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アントン (ジャライル部)

索引 アントン (ジャライル部)

アントン(Anton, Antum, Hantun, 安童、1245年 - 1293年)は、大元朝時代にその初代でもある第5代モンゴル帝国皇帝(カアン)クビライに仕えた政治家、宰相(中書右丞相)。『元史』などでは安童、『集史』などのペルシア語史料では هنتون نويان Hatūn Nūyān、 انتون نويان Antūn Nūyān などと書かれる。チンギス・カンに仕えたジャアト・ジャライル部族出身の功臣、ムカリ国王家の出身で、ムカリの曾孫。ムカリの子・ボオルの3男・バアトルが父にあたる。母親はチンギス・カンの第一夫人ボルテの姪で、クビライの皇后チャブイの姉にあたる。息子にウドゥルタイ(兀都帯、バイジュの父)がいる。 13歳で宿衛(ケシク)に入る。クビライの信任が厚く、それに近侍した。クビライがモンゴル帝国帝位継承戦争に勝利した際にアリクブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めてクビライに評価され、1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢され食邑四千戸まで加増を受けた。後に平章政事であるアフマド・ファナーカティーと対立するが、1274年に彼の不正行為をあばいて失脚させる。翌1275年には皇太子チンキムや北平王ノムガンとともにカイドゥ討伐に向かい、カラコルムに入ったノムガンとその庶弟である皇子ココチュに扈従し、カラコルム周辺を領していたモンケ家、アリクブケ家などの王族との調停に勤めた。しかし、1276年にノムガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前であるアルマリクに駐留していた時、軍中のモンケ家の四男シリギが、モンケ、クビライらの庶弟ソゲトゥの息子(ないし孫)トク・テムルの先導によっての他のトルイ家をはじめてとする王族たちと共謀して反乱を起こした。(シリギの乱) このため、アントンはノムガンとココチュらととも捕縛され、トクテムルとシリギはノムガンとココチュの兄弟をジョチ・ウルスの当主モンケ・テムルに引き渡し、アントンはカイドゥに引き渡して両陣営に対して自らの反乱への参加を促した。しかし、カイドゥもモンケ・テムルもこの誘いをほぼ黙殺し、シリギの乱はバヤンの派遣などによって鎮圧された。1284年に大都に帰還すると、右丞相に復職し、翌1285年にはアントン不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させて、獄死に追い詰めた。ところが、1287年に新しく平章政事となったサンガと対立してその不正を糾弾するも、フビライに取り上げられなかったことから権威が失墜し、1291年に右丞相を退いた。この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することができずに2年後に没した。.

40 関係: 宰相平凡社ノムガンチャブイチンキムチンギス・カンハーンバヤン (バアリン部)バイジュ (ジャライル部)ムカリモンケモンケ・テムルモンゴル帝国モンゴル帝国帝位継承戦争ボルテアリクブケアルマリクアフマド・ファナーカティーウドゥルタイカラコルムカイドゥクビライシリギジョチ・ウルスサンガ (元)元 (王朝)元史長澤和俊集史1245年1265年1274年1275年1276年1284年1285年1287年1291年1293年1984年

宰相

この項では宰相(さいしょう)について記述する。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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ノムガン

