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キプチャク

索引 キプチャク

『ルーシ年代記』で見られるポロヴェッツ人の一家。 「バーバ」と呼ばれるクマン人が立てた石像(ドニプロペトロウシク、ウクライナ)。 キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料ではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンもしくはコマンと記された。現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれるが、キプチャク草原を支配したモンゴルのジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、このためである。.

268 関係: 原初年代記だったん人の踊り十字軍南宋大都山川出版社岡田英弘上都平凡社年代記佐口透北元ペチェネグナヤンペレヤースラウ公国マムルークマムルーク朝ノーウホロド=シーヴェルシクィイノガイ・オルダチュルク語族チンギス・カンチェルニーヒウチェルニーヒウ公ハラチンハンガリーハンガリー王国ハールィチハーンハザールバチュマンバヤン (メルキト部)バルカン半島バーチ・キシュクン県バトゥバイバルスバシキール人ポロヴェーツィケ (キエフ州)ムスチスラフ2世ムスチスラフ・ムスチスラヴィチムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (スモレンスク公)モルドバモンケモンゴル (曖昧さ回避)モンゴルのルーシ侵攻モンゴル帝国モンゴル語モンゴル高原ヤロポルク2世ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチヤロスラフ・スヴャトスラヴィチ...ヤース・ナジクン・ソルノク県ユーリー (ポロヴェツ族)ユーリー・ドルゴルーキーリモフリューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)ルーツィクルーシルブヌィルィリスクロマン・スヴャトスラヴィチローシ川ロスチスラフ1世ロスチスラフ・ヤロスラヴィチ (ムーロム公)ロスチスラフ・フセヴォロドヴィチロスチスラフ・ウラジミロヴィチ (トムタラカニ公)ロストヴェツ (ルーシ)ヴャチェスラフ1世ヴャチェスラフ・ヤロスラヴィチヴァシリコ・ロスチスラヴィチヴィーシュホロドヴォルガ川ヴォロダリ・ロスチスラヴィチボニャークトリピーッリャトルチェスクトルブチェフスクトルビジュ川トルクメン人トルク族トゥーラウトゥゴルカントク・テムルトゴン・テムルブルガールブルガール人プティーウリビーラ・ツェールクヴァテムルテュルク系民族フセヴォロド1世フセヴォロド2世フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (トルブチェフスク公)フセスラフ・ブリャチスラヴィチドルジーナドン川ドニエプル川ホロール川ダヴィド・ロスチスラヴィチダヴィド・フセスラヴィチダヴィド・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)ダヌィーロ・ロマーノヴィチベレンデイ族ベレストヴェベーラ4世アレクシオス1世コムネノスアレクサンドル・ボロディンアンドレイ・ウラジミロヴィチ (ヴォルィーニ公)アヴァールアブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソンアイユーブ朝アエパアゾフ海イランイリティツャ川イヴァン・ヴァシリコヴィチイーホル・スヴャトスラーヴィチイーゴリ公イーゴリ遠征物語イトラリイェスン・テムルイシュトヴァーン5世イジャスラフ1世イジャスラフ2世イジャスラフ3世イタリアイタリア人ウラジーミル (ウラジーミル州)ウラジーミル2世モノマフウラジーミル4世ウラジーミル・ムスチスラヴィチ (キエフ大公)ウラジーミル・ヴォロダレヴィチウラジーミル・ダヴィドヴィチウラジーミル・イーゴレヴィチウラジーミル・グレボヴィチ (ペレヤスラヴリ公)ウクライナウグラ川ウズベクエル・テムルエジプトオレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)オトロク (ポロヴェツ族)オトロク (階級)オゴデイ・ハン国オストログ (要塞)オセット人カラーウーンカルカ河畔の戦いカイドゥカイシャンカザン・ハン国カザフカザフステップカザフスタンキルギスキルギス人キプチャクキプチャク草原キエフキエフ大公キエフ大公国キエフ年代記キエフ・ペチェールシク大修道院クバン川クリミア半島クリミア・ハン国クン・エルジェーベトクーデタークビライクニャージグレプ (キエフ大公)グザークコチャン (ポロヴェツ族)コンチャークコンギラトコーカサスザルブシャルカンシャイバーニー朝シリギジョチ・ウルスジョージア (国)ジェベスノフスクスノウ川スモレンスクスラー川スルターンスヴャトポルチスヴャトポルク2世スヴャトポルク・ムスチスラヴィチスヴャトスラフ・ロスチスラヴィチ (ノヴゴロド公)スヴャトスラフ・ウラジミロヴィチ (スモレンスク公)スヴャトスラフ・オリゴヴィチ (チェルニゴフ公)スヴャトスラフ・オリゴヴィチ (ルィリスク公)スヴャトスラウ2世スーズダリ公スブタイステューフナ川スィルチャンスタロドゥーブセイム川ソジ川内モンゴル自治区元 (王朝)元史元朝秘史遊牧民馬乳酒護雅夫黒帽子族黒海除村吉太郎東ローマ帝国1055年1061年1068年1071年1078年1079年1082年1091年1092年1093年1094年1095年1096年1101年1103年1107年1110年1112年1117年1125年1126年1128年1135年1136年1140年1146年1147年1149年1151年1152年1154年1155年1161年1170年1172年1185年11世紀1223年1236年1237年12世紀1307年1328年1333年1335年13世紀14世紀15世紀16世紀1968年1976年1990年1998年4月23日 インデックスを展開 (218 もっと) »

原初年代記

原初年代記(げんしょねんだいき)は、およそ850年から1110年までのキエフ・ルーシの歴史について記された年代記(レートピシ)である。初版は1113年に編纂された。過ぎし年月の物語(古ルーシ語:Повѣсть времяньныхъ лѣтъ;ウクライナ語:Повість врем'яних літ;ベラルーシ語:Аповесць мінулых часоў;ロシア語:Повесть временных лет)とも。.

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だったん人の踊り

『だったん人の踊り』または『ポロヴェツ人の踊り』は、ロシアの作曲家アレクサンドル・ボロディンが作曲したオペラ『イーゴリ公』の第2幕の曲で、ボロディンの最も有名な曲のひとつであり、またクラシック音楽でも有数の人気曲である。日本語の題名は『ダッタン人の踊り』『韃靼人の踊り』『ポロヴェッツ人の踊り』などとも記される。しばしばオーケストラのコンサートなどで、オペラとは独立に演奏される。ただし、オペラでは合唱を伴うが、演奏会では合唱のパートを省略することが多い。序曲や「ポロヴェツ人の行進」などと併せて『イーゴリ公組曲』とすることもある。.

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十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

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南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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大都

大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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岡田英弘

岡田 英弘(おかだ ひでひろ、1931年1月24日 - 2017年5月25日)は、日本の東洋史学者。東京外国語大学名誉教授。東洋文庫専任研究員。 専攻は満洲史、モンゴル史であるが、中国・日本史論についても多くの著作がある。.

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上都

上都(じょうと、)は、モンゴル帝国(元)のクビライが、モンゴル高原南部(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)に設けた都。正藍旗の南のドロンノール県中心市街地から北西へ28km離れており、灤河上流の閃電河の河畔に位置する。上都鎮からは東北20km、北京からは北へ275km。元朝の夏の首都として使われた。 1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。西洋ではザナドゥ(Xanadu あるいは Xanadumoo、Zanadu、Shangdu)とも呼ばれる。2012年、遊牧文明と農耕文明の衝突と融合を示す貴重性が認められ、UNESCOの世界遺産に登録された。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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年代記

年代記(ねんだいき)または編年史(へんねんし)は、出来事や事件を年ごとに記述した歴史書のこと。.

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佐口透

佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006年11月13日)は、日本の歴史学者。金沢大学名誉教授。東トルキスタンの研究で知られる。.

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北元

北元(ほくげん、拼音:Bĕiyuán)は、1368年に、元(大元)の第14代大ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の大元ウルス(モンゴル帝国の皇帝直轄政権)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん、拼音:dádá)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称も用いられる。.

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ペチェネグ

ペチェネグとその周辺国。 ペチェネグ(英:Pechenegs)は、8世紀から9世紀にかけてカスピ海北の草原から黒海北の草原(キプチャク草原)で形成された遊牧民の部族同盟。9世紀末に遊牧民のハザール人とオグズ人の圧迫によって黒海北岸の草原に移住し、そこからフィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人(後のハンガリー人)、ならびにスラヴ系の農耕民ウールィチ人,ティーヴェルツィ人を追い出した。10世紀を通じてキエフ・ルーシ,ブルガリア,ハンガリー王国,ビザンツ帝国などの隣国と抗争を繰り広げた。11世紀末に、遊牧民のポロヴェツ(クマン、キプチャク)に圧迫されてドナウ川を越え、ビザンツ帝国領内へ移住した。残った人々は、ポロヴェツに同化した。 ペチェネグ人の系統に最も近い現存する民族はガガウズ人である。.

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ナヤン

ナヤン(1258年 - 1287年)は、東方三王家の一つであるテムゲ・オッチギン家の当主。チンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンの玄孫で、祖父はモンケ・クビライに仕えた有力重臣のタガチャルで、父はアジュルである。 クビライに仕えていたが、1287年春にオゴデイ・カン国のカイドゥと通じ、同じ東方三王家の(カチウン家当主)やシクドゥル(ジョチ・カサル家当主)らと手を組んで反乱を起こした。しかしカラコルムはクビライ配下の名将・バヤンに守られてカイドゥは封じ込められ、ナヤンに至ってはクビライ自らが直属の5衛軍を率いて親征を始める。皇帝自らの親征だったため元軍の士気は高く、ナヤンはわずか1日で敗れて逃走を図るも捕らえられた。そして、クビライの命令で2枚の毛布に包まれた上で、激しく振り回される方法で処刑されたという。 ナヤンはキリスト教徒で、反乱のときも軍旗に十字架を掲げていたといわれているが、それを語るエピソードがある。クビライが凱旋して勝利の宴会を開いていると、キリスト教徒に対して配下の将軍が「お前達の神の十字架は何をしていた。ナヤンを護ってやれなかったではないか」とからかった。それを聞いたクビライは「キリストなる神がナヤンに加護を与えなかったのは当然のことだ。神は公正であり、罪と不正を行なった者に恩恵は与えぬ。ましてやナヤンは反逆者であり、誤った行為による神の加護を願っていたのだから、善良にして公正なるキリストが邪悪な企みを保護しようと欲しなかったのは当然である」と答えて、キリスト教徒を感嘆させたという。 ナヤンの死後も、カダアンらは生き延びて反乱を続けたが、1288年までにテムルによって全て平定され、東方三王家は当主を全て交替させられることになった。 Category:モンゴル帝国の皇族 Category:東方三王家 Category:刑死した人物 Category:1258年生 Category:1287年没.

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ペレヤースラウ公国

ペレヤースラウ公国(ペレヤスラヴリ公国)(ウクライナ語:Переяславське князівство)は、11世紀から1239年まで存在したリューリク朝のルーシ系の公国の一つ。首都はペレヤスラーヴリ(現在のペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイ)。.

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マムルーク

マムルーク(単数形: مملوك mamlūk, 複数形: مماليك mamālīk)は、イスラム世界における奴隷身分出身の軍人のこと。.

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マムルーク朝

マムルーク朝(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250年 - 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。.

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ノーウホロド=シーヴェルシクィイ

ノーウホロド=シーヴェルシクィイ(Но́вгород-Сі́верський;意訳: 「シヴェーリアの新都」)は、ウクライナのチェルニーヒウ州ノーウホロド=シーヴェルシクィイ地区にある都市。ドニプロ川の支流、デスナー川の河岸に位置する。面積は11.81km(2003年)、人口は15,029人(2003年)。 В 1997г.

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ノガイ・オルダ

ノガイ・オルダは、15世紀から16世紀にかけて存続したジョチ・ウルスの継承政権のひとつ。カフカス北部からカスピ海北岸を中心としてキプチャク草原の一角を支配した。 ジョチ・ウルス東部の有力者であったマンギト(マングィト)部のエディゲとヌラディン(ヌールッディーン)の父子が実質上の建国者である。「ノガイ」の名は他称であって、彼ら自身は支配者の部族名を取ってマンギトと称した。ノガイの名の由来は確実ではないが、普通には13世紀後半にジョチ・ウルス右翼(西部)の有力者であったジョチの曾孫ノガイに関係していると見られている。.

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チュルク語族

チュルク語族(チュルクごぞく)/突厥語族(とっけつ-)(Turkic languages)は、中央アジア全体やモンゴル高原以西にあるアルタイ山脈を中心に東ヨーロッパ(トルコに属する東トラキア地方のみ)から北アジア(シベリア)に至る広大な地域で話される語族である。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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チェルニーヒウ

チェルニーヒウ(ウクライナ語:Чернігів)は、ウクライナの北部、チェルニーヒウ州の西に位置する都市で、同州の州庁所在地である。キエフ・ルーシ時代とヘーチマン国家の多数の文化財を保有している。デスナ川が流れている。.

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チェルニーヒウ公

チェルニーヒウ公 またはチェルニゴフ公(ウクライナ語:князь чернігівський;ロシア語:князь черниговский)は、ルーシの国家の一つチェルニーヒウ公国の公(クニャージ)であり、公国の主権者またはそれに準ずる地位にあった者。同公国は現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦の3国家の歴史的地域の一部。.

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ハラチン

ハラチン(Харчин、 転写:qaračin、中国語:喀喇沁 Kālǎqìn、英語:Kharchin)は、15世紀前期に形成されたモンゴルの一部族。モンゴル帝国初期にモンケ・ハーンらによって連れてこられたキプチャク人を祖とする集団で、北元時代以後に独立した遊牧部族となった。リンダン・ハーンの西遷によって一時解体されたが、清朝の下で朶顔衛を中核に再編成され、ジョソト盟ハラチン右翼旗・左翼旗・中旗として存続した。.

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ハンガリー

ハンガリー(Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペスト。 国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。首都のブダペストにはロンドン、イスタンブールに次いで世界で3番目に地下鉄が開通した。.

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ハンガリー王国

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。.

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ハールィチ

ウクライナのハルィチナー地方(ガリツィア)の歴史的中心。.

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ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

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ハザール

ハザール(突厥文字:、Khazar、ヘブライ文字:הכוזרים)は、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家。支配者層はテュルク系民族と推測されている。交易活動を通じて繁栄した。アラビア語、ペルシア語資料では خزر Khazar と書かれている。日本語ではハザル、ハザリア、ホザールあるいはカザールと表記されることもある。.

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バチュマン

バチュマン(八赤蛮、? - 1237年?)は、13世紀前半の、キプチャクの一部族のオルブルリク部族の首領であるドーソン『モンゴル帝国史2』p362。 1230年代後半にバトゥを総司令官とするモンゴル帝国がキプチャク草原に侵入し、その大部分を征服した。バチュマンは巧みな奇襲戦法を用いて抗戦を続けたが、捕虜となり、モンケの前に引き出されて殺害されたドーソン『モンゴル帝国史2』p152。ラシード・ウッディーンの『集史』に基づけば、バチュマンとモンゴル帝国軍との戦いは、1237年から始まったと推測される。また、それはモンゴル帝国軍がルーシに侵攻する前段階の出来事である。一方、ジュワイニーは、バチュマンの戦闘と、モンゴル帝国軍によるヴォルガ・ブルガールやルーシの征服とを別個に著述していることから、バチュマンの抗戦は1238年から1239年にかけての、モンゴル軍がモルドヴィン人やキプチャク族を制圧した時の出来事である可能性が高いと論じている。 バチュマンの名は、ノガイ人のいくつかの伝承の中に語られている。.

