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岡山藩

索引 岡山藩

後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.

238 関係: 偕楽園吉川弘文館大名大名庭園大石良雄大森映子天城池田家外様大名姫路藩嫡男宍粟郡家老宗家宇喜多秀家宇喜多氏寛永寛文寛政重修諸家譜小田県小田郡小早川秀秋小早川氏山崎藩山陽道岡山城岡山市岡山県岡山表町商店街岡山藩藩学島牧郡上道郡上東郡下道郡干拓幕藩体制幕末五大老廃藩置県会津藩伊木忠知伊木忠福伊木忠義伊木忠真伊木忠直伊木忠順伊木忠親伊木忠識伊木忠貞伊木忠興伊木忠恭...伊木忠正伊木忠澄伊木氏御野郡侯爵徳川光圀徳川斉昭徳川慶喜後志国後楽園保科正之土倉一之土倉一信土倉一ミチ土倉一善土倉一静土倉一貞土倉一長土倉一成土倉一昌土倉光三郎土倉勝看土倉正彦北島正元北区 (岡山市)和気郡備中国備前市備前国児島郡児玉幸多八幡和郎兼六園元和 (日本)元禄光文社新書国宝国主倉敷市石上布都魂神社石高督姫磐梨郡神戸事件窪屋郡美作国男爵熊沢蕃山片桐池田家百間川華族菅生 (倉敷市)親藩谷口澄夫豊臣氏鳥取藩賀陽郡鴨方陣屋赤坂郡関ヶ原の戦い閑谷学校藩校邑久郡金沢市陣屋陽明学森寺長貞水戸市水戸藩江戸時代池田博忠池田博道池田博文池田博愛池田博教池田太寅池田宗春池田宗政池田俊清池田忠継池田忠雄池田光仲池田光政池田章政池田綱政池田継政池田由孝池田由之池田由勝池田由成池田輝録池田輝政池田茂政池田長吉池田長常 (片桐池田家)池田長久池田長仍池田長喬 (片桐池田家)池田長玄池田長紀池田長貞池田長處池田長泰池田長準池田長明池田長政池田長政 (建部池田家)池田恒元池田恒興池田氏池田治政池田斉政池田斉敏池田政孝池田政広池田政弼池田政徳池田政保池田政喬池田政善池田政和 (天城池田家)池田政和 (生坂藩主)池田政員池田政共池田政倚池田政礼池田政範池田政純池田政直 (鴨方藩主)池田政養池田政香池田政言池田政恭池田政房池田政昭池田政方池田政晴池田慶徳池田慶政津田永忠津高郡淡路国戦国大名明治明治維新浅口市浅口郡新人物往来社新田文春新書日置健太郎日置忠寿日置忠尚日置忠弼日置忠俊日置忠章日置忠盈日置忠芳日置忠辰日置忠英日置忠治日置忠明日置忠昌日本三名園日本歴史学会旭川 (岡山県)支藩改易慶長1600年1602年1603年1613年1615年1632年1669年1670年1672年1700年1870年1871年1884年1977年1995年1997年2003年2004年 インデックスを展開 (188 もっと) »

偕楽園

偕楽園(かいらくえん)は、日本の茨城県水戸市にある日本庭園である。国の史跡及び名勝に指定されており(指定名称は「常磐公園」)、隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた「偕楽園公園」は、都市公園としてニューヨークのセントラルパークに次ぎ世界第2位の面積を持つ。また伝統的に、岡山市の後楽園や金沢市の兼六園と並んで日本三名園の一つに数えられてきた。現在、茨城県営の都市公園(広域公園)水戸県立自然公園(弘道館公園、偕楽園、千波湖を含む)として管理・運営されている。 文化庁認定日本遺産"近世日本の教育遺産 ―学ぶ心・礼節の本源―"のストーリーを構成する水戸市内の文化財の一つでもある。。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大名庭園

大名庭園(だいみょうていえん)とは、江戸幕府政権下の江戸時代において、各藩の大名が江戸や地元で築造した庭園である。各藩がそれぞれ競い合った結果造園技術は発達し、江戸時代に日本庭園築造技術が頂点をなしたとされている。 玄宮園(江戸時代初期、彦根市).

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大石良雄

大石 良雄(おおいし よしお/よしたか)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。 「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。.

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大森映子

大森 映子(おおもり えいこ、1952年-)は、日本の歴史学者。多摩大学教授。専門は日本近世史。 湘南国際女子短期大学国際ビジネス学科教授を経て、多摩大学教授(2007年4月就任)、日本女子大学文学部非常勤講師(1993年4月)。.

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天城池田家

天城池田家(あまきいけだけ)は、江戸時代の岡山藩主池田氏の一族で備前天城の領主。 初代由之は、池田輝政の兄池田元助の嫡男で輝政に仕え、伯耆米子3万2,000石を領した。2代由成が、藩主光政の岡山移封に伴い米子から備前に移り、寛永16年(1639年)天城に陣屋を構え、代々領したため天城池田家と呼ばれた。また、由成は赤穂事件で知られる大石良雄の外祖父にあたる。このため、元禄14年(1701年)の赤穂事件の際に4代由勝は大石良雄の縁戚(従兄弟)であることを理由に2,000石を減じられ、以降禄高3万石となる。幕末期に幼少で家督を継いだ11代政和は、明治24年(1891年)に男爵に叙され華族となった。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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姫路藩

姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田氏で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏があった。石高ははじめ52万石、のち15万石。.

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嫡男

嫡男(ちゃくなん)とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子を指す。女子の場合は嫡女となる。長男と同一視されることもあるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。特に嫡男ではない長男は庶長子、長庶子、庶子とも称される。嫡男の嫡男は嫡孫(ちゃくそん)と呼ばれる。また、代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。また、内孫(うちまご)とも称される。 ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。.

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宍粟郡

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家老

家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.

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宗家

宗家(そうけ)は、ある一族、一門において正嫡(嫡流)の家系。またその家系の当主。本家。 日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合とがある。.

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宇喜多秀家

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。.

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宇喜多氏

宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋は兒文字と考えられているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

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小田県

小田県(おだけん)は、1871年(明治4年)に備中国および備後国東部を管轄するために設置された県。現在の岡山県西部、広島県東部にあたる。設置当時は深津県(ふかつけん)と称した。.

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小田郡

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小早川秀秋

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.

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小早川氏

小早川氏(こばやかわうじ/こばやかわし)は、日本の氏族の一つ。著名な一族は中世から近世にかけての武家。.

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山崎藩

山崎藩(やまさきはん)は、播磨国宍粟郡周辺を知行した藩。藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれた。宍粟藩(しそうはん)とも呼ばれる。.

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山陽道

山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。 街道においては江戸時代を中心に、.

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岡山城

岡山城の縄張り1974年度・国土航空写真より 岡山城(おかやまじょう)は、日本の城。岡山県岡山市北区にある国指定の史跡。別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)一般的に烏城を使う場合が圧倒的に多い。また、松本城も通称「烏城」と呼ばれるが、混同を避けるため岡山城を「うじょう」、松本城を「からすじょう」と呼んでいる。。.

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岡山市

岡山市(おかやまし)は、中国地方、岡山県の南東部に位置する市。政令指定都市および同県の県庁所在地である。.

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岡山県

岡山県(おかやまけん)は、日本の都道府県のひとつ。中国地方南東部に位置し、瀬戸内海に面する県。県庁所在地は岡山市である。.

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岡山表町商店街

表町商店街 岡山表町商店街(おかやまおもてちょうしょうてんがい)は、岡山県岡山市北区にある商店街である。岡山市街の中心的繁華街。.

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岡山藩藩学

岡山藩藩学(おかやまはんはんがく)は、江戸時代前期に岡山藩によって他藩に先駆けて開かれた最古の藩校である。所在地は岡山県岡山市北区蕃山町。国学、岡山学校と呼ばれた。国の史跡。.

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島牧郡

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上道郡

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上東郡

上東郡(じょうとうぐん・じょうとうのこおり)は備前国にかつて存在した郡である。郡域は全て現在の岡山市に含まれている。.

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下道郡

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干拓

干拓(かんたく)とは遠浅の海や干潟、水深の浅い湖沼やその浅瀬を仕切り、その場の水を抜き取ったり干上がらせるなどして陸地にすること。主に農地として開拓する時に用いられる。干拓された土地を干拓地()と呼ぶ。 水域に土砂や廃棄物等を投入して土地を造成する埋立とは異なる。 方法として、まず、干拓堤防(潮受け堤防、潮受堤防)で水域を仕切り、堤防の随所に水門を設ける。その上で動力によって強制的に仕切内の水を排水し干上がらせる。または海の場合、潮の干満を利用する方法も取られる。干潮時に水門を開き海水を排し、満潮時には水門を閉じて干上がらせる。 こうしてできた土地は海面よりも低くなることが多く、塩分を含んだ土地であるため、農地化する際には、塩分とともに水を排水する設備を作る必要がある。また地盤も軟弱であるため、宅地としては好ましくない。.

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幕藩体制

幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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五大老

五大老(ごたいろう)とは、末期の豊臣政権の政務にあたった徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の五大名を指す。五奉行の顧問として、政務を統括した。豊臣秀吉の死後、家康に実権が集中していき、関ヶ原の戦いにいたって崩壊した。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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会津藩

若松城 会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。.

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伊木忠知

伊木 忠知(いぎ ただとも、享保5年12月18日(1721年1月15日) - 安永4年10月17日(1775年11月9日))は、岡山藩筆頭家老。第7代伊木家当主。通称は長門。主君は池田宗政・治政。.

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伊木忠福

伊木 忠福(いぎ ただとみ、寛延元年7月4日(1748年7月28日) - 寛政10年6月10日(1798年7月23日))は、岡山藩筆頭家老。第8代伊木家当主。通称は長門。主君は池田治政・斉政。.

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伊木忠義

伊木 忠義(いぎ ただよし、寛文9年5月21日(1669年6月19日) - 享保5年8月1日(1720年9月3日))は、岡山藩筆頭家老。第5代伊木家当主。通称は将監。主君は池田綱政、継政。.

