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ムカリ

索引 ムカリ

フバートル広場の記念像 ムカリ(Muqali guy-ong、1170年 - 1223年)は、モンゴル帝国の初代ハーンであるチンギス・カンの家臣。チンギス・カンの左翼諸軍に属す24の諸千戸隊を統括する万戸(トゥメン)の長であった。『元朝秘史』に載る1206年のチンギス・カン即位時の功臣表では、モンリク・エチゲ、ボオルチュに次ぐ第3位に数えられる。『元朝秘史』『元史』などの漢語表記では木華黎、木合黎、木花里、謀合理、摩睺羅など。『集史』のペルシア語表記などでは「ムカリ国王」の音写である、 موقلىكويانك Mūqalī Kūyānk などと書かれる。『元朝秘史』『集史』によれば、チンギス・カンによって右翼諸軍を統括するボオルチュとならび、カラウン・チドンとよばれる地域を統べる左翼万戸長に任じられたと言う。ボオルチュとならぶモンゴル帝国創業の大勲臣のひとりであり、死後に東平王、魯国王に封じられる。 ジャライル部族の首長家であるジャアト・ジャライル氏族(チャアト〜ジャアト Ča'at〜Čaγat<Jaad, جات Jāt)の出身。ジャアト・ジャライル氏族長テレゲトゥ・バヤンの息子グウン・ウアの子。兄弟にタイスン、ブカなどがいたことが知られている。ジャアト・ジャライル氏族、なかでも彼を祖とするムカリ国王家は、大元ウルス時代を含めモンゴル帝国東部でもっとも影響力の強かったモンゴル諸侯家のひとつであった。.

68 関係: 史天沢女真契丹山西上京会寧府上都平凡社志茂碩敏ナイマンノムガンチャブイチラウンチンギス・カンモンリク・エチゲモンケモンゴル帝国ボルジギン氏ボロクルボオルチュダルガチアントン (ジャライル部)カブル・カンカイドゥクビライケシクゲル (家屋)コンギラトゴビ砂漠シリギジャライル元 (王朝)元史元朝秘史国王四駿四狗称号遼西遼東半島萩原淳平高麗開封市金 (王朝)集史東京大学出版会東洋文庫 (平凡社)汲古書院漢人1170年1196年...1206年1217年1223年1228年1234年1239年1260年1277年14世紀1970年1976年1977年1982年1991年1995年2007年2月9月 インデックスを展開 (18 もっと) »

史天沢

史 天沢(し てんたく、1202年 - 1275年)は、モンゴル帝国(元朝)に仕えた漢人軍閥の1人である。字は潤和。史秉直の次男で、史天倪の弟。子に史格。 華北の漢人軍閥で、父は史秉直といい、真定(河北省正定県付近)地方に勢力を誇った軍閥である。史家は金王朝に仕えていたが、金がモンゴルの攻勢に押された上に内紛を繰り返したことから、1213年にチンギス・カンの有力武将・ムカリに降伏して以後はモンゴルの家臣となった。兄の史天倪と共に各地を転戦して武功を挙げたが、その兄が1225年、金の軍閥である武仙を降伏させた直後、今度は南宋と内通した武仙によって殺害されたため、史天沢は武仙を討って兄の後を継いで都元帥となる。以後は漢人軍閥の重鎮として華北の漢人軍閥を率いて、金討伐でも功績を立てた。 モンゴル・南宋戦争が始まると、華北に所領を与えられたクビライと誼を通じた。しかし第4代ハーンであるモンケの時代には、モンケとその党派による漢人排斥の動きなどから弾圧され、不遇であった。モンケの死後、クビライとアリクブケとの間に争いが起こると(アリクブケの乱)、クビライに味方してその擁立に大きく貢献した。1262年2月にはその継承争いの最中に山東地方の漢人軍閥である李璮(りたん)の反乱が起こるが、史天沢はこれに呼応せず、むしろ鎮圧に功績を立てた。李璮討伐のためにモンゴル王族カピチ(親王 哈必赤:ジョチ・カサル家の王族か?)が史天沢は幕僚として扈従しこれを輔佐した。『元史』巻二百六 叛臣列伝の李璮の条によると、李璮が捕縛されて討伐軍の司令であった王族カピチの帳幕の前に引き出されたが、史天沢は「宜しく即ちに之を誅し、以て人心を安んず。」と言って、李璮は直ちに誅殺されたという。 クビライが第5代のハーンに即位すると、宰相に任じられて漢人の軍閥解体と華北の再編、漢人の人材推挙やモンゴルの漢化政策などで多くの功績を立てた。1268年から本格的に始まった南宋攻略戦である襄陽の戦いでは、アジュと共に将軍の1人として参戦した。南宋の名将・呂文煥の抵抗には手を焼き、足かけ5年を費やしたが、投石器の攻撃などで襄陽の重要な支城である樊城を陥落させ、そして呂文煥の妻子を使った調略により(呂文煥は襄陽の兵糧問題から妻子を城外に追い出していたが、史天沢はそれを保護していた)、1273年には呂文煥とその軍勢を投降させるという大功を立てた。 1274年、クビライより南宋攻略の大軍を率いる総司令官に任命されたが、高齢のためにまもなく病に倒れた。このため、クビライにバヤンを総司令官にするように推挙した。1275年に死去。享年74。 クビライはその死を惜しみ、鎮陽王に封じた。子の史格が後を継ぎ、史家は元王朝を支える名門貴族として続くことになる。 『元史』巻百五十五に列伝がある。.