ノムガン(Nomuγan, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。漢字表記は那木罕、『集史』などのペルシア語表記では نوموغان Nūmūghān などと書かれる。世祖クビライが皇后チャブイの間にもうけた4人の嫡子のうちの四男。 モンゴルの末子相続の制度により、両親の財産を最も多く相続できる立場にある嫡子中の末子であったことから、クビライの有力な後継者候補であった。1266年に北平王の称号を与えられて、父クビライの北方方面における代行者となり、モンゴル民族の本土であるモンゴル高原に駐留、高原における全遊牧民軍団の兵馬を統括した。ノムガンの王府は旧都カラコルム近郊の牧地を遊牧移動し、チンギス・ハーンの4大オルドで執り行われるチンギス・ハーンの祭祀を管理した。 ノムガンの主要な軍事的任務は、アルタイ山脈の西にあるオゴデイ家とチャガタイ家のウルス(国)に対して軍事的圧力をかけて、大ハーンの影響力を伸ばすことにあり、1275年にクビライの中央政府の高官である中書右丞相アントンを附属されて、中央アジア遠征に進発した。ノムガンは高原の諸王族を率い、当主の座をめぐってチャガタイ家に混乱が続くのに乗じてチャガタイ家のウルスの本拠地イリ川渓谷に侵入、その中心都市アルマリクに駐留した。しかし翌1276年夏、従軍していたノムガンの従兄弟シリギらが軍中で反乱を起こし、ノムガンとアントンは捕らえられて、アルマリクに駐留する北平王軍は瓦解した。 ノムガンはシリギによってジョチ・ウルスに引き渡され、中央アジアで虜囚生活を送った。しかしシリギの期待に反して、ジョチ・ウルスはノムガンの身柄を受け取ってもシリギに対する援助を行わず、クビライに表立って反抗する姿勢をとらなかったため、その反乱はクビライによって鎮圧された。1282年、ノムガンは釈放されて父クビライのもとに帰ることができた。 帰国後、ノムガンは北安王の称号を与えられて、再びモンゴル高原での駐留を命じられたが、モンゴル高原方面の主力は中央から派遣されてきたバヤン率いる軍隊になっており、ノムガンはその後のカイドゥとの戦いにほとんど活躍しないまま、数年のうちに没した。ノムガンに子はなかったので、北安王家は1代で断絶し、その軍隊は1291年に晋王に封ぜられた甥のカマラに引き継がれた。 Category:元の皇族 Category:クビライの子女 Category:クビライ家 Category:生没年不詳.

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チャブイ

チャブイ(Čabui, ? - 1281年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン(カアン)、世祖クビライの皇后。漢字表記は察必、『集史』のペルシア語表記では چابوى خاتون Chābū'ī Khātūn または چابون خاتون Chābūn khātūn として表れる。諡は昭睿順聖皇后。 コンギラト部族の出身で、父の・ノヤン(按陳那顏)はチンギス・カンの第一夫人ボルテの弟である。伯母ボルテの孫にあたるクビライと結婚し、夭折したドルジと、後にクビライ政権で活躍するチンキム、マンガラ、ノムガンの4子を産んだ。 チャブイはチンギス・カン家の姻族としてモンゴル帝国の中でも特に有力な部族の出であり、実家のコンギラト部族をはじめとする五投下と呼ばれる部族集団は、兄である皇帝モンケによって中国の経略を委ねられたクビライを支えて活躍した。特に同母姉が嫁いだジャライル部のムカリの子・ボオルの三男バアトルはクビライの腹心となり、1259年のモンケ死後のクビライのカアン位奪取に功があった。またチャブイ自身、その宮廷(オルド)にアフマドら有能な商人を個人的な用人に集めて利殖を行い、財産を蓄えて勢力があった。 1271年にクビライが樹立した元では、次男のチンキムが燕王、三男のマンガラが安西王、四男のノムガンが北平王に封ぜられ、それぞれが中国北部、中国西部、モンゴル高原を分担して統治した。中央政府ではチンキムが行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を統括し、さらにバアトル夫妻の子でチャブイの甥にあたるアントンが中書省の長官となった。加えて、クビライによって新設された財務部局の長官として、チャブイの用人であるアフマドが抜擢され、元の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。このような状況を指して、大元王朝とはチャブイを扇の要とするコンギラト政権であったと評価する歴史家もいる。 やがて、中央政府で実権を握るチンキムの権勢が高まり、1273年に皇太子の称号を与えられるが、同時にチャブイには皇后の印璽が与えられた。この頃、帝国の財務部門を握り、中書省の勢力をアントンと二分するアフマドの権勢も高まり、その党派がチンキム・アントンのもとに集まったモンゴル貴族・漢人官僚と反目を深めていくが、両者の接点としてチャブイがあったために、対立は決定的なものにはならなかった。 1281年にチャブイが死ぬと、たちまちチンキム派とアフマド派の反目は激化し、翌年にはアフマドの暗殺に至る。 1294年2月18日(至元31年1月癸酉)にクビライが没し、同年6月3日(5月戊午)に聖徳神功文武皇帝と諡され、廟号を世祖とすると、チャブイも昭睿順聖皇后と追諡を受けた。 チャブイの築いた莫大な財産は、同じコンギラト部族出身のチンキムの夫人ココジンが相続した。 Category:元の皇后 Category:クビライ Category:コンギラト部 Category:1281年没.