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伊木忠真

伊木 忠真(いぎ ただざね、天明元年閏5月25日(1781年7月16日) - 文化4年7月6日(1807年8月9日))は、岡山藩筆頭家老。第9代伊木家当主。通称は長門。主君は池田斉政。.

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伊木忠直

伊木 忠直(いぎ ただなお、寛政12年8月21日(1800年10月9日) - 文政3年4月21日(1820年6月1日))は、岡山藩筆頭家老。第12代伊木家当主。通称は長門。主君は池田斉政。.

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伊木忠順

伊木 忠順(いぎ ただゆき / ただより、寛政10年11月25日(1798年12月31日) - 文化12年6月24日(1815年7月30日))は、岡山藩筆頭家老。第11代伊木家当主。通称は豊後。主君は池田斉政。.

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伊木忠親

伊木 忠親(いぎ ただちか、承応元年(1652年)11月 - 宝永元年8月22日(1704年9月20日))は、岡山藩筆頭家老。第4代伊木家当主。官位は従五位下。通称は清兵衛。主君は池田綱政。.

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伊木忠識

伊木 忠識(いぎ ただもと、寛延3年6月11日(1750年7月14日) - 文化5年1月5日(1808年2月1日))は、岡山藩筆頭家老。第10代伊木家当主。通称は長門。主君は池田斉政。.

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伊木忠貞

伊木 忠貞(いぎ たださだ、慶長17年(1612年) - 寛文12年6月28日(1672年7月22日))は、岡山藩池田宗家初代筆頭家老。第3代伊木家当主。官位は従五位、長門守。主君は池田光政。.

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伊木忠興

伊木 忠興(いぎ ただおき、元禄7年8月16日(1694年10月4日) - 寛延4年11月23日(1752年1月9日))は、岡山藩筆頭家老。第6代伊木家当主。通称は豊後。主君は池田継政。.

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伊木忠恭

伊木 忠恭(いぎ ただゆき、天保7年9月11日(1836年10月20日) - 明治9年(1876年)11月14日)は、幕末の岡山藩最後の筆頭家老。第15代伊木家当主。通称は若狭。.

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伊木忠正

伊木 忠正(いぎ ただまさ、文化14年1月25日(1817年3月12日) - 天保3年閏11月26日(1833年1月16日))は、岡山藩筆頭家老。第13代伊木家当主。通称は長門。主君は池田斉政・斉敏。.

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伊木忠澄

少林寺) 伊木 忠澄(いぎ ただずみ)は、幕末の岡山藩筆頭家老、茶人。第14代伊木家当主。通称は若狭、のち長門と改める。号の三猿斎(さんえんさい)で呼称されることが多い。.

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伊木氏

伊木氏(いぎし)は、日本の氏族。戦国時代から江戸時代にかけての武家。本姓は橘氏。家系は織田信長ついで岡山藩池田氏の筆頭家老を務めた家柄。.

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御野郡

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侯爵

侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.

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徳川光圀

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.

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徳川斉昭

茨城県水戸市の千波公園にある徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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後志国

後志国(しりべしのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。国名の由来は、阿倍比羅夫が郡領を置いた後方羊蹄(しりべし)の語音にちなみ、後志国を流れる尻別川のアイヌ語「シリ・ペッ」(山の・川)を採り、音訳して後志としたもの。命名者は松浦武四郎。道南から道央にかけての地域に位置し、現在の後志総合振興局管内のうち虻田郡と小樽市銭函4~5丁目相当区域を除いた大部分と、檜山振興局管内のせたな町以北および奥尻島にあたる。.

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後楽園

後楽園から岡山城を望む 唯心山から沢の池を望む 後楽園(こうらくえん)は、岡山県岡山市北区後楽園にある日本庭園(大名庭園)で、日本三名園のひとつである。 江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。.

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保科正之

保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。第3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と第4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君との呼び声も高い。また、将軍の「ご落胤」でもある。.

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土倉一之

土倉 一之(とくら かずゆき、宝暦9年閏7月24日(1759年9月15日)- 文化8年(1811年))は、岡山藩の家老。 父は岡山藩家老土倉一信。母は側室。正室は池田長仍の娘。子は土倉一静。養子は伊木忠順。幼名琳治。通称四郎兵衛。.

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土倉一信

土倉 一信(とくら かずのぶ、享保12年6月27日(1727年8月14日)- 文化7年7月13日(1810年8月12日))は、岡山藩の家老。 父は岡山藩家老土倉一貞。母は側室。正室は日置忠昌の娘。子に土倉一之。幼名は善之丞。通称は市正。号は悟真斎。.

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土倉一ミチ

土倉 一涂(とくら かずみち、元禄4年(1691年)- 正徳元年12月21日(1712年1月28日))は、岡山藩の家老。 兄弟は山崎尭治、京極高通室。正室は鴨方藩主池田政言の娘。養子に土倉一貞。幼名は大五郎。通称は市正。.

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土倉一善

土倉 一善(とくら かずよし/いちぜん)は、江戸時代後期・幕末期の岡山藩の家老。.

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土倉一静

土倉 一静(とくら かずきよ、? - 文政3年(1820年))は、岡山藩の家老。 父は岡山藩家老土倉一之。正室は荒尾駿河の娘。子は土倉一昌室、伊木忠正、伊木忠澄、土倉一善。養子に土倉一昌。幼名は琳治。通称は左膳、市正。 文化8年(1811年)11月、父一之の死去により家督相続し、岡山藩家老、佐伯1万石の領主となる。文化14年(1817年)7月、仕置家老となる。文政3年(1820年)10月没。家督は婿養子の一昌が相続した。 Category:岡山藩士 かすきよ Category:1820年没.

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土倉一貞

土倉 一貞(とくら かずさだ、元禄11年6月12日(1698年7月19日)- 宝暦10年12月4日(1761年1月9日))は、岡山藩の家老。 同母兄に池田長處。正室は池田政森の娘。子は土倉一信。幼名は豊之介。通称は左膳、市正。初名は一明。号は了翁。.

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土倉一長

土倉 一長(とくら かずなが、寛永16年(1639年)- 元禄11年10月6日(1698年11月8日))は、岡山藩の家老。 父は岡山藩家老土倉一成。母は鵜殿大隅の娘。正室は池田長泰の娘。養子に土倉戌千代(一明)、土倉一涂。通称四郎兵衛。 寛永16年(1639年)、岡山藩家老土倉一成の子として岡山に生まれる。天和2年(1682年)、父一成の隠居により家督相続し、岡山藩家老、佐伯1万1000石の領主となる。同年藩主綱政の十一男戌千代を養子に迎える。元禄2年(1689年)戌千代夭折。元禄11年10月6日没。家督は交代寄合山崎義方の次男大五郎(一涂)が養子となって相続した。.

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土倉一成

土倉 一成(とくら かずなり、慶長17年(1612年)- 貞享5年5月7日(1688年6月4日))は、備前岡山藩の家老。 父は岡山藩家老土倉勝看。母は村上周防守の娘。正室は鵜殿大隅の娘。子は一長。通称淡路。 慶長17年(1612年)池田家家老土倉勝看の子として生まれる。寛永4年(1627年)、因幡鳥取藩主であった池田光政に仕え、知行1,000石を賜る。寛永9年(1632年)、光政の岡山転封に伴って、備前磐梨郡佐伯に移る。寛永14年(1637年)、父勝看の死去により家督相続し、岡山藩家老、佐伯1万1,000石の領主となる。明暦3年(1657年)藩主世子綱政の屋形(岡山城西丸)建設のために屋敷を移転した。天和2年(1682年)隠居して一長に家督を譲る。貞享5年5月7日没。.

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土倉一昌

土倉 一昌(とくら かずまさ/いしょう)は、江戸時代後期の備前岡山藩家老。.

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土倉光三郎

土倉 光三郎(とくら みつさぶろう、明治3年3月20日(1870年4月20日) - 1942年(昭和17年)3月7日『平成新修旧華族家系大成』下、p.177)は、明治から昭和戦前期の華族(男爵)。備前岡山藩家老家(佐伯1万石領主)であった土倉家当主。.

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土倉勝看

土倉 勝看(とくら かつみ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。池田氏の家老。備前国佐伯土倉家初代当主。.

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土倉正彦

土倉 正彦(とくら まさひこ)は、江戸時代幕末期の備前岡山藩家老。明治維新後は新政府参与・岡山藩大参事。諱は一享。.

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北島正元

北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。.

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北区 (岡山市)

北区(きたく)は、岡山県岡山市にある行政区。同市の政令指定都市移行に伴い、2009年(平成21年)4月1日に設置された4つの行政区のうちの一つ。同市の市役所、および岡山県庁所在区。同市中心市街を含む北西部を占め、面積・人口・人口増加率とも4区のうちで最大である。また区域は備前国域を中心に、備中国・美作国の三国に渡っている。.

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和気郡

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備前市

備前市(びぜんし)は、岡山県南東部にある市。東部は兵庫県に隣接する。備前焼と耐火煉瓦と漁業の町である。 市の中心部は片上(かたかみ)地区で、ここに行政の中心がある。また、伊部地区に備前焼の作家・陶芸店が集中している。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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児島郡

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児玉幸多

児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた文学博士。学習院大学名誉教授、学習院大学元学長、学習院女子短期大学元学長、品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。.

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八幡和郎

八幡 和郎(やわた かずお、1951年 - )は、日本の元官僚、評論家。徳島文理大学教授とコーポレートガバナンス協会理事を務める。.

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兼六園

兼六園(けんろくえん)は、石川県金沢市にある日本庭園である。国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタール。 17世紀中期、加賀藩により金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の一つに数えられている。2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』には最高評価の3つ星に選ばれた。兼六園の名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用して、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した。春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日本さくら名所100選にも選ばれている。金沢市の中心部に位置し、周辺には成巽閣、石川県立美術館、金沢21世紀美術館、石川県政記念しいのき迎賓館などの観光地があり、道路(百間堀通り)を隔てて橋一本で金沢城公園とも繋がっている。入園は後楽園、栗林公園と同じく有料となっているが、早朝や年末年始・観桜期・金沢百万石まつりの日・お盆・文化の日などの時期は無料開放されている。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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光文社新書

光文社新書(こうぶんしゃしんしょ)は、株式会社光文社が発行する新書レーベル。.

