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加賀藩

索引 加賀藩

金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。.

307 関係: 加賀国側室十村制参議吉祥寺 (文京区)堀秀政堀田正盛多賀秀種大名大坂の陣大納言大聖寺藩大政奉還天領天正外様大名奥山廻り奥村尚寛奥村庸礼奥村保命奥村修古奥村和忠奥村則友奥村則英奥村篤輝奥村煕殷奥村直温奥村隆振奥村質直奥村栄実奥村栄アキ奥村栄親奥村栄通奥村栄清奥村栄滋奥村栄明奥村栄政奥村永福奥村温良奥村有定奥村有輝奥村惇叙奥村成象奥村明敬奥村易直奥村易英奥村悳輝奥村時成家老宗谷郡...寺西秀則富山城富山県富山藩小松城小早川秀秋射水郡山崎長徳山本博文上杉氏上杉景勝不破光治不破直光中川光重七尾県七日市藩一国一城令府中三人衆今枝直規今枝直恒今枝直方今枝近義今枝重直廃藩置県会津藩会津松平家伺候席佐々成政御家門御守殿侯爵徳川家康徳川家斉徳川将軍家徳川御三家徳川氏徳川慶喜従三位化粧料北島正元北國新聞北見国児玉幸多兼六園前田吉徳前田孝友前田孝中前田孝行前田孝貞前田孝資前田孝本前田孝昌前田孝敬前田宗辰前田寄孝前田土佐守家前田利家前田利常前田利貞前田利長前田利政前田光高前田知好前田知頼前田綱紀前田直堅前田直之前田直会前田直作前田直信前田直知前田直行前田直養前田直躬前田直良前田直正前田直方前田直時前田重煕前田重靖前田重教前田長種前田治脩前田斉広前田斉泰前田慶寧国主石川県石川郡 (石川県)珠洲郡礪波郡礼文郡神祇伯神谷守孝篠原一孝篠原長次細川氏織田信長織田信雄織田秀雄織田長孝織田長益羽咋郡生駒直勝男爵畠山七人衆版籍奉還直江兼続相給白山白川伯王家百万石 (小惑星)芳春院華族青山吉次青山氏飛地親藩高島市高島郡 (滋賀県)谷田部藩豊臣秀吉豊臣秀次賤ヶ岳の戦い鳥羽・伏見の戦い鳳至郡越中国越前松平家鹿島郡黒羽織党近江国能美郡能登国赤座直保関ヶ原の戦い蓮華寺 (京都市左京区)臨済宗金沢城金沢市長尚連長善連長元寺長元連長克連長男長高連長連弘長連頼長連龍長連起長連恭長連愛長氏長成連陪臣JIS X 0212NHK出版枝幸郡松平氏村井親長村井長堅村井長家村井長世村井長在村井長穹村井長道村井長頼村井長貞村井長次村井長朝極位極官横山康玄横山任風横山忠次横山玄位横山隆平横山隆従横山隆章横山隆盛横山隆達横山隆貴横山貴林横山長知横山長隆横山長治横山正房横山政孝横山政寛横山政和横山政礼武蔵国永原孝治江戸藩邸江戸時代河北郡津田孟昭津田将順津田正忠津田正勝津田正矩津田正真津田正直津田正行津田正昭津田氏津田政本津田敬脩溶姫滋賀県朝倉氏末森城 (能登国)本多正信本多政均本多政康本多政以本多政和本多政冬本多政礼本多政行本多政養本多政質本多政重本多政長 (加賀本多家)本多政通本多政恒本多政成本多政昌本多政敏本郷 (文京区)成瀬吉正成瀬正成成瀬氏戸部新十郎明治明治維新浅野幸長斯波蕃斯波氏新川県新川郡新人物往来社日置忠治日蓮宗慶長1583年1585年1599年1600年1609年1639年1869年1871年1883年1884年 インデックスを展開 (257 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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側室

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。.

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十村制

十村制(とむらせい)は、江戸時代に加賀藩の第3代藩主前田利常が制定した農政制度で、地方の有力な農民を十村として懐柔し、いわば現場監督として利用することで、農村全体を管理監督し徴税を円滑に進める制度である。改作法施行にあたって、十村はその業務範囲を広げ、加賀藩・富山藩・大聖寺藩における農政の実務機関としての役割を十全に果たした。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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吉祥寺 (文京区)

吉祥寺(きちじょうじ)は、東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。山号は諏訪山。.

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堀秀政

堀 秀政(ほり ひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。.

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堀田正盛

堀田 正盛(ほった まさもり)は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、大政参与(御側)。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。 堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。 母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。稲葉正勝は母方の叔父にあたる。.

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多賀秀種

多賀 秀種(たが ひでたね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。堀秀重の次男。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大聖寺藩

大聖寺藩(だいしょうじはん)は、江戸時代に加賀国江沼郡にあって江沼郡及び能美郡の一部を領した藩である。加賀藩の支藩であり、石高は初め7万石、後に10万石となった。家紋は棒梅鉢。第三代藩主前田利直が宝永6年(1709年)に築いた別邸長流亭は国の重要文化財に指定されている。藩庁は大聖寺陣屋である。.

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大政奉還

大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的出来事である。 「大政奉還図」これは「10月13日に二条城において将軍・徳川慶喜が諸藩重臣に大政奉還を諮問した様子を描いた絵」であり「慶喜が明治天皇に大政を奉還している様子を描いた絵」ではない。 邨田丹陵.

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天領

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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奥山廻り

『新川郡奥山絵圖』古写図、脇坂長右衛門筆天保7年(1836)、富山県立図書館蔵 奥山廻り(おくやままわり)とは加賀藩が立山と白山の奥山での国境警備と、杉、欅、檜など重要な樹木7種(七木)の保全の為に組織した見分役である。これは十村分役の一つである山廻り役への加役または兼役として命じられたもので、独立した役名ではなく職名であり奥山廻り御用とも呼ばれる。ここでは黒部奥山(立山の奥山)での奥山廻りについて述べる。.

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奥村尚寛

奥村 尚寛 (おくむら ながのぶ、宝暦7年(1757年) - 享和3年12月24日(1804年2月5日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村家宗家第10代当主。 父は加賀藩年寄奥村隆振。養父は輇。正室は大音厚曹の娘。子は奥村栄実、横山隆盛室、前田内匠助室、中川顕忠室。通称助右衛門。官位従五位下河内守。号慎斎。.

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奥村庸礼

奥村 庸礼(おくむら やすひろ、寛永4年11月7日(1627年12月14日) - 貞享4年6月8日(1687年7月16日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第2代当主。 父は奥村和忠。母は成瀬吉正の娘。正室は横山康玄の娘。子は奥村悳輝、奥村敬興、奥村易武、東大寺金珠院住職庸性、野村敬礼、横山玄位室。幼名多宮。初名和豊。通称因幡、壱岐。号蒙窩。.

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奥村保命

奥村 保命(おくむら やすのり、享保4年1月21日(1719年3月11日) - 元文2年1月14日(1737年2月13日))は、加賀八家奥村分家第6代当主。 父は奥村温良。母は前田孝行の娘。兄弟は奥村修古、奥村易直、奥村煕殷。通称数馬。.

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奥村修古

奥村 修古(おくむら しゅうこ、享保8年(1723年) - 寛延3年8月21日(1750年9月21日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村家宗家第8代当主。 父は加賀藩年寄奥村温良、又は第5代奥村時成の子奥村自連。養父は奥村有定。正室は前田孝資の娘。子は輇。小源太、助右衛門。官位は従五位下丹後守。.

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奥村和忠

奥村 和忠 (おくむら かずただ、慶長8年3月27日(1603年5月8日) - 寛永16年10月27日(1639年11月22日))は、加賀藩加賀八家奥村家分家嫡男。 父は加賀藩年寄奥村易英。弟は奥村易貞。正室は成瀬吉正の娘。子は奥村庸礼。通称主殿、初名栄之。.

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奥村則友

奥村 則友(おくむら のりとも、天保13年1月23日(1842年3月4日) - 明治20年(1887年)10月9日)は、幕末の加賀藩士。加賀八家奥村分家第15代当主。明治期に華族に列する。 父は加賀藩年寄奥村惇叙。母は横山隆盛の娘。子は奥村則英室。養子は奥村則英。初名外與吉。別名他見男。家紋は「丸ノ内九枚笹」。.

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奥村則英

奥村 則英(おくむら のりひで、1865年3月12日(慶応元年2月15日『平成新修旧華族家系大成』上巻、374-375頁。) - 1930年(昭和5年)7月15日) は、元加賀八家奥村分家第16代当主。男爵。 父は加賀藩士奥村英章。養父は奥村則友。先妻は奥村則友の娘峯。後妻は不破為則の娘鈴。子は奥村内膳。初名乙菊。家紋は「丸ノ内九枚笹」。.

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奥村篤輝

奥村 篤輝(おくむら あつてる、嘉永5年10月24日(1852年12月5日) - 明治2年4月27日(1869年6月7日))は、幕末の加賀藩重臣。加賀八家奥村分家第14代当主。 父は加賀藩年寄奥村直温。養子は奥村則友。幼名福松。通称左京。.

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奥村煕殷

奥村 煕殷(おくむら ひろたか、享保15年(1730年) - 延享3年10月6日(1746年11月18日))は、加賀藩重臣。加賀八家奥村分家第8代当主。 父は加賀藩年寄奥村温良。兄は奥村保命、奥村修古、奥村易直。養子は奥村成象。通称喜十郎、内記。.

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奥村直温

奥村 直温(おくむら なおはる、天保2年10月5日〈1831年11月8日〉 - 元治元年5月7日〈1864年6月10日〉)は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第13代当主。 父は奥村惇叙。母は横山隆盛の娘。子は奥村篤輝。通称内膳。.

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奥村隆振

奥村 隆振(おくむら たかおき)は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第10代当主。.

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奥村質直

奥村 質直(おくむら ただなお、明和4年(1767年) - 文化14年6月8日(1817年7月21日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第11代当主。 父は奥村隆振。子は奥村惇叙、奥村栄通、村井長貞。幼名伊助。通称左京。初名正直。.

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奥村栄実

奥村 栄実(おくむら てるざね、寛政4年(1792年) - 天保14年8月9日(1843年9月2日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村宗家第11代当主。国学者。 父は奥村尚寛。母は大音厚曹の娘。子は奥村栄親、前田直良室。通称儀十郎、助右衛門。初名為質。官位は従五位下伊予守、丹後守。.

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奥村栄アキ

奥村 栄(おくむら よしあき、延享元年(1744年)- 明和元年12月29日(1765年1月20日))は、加賀八家奥村家宗家第9代当主。 父は加賀藩年寄奥村修古。母は前田孝資の娘。正室は前田直躬の娘。養子は奥村尚寛。幼名豊次郎。通称助右衛門。 1744年(延享元年)加賀藩年寄奥村修古の子として金沢に生まれる。1754年(宝暦4年)父修古の死去により家督と1万7000石の知行を相続。1764年(明和元年)12月29日没。享年21。家督は分家奥村隆振の次男尚寛が末期養子となって相続した。 よしあき Category:加賀藩士 Category:1744年生 Category:1765年没.

