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源頼定

索引 源頼定

源 頼定(みなもと の よりさだ、貞元2年(977年) - 寛仁4年6月11日(1020年7月4日))は、平安時代中期の公卿。村上源氏。村上天皇の第四皇子・一品式部卿為平親王の次男。官位は正三位・参議。.

113 関係: 即位右大臣参議大和国大鏡大江匡房外戚女御官位寛仁寛弘尚侍小右記崩御左経記中宮中公新書中納言中関白家三条天皇一品親王一条天皇平安時代平安時代史事典任官伊予国式部省弥勒寺弾正台御堂関白記後一条天皇従三位従二位従四位別当備中国備前国冷泉天皇円融天皇内大臣出家公卿公卿補任兵衛府勘事勘当勘解由使国司皇太子皇子...皇族美作国為平親王角川書店議政官貞元 (日本)越中国近衛府藤原安子藤原師輔藤原伊周藤原元子藤原綏子藤原隆家藤原道長藤原顕光藤原氏蔵人頭臣籍降下長久長徳長保長和腫瘍連座枕草子村上天皇村上源氏栄花物語検非違使権記橘輔政橘氏正三位正四位正暦殿上人永祚 (日本)源高明春宮坊昇殿1001年1004年1005年1006年1008年1009年1010年1016年1017年1020年1042年1970年1999年6月11日 (旧暦)7月4日977年990年992年993年996年998年999年 インデックスを展開 (63 もっと) »

即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大鏡

『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語である。.

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大江匡房

大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥(ごうのそつ)と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

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官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

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寛仁

寛仁(かんにん)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1020年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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寛弘

寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.

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尚侍

尚侍(ないしのかみ/しょうじ)とは、日本の律令制における官職で、内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名。.

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小右記

『小右記』(おうき / しょうゆうき)は、平安時代の公卿藤原実資の日記。「小右記」とは小野宮右大臣(実資のことを指す)の日記という意味。全61巻。全文は漢文で書かれている。『野府記』(やふき)ともいう。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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左経記

『左経記』(さけいき)とは、平安時代中期の貴族・源経頼の日記。題名は経頼が参議兼左大弁の地位にあった事に由来する。また、「経頼」の文字の偏の部分より『糸束記』(しそくき)という別称もある。 長和5年(1016年)より長元8年(1035年)まで途中に欠失があるものの、伝存している。また、別個に後世の人が長元2年(1029年)から同9年(1036年)までの災異記事を抽出した『類聚雑例(るいじゅうざつれい)』という書物もある。 藤原実資の『小右記』と比較して簡略ではあるものの、両者の比較研究によって11世紀前半の政治・社会情勢の研究に資するところが大きいとされている。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中公新書

中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベルの1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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中関白家

中関白家(なかのかんぱくけ)は、藤原北家の中の、平安時代中期の関白藤原道隆を祖とする一族の呼称。.

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三条天皇

三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ / いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。 冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。.

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一品親王

一品親王(いっぽんしんのう)とは、律令制において皇親に対して与えられた最も高い品位である一品を与えられた親王のこと。広義では一品を与えられた内親王(一品内親王)も含まれる。.

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一条天皇

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年8月1日) - 寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子。兄弟姉妹はない。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平安時代史事典

『平安時代史事典』(へいあんじだいしじてん)は、1994年に平安京遷都1,200年を記念して、古代学協会・古代学研究所編集のもと角川書店より出版された、平安時代の総合大事典。角田文衞監修。全3冊。なおこの事典は絶版となっていたが、2006年11月にCD-ROM版が発売された。.

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任官

任官(にんかん)とは、官職に任用されることをいう。古くは奈良時代の律令制導入の際より日本の官制において用いられた用語であり、今日の政府や国家機関等においても使用されている。今日では国家公務員の職、特に裁判官、検察官、自衛官(即応予備自衛官、予備自衛官を含む)、警察官、海上保安官、刑務官、労働基準監督官などに任ぜられる場合に用いられる。対義語は「免官」、「退官」。 なお、関連用語として、「任官拒否」という用語もある。用法としては、司法試験合格者のうち、裁判官等への任官を拒否するために用いられ、その他には防衛大学校卒業者が自衛官への任官を拒否する場合にも用いられる。なお、国家公務員が異なる官庁・職種に転じる場合、転官ともいう。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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弥勒寺

弥勒寺、彌勒寺(みろくじ).