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女真

女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったたんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。.

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契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.

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山西

山西(さんせい、やまにし) 語源的には山脈の西側のことを意味し、元は中国の太行山脈の西側の地域のことを指す。.

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上京会寧府

右 上京会寧府(じょうけい-かいねい-ふ)は、金朝が設置した府。 金朝が成立すると間もなく上京路の下部に会寧県(現在の黒竜江省ハルビン市阿城区南白城)に会寧州が設置され金朝の都城と定められた。当時の管轄区域は松花江、牡丹江、長白山を結ぶ地域とされた。太宗の時代に会寧府と改められ、更に1138年(天眷元年)に上京会寧府とされた。 1153年(貞元元年)に燕京に遷都すると間もなく会寧府とされたが、1173年(大定13年)に再び上京会寧府とされた。金末にモンゴル帝国が進入すると上京会寧府は廃止されている。.

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上都

上都(じょうと、)は、モンゴル帝国(元)のクビライが、モンゴル高原南部(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)に設けた都。正藍旗の南のドロンノール県中心市街地から北西へ28km離れており、灤河上流の閃電河の河畔に位置する。上都鎮からは東北20km、北京からは北へ275km。元朝の夏の首都として使われた。 1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。西洋ではザナドゥ(Xanadu あるいは Xanadumoo、Zanadu、Shangdu)とも呼ばれる。2012年、遊牧文明と農耕文明の衝突と融合を示す貴重性が認められ、UNESCOの世界遺産に登録された。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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志茂碩敏

志茂 碩敏(しも ひろとし、1941年 - )は、東洋史学者。 福岡県戸畑市(現北九州市)出身。東京大学文学部東洋史学科卒業。同大学院博士課程満期退学。1993年「イル汗国史研究 イル汗諸政権の中枢について」で東京大学文学博士。公益財団法人東洋文庫研究員。2015年「モンゴル帝国史研究」で日本学士院賞受賞。.

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ナイマン

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ナイマン(、Naiman)は、モンゴル帝国成立以前の時代にモンゴル高原西北部のイルティシュ川低地地域から上流地域、アルタイ山脈に掛けて割拠していたテュルク系遊牧民で、後にモンゴル化した部族集団。漢字表記は『元史』『元朝秘史』では乃蠻。『集史』などのペルシア語表記では نايمان Nāyimān として現れる。西はジュンガル盆地の沙漠地域を挟んで天山ウイグル王国と隣接し、北は小アルタイ山脈をもってケム・ケムジュート地方およびキルギズと、東ではカラコルム山脈をもってケレイトと隣接していた。.

