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烏山藩

索引 烏山藩

烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市城山)に存在した藩。藩庁は烏山城に置かれた。また、大久保家が藩主となった享保年間以降は相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。.

117 関係: 城下町厚木市堀親良堀親昌大坂の陣大多喜藩大久保常春大久保忠卿大久保忠保大久保忠喜大久保忠美大久保忠順大久保忠胤大久保忠成大住郡天保天正外様大名宝永宇都宮県寛永寛文小張藩小田原城小田原征伐山城国岩槻藩上総国上杉景勝常陸国下総国下野国幕末享保京都所司代二宮尊徳二本松藩延宝廃藩置県弘化役料後北条氏信濃国信濃飯田藩志摩国嘉永元和 (日本)元禄神奈川県稲垣重富...稲垣昭賢真岡藩烏山城版籍奉還相馬郡 (下総国)相模国芳賀郡鎌倉郡菅谷八郎右衛門高座郡豊田郡 (茨城県)豊臣秀吉貞享鳥羽藩足柄県近江国赤穂藩関ヶ原の戦い那須烏山市那須資弥那須資徳那須資晴那須郡那須藩那須氏若年寄若林昌恭老中陸奥国松下重綱板倉重矩板倉重種栃木県武蔵国永井直敬河内国成田氏長成田泰之成田泰親戦国時代 (日本)明治浅野氏摂津国愛甲郡慶長1590年1591年1600年1616年1622年1623年1627年1637年1672年1673年1681年1687年1702年1710年1725年1839年1840年1845年1852年1869年1871年 インデックスを展開 (67 もっと) »

城下町

山城(波賀城)と城下町 熊本城の城下町 龍野城の城下町 和歌山城の城下町 城下町(じょうかまち)とは、日本における都市の形態の一つ。領主の居城を中心に成立した都市である。江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心とした陣屋町もあるが、広義ではそれらも含めて城下町と呼ぶ。 城下(じょうか)とも呼ばれ、近世以前はこの呼称が一般的であった。.

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厚木市

厚木市(あつぎし)は、神奈川県のほぼ中央に位置する市である。特例市に指定されている。.

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堀親良

堀 親良(ほり ちかよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。信濃飯田藩堀家初代。堀秀政の次男。.

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堀親昌

堀 親昌(ほり ちかまさ)は、江戸時代前期の大名。下野国烏山藩2代藩主、信濃国飯田藩初代藩主。飯田藩堀家2代。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大多喜藩

大多喜藩(おおたきはん)は、上総国に存在した藩。藩庁を大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一)に置いた。.

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大久保常春

大久保 常春(おおくぼ つねはる)は、江戸時代中期の大名。下野烏山藩初代藩主。江戸幕府の若年寄、老中。烏山藩大久保家2代。.

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大久保忠卿

大久保忠卿(おおくぼ ただあき、延享3年5月19日(1746年7月7日) - 明和6年2月10日(1769年3月17日))は、江戸時代中期の大名。下野烏山藩3代藩主。烏山藩大久保家4代。 2代藩主大久保忠胤の次男。母は奥崎氏。正室は本多正珍の娘。官位は従五位下山城守。 生年は寛保3年(1743年)とも。宝暦9年(1759年)、父の隠居に伴い家督を相続する。明和6年(1769年)、父に先立って24歳で死去した。嗣子がなかったため、弟の忠喜が跡を継いだ。墓所は東京都世田谷区太子堂の教学院。 たたあき Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:1746年生 Category:1769年没.

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大久保忠保

大久保 忠保(おおくぼ ただやす、寛政3年5月27日(1791年6月28日) - 嘉永元年9月5日(1848年10月1日)は、江戸時代後期の大名。下野烏山藩の第6代藩主。烏山藩大久保家7代。 第5代藩主大久保忠成の長男。母は第4代藩主大久保忠喜の娘。正室は水野忠光の娘、継室は立花鑑寿の娘。子に大久保忠寿(長男)、大久保忠美(三男)、一色忠金(四男)、大久保忠貫(五男)、戸田忠養(六男)、娘(稲垣太篤正室)、娘(堀田一清室)。官位は従五位下近江守。 文政10年(1827年)、父の隠居に伴い家督を相続した。嘉永元年(1848年)9月5日(10月18日とも)、父に先立ち58歳で没した。長男の忠寿は廃嫡し、三男の忠美が跡を継いだ。 たたやす Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:1791年生 Category:1848年没.

