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小十人

索引 小十人

小十人(こじゅうにん)は、江戸幕府における警備・軍事部門(番方)の役職のひとつである。語源は扈従人であるとされる。将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊であり、行軍・行列の前衛部隊、目的地の先遣警備隊、城中警備係の3つの役目がある。.

33 関係: 増上寺大奥大番大阪嫡男官庁会計寛永寺小姓組布衣京都二条城井伊氏彦根藩役料征夷大将軍御家人ボディーガード知行突ぱい形兜籠手甲冑親衛隊警備足高の制赤備え歩兵江戸城江戸幕府新番日光東照宮旗本旗本寄合席書院番

増上寺

大殿の扁額 増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。.

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大奥

大奥(おおおく)は、江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所。あるいは、江戸時代の大大名家の奥向の別称でもある東海道二川宿の「御休泊記録」には、薩摩藩の奥女中を「薩州奥女中」や「薩州大奥女中」などと記している。一説によれば、中奥あるいはそれに類する空間が存在する場合、それと区分するために「大奥」という名称が用いられたと唱えられている。。 本項では、江戸城大奥について述べる。 千代田之大奥 歌合 橋本(楊洲)周延画.

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大番

大番(おおばん、大御番)は、江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊である。.

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大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

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嫡男

嫡男(ちゃくなん)とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子を指す。女子の場合は嫡女となる。長男と同一視されることもあるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。特に嫡男ではない長男は庶長子、長庶子、庶子とも称される。嫡男の嫡男は嫡孫(ちゃくそん)と呼ばれる。また、代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。また、内孫(うちまご)とも称される。 ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。.

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官庁会計

官庁会計(かんちょうかいけい)とは、国及び地方公共団体で行われている会計をいい、公会計(こうかいけい)ともいう。一般会計、特別会計及び公営企業会計の3種類からなる。.

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寛永寺

広重『名所江戸百景』より寛永寺清水観音堂が描かれた「上野清水堂不忍ノ池」。 寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。.

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小姓組

小姓組(こしょうくみ)とは、江戸幕府及び諸藩の組織で、軍事を司る番方(武官)のひとつ。.

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布衣

布衣(ほい)は、日本の男性用着物の一種で、江戸幕府の制定した服制の1つ。幕府の典礼・儀式に旗本下位の者が着用する狩衣の一種だが、特に無紋(紋様・地紋の無い生地)のものである。下位の旗本(すなわち御目見以上)の礼装は素襖とされているが、幕府より布衣の着用を許されれば六位相当叙位者と見なされた。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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二条城

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。.

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井伊氏

井伊氏(いいし)は、日本の氏族。近江国彦根藩の主家である。.

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彦根藩

近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 彦根藩邸址、京都市中京区木屋町 彦根藩(ひこねはん)は、近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊氏。支藩として一時、彦根新田藩があった。.

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役料

役料(やくりょう)とは、江戸幕府が幕臣に支給した役職手当の1種。 武士は基本的に主君から知行を与えられて、それに対応した軍役を義務として果たすものであった。江戸幕府の知行制度もこの方針に基づいて行われており、初期においては役職についても知行とは別個の給与などは与えられていなかった。しかし、幕府の役職人事が知行高のみならずその職務能力なども考慮して行われるようになると、優秀な人材を抜擢して要職に就けた場合、それに伴う経費の負担をその知行高の範囲では賄いきれない場合もあり、却ってその幕臣が困窮する事態も生じた。こうした事態の救済のために寛文5年3月18日(1665年)に番方を中心とした役料制度が定められた。『徳川実紀』によれば、大番頭2000俵、書院番頭・小姓組番頭1000俵、新番頭・百人組番頭700俵、持弓筒頭・先手頭・歩行頭・書院番組頭・小姓組組頭・小十人頭・目付・使番500俵と定められた。続いて翌年7月には留守居2000俵、大目付・町奉行1000俵、旗奉行・作事奉行・勘定頭700俵、槍奉行・留守居番・普請奉行500俵などと定められた。役料は春・夏・冬の3季に分割して米もしくは金によって支給された。寛文年間に役料として支出された総額は18万俵であったとされている。だが、財政的な事情などから天和2年(1682年)4月には役料を廃止して在職者の役料をそのまま当人の知行高に加えた。 その後、元禄2年(1689年)頃より、特定の役職に対する役料支給が行われ、同5年(1692年)には役料制度が正式に復活された。この時の制度は役職ごとに一定の石高を定め、その水準を満たさない知行保持者にのみ定額の役料を与えた。例えば、留守居・大番頭は5000石を基準としてそれ以下に1000俵、書院番頭・小姓番組頭は3000石以下に1000俵、大目付・町奉行・勘定奉行は3000石以下に700俵、百人組頭は3000石以下に500俵、作事奉行・普請奉行・槍奉行・持弓筒頭は2000石以下に300俵、先手頭・新番頭は1500石以下に300俵、留守居番・目付・使番・書院番組頭・小姓組組頭・徒頭・小十人頭は1000石以下に300俵、鉄砲方は1000石以下に200俵などの決まりがあった。元禄5年(1692年)から享保7年(1722年)までの30年間に在任した幕府役職者のうち、大目付・町奉行・勘定奉行就任者の79%、大番頭就任者の29%が役料支給の対象となった。 限られた幕府財政と役料制度とのバランスを図るべく、享保8年(1723年)6月に導入されたのが、足高の制である。役職ごとに基準高を定め、それに不足する分の石高を在任中に限定して加増するものであった。同制度は翌享保9年(1724年)7月と元文4年(1739年)3月に一部修正が行われて、役料制度の基本とされた。ただし、遠国奉行などに関してはその職務の重要性と出費の機会の多さから足高とは別個に役料が支給された。 慶応3年9月26日(1867年10月23日)に幕府財政の金銀中心への移行に伴い、布衣以上の足高・役料・役扶持などを廃止して役金に統一するが、同年の大政奉還によって実際に機能する前に廃止されることになった。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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ボディーガード

ボディーガード(bodyguard)は、政府首脳、国賓、会社役員、著名人等、要人の身辺の安全を確保し、誘拐、暗殺などの脅威から守る人(およびその職業)の総称。.

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知行

知行(ちぎょう)とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は微妙に変化していった。日本の歴史上の領主はヨーロッパの農奴制における領主のように無制限に所領の土地と人民を私有財産として所有したのではなく、徴税権・支配権にかかわる一定の権利義務の体系を所持した存在であった。この体系が知行であり、日本史における領主階層のあり方を理解する上で、知行の概念の理解は欠かせない。.

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突ぱい形兜

突盔形兜(とっぱいなりかぶと)とは、室町時代末期頃に発生した頂部が尖った兜。筋兜を簡略するかたちで変化したもの。 椎実形、柿実形、錐形、筆頭形等の鉢頂部が尖った形の兜を総称して突盔形ともいう。 Category:兜 Category:日本の軍事史.

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籠手

手(こて、小手、甲手、篭手)は戦闘時に腕、手を守るための防具。材質は革、鉄、青銅、丈夫な布地など。拳闘士の手を保護する防具も籠手(ナックルガード)とよばれるが、一般的には斬撃を防ぐ目的の防具を言う。.

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甲冑

冑(かっちゅう)とは、胴部を守る'''鎧'''('''甲'''、よろい)と、頭部を守る'''兜'''('''冑'''、かぶと)からなる武具。主として刀剣や弓矢を用いた戦闘の際に侍・武士が身につける日本の伝統的な防具である。.

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親衛隊

親衛隊(しんえいたい)とは、主に君主や元首、それに類する重要人物の身辺警護をする武装組織。.

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警備

警備(けいび、 他)とは、事故、破壊、盗難等の事変に備え、警戒や防護を行うこと。なお、消防機関などが災害等に備えることを警戒または警防という場合もある。 日本の警察官が行政警察活動として行う警備について、地域警察所属の警察官によるものは警備派出所を、警備警察所属の警察官によるものは警備部または機動隊を参照されたい。 田中智仁の分類によれば、公権力をもたない警備業による警備活動はセミフォーマル・コントロールである(警察などの公権力を有する警備活動はフォーマル・コントロール、地域住民らによる私生活上の警備活動はインフォーマル・コントロールとされている)。.

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足高の制

足高の制(たしだかのせい、足高制)は、徳川吉宗が享保8年(1723年)6月に施行した法令。 江戸幕府の各役職には各々禄高の基準を設けられていた(例:大番頭5000石)。そこで、それ以下の禄高の者が就任する際に在職中のみ不足している役料(石高)を補う制度である。 能力や素質があるが家柄が低いために要職に就けないといった旧来の不都合を解消し、良質の人材を登用することをその目的としている。ただし実際にはそれ以前にも、特に有能な者は加増をしてでも高位に取り立てることは行われており、それが幕府財政窮乏の一因ともなっていた。足高の制によって、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため、幕府の財政的な負担が軽減できるというのが最大の利点であった(ただし、遠国奉行は出費の機会が他の役職よりも多いことを考慮されて足高の有無を問わずに役料が別個に支給された)。しかし現実には完全施行は難しかったようで、家格以上の役職に就任した者が退任するにあたって世襲家禄を加増される例が多かった。 この制度の提言は、吉宗政権で政治顧問的待遇を受けた酒井忠挙が、京都所司代の松平信庸が自らの領地からの収入だけでは任務に支障が生じていることを見て、吉宗に「重職役料下賜」を提言したことによる。儒学者室鳩巣の建事により実施された。この政策により要職に登用された人物として、大岡忠相や田中丘隅などがいる。 翌享保9年7月及び、元文4年(1739年)3月に足高などの修正を行って制度の充実が図られた。.

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赤備え

赤備え(あかぞなえ)は、戦国時代から江戸時代にかけて行われた軍団編成の一種。構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えた編成を指す。戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、当時の赤色は高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊であることが多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。 赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。.

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歩兵

2歩兵師団所属の歩兵 歩兵(ほへい、Infantry)は、軍隊における兵科の一つであり、戦場を徒歩で行動する兵士のこと。(戦場にたどり着くまでは馬や自動車などさまざまな移動手段を用いても戦場において徒歩であれば歩兵である)。最古かつ最も基本的な兵科であり、歩兵の存在しない軍隊は存在しない。最も柔軟性の高い兵科でもあり、あらゆる戦場で姿を見ることができる。自衛隊用語では普通科という。 いかに軍の機械化が進んでも、諸兵科連合を構成したり、都市・拠点を確保したりするのには歩兵の存在が不可欠である。近年は非対称戦への要求が高まり、占領地の治安維持や平和維持活動に従事する特別な訓練を受けさせた歩兵の需要が増している。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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新番

新番(しんばん)は、武家における警備・軍事部門(番方)の役職のひとつである。江戸時代に入って泰平の世となり、平時外出用の警備隊として新設された性格と常備兵力としての性格を持つ番方(武官)の役職である。.

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日光東照宮

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。 その歴史は少なくとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得るもので、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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旗本寄合席

旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家が存在した。.

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書院番

書院番(しょいんばん)とは、江戸幕府の徳川将軍直属の親衛隊。.

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小十人頭

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