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ノムガン

ノムガン(Nomuγan, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。漢字表記は那木罕、『集史』などのペルシア語表記では نوموغان Nūmūghān などと書かれる。世祖クビライが皇后チャブイの間にもうけた4人の嫡子のうちの四男。 モンゴルの末子相続の制度により、両親の財産を最も多く相続できる立場にある嫡子中の末子であったことから、クビライの有力な後継者候補であった。1266年に北平王の称号を与えられて、父クビライの北方方面における代行者となり、モンゴル民族の本土であるモンゴル高原に駐留、高原における全遊牧民軍団の兵馬を統括した。ノムガンの王府は旧都カラコルム近郊の牧地を遊牧移動し、チンギス・ハーンの4大オルドで執り行われるチンギス・ハーンの祭祀を管理した。 ノムガンの主要な軍事的任務は、アルタイ山脈の西にあるオゴデイ家とチャガタイ家のウルス(国)に対して軍事的圧力をかけて、大ハーンの影響力を伸ばすことにあり、1275年にクビライの中央政府の高官である中書右丞相アントンを附属されて、中央アジア遠征に進発した。ノムガンは高原の諸王族を率い、当主の座をめぐってチャガタイ家に混乱が続くのに乗じてチャガタイ家のウルスの本拠地イリ川渓谷に侵入、その中心都市アルマリクに駐留した。しかし翌1276年夏、従軍していたノムガンの従兄弟シリギらが軍中で反乱を起こし、ノムガンとアントンは捕らえられて、アルマリクに駐留する北平王軍は瓦解した。 ノムガンはシリギによってジョチ・ウルスに引き渡され、中央アジアで虜囚生活を送った。しかしシリギの期待に反して、ジョチ・ウルスはノムガンの身柄を受け取ってもシリギに対する援助を行わず、クビライに表立って反抗する姿勢をとらなかったため、その反乱はクビライによって鎮圧された。1282年、ノムガンは釈放されて父クビライのもとに帰ることができた。 帰国後、ノムガンは北安王の称号を与えられて、再びモンゴル高原での駐留を命じられたが、モンゴル高原方面の主力は中央から派遣されてきたバヤン率いる軍隊になっており、ノムガンはその後のカイドゥとの戦いにほとんど活躍しないまま、数年のうちに没した。ノムガンに子はなかったので、北安王家は1代で断絶し、その軍隊は1291年に晋王に封ぜられた甥のカマラに引き継がれた。 Category:元の皇族 Category:クビライの子女 Category:クビライ家 Category:生没年不詳.

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チャブイ

チャブイ(Čabui, ? - 1281年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン(カアン)、世祖クビライの皇后。漢字表記は察必、『集史』のペルシア語表記では چابوى خاتون Chābū'ī Khātūn または چابون خاتون Chābūn khātūn として表れる。諡は昭睿順聖皇后。 コンギラト部族の出身で、父の・ノヤン(按陳那顏)はチンギス・カンの第一夫人ボルテの弟である。伯母ボルテの孫にあたるクビライと結婚し、夭折したドルジと、後にクビライ政権で活躍するチンキム、マンガラ、ノムガンの4子を産んだ。 チャブイはチンギス・カン家の姻族としてモンゴル帝国の中でも特に有力な部族の出であり、実家のコンギラト部族をはじめとする五投下と呼ばれる部族集団は、兄である皇帝モンケによって中国の経略を委ねられたクビライを支えて活躍した。特に同母姉が嫁いだジャライル部のムカリの子・ボオルの三男バアトルはクビライの腹心となり、1259年のモンケ死後のクビライのカアン位奪取に功があった。またチャブイ自身、その宮廷(オルド)にアフマドら有能な商人を個人的な用人に集めて利殖を行い、財産を蓄えて勢力があった。 1271年にクビライが樹立した元では、次男のチンキムが燕王、三男のマンガラが安西王、四男のノムガンが北平王に封ぜられ、それぞれが中国北部、中国西部、モンゴル高原を分担して統治した。中央政府ではチンキムが行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を統括し、さらにバアトル夫妻の子でチャブイの甥にあたるアントンが中書省の長官となった。加えて、クビライによって新設された財務部局の長官として、チャブイの用人であるアフマドが抜擢され、元の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。このような状況を指して、大元王朝とはチャブイを扇の要とするコンギラト政権であったと評価する歴史家もいる。 やがて、中央政府で実権を握るチンキムの権勢が高まり、1273年に皇太子の称号を与えられるが、同時にチャブイには皇后の印璽が与えられた。この頃、帝国の財務部門を握り、中書省の勢力をアントンと二分するアフマドの権勢も高まり、その党派がチンキム・アントンのもとに集まったモンゴル貴族・漢人官僚と反目を深めていくが、両者の接点としてチャブイがあったために、対立は決定的なものにはならなかった。 1281年にチャブイが死ぬと、たちまちチンキム派とアフマド派の反目は激化し、翌年にはアフマドの暗殺に至る。 1294年2月18日(至元31年1月癸酉)にクビライが没し、同年6月3日(5月戊午)に聖徳神功文武皇帝と諡され、廟号を世祖とすると、チャブイも昭睿順聖皇后と追諡を受けた。 チャブイの築いた莫大な財産は、同じコンギラト部族出身のチンキムの夫人ココジンが相続した。 Category:元の皇后 Category:クビライ Category:コンギラト部 Category:1281年没.

