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佐賀藩

索引 佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

273 関係: 城主大名厚岸郡お台場千島国千葉胤連反射炉古賀穀堂古賀精里参勤交代多久安順多久茂矩多久茂辰多久茂文多久茂族大隈重信大船建造の禁大木喬任大政奉還天然痘天正外様大名子爵宝蔵院流槍術寛永小城市小城郡山本常朝島原半島島義勇島津氏川上郡上野戦争中牟田倉之助常広城三重津海軍所三根郡三潴県下総国九州千葉氏幕末久保田町久米邦武享保今川氏廃藩置県仙台藩佐賀城佐賀の七賢人佐賀の乱佐賀市...佐賀県佐賀県出身の人物一覧佐賀郡佐賀藩佐野常民彼杵郡侯爵徳川家康徳川綱吉後多久氏後藤家信地方知行北島正元北陸道ナポレオン戦争ロシア帝国フリゲートフェートン号事件嘉永嵯峨源氏アームストロング砲エフィム・プチャーチンオランダ商館シーボルト台風タイ捨流内分分知凌風丸 (佐賀藩)児玉幸多八幡和郎元和 (日本)光文社新書副島種臣石井忠亮石井信忠 (安芸守)石井鶴山石井茂利石井茂清石井松堂石炭石高王政復古着座家神埼郡神代長良福岡藩秋月藩種痘立花宗茂築地反射炉緒方春朔義祭同盟産業革命田尻氏田中久重特定疾患牛痘直心影流剣術鍋島吉茂鍋島宗茂鍋島宗教鍋島忠直鍋島忠茂鍋島元延鍋島元茂鍋島元武鍋島光茂鍋島勝茂鍋島綱茂鍋島直堯鍋島直堅鍋島直大鍋島直宜鍋島直寛鍋島直与鍋島直之鍋島直亮鍋島直彬鍋島直彜鍋島直員鍋島直知鍋島直称鍋島直紀鍋島直賢鍋島直茂鍋島直郷鍋島直能鍋島直興鍋島直英鍋島直虎鍋島直恒鍋島直條鍋島直正鍋島直永鍋島直温鍋島直澄鍋島直朝鍋島直映鍋島直愈鍋島直晴鍋島騒動鍋島茂周鍋島茂和鍋島茂紀鍋島茂綱鍋島茂義鍋島茂真鍋島茂順鍋島茂賢鍋島茂里鍋島茂正鍋島茂明鍋島茂昭鍋島茂昌鍋島重茂鍋島正辰鍋島正茂鍋島氏鍋島治茂鍋島斉直華族華族令須古鍋島家養父郡 (佐賀県)香取郡諫早一学諫早直孝諫早茂元諫早茂図諫早茂行諫早茂敬高来郡豊臣秀吉鹿島城 (肥前国)鹿島市黒船来航龍造寺季明龍造寺家晴龍造寺信周龍造寺信昭龍造寺四家龍造寺隆信龍造寺高房龍造寺鑑兼龍造寺長信龍造寺氏龍造寺政家起請文関ヶ原の戦い薩長土肥藤津郡藩政改革葉隠蒸気船蒸気機関車肥前国肥前石井氏肥前有馬氏釧路国釧路郡長崎市長崎県長崎海軍伝習所長州征討鉄道記念物陣屋陶磁器陽泰院枝吉神陽松浦郡杵島郡村田政矩横岳鍋島家横難横死江藤新平江戸深堀純賢深堀鍋島家本野一郎本野盛亨振別郡戊辰戦争成富茂安明治維新新人物往来社新陰流文化 (元号)文禄・慶長の役文春新書日本旗本慶応慶長拝借金1584年1590年1607年1608年1610年1611年1613年1621年1634年1642年1699年1730年1808年1816年1821年1828年1849年1862年1865年1866年1867年1871年1874年2003年2004年2018年4月4日 (旧暦) インデックスを展開 (223 もっと) »

城主大名

城主大名(じょうしゅだいみょう)とは、近世江戸時代における大名の格式の一つであり、大名家をその居地・居城で区別する国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)の5階級のうち、国許の屋敷に城が認められている大名をいう。その他、大名統制には、並大名が諸大夫(従五位下)である官位が四品(従四位下)以上に叙任される家格であったり、伺候席によって区別されていた。慶応3年(1867年)で151家。 享保2年(1717年)の『武家諸法度』によると、城主は櫓・塀・門以下は届出をし許可を得たうえで補修することが可能で、石塁・石壁が壊れたときは奉行に報告し、その差図を受けることとなっていた。このことから徳川幕藩体制下における城の定義は石垣の上に塀と櫓を有しているものとされていた。城主の領知の居地を居城といい、陣屋に居地を置く在所と区別して表現した。.

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厚岸郡

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お台場

船から見たお台場 お台場の夜景 お台場(おだいば)は、東京港埋立第13号地に属する東京都港区台場、品川区東八潮、江東区青海のうち青海南ふ頭公園以北から成るエリアである。 広義では東京港埋立第13号地全体を指し、さらには同埋立第10号地をも加えて東京臨海副都心地区を指す。.

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千島国

千島国(ちしまのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つで、五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。領域は最初国後島と択捉島のみであったが、後に得撫島以北の千島列島と色丹島が加わった。現在の根室振興局管内の東部にあたる。.

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千葉胤連

千葉 胤連(ちば たねつら)は、戦国時代の武将。肥前小城郡晴気城主。鍋島直茂の養父である。.

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反射炉

反射炉(はんしゃろ、英語:Reverberatory furnace)とは、金属融解炉の一種である。18世紀から19世紀にかけて鉄の精錬に使われた。20世紀以降も、鉄以外の金属の精錬には使われている。.

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古賀穀堂

古賀 穀堂(こが こくどう、安永6年12月5日(1778年1月3日) - 天保7年9月16日(1836年10月25日))は、江戸時代後期の朱子学者・佐賀藩年寄。古賀精里の長男。諱は燾。字は溥卿・号は穀堂。幼名は文太郎。通称は敬一・太郎右衛門・一左衛門・修理・藤馬。.

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古賀精里

古賀 精里(こが せいり、寛延3年10月20日(1750年11月18日) - 文化14年5月3日(1817年6月17日))は、江戸時代中期の儒学者。名は樸、字は淳風、通称は弥助。子に穀堂、侗庵、孫に謹一郎(茶渓)が居る。.

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参勤交代

参勤交代(さんきんこうたい)とは、各藩の藩主を一年おきに江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことである。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。 藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵.

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多久安順

多久 安順(たく やすとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。龍造寺氏、鍋島氏の家臣。多久鍋島家(後多久氏)初代当主。.

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多久茂矩

多久 茂矩(たく しげのり)は、江戸時代前期の武士。肥前国佐賀藩士。多久鍋島家(後多久氏)3代当主。.

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多久茂辰

多久 茂辰(たく しげとき)は、江戸時代前期の武士。肥前国佐賀藩家老。多久鍋島家(後多久氏)2代当主。.

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多久茂文

多久 茂文(たく しげふみ)は、江戸時代前期から後期にかけての武士。肥前国佐賀藩士。多久鍋島家(後多久氏)4代当主。.

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多久茂族

多久 茂族(たく しげつぐ)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。多久鍋島家(後多久氏)11代当主。維新後は内政官僚。浜松県・伊万里県・佐賀県各権令。.

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大隈重信

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。菅原姓。 政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。.

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大船建造の禁

大船建造の禁(おおぶねけんぞうのきん)とは、江戸時代初期に出された大名統制法令の一つである。1635年(寛永12年)6月制定の武家諸法度第17条「五百石以上之船停止之事」は俗に「大船建造禁止令」と称される安達裕之『異様の船―洋式船導入と鎖国体制』平凡社〈平凡社選書〉、1995年。 .

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大木喬任

大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日(天保3年3月23日)– 1899年(明治32年)6月26日)は、日本の佐賀藩の武士、政治家。通称を幡六、民平。勲等は勲一等、爵位は伯爵。.

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大政奉還

大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的出来事である。 「大政奉還図」これは「10月13日に二条城において将軍・徳川慶喜が諸藩重臣に大政奉還を諮問した様子を描いた絵」であり「慶喜が明治天皇に大政を奉還している様子を描いた絵」ではない。 邨田丹陵.

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天然痘

天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。以降は羊毛の流通に乗って発疹チフスが猛威をふるった。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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宝蔵院流槍術

宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)とは、奈良の興福寺の僧宝蔵院覚禅房胤栄(1521 - 1607)が創始した十文字槍を使った槍術である。薙刀術も伝承していた。 初代宝蔵院覚禅房胤栄、2代目胤舜、3代目胤清、4代目胤風。 初代胤栄は、柳生とも親交があったと云われる。また、福島正則の家臣で勇猛な武将として知られる笹の才蔵こと可児吉長が、初代胤栄に教えを請うた、とも云われる。 現在はほとんどの形などが失伝しており、宝蔵院流高田派の江戸に伝えられた系統のみが現存している。だが、この系統も全伝は現存せず、辛うじて残っていた「槍合わせの形」のみが伝えられ、薙刀術の形などは失伝している。 2017年から女性にも入門が許可され、2018年には初級の審査に合格者が出ている。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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小城市

小城市(おぎし)は、佐賀県の中央部に位置する市である。.

