Google PlayストアでUnionpediaアプリを復元するために作業中です
出ていきます入ってきます
🌟ナビゲーションを改善するためにデザインを簡素化しました!
Instagram Facebook X LinkedIn
あなたのロゴとドメインを持つ独自のユニオンペディア、月額9.99 USDから
私のユニオンペディアを作成する

上士

索引 上士

上士(じょうし)は、武士の身分のひとつ。江戸時代の上級藩士である。上士や平士、郷士などと分けたときの最上位の家格のことである。騎乗が許されたことから騎士とも。

目次

  1. 348 関係: 加賀藩加藤弘之原敬側用人千坂高雅千坂洋三郎千坂智次郎南摩綱紀口羽良介参政名張藤堂家吉田東洋吉田正春吉敷毛利家坪井航三坂本幸坂本直足坂本龍馬坂本権平堅田少輔堀内三郎士分士族大山捨松大目付大隈重信大隅国大聖寺藩大鳥富士太郎大鳥圭介大黒清勝奥平壱岐奥保鞏奥医師奥村栄滋妻木頼黄宮地信貞宮地茂秋宮地茂春家老宇佐美勝夫安場保和寺村道成富田鐵之助小十人小姓組小倉藩小野高福小松清廉小栗孝三郎... インデックスを展開 (298 もっと) »

加賀藩

金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中(現在の石川県・富山県)の3国の大半を領地とした藩。藩祖・前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。

見る 上士と加賀藩

加藤弘之

加藤 弘之(かとう ひろゆき、1836年8月5日〈天保7年6月23日〉- 1916年〈大正5年〉2月9日)は、明治時代の日本の政治学者、教育者。旧幕臣・出石藩士。位階勲等は正二位勲一等、爵位は男爵、学位は文学博士・法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵(こうぞう)。 外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第3代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務めた。大日本教育会名誉会員。その後男爵、初代帝国学士院院長、枢密顧問官。

見る 上士と加藤弘之

原敬

原 敬(はら たかし、1856年3月15日〈安政3年2月9日〉- 1921年〈大正10年〉11月4日)は、日本の外交官、政治家。 位階勲等は正二位大勲位。幼名は健次郎(けんじろう)。号は一山、逸山(いつざん)。「はら けい」と音読みが用いられる場合もある(原敬記念館、『原敬日記』など)。 外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆議院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。 郵便報知新聞の記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。外務大臣時代には外務官僚として重用されたが退官。立憲政友会の発足に参加して政界に進出。1918年(大正7年)に総理大臣に就任。平民であり、爵位をもたなかったことから「平民宰相(へいみんさいしょう)」と渾名された。1921年(大正10年)11月4日、東京駅で暗殺された(原敬暗殺事件)。

見る 上士と原敬

側用人

側用人(そばようにん)は、江戸時代、幕府および諸藩に置かれた役職。

見る 上士と側用人

千坂高雅

千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)は、日本の官僚・政治家・実業家。陸軍中佐、錦鶏間祗候。 幼名は與市、戊辰戦争中は太郎左衛門、喜遯斉。 出羽国米沢藩家老の家に生まれ、英国留学後内務省に勤務。西南戦争に陸軍中佐として出征した後、石川県令、内務大書記官、岡山県令および県知事を歴任し、明治27年に依願免本官後には貴族院の 勅撰議員に就任した。

見る 上士と千坂高雅

千坂洋三郎

千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1月) - 昭和15年(1940年)12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。

見る 上士と千坂洋三郎

千坂智次郎

千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年2月15日)- 1936年(昭和11年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。

見る 上士と千坂智次郎

南摩綱紀

南摩 綱紀(なんま つなのり、文政6年11月25日(1823年12月26日) - 明治42年(1909年)4月13日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。通称は八之丞、号は羽峯。

見る 上士と南摩綱紀

口羽良介

口羽 良介(くちば よしすけ、弘化2年(1845年) - 明治36年(1903年)6月28日)は、江戸時代末期の長州藩重臣。寄組口羽氏(1018石)7代。通称は六左衛門吉田祥朔 著 『増補 近世防長人名辞典』(マツノ書店 1976年) より。幼名は熊之允。

見る 上士と口羽良介

参政

参政(さんせい)。

見る 上士と参政

名張藤堂家

名張藤堂家(なばりとうどうけ)は、藤堂氏の支流で武家・士族・華族だった家。藤堂高虎の養子・藤堂高吉を祖とし、江戸時代には津藩の一門家臣として代々宮内を通称とし、藤堂宮内家とも呼ばれた。維新後には初め士族、後に華族の男爵家に列した。

見る 上士と名張藤堂家

吉田東洋

吉田 東洋(よしだ とうよう)は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩士・参政。諱は正秋。東洋は号。後藤象二郎は義理の甥にあたる。

見る 上士と吉田東洋

吉田正春

吉田 正春(よしだ まさはる、1852年6月6日(嘉永5年4月19日) - 1921年(大正10年)1月18日)は、日本の外交官。吉田東洋の嫡男。通称は源太郎。号は静海、暦園。日本人として初めてイラン(当時はペルシア)を訪れた「吉田正春使節団」団長。

見る 上士と吉田正春

吉敷毛利家

吉敷毛利家(よしき もうりけ)は、毛利家の庶流にあたる武家・士族・華族だった家。毛利元就の三男小早川隆景及び九男小早川秀包を祖とし、江戸時代には長州藩の一門家老家であり、維新後ははじめ士族、後に華族の男爵家に列した。

見る 上士と吉敷毛利家

坪井航三

坪井航三の石碑 瑞聖寺(東京都港区) 坪井 航三(つぼい こうぞう、天保14年3月7日(1843年4月6日) - 明治31年(1898年)2月1日)は、日本の海軍軍人。元長州藩士。日本海軍での最終階級は海軍中将。勲等は従三位勲二等功三級、男爵。幼名・信次郎。航三の他に則光の名も使用していた。

見る 上士と坪井航三

坂本幸

坂本 幸(さかもと こう、寛政8年(1796年) - 弘化3年6月10日(1846年8月1日))は、土佐藩郷士・坂本直澄の娘。母・久は井上好春の娘 直澄の一人娘として生まれ、坂本家に男子が授からなかったため、やむなく直澄は土佐郡潮江村の郷士・山本家より養子を迎えた。幸の夫となる坂本直足である。のち、その間に2男3女をもうける。直陰(龍馬)は次男にあたる。墓所は高知市山手町の坂本家墓所。 名前の読み方については一般的に「こう」であるが、資料によっては「さち」「ゆき」と表記されているものもある。

見る 上士と坂本幸

坂本直足

坂本 直足(さかもと なおたり、寛政9年(1797年)- 安政2年12月4日(1856年1月11日))は、江戸時代末期の土佐藩郷士。坂本家第3代当主。通称は常八郎、のち長兵衛。隠居後に八平(はちへい)と称したため、坂本八平の呼称でも知られる。坂本龍馬の父である。

見る 上士と坂本直足

坂本龍馬

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬」という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。前者の例としては、平成11年(1999年)3月実施北海道公立高校入学試験の社会の大問4問5(2)の選択肢: 「ア 木戸孝允 イ 坂本龍馬 ウ 西郷隆盛 エ 徳川慶喜」などがあり、後者は、『中学社会 歴史』(教育出版。

見る 上士と坂本龍馬

坂本権平

坂本 権平(さかもと ごんぺい、文化11年(1814年) - 明治4年7月8日(1871年8月23日))は、幕末の土佐藩郷士。諱は直方。

見る 上士と坂本権平

堅田少輔

堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日『明治維新人名辞典』272頁。)- 大正8年(1919年)11月29日『増補 近世防長人名辞典 第2刷』93頁。『山口県百科事典』161頁。『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』174-175頁。)は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正。通称・健助、大和、少輔。

見る 上士と堅田少輔

堀内三郎

堀内 三郎(ほりのうち さぶろう、1870年1月6日(明治2年12月6日) - 1933年(昭和8年)12月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。

見る 上士と堀内三郎

士分

士分(しぶん)は、江戸期の武士階級のうち正規の武士身分を持った者を指す。士格(しかく)とも。一般に公的に苗字を名乗り帯刀することが許された。

見る 上士と士分

士族

士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。法律上平民と比しての特権はなかったが、戸籍に表示された。第二次世界大戦後1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行により士族は他の身分とともに廃止された。戸籍の記載事項としての廃止は、1947年12月22日公布、1948年1月1日施行の戸籍法により行われた。士農工商の「士」である。

見る 上士と士族

大山捨松

大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。

見る 上士と大山捨松

大目付

大目付(おおめつけ)は、江戸幕府および諸藩の役職の一つ。古くは惣目付(そうめつけ)、大監察(だいかんさつ)とも呼ばれた。

見る 上士と大目付

大隈重信

大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社大学社友。 通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。 早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設。

見る 上士と大隈重信

大隅国

大隅国(おおすみのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の東部に属する。

見る 上士と大隅国

大聖寺藩

大聖寺藩(だいしょうじはん)は、江戸時代に加賀国江沼郡にあって江沼郡および能美郡の一部を領した藩である。加賀藩の支藩であり、石高は初め7万石、後に10万石となった。家紋は棒梅鉢。第3代藩主前田利直が宝永6年(1709年)に築いた別邸長流亭は国の重要文化財に指定されている。藩庁は大聖寺陣屋である。

見る 上士と大聖寺藩

大鳥富士太郎

大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日(1866年2月8日)- 1931年(昭和6年)11月7日)は、日本の台湾総督府官僚、外交官。貴族院男爵議員。

見る 上士と大鳥富士太郎

大鳥圭介

大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、江戸時代後期の幕臣(幕府伝習隊長、歩兵奉行)、医師、蘭学者、軍事学者、工学者、思想家、発明家。明治時代の教育者(工部美術学校校長、工部大学校校長、学習院第3代院長、華族女学校校長)、政治家、外交官、官吏。位階勲等は正二位勲一等男爵。 別名、大鳥純彰。号は如楓(じょふう)。家紋は鶴の丸。

見る 上士と大鳥圭介

大黒清勝

大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 - 1790年3月28日〈寛政2年2月13日〉)は、土佐藩士、日本の武道師範。無双直伝英信流居合術第11代宗家。字は「元右衛門」。長曾我部氏の支流で、本姓は秦氏。

見る 上士と大黒清勝

奥平壱岐

奥平 壱岐(おくだいら いき、文政7年(1824年) - 明治17年(1884年)5月9日)は、豊前中津藩家老の砲術家、漢学者、儒学者。本名は奥平 正衡(おくだいら まさひろ)。幕末維新後には中金 正衡(なかがね まさひろ)と改名。同藩下士の出身であった福澤諭吉に入門して、官吏・啓蒙思想家となった。号は寄梅、名を十学、神錫。

見る 上士と奥平壱岐

奥保鞏

奥 保鞏(おく やすかた、弘化3年11月19日(1847年1月5日) - 昭和5年(1930年)7月19日)は、日本の陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。 皇族、薩長出身者以外で最初の元帥となった。

見る 上士と奥保鞏

奥医師

奥医師(おくいし)とは、江戸幕府の医官。若年寄の支配に属し、奥に住んでいる将軍とその家族の診療をした。近習医師・御近習医師・御側医師とも呼ばれた。ほとんどが世襲であったが、諸大名の藩医や町医者から登用されることもあった。

見る 上士と奥医師

奥村栄滋

奥村 栄滋(おくむら てるしげ、1853年10月9日(嘉永6年9月7日『平成新修旧華族家系大成 上巻』373頁。)- 1923年(大正12年)3月17日)は、加賀八家奥村宗家第14代当主、男爵、金沢市長。正四位勲六等。 父は加賀藩年寄奥村栄通。妻は前田恒敬の娘。子は奥村栄同、奥村純松。通称義十郎。家紋は「丸ノ内九枚笹」。

見る 上士と奥村栄滋

妻木頼黄

妻木 頼黄(つまき よりなか)は、日本の建築家。明治建築界の三大巨匠の一人。大蔵省営繕の総元締めとして絶大なる権力を持っていた営繕官僚。幕末に、幕府旗本の長男として生まれる。工部大学校造家学科(のちの東京大学建築学科)に入学、卒業1年前になって同学校を退学し、コーネル大学建築学科に留学、卒業後ニューヨークのロバートソン事務所で修行。大蔵省などで数多くの官庁建築を手がけ、明治時代の官庁営繕組織を確立した。国会議事堂の建設にも執念を燃やしたが、妻木の在世中に本建築が着工することはなかった。工手学校(現工学院大学)造家学科教員。

見る 上士と妻木頼黄

宮地信貞

宮地 信貞(みやじ のぶさだ、1748年(延享5年/寛延元年)- 1825年10月7日(文政8年8月25日))は、土佐藩士、大和流弓術の師範。字は「順右衛門」。自由民権家・宮地茂春の曾祖父。坂本龍馬の大叔父にあたる。

見る 上士と宮地信貞

宮地茂秋

宮地 茂秋(みやじ しげあき、1884年(明治17年)9月28日 - 1977年(昭和52年))は、明治・大正・昭和の実業家。日本セメント株式会社常務取締役、京阪電気鉄道株式会社監査役、呉軍港土地株式会社取締役、セメント連合会会長。自由民権活動家・宮地茂春の長男。坂本龍馬・板垣退助両家の血統を引く人物。妻は福岡孝弟の孫娘。

見る 上士と宮地茂秋

宮地茂春

宮地 茂春(みやじ しげはる、1860年(安政6年) - 1895年(明治28年)6月11日)は、江戸時代末期の土佐藩白札郷士。自由党員。自由民権活動家。幼名は桃太郎(ももたろう)。

見る 上士と宮地茂春

家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。

見る 上士と家老

宇佐美勝夫

宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年5月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月26日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』100頁。)は、日本の内務官僚、政治家。幼名は慎平。富山県知事、東京府知事、貴族院議員などを歴任した。 山形県士族宇佐美駿太郎の弟。

見る 上士と宇佐美勝夫

安場保和

安場 保和(やすば やすかず、天保6年4月17日(1835年5月14日) - 明治32年(1899年)5月23日)は、日本の官僚・政治家。 江戸時代には肥後国熊本藩士であり、横井小楠の門下生だった。戊辰戦争で官軍に従軍して戦功を挙げた後、明治政府の高官として活躍し、福島県令、愛知県令、元老院議官、参事院議官、福岡県知事、愛知県知事、北海道庁長官などを歴任。勲功により華族に列して男爵となる。

見る 上士と安場保和

寺村道成

寺村 道成(てらむら みちなり、天保5年6月24日(1834年7月30日) - 明治29年(1896年)7月27日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての政治家、土佐藩士。寺村氏の一族。通称ははじめ麟三郎、のち左膳。明治維新後は日野春草と改名した。

見る 上士と寺村道成

富田鐵之助

富田 鐵之助(とみた てつのすけ、天保6年10月16日(1835年12月5日)- 大正5年(1916年)2月27日)は、日本の武士(仙台藩士)、官僚、外交官、実業家。諱は実則。号は鉄畊。 日本銀行初代副総裁・第2代総裁を務めるが、大蔵大臣松方正義と対立して罷免された。後に貴族院議員・東京府知事を歴任する。

