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伊東氏

索引 伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。.

241 関係: 偽書南北朝時代 (日本)古内重広吉川弘文館坂井孝一大友義鎮大友氏大名大坂の陣大番役大村純忠天正天正遣欧少年使節奥州家嫡男嫡流子爵室町幕府守護宇佐美氏安子島氏安島直円安島氏安元安積祐長安積郡寛正小田原尾張国山崎の戦い山形県山内上杉家山田宗継山田宗昌岡田藩岩倉市島津義弘島津氏工藤祐経工藤祐隆工藤祐長工藤氏上別府宮内少輔三浦義澄九州平定平安時代平重盛平良兼賢平治平治の乱...久須見氏交代寄合庶家亘理伊達氏建武 (日本)廃藩置県伊予国伊勢平氏伊達宗実 (安房守)伊豆国伊東尹祐伊東市伊東マンショ伊東四十八城伊東祐吉伊東祐堯伊東祐実伊東祐安伊東祐安 (室町時代)伊東祐崇伊東祐帰伊東祐丕伊東祐久伊東祐之 (飫肥藩主)伊東祐亨伊東祐弘伊東祐信伊東祐兵伊東祐充伊東祐勝伊東祐国伊東祐福伊東祐立伊東祐由伊東祐相伊東祐隆伊東祐鐘伊東祐青伊東祐親伊東祐麿伊東祐松伊東祐梁伊東祐武伊東祐永伊東祐民伊東祐清伊東祐春伊東祐慶伊東祐時伊東義祐伊東義益伊東義賢伊東里き伊東長実伊東長久伊東氏伊東政世位階佐土原城佐土原遠江守征夷大将軍御教書徳川家康後北条氏従三位土肥遠平土持氏地頭北原氏北郷氏北条氏北条氏政北条政子北条時政北朝 (日本)ローマ和算グレゴリウス13世 (ローマ教皇)備中国出羽国八重姫 (伊東祐親の娘)元帥 (日本)元亀図書館福永祐友稲津重政篠原の戦い米良矩重米良祐次米良重方米良長門守米良氏総州家編集織田信長田方郡甲斐国畠山直顕片平城相伴衆相模国鎌倉時代荒武宗幸荒武三省華族落合兼置落合兼朝静岡県飫肥飫肥藩観応の擾乱豊州家豊後国豊臣秀吉豊臣秀頼豊臣氏豪族足利尊氏足利将軍家足利義稙足利義政足利義晴都城市都於郡城蘆名氏赤橋登子関ヶ原の戦い薩摩国藤原南家藤原為憲藩士那珂郡野村松綱長倉伴九郎長倉祐省長倉祐政長禄長野工藤氏連合艦隊司令長官押領柚木崎正家恩賞東国武士武家武田氏江戸時代河崎祐長河野氏河津祐泰河津町河津氏治承泉親衡の乱源義朝源頼朝木崎原の戦い木脇祐守本貫本能寺の変有馬晴信戦国大名海軍大将新庄市新庄藩新納伊豆守日南市日向国日和田館日清戦争旗本旗本寄合席播磨国教皇慶長曽我物語曾我兄弟の仇討ち曾我祐成曾我時致1159年1175年1176年1180年1335年1461年1572年1577年1587年1600年2005年 インデックスを展開 (191 もっと) »

偽書

偽書(ぎしょ)とは、製作者や製作時期などの由来が偽られている文書・書物のこと。主として歴史学において(つまりはその文献の史的側面が問題とされる場合に)用いられる語である。単に内容に虚偽を含むだけの文書は偽書と呼ばれることはない。 偽書という概念は、美術的な書の贋作も含んでいる。ちなみに英語でもforgeryは偽書、贋作どちらの意味もある。 本項目では、偽書全般について記述する。 (註:なお、例示には偽書として評価の定まっているもののほか、「専門家によって偽書の疑いを提示されたことがあるもの」も含む。偽書としての疑いの程度やその根拠については、リンクされている各記事を参照のこと。).

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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古内重広

古内 重広(ふるうち しげひろ、天正16年(1588年) - 万治元年7月12日(1658年8月10日))は、陸奥の戦国大名伊達氏の家臣。実父は国分盛重。養父は古内実綱。従兄の伊達政宗とその子の忠宗に仕えた。幼名は四郎、通称は始め平蔵、後に主膳を称した。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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坂井孝一

坂井 孝一(さかい こういち、1958年2月 - )は、日本の歴史学者。創価大学文学部人文学科教授。専門は日本中世史。.

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大友義鎮

九州旅客鉄道(JR九州)大分駅府内中央口ロータリーにある大友宗麟像 神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像 大友宗麟公像(大分県津久見市) 臼杵城跡(大分県臼杵市)にある大友宗麟公像(レリーフ) 大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。 大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。 父は20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、大内氏の家督を継いだ大内義長(晴英)と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)、親家、親盛など。 海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。 当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

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大番役

大番役(おおばんやく)は、平安時代後期から室町時代初期にかけて、地方の武士に京を、鎌倉時代に入ってからは京と鎌倉の警護を命じたもの。 鎌倉時代の武家法である御成敗式目が制定されると、大犯三ヶ条において御家人の職務として明文化された。鎌倉時代以降は、各国に振り分けられ、各守護が責任者となり、国内の御家人に振り分けして指揮に当たった(大番催促)。その後南北朝時代に廃れた。.

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大村純忠

大村 純忠(おおむら すみただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。三城城主。大村氏の第18代当主。 永禄6年(1563年)に日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港した人物として知られる。同じくキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたる。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天正遣欧少年使節

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。.

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奥州家

奥州家(おうしゅうけ).

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嫡男

嫡男(ちゃくなん)とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ男子のうち最も年長の子を指す。女子の場合は嫡女となる。長男と同一視されることもあるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。特に嫡男ではない長男は庶長子、長庶子、庶子とも称される。嫡男の嫡男は嫡孫(ちゃくそん)と呼ばれる。また、代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。また、内孫(うちまご)とも称される。 ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。.

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嫡流

嫡流(ちゃくりゅう)とは、氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。正嫡、正系、嫡系ともいう。対義語は庶流という。敬って「御嫡々の家系」という場合もある。嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。  ちなみに、「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり家筋・家系とは関係がない。例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、分家からみた本家は傍系である。詳しくは、 親族を参照。  あくまで当家の祭祀を継承する家系を意味するのであるから、長男が継承者となることが多いものの、必ずしも長男が継承するとは限らず、次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある点に注意。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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宇佐美氏

宇佐美氏(うさみし、うさみうじ)は、日本の氏族。.

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安子島氏

安子島氏/阿子島氏(あこがしまし/あこじまし)は、日本の氏族。武家。本姓は藤原氏。家系は藤原南家伊東氏の庶流。安古島とも。.

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安島直円

安島 直円(あじま なおのぶ、享保17年(1732年) - 寛政10年4月5日(1798年5月20日))は江戸時代中期の財政家・和算家。新庄藩士。本姓は藤原氏。家系は藤原秀郷流の安島氏。仮名は万蔵。字は伯規、号は南山。諱は直円。名は資料によっては安島万蔵とも載せ、新庄藩の資料では安嶋直円ともある。父は新庄藩御勘定頭・安島庄右衛門清英。兄弟に安島弥惣次清茂、伊東平蔵直休がいる。妻は於なを。家禄は80石。寛政10年(1798年)江戸藩邸にて没。江戸(現在の東京都港区三田)の曹洞宗常林寺に葬られた他、国元の菩提寺である出羽国最上郡新庄町(山形県新庄市)は桂嶽寺に分骨された。戒名は祖眞院智算量空居士。位階は贈従五位。和算に長け、同門の藤田定資をして「当代の名人」と言わしめ、江戸時代の数学の発展に寄与、後世の人は関孝和と並んで和算の二大焦点と評した家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典第1巻』(新人物往来社、1993年)408頁参照。。.

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安島氏

安島氏(あじまし)は、姓氏のひとつ。安島、または安嶋とも記す。常陸国及び東北地方における武家のひとつ。また越前国や近江国にも見られる。.

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安元

安元(あんげん)は、日本の元号の一つ。承安の後、治承の前。1175年から1177年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇。.