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小城郡

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山本常朝

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日(1719年11月21日)は、江戸時代の武士、佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。.

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島原半島

島原半島のランドサット。スペースシャトル標高データにより陰影を付けた。 島原半島(しまばらはんとう)は、九州の西北にあって、西、そして南に向けてくの字状に突き出した陸地の南部から、3つに分かれる半島群のうち、もっとも左、南東に突き出す半島である。全体は、北岸は有明海に面する。その西部、半島の付け根部の有明海は諫早湾と呼ばれる。東岸から東南岸は有明海の開口部である島原湾に面し、熊本市、宇土半島、天草上島と対峙する。南端は瀬詰崎といい、ここから早崎瀬戸を挟んで天草下島まで 4.4 km ほどである。西岸は橘湾に面し、長崎半島に対峙する。半島中央の幅は約 15 km 、長さは測り方によるが約 40 km である。 半島中心部は雲仙と呼ばれ、普賢岳の標高は 1359.3 m 、平成新山は 1486 m である。雲仙温泉などの温泉にも恵まれている。 一部は雲仙天草国立公園に指定されている。.

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島義勇

島 義勇(しま よしたけ、文政5年9月12日(1822年10月26日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての佐賀藩士、官吏。札幌市の都市開発に関わり、「北海道開拓の父」と呼ばれる。佐賀の七賢人の一人。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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川上郡

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上野戦争

上野戦争(うえのせんそう、慶応4年5月15日(1868年7月4日))は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。.

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中牟田倉之助

中牟田 倉之助(なかむた くらのすけ、天保8年2月24日(1837年3月30日) - 大正5年(1916年)3月30日)は、日本の海軍軍人。海軍大学校長、枢密顧問官、子爵。幼名は武臣。金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。.

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常広城

常広城(つねひろじょう)は佐賀県に存在した平城。.

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三重津海軍所

三重津海軍所(みえつかいぐんしょ)は佐賀県佐賀市川副町大字早津江字元海軍所に所在し、佐賀藩が1858年(安政5年)に設立した蒸気船等の船の修理・造船施設。西洋船運用のための教育・訓練機関も兼ね備えていた。実用的な国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造した。2000年代に入り発掘・文献調査が進められ、2013年に国の史跡に指定、2015年には「明治日本の産業革命遺産 」として世界文化遺産に登録された。.

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三根郡

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三潴県

三潴県(みずまけん)は、明治4年(1871年)に筑後国を管轄するために設置された県。管轄地域は、当初は現在の福岡県筑後地方、のちに佐賀県が合併された。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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九州千葉氏

九州千葉氏(きゅうしゅうちばし)は、桓武平氏の末裔の一族である千葉氏の支族の一つ。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久保田町

久保田町(くぼたちょう)は、かつて佐賀県の南部にあった町で、佐賀郡に属していた。2007年10月1日付で佐賀市に編入され、「佐賀市久保田町」となった。旧 佐賀郡久保田町。.

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久米邦武

久米 邦武(くめ くにたけ、1839年8月19日(天保10年7月11日) - 1931年(昭和6年)2月24日)は、幕末の佐賀藩士で、近代日本の歴史学における先駆者。幼名を泰次郎、のち丈一郎。易堂と号す。洋画家の久米桂一郎は子、外交官の久米邦貞は曾孫に当たる。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

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佐賀城

佐賀市中心部の航空写真。中央やや右下に「逆コの字型」の佐賀城跡の堀が現存している。東側の堀と、本丸・二の丸を隔てる中堀は埋め立てられている。国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省による 佐賀城(さがじょう)は、佐賀県佐賀市にあった日本の城。古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城であった。.

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佐賀の七賢人

佐賀の七賢人(さがのしちけんじん)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した、佐賀藩(今の佐賀県)出身の偉人七人の総称である。.

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佐賀の乱

佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。.

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佐賀市

佐賀市中心部の航空写真。中央やや右下に「逆コの字型」の佐賀城跡の堀がある。 佐賀市中心部。佐賀県庁より佐賀駅方面 佐賀市中心部及び周辺住宅街。佐賀県庁より東側 嘉瀬川 佐賀市(さがし)は、佐賀県の県庁所在地で、同県最大の人口を擁する市である。施行時特例市。 佐賀県の経済・行政の中心地。有明海から脊振山地までを縦断する市域を有し、市街地は佐賀平野の中心付近に位置する。秋には嘉瀬川河川敷を中心に佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開催され、バルーン(熱気球)の街として賑わう。.

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佐賀県

佐賀県(さがけん)は、日本の九州地方の北西部にある県である。県庁所在地は佐賀市。 唐津・伊万里・有田などは古くから陶磁器の産地として有名。玄界灘と有明海の2つの海に接する。令制国の肥前国東部に相当する。明治の府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。.

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佐賀県出身の人物一覧

佐賀県出身の人物一覧(さがけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する佐賀県出身の人物の一覧表である。.

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佐賀郡

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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佐野常民

佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日(文政5年12月28日) - 1902年(明治35年)12月7日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。勲等は勲一等。爵位は伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿、栄寿左衛門。子は佐野常羽。.

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彼杵郡

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侯爵

侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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後多久氏

多久氏(たくし)は、江戸時代の肥前国佐賀藩家老、多久邑主。別称は水ヶ江龍造寺氏とも。同氏が多久地方を治める以前に存在していた多久氏(前多久氏)と区別するため、後多久氏(ごたくし)と俗称される。.

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後藤家信

後藤 家信(ごとう いえのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。肥前後藤氏20代当主(武雄領主)。.

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地方知行

地方知行(じがたちぎょう)とは、江戸時代に将軍あるいは大名が家臣に対して禄として与える知行を、所領(地方と呼ばれる土地)及びそこの付随する百姓の形で与え、支配させること。将軍が大名に土地を与える場合には特に大名知行(だいみょうちぎょう)と呼ばれている。 ここにおける地方知行の解説に大名知行は含めないが、必要に応じて大名知行の例についても言及するものとする。.

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北島正元

北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。.

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北陸道

北陸道 北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

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ナポレオン戦争

1811年のヨーロッパ。濃い青はフランス帝国の領土。薄い青はフランスの衛星国 ナポレオン戦争(ナポレオンせんそう、Guerres napoléoniennes、Napoleonic Wars、Napoleonische Kriege)は、1803年にアミアンの和約が破れてから、1815年にナポレオン・ボナパルトが完全に敗北するまでの期間を通して行われた戦争である。 ナポレオンⅠ世率いるフランス帝国とその同盟諸国から動員された大陸軍(グランダルメ)が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強諸国を中心にして結成された対仏大同盟の諸軍隊と交戦した。.

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ロシア帝国

ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.

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フリゲート

帆走するフリゲート フリゲート(Frigate)は、軍艦の艦種の一つ。時代により様々な任務や大きさの軍艦に対して使用された名称である。フリゲイトとも表記される。 日本では、"Destroyer"は「駆逐艦」、"Cruiser"は「巡洋艦」、"Battleship"は「戦艦」などと日本語訳されたが、フリゲートに関してはそのままカタカナ語として用いられている。語尾に「艦」を付加して「フリゲート艦」と呼ばれることもあるが、「フリゲート」のみで一つの艦種を表すので、特に「艦」は付けなくてもよい。なお漢字文化圏では、「駆逐艦」「巡洋艦」については日本での訳語がおおむね踏襲されているが、「フリゲート」については「護衛艦」(, )あるいは「巡防艦」と訳されることが多い。.

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フェートン号事件

フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。.

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嘉永

嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.

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嵯峨源氏

嵯峨源氏(さがげんじ)は、第52代嵯峨天皇の皇子・皇女を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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アームストロング砲

アームストロング砲(アームストロングほう)とは、イギリスのウィリアム・アームストロングが1855年に開発した大砲の一種。が発明した後装式ライフル砲を改良したもので、装填時間は従来の数分の一から、大型砲では10分の1にまで短縮された。 砲身は錬鉄製で、複数の筒を重ね合わせる層成砲身で鋳造砲に比べて軽量であった。このような特徴から、同時代の火砲の中では優れた性能を持っていた。.

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エフィム・プチャーチン

フィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(Евфимий(Ефим) Васильевич Путятин、Jevfimij Vasil'jevich Putjatin、1803年11月8日(グレゴリオ暦11月20日) - 1883年10月16日(グレゴリオ暦10月28日))は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、教育大臣(在任期間:1861年6月26日 – 1861年12月25日)。 1853年、日本に来航し日露和親条約を締結するなど、ロシア帝国の極東における外交で活躍した。.

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オランダ商館

ランダ商館(オランダしょうかん)は、オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点。.

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シーボルト台風

ーボルト台風(シーボルトたいふう)は、グレゴリオ暦の1828年9月17日、(旧暦文政11年8月9日)に日本に襲来し、九州地方や中国地方にかけて大被害をもたらした台風である。襲来した文政11年が子年に当たることから、子年の大風(ねのとしのおおかぜ)とも呼ばれる。有明海・博多湾などで高潮が発生し、佐賀藩だけで死者が約1万人、九州北部全体で死者約1万9千人に達する被害が出た。.