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バヤン (メルキト部)

バヤン(Bayan, ? - 1340年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は伯顔。アスト人親衛軍を率いる軍閥の長で、中国を支配した最後のモンゴル帝国大ハーンとなったトゴン・テムル(順帝)の治世初期に専権を振るった。 出自であるメルキト部は、元来チンギス・ハーンのモンゴル高原統一に抵抗して滅ぼされた部族(ウルス)であったが、バヤンの曽祖父は大ハーンの本営(オルド)に従士として仕えており、モンゴルの譜代部将の家柄に属している。祖父はモンケの南宋遠征に従軍し、父はクビライの皇太子チンキムの家に仕えた。バヤンも若くしてモンゴル軍人となり、アルタイ山脈方面の前線に派遣される懐寧王カイシャンに付属され、カイドゥとの戦いで戦功をあげて「バートル」(勇者)の称号を与えられた。 1307年、大ハーンのテムルが崩ずると政変が起こり、モンゴル高原の全遊牧民の軍団を後ろ盾とするカイシャンが勝利した。カイシャンのハーン即位により、カイシャンの部下であったバヤンも中央政府の高官である吏部尚書に任命され、カイシャン政権の有力者に列した。1309年には宰相格の尚書平章政事にすすめられるとともに、アスト人親衛軍の指揮官(阿速親軍都指揮使)に任命される。アスト人はバトゥの征西のとき征服された北カフカスのイラン系民族で現在のオセット人の先祖であり、バヤンが指揮を委ねられたアスト人親衛軍は、アスト征服の折りにモンゴル帝国に降伏したアスト人兵士からなるカイシャン子飼いの精鋭部隊であった。 しかし、1311年にカイシャンが急死を遂げ弟のアユルバルワダが即位すると、カイシャン政権の中核だった尚書省は解体され、カイシャン・アユルバルワダ兄弟の母である皇太后ダギの息のかかった将軍が取り立てられた。尚書省のメンバーだったバヤンのアスト人軍閥もカイシャン派として左遷され、中央から遠く離れた南方の地方官に転出する。1323年、晋王イェスン・テムルがハーンに即位すると、モンゴル高原から自らの子飼いの部将を引き連れてきたイェスン・テムルによってダギ派に属する有力者が一掃されたため、カイシャン派の残党であるバヤンの待遇も和らいで、1326年に中央に近い河南行省の平章政事に任ぜられた。 1328年、イェスン・テムルが上都で急死すると、再び大ハーンの座を巡って政変が起こり、大都に駐留していたカイシャン恩顧のキプチャク人親衛軍の将軍エル・テムルが決起を企てて江陵にいたカイシャンの遺児トク・テムルを迎えるための使者を送り出した。この使者が河南を通過する際にバヤンは計画を聞きつけ、エル・テムルの決起に協力、トク・テムルを河南に迎えてともに大都に向かった。こうしてトク・テムルがハーンに即位すると、朝廷ではハーンを擁立したエル・テムルのキプチャク人軍閥、バヤンのアスト人軍閥ら非モンゴル系の軍閥が実権を握ることになり、バヤンは中書左丞相、知枢密院事などの肩書きを与えられた上、ついには浚寧王の王号まで名乗って皇族なみの待遇を受けるに至った。 1332年にトク・テムルが没すると、バヤンはエル・テムルとはかってまだ幼児のイリンジバルをハーンに立てる。しかし、新ハーンはわずか2ヶ月で死んでしまい、翌1333年にはエル・テムルが病没した。エル・テムルに代わる朝廷の最有力者となったバヤンは代わりのハーンとしてイリンジバルの兄トゴン・テムルを擁立し、自ら中央政府の首班である右丞相に就任。1335年にはエル・テムルの遺児タンキシの起こしたクーデターを鎮圧し、ついに独裁権を掌握する。 やがてトゴン・テムルは成人するにつれてバヤンの専権を疎ましく思うようになったが、丁度バヤンの甥トクトが伯父を排斥しようとトゴン・テムルに接近してきた。1340年、トゴン・テムルの後援を受けたトクトはバヤンが宮廷を留守にした隙にクーデターを起こし、バヤンを失脚させた。バヤンは広東への流刑に処され、南に向かう途上で病死した。 バヤンは元では細々と実施されていた科挙を廃止したり、漢族を虐殺して人口を減らすことを提案するなど、中国文化を排撃したことで有名である。彼にかわって政権を握った甥のトクトが科挙を復活し、欧陽脩以来の正史となる『遼史』『金史』『宋史』の修史事業を行うなど、伯父とは対照的に中国文化に理解の深い為政者であったことから、トクトによるバヤンの追放は高原派と漢地派による対立であったと説明されることも多い。 はやん、めるきと はやん、めるきと はやん、めるきと.

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バルカン半島

バルカン半島(バルカンはんとう、Balkans、Balcania)は、ヨーロッパの南東部で、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、コソボ、ヴォイヴォディナ(スレム、バチュカ、バナト)及びトルコのヨーロッパ部分(ボスフォラス海峡以西)からなる地域である。バルカン半島の北限はしばしばドナウ川とサヴァ川とされているが、歴史的な繋がりの深いルーマニアや、旧ユーゴスラビア連邦のスロヴェニア(1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分がドナウ川またはサヴァ川以南)をバルカンに含めることもあり、必ずしも定まった地域概念ではない(バルカン山脈に詳しい)。オスマン語でバルカンは森林山脈を意味する。.

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バーチ・キシュクン県

バーチ・キシュクン県の位置 バーチ・キシュクン県(Bács-Kiskun megye)は、ハンガリーの県。県都はケチケメート。人口は約55万人。.

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バトゥ

バトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) は、ジョチ家の2代目(ハン:在位1225年 - 1256年)で、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・カンの長男ジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。ペルシア語ではباتو bātūと書かれる。カナ表記ではバツ、バト。.

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バイバルス

バイバルス・アル=ブンドクダーリー(الملك الظاهر ركن الدين بيبرس بندقداري al-Malik al-Zāhir Rukn al-Dīn Baybars al-Bunduqdārī, 1223年小林「バイバルス」『アジア歴史事典』7巻、325頁/28年佐藤「バイバルス」『新イスラム事典』、387頁/33年 - 1277年6月30日ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、79頁/7月1日牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、221頁)は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)の第5代スルターン(君主。在位:1260年 - 1277年)。在位中の事績から実質的なマムルーク朝の建国者と評価されることもあるヒッティ『アラブの歴史』下、641頁。即位名によりアッ=ザーヒル・バイバルス(الملك الظاهر بيبرس al-Malik al-Zāhir Baybars)とも呼ばれる。.

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バシキール人

バシキール人・バシュキール人(bashqorts)は、主としてロシア連邦のバシコルトスタン共和国に居住するテュルク系民族。自称はバシコルト(バシュクルト)。1989年のデータで、ソ連領内に144万9千人が居住していた。 人種は、モンゴロイドをベースとするもコーカソイドの血もかなり混じっている。言語は、テュルク諸語の北西語群(キプチャク語群)に属するバシキール語。主要宗教はイスラム教スンニー派である。.

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ポロヴェーツィケ (キエフ州)

ポロヴェーツィケ(ウクライナ語:Полове́цьке;意訳:「欽察村」)は、ウクライナのキエフ州ボフスラーウ地区にある村。ローシ川河岸に位置する。村名は中世後期にキエフ大公国の南部に居住していた遊牧民、ウクライナ語名で「ポーロヴェツィ」と呼ばれた欽察族のに由来する。11世紀に大公に従う欽察族の一部が集落を創建したと考えられる。11世紀以後の要塞化された集落跡がある。面積は約0.7km²(2005年)。人口は124人(2005年)。.

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ムスチスラフ2世

ムスチスラフ2世(古ルーシ語:Мьстиславъ Изѧславичь、? - 1170年)はキエフ大公(在位:1167年 - 1169年)。イジャスラフ2世の長男。息子には南西ルーシの雄ロマン大公がいる。.

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ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ

ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ(Мстислав Мстиславич、1176年以前 - 1228年)は、アレクサンドル・ネフスキー、レフ・ダニーロヴィチの外祖父にあたる人物である。聖名フョードル、またウダトニィー(Удатный、「幸運な・成功した」の意)の通称を持つ。トリポリエ公:1193年 - 1203年。トロペツ公:1206年 - 1213年。ノヴゴロド公:1210年 - 1215年、1216年 - 1218年。ガーリチ公:1215年 - 1216年、1219年 - 1226年。トルチェスク公:1203年 - 1207年、1226年 - 1228年Славянская энциклопедия.。才覚のある司令官であり、再三の会戦に勝利した。.

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ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (スモレンスク公)

ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ(Мстислав Ростиславич、1180年6月13日没)はキエフ大公ロスチスラフ1世の子である。ベルゴロド公:1161年、1171年 - 1173年。スモレンスク公:1175年 - 1177年。ノヴゴロド公:1179年 - 1180年。聖名はゲオルギー。また、フラブリー(Храбрый、「勇敢な」の意)という通称で呼ばれるが、ムスチスラフの存命中には通称で呼ばれたことはなく、15世紀に編纂された『ノヴゴロド第一年代記』(en)に初めて記されたものである。.

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モルドバ

モルドバ共和国(モルドバきょうわこく、Republica Moldova)、通称モルドバ、モルドヴァ(Moldova )は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。内陸国であり、西にルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接する。旧ソビエト連邦(ソ連)を構成していた国家の一つであった。現在、ドニエストル川東岸地域が沿ドニエストル共和国として事実上、独立状態にある。 モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシアならびソ連その名残りで共通語としてロシア語が通じる。、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域である。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンゴル (曖昧さ回避)

モンゴル (Монгол) 民族.

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モンゴルのルーシ侵攻

モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。 1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になったという見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある。 また東ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の民族の違いがはっきりとするようになった。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の属国と化して「タタールのくびき」に苦しむルーシ諸国の中からはトヴェリ大公国やモスクワ大公国といった新興勢力が現れるようになった。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モンゴル語

モンゴル文字で書かれた「モンゴル」 モンゴル語(モンゴルご、Монгол хэл、Mongol hel、、mongGul kele)は、モンゴル諸語に属する言語であり、モンゴル国の国家公用語である。モンゴル語を含むモンゴル語族は、テュルク語族及びツングース語族とともにアルタイ諸語と呼ばれる。 第8条はモンゴル語をモンゴル国の国家公用語に規定している。モンゴル国では、行政・教育・放送のほとんどがモンゴル語でなされるが、バヤン・ウルギー県では学校教育をカザフ語で行うことが認められている。こうした地域の人々の中にはモンゴル語を全く解さない者もいる。モンゴル国外には10万人以上のモンゴル国民が居住(日本国内にも合法・不法合わせ数千人が滞在しているものと推定されている)しており、かれらの母語でもある。 モンゴル諸語のうち、どこまでを「モンゴル語」と呼ぶのか明確な定義はないが、一般的にはモンゴル国や中国の内モンゴル自治区でも話されているものがモンゴル語とされる。.

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モンゴル高原

モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.

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ヤロポルク2世

ヤロポルク2世(古ルーシ語:Ярополкъ Володимеричь, 1082年 - 1139年2月18日)は、スモレンスク公、ペレヤスラヴリ公を経てキエフ大公(在位:1132年 - 1139年)。ウラジーミル・モノマフの子。母親はアングロ・サクソンのギータ。 1132年に兄ムスチスラフ1世の跡を継ぎ、キエフ大公位に就く。 ヤロポルク2世の治世は不安定であったといわれる。というのも、モノマフ一門の間で不和が生じていたうえ、チェルニゴフ地域を拠点としていた大伯父スヴャトスラフの一門がこれに拍車をかけたからである。当時の原則に照らせば、この大伯父の家門もまた、大公位を主張することができたからである。ポロツク公国も、この混乱に乗じて復興された。 Category:キエフ大公 Category:ペレヤスラヴリ公 Category:モノマフ家 Category:リューリク朝 Category:1082年生 Category:1139年没.

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ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ

ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ(スヴャトポルチチ)(Ярослав Святополкович(Святополчич)、Ярослав Святополкович。1072年頃 - 1123年。)は、キエフ大公スヴャトポルク2世の側室の子である。ヴォルィーニ公:1100年 - 1118年。.

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ヤロスラフ・スヴャトスラヴィチ

ヤロスラフ・スヴャトスラヴィチ(Ярослав Святославич、1070年代 - 1129年)は、キエフ大公スヴャトスラフ2世とオダ(ru)との間の長男である。ムーロム公:1097年 - 1123年、1127年 - 1123年。チェルニゴフ公:1123年 - 1127年。聖名はパンクラティー、また教会暦ではコンスタンチンと呼ばれる。.

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ヤース・ナジクン・ソルノク県

ヤース・ナジクン・ソルノク県の位置 ヤース・ナジクン・ソルノク県 (Jász-Nagykun-Szolnok megye)は、ハンガリー東部の県。ペシュト県、ヘヴェシュ県、ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーン県、ハイドゥー・ビハール県、ベーケーシュ県、チョングラード県、バーチ・キシュクン県と接する。ティサ川とコロシュ川が県内を流れる。県都はソルノク。県面積5582平方km。1990年以前はソルノク県と呼ばれていた。.

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ユーリー (ポロヴェツ族)

ユーリー(ユーリー・コンチャーコヴィチ、Юрий(Юрий Кончакович)、? - 1223年)は、ポロヴェツ族のハンである。コンチャークの子。 ルーシの年代記における最初の言及は、ルーシ諸公の内紛に関する13世紀最初の戦闘においてである。1203年、ルーシの公リューリクやオレグ一門と共に、当時ガーリチ公ロマンが所有していたキエフの襲撃・略奪に参加した。 1222年、ドン川でモンゴル帝国軍と戦い敗北した。続く1223年のカルカ河畔の戦いにおいて、ジェベとスブタイの率いるモンゴル帝国軍との戦闘で死亡した。この出来事に関連したルーシの年代記の記述では、ユーリーは「最も有力なハン」と言及されている。.

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ユーリー・ドルゴルーキー

ユーリー1世ドルゴルーキー(、1099年頃 - 1157年5月15日)は、スーズダリ公、ペレヤスラヴリ公、キエフ大公(在位:1149年 - 1150年、1150年、1155年 - 1157年)。ウラジーミル2世モノマフの六男、母はコンスタンティノポリス貴族の娘。ドルゴルーキー(手長公)のあだ名は、彼が北東ルーシのスーズダリに居を構えつつ、しばしば南方キエフに攻め入り、これを占領したことに由来する。彼はモスクワの建設者としても知られる。洗礼名はゲオルギイ。.

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リモフ

リモフ(Римов)はキエフ・ルーシ期の都市の1つである。現ロシア・クルスク州内の当時の都市としては、クルスク、ルィリスクと並ぶ大規模な都市であったが、現在は存在しない。 リモフは、例えば『ラヴレンチー年代記』の1096年の項にその名が言及されており、『イパーチー年代記』や『モノマフ公の庭訓(ru)』にもその名がみられる。また、年代記によれば、1185年にポロヴェツ族によって大きく破壊されている。『イーゴリ軍記』中にも、このリモフの破壊について記されている。.