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チンキム

チンキム(Činkim, 1243年 - 1286年1月5日)は、モンゴル帝国(元)の皇族。クビライと皇后チャブイの次男。漢字表記は真金。『集史』のペルシア語表記では چيم كيم Chīm-kīm と書かれる。父クビライの治世に皇太子の称号を帯びて中国の政務を委ねられ、絶大な権力を誇ったが、父に先立って早世した。没後、彼の三男で正妃ココジンとの子である成宗テムルによって、裕宗の廟号と文恵明孝皇帝の諡号を贈られた。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

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バヤン (バアリン部)

バヤン(Bayan, 1236年 - 1295年)は、モンゴル帝国の将軍で、元を開いた大ハーン、クビライの重臣。漢字表記は伯顔。元が南宋を併合したとき、南宋討伐軍の総司令官として活躍した。.

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バイジュ (ジャライル部)

バイジュ(拝住、1298年-1323年)は、元朝中国末期の重臣。モンゴル・ジャライル部の出身。元朝初期の功臣・ムカリの子孫で、フビライ時代の右丞相アントンの孫にあたる。.

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ムカリ

フバートル広場の記念像 ムカリ(Muqali guy-ong、1170年 - 1223年)は、モンゴル帝国の初代ハーンであるチンギス・カンの家臣。チンギス・カンの左翼諸軍に属す24の諸千戸隊を統括する万戸(トゥメン)の長であった。『元朝秘史』に載る1206年のチンギス・カン即位時の功臣表では、モンリク・エチゲ、ボオルチュに次ぐ第3位に数えられる。『元朝秘史』『元史』などの漢語表記では木華黎、木合黎、木花里、謀合理、摩睺羅など。『集史』のペルシア語表記などでは「ムカリ国王」の音写である、 موقلىكويانك Mūqalī Kūyānk などと書かれる。『元朝秘史』『集史』によれば、チンギス・カンによって右翼諸軍を統括するボオルチュとならび、カラウン・チドンとよばれる地域を統べる左翼万戸長に任じられたと言う。ボオルチュとならぶモンゴル帝国創業の大勲臣のひとりであり、死後に東平王、魯国王に封じられる。 ジャライル部族の首長家であるジャアト・ジャライル氏族(チャアト〜ジャアト Ča'at〜Čaγat<Jaad, جات Jāt)の出身。ジャアト・ジャライル氏族長テレゲトゥ・バヤンの息子グウン・ウアの子。兄弟にタイスン、ブカなどがいたことが知られている。ジャアト・ジャライル氏族、なかでも彼を祖とするムカリ国王家は、大元ウルス時代を含めモンゴル帝国東部でもっとも影響力の強かったモンゴル諸侯家のひとつであった。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンケ・テムル

モンケ・テムル(Mängü-Temür, Möngke-Temür, ? - 1280年?)は、ジョチ・ウルスの第6代宗主(ハン)である。(在位:1267年-1280年?) バトゥ(チンギス・ハーンの長男・ジョチの次男)の次男の次男であり、バトゥの孫に当たる。モンケ・テムルは中世モンゴル語発音で、テュルク語発音でマング・ティムールとも呼ばれている。漢語資料では忙哥帖木兒、蒙哥鐵木と表記され、ペルシア語資料では مونككه تيمور Mūnkka Tīmūr と表記される。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モンゴル帝国帝位継承戦争