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奥村栄親

奥村 栄親(おくむら てるちか、文政8年11月13日(1825年12月22日) - 天保15年9月5日(1844年10月16日))は、加賀藩人持組頭加賀八家奥村宗家第12代当主。 父は奥村栄実。養子は奥村栄通。幼名元松丸、純松丸。通称助十郎。 文政8年(1825年)加賀藩家老奥村栄実の子として金沢に生まれる。天保14年(1843年)父栄実の死去により家督と遺知1万7000石を相続。天保15年(1844年)9月5日没。享年20。家督は分家奥村質直の八男栄通が末期養子となって相続した。.

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奥村栄通

奥村 栄通(おくむら てるみち、文化9年7月20日(1812年8月26日) - 明治10年(1877年)3月30日)は、加賀藩年寄。加賀八家奥村宗家第13代当主。 父は奥村質直。養父は奥村栄親。子は奥村栄滋、前田孝敬(豊)室従。幼名竹麻呂。通称織人、初名従之。助右衛門。号竹麻呂。官位は従五位河内守、伊予守。.

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奥村栄清

奥村 栄清(おくむら はるきよ、慶長19年(1614年) - 寛文11年10月18日(1671年11月19日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村宗家第4代当主。父は前田家家老奥村栄政。母は富田重政の娘。正室は前田知好の娘。子は奥村時成。通称玄蕃、河内、伊予。.

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奥村栄滋

奥村 栄滋(おくむら てるしげ、嘉永6年9月7日(1853年10月9日) - 大正12年(1923年)3月17日)は、加賀八家奥村宗家第14代当主、男爵、金沢市長。 父は加賀藩年寄奥村栄通。妻は前田恒敬の娘。子は奥村栄同。通称義十郎。家紋は「丸ノ内九枚笹」。.

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奥村栄明

奥村 栄明 (おくむら はるあき、永禄11年(1568年) - 元和6年5月20日(1620年6月20日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏の家臣、加賀藩年寄。加賀八家奥村宗家第2代当主。奥村永福の子。兄弟は奥村易英、奥村栄頼。正室は山崎長徳の娘・亀、継室は高畠定吉の娘。子は奥村栄政、近藤甲斐光賀室。通称は孫十郎、助十郎、織部。官位は従五位河内守。.

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奥村栄政

奥村 栄政(おくむら はるまさ、天正18年(1590年) - 慶安5年8月14日(1652年9月16日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村宗家第3代当主。 父は前田家家老奥村栄明。母は山崎長徳の娘亀。正室は富田重政の娘。子は奥村栄清、奥村栄従、奥村栄張、奥村栄相、堀七兵衛室。通称玄蕃、河内。官位は従五位下河内守。 天正18年(1590年)前田家家老奥村栄明の嫡男として、外祖父山崎長徳の居城放生津城で生まれる。慶長19年(1614年)大坂冬の陣、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に父に従い出陣し先鋒を務める。元和6年(1620年)父栄明の死去により家督と知行1万3650石を相続。金沢城城代を務めた。元和9年(1623年)藩主前田利常が将軍徳川秀忠に従って上洛した際に供をする。寛永3年(1626年)利常の長女鶴姫が将軍徳川家光の養女として森忠広に嫁ぐこととなり、結納の儀式の為に江戸に下向、江戸城で将軍家光と大御所秀忠に拝謁する。同年藩主利常が将軍家光に従って上洛した際に供をし、後水尾天皇の二条城行幸に際して、大路の警護に当たる。寛永20年(1643年)11月世子綱紀誕生の際に蟇目役を務めた。慶安5年(1652年)8月14日没。享年63。.

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奥村永福

奥村 永福(おくむら ながとみ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏の家臣。通称は助十郎、助右衛門。別名は家福。官位は伊予守。快心と号した。妻は安(つね、加藤氏娘)。子に栄明、易英、栄頼。なお、漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』の影響で奥村助右衛門という名前で呼ばれることも多い。.

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奥村温良

奥村 温良 (おくむら はるよし、元禄6年2月26日(1693年4月1日) - 元文元年10月4日(1736年11月6日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第5代当主。 父は奥村悳輝。兄弟は奥村明敬、横山貴林、奥村有定。正室は前田孝行の娘。子は奥村保命、奥村修古、奥村易直、奥村煕殷。幼名茂松。通称数馬、内記。.

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奥村有定

奥村 有定(おくむら ありさだ、元禄10年〈1697年〉 - 元文2年2月26日〈1737年3月26日〉)とは、加賀藩年寄。加賀八家奥村家宗家第七代当主。.

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奥村有輝

奥村 有輝 (おくむら ありてる、延宝7年〈1679年〉 - 享保15年12月5日〈1731年1月12日〉)とは、加賀藩年寄。加賀八家奥村家宗家第六代当主。.

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奥村惇叙

奥村 惇叙(おくむら あつのぶ、享和2年11月22日(1802年12月16日) - 弘化3年9月27日(1846年11月15日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第12代当主。 父は奥村質直。正室は横山隆盛の娘。子は奥村直温、奥村則友。幼名磯吉。通称内膳。.

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奥村成象

奥村 成象(おくむら なりかた、元禄16年(1703年) - 寛延2年3月27日(1749年5月13日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第9代当主。 父は奥村忠順。祖父は初代奥村易英の次男奥村又十郎易貞。養子は奥村隆振。通称内膳。.

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奥村明敬

奥村 明敬 (おくむら あきよし、天和元年11月22日(1681年12月31日) - 宝永3年3月15日(1706年4月27日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第4代当主。 父は奥村悳輝。母は品川雅直の娘。兄弟は奥村温良、横山貴林、奥村有定。幼名茂松。通称兵部。字存義。号誠斎、稽善、憲章。.

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奥村易直

奥村 易直 (おくむら やすなお、享保13年(1728年) - 寛保3年6月18日(1743年8月7日)) は、加賀藩加賀八家奥村分家第7代当主。 父は奥村温良。兄弟は奥村保命、奥村修古、奥村煕殷。幼名丹三郎。通称兵部。別名端則。.

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奥村易英

奥村 易英(おくむら やすひで、元亀2年(1571年) - 寛永20年12月21日(1644年1月30日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家初代当主。父は奥村永福。兄弟は奥村栄明、奥村栄頼。正室は横山長隆の娘。子は奥村和忠、奥村易貞、篠原監物重好室、多賀左兵衞秀識室。養子に奥村正富。初名栄卿。幼名は又十郎。通称は主殿、備後、因幡。.

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奥村悳輝

奥村 悳輝(おくむら やすてる、承応2年10月5日(1653年11月24日) - 宝永2年閏4月20日(1705年6月11日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第3代当主。 父は奥村庸礼。母は横山康玄の娘。正室は品川雅直の娘。子は奥村明敬、奥村温良、横山貴林、奥村有定。幼名千松。初名和広、和長、和貴。通称大蔵、兵部、因幡、壱岐。号澗宇。.

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奥村時成

奥村 時成(おくむら ときなり、正保元年〈1644年〉 - 元禄5年12月20日〈1693年1月25日〉)とは、加賀藩年寄。加賀八家奥山家宗家第五代当主。.

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家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.

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宗谷郡

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寺西秀則

寺西 秀則(てらにし ひでのり、? - 慶長16年(1611年))は、戦国時代の武将。織田、前田家臣。通称治兵衛、宗与と号す。 寺西氏は桓武平氏千葉一族という。秀則は石見守秀之の子として尾張国荒子に生まれた。織田信長に仕え佐久間信盛の与力とされ、野洲川の戦い、姉川の戦いで功を顕し近江石部城主となる。天正3年、長篠の戦いで重傷を負った。その後石山合戦に従軍したが、信盛の失脚に秀則も連座して追放された。秀則は佐渡国を目指して落ち行く途上、能登国七尾で同郷の前田利家に慰留され、信長横死後に5千俵を給され臣下となった。その後賤ヶ岳の戦い、末森城の戦いに従軍、加賀松任城代を務め、累功によって5千石を領した。慶長16年死去。子孫は加賀藩士として続いた。弟・清左衛門之政は滝川一益、織田信雄に仕えたのち、天正19年、浅野長政に1500石をもって仕え、子孫は安芸広島藩士となっている。 Category:戦国武将 Category:加賀藩士 Category:生年不明 Category:1611年没.

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富山城

富山城(とやまじょう)は、富山県富山市丸の内にあった日本の城である。「浮城(うきしろ)」「安住城(あずみじょう)」ともいわれた。続日本100名城の一つである。.

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富山県

富山県(とやまけん)は、日本の都道府県の一つ。中部地方の日本海側、北陸地方のほぼ中央に位置する。県庁所在地は富山市。.

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富山藩

富山藩(とやまはん)は、江戸時代に越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有した藩である。石高は10万石、加賀藩の支藩であった。藩主は前田氏で家格は従四位下・大広間詰・外様・城主。藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗藩の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。.

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小松城

小松城(こまつじょう)は、石川県小松市丸の内町にあった日本の城。.

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小早川秀秋

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.

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射水郡

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山崎長徳

山崎 長徳(やまざき ながのり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。.

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山本博文

山本 博文(やまもと ひろふみ、1957年2月13日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.351 - )は、日本の歴史学者。東京大学大学院情報学環教授、史料編纂所教授。日本近世史専攻。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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上杉景勝

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.

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不破光治

不破 光治(ふわ みつはる、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏・織田氏の家臣。不破直光(勝光)、不破源六の父。太郎左衛門尉・河内守。.

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不破直光

不破 直光(ふわ なおみつ、生年不詳 - 慶長3年8月15日(1598年9月15日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏・織田氏・前田氏の家臣。通称は彦三。諱は勝光とも。不破光治の子。正室は北畠具教の息女。.

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中川光重

中川 光重(なかがわ みつしげ、永禄5年(1562年) - 慶長19年11月21日(1614年12月21日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。織田氏、前田氏の家臣。中川重政の子。妻は利家の次女・簫姫(瑞雲院)。通称は清六郎。出家後は宗半、巨海斎と号したため、中川宗半の名で知られる。.

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七尾県

七尾県(ななおけん)は、1871年(明治4年)に能登国全域と越中国西部を管轄するために設置された県。現在の石川県能登半島、富山県西部にあたる。.

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七日市藩

七日市藩(なのかいちはん)は、上野甘楽郡(現在の群馬県富岡市七日市)に存在した藩。藩庁は七日市陣屋(現在、跡地は群馬県立富岡高等学校となっている)。遺構として正面玄関付近1棟、中門1棟が現地に現存する。以下はすべて個人宅に移築されている。大手門(下仁田町)、裏門(富岡市七日市)、伝承南門(富岡市内)である。.

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一国一城令

伊予国 松山城本壇(天守丸) 一国一城令(いっこくいちじょうれい)は慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)に江戸幕府が制定した法令である。諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じたもの。.

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府中三人衆

府中三人衆(ふちゅうさんにんしゅう)は、戦国時代に織田政権において越前国に封ぜられた柴田勝家の与力として、同国府中一帯を治めた不破光治・佐々成政・前田利家の3人を指した呼称。.