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リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)

リューリク・ロスチスラヴィチ(Рюрик Ростиславич、? - 1210年代)はキエフ大公ロスチスラフの子である。ノヴゴロド公:1170年 - 1171年、オーヴルチ公:1173年 - 1194年、、キエフ大公:1173年、1181年、1194年 — 1201年、1203年 - 1204年、1205年 - 1206年、1207年、1210年。チェルニゴフ公:1210年 - 1212年。リューリク朝の一枝スモレンスク・ロスチスラフ家の出身であり、キエフ近郊のオーヴルチを拠点として、スーズダリ・ユーリー家、ガーリチ・ロマン家、チェルニゴフ・オレグ家らとの政権闘争を繰り広げた。.

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ルーツィク

記載なし。

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ルーシ

ルーシとは、以下のようなものに用いられた名称である。.

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ルブヌィ

ルブヌィ(Лубни)はウクライナ・ポルタヴァ州の市である。 ルブヌィ地区の行政中心地であるが、ルブヌィ自体は行政上は地区に含まれず、単独でルブヌィ評議会(Лубенська міська рада)を形成する。人口は2013年の時点で47636人。.

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ルィリスク

ルィリスク(Рыльск)はロシア・クルスク州ルィリスク地区(ru)の市である。また、同地区の行政中心地である。人口は2014年の時点で16163人。.

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ロマン・スヴャトスラヴィチ

マン・スヴャトスラヴィチ(Роман Святославич、? - 1079年8月2日)はキエフ大公スヴャトスラフの次男である。トムタラカニ公。通称クラスヌィー(直訳:赤い、美しい、尊い、などの意)。 1069年に兄のグレプがノヴゴロド公となった後にトムタラカニ公となった。1078年、弟のオレグ、スモレンスク公ヴャチェスラフの子のボリス(ru)と共に、チェルニゴフ付近でキエフ大公イジャスラフらと戦った(ru)。この戦いに敗北した後はポロヴェツ族と同盟を結び、1079年にペレヤスラヴリへと駒を進めた。しかしキエフ大公フセヴォロドがポロヴェツ族との協定締結に成功したため、ロマンとポロヴェツ族との同盟関係は破綻した。その後まもなく、ロマンはポロヴェツ族に殺された。なお、ロマンはルーシ諸公同士の内戦において、初めてポロヴェツ族と連携した公として知られる。.

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ローシ川

ーシ川(ウクライナ語:Ро́сь)は、右岸ウクライナの北部、ドニプロ高地を流れる河川である。ドニエプル川の右支流。古名は赤川(ウクライナ語:Червона річка)。.

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ロスチスラフ1世

チスラフ1世(古ルーシ語:Ростиславъ I Мьстиславичь, ? - 1167年)は、キエフ大公(在位:1154年 、1159年 - 1161年、1161年 - 1167年。キエフ大公ムスチスラフ1世の第五子。母はスウェーデン王女クリスティーナ。キエフ大公イジャスラフ2世の弟。.

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ロスチスラフ・ヤロスラヴィチ (ムーロム公)

チスラフ・ヤロスラヴィチ(Ростислав Ярославич、? - 1153年あるいは1155年以前)はムーロム公ヤロスラフの子である。プロンスク公:1129年 - 1143年、リャザン公:1143年 - 1145年、ムーロム公:1145年 - 1147年、1149年 - 1153年。.

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ロスチスラフ・フセヴォロドヴィチ

チスラフ・フセヴォロドヴィチ(Ростислав Всеволодович、1070年 - 1093年)はキエフ大公フセヴォロドの末の息子(ウラジーミル・モノマフの弟)である。ペレヤスラヴリ公:1078年 - 1093年。 1078年、伯父のキエフ大公・イジャスラフがチェルニゴフ付近の戦い(ru)で戦死すると、父がキエフ大公位を継いだ。兄のモノマフはチェルニゴフ公となり、ロスチスラフは兄と共にペレヤスラヴリ公国領を統治した。また、テュルク系ポロヴェツ族との戦いに参加した。 父のフセヴォロドは晩年病に倒れるが、その時にポロヴェツ族による新たな襲撃がはじまった。1093年、フセヴォロドが病死するとキエフ大公位はトゥーロフ公スヴャトポルクのものとなった。ロスチスラフはスヴャトポルク、モノマフらと共にステューフナ川の戦い(ru)に参加するがポロヴェツ族に敗北し、退却の際に溺死した。.

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ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ (トムタラカニ公)

チスラフ・ウラジミロヴィチ(Ростислав Владимирович、1038年頃 - 1067年2月3日)はキエフ大公ヤロスラフ1世の孫、ノヴゴロド公ウラジーミル・ヤロスラヴィチの子である。ロストフ公:? - 1057年、ヴォルィーニ公:1057年 - 1064年、トムタラカニ公:1064年 - 1067年。.

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ロストヴェツ (ルーシ)

トヴェツ(Ростовец)はローシ川上流に位置した、キエフ・ルーシ期の都市である。 ロストヴェツはキエフ公国領に含まれ、ルーシ領と遊牧民の勢力圏との国境地帯に構築された沿ローシ川防衛線中の要塞都市であった。また、この境界地帯には、ルーシ諸公と同盟関係にあったテュルク系のベレンデイ族やトルク族が住んでいた。1176年、キエフ公国とポロヴェツ族との戦闘(ロストヴェツの戦い)が行われ、ポロヴェツ族が勝利した。 ロストヴェツは現存せず、ウクライナ・ヴィーンヌィツャ州の村マラヤ・ロストウカ(ru)付近、もしくはジトームィル州の村ロスタヴィツャ(ru)付近がその所在地であったと推測されている。.

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ヴャチェスラフ1世

ヴャチェスラフ1世(ヴャチェスラフ・ウラジミロヴィチ)(ロシア語:Вячеслав Владимирович、ウクライナ語:В'ячеслав Володимирович、1083年? - 1154年12月)は、ウラジーミル・モノマフとギータとの間の子である。スモレンスク公:1113年 - 1127年。トゥーロフ公:1127年 - 1132年、1134年 - 1142年、1143年 - 1146年。ペレヤスラヴリ公:1132年 - 1134年、1142年 - 1143年。キエフ大公の位には、1139年2月22日 - 1139年3月4日、1150年7月、1151年4月 - 1154年の3回にわたって就いている。 1113年から1127年の14年間、ヴャチェスラフはスモレンスク公だったが、1127年に兄のムスチスラフが、自身の息子のロスチスラフをスモレンスク公としたため、ヴャチェスラフはトゥーロフ公となった。また、1132年には別の兄のヤロポルクによってペレヤスラヴリ公となった。しかし、1134年、ヴャチェスラフは独断でトゥーロフへ帰ると、甥のイジャスラフを追い出した。その結果、オレグ一門の援助を受けた甥との闘争が始まった。 1139年2月18日に、キエフ大公位にあったヤロポルクが死ぬと、ヴャチェスラフはキエフ大公の位を相続した。しかし、ヴャチェスラフは性格や行動に欠点があり、母でさえ、キエフ大公の位をオレグ一門のチェルニゴフ公フセヴォロドに譲らせようとした。事実、1度目のキエフ大公位の在位期間はごく短期のうちに終わった。その後、1142年に2度目のペレヤスラヴリ公、1143年1月には3度目のトゥーロフ公となった。 1146年、キエフ大公位にあったフセヴォロドの死後、ヴャチェスラフは再び政治への積極的な干渉を試みはじめた。自身の去就以外にも、甥のウラジーミル(異母弟アンドレイの子)の、ヴォルィーニ公への即位を画策した。しかし、新しいキエフ大公には甥のイジャスラフ(上記のイジャスラフ)が就き、ヴャチェスラフの領土だったトゥーロフと、甥のために画策したヴォルイーニは、共にイジャスラフのものとなった。ヴャチェスラフには、ヴォルィーニの小都市・ペレソプニツァが与えられた。ヴャチェスラフは、異母弟ユーリー・ドルゴルーキーと連合する道を選んだ。1149年、連合軍はイジャスラフを破った。また、ユーリーによって、小さいが戦略的に重要なキエフ近郊の都市・ヴィシゴロドを得た。 1150年には、イジャスラフの反撃によってユーリーが敗れた。ヴャチェスラフはキエフに乗り込み、一時的にキエフ大公(2度目のキエフ大公)となった。しかし、敵対していたイジャスラフと和解してキエフ大公位を譲渡すると、逆にそれまでの同盟者だったユーリーとの戦争を始めた。彼ら3人によるキエフ大公位をめぐる闘争は、1151年にイジャスラフがユーリーに勝利することで決着がついた。イジャスラフはヴャチェスラフを呼び寄せ、2人による共同統治が行われた。これはヴャチェスラフにとって3度目のキエフ大公となった。 共同統治は3年間続いたが、1154年にイジャスラフが死去し、同年12月にヴャチェスラフも死去した。.

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ヴャチェスラフ・ヤロスラヴィチ

ヴャチェスラフ・ヤロスラヴィチ(Вячеслав Ярославич、1036年? - 1057年?)はキエフ大公ヤロスラフとインゲゲルド(en)(スウェーデン王オーロフの娘)との間の子である、スモレンスク公:1054年 - 1057年?。.

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ヴァシリコ・ロスチスラヴィチ

ヴァシリコ・ロスチスラヴィチ(Василько Ростиславич、1066年頃 - 1124年)はトムタラカニ公ロスチスラフ・ウラジミロヴィチの末子である。テレボヴリ公:1085年 - 1124年。.

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ヴィーシュホロド

ヴィーシュホロド(Вишгород)は、ウクライナのキエフ州にある市である。同地区の中心地であり、人口は26198人(2012年)。1962年に都市型集落、1968年に市となった。歴史学的文献にはヴィシゴロド、ヴィシェゴロド等と表記しているものもある。.

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ヴォルガ川

最上流の町・ルジェフ周辺(1909年から1915年頃のカラー写真) ヴォルガ川流域 ヴォルガ川(ヴォルガがわ、 ヴォールガ)は、ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部(ヨーロッパ・ロシア中心部)を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。.

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ヴォロダリ・ロスチスラヴィチ

ヴォロダリ・ロスチスラヴィチ(Володарь Ростиславич、? - 1124年3月19日)は、トムタラカニ公ロスチスラフ・ウラジミロヴィチの3人の息子の中の次男である(リューリクが長男 // 、ヴァシリコが三男)。ズヴェニゴロド公:1085年 - 1092年、ペレムィシュリ公:1092年 - 1124年。.

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ボニャーク

ボニャーク(Боняк、生没年不詳)は、11世紀末から12世紀中頃のポロヴェツ族のハンである。.

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トリピーッリャ

トリピーッリャ(Трипілля)はウクライナ・キエフ州の村落(село / セロ)である。キエフ市から南におよそ40kmの位置にあり、人口は2006年の時点で3001人である。なお、かつてはトリポリ(Треполь)という名だった。また現在のロシア語表記(Триполье)からの転写ではトリポリエとなる。.

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トルチェスク

トルチェスク(Торческ)はキエフ・ルーシ期のポロシエに存在した都市である。ポロシエに居住するチョールヌィ・クロブキの中心的都市であった。.

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トルブチェフスク

トルブチェフスクの市章 トルブチェフスク(Трубчевск、Trubchevsk)は、ロシア西部のブリャンスク州南部にある都市。ウクライナとロシアの接する国境にほど近い。人口は2002年国勢調査で16,342人。1989年ソ連国勢調査では16.301人であった。 州都ブリャンスクの南95キロメートルにある。ドニエプル川の支流デスナ川が流れる町で、右岸から支流のネルッサ川が合流している場所にある。.

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トルビジュ川

トルビジュ川(Трубіж)はウクライナを流れるドニエプル川左岸の支流である。 全長113km、流域面積4700km²、流水の大部分は雪解け水である。水源はチェルニーヒウ州ペトリウシケ村(ru)であり、同州並びにキエフ州を通過し、カニウ貯水池(ru)に流入する。河川の形成する谷幅は5km以内に収まり、水深はおよそ10m程度である。11月末から12月初めごろには凍結し、三月の後半には氷解する。支流にはネドラ川(ru)、イリティツャ川等がある。また、流域の市としてはペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイがある。.

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トルクメン人

トルクメン人(トルクメン語:Türkmen、ロシア語:Туркмены、英語:Turkmen)は、中央アジアに居住するテュルク系民族である。 最も多くトルクメン人を抱える国はトルクメニスタンであり、ウズベキスタン、タジキスタン、コーカサスのスタヴロポリ地方にも居住するほか、イラン、アフガニスタン西北部にも少数のトルクメン人が住んでいる小松「トルクメン」『中央ユーラシアを知る事典』、394頁。1997年当時のトルクメニスタンに居住していたトルクメン人の推定人口は約3,250,000人、1979年当時のソビエト連邦全土には約2,028,000人のトルクメン人が住んでいた護、岡田『中央ユーラシアの世界』、239-242頁。.

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トルク族

トルク族(Торк) は、10世紀から13世紀にかけて、黒海北部のステップ地帯にいたテュルク系遊牧民の1部族である。.

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トゥーラウ

トゥーラウ(Тураў)は、ベラルーシのホメリ州ジトカヴィーチ地区(bex)の市である。ベラルーシで最も古い都市の一つであり、12世紀・13世紀にはトゥーロフ公国の首都だった。歴史的地域区分としてはパレーッシェ(ポリーシャ・ポレシエ)に含まれる。なお、歴史学的文献においてはトゥーロフ、トゥロフ等とも表記されている。 (留意事項) 12 - 13世紀のトゥーラウを首都としていた公国は、2013年時点の日本語書籍では多く「トゥーロフ公国」と表記されているために、本頁では「トゥーロフ公国」、またその君主を「トゥーロフ公」と表記している。.

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トゥゴルカン

トゥゴルカン(Тугоркан、1028年 - 1096年7月29日)は、ポロヴェツ族のハンである。ボニャークの僚友的な存在であり、ボニャークと共に、西ポロヴェツの複数のオルダを統合した。.

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トク・テムル

トク・テムル(モンゴル語:、Toq-Temür、漢字:図帖睦爾、 1304年2月16日 - 1332年9月2日)は、モンゴル帝国(元)の第12代皇帝(大ハーン)。 武宗カイシャンの次男。母はタングト部の人(唐兀氏、文献昭聖皇后)で、明宗コシラの異母弟にあたる。.

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トゴン・テムル

トゴン・テムル(モンゴル語:、Toγon-Temür、漢字:妥懽帖睦爾、 1320年5月25日 - 1370年5月23日)はモンゴル帝国(元朝)の第15代皇帝(大ハーン)。廟号は恵宗であるが、明朝による追諡である順帝の名称が使用されることが多い。モンゴル語での尊号はウカアト・カアン Uqaγatu Qa'anで、『蒙古源流』『アルタン・ハーン伝』等ではオハート・トゴン・テムル・ハーン Uqaγatu Toγan Temür Qaγan 、トガン・テムル・ウハート・ハーン Toγan Temür Uqaγatu Qaγan と呼ばれている。 至正28年(1368年)に大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、『明史』では1368年に帝位を失い、元は滅亡したとして扱われる。.

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ブルガール

ブルガール.

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ブルガール人

ブルガール人(Прабългари、Bulgars)は、中世において中央アジアから移動し東ヨーロッパで活動したテュルク系遊牧民で、人種はモンゴロイドに属していた。 ブルガール人の中で広い地域に分散した部族のうち、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民であるコーカソイドの南スラヴ人に言語的にも人種的にも同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。そのためにプロト・ブルガリア人ともいう。.

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プティーウリ

プティーウリ(Путивль)はウクライナ・スームィ州プティーウリ地区(en)の市(місто)である。 セイム川河岸に位置し、プティーウリ地区の行政中心地となっている。人口は2001年の段階で17274人。.