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安積祐長

安積 祐長(あさか すけなが)は、鎌倉時代前期の武将・御家人。.

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安積郡

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寛正

寛正(かんしょう)は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1461年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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小田原

小田原(おだわら、こだわら).

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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山崎の戦い

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。.

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山形県

山形県の地形図 山形県(やまがたけん)は、日本の東北地方南西部の県。日本海に面する。県庁所在地は山形市。.

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山内上杉家

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身 (2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。.

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山田宗継

山田 宗継(やまだ むねつぐ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。日向国新山城主。 伊東義祐に仕え、荒武宗代、荒武宗会等と共に御陣人数積衆を務めた。 永禄10年(1567年)、美々田合戦に従軍したが、杉尾左近允、村角右衛門尉、川越玄蕃允等と共に討死した。.

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山田宗昌

山田 宗昌(やまだ むねまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。日向伊東氏の家臣。日向国酒谷城主。.

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岡田藩

岡田藩(おかだはん)は、備中国下道郡岡田(岡山県倉敷市真備町岡田)の岡田陣屋に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期から廃藩置県まで伊東氏が一貫して10代にわたり藩主を務めた。石高は1万石余。陣屋は幾度かの移転を経ており、元禄年間には西国街道川辺宿(倉敷市真備町川辺)に陣屋を置いたことから川辺藩(かわべはん)とも呼ばれる。.

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岩倉市

岩倉市(いわくらし)は、愛知県の北西部に位置する市。名古屋市に近くベッドタウンとなっている。 県内で最も面積の狭い市(以下、高浜市、知立市と続く)で、全国でも10番目に面積が狭い市である。.

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島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎と号したため、との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。朝鮮出兵では鬼島津と言われた.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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工藤祐経

工藤 祐経(くどう すけつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期のにかけての武士・御家人。藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男。.

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工藤祐隆

工藤 祐隆(工藤祐高、くどう すけたか)とは、藤原南家の流れをくむ工藤氏の6代目であり、伊豆国久須美荘(久須見荘、葛見庄、くすみのしょう)の開発領主 - 世界大百科事典/コトバンク。伊東氏の祖であり、狩野氏、河津氏などを派生した。工藤家次(くどう いえつぐ)・伊東家次(いとう いえつぐ)等とも。工藤維継の子。.

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工藤祐長

工藤 祐長(くどう すけなが).

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工藤氏

工藤氏(くどうし)は、藤原南家の流れをくむ日本の氏族のひとつ。.

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上別府宮内少輔

上別府 宮内少輔(かみべっぷ くないしょうゆう)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。実名は不明。清武地頭。日向国宮崎郡清武城主。.

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三浦義澄

三浦 義澄(みうら よしずみ)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明の次男。十三人の合議制の一人。.

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九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平重盛

『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)平重盛と源義平 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。.

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平良兼賢

平良 兼賢(たいら かねかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北原氏、日向伊東氏の家臣。三ツ山の小林郷地頭、後に三ツ山城主。 史料には伴 兼賢とも散見されることから伴氏の子孫と思われるが、同じく伴氏を祖とする北原氏との縁戚関係は不明である。.

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平治

平治(へいじ)は、日本の元号の一つ。保元の後、永暦の前。1159年の期間を指す。この時代は二条天皇による治世。.

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平治の乱

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.

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久須見氏

久須見氏(くすみし、くすみうじ)は、工藤氏(藤原南家)の流れをくむ伊豆国で勃興した氏族。伊東氏、狩野氏、河津氏、宇佐美氏などを派生した。楠見(美)氏、葛見(美)氏、玖須美氏、久須美氏、久津見氏とも。.

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交代寄合

交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合の意。.

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庶家

庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.

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亘理伊達氏

亘理伊達氏(わたりだてし)は、仙台藩主・伊達氏の分家。仙台藩一門第二席。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

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伊達宗実 (安房守)

伊達 宗実(だて むねざね)は、江戸時代前期の武士。仙台藩初代藩主伊達政宗の九男。仙台藩一門第二席・亘理伊達氏第2代当主。.

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伊豆国

伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊東尹祐

伊東 尹祐(いとう ただすけ)は、戦国時代の武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏8代(伊東氏13代)当主。室町幕府将軍足利義尹(義稙)から偏諱を受け尹祐を称す。.

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伊東市

伊東市(いとうし)は、静岡県の最東部に位置する市。.

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伊東マンショ

右上の人物が伊東マンショ グレゴリウス13世の謁見の場面 伊東 マンショ(いとう マンショ、Mancio, 満所とも、永禄12年(1569年)ごろ - 慶長17年10月21日(1612年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン。天正遣欧少年使節の主席正使、イエズス会員でカトリック教会の司祭。マンショは洗礼名、本名は祐益。.

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伊東四十八城

伊東四十八城(いとうしじゅうはちじょう)は日向国の戦国大名 伊東義祐、及びその後継である伊東義益の最盛期における、版図内に存在した48の外城及び砦の名数。 義祐が当主である頃は佐土原城を、義益が当主である頃は都於郡城を中心とした48の外城及び砦が存在した。後の「伊東崩れ」で島津氏に一時的に奪われるが、豊臣秀吉の島津氏に対する九州平定で、宮崎郡などの城は、九州平定軍の先導役として功績を挙げた伊東氏(伊東祐兵)に回復されて飫肥藩領となる。残りは高鍋藩、佐土原藩、薩摩藩の領地などになる。 一国一城令により、藩庁になっていた飫肥城、高鍋城(初め財部城)、佐土原城以外は廃城されるが、飫肥藩では清武地頭、酒谷地頭、南郷地頭という具合に城主(城代)職は地頭として存続した地域もある。 以下に日向5郡別に城名を列記し、現所在地及び当時の城主も記述する。.

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伊東祐吉

伊東 祐吉(いとう すけよし)は、戦国時代の武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏10代(伊東氏15代)当主。伊東祐充・義祐は同母兄。.

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伊東祐堯

伊東 祐堯(いとう すけたか)は、室町時代の武将。日向伊東氏6代(伊東氏11代)当主。 伊東祐立の子とされるが、一説には祐立には祐武という子が別におり、祐武の子が祐堯とも言われる。 文安元年(1444年)、伊東祐立の死去により36歳で家督を継ぐ(『日向記』によると、祐立の家督を継ぐ筈であった祐家を、家督簒奪を目論んだ祐郡が殺害、この不義を家臣が認めず、祐郡を追放し祐堯を擁立したとある)。反抗的な一族の討伐に乗り出し、まず宮崎城の曽井氏を攻め滅ぼした。翌文安2年(1445年)以降も土持氏の同意を得て門川、穆佐、清武など各地の城主を次々と破り、傘下に収めていく。 日向国内に武威を示すと次に守護職を求めたが、土持氏の反発によって実現しなかった。そのため康正2年(1456年)に開戦に踏み切り、財部土持金綱を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐する。こうして北は門川、南は紫波洲崎までを支配するようになり、国内外に伊東氏の存在感を強めた。 寛正2年(1461年)には再び京に使者を送り、室町幕府8代将軍足利義政から「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の御教書を得ている(ただし、これは伊東氏によって創作された偽文書である可能性が高いとされる)。 島津氏とは友好的な関係にあり、寛正5年(1464年)には島津立久と鵜戸山で会見し和議を調えている。ところが文明2年(1480年)に島津氏が紫波洲崎城を攻めたことで、両家は再び敵対することになった。 文明17年(1485年)、島津氏の内紛に介入し、島津忠昌と対立した伊作家の島津久逸の求めに応じて飫肥城の新納忠続を攻撃するため子の祐国と共に出陣中に清武城で死去。享年77。 祐国、祐邑など男女合わせて25人の子に恵まれた。.