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大久保忠喜

大久保 忠喜(おおくぼ ただよし、延享3年6月26日(1746年8月12日) - 文化9年8月10日(1812年9月15日))は、江戸時代中期から後期の大名。下野烏山藩の第4代藩主。烏山藩大久保家5代。 第2代藩主大久保忠胤の三男。正室は堀田正亮の娘。子に娘(大久保忠成正室)、娘(内藤政峻正室)、娘(成瀬正壽正室)、娘(大久保親知正室)。養子に大久保忠邦、大久保忠成。官位は従五位下山城守。 生年は延享2年(1745年)とも。明和6年(1769年)、先代藩主の兄忠卿が死去し、嗣子がなかったため末期養子となって家督を継承した。はじめ養子とした忠邦が早世したため、文化2年(1805年)に次いで養子とした家督を忠成に譲って隠居した。文化9年(1812年)、67歳で死去した。 たたよし Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:1746年生 Category:1812年没.

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大久保忠美

大久保 忠美(おおくぼ ただよし、文政3年3月9日(1820年4月21日) - 元治元年8月20日(1864年9月20日))は、江戸時代後期の大名。下野烏山藩の第7代藩主。烏山藩大久保家8代。 第6代藩主大久保忠保の三男。母は水野忠光の娘。官位は従五位下佐渡守。 兄の忠寿がいたが廃嫡され、代わって嫡子となる。嘉永元年(1848年)、父の死去に伴い家督を相続した。元治元年(1864年)に45歳で死去し、跡を長男の忠順が継いだ。 たたよし Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:幕末の大名 Category:1820年生 Category:1864年没.

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大久保忠順

大久保 忠順(おおくぼ ただより、安政4年4月26日(1857年5月19日) - 大正3年(1914年)5月11日)は、江戸時代末期の大名、下野烏山藩の第8代(最後)の藩主。烏山藩大久保家9代。貴族院議員、子爵。 第7代藩主大久保忠美の長男。正室は慈光寺有仲の娘。継室は稲垣長明の娘。子は大久保忠春(長男)、大久保忠誠(次男)、大久保忠篤(三男)、桜井忠正(四男)、娘(諫早家興室のち森俊六郎室)。官位は従五位下佐渡守。.

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大久保忠胤

大久保 忠胤(おおくぼ ただたね、宝永7年7月3日(1710年7月28日) - 安永8年8月2日(1779年9月11日))は、江戸時代中期の大名。下野烏山藩2代藩主。烏山藩大久保家3代。 初代藩主大久保常春の長男。母は小林氏。正室は京極高或の娘(安藤信友の養女)。子に大久保忠卿(次男)、大久保忠喜(三男)、大久保忠定(四男)、娘(阿部正興継室)、娘(大久保忠寛室)。官位は従五位下、山城守。 享保13年(1728年)、父・常春が死去したため家督を相続し、弟の伝三郎忠篤に新墾田2000石を分知した。宝暦9年(1759年)に次男の忠卿に家督を譲って隠居した。安永8年(1779年)に70歳で死去した。墓所は東京都世田谷区太子堂の最勝寺教学院。 たたたね Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:1710年生 Category:1779年没.

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大久保忠成

大久保 忠成(おおくぼ ただしげ、明和3年4月24日(1766年6月1日) - 嘉永4年1月21日(1851年2月21日))は、江戸時代後期の大名。下野烏山藩5代藩主。烏山藩大久保家6代。 宇都宮藩主・島原藩主松平忠恕の三男。正室は大久保忠喜の娘。子に大久保忠保(長男)、大久保忠声、娘(植村家教正室)。官位は従五位下佐渡守。 実兄で烏山藩主大久保忠喜の養子となっていた忠邦が早世したため、代わって天明7年(1787年)に養子となる。文化2年(1805年)、病のため隠居した忠喜の家督を継いだ。文政10年(1827年)に隠居して家督を長男の忠保に譲り、嘉永4年(1851年)に84歳で没した。墓所は東京都世田谷区太子堂の教学院。.

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大住郡

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天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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宝永

宝永(ほうえい、旧字体: 寶永)は日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。.