モンゴル帝国帝位継承戦争(モンゴルていこくていいけいしょうせんそう、1260年 - 1264年)は、モンゴル帝国の第4代大ハーン(皇帝)モンケの死後に、その一つ下の弟・クビライと、一番下の弟・アリクブケの兄弟が共に大ハーン継承を宣言したことから起きた内乱。当初はアリクブケが優勢だったが、最終的にはクビライが勝利を収め名実共に第5代大ハーンとなった。 古来「アリクブケの乱」の呼ばれてきたモンゴル帝国の内戦を、歴史理論学の立場から言い換えた現代的表現である。『集史』を始めとするペルシア方面で書かれた多くの史書がアリクブケを大ハーンの一人として扱っており、開戦当初はジョチ家・チャガタイ家などほとんどの帝国の構成員がアリクブケを支持する立場をとったことを示す資料が数多く残っている。このことから、クビライこそが当初は反乱者であり、「アリクブケの乱」という名称は勝者クビライによって後に捏造されたと考えられる。.

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ボルテ

ボルテ・ウジン(、 1161年? - ?)は、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンの第一皇后。コンギラト部族出身。漢字表記は孛児台、『元朝秘史』では孛児帖旭真、『集史』のペルシア語ではと表記される。「ウジン」とは漢語の夫人に由来する称号でモンゴル王族の正妃が名乗る尊称である。元朝から光献翼聖皇后と諡名される。名はモンゴル部族の始祖として夙に有名な「蒼き狼(ボルテ・チノ)」のボルテと同じで、「灰色のまだら模様」を意味する。.

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アリクブケ

アリクブケ(モンゴル語:, ラテン文字転写: )は、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。漢文史料では阿里不哥、ペルシア語史料では()と書かれる。書籍によってはアリクブカとも表記される。.

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アルマリク

アルマリク(Almalik)は中央アジア、イリ川渓谷(イリ地方)の歴史的都市。モンゴル帝国時代の13世紀から14世紀頃にイリ川渓谷を経て天山山脈北麓を通る交易路の拠点として栄え、またイリ地方の周辺に広がる草原地帯の遊牧民たちが拠点として利用した。正確な位置は明らかではないが、現在の中国新疆ウイグル自治区北西部、サリム湖の南バットゥータ『大旅行記』4巻、229頁、カザフスタンとの国境に近いイーニン(クルジャ)の近辺に存在していたと考えられている松田「アルマリク」『アジア歴史事典』1巻、120頁。 アルマリクの前身は、唐の史書に表れる「弓月城」と推定されている。アルマリクの名は13世紀にはじめて歴史にあらわれ、耶律楚材や長春真人の旅行記には「阿里馬里城」、アルメニア国王の旅行記には「ハルアリク(Halualekh)」と記される。この名はテュルク語で「リンゴのなる町」を意味している。 13世紀初頭、カルルク族の首長オザルがアルマリクを中心に勢力を形成すし、西遼(カラキタイ)に臣従していたドーソン『モンゴル帝国史』1巻、97頁。モンゴル帝国が勢力を拡大すると、1211年頃にオザルは西遼から離反してチンギス・ハーンに帰順するが、オザルは西遼の帝位を簒奪したナイマンのクチュルクに殺害される。オザルの死後、チンギスの命によってオザルの子スクナーク・テギンがアルマリクの指導者の地位を継ぎ、チンギスの長子ジョチの娘を娶った。 チンギスの死後、アルマリクはイリ地方一帯の遊牧地を所領(ウルス)とするチンギスの次男チャガタイに与えられる。チャガタイは春夏の期間をアルマリクの周辺とイリ川南のクヤスで過ごし、アルマリクはスクナーク・テギンとその一族によって統治されていた。14世紀初頭にいわゆるチャガタイ・ハン国が形成されるとその中心都市となった。アルマリクはチャガタイ・ハン国の中心地とされてから重要性を帯び、14世紀には東方におけるキリスト教の拠点の一つとして機能した。 14世紀中頃には東チャガタイ・ハン国の再建者でモグーリスタンの遊牧民たちをイスラム教に改宗させたトゥグルク・ティムールがこの地を本拠地とし、1362年に亡くなるとアルマリクに葬られた。その後もモグーリスタン・ハン国と呼ばれるトゥグルク・ティムールの後裔たちはこの地方を拠点としたが、15世紀に入るとカザフスタンの草原地帯にウズベクやカザフが興って圧迫を受け、モグーリスタンのハンたちは草原地帯を捨ててタリム盆地のオアシス都市に移っていった。ウズベクによる破壊を受けたアルマリクも衰亡し、イリ地方の中心都市としての機能はクルジャに移って歴史から姿を消した。 現在は、トゥグルク・ティムールの霊廟もクルジャにある。.

