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勘定奉行

索引 勘定奉行

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)は、江戸幕府の職名の一つ。勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領の支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。元禄年間までは勘定頭(かんじょうがしら)とも称した。評定所においては、関八州内江戸府外の訴訟について担当した。定員は約4人で役高は3000石。老中の下にあり、郡代・代官・蔵奉行などを支配した。1698年以降は、うち1人が大目付とともに道中奉行を兼務した。1721年には財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれた。勝手方と公事方の職務は全く別のものであり、事実上名称のみが共通している状態であった。.

132 関係: 古川氏清塚原昌義大岡清重大久保一翁大久保長安大目付大草高好大河内久綱天領妻木重直寺社奉行小出秀実小笠原広業小笠原長常小笠原長幸小笠原政民小野友五郎小長谷政良小栗忠順小栗政寧山村良旺岡田忠養岡田善政川井久敬川勝広運川路聖謨中川忠英一色直温久世広民久須美祐明久貝正方井上義斐井上清直井戸良弘代官仙石政勝伊奈忠宥伊奈忠次伊奈忠治伊丹康勝伊丹勝長佐々木一陽佐々木顕発佐橋佳富土岐頼旨包金銀元禄勘定 (江戸幕府)勘定吟味役勘定組頭...勘定所矢部定謙石川忠房石谷穆清石谷清昌石河政平神尾春央稲生正武竹内保徳織田泉之羽田正見甲斐庄正親町奉行牧野成賢遠山景元遠山景晋道中奉行荻原重秀菊池隆吉萩原美雅駒井朝温評定所鳥居耀蔵跡部良弼郡代都筑峯暉鈴木重嶺関東地方肥田頼常蔵奉行蔵前入用酒井忠吉酒井忠行老中柳生久通松平康英松平康正松平忠冬松平忠郷松平信行 (旗本)松平信敏 (大隅守)松平貴強松平近直松平正綱松波正春松本秀持松浦信正 (河内守)村垣定行杉岡能連杉浦正友根岸鎮衛根岸衛奮栗本鋤雲桑原盛員梶野良材榊原忠之榊原忠職水野忠徳水野忠順永井尚志永田正道江戸江戸幕府池田頼方河津祐邦津田正路深谷盛房溝口勝如服部常純服部貞勝朝比奈昌広木村芥舟有田貞勝有馬則篤戸川安廣戸川安清星野成美明楽茂村浅野氏祐曲淵景漸1698年1721年 インデックスを展開 (82 もっと) »

古川氏清

古川 氏清(ふるかわ うじきよ、宝暦8年(1758年) - 文政3年6月11日(1820年7月20日)は、江戸時代中後期の旗本、和算家。通称は吉次郎、吉之助。官位は従五位下、和泉守、山城守。字は珺璋(くんしょう)。不求と号す。子に同じく和算家の古川氏一がいる。 1759年家督を継ぎ、奥右筆などを務め、1811年に従五位下和泉守に叙任された。広敷用人となり文化13年(1816年)8月4日勘定奉行となり、文政3年(1820年)在職中に63歳で没した。墓所は東京都台東区池之端2丁目の東淵寺。法名は、温良院殿前城州刺史譲岳祖恭大居士。 算学は中西流を関川美郷に、久留島流を安井信名に、関流を栗田安之に学んで、至誠賛化流(三和一致流)を創立した。著書に「算籍」「円中三斜矩」等がある。 弟子に久保寺正久、志村昌義らがいる。大名の松平忠和にも算学を教えている。.

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塚原昌義

塚原 昌義(つかはら まさよし、文政8年(1825年) - 没年不詳)は、幕末の江戸幕府旗本。通称、重五郎。官位は但馬守。祖先は武田遺臣で、武蔵国多摩郡留所村(現八王子市)、下総国香取郡丁子村(現香取市)などの領地を持つ旗本となった。.

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大岡清重

大岡 清重(おおおか きよしげ、寛永8年(1631年) - 元禄3年8月2日(1690年9月4日))は江戸時代の旗本。大岡清勝の孫。勘定奉行。官位は備前守。通称は五郎左衛門。子に娘(星合顕行室)。 越後国大岡庄豪族の新田氏流里見氏庶家大井田氏族で、大岡忠相の一族である大岡氏とは血縁は無い。.

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大久保一翁

大久保 一翁(おおくぼ いちおう) / 大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ)は、幕末から明治時代にかけての幕臣、政治家。東京府知事、元老院議官を務めた。栄典は従二位勲二等子爵。.

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大久保長安

大久保 長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。甲斐武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。.

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大目付

大目付(おおめつけ)は、江戸幕府及び諸藩の役職の一つ。古くは惣目付(そうめつけ)、大監察(だいかんさつ)とも呼ばれた。目付の上位。.

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大草高好

大草 高好(おおくさ たかよし、生年不詳 - 天保11年1月18日(1840年2月20日))は、江戸時代後期の旗本。禄高3,500石。通称は主膳。官位は能登守、後に安房守。実父・実母は不明。大草高般の養子。次男に久世広周。 文化2年(1805年)に家督を相続。文化3年(1806年)に火事場見廻、文化8年(1811年)に使番、文政元年(1818年)に目付となった後、文政10年(1827年)に長崎奉行に就任。天保4年(1833年)に江戸に戻り小普請奉行、作事奉行を歴任。天保6年(1835年)に勘定奉行となる。天保7年(1836年)9月20日に江戸北町奉行となり、天保10年(1839年)5月の蛮社の獄において渡辺崋山らの吟味を行ったが、花井虎一の偽証や鳥居耀蔵の捏造と吟味介入に不信感を抱き、崋山らに同情的だった。天保11年(1840年)1月18日、在任中に死去(ただし清水正巡『有也無也』には前年12月10日に死去したとの記述がある)。後任の北町奉行は遠山景元が任命された。.

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大河内久綱

大河内 久綱(おおこうち ひさつな、元亀元年2月15日(1570年3月21日) - 正保3年4月3日(1646年5月17日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。徳川氏の家臣。大河内秀綱の子。兄弟に松平正綱がいる。室は相模国後北条氏遺臣・深井好秀の娘(龍泉院殿)。子に長泉院(酒井親炮室)、江戸幕府老中・川越藩主松平信綱、養子に大河内重綱がいる。通称は金兵衛。.

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天領

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.

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妻木重直

妻木 重直(つまき しげなお、慶長9年(1604年) - 天和3年3月27日(1683年4月23日))は江戸時代前期の旗本(3,000石)。妻木貞徳の3男の妻木重吉の子。下郷妻木家2代目。通称は伝兵衛、彦右衛門。別名に頼能(頼熊)。室は真田昌幸の6女・清光院。弟に重門。子に頼保(長男、奈良奉行を務める)、幸頼(次男、旗本真田幸吉の婿養子).

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寺社奉行

延暦寺根本中堂 寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。.

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小出秀実

小出 秀実(こいで ほずみ、天保5年(1834年) - 明治2年6月22日(1869年7月30日))は、江戸時代末期(幕末)の旗本。小出英永の夫婦養子。実父は土岐頼旨、実母は土岐頼量の娘。兄弟に土岐頼礼。官位は従五位下美濃守、大和守。また左衛門尉、修理とも称した。別名に実(みのる)。生年は天保2年(1831年)ともされる。江戸生まれ江戸育ち。.