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弾正台

弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、律令制下の太政官制に基づき設置された、監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つで、古代と近代(明治時代初期)に存在した。.

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御堂関白記

『御堂関白記』(みどうかんぱくき)は、平安時代の貴族の摂政太政大臣・藤原道長が著した日記。『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『御堂御記』『入道殿御日記』『御堂御暦』などとも称される。 「御堂」とは、藤原道長建立の法成寺無量寿院を指している。しかし、道長は生前、一度として関白となっておらず、御堂関白記の名称は後世付けられたものである。 道長は、政権を獲得した長徳元年(995年)から日記を記し始め、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004年)からは継続的に書き続けている。現存するものは、長徳4年(998年)から治安元年(1021年)の間の記事である。近衛家の陽明文庫が所蔵する自筆本十四巻、古写本十二巻が伝わり、国宝に指定されている。 『御堂関白記』は、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しい。これは同じ藤原摂関家の藤原忠実による『殿暦』、藤原師通による『後二条師通記』にも見られる。また、当時の読み癖を窺うことができる。 道長が『御堂関白記』を記した契機として、「子供に対する意識」があったためであったという。同時代の貴族が記した日記、『小右記』(藤原実資)、『権記』(藤原行成)とともに、当時の貴族社会を知る上で、重要な意味を持つ史料である。 なお、寛弘5年12月20日(1009年1月18日)条の裏書には近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)が抜書されている。これを記したのは近衛信尹とされ、折状の状態にしていた自筆本のうち寛弘5年(1008年)の裏にだけ日記を写したうえで、元の巻子本に戻し、表紙を付けた。嗣子の近衛信尋がこれを発見し、景紙の外題に「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたという。 平成23年(2011年)5月、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に推薦され、平成25年(2013年)6月18日に登録された。.

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後一条天皇

後一条天皇(ごいちじょうてんのう、寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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別当

別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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冷泉天皇

冷泉天皇(れいぜいてんのう、天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。.

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円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公卿補任

公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.

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兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

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勘事

勘事(かんじ/こうじ)とは、上官の譴責を受けて出仕の差し止めなどの処分を受けること。勘当とも称した。天皇からの勘事の場合は、特に勅勘(ちょっかん)と称した。.

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勘当

勘当(かんどう)は日本の風習で、親が子に対して親子の縁を切ること。.

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勘解由使

勘解由使(かげゆし)は、日本の律令制下の令外官の一つ。平安時代初期、地方行政を監査するために設置された。その後、監査の対象は内官(京都の各官職)へと拡大した。勘解由使の官庁である勘解由使庁は、太政官の北西、中務省の南に位置した。和名は「とくるよしかんがふるのつかさ」。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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皇子

皇子(みこ、おうじ)は、皇帝または天皇の男子。広義には男女を問わない(皇室典範第6条参照)が、かかる用法はまれである。国によって「親王」「郡王」「王」「大公」などの称号が与えられることがある。これに対して女子を皇女(おうじょ)という。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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為平親王

平親王(ためひらしんのう)は平安時代の皇族で村上天皇の第四皇子。母は中宮藤原安子。同母兄弟に冷泉天皇、円融天皇。妻は源高明の娘。官位は一品式部卿まで昇った。染殿式部卿と称された。.

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角川書店

角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.

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議政官

議政官(ぎせいかん).

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貞元 (日本)

貞元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。天延の後、天元の前。976年から978年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇。.

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越中国

越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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藤原安子

藤原 安子(ふじわら の あんし(やすこ)、延長5年(927年) - 応和4年4月29日(964年6月11日))は、右大臣藤原師輔の長女。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。第62代村上天皇中宮。第63代冷泉天皇・第64代円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王らの生母。同母兄弟に伊尹・兼通・兼家・忠君、登子(重明親王妃)・藤原師輔三女(源高明先妻、俊賢母)・怤子(冷泉天皇女御)など。.

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藤原師輔

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。 有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。.

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藤原伊周

藤原 伊周(ふじわらの これちか)は平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。.

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藤原元子

藤原 元子(ふじわら の げんし(もとこ)、生没年不詳)は平安時代中期、左大臣藤原顕光の長女。母は盛子内親王(村上天皇皇女)。一条天皇の女御。承香殿女御といわれた。同母兄妹に重家、延子(小一条院妃)がいる。.