見る 上士と富田鐵之助

小十人

小十人(こじゅうにん)は、江戸幕府に設けられた職制の一つ。五番方(書院番、小姓組、大番、小十人、新番)に数えられる軍事部門の職制であり、徳川将軍家の警備/警護部隊としての旗本の常備兵力を組織していた。語源は扈従人であり、それが小十人に変化したと考えられている。格式は両番(書院番、小姓組)の下に置かれ、五番方の中で唯一馬上資格を持たなかったが、華々しい朱色具足の着用を認められて番役随一の光彩を放っていた。戦時の両番が将軍馬廻の騎馬であるのに対し、小十人は徒士(歩兵)であったが将軍の近習ないし将軍本陣の近侍であったので格式は高かった。騎馬である書院番と小姓組が対を為していたのと同様に、歩兵である小十人と新番も対を為していた。平時においては将軍行列の前衛部隊、目的地の先遣警備隊、江戸城中警備役の三種を担い、泰平の時世ではほぼこれらに専念にした。

見る 上士と小十人

小姓組

小姓組(こしょうくみ)は、江戸幕府に設けられた職制の一つ。徳川将軍の馬廻衆(親衛隊)としての高い格式を持ち、同様の書院番と共に両番と称された。五番方(書院番、小姓組、大番、小十人、新番)に数えられる軍事部門の職制であり、大番、小十人、新番よりも上に置かれた。小姓組の番士には幕府内での出世(両番家筋)の道が開かれていた。

見る 上士と小姓組

小倉藩

小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。

見る 上士と小倉藩

小野高福

小野 高福(おの たかとみ、安永3年(1774年) - 嘉永5年6月5日(1852年7月21日)は、江戸時代後期の旗本。飛騨郡代。父は小野高達、母は祖父小野高品の娘。室は不詳。継室は神官塚原石見の娘、磯。子に山岡鉄舟ら。通称は鉄太郎、朝右衛門。家禄は600石。 寛政2年(1790年)家督を継ぎ、文化元年(1804年)大番となる。出役で蔵奉行となり、弘化2年(1845年)飛騨郡代となって布衣着用を許される。子の山岡鉄舟も父の転勤に伴い、幼少期を高山で過ごしている。在任中は町会所を利用し、医師が会談することを勧め、丙午出生児の迷信を打破するよう諭し、それまで形式的であった宗門人別帳を実際的なものにするよう指導した。

見る 上士と小野高福

小松清廉

小松 清廉(こまつ きよかど)は、幕末から明治初期の政治家。維新の十傑の1人。旧名は肝付 兼戈(きもつき かねたけ)。通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀(たてわき)。また明治には従四位下玄蕃頭の位階官職を与えられたため、玄蕃頭とも称された。 薩摩国吉利(2,600石)領主だった薩摩藩士小松家の当主で、幕末に薩摩藩の家老に出世し藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)において重要な役割を果たして明治維新の成就に貢献した。維新後には新政府で参与、総裁局顧問、外国事務局判事などの要職に任じられていたが、直後の明治3年(1870年)に世を去った。 明治に入ってすぐの病死だったため、その後に明治政府で活躍した同じ薩摩出身の西郷隆盛や大久保利通の知名度に隠れがちであったが、小松家について多く記した玉里島津家史料の黎明館への寄贈により、21世紀にその事績の研究と再評価が進んだ『朝日新聞』朝刊2020年10月26日(扉面)2020年10月30日閲覧。

見る 上士と小松清廉

小栗孝三郎

小栗 孝三郎(おぐり こうざぶろう、1868年9月19日(慶応4年8月4日)- 1944年(昭和19年)10月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。

見る 上士と小栗孝三郎

小池正直

小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。

見る 上士と小池正直

尾張藩

尾張藩(おわりはん)は、尾張一国(愛知県西部)と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。

見る 上士と尾張藩

山口鋭之助

山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久2年2月9日) - 1945年(昭和20年)3月4日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の物理学者、官僚。理学博士。

見る 上士と山口鋭之助

山岡鉄舟

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、)は、日本の幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家。剣・禅・書の達人。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(てつたろう、)。諱は高歩(たかゆき、)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

見る 上士と山岡鉄舟

山川健次郎

山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月17日〈1854年9月9日〉- 昭和6年〈1931年〉6月26日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。東京帝国大学総長の在任期間が合計11年11か月に及び歴代総長の最長在任期間である。

見る 上士と山川健次郎

山川二葉

山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年9月30日〉 - 明治42年〈1909年〉11月14日)は、日本の教育者。

見る 上士と山川二葉

山川浩

山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年〉2月4日)は、日本の武士(会津藩家老)、陸軍軍人、政治家、教育者。最終階級は陸軍少将、位階勲等・爵位は従三位勲三等・男爵。 陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの諱は重栄、字は士亮、通称は大蔵(おおくら)、与七郎。号は屠竜子。

見る 上士と山川浩

山地元治

山地元治 山地 元治 山田清廉、吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉、真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎) 山地 元治(やまじ もとはる、やまち もとはる天保12年7月25日(1841年9月10日) - 明治30年(1897年)10月3日)は、明治期の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将・従二位・勲一等・功三級・子爵。幼名・忠七。

見る 上士と山地元治

山田平左衛門

山田 平左衛門(やまだ へいざえもん、弘化2年5月18日(1845年6月22日) - 明治39年(1906年)1月6日)は土佐藩上士、迅衝隊士、自由民権運動家。立志社の第2代社長。高知教会の長老でプロテスタント。家紋は大楠公と同じ「菊水」。

見る 上士と山田平左衛門

山田顕義

山田 顕義学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山田顕義」、新聞報道や『職員録』など存命中の印刷物における表記は「山田顯義」、御署名原本(法令などの天皇署名の原本)における山田本人の署名は「山田顕義」である。-->(やまだ あきよし、、天保15年10月9日〈1844年11月18日〉- 明治25年〈1892年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将。正二位勲一等伯爵。

見る 上士と山田顕義

山梨勝之進

山梨 勝之進(やまなし かつのしん、1877年〈明治10年〉7月26日 - 1967年〈昭和42年〉12月17日)は、日本の海軍軍人。海兵25期次席・海大5期。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。 主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐ人物と目されていた。 秦郁彦は、下記のように評している。 いわゆる条約派の1人。また帝国海軍の77名の大将のうち、艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。 海軍の現役を退いた後に学習院長を務め、皇太子・明仁親王の教育を担った。

見る 上士と山梨勝之進

山本五十六

山本 五十六(やまもと いそろく、1884年〈明治17年〉4月4日 - 1943年〈昭和18年〉4月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。栄典は正三位大勲位功一級。 新潟県長岡出身。旧姓は高野(たかの)。海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物である。

見る 上士と山本五十六

山本義路

山本 義路(やまもと よしみち)は、江戸時代後期の武士・越後長岡藩上席家老(在所家老)・軍事総督。家臣中次席の家柄・知行1300石。諱の義路よりも通称の帯刀の方が広く浸透し、一般には山本 帯刀(やまもと たてわき)として知られた。

見る 上士と山本義路

居合術

居合術(いあいじゅつ)、もしくは居合(いあい)、抜刀術(ばっとうじゅつ)とは、日本刀を鞘に収めて帯刀した状態より、鞘から刀を抜き放つ動作で相手に一撃を与え、続く太刀捌きでさらに攻撃を加えたのち、血振るい残心、納刀するに至る形・技術を中心に構成された日本の武術である。 刀剣を鞘から抜き放ち、さらに納刀に至るまでをも含めた動作が、高度な技術を有する武芸として成立している例は、世界でも類を見ない。このように日本固有の形態を有し、かつ日本の武を象徴する日本刀を扱うことから、居合は「日本の武道・武術の中でも最も日本的なもの」と表現されることもある甲野善紀『武道から武術へ: 失われた「術」を求めて』(2011年, 学研プラス)。

見る 上士と居合術

岡山藩

岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国および備中の一部を領有した外様の大藩である。備前岡山藩、備前藩ともいう。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現・岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。

見る 上士と岡山藩

岡崎邦輔

岡崎 邦輔(おかざき くにすけ、1854年4月12日(嘉永7年3月15日) - 1936年(昭和11年)7月22日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』108頁。)は、日本の政治家・実業家。号は晩香。 自由党を経て、立憲政友会衆議院議員、加藤高明内閣の農林大臣、貴族院議員を歴任する。陸奥宗光の配下として活躍し、政界の寝業師、策士として知られた。

見る 上士と岡崎邦輔

岡田啓介

岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年1月21日当時の時刻では2月13日(旧暦1月20日)深夜。旧暦では、夜明けを以て1日の始まりとしたため。〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。 田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、斎藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。

見る 上士と岡田啓介

岩崎小弥太

岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月3日 - 1945年(昭和20年)12月2日)は、日本の実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵。

見る 上士と岩崎小弥太

岩崎久弥

岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元年8月25日〉 - 1955年〈昭和30年〉12月2日)は、日本の実業家。三菱財閥3代目総帥。正四位、男爵。

見る 上士と岩崎久弥

岩崎弥太郎

岩崎 弥太郎三菱史料館展示室に展示中の史料によると存命当時、活字は「岩﨑」を用いており、本人の署名は「岩嵜」であった。一方『平成新修 旧華族家系大成 上巻』(霞会館、1996年刊)では「岩崎」となっており、現在の岩崎家は「岩崎」の表記を用いている。(いわさき やたろう、、天保5年12月11日〈1835年1月9日〉- 明治18年〈1885年〉2月7日)は、日本の実業家。土佐藩(現在の高知県)出身で、34歳の時、大阪府大阪市西区の土佐稲荷神社付近で現在の三菱財閥(現:三菱グループ)の源流企業である日本郵船を創設した。弟の岩崎弥之助とともに岩崎家の中心的人物である。50歳で病死。弟は三菱財閥2代目の岩崎弥之助。

見る 上士と岩崎弥太郎

岩崎弥之助

岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4年1月8日) - 1908年(明治41年)3月25日)は、日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。

見る 上士と岩崎弥之助

岩崎弥次郎

岩崎 弥次郎(いわさき やじろう、文化5年(1808年) - 明治6年(1873年)7月28日)は、江戸時代末期(幕末)の土佐藩の地下浪人。名は高勝。子に三菱財閥の創始者で初代総帥・岩崎弥太郎、2代目総帥・岩崎弥之助など。

見る 上士と岩崎弥次郎

岩崎俊弥

岩崎 俊弥(いわさき としや、明治14年(1881年)1月28日 - 昭和5年(1930年)10月16日)は日本の実業家で、旭硝子(現・AGC)の創業者。

見る 上士と岩崎俊弥

岩崎輝弥

岩崎 輝弥(岩崎 輝彌、いわさき てるや、1887年(明治20年)6月18日 - 1956年(昭和31年)9月17日)は、日本の実業家。日本における鉄道趣味の先駆者である。

見る 上士と岩崎輝弥

岩出山伊達家

岩出山伊達家(いわでやまだてけ)は、仙台藩主伊達家の分家。仙台藩一門第八席。本項では分家の華族・当別伊達家についても併記する。

見る 上士と岩出山伊達家

島村雅事

島村 雅事(しまむら まさこと、文政4年1月29日(1821年3月3日) - 明治18年(1885年)7月30日)は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩郷士。勤皇の志士、迅衝隊士。諱は初め壽榮、のち雅事と改めた。通称は寿之助。 大男で禿げていたので「入道」と綽名されていたという。

見る 上士と島村雅事

島津久光

島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期の薩摩藩主・島津忠義の実父、明治時代の日本の政治家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・叟松・玩古道人・無志翁と号した。 島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。はじめ一門の重富島津家の養子に入ってその当主となっていたが、後に島津宗家に戻り、29代当主(12代薩摩藩主)となった息子の島津忠義を後見人として補佐した。維新後には明治政府の内閣顧問、左大臣に就任。明治4年に玉里島津家を起こしてその初代当主となり、島津宗家と別に公爵に叙せられた。 同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。

見る 上士と島津久光

島津久風

島津 久風(しまづ ひさかぜ)は、江戸時代後期の薩摩藩家老。島津久尹(ひさはや)の子。子に島津久徴、赤山靭負、田尻務(田尻種賢)、桂久武らがいる。

見る 上士と島津久風

島津忠欽

島津 忠欽(しまづ ただかた、弘化2年11月22日(1845年12月20日) - 大正4年(1915年)4月17日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁。)は、幕末の薩摩藩の藩主一門で、明治から大正時代の華族(男爵)。今和泉島津家第13代当主、のち玉里島津家分家を興す。

見る 上士と島津忠欽

島津珍彦

島津珍彦(明治2年(1869年)撮影) 暐子と寧子 島津 珍彦(しまづ うずひこ、天保15年10月22日(1844年12月1日) - 明治43年(1910年)6月16日『平成新修旧華族家系大成』上、p.739)は、幕末の薩摩藩士。明治期の日本の政治家、華族。侍従、貴族院議員。位階・勲等・爵位は従三位勲三等男爵。

見る 上士と島津珍彦

中島三郎助

中島 三郎助(なかじま さぶろうすけ)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。江戸幕府 小十人格軍艦役、のち蝦夷共和国 箱館奉行並。諱は永胤。

見る 上士と中島三郎助

中島與曽八

中島 與曽八(なかじま よそはち、1868年3月12日(慶應4年2月19日)- 1929年(昭和4年)10月6日)は、日本の海軍軍人、工学者。最終階級は海軍機関中将。位階は従三位、功級は功四級、勲等は勲一等旭日大綬章、勲四等瑞宝章、学位は工学博士。諱は永清。

見る 上士と中島與曽八

中津藩

中津城 中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。

見る 上士と中津藩

丹羽五郎 (開拓者)

丹羽 五郎(にわ ごろう、1852年5月2日(嘉永5年3月14日) - 1928年(昭和3年)9月6日)は、幕末の会津藩士。明治、大正期の警察官、開拓者である。西南戦争では抜刀隊としても戦い、戦後はせたな町の一部となっている丹羽村を開村した。警察官時代は田村五郎と名乗る。

見る 上士と丹羽五郎 (開拓者)

丹羽族

丹羽 族(にわ やから、1815年(文化12年) - 1868年9月22日(慶応4年8月7日))は、幕末の会津藩士である。

見る 上士と丹羽族

三吉周亮

三吉 周亮三吉周張、三吉兼庸、三吉兼倚の別名がある。(みよし かねすけ『増補 近世防長人名辞典』では「ミヨシ シュウスケ」。、天保12年12月3日(1842年1月14日)- 明治36年(1903年)6月1日)は江戸時代末期の長府藩士(長府藩次席家老)、政治家。明治維新後、宇都宮県参事、新川県参事、鳥取県参事・県令、豊岡県権令などを歴任し地方行政に携わった。幼名は榮之進、内匠、彜太郎。通称は内蔵介。安政2年(1855年)、長府藩第13代藩主の毛利元周より偏諱を受けて周亮と名乗る。官位は従五位功山寺 三吉周亮 墓碑 より。。

