ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

御附家老

索引 御附家老

御附家老(おつけがろう)は、江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御附家老」と呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。.

177 関係: 堂上家士族大名大坂の陣大多喜城大多喜藩大久保長安大御所 (江戸時代)子爵宝暦室賀正俊家老安藤直裕安藤直馨安藤直次安房正木氏寺部城寛永小笠原吉次小笠原氏小納戸尾張徳川家岡部長盛岡部氏中山信吉中山信徴中山信敬中山氏丸岡藩常陸国常陸松岡藩三条藩三河安藤氏三河国三浦為春三浦氏三方ヶ原の戦い下総国一橋徳川家平岩親吉平岩氏幕臣久野宗成久野氏享保井伊直政井伊谷三人衆今尾藩今川氏廃藩置県...佐倉藩彦根藩征夷大将軍御三卿御目見御連枝徳川十六神将徳川家宣徳川家康徳川家光徳川家茂徳川宗翰徳川将軍家徳川御三家徳川忠長徳川綱吉徳川義直徳川頼宣徳川頼房徳川茂承徳川治保徳川斉昭八朔元和 (日本)先手組犬山藩石川光忠石川氏石河正章福井藩稲葉正勝稲葉正成稲葉氏竹腰正信竹腰正旧箕輪藩節句糸魚川藩紀州徳川家紀伊田辺藩紀伊新宮藩織田信照織田信長真岡藩結城秀康用人田安徳川家田丸藩甲府藩男爵遠江国華族華族令養珠院館林藩親藩駿府藩駿河徳川家駿河国高田藩谷村藩鳥居忠房鳥居氏鳥居成次越前市越前松平家能見松平家阿部正弘関宿藩里見氏陪臣柿岡藩掛川藩松平康重松平忠吉松平忠直松平忠輝松平忠昌松平重勝板倉勝重村越直吉桑名藩榊原康政武生騒動水野忠央水野忠幹 (紀伊新宮藩主)水野忠成水野分長水野重央水野重良水野氏水戸徳川家水戸藩永井直勝江戸幕府江戸時代渡辺守綱清水徳川家清洲藩朝倉宣正本多富正本多忠勝本多重次本多正純本多氏本多成重成瀬正肥成瀬正成成瀬氏明治維新春日局浜松城新宮城新番慶応慶応の改革慶長1600年1614年1618年1624年1627年1632年1729年1735年1757年 インデックスを展開 (127 もっと) »

堂上家

堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる。 中級貴族である地下の官人を除く公家を指す。江戸時代末期には137家があった。.

新しい!!: 御附家老と堂上家 · 続きを見る »

士族

士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。.

新しい!!: 御附家老と士族 · 続きを見る »

大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

新しい!!: 御附家老と大名 · 続きを見る »

大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

新しい!!: 御附家老と大坂の陣 · 続きを見る »

大多喜城

大多喜城(おおたきじょう)は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した日本の城(平山城)。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。江戸時代には大多喜藩が置かれていた。.

新しい!!: 御附家老と大多喜城 · 続きを見る »

大多喜藩

大多喜藩(おおたきはん)は、上総国に存在した藩。藩庁を大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一)に置いた。.

新しい!!: 御附家老と大多喜藩 · 続きを見る »

大久保長安

大久保 長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。甲斐武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。.

新しい!!: 御附家老と大久保長安 · 続きを見る »

大御所 (江戸時代)

大御所(おおごしょ)とは、江戸幕府において征夷大将軍職を退いて隠居した前将軍の敬称。.

新しい!!: 御附家老と大御所 (江戸時代) · 続きを見る »

子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

新しい!!: 御附家老と子爵 · 続きを見る »

宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

新しい!!: 御附家老と宝暦 · 続きを見る »

室賀正俊

室賀 正俊(むろが まさとし)は、江戸時代の旗本、館林藩附家老。屋代秀正の次男として生まれ、室賀満俊の養子となる。室は上田重秀の娘。子に女子(室賀正信室)、室賀正勝、女子(佐野政信室)、女子(舟橋玄恂室)。婿養子に室賀正信。 元和7年(1621年)より将軍徳川家光に仕える。寛永3年(1626年)、養父・満俊の遺跡を継いで1000石を知行し、小姓組番士となる。寛永10年(1633年)に200石を加増。寛永16年(1639年)に小十人頭となる。慶安元年(1648年)に家光の子の館林藩主徳松(徳川綱吉)の附家老とされ、武蔵国・上野国内の1800石を加増されて所領が3000石となる。承応2年(1653年)従五位下、下総守に叙任。寛文元年(1661年)、武蔵国・上野国内で更に4200石を加えられ、7200石を知行する。寛文3年(1663年)、1200石を婿養子・正信に分知し、致仕。天和元年(1681年)に72歳で死去。 嫡男正勝の時、綱吉が将軍になると幕臣に復し、子孫は5500石の大身の旗本として存続した。養子の正信は中山直定の四男で、正俊の娘を娶り別家を創設した。.

新しい!!: 御附家老と室賀正俊 · 続きを見る »

家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.

新しい!!: 御附家老と家老 · 続きを見る »

安藤直裕

安藤 直裕(あんどう なおひろ)は、紀伊田辺藩の第16藩・第18代藩主。第14代藩主・安藤直則の次男。初名を直承とも名乗る。通称は帯刀、飛騨守。竹堂、墨堂と号する。 文政9年(1826年)5月25日、家督を継ぐ。天保6年(1835年)12月27日、従五位下飛騨守に叙任する。紀州藩において藩主・徳川慶福(のちの将軍徳川家茂)や徳川茂承などの補佐を務めた。慶応2年(1866年)、第2次長州征伐では幕府軍の石州口の総督を務め、1080名を率いて出陣したが、弾薬を使い果たして江津まで退却した。同年12月3日、罷免、謹慎を命じられる。慶応3年9月27日、謹慎を解かれる。 慶応4年(1868年)1月24日、「維新立藩」で独立の大名となった。同年5月5日、上洛する。明治2年6月20日、田辺藩知事に就任する。明治4年(1871)10月10日、藩主の地位を長男の直行に譲って隠居したが、ほどなくして再任している。 明治18年(1885年)、65歳で死去した。.

新しい!!: 御附家老と安藤直裕 · 続きを見る »

安藤直馨

安藤 直馨(あんどう なおか、天明6年8月15日(1786年9月7日) - 文政9年3月29日(1826年5月5日))は、紀伊田辺藩の第15代当主。丹後宮津藩主・松平資承の五男。子は娘(松平宗発の養女)。官位は帯刀。幼名は正三郎、賢三郎。 文政7年(1824年)6月27日、直則の死去により、末期養子として家督を継いだ。同年12月16日、従五位下に叙任し、帯刀を称する。文政9年(1826年)に死去し、跡を直則の実子の直裕が継いだ。 なおか Category:本庄松平氏 なおか Category:宮津藩の人物 Category:1786年生 Category:1826年没.