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小笠原広業

小笠原 広業(おがさわら ひろなり、生没年不詳)は幕末の旗本。父は旗本・小笠原新九郎。官位は摂津守、讃岐守、甲斐守、伊賀守。幡豆小笠原氏。 弘化3年(1846年)書院番から御小納戸に進み、安政5年(1858年)将軍徳川家茂の小姓となり、同年諸大夫に叙任された。文久元年(1861年)から目付(外国掛)を務め、御用により対馬藩に派遣された。文久2年(1862年)家茂の御小納戸頭取となり、外国奉行に任じられた。元治元年(1864年)御側御用取次手伝、勤仕並寄合を経て兵庫奉行に任じられ、元治2年(1865年)日光奉行を経て目付(作事奉行格)に再任され、大坂における勘定奉行(勝手方)となり、家茂の長州征討では道中奉行を務めた。慶応2年(1866年)勤仕並寄合から江戸の勘定奉行(公事方)に再任された。慶応3年(1867年)一橋徳川家の家老となり、慶応4年(1868年)には御留守居となった。.

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小笠原長常

小笠原 長常(おがさわら ながつね、文政元年10月27日(1818年11月25日) - 明治11年(1878年))は、江戸時代末期(幕末)の旗本。小笠原氏7代当主(唐津藩分家、中島陣屋3,000石)。久貝正満の4男として江戸市ヶ谷に生まれ郁七郎と称す。小笠原長坦の養子となり織部と称。同じく旗本の久貝正典は兄。養子に長功。官位は従五位下長門守、筑後守。軽鴎と号した。.

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小笠原長幸

小笠原 長幸(おがさわら おさゆき)は江戸時代後期の旗本。父は旗本・小笠原長直。寛政譜によれば小笠原吉次の子孫。官位は従五位下、和泉守。通称は梅之丞、三九郎。 明和6年(1769年)勘定となり、天明3年(1783年)以降、利根川や濃尾平野周辺の川普請や畿内天領の作柄調査などの御用を務め、天明8年(1788年)勘定組頭に進み、寛政4年(1792年)には関東の川普請御用の功績により黄金3枚を拝領した。寛政5年(1793年)父から廩米150俵の家督を相続し、寛政8年(1796年)勘定吟味役となり、寛政12年(1800年)勘定奉行(勝手方)に就任し、500石に加増された。文化5年(1808年)に蝦夷地御用を務め、文化9年(1812年)に松前奉行となり、同地で没した。.

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小笠原政民

小笠原 政民(おがさわら まさたみ、生没年不詳)は幕末の旗本。父は旗本・小笠原安房守。通称は順三郎。官位は志摩守。 天保13年(1842年)寄合より火事場見廻役を経て火消役となる。嘉永7年(1854年)小普請支配となり、安政7年(1860年)小姓組番頭、文久2年(1862年)書院番頭、同3年(1863年)大番頭を歴任し、慶応元年(1865年)勘定奉行(公事方)に就任した。慶応2年(1866年)大番頭に再任されるが、御留守居に転じた。同3年(1867年)に致仕し、隠居料300俵を拝した。.

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小野友五郎

小野 友五郎(おの ともごろう、文化14年10月23日(1817年12月1日) - 明治31年(1898年)10月29日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の数学者・海軍軍人・財務官僚。諱は広胖(ひろとき、しばしばこうはんとも音読される)。官位は内膳正。元常陸笠間藩士、後に幕臣。和算家としては広胖、洋算家としては友五郎と呼ばれることが多い。.

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小長谷政良

小長谷 政良(こながや まさなが、生年不詳 - 文政元年(1818年))は、江戸時代後期の旗本。石河政武の子で、小長谷政房の養子。七三郎、新三郎。従五位下弾正少弼、能登守、和泉守。室は久世広之の娘。.

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小栗忠順

小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。 通称は又一。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。.

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小栗政寧

小栗 政寧(おぐり まさやす、文化13年2月29日(1816年3月27日) - 明治32年(1899年)8月17日)は、江戸時代幕末の旗本。相馬仙胤(相馬祥胤の三男)子で小栗政長の養子。通称を右膳。官途は従五位下、長門守、のち下総守。 文久2年(1862年)5月目付より禁裏附となり、在職中に下総守となる。元治元年(1864年)2月京都東町奉行となるが、在職中は池田屋事件や禁門の変が起こって京の治安が悪化した。慶応元年10月在京のまま勘定奉行(勝手方)となり、慶応2年7月関東郡代を兼帯、翌3年2月兼帯を免ぜられ、慶応4年(1868年)1月職を免ぜられ勤仕並寄合となる。明治2年(1869年)静岡藩郡奉行兼勘定頭、会計掛権少参事となり、廃藩置県を迎え、明治14年(1881年)6月、徳川慶喜家家扶となった。.

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山村良旺

山村 良旺(やまむら たかあきら、享保14年(1729年)寛政9年2月27日(1797年3月25日))は、江戸時代中後期の旗本で、勘定奉行、江戸南町奉行などを歴任した。 通称は数馬、七郎右衛門、十郎右衛門。官途は従五位下信濃守。隠居ののち道山と号する。 父は山村良喜、母は菅沼定虎の娘。妻は依田政次の娘。子に宮城和邦、山村良記、角倉玄匡ら。 寛延2年(1749年)小姓組、宝暦3年(1753年)西の丸小納戸となり、布衣を着ることを許された。宝暦6年(1756年)父が没して家督を継ぎ、宝暦8年本丸小納戸として仕えた。明和5年(1768年)に目付となり、安永2年(1773年)前任の長谷川宣雄が急逝したためその後任として京都西町奉行となり、同時に従五位信濃守に叙任された。在任中は禁裏の不正を摘発する(安永の御所騒動)など活躍し、また、安永6年(1777年)日光宮(東叡大王)の江戸下向に同行した。 安永7年(1778年)勘定奉行、天明4年(1784年)江戸南町奉行となり、寛政元年(1789年)に御三卿清水家の付家老となった。寛政6年(1794年)に致仕。 寛政9年(1797年)に死去。墓所は西照寺(杉並区高円寺南2丁目29-3)。.

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岡田忠養

岡田 忠養(おかだ ただやす、生没年不詳)は、幕末の幕臣(新規旗本)。岡田林次郎の子。通称は利喜次郎。官名は備後守、安房守。 安政2年(1855年)5月に下田奉行に任ぜられる。翌年ハリスと諸々の事案に対して談合をしたが、ハリスが上府を申し立てている最中に中村時万が着任し職を離れた。のちに小普請奉行、作事奉行を歴任し、慶応3年(1867年)11月5日に勘定奉行並に就任し、翌2月16日に清水家小普請支配に転出している。.

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岡田善政

岡田 善政(おかだ よしまさ、1605年(慶長10年) - 1677年7月1日(延宝5年6月2日))は、江戸時代初期の美濃国の旗本。美濃国代官(美濃郡代)。勘定奉行。官職は豊前守。祖父は岡田重善、父は岡田善同。正室は佐久間勝之の娘。子に岡田善房、岡田善次、岡田重治、堀利安、岡田重元、岡田善紀らがいる。父善同とともに岡田将監(おかだしょうげん)を名乗っている。.