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藤原綏子

藤原 綏子(ふじわら の すいし・やすこ、天延2年(974年) - 寛弘元年2月7日(1004年2月29日))は平安時代中期、三条天皇皇太子時代の妃。公式の身分は正二位尚侍。摂政太政大臣藤原兼家の三女で、母は「対の御方」とよばれて兼家に寵愛された従三位藤原国章の娘。.

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藤原隆家

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男).

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藤原道長

藤原 道長(ふじわら の みちなが)は、平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男(または四男)。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。 一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させた。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。.

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藤原顕光

藤原 顕光(ふじわら の あきみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原兼通の長男。官位は従一位・左大臣。 父・兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟・兼家(顕光の叔父)と道長(顕光の従弟)父子に実権を奪われる。無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。晩年、左大臣に上るが失意のうちに死去し、道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、悪霊左府と呼ばれた。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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蔵人頭

蔵人頭(くろうどのとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。 蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が殿上人の首座として蔵人および殿上人を指揮し、勅旨や上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。通常、四位の者が補任されるが、官位相当は無い。定員は2名。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず)とも呼ばれた(「貫主」と表記されることもある)。また、蔵人として禁色の使用が許された。参議に欠員が出た場合、蔵人頭が即参議に就任するようになり、公卿への昇進への登竜門ともいえる役職となった。また、その際に参議に就任するものが後任の適格者を推挙する例があり、源俊賢が藤原行成を推したことが知られている。 蔵人頭は武官である近衛中将と、文官である弁官の大弁または中弁から1名ずつ選ばれることが多くなり、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。藤原俊憲の『貫首秘抄』には、頭中将は「禁中万事」を申し行い、頭弁は「天下巨細」を執奏するとされ、頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記されている。頭中将は上流貴族出身者が務めたのに対し、頭弁は実務処理能力が重視された。このため、朝廷や摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流・日野流などの藤原北家や高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出され、後にこれが通例となった。ただしそれ以外の職から選ばれることもあり、その場合には、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた。10世紀頃までは、近衛少将で蔵人頭に補される例もよく見られ、2名とも頭中将である例や2名とも頭弁である例もあり、頭中将と頭弁1名ずつの原則が定着したのは平安時代末期の頃であった。院政期には、官職の推挙に院の近臣が容喙することが増えたためか、再びこの慣習が乱れ、安元2年(1176年)12月5日の除目において、蔵人頭に左中将藤原定能と右中将藤原光能が任ぜられたという例がある。 良岑衆樹は54歳になって任じられた。.

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臣籍降下

臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言った。また日本国憲法施行後は皇籍離脱(こうせきりだつ)の語が用いられる。.

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長久

長久(ちょうきゅう)は、日本の元号の一つ。長暦の後、寛徳の前。1040年から1043年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇。.

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長徳

長徳(ちょうとく)は、日本の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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長保

長保(ちょうほう)は、日本の元号の一つ。長徳の後、寛弘の前。999年から1003年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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長和

長和(ちょうわ)は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。.

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腫瘍

腫瘍(しゅよう、Tumor)とは、組織、細胞が生体内の制御に反して自律的に過剰に増殖することによってできる組織塊のこと。腫瘍ができたことにより、身体に影響を及ぼすことがある。 病理学的には、新生物(しんせいぶつ、Neoplasm)と同義である。なお、Neoplasmはギリシャ語のNeoplasia(新形成)からできた単語である。.

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連座

連座(れんざ、連坐とも)とは刑罰の一種で、罪を犯した本人だけでなく、その家族などに刑罰を及ぼすことである。なお、江戸時代までは家族などの親族に対する連座は縁座(えんざ、縁坐)と呼称され、主従関係やその他特殊な関係にある者に適用される一般の連座とは区別して扱われていた。 英語の"Collective Punishment"の訳語として、「集団罰(しゅうだんばつ)」「集団懲罰(しゅうだんちょうばつ)」「集団的懲罰(しゅうだんてきちょうばつ)」などの語も使われる。民族や国民全体など、非常に広範囲への連座をも指す用語になっている。.

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枕草子

王子猷(王羲之の子)が竹を「此君」と呼んだ事に因む。 『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」、「枕冊子」、「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称された。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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栄花物語

『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代の歴史物語。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書。.

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検非違使

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。.