新しい!!: 御附家老と安藤直馨 · 続きを見る »

安藤直次

安藤 直次(あんどう なおつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。紀伊国田辺藩(紀州藩附家老)初代藩主。慶長5年(1600年)から元和2年(1616年)までは幕府老中を務めた北島正元「安藤直次」『国史大辞典』吉川弘文館。.

新しい!!: 御附家老と安藤直次 · 続きを見る »

安房正木氏

安房正木氏(あわまさきし)は、日本の氏族である。三浦氏の庶流であるが、具体的な系譜については相模三浦氏の後裔とされるなど諸説がある。中世においては現在の東京湾から房総半島沿岸を舞台に水軍・交易の任にあたっていた。.

新しい!!: 御附家老と安房正木氏 · 続きを見る »

寺部城

寺部城(てらべじょう)は、現在の愛知県豊田市寺部町にあった日本の城(平城)。.

新しい!!: 御附家老と寺部城 · 続きを見る »

寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

新しい!!: 御附家老と寛永 · 続きを見る »

小笠原吉次

小笠原 吉次(おがさわら よしつぐ、天文17年(1548年) - 元和2年8月15日(1616年9月25日))は、江戸時代初期の大名。尾張犬山領主、下総佐倉藩主、常陸笠間藩主。 松平家忠の家臣小笠原長隆の長男。母は小笠原重広の娘。正室は加々爪政豊の娘。子は吉光(忠重、長男)、長光(次男)。官途は伊予守、のちに和泉守。初名宗忠。.

新しい!!: 御附家老と小笠原吉次 · 続きを見る »

小笠原氏

小笠原氏(おがさわらし、おがさわらうじ)は、日本の氏族。清和源氏の河内源氏の流れをくみ、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。通字は、「長」・「貞」・「忠」などである。.

新しい!!: 御附家老と小笠原氏 · 続きを見る »

小納戸

小納戸(こなんど)は、江戸幕府における職名の1つである。.

新しい!!: 御附家老と小納戸 · 続きを見る »

尾張徳川家

尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。尾張中納言家、単に尾張家、尾州家とも言う。御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。.

新しい!!: 御附家老と尾張徳川家 · 続きを見る »

岡部長盛

岡部 長盛(おかべ ながもり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。下総山崎藩主、丹波亀山藩主、丹波福知山藩主、美濃大垣藩初代藩主。岸和田藩岡部家初代。武勇に優れ、「岡部の黒鬼」と称された。.

新しい!!: 御附家老と岡部長盛 · 続きを見る »

岡部氏

岡部氏(おかべし)は、日本人の氏族、苗字、姓の一つ。他の字体では、岡辺、小加部などがある。 岡部氏には以下の系譜がある。.

新しい!!: 御附家老と岡部氏 · 続きを見る »

中山信吉

中山 信吉(なかやま のぶよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。水戸藩附家老。.

新しい!!: 御附家老と中山信吉 · 続きを見る »

中山信徴

中山 信徴(なかやま のぶあき、弘化3年4月10日(1846年5月5日)- 大正6年(1917年)1月29日)は、常陸松岡藩の初代藩主(幕藩体制下では藩主として認められず、第14代当主)。常陸水戸藩附家老・中山家14代。 第3代当主・中山信守の四男。正室は挙母藩主・内藤政成の四女・鶴子。子は信実(長男)、信矼(次男)、信輝(三男)、青木信光(四男)、信之(五男)、信篤(六男)、娘(久留島通簡正室)、娘(久留島通簡継室)、娘(春田某室)、娘(大川某養女)、娘(対木某室)、娘(辰沢某室)、久(松平直平正室)、娘(辰沢某室)、娘(大川某養女)、娘(仲子、大舘某養女のち高橋某室)。官位は従五位下、備中守、備後守。.

新しい!!: 御附家老と中山信徴 · 続きを見る »

中山信敬

中山 信敬(なかやま のぶたか、明和元年12月11日(1765年1月2日)- 文政3年7月3日(1820年8月11日))は、常陸国太田藩の第5代当主、常陸松岡藩の初代当主。水戸藩附家老・中山家10代。 第5代水戸藩主・徳川宗翰の九男(第6代水戸藩主・徳川治保の弟)。母は三宅氏。正室は中山政信の娘。子は中山信情(三男)、娘(米津政懿継々室)、娘(中山直有正室)、娘(山口直温室)。官位は従五位下、備前守、備中守。通称、大膳。初名、信徳。 明和8年(1771年)、8歳のときに先代・中山政信の臨終の席でその娘を迎え、婿養子となって中山氏の家督を相続した。安永8年(1779年)12月16日、備前守に叙任する。その後、年月不詳ながら、備中守に遷任する。享和3年(1803年)、居所を再び松岡に戻した。文政2年(1819年)、病気(中風)をきっかけに家督を三男・信情に譲って隠居することを命じられて、藩政をしりぞく。一貫斎と号したが、翌年没した。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。 信敬は藩主の子として生まれたため、末子であっても大名家の養子となる資格があったが、2万5千石の陪臣の養子となったことに不満があったと推測される。附家老として藩主の兄を補佐し、藩政を掌握すると中山家の地位を向上させることに尽力した。享和3年(1803年)11月には大田村からかつての松岡に知行替えをした。地位向上運動は藩内にとどまらず、幕府に対しても文化13年(1819年)1月から老中水野忠成に、八朔五節句の江戸城登城について藩主随伴ではなく単独で登城できるように陳情を始めた。この陳情は中山家だけでは実現できそうもなかったため、同じ陪臣で附家老の尾張成瀬氏と紀州安藤氏と連携をとって家格向上に努めた。.

新しい!!: 御附家老と中山信敬 · 続きを見る »

中山氏

中山氏(なかやまし)は、日本の氏族の一つ。.

新しい!!: 御附家老と中山氏 · 続きを見る »

丸岡藩

丸岡藩(まるおかはん)は、越前国(現在の福井県)坂井郡などを支配した藩。居城は丸岡城(現在の福井県坂井市丸岡町霞)。.

新しい!!: 御附家老と丸岡藩 · 続きを見る »

常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

新しい!!: 御附家老と常陸国 · 続きを見る »

常陸松岡藩

松岡藩(まつおかはん)は、江戸時代に常陸国に存在した藩。藩庁は多賀郡下手綱(現在の茨城県高萩市下手綱)の松岡城に置かれた。越前松岡藩との区別から常陸松岡藩とも呼ばれる。 江戸時代初期に戸沢氏が4万石で入部し、約20年間存続した。戸沢氏転封後、松岡周辺は水戸藩領となり、附家老中山家(2万石)が居館を置いた。明治維新後の1868年、中山氏を藩主とする松岡藩が立藩され、廃藩置県まで続いた。.