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チラウン

チラウン(赤老温、 、生没年不詳)は、モンゴル帝国初期の武将。四駿の1人。スルドス氏出身のソルカン・シラの子。兄のチンベ(沉白、 )とともに知られていた。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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モンリク・エチゲ

モンリク・エチゲ(,,? - ?)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたコンゴタン氏族長で、千人隊長の一人。漢文史料では明里也赤哥(『元史』)/蔑力也赤哥(『聖武親征録』)/蒙力克額赤格(『モンゴル秘史』)、『集史』などのペルシア語史料ではMunklīk Ījīkaと記され、日本語表記では「ムンリク」と表記される。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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ボルジギン氏

ボルジギン氏(Borjigin)は、モンゴル帝国のカアン(ハーン)の家系となったモンゴル部の中心氏族。モンゴル帝国、元の国姓である。 12世紀頃、アルグン川渓谷流域にいた蒙兀室韋(蒙瓦部)の後身で、モンゴル高原北東部において一大勢力を築いたモンゴル部の有力氏族で、ボドンチャルという人物を始祖とする男系から成る。この氏族は史上初めて全モンゴル部族を支配したとされるカブル・カンを出して以来、モンゴル部のカン(王)を独占した。そして13世紀にモンゴルのチンギス・カンがモンゴル高原の全遊牧部族を統一してモンゴル帝国を興してから後はモンゴル高原で最も高貴な氏族とみなされるに至る。チンギス・カンの男系は現在まで連綿と続いているため、現在のモンゴル国や中華人民共和国においても氏族の名は残っている。.

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ボロクル

ボロクルまたはボロウル(Boroqul, Buroγul〜Boro'ul、?-1217年)は、モンゴル帝国初期の武将。『元朝秘史』では孛囉忽勒、孛囉兀勒、『元史』では博爾忽などと記され、『集史』では بورقول نويان Būrqūl Nūyān または بورغول نويان Būrghūl Nūyān などと表記される。いわゆる四駿(Dörben külü'üd)の1人。フウシン部族出身。『元朝秘史』巻八に載る1206年のチンギス・カン第2即位での功臣リストでは第15位にあたる。.

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ボオルチュ

スフバートル広場の記念像 ボオルチュ(Bo'orču, Boγorču.

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ダルガチ

ダルガ(daruγa)ないしダルガチ(daruγa-či)とは、モンゴル帝国の官職。モンゴル帝国の初期において、モンゴル軍団の軍政や諸事の裁定を行ったジャルグチ、財政の一切を管理したビチクチとならぶモンゴル帝国初期の重要官職である。主に政権中央から派遣され、各々の領地の民政統治官、行政長官としての業務を行う。漢語資料では達魯花赤占と書かれ、『集史』などのペルシア語文献ではダルガ(ダールーガ) داروغه dārūgha として表れる言葉であり、テュルク語のバスカク بسقاق basqāq 、アラビア語のシャフナ شحنة shahna (軍政管民官)といったものと同義語として用いられた。大元ウルスやイルハン朝といったモンゴル諸王家だけではなく、ティムール朝など後のテュルク・モンゴル系の政権などへも受け継がれた。 もともと、モンゴル高原を統一してモンゴル帝国の始祖となったチンギス・カンが東西へ行った遠征以降に、占領した旧金朝の華北やホラズム・シャー朝の領域だった中央アジア、イランなどの各地域に対し、モンゴル皇帝であるカアン(大ハーン)の代官として設置したもの。その主な任務は、徴税、戸口調査、駅伝事務、民政一般、治安維持などである。 東方においては、クビライ・カアンにより大元ウルス(元朝)が成立すると、その行政組織の中で正式に制度化され、地方行政官庁などに必ず置かれた。元の行政では人間集団ごと(モンゴル人、西域人(色目人)、漢人など)による階級差別 が存在しており、この達魯花赤に任命されるのはほとんどモンゴル人、稀に西域人や女真人で、漢人が任命されることはなかった。.