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宇都宮県

宇都宮県(うつのみやけん)は、1871年(明治4年)に下野国東部・北部を管轄するために設置された県。現在の栃木県東部・北部にあたる。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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小張藩

小張藩(こばりはん)は、江戸時代前期に常陸国筑波郡小張(現在の茨城県つくばみらい市小張)に存在した藩。.

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小田原城

小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)で、北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。.

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小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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岩槻藩

岩槻藩(いわつきはん)は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)に存在した藩。居城は岩槻城。.

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上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

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上杉景勝

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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京都所司代

京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において、京都に設置された行政機関である。 1568年(永禄11年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。.

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二宮尊徳

二宮 尊徳(にのみや たかのり)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、有職読みで「そんとく」と読まれることが多い。 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。.

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二本松藩

二本松藩(にほんまつはん)は、陸奥国南部(岩代国)安達郡(現在の福島県二本松市郭内三丁目)に存在した藩。居城は二本松城(霞ヶ城)。.

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延宝

延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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弘化

弘化(こうか)は日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。.

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役料

役料(やくりょう)とは、江戸幕府が幕臣に支給した役職手当の1種。 武士は基本的に主君から知行を与えられて、それに対応した軍役を義務として果たすものであった。江戸幕府の知行制度もこの方針に基づいて行われており、初期においては役職についても知行とは別個の給与などは与えられていなかった。しかし、幕府の役職人事が知行高のみならずその職務能力なども考慮して行われるようになると、優秀な人材を抜擢して要職に就けた場合、それに伴う経費の負担をその知行高の範囲では賄いきれない場合もあり、却ってその幕臣が困窮する事態も生じた。こうした事態の救済のために寛文5年3月18日(1665年)に番方を中心とした役料制度が定められた。『徳川実紀』によれば、大番頭2000俵、書院番頭・小姓組番頭1000俵、新番頭・百人組番頭700俵、持弓筒頭・先手頭・歩行頭・書院番組頭・小姓組組頭・小十人頭・目付・使番500俵と定められた。続いて翌年7月には留守居2000俵、大目付・町奉行1000俵、旗奉行・作事奉行・勘定頭700俵、槍奉行・留守居番・普請奉行500俵などと定められた。役料は春・夏・冬の3季に分割して米もしくは金によって支給された。寛文年間に役料として支出された総額は18万俵であったとされている。だが、財政的な事情などから天和2年(1682年)4月には役料を廃止して在職者の役料をそのまま当人の知行高に加えた。 その後、元禄2年(1689年)頃より、特定の役職に対する役料支給が行われ、同5年(1692年)には役料制度が正式に復活された。この時の制度は役職ごとに一定の石高を定め、その水準を満たさない知行保持者にのみ定額の役料を与えた。例えば、留守居・大番頭は5000石を基準としてそれ以下に1000俵、書院番頭・小姓番組頭は3000石以下に1000俵、大目付・町奉行・勘定奉行は3000石以下に700俵、百人組頭は3000石以下に500俵、作事奉行・普請奉行・槍奉行・持弓筒頭は2000石以下に300俵、先手頭・新番頭は1500石以下に300俵、留守居番・目付・使番・書院番組頭・小姓組組頭・徒頭・小十人頭は1000石以下に300俵、鉄砲方は1000石以下に200俵などの決まりがあった。元禄5年(1692年)から享保7年(1722年)までの30年間に在任した幕府役職者のうち、大目付・町奉行・勘定奉行就任者の79%、大番頭就任者の29%が役料支給の対象となった。 限られた幕府財政と役料制度とのバランスを図るべく、享保8年(1723年)6月に導入されたのが、足高の制である。役職ごとに基準高を定め、それに不足する分の石高を在任中に限定して加増するものであった。同制度は翌享保9年(1724年)7月と元文4年(1739年)3月に一部修正が行われて、役料制度の基本とされた。ただし、遠国奉行などに関してはその職務の重要性と出費の機会の多さから足高とは別個に役料が支給された。 慶応3年9月26日(1867年10月23日)に幕府財政の金銀中心への移行に伴い、布衣以上の足高・役料・役扶持などを廃止して役金に統一するが、同年の大政奉還によって実際に機能する前に廃止されることになった。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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信濃飯田藩

飯田藩(いいだはん、信濃飯田藩)は、信濃国伊那郡南部(現在の長野県飯田市追手町)に存在した藩。藩庁は飯田城に置かれた。.