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ビーラ・ツェールクヴァ

ビーラ・ツェールクヴァ(ウクライナ語:Біла Церква;意訳:「白聖堂」)は、ウクライナのキエフ州南西部における都市。ビーラ・ツェールクヴァ地区の中心である。首都キエフから約80 km南方にあり、近くにはドニプロ川の支流ローシ川が流れる。ビーラ・ツェールクヴァ連隊の中心。.

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テムル

テムル(モンゴル語:、Temür、漢字:鐵穆耳、1265年10月15日 - 1307年2月10日)は、モンゴル帝国の第6代、大元ウルスの君主としては第2代の大ハーン。『集史』などのペルシア語表記では تيمور قاآن Tīmūr Qā'ān。テムルはモンゴル語で「鉄」を意味する名前で、ペルシャ語などのティムールに通じる。.

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テュルク系民族

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。 テュルク系民族の分布。 テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 または、 、 )は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。.

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フセヴォロド1世

フセヴォロド1世のキエフ宮廷(画:イヴァン・ビリビン) フセヴォロド1世/ ヴセヴォロド1世(, 1030年 - 1093年4月13日)はキエフ大公(在位:1076年 - 1077年、1078年 - 1093年)。.

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フセヴォロド2世

フセヴォロド2世(古ルーシ語:Всеволодъ Олговичь、? - 1146年8月1日)はキエフ大公(在位:1139年 - 1146年。スヴャトスラフ2世の孫で、チェルニーヒウ公オレグ1世の長男にあたる。母はビザンツ皇女テオファノ。.

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フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (トルブチェフスク公)

フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ(Всеволод Святославич、木村彰一『イーゴリ遠征物語』注p156-->? - 1196年)はチェルニゴフ公スヴャトスラフ・オリゴヴィチの子。トルブチェフスク公・クルスク公:1164年 - 1196年。『イーゴリ軍記』中ではブイ・トゥル(Буй-Тур。日本語訳:荒れ牛、猛牛。)という異名を付され、戦場でのその奮迅を賞賛されている。.

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フセスラフ・ブリャチスラヴィチ

フセスラフ・ブリャチスラヴィチ(Усясла́ў Брачысла́віч、Всесла́в Брячисла́вич、1044年以前 - 1101年4月14日)は、キエフ大公(在位1068年 - 1069年)、ポロツク公(在位:1044年 - 1068年、1071年 - 1101年)。ポロツクは現在のベラルーシの都市である。父はポロツク公ブリャチェスラフ1世。子にはポロツク公ログヴォロド、ヴィテプスク公スヴャトスラフ、ロマン、ポロツク公ダヴィド、ミンスク公グレプ、ルコームリ公ロスティスラフ、ポロツク公ボリスがいる。孫にはプレドスラヴァなど。.

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ドルジーナ

ドルジーナ(ウクライナ語/Дружина、Дружына、Drużyna książęca)は中世のスラヴ社会(en)の公(クニャージ)に属する軍隊である。スラヴ諸語の「друг」(仲間・友人の意)に由来し、日本語文献では従士団國本哲男『ロシア原初年代記』事項索引p41、親衛隊伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p102などと訳される。公と同様に、キエフ・ルーシ時代の重要な要素である。 (留意事項):本頁の歴史的用語の日本語訳は文献によって異なるものがある。出典は脚注を参照。.

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ドン川

ドン川(Дон)は、ロシア連邦を流れる主要な川の一つである。 ドン川流域.

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ドニエプル川

ドニエプル川の流域。 ドニエプル川(Дніпро;Дняпро;Днепр)は、ロシアから始まって、ベラルーシを経てウクライナに流れ黒海に注ぐ川である。総延長は、2285km。 日本語表記は、他にドネプル川、ドニェプル川、ドニェープル川などのバリエーションが見られる。ウクライナ語名やベラルーシ語名に沿って表記されることは少ない。.

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ホロール川

ホロール川(ウクライナ語:Хорол)は、ウクライナのスームィ州・ポルタヴァ州を流れる川である。長さ311km、流域面積は334kmである。流域にはやといった都市がある。 11月から1月にかけて凍結し、3月から4月初めに氷解する。2月から4月初めは雪解け水や融解によって特に水量が増える。一方、年間40日から50日ほど、上流で渇水するときがある。名前の由来はスキタイ語から生じたという説が有力視されている。 『原初年代記』には、1107年に、ルーシの連合軍が壊走するポロヴェツ族に追撃を加え、勝利したことが記されている。.

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ダヴィド・ロスチスラヴィチ

ダヴィド・ロスチスラヴィチ(Давыд Ростиславич、1140年 - 1197年4月23日)はキエフ大公ロスチスラフ1世の四男である。スモレンスク公(1180年 - 1197年)など。.

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ダヴィド・フセスラヴィチ

ダヴィド・フセスラヴィチ(Давыд Усяславіч、1047年~1057年 - 1129年以降)はポロツク公フセスラフの息子である。ポロツク公:1101年 - 1127年、 1128年 - 1129年。.

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ダヴィド・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)

ダヴィド・スヴャトスラヴィチ(Давыд Святославич、1050年頃 - 1123年)はキエフ大公スヴャトスラフの子である。ペレヤスラヴリ公:1073年 - 1076年、ムーロム公:1076年 - 1093年、スモレンスク公:1093年 - 1095年、1096年 - 1097年、ノヴゴロド公:1094年 - 1095年、チェルニゴフ公:1097年 - 1123年。チェルニゴフの地(チェルニゴフ公国領)における最初の聖人(ブラゴヴェルヌィー(ru))であり、ブリャンスク聖人大聖堂において、その記憶日はユリウス暦の9月20日とされている。.

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ダヌィーロ・ロマーノヴィチ

ダヌィーロ・ロマーノヴィチ(古ルーシ語:Данило Романовичъ、ウクライナ語:Данило Романович、意味:ロマンの子ダヌィーロ、1201年 - 1264年)は、リューリク朝の公の1人で、ヴォルィーニ公(在位:1205年 - 1208年、1215年 - 1238年)、ハールィチ公(在位:1238年 - 1261年)、キエフ大公(在位:1239年 - 1240年)、ハールィチ・ヴォルィーニ大公(在位:1238年 - 1250年)であり、初の全ルーシの王(在位:1253年 - 1264年)でもあった。ルーシ年代記においては、「ソロモンに次ぐ人」として謳われている。ハールィチという町からハールィチ・ヴォルィーニ大公国を治めていた事にちなんで「ハールィチのダヌィーロ」(ウクライナ語:Данило Галицький、ダヌィーロ・ハールィツィクィイ)とも呼ばれている。.

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ベレンデイ族

ベレンデイ族(береньдѣи、Берендеи)とは、11世紀から13世紀にかけてルーシ南部のステップで生活していた、テュルク系遊牧民の1部族である。ベレンデイという名の正確な語源は確定されていないが、オグズ族から分離・派生したとされている // Большая советская энциклопедия(ソビエト大百科事典) // Советская историческая энциклопедия / Под ред.

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ベレストヴェ

ベレストヴェ(ベレストヴォ)(Берестове(Берестово))は現ウクライナ・キエフ内の歴史的地域である。ベレストヴェは、同じくキエフの歴史的地域であるルィプクィ(ru)、クローウ、ズヴィルィネツィ(ru)、ドニプロ坂(ru)などの間に位置している。.

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ベーラ4世

ベーラ4世(ハンガリー語:IV Béla、1206年11月29日 - 1270年5月3日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位:1235年 - 1270年)。祖父ベーラ3世に倣った王権の強化と、1241年のモンゴル軍の侵入によって荒廃したハンガリーの復興事業により、ハンガリー王の中でも有名な人物の一人である。.

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アレクシオス1世コムネノス

アレクシオス1世コムネノス(ギリシア語:Αλέξιος Α' Κομνηνός (Alexios I Komnēnos)、1048年/1056年 - 1118年8月15日)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)コムネノス王朝の初代皇帝(在位:1081年 - 1118年)。マケドニア王朝断絶後に皇帝となったイサキオス1世コムネノスの甥に当たる。24歳の若さで将軍となった。皇帝ミカエル7世の従弟アンドロニコス・ドゥーカスの娘エイレーネーと結婚した。 ドゥーカス王朝支配下の頃の東ローマ帝国は、内部では有力貴族の反乱が起こり、外部からはセルジューク朝やノルマン人に東西から侵攻を受け、まさに内憂外患の状態にあった。特に小アジアは大半が奪われ、首都コンスタンティノポリスの対岸にまでトルコ人が迫っていた。 このような中で1081年、アレクシオスは反乱を起こして時の皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスを退位させ、自ら皇帝となった。彼の子孫である皇帝たちをコムネノス王朝と称する。 即位後、アレクシオスは対外政策に力を注いだ。当時、11世紀半ばまで東ローマ帝国領であった南イタリア(マグナ・グラエキア)はノルマン人のロベルト・イル・グイスカルドによって征服され、その勢力はバルカン半島にまで及んできていた。しかし、アレクシオスはヴェネツィア共和国と同盟を結ぶことで海の守りを固め、ロベルトの子のボエモンを屈服させ、ロベルトの熱病死によって撃退させることに成功した。しかし、このときの同盟の代償としてヴェネツィアに関税特権などの様々な特権を与えたことが、のちに帝国内の商工業者の衰退、東ローマ帝国とヴェネツィア共和国との対立等を招く一因ともなってしまった。 帝国の西方ではクマン族などの異民族による侵攻もあったが、アレクシオス1世はクマン族をはじめとする異民族の討伐にも乗り出して、帝国西部の領土奪回を果たしている。また、東方のルーム・セルジューク朝に対しては、これを討つためにローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を要請した。 ところが、これは第1回十字軍という思いもよらない事態を招いてしまった。1096年から開始されたこの十字軍遠征により、帝国は確かにイスラーム勢力の脅威から脱することはできたが、帝国領が十字軍遠征の通過地となった結果、十字軍の乱暴狼藉や略奪によって逆に苦しめられてしまった。 また内政面においては、通貨改革や爵位の再編を行ったほか、有力貴族と皇族との間に婚姻関係を結ぶことで関係を強化した。いわゆる「コムネノス一門」である。結果として1453年に帝国が滅亡するまで、すべての皇帝はコムネノス家・ドゥーカス家の血をひくこととなった。また大土地所有貴族たちに軍事力提供と引き換えに徴税権や土地を与えるプロノイア制を導入し、強力な私兵を抱える彼らの協力を得て帝国の軍事力を強化した。 これらの政策は孫のマヌエル1世の代になると帝国を窮地に陥れることになるが、ひとまずアレクシオス1世の統治によって再び安定の時代を迎えた。バシレイオス2世の没後衰退する一方だった帝国は、約100年の間衰退を食い止め、東地中海の強国の座を奪回・維持することに成功したのである。 Category:東ローマ皇帝 Category:コムネノス家 Category:十字軍 Category:1048年生 Category:1118年没.

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アレクサンドル・ボロディン

アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(Alexander Porfiryevich Borodin, Алекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н, 1833年10月31日(ユリウス暦)/11月12日(グレゴリオ暦) - 1887年2月15日/2月27日)は、帝政ロシアの作曲家、化学者、医師。ロシア音楽の作曲に打込んだロシア5人組の一人である。.

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アンドレイ・ウラジミロヴィチ (ヴォルィーニ公)

アンドレイ・ウラジミロヴィチ(Андрій Володимирович、1102年8月11日 - 1141年1月22日)はキエフ大公ウラジーミル・モノマフの年少の子である。ヴォルィーニ公:1119年 - 1135年、ペレヤスラヴリ公:1135年 - 1141年。通称ドブルィー(善良の意)。 1119年、兄弟であり前任の公のヴォルィーニ公ロマンが死ぬと、父によってヴォルィーニ公の座に置かれた。しかしこれはアンドレイを、かつてのヴォルィーニ公ヤロスラフとの戦闘に巻き込むことになった。ヤロスラフはアンドレイの父のモノマフによって、ヴォルィーニ公国の領有を妨げられた、モノマフ以前のキエフ大公スヴャトポルクの子であった。ただしヤロスラフはポーランド・ハンガリー・ボヘミアから援軍を呼び寄せて戦争を開始したものの、ウラジーミル・ヴォリンスキーを包囲中の1123年に死亡した。 1128年、兄のキエフ大公ムスチスラフ1世の指示によって、他の公たちと共にポロツク公国への遠征軍に帯同し、ポロツクの公たちを追放した。1135年、アンドレイはペレヤスラヴリ公の座に就き、モノマフ一門に敵対していたキエフ大公フセヴォロドの侵略から、ペレヤスラヴリ公国を守り抜いた。また、フセヴォロドはキエフ大公位に就いたのちに、その兄弟のスヴャトスラフにクルスクを与え、さらにペレヤスラヴリを与えることをも約束していた。このためスヴャトスラフがクルスクよりペレヤスラヴリへ進軍したが、アンドレイはスヴャトスラフ軍を破った。 アンドレイは1141年にペレヤスラヴリで死去し、聖ミハイル教会に葬られた。.

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アヴァール

アヴァール (Avars) は、 5世紀から9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。東ローマの一部史料ではジェジェン(Geougen)、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれる。.

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アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン

アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 男爵(Abraham Constantin Mouradgea d'Ohsson、1779年11月26日 - 1851年12月25日)は、オスマン帝国におけるアルメニア系の外交官、歴史家。『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』(邦題:『蒙古史』、『モンゴル帝国史』)の著者として有名であった。.

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アイユーブ朝

アイユーブ朝(الأيوبيون、クルド語:دەوڵەتی ئەییووبی )は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配した スンナ派のイスラーム王朝太田「アイユーブ朝」『岩波イスラーム辞典』、4頁。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。 1169年にエジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する佐藤「アイユーブ朝」『新イスラム事典』、41頁。サラディンはアッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカス、アレッポ、ディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した。アル=アーディル、アル=カーミル、アッ=サーリフら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らはカイロで政務を執った佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、212頁。1250年にマムルーク(軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出したモンゴル帝国とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。.

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アエパ

アエパ(Аепа、1070年頃 - ?)は、ポロヴェツ族のハンである。 ポロヴェツ族は時にはルーシ諸公と対立し、ある時には同盟をなした遊牧民族であるが、オセニの子であるアエパ(アエパ・オセネフ)は1108年1月12日に、娘をユーリー・ドルゴルーキーと結婚させることでルーシと同盟を結んだ。一方、1113年にはポロヴェツのハン・ボニャークと共にルーシ領のヴィリを包囲し、その要塞の城壁付近に数日の間布陣した。この戦いは、ルーシのドルジーナ隊接近の報を聞いてポロヴェツ軍が退却することで終結した。 なお、その後、ブルガール族から毒入りの食物を送られたことでアエパを含む多くのポロヴェツ族が毒死し、生存者も戦いに敗れ捕虜となっている。また、オセニの子のアエパがユーリーと婚姻同盟を結んだ同日に、ポロヴェツ族のギルゲルの子のアエパ(アエパ・ギルゲネフ)という人物が、娘をスヴャトスラフ・オリゴヴィチというルーシの公に嫁がせているが、このアエパの詳細は不明である。.