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今枝直規

今枝 直規(いまえだ なおのり、1870年8月17日(明治3年7月21日『平成新修旧華族家系大成』上巻、198-199頁。)- 1942年(昭和17年)2月3日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』64頁。)は、明治から昭和期の山林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。.

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今枝直恒

今枝 直恒(いまえだ なおつね、天正15年(1587年) - 慶安4年12月17日(1652年1月27日))は、加賀藩の家老。 父は池田家家老日置忠勝。母は今枝忠光の娘。伯父前田家家老今枝重直の養子。幼名阿萬。通称民部。号紹鉄。正室は前田長種の娘。子は日置忠隆、今枝直好、今枝近義、日置忠治、前田直玄、横山康玄室。 天正15年(1587年)池田輝政家老日置忠勝の五男として誕生。慶長3年(1598年)12歳で母の兄今枝重直の養子となり前田利長、利常に仕える。慶長8年(1603年)17歳で大坂冬の陣に前田知好に従い出陣。大坂夏の陣には父と共に出陣した。 元和3年(1617年)、将軍秀忠、家光親子の加賀藩邸御成りの際に拝謁。父重直の隠居により父の禄高と合わせて7000石を知行する。元和9年(1623年)世子光高の守役となる。寛永16年(1639年)光高が藩主となると加増されて1万1000石となる。 正保2年(1645年)光高の臨終に際して、世子綱紀の守役を命じられる。慶安元年(1648年)加増を受け1万2500石となる。慶安4年(1651年)12月17日没。享年65。 長男忠隆は、直恒の兄日置忠俊の養子となるも、養父に先立ち31歳で没した。忠隆の娘は横山忠次に嫁いでいる。次男直好は19歳で夭折。三男近義が直恒の家督を相続した。四男直玄は、前田利家の娘福(高源院)の名跡を継いで前田姓を名乗った。五男忠治は兄忠隆に代わって忠俊の養子となり家督を継いだ。.

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今枝直方

今枝 直方(いまえだ なおかた、承応2年(1653年)- 享保13年(1728年)11月)は、加賀藩の家老。 父は岡山藩家老日置忠治。伯父加賀藩家老今枝近義の養子。通称八右衛門、内記、民部。正室は祖心尼養女(中川氏)。子は今枝直温、養子は今枝恒明、今枝直道。 日置忠治の五男として誕生。寛文8年(1668年)16歳で加賀に移り伯父近義の養子となる。延宝3年(1675年)父の隠居に際して知行1万1000石を相続する。延宝7年(1679年)近義の死去に際し、その隠居料3000石も相続し合わせて1万4000石となる。 享保5年(1720年)家老となり、世子前田吉徳の守役となる。享保8年(1723年)6月藩主前田吉徳の家督相続の御礼言上の際に江戸城で将軍徳川吉宗に拝謁する。享保13年(1728年)11月没。享年76。「新山田畔書」「重輯雑談」「温故雑録」「高卑雑談」等数百巻の著作を残した。 宝永2年には加賀藩士諸家の由来を集めた「当邦諸侍系図」全三冊を編纂する(自筆現存)。また、人持組頭・人持組・諸組頭の由緒を集めた「諸士由緒帳」全5冊も直方の編纂とされている。 家督は、嫡子直温に先立たれたため、兄の岡山藩家老日置忠明の五男恒明を養子に迎えるも不行跡のために廃嫡し、改めて姪孫前田修理知久の次男直道を養子に迎え、跡を継がせた。.

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今枝近義

今枝 近義(いまえだ ちかよし、慶長19年(1614年) - 延宝6年12月29日(1679年2月10日))は、加賀藩の家老。 父は加賀藩家老今枝直恒。幼名阿萬。通称弥平次、民部。諱は直治、直賢、直友。号は信斎。正室は篠原長次の娘。養子は今枝直方、前田知臣室(実日置忠治の娘)。 慶長19年(1614年)今枝直恒の三男として誕生。寛永5年(1628年)祖父重直の死去により、その隠居料500石を賜る。寛永12年(1635年)元服。寛永19年(1642年)宗門奉行。慶安5年(1652年)父直恒の死去により遺領1万2500石を相続。 加賀藩家老、藩主前田綱紀の守役となる。祖父から相続した500石は弟直玄に賜う。明暦3年(1657年)明暦の大火の際に、江戸藩邸の藩士を指揮して防火に務める。寛文2年(1662年)1500石加増。祖父重直の菩提を弔うために蓮華寺を再興する。寛文7年(1667年)病のために家老を辞職。延宝3年(1675年)隠居して養子直方(実弟岡山藩家老日置忠治の五男)に家督を譲る。延宝6年(1678年)12月29日死去。享年65。.

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今枝重直

今枝 重直(いまえだ しげなお)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、前田氏の家臣。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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会津藩

若松城 会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。.

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会津松平家

会津松平家(あいづまつだいらけ)は、江戸時代に陸奥国会津を治めた松平氏の一支系で、親藩・御家門の一つ。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の四男保科正之を家祖とする会津藩の藩主家。.

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伺候席

伺候席(しこうせき)とは、江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席のこと。殿席、詰所とも。.

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佐々成政

佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。.

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御家門

御家門(ごかもん)は、名家の一族を指す。単に家門ともいう。 江戸時代においては、親藩の中で、特に徳川将軍家の一族及び徳川家康の兄弟の家系の大名家、旗本家を指していう。御家門は家康の元の姓である松平姓を名乗ることを許された。御家門筆頭の越前松平家をはじめとして、御家門の多くは幕府の役職につくことはなく、将軍家の一門としての格式を重んじられた。.

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御守殿

御守殿(ごしゅでん)は、江戸時代において、三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘の敬称である。また、その居住する奥御殿を指す。他に、御守殿に仕えた女中とその髪結い、服装などの風俗(御守殿風)をも指す。.

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侯(こう)は、封建制において特定の領域を支配する封建領主や、その爵位の一種をあらわす漢語である。日本の人物に対しては、大名、藩主のことを指して使われた。 漢字の成り立ちは、もともと旁が幕に矢が刺さるさまを示した文字で矢の的を意味した文字で、侯の字はそれに「人」の字を加えることで、弓矢を持って王の周りを固める近衛の兵士をあらわしたものである。 転じて、侯は王に近侍する重臣や、王の支配する国の周囲を固める地方支配者に対して授けられる称号となった。しかし、後述するように東アジア以外の地域の王侯貴族の称号として侯を使う場合には、必ずしも王の臣下ではない者の称号の訳語として侯が使われることもある。.

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侯爵

侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川御三家

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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化粧料

化粧料(けしょうりょう/けわいりやう)は江戸時代に女性が嫁ぐ際に取り交わされた持参金や土地・権利。または中世に女性が生前に許された相続財産。.

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北島正元

北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。.

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北國新聞

北國新聞社の本社ビル「北國新聞会館」 北國新聞(ほっこくしんぶん)は、石川県金沢市に本社を置く株式会社北國新聞社が発行する地方紙である。.

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北見国

北見国(きたみのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。「北見」の名は、過去のこの地域の通称「北海岸」と快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつをとって松浦武四郎が命名したもの。道北から道東にかけて位置し、領域は現在の北海道オホーツク総合振興局管内及び宗谷総合振興局管内のうち幌延町と豊富町をのぞいた部分にあたる。設置当初は釧路国の網尻郡(現在のオホーツク総合振興局管内のうち美幌町と津別町にあたる部分と大空町の一部)は含まれなかった。.

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児玉幸多

児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた文学博士。学習院大学名誉教授、学習院大学元学長、学習院女子短期大学元学長、品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。.

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兼六園

兼六園(けんろくえん)は、石川県金沢市にある日本庭園である。国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタール。 17世紀中期、加賀藩により金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の一つに数えられている。2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』には最高評価の3つ星に選ばれた。兼六園の名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用して、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した。春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日本さくら名所100選にも選ばれている。金沢市の中心部に位置し、周辺には成巽閣、石川県立美術館、金沢21世紀美術館、石川県政記念しいのき迎賓館などの観光地があり、道路(百間堀通り)を隔てて橋一本で金沢城公園とも繋がっている。入園は後楽園、栗林公園と同じく有料となっているが、早朝や年末年始・観桜期・金沢百万石まつりの日・お盆・文化の日などの時期は無料開放されている。.

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前田吉徳

前田 吉徳(まえだ よしのり)は、加賀藩の第5代藩主。加賀前田家6代。先代藩主前田綱紀の三男。母は側室の預玄院(町、三田村氏)。前田利常と徳川頼房の曾孫にあたる。.

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前田孝友

前田 孝友(まえだ たかとも、宝暦9年7月8日(1759年7月31日) - 天保3年5月25日(1832年6月23日))は、加賀藩年寄。加賀八家前田対馬家8代当主。 父は前田孝昌。子は前田孝本。通称与十郎、大炊。官位は従五位下、伊勢守。.

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前田孝中

前田 孝中(まえだ たかなか、天保10年12月6日(1840年1月10日) - 安政4年2月29日(1857年3月24日))は、加賀藩重臣。加賀八家前田対馬家10代当主。 父は加賀藩年寄前田孝本。養子は前田孝敬。幼名菊丸。通称菊之丞、大炊。.

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前田孝行

前田 孝行(まえだ たかゆき、寛文3年10月17日(1663年11月16日) - 享保6年9月14日(1721年11月3日))は、加賀藩大年寄。加賀八家前田対馬家5代当主。 父は加賀藩年寄前田孝貞。兄弟は前田孝和、小幡長時、前田孝近。子は前田孝資、村井長堅、前田孝寧、前田孝覩、三条西公福室(前田綱紀養女)、奥村温良室。幼名萬勝。通称与十郎、対馬。官位は従五位下、美作守。名は行孝とも。.

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前田孝貞

前田 孝貞(まえだ たかさだ、寛永5年(1628年)4月 - 宝永4年8月19日(1707年9月14日))は、加賀藩大年寄。加賀八家前田対馬家4代当主。 父は加賀藩人持組頭前田直正。母は安見元勝の娘。正室は本多政重の娘。子は前田孝行、前田孝和、小幡長時、前田孝近、本多政敏室。幼名長松。通称対馬、佐渡。官位は従五位下、駿河守。.

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前田孝資

前田 孝資(まえだ たかすけ、天和3年7月4日(1683年8月25日) - 宝暦3年3月9日(1753年4月12日))は、加賀藩年寄。加賀八家前田対馬家6代当主。 父は加賀藩年寄前田孝行。正室は前田綱紀の娘豊姫。子は前田孝昌、今枝直郷、村井長穹。通称市之助、大炊。官位は従五位下、対馬守。.

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前田孝本

前田 孝本(まえだ たかもと、文化5年4月8日(1808年5月3日) - 安政3年9月12日(1856年10月10日))は、加賀藩年寄。加賀八家前田対馬家9代当主。 父は加賀藩年寄前田孝友。子は前田孝中。養子は前田本文。幼名豊之助。通称大炊。官位は従五位下、美作守。.

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前田孝昌

前田 孝昌(まえだ たかまさ、享保8年10月10日(1723年11月7日) - 安永6年9月16日(1777年10月16日))は、加賀藩年寄。加賀八家前田対馬家7代当主。 父は加賀藩年寄前田孝資。弟は今枝直郷、村井長穹。子は前田孝友。通称与十郎、大炊。官位は従五位下、駿河守。.