新しい!!: 御附家老と常陸松岡藩 · 続きを見る »

三条藩

三条藩(さんじょうはん)は、越後国(現在の新潟県三条市元町)に存在した藩。.

新しい!!: 御附家老と三条藩 · 続きを見る »

三河安藤氏

三河安藤氏(あんどうし)は、日本の氏族。 元は三河国の土豪。安藤家重は松平広忠(徳川家康の父)に仕えていたが、天文9年(1540年)に三河安祥城に攻め寄せてきた織田信秀との攻防戦のさなかに討死。 家重の子の安藤基能は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで武田軍相手に討死した。.

新しい!!: 御附家老と三河安藤氏 · 続きを見る »

三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

新しい!!: 御附家老と三河国 · 続きを見る »

三浦為春

三浦 為春(みうら ためはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。三浦長門守家初代当主。妹に徳川家康の側室・養珠院(於万)。紀州藩祖・徳川頼宣と水戸藩祖・徳川頼房の伯父に当たる。.

新しい!!: 御附家老と三浦為春 · 続きを見る »

三浦氏

三浦氏(みうらし)は、平安時代の相模国の武家。三浦党(みうらとう)とも呼ばれる。.

新しい!!: 御附家老と三浦氏 · 続きを見る »

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川 ・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。.

新しい!!: 御附家老と三方ヶ原の戦い · 続きを見る »

下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 御附家老と下総国 · 続きを見る »

一橋徳川家

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に一橋家ともいう。.

新しい!!: 御附家老と一橋徳川家 · 続きを見る »

平岩親吉

平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)は、戦国時代から江戸時代初期の武将・大名。徳川氏の家臣。上野厩橋藩(前橋藩)、のちに尾張犬山藩の藩主。徳川十六神将の一人に数えられる。『三河後風土記』の著者というが、著者不詳ともされはっきりしない。.

新しい!!: 御附家老と平岩親吉 · 続きを見る »

平岩氏

平岩氏(ひらいわし)は弓削氏を祖とする氏族の一つ。三河国額田郡坂崎郷(愛知県額田郡幸田町坂崎)に居住した。その家伝によれば同地にある平らな巨岩にちなんで名字としたと云う。この平岩氏から徳川氏譜代大名となった平岩親吉の系統が代表的であるが、同地域周辺では室町時代には既に多くの同族が分出しており、親吉の同族異流の平岩氏もその多くが松平氏・徳川氏の家臣となった。親吉以外では親吉に同じく徳川家康の家臣となった平岩元重やその子孫の系統が記録上に目立つ。三河の平岩氏の菩提寺は同国碧海郡桑子(岡崎市大和町沓市場)の妙源寺。平岩氏は弓に縁を持ち、家紋は弓削氏の頃は七曜、平岩改姓後は丸に並び弓。.

新しい!!: 御附家老と平岩氏 · 続きを見る »

幕臣

幕臣(ばくしん)は、幕府の長である征夷大将軍を直接の主君として仕える武士のことである。 一般的には、江戸時代において徳川家の臣下のうち、1万石未満の禄を与えられた旗本および御家人と呼ばれる身分の者のことを指す。 彼ら旗本・御家人は、所領を与えられた者でも領地への下向を行わずに江戸に常時居住し(交代寄合として大名同様参勤交代を行うものもいた)、自身の知行高に定められた軍役を果たす準備を満たして将軍家の常備直轄軍事力としての役割を果たす一方で、江戸幕府の各種の役職(軍職の番方や吏務職の役方)を果たし、幕府の軍人・官僚として仕えた。 幕臣は幕藩体制のもとで特権を認められる世襲の武士身分であったが、江戸時代中頃から経済的に窮乏するようになり、下層の御家人の間では御家人株の売買による身分の流動が見られた。.

新しい!!: 御附家老と幕臣 · 続きを見る »

久野宗成

久野 宗成(くの むねなり、天正10年(1582年) - 寛永2年(1625年))は、紀州藩田丸城代家老久野家初代当主。 父は徳川家家臣久野宗朝。祖父は元・今川氏真家臣で徳川家康に仕えた久野宗能。子は久野宗晴。通称金五郎。官位は従五位下丹波守。.

新しい!!: 御附家老と久野宗成 · 続きを見る »

久野氏

久野氏(くのし、くのうじ)は、日本の氏族のひとつ。遠江国の国人衆が著名。「久努」「久奴」「久能氏」とも表記されることがあった。.

新しい!!: 御附家老と久野氏 · 続きを見る »

享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

新しい!!: 御附家老と享保 · 続きを見る »

井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。 徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。.

新しい!!: 御附家老と井伊直政 · 続きを見る »

井伊谷三人衆

井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)は、永禄11年(1568年)末に徳川家康が遠州攻めを行った際に今川氏真から徳川方へ離反した近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時の3人のことをいう。 遠州浜名湖の沿岸部を有する領主たちは、今川氏への忠誠心が比較的強かったため、家康は遠江侵攻の障害となることを危惧していた。そこで事前に、東三河の菅沼定盈を使って懐柔工作に動いた。定盈は、同族のよしみで菅沼忠久に接触。忠久が縁戚の鈴木重時を抱き込み、近藤康用まで取り込んだ。 これにより家康は、強固な浜名湖西岸部よりも防備の弱まった井伊谷から三河主力軍を進めて、曳馬城の年内陥落という早期制圧にこぎつけたのである。 この3人は家康の命を受けて、後に徳川四天王の一人である井伊直政の配下に付けられた。だが、いずれも後に井伊家を離れている近藤康用の子秀用は直政と対立して出奔して後に徳川秀忠・池田輝政のとりなしで旗本に復帰できるまで浪人生活を送り、菅沼忠久の孫勝利は幼少で家督を継いだため旗本に戻され、鈴木重時の子重好は他の家臣と対立して隠居と言う形で井伊家を追われて後に水戸徳川家に仕えた(重好の子は井伊家に留まったが、その子は祖父の家督を継いで井伊家に戻らなかった)。。.

新しい!!: 御附家老と井伊谷三人衆 · 続きを見る »

今尾藩

今尾藩(いまおはん)は、美濃国安八郡(現在の岐阜県海津市平田町今尾)に存在した藩。藩庁は今尾陣屋に置かれた。.