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権記

『権記』(ごんき)は、平安時代中期に活躍した藤原行成の記した日記である。名の由来は、極官(ごくかん)の権大納言による。『行成卿記』、『権大納言記』とも。執筆時期は藤原道長の全盛期で、特に蔵人頭在任中(一条天皇期)の活動が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢・宮廷の深奥を把握するための第一級の史料。 正暦2年(991年)から寛弘8年(1011年)までのものが伝存し、これに万寿3年(1026年)までの逸文が残っている。自筆本は伝わらない。最も古い写本は、鎌倉時代以前に筆写された伏見宮本(宮内庁書陵部蔵)である。同時期の日記に『小右記』(藤原実資)、『御堂関白記』(藤原道長)がある。.

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橘輔政

橘 輔政(たちばな の すけまさ、生没年不詳)は平安時代中期の貴族。名は輔正とも表記される。大納言、橘好古の三男。官位は従四位下・越中守。.

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橘氏

橘氏(たちばなうじ)は、「橘」を氏の名とする氏族。 県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖とする皇別氏族で、飛鳥時代末から橘宿禰(のち朝臣)姓を称した。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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正暦

正暦(しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。永祚の後、長徳の前。990年から995年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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殿上人

殿上人(てんじょうびと)とは、9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者である。狭義には、公卿を除いた四位以下の者を指す。またその中から更に蔵人も除いて指す場合もある。雲上人(くものうえびと、うんじょうびと)、上人(うえびと)、雲客(うんかく)、堂上(とうしょう)、簡衆(ふだのしゅう)などとも称す。殿上人に対する概念として、昇殿を許されない「地下」(じげ)がある。 狭義の殿上人は、蔵人とともに、殿上間に置かれた日給簡(殿上簡、仙籍)に登録され、蔵人頭の管理下に、交替で天皇の身辺に日夜、仕えた。昇殿制の始まった当初は数名の六位の殿上人もいたが、おおよそは四位・五位に限られた。これに対し、蔵人は六位からも任じられた。 また、院や東宮等にも昇殿の制度があり、昇殿を許されたものを「院殿上人」等と称した。院の殿上人と内裏の殿上人を区別して、後者を「内の殿上人」(うちのてんじょうびと)等とも言う。 昇殿を許されるのは、天皇や院、東宮の一代限りであり、代替わりにあたっては昇殿許可を失い、再び昇殿するには改めて勅許が必要であった。また殿上人本人の昇階の際にも、再度の勅許が必要であった。.

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永祚 (日本)

永祚(えいそ)は、日本の元号の一つ。永延の後、正暦の前。989年から990年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。.

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源高明

源 高明(みなもと の たかあきら)は、平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。 一世源氏の尊貴な身分であり、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。師輔・安子の死後、藤原氏に忌まれて安和の変で失脚し、政界から退いた。.

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春宮坊

春宮坊(とうぐうぼう)は日本古代の律令制において存在した機関。和訓は「みこのみやのつかさ」。.

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昇殿

昇殿(しょうでん)とは、平安時代以降の日本の朝廷において、内裏清涼殿の南廂にある殿上の間に昇ることを許すことである。昇殿による身分体系の制度を昇殿制(しょうでんせい)という。 公卿(三位以上および四位を含む参議以上の議政官)は原則的に昇殿が許され、この他に四位以下(参議を除く)の特定の官人および蔵人に、勅許(宣旨)によって昇殿が許された。この勅許は、天皇の代替わりによって効力を失なった。四位以下の昇殿を許された者は殿上人として特権的な待遇を受けたため、位階・官職を補う身分制度として、重要な意味を有した。中世以降には家格によって昇殿の対象者が決まるようになり、殿上人となり得る家を堂上家と呼んだ。 院や女院、皇后や東宮も、それぞれの御所において昇殿の制度があった。これらを内裏の昇殿と区別するには、内裏のものを「内の昇殿」(うちのしょうでん)、院のものを「院の昇殿」等と言う。 また、有力家の子弟が、元服前に小舎人として昇殿を許されて宮中に参仕する制度があり、童殿上(わらわてんじょう)と言った。.

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1001年

11世紀および2千年紀における最初の年である。.

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1004年

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1005年

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1006年

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1008年

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1009年

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1010年

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1016年

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1017年

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1020年

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1042年

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1970年

記載なし。

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1999年

1990年代最後の年であり、1000の位が1になる最後の年でもある。 この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。.

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6月11日 (旧暦)

旧暦6月11日は旧暦6月の11日目である。六曜は仏滅である。.

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7月4日

7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。誕生花はネジバナ、ハナギボシ。.

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977年

記載なし。

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990年

記載なし。

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992年

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993年

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996年

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998年

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999年

記載なし。

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