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アントン (ジャライル部)

アントン(Anton, Antum, Hantun, 安童、1245年 - 1293年)は、大元朝時代にその初代でもある第5代モンゴル帝国皇帝(カアン)クビライに仕えた政治家、宰相(中書右丞相)。『元史』などでは安童、『集史』などのペルシア語史料では هنتون نويان Hatūn Nūyān、 انتون نويان Antūn Nūyān などと書かれる。チンギス・カンに仕えたジャアト・ジャライル部族出身の功臣、ムカリ国王家の出身で、ムカリの曾孫。ムカリの子・ボオルの3男・バアトルが父にあたる。母親はチンギス・カンの第一夫人ボルテの姪で、クビライの皇后チャブイの姉にあたる。息子にウドゥルタイ(兀都帯、バイジュの父)がいる。 13歳で宿衛(ケシク)に入る。クビライの信任が厚く、それに近侍した。クビライがモンゴル帝国帝位継承戦争に勝利した際にアリクブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めてクビライに評価され、1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢され食邑四千戸まで加増を受けた。後に平章政事であるアフマド・ファナーカティーと対立するが、1274年に彼の不正行為をあばいて失脚させる。翌1275年には皇太子チンキムや北平王ノムガンとともにカイドゥ討伐に向かい、カラコルムに入ったノムガンとその庶弟である皇子ココチュに扈従し、カラコルム周辺を領していたモンケ家、アリクブケ家などの王族との調停に勤めた。しかし、1276年にノムガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前であるアルマリクに駐留していた時、軍中のモンケ家の四男シリギが、モンケ、クビライらの庶弟ソゲトゥの息子(ないし孫)トク・テムルの先導によっての他のトルイ家をはじめてとする王族たちと共謀して反乱を起こした。(シリギの乱) このため、アントンはノムガンとココチュらととも捕縛され、トクテムルとシリギはノムガンとココチュの兄弟をジョチ・ウルスの当主モンケ・テムルに引き渡し、アントンはカイドゥに引き渡して両陣営に対して自らの反乱への参加を促した。しかし、カイドゥもモンケ・テムルもこの誘いをほぼ黙殺し、シリギの乱はバヤンの派遣などによって鎮圧された。1284年に大都に帰還すると、右丞相に復職し、翌1285年にはアントン不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させて、獄死に追い詰めた。ところが、1287年に新しく平章政事となったサンガと対立してその不正を糾弾するも、フビライに取り上げられなかったことから権威が失墜し、1291年に右丞相を退いた。この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することができずに2年後に没した。.

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カブル・カン

ブル・カン(Qabul Qan、生没年不詳)は、モンゴル部ボルジギン氏モンゴル国の初代カン。トンビナイ・セチェンの子で、クトラ・カンの父。『元朝秘史』ではカブル・カハン(合不勒合罕、Qabul Qahan)、『集史』ではカブル・ハン(Qabul Khān)、『元史』では葛不律寒と表記される。また、金代に記録される熬羅孛極烈もまたカブル・カンの別名であると見られている。カブル・カンの子孫はモンゴル古伝承にちなんで、キヤン(Qiyan、乞顔)という氏族名を名乗って多くの氏族集団をつくり、結束してキヤト(Qiyad、乞牙惕)(キヤンの複数形)と称した。.

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カイドゥ

イドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: 転写: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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ケシク

()とはモンゴル帝国において君主(カーン)・皇族を昼夜護衛した親衛隊。モンゴル語でkesikとは「恩寵」を意味し、これに-tei(〜を有する者)を附して「ケシクテイ(kesiktei)」とも呼称される。 ケシクはカーンの親衛隊・軍の精鋭という軍事的側面の他、カーンの身の回りの世話を行う家政機関としての側面、将来の国政を担う幹部の養成機関としての側面も有しており、多様な目的を持つモンゴル帝国の重要機関であった。そのため、ケシク制度は千人隊制度と並ぶモンゴル帝国の根幹となる制度と評されている。.

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ゲル (家屋)

モンゴルのゲル thumb thumb ゲル(гэр、 転写:ger、満州語: 転写:boo)は、主にモンゴル高原に住む遊牧民が使用している、伝統的な移動式住居のこと。日本では、中国語の呼び名に由来するパオ(包)という名前で呼ばれることも多い。 テュルク語では古くから「ユルト、あるいはユルタ(يورت)」と呼ばれたもので、現在でもテュルク系遊牧民のカザフ人やキルギス人が用いるユルトはほぼ同じ形状である。緩やかな草原地帯に適しており、より乾燥し起伏の多い西アジアではテュルク系遊牧民も方形の移動式住居を使っている。.

