ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

越智松平家

索引 越智松平家

越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の一支系で、親藩・御家門のひとつ。 江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟である松平清武を家祖とし、上野国館林藩、のち石見国浜田藩の藩主家として続いた。通字は「武」(たけ)。.

63 関係: 奏者番子爵寺社奉行尾張徳川家上野国常陸府中藩三つ葉葵九曜交楽龍弾廃藩置県征夷大将軍御家門御連枝徳川家宣徳川家斉徳川綱吉徳川綱重徳川頼房徳川斉昭石見国美作国美濃国甲府徳川家甲府藩甲斐国華族館林藩親藩高須藩高松藩譜代大名讃岐国長州征討長州藩老中陸奥国松島正幸松平義建松平義行松平頼恕松平頼明 (常陸府中藩主)松平武寛松平武元松平武聰松平武雅松平武揚松平武成松平氏松平清武...松平清方松平斉厚松平斉良棚倉藩武家水戸徳川家水戸藩江戸幕府清和源氏戸田氏教浜田藩1707年1836年 インデックスを展開 (13 もっと) »

奏者番

奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)は江戸幕府および藩の役職の一つである。城中における武家の礼式を管理する。.

新しい!!: 越智松平家と奏者番 · 続きを見る »

子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

新しい!!: 越智松平家と子爵 · 続きを見る »

寺社奉行

延暦寺根本中堂 寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。.

新しい!!: 越智松平家と寺社奉行 · 続きを見る »

尾張徳川家

尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。尾張中納言家、単に尾張家、尾州家とも言う。御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。.

新しい!!: 越智松平家と尾張徳川家 · 続きを見る »

上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

新しい!!: 越智松平家と上野国 · 続きを見る »

常陸府中藩

常陸府中藩(ひたちふちゅうはん)は、常陸国(現在の茨城県石岡市)に存在した藩。別名は石岡藩(いしおかはん)、長沼藩(ながぬまはん)。藩庁は府中陣屋。.

新しい!!: 越智松平家と常陸府中藩 · 続きを見る »

三つ葉葵

三つ葉葵・三つ葵(みつばあおい・みつあおい)は日本の家紋「葵紋」の一種で、葵の葉を3つ描いた図案の家紋のことである。通常「三つ葉葵」といえば徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」のたぐいの紋を指すことが多い。.

新しい!!: 越智松平家と三つ葉葵 · 続きを見る »

九曜

'''九曜神''' ラヴィ・ヴァルマ画 九曜(くよう)とは、インド天文学やインド占星術が扱う9つの天体とそれらを神格化した神である。中国へは『宿曜経』などにより漢訳された。 サンスクリットではナヴァグラハ (नवग्रह, navagraha) で、「9つの惑星」という意味である(実際は惑星以外も含む)。部分的に訳して9グラハとも言う。 繁栄や収穫、健康に大きな影響を与えるとされた。東アジアでは宿曜道や陰陽道などの星による占いで使う。 九曜のうち七曜は実在する天体で、残りの2つも古代インドでは実在すると考えられた天体である。同じ陰陽道の九星は名前は似ているが実在に拠らない抽象概念で、大きく異なる。.

新しい!!: 越智松平家と九曜 · 続きを見る »

交楽龍弾

交楽 龍弾(まずら りゅうだん、1935年〈昭和10年〉6月5日 - 2007年〈平成19年〉12月27日)は、日本の画家、書家、歌手。東京府出身。越智松平家第12代当主。美作浜田会顧問、日本占い師連盟総裁、宮崎インターネット大学校名誉教授、NPO法人日本少子化対策協議会総裁、総合藝術文化財団最高顧問などの肩書きがあった。交楽 竜弾とも表記。本名は松平 武龍(まつだいら ぶりゅう)。別名は松平 龍門(まつだいら りゅうもん)。.