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志摩国

志摩国(しまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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神奈川県

奈川県(かながわけん)は、日本の県の一つ。関東地方の南西端、東京都の南に位置する。県庁所在地は横浜市。県名は東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現・横浜市神奈川区)、および幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれた神奈川奉行所に由来する。これら「神奈川」の由来は、京急仲木戸駅近くに流れていた長さ300メートル (m) ほどの小川の名前からで、現在は道路になっている。 都道府県別の人口は東京都に次ぐ第2位、人口密度は東京都、大阪府に次ぐ第3位である。県内総生産も東京都、大阪府、愛知県に次ぐ第4位となっている。県内の政令指定都市数は3つと日本最多で、面積は第43位の規模である(平成19年度面積)、国土地理院。。.

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稲垣重富

垣 重富(いながき しげとみ、延宝元年(1673年) - 宝永7年4月17日(1710年5月15日))は、江戸時代前期の大名。三河刈谷藩3代藩主、上総大多喜藩主、下野烏山藩初代藩主。鳥羽藩稲垣氏4代。.

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稲垣昭賢

稲垣 昭賢(いながき てるかた、元禄11年4月10日(1698年5月19日) - 宝暦2年12月29日(1753年2月1日))は、江戸時代前期の大名。下野国烏山藩2代藩主、志摩国鳥羽藩初代藩主。鳥羽藩稲垣家5代。 烏山藩初代藩主稲垣重富の長男。母は木下俊長の娘。正室は小出英貞の娘。官位は従五位下和泉守。 宝永7年(1710年)、父が死去したため家督を相続した。享保10年(1725年)、烏山藩から鳥羽藩に移封される。宝暦2年(1752年)12月29日、55歳で死去した。嗣子がなかったため、弟稲垣昭辰の子の昭央が養子となって跡を継いだ。 てるかた Category:譜代大名 Category:烏山藩主 Category:鳥羽藩主 Category:1698年生 Category:1753年没.

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真岡藩

真岡藩(もおかはん)は、下野芳賀郡真岡郷(現在の栃木県真岡市)に存在した藩。.

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烏山城

烏山城(からすやまじょう)は、下野国那須郡(現:栃木県那須烏山市)にあった日本の城(山城)である。.

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版籍奉還

籍奉還(はんせきほうかん)は明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。.

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相馬郡 (下総国)

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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芳賀郡

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鎌倉郡

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菅谷八郎右衛門

菅谷 八郎右衛門(すがや はちろうえもん)は、下野烏山藩の家老。 烏山藩の出身ではなく、三河刈谷藩の藩士の出身である。伯父の八郎右衛門が烏山藩士で、寛政5年(1793年)に伯父の養子となって家督を相続し、烏山藩の年寄格として180石を領した。 烏山藩大久保家に仕え、大久保忠保の時代から二宮尊徳の報徳仕法を手本にして藩政改革を行なう。しかし報徳仕法には藩内で反対の声が強く、天保8年(1837年)に病気に倒れ、天保9年(1838年)7月からは重病に陥って藩政をとれなくなった。これを機に反対派が強くなって12月には隠居させられ、天保11年(1840年)には領外追放になった。 しかし烏山藩の藩財政難が深刻化したため、忠保により天保13年(1842年)12月に家老として復帰を果たす。しかし報徳仕法の効果は上がらず(一度廃止した仕法を行うことに反対派が強硬に反対し、多くの支援金を出した二宮も効果を上げられない菅谷を見限ったためという)、弘化2年(1845年)3月に病気を理由に隠居した。 嘉永5年(1852年)1月8日に死去。享年69。.

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高座郡

奈川県高座郡の範囲(緑:寒川町) 高座郡(こうざぐん)は、神奈川県(相模国)に所属する郡。 以下の1町を含む。.

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豊田郡 (茨城県)

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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貞享

貞享(じょうきょう)は日本の元号の一つ。天和の後、元禄の前。1684年から1688年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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鳥羽藩

鳥羽藩(とばはん)は、志摩国答志郡(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩。藩庁は鳥羽城に置かれた。.

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足柄県

足柄県(あしがらけん)は1871年(明治4年)に相模国西部、伊豆国を管轄するために設置された県。現在の神奈川県西部、静岡県伊豆半島、東京都伊豆諸島にあたる。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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那須烏山市

那須烏山市(なすからすやまし)は、日本の市の一つ。栃木県の東部にある。宇都宮市への通勤率は13.7%(平成22年国勢調査)。.