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伊東祐実

伊東 祐実(いとう すけざね)は、江戸時代中期の大名。日向国飫肥藩の第5代藩主。 伊東祐久の4男として誕生。兄で4代藩主の祐由に嗣子が無かったため、その養嗣子となる。寛文元年(1661年)兄・祐由の死去によって家督を継いだ。 窮乏の色が見え始めた藩財政を再建するため、積極的な内治政策に取り組もうとしたが、寛文2年(1662年)に大地震・大津波が領内を襲って大被害を受け、さらに薩摩藩と領土の境界をめぐって争うなど、治世は多難を極めた。それでも飫肥城の改築、油津堀川運河の開削、植林事業の奨励、甘藷の食糧自給化、郷士制度の確立、薩摩藩に対する牛の峠境界論争の勝訴・境界確定などに尽力している。 嗣子が無かったため、分家で表向御礼衆交代寄合の兄:祐春の長男・祐崇(祐実の甥・駿河守)を最初は養嗣子としたが、病弱だったために廃嫡し、伊東左門祐信の長男・祐永に祐崇の娘を嫁がせて養嗣子とした。正徳4年(1714年)に祐永に家督を譲って隠居し、享保8年(1723年)9月18日、80歳で死去した。 すけさね *05 Category:1644年生 Category:1723年没.

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伊東祐安

伊東 祐安(いとう すけやす)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。.

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伊東祐安 (室町時代)

伊東 祐安(いとう すけやす)は、室町時代の武将。日向伊東氏4代(伊東氏9代)当主。.

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伊東祐崇

伊東 祐崇(いとう すけたか)は、江戸時代中期の武士。日向国飫肥藩の世嗣。表向御礼衆交代寄合・伊東祐春の長男。同母弟に表向御礼衆交代寄合・祐連(靱負)。 天和2年(1682年)12月26日、徳川綱吉に初お目見えする。元禄6年(1693年)3月2日、叔父で飫肥藩5代藩主・伊東祐実に男子がいなかったため養嗣子となり、12月18日に従五位下、駿河守に任官する。 宝永4年(1707年)、病気を理由に廃嫡される。しかし、皮肉にも婿・祐永、外孫・祐之よりも長生きした。 延享4年(1747年)、79歳で死去。.

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伊東祐帰

伊東 祐帰(いとう すけより)は、日向飫肥藩の第14代(最後の)藩主。飫肥藩知事。.

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伊東祐丕

伊東 祐丕(いとう すけひろ)は、江戸時代後期の大名。日向国飫肥藩の第12代藩主。 第10代藩主・伊東祐鐘の次男として誕生。文化9年(1812年)6月29日、兄で先代藩主・祐民が死去した際に嗣子がなかったため(懐妊中の正室はいた)、その養嗣子となって家督を継いだ。しかし2年後の文化11年(1814年)8月14日、18歳で死去した。 祐丕には嗣子は無く、祐民死後に祐民の正室が生んだ長男・祐相が3歳になっており、養嗣子として家督を継いだ。 すけひろ *12 Category:1797年生 Category:1814年没.

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伊東祐久

伊東 祐久(いとう すけひさ)は、江戸時代前期の大名。日向国飫肥藩の第3代藩主。 第2代藩主・伊東祐慶の長男として京都にて生まれた。寛永13年(1636年)5月29日、父・祐慶の死により家督を継承する。このとき、弟・祐豊(主膳正)に3000石を分与し旗本寄合とした。翌寛永14年(1637年)の島原の乱では2500人を率いて天草に出陣した。清武郷の松井五郎兵衛に井堰建設と用水路開削の認可を与え、用水路は寛永17年3月(1640年)に完成した。正保年間、潮嶽神社の修繕を行う。慶安3年(1650年)、外ノ浦に防波堤を築く。 明暦3年(1657年)10月27日、江戸藩邸にて49歳で死去し、家督は長男・祐由が継いだ。 生前、鵜戸権現より勧進し、榎原神社の建立に着手していたが、没後の万治元年(1658年)に完成した。 すけひさ *03 Category:1609年生 Category:1657年没.

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伊東祐之 (飫肥藩主)

伊東 祐之(いとう すけゆき)は、江戸時代中期の大名。日向国飫肥藩の第7代藩主。 第6代藩主・伊東祐永の9男として江戸藩邸にて生まれた。元文4年(1739年)、父の死去により家督を継ぐ。この頃の藩政では、荒川稲や町人による渡船・踊興行などが広まったと言われている。寛保2年(1742年)、江戸で発生した寛保二年江戸洪水にて、西国大名の手伝い普請に参加した。 延享元年(1744年)9月2日、18歳で死去した。嗣子が無く、庶兄・祐隆が家督を継いだ。 すけゆき *07 Category:1727年生 Category:1744年没.

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伊東祐亨

伊東 祐亨(いとう ゆうこう / すけゆき、天保14年5月20日『平成新修旧華族家系大成』上巻、159頁。(1843年6月17日) - 大正3年(1914年)1月16日)は、日本の武士(薩摩藩士)、海軍軍人、華族。元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。初代連合艦隊司令長官を務めた。通称は四郎左衛門、四郎。号は碧海。家紋は庵木瓜。.

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伊東祐弘

伊東 祐弘(いとう すけひろ、1880年(明治13年)3月23日 - 1931年(昭和6年)12月19日『平成新修旧華族家系大成』上巻、164-165頁。)は、日本の政治家、華族。貴族院子爵議員。.

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伊東祐信

伊東 祐信(いとう すけのぶ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 祐信の主君・伊東義祐は、元亀2年(1571年)6月に島津氏15代当主・島津貴久が没すると大隅国の肝付氏が島津領に侵攻し始めたのを好機と捉え、真幸院(現・宮崎県えびの市、同小林市、同高原町)の完全支配を目指すべく、翌元亀3年(1572年)5月に未だ島津氏の治める飯野地区への大攻勢を開始する(木崎原の戦い)。 5月3日夜、祐信は伊東又次郎・伊東祐青と共に、伊東祐安を総大将とした3,000余の軍勢の大将の一人として島津領との最前線に位置する小林城を出立する。 翌4日未明に飯野・妙見原に到着し軍を二手に分け、一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まり、もう一軍を祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から木崎原を抜け、義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ攻撃を仕掛けるべく進軍した。 祐信は手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発。その後、祐信隊は加久藤城へ侵攻を開始。事前に得ていた情報を元に、城の搦め手に通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、鑰掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃した。樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ祐信の隊を攻撃、奮戦するも討ち取られる。 祐信隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路を押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられる。そこへ加久藤城主・川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受け、祐信隊は退却を余儀なくされる。この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方が討ち取られた(異説あり)。 退却した祐信隊は池島川まで下がり、鳥越城跡地で休息。兵の多さによる油断と、また折からの蒸し暑さのため川で水浴びする者が多かった。そこを飯野城から打って出た島津義弘の軍勢が攻めかかり、祐信を含めた多数の戦死者を出した。その際、祐信は義弘と一騎討ちに及ぶが敗れ三角田の地で討ち取られる。その一騎討ちの際、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、祐信の突き出した槍の穂先が義弘を狙ったとき、膝をつき曲げこれをかわしたという(柚木崎正家との交戦のときとの説もあり)。 戦後、小林市の伊東塚に他の戦死者と共に祀られた他、佐土原城にも墓が設けられ現存している。.

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伊東祐兵

伊東 祐兵(いとう すけたけ/いとう すけたか)は、安土桃山時代の武将・大名。日向伊東氏12代(伊東氏18代)当主。日向飫肥藩の初代藩主。『南家伊東氏藤原姓系図(通称「伊東氏大系図」)』や『伊東氏系図』では、伊東氏中興の祖と書かれている。.

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伊東祐充

伊東 祐充(いとう すけみつ)は、戦国時代の武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏9代(伊東氏14代)当主。伊東義祐、祐吉は同母弟。 父・尹祐は晩年北郷氏との抗争に没頭し、北原氏を味方につけ優位に立ち、ついに野々美谷城攻城戦に勝利したが、大永3年(1523年に急死した。このため若年の祐充が家督を継いだ。叔父・祐梁も尹祐の死から一月後に病死したため、外祖父の福永祐炳を始めとする外戚福永氏が国政を牛耳るようになった。 この頃の伊東氏は日向南部を掌握しており、都之城を拠点とする北郷氏との抗争を続けていた。北郷氏は本家・島津氏と同盟し勢力の挽回を図るが、尹祐の代に築いていた伊東氏の優位は変わらなかったが、祐充は野々美谷城の割譲と北郷忠相の娘を娶ることを条件に北郷氏と和睦する。大永8年/享禄元年(1528年)には新納氏を攻撃した。 伊東氏の勢威は祐充の時代に大いに盛んになったが、家中は不安定であり、福永氏の専横に対し、家臣の稲津重由による「若キ衆」内紛が勃発している。このような中、享禄4年(1531年)、北郷氏は島津氏と北原氏を味方につけ伊東氏との抗争を再開し、三俣院高城で合戦に及ぶが伊東氏は大敗することになった。 祐充は天文2年(1533年)に病死した。祐充の死後、福永氏の専横を憎む祐充の叔父・伊東祐武による反乱が勃発し、福永祐炳ら福永一族4人が自害に追い込まれた(伊東武州の乱)。 すけみつ Category:戦国大名 Category:1510年生 Category:1533年没.