新しい!!: 越智松平家と交楽龍弾 · 続きを見る »

廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

新しい!!: 越智松平家と廃藩置県 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 越智松平家と征夷大将軍 · 続きを見る »

御家門

御家門(ごかもん)は、名家の一族を指す。単に家門ともいう。 江戸時代においては、親藩の中で、特に徳川将軍家の一族及び徳川家康の兄弟の家系の大名家、旗本家を指していう。御家門は家康の元の姓である松平姓を名乗ることを許された。御家門筆頭の越前松平家をはじめとして、御家門の多くは幕府の役職につくことはなく、将軍家の一門としての格式を重んじられた。.

新しい!!: 越智松平家と御家門 · 続きを見る »

御連枝

御連枝(ごれんし)は、貴人の兄弟を指した敬称。根幹を同じくする枝々が連なっている様子を表した「連枝」がその語源。歴史的には以下の意味を持つ。 広義には、天皇家・将軍家・大名家など高貴な支配階級の顕職を世襲する権門において、当主の兄弟のうち仏門に入らずに特に取り立てられて一家を興した者、およびその者を祖とする家系をいう。天皇家からの宮家、徳川将軍家からの御三家・御両典・御三卿、藩主家からの支藩家などがこれにあたる。いずれの場合も、本家筋に嗣子を欠く場合にはそれを継承することもあり得る存在として知られた。 狭義には、江戸時代に御三家からさらに分家して立藩した親藩大名家を指して特にこう呼ぶことがあった。.

新しい!!: 越智松平家と御連枝 · 続きを見る »

徳川家宣

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。.

新しい!!: 越智松平家と徳川家宣 · 続きを見る »

徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

新しい!!: 越智松平家と徳川家斉 · 続きを見る »

徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

新しい!!: 越智松平家と徳川綱吉 · 続きを見る »

徳川綱重

徳川 綱重(とくがわ つなしげ)は、甲斐甲府藩主。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の三男。母は側室の夏(順性院)、養母は天樹院(千姫)、乳母は松坂局。.

新しい!!: 越智松平家と徳川綱重 · 続きを見る »

徳川頼房

徳川 頼房(とくがわ よりふさ)は、常陸水戸藩の初代藩主。水戸徳川家の祖。徳川家康の十一男。.

新しい!!: 越智松平家と徳川頼房 · 続きを見る »

徳川斉昭

茨城県水戸市の千波公園にある徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。.

新しい!!: 越智松平家と徳川斉昭 · 続きを見る »

石見国

石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

新しい!!: 越智松平家と石見国 · 続きを見る »

美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

新しい!!: 越智松平家と美作国 · 続きを見る »

美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 越智松平家と美濃国 · 続きを見る »

甲府徳川家

府徳川家(こうふとくがわけ)は、江戸時代の大名。甲府宰相家。甲斐国甲府藩主家(甲府城主)。25万石(のちに35万石)徳川将軍家の一支系で、4代将軍家綱の弟綱重とその子綱豊(のちの将軍家宣)の2代を指す。単に甲府家ともいわれる。.

新しい!!: 越智松平家と甲府徳川家 · 続きを見る »

甲府藩

府藩(こうふはん)は、甲斐国に存在した藩の一つ。.

新しい!!: 越智松平家と甲府藩 · 続きを見る »

甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 越智松平家と甲斐国 · 続きを見る »

華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

新しい!!: 越智松平家と華族 · 続きを見る »

館林藩

林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった徳川家と関わりが深い藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。.

新しい!!: 越智松平家と館林藩 · 続きを見る »

親藩

親藩しんぱんは、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。.

新しい!!: 越智松平家と親藩 · 続きを見る »

諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

新しい!!: 越智松平家と諱 · 続きを見る »

高須藩

藩(たかすはん)は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))。江戸中期以降は尾張藩支藩。.

新しい!!: 越智松平家と高須藩 · 続きを見る »

高松藩

松城月見櫓 高松藩(たかまつはん)は、江戸時代に讃岐国(現在の香川県)を領有した藩。生駒氏の代は讃岐一国を領していたが、松平氏(高松松平家)の代になり半国の東讃地域を領した。藩庁は高松城(現在の高松市)。.