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国宝

建築:宇治上神社本殿覆屋(宇治市) 寺院建築:法隆寺金堂・五重塔(斑鳩町) 城郭建築:姫路城連立天守(姫路市) 絵画:源氏物語絵巻(徳川美術館) 彫刻:臼杵磨崖仏(阿弥陀三尊像) 工芸品:天寿国繍帳(中宮寺) 書跡・典籍:秋萩帖(東京国立博物館) 弘法大師筆尺牘「風信帖」(東寺) 考古資料:人物画像鏡(隅田八幡神社) 歴史資料:慶長遣欧使節関係資料のうちローマ市公民権証書(仙台市博物館) 国宝(こくほう)とは、日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである(文化財保護法第27条第2項)。建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料および歴史資料が指定されている。 法的には、国宝は重要文化財の一種である。国宝・重要文化財の指定手続、指定制度の沿革などについては、重要文化財の項を参照。 なお、いわゆる「人間国宝」とは重要無形文化財に指定された芸能、工芸技術などの保持者として各個認定された者の通称であり、本項で解説する国宝とは異なる。.

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国主

江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、国持大名ともいう。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つである。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源。本国持10家(後12家)及び一国持ちではないが、大領を有した大身国持がある。 陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)を国主扱いにしている。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、志摩一国一円知行の稲垣和泉守(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)。 また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)も国主・国持という家格には加えない。 また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある。.

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倉敷市

倉敷市(くらしきし)は、日本の中国地方、岡山県の南部に位置する市。白壁の町並みが残る倉敷美観地区や本州と四国を結ぶ瀬戸大橋などで知られる。中国地方で三番目の人口を擁し、中核市に指定されている。.

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石上布都魂神社

石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)は、岡山県赤磐市にある神社。式内社、備前国一宮。旧社格は郷社。.

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石高

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。.

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督姫

督姫(良正院)像(東京国立博物館蔵) 督姫(とくひめ、永禄8年11月11日(1565年12月3日)- 慶長20年2月4日(1615年3月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の次女。母は家康最初の側室・西郡局(鵜殿長持の娘)。別名は於普宇、富子、播磨御前、良正院。.

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磐梨郡

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神戸事件

戸事件(こうべじけん)は、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。 この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。 相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。.

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窪屋郡

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美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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熊沢蕃山

沢 蕃山(くまざわ ばんざん、元和5年(1619年) - 元禄4年8月17日(1691年9月9日))は江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。.

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片桐池田家

片桐池田家(かたぎりいけだけ)は、江戸時代の岡山藩主池田氏の一族で備前周匝の領主。.

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百間川

間川(ひゃっけんがわ)は、岡山県岡山市南部にある人工河川。旭川放水路とも呼ばれる。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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菅生 (倉敷市)

菅生(すごう)は、岡山県倉敷市倉敷地域の、倉敷旧市街と中庄地区の北に位置する地区である。 倉敷市の北部にあり、ほぼ旧都窪郡菅生村域にあたり(青江除く)、倉敷市立菅生小学校の学区である。生坂(いくさか)・西坂(にしさか)・三田(みつだ)・浅原(あさばら)・西岡(にしおか)・宮前(みやまえ)・祐安(すけやす)・青江(あおえ)からなる。本項では都窪郡菅生村についても述べる。.

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親藩

親藩しんぱんは、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、狭義の親藩には御三家・御三卿は含まれない。.

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谷口澄夫

谷口 澄夫(たにぐち すみお、 1913年9月30日- 2001年1月15日)は、日本の歴史学者・教育者。.

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豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

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鳥取藩

鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。.

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賀陽郡

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鴨方陣屋

方陣屋(かもがたじんや)は岡山県浅口市鴨方町(備中国浅口郡)にあった鴨方藩の藩庁である。.

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赤坂郡

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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閑谷学校

閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝に指定されている。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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藩校

弘道館(水戸藩) 藩校(はんこう)は、江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校。、、藩学校ともいう。 内容や規模は多様だが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられた。後に、皆に開放された藩校もある。広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。藩校は、藩の費用負担により藩地に設立されたが、一部の例外として江戸藩邸に併設された学校もあった。藩士に月謝の支払い義務はない上に、成績優秀者には藩から就学支援金を給し、江戸等に遊学させることがあった。 全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14〜15歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。 藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味であり、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げる。内容の解釈はともかく、読みの誤謬(読み間違い)、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まる。江戸幕府では10月頃に行われていた。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられる。特に三度の落第者には厳しい厳罰が設けられている。それは藩校によって様々だが、主な厳罰として、嫡男なら相続の際、家禄の減俸。更に親の役職を継ぐにもままならず無役のまま生涯を送ることもなりかねない。.

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邑久郡

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金沢市

金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する、石川県の県庁所在地。旧石川郡および河北郡。1996年4月1日、中核市に指定された。.

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陣屋

復元された兵庫県佐用郡佐用町乃井野の旧三日月藩政庁三日月陣屋 兵庫陣屋絵図/神戸市立博物館蔵 陣屋(じんや)は、江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のことである。.

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陽明学

王守仁(王陽明) 陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた『大辞泉』。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする。.

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森寺長貞

森寺 長貞(もりでら ながさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士。建部池田家(森寺池田家)3代当主。.

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水戸市

水戸市(みとし)は、茨城県の中部に位置する県庁所在地で、施行時特例市である。.

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水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池田博忠

池田 博忠(いけだ ひろただ、享和3年3月15日(1803年5月6日) - 文久2年8月3日(1862年8月27日))は、岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第12代当主。 父は先々代池田博教。通称弁之進、刑部。子は岡山藩執政池田博文。 文化3年(1806年)父博教が急死したとき4歳であったため。叔父池田方智が一時家督した。文政3年(1820年)2月養父方智の隠居により家督を継ぎ、岡山藩家老建部1万石の領主となる。学問を好み、歌人としても活躍した。 天保年間、建部中田の学問所の教員を改選して家中の教育を更に振興した。弘化元年(1844年)8月仕置家老となる。弘化2年(1845年)名を刑部と改める。嘉永5年(1852年)12月、幕府より備前児島洲の開墾を賞され、その責任者として時服を賜る。安政元年(1854年)下屋敷普請を担当した職人の賃金を藩が発行した銀札で支払い、翌日に銀札の切り下げ(安政の札潰れ)を行ったため非難を浴びた。 安政3年(1856年)8月隠居して嫡男博文に家督を譲る。文久2年(1862年)没。享年60。.

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池田博道

池田 博道(いけだ ひろみち、延享5年(1748年) - 文化9年8月4日(1812年9月9日))は、岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第9代当主。 父は岡山藩家老池田俊清。正室は伊木忠知の娘仙。子に池田博教、伊木忠真、池田方智、旗本朽木真綱室。幼名は民之助。通称は弁之進、刑部、右膳、隼人。初名清煕。 延享5年(1748年)、岡山藩家老池田俊清の四男として誕生。嫡男だった兄・勝敬が早世したため、宝暦13年(1763年)に16歳で嫡男となる。明和2年(1765年)4月、父の隠居により家督を継ぐ。 天明8年(1788年)、仕置家老となる。寛政8年(1796年)、藩政改革を志す藩主池田斉政に藩財政悪化の責任を問われ、仕置職を辞職する。 寛政10年(1798年)、御津郡中田村(後の建部村)の別邸に、家臣瀧野善左衛門等に命じて、家中子弟の文武修練のため学問所を設置する。成績の優秀なものには加増し、劣るものには禄を減じた。また、指導にあたる教授には、家禄の他に職俸を給した。 享和3年(1803年)、隠居し嫡男の博教に家督を譲る。文化9年(1812年)8月4日没。次男の忠真は正室仙の実家伊木家に養子入りしている。墓所は阿光山建部池田家墓所(岡山県岡山市北区建部町)。.

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池田博文

池田 博文(いけだ ひろふみ、文政6年12月2日(1824年1月2日) - 明治8年(1875年)9月27日)は、岡山藩執政、大参事。建部池田家(森寺池田家)第13代当主。 父は12代池田博忠。初名忠彦。通称隼人。号聴涛斎。子は池田雄太郎、養子に男爵池田博愛(実池田靫負佑賢長男)。 文政6年、岡山藩家老池田博忠の子として岡山に生まれる。安政3年(1856年)8月、父博忠の隠居により家督相続。 万延元年(1860年)家臣石坂堅壮に命じて岡山内山下に学問所を建設し、西達三郎を招いて家臣の教育に当らせた。文久2年(1862年)11月軍事惣引請となる。慶応2年(1866年)4月、長州藩第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎らが、倉敷代官所と備中浅尾陣屋を襲撃する事件が発生(倉敷浅尾騒動)し追討に当たる。5月、追討の対応について、幕閣や藩内から批判が出たため責任者として隠居蟄居処分となり、家督を養子の博愛に譲る。明治2年(1872年)岡山藩執政となる。明治3年(1873年)岡山藩大参事となる。 明治8年(1875年)没。実子の池田雄太郎は慶応元年(1865年)に誕生。明治36年(1903年)に分家し、明治41年 (1908年)没している。.

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池田博愛

池田 博愛(いけだ ひろのり、嘉永5年11月4日(1852年12月14日) - 昭和2年(1927年)8月15日)は、岡山藩家老建部池田家(森寺池田家)第14代当主。男爵。.

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池田博教

池田 博教(いけだ ひろのり、? - 文化3年8月20日(1806年10月1日))は、岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第10代当主。 父は岡山藩家老池田博道。婚約者は池田政喬の娘小弁。子は池田博忠、池田佑賢。通称震之丞、順之丞、右膳、隼人。 享和3年(1803年)8月、父博道の隠居により家督相続し、岡山藩家老、備前建部1万石の領主となる。文化3年(1806年)8月20日に急死し、弟の方智が家督を継いだ。 ひろのり Category:岡山藩士 Category:18世紀生 Category:1806年没.