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コンギラト

ンギラト(Qonggirad)とは、モンゴル高原東部に存在したモンゴル系遊牧民族である。モンゴル帝国-元朝時代を通じてチンギス・カン家に多くの后妃(ハトゥン)を輩出しており、最も有力な姻族として繁栄した。「翁吉剌」という表記からオンギラト(ウンギラト)、現代モンゴル語発音からホンギラト(フンギラト)と記されることも多い。.

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ゴビ砂漠

ビ砂漠(ゴビさばく、,,(かへき)、 )は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万kmで、世界で4番目の大きさを誇る。古くから匈奴を始め、柔然、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場であり、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在した。また、恐竜の化石がよく発見されており、卵をだいたオビラプトルやプロトケラトプスとヴェロキラプトルの格闘の化石など珍しい形の化石が続々発見されている。黄砂(こうさ)とはこの地などから巻き上げられ気流に乗り運ばれる砂の事であり、春先には日本にも多く飛来する。.

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シリギ

リギ(Širigi, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。『集史』などのペルシア語表記では شيركى (Shīrikī) 、漢字表記は失列吉、昔列吉、習列吉など一定しない。.

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ジャライル

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ジャライル(英語:Jalairs、モンゴル語:Жалайр)は、かつてモンゴル高原を始め中央ユーラシアに分布した遊牧民族。古くからモンゴル帝国に仕え、その子孫の一部は14世紀に西アジアでジャライル朝を建設した。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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元朝秘史

『元朝秘史』(げんちょうひし)は、中世モンゴルの歴史書。『モンゴル秘史』と呼ばれることもある。チンギス・カンの一代記を中核に、その族祖伝承から後継者オゴデイの治世の途中までの歴史が記されている。作者は不明。成立年は諸説あるが、13世紀中とする見解が主流である一方、14世紀前半であるとする説得力ある仮説も存在する(後述)。.

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国王

国王(こくおう、英語:king, フランス語:roi, ドイツ語:König, ノルド語:kong, ラテン語:rex)は、国の君主(王)を指し、その称号(君主号)でもある。特に男性である場合(男王)を指す。.

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四駿四狗

四駿四狗(ししゅんしく)とは、モンゴル帝国の建築者チンギス・カンに仕え、モンゴルの歴史を記した年代記『元朝秘史』において、「4頭の駿馬・4匹の狗」(dörben külü'üd, dörben noγas)と讃えられた、チンギス・カンの優秀な8人の最側近のことである。.

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称号

号(しょうごう、英語:Title)とは、主に個人または団体の公的な身分や資格、地位などを表す呼び名。.

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遼西

遼西(りょうせい、拼音:Liáoxī)は中国東北地方の遼河以西地域を指す歴史的地名。現在の遼寧省西部地域、錦州、朝陽、阜新一帯。 遼河以東は遼東と称した。 古くから東胡系遊牧民族の住居地で、五胡十六国時代には鮮卑慕容部の本拠地となり、前燕、北燕などの国家が形成された。.

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遼東半島

遼東半島の位置 遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンはんとう、中国語簡体字:辽东半岛 Liáodōng Bàndăo)は、中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、大連などの都市がある。遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。.

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萩原淳平

萩原 淳平(はぎわら じゅんぺい、1920年 - 2000年12月17日)は、静岡県出身の東洋史学者。京都大学名誉教授、文学博士。 静岡県生まれ、静岡高等学校 (旧制)から京都帝国大学文学部史学科を1946年に卒業し、大学院を終了後、京都大学副手となったが、郷里に戻り、1950年静岡県立教員養成所教授、静岡大学教育学部講師となった。1955年再び京都大学に戻り、1958年京都大学文学部講師となり、『明代満蒙史料』(京都大学文学部刊)の編纂にあたった。1962年助教授に昇任。1977年『明代蒙古史研究』で京都大学文学博士。1978年京都大学文学部教授となった。1982年3月定年退官、名誉教授、4月立正大学教授。1991年同大学退職。島田虔次らと「アジア歴史研究入門」全6冊の編纂を行い、また後進の養成を行った。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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開封市

開封市(かいほうし、)は中華人民共和国河南省東部に位置する地級市。中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、北宋の首都であった。11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。.