新しい!!: 御附家老と今尾藩 · 続きを見る »

今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

新しい!!: 御附家老と今川氏 · 続きを見る »

廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

新しい!!: 御附家老と廃藩置県 · 続きを見る »

佐倉藩

佐倉藩(さくらはん)は、下総国印旛郡佐倉に存在した藩である。藩庁は佐倉城(現在の千葉県佐倉市)。石高はおおむね11万石。.

新しい!!: 御附家老と佐倉藩 · 続きを見る »

彦根藩

近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 彦根藩邸址、京都市中京区木屋町 彦根藩(ひこねはん)は、近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊氏。支藩として一時、彦根新田藩があった。.

新しい!!: 御附家老と彦根藩 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 御附家老と征夷大将軍 · 続きを見る »

御三卿

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家である。以下の三家を指す。.

新しい!!: 御附家老と御三卿 · 続きを見る »

御目見

御目見(おめみえ)とは、江戸時代に大名や旗本が将軍に直接拝謁すること。また、その資格。「上聴」とも呼ばれる。 江戸時代の武士には、どの藩でも藩主にお目通りする資格がある「上士」と、それがない「下士」の区別があった。一般に「侍」(さむらい)と呼ばれたのは前者の方で、後者はかつて戦場でも騎乗の資格がなかったことから「徒歩」(かち)と呼ばれた。 幕府内では、石高一万石未満の徳川家家臣で、総登城や年賀節句など将軍が出御する儀式に参列することが許されている者を「旗本」、そうでない者を「御家人」と呼んだ。また旗本は、規模は小さいながらも実際に知行地をもつ一領主であったことから、庶民からは俗に「殿様」(とのさま)と呼ばれた。一方の御家人は、切米で俸給されたので「旦那様」(だんなさま)と呼ばれた。 江戸城内における年中儀礼の式次第や諸大名の格式をはじめ、故事、旧例、有職、法規などを網羅した注釈書『柳営秘鑑』には、以下の記述がある。 近世武家社会において御目見は家督の相続に際して嫡子として認められる所作のひとつとなっており、成人の嫡子が存在しても御目見を済まさない場合は家督相続者として認められなかった。.

新しい!!: 御附家老と御目見 · 続きを見る »

御連枝

御連枝(ごれんし)は、貴人の兄弟を指した敬称。根幹を同じくする枝々が連なっている様子を表した「連枝」がその語源。歴史的には以下の意味を持つ。 広義には、天皇家・将軍家・大名家など高貴な支配階級の顕職を世襲する権門において、当主の兄弟のうち仏門に入らずに特に取り立てられて一家を興した者、およびその者を祖とする家系をいう。天皇家からの宮家、徳川将軍家からの御三家・御両典・御三卿、藩主家からの支藩家などがこれにあたる。いずれの場合も、本家筋に嗣子を欠く場合にはそれを継承することもあり得る存在として知られた。 狭義には、江戸時代に御三家からさらに分家して立藩した親藩大名家を指して特にこう呼ぶことがあった。.

新しい!!: 御附家老と御連枝 · 続きを見る »

徳川十六神将

徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう)は、徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰した呼称。江戸時代には家康と十六神将の姿を描いた図像が東照宮信仰において好まれた。.

新しい!!: 御附家老と徳川十六神将 · 続きを見る »

徳川家宣

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。.

新しい!!: 御附家老と徳川家宣 · 続きを見る »

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

新しい!!: 御附家老と徳川家康 · 続きを見る »

徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

新しい!!: 御附家老と徳川家光 · 続きを見る »

徳川家茂

徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶福(よしとみ)と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。 徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)の嫡男流産した兄がいたため次男とみなされることもある。だが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に当時慶福よりも血筋が近い者として家定の叔父にあたる美作津山藩主松平斉民と阿波徳島藩主蜂須賀斉裕がいたが、徳川家を出て他家の養子となっていたためどちらも将軍後継者としてみなされなかった。皮肉なことに、この両者とも家茂より長生きし、実子を儲けている。、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。.

新しい!!: 御附家老と徳川家茂 · 続きを見る »

徳川宗翰

徳川 宗翰(とくがわ むねもと)は、常陸国水戸藩の第5代藩主。.

新しい!!: 御附家老と徳川宗翰 · 続きを見る »

徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

新しい!!: 御附家老と徳川将軍家 · 続きを見る »

徳川御三家

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。.

新しい!!: 御附家老と徳川御三家 · 続きを見る »

徳川忠長

徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。.

新しい!!: 御附家老と徳川忠長 · 続きを見る »

徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

新しい!!: 御附家老と徳川綱吉 · 続きを見る »

徳川義直

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の9男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。.

新しい!!: 御附家老と徳川義直 · 続きを見る »

徳川頼宣

徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室の養珠院(お万の方)である。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める諱の一文字目については徳川家が源氏の末裔であることを示すために、その通字の一つである「頼」の字を用いたものとみられる。。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。.

新しい!!: 御附家老と徳川頼宣 · 続きを見る »

徳川頼房

徳川 頼房(とくがわ よりふさ)は、常陸水戸藩の初代藩主。水戸徳川家の祖。徳川家康の十一男。.

新しい!!: 御附家老と徳川頼房 · 続きを見る »

徳川茂承

徳川 茂承(とくがわ もちつぐ)は、幕末の大名。紀州藩第14代(最後)の藩主。紀州藩第8代藩主・徳川重倫の実弟で伊予国西条藩第6代藩主となった松平頼謙の曾孫。初名は松平 頼久(まつだいら よりひさ)。.

新しい!!: 御附家老と徳川茂承 · 続きを見る »

徳川治保

徳川 治保(とくがわ はるもり)は、常陸国水戸藩の第6代藩主。水戸藩中興の祖といわれる。.

新しい!!: 御附家老と徳川治保 · 続きを見る »

徳川斉昭

茨城県水戸市の千波公園にある徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。.

新しい!!: 御附家老と徳川斉昭 · 続きを見る »

八朔

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。 新暦では8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動する(秋分が旧暦8月中なので、早ければその29日前、遅ければ秋分当日となる)。 この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。.

新しい!!: 御附家老と八朔 · 続きを見る »

元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

新しい!!: 御附家老と元和 (日本) · 続きを見る »

先手組

先手組(さきてぐみ)は、江戸幕府の軍制の一つ。職制上は若年寄に属し、治安維持の役割を担った。 先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を務めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した。しかし、江戸時代に入ってからは戦乱があまり起こらなかったので、平時は江戸城に配置されている各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めた。 先手頭は、六位相当の布衣役で、役高1500石のほかに役扶持として60人扶持が支給された。また、先手頭は「各大名家の『御頼みの旗本衆』とされ、幕府との事前打合や報告同行などを勤めるため、由緒ある旧家の人が任命されていた」。 時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた。 同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。 火付盗賊改方の長官は、先手頭1名が加役として兼務したが、「毎年十月から翌年三月にかけてさらに追加の一名が出役し、その時点で先任者を『加役』の本役と称し、追加の新任者を単に加役と呼び習わし」た。.