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池田太寅

池田 太寅(いけだ たいしん、天和2年7月2日(1682年8月4日) - 享保8年10月9日(1723年11月6日))は、岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第7代当主。 父は6代池田宗春(長尚)。母は日置忠治の娘恵明院。正室は伊木忠義の養女てる(随松院)。養子に池田俊清。通称は刑部。 天和2年(1682年)7月2日、岡山藩家老池田長尚の嫡男として誕生。貞享2年(1685年)、父長尚の死により4歳で家督相続した。幼少のため、当初は家老森寺庄右衛門が名代となった。元禄11年(1698年)2月、母恵明院(日置金子)が死去した。元禄12年(1699年)、刑部と名を改める。元禄13年(1700年)、江戸家老となる。宝永元年(1704年)、日置忠明と共に、江戸藩邸を訪れた伯父の加賀藩家老今枝直方(忠明の弟で、母恵明院の兄)と初めて対面する。宝永3年(1706年)、仕置家老となる。享保8年(1723年)10月9日没。享年42。家督は母方の従弟俊清(日置忠明末子)を養子に迎えた。正室てる(随松院)は寛保3年(1743年)没している。.

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池田宗春

池田 宗春(いけだ むねはる、承応2年(1653年) - 貞享2年9月14日(1685年10月11日))は、岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第6代当主。 父は5代池田長泰。母は池田利政の娘森昌院。通称隼人。初名は長尚。正室は日置忠治の娘恵明院。子は池田太寅、伊木忠義室。 承応2年(1653年)、岡山藩家老池田長泰の嫡男として誕生する。明暦3年(1657年)、父長泰の死去により知行のうち1万石を相続し、仕置家老となる。延宝2年(1674年)、領内の天神宮を再建、子孫累代崇敬し、筏祀科を献納した。延宝4年(1676年)、病により仕置家老を辞職する。貞享2年(1685年)9月14日没。享年33。墓所は阿光山建部池田家墓所(岡山県岡山市北区建部町)。 家督は嫡男の太寅が相続した。正室の恵明院は元禄11年(1698年)2月18日没。.

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池田宗政

池田 宗政(いけだ むねまさ)は、備前岡山藩の第4代藩主。岡山藩池田家宗家6代。.

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池田俊清

池田 俊清(いけだ としきよ、宝永4年12月2日(1707年12月25日) - 明和2年6月9日(1765年7月26日))は、岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第8代当主。 父は岡山藩家老日置忠明。母は理性院。正室は広島藩家老上田主水妹。子は池田勝敬、乾長孝、池田博道(清煕)。養女に五条為俊室里子(土肥経平の娘)。幼名七介。通称右膳、隼人。 宝永4年(1707年)12月2日、日置忠明の子として誕生する。享保8年(1723年)、従兄の家老池田太寅の養子となり、建部池田家を相続する。同年、藩主池田継政に御目見する。名を右膳と改める。寛保3年(1743年)閏4月、仕置家老となり名を隼人と改める。宝暦6年(1756年)、実母の理性院が死去する。宝暦12年(1762年)、嫡男の政之介(勝敬)が死去し、四男の民之助(清煕)を新たに嫡男とする。宝暦14年(1764年)、牛窓で朝鮮通信使の接待役を務める。明和2年(1765年)4月、隠居し清煕に家督を譲る。同年6月9日没。墓所は阿光山建部池田家墓所(岡山県岡山市北区建部町)。 次男の長孝は鳥取藩家老乾家を継いでいる。また、長男勝敬の許婚であった里子(土肥経平の娘)を養女として公家五条為俊に嫁がせている。.

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池田忠継

池田忠継廟 池田 忠継(いけだ ただつぐ)は、備前岡山藩初代藩主。鳥取藩池田家宗家初代。播磨姫路藩主・池田輝政の次男(実は五男)。母は徳川家康の次女・督姫。.

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池田忠雄

忠雄墓碑(通称・芋墓) 池田 忠雄(いけだ ただかつ)は、江戸時代前期の大名。淡路国洲本藩主、のち備前国岡山藩第2代藩主。鳥取藩池田家宗家2代。播磨姫路藩主・池田輝政の三男(実は六男)。母は徳川家康の次女・督姫。岡山藩初代藩主・池田忠継の同母弟。.

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池田光仲

池田 光仲(いけだ みつなか)は、因幡鳥取藩初代藩主。鳥取藩池田家宗家3代。幼名は勝五郎。徳川家康の外曾孫であり、別姓は松平氏。.

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池田光政

池田光政夫妻墓所 池田 光政(いけだ みつまさ)は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田宗家3代。.

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池田章政

池田 章政(いけだ あきまさ)は、備中鴨方藩の第9代藩主、のち備前岡山藩の第10代(最後の)藩主。岡山藩池田家宗家の第12代当主。栄典は従一位勲一等侯爵、麝香間祗候。 肥後人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。正室は戸田氏正の娘鑑子。子は政保(長男)、詮政(次男)。備前守、侍従、左近衛権少将。幼名は満次郎。鴨方藩主時代の名乗りは池田 政詮(いけだ まさのり)。 頼之の祖父の相良長寛は岡山藩の第4代藩主池田宗政と正室(宝源院・黒田継高の長女)の次男であり、章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。.

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池田綱政

池田 綱政(いけだ つなまさ)は、備前岡山藩の第2代藩主。岡山藩池田家宗家4代。 幼名は太郎。初名は興輝(おきてる)、のちに将軍・徳川家綱と父・池田光政より偏諱の授与を受け、綱政に改名。後楽園造営で有名な人物である。.

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池田継政

池田 継政(いけだ つぐまさ)は、備前岡山藩の第3代藩主。天城池田家第5代当主。岡山藩池田家宗家5代。第2代藩主・池田綱政の四男。母は綱政の側室で京都出身の栄光院。.

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池田由孝

池田 由孝(いけだ よしたか)は、江戸時代前期の岡山藩の家老。天城池田家3代当主。.

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池田由之

池田 由之(いけだ よしゆき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。天城池田家初代。.

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池田由勝

池田 由勝(いけだ よしかつ)は、江戸時代前期の岡山藩の家老。天城池田家第4代当主。.

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池田由成

池田 由成(いけだ よしなり)は、江戸時代初期の備前岡山藩池田氏の家臣。天城池田家2代当主。.

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池田輝録

池田 輝録(いけだ てるとし、慶安2年11月11日(1649年12月14日) - 正徳3年11月26日(1714年1月12日))は、備中生坂藩の初代藩主。 岡山藩主・池田光政の三男で庶子。母は側室・和田伝右衛門の娘・利清院。正室は若原一成の娘(浄円院)。側室に広田氏。子は池田輝廉(次男、通仙院)。官位は従五位下、丹波守。通称主税、初名は熊沢政倫。.

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池田輝政

池田 輝政(いけだ てるまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。.

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池田茂政

池田 茂政(いけだ もちまさ)は、備前岡山藩の第9代藩主。岡山藩池田家宗家11代。名は茂政のほか、松平昭休、松平忠矩、池田修政。位階勲等は従一位勲二等。 常陸水戸藩主・徳川斉昭の九男。正室は池田慶政の娘・萬寿子。子は池田勝吉(長男)、西尾勝順(次男・西尾忠篤養子のち離縁)、娘(堀川護麿室)、娘(中川久任正室)、娘(佐々木祐哲室)、娘(泉谷祐勝室)。 主な兄弟に水戸藩主徳川慶篤と昭武、鳥取藩主池田慶徳、そして江戸幕府第15代将軍徳川慶喜がいる。.

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池田長吉

池田 長吉(いけだ ながよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。池田恒興の三男。長吉流池田家初代当主で、因幡鳥取藩初代藩主。.

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池田長常 (片桐池田家)

池田 長常(いけだ ながつね、文政3年(1820年) - 明治9年(1876年)10月23日)は、岡山藩の家老、執政。片桐池田家第10代当主。 父は岡山藩家老池田長貞。子は池田長準、花房職居室。通称は大学、伊賀、近江、謙堂。号無適斎。.

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池田長久

池田 長久(いけだ ながひさ、正保2年(1645年)- 元禄10年5月18日(1697年7月6日))は、岡山藩の家老。片桐池田家第3代当主。 父は岡山藩家老池田長明。母は側室。正室は加藤泰義の娘。子は池田長喬。幼名は勝八。通称は大学。.

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池田長仍

池田 長仍(いけだ ながゆき、享保10年(1725年)- 寛政8年(1796年))は、岡山藩の家老。片桐池田家第6代当主。 父は岡山藩家老池田長處。母は側室。正室は生坂藩主池田政晴の娘。子は土倉一之室。養子は池田長玄。幼名広助。通称は主殿、大和、近江。.

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池田長喬 (片桐池田家)

池田 長喬(いけだ ながたか、延宝4年(1676年)- 享保8年4月18日(1723年5月22日))は、岡山藩の家老。片桐池田家第4代当主。 父は岡山藩家老池田長久。母加藤泰義の娘。正室は伊木幸和の娘。子は池田長處、土倉一貞(一明)、伊木忠知。幼名広助。通称は靫負、主殿。.

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池田長玄

池田 長玄(いけだ ながよし、寛保元年(1741年)- 文化11年(1814年))は、岡山藩の家老。片桐池田家第7代当主。 父は岡山藩家老池田長處。養父は池田長仍。正室は池田政喬の養女(池田政辰の娘)濤子。養子に池田長紀。幼名衛守。通称は斎宮助、大和。.

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池田長紀

池田 長紀(いけだ ながのり)は、岡山藩の家老。片桐池田家第7代当主。.

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池田長貞

池田 長貞(いけだ ながさだ、寛政10年(1798年)- 嘉永6年(1853年))は、岡山藩の家老。片桐池田家第9代当主。 父は生坂藩主池田政恭。養父は岡山藩家老池田長紀。子は池田長常。幼名は岩之丞。通称は但見、伊賀。.

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池田長處

池田 長處(いけだ ながつね、元禄9年(1696年)- 宝暦4年10月22日(1754年12月5日))は、岡山藩の家老。片桐池田家第5代当主。 父は岡山藩家老池田長喬。母は伊木幸和の娘。正室は伊木忠義の娘。子は池田長仍、池田長玄、池田政辰室、日置忠芳室。幼名は梅之助、広介。通称は但見、大学。.