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自然金 金(きん、gold, aurum)は原子番号79の元素。第11族元素に属する金属元素。常温常圧下の単体では人類が古くから知る固体金属である。 元素記号Auは、ラテン語で金を意味する aurum に由来する。大和言葉で「こがね/くがね(黄金: 黄色い金属)」とも呼ばれる。。 見かけは光沢のある黄色すなわち金色に輝く。日本語では、金を「かね」と読めば通貨・貨幣・金銭と同義(お金)である。金属としての金は「黄金」(おうごん)とも呼ばれ、「黄金時代」は物事の全盛期の比喩表現として使われる。金の字を含む「金属」や「金物」(かなもの)は金属全体やそれを使った道具の総称でもある。 金属としては重く、軟らかく、可鍛性がある。展性と延性に富み、非常に薄く延ばしたり、広げたりすることができる。同族の銅と銀が比較的反応性に富むこととは対照的に、標準酸化還元電位に基くイオン化傾向は全金属中で最小であり、反応性が低い。熱水鉱床として生成され、そのまま採掘されるか、風化の結果生まれた金塊や沖積鉱床(砂金)として採集される。 これらの性質から、金は多くの時代と地域で貴金属として価値を認められてきた。化合物ではなく単体で産出されるため精錬の必要がなく、装飾品として人類に利用された最古の金属で、美術工芸品にも多く用いられた。銀や銅と共に交換・貨幣用金属の一つであり、現代に至るまで蓄財や投資の手段となったり、金貨として加工・使用されたりしている。ISO通貨コードでは XAU と表す。また、医療やエレクトロニクスなどの分野で利用されている。.

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金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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東京大学出版会

一般財団法人東京大学出版会(とうきょうだいがくしゅっぱんかい、英称:University of Tokyo Press)は、東京大学の出版部に当たる法人。東京大学総長を会長とし、東京大学の活動に対応した書籍の出版を主に行う。.

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東洋文庫 (平凡社)

東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.

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汲古書院

株式会社汲古書院(きゅうこしょいん)は、日本の学術出版社である。主に日本古典・古典中国文学の学術研究に加え、文献学・書誌学の出版・販売を手掛ける。発足に大きく関わった長沢規矩也の「著作集」を始め、2001年から約15年かけ『後漢書』全訳書(全19冊)を刊行した。 中国からの古典・学術図書の輸入をしていた大安の活動を引き継いでいる。 同じ性格を持つ出版社に研文出版がある。.

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漢人

漢人(かんじん).

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1170年

記載なし。

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1196年

記載なし。

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1206年

記載なし。

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1217年

記載なし。

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1223年

記載なし。

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1228年

記載なし。

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1234年

記載なし。

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1239年

記載なし。

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1260年

記載なし。

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1277年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1970年

記載なし。

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1976年

記載なし。

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1977年

記載なし。

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1982年

この項目では、国際的な視点に基づいた1982年について記載する。.

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1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

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1995年

この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。.

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2007年

この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.

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2月

2月(にがつ)はグレゴリオ暦で年の第2の月に当たり、通常は28日、閏年では29日となる。 他の月の日数が30または31日なのに対して、 英語の呼び名である February はローマ神話のフェブルウス (Februus) をまつる祭りから取ったと言われている。.

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9月

9月(くがつ)はグレゴリオ暦で年の第9の月にあたり、30日ある。 日本では、旧暦9月を長月(ながつき)と呼び、現在では新暦9月の別名としても用いる。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力である。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある。 9月はその年の12月と同じ曜日で始まるのと同じである。 英語での月名 September は、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の「septem」の語に由来しているのに不一致が生じているのは、紀元前153年に、それまで3月を年の始めとしていた慣例を1月に変更したにもかかわらず、名称を変えなかった為であり、7月と8月にローマ皇帝の名が入ってずれたというのは俗説である。これは7月がガイウス・ユリウス・カエサルによって「Julius」に改める以前は「Quintilis」といい、これがラテン語で「第5の」という意味の「quintus」の語に由来していて、既にずれが発生していたことからもわかる。 日本の学校年度や会計年度は大半が4月始まりであるが、世界に目を向けると9月を採用している国が多い。(アメリカ合衆国、カナダ、ヨーロッパ、中華人民共和国など).

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