新しい!!: 御附家老と先手組 · 続きを見る »

犬山藩

山藩(いぬやまはん)は、尾張国に存在した藩(ただし、藩と正式に認められて立藩したのは慶応4年(1868年)1月の新政府の計らいによるものであり、江戸幕府の幕藩体制のもとでは、藩として認められていなかった)。居城は犬山城(白帝城)であり、現在の愛知県犬山市犬山北古券を支配した。.

新しい!!: 御附家老と犬山藩 · 続きを見る »

石川光忠

石川 光忠(いしかわ みつただ)は、尾張藩家臣、石川(石河)家初代当主。.

新しい!!: 御附家老と石川光忠 · 続きを見る »

石川氏

石川氏(いしかわし)とは、石川を苗字とする一族のことである。 主に、次の5系統の石川氏が存在する。.

新しい!!: 御附家老と石川氏 · 続きを見る »

石河正章

石河 正章(いしこ まさあき)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石川(石河)家第4代当主。名字を石川から石河に改めた。.

新しい!!: 御附家老と石河正章 · 続きを見る »

福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することがある。.

新しい!!: 御附家老と福井藩 · 続きを見る »

稲葉正勝

葉 正勝(いなば まさかつ)は、江戸時代前期の大名・老中。常陸国柿岡藩主、下野国真岡藩2代藩主、相模国小田原藩初代藩主。正成系稲葉家宗家2代。甥に堀田正盛。.

新しい!!: 御附家老と稲葉正勝 · 続きを見る »

稲葉正成

葉 正成(いなば まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、大名。美濃国十七条藩主、下野国真岡藩初代藩主。正成系稲葉家宗家初代。.

新しい!!: 御附家老と稲葉正成 · 続きを見る »

稲葉氏

葉氏(いなばし)は、日本の氏族。.

新しい!!: 御附家老と稲葉氏 · 続きを見る »

竹腰正信

竹腰 正信(たけのこし まさのぶ、天正19年1月21日(1591年2月14日) - 正保2年4月30日(1645年5月25日))は、江戸時代初期の武将。山城守。尾張藩附家老を務めた竹腰家の祖。美濃国今尾藩初代当主。初代尾張藩主・徳川義直の異父兄。 竹腰正時の長男で、母は志水宗清の娘(お亀の方)。正室は大久保忠隣の養女(孫)の春。子女は、竹腰成方(長男)、竹腰正晴(次男)、竹腰正辰(三男)、石川正光継室。幼名は万丸、小伝次。別名は正次、正徳。 文禄3年(1594年)に実母・お亀の方が徳川家康の側室となり、翌文禄4年(1595年)に仙千代(早世)、慶長5年(1600年)に五郎太丸(後の徳川義直)を生むと、異父兄である正信も召し出されて近仕し、翌年に甲斐国に5,000石を与えられる。家康が大御所となって駿府に移ると本多正純・安藤直次・成瀬正成とともに側近となり、慶長12年(1607年)には成瀬と共に義直の後見に任じられる。尾張に5,000石を加増されて1万石を領し、慶長16年(1611年)には従五位下山城守に叙任されたほか、継嗣のいないまま死去した当時の尾張藩執政・平岩親吉に代わって22歳の若さで執政に任じられ、名古屋城の普請を監督。翌年には将軍・徳川秀忠の御前で砲術の腕前を披露し、褒美として1万石を賜ったほか、元和5年(1619年)には義直から1万石を加増されて都合3万石を領し、美濃の今尾を居所とした。以降、竹腰家は成瀬家とともに、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となる。.

新しい!!: 御附家老と竹腰正信 · 続きを見る »

竹腰正旧

竹腰 正旧(たけのこし まさもと、旧字体:正舊、嘉永4年2月2日(1851年3月4日) - 明治43年(1910年)8月22日)は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第10代当主で初代藩主。 三河国田原藩主三宅康直の四男。正室は中勘弥の養女。長男が竹腰正己。官位は従五位下、伊予守。.

新しい!!: 御附家老と竹腰正旧 · 続きを見る »

箕輪藩

箕輪藩(みのわはん)は、上野国(現在の群馬県高崎市箕郷町)に存在した藩。藩庁は箕輪城。.

新しい!!: 御附家老と箕輪藩 · 続きを見る »

節句

句(せっく)は、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦(「暦」も参照)における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日。日本の文化・風習。節供(せっく)、古くは節日(せちにち)とも。.

新しい!!: 御附家老と節句 · 続きを見る »

糸魚川藩

糸魚川藩(いといがわはん)は、越後国(現在の新潟県糸魚川市)に存在した藩。糸魚川陣屋に藩庁が置かれた。別称として清崎藩(きよさきはん)。.

新しい!!: 御附家老と糸魚川藩 · 続きを見る »

紀州徳川家

紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)は、江戸時代に紀伊国・伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。紀伊徳川家、紀伊中納言家ともいい、単に紀州家、紀伊家ともいう。また、初代頼宣が常陸国に封じられて常陸介に叙任された故事にちなみ、紀伊国へ移封された後も、頼宣の子孫は代々常陸介に叙任された。このため、徳川常陸介家(とくがわひたちのすけけ)という。.

新しい!!: 御附家老と紀州徳川家 · 続きを見る »

紀伊田辺藩

紀伊田辺藩(きいたなべはん)は、紀州徳川家の御付家老だった安藤氏が治めた藩。代々紀州藩主を補佐し、紀伊国に3万8千石の所領を与えられたが、紀州徳川家の家臣であることから徳川将軍家の陪臣となり、江戸時代を通じて独立した藩としては扱われなかった。藩主が諸侯に列し正式に藩として認められたのは明治維新後のことである。.

新しい!!: 御附家老と紀伊田辺藩 · 続きを見る »

紀伊新宮藩

新宮藩(しんぐうはん)は、現在の和歌山県新宮市(紀伊国)を治めた藩。ただし、藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことである。藩庁は新宮城(和歌山県新宮市)。藩主は紀州藩の御附家老だった水野家で、石高は3万5千石。.

新しい!!: 御附家老と紀伊新宮藩 · 続きを見る »

織田信照

織田 信照(おだ のぶてる)は、安土桃山時代の武将。織田信秀の九男または十男。織田信長の庶弟。母は尾張熱田の商家の娘とされる。官位は越中守。織田中根、織田越中とも。.

新しい!!: 御附家老と織田信照 · 続きを見る »

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

新しい!!: 御附家老と織田信長 · 続きを見る »

真岡藩

真岡藩(もおかはん)は、下野芳賀郡真岡郷(現在の栃木県真岡市)に存在した藩。.