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池田長泰

池田 長泰(いけだ ながやす、寛永3年(1626年) - 明暦3年2月26日(1657年4月9日))は、備前岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第5代当主。 父は備中松山藩主・池田長幸。正室は池田利政の娘・森昌院。子は嫡男の長尚(宗春)、土倉一長室。通称下総。 寛永3年(1626年)、池田長幸の四男として備中松山で誕生した。岡山藩家老の叔父長政の養子となり、寛永12年(1635年)に家督相続、建部1万4,000石の領主となる。寛永18年(1641年)、実家の松山藩が、藩主の長兄長常が没し末期養子を認められず改易となる。三兄長信は1,000石を与えられ旗本となった。明暦3年(1657年)2月26日没。享年32。家督は嫡男長尚が相続した。正室の森昌院は、宝永4年(1707年)12月6日に84歳で没している。.

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池田長準

池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年(1853年)- 大正2年(1913年)3月4日)は、岡山藩の家老。片桐池田家第11代当主。男爵。 父は岡山藩家老池田長常。妻は一条実良の娘福(亨子)。養子は池田長康。通称は競、主殿、采女助。初名は長知。.

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池田長明

池田 長明(いけだ ながあき、慶長11年(1606年)- 延宝7年3月7日(1679年4月17日))は、岡山藩の家老。片桐池田家第2代当主。 父は岡山藩家老池田長政。母は加藤嘉明の娘。子は池田長重、池田長久。幼名新吉。通称は河内、伊賀。.

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池田長政

池田 長政(いけだ ながまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。片桐池田家初代。.

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池田長政 (建部池田家)

池田 長政(いけだ ながまさ、天正17年(1589年) - 寛永11年6月29日(1634年7月24日))は、岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第4代当主。 池田長吉の三男。母は池田家家老伊木忠次の娘。通称は長門、下総。養子に池田長泰。 天正17年(1589年)、京都聚楽第の池田家屋敷で池田輝政の弟・長吉の三男として誕生する。池田家家臣・森寺忠勝の家督を継いでいた慶長11年(1606年)、兄長貞が夭折したため、翌慶長12年(1607年)にその養子となって家督を相続した。知行高1万4000石。筆頭家老に伊木長門忠繁がいたため、藩主の命で通称を長門から下総に改める。後に森寺から池田氏に改めた。元和3年(1617年)、主君池田光政の因幡・伯耆国への移封に伴い、伯耆黒坂に移る。寛永9年(1632年)、光政の備前岡山への移封に伴い、備前建部に移り、陣屋(幕府を憚り御茶屋と称した)を構え代々領したため建部池田家と呼ばれた。寛永11年(1634年)6月29日没。家督は兄長幸の四男の長泰が養子となって相続した。.

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池田恒元

池田 恒元(いけだ つねもと、慶長16年(1611年) - 寛文11年9月4日(1671年10月6日))は、備前児島藩主、のち播磨山崎藩の初代藩主。恒元系池田家初代。 播磨姫路藩主・池田利隆の次男で、備前岡山藩主・池田光政の弟である。母は榊原康政の娘(徳川秀忠の養女)・鶴姫。正室は桑名藩主・久松松平定勝の娘・玉子。子に政周(長男)、娘(板倉重良正室)、蕃子(池田重教正室)、娘(竹中重長正室のち池田政弘室)。官位は従五位下、備後守。幼名は三五郎。 慶安元年(1648年)、2万石を与えられて児島藩を立藩したが、慶安2年(1649年)から山崎藩主となる。翌年から検地や治水工事、山林の保護、交通路の整備、村落制度の制定などを行なって藩政の確立に尽力した。承応元年(1652年)から城下町で火事が起こり、さらに疫病が流行するなどしたが、このときも万全の対応を行って領民を救う手腕を見せた、兄に劣らぬ名君であった。寛文11年(1671年)9月4日、61歳で死去し、跡を長男の政周が継いだ。墓所は和意谷池田家墓所。法号は盛徳院殿鉄岩玄心大居士。 つねもと Category:外様大名 Category:山崎藩主 Category:備前国の藩主 Category:岡山藩の人物 Category:1611年生 Category:1671年没.

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池田恒興

池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。池田恒利の子。子に元助、輝政など。 尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道し勝入と号した。諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。.

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池田氏

池田氏(いけだし)は、日本の氏族の一つ。諸国の「池田」の地名(池田荘・池田郷など)を発祥とする氏族。.

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池田治政

池田 治政(いけだ はるまさ)は、備前岡山藩の第5代藩主。岡山藩池田家宗家7代。.

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池田斉政

池田 斉政(いけだ なりまさ)は、備前岡山藩の第6代藩主。岡山藩池田家宗家8代。.

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池田斉敏

池田 斉敏(いけだ なりとし)は、備前岡山藩の第7代藩主。岡山藩池田家宗家9代。.

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池田政孝

池田 政孝(いけだ まさたか)は、江戸時代後期の備前岡山藩家老。天城池田家第8代当主。.

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池田政広

池田 政広(いけだ まさひろ、文化7年12月9日(1811年1月3日) - 天保10年8月21日(1839年9月28日)『お家相続 大名家の苦闘』p.89)は、備中鴨方藩の(当初の)第8代藩主。第6代藩主・池田政養の三男または四男。母は岡山藩主池田治政の娘・兼子(瑞松院)。幼名は甚次郎。諱は初め奄有、のち政広、また政徳。内密で異母弟の池田政善とすり替わり、藩主を退いた後に栄(さかえ)を名乗ったが、公式には政広と政善は同一人物で、栄とは別人とされた。 父政養の死後、同母兄の政共が家督を継いでいたが、政共は文政7年5月22日(1824年6月18日)に数え19歳で早世した。政共に子はなく、仮養子に指名されていた15歳の甚次郎がそのまま末期養子として家督を継いだ『お家相続 大名家の苦闘』p94-100。 しかし甚次郎は生来病弱であり、相続にともなう幕府への手続きや諸行事にその都度名代を立てて対応しなければならなかった『お家相続 大名家の苦闘』p93-94。甚次郎が17歳になるのを待って、その後に改めて甚次郎の跡を継ぐ養子を届け出ることも考えられたが、それまでに元服や将軍への御目見が無事に実現するかも危ぶまれた上、頻繁に当主が交代しては諸行事にともなう経済的負担も大きかった。 そこで鴨方池田家は、甚次郎と6か月違い(数え年では1歳下)の庶出の異母弟である虎吉を身代わりに立てることにした。虎吉はすでに、池田家の家中ではしばしば付き添いとして、甚次郎が当主としてふるまう場に立ち会っていた。文政8年5月1日(1825年6月16日)、虎吉は異母兄に代わって「甚次郎政広」を名乗り、家督を相続することとなった。間もなく諱を政敏と改め、翌文政9年(1826年)に将軍徳川家斉に初御目見し、元服した。翌年にはさらに政善と改めた『お家相続 大名家の苦闘』p88-92。 一方、弟に当主と自身の名を譲った元の甚次郎は、本家の岡山藩主池田斉政から「栄」の名(仮名)を贈られて、以後これを名乗り、また剃髪した。 この兄弟の入れ替わりは内密に行われた。そのため、池田家家内の史料である「池田氏系譜」には記録されているが、『寛政重修諸家譜』や明治政府に提出した「家系・家譜」では、政共の跡を嫡出の同母弟の政善(甚次郎)が継ぎ、彼らの庶出の弟であった政徳(虎吉)が栄を名乗ったことになっている。.

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池田政弼

池田 政弼(いけだ まさすけ、寛保2年7月27日(1742年8月27日) - 安永5年7月25日(1776年9月7日)『お家相続 大名家の苦闘』p.76-77)は、備中生坂藩の第4代藩主。 第2代藩主・池田政晴の三男。正室は松平直純の娘・利佐姫(真明院)。子は池田政峰(長男、届出上は三男)、池田政房(次男、届出上は四男)、娘(竹中重寛正室)。養子に池田政良、秀次郎(いずれも池田政員の子、届出上はそれぞれ長男と次男)『お家相続 大名家の苦闘』p.59-63。官位は従五位下。丹波守。幼名は永次郎。 明和4年(1767年)、兄で先代藩主の政員が死去したため、その養嗣子となって跡を継いだ。 安永5年(1776年)7月25日、35歳で死去した。ただし、幕府には4日後の7月29日死去として届出された。法名は持光院殿観海帷聞大居士。 前年に生まれたばかりの正室との息子の政房が跡を継いだが、翌安永6年(1777年)に夭逝したため、宗家の岡山藩主池田治政の庶長子で、いまだに幕府に出生を届け出ていなかった鉄三郎が密かに岡山から江戸まで迎えられ、身代わりに立てられて政房を名乗り、のち政恭と名を改めた。.

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池田政徳

池田 政徳(いけだ まさよし)は、江戸時代後期の備前岡山藩の家老。天城池田家第9代当主。.

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池田政保

池田 政保(いけだ まさやす、元治元年12月10日(1865年1月7日) - 昭和14年(1939年)2月10日)は、備中国鴨方藩の第10代(最後)の藩主、子爵。 第9代鴨方藩主で岡山藩の第10代藩主となった池田章政(政詮)の長男。正室は池田慶政の娘、継室は戸田氏良の娘。養子に池田政鋹(弟・詮政の次男)。官位は従五位。幼名は満次郎。 慶応4年(1868年)3月15日、父・章政が宗家の岡山藩を継承したため、その跡を受けて幼くして鴨方藩主となる。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官され、9月に東京へ移った。明治17年(1884年)7月には華族令により子爵となる。 昭和14年(1939年)2月10日、満74歳で死去した。法名は高雲院。 まさやす *10 Category:幕末の大名 Category:幕末岡山藩の人物 Category:日本の子爵 Category:1865年生 Category:1939年没.

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池田政喬

池田 政喬(いけだ まさたか)は、岡山藩の家老。天城池田家第7代当主。.

