会村、治安 (元号)、沼田藩、津守通、津山城、津山市、津山町 (岡山県)、津山盆地、津山都市圏、津山藩、淡海三船、渋谷氏、源光 (公卿)、源経房、源頼定、源重信、源扶義、源時中、持明院基家、朝倉広景、朝倉氏景 (3代当主)、朝倉教景、木下一元、挙母藩、明石藩、明治、明治維新、昭和、浦上宗景、浦上則宗、浦上村宗、浦上氏、浦上政宗、浜田藩、新見藩、文明 (日本)、日本、旧高旧領取調帳、旭川 (岡山県)、播磨国、慶応、慶長、承平 (日本)、拾芥抄、1001年、1002年、1004年、1006年、1019年、1023年、1026年、1028年、1035年、1038年、1046年、1050年、1053年、1058年、1072年、10月14日 (旧暦)、1101年、1104年、1127年、1135年、1163年、1184年、11月15日 (旧暦)、11月7日、1200年、1213年、12月26日、1333年、1345年、1352年、1356年、1363年、1366年、1391年、1392年、1427年、1441年、1447年、1460年、1467年、1471年、1484年、1496年、1521年、1552年、1557年、1561年、1600年、1602年、1603年、1661年、1674年、1682年、1698年、1866年、1868年、1869年、1870年、1871年、1876年、1889年、1896年、1900年、1970年、1986年、2002年、2005年、2008年、2013年、2月15日 (旧暦)、2月25日、3月31日、4月18日、4月1日、4月28日 (旧暦)、4月3日 (旧暦)、5月 (旧暦)、5月16日 (旧暦)、6月28日、713年、714年、719年、735年、738年、741年、745年、749年、757年、759年、760年、761年、762年、763年、764年、766年、768年、769年、771年、772年、774年、776年、777年、782年、7月14日 (旧暦)、7月4日 (旧暦)、7月5日、807年、816年、851年、859年、862年、863年、8月10日 (旧暦)、8月11日、8月29日、901年、948年、960年、963年、983年、984年、990年、995年、9月15日。 インデックスを展開 (419 もっと) »
加納藩
加納藩(かのうはん)は、江戸時代の日本で、美濃国厚見郡加納(現在:岐阜県岐阜市加納)を本拠地にして、美濃国中部(現在の岐阜県中南部)を領土とした藩である。藩庁は加納城。.
加茂町 (岡山県)
加茂町(かもちょう)は、岡山県北部(苫田郡)に位置し、鳥取県と境を接していた町。現在は津山市に編入され市域の一部となり、町役場は津山市役所加茂支所となっている。津山市加茂地区に一致し、住所上は津山市加茂町 - と表記される。.
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垪和氏
垪和氏(はがし)は、美作国久米北条郡垪和(現・岡山県久米郡)から発祥した武家の氏族。同郡垪和郷を拠点とした。 家紋は丸に抱き茗荷。 垪和は、文献・文書により塀和・垪賀・羽賀・方賀・芳賀などと書かれたが、垪和氏の家系がこれらの名字を名乗る関係はなく、いずれも"垪和=はが"が難読であることから来た仮借表記と見られる。.
南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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南部信民
南部 信民(なんぶ のぶたみ )は、江戸時代末期の大名。陸奥国七戸藩3代藩主。盛岡藩の家老・三戸式部の従兄弟にあたる。.
古河藩
古河藩(こがはん)は、下総(現在の茨城県古河市)に存在した藩。藩庁は古河城。.
名神大社
名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。.
吉井川
吉井川(よしいがわ)は、岡山県東部を流れる吉井川水系の本流で、一級河川である。旭川、高梁川と並び、岡山三大河川の一つとされている。.
吉備国
吉備国(きびのくに)は、古代日本の地方国家である。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な勢力の一つだった。 別名は、吉備道(きびのみち、きびどう)、備州(びしゅう)。.
吉野郡 (岡山県)
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堀親常
堀 親常(ほり ちかつね)は、信濃飯田藩の第3代藩主。信濃飯田藩堀家4代。.
堀親良
堀 親良(ほり ちかよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。信濃飯田藩堀家初代。堀秀政の次男。.
堀親昌
堀 親昌(ほり ちかまさ)は、江戸時代前期の大名。下野国烏山藩2代藩主、信濃国飯田藩初代藩主。飯田藩堀家2代。.
塩焼王
塩焼王(しおやきおう)は、日本の奈良時代の皇族。のち臣籍降下し氷上 塩焼(ひがみ の しおやき)と称した。天武天皇の孫で、一品・新田部親王の子。.
大同 (日本)
大同(だいどう)は、日本の元号の一つ。延暦の後、弘仁の前。806年から810年までの期間を指す。この時代の天皇は平城天皇、嵯峨天皇。 桓武天皇崩御後践祚した平城天皇が即座に改元したことについて「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している。.
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大庭郡
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大伴兄麻呂
大伴 兄麻呂(おおとも の えまろ)は、奈良時代の公卿。大納言・大伴御行の子。官位は従三位、参議。.
大関増勤
大関 増勤(おおぜき ますとし)は、江戸時代末期の大名。下野国黒羽藩16代(最後の)藩主。維新後は子爵。.
大治 (日本)
大治(だいじ)は、日本の元号の一つ。天治の後、天承の前。1126年から1130年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.
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大津大浦
大津 大浦(おおつ の おおうら、生年不詳 - 宝亀6年5月17日(775年6月19日))は、奈良時代の陰陽家。姓は連次いで宿禰、のち連。官位は従四位上・陰陽頭。.
天安 (日本)
天安(てんあん/てんなん)は、日本の元号の一つ。斉衡の後、貞観の前。857年から859年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇、清和天皇。.
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天平
天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.
天平宝字
天平宝字(てんぴょうほうじ、正字体:天平寶字)は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。.
天平勝宝
天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.
天平神護
天平神護(てんぴょうじんご)は、日本の元号の一つ。天平宝字の後、神護景雲の前。765年から767年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。.
天徳 (日本)
天徳(てんとく)は、日本の元号の一つ。天暦の後、応和の前。957年から961年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.
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天保
天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.
天喜
天喜(てんぎ)は、日本の元号のひとつで永承の後、康平の前。1053年〜1058年の期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.
天和 (日本)
天和(てんな、てんわ)は日本の元号の一つ。延宝の後、貞享の前。1681年から1684年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
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天領
天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.
天暦
天暦(てんりゃく)は、日本の元号の一つ。天慶の後、天徳の前。947年から957年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.
外様大名
外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.
奥平定能
奥平 定能(おくだいら さだよし)は、戦国時代の武将。奥三河の国衆で、奥平定勝(貞勝、道文入道)の嫡男。母は水野忠政の妹。子に奥平信昌・仙千代・奥平昌勝。娘に本多重純(本多広孝の次男)室がいる。幼名は仙千代。監物丞、通称は美作守。諱は近世の家譜・編纂物では「貞能」とするが、文書上からは「定能」であることが確認される。.
奥平忠昌
奥平 忠昌(おくだいら ただまさ)は、江戸時代前期の大名。下野宇都宮藩主、下総古河藩主。奥平家昌の長男。徳川家康の曾孫にあたる。 曾祖父である徳川家康の存命中に出生していた。.
奥平信昌
奥平 信昌(おくだいら のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。初名は貞昌(さだまさ)。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された。亀姫との間に家昌など4男1女を儲けた。.
奥平昌章
奥平 昌章(おくだいら まさあきら)は、出羽山形藩第2代藩主、のち下野宇都宮藩初代藩主。中津藩奥平家4代。.
奥平昌男
奥平 昌男(おくだいら まさお)は、豊前中津藩の第4代藩主。中津藩奥平家8代。.
奥平昌邁
奥平昌邁 奥平 昌邁(おくだいら まさゆき、安政2年4月1日(1855年5月16日) - 明治17年(1884年)11月26日)は、豊前中津藩の最後(第9代)の藩主。中津藩奥平家13代。官位は従五位下、美作守。伯爵。.
奥平昌暢
奥平 昌暢(おくだいら まさのぶ)は、豊前中津藩の第6代藩主。中津藩奥平家10代。.
奥津町
奥津町(おくつちょう)は、岡山県の北部(苫田郡)にあり鳥取県と境を接していた町である。現在は合併により鏡野町の一部となり、町役場は鏡野町役場奥津振興センターとなっている。.
宝亀
宝亀(ほうき、正字体:寶龜)は、日本の元号の一つ。神護景雲の後、天応の前。770年から781年までの期間を指す。この時代の天皇は光仁天皇。.
室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
宮本武蔵
宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。 京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。著書『五輪書』は外国語にも翻訳され出版されている。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。.
宇喜多直家
宇喜多 直家(うきた なおいえ)は、戦国時代の武将。備前国の戦国大名。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守。官位は従五位下。宇喜多興家の子。子に秀家など。室は中山信正の娘、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とされる円融院。.
宇喜多氏
宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋は兒文字と考えられているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。.
宇都宮藩
宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.
安土桃山時代
安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.
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安東氏 (曖昧さ回避)
安東氏(あんどうし)とは、日本の姓。氏族。.
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富村
富村(とみそん)は、岡山県の北部、苫田郡にあった村である。現在は合併により鏡野町となり、村役場は鏡野町役場富振興センターとなっている。 たたら製鉄が古くから行われてきた。.
寛仁
寛仁(かんにん)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1020年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.
寛弘
寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.
寛徳
寛徳(かんとく)は、日本の元号の一つ。長久の後、永承の前。1044年から1045年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇、後冷泉天皇。.
寛文
寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.