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前田孝敬

前田 孝敬(まえだ たかのり、弘化4年11月14日(1847年12月21日) - 明治21年(1888年)1月5日)は、加賀藩重臣。加賀八家前田対馬家11代当主。 父は加賀家老前田孝備。正室は奥村栄通の娘。子は前田孝。幼名健之助。通称與十郎、弾番。家紋は「角ノ内梅鉢」。.

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前田宗辰

前田 宗辰(まえだ むねとき、享保10年4月25日(1725年6月5日) - 延享3年12月8日(1747年1月18日))は、加賀藩の第6代藩主。加賀前田家7代。先代藩主前田吉徳の長男。母は側室の浄珠院(以与・上坂氏)。幼名は勝丸、犬千代。通称は又左衛門。初名は利勝(としかつ)。正室は会津藩主松平正容の娘・常姫(梅園院)。続く4代の藩主重煕、重靖、重教、治脩の異母兄・長兄にあたる。.

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前田寄孝

前田 寄孝(まえだ よりたか、寛永6年(1629年)- 元禄12年6月18日(1699年7月14日))は、七日市藩初代藩主前田利孝の三男。『寛政重修諸家譜』によれば利世。主膳、大膳。加賀藩4代藩主前田光高に藩主一門として召抱えられ、3000石と上屋敷と下屋敷を拝領する。前田監物家の祖。廃藩まで代々人持組として仕えた。法名は碧雲院殿。.

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前田土佐守家

前田土佐守家(まえだとさのかみけ)は、前田利家の二男前田利政を家祖とする加賀藩重臣の家系である。大名であった利政は、関ヶ原の戦いでは東軍への出兵を拒否したことにより改易となった。直之の代に前田利常に仕えて加賀八家の筆頭となり、以後、代々筆頭重臣の地位を占めた(加賀八家は家老ではなく、より格上の存在である)。家禄は1万1,000石であり、加賀八家の中で最も少ない。 土佐守家は、藩主家の前田氏や、同じく加賀藩重臣で藩祖利家の女婿でもある前田長種を祖とする前田氏との区別の為もあり、歴代当主の内4人が土佐守を叙任されていることに因んで称され、別に「直之系前田家」とも称される。近江国にあった芳春院の化粧領を知行地としたため、近江守に叙任されることもあった。定紋は「瓜輪に梅鉢」。明治に至り、直行が男爵を授けられて華族に列した。現在も家系は存続している。.

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前田利家

前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。.

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前田利常

前田 利常(まえだ としつね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩第2代藩主。加賀前田家3代。.

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前田利貞

前田 利貞(まえだ としさだ、慶長3年3月16日(1598年4月21日)- 元和6年8月2日(1620年8月29日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。前田利家の六男、母は側室・逞正院(阿千代。越前葛野坊円福寺の五女)。幼名は乙松丸、後に七兵衛、備前、利豊。子女は前田貞里。 利家の近習であった神谷守孝に養育され、神谷氏を称す。1611年(慶長16年)11月に衣服領500石を賜い前田氏に改める。大坂の陣に従軍し、特に大坂冬の陣では兄・前田知好の陣に属し、功により5000石を加増される。両陣とも直接戦闘には参加せず、後方支援だった。1618年(元和3年)には徳川秀忠に拝謁し、御服を賜う。しかし、大坂の陣で登用した家臣を養うのが困難なほど困窮し、1620年(元和6年)6月に食録返上を願い出、同年8月に死去した。墓は金沢の野田山墓地。法名は江月院照嶺永秋大居士。 としさた Category:1598年生 Category:1620年没 ---- 前田 利貞(まえだ としさだ、宝暦5年12月21日(1756年1月22日) - 宝暦9年12月25日(1760年2月11日))は、江戸時代前期の人物。大聖寺藩第5代藩主・前田利道の長男。母は前田利隆の娘。幼名は亀丸。加賀大聖寺藩の嫡子として生まれたが、1759年(宝暦9年)に夭逝した。 Category:大聖寺藩の人物 Category:1756年生 Category:1760年没.

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前田利長

前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は篠原一計の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589年)頃に利長と改名する。若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。.

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前田利政

前田 利政(まえだ としまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。前田利家の次男、母はまつ。.

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前田光高

前田 光高(まえだ みつたか)は、加賀藩の第3代藩主。加賀前田家4代。第2代藩主前田利常の長男。母は第2代将軍徳川秀忠の娘・珠姫(天徳院)。正室は第3代将軍徳川家光の養女で水戸藩主徳川頼房の娘・大姫。徳川家康の外曾孫で、藩祖前田利家の嫡孫である。 子に前田綱紀(長男、初め綱利)、万菊丸(次男)。幼名は犬千代(いぬちよ)。初名は利高(としたか)。.

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前田知好

前田 知好(まえだ ともよし、天正18年12月8日(1591年1月3日) - 寛永5年6月23日(1628年7月24日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。前田利家の三男、母は利家側室の在(金晴院)。初名は利包(としかね)。通称は三九郎、修理。2度目の出家後は、有庵と号す。子女は前田好次(よしつぐ)、前田知辰(ともたつ)、前田辰正(たつまさ)。.

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前田知頼

前田 知頼 (まえだ ともより、寛文2年(1662年) - 寛保2年3月19日(1742年4月23日)) は、加賀藩家老。人持組前田修理家第4代。 父は前田知臣。母は今枝近義の養女(日置忠治の娘)。正室は奥村悳輝の娘。子は前田知久、大槻朝元室。通称萬之助、修理、斎宮。号秋庵。.

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前田綱紀

前田 綱紀(まえだ つなのり)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家5代。先代藩主前田光高の長男。母は徳川家光の養女・水戸藩主徳川頼房の娘、清泰院。.

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前田直堅

前田 直堅(まえだ なおかた、天和3年5月17日(1683年6月11日) - 享保14年8月9日(1729年9月1日))は江戸時代の人物。加賀八家筆頭前田土佐守家の4代目当主。父は土佐守家3代・前田直作。兄弟は兄二人が確認されている。子は土佐守家5代・前田直躬、大音厚曹など。官位は従五位下近江守。直堅関係の現存する記録は石川県史に二点が確認できる。.

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前田直之

前田 直之(まえだ なおゆき、慶長9年3月9日〈1604年4月8日〉 - 延宝2年10月18日〈1674年11月15日〉)は、江戸時代前期の加賀藩前田氏の家臣。前田利政の長男。前田土佐守家の2代当主。母は側室嶺雲院。幼名は又若。初名は利直、後に政之。通称は肥後、三左衛門。子は前田直作など。.

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前田直会

前田 直会(まえだ なおより、弘化4年8月24日(1847年10月3日) - 安政3年2月13日(1856年3月19日))は、江戸時代後期の加賀八家筆頭前田土佐守家の第9代当主で、第8代当主前田直良の養子。実父は加賀藩13代藩主前田斉泰。母の名は不明。通称は静之介。旧字体表記は直會。 わずか1歳にして直良の養子となり、養父よりさらに幼い5歳にして家督を継承する。1856年、10歳で夭折した。 Category:加賀藩士 なおより なおより Category:1847年生 Category:1856年没.

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前田直作

前田 直作(まえだ なおなり、寛永19年2月2日(1642年3月2日) - 元禄2年4月9日(1689年5月27日))は、江戸時代前期の加賀藩の加賀八家筆頭前田土佐守家の3代目当主。父は土佐守家2代・前田直之。母は直之正室・国(小幡氏)。子は4代・前田直堅、本多政質室。通称備後。 延宝7年(1679年)付けの知行充行状が現存する。貞享3年(1686年)、藩主前田綱紀が加賀八家の制を制定すると同時にこの筆頭となり人持組頭に就任した。 Category:加賀藩士 なおなり category:1642年生 category:1689年没.

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前田直信

前田 直信(まえだ なおのぶ、天保12年閏1月5日(1841年2月25日) - 明治12年(1879年)12月9日)は、幕末の加賀藩における加賀八家筆頭前田土佐守家の第10代当主。第8代当主前田直良の長男。母は篠井氏。子は前田信兆、前田直行。 嫡男であったが、藩主前田斉泰の子静之介が養子として入ってきたため、母の実家に養子に出される。1856年、元服して前田直会と名乗っていた静之介が亡くなったため、呼び戻され家督を相続する。藩主斉泰が将軍徳川家茂に供奉して上洛する際には供を務めたり、京都守衛の藩兵を率いて上洛した。率兵上洛時には正確な情勢認識のもと文書を出しており、家臣に対しても町人とのトラブルを避けるよう注意を喚起している。 大政奉還後は加賀藩大参事、明治維新後は尾山神社の祀官となり祖霊に仕えた。 Category:幕末加賀藩の人物 なおのふ Category:1841年生 Category:1879年没.

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前田直知

前田 直知(まえだ なおとも、天正14年(1586年) - 寛永7年9月23日(1630年10月28日))は、加賀藩人持組頭。加賀八家前田対馬守家第2代当主。 父は前田長種。母は前田利家の長女幸姫。弟は前田長時。正室は前田利長の養女牧村氏(祖心尼)、継室は前田利長の養女(長連龍の娘)竹(久香院、求光院)。子は前田直正、前田直成、前田恒知。幼名は長松。通称は美作、内記。.

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前田直行

前田 直行(まえだ なおつら、慶応2年9月7日(1866年10月15日) - 昭和18年(1943年)3月10日)は、明治・大正期の華族。前田土佐守家の第11代当主。.

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前田直養

前田 直養(まえだ なおやす、安永元年(1772年)12月 - 文化2年5月29日(1805年6月26日))は、加賀藩の藩士。加賀八家筆頭前田土佐守家の6代目当主前田直方の四男。幼名は内匠助。 寛政10年(1798年)7月6日に新知2,500石を受けるが、文化2年(1805年)5月29日、父に先立ち家督を継がずして34歳で亡くなった。法号は孝順院。土佐守家の家督は子の主税が継承した。.

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前田直躬

前田 直躬(まえだ なおみ、正徳4年(1714年)3月 - 安永3年4月3日(1774年5月13日))は江戸時代の人物。加賀八家筆頭前田土佐守家の5代目当主。通称は主税。官位は従五位下土佐守。父は土佐守家4代・前田直堅。子は土佐守家6代・前田直方、次男前田直央(大学)、四男前田直賢、奥村栄輇室。.

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前田直良

前田 直良(まえだ なおさだ、文政3年10月12日(1820年11月17日) - 嘉永4年4月6日(1851年5月6日))は江戸時代の人物。加賀八家筆頭前田土佐守家の8代目当主。父は7代目当主前田直時。母の名は不明。長男は前田直信。幼名は初丸。正室は奥村栄実の娘。官位は従五位下近江守。 父が若くして亡くなったため、9歳という幼年で家督を相続するが、父への藩主前田斉広の信頼が篤かったため、また奥村栄実の後見もあって無事職を務め上げている。父同様経済に明るかったようである。嘉永4年(1851年)、参勤交代の途上で病を発し、江戸で急逝した。遺書はあらかじめ書かれていたため家督その他の問題については何事もなかったが、周囲は相当に混乱した。現存する覚書に当時の混乱ぶりが記録されている。 なおさた Category:加賀藩士 Category:1820年生 Category:1851年没.