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池田政善

池田 政善(いけだ まさよし、文化8年5月9日(1811年6月29日) - 弘化3年10月4日(1846年11月22日))は、備中国鴨方藩の(2人目の)第8代藩主。 第6代藩主・池田政養の三男または四男。母は側室・岩田氏『お家相続 大名家の苦闘』p.102-103。正室は山内豊敬の養女(福原資敬の娘)。子に政樹、宇多子(池田慶政正室)。官位は従五位下、信濃守。幼名は虎吉、甚次郎。諱は初め政広、のち政敏、政善。内密で異母兄の池田政広とすり替わって家督を継いだが、公式には政広と政善は同一人物とされた。 文政7年(1824年)、兄で先代藩主の政共が早世した際、その末期養子として跡を継いだ、というのが公式上の記録である(実情は後述する)。文政9年(1826年)1月28日に将軍徳川家斉に初御目見し、元服する『お家相続 大名家の苦闘』p.90。同年5月には藩主として初めて岡山へ帰国し(鴨方藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住した)、翌文政10年(1827年)から諱を政善と名乗るようになった。 弘化3年(1846年)10月4日、在所で死去したものの、鴨方藩は幕府に死亡届けを出さなかった。病弱な嫡子・政樹の相続を避けようとしたためと考えられる。弘化4年(1847年)3月13日、病気を理由に幕府に参勤交代の延期を願う。同年3月17日、政樹の廃嫡願を提出する。同年4月26日、急養子願を提出し、池田政詮(後の池田章政)の相続を願う。同年4月27日(1847年6月10日)、幕府に死亡届けを出した。公的には、同日に37歳(数え年)で死去したことになっている。.

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池田政和 (天城池田家)

池田 政和(いけだ まさやす)は、天城池田家の第11代当主。幕末期に幼くして備前岡山藩家老となり、明治維新後は華族に列して男爵に叙せられた。.

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池田政和 (生坂藩主)

池田 政和(いけだ まさかず)は、江戸時代後期の大名。備中国生坂藩7代藩主。 文政4年(1821年)、一族で6000石を領した大身旗本・池田喜長の次男として誕生。 生坂藩6代藩主・池田政範には二人の女児しかなかったため、養嗣子として迎えられ、天保10年(1839年)正月23日に政範の隠居によって跡を継いだ。安政元年(1854年)、本家の岡山藩8代藩主・池田慶政と共に房総半島の警備を務めた。安政2年(1855年)12月27日、家督を次男・政礼に譲って隠居した。 安政5年(1858年)2月4日、死去。享年38。 まさかす *07 Category:幕末の大名 Category:幕末岡山藩の人物 Category:1821年生 Category:1858年没.

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池田政員

池田 政員(いけだ まさかず、元文2年10月23日(1737年11月15日) - 明和4年1月29日(1767年2月27日))は、備中国生坂藩の第3代藩主。 第2代藩主・政晴の次男。母は池田政倚の娘。正室は池田政純(池田綱政五男)の娘。官位は従五位下、中務少輔。幼名は泰太郎。通称は伊織。子は池田政良、秀次郎(両人とも公式には弟政弼の子とされた)。 寛延元年(1748年)、父の死去で跡を継ぐ。明和4年(1767年)正月29日、31歳で死去した。法名は承徳院殿佑邦宗賢大居士。跡を弟の政弼が継いだ。.

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池田政共

池田 政共(いけだ まさとも、文化3年11月2日(1806年12月11日) - 文政7年5月22日大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書)p.94-100(1824年6月18日))は、備中国鴨方藩の第7代藩主。 第6代藩主・池田政養の長男。母は池田治政の娘・兼子(瑞松院)。正室は松平忠馮の娘。官位は従五位下、信濃守。幼名は陽吉、勇吉。 文政2年(1819年)、父の死去により跡を継ぐ。文政7年(1824年)5月22日、国元へ向かう途上、摂津国郡山(現大阪府茨木市)にて19歳で死去した。ただし、幕府には6月28日(1824年7月24日)死亡として届出された。跡を同母弟の政広が一旦は継いだが、病弱なため内密に異母弟の政善にすり替わった。墓所は岡山県岡山市中区小橋町の国清寺。.

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池田政倚

池田 政倚(いけだ まさより、寛文9年1月27日(1669年2月27日) - 延享4年7月4日(1747年8月9日))は、備中国鴨方藩の第2代藩主。 初代藩主・池田政言の長男。母は浦上氏。正室は池田綱政の養女(滝川一宗の娘、宝雲院)。子に池田政含(長男、鍛治之助・早世)、娘(池田政晴正室)。養子に池田輝言(池田軌隆の次男、病により廃嫡され本家に戻る)、池田軌明(池田軌隆の三男、病により廃嫡され本家に戻る)、池田政方(池田由道の次男)。官位は従五位下。内匠頭。通称は内匠。初名は政熙。 元禄13年(1700年)、父の死去で家督を継ぐ。宝永6年(1709年)7月、内裏の造営手伝い普請を務めた。元文3年(1738年)2月16日、養嗣子の政方に家督を譲って隠居し、延享4年(1747年)7月4日に岡山で死去した。享年79。法名は禅通院殿蘭渓良秀大居士。墓所は岡山県岡山市中区小橋町の国清寺。 まさより *02 Category:1669年生 Category:1747年没.

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池田政礼

池田 政礼(いけだ まさのり、嘉永2年12月17日(1850年1月29日) - 明治40年(1907年)10月7日)は、備中生坂藩の第8代(最後)の藩主。名の表記は池田政禮とも(旧字体)。 第7代藩主・池田政和の次男。正室は上杉斉憲の娘。養子に池田政時(本家岡山藩主池田慶政の子)。官位は従五位下、丹波守。幼名は日升丸。 安政2年(1855年)12月27日、父の隠居により家督を継ぐ。文久3年(1863年)、上京して御所の警備を務めた。慶応3年(1867年)12月に再び上京して、翌慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では本家の岡山藩と共に、新政府軍に与した。そして大津口の警備や尾張藩への進軍などで功を挙げている。明治3年(1870年)正月、生坂藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により免職され、9月に東京に移った。後に子爵となり、明治40年(1907年)に死去。養子の政時が跡を継いだ。政時は実子の政良が早世したため、養子として政英(姉小路公政の子)を迎えた。政時、政英もまた子爵となっている。.

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池田政範

池田 政範(いけだ まさのり、寛政8年2月7日(1796年3月15日) - 天保15年3月27日(1844年5月14日))は、備中生坂藩の第6代藩主。 第5代藩主・池田政恭の長男。正室は松平直周の娘・慶寿院。官位は従五位下、丹波守。幼名は全之丞、帯刀。 文政5年(1822年)11月21日、父の隠居により家督を継ぐ。天保10年(1839年)正月23日、養嗣子の政和に家督を譲って隠居し、天保15年(1844年)3月27日に49歳で死去した。法名は大円院殿。 まさのり *06 Category:1796年生 Category:1844年没.

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池田政純

池田 政純(いけだ まさずみ)は、岡山藩の家老。天城池田家第6代当主。.

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池田政直 (鴨方藩主)

池田 政直(いけだ まさなお、延享3年1月27日(1746年3月18日) - 文政元年8月16日(1818年9月16日))は、江戸時代中期の大名。備中国鴨方藩の第5代藩主。 第3代藩主・池田政方の次男。正室は毛利政苗の娘(桂厳院)。子に池田政養(長男)、池田政長(次男、武二郎)、池田長義(三男、慶太郎・修理、 池田長恵養子)、娘(四辻公万室)、娘(松平忠元継室)。官位は従五位下、信濃守。幼名は陽助。 明和5年(1768年)、兄で先代藩主の政香が死去したため、その養嗣子となって跡を継いだ。寛政12年(1800年)8月26日、長男・政養に家督を譲って隠居し、文政元年(1818年)8月16日に73歳で死去した。法名は天寥院殿。 まさなお *05 Category:1746年生 Category:1818年没.

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池田政養

池田 政養(いけだ まさよし、安永元年12月8日(1772年12月31日) - 文政2年7月3日(1819年8月23日))は、備中国鴨方藩の第6代藩主。 第5代藩主・池田政直の長男。正室は池田治政の娘・兼子(瑞松院)。子に池田政共、 池田政広(栄)、池田政善、水野元茂など。官位は従五位下、内匠頭。幼名は陽助。 寛政12年(1800年)8月26日、父の隠居により跡を継ぐ。文政2年(1819年)7月3日、48歳で死去する。法名は養賢院殿。跡を嫡男の政共が継いだ。 まさよし *06 Category:1772年生 Category:1819年没.

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池田政香

池田 政香(いけだ まさか、元文6年2月14日(1741年3月30日) - 明和5年8月25日(1768年10月5日))は、備中国鴨方藩の第4代藩主。 第3代藩主・池田政方の長男。母は三村氏。正室は松平信復の娘・振(瑤仙院)。継室は森俊春の娘(瑞明院)。官位は従五位下、内匠頭。幼名は春五郎。通称は兵部。 宝暦10年(1760年)3月14日、父の隠居により家督を継ぐ。藩主としては有能で温厚篤実な人物だった。特に朱子学に優れており、自ら藩校に出向いて学者や学生と討論するほどであった。その才能には本家の岡山藩主・池田継政も「内匠(政香)は尋常の人に非ず。万端に心を用ひ、及ばざること遠し。誠に国宝といふべきなり」と高く評価している。しかし明和5年(1768年)8月25日、28歳で死去した。死後、家督は弟の政直が継いだ。法名は円海院殿玄如禅哲大居士。墓所は岡山県岡山市中区小橋町の国清寺。 家臣の浦上玉堂は、政香の若すぎる死を惜しんで、「止仁録」という政香の一代記を著作している。 まさか *04 Category:1741年生 Category:1768年没.