小幡藩
藩邸御殿跡 楽山園 小幡藩(おばたはん)は、上野甘楽郡小幡に存在した藩。藩庁は小幡陣屋(のち小幡城、現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡)に営まれた。.
小張藩
小張藩(こばりはん)は、江戸時代前期に常陸国筑波郡小張(現在の茨城県つくばみらい市小張)に存在した藩。.
小田県
小田県(おだけん)は、1871年(明治4年)に備中国および備後国東部を管轄するために設置された県。現在の岡山県西部、広島県東部にあたる。設置当時は深津県(ふかつけん)と称した。.
小諸藩
小諸藩(こもろはん)は、信濃国小諸(現在の長野県小諸市)に存在した藩。藩庁は小諸城に置かれた。.
小野藩
小野藩(おのはん)は、播磨国加東郡を領した藩。藩庁は王子村敷地(現在の兵庫県小野市)の小野陣屋にある。 外様大名の一柳氏が、江戸時代初期から廃藩置県まで治めた。.
小早川秀秋
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.
小早川茂平
小早川 茂平(こばやかわ しげひら)は鎌倉時代中期の武将で、安芸国沼田荘を所領とした鎌倉幕府御家人。父は小早川景平。.
小早川春平
小早川 春平(こばやかわ はるひら)は、南北朝時代から室町時代の武将。沼田小早川氏の当主。.
尼子氏
尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.
尼子晴久
尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。.
山名義理
山名 義理(やまな よしただ/よしまさ)は、南北朝時代の守護大名。美作国・紀伊国守護。.
山名氏
日本の氏族。幾つかの流れがある。.
山名政清
山名 政清(やまな まさきよ、生没年不詳)は、室町時代中期の武将、守護大名。石見・美作守護。山名教清の子。官位は兵部少輔。 長禄年間から石見・美作の守護を受け継ぎ、応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると宗家の当主山名宗全に従って西軍に所属して戦った。この際、美作を山名忠政に任せていたが後に忠政軍も京に上ったため、この隙に美作を赤松政則に奪われ、守護職も交代させられた。文明9年(1477年)の大乱終結時には石見も大内政弘に替えられたが、その後の消息は不明。.
山名教清
山名 教清(やまな のりきよ、生没年不詳)は、室町時代中期の武将、守護大名。石見・美作守護。山名義清(よしきよ)の子で、山名義理の孫に当たる。子に政清。官位は修理大夫、法名は浄勝。 元服時に室町幕府第6代将軍・足利義教より偏諱を受けて教清と名乗る。永享元年(1429年)から石見の守護に任じられていたが、永享9年(1437年)に同族の山名熙貴に交代させられた。嘉吉元年(1441年)に将軍・義教と熙貴が共に赤松満祐の部下の者に殺害されると(嘉吉の乱)、同族の山名持豊(宗全)・山名教之と共に満祐討伐軍に加わり、恩賞として満祐の領土美作と熙貴の領土石見を獲得した。以後の消息は不明で、子の政清が美作守護職を受け継いでいる。.
山名時義
山名 時義(やまな ときよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人・小侍所別当、美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護。応仁の乱で有名な山名宗全(持豊)は孫に当たる。.
山形藩
山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。.
山陽道
山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。 街道においては江戸時代を中心に、.
岡山市
岡山市(おかやまし)は、中国地方、岡山県の南東部に位置する市。政令指定都市および同県の県庁所在地である。.
岡山県
岡山県(おかやまけん)は、日本の都道府県のひとつ。中国地方南東部に位置し、瀬戸内海に面する県。県庁所在地は岡山市である。.
岩村藩
岩村藩(いわむらはん)は、美濃国(現在の岐阜県)の岩村城を拠点として美濃国と駿河国の一部を支配した藩。.
川之江藩
川之江藩(かわのえはん)は、江戸時代前期、伊予国に短期間存在していた藩。川之江村(現在の愛媛県四国中央市川之江)に陣屋を置いた。.
左岸
左岸(さがん).
上国
上国(じょうこく、じょうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
上房郡
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中山神社
中山神社(なかやまじんじゃ)は、岡山県津山市一宮にある神社。式内社(名神大社)、美作国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として「仲山大明神」や「南宮」とも。.
中国山地
中国山地(ちゅうごくさんち)は、日本の中国地方の脊梁をなす山地。また中国地方最高峰の大山やその外輪山の蒜山、および三瓶山は中国山地より北に外れて出来た独立峰の火山であり、これらは他の中国山地の山々とは生成過程が大きく異なる山であるが、国土地理院では中国山地中部と分類している。 東西に長く、東はおよそ市川・円山川(いずれも兵庫県)付近から、西は響灘海岸(山口県西岸)までの約500kmに及ぶ。氷ノ山(標高1,510m)を除くと高い山でも標高約1,300m~1,000m程度、その他はおおむね標高約500m~200m程度の比較的低い山で構成されている。全般的に風化しやすい花崗岩が多く、侵食を受けて小起伏の多い準平原地形を呈している。平地部は津山盆地や三次盆地などごくわずかな範囲に限られている。 中国山脈と呼ばれることもあるが、地質学的な山脈の定義には当てはまらない。 気候を分ける山地でもあり、北側は日本海側気候、南側は瀬戸内海式気候になっている。.
中津山藩
中津山藩(なかつやまはん)は、江戸時代に陸奥国に存在した藩。仙台藩の内分支藩。藩主は伊達村和1代のみであった。藩庁は桃生郡中津山所(現・宮城県石巻市)に置かれた。 本項においては、村和の直系子孫である仙台藩一門第九席・川崎伊達氏についても併せて記述する。 『桃生町史』では寺崎藩(てらさきはん)の名を採っている。これは藩庁・中津山所の縄張が中津山・寺崎の両村域に跨っており、その町場は気仙道の寺崎宿にあたることから、町場の名称を優先したものである。 なお、一部にこの藩の名称を水沢藩とするものがあるが、これは藩主・村和が立藩直前まで水沢伊達氏当主(当時の諱は顕孝→村任)であったために、水沢伊達氏領の俗称である「水沢藩」の名と、新規に立藩された正式な藩である「中津山(寺崎)藩」とを混同したものである。.
中津藩
中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。.
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.
七戸藩
七戸藩(しちのへはん)は、居所を七戸城(青森県上北郡七戸町)とする分知大名の創設を幕府に願って認められて以後の呼称である。別称 盛岡新田藩。.
万寿
万寿(まんじゅ、正字体:萬壽)は、日本の元号の一つ。治安の後、長元の前。1024年から1028年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.
三村家親
三村 家親(みむら いえちか)は、戦国時代の備中国の大名。備中松山城主。.
三村氏
三村氏(みむらし)は日本の氏族。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系である河内源氏の傍流・甲斐源氏小笠原氏の庶流にあたる太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第3巻』(角川書店、1934年)3907頁、5908頁参照。。.
三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.
三日月藩
三日月藩(みかづきはん)は播磨国佐用郡三日月(兵庫県佐用郡佐用町三日月)周辺を領した藩。藩庁は三日月陣屋。別名・乃井野藩(のいのはん)。.
下総国
下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
一宮
一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.
一宮 (津山市)
一宮(いちのみや)は岡山県津山市にある地名。郵便番号は708-0815。当地域の人口は360人(2010年1月1日現在。住民基本台帳、外国人登録台帳調査による。津山市調べ)。.
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一柳直家
一柳 直家(ひとつやなぎ なおいえ)は、江戸時代初期の大名。伊予川之江藩主、のち播磨小野藩初代藩主。.
平宗盛
平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は従一位行内大臣。通称は屋島大臣など。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平山城
平山城の例(丸亀城) 平山城(ひらやまじろ、ひらやまじょう)とは平野の中にある山、丘陵等に築城された城のことをいう。江戸時代の軍学者によって分類された、地形による城の分類法の一つである。同字で“ひらさんじろ”と読むものは、「丘城」のことである。.
平忠盛
平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。.
平範国
平 範国(たいら の のりくに、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。桓武平氏高棟王流、武蔵守・平行義の子。官位は正四位下・右衛門権佐。.
幕藩体制
幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。.
久米南条郡
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久米北条郡
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久米郡
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久米氏
久米氏(くめし)は、日本の氏族の一つ。.
久美浜県
旧久美浜縣庁舎・玄関棟(現:参考館) 久美浜県(くみはまけん)は、1868年(慶応4年)に丹後国、丹波国、但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は、当初は現在の京都府北部、兵庫県西部、岡山県東北部、のちに京都府北部に分布していた。.
康平
康平(こうへい)は、日本の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1064年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.
康和
康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.
二宮村 (岡山県)
二宮村(にのみやそん)は、岡山県苫田郡にあった村。 現在の津山市二宮に当たる。 ここでは現在の津山市二宮地区についても扱う。.
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広戸風
広戸風(ひろどかぜ)とは、岡山県北東部の津山盆地、津山市(旧勝北町)から奈義町付近でみられる北よりの局地風。日本三大局地風の一つとされている。この呼称は旧勝北町との合併前に存在した広戸村に由来する。 日本海からの北よりの風が鳥取県・千代川流域のV字谷で収束され、那岐山山系を越えて南麓に吹き降ろすことで発生する。2004年の台風23号では奈義町で最大瞬間風速51.8m/sを記録し、山林の大規模な倒木や家屋に大きな被害が出た。台風や発達した低気圧が紀伊半島の遥か沖合いを通過する時に、遠く離れた好天の当地で発生することもある。また広戸風の発生時には那岐山に風枕と呼ばれる雲が観測されることが多く、古くから発生の目安とされている。 この地域の集落では、北側に「戸背(コセまたはコゼ)」と呼ばれる防風林を植えて広戸風に備えている家屋が多数見られる。.
今治藩
今治藩(いまばりはん)は、伊予国北中部と島嶼を領有した藩。藩庁は今治城(現在の愛媛県今治市)。.
仁寿
仁寿(にんじゅ、正字体:仁壽)は、日本の元号の一つ。嘉祥の後、斉衡の前。851年から854年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇。.
令制国
北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.
令制国一覧
大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.
延宝
延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.
延久
延久(えんきゅう)は、日本の元号の一つ。治暦の後、承保の前。1069年から1073年までの期間を指す。この時代の天皇は後三条天皇、白河天皇。.
延喜
延喜(えんぎ)は、日本の元号の一つ。昌泰の後、延長の前。901年から923年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。 この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたが、のちにこれを延喜の治と呼ぶようになり、「天暦の治」とともに理想的な治世として賞賛されるようになった。.
延喜式神名帳
延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。.
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延暦
延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.
建部
建部(たけべ)は、岡山県岡山市北区の北端に位置する地域。域内は全大字が「建部町(たけべちょう)」を冠しており、2007年1月22日に岡山市と合併した御津郡建部町(たけべちょう)域に相当する。岡山県のほぼ中央にあたり、旧備前国と旧美作国にまたがる。本項では御津郡建部町についても述べる。.
建部町福渡
八幡温泉郷から福渡の町並みを望む 建部町福渡(たけべちょうふくわたり Takebe-Chō Fukuwatari)は、岡山県岡山市北区建部町の中央部に位置する大字である。旧久米郡福渡村福渡、久米郡福渡町福渡、御津郡建部町福渡。郵便番号は709-3111。 旭川の向かいは旧備前国であり、津山街道の渡し舟があったこと、岡山と津山の中間に位置することから、古くより「行こか岡山、戻ろか津山、ここが思案の深渡し」とうたわれた。なお、「福渡」の地名の由来は、「深渡し」が「福渡し」と訛り、後に「福を渡してしまってはならない」との判断から「福渡(ふくわたり)」と改称されたとされる。.
廃藩置県
廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.
仙台藩
仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.
伊達忠宗
伊達 忠宗(だて ただむね)は、江戸時代初期の陸奥仙台藩の第2代藩主。伊達政宗の次男で嫡男。母は田村清顕の娘・愛姫。初代伊予宇和島藩主伊達秀宗は異母兄。仙台藩の地位と基盤固めに務めて大いに功績を残したため、「守成の名君」と評された。.
伊達綱宗
伊達 綱宗(だて つなむね)は、陸奥仙台藩第3代藩主で、伊達氏第19代当主。第2代藩主・伊達忠宗の六男。母は側室・貝姫。.
伊達重村
伊達 重村(だて しげむら)は、仙台藩の第7代藩主。伊達氏宗家第23代当主。.
伊達村和
伊達 村和(だて むらより)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。はじめ陸奥国仙台藩一門第三席・水沢伊達氏5代(留守氏22代)当主。のち、新設された陸奥国中津山藩主となったが、僅か4年で改易された。.
伊達斉村
伊達 斉村(だて なりむら)は、陸奥仙台藩第8代藩主。伊達氏第24代当主。第7代藩主・伊達重村の次男。.
伯耆国
伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
弘仁
弘仁(こうにん)は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。.
弘治 (日本)
弘治(こうじ)は、日本の元号の一つ。天文の後、永禄の前。1555年から1558年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝。.
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佐用町
平福宿 佐用町(さようちょう)は、兵庫県の南西部に位置する町。西播磨県民局管轄区域。2005年(平成17年)10月1日、佐用郡の佐用町・上月町・南光町・三日月町が合併し、新たに佐用町(三代目)として発足した。本項では町制前の名称である佐用村(さよむら)についても述べる。 人口は県内41自治体中第36位、面積は県内第10位。 町づくりの合言葉は「ひと まち 自然がきらめく共生の郷 佐用」(佐用町総合計画より)。.
佐用郡
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作州絣
作州絣(さくしゅうがすり)は、美作国苫田郡・久米郡(岡山県津山市周辺)で製造されてきた絣。.
当理流
当理流(とうりりゅう)は、宮本無二助藤原一真が開いた兵法。 宮本無二助は、江戸時代初期より、剣豪の宮本武蔵の父・新免無二と同一人物とされる。残された目録等から細川氏家臣に弟子が多かったと考えられている。目録の内容より、一刀剣法、二刀剣法(二刀流)、實手術(十手術)、小太刀術、手裏剣術等を伝える総合武術であったと考えられている。また、伝承から無二助は竹内流を学んでいたと思われ、無双流捕手術等の開祖となっている。また、荒木流開祖の荒木無人斎の師・藤原勝真は無二助であるという説がある。 宮本無二助と新免無二が同一人物とする説を支持する者は、宮本武蔵は父より当理流を学び、それを基礎に円明流を創流、晩年さらに二天一流を創流したと考えている。.
御家人
御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.
忍藩
忍藩(おしはん)は、武蔵国埼玉郡に存在した藩の一つ。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸)に置かれた。.
保延
保延(ほうえん)は、日本の元号の一つ。長承の後、永治の前。1135年から1141年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.
信濃飯田藩
飯田藩(いいだはん、信濃飯田藩)は、信濃国伊那郡南部(現在の長野県飯田市追手町)に存在した藩。藩庁は飯田城に置かれた。.
応和
応和(おうわ)は、日本の元号の一つ。天徳の後、康保の前。961年から964年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇。.
土浦藩
土浦藩(つちうらはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城(現在の茨城県土浦市)。.
北区 (岡山市)
北区(きたく)は、岡山県岡山市にある行政区。同市の政令指定都市移行に伴い、2009年(平成21年)4月1日に設置された4つの行政区のうちの一つ。同市の市役所、および岡山県庁所在区。同市中心市街を含む北西部を占め、面積・人口・人口増加率とも4区のうちで最大である。また区域は備前国域を中心に、備中国・美作国の三国に渡っている。.
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北条県
北条県(ほくじょうけん)は、1871年(明治4年)に美作国を管轄するために設置された県である。現在の岡山県東北部を占める。.
北条氏
北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.
北房町
北房町(ほくぼうちょう)は、岡山県北部(上房郡)にあった町。現在は合併により真庭市となっており、旧町役場は真庭市役所北房支局となっている。.
和名類聚抄
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.
和田義盛
和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。初代侍所別当。 三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。.
和銅
和銅(わどう)は、日本の元号のひとつで慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。.
備中国
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
備後福山藩
福山城再建天守 正保城絵図「備後国福山城図」 福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城(福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。.
備前国
備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
円明流
円明流(えんみょうりゅう・えんめいりゅう)は宮本武蔵玄信が二天一流創始以前に開いた武術流派。二天一流と異なり投剣(脇差や短刀を投げる手裏剣術)などの剣術以外の武術も多岐に含んでいた。 幕末まで、尾張藩、岡崎藩、龍野藩などで伝えられた。 鳥取藩で伝承された武蔵円明流と、本項の円明流とは技法や形が大きく異なっていたことが、伝書等の比較で判明している。.
元禄
元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
兵庫県
兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.
勝南郡
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勝山藩
勝山藩(かつやまはん).
勝北郡
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勝田郡
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因幡国
因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
国府
国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。 国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった。なお『和名抄』によると、古くは「国」ではなく「島」とされた壱岐や対馬には「島府」が置かれたとされる(まだ確定はされていない)。 律令制の衰退にともない立地の優位性を失い廃れたり所在不明になった国府もある一方、いくつかの国府所在地は、現在でも静岡市・姫路市・岡山市・大分市など大きな都市として発展している。.
倉敷県
倉敷県(くらしきけん)は、1868年(慶応4年)に美作国、備中国、備後国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は何度か変遷しているが、現在の岡山県、広島県、香川県に広く分布している。.
倉敷支配所
倉敷支配所(くらしきしはいしょ、くらしきしはいじょ)は、江戸時代の日本における領地の一つである。江戸幕府直轄領(天領)のうち、備中国窪屋郡倉敷村(現在の岡山県倉敷市中心部)に置かれた倉敷代官所(くらしきだいかんしょ、くらしきだいかんじょ)に着任した倉敷代官が管轄した領地である。.
石川名足
石川 名足(いしかわ の なたり、神亀5年(728年) - 延暦7年6月10日(788年7月17日))は、奈良時代の公卿。御史大夫・石川年足の子。子に石川真守がある。官位は従三位・中納言。.
石見国
石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
神王
王(みわおう、天平9年(737年) - 延暦25年4月24日(806年5月15日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。二品・志貴皇子の孫。榎井王の子。官位は従二位・右大臣、贈正二位。吉野大臣と号した。.
神護景雲
護景雲(じんごけいうん)は、日本の元号の一つ。天平神護の後、宝亀の前。767年から770年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。 この年号以後、四文字元号が使われたことはない。四文字元号の中では唯一「天平」の文字が入らないが、天平神護から「神護」の名称を引き継いでおり、この年号までがいわゆる『天平文化』の範疇である。.
福岡藩
福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。 福岡藩領域図(慶長期).
竹内畝流
竹内畝流(たけのうちうねりゅう)とは、竹内流開祖・竹内久盛の長男である竹内久治が開いた武術流派(竹内流第2代・竹内久勝を開祖とする伝承もあり)。竹内新流とも呼ばれる.