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アゾフ海

アゾフ海(アゾフかい、ウクライナ語:Азовське море;ロシア語:Азовское море)は、黒海北部にある内海で、ケルチ海峡によって黒海と結ばれている。北はウクライナに接し、東のロシア連邦領タマン半島と西のウクライナ領クリミア半島に挟まれている。西岸には110kmにわたり、(堆積物が海中に突起したもの、砂州)が広がり、腐海(Сиваш)には塩分濃度の高い湿地帯の入り江がある。ドン川河口のある北東部はタガンログ湾という。 大きさは長さ340km、幅135km、面積37,555km2である。ドン川とクバン川が流れ込み、それによって比較的低濃度の塩水と新鮮さが保たれている。これらの川はまたシルトという土も運んでくる。平均して水深が13mしかない世界で最も浅い海でもあり、シルトが沈積したタガンログ湾の水深は1mにも満たない。現在の海流は時計と反対周りに渦を巻く流れとなっている。潮の満ち引きは大きく、満潮時には水深5mに達する所もある。冬になると、海の大部分が氷に閉ざされる。 重要な港は、ベルジャーンシク、マリウポリ、ロストフ・ナ・ドヌー、タガンログ、エイスクである。またカスピ海やバルト海などと通じるヴォルガ・ドン運河とカスピ海につながるクマ=マヌィチ運河がある。多くの重要な水産資源があり、天然ガスや油田の開発が進められている。 さまざまな海洋生物が生息し、無脊椎動物は300種類以上、魚類は80種類以上にのぼっている。しかし乱獲による種や数の減少、海洋汚染などの問題も発生している。 Category:ヨーロッパの海域 Category:ウクライナの地形 Category:ロシアの海域 Category:地中海の海域 Category:黒海.

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イラン

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。また、ペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン。 1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。世界有数の石油の産出地でもある。.

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イリティツャ川

イリティツャ川(Ільтиця)はウクライナを流れる、トルビジュ川左岸の支流である。全長37km、河口はペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイ。.

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イヴァン・ヴァシリコヴィチ

イヴァン・ヴァシリコヴィチ(Иван Василькович、? - 1141年)はテレボヴリ公ヴァシリコの子である。L.ヴォイトヴィチの説では、イーゴリという別名の存在が提起されている。テレボヴリ公・ガーリチ公:1124年 - 1141年 1124年に父が死んだ後、兄弟のロスチスラフがテレボヴリを継ぎ、イヴァンはガーリチを継いだ。その翌年、兄弟のロスチスラフ、キエフ大公ムスチスラフと共に、いとこのロスチスラフ、ウラジーミル兄弟の紛争に介入した。また1140年には、ウラジーミルと共に、キエフ大公フセヴォロド(イヴァンの義父)と、その大公位を狙うイジャスラフとの争いに参加した。 兄弟のロスチスラフはイヴァンより先に死亡しており、ロスチスラフの死後、イヴァンはガーリチ公位を保持すると共に、テレボヴリ公位を併せ持った。しかし1141年にイヴァンは子のないまま死んだため、ウラジーミルがガーリチを領有した。最終的にはウラジーミルによって、南西ルーシの諸公国(ペレムィシュリ公国、ズヴェニゴロド公国、テレボヴリ公国、ガーリチ公国)を統合した、新たな体制としてのガーリチ公国が創設されることになる。.

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イーホル・スヴャトスラーヴィチ

イーホル・スヴャトスラーヴィチ公。 イーホル・スヴャトスラーヴィチ(古ルーシ語: Игоръ Ст҃ославич, Игорь Святъславличь;І́гор Святосла́вич;1151年 - 1202年)は公。シヴェーリア公(1178年 - 1198年)、チェルニーヒウ公(1198年‐1202年)の次男。日本語では名は「イーゴリ」とも表記される。 1161年、公によるキエフへの出兵に参陣した。1174年、ペレヤースラウの周辺でコンチャク・ハンとコビャク・ハンが率いる欽察人の軍勢を破った。兄の死後、公となった。キエフ大公の座を巡る内紛に参加した。1183年、欽察人の領土へ出兵し、勝利を収めた。しかし、1185年に行った新たな出兵において惨敗を喫し、欽察人の捕虜となった。1185年度の出兵は『イーゴリ遠征物語』のモチーフとなった。その後、父の跡を継ぎチェルニーヒウ公をつとめた。.

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イーゴリ公

『イーゴリ公』(イーゴリこう、原題:Князь Игорь)は、アレクサンドル・ボロディンによって書かれたオペラである。中世ロシアの叙事詩『イーゴリ遠征物語』を題材に、1185年、キエフ大公国の公(クニャージ)イーゴリ・スヴャトスラヴィチによる、遊牧民族ポロヴェツ人(韃靼人)に対する遠征を描く。序幕付き4幕からなる。 ボロディンはこの作品を完成させないまま1887年に死去したため、リムスキー=コルサコフとグラズノフの手により完成された。総譜には「このオペラはリムスキー=コルサコフが序幕と第1・2・4幕、第3幕の「ポロヴェツ人(韃靼人)の行進」の編曲されていなかったところを編曲し、グラズノフはボロディンに残された断片を使い、第3幕を構成し作曲し、ボロディンが何度かピアノで弾いた序曲を思い出しながら再構成と作曲をした。」と書かれている。 初演は1890年11月4日、サンクトペテルブルクのマリンスキー劇場にて行われた。アメリカでの初演は1915年12月30日、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にて行われた。日本での初演は1965年のスラブ歌劇(当時ユーゴスラヴィア(現クロアチア)ザグレブ国立劇場合唱団、管弦楽はNHK交響楽団)によるもの。 このオペラの中の序曲、「ポロヴェツ人(韃靼人)の踊り」(第2幕)は有名で、広くオーケストラ・コンサートなどでも演奏されている。また、この2曲に「ポロヴェツ人(韃靼人)の娘たちの踊り」「ポロヴェツ人(韃靼人)の行進」を加えて組曲のようにも扱われる。.

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イーゴリ遠征物語

ヴィクトル・ヴァスネツォフ画 『ポロヴェツとの戦いに敗れたイーゴリ公』 『イーゴリ遠征物語』(イーゴリえんせいものがたり、古東スラヴ語:Слово о пълку Игоревѣ, Игоря сыня Святъславля внука Ольгова)は、12世紀末キエフ・ルーシの文学作品。 日本語訳題には『イーゴリ遠征物語』の他『イーゴリ軍記』(神西清訳)、『イーゴリ遠征譚』などがある。.

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イトラリ

イトラリ(Итлар、? - 1095年)は、ポロヴェツ族のハンである。 1095年、イトラリはポロヴェツのハン・キタンと共に、キエフ大公ウラジーミル・モノマフと和平条約を結んだ。その際、当時の習慣に従って、モノマフの子のスヴャトスラフを人質として受け取った、一方、モノマフの配下のラチボル(ru)とその子のオリベグらは、ポロヴェツ族を殺すようモノマフを説得した。モノマフは和平の誓いを破ることを躊躇したが、ラジボルらは、ポロヴェツ族こそ頻繁に約束を破るため、イトラリとキタンは条約違反を画策するはずだ、と説いた。また、公に罪はなく、ポロヴェツ族によって全てのルーシの地を失い、キリスト教徒の血が流されるという狡猾な行為の前に、彼らの殺害を実行すべきである、という主旨の提言をなした。 結局、和平条約を信の置けるものとみなしたポロヴェツ族の失策を利用され、ルーシとトルク族の部隊の夜襲によってキタンは殺害された。イトラリは、ペレヤスラヴリに客として招かれ滞在していた屋敷の天井に開けられた穴から、オリベグが射た矢によって殺された。戦闘に勝利したルーシの部隊によって、ポロヴェツ族の家畜・家財・捕虜が戦利品として奪われた。.

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イェスン・テムル

イェスン・テムル(モンゴル語:、Yesün-Temür、漢字:也孫鉄木兒、 1293年11月28日 - 1328年8月15日)は、モンゴル帝国(元)の第10代皇帝(大ハーン)。『集史』などのペルシア語表記では ييسون تيمور Yīsūn Tīmūr。漢風の廟号はなく、一般に即位当時の元号を用いて泰定帝と呼ばれる。 伝統的な遊牧生活を重んじる人物であったが、しばしば研究者からは暗愚な人物と評価される。.

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イシュトヴァーン5世

イシュトヴァーン5世(ハンガリー語:V.

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イジャスラフ1世

イジャスラフ1世(Изѧславъ, 1024年 - 1078年10月3日)は、キエフ大公(在位:1054年 - 1068年、1069年 - 1073年、1076年 - 1078年)。父はヤロスラフ1世、母はスウェーデン王オーロフ娘インゲゲルド。 1024年にキエフに生まれる。1054年に父を継いで大公になり、弟スヴャトスラフ(後のスヴャトスラフ2世)、フセヴォロド(後のフセヴォロド1世)とともに大公国を治める。1068年にはポロツク公フセスラフにより一時的にキエフ(及び大公位)を奪われる。1073年以降、2人の弟と不和に陥り、大公位はスヴャトスラフに移るが、彼の死後、イジャスラフはフセヴォロドと和解し、3度目の大公位につく。1078年に、フセヴォロドと合同で、スヴャトスラフの子オレークと戦うが、そこで戦死する。 ポーランド王カジミェシュ1世の娘ゲルトルダ(ru)との間に3人の息子を得た。ポロツク公ムスチスラフ、トゥーロフ公ヤロポルク、そして後にキエフ大公になるスヴャトポルク(スヴャトポルク2世)である。娘のエウプラクシアは、ポーランド王ボレスワフ2世の息子メチスワフ(ru)に嫁いだ。 Category:キエフ大公 Category:イジャスラフ家トゥーロフ系 Category:リューリク朝 Category:1024年生 Category:1078年没 Category:キエフ出身の人物.

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イジャスラフ2世

イジャスラフ2世(Изяслав II Мстиславич, 1097年 - 1154年)はキエフ大公(在位:1146年 - 1149年、1150年、1150年 - 1154年)。父はムスチスラフ1世、母はスウェーデン王女クリスティーナ。.

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イジャスラフ3世

イジャスラフ3世(古ルーシ語:Изѧславъ III Двд҃вичъ、? - 1162年)はキエフ大公(在位:1154年 - 1155年。キエフ大公スヴャトスラフ2世の孫で、ダヴィドの四男にあたる。母はフェオドシア某。キエフ大公フセヴォロド2世の従兄弟。 モノマフ一門とチェルニゴフ一門との大公位争いのまっただ中で1154年にイジャスラフ2世が死去する。彼を継いだロスチスラフ1世をイジャスラフ(3世)はキエフ大公として認めなかった。ロスチスラフがイジャスラフにその承認を求めにチェルニゴフに来た際にもイジャスラフはこれを拒絶した。その結果、両者は軍事衝突にいたり、イジャスラフがロスチスラフを打ち破る。キエフ市民はイジャスラフを公として迎え入れる。 しかし、北方のユーリー・ドルゴルーキーが彼に抗議し、イジャスラフはキエフを捨て、チェルニゴフに戻った。キエフはユーリーにより占領された。 イジャスラフは再度キエフ大公を目指すが、ユーリーの息子グレプと自分の娘との結婚により、両者の間に同盟関係が生まれた。 だが、1157年にユーリーが死去すると、ポーロヴェツ人の襲撃を恐れるキエフ市民により、再度キエフに招かれ、大公位に就いた。しかし、これを快く思わないガーリチのヤロスラフ公は1159年にイジャスラフを破り、その結果イジャスラフは逃亡した。 その後、再度、キエフを欲し、1161年にこれを征服し、再度大公位に就く。しかし、前大公ロスチスラフ1世との和平交渉に失敗し、ロスチスラフ軍の増強を前にして逃亡する。しかし追っ手により殺害された。 Category:キエフ大公 Category:チェルニゴフ公 Category:ダヴィド家 Category:リューリク朝 Category:1162年没.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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イタリア人

イタリア人(イタリアじん、italiani)は.

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ウラジーミル (ウラジーミル州)

ウラジーミル(ヴラジーミル;ロシア語:Владимирヴラヂーミル;ラテン文字表記の例:Vladimir)は、ロシアの都市である。ヴラジーミル州の州都で、ヴォルガ川の支流クリャージマ川の河畔に建つ。モスクワの東200kmに位置し、モスクワとニジニ・ノヴゴロドとを結ぶ高速道路A7の沿線。ウラジーミル駅はモスクワからウラジオストクの間を結ぶ鉄道の途中の駅で、モスクワからは電車で約3時間ほどかかる。またセミャージノ空港を擁し、冷戦時代にはドブリンスコエ空軍基地があった。人口は2002年国勢調査で315,954人、1989年ソ連国勢調査では349,702人だった。 ロシアの古都の一つで、ウラジーミル・スーズダリ大公国の首都として栄えた。いわゆる「黄金の環」を構成する都市の一つ。1108年頃にキエフ大公ウラジーミル・モノマフにより要塞として建設されたといわれる。この要塞は、ロストフ・スーズダリ公国(ウラジーミル・スーズダリ大公国の前身)の南東を守るものであった。13世紀には北東ロシアの中心になったが、その後のモスクワの興隆と共に地方都市的存在になってゆき現在に至っている。 名所名跡も多い。1992年、ウラジーミル市の聖堂群は近郊のスーズダリ市に残る聖堂群とともに、「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」として、ユネスコの世界遺産に登録された。.

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ウラジーミル2世モノマフ

ウラジーミル2世モノマフまたヴォロディームィル2世モノマフ(1053年 - 1125年5月19日)は、キエフ大公(在位:1113年 - 1125年)。洗礼名はヴァシーリー。.

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ウラジーミル4世

ウラジーミル4世(ウラジーミル・リュリコヴィチ)(Владимир Рюрикович、Володимир Рюрикович、1187年 - 1239年3月31日)は、キエフ大公リューリクの子である。ペレヤスラヴリ公:1206年 - 1213年、スモレンスク公:1214年 - 1219年、オーヴルチ公:1219年 - 1223年、1235年 - 1239年、キエフ大公:1223年 - 1235年、1235年 - 1236年。.

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ウラジーミル・ムスチスラヴィチ (キエフ大公)

ウラジーミル・ムスチスラヴィチ(ロシア語表記:Владимир III Мстиславич,1132年 - 1173年)は、ドロゴブージ公(在位1150年 - 1154年,1170年 - 1171年)、ウラジーミル・ヴォリンスキー公(在位1154年 - 1157年)、スルツク(1162年)、トリポリエ公(在位1162年 - 1168年)、キエフ大公(在位1171年)。ムスチスラフ1世の息子の一人。治世が余りに短かったため、しばしばキエフの統治者リストから漏れることがある。.

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ウラジーミル・ヴォロダレヴィチ

ウラジーミル(ウラジミルコ)・ヴォロダレヴィチ(Володимир (Володимирко) Володарович、1104年 - 1153年)はヴォロダリ・ロスチスラヴィチの次男である。また、ウラジーミルは南西ルーシの諸公国(テレボヴリ公国、ペレムィシュリ公国、ズヴェニゴロド公国をガーリチ公国の元に統合し、ガーリチ・ロスチスラヴィチ家(ru)によるガーリチ公国支配を確立した。 ズヴェニゴロド公:1124年 - 1128年、ペレムィシュリ公:1128年 - 1141年、テレボヴリ公・ガーリチ公:1141年 - 1153年。.

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ウラジーミル・ダヴィドヴィチ

ウラジーミル・ダヴィドヴィチ(Володимир Давидович、? - 1151年5月12日)は12世紀半ばのチェルニゴフ公である(在位:1139年 - 1151年)。チェルニゴフ公ダヴィドの子。.