新しい!!: 御附家老と真岡藩 · 続きを見る »

結城秀康

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。.

新しい!!: 御附家老と結城秀康 · 続きを見る »

用人

人(ようにん)は、江戸時代の武家の職制のひとつで、主君の用向きを家中に伝達して、庶務を司ることを主たる役目とし、有能な者から選ばれることが多かった。御用人(ごようにん)とも。.

新しい!!: 御附家老と用人 · 続きを見る »

田安徳川家

安徳川家(たやすとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿の一つ。単に田安家とも言う。.

新しい!!: 御附家老と田安徳川家 · 続きを見る »

田丸藩

丸藩(たまるはん)は、伊勢国に存在した藩。居城は田丸城(現在の三重県度会郡玉城町田丸字城山四一六)。 田丸藩田丸領の村数は、天保年間では247村、幕末には250村となっており、そのうち田丸領分は72村143枝郷17所小谷である。宮川右岸の佐八村(そうちむら)・大倉村・上野村・神薗村・円座村も田丸領に含まれていた。.

新しい!!: 御附家老と田丸藩 · 続きを見る »

甲府藩

府藩(こうふはん)は、甲斐国に存在した藩の一つ。.

新しい!!: 御附家老と甲府藩 · 続きを見る »

男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

新しい!!: 御附家老と男爵 · 続きを見る »

遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 御附家老と遠江国 · 続きを見る »

華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

新しい!!: 御附家老と華族 · 続きを見る »

華族令

華族令(かぞくれい)は、日本の法令。1884年(明治17年)7月7日に制定された明治17年宮内省達無号と、それを廃して1907年(明治40年)に制定された皇室令がある。明治40年制定の華族令(明治40年皇室令第2号)は昭和22年(1947年)に廃止された。.

新しい!!: 御附家老と華族令 · 続きを見る »

養珠院

千葉県勝浦市八幡岬公園(勝浦城跡)にある養珠院像 養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。実父は勝浦城主・正木頼忠。義父は蔭山長門守氏広。実兄は紀州藩(紀州徳川家)家老の三浦為春。 以下の呼称は実名の万で統一する。.

新しい!!: 御附家老と養珠院 · 続きを見る »

館林藩

林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった徳川家と関わりが深い藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。.

新しい!!: 御附家老と館林藩 · 続きを見る »

親藩

親藩しんぱんは、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。.

新しい!!: 御附家老と親藩 · 続きを見る »

駿府藩

駿府藩(すんぷはん)は、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)を中心に静岡県の駿河・遠江・愛知県の三河・山梨県の甲斐の地域に江戸時代初期に存在した藩である。駿河府中藩もしくは府中藩とも呼ばれる。なお明治2年8月7日(1869年9月12日)に成立した藩は静岡藩(しずおかはん)と呼ぶ。.

新しい!!: 御附家老と駿府藩 · 続きを見る »

駿河徳川家

駿河徳川家(するがとくがわけ)は駿河国・遠江国・甲斐国を治めた徳川氏の支系の一つ。駿河大納言家とも。.

新しい!!: 御附家老と駿河徳川家 · 続きを見る »

駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 御附家老と駿河国 · 続きを見る »

高田藩

藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).

新しい!!: 御附家老と高田藩 · 続きを見る »

谷村藩

谷村藩(やむらはん)は、江戸時代初期に甲斐国にあった藩。 甲斐国4郡のうち東部の都留郡一帯にあたる郡内地方を支配した。古くから独立性の強い郡内領を治め、別名郡内藩(ぐんないはん)と呼ばれる。領内支配の中心であった谷村城は、郡内地域では数少ない城跡として現在でも残されている。.

新しい!!: 御附家老と谷村藩 · 続きを見る »

鳥居忠房

鳥居 忠房(とりい ただふさ、慶長11年(1606年)- 寛永14年7月14日(1637年9月2日)は、甲斐谷村藩の第2代藩主。初代藩主・鳥居成次の長男。幼名太郎八。正室は有馬豊氏の娘。官位は従五位下、淡路守。 寛永元年(1624年)に五位下淡路守に叙任、同8年(1631年)、父の死去により跡を継ぐ。同時に徳川忠長の附家老にもなったが、翌年6月2日、忠長が幕命により改易されると連座によって改易され、一族の出羽山形藩主・鳥居忠恒預かりとなって、山形で蟄居を余儀なくされた。寛永13年(1636年)9月18日に赦免されたが、翌年7月に32歳で死去した。家督は弟の忠春が継いだ。法号は宗忠。 たたふさ Category:谷村藩主 Category:御附家老 Category:1606年生 Category:1637年没.

新しい!!: 御附家老と鳥居忠房 · 続きを見る »

鳥居氏

鳥居氏(とりいし)は、日本の氏族の一つである。.

新しい!!: 御附家老と鳥居氏 · 続きを見る »

鳥居成次

鳥居 成次(とりい なりつぐ、元亀元年(1570年)- 寛永8年6月18日(1631年7月17日)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。甲斐国郡内領主・同国谷村藩初代藩主。鳥居元忠の三男。母は形原松平家広の娘。子に鳥居忠房(長男)、鳥居忠春(次男)、娘(井上正利正室)、娘(日向政次室)、娘(八木豊次室)。官位は従五位下、土佐守。.

新しい!!: 御附家老と鳥居成次 · 続きを見る »

越前市

越前市(えちぜんし)は、福井県嶺北地方の中南部に位置する市。.

新しい!!: 御附家老と越前市 · 続きを見る »

越前松平家

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.

新しい!!: 御附家老と越前松平家 · 続きを見る »

能見松平家

能見松平家(のみまつだいらけ)は、三河国の松平氏の庶流。松平信光の八男・光親を祖とする。三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)を領したことから能見松平家と称す。.

新しい!!: 御附家老と能見松平家 · 続きを見る »

阿部正弘

阿部 正弘(あべ まさひろ、文政2年10月16日(1819年12月3日) - 安政4年6月17日(1857年8月6日))は、江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。.

新しい!!: 御附家老と阿部正弘 · 続きを見る »

関宿藩

関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。.

新しい!!: 御附家老と関宿藩 · 続きを見る »

藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

新しい!!: 御附家老と藩 · 続きを見る »

里見氏

里見氏(さとみし)は、日本の氏族のひとつ。中世に日本の武家としてはじまった。本姓は源氏(河内源氏)。源(新田)義重の子・義俊を祖とする氏族で、新田氏の庶宗家である。戦国時代、一族からは房総地方を領する戦国大名・安房里見氏が出た。.