竹内流
竹内流(たけのうちりゅう)、正式名称「竹内流捕手腰廻小具足(たけのうちりゅうとりてこしのまわりこぐそく)」は、日本武術の流派。歴史を遡る事が出来る最古の日本柔術の流派と言われている。捕手と腰之廻小具足を中心に成立し、捕手術、羽手、小具足、捕縄術、棒術、剣術、居合、十手、薙刀などの総合的な技術を今に伝える。 日本古武道協会では「竹内流柔術腰廻小具足」という名称で登録しているが、1500年代に成立した竹内流は柔術という語は用いない柔術という語は1600年代に成立した関口新心流が使い始めた言葉であり、それ以前に成立した古い流派は、和、俰などを用いていた。竹内流では柔術の事を羽手という。。.
紀飯麻呂
紀 飯麻呂(き の いいまろ、持統天皇4年(690年)頃 - 天平宝字6年7月19日(762年8月13日))は、奈良時代の公卿。御史大夫・紀大人の孫で、式部大輔・紀古麻呂の長男。官位は従三位・参議。勲位は勲十二等。.
続日本紀
『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.
総社
備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.
美作市
美作市(みまさかし)は、岡山県の北東部に位置し、兵庫県および鳥取県と境を接する市である。また、県内の市の中で最も人口が少ない。.
美作三浦氏
美作三浦氏(みまさかのみうらし)は、美作国に栄えた武家一つ。本姓は平氏。家系は坂東八平氏のひとつ三浦氏の庶流で杉本氏の流れを汲む。鎌倉幕府有力御家人三浦義澄の弟佐原義連の血筋で義連-横須賀時連 - 杉本宗明と続き、宗明の次男の三浦貞宗が14世紀初頭に高田城を築城したのが始まりであると言われている。 戦国時代に入ると、三浦氏は滅亡と復興を繰り返す戦国大名となる。まず、出雲の尼子晴久の侵攻をたびたび受けたが、三浦貞久はこれを何度も撃退していた。これに対して晴久は、三浦一族である大河原氏に養子入りしていた三浦貞尚と縁戚関係を結び等して、三浦氏を支配下に置いていき1548年には、貞久が病死したと共に所領安堵を通じてこれを支配下に置いた。貞久の子・三浦貞勝は旧臣をかき集めて高田城の奪回に成功し、三浦氏を再興したとされるがこれを示す当時の文書は殆どない所か、記されているのは一部のみでありそれも後年編纂されたものである。 尼子氏滅亡後、貞勝の弟・三浦貞広と貞久の弟・三浦貞盛が、三村家親の死に乗じて高田城を奪回し、三浦氏を再興する。しかし尼子の残党であった山中幸盛と手を結んだため、毛利元就の侵攻を受けて滅亡する。しかし貞広の執念は凄まじく、1570年に再び高田城を奪回して三浦氏を再興する。だが、再び毛利氏の侵攻を受けて遂に滅亡した。 美作の支配権は天文から永禄にかけて尼子氏がほぼ握っており、尼子氏滅亡から尼子再興にかけて尼子寄りの姿勢を崩すことは無かったので、実質的な支配下にあった豪族と言っても過言ではない。.
美作後藤氏
美作後藤氏(みまさかごとうし)は、美作国の戦国大名。利仁流の播磨後藤氏の系統という。ただし家系図は同じ魚名流の一派である秀郷流の末裔となっている。.
美作勝山藩
勝山藩(かつやまはん)は、美作国真島郡勝山(岡山県真庭市勝山)に拠点を置いた藩。藩庁は勝山城に置かれた。高田藩(たかだはん、たかたはん)、美作高田藩(みまさか たかだはん、みまさか たかたはん)とも称される。藩主家は三浦氏。.
美作国の式内社一覧
美作国の式内社一覧(みまさかのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、美作国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.
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美作国分寺
美作国分寺(みまさかこくぶんじ)は、岡山県津山市にある天台宗の寺院。山号は龍壽山。本尊は薬師如来。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、美作国国分寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である美作国分寺跡(国の史跡)・美作国分尼寺跡についても解説する。.
美作総社宮
美作総社宮(みまさかそうじゃぐう)は、岡山県津山市にある神社。正式名称は総社。美作国総社で、旧社格は県社。.
美作町
美作町(みまさかちょう)は、岡山県の北東部に位置した町である。現在は合併により美作市となり、市役所本庁はここに置かれている。.
美咲町
美咲町(みさきちょう)は、岡山県の中央部に位置する町。.
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
真岡藩
真岡藩(もおかはん)は、下野芳賀郡真岡郷(現在の栃木県真岡市)に存在した藩。.
真島郡
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真庭市
湯原温泉の老舗旅館「油屋」 真庭市(まにわし)は、岡山県の北中部に位置し鳥取県と境を接する市で、面積は県下自治体の中で最大である。.
真庭郡
岡山県真庭郡の位置(緑:新庄村 薄黄・後に他郡に編入された区域) 真庭郡(まにわぐん)は、1900年に成立した岡山県の郡。日本の郡で最も人口が少ない。 以下の1村を含む。.
烏山藩
烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市城山)に存在した藩。藩庁は烏山城に置かれた。また、大久保家が藩主となった享保年間以降は相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。.
生野奉行
生野奉行(いくのぶぎょう)は、織田信長、豊臣秀吉および江戸幕府により置かれ、生野銀山を管理した。1716年(享保元年)、生野銀山の産出量減少のため、生野代官(いくのだいかん)に組織変更された。 奉行所・代官所は、現在の兵庫県朝来市生野町口銀谷の生野小学校付近にあった。 江戸時代の生野奉行は11代、代官に改組後は28人が勤めた。代官には旗本が任命され、生野銀山の後背地となっていた但馬国、播磨国、美作国の天領も統治した。なお、統治規模は但馬国最大の藩である出石藩よりも大きく、江戸時代初期は5万2千石、江戸時代末期には8万2千石に達していた。 江戸時代後期の1863年(文久3年)10月には生野の変での挙兵によって代官所が占領されてしまっている。生野の変は、天誅組の変とともに明治維新の導火線となったと評価されている。 明治維新後の生野代官所支配地は、府中裁判所、久美浜県、生野県となった後、豊岡県、姫路県、北条県に分割・編入された。現在は、兵庫県および岡山県の一部となっている。.
生野県
生野県(いくのけん)は、1869年(明治2年)に但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の兵庫県北部、岡山県北東部に分布していた。本項では前身である府中裁判所についても記す。.
瀬戸内海
戸内海(せとないかい)は、本州、四国、九州に挟まれた内海。山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、徳島県、香川県、愛媛県、大分県、福岡県がそれぞれ海岸線を持つ。沿岸地域を含めて瀬戸内(せとうち)とも呼ばれている(ただし瀬戸内海の名称源ではない。瀬戸内海は「瀬戸の内海」の意である)。 古来、畿内と九州を結ぶ航路として栄えた。気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖で雨量が少ない。.
白河藩
白河藩(しらかわはん)は、江戸時代に陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した藩。藩庁は白河城。支藩として、一時期存在した白河新田藩がある。.
百済王南典
済王 南典(くだらのこにきし なんてん)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。贈外小紫・百済王昌成の子栗原信充考訂『百済王三松氏系図』。.
鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
鏡野町
旧・鏡野町 鏡野町(かがみのちょう)は、岡山県の北中部に位置し、鳥取県と境を接する町。.
菅原氏
菅原氏(すがわらうじ)は、「菅原」を氏の名とする氏族。.
青木重龍
青木 重龍(あおき しげたつ)は、江戸時代後期の大名。摂津国麻田藩の第11代藩主。.
預地
地(あずかりち / あずけち)とは、他者から預かって管理を委託された土地のこと。.
飛地
飛地(とびち、飛び地)とは、一つの国の領土や行政区画、町会等の内、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。 オエクシ)が飛地にあたる。.
養老
養老(ようろう)は、日本の元号。霊亀の後、神亀の前。717年から724年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。.
西北条郡
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西西条郡
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西苫田村
西苫田村(にしとまだそん)は、岡山県苫田郡にあった村。 現在の津山市小田中、小原、上河原、北園町、総社、山北に当たる。 ここでは現在の津山市西苫田地区についても扱う。.
角川日本地名大辞典
『角川日本地名大辞典』(かどかわにほんちめいだいじてん)は、角川書店の出版による日本の地名辞典である。 著者は「角川日本地名大辞典」編纂委員会で、委員長を務めた竹内理三は本書を制作する目的として「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている(それぞれ本書冒頭の「編纂のことば」より引用)。.
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高瀬舟
舟(たかせぶね)とはかつて日本各地で使用されていた小型船である。.
高階為家
階 為家(たかしな の ためいえ)は、平安時代後期の貴族。正三位・高階成章の子。官位は正四位下、備中守。白河上皇の近臣としてだけでなく、関白藤原師実の家司としても仕えた。.
高野神社 (津山市二宮)
野神社(たかのじんじゃ)は、岡山県津山市にある神社。式内社論社、美作国二宮で、旧社格は県社。.
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貞観 (日本)
貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.
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賀茂吉備麻呂
賀茂 吉備麻呂(かも の きびまろ、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。氏は鴨とも記される。姓は朝臣。贈直広参・鴨蝦夷の子とする系図がある鈴木真年『百家系図』巻55,賀茂朝臣。官位は従四位下・播磨守。.
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越境合併
越境合併(えっきょうがっぺい)とは市町村合併の内、都道府県の境界にわたる市町村の合併で越県合併または県境合併ともいう。.
越前松平家
越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.
越智松平家
越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の一支系で、親藩・御家門のひとつ。 江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟である松平清武を家祖とし、上野国館林藩、のち石見国浜田藩の藩主家として続いた。通字は「武」(たけ)。.
足利氏
足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.