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伊東祐勝

伊東 祐勝(いとう すけかつ)は、安土桃山時代の武将。伊東氏の家臣。.

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伊東祐国

伊東 祐国(いとう すけくに)は、室町時代の武将。日向伊東氏7代(伊東氏12代)当主。 父・伊東祐堯に従って各地を転戦した。文明12年(1480年)、佐土原を知行する。同年、折生迫で島津氏との合戦となり、日高周防介の軍勢に大勝した。 文明16年(1484年)、父・祐堯が島津氏の内紛に介入。島津当主島津忠昌の方針に反発し、豊後国の大友氏や父に助力を請い新納忠続の守る飫肥城を攻撃し忠昌に叛旗を翻した島津久逸を援助するべく父と共に飫肥城を攻撃したが、翌文明17年(1485年)に祐堯が出陣中に清武城で急死、祐国が家督を継承する。 同年、弟・祐邑と共に新納忠続の守る飫肥城に再び侵攻した。その時に率いた軍勢は、「都於郡、佐土原、宮崎、木脇、八代、三納、穂北、富田、財部、高城、塩見、日知屋、門川、山陰、田代、神門、入下、宇納間、水清谷、銀鏡、小河、雄八重、中ノ俣、鵜戸、曾井、加江田」の兵だったとされる(これは現在の宮崎市・西都市・国富町・高鍋町・日向市・美郷町・西米良村などに相当する地域である。)。 祐国・祐邑は国見峠を越えてたちまち飫肥城を包囲し島津方の援軍・島津伯耆守を討ち取ったが、飫肥城の守りは堅く、自ら軍勢を率いて出陣して来た島津忠昌と楠原で交戦するも、祐国は乱戦の最中に討ち死にを遂げた。享年35。 すけくに Category:室町時代の人物 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:1450年生 Category:1485年没.

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伊東祐福

伊東 祐福(いとう すけよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。日向国飫肥藩の第9代藩主。 第8代藩主・伊東祐隆の長男として日向飫肥にて誕生。元文5年(1740年)12月5日生まれと言われているが、享保20年(1735年)生まれとも言われている。宝暦7年(1757年)、父の死去により家督を継いだ。明和8年(1771年)、仙洞御所の造営を担う。 天明元年(1781年)7月20日、42歳で死去。家督は長男・祐鐘が継いだ。 すけよし *09 Category:1741年生 Category:1781年没.

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伊東祐立

伊東 祐立(いとう すけはる)は、室町時代の武士。日向伊東氏5代(伊東氏10代)当主。都於郡城主。 父・伊東祐安に従って日向国守護の島津氏の度重なる攻勢に対抗した。応永20年(1413年)、島津氏との戦いで日向曽井城(現在の宮崎県宮崎市恒久)に籠城して抗戦し、島津方の樺山教宗・北郷知久を破り撤退させた。 応永32年(1425年)、姉婿・島津久豊が没すと、守護を継承した島津忠国と親交を深めるため鹿児島に赴くが、宴席で祐立の毒殺の企てがあり、これは主膳役の密告によって辛くも脱出した。応永34年(1427年)、父の隠居に伴い家督を相続。 永享6年(1434年)、父・祐安が死去すると、またしても島津氏の攻撃を受けるが、妻の実家である土持氏の助力もあり辛うじて防戦し、和睦に至った。これにて島津氏の脅威は一旦終わり、伊東氏は約50年間に渡る勢力拡大期に入った。 文安元年(1444年)、上洛途中の播磨国疣河(いぼかわ)の渡しで落馬死。享年58。 家督は子の祐堯が継いだが、系図の混乱もありはっきりしない(一説によれば、間に祐武という男子がおり、その子(すなわち祐立の孫)が祐堯であったともされる)。 すけはる Category:室町時代の人物 Category:落馬事故死した人物 Category:1385年生 Category:1444年没.

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伊東祐由

伊東 祐由(いとう すけみち)は、江戸時代前期の大名。日向国飫肥藩の第4代藩主。 第3代藩主・伊東祐久の長男として江戸にて生まれた。承応2年(1653年)12月28日、従五位下・左京亮に叙任される。父・祐久の死去により、明暦3年(1657年)12月27日に家督を継いだ。このとき、弟・祐春に3000石を分与した。祐春は表向御札衆交代寄合となる。 男子に恵まれなかったため、弟・祐実を養嗣子とした。寛文元年(1661年)6月13日、31歳で死去。家督は祐実が継いだ。 すけみち *04 Category:1631年生 Category:1661年没.

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伊東祐相

伊東 祐相(いとう すけとも)は、江戸時代後期から末期(幕末)にかけての大名。日向国飫肥藩の第13代藩主。藩知事。.

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伊東祐隆

伊東 祐隆(いとう すけたか)は、江戸時代中期の大名。日向国飫肥藩の第8代藩主。 第6代藩主・伊東祐永の3男。正徳6年(1716年)正月13日生まれとも、宝永7年(1710年)生まれとも言われている。庶長子のため父・伊東祐永から家督を継げなかったが、延享元年(1744年)に異母弟で7代藩主・祐之が没すると家督を継いだ。 宝暦7年(1757年)8月18日に死去。家督は長男・祐福が継いだ。 すけたか *08 Category:1716年生 Category:1757年没.

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伊東祐鐘

伊東 祐鐘(いとう すけあつ)は、江戸時代後期の大名。日向国飫肥藩の第10代藩主。 第9代藩主・伊東祐福の長男として江戸にて生まれた。天明元年(1781年)、父の死去により跡を継いだ。藩政改革に着手し「杉方部一法」という山林・植林制度を確立した。天明の大飢饉による農民救済と財政再建のため、寛政元年(1789年)、植木方の石那田実右衛門により大規模な植林が行われ、その収益を救民に充てた。 寛政10年(1798年)2月14日、27歳の若さで死去。家督は長男・祐民が継いだ。 すけあつ *10 Category:1772年生 Category:1798年没.

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伊東祐青

伊東 祐青(いとう すけはる/すけきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。室の町上(伊東義祐の娘)との間に、祐益(伊東マンショ)・祐平など4人の子がいる。 元亀3年(1572年)の木崎原の戦いでは、本地原に陣をかまえ島津義弘と戦ったが敗れ、小林へ退却した。 天正5年(1577年)、島津氏の攻撃により伊東氏の支城・綾城が落城した際に戦死した。なお、『日向記』には主君の伊東義祐が豊後国へ逃げる際の供の中に祐青の名が記述されており、この逃げる道中において死去したとする説もある。 すけはる Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:安土桃山時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1577年没.

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伊東祐親

伊東 祐親(いとう すけちか)は、平安時代末期の武将であり、伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)の豪族。工藤氏の6代目であり、伊東氏の祖でもある工藤祐隆(伊東家次)の孫であり、河津氏の祖。河津祐親(かわず すけちか)とも。.

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伊東祐麿

伊東 祐麿(いとう すけまろ、1832年9月19日(天保3年8月25日) - 1906年2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将。元老院議官、貴族院議員、子爵。.