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池田政言

池田 政言(いけだ まさこと、正保2年7月10日(1645年8月31日) - 元禄13年8月19日(1700年10月1日))は、備中鴨方藩の初代藩主。 備前岡山藩主・池田光政の次男で庶子。母は側室・讃岐丸亀藩士の水野勝之進の娘。正室は番氏朋の娘。側室に浦上氏。子は池田政倚(長男)、娘(山内豊清正室)、娘(土倉一涂室)。官位は従五位下、信濃守。幼名は左門。初名は恒能。 慶安2年(1649年)、池田政信の養嗣子となる。寛文12年(1672年)、父・光政の隠居と兄・綱政の藩主就任により、2万5,000石を分与されて支藩である鴨方藩を立藩した。藩政においては文武両道で和歌に優れ、道徳ある善政を敷いたと、父の光政と同じく名君として高く評価されている。元禄13年(1700年)8月19日、56歳で死去。法名は天珪院殿性月自光大居士。跡は長男・政倚が継いだ。 まさこと *01 Category:1645年生 Category:1700年没.

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池田政恭

池田 政恭(いけだ まさゆき、安永元年10月11日(1772年11月5日) - 文政10年7月30日(1827年9月20日))は、備中生坂藩の(2人目の)第5代藩主。家督相続の翌年に夭逝した池田政房の身代わりで擁立されたが、公式には同一人物とされた。 公式には第4代藩主・池田政弼の四男とされたが、実際には岡山藩主池田治政が側室の柏尾氏(池田家家臣の娘)との間にもうけた庶出の長男である大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書)p.72-85。正室は溝口直養の娘(梅岑院)。子は池田政範(長男)、池田長貞(次男)、池田政徳(三男)。官位は従五位下、山城守。幼名は鉄次郎、鉄三郎、永次郎、初之進。 池田家の史料である「池田氏系譜」によると、安永元年(1772年)10月11日、岡山において池田治政の長男として生まれた。治政の正室・米姫は当時懐妊中で、翌安永2年(1773年)に次男の斉政が生まれ、嫡男として幕府に届出された。安永4年(1775年)には三男の政芳が米姫の子として生まれ、届出されたが、政恭は公式には届出がなされないまま、国元の岡山で養育された。 生坂池田家で安永5年(1776年)7月25日に政弼が死去した際、すでに嫡男として届出ずみであった政弼の次男(公式には四男)の永次郎(池田政房)が満1歳(数え2歳)で跡を継いだ。しかし、永次郎は翌安永6年(1777年)3月11日に江戸藩邸にて夭逝した。そこで年齢が近く、幕府にいまだ出生の届出がなかった池田宗家の庶子・鉄三郎が江戸へ呼び寄せられ、密かに身代わりに立てられて永次郎政房を名乗った。安永8年に通称を初之進、諱を政恭に改めたが、本来の政房の身代わりのため、幕府の公式記録では実際より3歳年少の安永4年生まれとされている。寛政2年(1790年)に将軍徳川家斉に初御目見し、従五位下山城守に叙任される。翌寛政3年(1791年)に岡山へ帰国する(生坂藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住した)。 文政5年(1822年)11月21日、長男の政範に家督を譲って隠居し、文政10年(1827年)7月晦日に死去した。法号は大機院殿前城州刺使心源宗徹大居士。墓所は岡山県岡山市中区小橋町の国清寺。.

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池田政房

池田 政房(いけだ まさふさ、安永4年7月8日(1775年8月3日) - 安永6年3月11日(1777年4月18日)『お家相続 大名家の苦闘』p.78-81)は、備中生坂藩の(当初の)第5代藩主である。幼名は永次郎。家督相続の翌年に夭逝し、身代わりで池田政恭が擁立されたが、公式には同一人物とされた。 公式には第4代藩主・池田政弼の四男とされたが、実際には次男であった。これは、第3代藩主の政員がまだ幼い息子を後継指名するのを避け、弟の政弼を養子とした際、政員には実子がいないことにして幕府に届け出たことに起因する『お家相続 大名家の苦闘』p.59-63。政弼は明和4年(1767年)に家督相続して間もなく、兄の息子2人(豊之助政良、秀次郎)を自身の部屋住み時代の庶子として届け出、そののち安永元年(1772年)に政良を継嗣と定めた。政良と秀次郎の早世後、政弼は庶出の長男(届出上は三男)の巴三(池田政峰)を幕府に庶子として届け出、そののち正室の利佐姫(松平直純の娘)に永次郎が生まれたため、これを継嗣として届け出た。 安永5年(1776年)7月25日に政弼が死去すると、満1歳(数え2歳)の永次郎政房が跡を継いだ。しかし、永次郎は翌安永6年3月11日に早世した。永次郎の死を表立って幕府に報告すれば生坂池田家の断絶は避けられず、密かに身代わりの当主を立てることが、本家の岡山藩池田家の主導で画策された。永次郎の庶兄の巴三は幕府へ届け出済みのため身代わりにはできず、岡山藩主池田治政の庶長子でいまだ出生の届け出がなかった鉄三郎が選ばれ、永次郎政房を名乗ったのち、初之進政恭と改めた。一方、本来の永次郎は無届けのまま密かに東禅寺に葬られた。しかし表向きは、政弼の嫡子の永次郎政房が初之進政恭と改名したことにされた。.

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池田政昭

池田 政昭(いけだ まさあき)は、江戸時代後期の備前岡山藩の家老。天城池田家第10代当主。.

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池田政方

池田 政方(いけだ まさみち、正徳3年12月2日(1714年1月17日) - 寛政3年12月20日(1792年1月13日))は、備中国鴨方藩の第3代藩主。 一族の大身旗本・池田由道の次男。母は坂本氏。子に池田政香(長男)、池田政直(次男)、本間季能(四男、帯刀・本間季道養子)、池田政宣(七男、吉十郎・右門・池田長置養子)、竹中重寛(十男、竹中元儔養子)、池田方教(十一男、賢之助・采女 池田政朗養子)、池田頼功(十三男、池田頼完養子)、娘(大関増備正室)、娘(内藤忠見継室)、娘(島津久般正室)、娘(京極高厚継室)、娘(酒井忠啓正室)、娘(稲垣照敦室のち井戸弘俊室)、娘(牧野成賢室)、娘(池田直好養女)、娘(逸見長祥正室)、娘(依田守甫室)。官位は従五位下、信濃守。通称は兵部。号は長閑斎。 元文2年(1737年)9月、先代藩主・政倚の養嗣子となる。翌元文3年(1738年)2月16日、政倚が隠居したため家督を継いだ。宝暦10年(1760年)3月14日、隠居して家督を長男・政香に譲り、寛政3年(1791年)12月20日に79歳で死去した。法名は大興院殿長閑徳翁大居士。 まさみち *03 Category:1714年生 Category:1792年没.

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池田政晴

池田 政晴(いけだ まさはる、宝永元年(1704年) - 寛延元年9月11日(1748年10月3日))は、備中生坂藩の第2代藩主。 池田軌隆(岡山藩主・池田綱政の次男)の長男。母は広田氏。正室は池田政倚の娘。子に鵜殿政長(長男、峯之助・徳十郎、鳥取藩士・鵜殿央堯養子)、池田政員(次男)、池田政弼(三男)、池田長恵(四男、辰之助・與五郎、池田政倫養子)、娘(池田長仍室)、娘(山内豊産正室)、娘(松平忠庸正室)、娘(甲斐庄正堅正室)。官位は従五位下、丹波守。幼名は善太郎。 先代藩主・輝録の世子・輝廉が早世したため、宝永5年(1708年)に輝録の養嗣子として迎えられた。正徳3年(1713年)11月に輝録が死去したため、翌年2月19日にその跡を継いだ。 寛延元年(1748年)9月11日に45歳で死去した。法名は隆興院殿雲巌宗観大居士。跡を次男・政員が継いだ。 まさはる *02 Category:1704年生 Category:1748年没.

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池田慶徳

池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末の大名。因幡国鳥取藩12代(最後)の藩主、のち鳥取知藩事。鳥取藩池田家宗家14代。 常陸水戸藩主・徳川斉昭の五男で、母は側室の松波春子。15代将軍・徳川慶喜の異母兄にあたる。.

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池田慶政

池田 慶政(いけだ よしまさ、文政6年7月5日(1823年8月10日) - 明治26年(1893年)3月4日)は、備前岡山藩の第8代藩主。岡山藩池田家宗家10代。 豊前中津藩主奥平昌高の十男。正室は第7代藩主池田斉敏の養女(備中鴨方藩主池田政善の娘)宇多子。子に生駒親忠(長男、生駒親承養子)、池田政時(四男、備中生坂藩池田政礼養子)、萬寿子(池田茂政正室)、娘(池田政保正室)、銀子(柳原義光室)。官位は従四位下、内蔵頭、左近衛権少将。幼名を七五郎。初名は奥平 昌朝(おくだいら まさとも)、池田氏に入ってからは初め諱を道政(みちまさ)とし、のち将軍徳川家慶より偏諱を授かり慶政に改名した。.

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津田永忠

津田 永忠(つだ ながただ、寛永17年(1640年) - 宝永4年2月5日(1707年3月8日))は、江戸時代前期の岡山藩士。岡山藩主の補佐役として土木事業を行い、藩の産業・生活の基盤造りに尽力した。.

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津高郡

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淡路国

淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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浅口市

浅口市(あさくちし)は、岡山県の南西部に位置する市。.

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浅口郡

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新田

新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のことである。また、その地名。その開墾までの流れを新田開発といい、本項では新田開発も含めて解説する。.

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文春新書

文春新書(ぶんしゅんしんしょ、Bunshun shinsho)は、1998年10月に創刊した文藝春秋発行の新書レーベルである。 創刊第1号は高橋紘・所功共著『皇位継承』である。通常月4点刊行だが、6点や8点の月もある。新書の中では比較的重版の率が高い。 2012年1月20日に発刊した阿川佐和子著『聞く力』は、160万部を超えるベストセラーとなった。通巻1000点目となる池上彰・佐藤優共著『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』は、2015年1月時点で31万部を突破している。2015年、ISILの組織の台頭を歴史的背景から解き明かした『イスラーム国の衝撃』(池内恵著)が話題になり、10万5000部を超えるヒット作となる。.