見る 上士と三吉周亮

三好晋六郎

三好 晋六郎(みよし しんろくろう、1857年9月9日〈安政4年7月21日〉 - 1910年〈明治34年〉1月28日)は、日本の造船学者であり、明治期の日本の造船技術確立と技術教育に尽力した人物。江戸裏猿楽町(後の東京都千代田区猿楽町)出身。大審院判事・永井岩之丞の実弟。

見る 上士と三好晋六郎

三宅花圃

三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月23日) - 1943年(昭和18年)7月18日)は、明治時代の小説家、歌人。著書『藪の鶯』は、明治以降に女性によって書かれた初の小説。

見る 上士と三宅花圃

三池藩

三池藩(みいけはん)は、筑後国三池郡を領した藩。藩庁として三池(現在の福岡県大牟田市)に三池陣屋を構えた。藩主家は立花家であり、柳河藩の立花家とは一族であるが、互いに独立した藩であり、同藩は柳河藩の支藩ではない。

見る 上士と三池藩

平井政実

平井 政実(ひらい まさみ、1803年(享和3年)- 1865年6月4日(慶応元年5月11日))は、江戸時代後期の武士。土佐藩勤皇派の上士。板垣退助の叔父。通称は平井善之丞。

見る 上士と平井政実

乾信武

高源院(飛び地)墓地) 乾 信武(いぬい のぶたけ)は、土佐藩馬廻役、家禄300石。板垣退助の祖父。土佐の奇人(いごっそう)として知られる。

見る 上士と乾信武

乾直建

乾 直建(いぬい なおたけ、? - 1760年10月29日(宝暦10年9月21日))は、江戸時代中期の土佐藩上士。土佐国幡多郡代。禄高は300石。板垣支流乾氏の第6代当主。家紋は「榧ノ内十文字」。板垣退助の高祖父。

見る 上士と乾直建

乾正信

板垣正信の墓(板垣山) 乾 正信(いぬい まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐山内氏の家臣。板垣退助の直系の先祖にあたる。知行1000石。家紋は「榧之内十文字」。

見る 上士と乾正信

乾正聰

板垣退助の曾祖父・乾正聡の墓(板垣山) 乾 正聰(いぬい まさあき)は、江戸時代中期の土佐藩馬廻役で、家格は知行300石。土佐の奇人(いごっそう)。板垣退助の曾祖父。

見る 上士と乾正聰

乾正成

乾正成の墓(板垣山) 乾 正成(いぬい まさしげ)は、土佐藩士・乾庄右衛門信武の長男。母は谷村久之丞自熈の娘。板垣退助の父。

見る 上士と乾正成

乃木希典

乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉 - 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことでも知られる。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。人々より「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。

見る 上士と乃木希典

乃木静子

乃木 静子(のぎ しずこ、安政6年11月6日〈1859年11月29日〉 - 1912年〈大正元年〉9月13日)は、幕末から明治期にかけての女性で、陸軍大将乃木希典の妻。

見る 上士と乃木静子

久留米藩

久留米城址 久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで有馬家が藩主を務め、21万石を領した。 米藩(べいはん)とも称される。

見る 上士と久留米藩

京都市

京都市(きょうとし )は、京都府南部にある市。京都府の府庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。市域は11の行政区から成り、人口約144万人。 京都(平安京)は794年(延暦13年)の平安遷都から1869年(明治2年)の東京奠都までの約1080年にわたって日本の首都であった。1000年余りの間、平安時代の国風文化を始めとした日本文化の中心地であり続け、東京奠都後は戦災を逃れた往時の文化財や伝統文化が継承されてきた。現在でも新旧含め宮内庁所管の京都御所および京都仙洞御所等が所在する位置付けから2023年には文化庁が移転された経緯を含め、日本を名実共に代表する古都として「千年の都」や「千年余りの都または古都」とも評される。

見る 上士と京都市

広島藩

広島城 広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩(国主)。現在の広島県の大半を占める浅野家時代は備後国の南西部が福山藩。。藩庁は安芸国佐東郡(1664年に沼田郡に改称)広島(現在の広島県広島市中区基町)の広島城に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。

見る 上士と広島藩

亘理伊達家

亘理伊達家(わたりだてけ)は、仙台藩主・伊達氏の分家。仙台藩一門第二席。もとは亘理氏であった涌谷伊達家(一門第四席)とは別の家である。

見る 上士と亘理伊達家

五代友厚

五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日〈1836年2月12日〉 - 明治18年〈1885年〉9月25日)は、日本の実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現在の鹿児島県鹿児島市長田町)生まれ。贈正五位、勲四等。通称は才助。 大阪経済界の重鎮の一人。大阪市の本邸跡は大阪科学技術館・日本銀行大阪支店になっている。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。

見る 上士と五代友厚

庄屋

庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・肝煎(きもいり)は、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長 三省堂 2013年12月18日閲覧。いずれも中世からの伝統を引く語で、庄屋は「庄''')園の」、名主は「中世の'''名主''' (みょうしゅ)」からきた語とされている。概して、庄屋は関西で、名主は関東で、肝煎は東北・北陸で用いられる 2022年6月閲覧。庄屋の多くは、武士よりも経済的に裕福で、広い屋敷に住み、広大な農地を保有し、また、文書の作成に携わるという仕事柄、村を代表する知識人でもあった 2022年6月閲覧。江戸時代に庄屋を務めた家系は、もともと名門家系だったことが多く、戦国武将の有力な家臣が、江戸時代に入って庄屋となったケースは、かなり見られる。

見る 上士と庄屋

庄内藩

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。支藩に大山藩・松山藩がある。 転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替え(後述)では領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦したほか、敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。現代でも酒井宗家は庄内に居住しており、当主は殿と呼ばれることすらある(酒井忠明を参照のこと)。

見る 上士と庄内藩

井口村刃傷事件

井口村刃傷事件(いぐちむらにんじょうじけん)とは、文久元年(1861年)3月4日、土佐藩にて起こった刃傷事件。事件後の処分を巡って上士と郷士が対立し、緊張が高まった。

見る 上士と井口村刃傷事件

井上勝

井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日〈1843年8月25日〉 - 明治43年〈1910年〉8月2日)は、明治期の日本の鉄道官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。養親の姓を名乗り野村弥吉とも。

見る 上士と井上勝

井上馨

井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日 〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。諱は惟精(これきよ)。

見る 上士と井上馨

井深彦三郎

井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈1866年9月10日〉- 大正5年〈1916年〉4月4日)は、日本の政治家、大陸浪人。明治時代の陸軍工作員であり、衆議院議員当選1回。旧会津藩士族の出身で、兄に松平容保の小姓から後に宣教師、明治学院総理となった井深梶之助、娘にハンセン氏病患者の救済に尽くした井深八重がいる。

見る 上士と井深彦三郎

井深梶之助

井深 梶之助(いぶか かじのすけ、嘉永7年6月10日(1854年7月4日) - 昭和15年(1940年)6月24日)は、日本の牧師。日本基督教会の指導者。明治学院の2代目総理、日本基督教青年会同盟委員長を務めた。

見る 上士と井深梶之助

今枝直規

今枝 直規(いまえだ なおのり、1870年8月17日(明治3年7月21日『平成新修旧華族家系大成 上巻』198-199頁。)- 1942年(昭和17年)2月3日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』64頁。)は、明治から昭和期の山林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。

見る 上士と今枝直規

今枝直邦

今枝 直邦(いまえだ なおくに)は、江戸時代後期の武士。加賀国加賀藩家老今枝内記家第11代。

見る 上士と今枝直邦

今村均

今村 均(いまむら ひとし、1886年(明治19年)6月28日 - 1968年(昭和43年)10月4日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。

見る 上士と今村均

代官

代官(だいかん)とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。日本では、武家政権における役職の1つとなった。

見る 上士と代官

仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代から明治初期にかけて陸奥国仙台城に藩庁を置き、外様大名の伊達本家が治めた藩である。伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。表高は62万石であり、所領として現在の宮城県全域、岩手県南部および福島県新地町計約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があったが、戊辰戦争後に28万石に減封となり、その石高で廃藩置県を迎えた。

見る 上士と仙台藩

伊予松山藩

松山城大天守(国の史跡・重要文化財) 伊予松山藩(いよまつやまはん)は、江戸時代、伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に久米郡・野間郡・伊予郡などを知行した藩。藩庁は松山城。

見る 上士と伊予松山藩

伊達千広

伊達 千広(だて ちひろ、享和2年5月25日(1802年6月24日) - 明治10年(1877年)5月18日)は、幕末の紀州藩士で国学者。本名は宗広(むねひろ)。通称は藤二郎、号は自得。陸奥宗光の実父であり、また史論書『大勢三転考』の著者である。

見る 上士と伊達千広

伊達邦直

伊達 邦直(だて くになお)は、江戸時代末期の仙台藩一門・岩出山伊達家10代当主。明治維新後は北海道開拓に身を投じ、当別町の基礎を築いた。その功により正五位を贈られ、当別神社・北海道開拓神社に祀られる。また、孫の正人は邦直の功により男爵を授けられる。亘理伊達家15代で有珠郡伊達村(現・伊達市)開拓に功があり男爵となった伊達邦成は実弟にあたる。

見る 上士と伊達邦直

伊達邦成

伊達 邦成(だて くにしげ)は、江戸時代末期から明治時代にかけての仙台藩一門・亘理伊達家第14代当主。 戊辰戦争で新政府軍に敗れ、99%以上の知行を取り上げられたため、家臣団と共に北海道開拓に活路を求めた。開拓の功により、勲四等を叙勲され、男爵に叙せられている。 鹿島国足神社祭主。のちにキリスト教徒(日本基督一致教会の信徒)福島恒雄『北海道キリスト教史』日本基督教団出版局、1982年、221頁。となったが、伊達神社および開拓神社の祭神ともなっている。

見る 上士と伊達邦成

伊賀氏広

伊賀 氏広(いが うじひろ、1886年(明治19年)9月18日『平成新修旧華族家系大成 上巻』87頁。 - 1966年(昭和41年)2月25日)は、日本の飛行機製作の先駆者、華族(男爵)。伊賀家の当主。南部信俊の父。妻は岩村通俊(男爵・旧家臣系)の娘の北子。子に伊賀氏英。

見る 上士と伊賀氏広

伊東祐亨

伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう、天保14年5月20日〈1843年6月17日『平成新修旧華族家系大成』上巻、159頁。〉- 1914年〈大正3年〉1月16日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。初代連合艦隊司令長官を務めた。通称は四郎左衛門、四郎。号は碧海。家紋は庵木瓜。

見る 上士と伊東祐亨

伊東祐麿

伊東 祐麿(いとう すけまろ、1832年9月19日(天保3年8月25日) - 1906年(明治39年)2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家、茶人。最終階級は海軍中将。位階・勲等・爵位は正二位勲一等子爵。元老院議官、貴族院議員。

見る 上士と伊東祐麿

伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、武家・華族だった日本の氏族。藤原南家の流れを汲む工藤氏の支族であり、平安時代末期から鎌倉時代に伊豆国田方郡伊東荘(現・静岡県伊東市)を本貫地としたことから伊東と称した。子孫は各地に土着し、その一つが日向伊東氏であり、江戸時代に日向国飫肥藩主家となり、明治維新後に華族の子爵家に列せられた。通字は「祐」(すけ)。

見る 上士と伊東氏

会津藩

若松城 は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。別名に会藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は後の陸奥国北会津郡全域と耶麻郡、河沼郡の大部分、大沼郡の一部及び安積郡の一部、越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。後の南会津郡全域と河沼郡の一部及び大沼郡の大部分は南山御蔵入領と呼ばれる天領であったが預地として実質的に統治した。別途越後国内にも領地が点在していた(後述の『領地』を参照)。

見る 上士と会津藩

伏見区

伏見区(ふしみく)は、京都市を構成する11の行政区の1つで、京都市の南部に位置する。

見る 上士と伏見区

佐川官兵衛

佐川 官兵衛(さがわ かんべえ)は、幕末の会津藩士。明治時代の警察官。字は勝、諱は直清。

見る 上士と佐川官兵衛

佐伯藩

佐伯藩(さいきはん佐伯藩の仮名表記については、『国史大辞典』第6巻(吉川弘文館、1985)135頁「佐伯藩」の項などに見える通り、大分県佐伯市の現行地名表記(大正5年(1916年)制定)と同様に「さいき」と表記するのが通例だが、『日本歴史大事典』第5巻(河出書房新社、1979)46頁「佐伯藩」の項のように、改編前の「さえき」表記を用いる例も見られる。)は、江戸時代に豊後海部郡に存在した藩の一つ。藩祖は毛利高政。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯市)に置かれた。

見る 上士と佐伯藩

佐々友房

佐々 友房(さっさ ともふさ、嘉永7年1月23日(1854年2月20日) - 明治39年(1906年)9月28日)は、日本の教育者、政治家。熊本県選出衆議院議員。号は鵬洲、克堂。幼名は寅雄、坤次。

見る 上士と佐々友房

佐々木高行

佐々木 高行(ささき たかゆき、文政13年10月12日〈1830年11月26日〉- 明治43年〈1910年〉3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本の政治家。爵位は侯爵。幼名は万之助、通称は三四郎。初名は高喜(たかあつ)、高春(たかはる)と称し、高行(たかのり)に改名した後に、現在の名称に改名した。佐佐木高行とも表記される。土佐三伯の1人(他に板垣退助・後藤象二郎)。著作である日記『保古飛呂比』は幕末・維新期の第一級資料として知られる。 藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名。明治政府高官の中でも保守派を代表する1人であり、明治天皇の信任を楯に政治体制を巡り伊藤博文らと争った。

見る 上士と佐々木高行

佐倉藩

佐倉藩(さくらはん)は、下総国印旛郡の佐倉(現在の千葉県佐倉市周辺)に置かれた藩。徳川家康の関東入国以来、佐倉地域は江戸東方の要衝として重視され、一門・譜代大名が配置された。1610年に入封した土井利勝は、近世佐倉城とその城下町(現在の佐倉市中心地区)を築いた。江戸時代前期から中期にかけては幕閣の封地となり、藩主家は頻繁に交替したが、1746年に堀田氏が再封されて定着し、廃藩置県まで続いた。藩史の過半を占める堀田氏の石高はおおむね11万石で、現在の千葉県域では最大の藩であった。 江戸時代前期、堀田氏の最初の在封中に藩領で佐倉惣五郎事件が発生したとされる。佐倉藩は諸藩中最も多くの老中を輩出しており、佐倉城は「老中の城」とも称される。

見る 上士と佐倉藩

佐賀藩

佐賀城の鯱の門 佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島家が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)に置いた。 藩主ははじめ龍造寺家、後に鍋島家。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。

見る 上士と佐賀藩

佐野藩

佐野藩(さのはん)は、下野国安蘇郡の佐野(現在の栃木県佐野市)周辺に存在した藩。江戸時代初期には、中世以来の当地の豪族である佐野氏が3万9000石を治め、佐野城(現在の佐野市若松町)を築いて城下町を整備したが、1614年に改易された。その後1684年に譜代大名堀田氏出身の堀田正高が1万石の大名となり、佐野陣屋(現:同市植下町)に藩庁を置いた。堀田家は10年あまりで近江国堅田藩に移されたが、1825年に堀田正敦が居所を父祖ゆかりの佐野に戻しており、佐野藩が「再興」されたとみなされる。堀田家の佐野藩は廃藩置県まで続いた。