新しい!!: 越智松平家と高松藩 · 続きを見る »

譜代大名

譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.

新しい!!: 越智松平家と譜代大名 · 続きを見る »

讃岐国

讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 越智松平家と讃岐国 · 続きを見る »

長州征討

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。 特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。.

新しい!!: 越智松平家と長州征討 · 続きを見る »

長州藩

長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.

新しい!!: 越智松平家と長州藩 · 続きを見る »

老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

新しい!!: 越智松平家と老中 · 続きを見る »

陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

新しい!!: 越智松平家と陸奥国 · 続きを見る »

松島正幸

松島 正幸(まつしま まさゆき、1910年2月25日 - 1999年10月29日)は、北海道雨竜郡一已村(現深川市)出身の洋画家。独立美術協会会員。また、全道美術協会創立に貢献。本名は正一、前半生の画号は正人を名乗る。日本各地、中国北部、ヨーロッパの風景を生涯描き続けた。.

新しい!!: 越智松平家と松島正幸 · 続きを見る »

松平義建

松平 義建(まつだいら よしたつ)は、美濃高須藩の第10代藩主。自身に特筆すべき治績は少ないが、息子は高須四兄弟を筆頭に多くが幕末期に活躍した。.

新しい!!: 越智松平家と松平義建 · 続きを見る »

松平義行

松平 義行(まつだいら よしゆき)は、信濃高井藩主、のち美濃高須藩の初代藩主。.

新しい!!: 越智松平家と松平義行 · 続きを見る »

松平頼恕

松平 頼恕 (まつだいら よりひろ)は、讃岐高松藩の第9代藩主。.

新しい!!: 越智松平家と松平頼恕 · 続きを見る »

松平頼明 (常陸府中藩主)

松平 頼明(まつだいら よりあき、元禄4年5月11日(1691年6月7日) - 享保18年9月6日(1733年10月13日))は、常陸府中藩の第3代藩主。松平頼福(徳川頼房の八男・松平頼泰の子)の長男。母は進藤氏。正室は右大臣・今出川公規の娘で、徳川綱條の養女となった益姫。側室に久野氏、林氏。子に頼永(長男)、武元(次男)、遠山友明(三男)、頼幸(四男)、亀井茲胤(五男)、娘(織田信右正室)、娘(松平信友正室)。幼名は源三郎。任官叙位前は通称を掃部を称した。 宝永4年(1707年)12月、先代藩主の松平頼如(頼房の五男で初代藩主・松平頼隆の子)が嗣子なくして死去したため、その養嗣子として翌年の閏正月5日に家督を継いだ。享保18年(1733年)9月6日、43歳で死去し、跡を長男の頼永が継いだ。.

新しい!!: 越智松平家と松平頼明 (常陸府中藩主) · 続きを見る »

松平武寛

松平 武寛(まつだいら たけひろ)は、上野館林藩の第2代藩主。越智松平家4代。.

新しい!!: 越智松平家と松平武寛 · 続きを見る »

松平武元

松平 武元(まつだいら たけちか、正徳3年12月18日(1714年2月2日) - 安永8年7月25日(1779年9月5日))は、上野館林藩および陸奥棚倉藩の藩主。親藩ながら江戸幕府の寺社奉行、老中を務めた。越智松平家3代。 常陸府中藩主松平頼明の次男。正室は桑名藩主松平忠雅の娘。子は武寛(四男)、戸田氏教(五男、大垣藩養子でのち老中)、娘(松平忠泰正室)、娘(戸田光和正室のち松平乗完継室)、娘(安藤信成正室)、娘(松平忠済正室)、娘(森忠興正室)、娘(久世広誉正室)、娘(溝口直信正室)らがいる。官位は従四位下、侍従、右近衛将監。.

新しい!!: 越智松平家と松平武元 · 続きを見る »

松平武聰

松平 武聰(まつだいら たけあきら)は、石見浜田藩の第4代藩主、美作鶴田藩主。越智松平家第8代。徳川慶喜の異母弟に当たる。新字体では武聡。.