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ウラジーミル・イーゴレヴィチ

ウラジーミル・イーゴレヴィチ(Владимир Игоревич、1170年10月8日 - 1211年以降)は、ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリと妻エフロシニヤとの間の子である。プチヴリ公:1185年以前 - 1198年、ノヴゴロド・セヴェルスキー公:1198年 - 1206年、ガーリチ公:1206年 - 1208年、1210年 - 1211年。聖名ピョートル。.

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ウラジーミル・グレボヴィチ (ペレヤスラヴリ公)

ウラジーミル・グレボヴィチ(Владимир Глебович、1157年 - 1187年4月18日)はペレヤスラヴリ公・キエフ大公グレプの子である。ペレヤスラヴリ公:1169年 - 1187年。.

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ウクライナ

ウクライナ(Україна、)は、東ヨーロッパの国。東にロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。 16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。 キエフ大公国が13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸侯はリトアニア大公国やポーランド王国に属していた。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサックの国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入った。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦を赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。 歴史的・文化的には中央・東ヨーロッパの国々との関係が深い。 また本来の「ルーシ」「ロシア」とは、現在のロシア連邦よりもウクライナを指した。.

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ウグラ川

ウグラ川(Угра, Ugra)は、ロシア西部の河川で、オカ川の左支流である。 スモレンスク州南東部のスモレンスク高地(中央ロシア高地の北部)に発し、スモレンスク州からカルーガ州へと東へ339キロメートルにわたり流れ、カルーガの西のオカ川が北から東へ向きを変える地点でオカ川に合流する。流域面積は15,700平方キロメートルに達する。 流量は季節によって異なる。冬は流量も少なく、11月後半から3月末までは凍結する。3月初旬から5月までの間は雪解け水により洪水を起こし、水面は冬の間よりも最大11メートル高くなる。この時期の流量は、オカ川合流点から35キロメートル上流では1秒当り90平方メートルになる。夏から秋にかけては、時折降る大雨で水かさが増すくらいで、流量は少なくなる。.

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ウズベク

ウズベク(O‘zbek, Узбек, Uzbek)は、西トルキスタン南部、ホラズム地方からフェルガナ地方にかけてに広がって居住し、中央アジアで最大の人口を抱えるテュルク系民族で、容貌的にはモンゴロイドを基本としてコーカソイドが濃厚に入り混じっている。 民族国家として、中央アジアでもっとも人口の集中したマー・ワラー・アンナフル地方の大半を領土とするウズベキスタン共和国を持つほか、中国の新疆ウイグル自治区とアフガニスタンの北部マザーリシャリーフ周辺にもそれぞれ数十万人が住む。.

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エル・テムル

エル・テムル(El-Temür, ? - 1333年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は燕鉄木児。キプチャク親衛軍を率いる軍閥で、1328年の内乱に勝利して大ハーンを擁し、独裁権力をふるった。 もとモンゴル帝国によって征服されたキプチャクの部族長の家柄で、祖父トクトガはモンケに従って中国に移り、モンケの弟クビライに仕えて諸戦役に活躍した。父のチョンウルもクビライの曾孫カイシャンが王族時代にカイシャンを助けてオゴデイ家のカイドゥを破るのに大きな功があったが、このとき少年だったエル・テムルも父に従ってカイシャンの幕下にあってカイシャンの寵愛を受け、カイシャンが即位すると知宣徽院事を経て左親軍都指揮使に昇進した。その後もキプチャク軍閥の司令官として軍中に重きをなし、泰定帝イェスン・テムルのとき軍政機関枢密院の要職である僉枢密院事にのぼる。 1328年夏にイェスン・テムルが夏の都上都で急死したとき、エル・テムルは子飼いのキプチャク軍団とともに冬の都大都に駐留して留守を守っていた。もともとカイシャン恩顧の将軍であって、イェスン・テムルの側近ダウラト・シャーらの専制をこころよく思っていなかったエル・テムルは、この機会をとらえてカイシャンの遺児を即位させることをもくろみ、反乱を起こして大都の政府機関を接収した。エル・テムルはその軍事力によって大都駐留の軍隊と官僚を味方につけると、カイシャンの次男トク・テムルを抑留先の江陵から迎えいれ、遠方にいる兄のコシラの到着を待ってハーン位を譲り渡そうと主張するトク・テムルを説得してハーンに即位させた。エル・テムルは擁立の功をもって開府儀同三司、上柱国、録軍国重事、中書右丞相、監修国史、知枢密院事に任ぜられ、さらに太平王の王号まで授けられてトク・テムルの政府の最高実力者となる。 時にダウラト・シャーらは上都に留まったままイェスン・テムルの遺児アリギバを即位させたので、元はふたつの首都を南北に分けた内戦となった。しかしエル・テムルが大都に進軍してきた上都側の軍を迎撃して打ち破ると遼東にいた王族が大都側について上都を包囲し、ついにアリギバとダウラト・シャーを降伏させた。大都側の勝利によって中国各地の諸軍はトク・テムルとエル・テムルに従ったが、今度はアルタイ山脈の西側という遠方にいたトク・テムルの兄コシラがモンゴル高原に入り、旧都カラコルムで高原の諸王族・有力者の支持を取り付けてハーン位を請求した。 1329年4月、エル・テムルは自ら高原に赴いてコシラに謁し、玉璽を奉じてハーンに推戴した。コシラは政権奪取の功を賞してエル・テムルに軍権の最高官である太師の称号を贈り、トク・テムルを皇太子としたが、8月に上都の郊外で兄弟会見した直後に急死した。コシラの側近たちに政権を奪われることを恐れたエル・テムルが毒殺したと言われる。皇太子トク・テムルはすぐさまハーンに復位し、コシラの側近たちはエル・テムルによって追放、処分された。 トク・テムルの朝廷のもと、エル・テムルはさまざまな特権を与えられ、ハーンをまったくの傀儡とする権力者として君臨した。エル・テムルはイェスン・テムルの未亡人を自ら娶り、トク・テムル・ハーンの長男エル・テグスを自邸で養育し、かわりにエル・テムルの子がハーンの養子として宮廷で育てられた。また、コシラの長男トゴン・テムルを実はコシラの子ではないと称し、高麗に追放した。 1332年、トク・テムルは29歳の若さで死亡するにあたり、兄コシラの子を即位させるように遺言した。しかしそれにもかかわらず、エル・テムルは自身の養い子であるエル・テグスを即位させようと試み、トク・テムルの未亡人でエル・テグスの母であるブダシリにエル・テグス擁立を提議した。しかし、ブダシリは亡夫の遺志を尊重してコシラの子を立てることを要求したので、エル・テムルはコシラの次男でわずか7歳のイリンジバルを即位させ、自らはその摂政となったが、幼帝イリンジバルは即位からわずか43日後に亡くなった。 ここにおいてエル・テムルは再びエル・テグス擁立をブダシリに要請したが、ブダシリは我が子が幼いことを理由に断ったので、エル・テムルはやむなく広西に流されていたイリンジバルの兄トゴン・テムルを呼び戻すことに同意した。トゴン・テムルが大都に至ると、エル・テムルはこれを出迎えて大都まで馬を並べて歩みながら今後のことを話したが、トゴン・テムルはエル・テムルを恐れて黙り込んだままだった。これを見たエル・テムルはトゴン・テムルが思い通りにならないことを恐れ、即位の式を先延ばしにしたが、その3か月後の1333年4月に病死した。 エル・テムルの死後も、その弟サトン、次いで子のタンキシが中書左丞相となり、また娘のダナシリはトゴン・テムル・ハーンの皇后となってエル・テムル家の権勢は続いた。しかし、行政機関中書省の長官である中書右丞相にはエル・テムルに協力した軍閥バヤンが就任し、バヤンが政権の最高実力者として振舞っていた。1335年、左丞相タンキシは右丞相バヤンから政権を取り戻そうとして反乱を起こしたが、バヤンによって鎮圧された。タンキシをはじめエル・テムルの一門は皇后ダナシリを含めてすべて殺害され、元で権勢をふるったエル・テムル家のキプチャク軍閥はエル・テムルの死からわずか2年後に滅亡した。 Category:元代の人物 Category:キプチャク Category:生年不明 Category:1333年没.

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エジプト

プト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、جمهورية مصر العربية)、通称エジプトは、中東・アフリカの共和国。首都はカイロ。 西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。.

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オレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)

レグ・スヴャトスラヴィチ(Олег Святославич、1053年頃 - 1115年8月1日)はチェルニゴフ公・キエフ大公スヴャトスラフの四男である。母はスヴャトスラフの最初の妻キキリヤ。ヴォルィーニ公:1073年 - 1078年、トムタラカニ公:1083年 - 1094年、チェルニゴフ公:1094年 - 1097年、ノヴゴロド・セヴェルスキー公:1097年 - 1115年。.

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オトロク (ポロヴェツ族)

トロク(Отрок)、またはアトラク(Атрак)は、12世紀前半のポロヴェツ族のハンである。シャルカンの子、コンチャークの父にあたる。兄弟にはスィルチャンがいる。.

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オトロク (階級)

トロクまたはパスィノク、デトスキー(Отрок、またはпасынок 、детский)は、中世ルーシの軍事的役職・階級の1つであるドルジーナのうちの下位層もしくは若年層を指す言葉である。日本語文献では下僕・下級従士・少年の従士団員などと訳され、西欧のペイジに類似する。ドルジーナの中で最も低い階級に位置した。 一般的に、ドルジーナの下位層は公(クニャージ)や貴族層(ボヤーレ)、あるいは上位のドルジーナの子弟から構成された。オトロクは、それら若年の者がその任につき、宮廷において低位の任務に就いた。ただし例外的に、上位層のドルジーナから構成される評議会にも招集されることがあった。成人のオトロクはグリヂ(ru)とも呼ばれた。また、一定の功績を挙げるか、クニャージの直営地においては、ドゥムツィ(ru)と同等の地位に昇格することができた。.

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オゴデイ・ハン国

デイ・ハン国とは、中央アジアのエミル川流域を中心とする地域(現在の中国新疆ウイグル自治区北部ジュンガリア地方)に13世紀前半から1306年まで一貫して存続していたとかつて想定されていたモンゴル帝国の分枝政権。国名はチンギス・ハーンの三男で、モンゴル帝国の第2代ハーンとなったオゴデイ(オゴタイ)の名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。.

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オストログ (要塞)

トログ(Острог アストローク)とは、中世ルーシ・近世ロシアにおいて、一時的または恒久的な殖民拠点に築かれた要塞建築を指す言葉である。 (留意事項):2単語以上の用語の訳語のうち、「#」の付いたものはロシア語の直訳であることに留意されたし。.

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オセット人

北オセチアと南オセチア オセット人(オセットじん、Осетин; Osetin)は、カフカース地方の山岳地帯に住むイラン系民族。主な居住地域はカフカース山脈をまたいで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国と(2015年4月まで日本国政府が「グルジア」の外名で呼称していた)ジョージア国の南オセチア自治州に分かれている。総人口はおよそ60万人。オセチア人とも呼ばれる。 独自の言語としてインド・ヨーロッパ語族のイラン語群に属するオセット語が使用されている。 主な宗教はキリスト教で70%以上が正教会の信徒であるが、イスラム教を信仰する者も15%ほどいる。 古代東ヨーロッパで活動した民族アラン人の後裔と考えられており、中世にはアス人と呼ばれていた。民族名のオセットは、アス人(As)をオウス(Ovs)と呼んでいたグルジア人が、アス人の居住地域を指してOvsetiと言っていたのがロシア語に取り入れられて広まった他称である。もっとも、自称としてはアスの名は失われ、オセット語による自称はイロン(Iron)あるいはディゴル(Digor)、ディゴロン(Digoron)である。.

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カラーウーン

ラーウーン(アラビア語: قلاوون / Qalāwūn; الملك المنصور سيف الدين قلاوون الصالحي الألفي al-Malik al-Manṣūr Sayf al-Dīn Qalāwūn al-Ṣālihī al-Alfī, 1220年頃長谷部「カラーウーン」『岩波イスラーム辞典』、285頁 - 1290年11月10日ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、267頁大原『エジプト マムルーク王朝』、46頁)は、エジプトのマムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)の第8代スルターン(在位:1279年 - 1290年)。即位名により略してマンスール・カラーウーン(الملك المنصور قلاوونal-Malik al-Manṣār Qalāwūn)とも呼ばれる。 カラーウーンより前のマムルーク朝ではマムルーク(軍人奴隷)出身の有力者がスルターンに就くことが多かったが、カラーウーン以降は原則的に彼の子孫がマムルーク朝のスルターン位に就くことになる。マムルーク朝の歴代スルターンの中で4代後の子孫までスルターン位を世襲したのはカラーウーンのみであり、バフリー・マムルーク朝最後のスルターン・サーリフ・ハーッジーはカラーウーンの曾孫にあたる。 カラーウーンは美しい容姿の屈強な体格の持ち主で伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、200頁、アラビア語を話すことは少なかったと伝えられている。.

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カルカ河畔の戦い

ルカ河畔の戦い(カルカかはんのたたかい)は、1223年にジェベ、スブタイ両将軍率いるモンゴル軍とポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行われた戦い。連合軍は数で上回っていたにもかかわらずモンゴル軍に惨敗した。.

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カイドゥ

イドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: 転写: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。.

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カイシャン

イシャン(モンゴル語:、Qayšan、漢字:海山、1281年8月4日 - 1311年1月27日)は、モンゴル帝国(元)の第7代皇帝(大ハーン)。『集史』および『ヴァッサーフ史』『選史』などのペルシア語資料の表記では、ハイシャン(خايشانك Khāīshān, خيشان Khayshān)など。.

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カザン・ハン国

ン・ハン国 (カザン・ハンこく、Qazan xanlığı、Казанское ханство (Kazanskoe khanstvo)) は、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川中流域を支配したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつで、国名は首都はカザンに置いたことに由来する小松「カザン・ハーン国」『ロシアを知る事典』、134頁。.

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カザフ

フ(Қазақ, Qazaq, Казахи, Kazakhs, 哈萨克族)は、中央アジア西北部のカザフステップに広がって居住するテュルク系民族。カザフスタンにおよそ800万人が住んで同国人口の半数を占める他、中国の新疆ウイグル自治区北西部に約130万人が住む。新疆では哈薩克族(ハザク族、カザフ族)と呼ばれ、中国の55少数民族のひとつに数えられており、イリ・カザフ自治州はカザフ人の自治州となっている。その他、アクサイ・カザフ族自治県、バルクル・カザフ自治県、モリ・カザフ自治県といった自治県が存在する。モンゴルでは最西部のアルタイ山脈周辺に分布し、バヤン・ウルギー県はカザフ人の自治州となっている。 カザフ人のほとんどは元来遊牧民で、20世紀初頭までは人口のほとんどが遊牧生活を行っていたが、ソ連で1930年代に大規模な定住化が政策として行われた結果、現在は都市民・農耕民となっている。しかし、定住化と近代化を経てもカザフ人のジュズ、部族、氏族に対する帰属意識はよく残っている。.

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カザフステップ

フステップもしくはキルギスステップとは、カザフスタン北部よりロシア南部までの広い草原地帯の事で、ポントス・カスピ海草原の東側、ドルビルジン・バレー平原の西側に存在し、ユーラシア・ステップの一部である草原である。カザフ草原、カザーフ草原とも。同時に中央アジア北部のことを漠然とさす。.

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カザフスタン

フスタン共和国(カザフスタンきょうわこく、)、通称カザフスタンは、中央アジアの共和制国家である。北をロシア連邦、東に中華人民共和国、南にキルギス、ウズベキスタン、西南をトルクメニスタンとそれぞれ国境を接する内陸国。カスピ海、アラル海に面している。首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ。.