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川井久敬

川井 久敬(かわい ひさたか、享保10年(1725年) - 安永4年10月26日(1775年11月18日))は江戸時代中期の幕臣。通称次郎兵衛。従五位下越前守。低禄から勘定奉行に立身出世した。 小普請組頭より勘定吟味役となり、明和8年勘定奉行に就任した。田沼意次の貨幣政策の実現に向けて、明和五匁銀および南鐐二朱銀の鋳造を言上した。安永4年には田安家家老を兼任するが、同年51歳で没した。墓所は東京都中野区上高田1丁目の龍興寺。同年1月に嫡男の川井久道が没していた為、孫で和算家の川井久徳が家督を継いだ。 死後に「兼役(倹約)は、身を絶やす(田安)べき前表(千俵)か、四十九(始終苦)にして死ぬは川井(可愛)や」という落書があったとされる。.

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川勝広運

川勝 広運(かわかつ ひろかず)は、江戸時代後期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の12代当主。明治維新後、東京府参事となった。名は「広一」と記される場合もある。.

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川路聖謨

川路 聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。号は敬斎。 豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。.

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中川忠英

中川 忠英 (なかがわ ただてる、宝暦3年(1753年)-文政13年(1830年9月))は江戸時代の旗本。中川忠易の5男。幼名は勘三郎。字は子信。号は駿臺。官途は、従五位下飛騨守(長崎奉行になった折りに叙任)。正室は安藤信尹の娘。4男には小栗忠清の養子となった忠高がおり、その嫡男が小栗忠順。遠山景晋、石川忠房と共に文政年間の能吏として称えられた。.

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一色直温

一色 直温(いっしき なおあつ、生没年不明 )は、江戸時代末期(幕末)の旗本。一色直頂の子。官位は従五位下山城守のち摂津守。通称は邦之輔。.

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久世広民

久世 広民(くぜ ひろたみ、元文2年10月6日(1737年10月29日) - 寛政11年12月23日(1800年1月17日))は、江戸時代の旗本。通称九郎、官位は従五位下丹波守。子に上杉義長室ら。生年は享保17年(1732年)とも。.

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久須美祐明

久須美 祐明(くすみ すけあきら、明和8年(1771年) - 嘉永5年11月5日(1852年12月15日))は江戸時代後期の旗本である。久須美祐光の子。祐雋、祐義、豊田友直、祐利の父。杉浦梅潭の祖父。通称は権兵衛、六郎左衛門。官位は佐渡守。.

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久貝正方

久貝 正方(くがい まさかた、慶安4年(1651年) - 享保4年11月14日(1719年12月24日))は、江戸幕府旗本、勘定頭。 松平氏信の次男。母方の祖父・久貝正世の養子となる。通称、甚三郎、弥右衛門、忠左衛門。号は意閑(致仕ののち)。官位は従五位下、因幡守(元禄12年)。妻は大久保教勝の娘、後妻は水野忠久の娘。養子に久貝正順(徳川水戸家家臣久貝正武の子)、正順室(松平氏清の娘)。.

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井上義斐

井上 義斐(いのうえ よしあや、生没年不詳)は、江戸時代末期の旗本。別名茂輔。通称は元七郎。官位は従五位、主水正、備後守。.

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井上清直

井上 清直(いのうえ きよなお、文化6年(1809年) - 慶応3年12月25日(1868年1月19日))は、幕末の江戸幕府御家人(後に旗本)。 内藤歳由の三男、母は高橋誠種の娘。家禄現米八十石の幕府御家人・井上新右衛門の養子。同じく旗本の川路聖謨は実兄。江戸幕府最後の西国郡代の窪田鎮勝(蒲池鎮克)は従弟。幼名は松吉。通称は新右衛門、官位は信濃守。.

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井戸良弘

井戸 良弘(いど よしひろ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。大和国井戸城主。.

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代官

代官(だいかん)とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。日本では、武家政権における役職の1つとなった。.

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仙石政勝

仙石 政勝(せんごく まさかつ、元和6年(1620年) - 元禄13年5月8日(1700年6月24日))は、江戸時代の旗本。上田藩主仙石忠政の三男で、仙石政俊の弟。通称、治左衛門。官位は、従五位下和泉守。信濃国矢沢領主。子に仙石政因。娘に貞雲院(仙石政治)室。.

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伊奈忠宥

伊奈 忠宥(いな ただおき、享保14年(1729年)- 安永元年8月25日(1772年9月22日))は江戸時代中期の関東郡代。.

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伊奈忠次

伊奈 忠次(いな ただつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。武蔵小室藩初代藩主。.

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伊奈忠治

伊奈 忠治(いな ただはる)は江戸時代初期の代官頭。.

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伊丹康勝

伊丹 康勝(いたみ やすかつ)は、江戸時代前期の旗本、大名、勘定奉行。甲斐徳美藩の初代藩主。.

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伊丹勝長

伊丹 勝長(いたみ かつなが)は、甲斐徳美藩の第2代藩主。.

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佐々木一陽

佐々木 一陽(ささき かずあき)は、江戸幕府旗本。石野広通の六男。次兄佐々木万彦の養嗣子となる。 目付、勘定奉行(1843年)、小普請奉行を歴任する。万彦とともに歌人で、『梅花百題和歌』の編者は一陽とされる。安政2年(1855年)死去、享年69。.

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佐々木顕発

佐々木 顕発(ささき あきのぶ)は、江戸時代末期の旗本。一介の旗本家来から御家人、旗本となり、勘定奉行・町奉行・外国奉行等へと大出世した人物として知られる。.

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佐橋佳富

佐橋 佳富(さはせ よしとみ、安永5年(1776年) - 没年不明)は、江戸時代末期(幕末)の旗本。万蔵、市左衛門。官位は従五位下長門守。京都西町奉行、勘定奉行。室は松平信行の娘。.

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土岐頼旨

土岐 頼旨(とき よりむね 文化2年(1805年) - 明治17年(1884年)4月2日)は江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。官位は丹波守、禄高は7000石。知行地は現取手市小文間他。出身は江戸崎土岐氏。上野沼田藩土岐家の分家、溜池土岐家第6代。溜池土岐頼量(沼田土岐定経の子)の婿養子。江戸生まれ。実父は土岐朝旨。子に頼礼(頼徳)、小出秀実らがいる。.

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包金銀

包金銀(つつみきんぎん)とは、江戸時代に江戸幕府への上納や公用取引のために所定の形式の紙を用いて包装・封印された金貨・銀貨のこと。 正しい形式に則って包装・封印された包金銀は開封される事なく所定の金額の金貨・銀貨として通用した。これは悪質な貨幣が混入する事を防ぐとともに、中身の確認の手間を省く効果があった。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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勘定 (江戸幕府)

勘定(かんじょう)は、江戸幕府における職名の1つ。勘定奉行配下の役人で、奉行 - 勘定組頭 - 勘定 - 支配勘定という序列になっており、執務は主に勘定所で行なった。他に勘定出役という役職もあった。.

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勘定吟味役

勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)は、江戸幕府において、勘定所の職務すべての監査を担当した役職である。.