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伊東祐松

伊東 祐松(いとう すけます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。 天文2年(1533年)、9代当主・伊東祐充の死後に叔父・祐武が反乱を起こしたときは、従兄弟の祐清(義祐)擁立派として働いた(武州の乱)。10代当主・祐吉の死後に義祐が家督を継ぐと、その側近となった。家中では義祐と同等の権勢を振るい、余剰米の横領などで数多くの家臣から恨みを買った。 元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで伊東氏が大敗したときは、孫の祐信が戦死、同年には飫肥城において伊東祐兵の後見役となっていた子・祐梁も死去した。 天正3年(1575年)、島津氏に圧迫された肝付兼亮の提案によって、伊東氏は肝付氏と空砲を使った偽装の戦闘を行ったが、伊東方が約束に反して実弾を用いたので肝付勢は全滅し、両家は義絶に至った。この事件は祐松が肝付領南郷を奪うために仕組んだものであったといわれる。 伊東氏の衰退期には、米良矩重や落合兼朝など祐松に対する私怨から島津氏に寝返る者も多く出ている。 主家没落時は義祐に従って豊後国に退去。翌天正6年(1578年)に日向国の三城で死去した。.

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伊東祐梁

伊東 祐梁(いとう すけむね)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。.

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伊東祐武

伊東 祐武(いとう すけたけ)は、日向伊東氏の人物。.

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伊東祐永

伊東 祐永(いとう すけなが)は、江戸時代中期の大名。日向国飫肥藩の第6代藩主。 元禄2年(1689年)生まれと言われているが、元禄4年(1691年)6月11日生まれという説もある。第5代藩主・伊東祐実の甥で養子・祐崇が病弱を理由に廃嫡された後、代わって養子となり、祐崇の娘を正室に迎え飫肥藩世嗣となる。 正徳4年(1714年)4月29日、養父・祐実の隠居により家督を継いだ。この頃になると藩財政が逼迫しており、享保3年(1718年)に祐永は厳しい倹約令を出すなどの藩政改革を行なったが、城下町で火事が起こって212戸を全焼するなどの大被害を受け、ますます財政悪化が進んだ。 元文4年(1739年)正月14日、51歳で死去。家督は9男・祐之が継いだ。 すけなか *06 Category:1689年生 Category:1739年没.

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伊東祐民

伊東 祐民(いとう すけたみ)は、江戸時代後期の大名。日向国飫肥藩の第11代藩主。 第10代藩主・伊東祐鐘の長男として誕生。寛政10年(1798年)、父の死去により家督を継ぐ。植木方の野中金右衛門が取り組んだ飫肥杉の植林指導が功をなし、飫肥藩の財政を立て直した。また、学問所を設置して学問の奨励を行い、この時代に安井息軒の父親が学んでいる。 文化9年(1812年)6月29日、21歳の若さで死去。嗣子が無く(子・祐相は死後に生まれた)、弟・祐丕が家督を継いだ。 すけたみ *11 Category:1792年生 Category:1812年没.

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伊東祐清

伊東 祐清(いとう すけきよ)は、平安時代末期の武将。伊豆国の豪族・伊東祐親の次男。諱は祐兼、祐長(『曽我物語』)、祐氏(『平家物語』)、祐忠(『尊卑分脈』)とも。.

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伊東祐春

伊東 祐春(いとう すけはる)は、江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本。家格は表向御礼衆交代寄合。日向国飫肥藩分家である江戸幕府表向御礼衆交代寄合の伊東氏の祖。 伊東祐久の三男として誕生。明暦2年(1656年)8月15日、将軍・徳川家綱に初お目見えする。翌明暦3年(1657年)12月27日、兄・祐由より那珂郡のうち3千石を分地され、江戸幕府表向御礼衆交代寄合となり、飫肥城下に居住する。寛文3年(1663年)4月、私領地の視察を許可される。これ以降、私領視察は江戸幕府表向御礼衆交代寄合伊東氏の慣例となる。元禄13年(1700年)12月5日、隠居した。長男・祐崇は弟・祐実の養子となったので、家督は次男・祐連が継承した。 享年72。.

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伊東祐慶

伊東 祐慶(いとう すけのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。日向国飫肥藩2代藩主。日向伊東氏13代(伊東氏19代)当主。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、家臣の稲津重政の進言を受け、西軍の高橋元種の宮崎城に軍勢を派遣し落城させた。しかしこれと前後するように元種は東軍に寝返っていたため、宮崎城は返却された。徳川家康より所領を安堵された。なお、祐慶は後日、責任を取らせる形で清武城にて稲津重政を討っている。 同年、父・伊東祐兵が大坂にて病死したため、家督を継いだ。元和年間より領内にスギの植林事業を興し、藩財政の基礎とした。 寛永13年(1636年)48歳で死去した。家督は長男・祐久が継いだ。.

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伊東祐時

伊東 祐時(いとう すけとき)は、鎌倉時代前期の武将・御家人。日向伊東氏の祖。.

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伊東義祐

伊東 義祐(いとう よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏11代(伊東氏16代)当主。伊東祐充・祐吉は同母兄弟。.

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伊東義益

伊東 義益(いとう よします)は、戦国時代の武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏12代(伊東氏17代)当主。都於郡城主。.

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伊東義賢

伊東 義賢(いとう よしかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。.

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伊東里き

伊東 里き(いとう りき、Riki Ito、慶応元年11月2日〔グレゴリオ暦:1865年12月19日〕 - 昭和25年〔1950年〕3月14日)は、北アメリカへの移住に尽力した日本人女性。アメリカ合衆国で助産師の資格を取得した初めての日本人であるとされる志摩町史編纂委員会 編(2004):804ページ。三重県英虞郡片田村(現在の志摩市志摩町片田)出身。 明治末期から昭和初期にかけて、片田村では里きを頼って多くの村人がアメリカに渡り、片田村は「アメリカ村」と呼ばれた志摩町史編纂委員会 編(2004):803ページ。出身地の高齢者の間では、「片田の英雄」と呼ばれている。.

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伊東長実

伊東 長実(いとう ながざね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名(外様大名)。備中岡田藩初代藩主。.

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伊東長久

伊東 長久(いとう ながひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備中伊東氏宗家初代。.

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伊東氏

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・日向国飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで、後に備中伊東氏・備中国岡田藩藩主となる。.

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伊東政世

伊東 政世(いとう まさよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。後北条氏、徳川氏の家臣。 日向伊東氏の支流。 『北条氏所領役帳』には御馬廻衆として227貫286文の知行高が記されている。永禄6年(1563年)に北条氏政より偏諱(「政」の字)を受け政世と名乗った。天正10年(1582年)頃には、下総国・矢作城主となっている。 天正18年(1590年)、小田原征伐の際は小田原城に籠城し、西北の曲輪を守備して豊臣軍と戦う。小田原城開城後は徳川家康の家臣となり、関ヶ原の戦い、大坂の陣に槍奉行として参加している。父の没後、嫡男・時吉は徳川秀忠の旗本となり300石を知行されている。.

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位階

位階(いかい)とは、国家の制度に基づく個人の序列の標示である。位(くらい)ともいう。「位階」という語は、基本的には地位、身分の序列、等級といった意味広辞苑 第五版 p.121「位階」である。制度としての「位階」は、元は古代中国の政治行政制度である律令制や、それを継受した国における官僚・官吏の序列の標示(身分制度)である。後には、位階は、長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる栄典の一となった。位階を授与することを「位階に叙する」または叙位(じょい)という日本においては平安時代以後、宮中で例年正月5日頃に行われる五位以上の位階を授ける儀式のことも叙位(例の叙位)と言った。。.

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佐土原城

佐土原城(さどわらじょう)は、現在の宮崎県宮崎市佐土原町上田島にある城。江戸時代は佐土原藩島津氏の居城となった。 佐土原城跡の名称で2004年(平成16年)9月30日に国の史跡に指定された。.

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佐土原遠江守

佐土原 遠江守(さどわら とおとうみのかみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。実名は不明。伊東四十八城の一つ・日向国諸県郡綾城主。桶平城代。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御教書

御教書(みぎょうしょ、みきょうしょ)とは平安時代後期から室町時代にかけて、三位以上及びそれに准じる地位にある人の家司が主の意思を奉じて発給した古文書の形態。四位以下の公家や守護大名クラスの武士の家司・家僕が主の意思を奉じて発給した同形式の文書は奉書という。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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土肥遠平

土肥 遠平(どひ とおひら)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての武将、鎌倉幕府御家人。土肥実平の嫡男。 小早川氏の始祖。播磨国廣野を治めた播州肥田氏の始祖、肥田伊織実道の父。.