新しい!!: 御附家老と里見氏 · 続きを見る »

陪臣

陪臣(ばいしん)は、武家の主従関係において家臣の家臣を指した呼称。又者(またもの)、又家来(またげらい)とも呼ばれた。 他の国々の同様の身分についても用いられる。.

新しい!!: 御附家老と陪臣 · 続きを見る »

柿岡藩

柿岡藩(かきおかはん)は、常陸国新治郡柿岡(現在の茨城県石岡市柿岡)に存在した藩。居城は柿岡城。.

新しい!!: 御附家老と柿岡藩 · 続きを見る »

掛川藩

掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。.

新しい!!: 御附家老と掛川藩 · 続きを見る »

松平康重

松平 康重(まつだいら やすしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。松井松平家初代。.

新しい!!: 御附家老と松平康重 · 続きを見る »

松平忠吉

松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。東条松平家第4代当主・尾張国清洲藩主。 徳川家康の四男。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。.

新しい!!: 御附家老と松平忠吉 · 続きを見る »

松平忠直

松平 忠直(まつだいら ただなお)は、江戸時代初期の大名。越前北ノ庄(福井)藩主。結城秀康の長男。徳川家康の孫、徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。.

新しい!!: 御附家老と松平忠直 · 続きを見る »

松平忠輝

松平 忠輝(まつだいら ただてる)は、安土桃山時代から江戸時代中期にかけての大名。.

新しい!!: 御附家老と松平忠輝 · 続きを見る »

松平忠昌

松平 忠昌(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期の大名。越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主公式には福井藩第3代に数える忠昌以降を(相続時の混乱から)別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えばその系統の初代となる。。初代藩主結城秀康の次男で、2代藩主松平忠直の同母弟。.

新しい!!: 御附家老と松平忠昌 · 続きを見る »

松平重勝

松平 重勝(まつだいら しげかつ、天文18年(1549年)- 元和6年12月14日(1621年1月6日)))は、江戸時代初期の大名。越後三条藩主、下総関宿藩主、遠江横須賀藩初代藩主。能見松平家第4代。 松平重吉の四男(異説有り)。母は松平親長の娘(異説有り)。正室は鳥居忠吉の娘。子は重忠(長男)、重長(次男)、重則(三男)、重信(四男)、勝隆(五男)、娘(岩瀬氏与室)など。大隅守。 徳川家康に仕えて初期の大番頭を務め、1605年(慶長10年)に伏見城の守護、1612年(慶長17年)に、家康の六男松平忠輝の附家老となり、越後高田藩を支配した忠輝の配下として越後三条2万石を与えられる。長男の重忠は将軍家で大番頭を務めていたため、次男の重長を手元に置いた。 後年、1616年(元和2年)7月に主君忠輝が改易となるが、その際、蟄居処分を伝える使者となったのが三男の重則で、改易の上使を務めたのが五男の勝隆だった。勝隆は、高田より先に三条の父兄の元を訪れ、忠輝除封を報告した。そののちの高田における除封申し渡しでは重勝は重長ともども、息子といえども上使の勝隆に伏し従う形だったと伝わる。 忠輝の改易後は連座せず幕府に召し返されて徳川秀忠に仕え、翌1617年(元和3年)に譜代大名として2万6,000石を拝領して下総関宿藩主となった。その後1619年(元和5年)遠江横須賀藩に移り、駿河国駿府城の城代を兼務する。1620年(元和6年)に駿府城下にて死去。72歳。法名「松岳院殿雄誉助白大居士」。墓所は駿府、現在の静岡県静岡市葵区大鋸町の西福寺に存在する。 嫡男の重忠が跡を継いだ。.

新しい!!: 御附家老と松平重勝 · 続きを見る »

板倉勝重

板倉 勝重(いたくら かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての旗本、大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した。.

新しい!!: 御附家老と板倉勝重 · 続きを見る »

村越直吉

村越 直吉(むらこし なおよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士・旗本。徳川氏の家臣。.

新しい!!: 御附家老と村越直吉 · 続きを見る »

桑名藩

桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。.

新しい!!: 御附家老と桑名藩 · 続きを見る »

榊原康政

榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。.

新しい!!: 御附家老と榊原康政 · 続きを見る »

武生騒動

武生騒動(たけふそうどう)は、現在の福井県越前市で明治維新後の明治3年(1870年)に発生した暴動。.

新しい!!: 御附家老と武生騒動 · 続きを見る »

水野忠央

水野 忠央(みずの ただなか)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第9代藩主幕藩体制下では大名格の所領を有しながら陪臣として扱われ、明治維新までは大名とは認められなかった。。第8代藩主・水野忠啓の長男。官位は従五位下土佐守。通称は藤四郎。号は丹鶴、鶴峯。.

新しい!!: 御附家老と水野忠央 · 続きを見る »

水野忠幹 (紀伊新宮藩主)

水野 忠幹(みずの ただもと)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第10代藩主。第9代藩主・水野忠央の長男。.

新しい!!: 御附家老と水野忠幹 (紀伊新宮藩主) · 続きを見る »

水野忠成

水野 忠成(みずの ただあきら)は、江戸時代後期の老中、駿河国沼津藩第2代藩主。沼津藩水野家9代。通常は老中在籍時の出羽守の官名で呼ばれることが多い。老中在職期間は文化14年(1817年) - 天保5年(1834年)。.

新しい!!: 御附家老と水野忠成 · 続きを見る »

水野分長

水野 分長(みずの わけなが、永禄5年(1562年) - 元和9年3月1日(1623年3月31日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。尾張緒川藩主。三河新城藩の初代藩主。新城城主。水野忠分の長男。弟に水野重央がいる。正室は山口重勝の娘。子は水野元綱(長男)。官位は従五位下、備後守。弾正忠。.

新しい!!: 御附家老と水野分長 · 続きを見る »

水野重央

水野 重央(みずの しげなか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。紀伊新宮藩(紀州藩附家老)初代藩主。水野忠分の三男。官位は従五位下対馬守。諱は初め重信(しげのぶ)を名乗り、のち重央、次いで重仲(しげなか)に改めたとされる。.

新しい!!: 御附家老と水野重央 · 続きを見る »

水野重良

水野 重良(みずの しげよし)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第2代藩主。官位は従五位下淡路守。諱は初め重種(しげたね)を名乗り、のち忠吉(ただよし)、次いで重良に改めたとされる。 正室は山川藩主・水野忠元の娘。子に重上(長男)、良全(次男)、重孟(三男)、重時(四男)、三宅良寛(五男)、娘(大関増周室のち八木高豊継室)、娘(一色直房正室)、尼となって鎌倉の高松寺を開山した日隆尼や常栄寺を開基した日祐尼などの娘多数。.