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勘定組頭

勘定組頭(かんじょうくみがしら)とは、江戸幕府の役職の1つ。勘定所に属して勘定奉行の支配を受けて勘定所所属の諸役人を指揮・監督を行い、幕府財政及び農政を担当した。 設置時期は寛文4年(1664年)とするのが通説であるが、それよりも30年以上も前の寛永年間には既にこの名称が登場しているため、設置上限はこの時期まで遡ることが可能とされている。 寛文12年(1672年)の職制によれば定員12名・役料は100俵であり、御殿(江戸城)担当が2名が設置され、残りは上方担当と関東担当に振り分けられていた(最低4名)。天和2年(1682年)に一旦役料が廃止されたが、享保7年(1722年)に改めて役高350俵が与えられ、翌8年(1723年)の制度改革によって地域別振り分けを廃して、代わりに御殿詰・勝手方・取箇改・伺方・諸向勘定帳改の部門別振り分けが導入された。以後定員は10-13名で推移しながら幕末にまで至った。 Category:江戸幕府の職制.

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勘定所

勘定所(かんじょうしょ)は、江戸幕府や諸藩・旗本などにおいて、財政や民政を担当する役所・支配機構の名称。勘定奉行を長官とする場合が多い。職掌・組織・設置年代などはそれぞれ異なる。 一般的に職務内容は、.

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矢部定謙

部 定謙(やべ さだのり、寛政元年(1789年) - 天保13年7月24日(1842年8月29日))は、江戸時代後期の旗本、幕臣である。矢部定令の子。通称は彦五郎。位階は従五位下。官職は駿河守から左近衛将監に遷任し、駿河守に再任。戒名:晴雲山院殿秋月日高定謙大居士。荘照居成神社(そうしょういなり。山形県飽海郡遊佐町蕨岡上寺鎮座)の祭神として祀られる。墓所は東京都江東区平野の日蓮宗法苑山浄心寺。.

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石川忠房

石川 忠房(いしかわ ただふさ、宝暦5年12月13日(1756年1月14日) - 天保7年1月18日(1836年3月5日))は、江戸時代の旗本。伊丹左兵衛勝興の次男で、石川忠国の養子。幼名は岩次郎。通称太郎右衛門、六右衛門。官途は従五位下、左近将監。遠山景晋、中川忠英と共に文政年間の能吏として称えられた。実子は早世し、大屋四朗兵衛正己の三男の六右衛門忠良を養子とした。.

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石谷穆清

石谷 穆清(いしがや あつきよ)は、幕末の江戸幕府旗本。官位は因幡守、後に長門守。江戸時代初期に江戸北町奉行を務めた石谷貞清の子孫。.

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石谷清昌

石谷 清昌(いしがや きよまさ)は、江戸時代中期の旗本。.

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石河政平

石河 政平(いしこ まさひら)は、江戸時代の旗本。.

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神尾春央

尾 春央(かんお はるひで、貞享4年(1687年) - 宝暦3年5月5日(1753年6月6日))は、江戸時代の旗本。官位は若狭守。苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった。.

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稲生正武

生 正武(いのう まさたけ、天和3年(1683年) - 延享4年8月15日(1747年9月19日)は、江戸時代の旗本。父は稲生正照。通称次左衛門、官位は下野守で、稲生下野とも呼ばれる。.

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竹内保徳

京極高朗、柴田剛中。 竹内 保徳(たけのうち やすのり、文化4年(1807年) - 慶応3年2月1日(1867年3月6日))は、江戸時代末期(幕末期)の幕臣。官位は下野守、通称清太郎。父は200俵の旗本・竹内富蔵。.

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織田泉之

織田 泉之(おだ いずみ、天保3年(1832年) - 没年不詳)は江戸時代末期(幕末)の旗本。初名は信重。通称は市蔵。官位は従五位下和泉守。.

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羽田正見

羽田 正見(はねだ まさみ、文政9年(1826年)9月 - 明治26年(1893年))は幕末の幕臣。江戸湯島生まれ、羽田利見の子。通称十左衛門。のちに名を満佐美とした。号は安堂。 父の利見が病の為、佐渡奉行を免職となり嘉永7年(1854年)家督を継いだ。出羽国尾花沢、但馬国生野や大坂、陸奥国小名浜(安政3年 - 5年)などの代官、そして1864年に目付となった。この時、大目付黒川盛泰とともに松平頼徳の切腹申渡しを行った。その後、勘定吟味役を経て、慶応3年(1867年)8月17日勘定奉行並に就任し11月5日迄務め、作事奉行並となった。江戸開城後は駿府郊外の北安東村で帰農し子弟数百人を教育した。明治26年に68歳で没した。 著書に「貨幣通考」などがある。.

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甲斐庄正親

斐庄 正親(かいしょう まさちか、生年不詳 - 元禄3年12月15日(1691年1月3日))は江戸幕府の旗本寄合。 甲斐庄氏4代目。通称は伝八郎、喜右衛門(7代正壽まで同名を名乗る)。官位は従五位下飛騨守。長崎奉行を務めた甲斐庄正述(領地は河内国錦部郡)の子。兄弟に正敬、正奥、大森好輝室。室は高木守久の娘。子に正永、茂雅、浅野長武継室、土屋逵直室。 慶安元年(1648年)6月、3代将軍徳川家光にはじめて拝謁し、承応3年(1654年)2月に小姓組となり、寛文6年(1666年)に使番となり、翌年より但馬、丹波及び北陸地方に巡見使として赴く。寛文12年(1672年)、使番より御勘定頭(勘定奉行)となる。延宝8年(1680年)まで務めた後、江戸南町奉行となる。加増を重ね天和2年(1682年)に4000石の大身となる。 元禄3年(1690年)、南町奉行在任中に没する。子の正永が家督を継ぎ、普請奉行などを務めた。.

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町奉行

奉行(まちぶぎょう)とは江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸町奉行のみを指す。また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠し、遠国奉行と総称された。.

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牧野成賢

牧野 成賢(まきの しげかた、正徳4年(1714年) - 寛政4年4月25日(1792年6月14日))は、江戸時代の旗本。旗奉行牧野成照の次男。一族の牧野茂晴の娘を娶って末期養子となり、2200石を継承した。通称は大九郎、靱負、織部。.

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遠山景元

本妙寺) 遠山 景元(とおやま かげもと)は、江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、大目付、後に南町奉行を務めた人物である。テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』及び『江戸を斬る』の主人公のモデルとして知られる。幼名は通之進、通称は実父と同じ金四郎(きんしろう)。官位は従五位下左衛門少尉。.

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遠山景晋

遠山 景晋(とおやま かげくに / かげみち)は、江戸時代後期の江戸幕府の幕臣。永井直令の四男で、遠山景好の養子。通称は金四郎。左衛門尉は官職名。隠居後は楽土。.

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道中奉行

道中奉行(どうちゅうぶぎょう)は、江戸幕府における職名のひとつ。一時期設置され上水などを統括していた道奉行とは異なる役職である。.

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荻原重秀

荻原 重秀(おぎわら しげひで、万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))は、江戸幕府の旗本。勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで有名。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下・近江守。.

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菊池隆吉

菊池 隆吉(きくち たかよし、文化9年(1812年) - 没年不詳)は、江戸時代末期の旗本。長谷川専悦の子で、菊池惣助の養子となる。通称大助。官位は伊予守、丹後守。 勘定吟味役から、文化2年(1862年)7月3日に外国奉行となった。慶応3年(1867年)4月28日外国奉行並柴田剛中とともにイギリス公使館において生麦事件の賠償金支払いに関する文書を取り交わしを行った。慶応4年(1868年)1月15日より同28日まで勘定奉行を務め、その後は勤仕並寄合となった。.

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萩原美雅

萩原 美雅(はぎわら よしまさ)は、江戸時代中期の旗本(150俵→500石)。通称は善次郎、三左衛門、源左衛門で、官位は従五位下、伯耆守。享年77。父は勘定を務めた萩原久茂。.

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駒井朝温

駒井朝温(こまい ともあつ、文政6年(1823年) - 明治29年(1896年))は、幕末の旗本(領地は上野国連取等)。父は駒井兜十郎。官位は、従五位下山城守、甲斐守。玉虹と号する。 西丸目付、本丸目付等を務めた。万延元年(1860年)3月4日、老中松平乗全、若年寄遠藤胤統、寺社奉行本庄宗秀、大目付久貝正典、江戸町奉行池田頼方、勘定奉行山口直信とともに桜田門外の変において吟味掛となった。同年12月大目付となる。文久2年(1862年)8月24日小姓組番頭となった。同年11月、井伊直弼のもと安政の大獄に関わったとして職を免じられた。元治元年(1864年)6月29日に歩兵頭となり、同年7月21日大目付に復し同年8月11日勘定奉行となり、12月19日再び大目付となり、その後講武所奉行並となる。慶応元年5月11日歩兵奉行となり6月19日迄務めた。慶応元年11月2日再び勘定奉行となり、慶応2年(1866年)7月3日大目付となり、慶応3年1月19日より陸軍奉行並となり1月28日迄務めた。慶応4年(1868年)3月、江戸幕府終焉とともに公職を去った。明治29年に73歳で死去した。 駒井朝温の次男忠道は小栗忠順の養子で、忠順が斬首された翌日に上野国高崎で斬首された。三男の忠祥は上野介の遺児国子が成人し結婚する迄小栗家を継いでいる。.

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評定所

評定所(ひょうじょうしょ)は、近代以前に訴訟を扱った機関およびそれが存在した場所のこと。時代により以下の2つに区分される。.

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鳥居耀蔵

鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)は、江戸時代の幕臣、旗本。耀蔵は通称、諱は忠耀(ただてる)。.

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跡部良弼

跡部 良弼(あとべ よしすけ)は、江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。肥前唐津藩主水野忠光の六男で、老中水野忠邦の実弟。通称は季十郎・大膳。官位は従五位下山城守。信濃守、能登守、甲斐守、伊賀守、遠江守に遷任した。.

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郡代

郡代(ぐんだい)とは室町時代から江戸時代にかけての幕府・諸藩に置かれた職名。郡奉行(こおりぶぎょう)とも。 時代によって厳密な意味合いは異なるが、一般には、その土地の領主に代わって徴税・司法・軍事等の職務を、郡といった広い単位で担当した地方行政官、すなわち郡単位の代官(郡奉行なら奉行)のことを指す。.

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都筑峯暉

都筑 峯暉(つづき みねてる、生没年不詳)は、幕末の旗本。都筑峯重の子。通称は金三郎。官途は従五位下、駿河守、但馬守。.

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鈴木重嶺

鈴木 重嶺(すずき しげね)は、江戸時代後期の旗本、明治期の官僚、歌人。最後の佐渡奉行。.

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関東地方

関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。関東地方は人口・面積が多数・広大なので、利根川を境界線に北を北関東(茨城県・栃木県・群馬県)地方、南を南関東地方(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)に分割することもある。.

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肥田頼常

肥田 頼常(ひだ よりつね、生没年不詳)は、江戸時代後期の旗本。通称、十郎兵衛。従五位下・豊後守。家禄3000石。.

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蔵奉行

蔵奉行(くらぶぎょう)は、江戸時代に江戸浅草(浅草御蔵)をはじめとする主要都市にあった幕府の御米蔵の管理を司った奉行。勘定奉行の支配下にあり、役料200俵、焼火の間席。属僚として組頭、手代、門番同心、小揚者などがあった。 蔵奉行という言葉の初出は慶長15年(1610年)とされ、江戸の浅草御蔵の成立は元和6年(1620年)成立と言われている。ただし、蔵奉行の組織の成立は経済的先進地であった上方の方が先んじており、大坂では元和7年(1621年)、京都では寛永2年(1625年、ただし寛政2年(1790年)までは京都町奉行支配下)、江戸では寛永13年(1636年)の事であった。また一時期は駿河国清水・近江国大津・摂津国高槻にも設置されたが、幕末まで存続したのは江戸・京都・大坂の3ヶ所のみである。 何百石取りというように知行地のある地方知行の旗本とは別に、三十俵二人扶持というように御蔵米から3季に分けて切米を俸禄として貰う御家人(一部の旗本も含む)たちを蔵米知行・蔵米取りというが、彼らに渡す米穀を取り扱った。蔵米取りの御家人は自家消費分以外の切米(米穀)を、御米蔵の前に店を構える札差を通じて現金化した。浅草・蔵前の地名はこれが由来である。.

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蔵前入用

蔵前入用(くらまえにゅうよう)とは、江戸時代に江戸幕府直轄領(天領)に対してかけられた高掛三役と呼ばれる特別税のうちの一つ。直轄領の年貢の納付先である浅草御蔵をはじめとする幕府御蔵の維持・運営経費の捻出を名目とした。 元禄2年(1689年)に関東では村高100石につき金1分(1/4両)、上方では村高100石につき銀15匁納付が命じられ、5年後の元禄7年(1694年)に勘定奉行によって公式に規定された。ただし、五街道や脇往還の宿場町及び助郷義務を負っていた村に対しては免除された。また、宝暦6年(1756年)以後には5割以下の不作となった地域に対しても免除されたが、基本的には江戸幕府滅亡後の明治5年(1872年)の廃止までの182年にわたって元禄7年の制がそのまま維持された。.

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酒井忠吉

酒井 忠吉(さかい ただよし、天正17年(1589年) - 寛文3年5月6日(1663年6月11日))は、江戸時代初期の幕府旗本寄合。官位は従五位上、和泉守のち紀伊守。幼名は小鍋。若狭の国持大名である大老酒井忠勝の弟。.

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酒井忠行

酒井 忠行(さかい ただゆき)は、江戸時代前期の大名。上野国板鼻藩主を経て同国厩橋藩の第3代藩主。雅楽頭系酒井家宗家3代。.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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柳生久通

柳生 久通(やぎゅう ひさみち、延享2年(1745年) - 文政11年8月24日(1828年10月2日)は、江戸時代の旗本。柳生久隆の長男。小栗信安、森川俊親の兄。養子に久知(山名義徳の子)、久包がいる。歴代勘定奉行の中で最も長い期間(28年強)務めた。官位は玄蕃を称し、後に従五位下主膳正に叙任された。.

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松平康英

松平 康英(まつだいら やすひで)は、江戸時代末期(幕末)の旗本、大名。江戸幕府外国奉行、神奈川奉行、大目付、勘定奉行、南町奉行を歴任した後に本家の大名家を相続、奏者番兼寺社奉行、老中となった。陸奥棚倉藩第4代藩主、武蔵川越藩藩主。松井松平家12代。川越においては、城下宮下町に藩校長善館を開いた人物として知られる。旗本時代は松平 康直(まつだいら やすなお)で、本家相続後に康英と改名し、明治維新後に松井 康英と改名した。.

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松平康正

松平 康正(まつだいら やすまさ、文政4年(1821年) - 没年不詳)は、江戸時代末期の旗本(交代寄合表御礼衆)。下総国飯笹領主(6,000石)。久松松平氏。松平康豊(中務)の弟。幼名は勝千代。通称は禎之助または禎之丞。官途は因幡守のちに出雲守。室は前田利豁養妹。子に松平豊三郎。 徳川家康の異父弟松平康元を初代とする。文久3年(1863年)8月大番頭から大目付となる。元治元年(1864年)4月26日蒔田広孝とともに京都見廻役となり出雲守に遷任。慶応2年(1866年)見廻役を解かれた。交代寄合で参勤交代を行うその格式ゆえ村民は夫役に苦しんだ(『多古町史』)。.

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松平忠冬

松平 忠冬(まつだいら ただふゆ、寛永元年(1624年) - 元禄15年5月1日(1702年5月27日))は、江戸時代前期の幕臣。松平忠隆の次男。子に忠成、忠頼、娘(天野昌孚室)がいる。 延宝3年(1680年)から南町奉行、勘定奉行、側衆などを歴任した。寛文5年(1665年)に「家忠日記増補追加」を、貞享元年(1684年)に2代将軍徳川秀忠の事跡「東武実録」を編纂した。 たたふゆ Category:江戸幕府旗本 Category:江戸幕府町奉行 Category:江戸幕府勘定奉行 Category:1624年生 Category:1702年没.

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松平忠郷

松平 忠郷(まつだいら たださと、? - 享保20年7月15日(1735年9月1日)は、江戸時代中期の武士。江戸幕府旗本。通称は孫三郎(まごさぶろう)、左門(さもん)、孫左衛門(まござえもん)。.

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松平信行 (旗本)

松平 信行(まつだいら のぶゆき)は、江戸時代中期から後期の旗本(寄合)。堅綱系大河内松平家6代。石高は1000石。.

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松平信敏 (大隅守)

松平 信敏(まつだいら のぶとし、? - 明治36年(1903年)4月)は、幕末の幕臣(旗本、1200石)。通称は勘太郎、大内蔵。官名は大隅守、河内守。.

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松平貴強

松平 貴強(まつだいら たかます、寛保2年(1742年) - 寛政11年11月25日(1799年12月21日))は、江戸時代の旗本。竹谷松平家支流。松平大進親賢の次男で松平伊織親房の養子。幼名亀五郎。通称次郎兵衛。官途は従五位下石見守。 明和8年(1771年)に家督を継ぐ。天明7年(1787年)大坂町奉行、寛政9年(1797年)長崎奉行となった。翌年に勘定奉行兼帯となった。寛政11年在任中に長崎で58歳で没す。墓所は長崎の海雲山皓台寺。法名は恭徳院殿義嶽静貞大居士。.

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松平近直

松平 近直(まつだいら ちかなお、? - 安政7年(1860年)3月7日)は、幕末の勘定奉行。通称は金之丞、四郎。阿部正弘執政期の能吏。 大給松平氏の一門で中奥小姓を勤めた旗本松平近礼(筑前守)の子。兄弟に品川氏繁がいる。使番・目付等を経て、天保15年(1844年)勘定奉行(勝手方)となる。同年12月16日河内守に叙任。江戸城や台場の普請等でたびたび褒賞を得ている。のち留守居次席田安家家老に至った。安政7年(1860年)没し、橋場・妙高寺に葬る。子の近豊(若狭守)が先に没していたので、養子の近知(志摩守)が家督を継いだ。 ちかなお Category:幕末の旗本 Category:江戸幕府勘定奉行 Category:江戸幕府目付 Category:生年不明 Category:1860年没.

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松平正綱

松平 正綱(まつだいら まさつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。相模国玉縄藩初代藩主。大河内松平宗家初代。世界最長の並木道である日光杉並木の寄進者として知られる。.

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松波正春

松波 正春(まつなみ まさはる、寛文5年(1665年) - 延享元年6月2日(1744年7月11日))は、江戸時代中期の旗本。通称は勘四郎・三郎兵衛・甚兵衛。官名は筑後守。書院番三宅政広の3男。『寛政重修諸家譜』に収める松波家の系譜によれば、戦国大名斎藤道三(前名・松波庄九郎)の子、松波政綱の子孫だという。.

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松本秀持

松本 秀持(まつもと ひでもち、享保15年(1730年) - 寛政9年6月5日(1797年6月29日))は、江戸時代中期の幕臣。通称は十郎兵衛。伊豆守。代々天守番を務める身分の低い家柄であったが勘定奉行にまで昇進した。.

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松浦信正 (河内守)

松浦 信正(まつら のぶまさ)は、江戸時代中期の江戸幕府幕臣。駿府町奉行、大坂町奉行、勘定奉行、長崎奉行、勘定奉行長崎掛を歴任した。長崎貿易改革において長崎会所と長崎町年寄・地下役人との二重行政による弊害解消に努め、成果を上げたが、用行組事件に関連して失脚した。.

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村垣定行

村垣定行(むらがき さだゆき、宝暦12年(1762年) - 天保3年3月10日(1832年4月10日))は江戸時代中期の旗本。最初の諱は「軌之(のりゆき)」。通称、豊吉・佐太郎・左太夫。淡路守。御庭番家筋の村垣本家4代目。子に範行、孫に範正(幕末の遣米使節の副使)がいる。.

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杉岡能連

杉岡 能連(すぎおか よしつら、1669年(寛文9年) - 1738年8月16日(元文3年7月2日))は、江戸時代の旗本、勘定奉行。官途は佐渡守。通称は弥太郎。 徳川綱吉が館林藩主であったころの家臣杉岡重能の嫡男として誕生する。1689年(元禄2年)、勘定方として出仕し、勘定組頭、勘定吟味役と累進し、500石の知行を得る。 新井白石が主導した正徳の治に関与し、悪貨として評判の悪かった元禄小判の改鋳・正徳小判の発行に尽力した。徳川吉宗の治世となっても引き続き重用された。1731年(享保16年)には勘定奉行に登用され公事方御定書の編集に携わり、享保の大飢饉への対処として、幕府が備蓄している城米の放出や、暴動が起こった際に各地の大名へ通達して迅速に鎮圧することを吉宗に建言した。勘定奉行在職中の1738年(元文2年)に死去。台東区の一乗寺に葬られた。.

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杉浦正友

杉浦 正友(すぎうら まさとも、天正5年(1577年) - 寛文2年9月9日(1662年10月20日))は、江戸時代前期の旗本。石高は6000石。杉浦親次の三男。一十郎、市右衛門、官位は、従五位下、越後守、内蔵允。 慶長3年、伏見城の徳川家康に召し出され、関ヶ原の戦いに従軍、大坂の役両陣に従軍した。納戸頭となり600石を賜り、さらに加増を度々受け3,400石を知行するに至る。寛永3年(1626年)8月徳川秀忠の京都上洛に供奉し、従五位下越後守に叙任された。寛永12年に留守居役となり、寛永19年2月4日に加増されて6,000石を知行した。同年3月3日勘定頭を兼帯。同年8月16日勘定頭のみとなり、慶安4年に留守居役に復帰する。明暦2年に職を辞し、万治元年に致仕し、家督は同じのちに勘定頭を務めた婿養子の杉浦正綱が継いだ。またこの時に養老料として400石を賜り、寛文2年(1662年)86歳で没した。墓所は東京都台東区西浅草の長敬寺。.

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根岸鎮衛

根岸 鎮衛(ねぎし しずもり / やすもり)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。勘定奉行、南町奉行を歴任した。.

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根岸衛奮

根岸 衛奮(ねぎし もりいさむ、文政4年(1821年) - 明治9年(1876年)8月3日)は、江戸時代末期(幕末)の旗本。根岸衛恭の子。曾祖父は江戸町奉行であり、怪異譚や珍談・奇談・巷説などを収録した『耳嚢』の編者として有名な根岸鎮衛。通称は栄太郎、九郎兵衛。官位は肥前守、備前守。.

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栗本鋤雲

栗本鋤雲 栗本 鋤雲(くりもと じょうん、文政5年3月10日(1822年5月1日)- 明治30年(1897年)3月6日)は、幕末の幕臣、明治初期の思想家。名は鯤(こん)。初名は哲三、のち瑞見。通称は瀬兵衛(せへえ)といった。官位は従五位下安芸守。 幕末に外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任し、明治以後はジャーナリストとして活躍した。.

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桑原盛員

桑原 盛員(くわはら もりかず、1721年 - 没年不詳)は、江戸幕府旗本。桑原盛興の子。勝之助、主馬、善兵衛。官位は、従五位下、能登守のちに伊予守。室は芦谷久弥の娘。継室は太田安信(酒井雅楽頭家臣)娘。子女は桑原盛倫室、養女(松平忠恒の娘)、朝比奈良高室ら。 元文3年(1738年)父が没し家督を継ぐ(家禄500石)。寛保元年西の丸書院番となり、宝暦2年より進物の事を役儀とした。宝暦10年小十人頭となり、布衣を着ることを許される。宝暦13年目付となる。明和7年将軍徳川家治日光参拝に際して街道筋の検査、また、安永元年には日光の神橋の修復に携わる。安永2年(1773年)に長崎奉行を拝命、同年従五位下能登守に叙任された。安永4年に作事奉行となり、安永5年(1776年)には勘定奉行に進んだ。買米のことで怠慢とされ一時出仕を止められたが、天明8年(1788年)に大目付となった。寛政10年に西の丸留守居役となった。家督は、娘婿の盛倫(松前順広三男)が継いだ。.

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梶野良材

梶野 良材(かじの よしき、安永2年(1773年) - 嘉永6年6月14日(1853年7月19日))は、江戸時代後期の幕臣。久隅矩信の次男、初名は秀名。梶野平九郎矩満の養子。通称は斧次郎、平助、平大夫。御庭番より勘定奉行まで大出世した。.

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榊原忠之

榊原 忠之(さかきばら ただゆき、明和3年(1766年) - 天保8年7月20日(1837年8月20日))は江戸時代後期の旗本。 織田信昆(旗本織田信義の四男)の三男で榊原忠尭の養子。妻は藤懸永種の娘。 勘定奉行や新潟奉行に就任した榊原忠義は長男。官位は従五位下主計頭。江戸北町奉行として手腕を振るい、鼠小僧次郎吉を捕らえたことで著名。.

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榊原忠職

榊原 忠職(さかきばら ただもと、生没年未詳)は、江戸時代後期の幕臣、旗本。官位は主計頭。.

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水野忠徳

水野 忠徳(みずの ただのり、文化7年(1810年) - 慶応4年7月9日(1868年8月26日))は、江戸時代末期(幕末)の旗本、幕臣。諏訪庄右衛門頼篤の子。文政5年(1822年)に水野忠長の養嗣子となる。忠敬の父。初名は忠篤。号は癡雲(ちうん)。筑後守・下総守。.

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水野忠順

水野 忠順(みずの ただより、文政7年9月17日(1824年11月7日) - 明治17年(1884年)12月9日)は|江戸時代後期(幕末)の上総鶴牧藩の第3代(最後)の藩主。忠位系水野家6代。従五位下、山城守、壱岐守、周防守、肥前守、子爵。正室は前田利之の三女・建子。養子に水野忠義、水野忠宝。.

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永井尚志

永井 尚志(ながい なおゆき)は、幕末の旗本。三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。名前の読みは「なおむね」とも。.

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永田正道

永田 正道(ながた まさみち 宝暦2年(1752年) - 文政2年4月22日(1819年5月15日))は、江戸時代の旗本。官位は備後守。千次郎、左兵衛、与左衛門。家禄150俵。妻は永田政行の娘。後妻は豊田友政の娘。婿養子に正邦(鵜殿長称の子)。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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池田頼方

池田 頼方(いけだ よりかた/よりまさ、享和元年(1801年) - 明治9年(1876年)2月17日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、旗本。 池田頼功の子。官位は従五位下、播磨守。安政の大獄における江戸南町奉行で、後に勘定奉行も兼帯。寺社奉行松平宗秀、北町奉行石谷穆清、大目付久貝正典、目付神保長興らと共に志士の裁断を担当した現場の指揮官。妻は摂津三田藩主九鬼隆国の娘。養子に頼誠。 遠祖下間頼龍は下間氏出身だが、その子・頼広は縁戚の池田輝政に従軍して池田重利と改名、徳川家康より播磨新宮藩1万石を賜るものの、子孫邦照が夭折し改易。邦照の弟重教に3000石が下され、以後、寄合として家名継承し、頼方の代に至る。.

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河津祐邦

河津 祐邦(かわづ すけくに、文政4年(1821年) - 明治6年(1873年))は、江戸幕府の旗本。幕末に勘定奉行、関東郡代、長崎奉行、外国事務総裁などの重職を歴任した。家禄は100俵高。官職名は伊豆守。墓は東京谷中五林寺にある『長崎県大百科事典』 長崎新聞社 「河津伊豆守祐邦」(同書178頁)。。遠祖は伊豆国河津荘の地頭で、曾我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経の子孫『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』 外山幹夫著 中公新書 「長崎を脱出した河津伊豆守」(178 - 180頁)。。大津事件の際に刑事局長を務めた官僚の河津祐之は祐邦の女婿、孫の暹は経済学者(東京帝国大学経済学部教授)である。.

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津田正路

津田 正路(つだ まさみち、生年不詳 - 文久3年8月9日(1863年9月21日))は、幕末の幕臣(旗本)。通称は半三郎。官名は近江守。 安政3年(1856年)2月に目付に任ぜられる。10月に外国貿易取調掛、翌4年(1857年)アメリカと通商条約を締結の方針であることを奏聞するための使者として林復斎とともに上京した。安政5年(1858年)6月には露使節応接掛を拝命、翌7月に日露修好通商条約を結んだ。同年10月11日箱館奉行に転任、万延元年(1860年)12月外国奉行兼帯となり米使節との交渉に臨んだ。文久2年(1862年)7月箱館奉行を免じられる。閏8月外国奉行から勘定奉行に転任する。文久3年(1863年)7月に大目付になるが、翌月に没した。.

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深谷盛房

深谷 盛房(ふかや もりふさ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。上杉盛房とも呼ばれる。.

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溝口勝如

溝口 勝如(みぞぐち かつゆき、生没年不詳)は、幕末の江戸幕府旗本。通称、八十五郎。伊勢守。子に友三郎(末子、溝口勝為養子)ら。石高2,500石。.

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服部常純

服部 常純(はっとり つねずみ、生没年不詳)は、江戸幕府旗本。通称、左衛門佐。官途は従五位下、長門守のちに筑前守。 文久3年(1863年)4月に小納戸頭より長崎奉行となり5月に長崎に着任。長崎開港の後であるので、多くの外国人が住んでいたことや、各地より浪人が多く流入した為、警備隊を組み、治安維持および外国人保護にあたらせた。慶応2年(1866年)軍艦を購入し、奉行所の組頭柴誠一を艦長に任命した。乗組員に長崎海軍伝習所で学んだ地役人を採用し、長崎港の警備にあたらせた。同年8月に勘定奉行に就任し、慶応3年(1867年)海軍奉行並となり、慶応4年2月12日より若年寄となった。 明治政府に出仕し、明治4年修史局2等協修として地誌編纂に携わり、明治6年から明治10年1月まで地理局地誌課に務める。.

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服部貞勝

服部 貞勝(はっとり さだかつ、宝暦11年(1761年) - 文政7年5月22日(1824年6月18日))は、江戸時代後期の旗本。松前奉行、勘定奉行などを務めた。旗本服部貞徳の長男。母は酒井忠香の養女。通称は久太郎、頼母、久右衛門。官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。室は高家旗本の戸田氏朋の娘。子女に服部貞陽ら。.

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朝比奈昌広

朝比奈 昌広(あさひな まさひろ、文政10年(1827年) - 明治38年(1905年)8月21日)は、江戸時代の日本の武士・江戸幕府旗本。通称は八太郎、甲太郎。山城守、伊賀守と称した。号は閑水。旗本朝比奈昌寿の子。 文久3年(1863年)、歩兵頭となって上洛。元治元年(1864年)に長崎奉行、慶応元年1865年)に外国奉行を兼務。慶応2年(1866年)、長崎奉行は免じられるが、同年には柴田剛中と共にイタリア使節ヴィットリオ・アルミニョンと会見し日伊修好通商条約を締結している。また、勘定奉行に転身した。慶応3年(1867年)、再度外国奉行、外国惣奉行並、江戸町奉行並を歴任し、主に外国人日本居留者への対応を担った。慶応4年(1868年)1月には再び勘定奉行となるも間もなく免職し寄合となる。 墓所は東京都新宿区の全勝寺にある。法号:徳昭院殿閑水円悟大居士.

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木村芥舟

木村 芥舟(きむら かいしゅう、文政13年2月5日(1830年2月27日 - 明治34年(1901年)12月9日)は、江戸幕府末期(幕末)の旗本(幕臣)。諱は喜毅(よしたけ)。 幕府海軍軍制取締、浜御殿添奉行、本丸目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、勘定奉行等幕府の要職を歴任。咸臨丸の総督を務め、明治維新後は完全に隠居し、福澤諭吉と交遊を重ねて詩文三昧の生活を送った文人である。 死没の日付で正五位に叙されているが、幕末の幕閣で明治以後に位階勲等を受けた者は木村を含めて、川路聖謨(贈従四位)、岩瀬忠震(贈正五位)、池田長発(贈正五位)の4名だけである。「幕末の四舟」の1人に名を連ねることもある。(但し木村は、死後の日付での「贈位」ではなく、死去の日付での「叙位」である。).

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有田貞勝

有田 貞勝(ありた さだかつ、元文2年(1737年) - 没年不詳)は、江戸時代中〜後期の旗本。赤松氏の支族。有田基敦の子。母は筒井政虎の娘。与九郎。初名は基輔。官位は従五位下、播磨守。室は細井正利の養女。子に有田貞周、有田貞英ら。 宝暦2年(1752年)に父が没し家督を継ぐ。宝暦13年(1763年)2月小納戸となり、同年12月に布衣を許される。天明3年(1783年)西丸広敷用人となって、寛政元年(1789年)2月本丸台所用人、同年7月禁裏付を歴任し同年9月従五位下播磨守に叙任された。寛政6年御三卿清水家家老となった。寛政7年(1795年)日光奉行(~享和2年(1802年))となり、東照宮および霊屋の修復を行った。文化8年(1811年)勘定奉行(~1812年)となった。.

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有馬則篤

有馬 則篤(ありま のりあつ、文政9年(1826年) - 明治30年(1897年)10月3日)は、江戸時代末期(幕末)の旗本。信濃岩村田藩主内藤正縄の次男として生まれ旗本有馬家・有馬則国(左京)の養子となる。子に氏弘(次男)ら。官位は従五位下出雲守。石高は3,500石。 使番より、安政5年(1858年)10月24日目付となる。その後大番頭から文久3年(1863年)5月6日に大坂東町奉行となり、元治元年(1864年)に勘定奉行となった。同年11月22日に江戸南町奉行となり、12月22日に大目付となる。.

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戸川安廣

戸川 安廣(とがわ やすひろ、承応3年(1654年) - 宝永6年9月21日(1709年10月23日)は、江戸時代の幕臣(旗本)・知行3000石。官位は従五位下・備前守、のち日向守。通称は、大九郎のち主膳、平右衛門など。.

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戸川安清

戸川 安清(とがわ やすずみ、天明7年(1787年) - 慶応4年3月4日(1868年3月27日)は、江戸時代の幕臣(旗本)500石。通称は、雄三郎。初名は安恵。字は興。雅号は蓮仙、剃髪後は蓬庵。.

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星野成美

星野 成美(ほしの しげよし、生没年不明)は幕末の幕臣(旗本)。金奉行を務めた星野市郎兵衛の子。通称録三郎。従五位下、豊後守。石高は3000石。 勘定吟味役より慶応2年(1866年)12月25日勘定奉行並に昇進した。慶応3年10月1日禁裏付となり、また兵庫開港の事務取扱を行う。再び12月9日に勘定奉行並に復し慶応4年2月9日まで務め、勤仕並寄合となる。.

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明楽茂村

明楽 茂村(あけら しげむら、宝暦10年(1760年) - 天保12年(1841年))は、江戸幕府の幕臣、旗本。子は普請奉行などを勤めた明楽茂正。.

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浅野氏祐

浅野 氏祐(あさの うじすけ、天保5年(1834年) - 明治33年(1900年)1月8日) は、江戸時代末期の旗本、若年寄。下総国香取郡(現在の香取市)に禄高2000石の知行地を有する旗本浅野氏綏の子。次郎八、一学。官位は、従五位下、伊賀守、美作守。.

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曲淵景漸

曲淵 景漸(まがりぶち かげつぐ、享保10年(1725年) - 寛政12年4月30日(1800年5月23日))は、江戸時代の旗本、奉行。曲淵景衡の子。兄に景福、子に景露。武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔。.

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1698年

記載なし。

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1721年

記載なし。

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