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日置健太郎

日置 健太郎(へき/ひき けんたろう、嘉永6年12月30日(1854年1月28日)- 大正11年(1922年)5月8日『平成新修旧華族家系大成』下、p.393)は、明治・大正時代の華族(男爵)。旧岡山藩家老(金川領主)日置家当主。別名に忠信。 明治維新後は小松健太郎を称して安積開拓に従事するも挫折。岡山に帰郷し教育事業に携わった。.

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日置忠寿

日置 忠寿(へき ただひさ、享保15年12月19日(1731年1月22日)- 寛延3年3月7日(1750年4月13日))は、岡山藩の家老。備前金川1万6000石の領主。 父は岡山藩家老日置忠昌。母は側室。婚約者は備中生坂藩藩主池田政晴の娘八重子。幼名興之丞。通称織部。 享保15年(1730年)12月19日、日置忠昌の次男として岡山に生まれる。元文4年(1739年)、父の家督を継いでいた兄忠盈が江戸で急死し、その養子となって家督相続し、岡山藩家老、備前金山1万6000石の領主となる。寛延3年(1750年)3月7日、疱瘡にて没した。家督は弟の忠芳が相続した。婚約者の池田八重子は、実家に戻って旗本松平忠庸に嫁いだ。.

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日置忠尚

日置 忠尚(へき ただひさ/ひき ただなお)は、江戸時代後期から大正時代にかけての武士、画家。岡山藩家老・金川日置氏当主。 幕末期に岡山藩家老を務め、日置帯刀の名でも知られる。明治初年に発生した岡山藩兵と欧米人兵士との衝突事件(神戸事件)の当事者となった。また、画家としても知られ、明治維新後は宮内省技芸官となった。.

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日置忠弼

日置 忠弼(へき ただすけ、文化8年10月22日(1811年12月5日)- 明治14年(1881年9月18日))は、岡山藩の家老。備前金川1万6000石の領主。 父は加賀藩家老今枝易直。養父は岡山藩家老日置忠章。養子は日置忠尚。通称は猪右衛門。幼名吟次郎。号真斎。 文化8年(1811年)10月22日に今枝易直の子として金沢に誕生する。文政元年(1818年)11月20日岡山に移り、縁戚の岡山藩家老日置忠章の養子となり猪右衛門と名乗る。文政4年(1821年)4月養父忠章の死去により家督相続、岡山藩家老・備前金川1万6000石の領主となる。嘉永7年(1854年)1月池田政徳の次男忠尚を養子とする。安政3年(1856年)2月隠居して家督を忠尚に譲る。明治14年(1881年)9月18日没。 Category:幕末岡山藩の人物 たたすけ Category:今枝氏 Category:1811年生 Category:1881年没.

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日置忠俊

日置 忠俊(へき ただとし、元亀3年(1572年)- 寛永18年5月19日(1641年6月27日))は、岡山藩の家老。備前金川1万7000石の領主。 父は池田家家老日置忠勝。母は今枝忠光の娘。弟は加賀藩家老今枝直恒。正室は飯尾敏成の娘(母は池田恒興の養女七条殿)。養子は日置忠隆、日置忠治。通称左門、豊前。.

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日置忠章

日置 忠章(へき ただあき、安永8年1月28日(1779年3月15日)- 文政4年(1821年))は、岡山藩の家老。備前金川1万6000石の領主。 父は岡山藩家老日置忠辰。母は加賀藩今枝直郷の娘。正室は公家石野基憲の娘。養子は日置忠弼。通称は元八郎。幼名元之助。.

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日置忠盈

日置 忠盈(へき ただみつ、正徳5年2月16日(1715年3月21日)- 元文4年9月25日(1739年10月27日))は、岡山藩の家老。備前金川1万6000石の領主。 父は岡山藩家老日置忠昌。母は稲葉四郎右衛門正勝の娘。正室は旗本戸川玄蕃逵富の娘。幼名五郎。通称左門、伊織。 正徳5年(1715年)2月16日、日置忠昌の長男として岡山に生まれる。享保18年(1734年)9月、藩主池田継政に仕え、享保21年(1736年)3月、合力米1000俵を給される。元文3年(1738年)、旗本戸川玄蕃逵富の娘と結婚する。元文4年(1739年)正月、江戸に下向、藩主継政に拝謁し、伊織と名を改める。同年8月に父忠昌が死去するが、9月25日に忠盈も江戸藩邸にて急死した。享年25。家督は弟の忠寿が相続した。正室戸川氏は実家に戻った。.

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日置忠芳

日置 忠芳(へき ただよし、享保17年8月22日(1732年10月10日)- 明和3年5月23日(1766年6月29日))は、岡山藩の家老。備前金川1万6000石の領主。 父は岡山藩家老日置忠昌。母は側室。幼名万之進。通称玄蕃。初名忠周。正室は池田長處の娘。子は日置忠辰。 享保17年(1732年)8月22日、日置忠昌の三男として岡山に生まれる。寛延3年(1750年)4月、実兄忠寿の死去によりその養子となって家督相続する。 宝暦5年(1755年)、池田大学長処の娘と結婚する。宝暦6年(1756年)4月、嫡男忠辰が誕生する。宝暦13年(1763年)12月25日、仕置家老となる。宝暦14年(1764年)藩主池田治政が家督相続したため、将軍徳川家治に拝謁し、家督相続の御礼を言上するため江戸に下向する。 明和3年(1766年)5月23日没。家督は嫡男の忠辰が相続した。.

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日置忠辰

日置 忠辰(へき ただたつ、宝暦9年4月23日(1759年5月19日)- 安永8年12月13日(1780年1月19日))は、岡山藩の家老。備前金川1万6000石の領主。 父は岡山藩家老日置忠芳。母は池田長處の娘。幼名藤之進。通称左門。正室は今枝直郷の娘。子は日置忠章。養子に日置忠英。 宝暦9年(1759年)4月23日、日置忠芳の嫡男として誕生する。明和3年(1766年)、父忠芳の死去により7月3日に家督相続し、岡山藩家老、備前金川1万6000石の領主となる。 安永8年(1779年)9月、藩主池田治政の妹勝姫が高田藩主榊原政敦に嫁ぐこととなり、御輿渡を務めるために江戸に下向した。 同年12月13日、江戸にて急死。享年21。嫡男の忠章はまだ産まれたばかりで、養子として池田志津摩森英(父森臻は日置忠明四男)の次男忠英を迎えた。.

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日置忠英

日置 忠英(へき ただひで、明和3年10月9日(1766年10月27日)- 天明2年8月12日(1782年9月13日))は、岡山藩の家老。備前金川1万6000石の領主。 祖父は岡山藩中老池田森臻。通称三次郎。 明和3年(1766年)10月9日に、中老池田森英の次男として岡山で生まれる。安永8年(1779年)、祖父森臻の実家の日置家で、当主の忠辰が急死し、その子の忠章が幼いため養子として迎えられ、岡山藩家老・備前金川領主となる。藩主池田治政は茶の湯に熱心で、たびたび後楽園で茶会を開き、忠英も参加している。天明2年(1782年)8月12日没。家督は順養子にした忠章が相続した。.

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日置忠治

日置 忠治(へき ただはる、元和5年(1619年)- 元禄6年4月14日(1693年5月18日))は、岡山藩の家老。備前金川1万6000石の領主。 父は加賀藩家老今枝直恒。正室は池田利政の娘心珠院。通称若狭、猪右衛門。子は日置忠明、今枝直方、池田宗春室、加賀藩家老前田知臣室、加賀藩家老横山忠次室(実は兄日置忠隆の娘)、高辻豊長室(実は兄日置忠隆の娘)。兄弟は今枝近義、日置忠隆、前田直玄。.

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日置忠明

日置 忠明(へき ただあき、慶安元年閏1月13日(1648年3月7日)- 享保3年11月29日(1719年1月19日))は、備前岡山藩の家老。備前金川1万6,000石の領主。 父は岡山藩家老日置忠治。母は池田利政の娘心珠院。通称左門、猪右衛門。正室は桑山一玄の娘源水院。子は日置忠昌、山脇源太夫、池田要人信延室、池田森臻、今枝恒明、池田知之(利恭)、池田俊清。 慶安元年(1648年)閏1月13日、岡山藩家老日置忠治の嫡男として誕生する。承応2年(1653年)、6歳で藩主光政に拝謁、幕府の証人として5回江戸に下向した。延宝5年(1677年)10月、父の隠居により家督を継ぎ、仕置家老となる。.

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日置忠昌

日置 忠昌(へき ただまさ、貞享元年9月24日(1684年11月1日)- 元文4年8月10日(1739年9月12日))は、備前岡山藩の家老。備前金川1万6,000石の領主。 父は岡山藩家老・日置忠明。母は新庄藩藩主・桑山一玄の娘・源水院。正室は稲葉四郎右衛門正勝の娘。通称左門、隼人、伊織、猪右衛門。子は日置忠盈、日置忠寿、日置忠芳、土倉一信室。.

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日本三名園

日本三名園(にほんさんめいえん)とは、優れた景勝を持つ三つの日本庭園、金沢市の兼六園、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園の総称である。.

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日本歴史学会

日本歴史学会(にほんれきしがっかい)は、日本史研究の学術団体である。.

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旭川 (岡山県)

旭川(あさひがわ)は、岡山県を流れる一級河川で、旭川水系の本流である。県の中央部を流域とし、吉井川・高梁川と並び岡山三大河川の一つに数えられる。支流は146、それらを含めた河川総延長は821.9kmにのぼる。流域内人口は約34万人国土交通省河川局 編、『旭川水系河川整備基本方針』、2009年1月による。。.

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支藩

支藩(しはん)は、江戸時代の藩主家の一族が、弟や庶子など、家督相続の権利の無い者に所領を分与する(分知)などして新たに成立させた藩のことである。このほか有力家臣の所領も支藩という場合がある。 幕府からの朱印状が本家とは別に発給されている場合は、本藩-支藩関係にはないという考え方もある。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1602年

記載なし。

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1603年

記載なし。

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1613年

記載なし。

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1615年

記載なし。

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1632年

記載なし。

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1669年

記載なし。

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1670年

記載なし。

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1672年

記載なし。

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1700年

17世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1870年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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1977年

記載なし。

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1995年

この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。.

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1997年

この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.

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2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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