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前田直正

前田 直正(まえだ なおまさ、慶長10年(1605年) - 寛永8年閏10月17日(1631年12月10日))は、加賀藩人持組頭。加賀八家前田対馬家第3代当主。 父は前田直知。母は牧村氏(祖心尼)。正室は安見元勝の娘。子は前田孝貞。通称左兵衛、対馬。.

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前田直方

前田 直方(まえだ なおただ、寛延元年閏10月27日(1748年12月17日) - 文政6年11月17日(1823年12月18日))は江戸時代の人物。加賀八家筆頭前田土佐守家の6代目当主。父は土佐守家5代・前田直躬。兄2人がいる。子は前田直養など。土佐守家7代・前田直時は孫である。幼名、母の名は不明。通称は九八郎、内匠、三左衛門など。官位は父と同じく従五位下土佐守。 宝暦13年(1763年)元服し、家禄11000石とは別に2500石を新規に与えられ出仕した。明和3年(1766年)7月京都芳春院において、前田利家正室芳春院の百五十回忌法要を、病身の父直躬に代わって藩主名代、御法事奉行として執り行う。安永3年(1774年)、27歳で家督を相続。土佐守に叙任され直之系前田氏当主で二人目の土佐守となった。.

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前田直時

前田 直時(まえだ なおとき、寛政6年(1794年)4月 - 文政11年8月7日(1828年9月15日))は江戸時代の加賀藩士。加賀八家筆頭前田土佐守家の7代目当主で、6代・前田直方の孫。父は前田直養。母の名は不明。子に前田直良。通称主税。 藩主前田斉広の信頼篤く長さ数メートルにも及ぶ長文の手紙を送られたり、参勤交代の苦労について愚痴をこぼされるなど信頼され、隠居城である竹沢御殿の造営を任せられた。斉広はよほど直時を手元においておきたかったようで、隠居後直時を専属の年寄に任じている。御殿造営について議論する姿が前田直時等画像に描かれている。このほか奥方と並んで描かれた、当時としては大変珍しい肖像も残る。 なおとき Category:加賀藩士 Category:1794年生 Category:1828年没.

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前田重煕

前田 重煕(まえだ しげひろ、享保14年7月24日(1729年8月18日) - 宝暦3年4月8日(1753年5月10日))は、加賀藩の第7代藩主。加賀前田家8代。第5代藩主前田吉徳の次男。母は側室の民(鏑木氏・心鏡院)。幼名は亀次郎、初名は利安(としやす)。婚約者に高松藩主松平頼恭の娘・長姫。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち2番目の藩主である。.

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前田重靖

前田 重靖(まえだ しげのぶ)は、加賀藩の第8代藩主。加賀前田家9代。第5代藩主前田吉徳の五男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち3番目の藩主である。.

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前田重教

前田 重教(まえだ しげみち)は、加賀藩の第9代藩主。加賀前田家10代。第5代藩主前田吉徳の七男で、母は側室の流瀬(辻氏・実成院)。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち4番目の藩主である。.

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前田長種

前田 長種(まえだ ながたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。加賀八家・前田対馬守家の祖。.

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前田治脩

前田 治脩(まえだ はるなが)は、加賀藩の第10代藩主。加賀前田家11代。第5代藩主前田吉徳の十男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち最後の藩主である。.

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前田斉広

前田 斉広(まえだ なりなが)は、加賀藩の第11代藩主。加賀前田家12代。第9代藩主前田重教の次男。.

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前田斉泰

前田 斉泰(まえだ なりやす)は、加賀藩の第12代藩主。加賀前田家13代。第11代藩主前田斉広の長男。.

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前田慶寧

前田 慶寧(まえだ よしやす)は、加賀藩の第13代(最後)の藩主、のち加賀藩知事。加賀前田家14代。第12代藩主前田斉泰の長男。.

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国主

江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、国持大名ともいう。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つである。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源。本国持10家(後12家)及び一国持ちではないが、大領を有した大身国持がある。 陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)を国主扱いにしている。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、志摩一国一円知行の稲垣和泉守(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)。 また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)も国主・国持という家格には加えない。 また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある。.

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石川県

石川県(いしかわけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中央部、日本海側の北陸地方に位置する。県域は令制国 の加賀国と能登国 に当たる。県庁所在地は金沢市。.

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石川郡 (石川県)

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珠洲郡

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礪波郡

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礼文郡

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神祇伯

祇伯(じんぎはく)は、日本の律令官制における神祇官の長官。唐名は「大常伯」「大常卿」「大卜令」「祠部尚書」など。和訓は「かみ(かん)づかさのかみ」。定員は1名。官位相当は従四位下・勲四等。令制四等官の内、長官を伯と称するのは神祇官だけであるので、単に伯(はく)と見える場合はこの神祇伯を指す。.

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神谷守孝

谷 守孝(かみや もりたか、生年不詳 - 寛永9年6月3日(1632年7月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏の家臣。幼名は左介、通称は左近、信濃守。室は中川光重の娘・献珠院(前田利家の外孫)。.

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篠原一孝

原 一孝(しのはら かずたか、永禄4年(1561年) - 元和2年7月22日(1616年9月3日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏の家臣。篠原弥助長重の養子。妻は佐脇良之(前田利家の弟)の娘。子は主膳、出羽、重一、虎之助。義弟に篠原長次。幼名は虎。通称は勘六。官位は従五位下肥前守、出羽守。.

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篠原長次

原 長次(しのはら ながつぐ)は、江戸時代初期の加賀藩士。石高6000石。家紋は左三つ巴。菩提寺、桃雲寺。 1589年、前田利家と前田家侍女の間に第三男として生まれた。大坂の役では紺旗隊の大将として勇猛果敢に戦い、真田軍の首級をあげた。その後同僚との諍いが原因で一時田ノ島に配流されている最中、紀伊藩藩主の徳川頼宣が、6000石で迎えようとしたが、長次は頼宣の誘いを断った。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。.

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織田秀雄

織田 秀雄(おだ ひでかつ、天正11年(1583年) - 慶長15年8月8日(1610年9月24日))は安土桃山時代の大名。.

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織田長孝

織田 長孝(おだ ながたか、生年不詳 - 慶長11年7月5日(1606年8月8日))は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の大名。美濃野村藩の初代藩主。織田長益(有楽斎)の長男で、織田信長の甥に当たる。 正室はいない。子は長則(長男)、長政(次男。織部、加賀藩前田家家臣。人持組席次18番、2600石)、織部(三男。加賀藩の支藩大聖寺藩前田利治に仕え三千石)、村井長光(四男、加賀藩家臣(人持組頭「加賀八家」)村井長次の養子)、娘五人(不破光昌室、岡田善同正室、木村重成室、津田某室、本多景次正室)など4男5女。別名は長一。幼名は赤千代。通称は源二郎。官位は従五位下河内守。.

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織田長益

織田 長益(おだ ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。長益系織田家嫡流初代。 織田信秀の十一男で、有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では有楽、有楽斎と称される。 千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。後には自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。.

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羽咋郡

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生駒直勝

生駒 直勝(いこま なおかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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畠山七人衆

山七人衆(はたけやましちにんしゅう)は、戦国時代において能登畠山氏(七尾畠山氏)を事実上支配した政治組織及び、それを務めた7人の畠山家の重臣を指す。筆頭の温井総貞と守護代の遊佐続光によって主導された。七人衆体制の崩壊後も、そのメンバーである遊佐続光と長続連らによって能登畠山家の運営がなされた。しかし、遊佐続光の裏切りにより、七尾城の戦いで長続連は暗殺された。.

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版籍奉還

籍奉還(はんせきほうかん)は明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。.

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直江兼続

江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。.

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相給

給(あいきゅう)とは、村請制が確立した近世期における領知の一形態を表す言葉である。一つの村落に対し複数の領主が割り当てられている状態を指す。村(郷)が分割されたために分郷(ぶんごう)とも言った。なお、「長岡市史」などの越後長岡藩の歴史では「分散地方知行制」という表現がなされている。.

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白山

白山(はくさん)は、日本の北陸地方、白山国立公園内1962年(昭和37年)11月12日に国定公園から国立公園に昇格し、白山国立公園に指定された。山域はその特別保護地区である。 環境省、2011年2月11日閲覧。の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる標高2,702mの山である。 富士山、立山と共に日本三霊山の一つである。日本百名山、新日本百名山、花の百名山及び新・花の百名山に選定されている。最高点の御前峰(ごぜんがみね)には、一等三角点と白山比咩神社奥宮がある。.

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白川伯王家

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元。.

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百万石 (小惑星)

万石(ひゃくまんごく、15740 Hyakumangoku)は、小惑星帯の小惑星。北海道の円舘金と渡辺和郎によって発見された。 小惑星名は加賀藩(石川県・富山県の大部分に相当)の石高に由来する。2006年9月に金沢市で開催された「宇宙の日」ふれあいフェスティバル2006において、公募された名前候補の中から参加者の子供たちによって選出され、小惑星センターによって正式に承認されて翌年4月2日の小惑星回報で公表された。.

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芳春院

芳春院(ほうしゅんいん、天文16年7月9日(1547年7月25日) - 元和3年7月16日(1617年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。名はまつ。篠原一計の子。戒名は芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼。母が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であった。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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青山吉次

青山 吉次(あおやま よしつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏の家臣。加賀藩青山家の祖である。.

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青山氏

青山氏(あおやまし、あおやまうじ)は、日本の氏族。.

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飛地

飛地(とびち、飛び地)とは、一つの国の領土や行政区画、町会等の内、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。 オエクシ)が飛地にあたる。.

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親藩

親藩しんぱんは、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高島市

島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は長浜市に次ぐ県下第二であるが、湖を含めた場合は県下一である。百貨店「高島屋」の名称の由来となっている。.

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高島郡 (滋賀県)

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谷田部藩

谷田部藩(やたべはん)は、常陸国(現在の茨城県つくば市谷田部)に存在した藩。藩庁は谷田部陣屋。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀次

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.

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賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。.

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鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。.

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鳳至郡

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越中国

越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.

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越前松平家

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.

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鹿島郡

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黒羽織党

黒羽織党(くろばおりとう)は、江戸時代末期(幕末)に、加賀藩の藩政改革を主導した長連弘を中心とする党派である。金沢城下で私塾拠遊館を営んだ実学志向の儒学者上田作之丞の教えを信奉した集団で、弘化4年(1847年)末から長一派が罷免された嘉永7年(1854年)6月までを「第一次黒羽織党政権」(嘉永の改革)と称し、長の死後となる文久2年(1862年)から翌年にかけて黒羽織党の面々が復職し、短期間藩政を主導した時期を「第二次黒羽織党政権」と呼ぶ。"黒羽織"党の名の由来は、彼らが仲間内で会合する際、常に黒い羽織を着ていたためとも、「黒羽織」が方言でフグを意味し、その毒のように人々に害をなしたためともいわれる『金沢市史』、874頁。『人づくり風土記』、202頁。。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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能美郡

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能登国

能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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赤座直保

赤座 直保(あかざ なおやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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蓮華寺 (京都市左京区)

蓮華寺(れんげじ)は京都市左京区にある天台宗の寺院。山号は帰命山(きみょうざん)。近世初期に造営された池泉鑑賞式庭園によって知られる。.