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キルギス

ルギス共和国(キルギスきょうわこく)、通称キルギスは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和制国家である。首都はビシュケク(旧名フルンゼ)。かつての正式国名はキルギスタンであり、改称以降も別称として公式に認められている。 北から時計回りにカザフスタン、中華人民共和国、タジキスタン、ウズベキスタンと国境を接する。ソビエト連邦から独立したウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンとともに中央アジアを形成し、独立国家共同体 (CIS) 加盟国である。旧ソ連を構成していた中央アジア5カ国で「最も民主的」といわれるキルギスでは、2005年と2010年に野党勝利による政変があった。しかし、キルギスの大統領たちは政権交代による第一野党勝利後にそれぞれ国外に亡命している。.

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キルギス人

ルギス人(Кыргыз、Kyrgyz)は、主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族。自称はクルグズ。キルギス共和国の約260万人のほか、周辺の旧ソビエト連邦諸国や中国の新疆ウイグル自治区などにも数十万人が住み、中国55少数民族のひとつに数えられる。.

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キプチャク

『ルーシ年代記』で見られるポロヴェッツ人の一家。 「バーバ」と呼ばれるクマン人が立てた石像(ドニプロペトロウシク、ウクライナ)。 キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料ではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンもしくはコマンと記された。現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれるが、キプチャク草原を支配したモンゴルのジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、このためである。.

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キプチャク草原

プチャク(欽察)草原の範囲(カザフ語) キプチャク草原(キプチャクそうげん)は、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの歴史的呼称。ペルシア語のダシュティ・キプチャーク(دشت قپچاق、Dasht-i Qipchāq)の訳語で、この地域に11世紀から13世紀にかけてテュルク系遊牧民キプチャク(別名クマン、コマン、ポロヴェツ)が活動したことからこのように呼ばれるようになった。ラテン語の記録では「クマニア」(Cumania)・「コマニア」、古東スラヴ語・ルーシ語の記録では「ポロヴェツ草原」(Половецкая степь)と呼ばれる。中国語の記録では欽察草原(きんさつそうげん)と呼ばれる。.

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キエフ

フ(Київ キーイウ、Киев )は、ウクライナの首都。ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である。特別自治都市。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。中世にはキエフ・ルーシの都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けた。キエフ市内の人口はおよそ279万人であるが、キエフ首都圏の人口はおよそ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つである。都内にある聖ソフィア大聖堂とキエフ洞窟大修道院は世界遺産に登録されている。.

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キエフ大公

フ・ルーシの大公たちの印形あるいは紋。ルーシの支配者であったリューリク朝は三叉戟を用いたシンボルを家紋にしていた。 キエフ大公(ウクライナ語:Великий князь Київський)は、9世紀から13世紀にかけてキエフ大公国とその首都キエフを治める君主の称号である。 (本頁の一覧にはキエフ公も含む。).

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キエフ大公国

フ大公国(キエフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。.

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キエフ年代記

フ年代記(キエフねんだいき、Киевская летопись)は、キエフ・ルーシ記の出来事を記したレートピシ(ルーシの年代記)である。単独の書籍としては現存せず、後世に編纂された『イパーチー年代記』の中に、その写しを見ることができるЕрёмин Е. С.67。1118 - 1200年の出来事を記しており、『イパーチー年代記』の中において、『原初年代記』の後続、『ガーリチ・ヴォルィーニ年代記』に先行する期間を記述している。 キエフ年代記は1200年頃、キエフ・ヴィードゥビチ修道院において、典院モイセイによって、既存の年代記集成に基づいて編纂された。ただし編纂の際、記述の省略や加筆が行われたこと、また、出来事に対する評価や文体の違いを根拠とする他の記述者の関与も指摘されている。編年体で構成されており、都市キエフとキエフの地(キエフスカヤ・ゼムリャー。キエフ公国領に相当する)の歴史や、キエフの領有権(キエフ大公位)をめぐるモノマフ家(ru)とオレグ家(ru)の権力闘争を記した上で、ルーシ外からの征服者たちに対する団結を呼びかけることを主眼として記述されている。 また、キエフとその諸公に関する記述のみに限定されず、ノヴゴロド、ヴォルガ・ブルガールや、現ドイツ、チェコ、ポーランド、ハンガリーに関する記述、また1174年にウラジーミル大公アンドレイー・ボゴリュブスキー(ru)が謀殺された件、1185年にノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリがポロヴェツ族への遠征を行った件などの、個々の人物の記録も記載されている。.

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キエフ・ペチェールシク大修道院

フ・ペチェールシク大修道院(ウクライナ語:Києво-Печерська лавра;意訳:「キエフ洞窟大修道院」)はウクライナの首都、キエフのペチェールシク地区に位置するキリスト教の大修道院である。.

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クバン川

クバン川(クラスノダール) クバン川 クバン川(クバーニ川;Кубаньクバーニ)は、ロシア、北カフカスを流れる川である。長さ870km、流域面積57,900km2。 カフカス山脈のエルブルス山付近に源を発し、北に流れてから西に向きをかえてタマン半島北岸のテムリュークでアゾフ海に注ぐ。川の大部分は航行可能である。流域には、クバン・コサックの根拠地が置かれた。 流域の都市はクラスノダール、チェルケスクなどがある。流域は、クバン地方、クバーニ(クバン)と呼ばれる。 クバン川流路 クバン川流域 Category:ロシアの河川 Category:アジアの河川.

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クリミア半島

リミア半島(クリミアはんとう)、または単にクリミア(Crimea, Крым, Крим, Qırım)は、黒海の北岸にある半島。面積は2万6844km2、2014年1月1日時点の人口は235万3100人。 1991年の独立以来ウクライナに属していたが、2014年のクリミア危機でロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われて以降、帰属についてロシアとウクライナの間で係争状態にある。ロシアは自国に編入したと主張し、実効支配しているが、ウクライナではクリミア編入はウクライナ憲法に違反しているとして現在もウクライナの領土の一部であると主張し、日本を含め国際社会の多くが支持している。.

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クリミア・ハン国

リミア・ハン国(クリム・ハン国とも。Qırım Hanlığı, Кримське ханство, Крымское ханство、1441年頃 - 1783年)は、ジョチ・ウルスの後継国家のひとつで、クリミア半島を中心に存在した国家。首都はバフチサライ。 クリミア・ハン国の支配下で、クリミア半島にはテュルク諸語の一種を話すムスリム(イスラム教徒)の住民が多く居住するようになった。彼らの子孫が、現在クリミアで少数民族となっているクリミア・タタール人である。.

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クン・エルジェーベト

ン・エルジェーベト(Kun Erzsébet、1239年頃 - 1290年?)は、ハンガリー王イシュトヴァーン5世の妃である。子のラースロー4世が未成年だった1272年から1277年には摂政を務めた。クンはクマン族の意味で、エルジェーベトは洗礼名である。.

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クーデター

ーデター()は、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う。 フランス語で「国家の一撃」もしくは「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ) 、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup(クー)」と表記されることが多い。 社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦をそれぞれ参照されたい。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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クニャージ

ニャージ(各国語表記については#語源と派生語参照)とは、9-16世紀の君主制国家・19世紀-20世紀の国家(共にスラヴ人国家が多数であるが、非スラヴ人国家も含む)の君主が冠した称号である。また、高位の貴族に与えられる最高位の称号であった時期もある。西欧・南欧のプリンス系称号(例・英語:prince)、デューク系称号(例・英語:duke)、中欧(旧神聖ローマ帝国領)のフュルスト系称号(例・ドイツ語:Fürst)、北欧のコヌング系称号(例・古ノルド語:konungr)と同等視されている。日本語では「公」と訳される。 (留意事項):本頁の「クニャージ」はкнязь からの転写であり、他の言語に拠れば別の表記となるが、便宜上「クニャージ」で統一している。.

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グレプ (キエフ大公)

レプ(Глеб Ю́рьевич, ? - 1171年1月20日)は、キエフ大公。在位:1169年-1171年。父はユーリー・ドルゴルーキー。妻はキエフ大公イジャスラフ3世の娘。 ユーリー・ドルゴルーキーの第七子として生まれ、1147年の年代記記事に初めて登場する。 1149年に父ユーリーが大公位に就くと、彼はカネフを与えられる。 1151年にはペレヤスラヴリを獲得する。 1154年にはキエフを包囲するがこれに失敗する。 1160年にはペレヤスラヴリに援助を求めてきた岳父イジャスラフ3世を追い払う。 1168年には他の公と共にポーロヴェツ(クマン人)に遠征し、彼らを打ち破る。 兄アンドレイ・ボゴリュプスキーと共に、1169年にキエフを攻め、その陥落後に、兄により、キエフ大公位につけられる。 1170年には、ムスチスラフ(2世)によるキエフへの行軍を知り、キエフを捨ててペレヤスラヴリに退却、ムスチスラフの撤退後には再度キエフの大公位につき、そのまま1171年に死去。 彼の死後、キエフをドロゴブシ公ウラジーミルが短期間占領する。.

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グザーク

ーク(Гзак)、またはグザー(Гза)は、ドン川のポロヴェツ族連合のハンである。ベルクの子。 『原初年代記』(イパーチー写本)の1169年には、グザークがオレグ一門(ru)と戦い敗北したことについて記述されている。1185年にはコンチャークと同盟し、ルーシの公イーゴリとの戦いに参加した。この戦いで、グザークの子のロマンはイーゴリの弟フセヴォロド・スヴャトスラヴィチを捕らえた。イーゴリとの戦いに勝利した後、グザークはプチーヴリへの襲撃を行った。 『イーゴリ軍記』において、グザークは概してコンチャークと共に言及され、狼にたとえられている。また、『イーゴリ軍記』の終末部においては、婚姻によりイーゴリをつなぎとめようとするコンチャークに対し、グザークは婚姻によってポロヴェツが滅ぶことを憂慮する様が描かれている。.

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コチャン (ポロヴェツ族)

チャン(コチャン・ストエヴィチ、Котян (Котян Сутоевич))、またはケテニュ(Kötöny、? - 1240年頃)は、モンゴルのルーシ侵攻に際し、ルーシ・ポロヴェツ連合をなしたポロヴェツ族のハンである。.

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コンチャーク

ンチャーク(Кончак、? - 1203年以降)は、ドン川とドニエプル川流域のポロヴェツ族を統帥したハン(汗)。シャルカンの孫、オトロクの子。ポロヴェツ族を率いてルーシ諸公の内紛に干渉し、キエフやペレヤスラヴリを襲撃した。.

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コンギラト

ンギラト(Qonggirad)とは、モンゴル高原東部に存在したモンゴル系遊牧民族である。モンゴル帝国-元朝時代を通じてチンギス・カン家に多くの后妃(ハトゥン)を輩出しており、最も有力な姻族として繁栄した。「翁吉剌」という表記からオンギラト(ウンギラト)、現代モンゴル語発音からホンギラト(フンギラト)と記されることも多い。.

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コーカサス

ーカサス山脈 コーカサス()、またはカフカース、カフカス( (ラテン文字転写例: Kavkaz)、、、)は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索。 英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも (Kaukasos; カウカーソス)に由来する。 「カウカーソス」自体は、一説に、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)に由来するとされる。 コーカサス山脈を南北の境界として北コーカサスと南コーカサス(ザカフカジエ、ザカフカース、トランスカフカス、外カフカース)に分かれ、北コーカサスはロシア連邦領の北カフカース連邦管区および南部連邦管区に属する諸共和国となっており、南コーカサスは旧ソ連から独立した3共和国からなる。北コーカサス(ロシア)はヨーロッパに区分され、南コーカサスは西アジアに区分されることもあるがヨーロッパに区分されることもある。 全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。 ケフィア発祥の地で、しばしば、この地方の人々は、ケフィアを飲んでいるために長寿であると喧伝されるが、統計的に見て、この地方の人々が長寿であるという科学的根拠はない。.

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ザルブ

ルブ(Заруб)は12 - 13世紀のキエフ・ルーシの都市である。都市は現存せず、帝政ロシア期のキエフ県カネフ郡のザルビンツィ村Заруб // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона(ブロックハウス・エフロン百科事典)、現在のウクライナ・チェルカースィ州カニウ地区(ru)のトラフテムィリウ村(ru)内に位置していたとされている。.

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シャルカン

ャルカン(Шарукан、生没年不明)は、11世紀後半から12世紀初頭にかけてポロヴェツ族を率いたハン(汗)である。キエフ大公などルーシの諸公と争った。 1068年、アリタ川の戦いにおいて、イジャスラフ1世を長とするルーシ諸公の連合軍を破った。ポロヴェツ軍はその後の戦いでルーシ諸公軍に敗れるが、『ノヴゴロド第一年代記』(en)ではシャルカンがスヴャトスラフ2世によって捕虜になったと言及しているのに対し、『原初年代記』(ラヴレンチー写本所収分)では具体的なハンの名は記述されていない。 1107年の秋、ポロヴェツ族のハン・ボニャークと共にペレヤスラヴリ公国の都市を襲撃した。同年、スヴャトスラフ2世は諸公を集め、ポロヴェツ族に対し報復の遠征を行った。宿営地を奇襲されたポロヴェツ軍は敗れ、シャルカンはかろうじて脱出した。年代記はこれを「大いなる勝利」と記している。 シャルカンにはスィルチャンとオトロク(アトラクとも)という2人の息子がいたが、彼らの領土は1111年(サリニツァ川の戦い)、1116年にルーシ諸公の遠征を受けて破壊された。なお、11-13世紀において、ポロヴェツの領地はシャルカンの名を取ってシャルカニとも呼ばれていた。.

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シャイバーニー朝

ャイバーニー朝(シャイバーニーちょう、、、)は、15世紀 - 16世紀にかけて中央アジアに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスの系譜を引く遊牧集団ウズベクによって建てられたため、ウズベク・ハン国、ウズベク・ウルスとも呼ばれるが、ブハラを首都としたため、続くジャーン朝、とともにブハラ・ハン国とも呼ばれる。また、ホラズム地方のウルゲンチを首都とした政権もシャイバーニー朝であるが、こちらはウルゲンチのシャイバーニー朝、もしくはヒヴァ・ハン国と呼んで区別する。シャイバーン朝とも表記される。.

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シリギ

リギ(Širigi, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。『集史』などのペルシア語表記では شيركى (Shīrikī) 、漢字表記は失列吉、昔列吉、習列吉など一定しない。.

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ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

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ジョージア (国)

ョージア(, )は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパInternational Geographic Encyclopaedia and Atlas. Springer, 24 November 1979, 欧州議会,, 17 July 2014: "...pursuant to Article 49 of the Treaty on European Union, Georgia, Moldova and Ukraine – like any other European state – have a European perspective and may apply to become members of the Union provided that they adhere to the principles of democracy..."(CIA "The World Fact Book") 2016-08-28閲覧。、もしくは西アジアに区分される(国際連合), "Western Asia - 268 Georgia" 2016-08-27閲覧。。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名の「グルジア」(, Gruziya)としても知られている(詳細は後述)日本国外務省「」。首都はトビリシ。 ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。 コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。 なお、本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする。.

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ジェベ

ェベ(モンゴル語: Jebe、? - 1224年『新元史』巻123、列伝第20もしくは1225年村上「ジェベ」『アジア歴史事典』4巻、118頁)は、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)であるチンギス・カンの家臣。ベスト(ベスート)氏族の出身で、はじめタイチウト氏に属する隷属民だった。『元朝秘史』では者別、『元史』では哲別などと漢語表記され、『集史』などのペルシア語資料では جبه نويان Jebe Nūyān と表記される。書籍によってはジュベとも表記される。.