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土持氏

土持氏(つちもち-し)は、平安時代末期から戦国時代前期にかけて、日向国北部を中心に勢力を有した一族。現在の延岡市近辺を中心とした縣(あがた)土持氏と現在の高鍋町付近を活躍の場とした財部(たからべ)土持氏が有力であった。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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北原氏

北原氏(きたはらし)は、大隅国肝付氏の庶流で、日向国の戦国大名。.

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北郷氏

北郷氏(ほんごうし/きたごうし/ほうごうし)は、日本の氏族。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北条氏政

北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。 氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。.

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北条政子

北条政子(菊池容斎画、江戸時代) 北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 なお、「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それより前の名前は不明。.

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北条時政

北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時家か北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。 家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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和算

和算(わさん)は、日本独自に発達した数学である。狭義には大いに発展した江戸時代の関孝和以降のそれを指すが、西洋数学導入以前の数学全体を指すこともある。.

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グレゴリウス13世 (ローマ教皇)

レゴリウス13世(Gregorius XIII,1502年1月7日 - 1585年4月10日)は、第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年)。本名はウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni)。学問を好み、奨励したことで知られ、その治世にずれが累積していたユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことでも有名。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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八重姫 (伊東祐親の娘)

八重姫(やえひめ、生没年未詳)は、平安時代末期の女性。伊豆国伊東庄(現・静岡県伊東市)の豪族であり、頼朝の監視役であった伊東祐親の三女。源頼朝の最初の妻とされる。頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母。.

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元帥 (日本)

日本における元帥(げんすい)は、1872年(明治5年)から1873年(明治6年)においては階級(陸軍元帥)、1898年(明治31年)以降は元帥府に列せられた陸軍大将または海軍大将に与えられた称号(元帥)である。自衛隊にはこれに相当する称号は存在しない。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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図書館

図書館(としょかん、library、Bibliothek、bibliothèque)とは、図書、雑誌、視聴覚資料、点字資料、録音資料等のメディアや情報資料を収集、保管し、利用者への提供等を行う施設もしくは機関である。 基礎的な蓄積型文化施設の一種であり、博物館が実物資料を中心に扱い、公文書館が非定型的文書資料を中心に扱うのに対して、図書館は 出版物を中心に 比較的定型性の高い資料を蓄積するものである。 「図書館」は、明治中期に英語のlibraryから訳された訳語(和製漢語)である。「図書館」は、地図(図版)の「図」、書籍の「書」を取って、図書とし、図書を保存する建物という意味であった。.

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福永祐友

福永 祐友(ふくなが すけとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏、島津氏の家臣。日向国諸県郡野尻城主。 元亀3年(1572年)、祐友の仕える日向伊東氏は木崎原の戦いで島津氏に大敗を喫して以降、次第にその勢力を衰退していくことになる。天正4年(1576年)、島津義久率いる3万の兵に長倉祐政の守る高原城が落とされると、小林城・須木城主である米良矩重が義祐への遺恨から島津方に寝返り、三ツ山城・野首城・岩牟礼城も島津氏の支配下に入る。これにより祐友の野尻城は島津氏領の境界及び伊東氏にとっての最前線の城となり、祐友は義祐に幾度も事態の打開を訴え出たが、義祐側近の佞臣に訴えを握り潰されてしまった。 また、高原城主となった島津氏家臣の上原尚近が、祐友が島津方に内通しているとの偽の書状を佐土原城下に流したことで、義祐は祐友を疎み始める。天正5年(1577年)12月7日、祐友はやむなく島津方の兵を城内に引き入れ、島津氏に与する。以後は島津氏家臣となり、後に加治木に住する。 子・宮内少輔は岩屋城攻めに参加し負傷。娘は旧島津氏当主島津勝久の長男・島津忠良入道休庵(島津忠康、島津貴久の父・島津忠良とは別人)の室となる。宮内少輔の子で祐友の孫・筑後守は加治木島津家開祖の島津忠朗の家臣となり、47石知行する。 子孫は加治木郷士となり、『本藩人物誌』作成当時も加治木に存続していた。.

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稲津重政

津 重政(いなづ しげまさ)は、安土桃山時代の武将。日向伊東氏の家臣。日向国宮崎郡清武城主。.

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篠原の戦い

原の戦い(しのはらのたたかい)は、寿永2年(1183年)6月1日、加賀国篠原(現・石川県加賀市旧篠原村地区)において源義仲軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。.

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米良矩重

米良 矩重(めら のりしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡須木城主。一部史料に重矩と表記。 須木米良氏は、肥後菊池氏の末裔と言われ、日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職をつとめる家系。.

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米良祐次

米良 祐次(めら すけつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。日向国臼杵郡門川城主。 米良氏は肥後菊池氏の末裔とされる。 門川城は伊東領の北辺を担う日向三城(門川城・塩見城・日知屋城)のうち、最北端に位置する。門川より北は伊東氏と敵対する土持氏の領地であり、このためか飫肥や真幸院の合戦に従軍した記録はない。 元亀3年(1572年)、木崎原の戦いに敗れた伊東氏が次第に島津氏に対し劣勢になると、その隙をついた土持親成に攻められるようになる。三城は合力して土持氏を撃退したものの、天正5年(1577年)の伊東崩れにより伊東氏の豊後国退去に至り、島津氏の軍門に下らざるを得なくなった。 しかし、三城では島津氏を打ち破るため、豊後の大友氏の下に身を寄せた伊東義祐に密かに連絡を取り、大友氏を盟主と仰いだ日向侵攻を要請する。これを受けて大友義統が大軍を擁して日向入りし、ここに伊東の都於郡復帰も成就するかに思われたが、天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいて大友氏は島津義久に大敗を喫し、従軍していた日向三城の城主達(米良祐次、塩見城主・右松四郎左衛門尉、日知屋城主・福永氏本)も悉く戦死した。 Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:安土桃山時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1578年没.

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米良重方

米良 重方(めら しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡須木城主。三ツ山地頭。.

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米良長門守

米良 長門守(めら ながとのかみ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡須木城主。 須木米良氏は、肥後菊池氏の末裔と言われ、日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職を務める家系。 長門守は野首城・三ツ山城・須木城の三城の城主を務めた米良筑後守重方の甥に当たり、永禄10年(1567年)頃に筑後守から須木城を譲られて城主となる。 元亀3年(1572年)の覚頭合戦で、長門守は伊東加賀守、伊東新次郎等を大将とする伊東軍に曽井衆として従軍するも戦死した。 Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1572年没.

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米良氏

米良氏(めらうじ)は、日本の姓氏のひとつ。この姓氏を有する氏族としては、以下の2つの豪族が有名である。.

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総州家

総州家(そうしゅうけ).

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編集

編集(へんしゅう)とは、書物(書籍や雑誌)・文章・映画・ラジオ番組・テレビ番組・動画などの仕分け素材を、取捨選択、構成、配置、関連づけ、調整、などすることである。 古くから「編集」「編輯」「編緝」などの表記があり、特に戦前は「編輯」の表記が多かったが、当用漢字制定後に「編集」に統一された。当用漢字に「輯」の字がなく、似たような意味で同音の字である「集」(「輯」の新字体ではなく、全く別の字)に置き換えたためである(これを「俗用書換え」という)。なお書物の編集においては、全集や辞典・百科事典など大部なものを対象とするときは「編纂(へんさん)」、また歴史書・教科書などを対象とするときは「編修(へんしゅう)」の表記を使うことがある。 転じて、編集をやり直すことや、既存のものに変更を加える(改訂)ことをも編集ということもある。特にコンピュータ関連では、既存のファイルの一部(あるいは全部)を変更することを「ファイルを編集する」と言い表す。ウィキペディア内で散見される「記事(あるいはページ)を編集」という表現も、多くはこの意味である。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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田方郡

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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畠山直顕

山 直顕(はたけやま ただあき、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から室町時代初期の武将。本姓は源氏。家系は足利氏の一門畠山氏。父は畠山宗義『尊卑分脉』第3篇 P.271。、兄に宗生、宗国(初名宗継)、頼継、子に宗泰がいる。 室町幕府領保全のため日向に下向して南九州の鎮定に当たった人物である。観応の擾乱では足利直義やその養子・足利直冬に属している。 通称は畠山七郎、官途は修理亮、治部大輔。初名は義顕(よしあき)。別名、直滋(ただしげ?)。.