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臨済宗

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.

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金沢城

金沢城(かなざわじょう)は、石川県金沢市丸の内にあった日本の城である。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった。城址は国の史跡に指定されている。.

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金沢市

金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する、石川県の県庁所在地。旧石川郡および河北郡。1996年4月1日、中核市に指定された。.

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長尚連

長 尚連(ちょう ひさつら)は、加賀藩年寄。加賀八家長家第4代当主。.

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長善連

長 善連(ちょう よしつら、享保14年11月2日(1729年12月21日)- 宝暦6年12月9日(1757年1月28日))は、加賀藩年寄。加賀八家長家第6代当主。 父は長高連。母は前田孝行の娘。正室は本多政昌の娘。養子は長連起。幼名新十郎。通称九郎左衛門。.

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長元寺

長元寺(ちょうげんじ)は、東京都文京区向丘にある日蓮宗の寺院。山号は高耀山。旧本山は身延山久遠寺、通師法縁。加賀藩前田家の江戸の菩提寺として栄えた。境内には桜間青厓(画家)、小島成斎(書家)、野口犀陽(儒学者)等の墓所がある。.

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長元連

長 元連(ちょう もとつら、寛永5年2月24日(1628年3月29日) - 元禄10年6月11日(1697年7月28日))は、加賀藩加賀八家長家嫡男。 父は長連頼。母は前田利常の娘。兄弟は長忠連。正室は永原氏。子は長尚連、長連房。幼名石千代。通称左兵衛。号一玄。 加賀藩が推進する改作法を、長家が独自に領する鹿島半郡に導入することと、検地に反対する家老浦野孫右衛門に組して父連頼と対立。連頼が藩に訴えたことにより、藩の介入するところとなる(浦野事件)。寛文7年(1667年)8月浦野孫右衛門は切腹となり、元連も事件の責めを負い廃嫡、剃髪して蟄居する。父連頼の家督は嫡子の尚連が嫡孫承祖した。元禄10年(1697年)6月11日没。享年70。.

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長克連

長 克連(ちょう かつつら、1875年(明治8年)1月14日 - 1901年(明治34年)5月11日『平成新修旧華族家系大成』下巻、90頁。)は、明治時代の華族。加賀八家長家第12代当主、長氏宗家第32代当主。.

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長男

長男(ちょうなん)とは、親から見て最も年長の男子をいう。長男についで親から二番目、三番目の男子を二男(次男)、三男という。 長子(ちょうし)ともいい、史的には「はじめに生まれた男子、総領」を長子と呼ぶ。.

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長高連

長 高連(ちょう たかつら、元禄15年3月7日(1702年4月3日) - 享保20年3月24日(1735年4月16日))は、加賀藩年寄。加賀八家長家第5代当主。 父は長尚連の弟長連房。母は永原主税孝定の娘。正室は前田孝行の娘。子は長善連。幼名栄之助。通称又三郎、九郎左衛門。官位は従五位下、甲斐守。.

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長連弘

長 連弘(ちょう つらひろ)は、加賀藩年寄。長氏第29代当主。加賀八家長家第9代当主。.

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長連頼

長 連頼(ちょう つらより)は、江戸時代初期の武士。加賀藩家老。長連龍の次男。長氏23代当主。兄に長好連。室は香集院(不破光政娘)。子に長元連。 .

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長連龍

長 連龍(ちょう つらたつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。織田家の家臣。後に前田家の家臣。 主家・畠山家の滅亡の後に、長家も一族のほぼ全員が謀殺されて滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて、再興を果たした。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯41回の合戦に参加して勇名を馳せた。.

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長連起

長 連起(ちょう つらおき、享保17年12月5日(1733年1月20日) - 寛政12年10月14日(1800年11月30日))は、加賀藩年寄。加賀八家長家第7代当主。 父は先々代長高連の弟長連安。母は佐々木博太夫の娘。養父は長善連。正室は三田村監物の娘。子は長連穀、長連愛、長連郷。幼名小源太。通称右膳、津五郎、三左衛門、九郎左衛門、恵迪斎。官位は従五位下、大隅守。.

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長連恭

長 連恭(ちょう つらやす、天保13年2月1日(1842年3月12日) - 慶応4年4月9日(1868年5月1日))は、加賀藩年寄。加賀八家長家第10代当主。 父は加賀藩年寄長連弘(藩政改革を志向していた集団黒羽織党の領袖として知られる)。母は側室。正室は富田治部左衛門の娘。養子は長成連。幼名富若。通称九郎左衛門。官位は従五位下、大隅守。.

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長連愛

長 連愛 (ちょう つらよし)は、加賀藩年寄。加賀八家長家第8代当主。.

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長氏

長氏(ちょうし)は、日本の氏族のひとつ。能登の国人領主。畠山七人衆であるとともに加賀八家の一つ。.

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長成連

長 成連(ちょう なりつら、天保15年10月22日(1844年12月1日) - 明治12年(1879年)9月20日)は、加賀藩年寄。加賀八家長家第11代当主。 父は加賀藩年寄長連弘。母は側室小西氏。正室は本多政均の娘・寛。子は長克連。初名は連賢。通称雅楽介、九郎左衛門、九郎。.

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陪臣

陪臣(ばいしん)は、武家の主従関係において家臣の家臣を指した呼称。又者(またもの)、又家来(またげらい)とも呼ばれた。 他の国々の同様の身分についても用いられる。.

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JIS X 0212

JIS X 0212(ジス X 0212)は、JIS X 0208:1983に含まれない文字を集めた、6067字の符号化文字集合を規定する日本工業規格 (JIS) である。規格名称は「情報交換用漢字符号-補助漢字」である。1990年10月1日に制定され、JIS X 0208と組み合わせて利用される。JIS補助漢字の通称がある。.

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NHK出版

株式会社NHK出版(エヌエイチケイしゅっぱん、NHK Publishing, Inc.)は、1931年(昭和6年)に設立された日本の出版社である。日本放送協会 (NHK) の関連会社で、2010年までの旧社名は日本放送出版協会(にっぽんほうそうしゅっぱんきょうかい)であった。.

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枝幸郡

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松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

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村井親長

村井 親長 (むらい ちかなが、承応元年(1652年) - 宝永8年4月4日(1711年5月21日)) は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第5代当主。 父は加賀藩年寄村井長朝。養子は村井長堅。通称藤十郎、出雲。官位は従五位下豊後守。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村井長堅

村井 長竪 (むらい ながかた、元禄10年(1697年)- 宝暦7年1月4日(1757年2月21日)) は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第6代当主。 父は加賀藩大年寄前田孝行。養父は加賀藩年寄村井親長。養子は前田八十五郎、村井長穹。幼名右源太、通称主膳。初名孝通。官位は従五位下豊後守。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村井長家

村井 長家(むらい ながいえ)は、加賀藩家臣。加賀八家村井家第3代当主。.

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村井長世

村井 長世 (むらい ながよ、安永5年(1776年) - 文政10年10月26日(1827年12月14日))は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第8代当主。 父は加賀藩年寄村井長穹。子は村井長道。通称喜四郎、兵部、又兵衛。初名長祥。号屋漏堂。官位は従五位下豊後守。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村井長在

村井 長在(むらい ながあきら、天保7年(1836年) - 明治26年(1893年)7月21日)は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第11代当主。 子に村井又兵衛。通称は雄次郎。明治維新後は恒と名乗った。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村井長穹

村井 長穹(むらい ながたか、元文4年(1739年) - 寛政2年2月12日(1790年3月27日))は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第7代当主。 父は加賀藩年寄前田孝資。兄は前田孝昌、今枝直郷。養父は村井長堅。子は村井長世。通称吉十郎、靱負、又兵衛。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村井長道

村井 長道 (むらい ながただ、寛政9年(1797年) - 天保7年5月10日(1836年6月23日)) は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第9代当主。能楽研究家。 父は村井長世。養子は村井長貞。通称は又六、靫負、又兵衛。初名長恵。号は浩翁、浩斎、浩然道者、無間子。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村井長頼

村井 長頼(むらい ながより、天文12年(1543年) - 慶長10年10月26日(1605年12月6日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏の家臣。通称は又兵衛、長八郎。豊後守。嫡男に長次。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は丸ノ内上羽蝶。.

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村井長貞

村井 長貞(むらい ながさだ、文化9年2月13日(1812年3月25日) - 天保13年6月3日(1842年7月10日)) は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第10代当主。 父は奥村質直。養父は加賀藩年寄村井長道。養子は村井長在。通称鈴之助、靫負。初名之行。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村井長次

村井 長次(むらいながつぐ、永禄11年(1568年) - 慶長18年11月7日(1613年12月18日))は、戦国時代の武将。前田氏の家臣。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村井長朝

村井 長朝(むらい ながとも、元和6年(1620年) - 明暦元年12月4日(1655年12月31日)) は、加賀藩重臣。加賀八家村井家第4代当主。 父は加賀藩家臣村井長家。子は村井親長。通称兵部。初名長任。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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極位極官

極位極官(きょくいきょっかん、ごくいごっかん)は、人物が受けた叙任の中で最高の官位を指す。最高の位階を極位、最高の官職を極官と呼ぶが、極官の一語で極位極官を表す場合も多い。 律令制においては、最高の官職を指して極官と呼ばれることがある。制度上は太政大臣がそれに相当するが、平安時代中期以後に人臣の摂政・関白が任ぜられると、極官として認識されるようになる。平安時代後期以後、家職が形成されるようになると貴族・官人の極位極官は家ごとで概ね定まる様になり、それに基づいて摂家・清華家・大臣家・羽林家・名家・半家と公家の家格が決定されるようになる。公家社会では自己の家格の極官を越えて任命されると非難の対象になり、また却って不幸な出来事があるとする「官打ち」の思想が形成され、極位極官制度によって身分秩序の統制が図られるようになり、それが幕末に至るまで続いた。もっとも、治天の君や武家政権(将軍)と個々の公家との関係によっては、この原則が無視される場合もあった。 また、武家は羽林家に準じた家格が定められた。.

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横山康玄

横山 康玄 (よこやま やすはる、天正18年(1590年) - 正保2年9月18日(1645年11月6日)) は、加賀藩家老。加賀八家横山家嫡男。 父は加賀藩家老横山長知。母は前田長種の養女(実長種妹)。正室は高山右近の娘。継室は今枝直恒の娘。子は横山忠次、横山康次、奥村庸礼室、横山武右衛門室。幼名三郎。通称大膳。 天正18年(1590年)前田家家臣横山長知の子として越中守山に生まれる。慶長2年(1597年)8歳で初めて前田利長に拝謁。慶長9年(1604年)知行1000石を賜る。慶長19年(1614年)父長知が前田家を退身したため、同行し京都山科に居住する。同年大坂冬の陣が起こると父が前田家に帰参し、康玄も大津にて主君前田利常に拝謁して帰参・出陣する。元和元年(1615年)再び大坂夏の陣に出陣し、四宮右五衛門を討ち取る戦功を挙げる。元和2年(1616年)功を称され家老となり4000石の加増を受ける。寛永8年(1631年)主君前田利常が幕府より謀反の嫌疑を受けた際、老中土井利勝に弁明してその嫌疑を晴らす。その功績で4000石の加増を受け、合わせて禄高9000石となる。後に、父の所領の一部を譲られて15000石に至った。正保2年(1645年)9月18日金沢に没す。享年56。墓所は石川県金沢市野田山墓地。父長知に先立って没したため、家督は嫡男忠次が嫡孫承祖した。 富田重康(富田重政次男)より富田流の剣術を学んだ。.