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タイ捨流

タイ捨流(タイしゃりゅう)は、丸目長恵によって新陰流から創始された兵法。 現在、人吉藩に伝わった系統が現存している。この系統の12代目小田夕可は、1963年7月31日に「熊本県無形文化財」の指定を受けていた。.

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関ヶ原合戦図屏風(徳川美術館蔵)より徳川家康本隊を抜粋。中央部に酒井家次の備を挟み、鉄砲隊・旗・槍隊・騎馬隊などで構成された徳川家康本陣備とそれを守る各武将の備が確認できる。 備(そなえ)は、戦国時代から江戸時代において戦時に編成された部隊。 各種足軽(弓・鉄砲・槍)隊、騎馬武者隊、小荷駄隊などで構成され、独立した作戦行動を採れる基本単位を指す。.

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内分分知

内分分知(ないぶんぶんち)は、江戸時代における武家(特に大名、旗本)の分家形態の一つである。分家の創設の際に、主君から与えられた領知の表高を減らすことなく、新規に分家を興す形態をいう。新田分知は内分分知の形態の一つである。.

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凌風丸 (佐賀藩)

凌風丸(りょうふうまる)は、幕末に佐賀藩が建造した蒸気船。日本で建造された最初の実用蒸気船である。 開明的な藩主の鍋島直正の下で西洋軍事技術の導入に熱心だった佐賀藩は、早くから近代海軍の整備にも取り組み、オランダに蒸気軍艦「電流丸」を発注するなどしていた。西洋式艦船の国産化も試み、黒船来航翌年の1854年11月(安政1年9月頃)には蒸気船の国産を目指す方針を決定「」 西日本新聞 2010年6月4日朝刊。、1858年(安政5年)には長崎海軍伝習所でカッター型帆船「晨風丸」を竣工させている。蒸気機関についても、「電流丸」の交換用のボイラーや幕府船用のボイラーの製造経験を積んだ。そして、1863年4月(文久3年3月)、佐野常民や中牟田倉之助らを責任者として、ついに蒸気船の起工に至った。佐賀藩の軍港である三重津海軍所で建造は進められ、からくり儀右衛門として知られた田中久重父子らにより1865年(慶応1年)に竣工、「凌風丸」と命名された秀島(1972年)、255頁。。 「凌風丸」の要目は全長60尺(18.2m)・幅11尺(3.3m)、蒸気機関は10馬力で、推進方式は外輪船だった。船体は木造で、外板などはクスノキ材、甲板は松材が使われ、船底は汚れを防ぐために銅板被覆されていた。 こうして竣工した「凌風丸」は、日本で最初の実用級蒸気船であると言われる。より古い国産蒸気船として薩摩藩の「雲行丸」が1855年(安政2年)に竣工しているが、小型で船体も和洋折衷の実験的な船で、ボイラーの蒸気漏れがひどく機関の完成度も低かった。また、幕府も「先登丸」という蒸気船を建造しているものの、詳細が不明で、どの程度の実用性があったのかもわかっていない。同じく幕府が建造した蒸気軍艦「千代田形」は、起工は1862年(文久2年)で本船よりも先行していたが、竣工は後になっている。なお、「千代田形」の蒸気機関用のボイラーも佐賀藩が受託製造したものだった。 就役後、1865年3月29日(慶応1年3月1日)には、藩主が乗船して諫早湾の航海を行っている。その後も有明海での要人輸送などに使用された。1870年6月(明治3年5月)、有明海の竹崎鼻付近で座礁して廃船となり、外国人に売却された。.

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児玉幸多

児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた文学博士。学習院大学名誉教授、学習院大学元学長、学習院女子短期大学元学長、品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。.

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八幡和郎

八幡 和郎(やわた かずお、1951年 - )は、日本の元官僚、評論家。徳島文理大学教授とコーポレートガバナンス協会理事を務める。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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光文社新書

光文社新書(こうぶんしゃしんしょ)は、株式会社光文社が発行する新書レーベル。.

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副島種臣

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。.

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石井忠亮

石井 忠亮(いしい ただあきら / ただすけ『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』39頁。、天保11年7月7日(1840年8月4日) - 1901年(明治34年)1月1日)は、幕末の佐賀藩士、明治時代の政府高官。位階勲等は従三位勲二等。日本国営電話事業の創始者。旧逓信省初代電信局長、錦鶏間祗候。鉄道の井上勝、郵便の前島密、電信の石丸安世と並ぶ「逓信四天王」の一人。通称・貞之進。.

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石井信忠 (安芸守)

石井 信忠(いしい のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名龍造寺氏の旗本部将。重臣石井石見守忠次の次男。同じ諱の石井四郎左衛門信忠の母方のおじにあたる。.

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石井鶴山

石井 鶴山(いしい かくざん、延享元年(1744年) - 寛政2年(1790年))は、江戸時代後期の儒学者。漢詩に優れていた。 肥前国佐賀藩多久領の出身で、佐賀藩第8代藩主鍋島治茂の侍講をつとめた。 通称は有助。諱は有(たもつ)。 古賀精里・長尾東郭とともに「佐賀の三博士」と称され、佐賀藩中興の祖と賞揚された名君・鍋島治茂の藩政改革を支えた。藩校弘道館(現・佐賀県立佐賀西高等学校)創立メンバーの一人でもある。.

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石井茂利

石井 茂利(いしい しげとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名龍造寺氏の重臣。佐賀藩主鍋島氏の家老。神埼郡代。 佐賀藩祖鍋島直茂の姪婿であり、母方の祖母(石井石見守忠繁の正室)は直茂の従姉である。.

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石井茂清

石井 茂清(いしい しげきよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国の戦国大名龍造寺氏の重臣。佐賀藩主鍋島氏の家老。 初代藩主鍋島勝茂から偏諱を授けられ、「茂清」と名乗る。通称は、清五左衛門尉、縫殿助。.

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石井松堂

石井 松堂(いしい しょうどう、文政8年(1825年) - 明治15年(1882年))は、幕末の肥前国の武士である。佐賀藩士。国学者。通称は才作、只右衛門、龍右衛門。諱は成徳(しげのり)、後に鉄(まかね)。佐賀では「龍よんさん」と呼ばれて慕われており、「石井松堂」の名よりも「石井龍右衛門」の名のほうが有名である。.

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石炭

石炭(せきたん、英:coal)とは、古代(数億年前)の植物が完全に腐敗分解する前に地中に埋もれ、そこで長い期間地熱や地圧を受けて変質(石炭化)したことにより生成した物質の総称。見方を変えれば植物化石でもある。 石炭は古くから、産業革命以後20世紀初頭まで最重要の燃料として、また化学工業や都市ガスの原料として使われてきた。第一次世界大戦前後から、艦船の燃料が石炭の2倍のエネルギーを持つ石油に切り替わり始めた。戦間期から中東での油田開発が進み、第二次世界大戦後に大量の石油が採掘されて1バレル1ドルの時代を迎えると産業分野でも石油の導入が進み(エネルギー革命)、西側先進国で採掘条件の悪い坑内掘り炭鉱は廃れた。 しかし1970年代に二度の石油危機で石油がバレルあたり12ドルになると、産業燃料や発電燃料は再び石炭に戻ったが、日本国内で炭鉱が復活することは無かった。豪州の露天掘りなど、採掘条件の良い海外鉱山で機械化採炭された、安価な海外炭に切り替わっていたからである。海上荷動きも原油に次いで石炭と鉄鉱石が多く、30万トンの大型石炭船も就役している。 他の化石燃料である石油や天然ガスに比べて、燃焼した際の二酸化炭素 (CO2) 排出量が多く、地球温暖化の主な原因の一つとなっている。また、硫黄酸化物の排出も多い。.

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石高

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。.

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王政復古

王政復古(おうせいふっこ)は、君主によって統治された国家において、クーデターや内戦などによって一度は弱まったり、廃止されるなどした君主制が、何等かの理由によって復活する現象である。復辟(ふくへき)、政体が帝国の場合は帝政復古とも言う。.

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着座家

座家(ちゃくざけ)とは、江戸時代の諸藩の上級藩士の家格の1つ。 細かい定義は、諸藩によってまちまちであるが、家老職になり得る家格と云う意味で使用される場合と、広義の老職、つまり年寄衆や、中老職になり得る家格と云う意味で使用される場合がある。.

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神埼郡

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神代長良

代 長良(くましろ ながよし)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。肥前三瀬城主。.

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福岡藩

福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。 福岡藩領域図(慶長期).

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秋月藩

秋月藩(あきづきはん)は江戸時代の藩。.

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種痘

接種箇所に終生残る大きな瘢痕。1948年以降、日本では右肩付近に接種するのが一般的だったが、このように、上腕の肘に近い部位に接種された例もごく稀に見かける(1975年接種の跡)。日本は1974年度生まれ迄が種痘を受けた世代である。 種痘(しゅとう)とは、天然痘の予防接種のことである。ワクチンをY字型の器具(二又針)に付着させて人の上腕部に刺し、傷を付けて皮内に接種する。現在天然痘ウイルスは自然界に存在しないものとされているため、1976年を境に日本では行われていない。.