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片平城

片平城(かたひらじょう)は、福島県郡山市片平町上舘にあった日本の城(山城)。.

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相伴衆

伴衆(しょうばんしゅう、御相伴衆とも)は、室町幕府における役職的な身分の一つ。将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。管領家の一族や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった(ただし、三管領家も社会的身分としては相伴衆中の上位に位置づけられていたとする見方もある木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」木下 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-192-9)。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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荒武宗幸

荒武 宗幸(あらたけ むねゆき)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。.

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荒武三省

荒武 三省(あらたけ さんせい)は、戦国時代の武将。実名は宗名。日向伊東氏の家臣。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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落合兼置

落合 兼置(おちあい かねおき)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 落合氏は伊東氏庶流。伊東氏祐が日向に下向する際、付き従い被官化した家系。 伊東家中においては「山東惣奉行」という独自の役職で特筆され、家老(御感状連判人数)とは区別されていた事が分かるが具体的な職掌は不明。島津氏側の史料には「日向惣奉行」として名が残る。また、奉行職とは別に大将としての活躍も多く、特に永禄6年(1563年)の目井古城の戦いでは、島津豊州家を相手に寡兵でよく持ちこたえ、勲功第一と賞された。 元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで潰走する伊東軍の殿を務めて戦死した。 Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:1535年生 Category:1572年没.

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落合兼朝

落合 兼朝(おちあい かねとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。日向国児湯郡財部城主。 落合氏は伊東氏庶流。伊東氏祐が日向に下向する際、付き従い被官化した家系。 兼朝は日向伊東氏の最盛期を築いた伊東義祐の側近を務め、同じく義祐の側近であった伊東祐松(帰雲斎)と共に義祐に重用された。安房国妙本寺の日我は、義祐に日蓮寺院の再興を求めた書状において取次人として「伊東相太守・落合若狭守両人」を挙げている。 永禄11年(1568年)、軍議の席で義祐と祐松の子・祐梁が陣取りに関して争論を始めたため、これを仲裁して軍議を整える。この後、合戦は伊東方の勝利に終わり、島津忠親の飫肥城開城に結びついた。 天正3年(1575年)、嫡男・丹後守を初めとした若衆らが伊東祐安の跡目である金法師の入山先を巡って同輩と争論を起こした際、伊東帰雲斎の判断で丹後守は成敗された。のちに天正5年(1577年)、伊東氏は島津氏に敗れ没落、義祐が兼朝の領する財部(現在の高鍋町)を通って豊後国の大友氏を頼ろうとしたが、兼朝は帰雲斎に丹後守を殺された恨みを忘れておらず、義祐一向が自領に入るのを軍勢を用いて拒んだ。義祐は東光坊なる山伏と栗木太郎五郎を使者として通過を請うたが、兼朝は「帰雲斎を成敗すれば、その命を奉じましょう」と述べ東光坊を撲殺した。これに栗木は慌てて戻るが、その際に足軽が矢を射掛けるなど対決姿勢を露わとした。義祐一向は已む無く米良山に迂回して豊後に入った。 兼朝はこの後、島津氏に寝返り、財部城には川上忠智が入った。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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飫肥

飫肥(おび)は宮崎県南部日南市中央部にある地区。もと那珂郡飫肥村で、飫肥城を中心とした伊東氏飫肥藩5万7000石の旧城下町である。 江戸時代の武家屋敷町、町人町、寺町などの町並みが多く残され、市街地の八幡通り、横馬場通り、大手門通りなど7街路を含む19.8haが文化財保護法に基づき重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。 「九州の小京都」とも称され、多くの観光客が訪れている。.

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飫肥藩

飫肥藩(おびはん)は、日向国那珂郡と宮崎郡の一部(現在の宮崎県日南市の全域および宮崎市南部)を支配した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名である。なお藩主家の日向伊東氏は備中国岡田藩主家の備中伊東氏と同族である。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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豊州家

豊州家(ほうしゅう け)は、薩摩国の守護大名、島津氏の分家。 島津宗家8代当主島津久豊の三子、島津季久よりはじまる。季久が豊後守を称していたことからこの名がついた。初代の季久の代には鹿児島に近い帖佐を領していたが、2代の忠廉の代から日向飫肥に移る。飫肥に移ってからは度々日向伊東氏の攻撃を受け、5代忠親の時に飫肥の地を奪われてしまう。7代久賀以後は帖佐・黒木の地頭として島津宗家に仕え、家老などの要職にあった。15代当主・久寶も家老職に就いたが、島津斉興・お由羅の方側につき島津斉彬を排斥しようとしたため、失脚した。 正徳年間より庶流は黒岡氏を名乗るよう命じられた。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.

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豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

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豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利義晴

足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であった『菅別記』とする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。.

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都城市

都城市(みやこのじょうし)は、宮崎県の南西端に位置する市。宮崎市に次ぎ、県内第2の人口を擁する主要都市である。.

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都於郡城

都於郡城(とのこおりじょう)は現在の宮崎県西都市にある山城。築城は1337年(建武4年)伊東祐持による。別名、浮船城。.

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蘆名氏

蘆名氏(あしなし)は、桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族。相模国蘆名(現在横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来する。「芦名氏」「葦名氏」「三浦芦名家」と表記される事もある。 相模蘆名氏と会津蘆名氏の二つの系統が存在する。通し字は前者は「為」、後者は「盛」。.

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赤橋登子

赤橋 登子(あかはし とうし / なりここの頃は女性に関する史料が乏しく、今日、その名の読みが分からぬ場合は「彰子」(平安時代)を「しょうし」と読むように完全音読みで読まれるのが通例である。『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収、西尾和美執筆)では藤原登子(平安時代)と同じ「なりこ」とも併記されている(角田文衛『日本の女性名』(国書刊行会版)P178にも「なりこ」とある)。尚、吉川英治の『私本太平記』及びそれを原作とした大河ドラマ『太平記』では「とうこ」と呼ばれていたが、これはいわゆる重箱読みで正確とは言い難い。、徳治元年(1306年) - 正平20年5月4日(1365年5月25日))は、日本の鎌倉時代から南北朝にかけての女性。室町幕府初代将軍・足利尊氏の正室。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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藤原南家

藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家(軍事貴族)の名族を多く輩出した。.

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藤原為憲

藤原 為憲(ふじわら の ためのり、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。藤原南家・藤原武智麻呂の子孫。常陸介藤原維幾の子。従五位下・遠江権守。工藤大夫を号し、工藤氏の祖となる。工藤氏からは、伊東氏、伊藤氏、吉川氏、鮫島氏、二階堂氏、相良氏などが派生し、また子孫に工藤茂光、工藤祐経などを輩出した。同時に平将門・平貞盛の従兄弟にもあたる。.

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藩士

藩士(はんし)は、江戸時代の各藩に仕えた武士及びその構成員を指す歴史用語。 江戸時代には「藩」という言葉自体と同様、「藩士」も呼称として用いられなかった。例えば、薩摩藩の藩士なら自らのことを「薩摩藩士某」と名乗るのではなく「島津家家臣某」と名乗った。.

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那珂郡

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野村松綱

野村 松綱(のむら ますつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡内山城主。.

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長倉伴九郎

長倉 伴九郎(ながくら ばんくろう)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 長倉氏は伊東氏初代・伊東祐時の子・長倉祐氏を祖とする伊東氏の庶流。伊東氏祐が日向国に下向する際、付き従い被官化した家系。 日向国の中世史料である日向記の巻第7「分国中城主揃事」によると、上別府宮内少輔と共に清武城主を務めたとされる。元亀3年(1572年)の覚頭合戦の際に、伊東新次郎、伊東加賀守等を大将とする伊東軍に従軍し、弟・伴十郎と共に討死した。享年25。 category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:1547年生 Category:1572年没.