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横山任風

横山 任風(よこやま とうかぜ、万治元年(1658年) - 宝永元年5月9日(1704年6月10日))は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第5代当主。 父は加賀藩家老横山忠次。母は岡山藩家老日置忠治の養女(実父日置忠隆)。兄は横山玄位。正室は横山定治の娘。子は奥村有輝室、富田方巣室、横山貴林室。養子は横山貴林。官位は従五位下山城守。幼名権八郎。初名は貞次、別名英盛。通称左衛門。.

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横山忠次

横山 忠次(よこやま ただつぐ、寛永2年(1625年) - 延宝7年6月13日(1679年7月20日))は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第3代当主。 父は加賀藩家老横山康玄。母は今枝直恒の娘。兄弟は横山康次、奥村庸礼室、横山武右衛門室。正室は岡山藩家老日置忠治の養女(実父日置忠隆)。子は横山亀松(早世)、横山玄位、横山任風、横山忠通(早世)、奥村時成室、奥村履虎室。幼名三郎。通称左衛門。.

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横山玄位

横山 玄任(よこやま はるたか、明暦元年(1655年) - 延宝9年6月16日(1681年7月30日))は、加賀藩家老。加賀八家横山家第4代当主。 父は加賀藩家老横山忠次。母は岡山藩家老日置忠治の養女(実父日置忠隆)。弟は横山任風。正室は奥村庸礼の娘。幼名三郎。通称大膳。.

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横山隆平

横山 隆平 (よこやま たかひら、弘化2年3月17日(1845年4月23日)- 明治36年(1903年)7月31日)は、加賀藩の年寄。男爵。 子に男爵横山隆俊、前田直行室、前田孝室。幼名三郎。通称三左衛門。家紋は「丸ノ内万字」。.

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横山隆従

横山 隆従 (よこやま たかより、宝暦8年4月1日(1758年5月7日) - 寛政4年7月18日(1792年9月4日)) は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第8代当主。 父は加賀藩年寄横山隆達。子は横山隆盛。通称義四郎、求馬、大膳、山城。官位は従五位下山城守。.

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横山隆章

横山 隆章(よこやま たかあきら、文化2年6月10日(1805年7月6日) - 万延元年11月12日(1860年12月23日))は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第10代当主。 父は加賀藩年寄横山隆盛。子は横山隆貴、横山隆興。通称三郎、求馬。官位は従五位下、山城守、遠江守。.

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横山隆盛

横山 隆盛 (よこやま たかもり、天明3年8月19日(1783年9月15日) - 文化13年閏8月27日(1816年10月18日))は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第9代当主。 父は加賀藩年寄横山隆従。正室は奥村尚寛の娘。子は横山隆章、奥村惇叙室。通称三郎、山城、堅物。官位は従五位下山城守。.

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横山隆達

横山 隆達 (よこやま たかみち、享保13年6月15日(1728年7月21日) - 安永5年12月27日(1777年2月5日))は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第7代当主。 父は加賀藩年寄横山貴林。正室は本多図書政冬の娘。子は横山隆従、横山隆美。幼名時次郎、大膳、求馬。官位は従五位下山城守、河内守。.

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横山隆貴

横山 隆貴(よこやま たかおき、文政10年11月13日(1827年12月30日) - 安政5年4月20日(1858年6月1日))は、加賀藩加賀八家横山家嫡男。 父は加賀藩年寄横山隆章。弟は横山隆興。子は横山隆平。通称三郎、求馬亮、大膳。 文政10年(1827年)11月13日、加賀藩年寄横山隆章の長男として生まれる。天保15年(1844年)新知2500石を賜り、藩主前田斉泰に近侍した。安政5年(1858年)4月20日父に先立って死去。墓所は石川県金沢市野田山墓地。家督は嫡男隆平が隆章の家督を嫡孫承祖。明治33年(1900年)に男爵に叙され華族となっている。弟隆興は隆平と共に銅山経営で財を成した。.

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横山貴林

横山 貴林(よこやま たかもと、元禄8年5月25日(1695年7月6日) - 延享5年3月10日(1748年4月7日))は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第6代当主。 父は加賀藩年寄奥村悳輝。兄弟は奥村明敬、奥村温良、奥村有定。正室は横山任風の娘。子は横山長世、横山隆達、奥村隆振、横山隆明、本多政行室。通称求馬。官位は従五位下大和守。.

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横山長知

横山 長知(よこやま ながちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣。.

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横山長隆

横山 長隆(よこやま ながたか) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。前田氏の家臣。加賀八家横山家初代。.

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横山長治

横山 長治 (よこやま ながはる、慶長2年(1597年) - 寛永20年6月23日(1643年8月7日)) は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣。加賀藩家老。横山長知の子。正室は神谷守孝の娘。子は横山長昌(神谷長昌)、神谷隆正、横山氏従、横山正房。通称は式部。神谷 長治 (かみや ながはる)としても知られる。.

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横山正房

横山 正房 (よこやま まさふさ、寛永10年(1633年) - 元禄6年6月29日(1693年7月31日)) は、加賀藩家老。人持組横山蔵人家初代。 父は加賀藩家老横山長治。子は横山正武。通称志摩、筑後。別名一宗、正完、嘉治。.

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横山政孝

横山 政孝(よこやま まさたか、寛政元年(1789年) - 天保7年1月25日(1836年3月12日)) は、加賀藩家老。人持組横山蔵人家第6代。 父は横山政寛。正室は津田政本の娘・桂(横山蘭蝶)。子は横山政和。通称・小五郎、多門、蔵人。別名・孝誼。号・致堂。.

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横山政寛

横山 政寛(よこやま まさひろ、明和7年(1770年) - 寛政13年1月25日(1801年3月9日)) は、加賀藩重臣。人持組横山蔵人家第5代。 父は横山政礼。子は横山政孝。通称・多門、蔵人。号・白華。.

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横山政和

横山 政和(よこやま まさかず、天保5年(1834年) - 明治26年(1893年)8月25日) は、加賀藩家老。人持組横山蔵人家第7代。 父は横山政孝。通称・政次郎、多門、蔵人。号・蘭州。家紋は角ノ内万字。.

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横山政礼

横山 政礼(よこやま まさのり、寛保2年(1742年) - 天明3年1月3日(1783年2月4日))は、加賀藩重臣。人持組横山蔵人家第4代。 父は横山貴林。養父は横山正従。兄は横山隆達。子は横山政寛。通称・平十郎、多宮。初名・隆明。号・東皐。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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永原孝治

永原 孝治(ながはら たかはる)は、江戸時代前期の武士。加賀藩士人持組、松任城代。.

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江戸藩邸

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代に江戸に置かれた藩邸(藩の屋敷)である。ただし、江戸時代当時の歴史的呼称ではなく、後世つくられた歴史用語である。当時は、単に武家屋敷もしくは江戸屋敷と呼ばれ、個別の屋敷は当該屋敷を使用する武家の家名を付して○○家屋敷などと呼ばれた。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河北郡

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津田孟昭

津田 孟昭(つだ たけあきら、慶安4年(1651年) - 享保9年8月3日(1724年9月19日))は、加賀藩の家老、人持組津田玄蕃家第4代当主。 父は津田正真。子は津田敬脩、津田孟正、竹田好徳。通称逸角、右兵衛、玄蕃。初名は正卿、正加。号義門。 延宝3年(1675年)、父正真の死去により家督と知行8000石を相続する。天和3年(1683年)、若年寄となる。貞享2年(1685年)、定火消となる。貞享3年(1686年)、2000石を加増され家老となる。元禄3年(1690年)、金沢の大火の際に、鷹狩で不在だったことを咎められ、藩主前田綱紀に家老を解任される。宝永年中、神護寺天徳院証取火消となる。享保5年(1720年)、再び家老に登用され、世子吉徳の守役を兼任する。 享保9年(1724年)、隠居して家督を嫡男敬脩に譲り、隠居料700石を賜り義門と号す。同年8月3日没。享年74。.

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津田将順

津田 将順 (つだ まさより、享保2年(1717年)- 宝暦8年(1758年)) は、加賀藩の重臣、人持組津田玄蕃家第6代当主。通称は健五郎、玄蕃。.

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津田正忠

津田 正忠(つだ まさただ)は、加賀藩の家老、人持組津田玄蕃家第2代当主。.

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津田正勝

津田 正勝(つだ まさかつ、天文16年(1547年) - 元和3年(1617年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。加賀藩人持組津田玄蕃家初代当主。正室は畠山氏。子は津田正忠、養子は津田正俊。通称は刑部。別名は斯波義忠(よしただ)、津田義忠、織田清次。官位は従五位下刑部少輔。.

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津田正矩

津田 正矩 (つだ まさのり、? - 天保13年(1842年)) は、加賀藩の重臣、人持組津田玄蕃家第9代当主。 父は津田政本。子に津田正邦。養子に津田正直。通称乙三郎。.

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津田正真

津田 正真 (つだ まさざね、元和4年(1618年)- 延宝3年(1675年)) は、加賀藩の重臣、人持組津田玄蕃家第3代当主。 父は津田正忠。子は津田正右(病身のため嫡を辞す)、津田孟昭。通称内蔵助、玄蕃。号仙令。.

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津田正直

津田 正直(つだ まさなお、文化6年(1809年)- 弘化2年(1845年)) は、加賀藩の重臣、人持組津田玄蕃家第10代当主。 父は津田正隣。養父は津田正矩。子に津田正邦室。養子に津田正行。通称権平、修理。.

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津田正行

津田 正行(つだ まさゆき、生年不詳 - 文久元年(1861年)) は、加賀藩の家老、人持組津田玄蕃家第11代当主。 父は津田近猷。養父は津田正直。正室は津田正直の娘。子に斯波淳六郎。養子に斯波蕃。通称内蔵助。家紋は「片喰」。.

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津田正昭

津田 正昭 (つだ まさあきら、享保4年(1719年)- 明和7年(1770年)) は、加賀藩の家老、人持組津田玄蕃家第7代当主。 父は津田敬脩。兄は津田将順。子は津田政本。通称求馬、内記。.

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津田氏

津田氏(つだし)は、日本の氏族のひとつ。祖を異にする複数の系統がある。.

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津田政本

津田 政本(つだ まさもと、? - 文政12年7月27日(1829年8月26日))は、加賀藩の家老、人持組津田玄蕃家第8代当主。 父は津田正昭。子は津田正矩、横山政孝室。通称玄蕃、修理、猪之助、内蔵助。初名正身。.