麻田藩
麻田藩(あさだはん)は、江戸時代、摂津国豊島郡・川辺郡などを領有した藩。藩庁は豊島郡麻田村(現在の大阪府豊中市蛍池)の麻田陣屋。藩主は外様大名の青木氏。初代藩主は青木一重。表高は元和元年(1615年)の立藩時には1万2千石で、元和3年(1617年)の分知後は1万石である。.
黒羽藩
黒羽藩(くろばねはん)は、下野国那須郡に存在した藩の一つ。藩庁は黒羽陣屋(現在の栃木県大田原市前田)に置かれた。.
黒田一成
黒田 一成(くろだ かずしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。黒田氏の家臣。黒田二十四騎や黒田八虎の一人。三奈木黒田家の初代当主。.
龍野藩
龍野藩(たつのはん)は、播磨国龍野周辺を領有した藩。藩庁は龍野城(現兵庫県たつの市)に置かれた。.
近国
近国(きんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 律令制のもとで国家体制を整えていた古代の日本において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「近い位置にある国」が近国とされた(畿内の国は分類されない)。.
郡衙
郡衙(ぐんが)は、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所である。国府や駅とともに地方における官衙施設で、郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ)とも表記され、考古学では郡衙、史料上(歴史学)では郡家と表記される傾向がある。.
阿倍帯麻呂
阿倍 帯麻呂(あべ の おびまろ)は、奈良時代前期の貴族。名は意比麻呂とも記される。中務大輔・阿倍船守の子。仲麻呂は長兄。官位は従五位上・美作守。.
阿部正静
阿部 正静(あべ まさきよ)は、江戸時代末期(幕末)の大名。陸奥白河藩の第8代藩主、陸奥棚倉藩の藩主。忠秋系阿部家16代。第7代白河藩主・阿部正外の長男。 元治元年(1864年)3月4日、3000石の旗本出身の父が本家の白河藩主阿部正耆の急死で白河藩主(10万石)の座を継承したことに伴い、正静は父が保持していた旗本の家督を継いだ。しかし翌慶応元年(1865年)10月に父が兵庫開港要求事件により朝廷・江戸幕府から謹慎処分にされた上、慶応2年(1866年)6月19日に父が強制隠居処分となったため跡を継いだが、同日に棚倉藩への転封を命じられ、財政逼塞、家臣団を迎える屋敷が手狭など理由をつけて幕府に延期を願い出た。 やがて慶応3年(1867年)1月に正静は棚倉藩へ移封したが、交代で白河藩主になるはずだった棚倉藩主松平康英の移転先が変更、康英は武蔵川越藩へ転封、白河藩は天領とされ幕府の小名浜代官の支配となり、同年8月に白河城が幕府の役人へ引き渡された。翌慶応4年(明治元年、1868年)2月に阿部家に幕府から白河再封の命令が下ったが、3月に中止となり実行されず、白河は領主不在のままとなる一方で白河城は二本松藩(後に会津藩)の管理下に置かれた。 同年から始まった戊辰戦争では、消極的な立場から奥羽越列藩同盟に参加していたが、5月1日に白河口の戦いで新政府軍に敗れ家老の阿部内膳が戦死、6月24日に父が守備していた棚倉城も板垣退助率いる官軍により陥落すると逃亡、9月18日に分領の保原陣屋で降伏する。12月、新政府より同盟に参加した罪を問われて、4万石削減の6万石となった上、家督を義理の叔父・正功(正耆の実子)に譲って東京へ強制隠居処分に処せられた。明治11年(1878年)1月23日、東京で死去した。享年28。 実子に喜久(1866年 - 1887年)、信一郎(1868年 - 1871年)がいたが、いずれも早世している。.
阿部正識
阿部 正識(あべ まさつね)は、江戸時代中期の武蔵忍藩主。忠秋系阿部家7代。 明和元年(1764年)11月28日、阿部正敏の長男として生まれる。天明2年(1782年)12月18日に将軍徳川家治に初めて御目見し、従五位下美作守に叙任された。当初、父正敏は養嗣子の正陳を世継ぎとしていた。しかし、正陳が早世してしまったので正識が嫡子となった。天明7年(1787年)5月26日、家督を相続する。同年6月15日、豊後守に改任。しかし病弱だったため、幕府の役職に就くこともなく、寛政8年(1796年)2月21日、33歳で隠居し、紀州藩から養子・正由を迎えた。 享和3年(1803年)死去。享年40。絵画や書に長けていた。.
阿部正武
阿部 正武(あべ まさたけ)は、江戸時代前期の大名、老中。武蔵忍藩主。忠秋系阿部家3代。阿部正能の長男。.
阿波村 (岡山県)
阿波村(あばそん)は、岡山県の北部(苫田郡)に位置し鳥取県と境を接していた村である。現在は津山市に編入され津山市阿波地区となり、村役場は津山市役所阿波支所となっている。新しい情報については、津山市阿波地区の項目を参照。.
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赤穂藩
赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.
赤松義則
赤松 義則(あかまつ よしのり)は、室町時代前期の守護大名。赤松則祐の嫡男で、赤松満祐の父。.
赤松義村
赤松 義村(あかまつ よしむら)は戦国時代前期(室町時代後期)の播磨の守護大名・戦国大名。赤松家の第10代当主(当主在職:明応4年(1496年)4月 - 永正17年(1520年))。 播磨・備前・美作の3国を支配した戦国大名で、赤松家中興の第9代当主・赤松政則の婿養子に当たる。義村の家系は第5代当主・範資から始まる七条家の家系で、義村は範資の6代孫に当たる。父は七条政資(まさすけ)で、以後の赤松宗家は江戸時代直前に滅亡するまで義村の家系が家督を相続した。 義村は政則の代から行われていた赤松家の戦国大名化をさらに推し進めるべく大名権力の強化を図ったが、守護代の浦上村宗がそれに反発して対立。播磨など赤松領で内紛となる。義村は村宗に敗れ、家督を嫡子の才松丸(のちの晴政)に譲って隠居したが、復権を図って再度村宗と対立したため、村宗により暗殺されて赤松家は没落した。.
赤松貞範
赤松 貞範(あかまつ さだのり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美作国守護。.
赤松氏
赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.
赤松満祐
赤松 満祐(あかまつ みつすけ/まんゆう)は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。.
赤松持貞
赤松 持貞(あかまつ もちさだ)は、室町時代前期の武士。赤松氏庶流・春日部家3代当主。足利将軍家の近習。.
赤松政則
赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。.
赤松晴政
赤松 晴政(あかまつ はるまさ)は、日本の戦国時代の武将、大名。赤松氏の第11代当主。赤松義村の子。播磨・備前・美作の守護。播磨置塩城城主。 幼名は才松丸。通称は次郎。初名は政村(まさむら)、次いで政祐(まさすけ)と改名。本項目では便宜上「晴政」で統一表記する。従五位下左京大夫。生年には明応4年(1495年)説もある。.
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.
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藤原実綱
藤原 実綱(ふじわら の さねつな)は平安時代中期から後期にかけての貴族、歌人、漢詩人。従三位・藤原資業の次男。官位は正四位下・式部大輔。別称、日野実綱。正字体:實綱。.
藤原乙縄
藤原 乙縄(ふじわら の おとただ、生年不詳 - 天応元年6月6日(781年7月1日))は、奈良時代の公卿。名は弟縄とも記される。藤原南家、右大臣・藤原豊成の三男。官位は従四位上・参議。.
藤原乙麻呂
藤原 乙麻呂(ふじわら の おとまろ)は、奈良時代の公卿。名は乙万呂・弟麻呂とも記される。藤原南家の祖、左大臣・藤原武智麻呂の三男。官位は従三位・武部卿。.
藤原佐理
藤原 佐理(ふじわら の すけまさ/さり)は、平安時代中期の公卿・能書家。太政大臣・藤原実頼の孫。左近衛少将・藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書で有名。.
藤原俊成
藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市) 愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある蒲郡市ホームページ(http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/shunzei.html)久曽神昇「特別展『藤原俊成の古典』に寄せて」(蒲郡市博物館『特別展 藤原俊成の古典』、1991年 p.62-64) 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。.
藤原種継
藤原 種継(ふじわら の たねつぐ)は、奈良時代末期の公卿。藤原式家、参議・藤原宇合の孫。無位・藤原清成の長男。官位は正三位・中納言、贈正一位・太政大臣。.
藤原真夏
藤原 真夏(ふじわら の まなつ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。右大臣・藤原内麻呂の長男。官位は従三位・参議。.
藤原行道
藤原 行道(ふじわら の ゆきみち)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の孫。従五位上・藤原城主の長男。官位は正五位下・美作守。.
藤原行成
藤原 行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)は、平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言(「寛弘の四納言」)の一。世尊寺家の祖。 当代の能書家として三蹟の一人に数えられ、その書は後世「権蹟」(ごんせき)と称された。書道世尊寺流の祖。.
藤原顕季
藤原 顕季(ふじわら の あきすえ) は、平安時代後期の貴族・歌人。藤原北家魚名流、正四位下美濃守・藤原隆経の次男。官位は正三位・修理大夫。六条修理大夫と号した。歌道家の流派の一つ六条藤家の祖。善勝寺流初代。.
藤原顕家 (小野宮流)
藤原顕家(ふじわら の あきいえ)は、日本の平安時代の公卿。.
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藤原資平
藤原 資平(ふじわら の すけひら)は、平安時代中期の公卿。藤原懐平の次男。.
藤原資頼
藤原 資頼(ふじわら の すけより)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家大炊御門流、参議・藤原頼定の子。官位は従三位・皇太后宮権大夫。.