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立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将はいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。.

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築地反射炉

築地反射炉(ついじはんしゃろ)は、佐賀県佐賀市長瀬町にあった反射炉である。海防の必要性が高まった幕末期、鉄製の洋式大砲を鋳造するため佐賀藩により築造され、1850年に日本初の実用反射炉として完成、1851年に日本で初めて鉄製大砲を鋳造した。 尚、当項目では後に増設された「多布施公儀石火矢鋳立所」(たふせこうぎいしびやいたてしょ、以降「多布施反射炉」と記述)についても記述する。.

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緒方春朔

緒方 春朔(おがた しゅんさく、寛延元年(1748年) - 文化7年1月21日(1810年2月24日))は、江戸時代の医学者。春朔は通称で、諱は惟章(これあき)、号は済庵、洞雲軒。筑後国久留米(現福岡県久留米市)出身。.

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義祭同盟

義祭同盟(ぎさいどうめい)、または楠公義祭同盟は、佐賀藩士で藩校弘道館教授で国学者の枝吉神陽が中心となり、1850年(嘉永3年)に佐賀城下で設立した結社。南北朝時代の武将楠木正成、正行親子の忠義を讃える祭祀(義祭)を執り行う崇敬団体。 この義祭同盟から、実弟の枝吉次郎(副島種臣)のほか、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇、久米邦武ら、明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出した。神陽は水戸の藤田東湖と並び「東西の二傑」と称される。.

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産業革命

ワットの改良蒸気機関。ワット式蒸気機関の開発は動力源の開発における大きな画期であり、産業革命を象徴するものである 産業革命(さんぎょうかくめい、Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。 産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こったことも重要である。 経済史において、それまで安定していた一人あたりのGDP(国内総生産)が産業革命以降増加を始めたことから、経済成長は資本主義経済の中で始まったとも言え、産業革命は市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事であったとされる。また産業革命を「工業化」という見方をする事もあり、それを踏まえて工業革命とも訳される。ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的な意義がある点を踏まえ、一般に産業革命という用語が用いられている。.

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田尻氏

尻氏(たじりし)は、日本の氏族。代表的な一族に下記が挙げられる。.

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田中久重

中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)11月7日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。.

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特定疾患

特定疾患(とくていしっかん)とは、日本において 厚生労働省が実施する難治性疾患克服研究事業の臨床調査研究分野の対象に指定された疾患(2012年現在、130疾患)である。都道府県が実施する特定疾患治療研究事業の対象疾患(2009年10月1日現在、56疾患)は、国の指定する疾患については特定疾患から選ばれており、当事業の対象疾患をさして特定疾患ということもある。 現在は、2014年(平成26年)に、難病の患者に対する医療等に関する法律(難病法)が成立し、特定疾患から指定難病に移行している。2018年現在、131疾患、約150万人。.

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牛痘

牛痘(ぎゅうとう、cowpox)は、牛痘ウイルス感染を原因とする感染症。牛痘ウイルスはポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属するDNAウイルスであり、ネコ科動物、ヒト、牛など種々の動物を宿主とする。ネコ科動物では感受性が高い。症状として丘疹、結節、水疱、膿疱を形成する。 ヒトでは症状が軽く、瘢痕も残らず、しかも近縁である天然痘ウイルスに対する免疫を獲得できるので、18世紀末にエドワード.

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直心影流剣術

心影流剣術(じきしんかげりゅうけんじゅつ)は、日本の剣術の流派。正式名称は鹿島神傳直心影流(かじましんでんじきしんかげりゅう)。薩摩藩では「真影流」「薩摩影之流」と呼ばれることもある。.

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鍋島吉茂

鍋島 吉茂(なべしま よししげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。肥前国佐賀藩4代藩主。.

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鍋島宗茂

鍋島 宗茂(なべしま むねしげ)は、肥前佐賀藩の第5代藩主。第2代藩主・鍋島光茂の十五男。.

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鍋島宗教

鍋島 宗教(なべしま むねのり、享保3年4月20日(1718年5月19日) - 安永9年2月2日(1780年3月7日))は、肥前国佐賀藩の第6代藩主。 第5代藩主・鍋島宗茂の長男。母は久世通夏の娘・貞姫(貞樹院)。正室は中院通躬の娘・綱姫。子は娘(伊達村俊室)。幼名は萬吉。初名は教茂(のりしげ)。官位は従四位下、丹後守。 元文3年(1738年)、父の隠居により家督を相続し、第6代藩主となる。父と同じく将軍徳川吉宗より偏諱の授与を受けたが、父と同名になるのを避け、二文字目には「茂」ではなくもう一方の「教」をあてる形で諱を「宗教」とした。財政難は深刻で借銀高は増加、家中の献米・献銀に依存した。寛延3年(1750年)には諫早一揆が起こる。従四位下侍従丹後守に叙せられ、宝暦10年(1760年)隠居し、家督を弟の鍋島重茂に譲った。安永9年(1780年)に63歳で死去した。法名は光徳院殿瑞章良麟大居士。 むねのり むねのり Category:1718年生 Category:1780年没.

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鍋島忠直

鍋島 忠直(なべしま ただなお、慶長18年(1613年) - 寛永12年1月28日(1635年2月20日))は、肥前佐賀藩の世嗣。初代藩主・鍋島勝茂の四男。母は岡部長盛の娘・菊姫(徳川家康の養女)。正室は松平忠明の娘・ムリ姫(恵照院)。子は鍋島光茂(長男)。幼名は翁助。官位は従五位下、肥前守。 勝茂の四男であるが、徳川家から迎えた菊姫との間にできた男子であったため、長兄の元茂など3人の兄を差し置いて嫡男として扱われる。元和8年(1622年)、徳川秀忠から偏諱の「忠」の字と松平の氏姓を授けられた。この鍋島家の松平姓および将軍の偏諱拝領は、この時以降幕末まで代々継承される(一方、諱の「直」の字は祖父の直茂から取ったものである)。第2代藩主の座を約束されていたが、疱瘡にかかり早世する。享年23。法名は興国院殿敬英賢崇大居士。 代わって、忠直の長男の光茂が勝茂から嫡孫継承することとなった。.

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鍋島忠茂

鍋島 忠茂(なべしま ただしげ)は、肥前鹿島藩の初代藩主。.

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鍋島元延

鍋島 元延(なべしま もとのぶ)は、江戸時代中期の大名。肥前国小城藩4代藩主。.

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鍋島元茂

鍋島 元茂(なべしま もとしげ、慶長7年10月11日(1602年11月24日)- 承応3年11月11日(1654年12月19日))は、江戸時代の九州の大名。肥前国小城藩の初代藩主。 肥前佐賀藩主・鍋島勝茂の庶長子。母は瑞昌院(勝茂の正室(戸田民部小輔女)の侍女で、身分が低かった)とされる。正室は鍋島茂里の娘。子は鍋島直能(長男)、鍋島直朗(次男)、鍋島直治(三男)。官位は従五位下、紀伊守。始め直元・三平と称する。 当初は嫡男として扱われていたが、元茂が4歳の時、父・勝茂が徳川家康の養女(岡部長盛の娘)と再婚したとき、廃嫡された。これは、家康の養女である菊姫との間に生まれた子供を後継ぎにしようとしたためとも言われている。このため、家督を継ぐことができず、江戸に人質として送られた。のち、祖父である直茂の死去後、その隠居領であった1万石を与えられ、幾度か加増をされ、最終的には寛永19年(1642年)に肥前小城に7万3000石を与えられ(年代については異説あり)、同藩の初代藩主となった。これは鍋島家中ではかなりの高禄であり、廃嫡されたとはいえ、父から冷遇はされていなかったようである。島原の乱にも父・勝茂と共に従軍している。 剣の腕に優れた達人で、柳生宗矩から印可書を一番に受けたと言われている。木村友重とともに徳川家光の打太刀を務めた。柳生宗矩とは30年にわたる道縁で、死の直前に秘巻「兵法家伝書」を与えられている。承応3年(1654年)死去し、跡を長男・直能が継いだ。 *01 もとしけ Category:廃嫡された人物 Category:1602年生 Category:1654年没.

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鍋島元武

鍋島 元武(なべしま もとたけ)は、肥前小城藩の第3代藩主。.

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鍋島光茂

鍋島 光茂(なべしま みつしげ)は、江戸時代前期の大名・歌人。肥前国佐賀藩2代藩主。二条流の歌道の宗匠である三条西実教より古今伝授を受けた。.

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鍋島勝茂

鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥前国佐賀藩初代藩主。.

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鍋島綱茂

鍋島 綱茂(なべしま つなしげ、慶安5年5月5日(1652年6月10日) - 宝永3年12月2日(1707年1月5日))は、肥前国佐賀藩の第3代藩主。将軍徳川家綱より偏諱を授与されて綱茂と名乗る。 第2代藩主・鍋島光茂の長男。母は上杉定勝の娘・虎姫。正室は越前松平光通の娘・布与(寂光院)。子は娘(榊原政邦正室)。幼名は左衛門、号は至徳斎。官位は従四位下、信濃守、侍従。 元禄8年(1695年)、父・光茂が隠居したため家督を継承し、佐賀藩主に就任する。宝永3年(1706年)に56歳で死去した。男子が無かったため、実弟で養子の鍋島吉茂が跡を継いだ。法名は玄梁院殿卓巌道印大居士。 「学問を好み給ひ、詩をも能し、書画にも達し給ひぬ」(堤範房著『雨中の伽』「文学」、文化9年(1812年)自序)と評され、文事を得意とした藩主だった。絵事は、藩御用絵師の小原友閑斎が師範を務め、河村若芝門人である上野若元を召し抱えたことなどが知られる。綱茂自身の絵も」(鍋島徴古館蔵)など、狩野派をよく学んだ事が解る作品が残っている。 つなしけ つなしけ Category:1652年生 Category:1706年没.

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鍋島直堯

鍋島 直堯(なべしま なおたか)は、肥前小城藩の第9代藩主。.

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鍋島直堅

鍋島 直堅(なべしま なおかた)は、肥前鹿島藩の第5代藩主。 元禄8年(1695年)4月28日、第2代藩主・鍋島直條の五男として江戸青山邸で生まれる。宝永2年(1705年)に父が死去したため、家督を継いで第3代藩主となる。しかし生来から病弱だった。享保12年(1727年)12月4日に鹿島で死去した。享年33。跡を長男・直郷が継いだ。 なおかた 203 Category:1695年生 Category:1728年没.

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鍋島直大

鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、幕末期の大名。肥前国佐賀藩第11代(最後の)藩主。明治・大正時代の政府高官。侯爵。 佐賀藩第10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。.

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鍋島直宜

鍋島 直宜(なべしま なおよし)は、肥前鹿島藩の第8代藩主。 宝暦13年(1763年)2月21日、肥前小城藩の第6代藩主・鍋島直員の四男として小城で生まれる。明和7年(1770年)に鹿島藩第5代藩主・鍋島直熙が治茂と改名して本家佐賀藩の家督を継いだため、その跡を継いで鹿島藩第6代藩主となった。 享和元年(1801年)4月21日、家督を養子の直彜に譲って隠居する。文政2年(1819年)12月23日に死去した。享年57。 なおよし 206 Category:1763年生 Category:1820年没.

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鍋島直寛

鍋島 直寛(なべしま なおひろ)は、肥前蓮池藩の第6代藩主。.

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鍋島直与

鍋島 直与(なべしま なおとも、旧字体: 鍋島直與)は、肥前蓮池藩の第8代藩主。蘭癖大名といわれ、著作に『仏蘭察誌』、『欧羅巴諸図』がある。.

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鍋島直之

鍋島 直之(なべしま なおゆき、寛永20年1月18日(1643年3月8日) - 享保10年4月28日(1725年6月8日))は、江戸時代前期の外様大名。肥前蓮池藩第2代藩主。5万2,600石を領した(ただし蓮池藩は独立した藩ではなく佐賀藩35万7,000石のうちからの知行であり、内分知行なので本来大名にはならないはずだが、幕府から特別に大名と認められていた)。 初代藩主・鍋島直澄の次男。母は奥平松平忠明の娘。正室は諫早茂敬の娘、継室は鍋島光茂の養女(榊原照清の娘)。子は鍋島直富(次男)。幼名・通称は、千熊丸。官位は従五位下、摂津守。.

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鍋島直亮

鍋島 直亮(なべしま なおすけ、文政12年1月9日(1829年2月12日) - 元治元年2月27日(1864年)4月3日))は、肥前小城藩の第10代藩主。 第9代藩主・鍋島直堯の長男。母は側室・日出島宗完の娘。正室は鹿島藩主・鍋島直永の娘・唯証院。子は娘(鍋島直虎正室)。官位は従五位下、加賀守。幼名は三平。 文政12年(1829年)正月9日、小城で生まれる。嘉永3年(1850年)4月、父の隠居により跡を継いだ。嘉永6年(1853年)、エフィム・プチャーチン率いるロシア帝国艦隊の長崎来航に伴い、帰国と長崎警固を命ぜられた。藩医に西洋医学の研究を命じ、後年、漢方医から蘭方医に切替える基礎を築いた。万延元年遣米使節に藩士を派遣し、同年、宗藩である佐賀藩にならい洋式軍備の軍制改革を行なった。元治元年(1864年)2月27日、36歳で死去した。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の子で養子の直虎が跡を継いだ。法号は謙光院殿恭岳良温大居士。墓所は佐賀県小城市鷺原の祥光山星巌寺。 *10 Category:幕末の大名 Category:幕末佐賀藩の人物 なおすけ Category:1829年生 Category:1864年没.

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鍋島直彬

鍋島 直彬(なべしま なおよし)は、肥前鹿島藩の第13代(最後の)藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の甥。.

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鍋島直彜

鍋島 直彜(なべしま なおのり)は、肥前鹿島藩の第9代藩主。諱の読みは「なおつね」ともいわれる(「彜」は上から彑、粉、廾と書いた漢字である)。 寛政5年(1793年)2月21日、肥前佐賀藩藩主・鍋島治茂の六男として佐賀城で生まれる。寛政12年(1800年)に義兄(姉の夫)で鹿島藩第6代藩主の鍋島直宜の養子となり、4月21日に直宜が隠居したため、家督を継いで第7代藩主となる。 文政元年(1818年)から倹約、リストラを中心とした藩政改革を行なったが成功しなかった。文政3年(1820年)2月17日に家督を養子の直永に譲って隠居する。文政9年(1826年)7月より病に倒れ、回復せぬまま11月19日に死去した。享年34。 なおのり 207 Category:1793年生 Category:1826年没.

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鍋島直員

鍋島 直員(なべしま なおかず)は、肥前小城藩の第6代藩主。 享保11年(1726年)3月7日、第5代藩主・鍋島直英の次男として小城で生まれる。寛保元年(1741年)12月、従五位下・紀伊守に叙位・任官する。延享元年(1744年)、父の死去により家督を継いだ。 宝暦14年(1764年)5月、家督を次男・直愈に譲って隠居する。安永9年(1780年)6月24日に小城で死去した。享年55。 なおかす *06 Category:1726年生 Category:1780年没.

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鍋島直知

鍋島 直知(なべしま なおとも)は、肥前小城藩の第8代藩主。 天明4年(1784年)5月4日、第7代藩主・鍋島直愈の長男として江戸で生まれる。寛政6年(1794年)4月、父の隠居により家督を継いだ。寛政11年(1799年)12月、従五位下・紀伊守に叙位・任官する。 文化元年(1804年)3月12日に江戸で死去した。享年21。嗣子が無かったため、異母弟の直堯が養子として跡を継いだ。 なおとも *08 Category:1784年生 Category:1804年没.

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鍋島直称

鍋島 直称(なべしま なおのり)は、肥前蓮池藩の第3代藩主。.

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鍋島直紀

鍋島 直紀(なべしま なおただ)は、肥前蓮池藩の第9代(最後の)藩主。.

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鍋島直賢

鍋島 直賢(なべしま なおさが)は、肥前鹿島藩の第12代藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の実弟。名は「なおかた」ともいわれる。.

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鍋島直茂

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。 なお数回改名しており、本項では便宜的に後期の名乗りである直茂で統一して解説する。.

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鍋島直郷

鍋島 直郷(なべしま なおさと)は、肥前鹿島藩の第6代藩主。.

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鍋島直能

鍋島 直能(なべしま なおよし)は、肥前小城藩の第2代藩主。.

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鍋島直興

鍋島 直興(なべしま なおおき)は、肥前蓮池藩の第5代藩主。.

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鍋島直英

鍋島 直英(なべしま なおひで)は、江戸時代中期の大名。肥前国小城藩5代藩主。.

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鍋島直虎

鍋島 直虎(なべしま なおとら、安政3年2月9日(1856年3月15日)- 大正14年(1925年)10月30日)は、肥前小城藩の第11代(最後の)藩主。明治時代から大正時代にかけての政治家。 肥前佐賀藩主・鍋島直正の七男。母は側室・木村矩欽の娘。正室は第10代小城藩主鍋島直亮の娘・春子、継室は南部利剛の娘。子は鍋島直庸(長男)、鍋島直顕(次男)、娘(本多忠昭正室)、娘(毛利元良室)。官位は従二位、紀伊守、子爵。幼名は欽八郎。 先代藩主の直亮に男児が無かったため、文久元年(1861年)9月にその婿養子となる。元治元年(1864年)、直亮の死去により跡を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与して秋田の戦いなどで武功を挙げ、その恩賞として明治2年(1869年)8月に5000両を与えられた。それより2か月前の6月には版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されている。 明治6年(1873年)7月、明治政府からイギリス留学を許可される。同年8月、実兄・鍋島直大や実弟・鍋島直柔と共にロンドンへ遊学する。明治8年6月、2年間の留学予定であったものの、1年の延長を願い出ている。帰国後に外務省御用掛となった。 明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した。明治23年(1890年)7月、貴族院議員に当選した。5期連続で当選した。大正14年(1925年)10月30日に死去した。享年70。法号は威徳院殿全機直雄大居士。墓所は佐賀県小城市鷺原の祥光山星巌寺。.

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鍋島直恒

鍋島 直恒(なべしま なおつね)は、肥前蓮池藩の第4代藩主。.

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鍋島直條

鍋島 直條(なべしま なおえだ)は、肥前鹿島藩の第4代藩主。.

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鍋島直正

鍋島 直正(なべしま なおまさ)は、江戸時代末期の大名。第10代肥前国佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。.

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鍋島直永

鍋島 直永(なべしま なおなが)は、肥前鹿島藩の第10代藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の実兄。.

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鍋島直温

鍋島 直温(なべしま なおはる)は、肥前蓮池藩の第7代藩主。.

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鍋島直澄

鍋島 直澄(なべしま なおずみ、元和元年11月12日(1616年1月1日)- 寛文9年3月5日(1669年4月5日))は、江戸時代の大名。肥前蓮池藩の初代藩主。 肥前佐賀藩主・鍋島勝茂の五男。母は岡部長盛の娘(徳川家康の養女)・菊姫。佐賀藩世嗣・鍋島忠直の同母弟。正室は奥平松平忠明の娘。子に鍋島直守(長男)、鍋島直之(次男)、鍋島之治(三男)、鍋島之映(四男)、鍋島直称(五男)、鍋島之徳(六男)、娘(鍋島直條正室)、娘(深溝松平好房正室)。官位は従五位下、甲斐守。 兄の鍋島忠直が死んだとき、その未亡人を娶った経緯から鍋島氏の家督相続の候補者に推されたが、継ぐことはできなかった。寛永19年(1642年)、肥前国蓮池藩に5万2,000石を与えられ初代藩主となった(立藩年次については異説あり)。 寛文5年(1665年)東野ヶ里別院へ隠居し、家督を次男・直之に譲る。寛永9年(1669年)没した。 *01 なおすみ Category:1616年生 Category:1669年没.

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鍋島直朝

鍋島 直朝(なべしま なおとも)は、肥前鹿島藩の第3代藩主。前2代に鍋島忠茂・正茂がいるが、正茂系は5000石の旗本として存続したため、別家として扱われる。.

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鍋島直映

鍋島 直映(なべしま なおみつ、1872年(明治5年) - 1943年(昭和18年))は、旧佐賀藩主・鍋島家の12代当主。11代直大の嫡男。正二位勲三等侯爵。夫人は黒田長知の娘の禎子。弟妹に南部信孝、鍋島直縄(旧肥前国鹿島藩主鍋島直彬養子・子爵)、朗子(前田利嗣継室)、伊都子(梨本宮守正王妃)、茂子(九条良政室のちに牧野忠篤継室)、信子(松平恒雄正室)、俊子(松平胖正室)、尚子(柳沢保承正室)。.

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鍋島直愈

鍋島 直愈(なべしま なおます)は、肥前小城藩の第7代藩主。.

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鍋島直晴

鍋島 直晴(なべしま なおはる)は、肥前鹿島藩の第11代藩主。 文政4年(1821年)6月26日、第7代藩主・鍋島直彜の長男として生まれる。直彜は直晴が生まれる前年に隠居していたため、直晴は第8代藩主・直永の養子となり、天保10年(1839年)6月4日の直永の隠居により家督を継いで第9代藩主となった。 聡明で将来を期待されていた人物とされているが、家督相続後の8月21日に参勤交代途上の伏見で急死した。享年19。跡を養子の直賢が継いだ。 なおはる 209 Category:1821年生 Category:1839年没.

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鍋島騒動

鍋島騒動(なべしまそうどう)は、肥前佐賀藩で起こったお家騒動。鍋島化け猫騒動(なべしまばけねこそうどう)として有名であるが、ここでは史実の出来事について記述する。化け猫伝説については鍋島の化け猫騒動を参照。.

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鍋島茂周

鍋島 茂周(なべしま しげちか)は、江戸時代前期の武将。肥前国佐賀藩士。須古鍋島家3代当主。鍋島姓を賜るまでは龍造寺姓を名乗る。.

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鍋島茂和

鍋島 茂和(なべしま しげかず)は、江戸時代前期の武将。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏3代当主。22代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島能登の名で呼ばれる事が多い。.

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鍋島茂紀

鍋島 茂紀(なべしま しげのり)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏4代当主。23代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島若狭や鍋島十左衛門の名で呼ばれることが多い。.

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鍋島茂綱

鍋島 茂綱(なべしま しげつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。龍造寺氏、鍋島氏の家臣。21代佐賀藩武雄領主(武雄領は佐賀藩の自治領)。文献では鍋島若狭の名で呼ばれることが多い。後藤家信の子で、鍋島姓を賜るまでは、後藤姓、龍造寺姓、武雄姓を名乗っていた時期もある。.

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鍋島茂義

鍋島 茂義(なべしま しげよし)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏9代当主。28代佐賀藩自治領武雄領主。 佐賀藩の請役(藩務を総理する執政職)として藩の財政改革を担当するも、天保3年(1832年)、財政的余裕がないとして岳父で前藩主・鍋島斉直の江戸出府を厳しく戒めたため請役を罷免される。武雄領に戻った後は天保5年(1834年)、日本の封建領主で最初に高島秋帆に弟子入りして西洋式砲術や科学技術を究めると共に、義弟で10代藩主・斉正(直正)に大きな影響を与え、幕末期の佐賀藩の高度な軍事力・技術力開発のさきがけとなった。.

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鍋島茂真

鍋島 茂真(なべしま しげまさ)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩の執政。須古鍋島家13代当主。弟で10代藩主・鍋島直正を25年にわたり補佐した。.

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鍋島茂順

鍋島 茂順(なべしま しげより)は、江戸時代中期から後期にかけての武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏8代当主。27代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島越後の名で呼ばれることが多い。.

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鍋島茂賢

鍋島 茂賢(なべしま しげまさ、元亀2年(1571年) - 正保2年2月9日(1645年3月6日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。深堀 茂賢(ふかほり しげまさ)、石井 茂賢(いしい しげまさ)とも。肥前国の戦国大名龍造寺氏の家臣。佐賀藩主鍋島氏の家老。 佐賀藩深堀邑主(深堀氏第20代、深堀鍋島家初代)。前室は龍造寺家俊の娘、後室は龍造寺長信の娘真光院。.

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鍋島茂里

鍋島 茂里(なべしま しげさと) / 石井 茂里(いしい しげさと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国の戦国大名龍造寺氏の家臣。佐賀藩主鍋島氏の家老。横岳鍋島家(鍋島主水家)の初代当主。.

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鍋島茂正

鍋島 茂正(なべしま しげまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏5代当主。24代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島十左衛門の名で呼ばれることが多い。.

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鍋島茂明

鍋島 茂明(なべしま しげあきら)は、江戸時代中期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏7代当主。26代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島能登の名で呼ばれることが多い。.

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鍋島茂昭

鍋島 茂昭(なべしま しげあき)は、江戸時代中期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏6代当主。25代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島十左衛門の名で呼ばれる事が多い。.

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鍋島茂昌

鍋島 茂昌(なべしま しげはる)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏10代当主。29代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島上総の名で呼ばれることが多い。 安政6年(1859年)、佐賀藩の請役(藩務を総理する執政職)に就任し、戊辰戦争に際しては近代化された武雄領兵を率いて渡海し、窮地に陥っていた新政府側の久保田藩を救援し、奥羽越列藩同盟の精鋭庄内藩に勝利するなど勲功を挙げる。しかし封建的な性格のため、兵部省出仕の招請を断り武雄に隠棲、明治7年(1874年)の佐賀の乱に際しては、乱への加担を断る。明治30年(1897年)、男爵となる。.

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鍋島重茂

鍋島 重茂(なべしま しげもち「茂」は鍋島氏の通字で本来は「しげ」と読むが、家重の「重」と読みが同じであるため、重茂(と11代藩主茂実)に限っては「もち」と読ませている。徳川家茂およびその偏諱の授与を受けた人物(茂実ほか)と同様の読みである。、享保18年7月18日(1733年8月27日) - 明和7年閏6月10日(1770年8月1日))は、肥前国佐賀藩の第7代藩主。.

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鍋島正辰

鍋島 正辰(なべしま まさたつ)は、江戸時代前期の武士。肥前国佐賀藩士。須古鍋島家4代当主。.

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鍋島正茂

鍋島 正茂(なべしま まさしげ)は、肥前鹿島藩の第2代藩主。後に5000石の旗本寄合となる。.

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鍋島氏

鍋島氏(なべしまし)は、近世の佐賀藩藩主の氏族。血縁的には武藤氏の一族・少弐氏の男系である(系譜を参照)。.

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鍋島治茂

鍋島 治茂(なべしま はるしげ)は、肥前国鹿島藩第7代藩主、のち肥前国佐賀藩第8代藩主。佐賀藩第5代藩主・鍋島宗茂の十男で、第6代藩主・宗教と第7代藩主・重茂の弟。藩政の抜本的な改革に着手した名君として知られ、佐賀藩中興の祖と呼ばれている。 鹿島藩主時代は直煕(なおひろ)、佐賀藩主となってからは将軍徳川家治から偏諱の授与を受けて治茂と名乗った。.

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鍋島斉直

鍋島 斉直(なべしま なりなお)は、肥前国佐賀藩の第9代藩主。第8代藩主・鍋島治茂の長男。母は側室・福岡氏。正室は池田治道の娘(浄諦院)。側室に石井尚方の娘、石井本昭の娘など。幼名は祥太郎。初名は直懿(なおたか)。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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華族令

華族令(かぞくれい)は、日本の法令。1884年(明治17年)7月7日に制定された明治17年宮内省達無号と、それを廃して1907年(明治40年)に制定された皇室令がある。明治40年制定の華族令(明治40年皇室令第2号)は昭和22年(1947年)に廃止された。.

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須古鍋島家

古鍋島家(すこなべしまけ)は、近世の佐賀藩家老、須古邑主の家系。.

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養父郡 (佐賀県)

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香取郡

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諫早一学

諫早 一学(いさはや いちがく)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩の家老。諫早鍋島家(諫早氏)16代当主。後に貴族院議員。.

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諫早直孝

諫早 直孝(いさはや なおのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。諫早鍋島家(諫早氏)2代当主。.

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諫早茂元

諫早 茂元(いさはや しげもと)は、江戸時代前期の武士。肥前国佐賀藩士。諫早鍋島家(諫早氏)6代当主。.

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諫早茂図

諫早 茂図(いさはや しげつぐ)は、江戸時代中期から後期にかけての武士。肥前国佐賀藩請役。諫早鍋島家(諫早氏)11代当主。.

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諫早茂行

諫早 茂行(いさはや しげゆき)は、江戸時代中期の武士。肥前国佐賀藩士。諫早鍋島家(諫早氏)8代当主。.

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諫早茂敬

諫早 茂敬(いさはや しげよし)は、江戸時代前期の武士。肥前国佐賀藩士。諫早鍋島家(諫早氏)3代当主。.

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高来郡

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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鹿島城 (肥前国)

鹿島城(かしまじょう)は、佐賀県に存在した平城。.

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鹿島市

鹿島市(かしまし)は、佐賀県の南部にある市である。旧藤津郡。.

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黒船来航

嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子。(場所不明) 黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。当初久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。.

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龍造寺季明

龍造寺 季明(りゅうぞうじ すえあき、生没年不詳)は、江戸時代前期の人物。龍造寺高房の子。龍造寺氏嫡流を自称する。通称は伯庵で、一般的には龍造寺伯庵として知られている。.

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龍造寺家晴

龍造寺 家晴(りゅうぞうじ いえはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国佐賀藩の重臣。龍造寺四家の一つ・諫早鍋島家(諫早氏)初代当主。.

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龍造寺信周

龍造寺 信周(りゅうぞうじ のぶちか)は、戦国時代から 江戸時代初期にかけての武将。須古鍋島家初代当主。兄の龍造寺隆信と共に各地を転戦し、武功を挙げたといわれている。.

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龍造寺信昭

龍造寺 信昭(りゅうぞうじ のぶあき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。須古鍋島家2代当主。肥前国佐賀藩の家老。.

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龍造寺四家

龍造寺四家(りゅうぞうじしけ)は、鍋島氏により親類同格として佐賀藩の支配機構に組み込まれた龍造寺一門の4つの家の呼称である。.

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龍造寺隆信

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。.

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龍造寺高房

龍造寺 高房(りゅうぞうじ たかふさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国佐賀藩主。.

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龍造寺鑑兼

龍造寺 鑑兼(りゅうぞうじ あきかね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。龍造寺氏の家臣。.

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龍造寺長信

龍造寺 長信(りゅうぞうじ ながのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。龍造寺氏、鍋島氏の家臣。.

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龍造寺氏

龍造寺氏(りゅうぞうじし)は、日本の氏族。戦国時代に肥前国の東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長した一族である。.

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龍造寺政家

龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国の戦国大名。戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。.

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日本で一般的な煎茶 抹茶を点てる様子 広見町) 茶(ちゃ)、チャノキ(学名: Camellia sinensis (L.) Kuntze)の葉や茎風味の違いなどから日本茶や中国茶、紅茶などは別の植物の葉であると誤解されることもあるが、種の違いを除き、分類学上はすべて同一(ツバキ目ツバキ科ツバキ属に分類される常緑樹)である。を加工して作られる飲み物である。 また、これに加えて、チャノキ以外の植物の部位(葉、茎、果実、花びら、根等)や真菌類・動物に由来する加工物から作られる飲み物(「茶ではない「茶」」の節、茶外茶を参照)にも「茶」もしくは「○○茶」と称するものが数多くある。.

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起請文

起請文(きしょうもん)は、日本でかつて作成されていた、人が契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書である。単に起請ともいう。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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薩長土肥

薩長土肥(さっちょうどひ)は、江戸時代末期(幕末)に雄藩と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称。その主要人物たちは「元勲」「明治の元勲」「維新の元勲」と呼ばれた。 薩長土は、幕末期、志士たちの交流や薩長同盟・薩土同盟で連携関係を結んでおり、特に薩長は全国の他の諸藩よりも圧倒的に藩政改革が早く、不平等条約による開国という状況や幕末という時代変化にいち早く対応していたため、殉国者含め、倒幕の立役者となる人材を多く輩出していた。また、戊辰戦争の頃から、倒幕運動には不熱心だったが藩政改革が進んでおり開明的だった「雄藩」の肥前を仲間とみなし、肥前藩にも明治維新政府に人材を供給させた。 このため、明治政府の上位官職を薩長土肥で一時期ほぼ独占する状態となり、藩閥政治と非難された。しかし実際には、新政府発足以来、この4藩出身者の中で熾烈な権力闘争・路線闘争が展開されることによって明治政府が運営されていた。薩長出身者は政府・軍部の中核を占めたが、土肥出身者の一部は明治政府に残りつつも薩長政府を攻撃するという展開となった。明治の国政は、良くも悪くも、この薩長土肥主導による政治であったと言える。.

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藤津郡

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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藩政改革

藩政改革(はんせいかいかく)は、江戸時代の幕藩体制において、各藩が行財政の再建のために行った、政治・経済などの改革の事を指す。 特に江戸幕府の天保の改革などの幕政改革と同時期に盛んに行われた改革の成果によって藩財政が好転した藩として、薩摩藩や長州藩などを挙げることができ、幕末に雄藩と言われる程の影響力を持ち、倒幕運動の原動力の1つとなった。現在でも幕藩改革を見本とする経営者・政治家は多い。.

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葉隠

『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。.

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蒸気船

蒸気船(じょうきせん)とは、蒸気機関を用いスクリュー・プロペラや外輪を廻すことより推進する船のことである。蒸汽船や汽船ともいう。 ミシシッピー川の河船をモデルにした蒸気外車船フロンティア号 一般に蒸気船といえば石炭を燃料とする古典的な船のことを指し、蒸気タービンや原子力による蒸気機関を持つ船は蒸気船と呼ばれない。.

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蒸気機関車

蒸気機関車(じょうききかんしゃ)とは、蒸気機関を動力とする機関車のことである。 日本では Steam Locomotive の頭文字をとって、SL(エスエル)とも呼ばれる。また、蒸気機関車、または蒸気機関車が牽引する列車のことを汽車とも言う。また、明治時代には蒸気船に対して陸の上を蒸気機関で走ることから、「陸蒸気」(おかじょうき)とも呼んでいた。第二次世界大戦の頃までは「汽罐車」(きかんしゃ)という表記も用いられた(「汽罐」はボイラーの意)。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肥前石井氏

肥前石井氏(ひぜんいしいし) / 佐賀石井家(さがいしいけ)は、鎌倉時代の発祥と伝わり、室町時代から明治時代初期にかけて肥前国を根拠とした武家・士族である。とくに近世の佐賀藩主・鍋島氏の藩祖以来の外戚家門として殊遇を享けた一族として知られる。 本貫は下総国。本姓は藤原氏(北家兼通流)を称し、女系の血統から、下総国出身の千葉氏の後裔とも称した。 戦国大名・龍造寺家兼・隆信の譜代重臣(水ヶ江譜代)として勢力を拡大し、後に佐賀藩主・鍋島氏の外戚・重臣として続いた。 石井党、石井一門、石井寄合衆と呼ばれる精強な武士団を率いて、戦国時代から江戸時代初期にかけて隆盛を極めた。 佐賀藩に伝わる武士道論書『葉隠』にもしばしば登場する一族で、明治に至るまで戦国時代の武家の気質・家風を伝えた一方、俳人・歌人や学者などの人物も輩出し、文武両道の家門であった。 明治以降も日本の電話創始者・石井忠亮、日本の知的障害者教育・福祉の創始者・石井亮一ら有為な人材を輩出した。 姻戚には大隈重信、中牟田倉之助、武富時敏、久米邦武らが名を連ねている。.

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肥前有馬氏

肥前有馬氏(ひぜんありまし)は、日本の氏族。通字は「純」または「澄」で、いずれも「すみ」または「ずみ」と読む。.