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津田敬脩

津田 敬脩 (つだ のりなが、天和3年(1683年)- 寛保2年(1742年)) は、加賀藩の家老、人持組津田玄蕃家第5代当主。 父は津田孟昭。子は津田将順。通称玄蕃。 加賀藩家老・津田孟昭の長男として金沢に生まれる。享保8年(1723年)、新知1000石を賜る。享保9年(1724年)、父孟昭の隠居により、家督と知行1万石を相続し、合わせて1万1000石となる。藩主前田綱紀、吉徳に仕えて、若年寄、家老を歴任する。政策に通じているとの評判が高かった。寛保2年(1742年)没。享年60。家督は嫡男の将順が相続した。.

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溶姫

『近世人物誌 徳川溶姫君』将軍家斉が諸大名に嫁がせた多くの息女は、実家を笠に着て夫をも凌ぐ勢いだった。しかし斉泰は、たとえ将軍家の娘だろうと妻は夫に従うべきであると、婚礼の翌日鷹狩りから帰るなり溶姫に自分の草履を脱がせるように命じた。それを断るようなら離別するつもりでいたところ、溶姫が嫌がりもせず庭先に降り立って斉泰の草履を脱がせたため、以後2人は仲睦まじくなった、という逸話を描いたもの。(月岡芳年)画 溶姫(やすひめ、ようひめ、文化10年3月27日(1813年4月27日) - 慶応4年5月1日(1868年6月20日))は、11代将軍・徳川家斉の二十一女。母は側室・お美代の方(専行院)。13代加賀藩主・前田斉泰の正室で、14代加賀藩主・前田慶寧、11代鳥取藩主・池田慶栄の母。諱は偕子(ともこ)、院号は景徳院(けいとくいん)。12代将軍・徳川家慶の異母妹で13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔母にあたる。.

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滋賀県

こちら) 滋賀県(しがけん)は、琵琶湖を擁する日本国・近畿地方北東部の内陸県である。県庁所在地は大津市。.

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朝倉氏

朝倉氏(あさくらし)は、但馬国を拠点とした豪族。越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名となった越前朝倉氏が有名。 藤原氏流等の朝倉氏もあるとされるが、別項にて扱う。.

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末森城 (能登国)

末森城(すえもりじょう)は現在の石川県羽咋郡宝達志水町竹生野にあった日本の城である。.

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本多正信

本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。 徳川家康が抱える鷹匠から身を興したが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。一時松永久秀に仕えた後に10年以上を流浪の身として送る。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、2代将軍秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。.

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本多政均

本多 政均(ほんだ まさちか)は、江戸時代末期(幕末)の加賀藩の家老。.

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本多政康

本多 政康 (ほんだ まさやす、享保17年(1732年)- 寛政12年9月26日(1800年11月12日)) は、加賀藩の家老、人持組本多図書家第3代当主。 父は本多政則。養父は本多政恒。子は本多政養。通称は図書、刑部。家紋は「丸ノ内本ノ字」。.

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本多政以

本多 政以(ほんだ まさざね、元治元年10月21日(1864年11月20日)- 大正10年(1921年)7月16日) は、加賀八家本多家第12代当主。男爵。貴族院議員。 妻は荒木左次馬の娘。子は本多政樹、長基連。幼名資松。家紋は「丸ノ内立葵」。.

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本多政和

本多 政和 (ほんだ まさはる、文化10年8月26日(1813年9月20日)- 弘化4年9月5日(1847年10月13日)) は、加賀藩の年寄、加賀八家本多家第9代当主。 父は加賀藩家老本多政礼。母は長連愛の娘。弟は長連弘。正室は前田斉広の娘寿々姫。子は本多政通、本多政均、本多政養。通称は左馬助。官位は従五位下播磨守。.

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本多政冬

本多 政冬 (ほんだ まさふゆ、万治3年(1660年)- 享保13年5月19日(1728年6月26日)) は、加賀藩の家老、人持組本多図書家初代当主。 父は加賀藩の年寄・本多政長。子は本多政恒、本多政行、本多政昌室、横山隆達室。通称は長五郎、図書。.

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本多政礼

本多 政礼 (ほんだ まさのり、寛政元年12月30日(1790年2月13日)- 文政3年7月13日(1820年8月21日)) は、加賀藩の年寄、加賀八家本多家第8代当主。 父は加賀藩家老本多政成。正室は長連愛の娘。子は本多政和、長連弘、本多政醇。官位は従五位下安房守。.

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本多政行

本多 政行 (ほんだ まさゆき、享保13年11月14日(1728年12月14日)- 寛政9年11月23日(1797年11月23日)) は、加賀藩の年寄、加賀八家本多家第6代当主。 父は第2代当主本多政長の四男政冬。養父は本多政昌。正室は横山貴林の娘。子は本多政成、本多政房、多賀正直室、前田主計室、西尾明義室。官位は従五位下安房守、遠江守。.

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本多政養

本多 政養 (ほんだ まさやす、明和2年(1765年)- 天保9年(1838年)) は、加賀藩の家老、人持組本多図書家第4代当主。 父は本多政康。養子は本多政守。通称は貞五郎、勘解由。家紋は「丸ノ内本ノ字」。.

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本多政質

本多 政質(ほんだ まさただ、延宝2年10月18日(1674年11月15日)- 享保8年8月22日(1723年9月21日))は、加賀藩の家老、加賀八家本多家第4代当主。 父は加賀藩家老本多政敏。母は前田孝貞の娘。正室は前田備後直作の娘。子は本多図書政恒室。幼名萬十郎。通称木工、安房。官位は従五位下安房守、周防守。.

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本多政重

本多 政重(ほんだ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。本多正信の次男。子に榎本藩第2代藩主・本多政遂など。.

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本多政長 (加賀本多家)

本多 政長 (ほんだ まさなが、寛永8年8月21日(1631年9月17日) - 宝永5年8月9日(1708年9月14日)) は、加賀藩の家老、加賀八家本多家第2代当主。父は加賀藩家老本多政重。母は西洞院時直の娘。正室は前田利常の娘・春姫。子は本多政敏、本多政孝、本多政則、本多政冬、本多政広、本多政寛、八幡新善法寺行清。幼名長松。通称左馬助、安房。号素立軒。官位は従五位下安房守。.

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本多政通

本多 政通(ほんだ まさみち、天保7年7月5日(1836年8月16日) - 安政3年11月3日(1856年11月30日))は、加賀藩の年寄、加賀八家本多家第10代当主。 父は加賀藩年寄本多政和。弟は本多政均。官位は従五位下周防守。.

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本多政恒

本多 政恒 (ほんだ まさつね、宝永2年(1705年)- 宝暦10年10月6日(1760年11月13日)) は、加賀藩の家老、人持組本多図書家第2代当主。 父は加賀藩家老本多政冬。正室は本多政質の娘。子は本多政成室。養子は本多政康。通称は頼母、図書。.

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本多政成

本多 政成 (ほんだ まさよし、宝暦5年6月8日(1755年6月30日)- 享和3年4月28日(1803年6月17日)) は、加賀藩の家老、加賀八家本多家第7代当主。 父は加賀藩家老本多政行。正室は本多図書政恒の娘。子は本多政礼、本多政守。通称玄蕃助。官位は従五位下安房守。.

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本多政昌

本多 政昌 (ほんだ まさあきら、元禄2年4月17日(1689年6月4日) - 延享5年3月18日(1748年4月15日)) は、加賀藩の執政、加賀八家本多家第5代当主。 父は加賀藩家老本多政敏。正室は本多図書政冬の娘。子は長善連室。養子は本多政行。官位は従五位下安房守。通称は嘉藤次。.

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本多政敏

本多 政敏(ほんだ まさとし、承応2年8月9日(1653年9月24日)- 正徳5年3月19日(1715年4月22日)) は、加賀藩の執政、加賀八家本多家第三代当主。 父は加賀藩家老本多政長。正室は前田孝貞の娘。子は本多政質、本多政惇、本多政昌、西洞院時光室、栗津右近室、前田貞直室、三田村孝言室。幼名萬作。通称主殿、安房。諱は政良、政在、政敏。号天淵。官位は従五位下安房守。.

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本郷 (文京区)

本郷(ほんごう)は、東京都文京区の町名。または旧東京市本郷区の範囲を指す地域名である。.

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成瀬吉正

成瀬 吉正(なるせ よしまさ)は、戦国時代の武将。父は成瀬正一。母は熊谷氏。成瀬吉政とも。 6歳の頃から徳川家康の侍女に育てられるが、17歳の時に突如徳川家を出奔する。浅野幸長の家臣、次いで小早川秀秋の家臣となり、関ヶ原の戦いに従軍する。 関ヶ原の戦い後は加賀藩の前田利常に仕え、大坂の陣で活躍する。後に加賀藩の家老となり、1万1千石を領する人持組の成瀬掃部助家の祖となる。跡は成瀬當胤(まさたね)が継ぎ、子孫は加賀藩人持組成瀬掃部助家となる。 父正一同様、他家に仕官しており、謎の多い経歴の持ち主である。 category:戦国武将 Category:加賀藩士 よしまさ Category:1576年生 Category:1644年没.

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成瀬正成

成瀬 正成(なるせ まさなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。犬山藩初代藩主で、尾張藩の附家老。成瀬正一の長男。母は熊谷直連の妹。通称は小吉、従五位下に叙任後は隼人正を名乗る。.

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成瀬氏

成瀬氏(なるせし)は、日本の氏族のひとつ。.

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戸部新十郎

戸部 新十郎(とべ しんじゅうろう、1926年(大正15年)4月8日 - 2003年(平成15年)8月13日)は、日本の小説家。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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浅野幸長

浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。紀伊国和歌山藩(紀州藩)初代藩主。浅野氏15代当主。.

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斯波蕃

斯波 蕃(しば しげり / しげる、天保14年(1843年) - 明治40年(1907年)3月9日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の武士、華族。男爵。初名は津田 正邦(つだ まさくに)。  .

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斯波氏

斯波氏(しばし)は、日本の武家のひとつ。室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲し、また分家の大崎氏は奥州探題、最上氏は羽州探題を世襲した。明治維新後に男爵家となった源姓津田氏も、その末裔の一つである。.

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新川県

新川県(にいかわけん)は、1871年(明治4年)に越中国(当初は一部、のちに全域)を管轄するために設置された県。現在の富山県にあたる。.

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新川郡

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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日置忠治

日置 忠治(へき ただはる、元和5年(1619年)- 元禄6年4月14日(1693年5月18日))は、岡山藩の家老。備前金川1万6000石の領主。 父は加賀藩家老今枝直恒。正室は池田利政の娘心珠院。通称若狭、猪右衛門。子は日置忠明、今枝直方、池田宗春室、加賀藩家老前田知臣室、加賀藩家老横山忠次室(実は兄日置忠隆の娘)、高辻豊長室(実は兄日置忠隆の娘)。兄弟は今枝近義、日置忠隆、前田直玄。.

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日蓮宗

日蓮宗(にちれんしゅう)は、.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1583年

記載なし。

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1585年

記載なし。

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1599年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1609年

記載なし。

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1639年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1883年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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