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長倉祐省

長倉 祐省(ながくら すけよし)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 長倉氏は伊東氏初代・伊東祐時の子・長倉祐氏を祖とする伊東氏の庶流。伊東氏祐が日向国に下向する際、付き従い被官化した家系。 伊東尹祐・祐充父子の家老。天文2年(1533年)に伊東祐武が反乱を起こした「伊東武州の乱」では伊東祐清(義祐)・祐吉方について戦う。乱の収束後、祐吉を擁立し当主に押し上げたが、祐吉は数年で病死してしまい、出家していた義祐が還俗し家督を継承することとなった。 こうした経緯から新当主である義祐との関係は悪く、天文10年(1541年)に穆佐、長嶺、石塚、田野の四城を長倉方と称して遂に反乱を起こし(長倉能登守の乱)、飫肥城の島津豊州家からの援軍を得て宮崎城の義祐と一戦に及んだものの、間もなく撃退され戦死した。 Category:戦国武将 Category:日向国の人物 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1541年没.

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長倉祐政

長倉 祐政(ながくら すけまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。.

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長禄

長禄(ちょうろく)は、日本の元号の一つ。康正の後、寛正の前。1457年から1461年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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長野工藤氏

長野工藤氏(ながのくどうし)は、伊勢国に勢力を持った有力国人である。単に長野氏とも呼称されるが、元来は工藤氏を称していたため、他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されている。後の通字は「藤(ふじ).

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連合艦隊司令長官

連合艦隊司令長官(れんごうかんたいしれいちょうかん、旧字表記:聯合艦隊司令長官、英語名:Commander-in-Chief of the Combined Fleet)は、日本海軍の外戦部隊である連合艦隊の指揮官。略称はGF長官。.

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押領

押領(おうりょう)は、古代・中世日本の法律用語。.

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柚木崎正家

柚木崎 正家(ゆのきざき まさいえ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。内山衆去川役人。日向国柚木崎城主。 一部史料には柚ノ木崎と表記。.

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恩賞

恩賞(おんしょう)とは、近世以前に行われた合戦において、主君が武士が戦功を挙げた家人や武士に対して表彰し、所領もしくは官途状、感状、物品の授与、格式の免許、官職への任官の推薦を行うこと(関連用語→恩給)。.

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東国

関東地方 東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方は蝦夷(えみし)や陸奥(みちのく)と呼ばれていた。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河崎祐長

河崎 祐長(かわさき すけなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。日向伊東氏の家臣。.

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河野氏

河野氏(こうのし/かわのし)は、日本の氏族。.

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河津祐泰

河津祐泰の墓(静岡県伊東市馬場町) 河津 祐泰(かわづ すけやす)は、平安時代末期の武将であり、伊豆国の豪族。工藤氏の流れをくむ伊東祐親(河津祐親)の子であり、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成・時致の父。祐通とも。.

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河津町

河津町(かわづちょう)は、日本の東海地方東端部の、静岡県賀茂郡に属する町である。伊豆半島の先端部(南端部)に近い東側地域の一角を占め、太平洋に面する。 サクラの一栽培品種であるカワヅザクラ(河津桜)の発祥地および観光地として全国的に知られており、花見の季節には必ず紹介される。.

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河津氏

河津氏(かわづし、かわづうじ)は、日本の氏族の一つ。.

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治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

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泉親衡の乱

泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)は、鎌倉時代初期の1213年(建暦3年)2月15日に発覚した内乱。鎌倉幕府御家人で信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとした陰謀とそれに続いた合戦を指す。一般的には和田合戦の前哨戦とされている。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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木崎原の戦い

木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3,000人という説が有力)を擁していた伊東側が、少数の兵力(300人)しか持っていなかった島津側から退いたことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。しかし実際の桶狭間の戦いとは全く違い、伊東軍の反撃により島津軍は将兵の85%以上が返り討ちにされ討死したという、全滅と言うべき大損害を被っている。なお、この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の策謀により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなったと考えられている。 なお「木崎原の戦い」とは島津側の呼び方で、伊東側では「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。.

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木脇祐守

木脇 祐守(きわき すけもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向伊東氏の家臣。.

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本貫

本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともに概念が導入された。中世以降、武家の名字(苗字)の由来となった土地(名字の地, 一所懸命の土地)を「本貫」、「本貫地」(ほんがんち)と呼ぶようになった。 中国・朝鮮半島では、個人の戸籍の所在地の意味を離れ、氏族集団(宗族)の始祖の発祥地として使用された。とくに大韓民国では現在も家族制度上大きな意味を持つ。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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有馬晴信

有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、肥前日野江藩初代藩主。有馬義貞の次男。キリシタン大名で、大村純忠は叔父に当たる。 大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた。 なお正純、正俊と名乗った一時期があったするが、史料的に裏付けるものはない。名乗りが確認されるだけでも四つ、正純や正俊も含めるとそれ以上の数になり、これはその地位の不安定さによるものとされている。のちに島津義久からの偏諱で久賢(ひさまさ)、そして足利義晴から偏諱を受けた祖父の有馬晴純から一字取って晴信に改名。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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海軍大将

海軍大将(かいぐんだいしょう)は、海軍の階級の一。海軍中将の上に位置する。一般に将官の最高位であり、海軍軍人の最高位である。 英呼称である“admiral”はアラビア語で「海の司令官」を意味するアミール・アルハル“amīr al-baḥr”に由来する。.

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新庄市

新庄市(しんじょうし)は山形県の北東にある人口約3万6千人の市である。.

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新庄藩

新庄藩(しんじょうはん)は、出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・河北町)を統治した藩。居城は新庄城。.

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新納伊豆守

新納 伊豆守(にいろ いずのかみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。実名は不明。日向伊東氏の家臣。日向国野首城主。伊東マンショ(祐益)の叔父。.

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日南市

日南市(にちなんし)は、宮崎県の南部に位置する市。九州の小京都と称される飫肥(おび)や風光明媚な日南海岸国定公園などを抱える、歴史と自然あふれる観光の街である。 日本海流の影響により温暖な気候で、雨量も豊富である。また、夏から秋にかけては頻繁に台風が接近し、しばしば甚大な被害を受けることもある。 2004年度下半期に放映されたNHK朝の連続テレビ小説「わかば」の舞台のひとつとなった。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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日和田館

日和田館(ひわだたて)は、福島県郡山市日和田町舘にあった日本の城(平山城)。現在は建物はなく土塁等の跡のみ残る。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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旗本寄合席

旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家が存在した。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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曽我物語

一万丸 箱王丸(曾我兄弟) / 歌川国芳画(天保期) 『曽我物語』(そがものがたり)は、鎌倉時代初期に起きた曾我兄弟の仇討ちを題材にした軍記物語。作者不詳で多くの異本があり、最古の『真名本曽我物語』がよく取り上げられる。なお、物語の成立には一人の女性が深く関わったとされる。.

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曾我兄弟の仇討ち

一万丸 箱王丸(曾我兄弟) 歌川国芳画 曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた。.

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曾我祐成

曾我 祐成(そが すけなり)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。 安元2年(1176年)、祐成が5歳の時、実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺された。その後、母が自身と弟を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁した。のち養父・祐信を烏帽子親に元服して祐成を名乗り、その後は北条時政の庇護の下にあったという。 建久4年(1193年)、富士の巻狩りが行われた際、弟・時致と共に父の敵・工藤祐経を殺害したが、仁田忠常に討たれた。.

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曾我時致

曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。 安元2年(1176年)、3歳の時、実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺される。その後、母が兄と自身を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁する。建久元年(1190年)9月7日、北条時政を烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ、その後は時政の庇護の下にあったという。 建久4年(1193年)富士の巻狩りが行われた際、兄・祐成と共に父の敵・工藤祐経を殺害した。兄は仁田忠常に討たれたが、時致は将軍源頼朝を襲おうとし、その宿所に侵入したが女装した小舎人の御所五郎丸によって捕らえられた。翌日、頼朝の取調べを受けた際、仇討ちに至った心情を述べて頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児・犬房丸の要望により処刑された。.

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1159年

記載なし。

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1175年

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1176年

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1180年

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1335年

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1461年

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1572年

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1577年

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1587年

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

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