新しい!!: 越智松平家と松平武聰 · 続きを見る »

松平武雅

松平 武雅(まつだいら たけまさ、元禄15年(1702年) - 享保13年7月28日(1728年9月2日))は、上野館林藩第2代藩主。越智松平家2代。 美濃高須藩主・松平義行の四男。母は側室・上月氏。幼名は新之助。初名は行高。官位は従五位下、肥前守。 元禄16年(1703年)8月14日生まれとも伝わる。義行には6人の男子がいたが多くは早世し、武雅だけが生き残った。 元服の際、父から偏諱を与えられて行高と名乗った。本来なら義行の世子となり、高須藩主になるはずであったが、義行は元禄14年(1701年)に本家から兄・徳川綱誠の十五男・万三郎(のちの松平義孝)を養子に迎えていたため、武雅は享保9年(1724年)、越智松平家の松平清武の養子とされ、同年家督を相続し館林藩主となる。 享保13年(1728年)に27歳で死去した。法名は顕徳院。子女を残さなかったため養嗣子として常陸府中藩から武元が迎えられ跡を継いだ。 Category:館林藩主 Category:親藩 たけまさ たけまさ Category:1702年生 Category:1728年没.

新しい!!: 越智松平家と松平武雅 · 続きを見る »

松平武揚

松平 武揚(まつだいら たけおき、文政10年6月14日(1827年7月7日)- 天保13年7月28日(1842年9月2日))は、石見浜田藩の第2代藩主。越智松平家6代。 讃岐高松藩主松平頼恕の次男(三男とも)。母は側室・野宣勝成の娘。正室は松平斉厚の娘。官位は従四位下、右近将監。 高松で生まれる。幼名は鋭之助。先代藩主の斉厚が天保10年(1839年)に死去したため、その婿養子として跡を継ぐ。天保11年(1840年)12月に叙任するが、天保13年(1842年)7月28日、浜田で死去した。享年16。嗣子はなく、通常は末期養子が認められる年齢でもなかったが、御家門ということで配慮もあり、従兄にあたる武成が跡を継いだ。法号は詣山大乗院。墓所は島根県浜田市殿町の妙智寺。 たけおき たけおき Category:親藩 Category:浜田藩主 Category:1827年生 Category:1842年没.

新しい!!: 越智松平家と松平武揚 · 続きを見る »

松平武成

松平 武成(まつだいら たけなり / たけしげ)は、石見浜田藩の第3代藩主。越智松平家7代。 美濃高須藩主松平義建の三男。母は徳川治紀の娘。正室は田安斉匡の娘。官位は従五位下、右近将監。 尾張藩主徳川慶勝の同母弟で、一橋徳川家当主徳川茂徳、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、高須藩主松平義勇の兄に当たる。 天保13年(1842年)、先代藩主の松平武揚(血統上は母方の従弟にあたる)が早世したため、その跡を継ぐ。藩財政再建のために天保14年(1843年)より倹約令を出し、さらに弘化3年(1846年)には横井小楠の意見を用いて山林の藩経営化や瓦・陶器の製造、養蚕業や製鉄業、製糸業、鉱山開発などの産業奨励に尽力することで藩政再建を目指したが、弘化4年(1847年)9月20日に23歳で早世した。跡を養嗣子(武揚と同じく母方の従弟にあたる)の武聰が継いだ。法号は鋭岳大憲院。墓所は東京都荒川区東日暮里の善性寺。.

新しい!!: 越智松平家と松平武成 · 続きを見る »

松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

新しい!!: 越智松平家と松平氏 · 続きを見る »

松平清武

松平 清武(まつだいら きよたけ)は、上野館林藩の藩主。第6代将軍徳川家宣の同母弟。越智松平家初代。甥に家宣の四男で第7代将軍徳川家継がいる。家継没後に第8代将軍候補となるが、徳川吉宗が就任した為、将軍になることはなかった。.