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釧路国

釧路国(くしろのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。道東に位置し、領域は現在の釧路総合振興局および十勝総合振興局管内にある足寄郡の大半(足寄町のうち合併前の旧足寄村にあたる利別川以東及び陸別町)にあたるが、設置当初は現在のオホーツク総合振興局管内の大空町、美幌町、津別町にあたる地域も含んでいた。.

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釧路郡

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長崎市

佐山から望む長崎市街地。長崎市の夜景は世界新三大夜景・日本三大夜景にも数えられている。 長崎市(ながさきし)は、九州の北西部に位置する都市で、長崎県の県庁所在地である。国から中核市に指定されている。 古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパ(主にオランダ)から多くの文化が入ってきた。外国からの文化流入の影響や、坂の多い街並みなどから、日本国内の他都市とは違った景観を保持している。 人口は長崎県で最大である。市域面積の13.1%である市街地に人口の約78%が住み、市街地の人口密度は7,900人/km2となっている。人口密度が高いため山間部にも建物が密集する。.

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長崎県

長崎県(ながさきけん)は、日本の九州地方北西端に位置する県である。県庁所在地は長崎市。 五島列島、壱岐島、対馬など、数多くの島嶼を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。また、多島であるうえにリアス式海岸を多く擁することから、海岸線の長さは47都道府県中第2位もしくは第1位である(※「地形」節にて詳説)。.

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長崎海軍伝習所

長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会蔵 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関。幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された 併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となった。.

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長州征討

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。 特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。.

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鉄道記念物

鉄道記念物(てつどうきねんぶつ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1958年(昭和33年)に制定した、日本の鉄道に関する歴史的文化的に重要な事物等を指定して保存、継承するための制度、あるいはその制度により指定された事物等をいう。本項においては、1963年(昭和38年)に制定された、地方的に重要な事物等を指定する準鉄道記念物(じゅんてつどうきねんぶつ)についても記述する。 1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化後は、既存の記念物がJR各社の管理に移されたものの長らく指定が行われなかったが、2004年(平成16年)に西日本旅客鉄道(JR西日本)が、準鉄道記念物から鉄道記念物への格上げという形で、18年ぶり(鉄道記念物に限れば32年ぶり)に指定を実施した。2010年には、やはり準鉄道記念物からの格上げで北海道旅客鉄道(JR北海道)も指定をおこなった。.

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陣屋

復元された兵庫県佐用郡佐用町乃井野の旧三日月藩政庁三日月陣屋 兵庫陣屋絵図/神戸市立博物館蔵 陣屋(じんや)は、江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のことである。.

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陶磁器

野々村仁清『色絵藤花茶壺』(国宝) 陶磁器(とうじき、pottery and porcelain)は、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。 陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが含まれる。成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。『古陶磁の科学』の著者内藤匡は、この過程をおこしに喩えている。おおまかに言えば、陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである。.

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陽泰院

陽泰院/彦鶴姫(ようたいいん/ひこつるひめ、天文10年(1541年) - 寛永6年1月8日(1629年2月1日))は、戦国時代から安土桃山時代・江戸時代の女性。 佐賀藩祖・鍋島直茂の正室で、初代藩主・鍋島勝茂の生母である。 名は、彦鶴(ひこつる)、後に藤(ふじ)。家臣からは、御簾中、藤の方、北の方などと称されたが、一般的には陽泰院または彦鶴姫として知られている。 領民からは国母と敬われ、慕われた。現在に至るまで、夫の直茂とともに佐賀県民に人気が高い歴史上の人物の一人。.

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枝吉神陽

枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) - 文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末に活躍した佐賀藩の思想家、教育者、国学者。藩校弘道館の教諭。外務卿、内務大臣を務めた副島種臣は実弟。本名は経種。贈従四位。佐賀の尊皇派の中心的存在。.

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松浦郡

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杵島郡

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村田政矩

村田 政矩(むらた まさのり)は、江戸時代後期の武士。佐賀藩の重臣。村田若狭の名でも知られる。日本人で二番目にプロテスタントの洗礼を受けた人物である。.

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横岳鍋島家

横岳鍋島家(よこたけなべしまけ)は、近世の肥前佐賀藩の武家である。本姓は藤原氏で、本来の名字は石井氏。佐賀藩祖鍋島直茂の正室石井氏陽泰院の連枝で、直茂夫妻の婿養子となった鍋島茂里(石井茂里)を祖とする。佐賀藩においては、「家老」六家の筆頭の家格にあり、一時期、格上の「親類同格」として遇せられたこともあった。別称は鍋島主水家(なべしまもんどけ)。.

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横難横死

横難横死(おうなんおうし)とは、予期しない災難や非業の死をとげること。.

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江藤新平

江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、幕末の佐賀藩士、明治時代の政治家。幼名は恒太郎・又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。「維新の十傑」「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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深堀純賢

深堀 純賢(ふかほり すみかた/すみまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国俵石城主。.

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深堀鍋島家

深堀鍋島家(ふかほりなべしまけ)は、江戸時代の武家。肥前国佐賀藩の家老、および肥前国深堀領主を世襲した。本姓は平氏、元来の名字は深堀氏。鎌倉時代から続く肥前国の国衆深堀氏の名跡を継ぐ家であるが、血脈上は、佐賀藩主鍋島氏の外戚家門石井氏(藤原氏)の一族である。家紋は鍔に小槌、丸に三つ鱗。.

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本野一郎

本野 一郎(もとの いちろう、1862年3月23日(文久2年2月23日) - 1918年(大正7年)9月17日)は明治、大正の外交官、政治家である。子爵。.

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本野盛亨

本野 盛亨(もとの もりみち、1836年9月25日(天保7年8月15日) - 1909年(明治42年)12月10日)は、日本の官僚、実業家、読売新聞創業者。旧姓は八田。.

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振別郡

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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成富茂安

成富 茂安(なりどみ/なりとみ しげやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。龍造寺氏次いで鍋島氏の家臣。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新陰流

新陰流(しんかげりゅう)は、上泉信綱により1560年代に成立した剣術の流派。上泉信綱は新陰流とも新影流とも書いている。.

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文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

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文禄・慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。)で表記。( )の年は西暦である。.

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文春新書

文春新書(ぶんしゅんしんしょ、Bunshun shinsho)は、1998年10月に創刊した文藝春秋発行の新書レーベルである。 創刊第1号は高橋紘・所功共著『皇位継承』である。通常月4点刊行だが、6点や8点の月もある。新書の中では比較的重版の率が高い。 2012年1月20日に発刊した阿川佐和子著『聞く力』は、160万部を超えるベストセラーとなった。通巻1000点目となる池上彰・佐藤優共著『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』は、2015年1月時点で31万部を突破している。2015年、ISILの組織の台頭を歴史的背景から解き明かした『イスラーム国の衝撃』(池内恵著)が話題になり、10万5000部を超えるヒット作となる。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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拝借金

拝借金(はいしゃくきん)とは、江戸幕府が財政支援のために、大名・旗本などに無利子に貸与した金銭。幕府による恩恵とする位置づけから恩貸とも呼ばれた。 記録で確認できる最古の例は大坂冬の陣の時のことであり、当時江戸城の普請が進行中であったことから、普請と軍役の二重負担に配慮して支給されたものと考えられている。加賀藩には3万両、仙台藩には1万5千両、西国の姫路藩・和歌山藩・佐賀藩には銀200貫目が貸与されたとされている。その後も火災や水害などを理由としてしばしば拝借金が貸与された。特に明暦の大火においては被災した大名家に対して石高に応じて10ヵ年返済の拝借金が認められている。 拝借金が貸与される例として居城の罹災や領内の災害・凶作、勅使や朝鮮通信使への接待などの幕命による御用遂行、転封、幕府の役職就任(京都所司代や大坂城代、遠国奉行など)などが挙げられる。また、御三家などの将軍家親族や老中・若年寄・京都所司代歴任者に対しては基準が緩かった様である。また、江戸時代後期には旗本・御家人の生活窮乏を救うために拝借金が行われたほか、寺社・宿場町・米価などの維持のために非武士に対しても行われることがあった(米価の場合は札差・米問屋が対象となる)。 幕末になると、海防などの軍備増強や経済混乱に対する救済策としても行われた。江戸時代後期には幕府自体の財政難を理由に拝借金の基準が厳しくなり拠出の抑制が行われたが、それでも天保13年(1842年)暮れには拝借金残高がほぼ12万両に達していた。拝借金は幕藩体制維持のためには必要な措置であったが、同時に幕府財政を悪化させる要因の1つになったのである。.

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1584年

記載なし。

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1590年

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1607年

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1608年

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1610年

記載なし。

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1611年

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1613年

記載なし。

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1621年

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1634年

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1642年

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1699年

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1730年

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1808年

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1816年

記載なし。

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1821年

記載なし。

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1828年

記載なし。

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1849年

記載なし。

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1862年

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1865年

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1866年

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1867年

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1871年

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1874年

記載なし。

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2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2018年

この項目では、国際的な視点に基づいた2018年について記載する。.

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4月4日 (旧暦)

旧暦4月4日(きゅうれきしがつよっか)は旧暦4月の4日目である。六曜は先勝である。.

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