藤原重家 (左近衛少将)
藤原 重家(ふじわら の しげいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原北家兼通流、左大臣・藤原顕光の長男。官位は従四位下・左近衛少将。容姿に優れ光少将と謳われた。.
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藤原長房
藤原長房(ふじわら の ながふさ)は、日本の平安時代の公卿。.
藤原通季
藤原 通季(ふじわら の みちすえ)は平安時代後期の公卿。正三位権中納言。大宮と号す。権大納言藤原公実の子。西園寺家の祖で、西園寺通季と表記する場合もある。.
藤原通任
藤原 通任(ふじわら の みちとう)は、平安時代中期の公卿。藤原北家小一条流、大納言・藤原済時の子。官位は正三位・権中納言。.
藤原氏宗
藤原 氏宗(ふじわら の うじむね)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、中納言・藤原葛野麻呂の子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。.
藤原文範
藤原 文範(ふじわら の ふみのり)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、参議・藤原元名の次男。官位は従二位・中納言。.
藤原斉信
藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、太政大臣・藤原為光の次男。官位は正二位・大納言。四納言の一人。.
藤原懐平
藤原 懐平(ふじわら の かねひら)は、平安時代中期の公卿。参議・藤原斉敏の三男。.
藩庁
藩庁(はんちょう)とは、江戸時代の幕藩体制から明治初期の府藩県制にかけての、藩の役所を表す用語。語としては県の「県庁」等にあたる。 江戸時代の藩政の拠点のことを、明治時代以降に当てた用語である。類義語に藩府(はんぷ)があるが、この語は、江戸時代に藩が江戸に置いた役所をさすことがある。また、明治時代の府藩県三治制下で地方行政の区画として設置された、藩の知藩事が政務を行う役所のこと。 江戸時代の藩の藩庁は、大名の居城や居所のことで、城や屋敷に設置して大名が支配する領内の行政業務を執り行う。城持大名以上の藩は城に、城主格以下の城主格と無城大名の藩は城を構えることが許されなかったことから、領内に屋敷を置いて藩庁とした。こうした無城大名の屋敷のことを俗に陣屋というが、江戸時代では居所や在所と称した。なかには、藩庁を設けない藩もあった。藩庁を中心に栄えた町を陣屋町といい、城の場合は城下町と呼ばれた。.
蒜山
蒜山(ひるぜん)は、岡山県の真庭市北部と鳥取県の倉吉市南部に跨って位置する火山である。.
蒜山高原
蒜山高原(ひるぜんこうげん)は、岡山県真庭市北部の蒜山地方に位置する高原である。.
蔵王堂藩
蔵王堂藩(ざおうどうはん)は、越後国古志郡(現在の新潟県長岡市)に江戸時代前期に存在した外様大名の藩。藩庁は蔵王堂城(長岡市西蔵王)。.
長寛
長寛(ちょうかん)は、日本の元号の一つ。応保の後、永万の前。1163年から1164年までの期間を指す。この時代の天皇は二条天皇。.
長州征討
長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。 特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。.
長徳
長徳(ちょうとく)は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.
長保
長保(ちょうほう)は、日本の元号の一つ。長徳の後、寛弘の前。999年から1003年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.
長元
長元(ちょうげん)は、日本の元号の一つ。万寿の後、長暦の前。1028年から1036年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇、後朱雀天皇。.
長暦
長暦(ちょうりゃく)は、日本の元号の一つ。長元の後、長久の前。1037年から1040年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇。.
良岑安世
良岑 安世(よしみね の やすよ)は、平安時代初期の皇族・貴族。桓武天皇の皇子。官位は正三位・大納言、贈従二位。.
良岑清風
良岑 清風(よしみね の きよかぜ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。姓は朝臣。桓武天皇の皇子である大納言・良岑安世の三男。官位は従四位下・近江権守。.
色葉字類抄
色葉字類抄(いろはじるいしょう)は、平安時代末期に成立した古辞書。橘忠兼編。三巻本のほか二巻本の系統もあり、また十巻本『伊呂波字類抄』もある。.
苫田郡
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苫西郡
苫西郡(とまにしぐん、とまにしのこおり)は美作国にあった郡。.
苫東郡
苫東郡(とまひがしぐん、とまひがしのこおり)は美作国にあった郡。.
英田郡
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老中
老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.
院庄
院庄(いんのしょう)は岡山県津山市にある地名。郵便番号は708-0014。当地域の人口は1941人(2010年1月1日現在。住民基本台帳、外国人登録台帳調査による。津山市調べ)。.
林秀貞
林 秀貞(はやし ひでさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は新五郎、壮年期以降は佐渡守の受領名を名乗る。父に林通安(八郎左衛門)、弟に林通具(美作守)、子(あるいは娘婿)に林通政(新次郎)・林一吉がいる。 長年「通勝(みちかつ)」と伝えられてきたが、正しくは秀貞であり(『言継卿記』等)、松永久秀の家臣の林通勝と混同されたと考えられている。.
林通具
林 通具(はやし みちとも、永正13年(1516年) - 弘治2年8月24日(1556年9月27日))は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。林通安の子。兄に林秀貞。『信長公記』には通称の美作守のみで、実名の記載はない。蓬左文庫蔵の「林八郎左衛門系図」では、先祖の美作守の名を「通具」としている。.
東南条郡
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東作誌
東作誌(とうさくし)とは、正木輝雄が調査、著述、編集を行った美作国東部の地誌。『作陽誌』が扱わなかった東部六郡を扱う。.
東北条郡
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松平定基
松平 定基(まつだいら さだもと)は、伊予今治藩の第4代藩主。定房系久松松平家4代。.
松平定房
松平 定房(まつだいら さだふさ)は、江戸時代前期の大名。伊予今治藩初代藩主。定房系久松松平家初代。.
松平定時
松平 定時(まつだいら さだとき、寛永12年11月1日(1635年12月10日) - 延宝4年8月19日(1676年9月26日))は、伊予今治藩の第2代藩主。定房系久松松平家2代。 初代藩主・松平定房の次男。母は内藤政長の娘。子に松平定直(長男)、松平定陳(次男)、松平定昌(三男)。官位は従五位下、美作守。幼名は長松、長松丸。 寛文10年(1670年)に兄の定経が早世したため、同年8月に世子となる。延宝2年(1674年)6月26日、父の隠居で跡を継ぐ。文武を奨励するなどしたが、延宝4年(1676年)8月19日に父の後を追うように死去した。享年42。跡を次男の定陳が継いだ。墓所は東京都江東区白河の霊巌寺。 さたとき Category:親藩 久02 Category:1635年生 Category:1676年没.
松平乗紀
松平 乗紀(まつだいら のりただ)は、信濃小諸藩の第2代藩主、後に美濃岩村藩の初代藩主。岩村藩大給松平家2代。.
松平乗薀
松平 乗薀(まつだいら のりもり)は、美濃岩村藩の第3代藩主。岩村藩大給松平家4代。.
松平乗政
松平 乗政(まつだいら のりまさ)は、常陸小張藩主、後に信濃小諸藩の初代藩主。岩村藩大給松平家初代。祖母が石川康通の娘であったことから石川 乗政(いしかわ のりまさ)とも言われる。.
松平直きよ
松平 直暠(まつだいら なおきよ)は、出雲母里藩の第6代藩主。直政系越前松平家母里藩分家6代。 安永5年(1776年)12月12日、播磨明石藩主・松平直泰の四男として生まれる。寛政3年(1791年)4月16日、母里藩の第5代藩主・松平直行の婿養子として迎えられ、寛政4年(1792年)10月27日の直行の隠居により家督を継ぐ。 寛政8年(1796年)7月27日に死去した。享年21。跡を実弟で養子の直方が継いだ。 *06 なおきよ なおきよ Category:1777年生 Category:1796年没.
松平直丘
松平 直丘(まつだいら なおたか、寛文5年6月26日(1665年8月7日) - 正徳2年12月27日(1713年1月23日))は、江戸時代前期から中期の大名。出雲母里藩の第2代藩主。直政系越前松平家母里藩分家2代。 松江藩主・松平直政の四男。母は側室の篠塚氏。正室は熊本新田藩主・細川利重の養女(細川綱利の娘)、継室は水戸支流額田藩主・松平頼元の娘。子に初(久松松平定基正室)、娘(京極高通正室)、娘(竹谷松平守信(もりのぶ)正室)。官位は従五位下、美作守。通称は頼母(たのも)、諱(実名)には直丘のほか、直高(読み同じ)、直能(なおよし)など様々な名が伝わっている。 延宝元年(1673年)、兄の隆政の死後、その相続が認められて藩主となった。その後、大番頭・御側衆となっている。男子がいたが早世していたため、新庄直詮の次男・直員を養嗣子として迎えた(以降、直員とその長男・直道、次男・直行と、越前松平家出身でない当主が続いたが、その後に直良系の松平直暠・直方兄弟が養子入りしている)。 正徳2年(1712年)12月27日に死去した。享年48。法号は法性院。 なおたか *02 Category:1665年生 Category:1713年没.
松江藩
藩庁松江城 松江藩(まつえはん)は、出雲1国または隠岐国を加えた2国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。.
梶原景時
梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。.
棚倉藩
棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。.
森忠典
森 忠典(もり ただつね)は、播磨赤穂藩の第11代藩主。赤穂藩森家18代。 弘化4年(1847年)12月23日、第10代藩主・森忠徳の次男として生まれる。万治元年(1860年)12月16日、従五位下・美作守に叙位・任官する。文久2年(1862年)1月21日、父の隠居により家督を継ぐ。12月9日には保守派で権勢を振るっていた森主税と村上真輔が攘夷派の下級藩士によって暗殺され、その後は森続之丞が若年の忠典に代わって藩政を執ったが、このために赤穂藩は尊王派・佐幕派で分裂して藩論がまとまらずに混乱した。 元治元年(1864年)の第1次長州征伐、慶応2年(1866年)に第2次長州征伐では幕府方として大坂警備を務めた。 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れた後の1月12日に新政府に与した。直後の3月19日に家督を同母弟で養子の忠儀に家督を譲って隠居した。明治16年(1883年)7月8日に死去した。享年37。 たたつね 森12 Category:幕末の大名 Category:1848年生 Category:1883年没.
森忠敬
森 忠敬(もり ただよし)は、播磨赤穂藩の第9代藩主。赤穂藩森家15代。 寛政6年(1794年)6月20日、第7代藩主・森忠賛の十男として生まれる。文化4年(1807年)に兄で第8代藩主の忠哲が死去したため、その養子として家督を継いだ。文化5年(1808年)8月15日に第11代将軍・徳川家斉と拝謁し、12月16日に従五位下・美作守に叙位・任官する。 文政面では、兄の忠哲が先代の事績を明らかにすべく編集していた『森家先代実録』の制作を引き継ぎ、儒学者の村上中所の監修で制作を進め、文化6年(1809年)に28巻からなる『実録』を完成させた。また忠敬は、さらに補遺の作成を命じ、文化8年(1811年)に補遺2巻も完成した。全30巻からなるこの『実録』は、戦国時代からの森家の事績を仔細に調べ上げており、現在に至っても森家のことを調べる上で重要な書となっている。 藩政においては、文化8年(1811年)と文化14年(1817年)に塩田開発を積極的に行い、塩問屋との関係強化に努めて藩財政再建を目指した。また、藩校の博文館をさらに拡張した。文化10年(1813年)に越中守に遷任し、後に肥後守に遷任する。文政7年(1824年)6月8日(異説として6月4日)に死去した。享年31。 森家譜によると、跡を長男・忠貫が継いでいる。ただし忠貫は早世したため、三男・忠徳が替え玉(表向き同一人物)として擁立され、忠貫は歴代藩主に数えられていない。 たたよし 森09 Category:1794年生 Category:1824年没.
森氏
森氏(もりし)は清和源氏の一流、河内源氏の流れを汲む武家である。八幡太郎源義家の七男源義隆が相模国愛甲郡毛利庄の領主となって、森冠者と名乗った。その三男、源頼隆は後に若槻を号するが、出家の後は森蔵人入道西阿と称した。本格的に森を名字としたのは、宝治合戦後に頼隆の次男であるとされる森頼定が森姓を称したことによるとされる。遠祖陸奥七郎義隆の長男・義広(頼定の伯父)にはじまる源姓毛利氏とは、名字に多少の差異はあるものの、「名字の地」即ち名字発祥の地を同じくするされる。森忠政を祖とする近世大名の家系はこの子孫である(ただし、仮冒という説もある)。.
橘好古
橘 好古(たちばな の よしふる)は平安時代中期の公卿、漢詩人。参議・橘広相の孫で、右京大夫・橘公材の長男。官位は従三位・大納言。.
正暦
正暦(しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。永祚の後、長徳の前。990年から995年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.
毛利氏
毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.
水野勝俊
水野 勝俊(みずの かつとし)は、江戸時代初期の大名。備後福山藩の第2代藩主。水野宗家2代。 初代藩主・水野勝成の長男で、備中国成羽(現在の岡山県高梁市成羽町)に生まれる。生母は三村親成に居候していた藤井道斎の娘お登久(おとく)。.
水野勝種
水野 勝種(みずの かつたね)は、備後福山藩の第4代藩主。水野宗家4代。 第3代藩主・水野勝貞の長男で、母は瀬尾氏。.
永観
永観(えいがん、えいかん)は、日本の元号の一つ。天元の後、寛和の前。983年から985年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇、花山天皇。.
永承
永承(えいしょう)は、日本の元号の一つ。寛徳の後、天喜の前。1046年から1052年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.
江原親次
江原 親次(えばら ちかつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。宇喜多氏の家臣。一万石を領した。甥に江原親家。美作国常山城主。.
江川村 (兵庫県)
江川村(えかわむら)は、かつて兵庫県西部(西播磨地区)に存在していた村。佐用郡。 1955年、佐用町・平福町・長谷村・石井村と合併し、新たに佐用町となったため地方自治体として消滅した。 旧村域は現在の佐用町北西部に相当する。.
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江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
河会村
河会村(かわいそん)は、岡山県英田郡にあった村。 現在の美作市上山、北、滝宮、中川、南、横尾に当たる。.
治安 (元号)
治安(じあん、ちあん)は、日本の元号の一つ。寛仁の後、万寿の前。1021年から1023年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.
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沼田藩
沼田藩(ぬまたはん)は、上野利根郡(現在の群馬県沼田市西倉内町)に存在した藩。沼田城に藩庁を置いた。.
津守通
津守 通(つもり の とおる、生没年不詳)は、奈良時代の貴族・陰陽師。名は道とも記される。姓は連。官位は従五位上・美作守。.
津山城
津山城の古写真(明治初頭、撮影:松平国忠) 在りし日の津山城の絵画 建設中の備中櫓 津山城(つやまじょう)は、岡山県津山市山下にあった日本の城。別名・鶴山城(かくざんじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。.
津山市
津山市(つやまし)は、中国地方の東部、岡山県の北部に位置する市。岡山県では第三規模の都市である。.
津山町 (岡山県)
津山町(つやまちょう)は、岡山県苫田郡にあった町。現在の津山市の中心部にあたる地域であるが、津山駅からは少し離れている。 町制時は、現在の津山市大手町、桶屋町、鍛治町、上紺屋町、茅町、河原町、北町、京町、小性町、細工町、材木町、堺町、山下、下紺屋町、城代町、新魚町、新茅町、新職人町、船頭町、田町、椿高下、坪井町、鉄砲町、戸川町、二階町、西今町、西寺町、吹屋町、福渡町、伏見町、本町二丁目、本町三丁目、南新座、美濃町、宮脇町、元魚町、安岡町に当たり、廃止時点では旧・東南条郡津山東町の範囲も含む。 1914年、美濃職人町が美濃町と改称、1952年、二丁目・三丁目が本町二丁目、本町三丁目と改称、1971年、山下の一部が大手町となる。 ここでは津山東町を除いた津山町を中心とした現在の5つの地区についても扱う。.
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津山盆地
津山盆地(つやまぼんち)は、岡山県北部、津山市から鏡野町方面に広がる盆地。中国地方最大の盆地である。 標高は概ね100〜200メートル程で、四方を中国山地と吉備高原に囲まれ、中央部には吉井川が流れている。中心都市の津山市は吉備国分割後の美作国国府が置かれ、また山陽・山陰間の交通の要衝として古くから開けた。現在でも津山盆地を中心として津山都市圏が形成され、美作地方の中心的存在となっている。.
津山都市圏
津山都市圏(つやまとしけん)は、岡山県津山市を中心とする都市圏である。.
津山藩
津山城古写真(撮影:松平国忠) 津山藩(つやまはん)は、美作国の大半を領有した藩。藩庁は津山城(岡山県津山市)に置かれた。.
淡海三船
淡海 三船(おうみ の みふね、養老6年(722年) - 延暦4年7月17日(785年8月26日))は、奈良時代後期の皇族・貴族・文人。はじめ御船王を名乗るが、臣籍降下し淡海真人姓となる。大友皇子の曽孫。式部卿・葛野王の孫、内匠頭・池辺王の子。官位は従四位下・刑部卿。勲等は勲三等。.
渋谷氏
渋谷氏(しぶやし、)は、日本の氏族のひとつ。桓武平氏秩父氏の一族から分派し、日本全国へと広まった。代表的な一族に下記が挙げられる。.
源光 (公卿)
源 光(みなもと の ひかる、承和12年6月2日(845年7月9日) - 延喜13年3月12日(913年4月21日))は、平安時代の公卿。仁明天皇の皇子(第三源氏)。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条右大臣を号す。.
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源経房
源 経房(みなもと の つねふさ、安和2年(969年)治安3年10月12日(1023年11月27日))は、平安時代中期の廷臣。醍醐源氏。西宮左大臣・源高明の五男。官位は正二位・権中納言。.
源頼定
源 頼定(みなもと の よりさだ、貞元2年(977年) - 寛仁4年6月11日(1020年7月4日))は、平安時代中期の公卿。村上源氏。村上天皇の第四皇子・一品式部卿為平親王の次男。官位は正三位・参議。.
源重信
源 重信(みなもと の しげのぶ)は、平安時代中期の公卿。宇多天皇の皇子である式部卿・敦実親王の四男。官位は正二位・左大臣、贈正一位。六条左大臣と号す。.
源扶義
源 扶義(みなもと の すけのり)は、平安時代の貴族。官位は正四位下・参議。字は源叔。.
源時中
源 時中(みなもと の ときなか)は平安時代中期の公卿。左大臣・源雅信の長男。致仕大納言と号す。.
持明院基家
持明院 基家(じみょういん もといえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。大蔵卿・藤原通基の三男。初名は通基。後堀河天皇の外祖父。官位は正二位・権中納言。持明院家3代当主。.