見る 上士と佐野藩

御典医

御典医(ごてんい)とは、典薬寮に所属する医師のことであり、単に典医ともいう。転じて、江戸時代には将軍家や大名に仕えた医師もこの名称で呼ぶようになった。この場合、御殿医と表記することもある。 典薬寮医師という意味での御典医は、名誉職であった典薬頭を除き、実際に天皇の治療に携わる医師のことを指した。近世では優秀な民間医が典医に登用されると同時に官位を与えられ、地下人の身分となるケースがほとんどを占めた。 一方、武家の御典医は、将軍や藩主と身近に接する立場で、武士に準ずる身分であった。なお、幕府の御典医は奥医師、藩のは藩医と呼ばれていた。

見る 上士と御典医

御目見

御目見(おめみえ)とは、江戸時代に大名や旗本が将軍に直接拝謁すること。また、その資格。「上聴」とも呼ばれる。

見る 上士と御目見

御附家老

御附家老(おつけがろう)は、江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御附家老」と呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。

見る 上士と御附家老

徳山藩

徳山藩(とくやまはん)は、江戸時代の藩。長州藩(萩藩)の支藩。当初の名称は下松藩(くだまつはん)。 藩庁は最初は周防国下松(現在の山口県下松市)、後に同国徳山(改称前は野上村。現在の山口県周南市)。藩庁の置かれた徳山陣屋(徳山城)は、飯野陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。

見る 上士と徳山藩

徳島藩

徳島藩(とくしまはん)は、阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島・沼島)の2国を領有した藩。藩庁は徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主は外様大名の蜂須賀氏。支藩として一時、阿波富田藩があった。

見る 上士と徳島藩

後藤保弥太

後藤 保弥太(ごとう やすやた、1896年(明治29年)5月21日 - 1937年(昭和12年)7月16日『明治・大正・昭和 華族事件録』123頁)は、北濃鉄道株式会社の社長、伯爵。後藤猛太郎の嫡男。後藤象二郎の嫡孫。

見る 上士と後藤保弥太

後藤猛太郎

後藤 猛太郎(ごとう たけたろう、1863年10月30日(文久3年9月18日) - 1913年(大正2年)12月4日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』26頁。)は、明治時代、日本で初めて南洋群島を探検した人物。日本活動フィルム会社(日活の前身)の初代社長。後藤象二郎の二男。貴族院議員。伯爵。「天下のならず者」と自称していた。

見る 上士と後藤猛太郎

後藤象二郎

後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。

見る 上士と後藤象二郎

後藤正晴

後藤 正晴(ごとう まさはる、生年不詳 - 嘉永元年7月25日〈1848年8月23日〉)は、江戸時代後期の土佐藩士。土佐後藤家分家9代。家禄200石。通称は藤次、助右衛門。後藤象二郎の父。

見る 上士と後藤正晴

土佐山内氏

土佐山内氏(とさやまうちし)は、武家・華族だった日本の氏族。山内一豊が豊臣秀吉のもとで大名に出世し、江戸時代には宗家は土佐藩主家、維新後には華族の侯爵家に列した。通字は「豊」。 「山内」は「やまのうち」と読まれることもあるが、山内家では「やまうち」と読んでいる。

見る 上士と土佐山内氏

土佐藩

'''土佐藩'''の居城・'''高知城 ''' 土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正式名称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内家が支配した。 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』。

見る 上士と土佐藩

北村重頼

北村 重頼(きたむら しげより、弘化2年(1845年) - 明治11年(1878年)3月2日)は、日本の武士(土佐藩士)、迅衝隊士、陸軍軍人。通称は長兵衛。

見る 上士と北村重頼

嘉悦敏

嘉悦 敏(かえつ さとし、1870年1月9日(明治2年12月8日)『陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿』、昭和6年4月1日調。 - 1944年(昭和19年)1月24日『日本陸軍将官辞典』201頁。)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功五級『人事興信録』第8版、カ40頁。。

見る 上士と嘉悦敏

喜入町

喜入町(きいれちょう)は、かつて鹿児島県揖宿郡にあった町。2004年11月1日、鹿児島市に編入され自治体としては消滅した。 1969年(昭和44年)に操業開始した原油備蓄基地(現、ENEOS喜入基地)があることで知られていた。

見る 上士と喜入町

内藤高治

後列中央内藤高治。1912年(大正元年) 剣聖内藤高治先生顕彰碑(京都市左京区、武道センター内) 内藤 高治(ないとう たかはる、文久2年10月25日(1862年12月16日) - 昭和4年(1929年)4月9日)は、日本の剣道家。流派は北辰一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。武道専門学校教授。 高野佐三郎と共に剣道界に大きな影響力を持ち、「西の内藤、東の高野」と言われていた。

見る 上士と内藤高治

内藤魯一

内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年11月24日) - 明治44年(1911年)6月29日)は、幕末から明治にかけて活躍した自由民権運動家。衆議院議員(立憲政友会)。

見る 上士と内藤魯一

出石藩

出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城(兵庫県豊岡市出石町)。 出石城本丸から城下町を俯瞰。

見る 上士と出石藩

児玉源太郎

児玉 源太郎(こだま げんたろう、兒玉の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体である。学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書などにおける歴史人物としての表記は「児玉源太郎」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「」、御署名原本における大臣副書の本人署名は「児玉源太郎」である。、1852年4月14日(嘉永5年閏2月25日) - 1906年(明治39年)7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。

見る 上士と児玉源太郎

元田作之進

元田 作之進(もとだ さくのしん、文久2年2月22日(西暦1862年3月22日) - 1928年(昭和3年)4月16日)は、日本聖公会の日本人最初の監督主教。立教大学の初代学長。松下正寿は娘婿。

見る 上士と元田作之進

元田永孚

元田 永孚(もとだ ながざね、文政元年10月1日(1818年10月30日) - 明治24年(1891年)1月22日)は、日本の武士・熊本藩士、儒学者。男爵。名は「えいふ」ともいう。幼名は大吉。通称は伝之丞、八右衛門。雅号は東野。字は子中。号は東皐、樵翁。

見る 上士と元田永孚

勘定奉行

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。勘定所の最高責任者で財政や幕府直轄領を支配する郡代や代官の指揮監督などを司った。 寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。

見る 上士と勘定奉行

勘定奉行 (曖昧さ回避)

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)。

見る 上士と勘定奉行 (曖昧さ回避)

国司親相

国司 親相(くにし ちかすけ)は、江戸時代末期(幕末期)の武士。長州藩の家老。国司 信濃(くにし しなの)の名で知られる。

見る 上士と国司親相

国司氏

国司氏(くにしし、くにしうじ)は、武家・士族・華族だった日本の氏族のひとつ。高師泰の子師武が安芸国高田郡国司荘を領して国司を称したのに始まる。代々毛利氏に重臣として仕え、戦国時代には吉常ヶ城主、江戸時代には長州藩家老家、維新後には華族の男爵家に列せられた。

見る 上士と国司氏

四竈孝輔

四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年(明治9年)10月26日 - 1937年(昭和12年)12月11日)は、日本の海軍軍人。海兵25期・海大7期。最終階級は海軍中将。宮城県仙台市出身。

見る 上士と四竈孝輔

矢野光儀

矢野 光儀(やの みつよし、1822年(文政5年) - 1880年(明治13年)9月13日)は、幕末の佐伯藩士。明治時代の官吏。葛飾県知事、深津県権令、小田県令。位階は正六位。幼名は哲也、程蔵。矢野龍渓の父。

見る 上士と矢野光儀

矢野龍渓

矢野 龍渓(やの りゅうけい、1851年1月2日(嘉永3年12月1日) - 1931年(昭和6年)6月18日)は、幕末の佐伯藩士、明治時代の官吏、著作家、ジャーナリスト、政治家。太政官大書記官兼統計院幹事、『郵便報知新聞』社長、宮内省式部官、清国駐箚特命全権公使、大阪毎日新聞社副社長を歴任。 本名は文雄(ふみお)、龍渓は号である。別号に天峯居士。

見る 上士と矢野龍渓

石光真臣

石光 真臣(眞臣)(いしみつ まおみ、1870年6月7日(明治3年5月9日) - 1937年(昭和12年)12月8日)は、日本陸軍の軍人。陸軍中将従三位勲一等功四級。日露戦争時の諜報活動で知られる石光真清は兄。

見る 上士と石光真臣

石光真清

石光 真清(眞清)(いしみつ まきよ、1868年10月15日(慶応4年8月30日) - 1942年(昭和17年)5月15日)は、日本陸軍の軍人(最終階級陸軍少佐)、諜報活動家。明治から大正にかけてシベリア、満洲での諜報活動に従事した。石光真臣(陸軍中将)は弟。

見る 上士と石光真清

碧川かた

碧川 かた(みどりかわ かた、明治2年10月10日泉は1869年としている(1869年11月13日) - 昭和37年(1962年)1月14日)は日本の看護婦、婦人運動家。二番目の夫はジャーナリストの碧川企救男。詩人三木露風、映画カメラマン碧川道夫は実子。露風は童謡「赤とんぼ」を作り、かたの碑文に「赤とんぼの母」と書いた。

見る 上士と碧川かた

神戸次郎

神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 1868年5月5日) - 1933年〈昭和8年〉9月30日『官報』第2058号「彙報-官吏卒去及死去」1933年11月9日。)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。陸士1期。現在の山形県鶴岡市出身。

見る 上士と神戸次郎

福原元僴

福原 元(ふくばら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の長州藩の永代家老。通称は越後で、福原越後として知られる。 長州藩支藩である周防徳山藩主毛利広鎮の六男で、最後の長州藩主となる毛利元徳の実兄である。

見る 上士と福原元僴

福原豊功

福原 豊功(ふくばら とよのり、1852年8月10日(嘉永5年6月25日) - 1895年(明治28年)7月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。

見る 上士と福原豊功

福原良通

福原 良通(ふくばら よしみち、弘化4年6月23日(1847年8月3日)『宇部市史 通史篇』(宇部市史編纂委員会、1966年)p.286 - 明治15年(1882年)8月17日『』(尚古房、1935年)p.164)は、日本の裁判官、宇部領主福原家当主。通称は駒之進、別名は鈴尾親徳、福原芳山。号は東洋。妻は福原元僴の娘・トハ子。子に福原俊丸。

見る 上士と福原良通

福岡孝弟

福岡 孝弟(ふくおか たかちか、天保6年2月5日〈1835年3月3日〉- 大正8年〈1919年〉3月7日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物である。通称は藤次、雅号は南蘋。栄典は勲一等子爵。

見る 上士と福岡孝弟

福岡秀猪

福岡 秀猪(ふくおか ひでい、1871年11月2日(明治4年9月20日) – 1932年(昭和7年)11月27日)は、明治・大正・昭和の法学者。福岡孝弟の二男。正三位勲三等子爵。

見る 上士と福岡秀猪

福岡藩

舞鶴公園 福岡城下の橋大手門 福岡藩領域図(慶長期) 福岡藩(ふくおかはん)は、江戸時代に筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。

見る 上士と福岡藩

福島藩

福島藩(ふくしまはん)は、陸奥国南部(岩代国信夫郡)、現在の福島県福島市にあった藩である。居城は福島城。藩主は本多家、堀田家、板倉家の3氏で、いずれも譜代大名であった。

見る 上士と福島藩

福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代をゆえに北ノ庄藩(きたのしょうはん)と称することがある。

見る 上士と福井藩

福澤諭吉

福澤 諭吉(または福沢 諭吉、ふくざわ ゆきち、、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年2月3日〉)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。 もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。

見る 上士と福澤諭吉

福本藩

福本陣屋跡の回遊式庭園遺構 福本藩(ふくもとはん)は、播磨国神東郡の福本陣屋(現在の兵庫県神崎郡神河町福本)に藩庁を置いた藩。ただし、藩(大名の所領)であったのは江戸時代初期および明治維新期のごく短期間であり、その間は交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)池田家の知行地であった。 鳥取藩に預けられた池田輝澄を祖に持つ経緯から、鳥取藩との関係が強く、その支藩的立場であった。1870年、鳥取藩に吸収された。

見る 上士と福本藩

秦真次

秦 真次(はた しんじ、1879年(明治12年)4月6日『日本陸海軍総合事典』第2版、126頁。『日本陸軍将官辞典』578-579頁。 - 1950年(昭和25年)2月24日)は、日本の陸軍軍人、神職。最終階級は陸軍中将。

見る 上士と秦真次

秋月悌次郎

秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、文政7年7月2日(1824年7月27日) - 明治33年(1900年)1月5日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。名は胤栄、字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)と名乗る。婿養子・胤継は、漢学者(文学博士、第六高等学校教頭、懐徳堂講師)。

見る 上士と秋月悌次郎

稲垣茂光

稲垣 茂光(いながき しげみつ)は、越後長岡藩の家老首座(2000石)。志摩鳥羽藩主・稲垣氏の庶流の家系である。諱は茂光、後に重光。

見る 上士と稲垣茂光

稲田邦植

稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日(安政2年11月18日) - 1931年(昭和6年)5月28日)は稲田家16代当主。稲田家は代々徳島藩の筆頭家老であり、かつ淡路国洲本城主(現在の兵庫県洲本市)だった。維新後は男爵。

見る 上士と稲田邦植

立花小一郎

立花 小一郎(たちばな こいちろう、1861年3月20日(万延2年2月10日)- 1929年(昭和4年)2月15日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』77頁。)は、日本の陸軍軍人、政治家。男爵、陸軍大将、第10代福岡市長、貴族院議員。

見る 上士と立花小一郎

立見尚文

立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日(弘化2年7月19日) - 1907年(明治40年)3月6日)は、幕末の桑名藩士、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。

見る 上士と立見尚文

篠山藩

再建された篠山城篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県丹波篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。

見る 上士と篠山藩

米田虎雄

米田 虎雄(こめだ とらお、1839年3月10日(天保10年1月25日) - 1915年(大正4年)11月27日『平成新修旧華族家系大成』上巻、614-615頁。)は、幕末の熊本藩家老、明治から大正期の日本の宮内官僚。侍従長、宮中顧問官、陸軍中佐、子爵。諱・是保、通称・虎之助『明治維新人名辞典』415頁。。明治天皇の側近『朝日日本歴史人物事典』694頁。。

見る 上士と米田虎雄

米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は外様大名の上杉氏。石高は当初30万石で国主大名だったが、1664年に15万石に減封される。幕末に一時的に18万7千石に加増されるも戊辰戦争後に14万7千石に減封となり、支藩を併合して廃藩置県を迎えた。

見る 上士と米沢藩

紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。

見る 上士と紀州藩

紀伊新宮藩

新宮藩(しんぐうはん)は、現在の和歌山県新宮市(紀伊国)を治めた藩。ただし、藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことである。藩庁は新宮城(和歌山県新宮市)。藩主は和歌山藩の御附家老だった水野家で、石高は3万5千石。

見る 上士と紀伊新宮藩

美作勝山藩

勝山藩(かつやまはん)は、美作国真島郡勝山(岡山県真庭市勝山)に拠点を置いた藩。藩庁は勝山城に置かれた。高田藩(たかだはん、たかたはん)、美作高田藩(みまさか たかだはん、みまさか たかたはん)とも称される。藩主家は三浦家。

見る 上士と美作勝山藩

真辺正躬

真辺 正躬(まなべ まさみ、生年不詳 - 1868年11月26日(明治元年10月13日))は、江戸時代後期の土佐藩士。幼名は熊十郎。通称は真辺十郎右衛門『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵。

見る 上士と真辺正躬

真木長義

真木 長義(まき ながよし、1836年6月28日(天保7年5月15日) - 1917年(大正6年)3月3日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。男爵。幼名、鉄太郎、安左衛門。

見る 上士と真木長義

瓜生外吉

瓜生 外吉(うりう そときち、安政4年1月2日(1857年1月27日) - 昭和12年(1937年)11月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。位階は正二位男爵。 石川県出身。妻は瓜生繁子(旧姓永井)。嵯峨源氏渡辺氏流瓜生氏の流れを汲むという。

見る 上士と瓜生外吉

用人

用人(ようにん)は、江戸時代の武家の職制のひとつで、主君の用向きを家中に伝達して、庶務を司ることを主たる役目とし、有能な者から選ばれることが多かった。御用人(ごようにん)とも。

見る 上士と用人

田原藩

田原藩(たはらはん)は、三河国田原(現在の愛知県東部・渥美半島)にあった譜代大名の藩である。本拠は室町時代末期に築かれた田原城。

見る 上士と田原藩

田安徳川家

田安徳川家(たやすとくがわけ)は、徳川将軍家の一門である御三卿の一つ。単に田安家とも言う。

見る 上士と田安徳川家

田辺太一

田辺 太一(たなべ たいち(やすかず)、天保2年9月16日(1831年10月21日)- 大正4年(1915年)9月16日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した武士(幕臣)・外交官。通称は他に定輔など。号は蓮舟。錦鶏間祗候。位階および勲等は従三位・勲四等。

見る 上士と田辺太一

町奉行

町奉行(まちぶぎょう)とは、江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸の町奉行のみを指す。また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠し遠国奉行と総称する。なお、後北条氏の例のように、江戸時代以前に町奉行という役職が用いられたこともある。

見る 上士と町奉行

町野武馬

町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16日 - 1968年(昭和43年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。張作霖の顧問を務め、最終階級は陸軍大佐。衆議院議員。戦後再建された大日本武徳会会長。 なお町野は国会図書館が行った政治談話録音の一人目の談話提供者である。

見る 上士と町野武馬

無双直伝英信流

無双直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう, Musō Jikiden Eishin-ryū)とは、江戸時代に長谷川英信が開いた武術の流派である。土佐および信州で継承された。長谷川英信流ともいわれる。

見る 上士と無双直伝英信流

熊本藩

熊本城 熊本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石(細川家の時代に、八代領と両支藩を分封ののち高直しで54万石)。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関など)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。熊本藩細川家は肥後一円を領有していないが、国持ち大名(大身国持)とされた。

見る 上士と熊本藩

留守居

留守居(るすい)は、江戸幕府および諸藩に置かれた職名のひとつ。 御留守居(おるすい)とも呼ばれる。

見る 上士と留守居

片岡健吉

生誕地(現在の高知市) 片岡 健吉(かたおか けんきち、天保14年12月26日(1844年2月14日) - 明治36年(1903年)10月31日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、自由民権家。衆議院議長を務めた。正四位。

見る 上士と片岡健吉

益田元固

益田 元固(ますだ もとかた、文化8年(1811年) - 明治8年(1875年)6月25日)は、江戸時代末期の長州藩重臣で、寄組問田益田家(4096石)の7代。 父は益田親愛(親賢)田村哲夫 著 『近世防長諸家系図綜覧』(マツノ書店 1980年) より。母は毛利就貞の娘。妻は毛利就任の娘、山内就資の娘。子に益田孫槌、三吉周亮、口羽良介、山内通遠室、山内通恂室がいる。兄弟には毛利房謙室、毛利房顕室、毛利房嘉室がいる。 長州藩第11代藩主の毛利斉元より偏諱を受けて元固と名乗る。また初名に兼将が伝わる。通称は伊豆、七内で「益田伊豆」、「益田七内」とも称す吉田祥朔 著 『増補 近世防長人名辞典』(マツノ書店 1976年) より石川卓美 著 『防長歴史用語辞典』(マツノ書店 1986年) より。号は幽岳。

見る 上士と益田元固

益田精祥

益田 精祥(ますだ あきよし、1862年2月7日(文久2年1月9日) - 1917年(大正6年)8月25日)は、益田家第35代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家16代。男爵。通称精次郎。

見る 上士と益田精祥

益田親孚

益田 親孚(ますだ ちかざね、文化10年11月1日(1813年11月23日) - 明治32年(1899年)3月31日)は、長州藩主毛利家の重臣で、寄組益田家(1067石)の当主。 父は益田兼明。正室は益田元宣の娘で勝子。通称は主水、石見、源兵衛。号は梅村。

見る 上士と益田親孚

益田親施

益田 親施(ますだ ちかのぶ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。益田家第33代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家14代。益田元宣の三男。通称は右衛門介(うえもんのすけ)。 諱は初め兼施(かねのぶ)、後に長州藩主毛利敬親より偏諱の授与を受けて親施と名乗る。

見る 上士と益田親施

目付

目付(めつけ)・目付役(めつけやく)とは、日本史において監察を務める役を指す。

見る 上士と目付

相原尚褧

岐阜事件を描いた歌川豊宣『板垣君遭難之図』。画面左側に取り押さえられる相原尚褧を描く。 相原 尚褧(あいはら なおふみ名の読みは「しょうけい」あるいは「なおぶみ」とも。、1854年頃 - 1889年頃)は、明治時代の士族、小学校教員。1882年(明治15年)4月6日、全国遊説中の自由党総理(党首)・板垣退助の殺害を図ったことで知られている(岐阜事件)。

見る 上士と相原尚褧

盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、現在の岩手県中部を地盤に青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩。藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれる。 居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。

見る 上士と盛岡藩

瀬谷啓

瀬谷 啓(せや ひらく、明治22年(1889年)10月3日 - 昭和29年(1954年)5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

見る 上士と瀬谷啓

白川義則

白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元年12月12日) - 1932年(昭和7年)5月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、栄典は従二位勲一等功二級男爵。 関東軍司令官・陸軍大臣を歴任する。上海派遣軍司令官であった1932年(昭和7年)4月29日、上海天長節爆弾事件において尹奉吉の投げた爆弾により重傷を負い、翌月に死去した。

見る 上士と白川義則

草鹿丁卯次郎

草鹿 丁卯次郎(くさか ちょうじろう、1867年3月7日(慶応3年2月2日) - 1931年(昭和6年)4月24日)は、日本の学者、実業家。現在の石川県加賀市大聖寺出身。加賀国大聖寺藩藩医(禄高:150石)・草鹿泰冲(蓮浦)の次男。兄は草鹿甲子太郎(衆議院議員、弁護士、神戸日華実業協会理事長)。子息については後節を参照。

見る 上士と草鹿丁卯次郎

草鹿甲子太郎

草鹿 甲子太郎(くさか きしたろう『兵庫県人物事典 中巻』37頁。、1864年10月26日(元治元年9月26日) - 1927年(昭和2年)6月26日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。

見る 上士と草鹿甲子太郎

鍋島直暠

鍋島 直暠(なべしま なおてる、天保3年10月26日(1832年11月18日) - 明治16年(1883年)10月1日)は、肥前国佐賀藩の国老。藩主一門の白石鍋島家鍋島直喬の子。通称は四郎、河内。号は西湖。 幕末維新期に勤王政策を推し進めた。明治7年(1874年)の佐賀の乱、同10年(1877年)の西南戦争と、士族反乱の事後処理に尽力した。明治16年(1883年)、52歳で没した。白石神社(佐賀県みやき町)に祀られている。明治30年(1897年)10月27日、家督を継いだ鍋島直明に男爵が叙爵された。

見る 上士と鍋島直暠

鍋島直明

鍋島 直明(なべしま なおあきら、1870年1月26日〈明治2年12月25日〉 - 1937年〈昭和12年〉11月19日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。陸軍少将正三位勲二等功四級男爵。貴族院議員。 鍋島茂明海軍中将は、兄・鍋島茂麟の子。

見る 上士と鍋島直明

蠣崎富三郎

蠣崎 富三郎(かきざき とみさぶろう、1861年4月18日(文久元年3月9日『日本陸海軍総合事典』第2版、45頁。『日本陸軍将官辞典』202頁。) - 1924年(大正13年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

見る 上士と蠣崎富三郎

飫肥藩

飫肥城 飫肥藩(おびはん)は、日向国宮崎郡と那珂郡(現在の宮崎県宮崎市中南部および宮崎県日南市全域)を統治した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東家。家格は外様大名である。なお藩主家の日向伊東氏は備中国岡田藩主家の備中伊東氏と同族である。

見る 上士と飫肥藩

飯沼貞吉

飯沼 貞吉(いいぬま さだきち、嘉永7年3月25日(1854年4月22日) - 昭和6年(1931年)2月12日)は、白虎隊士(士中二番隊所属)、通信技師、軍人。維新後は名を貞雄と改め、逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。軍人としての最終階級は陸軍大尉。栄典は正五位勲四等。 年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に勤務し、日清戦争にも従軍した。1931年(昭和6年)2月12日、76歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。

見る 上士と飯沼貞吉

飛騨郡代

飛騨郡代(ひだぐんだい)とは、江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つ。飛騨国全域ならびに美濃国の山間部、越前国および加賀国の一部に所在した幕府直轄領の民治を司る行政官であり代官である。勘定奉行支配で席次は西国郡代に次ぎ、焼火間詰。役高は四百俵。 1588年(天正16年)より飛騨国一円は飛騨高山藩金森氏によって治められてきたが、1692年(元禄5年)幕府は当時の藩主金森頼旹を出羽国上山藩へ移封し、飛騨国を幕府領とした。これは幕府が飛騨の豊富な木材資源と鉱物資源(金・銀・銅・鉛など)に着目し、幕府財政の安定を図る目的があったと考えられている。以後、高山城を廃城とし、高山城の下屋敷を高山陣屋として行政を行なった。

見る 上士と飛騨郡代

西周 (啓蒙家)

西周 は、日本の啓蒙思想家、西洋哲学者。獨逸学協会学校(現:獨協中学校・高等学校)初代校長、貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。西 周助とも。

見る 上士と西周 (啓蒙家)

西紳六郎

西 紳六郎(にし しんろくろう、1860年11月10日〈万延元年9月28日〉 - 1933年〈昭和8年〉10月16日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。栄典は従三位勲二等男爵。貴族院男爵議員、宮中顧問官。海兵8期。

見る 上士と西紳六郎

西郷頼母

西郷 頼母(さいごう たのも、1830年5月16日(文政13年閏3月24日) - 1903年(明治36年)4月28日)は、幕末の会津藩の家老。名は近悳(ちかのり)幼名龍太郎、字を汝玉(じぎょく)明治維新後は保科 近悳(ほしな ちかのり)と改名。号を栖雲(せいうん)、酔月軒(すいげつけん)、晩年は八握髯翁(やつかぜんおう)と称した。西郷家は、もともとは「保科」姓で、信州高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町一帯)の藩主保科正直の弟三河守正勝から始り、後に会津藩主となった保科家の分流である。保科家は信州高遠城主で清和源氏頼季流に属し、正俊の代に武田氏に従い、正直の代から徳川氏に従った名家である。

見る 上士と西郷頼母

西村勝三

西村 勝三(にしむら かつぞう、1837年1月15日(天保7年12月9日) - 1907年(明治40年)1月31日)は、日本の幕末から明治時代における実業家。 晩年に失敗の歴史はあれど、成功の歴史なしと回顧したように身体の弱さもあり苦難の道を歩んだが不屈の闘志で歩みを止めず、初期の洋服職人が洋裁技術を修得したと推定される裁縫師ローマンを招き、またメリヤス、製革・製靴、耐火煉瓦、窯業、硝子業の発展の礎を築く。支藩の佐野藩の出身だが南関東の学都である佐倉藩が輩出した人物たちを描いた『佐倉人物史』で取り上げられた。 シューズメーカー株式会社リーガルコーポレーション創業者。株式会社ニッピ(桜組)創業者。

見る 上士と西村勝三

西村茂樹

西村 茂樹(にしむら しげき、文政11年3月13日(1828年4月26日) - 明治35年(1902年)8月18日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家・教育者・官僚・貴族院議員。「明六社」創設者の一人。「日本弘道会」創設者。日本の西洋化に貢献する一方で伝統的な儒教を重視し、「世外教」(仏教、キリスト教など)の否定と「世教」(西洋哲学、儒教)による道徳教育を推進した。号は泊翁(はくおう)、樸堂(ぼくどう)、庸斎(ようさい)。

見る 上士と西村茂樹

馬廻

馬廻(うままわり)は、騎馬の武士で、大将の馬の周囲(廻り)に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制のひとつ。平時にも大名の護衛となり、事務の取次ぎなど大名の側近として吏僚的な職務を果たすこともあった。武芸に秀でたものが集められたエリートであり、親衛隊的な存在であったとされる - 世界大百科事典第2版「馬廻」(コトバンク)図説 戦国武将おもしろ事典 p276(監修/奈良本辰也・1990年 三笠書房)。

見る 上士と馬廻

角田秀松

角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年2月12日) - 1905年(明治38年)12月13日)は、日本の武士(会津藩士)、海軍軍人。最終階級は海軍中将。戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩出身者として最初の海軍将官となった人物である。

見る 上士と角田秀松

騎士

騎士(きし)は、騎乗して戦う者を指す。

見る 上士と騎士

高野貞吉

高野 貞吉(たかの さだよし、文政12年(1829年) - 大正2年(1913年)2月21日)は、日本の武士(越後長岡藩士、知行は120石)。職名 計司。仮名は喜傳次。妻に病死で二度先立たれたため、三度結婚した。貞吉の妻となった3人の女子は、いずれも父を同じくする姉妹であった。

見る 上士と高野貞吉

高木盛之輔

高木 盛之輔(たかぎ もりのすけ/たかき もりのすけ、1854年(安政1年) - 1919年(大正8年)2月19日)は、日本の武士、検察官。会津藩藩士として戊辰戦争を、別働第二旅団の一員として西南戦争を戦った。姉の高木時尾は照姫附き祐筆で、元新撰組副長助勤斎藤一(藤田五郎)に嫁ぐ斎藤は高嶺秀夫の斡旋で東京高等師範学校に勤務したが、その仲介をしたのが高木であった(『新選組・斎藤一の謎』129-130頁)。福島県立会津高等学校の創立功労者の一人である。

見る 上士と高木盛之輔

谷干城

谷 干城(たに たてき / たに かんじょう、1837年3月18日〈天保8年2月12日〉- 1911年〈明治44年〉5月13日)は、日本の武士(土佐藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。

見る 上士と谷干城

谷秦山

谷 秦山(たに じんざん、寛文3年3月11日(1663年4月18日) - 享保3年6月30日(1718年7月27日))は江戸時代の儒学者、神道家。

見る 上士と谷秦山

谷村自庸

谷村 自庸(たにむら よりつね、1845年〈弘化2年〉 - 1905年〈明治38年〉8月1日)は、江戸時代後期の土佐藩上士。通称は樵一郎。維新後は谷村樵夫と称した。馬廻役・谷村家の第7代当主。無双直伝英信流居合の達人。剣術家。神職。

見る 上士と谷村自庸

谷村自熈

谷村 自熈(たにむら よりひろ、1751年 - 1816年8月2日(文化13年7月9日)は、江戸時代後期の土佐藩上士。谷村家の第4代当主。有楽流(織田貞置流)茶人・谷村自足の孫。無双直伝英信流第15代 谷村亀之丞自雄の父。板垣退助の外曾祖父。土佐藩居合道の達人。諱は初め「自熈(よりひろ) 」と称し、晩年になって「自猛(よりたけ)」と改めた。

見る 上士と谷村自熈

谷村自雄

谷村 自雄(たにむら よりかつ/よりお、1800年〈寛政12年〉 - 1862年11月24日〈文久2年10月3日〉, Tanimura Kamenojō Yorikatsu, 15th head of the Musō Jikiden Eishin-ryū)は、 江戸時代後期の土佐藩上士。通称は亀之丞。(旧字体表記では「谷村龜之焏自雄」) 御小姓格・谷村家の初代当主。無双直伝英信流第15代宗家。山内容堂の居合師匠格。板垣退助の大叔父。土佐藩居合道の達人。剣術家。

見る 上士と谷村自雄

谷氏

谷氏(たにし、はざまし)は、日本の氏族である。 宇多源氏佐々木氏流の高島高信の三男谷重尚を祖とする系統と、丹波山家藩主家・華族の子爵家となった谷衛好を祖とする系統などがある。

見る 上士と谷氏

鳥取藩

鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。因州藩、因幡藩ともいう。石高は32万5千石。 江戸時代を通して池田氏が治め、因幡国鳥取城(久松山城とも称した。現在の鳥取市東町)を藩庁とした。また、因幡国内に鹿奴藩と若桜藩の2支藩があった。

見る 上士と鳥取藩

鳩山和夫

鳩山 和夫(はとやま かずお、1856年5月6日〈安政3年4月3日〉 - 1911年〈明治44年〉10月3日)は、日本の政治家、法律家。位階勲等学位は正四位勲三等法学博士。日本人第1号の法学博士取得者。イェール大学Doctor of Civil Law。 外務次官、衆議院議長を歴任し、教育でも専修学校(専修大学)の設立に大きく貢献をした功労者である。また、東京専門学校(早稲田大学)校長なども務めた。 長男は鳩山一郎、次男は鳩山秀夫。鳩山威一郎は孫。鳩山由紀夫・鳩山邦夫は曾孫。鳩山太郎・鳩山二郎・鳩山玲人・鳩山紀一郎は玄孫。

見る 上士と鳩山和夫

越後長岡藩

長岡藩(ながおかはん)は、越後国の古志郡全域および三島郡北東部、蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた藩。現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩(えちごながおかはん)と国名を冠して呼ばれることもある。 藩庁は長岡城(長岡市)。藩主は初めに堀家(8万石)、のちに牧野家に交替した。牧野家の家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高ははじめ6万2千石、後に加増されて7万4千石になった。正徳2年(1712年)の内高は約11万5300石、。

見る 上士と越後長岡藩

鹿持雅澄

鹿持 雅澄(かもち まさずみ、寛政3年4月27日(1791年5月29日) - 安政5年8月19日(1858年9月25日))は、江戸時代後期の国学者。名称は藤田。号は山斉または古義軒。別名は柳村愿太。飛鳥井深澄、藤原太郎雅澄とも名乗った。

見る 上士と鹿持雅澄

身分

とは、広義には特定の社会または集団において他の人が占めている他の地位との関連で捉えられる同一社会または同一集団の内部で位置づけられるその人の地位『社会科学大事典18』鹿島研究所出版会、332頁(有地亨)。

見る 上士と身分

軍艦奉行

軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)は、江戸時代末期(幕末)に江戸幕府により設置された役職名の事である。 安政6年(1859年)に設置される。幕府海軍を統括し、軍艦の製造・購入や操錬技術者の育成などを管轄する。万延元年(1860年)には咸臨丸を出航させる。

見る 上士と軍艦奉行

黒岡帯刀

黒岡 帯刀(くろおか たてわき、1851年8月28日(嘉永4年8月2日) - 1927年(昭和2年)12月19日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将正三位勲二等。貴族院勅選議員。

見る 上士と黒岡帯刀

黒井悌次郎

黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日(1866年7月4日) - 昭和12年(1937年)4月29日)は、明治から大正期の日本の海軍軍人。海軍大将。山形県(旧米沢藩)出身。江戸時代中期の米沢藩士黒井忠寄は傍系である。黒井家の菩提寺はともに鍛冶町の曹洞宗高国寺。

見る 上士と黒井悌次郎

黒羽藩

黒羽藩(くろばねはん)は、下野国那須郡に存在した藩の一つ。藩庁は黒羽陣屋(現在の栃木県大田原市前田)に置かれた。

見る 上士と黒羽藩

郷士

郷士(ごうし)は、江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す。平時は農業、戦時には軍事に従った。郷侍(ごうざむらい)とも。

見る 上士と郷士

阪井重季

阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(弘化3年11月24日) - 1922年(大正11年)3月1日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。旧名・元助(二川元助、二川元助重遠)。家紋は四つ星。

見る 上士と阪井重季

薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の西部に属する。

見る 上士と薩摩国

薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代の藩。藩庁は鹿児島城(鹿児島市)、藩主は島津家。薩摩・大隅の2か国および日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)を領有し、琉球王国(現在の沖縄県)が服属したただし、奄美群島は、琉球侵攻以前は琉球王国の支配下にあった。また、琉球侵攻以後は薩摩藩が直轄に統治をしたが、名目上は琉球王国の一部とされた。。

見る 上士と薩摩藩

藤堂高成

藤堂 高成(とうどう たかしげ、1867年3月17日(慶応3年2月12日)- 1930年(昭和5年)10月23日『平成新修旧華族家系大成 上巻』145頁。『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』78頁。)は、明治から昭和初期の華族、政治家。男爵、旧名張領主名張藤堂家(藤堂宮内家)第12代。幼名は憲丸。

見る 上士と藤堂高成

藤井光五郎

藤井 光五郎(ふじい てるごろう、1867年7月23日〈慶応3年6月22日〉 - 1947年〈昭和22年〉7月17日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍機関少将。

見る 上士と藤井光五郎

藤井茂太

藤井 茂太(ふじい しげた、万延元年 9月21日(1860年11月3日) - 昭和20年(1945年)1月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

見る 上士と藤井茂太

藩士

藩士(はんし)は、江戸時代の各藩に仕えた武士およびその構成員を指す歴史用語。 江戸時代には「藩」という言葉自体と同様、「藩士」も大名の家来の呼称としてほぼ用いられなかった。 例えば、薩摩藩の藩士なら自らのことを「薩摩藩士某」と名乗るのではなく「島津家家臣某」と名乗った。

見る 上士と藩士

藩医

藩医(はんい)は、江戸時代に藩に仕えた医師のこと。

見る 上士と藩医

肝付氏

肝付氏(きもつきし)は、日本の氏族の一つであり、戦国期には大隅の戦国大名として、隣接する島津氏と熾烈な勢力争いを繰り広げたが、最終的には島津氏の家臣となる。江戸時代にも薩摩藩士家として続き、維新後、嫡流は士族となるが、庶流の肝付兼行海軍中将が勲功により華族の男爵に列せられた。

見る 上士と肝付氏

肥田昭作

肥田 昭作(ひだ しょうさく『福沢諭吉門下』。 『福沢諭吉事典』。、1842年11月25日(天保13年10月23日) - 1921年(大正10年))は、明治時代の日本の文部官僚、実業家。旧名昭敷、玄次郎田村、311頁。『慶應義塾150年史資料集 1』。(玄二郎。、鉉次郎『慶應義塾150年史資料集 2』。)。 第四大学区第一番中学(京都大学の前身の1つ)学長、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)、東京英語学校(東京大学教養学部の前身)校長、第十五国立銀行(旧三井銀行の前身の1つ)副支配人、第百十九国立銀行(旧三菱銀行の前身)および壬午銀行頭取を歴任した。

見る 上士と肥田昭作

肥田浜五郎

根津欽次郎。 肥田 浜五郎(ひだ はまごろう、文政13年1月28日(1830年2月21日) - 明治22年(1889年)4月28日『官報』第1747号、「彙報 - 故肥田宮内省御料局長官履歴」1889年4月30日。)は、豆州肥田氏の末裔で幕末期の幕臣、技術者、明治期の官僚。長崎海軍伝習所第二期生。諱は為良(ためよし)。

見る 上士と肥田浜五郎

野田豁通

野田 豁通(のだ ひろみち、1844年9月6日(天保15年7月24日) - 1913年(大正2年)1月6日)は、日本の武士(熊本藩士)、陸軍軍人、陸軍経理組織の創設者。陸軍主計官のトップである陸軍省経理局長を務めた。最終階級は陸軍主計総監(後の陸軍主計中将)。 箱館戦争軍監、初代青森県知事、日清戦争の野戦監督長官、男爵、貴族院議員を歴任した。清浦奎吾、後藤新平、斎藤実、柴五郎などを見出し、庇護・育成した。

見る 上士と野田豁通

野村貞

野村 貞(のむら ただし、1845年2月22日(弘化2年1月16日) - 1899年(明治32年)5月4日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、海軍軍人(海軍少将)。 日清戦争で武勲を挙げ、越後長岡藩出身の最初の海軍将官となった。 長岡藩家老・河合継之助は、野村の従兄である。また、連合艦隊司令長官・山本五十六は、野村の甥である(野村の妻である「はる」は、高野貞吉〈山本五十六の実父〉の妹)。

見る 上士と野村貞

長宗我部氏

長宗我部氏(ちょうそかべし/ちょうすがめし)は、日本の武家の一つ。長曽(曾)我部とも記される。室町時代以降、通字に「親」を用いた。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。 中世の土佐国長岡郡に拠った在地領主(国人)で、土佐の有力七豪族(土佐七雄)の一つに数えられる。戦国時代に勢力を広げ、元親の代で戦国大名に成長し土佐を統一する。さらに隣国の阿波・伊予に進出したが、羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに敗れ、土佐一国に減封されて臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦する。 元親の跡を継いだ子の盛親は関ヶ原の戦いで西軍に参戦・敗北し改易される。盛親とその子は大坂の陣で大坂方に味方して刑死し、大名としての長宗我部氏は滅亡、嫡流は絶家したとされる盛親の子孫を名乗る者は複数いるが、何れの場合も子孫であるとは証明されていない。

見る 上士と長宗我部氏

長州藩

長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利家を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。版籍奉還後の名は、山口藩。 現在の山口県に相当する。 萩城址。

見る 上士と長州藩

長府藩

藩庁である櫛崎城跡(現・関見台公園) 長府藩(ちょうふはん)は、現在の山口県下関市長府に江戸時代に存在した藩のひとつである。長州藩の支藩で、長門府中藩(ながとふちゅうはん)ともいう。須原屋武鑑の居城・在所表記では当初は長門長府で、宝暦年中より長門府中に改称されている。藩庁は櫛崎城(長府城、長府陣屋)に置かれた。

見る 上士と長府藩

若年寄

若年寄(わかどしより)とは。

見る 上士と若年寄

陸奥宗光

陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8月20日〉- 明治30年〈1897年〉8月24日)は、日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。「カミソリ大臣」とも呼ばれた。 版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に多大な影響を与え、第2次伊藤内閣の外務大臣として領事裁判権の撤廃に成功した。

見る 上士と陸奥宗光

柴山矢八

柴山 矢八(しばやま やはち、嘉永3年7月13日(1850年8月20日) - 大正13年(1924年)1月27日)は、幕末から明治期の海軍軍人、華族。最終階級は海軍大将。男爵。鹿児島県出身。

見る 上士と柴山矢八

柴五郎

柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3日〉 - 1945年〈昭和20年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。第12師団長・東京衛戍総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。柴四朗(東海散士)は兄。陸士旧3期。

見る 上士と柴五郎

林大八

林 大八(はやし だいはち、1884年(明治17年)9月15日 - 1932年(昭和7年)3月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。従四位・勲三等・功三級。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。陸軍少尉の林八郎は次男。

見る 上士と林大八

林研海

林 研海(はやし けんかい、弘化元年6月16日『日本陸海軍総合事典』第2版、127頁。(1844年7月30日) - 1882年(明治15年)8月30日)は、幕末期の医学者、明治期の軍医。陸軍軍医総監。幼名・紀太郎、別名・紀(つな)。

見る 上士と林研海

林董

林 董(はやし ただす、1850年4月11日(嘉永3年2月29日) - 1913年(大正2年)7月10日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の五男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。

見る 上士と林董

林権助

林 権助(はやし ごんすけ、、安政7/万延元年3月2日〈1860年3月23日〉 - 昭和14年〈1939年〉6月27日)は、日本の明治・大正期の外交官。男爵。位階勲等は従一位勲一等。会津藩出身。林又一郎は父星亮一『松江豊寿と会津武士道』2006年、ベストセラーズ(ベスト新書)、pp87-90、第三章 坂東俘虜収容所 韓国に派遣さる。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。

見る 上士と林権助

林洞海

林 洞海(はやし どうかい、文化10年3月3日(1813年4月3日) - 明治28年(1895年)2月2日)は、日本の武士・蘭方医。幕府奥医師。名は彊。

見る 上士と林洞海

林政誠

林 政誠(はやし まさなり、1756年(宝暦6年)- 1816年1月14日(文化12年12月16日))は、江戸時代中期の土佐藩上士。通称は益之丞。御馬廻役・林(池田)家の第5代当主。無双直伝英信流第12代宗家『無雙直傳英信流居合に就いて』中西岩樹著、土佐史談、1933年(昭和8年)による。。土佐藩居合道の達人。剣術家。

見る 上士と林政誠

東郷実友

東郷 実友(とうごう さねとも)は、江戸時代後期の薩摩藩士。東郷平八郎の父。 宗旨は禅宗。父の実家の親族である篠崎七郎左衛門正心より水野流居合を学び、皆伝す。家格初め御小姓与。のち一代小番。

見る 上士と東郷実友

東郷平八郎

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、、1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉 - 1934年〈昭和9年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。 日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山、海の東郷」「東洋のネルソン(The Nelson of the East)」と呼ばれた。 山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で、ホレーショ・ネルソン、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎の3名について特記している。

見る 上士と東郷平八郎

東條英教

東條 英教(とうじょう ひでのり、安政2年11月8日(1855年12月16日) - 大正2年(1913年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。陸大1期首席。最終階級は陸軍中将。 第40代内閣総理大臣・東條英機は息子。

見る 上士と東條英教

東海散士

東海 散士(とうかい さんし、1853年1月11日(嘉永5年12月2日) - 1922年(大正11年)9月25日)は、明治から大正にかけての政治家・小説家、軍人。本名は柴 四朗(しば しろう)。上総国(千葉県)の出身。台湾軍司令官・東京衛戍総督の柴五郎は弟。

見る 上士と東海散士

松前藩

松前藩(まつまえはん)は、松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年(1868年)、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部、渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。

見る 上士と松前藩

松村務本

松村 務本(まつむら かねもと、1853年2月5日(嘉永5年12月27日) - 1905年2月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

見る 上士と松村務本

松江藩

藩庁松江城 松江藩(まつえはん)は、出雲または隠岐を加えた2か国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾家、京極家と続き、親藩の雲州松平家が廃藩置県まで支配した。

見る 上士と松江藩

板垣退助

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日、4月17日〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 - 大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督、迅衝隊総督兼大隊司令)、武士(土佐藩士)、東征大総督東山道参謀。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲として参与、参議、内務大臣(第10代・第13代)を歴任。 幕末に薩摩藩士・西郷隆盛と共に「薩土密約」締結を主導。戊辰戦争では東征大総督東山道参謀として指揮を執り、明治維新後に参与となる。征韓論政変で下野後、自由民権運動の指導者として東アジアで初となる帝国議会の樹立に向けて活動し、「国会を創った男」として知られる『板垣退助105回忌に寄せて』衆議院議員・中谷元著(『NPO法人板垣会』会報第11号1頁より)。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

見る 上士と板垣退助

村田清風

村田 清風(むらた せいふう)は、江戸時代後期の長州藩士(家老)。家格大組(別名馬廻)。藩主毛利敬親の信任の下で、長州藩の藩政改革を主導した。

見る 上士と村田清風

村田新八

村田 新八(むらた しんぱち、天保7年11月3日(1836年12月10日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)・政治家。

見る 上士と村田新八

杉本鉞子

杉本鉞子。1925年ごろ撮影。 杉本 鉞子(すぎもと えつこ、1873年(明治6年)- 1950年(昭和25年)6月20日)は、日本の作家。大正末期に出版した英語による著書『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』により、アメリカでの日本人初のベストセラー作家となる。コロンビア大学の初の日本人講師でもある。

見る 上士と杉本鉞子

根岸信五郎

根岸 信五郎(ねぎし しんごろう、1844年(弘化元年1月『剣道事典 技術と文化の歴史』364頁。)- 1913年(大正2年)9月15日)は、明治期の日本の剣術家。流派は神道無念流。称号は大日本武徳会剣道範士。諱は資剛。

見る 上士と根岸信五郎

桑名藩

桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国桑名に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。越後国の中部にも領地があり柏崎陣屋が統治した。

見る 上士と桑名藩

桂太郎

桂 太郎(かつら たろう、1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将で、栄典は、従一位大勲位功三級公爵。「元老の一人であった」という説もある。元老の井上馨とは義理の親子の関係であり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された。

見る 上士と桂太郎

桂久武

桂 久武(かつら ひさたけ)は、幕末の薩摩藩士、政治家。島津氏分家・日置島津家当主の島津久風の五男。長兄は、第29代藩主・島津忠義の主席家老島津久徴(下総、左衛門)、次兄は、お由羅騒動で犠牲となった赤山靭負。

見る 上士と桂久武

梨羽時起

梨羽 時起(なしは ときおき、1850年9月24日(嘉永3年8月19日) - 1928年10月24日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』80頁。)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。貴族院議員、男爵。

見る 上士と梨羽時起

森鷗外

森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉- 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。東京大学医学部入学時、第一大学区医学校・東京医学校医学本科予科卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。 帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより創作活動から一時期遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。

見る 上士と森鷗外

植村正久

植村 正久(うえむら まさひさ、1858年1月15日(安政4年12月1日) - 1925年(大正14年)1月8日)は、日本の思想家・キリスト教の伝道者・牧師・神学者・説教家。号は「謙堂」あるいは「桔梗生」など。日本のキリスト教教会の形成に大きな役割を果たした植村は田村直臣、松村介石、内村鑑三と共にキリスト教界の四村と呼ばれた。日本基督教会、日本のプロテスタントの指導者であり、後の日本のプロテスタントにも大きな影響を与え、全日本キリスト教会のプロテスタント教皇といわれた。

見る 上士と植村正久

横山隆平

横山 隆平 (よこやま たかひら、弘化2年3月17日(1845年4月23日) - 明治36年(1903年)7月31日)は、江戸時代末期の加賀藩の年寄、明治時代の日本の実業家・華族(男爵)。加賀八家横山家第13代当主。 子に男爵横山隆俊、前田直行室、前田孝室。幼名は三郎。通称は三左衛門。家紋は「丸ノ内万字」。

見る 上士と横山隆平

橋本綱常

橋本 綱常(はしもと つなつね、1845年7月24日〈弘化2年6月20日〉 - 1909年〈明治42年〉2月18日)は、明治時代の医師。桃井氏一族の桃井直常の後裔と称した。陸軍軍医総監(中将相当官)、陸軍省医務局長、東京大学医科大学教授、初代日本赤十字社病院院長、東宮拝診御用などを歴任。従四位勲三等、子爵、医学博士。兄に越前藩士・橋本左内がいる。墓所は東京都文京区にある麟祥院である。

見る 上士と橋本綱常

武士

武士(ぶし、もののふ)は、日本における戦闘員を指し、戦闘を家業とする家系にある者を指す。平安時代に生まれ、幕末期まで存在した。 宗家の主人を頂点とした家族共同体を作っていた特徴がある。 その上に、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)が位置し、武家政権を樹立した。武家の棟梁とは、一族や同盟関係にある者たちを統率するリーダーのことで、武士団を指導し、彼らからの信任と忠誠を受けていた。

見る 上士と武士

武家奉公人

時代祭での武家奉公人 武家奉公人(ぶけほうこうにん)とは、武家の武士に奉公する農民や町人出身の従者を言う。江戸時代以前では主家に仕える(奉公する。

見る 上士と武家奉公人

武市富子

晩年の武市富子 武市 富子(たけち とみこ、文政13年5月18日(1830年7月8日) - 大正6年(1917年)4月23日)は、幕末の志士・武市瑞山の妻。高知藩郷士・島村雅風(源次郎)の長女。ロシア正教日本人初の司祭の沢辺琢磨は従弟。

見る 上士と武市富子

武市瑞山

武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日〈1829年10月24日〉- 慶応元年閏5月11日〈1865年7月3日〉)は、幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称の武市 半平太(たけち はんぺいた)で称されることも多い。

見る 上士と武市瑞山

武市正恒

武市 正恒(たけち まさつね、? - 嘉永2年(1849年)8月)は、江戸時代後期の土佐藩郷士。武市瑞山、田内衛吉の父。

見る 上士と武市正恒

武田秀雄 (海軍軍人)

武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11月16日) - 1942年(昭和17年)2月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍機関中将。

見る 上士と武田秀雄 (海軍軍人)

歴史小説

歴史小説(れきししょうせつ)は、主として歴史上に実在した人物を用い、ほぼ史実に即したストーリー、またはその時代を設定して、その中での空想上の物語が書かれたものが展開される小説のことである。

見る 上士と歴史小説

毛利重輔

毛利 重輔(もうり じゅうすけ、1848年1月12日(弘化4年12月7日 )- 1901年(明治34年)7月13日)は、長州藩一門家老である吉敷毛利家の16代当主、鉄道技術者、男爵。旧姓・山本『平成新修旧華族家系大成』下巻、735頁。。

見る 上士と毛利重輔

水野忠宜

水野 忠宜(みずの ただよし、1877年〈明治10年〉9月1日 - 1902年〈明治35年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。位階は正五位。最終階級は陸軍歩兵中尉。八甲田雪中行軍遭難事件で遭難死した。なお、「水野 忠宣」は誤記。

見る 上士と水野忠宜

水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。水府藩とも呼ばれる。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。御三家の一つである。

見る 上士と水戸藩

永井尚志

永井 尚志(ながい なおゆき/ながい なおむね)は、幕末の武士(旗本)。

見る 上士と永井尚志

永井岩之丞

永井 岩之丞(ながい いわのじょう)は、幕末の幕臣、明治期の裁判官(大審院判事)。三島由紀夫の曾祖父にあたる。

見る 上士と永井岩之丞

江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど、) は、現在の東京の前身・原型に当たる都市を指し、その旧称である。現在の東京都区部の中央部に位置した。 平安時代後期に東京湾の日比谷入江に面する小地名として現れ(武蔵国豊島郡内)、そこに秩父氏の一族の武士が移り住んで江戸氏を名乗り勢力を伸ばし、江戸郷と呼ばれることとなった。 徳川家康が1590年に入府し、1603年(慶長8年)から1868年(慶応4年)まで江戸幕府が置かれた。

見る 上士と江戸

江戸時代

江戸時代(えどじだい、)は、日本の歴史の内江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。江戸時代という名は、江戸に将軍が常駐していたためである。

見る 上士と江戸時代

池田長準

池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年4月5日) - 大正2年(1913年)3月4日)は、岡山藩の家老。片桐池田家第11代当主。男爵。 父は岡山藩家老池田長常。妻は一条実良の娘福(亨子)。養子は池田長康。通称は競、主殿、采女助。初名は長知。

見る 上士と池田長準

池田氏

池田氏(いけだし)は、日本の氏族。池田家とする場合もある。

見る 上士と池田氏

池田政昭

池田 政昭(いけだ まさあき)は、江戸時代後期の備前岡山藩の家老。天城池田家第10代当主。別名・池田出羽。

見る 上士と池田政昭

池田政承

池田 政承(いけだ まさつぐ/せいしょう、1799年(寛政11年)- 1831年8月25日(天保2年7月18日)は、江戸時代中期の土佐藩上士(御馬廻役末子)。通称は林八郎次。のち池田和太夫と称した。無双直伝英信流第12代宗家・林政誠の嫡男。土佐藩居合道の達人。剣術家。

見る 上士と池田政承

沢辺琢磨

沢辺琢磨 沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年1月5日〈1834年2月13日〉- 大正2年〈1913年)6月25日〉は、日本ハリストス正教会初の正教徒(ハリスチャニン。

見る 上士と沢辺琢磨

河北俊弼

河北 俊弼322頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月9日閲覧。(かわきた としすけ、旧名・義次郎、天保15年(1844年)4月 - 明治24年(1891年)3月8日)は、日本の武士(萩藩士)、外交官。朝鮮国駐箚弁理公使。従四位勲三等。族籍は山口県士族。モデルで女優の河北麻友子の高祖父にあたる。

見る 上士と河北俊弼

河田景与

河田 景与(かわた かげとも、文政11年10月18日(1828年11月24日) - 明治30年(1897年)10月12日)は、日本の武士(鳥取藩士)、政治家。幕末期に尊王攘夷の志士として活動し、明治維新後は鳥取県権令(初代)、元老院議官、貴族院議員を歴任した。名(諱)は初め祺景。通称は左久馬(佐久馬)、権次郎。号は研田。爵位は子爵。

見る 上士と河田景与

津和野藩

津和野城 津和野藩(つわのはん)は、江戸時代に石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれた。

見る 上士と津和野藩

津田三蔵

津田 三蔵(つだ さんぞう、安政元年12月29日(1855年2月15日) - 1891年(明治24年)9月30日)は、明治期の日本の陸軍軍人、警察官。大津事件の際にロシア皇太子ニコライ(ニコライ2世)を切り付けた人物として知られる。

見る 上士と津田三蔵

津田仙

津田 仙(つだ せん、1837年8月6日〈天保8年7月6日〉 - 1908年〈明治41年〉4月24日)は、日本の農学者、キリスト者。学農社創立者。青山学院大学・筑波大学附属盲学校・普連土女学校の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大学の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、キリスト教界の三傑とうたわれた。明六社会員。娘に津田梅子(津田塾大学を創設)、余奈子(アメリカに移住し、日本語新聞『日米新聞』を発行しサンフランシスコの日系人社会のリーダー的存在だった安孫子久太郎と結婚)などがいる。

見る 上士と津田仙

津田出

津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日(1832年3月3日) - 明治38年(1905年)6月2日)は、幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚、陸軍軍人。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。号は芝山。 弟は初代和歌山県知事の正臣。

見る 上士と津田出

津藩

津藩(つはん)は、伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。伊賀国の上野城も所有した。石高は当初伊勢・伊賀2国を合わせた22万石で、大坂の陣の後に山城国・大和国(いわゆる「城和領」)などが加増され最大32万3000石となった。

見る 上士と津藩

深堀鍋島家

深堀鍋島家(ふかほりなべしまけ)は、江戸時代の武家で、肥前国佐賀藩の家老で、肥前国彼杵郡深堀領主。本姓は平氏。元来の名字は深堀。鎌倉時代から続く肥前国の国人領主深堀氏の名跡を継ぐ家である。佐賀藩主鍋島氏の外戚・重臣石井氏の一門である。家紋は鍔に小槌、丸に三つ鱗。

見る 上士と深堀鍋島家

深尾重先

深尾 重先(ふかお しげもと)は、江戸時代後期の土佐藩の重臣。深尾家当主・佐川領主10代。

見る 上士と深尾重先

渡辺小崋

渡辺 小崋 渡辺 小崋(わたなべ しょうか、天保6年1月7日(1835年2月4日) - 明治20年(1887年)12月29日)は、幕末・明治期の三河国田原藩家老で、日本画家。渡辺崋山の次男。諱は諧(かのう)で、通称は舜治。小崋(後に小華)は雅号。

見る 上士と渡辺小崋

渡辺崋山

渡辺 崋山(わたなべ かざん)は、江戸時代後期の武士・画家。三河国田原藩士・家老。通称は登(のぼり)、諱は定静(さだやす)。号の崋山ははじめ華山で、35歳ころ改めた。別号は全楽堂・寓画堂など。贈正四位(国立国会図書館デジタルコレクション)。「渡邊登」の名で掲載。。1839年に幕府によって罰せられた(蛮社の獄)。

見る 上士と渡辺崋山

清岡公張

清岡 公張(きよおか ともはる、1841年8月26日(天保12年7月10日) - 1901年(明治34年)2月25日)は、日本の武士(土佐藩士)、官僚。従二位勲一等子爵。通称は半四郎、号は東望。

見る 上士と清岡公張

清岡道之助

清岡 道之助(きよおか みちのすけ、天保4年10月20日(1833年12月1日) - 元治元年9月5日(1864年10月5日))は、幕末の土佐藩の志士。諱は成章、旭梅軒と号した。

見る 上士と清岡道之助

湯地定基

湯地 定基(ゆち / ゆじ さだもと、1843年9月27日(天保14年9月4日)- 1928年(昭和3年)2月10日)は、幕末の薩摩藩士。明治から昭和期の開拓使・内務官僚、政治家、農業経営者。根室県令、元老院議官、貴族院勅選議員。通称・治右衛門、治左衛門『明治維新人名辞典』「湯地治左衛門」1055頁。。偽名・工藤十郎(Zuro Kudo)、通称・いも判官。 薩摩藩士として生まれ、勝海舟の私塾で学んだ後、アメリカに密留学し、ウィリアム・クラークの下で農政学を学んだ。帰国後、根室県令として北海道にジャガイモを普及し、いも判官と呼ばれた。妹は乃木希典の妻、静子。

見る 上士と湯地定基

湯地定監

湯地 定監(ゆち さだのり / ていかん、1849年11月22日(嘉永2年10月8日) - 1927年(昭和2年)1月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍機関中将。貴族院勅選議員。

見る 上士と湯地定監

滝川具和

滝川 具和(たきがわ ともかず、安政6年7月22日(1859年8月20日) - 大正12年(1923年)2月12日)は、明治時代の大日本帝国海軍軍人(海兵6期)。最終階級は海軍少将。海軍内部における中国通(支那通)。

見る 上士と滝川具和

滝川具綏

滝川 具綏(たきがわ ともやす)は、江戸時代後期の旗本で明治初期の陸軍軍人である。最終階級は陸軍中尉。位階は従七位。父は大目付を勤めた旗本の滝川具挙。家紋は鶴の丸。

見る 上士と滝川具綏

滝川具挙

滝川 具挙(たきがわ ともたか)は、江戸時代後期の旗本。初名は具知(ともさと)。通称は三郎四郎。官位は従五位下、播磨守。 戊辰戦争の開戦経過における旧幕府側の中心人物として知られる。

見る 上士と滝川具挙

滝川雄利

滝川 雄利(たきがわ かつとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢神戸城主、のち常陸片野藩初代藩主。

見る 上士と滝川雄利

澤太郎左衛門

澤 太郎左衛門(さわ たろうざえもん、天保5年6月4日(1834年7月10日) - 明治31年(1898年)5月9日)は、幕末から明治期の幕臣、技術者、海軍教官。名は貞説。幼名はえい太郎(「えい」は金偏に英、鍈太郎)。箱館戦争時に成立した旧幕府軍政権(蝦夷共和国)開拓奉行。海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞は子息である。

見る 上士と澤太郎左衛門

澤鑑之丞

澤 鑑之丞(さわ かんのじょう、万延元年1月20日(1860年2月11日) - 1947年(昭和22年)5月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍造兵総監(後の海軍技術中将)。

見る 上士と澤鑑之丞

木村芥舟

木村 芥舟(きむら かいしゅう、文政13年2月5日(1830年2月27日) - 明治34年(1901年)12月9日)は、江戸幕府末期(幕末)の旗本(幕臣)。位階は正五位。諱は喜毅(よしたけ)。 幕府海軍軍制取締、浜御殿添奉行、本丸目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、勘定奉行等幕府の要職を歴任。咸臨丸の総督を務め、明治維新後は完全に隠居し、福澤諭吉と交遊を重ねて詩文三昧の生活を送った文人である。 死没の日付で正五位に叙されているが、幕末の幕閣で明治以後に位階勲等を受けた者は木村を含めて、川路聖謨(贈従四位)、岩瀬忠震(贈正五位)、池田長発(贈正五位)の4名だけである。「幕末の四舟」の1人に名を連ねることもある(ただし木村は、死後の日付での「贈位」ではなく、死去の日付での「叙位」である)。

見る 上士と木村芥舟

木村駿吉

木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月8日(慶応2年10月2日) - 1938年10月6日)は、日本海軍の軍属(教授、技師)、教育者、特許弁理士湘南科学史懇話会。第一高等中学校(現・東京大学)教授、立教学校(現・立教大学)教頭、第二高等学校(現・東北大学)教授を歴任。海軍技師として、日露戦争の勝利に貢献した三六式無線電信機を開発したことでも知られる湘南科学史懇話会。

見る 上士と木村駿吉

木村浩吉 (海軍軍人)

木村 浩吉(きむら こうきち、1861年8月28日(文久元年7月23日) - 1940年(昭和15年)1月14日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。功四級勲三等従四位。

見る 上士と木村浩吉 (海軍軍人)

木戸孝允

木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。号は松菊、竿鈴。 明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる(コトバンク)。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。

見る 上士と木戸孝允

本多政以

本多 政以(ほんだ まさざね、元治元年10月21日(1864年11月20日)- 大正10年(1921年)7月16日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』84頁。) は、加賀八家本多家第12代当主。男爵。貴族院議員。 妻は荒木左次馬の娘。子は本多政樹、長基連。幼名資松。家紋は「丸ノ内立葵」。

見る 上士と本多政以

本山茂任

本山 茂任(もとやま しげとう、1826年(文政9年) - 1887年(明治20年)8月28日)は、 江戸時代土佐藩上士勤皇派の武士。 維新の志士。松山県参事。春日大社、下賀茂神社の神職。 通称は左近兵衛、のち只一郎。竜沢と号す。前諱は茂樹。板垣退助の親族にあたり、文武に秀で、坂本龍馬や中岡慎太郎を厚く庇護したことで有名。坂本龍馬や中岡慎太郎からの手紙なども伝存している。

見る 上士と本山茂任

本山氏

本山氏(もとやまし)は、土佐国の豪族。土佐七雄の一つに数えられる。

見る 上士と本山氏

有地品之允

有地 品之允(ありち しなのじょう、天保14年3月15日(1843年4月14日) - 大正8年(1919年)1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。

見る 上士と有地品之允

有馬良橘

有馬 良橘(ありま りょうきつ、1861年12月16日〈文久元年11月15日〉 - 1944年〈昭和19年〉5月1日)は、日本の海軍軍人、神職。最終階級は海軍大将。和歌山県和歌山市出身。養子に海軍中将・有馬寛がいる。

見る 上士と有馬良橘

明石元二郎

明石 元二郎(あかし もとじろう、1864年9月1日(元治元年8月1日) - 1919年(大正8年)10月26日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。妻は国子(郡保宗の二女)、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。明石泰二郎(陸士27期、陸軍少将)は甥。

見る 上士と明石元二郎

明神善秀

明神 善秀(みょうじん よしひで、生年不詳 - 1864年12月29日(元治元年12月1日))は、江戸時代後期の土佐藩上士。幼名は民之助。通称は明神源八。前諱は信貞。

見る 上士と明神善秀

浪人

大石良金は浪人、赤穂事件。大石主税藤原良金 浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分には囚われず、全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。

見る 上士と浪人

海老名季昌

海老名 季昌(えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年(天保14年)- 1914年(大正3年)8月23日)は、幕末の会津藩家老。明治時代の警察官、地方官吏である。幼名秀次郎、通称郡治。郡次とも表記される。

見る 上士と海老名季昌

浅野守夫

浅野 守夫(あさの もりお、1856年1月19日(安政2年12月12日)- 1938年(昭和13年)5月23日)は、日本の男爵、貴族院議員、正三位。

見る 上士と浅野守夫

浅野忠

浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月8日(1819年12月5日) - 明治25年(1892年)11月14日)は、江戸時代末期(幕末)の広島藩の筆頭家老、のちに神職。三原領主(3万石)三原浅野家第11代当主。第9代当主浅野忠順の子。諱は初め忠助、のちに忠厚。通称は遠江、主殿、大和、飛騨、仲之丞。号は榎蔭。 天保14年(1843年)9月、43歳にして老齢を理由に先代浅野忠敬が隠居し、忠敬の子浅野忠英は幼年だったため、家督を継いだ。嘉永6年(1853年)のペリー来航を期に、家老の上田主水、浅野豊後と連署した建白書を藩主浅野斉粛に提出し、辻将曹らとともに藩政改革を行おうとするが失敗した。そして安政2年(1855年)、藩主浅野長訓に執政更迭と改革派の登用を訴えたが、側近に阻まれ容れられず、翌安政3年(1856年)3月に病を理由として隠居を申し渡された。領地の三原に帰った忠は、時流に合わせて洋式の兵法を採用、砲台を築いた。その後、文久2年(1862年)10月より藩政に復し、軍制改革を行う。明治元年(1868年)5月、政事堂副総督となった。

見る 上士と浅野忠

新渡戸十次郎

新渡戸 十次郎(にとべ じゅうじろう)は、江戸時代後期の盛岡藩士。諱は常訓(つねのり)、字は昭瑶、号は謙斎、受益堂。国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造は三男。

見る 上士と新渡戸十次郎

新渡戸稲造

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、、文久2年8月3日〈1862年9月1日〉- 昭和8年〈1933年〉10月15日)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。札幌農学校在学中に出会ったキリスト教から多大な影響を受ける。 国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読まれている。日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(後の東京文化短期大学、現在の新渡戸文化短期大学)初代校長。

見る 上士と新渡戸稲造

日吉町吉利

日吉町吉利(ひよしちょうよしとし)は、鹿児島県日置市の大字。旧薩摩国日置郡吉利郷吉利村、日置郡吉利村、日置郡日吉町大字吉利。人口は1,077人、世帯数は496世帯(2020年10月1日現在)。郵便番号は5614番地・5619番地・5647番地・5653番地は899-3103、その他は899-3203である。 1889年の町村制施行から1955年まで存在した地方自治体である吉利村(よしとしむら)を前身としており、1955年に吉利村が日置村と新設合併し日吉町となったのに伴い吉利村の全域を以て日吉町の大字「吉利」として新設された。本項では本大字の前身となる1955年まで地方自治体であった日置郡吉利村についても述べる。

見る 上士と日吉町吉利

日置健太郎

日置 健太郎(へき/ひき けんたろう、嘉永6年12月30日(1854年1月28日) - 大正11年(1922年)5月8日『平成新修旧華族家系大成』下、p.393)は、明治・大正時代の華族(男爵)。旧岡山藩家老(金川領主)日置家当主。別名に忠信。ツラスチー貯蓄銀行、明治産業取締役、経国銀行監査役『人事興信録』第4版。 明治維新後は小松健太郎を称して安積開拓に従事するも挫折、岡山に帰郷し教育事業に携わった。

見る 上士と日置健太郎

日置島津家

日置島津家(ひおきしまづけ)は、島津氏の支流である武家・士族・華族だった家。安土桃山時代の島津歳久を祖とし、江戸時代には薩摩国鹿児島藩島津家の一門家臣として薩摩日置を領し、維新後には華族の男爵家に列せられた。

見る 上士と日置島津家

日置忠尚

日置 忠尚(へき ただひさ/ひき ただなお)は、幕末期の岡山藩家老・金川日置家当主。日置帯刀(へき たてわき)の通称でも知られる。明治初年に発生した岡山藩兵と欧米人兵士との衝突事件(神戸事件)の当事者となった。また、画家としても知られ、明治維新後は宮内省技芸官となった。

見る 上士と日置忠尚

改易

水野忠恒が毛利師就に、斬り掛かるという刃傷沙汰が起こっている。何れも大名が改易となった大事件であった。 改易(かいえき)は、江戸時代においては、武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰。士分以上の者の社会的地位を落とす身分刑であるが、禄や拝領した家屋敷を没収されることから、財産刑でもあるとする見解もある。また大名の所領を没収、減封、転封することを改易と呼ぶこともある。

見る 上士と改易

小池正直尾張藩山口鋭之助山岡鉄舟山川健次郎山川二葉山川浩山地元治山田平左衛門山田顕義山梨勝之進山本五十六山本義路居合術岡山藩岡崎邦輔岡田啓介岩崎小弥太岩崎久弥岩崎弥太郎岩崎弥之助岩崎弥次郎岩崎俊弥岩崎輝弥岩出山伊達家島村雅事島津久光島津久風島津忠欽島津珍彦中島三郎助中島與曽八中津藩丹羽五郎 (開拓者)丹羽族三吉周亮三好晋六郎三宅花圃三池藩平井政実乾信武乾直建乾正信乾正聰乾正成乃木希典乃木静子久留米藩京都市広島藩亘理伊達家五代友厚庄屋庄内藩井口村刃傷事件井上勝井上馨井深彦三郎井深梶之助今枝直規今枝直邦今村均代官仙台藩伊予松山藩伊達千広伊達邦直伊達邦成伊賀氏広伊東祐亨伊東祐麿伊東氏会津藩伏見区佐川官兵衛佐伯藩佐々友房佐々木高行佐倉藩佐賀藩佐野藩御典医御目見御附家老徳山藩徳島藩後藤保弥太後藤猛太郎後藤象二郎後藤正晴土佐山内氏土佐藩北村重頼嘉悦敏喜入町内藤高治内藤魯一出石藩児玉源太郎元田作之進元田永孚勘定奉行勘定奉行 (曖昧さ回避)国司親相国司氏四竈孝輔矢野光儀矢野龍渓石光真臣石光真清碧川かた神戸次郎福原元僴福原豊功福原良通福岡孝弟福岡秀猪福岡藩福島藩福井藩福澤諭吉福本藩秦真次秋月悌次郎稲垣茂光稲田邦植立花小一郎立見尚文篠山藩米田虎雄米沢藩紀州藩紀伊新宮藩美作勝山藩真辺正躬真木長義瓜生外吉用人田原藩田安徳川家田辺太一町奉行町野武馬無双直伝英信流熊本藩留守居片岡健吉益田元固益田精祥益田親孚益田親施目付相原尚褧盛岡藩瀬谷啓白川義則草鹿丁卯次郎草鹿甲子太郎鍋島直暠鍋島直明蠣崎富三郎飫肥藩飯沼貞吉飛騨郡代西周 (啓蒙家)西紳六郎西郷頼母西村勝三西村茂樹馬廻角田秀松騎士高野貞吉高木盛之輔谷干城谷秦山谷村自庸谷村自熈谷村自雄谷氏鳥取藩鳩山和夫越後長岡藩鹿持雅澄身分軍艦奉行黒岡帯刀黒井悌次郎黒羽藩郷士阪井重季薩摩国薩摩藩藤堂高成藤井光五郎藤井茂太藩士藩医肝付氏肥田昭作肥田浜五郎野田豁通野村貞長宗我部氏長州藩長府藩若年寄陸奥宗光柴山矢八柴五郎林大八林研海林董林権助林洞海林政誠東郷実友東郷平八郎東條英教東海散士松前藩松村務本松江藩板垣退助村田清風村田新八杉本鉞子根岸信五郎桑名藩桂太郎桂久武梨羽時起森鷗外植村正久横山隆平橋本綱常武士武家奉公人武市富子武市瑞山武市正恒武田秀雄 (海軍軍人)歴史小説毛利重輔水野忠宜水戸藩永井尚志永井岩之丞江戸江戸時代池田長準池田氏池田政昭池田政承沢辺琢磨河北俊弼河田景与津和野藩津田三蔵津田仙津田出津藩深堀鍋島家深尾重先渡辺小崋渡辺崋山清岡公張清岡道之助湯地定基湯地定監滝川具和滝川具綏滝川具挙滝川雄利澤太郎左衛門澤鑑之丞木村芥舟木村駿吉木村浩吉 (海軍軍人)木戸孝允本多政以本山茂任本山氏有地品之允有馬良橘明石元二郎明神善秀浪人海老名季昌浅野守夫浅野忠新渡戸十次郎新渡戸稲造日吉町吉利日置健太郎日置島津家日置忠尚改易