新しい!!: 御附家老と水野重良 · 続きを見る »

水野氏

水野氏(みずのし)は、清和源氏を称する日本の氏族。戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び最盛期には24万石と称される勢力となった。 宗家のほか、大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏があった。宗家は徳川家康の母・伝通院の実家にあたり、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇された。『柳営秘鑑』では、岡崎譜代とされる。近世大名家を輩出した一族の一つであり、また江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続け、享保の改革や天保の改革に関与するなど、国政を握った。 幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。.

新しい!!: 御附家老と水野氏 · 続きを見る »

水戸徳川家

水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする。.

新しい!!: 御附家老と水戸徳川家 · 続きを見る »

水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

新しい!!: 御附家老と水戸藩 · 続きを見る »

永井直勝

永井 直勝(ながい なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井家宗家初代。.

新しい!!: 御附家老と永井直勝 · 続きを見る »

江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

新しい!!: 御附家老と江戸幕府 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 御附家老と江戸時代 · 続きを見る »

渡辺守綱

渡辺 守綱(わたなべ もりつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川氏の家臣。江戸幕府旗本・尾張藩付家老。三河国寺部城主。徳川十六神将の一人。.

新しい!!: 御附家老と渡辺守綱 · 続きを見る »

清水徳川家

清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に清水家とも言う。.

新しい!!: 御附家老と清水徳川家 · 続きを見る »

清洲藩

清洲藩(きよすはん)は、尾張国清洲(現在の愛知県清須市)に存在した藩。藩庁は清洲城。.

新しい!!: 御附家老と清洲藩 · 続きを見る »

朝倉宣正

朝倉 宣正(あさくら のぶまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。徳川氏の家臣で、徳川忠長の御附家老となった。遠江掛川城主であったが、あくまで忠長の家老という立場であったため、幕府からは正式な大名として認められていなかった。.

新しい!!: 御附家老と朝倉宣正 · 続きを見る »

本多富正

本多 富正(ほんだ とみまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。福井藩家老。越前府中城城主。本多重富の子。冨正とも。 徳川氏の家臣であったが、慶長6年(1601年)に徳川家康の子・結城秀康の越前入府に御附家老として従い、3代にわたって越前松平家当主に仕えた。.

新しい!!: 御附家老と本多富正 · 続きを見る »

本多忠勝

本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。.

新しい!!: 御附家老と本多忠勝 · 続きを見る »

本多重次

本多 重次(ほんだ しげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。通称は作左衛門(さくざえもん)。.

新しい!!: 御附家老と本多重次 · 続きを見る »

本多正純

本多 正純(ほんだ まさずみ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で正信系本多家宗家2代。 徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚した。.

新しい!!: 御附家老と本多正純 · 続きを見る »

本多氏

本多氏(ほんだし・ほんだうじ)は、日本の氏族の一つ。本田氏と同じ氏族であり「本多氏」と「本田氏」は同じ氏族の別表記に過ぎなかったが、いつの間にか分別されたという。 江戸時代の譜代大名・旗本家となった三河の本多氏が著名である。他に、織田伊勢守家の家臣から外様大名となった本多利久・本多利朝の一族(大和高取藩家)も存在する。.

新しい!!: 御附家老と本多氏 · 続きを見る »

本多成重

本多 成重(ほんだ なりしげ、元亀3年(1572年)- 正保4年6月23日(1647年7月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越前丸岡藩の初代藩主。徳川氏の家臣。本多重次の長男。母は鳥居忠吉の娘。正室は土岐定政の娘。子に本多重能(長男)、本多重看(次男)、本多重良(三男)、本多重方(四男)、娘(越前松平直良正室)。幼名は仙千代。通称は丹下または次郎大夫。官位は飛騨守、従五位下。.

新しい!!: 御附家老と本多成重 · 続きを見る »

成瀬正肥

成瀬 正肥(なるせ まさみつ)は、江戸時代末期の尾張藩・附家老。尾張国犬山藩9代(最後の)藩主。明治維新後、子爵。.

新しい!!: 御附家老と成瀬正肥 · 続きを見る »

成瀬正成

成瀬 正成(なるせ まさなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。犬山藩初代藩主で、尾張藩の附家老。成瀬正一の長男。母は熊谷直連の妹。通称は小吉、従五位下に叙任後は隼人正を名乗る。.

新しい!!: 御附家老と成瀬正成 · 続きを見る »

成瀬氏

成瀬氏(なるせし)は、日本の氏族のひとつ。.

新しい!!: 御附家老と成瀬氏 · 続きを見る »

明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

新しい!!: 御附家老と明治維新 · 続きを見る »

春日局

春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)宮本義己「春日の局-大奥の権化となった家光の乳母-」(『別冊歴史読本』13巻16号、1988年)、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。.

新しい!!: 御附家老と春日局 · 続きを見る »

浜松城

浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。.

新しい!!: 御附家老と浜松城 · 続きを見る »

新宮城

新宮城(しんぐうじょう)は、和歌山県新宮市にあった日本の城である。別名は丹鶴城(たんかくじょう)。また、沖見城(おきみじょう)とも称された水島 (1995)、198頁。城跡は「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定されている。.

新しい!!: 御附家老と新宮城 · 続きを見る »

新番

新番(しんばん)は、武家における警備・軍事部門(番方)の役職のひとつである。江戸時代に入って泰平の世となり、平時外出用の警備隊として新設された性格と常備兵力としての性格を持つ番方(武官)の役職である。.

新しい!!: 御附家老と新番 · 続きを見る »

慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

新しい!!: 御附家老と慶応 · 続きを見る »

慶応の改革

慶応の改革(けいおうのかいかく)は、慶応2年(1866年)以後に江戸幕府15代将軍徳川慶喜によって行われた改革。結果的には江戸幕府最後の幕政改革となった。.

新しい!!: 御附家老と慶応の改革 · 続きを見る »

慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

新しい!!: 御附家老と慶長 · 続きを見る »

1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

新しい!!: 御附家老と1600年 · 続きを見る »

1614年

記載なし。

新しい!!: 御附家老と1614年 · 続きを見る »

1618年

記載なし。

新しい!!: 御附家老と1618年 · 続きを見る »

1624年

記載なし。

新しい!!: 御附家老と1624年 · 続きを見る »

1627年

記載なし。

新しい!!: 御附家老と1627年 · 続きを見る »

1632年

記載なし。

新しい!!: 御附家老と1632年 · 続きを見る »

1729年

記載なし。

新しい!!: 御附家老と1729年 · 続きを見る »

1735年

記載なし。

新しい!!: 御附家老と1735年 · 続きを見る »

1757年

記載なし。

新しい!!: 御附家老と1757年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

付家老御付家老附家老

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »