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エル・テムル

索引 エル・テムル

エル・テムル(El-Temür, ? - 1333年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は燕鉄木児。キプチャク親衛軍を率いる軍閥で、1328年の内乱に勝利して大ハーンを擁し、独裁権力をふるった。 もとモンゴル帝国によって征服されたキプチャクの部族長の家柄で、祖父トクトガはモンケに従って中国に移り、モンケの弟クビライに仕えて諸戦役に活躍した。父のチョンウルもクビライの曾孫カイシャンが王族時代にカイシャンを助けてオゴデイ家のカイドゥを破るのに大きな功があったが、このとき少年だったエル・テムルも父に従ってカイシャンの幕下にあってカイシャンの寵愛を受け、カイシャンが即位すると知宣徽院事を経て左親軍都指揮使に昇進した。その後もキプチャク軍閥の司令官として軍中に重きをなし、泰定帝イェスン・テムルのとき軍政機関枢密院の要職である僉枢密院事にのぼる。 1328年夏にイェスン・テムルが夏の都上都で急死したとき、エル・テムルは子飼いのキプチャク軍団とともに冬の都大都に駐留して留守を守っていた。もともとカイシャン恩顧の将軍であって、イェスン・テムルの側近ダウラト・シャーらの専制をこころよく思っていなかったエル・テムルは、この機会をとらえてカイシャンの遺児を即位させることをもくろみ、反乱を起こして大都の政府機関を接収した。エル・テムルはその軍事力によって大都駐留の軍隊と官僚を味方につけると、カイシャンの次男トク・テムルを抑留先の江陵から迎えいれ、遠方にいる兄のコシラの到着を待ってハーン位を譲り渡そうと主張するトク・テムルを説得してハーンに即位させた。エル・テムルは擁立の功をもって開府儀同三司、上柱国、録軍国重事、中書右丞相、監修国史、知枢密院事に任ぜられ、さらに太平王の王号まで授けられてトク・テムルの政府の最高実力者となる。 時にダウラト・シャーらは上都に留まったままイェスン・テムルの遺児アリギバを即位させたので、元はふたつの首都を南北に分けた内戦となった。しかしエル・テムルが大都に進軍してきた上都側の軍を迎撃して打ち破ると遼東にいた王族が大都側について上都を包囲し、ついにアリギバとダウラト・シャーを降伏させた。大都側の勝利によって中国各地の諸軍はトク・テムルとエル・テムルに従ったが、今度はアルタイ山脈の西側という遠方にいたトク・テムルの兄コシラがモンゴル高原に入り、旧都カラコルムで高原の諸王族・有力者の支持を取り付けてハーン位を請求した。 1329年4月、エル・テムルは自ら高原に赴いてコシラに謁し、玉璽を奉じてハーンに推戴した。コシラは政権奪取の功を賞してエル・テムルに軍権の最高官である太師の称号を贈り、トク・テムルを皇太子としたが、8月に上都の郊外で兄弟会見した直後に急死した。コシラの側近たちに政権を奪われることを恐れたエル・テムルが毒殺したと言われる。皇太子トク・テムルはすぐさまハーンに復位し、コシラの側近たちはエル・テムルによって追放、処分された。 トク・テムルの朝廷のもと、エル・テムルはさまざまな特権を与えられ、ハーンをまったくの傀儡とする権力者として君臨した。エル・テムルはイェスン・テムルの未亡人を自ら娶り、トク・テムル・ハーンの長男エル・テグスを自邸で養育し、かわりにエル・テムルの子がハーンの養子として宮廷で育てられた。また、コシラの長男トゴン・テムルを実はコシラの子ではないと称し、高麗に追放した。 1332年、トク・テムルは29歳の若さで死亡するにあたり、兄コシラの子を即位させるように遺言した。しかしそれにもかかわらず、エル・テムルは自身の養い子であるエル・テグスを即位させようと試み、トク・テムルの未亡人でエル・テグスの母であるブダシリにエル・テグス擁立を提議した。しかし、ブダシリは亡夫の遺志を尊重してコシラの子を立てることを要求したので、エル・テムルはコシラの次男でわずか7歳のイリンジバルを即位させ、自らはその摂政となったが、幼帝イリンジバルは即位からわずか43日後に亡くなった。 ここにおいてエル・テムルは再びエル・テグス擁立をブダシリに要請したが、ブダシリは我が子が幼いことを理由に断ったので、エル・テムルはやむなく広西に流されていたイリンジバルの兄トゴン・テムルを呼び戻すことに同意した。トゴン・テムルが大都に至ると、エル・テムルはこれを出迎えて大都まで馬を並べて歩みながら今後のことを話したが、トゴン・テムルはエル・テムルを恐れて黙り込んだままだった。これを見たエル・テムルはトゴン・テムルが思い通りにならないことを恐れ、即位の式を先延ばしにしたが、その3か月後の1333年4月に病死した。 エル・テムルの死後も、その弟サトン、次いで子のタンキシが中書左丞相となり、また娘のダナシリはトゴン・テムル・ハーンの皇后となってエル・テムル家の権勢は続いた。しかし、行政機関中書省の長官である中書右丞相にはエル・テムルに協力した軍閥バヤンが就任し、バヤンが政権の最高実力者として振舞っていた。1335年、左丞相タンキシは右丞相バヤンから政権を取り戻そうとして反乱を起こしたが、バヤンによって鎮圧された。タンキシをはじめエル・テムルの一門は皇后ダナシリを含めてすべて殺害され、元で権勢をふるったエル・テムル家のキプチャク軍閥はエル・テムルの死からわずか2年後に滅亡した。 Category:元代の人物 Category:キプチャク Category:生年不明 Category:1333年没.

37 関係: 大都上都中国中書省広西チワン族自治区ハーンバヤン (メルキト部)モンケモンゴル帝国モンゴル高原トク・テムルトゴン・テムルブダシリダウラト・シャーアリギバアルタイ山脈イリンジバルイェスン・テムルオゴデイ・ハン国カラコルムカイドゥカイシャンキプチャククビライコシラ元 (王朝)皇太子玉璽高麗枢密院 (中国)江陵県摂政1328年1329年1332年1333年1335年

大都

大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。.

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上都

上都(じょうと、)は、モンゴル帝国(元)のクビライが、モンゴル高原南部(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)に設けた都。正藍旗の南のドロンノール県中心市街地から北西へ28km離れており、灤河上流の閃電河の河畔に位置する。上都鎮からは東北20km、北京からは北へ275km。元朝の夏の首都として使われた。 1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。西洋ではザナドゥ(Xanadu あるいは Xanadumoo、Zanadu、Shangdu)とも呼ばれる。2012年、遊牧文明と農耕文明の衝突と融合を示す貴重性が認められ、UNESCOの世界遺産に登録された。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中書省

中書省(ちゅうしょしょう)は、中国で魏代から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った。.

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広西チワン族自治区

広西チワン族自治区(広西壮族自治区)(こうせいチワンぞくじちく、Gvangjsih Bouxcuengh Swcigih、广西壮族自治区)は、中華人民共和国南部の自治区。中国最大の少数民族チワン族(壮族そうぞく、チョワン族とも)の原住地。隣の広東省と併せて「両広」と言われることもある。首府は南寧市。.

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ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

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バヤン (メルキト部)

バヤン(Bayan, ? - 1340年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は伯顔。アスト人親衛軍を率いる軍閥の長で、中国を支配した最後のモンゴル帝国大ハーンとなったトゴン・テムル(順帝)の治世初期に専権を振るった。 出自であるメルキト部は、元来チンギス・ハーンのモンゴル高原統一に抵抗して滅ぼされた部族(ウルス)であったが、バヤンの曽祖父は大ハーンの本営(オルド)に従士として仕えており、モンゴルの譜代部将の家柄に属している。祖父はモンケの南宋遠征に従軍し、父はクビライの皇太子チンキムの家に仕えた。バヤンも若くしてモンゴル軍人となり、アルタイ山脈方面の前線に派遣される懐寧王カイシャンに付属され、カイドゥとの戦いで戦功をあげて「バートル」(勇者)の称号を与えられた。 1307年、大ハーンのテムルが崩ずると政変が起こり、モンゴル高原の全遊牧民の軍団を後ろ盾とするカイシャンが勝利した。カイシャンのハーン即位により、カイシャンの部下であったバヤンも中央政府の高官である吏部尚書に任命され、カイシャン政権の有力者に列した。1309年には宰相格の尚書平章政事にすすめられるとともに、アスト人親衛軍の指揮官(阿速親軍都指揮使)に任命される。アスト人はバトゥの征西のとき征服された北カフカスのイラン系民族で現在のオセット人の先祖であり、バヤンが指揮を委ねられたアスト人親衛軍は、アスト征服の折りにモンゴル帝国に降伏したアスト人兵士からなるカイシャン子飼いの精鋭部隊であった。 しかし、1311年にカイシャンが急死を遂げ弟のアユルバルワダが即位すると、カイシャン政権の中核だった尚書省は解体され、カイシャン・アユルバルワダ兄弟の母である皇太后ダギの息のかかった将軍が取り立てられた。尚書省のメンバーだったバヤンのアスト人軍閥もカイシャン派として左遷され、中央から遠く離れた南方の地方官に転出する。1323年、晋王イェスン・テムルがハーンに即位すると、モンゴル高原から自らの子飼いの部将を引き連れてきたイェスン・テムルによってダギ派に属する有力者が一掃されたため、カイシャン派の残党であるバヤンの待遇も和らいで、1326年に中央に近い河南行省の平章政事に任ぜられた。 1328年、イェスン・テムルが上都で急死すると、再び大ハーンの座を巡って政変が起こり、大都に駐留していたカイシャン恩顧のキプチャク人親衛軍の将軍エル・テムルが決起を企てて江陵にいたカイシャンの遺児トク・テムルを迎えるための使者を送り出した。この使者が河南を通過する際にバヤンは計画を聞きつけ、エル・テムルの決起に協力、トク・テムルを河南に迎えてともに大都に向かった。こうしてトク・テムルがハーンに即位すると、朝廷ではハーンを擁立したエル・テムルのキプチャク人軍閥、バヤンのアスト人軍閥ら非モンゴル系の軍閥が実権を握ることになり、バヤンは中書左丞相、知枢密院事などの肩書きを与えられた上、ついには浚寧王の王号まで名乗って皇族なみの待遇を受けるに至った。 1332年にトク・テムルが没すると、バヤンはエル・テムルとはかってまだ幼児のイリンジバルをハーンに立てる。しかし、新ハーンはわずか2ヶ月で死んでしまい、翌1333年にはエル・テムルが病没した。エル・テムルに代わる朝廷の最有力者となったバヤンは代わりのハーンとしてイリンジバルの兄トゴン・テムルを擁立し、自ら中央政府の首班である右丞相に就任。1335年にはエル・テムルの遺児タンキシの起こしたクーデターを鎮圧し、ついに独裁権を掌握する。 やがてトゴン・テムルは成人するにつれてバヤンの専権を疎ましく思うようになったが、丁度バヤンの甥トクトが伯父を排斥しようとトゴン・テムルに接近してきた。1340年、トゴン・テムルの後援を受けたトクトはバヤンが宮廷を留守にした隙にクーデターを起こし、バヤンを失脚させた。バヤンは広東への流刑に処され、南に向かう途上で病死した。 バヤンは元では細々と実施されていた科挙を廃止したり、漢族を虐殺して人口を減らすことを提案するなど、中国文化を排撃したことで有名である。彼にかわって政権を握った甥のトクトが科挙を復活し、欧陽脩以来の正史となる『遼史』『金史』『宋史』の修史事業を行うなど、伯父とは対照的に中国文化に理解の深い為政者であったことから、トクトによるバヤンの追放は高原派と漢地派による対立であったと説明されることも多い。 はやん、めるきと はやん、めるきと はやん、めるきと.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モンゴル高原

モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.

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トク・テムル

トク・テムル(モンゴル語:、Toq-Temür、漢字:図帖睦爾、 1304年2月16日 - 1332年9月2日)は、モンゴル帝国(元)の第12代皇帝(大ハーン)。 武宗カイシャンの次男。母はタングト部の人(唐兀氏、文献昭聖皇后)で、明宗コシラの異母弟にあたる。.

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トゴン・テムル

トゴン・テムル(モンゴル語:、Toγon-Temür、漢字:妥懽帖睦爾、 1320年5月25日 - 1370年5月23日)はモンゴル帝国(元朝)の第15代皇帝(大ハーン)。廟号は恵宗であるが、明朝による追諡である順帝の名称が使用されることが多い。モンゴル語での尊号はウカアト・カアン Uqaγatu Qa'anで、『蒙古源流』『アルタン・ハーン伝』等ではオハート・トゴン・テムル・ハーン Uqaγatu Toγan Temür Qaγan 、トガン・テムル・ウハート・ハーン Toγan Temür Uqaγatu Qaγan と呼ばれている。 至正28年(1368年)に大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、『明史』では1368年に帝位を失い、元は滅亡したとして扱われる。.

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ブダシリ

ブダシリ(Budaširi, ? - 1340年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン、文宗トク・テムルの皇后。漢字表記は卜答失里。コンギラト部族の有力家系である魯王家の出身。母はトク・テムルの父カイシャンの姉妹で、母方を通じてトク・テムルの従姉妹に当たる。 ハーン家と代々通婚してきた名門の娘であることから即位以前の王族トク・テムルの正夫人となり、トク・テムルが懐王に封ぜられて江南に住まわされたのに従った。1328年、トク・テムルが軍閥エル・テムルに擁立されて即位すると皇后に立てられる。夫との間にはエル・テグスらの子があった。 1332年8月にトク・テムルが没すると、権臣エル・テムルはトク・テムルの子エル・テグスの擁立を望んだが、皇后ブダシリはトク・テムルの遺言を尊重するとして、トク・テムルの兄、明宗コシラの遺児を後継者に立てることを主張した。エル・テムルは、コシラの遺児を擁立するにあたり、権勢を維持するために広西に流されている年長の兄トゴン・テムルの即位を望まず、わずか7歳の弟イリンジバルを選んだ。イリンジバルがハーンに即位すると11月にブダシリは皇太后に冊立されたが、即位からわずか2ヵ月後の12月にイリンジバルは病死した。 エル・テムルは再びエル・テグスの擁立をブダシリに望んだが、ブダシリはエル・テグスがハーン位を継ぐにはまだ幼いことを理由に固辞し、コシラの長男トゴン・テムルが13歳であるからこれを立てるのが適当であると主張した。このため、ブダシリの意志によりトゴン・テムルが広西から呼び戻されて即位し、ブダシリは太皇太后の尊号を奉られて摂政したが、 政治の実権は軍閥のエル・テムル、ついでエル・テムルの死後には別の軍閥バヤンの手にあって、ブダシリとトゴン・テムルは傀儡に過ぎなかった。 しかし、トゴン・テムルは成長して20代に入るころには実権がないことを堪え難く感じるようになり、バヤンの専制政治に不満をもっていたバヤンの甥トクトと結んでクーデターを起こさせ、バヤンを打倒した。この政変の煽りでバヤンによってトゴン・テムルの後継者に内定していたエル・テグスは皇太子を廃され、実母の太皇太后ブダシリとともに追放された。エル・テグスは高麗に流される途中で殺害され、ブダシリも追放先の東安州で急死した。 Category:元の皇后 Category:コンギラト部 Category:1340年没.

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ダウラト・シャー

ダウラト・シャー(Dawlat Shāh, ? - 1328年)は、元の泰定帝イェスン・テムルに仕えたムスリム(イスラム教徒)官僚。漢字表記は倒剌沙で、タオラシャと読まれることもある。 即位以前のイェスン・テムルが晋王の称号をもってモンゴル高原に駐留し、チンギス・ハーンの祭祀をとりおこなう四大オルドの領していた頃、晋王府内史としてイェスン・テムルの宮廷に仕え、その信任を受けた。息子のハサンは宿衛(ケシク)として大ハーン(モンゴル皇帝、カアン)の宮廷におり、自身は晋王のもとにありながら常に中央の政治の動向をうかがっていた。1323年、英宗シデバラを殺害する陰謀が起こると、ダウラト・シャーは陰謀の首謀者テクシと連絡をとり、イェスン・テムルの擁立に関与したとされる。 シデバラが殺害され、イェスン・テムルがハーンに即位するとダウラト・シャーは宰相格の中書平章政事に任命され、さらに中書左丞相にのぼった。左丞相ダウラト・シャーは、中央政府の序列第二位ながらイェスン・テムル・カアンの信任を背景に西域(中央アジア・西アジア)の出身者(色目人)を登用して中央・地方の要職を自派で固め、専権をふるった。 1328年7月(旧暦)、イェスン・テムルが上都で病死すると、9月にイェスン・テムルの皇后らと共謀し、その遺児アリギバをハーンに擁立した。しかし、5年にわたったイェスン・テムルの治世を通じて専権をふるってきたダウラト・シャーに対する不満が高まっており、もうひとつの首都大都に駐留するキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルが反乱を起こした。エル・テムルは、アスト親衛軍の司令官である河南の軍閥バヤンと組んで武宗カイシャンの遺児トク・テムルを擁立し、華北各地の軍勢が結集して上都のアリギバおよびダウラト・シャーの軍を破った。10月、大都側の軍勢が上都を囲むとアリギバを支持した従兄弟で梁王・王禪、營王エセン・テムルをはじめダウラト・シャーらは数度出城して激しく戦闘を交えたが、ダウラト・シャーはついに皇帝の玉璽を携えて投降した。この戦闘でオッチギン家の遼王トクトなども戦死している。この後、アリギバの母后バブカンは河北の東安州へ配流され、王禪、エセン・テムルら王侯たちとともにダウラト・シャーも翌月には処刑された。 たうらとしや たうらとしや たうらとしや.

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アリギバ

アリギバ(モンゴル語: Razibaγ、ར་ཁྱི་ཕག Ra khyi phag、 1320年? - 1328年11月14日?)は、モンゴル帝国(元)の第11代皇帝(大ハーン)。漢字表記は阿剌吉八、阿里吉八など。読みはアリギバ(中国語)、ラジバグ(モンゴル語)、ラキパク(チベット語)。 第10代の泰定帝イェスン・テムルを継いで即位したため、本来であれば第11代ハーンであるが、即位直前のクーデターにより擁立された対立ハーンのトク・テムルに敗れて廃されたため、一般に歴代には数えられない。漢風の廟号も持たないが、2ヶ月間の短い治世に天順の元号を立てたので天順帝と呼ばれることもある。.

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アルタイ山脈

アルタイ山脈(アルタイさんみゃく)は西シベリアとモンゴルにまたがる山脈。漢字で阿爾泰山脈とも。.

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イリンジバル

イリンジバル(モンゴル語: Rinčinbal、རིན་ཆེན་དཔལ། rin chen dpal、懿璘質班 Irinjibar、 1326年5月1日 - 1332年12月14日)は、モンゴル帝国(元)の第14代皇帝(大ハーン)。読みは、イリンジバル(中国語)、リンチンバル(モンゴル語)、リンチェンパル(チベット語)。.

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イェスン・テムル

イェスン・テムル(モンゴル語:、Yesün-Temür、漢字:也孫鉄木兒、 1293年11月28日 - 1328年8月15日)は、モンゴル帝国(元)の第10代皇帝(大ハーン)。『集史』などのペルシア語表記では ييسون تيمور Yīsūn Tīmūr。漢風の廟号はなく、一般に即位当時の元号を用いて泰定帝と呼ばれる。 伝統的な遊牧生活を重んじる人物であったが、しばしば研究者からは暗愚な人物と評価される。.

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オゴデイ・ハン国

デイ・ハン国とは、中央アジアのエミル川流域を中心とする地域(現在の中国新疆ウイグル自治区北部ジュンガリア地方)に13世紀前半から1306年まで一貫して存続していたとかつて想定されていたモンゴル帝国の分枝政権。国名はチンギス・ハーンの三男で、モンゴル帝国の第2代ハーンとなったオゴデイ(オゴタイ)の名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。.

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カラコルム

ラコルム( 転写:Qaraqorum)は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市、かつてのモンゴル帝国の首都である。 カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。ペルシア語資料では قراقوروم Qarā-qūrūm と表れ、漢語資料では哈剌和林、略して和林と表記される。また現代モンゴル語ではハラホリン(Хархорин)と表記される。 「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるという。1260年に書かれたペルシア語資料『世界征服者史』によれば、カラコルムの名前の由来は都市の近くにある「カラコルム山」という黒色の石材が取れる山の名前に由来していると伝えられている。.

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カイドゥ

イドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: 転写: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。.

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カイシャン

イシャン(モンゴル語:、Qayšan、漢字:海山、1281年8月4日 - 1311年1月27日)は、モンゴル帝国(元)の第7代皇帝(大ハーン)。『集史』および『ヴァッサーフ史』『選史』などのペルシア語資料の表記では、ハイシャン(خايشانك Khāīshān, خيشان Khayshān)など。.

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キプチャク

『ルーシ年代記』で見られるポロヴェッツ人の一家。 「バーバ」と呼ばれるクマン人が立てた石像(ドニプロペトロウシク、ウクライナ)。 キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料ではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンもしくはコマンと記された。現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれるが、キプチャク草原を支配したモンゴルのジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、このためである。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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コシラ

ラ(モンゴル語:、Qošila、漢字:和世㻋、 1300年12月22日 - 1329年8月30日)は、モンゴル帝国(元)の第13代皇帝(大ハーン)。第7代大ハーン・武宗カイシャンの長男。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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玉璽

玉璽(ぎょくじ)は、広義では皇帝の用いる璽(印章)のことを指すが、狭義では中国の伝国璽を指すことが多い。 なお、日本の天皇が用いる璽については御璽を参照。 璽は元々印章一般を指す言葉であったが、秦の始皇帝が皇帝の印のみに用いるように定めた。 印章の形式については細かい規定があり、印の名前が上から璽、章、印。材質は上から玉、金、銀、銅。印に結びつける紐の結び方や紐の色も定められており、印によってすぐに地位が分かるようになっていた。 玉で作られた璽であるので玉璽と呼ばれる。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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枢密院 (中国)

枢密院(すうみついん)は、唐代中期に設置された主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが、軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、金、宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。.

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江陵県

江陵県(こうりょう-けん)は中華人民共和国湖北省荊州市に位置する県。県人民政府のある郝穴鎮は長江に面した港であり、荊州市の中心部(沙市区および荊州区)からは東南(下流)にあたる。 秦代に南郡の郡治が置かれて以来、江陵は中国の政治・軍事史上でも最重要都市の一つであり、三国志にみられるように兵家必争の地であった。 ただし現在の江陵県は、現在も残る江陵古城からは東南に50km離れている。江陵古城は長らく江陵県およびこの地域一帯の中心都市であったが、1990年代に荊州市ができた時に江陵城周辺は荊州区となり、江陵県は江陵城と切り離され、旧江陵県の東部のみを管轄する県となった。現在の江陵県は古くからの江陵県の一部に過ぎず、しかもその伝統的中心地だった江陵城とは関係のない場所にある。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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1328年

記載なし。

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1329年

記載なし。

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1332年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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