新しい!!: 越智松平家と松平清武 · 続きを見る »

松平清方

松平 清方(まつだいら きよかた、元禄10年1月9日(1697年1月31日) - 享保9年1月24日(1724年2月18日))は、上野国館林藩の世嗣。初代藩主松平清武の長男。正室は前田利直の娘(酒井忠真の養女)・須和。官位は従五位下靱負佐、内蔵頭。第3代将軍徳川家光の曾孫で甲府藩主・徳川綱重の孫。第6代将軍徳川家宣の甥。 甲府藩士・越智吉忠(松平清武の初名)の長男として生まれる。伯父・綱豊(のち家宣)が将軍家世子となったため、父の吉忠改め清宣(のち清武)も松平姓を与えられて幕臣となる。その後、宝永4年(1707年)に館林藩主となった。清方も同年、大叔父で第5代将軍の徳川綱吉に拝謁した。家宣が将軍職を継いだ後の正徳元年(1711年)には叙任している。しかし、享保9年(1724年)に家督を継ぐことなく父に先立ち28歳で死去した。代わって、尾張徳川家支藩の高須藩から武雅が養子に迎えられて嫡子となり、同年に清武が没すると家督を継いだ。 正徳6年(1716年)に7代将軍・徳川家継が死去した時、父・清武は次期将軍候補に挙がったが、高齢かつ他家に養子に出ていることが理由で、支持を得ることができなかった。清方は年齢的には問題がなかったが、候補者にはならなかった。 清武・清方父子の死により、家光の男系子孫は断絶した。 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:館林藩の人物 きよかた Category:1697年生 Category:1724年没.

新しい!!: 越智松平家と松平清方 · 続きを見る »

松平斉厚

松平 斉厚(まつだいら なりあつ)は、江戸時代後期の大名。上野館林藩3代藩主、のち石見浜田藩初代藩主。寺社奉行。越智松平家5代。.

新しい!!: 越智松平家と松平斉厚 · 続きを見る »

松平斉良

松平 斉良(まつだいら なりよし)は、石見国浜田藩の世嗣。江戸幕府第11代将軍徳川家斉の二十男で、第12代将軍徳川家慶の異母弟にあたる。 上野国館林藩主・松平武厚の養子となり、武厚の娘を正室とする。元服し、父・家斉から偏諱を受けて斉良と名乗り、養父武厚も斉厚と改名した。天保7年(1836年)には斉厚が石見浜田に国替えとなったが、斉良は3年後の天保10年(1839年)に死去した。代わって高松松平家出身の武揚(正室は斉良正室の妹)が斉厚の養子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 なりよし なりよし Category:浜田藩の人物 Category:1819年生 Category:1839年没.

新しい!!: 越智松平家と松平斉良 · 続きを見る »

棚倉藩

棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。.

新しい!!: 越智松平家と棚倉藩 · 続きを見る »

武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

新しい!!: 越智松平家と武家 · 続きを見る »

水戸徳川家

水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする。.

新しい!!: 越智松平家と水戸徳川家 · 続きを見る »

水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

新しい!!: 越智松平家と水戸藩 · 続きを見る »

江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

新しい!!: 越智松平家と江戸幕府 · 続きを見る »

清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

新しい!!: 越智松平家と清和源氏 · 続きを見る »

戸田氏教

戸田 氏教(とだ うじのり)は、江戸時代中期から後期の大名。美濃国大垣藩第7代藩主。大垣藩戸田家8代。 藩主として善政を行うとともに、幕府老中として幕政に携わり、幕府財政改革に成功した他、ロシア船来航の折は外交問題にも関わり、国家の枢機に携わった。大垣藩政では教育・治水・藩の富強を図り、大垣中興の名主と評された。.

新しい!!: 越智松平家と戸田氏教 · 続きを見る »

浜田藩

浜田藩(はまだはん)は、石見国浜田(現在の島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城に置かれた。.

新しい!!: 越智松平家と浜田藩 · 続きを見る »

1707年

記載なし。

新しい!!: 越智松平家と1707年 · 続きを見る »

1836年

記載なし。

新しい!!: 越智松平家と1836年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

越智松平越智松平氏

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »