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ガズニー

索引 ガズニー

ナ朝時代のミナレット ガズニー(Ghazni, ダリー語: غزنى Ghaznī)はアフガニスタンの都市。ガズニー州の州都。人口は141,000人 (2006年の公式推計)。ペルシア語、アラビア語ではガズニーン غزنين Ghaznīn とガズナغزنة Ghazna の双方で呼ばれた。 カーブルとカンダハールの間に位置する交通の要所。標高約2220メートルの高地にある。商工業が盛んなほか、農作物の集散地としての役割も果たす。約130キロ北東にカーブルが位置している。住民はパシュトゥーン人が多く、ハザーラ人とタジク人がそれに続く。.

41 関係: 大唐西域記ペルシア語ミナレットマフムード (ガズナ朝)ハザーラ人モンゴル帝国ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファールヘイワード (カリフォルニア州)パンジャーブパシュトゥーン人ビールーニーニーシャープールホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドアラビア語アルプテギーンアフガン戦争アフガニスタンアフガニスタンの州イランインドイギリスイスラム教カンダハールカーブルガズナ朝ガズニー州クラウディオス・プトレマイオスゴール朝ザーブル州ジャラールッディーン・メングベルディーターリバーンタジク人サーマーン朝サッファール朝玄奘三蔵突厥2006年870年962年9世紀

大唐西域記

『大唐西域記』(だいとう さいいきき)とは、唐僧玄奘が記した当時の見聞録・地誌である。646年(貞観20年)の成立。全12巻。玄奘が詔を奉じて撰述し、一緒に経典翻訳事業に携わっていた長安・会昌寺の僧、弁機が編集している。 求法の旅を終えて帰国した玄奘は持ち帰った経巻の訳業を皇帝の太宗に願い出た。許可に当たって西域の詳細な報告書を提出するよう命じられ、編纂された報告書が本書である。 中央アジアからインドにわたる、玄奘が歴訪した110か国および伝聞した28か国(更に16か国を付記する)について、具体的に城郭・地区・国の状況などについて記している。.

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ペルシア語

ペルシア語のファールシー ペルシア語(ペルシアご、فارسی‌, پارسی‌; Fārsī, Pārsī)は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。.

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ミナレット

ミナレット(Minaret)は、モスクやマドラサなどのイスラム教の宗教施設に付随する塔。塔の上からはイスラム教徒に礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンが流される。初期イスラーム世界では、ミナレットはイスラームの権威の象徴となっていた杉村「ミナレット」『新イスラム事典』、471-472頁。 ミナレットはアラビア語で「火、光を灯す場所」を意味するマナーラ (منارة manāra) が英語に転訛した言葉である。アラビア語では「光(ヌール)」「火(ナーラ)」から派生したマナール (منار manār) あるいはマナーラ (منارة manāra) のほか、「アザーンを行う場所」を意味するマアザナと呼ばれることもある。トルコ語では「ミナレ(Minare)」と呼ばれ、エジプトやシリアでは「マダーナ(Ma'dhana)」「ミダーナ(Mi'dhana)」、北アフリカでは「サウマアー(Șawma'a)」とも呼ばれる。南アジアではミーナール (مينار mīnār) とも呼ばれる。日本語では「光塔」「尖塔」と訳されることもある深見『イスラム建築がおもしろい』、42-43頁。.

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マフムード (ガズナ朝)

マフムード(يمين الدولة ابو القاسم محمود ابن سبكتكين, 971年11月2日 - 1030年4月30日)は、現在のアフガニスタンのガズナを首都としたイスラーム王朝・ガズナ朝の最盛期を現出した君主(在位:997年 - 1030年)。セルジューク朝のトゥグリル・ベク以前にカリフ以外でスルターンの称号を用いた最初の人物。 マフムードは、ガズナ朝の版図をアフガニスタンからイラン、パキスタン、北西インドまでにまで拡大し、ガズナを帝国の都に作り変えた。.

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ハザーラ人

ハザーラ人(ハザーラじん、هزاره、Hazāra)は、中央アジアのアフガニスタンを中心に居住する民族である。イスラム教シーア派の信者が多い。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール

ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール(یعقوب لیث صفاری、Ya'qub ibn al-Layth al-SaffarまたはYa'qub-i Laith Saffari、840年10月25日 - 879年6月5日)は、イラン南東部の地方に存在していたサッファール朝の建国者。名前の「サッファール」はアラビア語で「銅細工師」を意味する佐藤圭四郎「サーマーン朝」『アジア歴史事典』4巻収録(平凡社, 1960年)、45-46頁清水宏祐「イラン世界の変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)、72-73頁。ペルシアの一平民であるヤアクーブの即位はアッバース朝から忌み嫌われ、アッバース家のカリフたちとターヒル家をはじめとするアラブ世界の貴族たちはヤアクーブを蔑視していた。そして、おそらくはヤアクーブの側もバグダードのアラブ人支配者や、貴族的なイランの総督を嫌悪していたヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』(前田耕作、山内和也監訳, 世界歴史叢書, 明石書店, 2005年4月)、292-293頁。 ヤアクーブの支配はイランとアフガニスタンに相当する地域だけでなく、パキスタン西部とイラクの一部に及んだ。ヤアクーブの死後、彼の立てた政権は弟のアムル・イブン・アル=ライスが継承した。 イランでは歴史的英雄の1人として人気が高く、ヤアクーブにまつわる多くの伝説が存在するデニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)、136-138頁。民間伝承では、ヤアクーブは裕福な人々から盗みを働いて貧しい人々を助ける、イギリスのロビン・フッドのような義賊として語られている。.

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ヘイワード (カリフォルニア州)

ヘイワード(Hayward)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州アラメダ郡にある市。サンフランシスコ湾東岸に位置する。人口は約12万人。.

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パンジャーブ

1909年のパンジャーブ地図 赤い城(デリー) 時計塔(ファイサラーバード) パンジャーブ(PunjabあるいはPanjab、パンジャブとも)は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。 インド・パキスタンの分割の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。.

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パシュトゥーン人

パシュトゥーン人(پښتانه paštanh、پښتون Pashtūn)は、アフガニスタンのイラン系民族。アフガニスタン内で最大の人口を持つ民族である。パフトゥーン(Pakhtun)、パターン(Pathan)、アフガン(アフガーン (Afghān))など様々な名で知られ、アフガニスタン(アフガーニスターン (Afghānistān))は、ペルシア語・ダリー語で「アフガン人(パシュトゥーン人)の国」という意味。.

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ビールーニー

ビールーニーによって描かれた月の満ち欠け(月相)における大地から見た太陽光によって生じる光っている部分と影の部分との対応関係を示した図。右のやや大きめの円が太陽。左の大円の周囲に配された小円は地球を公転する月のそれぞれ位置を示し、赤い直線が陽光などの光線を表す。『占星術教程の書』(ペルシア語版)より アブー・ライハーン・ムハンマド・イブン・アフマド・アル=ビールーニー・アル=フワーリズミー(Abū Rayḥān Muḥammad ibn Aḥmad al-Bīrūnī al-Khwārizmī, 973年9月4日/9月5日 - 1048年12月13日)は、10世紀のホラズム出身の学者。数学、天文、地理、歴史にわたって100篇を超える著書があったと見られる。現伝するのはそのうち30篇弱。代表的な著書としては、歴史書『過去の足跡』、地理書『インド誌』、精密科学書『占星術要約』、百科全書『マスウード宝典』があり、20世紀前半のアラビア科学研究における権威は、11世紀前半を「ビールーニーの時代」と呼んだ。.

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ニーシャープール

ニーシャープール(Nishapur)(نیشابور ネイシャーブール)は、イラン北東部のラザヴィー・ホラーサーン州の都市。人口は270,940人(2005年)。.

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ホラズム・シャー朝

ホラズム・シャー朝( Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。.

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アラーウッディーン・ムハンマド

アラーウッディーン・ムハンマド(علاءالدين محمد ‘Alā' al-Dīn Muhammad, 1169年 - 1220年)は、ホラズム・シャー朝の第7代スルターン(在位:1200年 - 1220年)。.

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アラビア語

アラビア語(アラビアご、اللغة العربية, UNGEGN式:al-lughatu l-ʻarabīyah, アッ.

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アルプテギーン

アルプテギーン(الپتگین Alp Tegīn、925年?勝藤「アルプ・テギン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、262-263頁 - 963年)は、ガズナ朝の建国者(在位:962年 - 963年)。サーマーン朝のグラーム(テュルク系の軍人奴隷)の出身。.

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アフガン戦争

アフガン戦争(アフガンせんそう、英語:Afghan Wars)は、近現代にアフガニスタンを舞台に起こった諸戦争のうち、特に19世紀から20世紀初頭に行われたアフガニスタンとイギリスの間の三次にわたる戦争のこと。アングロ・アフガン戦争ともいう。 第一次(1838年 - 1842年)と第二次(1878年 - 1881年)のアフガン戦争は19世紀に繰り広げられたグレート・ゲームの一環として、中央アジアに進出したロシア帝国がインドへと野心を伸ばしてくることを警戒したイギリスが、先手を打ってアフガニスタンを勢力圏に収めるために行った軍事行動であり、第二次アフガン戦争によってイギリスはアフガニスタンを保護国とした。アフガン戦争は狭義にはこの二度の戦争を指す。第三次アフガン戦争(1919年)は第一次世界大戦直後に行われた戦争で、アフガニスタンがイギリス領インド帝国に攻め込んで独立を認めさせた戦争である。.

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アフガニスタン

アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東・中央アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。 パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもある。.

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アフガニスタンの州

アフガニスタンの州は34の州(ヴェラーヤト、velāyat、県とする場合もある)で構成されている。.

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イラン

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。また、ペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン。 1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。世界有数の石油の産出地でもある。.

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インド

インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.

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イギリス

レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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カンダハール

ンダハール(Kandahar ダリー語: قندهار Qandahār)は、アフガニスタンの都市。アルガンダブ川渓谷に位置する同国南部の主要都市でカンダハール州の州都。人口は450,300人 (2006年の公式推計)で、カーブルに次いでアフガニスタン第2の都市である。標高は海抜1,005 m、31°37′N 65°43′E。 アフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人の居住地域にあり、パキスタンのペシャーワルと並ぶパシュトゥーン人の主要都市。アジアハイウェイの路線上にあり、北はウルーズガーン州のタリンコート、東はガズニーを経てカーブルに通じ、西はヘラート・ファラーを経てイランのホラーサーン地方および中央アジアに至る。南に進めば国境を越えてパキスタン領バローチスタンのクエッタに至り、インダス川下流域の大平原からインド亜大陸へと通ずる交通の要衝で、国際空港もある。 羊、羊毛、綿花、絹、フェルト、穀物、果物、ドライフルーツ、タバコの主要な交易センターである。周辺地域はザクロとブドウをはじめ質の良い果物を産出し、市内には多くの果物加工工場が稼働している。 カンダハールの名前は、前4世紀の征服者アレクサンドロス(Alexandoros)の「xandoros」の部分が転訛したとの説があるがAlexander the Great: his towns - Alexandria in Arachosia...

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カーブル

ーブル市(カーブルし、)は、アフガニスタンの首都、カーブル州の州都。日本の主だった報道機関各社は「カブール」という呼称を用いているが、学術的にも一般的にも「カーブル」が妥当である。現地語での発音も「カーブル」に近い。 ヒンドゥークシュ山脈の南縁、カイバル峠の麓の沿いの狭小な丘陵に位置する標高約1,800mの町。商業が非常に活発であるほか、皮革・家具・ガラス工業、テンサイ糖の生産なども行われる。アフガニスタンの経済的・文化的中心地で国内最大の都市である。1931年に開学された同国を代表する最高学府である国立カーブル大学はこの都市にある。ガズニー、カンダハール、ヘラート、マザーリシャリーフとアフガニスタン国内を一周する環状の高速道路で結ばれている。 3000年以上の歴史を持ち、古くから"文明の十字路"と呼ばれた。現在、数十年続いた戦災からの復興の途上にある。カトマンズと並び、ヒッピーの聖地と言われていた時期もある。.

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ガズナ朝

ナ朝(ペルシア語: غزنويان Ghaznaviyān)は、現在のアフガニスタンのガズナ(ガズニー)を首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝(955年/977年 - 1187年)。ガズニー朝ともいう。 ガズナ朝は、王家の出自はテュルク系マムルークが立てたイスラム王朝であるという点において、セルジューク朝や後のオスマン朝のように部族的な結合を保ったままイスラム世界に入った勢力が立てたテュルク系イスラム王朝とは性質が異なり、むしろアッバース朝の地方政権であったトゥールーン朝などに近い。その歴史上における重要性は特にインドへの侵入にあり、イスラム政権としては初めてとなるガズナ朝の本格的なインドへの進出は、以後のインドのイスラム化の契機となった。.

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ガズニー州

ニー州()は、アフガニスタン南東部の州である。面積は2万2461平方キロメートル(34州中8位)、総人口は約117万人(34州中5位)、人口密度は52人/平方キロ(34州中11位)である。ガズニ県やガズニ州と表記されることもある。州都はガズニー市。.

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クラウディオス・プトレマイオス

André_Thevet作。 クラウディオス・プトレマイオス(Κλαύδιος Πτολεμαῖος, Claudius Ptolemaeus, 83年頃 - 168年頃)は、数学、天文学、占星学、音楽学、光学、地理学、地図製作学など幅広い分野にわたる業績を残した古代ローマの学者。エジプトのアレクサンドリアで活躍した。『アルマゲスト』、『テトラビブロス』、『ゲオグラフィア』など、古代末期から中世を通して、ユーラシア大陸の西半分のいくつかの文明にて権威とみなされ、また、これらの文明の宇宙観や世界観に大きな影響を与えた学術書の著者である。英称はトレミー (Ptolemy)。.

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ゴール朝

ール朝(ペルシア語: غوريان Ghūrīyān)は、現在のアフガニスタンに興り、北インドに侵攻してインドにおけるムスリムの最初の安定支配を築いたイスラーム王朝(11世紀初め頃 - 1215年)。グール朝、シャンサバーニー朝とも表記し、王家はシャンサブ家という。.

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ザーブル州

ーブル州(Zābol、ダリー語表記では زابل)は、アフガニスタン南部にある州である。面積17,345.45km2、人口263,200人。州都はカラート。2016年現在の知事は、モハンマド・アシュラフ・ナーセリー。.

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ジャラールッディーン・メングベルディー

ャラールッディーン・メングベルディー(جلال الدين منكبرتي Jalāl al-Dīn Menguberdī、1199年 - 1231年8月15日)は、ホラズム・シャー朝の第8代スルターン(在位:1220年 - 1231年)。『元史』では札闌丁、『元朝秘史』では札剌勒丁莎勒壇と音写される。.

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ターリバーン

ターリバーン(طالبان、Tālibān、Taliban)は、パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラム主義組織。ムハンマド・オマルが創設し、1996年から2001年11月頃までアフガニスタンの大部分を実効支配し、アフガニスタン・イスラーム首長国(ターリバーン政権)を樹立した(国際的には一部国家を除いて承認されず)。日本語メディアでは通常タリバン(またはタリバーン)と表記される。 2016年5月にハイバトゥラー・アクンザダが第3代最高指導者に就任した。.

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タジク人

タジク(تاجيک, Tājīk; Тоҷик) は、タジキスタンを中心にアフガニスタンの北部、ウズベキスタンの東部、中国領新疆ウイグル自治区の西部などに居住するイラン系民族を指す近現代的民族区分である。.

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サーマーン朝

ーマーン朝(سامانيان Sāmāniyān, 873年 - 999年)は、中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝。 首都はブハラ。中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる間野、中見、堀、小松『内陸アジア』、68頁。ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。 サーマーン家の君主はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。 サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した。 英主イスマーイール・サーマーニーはウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している帯谷知可「イスマーイール・サーマーニー」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)、54-55頁。このイスマーイールが事実上の王朝の創始者と見なされている江上『中央アジア史』、478-479頁。.

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サッファール朝

ッファール朝(ペルシア語: سلسله صفاریان)は、地域(現在のイラン南東部スィースターン・バルーチェスターン州およびアフガニスタン南西部)を中心に存在した王朝。.

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玄奘三蔵

奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は。諡は大遍覚『全唐文』「s:zh:大唐三藏大遍覺法師塔銘(並序)」で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。 629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。.

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突厥

突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.

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2006年

この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.

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870年

記載なし。

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962年

記載なし。

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9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

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