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スノフスク

ノフスク(Сновск、)は10世紀から13世紀にかけてスノフ川(デスナ川支流)沿いに存在した、チェルニゴフ公国の都市である。モンゴルのルーシ侵攻によって破壊され、現在は、ウクライナ・チェルニーヒウ州のセドニウに、その城址が残っている。.

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スノウ川

ノウ川 / スノフ川(Снов / Снов)は、ユーラシア大陸の中央部を流れるデスナ川右岸の支流の1つである。ロシア・ブリャンスク州からウクライナ・チェルニーヒウ州へと流れる国際河川であり、流路の一部は両国の国境線を成す。.

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スモレンスク

モレンスク (Смоленск, Smolensk) は、ドニエプル川沿いに位置する、ロシア連邦の西方の都市である。モスクワからは西南西へ360km、スモレンスク州の州都。人口は351,100人(2003年推計)、2002年国勢調査では325,137人であった。.

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スラー川

ラー川(Сула́。なおСу́ла / スーラ)はウクライナ・スームィ州、ポルタヴァ州を流れるドニエプル川左岸の支流である。 全長363km、流域面積18500km²。水は飲料水、農業用水として用いられ、流域の主な自治体としてはルブヌィ、ロムヌィがある。.

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スルターン

ルターン(سلطان sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。.

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スヴャトポルチ

ヴャトポルチ(Святополч)はキエフ・ルーシ期に、ドニエプル川右岸の、キエフから56ベルスタの位置にあった都市である。現存しない。 スヴャトポルチは1096年に、キエフ大公スヴャトポルクが、ポロヴェツ族によって焼失させられたユーリエフ(現ビーラ・ツェールクヴァ)の人々を移住させて建設した。その遺構はウクライナ・キエフ州ヴィタチウから1.5kmの位置にあり、B.ルィバコフ(ru)によって12 - 13世紀のポサードや、3つの塔を含む防衛設備の跡が発掘されている。.

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スヴャトポルク2世

テッサロニキのデメトルス。聖ミハイール大聖堂のモザイク。 スヴャトポルク2世(ウクライナ語:Святополк Ізяславич;ロシア語:Святополк Изяславич;1050年11月8日 - 1113年4月16日)は、リューリク朝のルーシ系公爵。洗礼名はミハイール。イジャスラウ1世の子、ヤロスラウ賢公の孫。ポラツクの公(1069年-1071年)、ノヴゴロドの公(1078年-1088年)、トゥーロフの公(1088年-1093年)、キエフ大公(1093年-1113年)。母はミェシュコ2世の娘ゲルトルダか妾。キプチャクとの戦いに明け暮れた。塩の商売を独占し、金貸しを保護したため、キエフの市民の間で嫌われた。キエフの象徴となった聖ミハイール黄金ドーム大聖堂を建立した。病死して聖ミハイール大聖堂で葬られた。娘ズビスラヴァ(1108年没)はポーランド大公ボレスワフ3世と、プレドスラヴァはハンガリー公アールモシュ(ベーラ2世の父)とそれぞれ結婚した。.

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スヴャトポルク・ムスチスラヴィチ

ヴャトポルク・ムスチスラヴィチ(Святополк Мстиславич、? - 1154年2月20日)はキエフ大公ムスチスラフ1世の子である。ポロツク公:1132年、プスコフ公:1138年 - 1148年、ベレスチエ公:1140年、ノヴゴロド公:1132年、1138年、1142年 - 1148年、ルーツク公:1150年 - 1151年、1151年 - 1152年、ヴォルィーニ公:1149年、1151年 - 1154年。聖名イヴァン。兄弟のイジャスラフを助け、キエフ大公位をめぐるユーリー・ドルゴルーキーとの闘争に関わった。.

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スヴャトスラフ・ロスチスラヴィチ (ノヴゴロド公)

ヴャトスラフ・ロスチスラヴィチ(Святослав Ростиславич、? - 1170年Л.Войтович // — Львів: Інститут українознавства ім.

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スヴャトスラフ・ウラジミロヴィチ (スモレンスク公)

ヴャトスラフ・ウラジミロヴィチ(Святослав Владимирович、? - 1113年3月6日)はキエフ大公ウラジーミル2世(ウラジーミル・モノマフ)の子のうちの1人である。スモレンスク公:1113年、ペレヤスラヴリ公:1113年 - 1114年。 父のウラジーミルがペレヤスラヴリ公国を統治していた時期に、スモレンスクの公(ナメストニク)となった。1113年にキエフ大公スヴャトポルク2世が死に、父・ウラジーミルがキエフ大公となると、スヴャトスラフはペレヤスラヴリ公となった。スモレンスク公には兄弟のヴャチェスラフ(後のキエフ大公ヴャチェスラフ1世)が就いた。 1114年に死去し、ペレヤスラヴリでは兄弟のヤロポルク(後のキエフ大公・ヤロポルク2世)が公となった。スヴャトスラフの家族・子孫については不明である。.

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スヴャトスラフ・オリゴヴィチ (チェルニゴフ公)

ヴャトスラフ・オリゴヴィチ(Святослав Ольгович、? - 1164年)はチェルニゴフ公オレグの子である。ノヴゴロド公:1136年 - 1138年、1139年 - 1141年、1142年 - 1144年。クルスク公:1138年 - 1139年。スタロドゥープ公・ベルゴロド公:1141年 - 1146年。ノヴゴロド・セヴェルスキー公:1146年 - 1157年。トゥーロフ公:1149年 - 1151年。チェルニゴフ公:1157年 - 1164年。.

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スヴャトスラフ・オリゴヴィチ (ルィリスク公)

ヴャトスラフ・オリゴヴィチ(Святослав Ольгович、1167年 - ?)はノヴゴロド・セヴェルスキー公オレグの子である。聖名ボリス。ルィリスク公(在位期間は不明)。 スヴャトスラフは1167年に生まれた。1183年の春と冬にポロヴェツ族への遠征に参加した。1185年にもおじのイーゴリの率いる遠征軍に参加したが、敗れて捕虜となった。一般に、スヴャトスラフのその後の詳細は不明であると論じられているが、後にルーシに帰還し、1196年から再びルィリスク公となったとみなす説もあるРаздорский А. И. Князья Рыльские // — Курск: Регион-Пресс, 2004.

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スヴャトスラウ2世

ヴャトスラウと家族(1073年の『スヴャトスラウ選集』より) スヴャトスラウ2世(ウクライナ語:Святослав Ярославич;ロシア語:Святослав Ярославич;1027年 - 1076年12月27日)は、リューリク朝のルーシ系公(クニャージ)である。洗礼名はミハイール。ヤロスラウ賢公の子、ヴォロディーミル聖公の孫。チェルニーヒウの公(1054年-1073年)、キエフ大公(1073年-1076年)。母はスウェーデン王オーロフの娘インゲゲルド。.

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スーズダリ公

ーズダリ公(Князь суздальский)はスーズダリ公国の君主の称号である(「公」はクニャージからの訳出による)。君主号・公国の名は、その首都だったスーズダリによる。.

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スブタイ

ブタイ スブタイ(スベエデイ、Sübe'edei/Sübütei、1176年 - 1248年)は、モンゴル帝国の軍人。ウリャンカイ部の出身。漢文では「速別額台」(スベエデイ)や「速不台」「雪不台」(スブタイ)とも表記され、ペルシア語資料では سوبداى بهادر Sūbdā'ī bahādur として表れる。名前に含まれるSübe'eは「脇腹」を意味する『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』1、229-230頁。 同じチンギス・カン配下の軍人であるジェベ、ジェルメ、クビライ・ノヤンらとともに、「四狗」の一人に数えられる。ジェルメの弟。.

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ステューフナ川

テューフナ川(Стугна)はウクライナのドニプロ高地を流れる、ドニエプル川右岸の支流である。長さ68km、流域面積785k㎡。川幅は平均10mほどだが、渓谷は2.5kmに及ぶところがある。流域の市にはヴァスィリキーウ、がある。.

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スィルチャン

ィルチャン(Сырчан)は、12世紀前半のポロヴェツ族のハンである。シャルカンの子。.

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スタロドゥーブ

タロドゥブの紋章 スタロドゥーブ (Староду́бスタラドゥープ;Староду́бスタロドゥーブ;ラテン文字表記の例:Starodub) は、ロシア連邦のブリャンスク州にある都市。ドニエプル川支流のバビネツ川沿いに位置する。名称は、「古いオーク」の意味。州都ブリャンスクからは南西へ169kmで、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの国境が接する付近にある。人口は18,643人(2002年国勢調査)。 伝統的にはウクライナに属するチェルニーヒウシュチナ(「チェルニーヒウの地」)の町で、近代に入っても一時期ウクライナの国家に領有されていた時期がある。.

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セイム川

セイム川(Сейм, Сейм; Seym もしくは Seim, Sejm)は、ロシアからウクライナへ流れる河川。ドニエプル川の支流、デスナ川の左支流で、最大の支流である。 ロシア・ベルゴロド州北端グブキン地区の、中央ロシア高地の南西麓に発する。クルスク州に入って州を東西に貫き、右岸(北岸)から流れるスヴァパ川(Свапа)と合流し、ウクライナのスームィ州に入る。スームィ州を横切った後、チェルニーヒウ州の東部でデスナ川に合流する。 川沿いの主な都市は、クルスク、クルチャトフ、ルィリスク(以上クルスク州)、プティーウリ(スームィ州)、バトゥールィン(チェルニーヒウ州)。かつて、流域は中世から近世にかけてシヴェーリア、ポセミエと称し、中世にはシヴェーリア公国が置かれ、さらにプチヴリ公国、ルィリスク公国、クルスク公国が存在した。リトアニア大公国、ポーランド王国、モスクワ大公国が争奪し、17世紀から18世紀にかけてはコサック国家の北端となった。 流域はステップで、川は氾濫原の中を激しく蛇行しながら進んでいる。沿岸には魚や鳥などの動物や植物が数多くみられる。 ドニエプル川流域 Category:ウクライナの河川 Category:ロシアの河川 Category:ヨーロッパの複数の国を流れる河川 Category:ドニエプル川水系 Category:国境を流れる河川 Category:ロシアの国境 Category:ウクライナの国境.

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ソジ川

川(Сож; Сож ソーシュ、Сож ソージュ、ラテン文字転写の例:Sož、Sozh)は、ロシア・スモレンスク州に源を発し、ベラルーシを経由し、ウクライナまで流れる川である。ドニエプル川の支流のひとつで、総延長は648km、流域面積は42,100km2におよぶ。ソジ川流域はチェルノブイリ原子力発電所からは北東へ数百km離れているが、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故においては放射性降下物が降り注いで高濃度に汚染された地域となっている。 流域は主にベラルーシであり、ベラルーシ第二の都市であるホメリを潤す。主な支流には、ホメリで合流するイプチ川のほか、ヴィフラ川、プロニャ川がある。 ソジ川流路。図の右寄りがソジ川(Sosch).

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内モンゴル自治区

内モンゴル自治区(うちモンゴルじちく、モンゴル語: 転写:Öbür Moŋɣol-un öbertegen jasaqu orun、中国語:内蒙古自治区、拼音:Nèi Měnggǔ Zìzhìqū、英語:Inner Mongolia)は、中華人民共和国が1947年にモンゴルの南部に設置した省級の自治体。中国領土の北沿に位置する自治区。内蒙古自治区(うちもうこじちく)とも。モンゴル語での名称は日本語に直訳すると「南モンゴル自治区」となる。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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元朝秘史

『元朝秘史』(げんちょうひし)は、中世モンゴルの歴史書。『モンゴル秘史』と呼ばれることもある。チンギス・カンの一代記を中核に、その族祖伝承から後継者オゴデイの治世の途中までの歴史が記されている。作者は不明。成立年は諸説あるが、13世紀中とする見解が主流である一方、14世紀前半であるとする説得力ある仮説も存在する(後述)。.

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遊牧民

遊牧民族のサーミ人 遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。.

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馬乳酒

ボトル詰めされたクミス 馬乳酒(ばにゅうしゅ)とは、馬乳を原料とした乳酒の1種で醸造酒かつ乳製品でもある。主にモンゴルなどウマ飼育が盛んな地域で夏に作られ、同地域で飲まれている。エタノール濃度は1%から1.5%で、これは馬乳に含まれる乳糖の酵母による発酵と、エタノール産生型乳酸菌に由来する。なお、このエタノールを生成する発酵と同時に乳酸菌による乳糖の乳酸発酵も進行するため強い酸味(pH 4から5程度)を持ち、発酵時の二酸化炭素ガスを含むため微発泡性を有する。.

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護雅夫

護 雅夫(もり まさお、1921年3月30日 - 1996年12月23日)は、日本の東洋学者、歴史学者。専攻は古代東洋史(中央アジア・突厥民族研究)。.

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黒帽子族

黒帽子族 / 黒頭巾族清水睦夫「ロシア国家の起源」p55 / チョールヌィ・クロブキ(ウクライナ語:Чорні клобуки; テュルク語:Qaraqalpaq、意訳:「黒帽子」)は、11世紀から13世紀にかけてキエフ公国の南部、ローシ川周辺を中心に居住した定住遊牧民の集団の総称である。テュルク系部族清水睦夫「ロシア国家の起源」p56(ペチェネグ人、トリクリ人、ベレンデイ人など)によって構成された。.

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黒海

黒海(こっかい)は、ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海(地中海 (海洋学))の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。 バルカン半島、アナトリア半島、コーカサスと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。アナトリアとバルカンの間のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通じて地中海に繋がっており、クリミアの東にはケルチ海峡を隔ててアゾフ海がある。 黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ジョージアである。 黒海に面する有名な港湾には、イスタンブール(ビュザンティオン、コンスタンティノープル)から時計回りにブルガス、ヴァルナ、コンスタンツァ、オデッサ、セヴァストポリ、ヤルタ、ガグラ、バトゥミ、トラブゾン、サムスンなどがある。.

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除村吉太郎

村 吉太郎(よけむら よしたろう、1897年2月10日 - 1975年11月3日)は、ロシア・ソビエト文学者。 群馬県生まれ。東京外国語学校ロシア語科卒。駐日ロシア大使館勤務後、日露協会学校助教授、東京外国語学校教授、1935年ソ連に留学するが、帰国後の1940年思想的理由で教職を追放される。戦時期は『ロシア年代記』の翻訳に専念し、翻訳家としての代表的作品となった。 戦後は早稲田大学客員教授、日ソ親善協会常務理事、日ソ学院院長を務めた。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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1055年

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1061年

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1068年

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1071年

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1078年

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1079年

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1082年

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1091年

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1092年

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1093年

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1094年

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1095年

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1096年

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1101年

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1103年

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1107年

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1110年

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1112年

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1117年

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1125年

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1126年

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1128年

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1135年

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1136年

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1140年

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1146年

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1147年

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1149年

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1151年

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1152年

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1154年

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1155年

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1161年

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1170年

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1172年

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1185年

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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1223年

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1236年

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1237年

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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1307年

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1328年

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1333年

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1335年

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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1968年

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1976年

記載なし。

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1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

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1998年

この項目では、国際的な視点に基づいた1998年について記載する。.

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4月23日

4月23日(しがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から113日目(閏年では114日目)にあたり、年末まではあと252日ある。誕生花はハナミズキ、ボタン。.

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