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那須資弥

那須 資弥(なす すけみつ)は、江戸時代前期の旗本・大名。那須氏24代当主。下野国烏山藩初代藩主。.

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那須資徳

那須 資徳(なす すけのり)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本・大名。下野国烏山藩2代藩主。 陸奥国弘前藩4代藩主・津軽信政の三男として誕生。天和3年(1683年)閏5月1日、母方の大叔父・那須資弥の養子となる。同年7月11日、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に御目見する。貞享4年(1687年)8月25日、資弥の死去により家督を相続するが、同年10月14日、改易となり、実父・津軽信政の許に預けられた。 元禄7年(1694年)閏5月から翌年3月にかけて、信政に従って弘前城に赴き、寺社参詣・湯治などをする 元禄13年(1700年)5月20日、信政の運動により旗本に取り立てられて、小普請に所属する。後に寄合に所属する。元禄14年(1701年)12月25日、下野那須郡内1000石を与えられた。宝永2年(1705年)6月3日、津軽家より合力米3000石を得る。宝永5年(1708年)4月5日、交代寄合となる。同年6月25日、死去、享年37。.

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那須資晴

那須 資晴(なす すけはる)は、下野国の戦国大名。那須氏21代当主。.

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那須郡

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那須藩

那須藩(なすはん)は、下野国那須郡内(現在の栃木県大田原市福原)に存在した藩。.

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那須氏

那須氏(なすし)は、日本の氏族のひとつ。下野国那須郡を発祥とする。.

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若年寄

若年寄(わかどしより)とは.

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若林昌恭

若林 昌恭(わかばやし まさよし)は、下野烏山藩の家老。 烏山藩大久保家の大久保忠成に仕え、文化9年(1812年)に家老となる。文化10年(1813年)7月から「厳法」と称された藩政改革を実施し、家老兼国元勝手御用として手腕を振るった。文政元年(1828年)に隠居し、嘉永4年(1851年)1月20日に死去した。享年95という長寿だった。.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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松下重綱

松下 重綱(まつした しげつな)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。遠江久野藩の第2代藩主、常陸小張藩主、下野烏山藩主。のちに陸奥二本松藩の初代藩主となる。.

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板倉重矩

板倉 重矩(いたくら しげのり)は、江戸時代初期の大名。老中・京都所司代。三河深溝藩主、中島藩主、下野烏山藩主。重昌流板倉家第2代。.

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板倉重種

板倉 重種(いたくら しげたね)は、江戸時代前期の大名、老中。下野烏山藩主、後に武蔵岩槻藩主、信濃坂木藩主。重昌流板倉家第3代。.

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栃木県

栃木県(とちぎけん)は、日本の都道府県の一つ。関東地方北部に位置する。県庁所在地は宇都宮市。県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有する。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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永井直敬

永井 直敬(ながい なおひろ)は、江戸時代中期の譜代大名。下野烏山藩主、播磨赤穂藩主、信濃飯山藩主、武蔵岩槻藩初代藩主。尚庸系永井家2代。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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成田氏長

成田 氏長(なりた うじなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。.

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成田泰之

成田 泰之(なりた やすゆき)は、江戸時代前期の武将。下野国烏山藩の第2代藩主。初代藩主・成田泰親の次男。官途名は左馬助行田市史編さん委員会 2012、528-529頁。母は上杉憲盛の娘。.

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成田泰親

成田 泰親(なりた やすちか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。下野烏山藩主。官途名は左衛門尉行田市史編さん委員会 2012、528-529頁。妻は上杉憲盛の娘。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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浅野氏

浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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愛甲郡

奈川県愛甲郡の範囲(1.愛川町 2.清川村) 愛甲郡(あいこうぐん)は、神奈川県の郡。 以下の1町1村を含む。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1590年

記載なし。

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1591年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1616年

記載なし。

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1622年

記載なし。

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1623年

記載なし。

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1627年

記載なし。

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1637年

記載なし。

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1672年

記載なし。

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1673年

記載なし。

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1681年

記載なし。

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1687年

記載なし。

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1702年

記載なし。

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1710年

記載なし。

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1725年

記載なし。

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1839年

記載なし。

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1840年

記載なし。

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1845年

記載なし。

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1852年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1871年

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