朝倉広景
朝倉 広景(あさくら ひろかげ)は、南北朝時代の武将で、越前朝倉氏の初代当主である。 『平家物語』巻12に但馬に逃亡した平盛嗣の追捕を命じられた朝倉高清がいるが、この高清から数えて8代(『福井県史』では9代)の末裔が広景であるとされている『朝倉義景』吉川弘文館。2頁。。元は但馬国養父郡朝倉庄の代官であったと伝えられる。 広景の時代に鎌倉幕府が滅亡すると、彼は足利尊氏の下に馳せ参じた。広景は斯波高経の母方の祖父・長井時秀の被官であったが、高経に従い越前に入る。藤島の戦いにおいて高経と共に新田義貞討伐で戦功を立てたため、その恩賞として黒丸城を与えられた。広景は黒丸に居住したことから黒丸右衛門入道と号し、安居(福井県福井市金屋町)に弘祥寺を建立し、北庄神明神社の社殿を再興したりしている。 以後朝倉氏は斯波氏の被官として越前に根を下ろした。広景は正平7年/観応3年(1352年)2月29日に98歳という当時としては驚異的な高齢で没した。 死後、家督は子の朝倉高景が継いだ。.
朝倉氏景 (3代当主)
朝倉 氏景(あさくら うじかげ)は、南北朝時代の武将。朝倉氏の第3代当主。第2代当主・朝倉高景の子。.
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朝倉教景
朝倉 教景(あさくら のりかげ)は室町時代中期の武将である。朝倉氏5代目当主。.
木下一元
木下 一元(きのした かずもと)は、安土桃山時代の武将、大名。諱は利久ともする。半右衛門尉。美作守。.
挙母藩
七州城復興隅櫓 挙母藩(ころもはん)は、三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石の譜代大名の小藩。藩庁は挙母城(別名七州城)。挙母藩の歴史は領主により大きく4つに分かれる。.
明石藩
明石藩(あかしはん)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区など)を領した藩。藩庁は明石城に置かれた。 明石城跡.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
浦上宗景
浦上 宗景(うらがみ むねかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備前国の戦国大名。.
浦上則宗
浦上 則宗(うらがみ のりむね)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。赤松氏の家臣。.
浦上村宗
浦上 村宗(うらがみ むらむね)は、戦国時代の武将。備前国・美作国・播磨国の戦国大名。浦上宗助の子(一部、宗助の叔父・浦上則宗の実子とする家系図もある)。 赤松氏に臣従し、主君・赤松義村から偏諱(「村」の字)を受けて村宗と名乗るも、のちに義村から独立する姿勢を見せてこれを殺害した。その後も義村の子・政村(政祐)と抗争し一旦は和睦するが、大物崩れの際に政祐の攻撃に遭い討ち死にした。.
浦上氏
浦上氏(うらがみし、うらかみし)は、日本の氏族。武内宿禰系紀氏の流れを汲むとされる。また、他流として有道氏の後裔である浦上氏もある。.
浦上政宗
浦上 政宗(うらがみ まさむね)は、備前国の戦国大名。浦上村宗の長男で浦上宗景の兄。.
浜田藩
浜田藩(はまだはん)は、石見国浜田(現在の島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城に置かれた。.
新見藩
新見藩(にいみはん)は、江戸時代中期より廃藩置県まで備中国にあった藩。藩庁は阿賀郡(現:岡山県新見市)の新見陣屋。立藩以来、外様大名の関氏が藩主を務め、石高は1万8千石であった。.
文明 (日本)
文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.
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日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
旧高旧領取調帳
旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.
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旭川 (岡山県)
旭川(あさひがわ)は、岡山県を流れる一級河川で、旭川水系の本流である。県の中央部を流域とし、吉井川・高梁川と並び岡山三大河川の一つに数えられる。支流は146、それらを含めた河川総延長は821.9kmにのぼる。流域内人口は約34万人国土交通省河川局 編、『旭川水系河川整備基本方針』、2009年1月による。。.
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播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.
慶応
慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.
慶長
慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.
承平 (日本)
承平(じょうへい、しょうへい)は、日本の元号の一つ。延長の後、天慶の前。931年から938年までの期間を指す。この時代の天皇は朱雀天皇。.
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拾芥抄
拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。全3巻。元は拾芥略要抄とも呼ばれ、略要抄とも略されていた。.
1001年
11世紀および2千年紀における最初の年である。.
1002年
記載なし。
1004年
記載なし。
1006年
記載なし。
1019年
記載なし。
1023年
記載なし。
1026年
記載なし。
1028年
記載なし。
1035年
記載なし。
1038年
記載なし。
1046年
記載なし。
1050年
記載なし。
1053年
記載なし。
1058年
記載なし。
1072年
記載なし。
10月14日 (旧暦)
旧暦10月14日(きゅうれきじゅうがつじゅうよっか)は、旧暦10月の14日目である。六曜は大安である。.
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1101年
記載なし。
1104年
記載なし。
1127年
記載なし。
1135年
記載なし。
1163年
記載なし。
1184年
記載なし。
11月15日 (旧暦)
旧暦11月15日は旧暦11月の15日目である。六曜は先勝である。.
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11月7日
11月7日(じゅういちがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から311日目(閏年では312日目)にあたり、年末まであと54日ある。.
1200年
記載なし。
1213年
記載なし。
12月26日
12月26日(じゅうにがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から360日目(閏年では361日目)にあたり、年末まであと5日ある。.
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1333年
記載なし。
1345年
記載なし。
1352年
記載なし。
1356年
記載なし。
1363年
記載なし。
1366年
記載なし。
1391年
記載なし。
1392年
記載なし。
1427年
記載なし。
1441年
記載なし。
1447年
記載なし。
1460年
記載なし。
1467年
記載なし。
1471年
記載なし。
1484年
記載なし。
1496年
記載なし。
1521年
記載なし。
1552年
記載なし。
1557年
記載なし。
1561年
記載なし。
1600年
400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.
1602年
記載なし。
1603年
記載なし。
1661年
記載なし。
1674年
記載なし。
1682年
記載なし。
1698年
記載なし。
1866年
記載なし。
1868年
記載なし。
1869年
記載なし。
1870年
記載なし。
1871年
記載なし。
1876年
記載なし。
1889年
記載なし。
1896年
記載なし。
1900年
19世紀最後の年である。100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく、4で割り切れる平年となる。.
1970年
記載なし。
1986年
この項目では、国際的な視点に基づいた1986年について記載する。.
2002年
この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.
2005年
この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.
2008年
この項目では、国際的な視点に基づいた2008年について記載する。.
2013年
この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。.
2月15日 (旧暦)
旧暦2月15日は旧暦2月の15日目である。六曜は仏滅である。.
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2月25日
2月25日(にがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から56日目にあたり、年末まであと309日(閏年では310日)ある。.
3月31日
3月31日(さんがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から90日目(閏年では91日目)にあたり、年末まであと275日ある。3月の最終日。 日本では前年4月始まりの年度最終日とされている。.
4月18日
4月18日(しがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から108日目(閏年では109日目)にあたり、年末まではあと257日ある。誕生花はアカツメクサ、ワスレナグサ。.
4月1日
4月1日(しがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から91日目(閏年では92日目)にあたり、年末まであと274日ある。誕生花はカスミソウ、クロッカス。 日本や一部の国では4月1日は会計年度・学校年度の初日である。この日は政府機関、企業などで多くの制度の変更、新設、発足が行われ、異動や新入学など大きな変化が起こる日である。.
4月28日 (旧暦)
旧暦4月28日(きゅうれきしがつにじゅうはちにち)は、旧暦4月の28日目である。六曜は先勝である。.
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4月3日 (旧暦)
旧暦4月3日(きゅうれきしがつみっか)は旧暦4月の3日目である。六曜は赤口である。.
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5月 (旧暦)
旧暦5月(きゅうれきごがつ)は、和暦(太陰太陽暦の旧暦)の年初から5番目の月である。 夏至を含む月が5月となる。グレゴリオ暦(新暦)では5月下旬から7月上旬ごろに当たる。 5月の別名は皐月(さつき)である。名前の由来は5月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、5月29日までで5月30日は存在しない年もある。.
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5月16日 (旧暦)
旧暦5月16日は旧暦5月の16日目である。六曜は友引である。.
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6月28日
6月28日(ろくがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から179日目(閏年では180日目)にあたり、年末まであと186日ある。誕生花はクチナシ、ツルハナナス。.
713年
記載なし。
714年
記載なし。
719年
記載なし。
735年
記載なし。
738年
記載なし。
741年
記載なし。
745年
記載なし。
749年
記載なし。
757年
記載なし。
759年
記載なし。
760年
記載なし。
761年
記載なし。
762年
記載なし。
763年
記載なし。
764年
記載なし。
766年
記載なし。
768年
記載なし。
769年
記載なし。
771年
記載なし。
772年
記載なし。
774年
記載なし。
776年
記載なし。
777年
記載なし。
782年
記載なし。
7月14日 (旧暦)
旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.
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7月4日 (旧暦)
旧暦7月4日(きゅうれきしちがつよっか)は旧暦7月の4日目である。六曜は仏滅である。.
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7月5日
7月5日(しちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から186日目(閏年では187日目)にあたり、年末まであと179日ある。誕生花はアンスリウム、ロベリア。.
807年
記載なし。
816年
記載なし。
851年
記載なし。
859年
記載なし。
862年
記載なし。
863年
記載なし。
8月10日 (旧暦)
旧暦8月10日(きゅうれきはちがつとおか)は、旧暦8月の10日目である。六曜は大安である。.
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8月11日
8月11日(はちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から223日目(閏年では224日目)にあたり、年末まであと142日ある。.
8月29日
8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.
901年
記載なし。
948年
記載なし。
960年
記載なし。
963年
記載なし。
983年
記載なし。
984年
記載なし。
990年
記載なし。
995年
記載なし。
9月15日
9月15日(くがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から258日目(閏年では259日目)にあたり、年末まであと107日ある。.
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