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アフマド・ファナーカティー

アフマド・ファナーカティー(Ahmad Fanākatī, احمد فناكتى, 生没年: ? - 1282年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン、クビライに仕えたムスリム(イスラム教徒)の財務官僚。漢字表記は阿合馬。「アクマト」とも呼ばれる。.

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ウドゥルタイ

ウドゥルタイ(兀都帯、1271年-1302年)は、元朝中期の武将。アントン(安童)の子でバイジュの父。 父と同様に宿衛長を務める。『元史』安童伝によれば、父が没した際には一切の贈物を受け取らずに質素な葬儀を行い、母親には孝を尽くしたとされている。クビライの崩御、テムルの即位に際しては銀青栄禄大夫・大司徒を拝し、太常寺のことを掌ってクビライの葬儀や廟号決定などに深くかかわった。 その一方でテムルの時代に入ると、ウドゥルタイがテムルに反抗的な諸侯の1人として名前が登場するようになる。元貞2年(1296年)11月、ウドゥルタイらがオゴタイ以来3代のモンゴル帝国大ハーン(元朝皇帝)の実録を訳してテムルに進上したところ、テムルはその内容に錯誤が多いと激怒している(『元史』成宗紀)。翌大徳元年(1296年)閏12月には、テムルが2年連続(今年と直前に迫った翌年の)正月の朝賀に際してウドゥルタイが雪を理由に遅れていることを非難して崔彧に監察を命じている(『元史』崔彧伝)。その背景には父アントンの失脚後の一族の不遇に対するウドゥルタイの不満やテムルのウドゥルタイに対する不信感などがあったと考えられている。実際、ウドゥルタイが在世中には実務的な要素の強い官職には任じられていない。 大徳6年(1302年)に32歳で死去、当時5歳であった遺児バイジュには宿衛長は務まらず、直ちに継ぐことは許されなかった。7年後の至大2年(1309年)、バイジュが宿衛長に任じられ、その際にウドゥルタイにも保徳翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・東平王の称号と忠簡の諡号が追贈されている。.

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カラコルム

ラコルム( 転写:Qaraqorum)は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市、かつてのモンゴル帝国の首都である。 カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。ペルシア語資料では قراقوروم Qarā-qūrūm と表れ、漢語資料では哈剌和林、略して和林と表記される。また現代モンゴル語ではハラホリン(Хархорин)と表記される。 「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるという。1260年に書かれたペルシア語資料『世界征服者史』によれば、カラコルムの名前の由来は都市の近くにある「カラコルム山」という黒色の石材が取れる山の名前に由来していると伝えられている。.

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カイドゥ

イドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: 転写: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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シリギ

リギ(Širigi, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。『集史』などのペルシア語表記では شيركى (Shīrikī) 、漢字表記は失列吉、昔列吉、習列吉など一定しない。.

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ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

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サンガ (元)

ンガ(Samgha, ? - 1291年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーンであるクビライに仕えた財務官僚。漢字表記は桑哥。ペルシア語資料の表記では سنكه sanka/sanga 。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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長澤和俊

長澤 和俊(ながさわ かずとし、1928年(昭和3年) - )は、日本の東洋史学者。専門はシルクロード史。東京都出身。文学博士。.

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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1245年

記載なし。

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1265年

記載なし。

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1274年

記載なし。

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1275年

記載なし。

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1276年

記載なし。

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1284年

記載なし。

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1285年

記載なし。

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1287年

記載なし。

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1291年

記載なし。

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1293年

記載なし。

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1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.

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