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元史

索引 元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

123 関係: 劉因劉秉忠台湾史天沢奇皇后姚燧姚枢宋濂中国丘長春亦憐真班二十四史マジャパヒト王国チャンパ王国チャブイチャガン (タングート部)チャガン・テムルチュンシャンチンカイチンキムチンギス・カンハンクスバヤン (バアリン部)バヤン (メルキト部)バイジュ (ジャライル部)バガトル (アス)ムカリメリクモンケモンゴル帝国ヤクドゥボルテボロト・テムルボロクルボオルチュトルイトレ (チャガタイ家)トク・テムルトクトトゴン・テムルブヤンケルミシュブルガンブトゥ・キュレゲンブダシリパガン王朝パクパテムルテムル・ブカ (淮王)デイ・セチェンフスン...ドレゲネダルマバラダギベルグテイ呉澄アユルバルワダアラクシ・ディギト・クリアントン (ジャライル部)アフマド・ファナーカティーアダチアジュイリンジバルイェスン・テムルウヤルウドゥルタイエル・テムルエセン・ブカ (ケレイト部)オゴデイカマラ (元朝)カイシャンクビライクイルダルグユクコンチェク・ブカココ・テムルココジンコシラシデバラジャバル・ホージャジュルチェデイジョチスブタイスコータイ王朝ソルコクタニ・ベキサンガ (元)サイイド・アジャッル内藤湖南元 (王朝)皇帝石抹明安王シュン王恂 (元)紀伝体馬祖常許衡高啓高麗趙孟フ郭守敬阿塔海葉仙ダイ重喜耶律留哥耶律阿海耶律楚材耽羅虞集陳朝李冶正史歴史書段興智洪福源洪武漢民族朱元璋明史新元史日本1206年1367年1369年 インデックスを展開 (73 もっと) »

劉因

劉 因(りゅう いん、1249年 - 1293年)元代の中国の学者。出生の前夜に父の劉述が一人の子供を載せた馬を神人が連れてくる夢を見たところから、「駰」と名づけられ、字を夢驥といったが、後に名を因、字を夢吉と改めた。諡は文請。.

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劉秉忠

劉秉忠(りゅうへいちゅう、1216年 - 1274年)は、元の政治家。字は仲晦(ちゅうかい)。.

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台湾

台湾(タイワン、臺灣 / 台灣、台: Tâi-oân)は、東アジアの国である。 1945年に当時中国大陸を本拠地とした中華民国の統治下に入り、1949年に中華民国政府が台湾に移転した。1955年以降、中華民国は台湾本島以外にも澎湖諸島、金門島、馬祖島、東沙諸島、南沙諸島の太平島を実効支配しているが、全体の面積に占める台湾(本島)の割合は99%以上になる。そのため、中華民国の通称として「台湾」と表記される(詳細は定義参照)。近隣諸国としては、東及び北東に日本、南にフィリピンがある。事実上の首都は台北市である。台北県が直轄市となったことにより成立した新北市は、台北市及びその外港である基隆市を囲む大都市圏を包含し、2018年時点では同島で人口最多の都市である。.

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史天沢

史 天沢(し てんたく、1202年 - 1275年)は、モンゴル帝国(元朝)に仕えた漢人軍閥の1人である。字は潤和。史秉直の次男で、史天倪の弟。子に史格。 華北の漢人軍閥で、父は史秉直といい、真定(河北省正定県付近)地方に勢力を誇った軍閥である。史家は金王朝に仕えていたが、金がモンゴルの攻勢に押された上に内紛を繰り返したことから、1213年にチンギス・カンの有力武将・ムカリに降伏して以後はモンゴルの家臣となった。兄の史天倪と共に各地を転戦して武功を挙げたが、その兄が1225年、金の軍閥である武仙を降伏させた直後、今度は南宋と内通した武仙によって殺害されたため、史天沢は武仙を討って兄の後を継いで都元帥となる。以後は漢人軍閥の重鎮として華北の漢人軍閥を率いて、金討伐でも功績を立てた。 モンゴル・南宋戦争が始まると、華北に所領を与えられたクビライと誼を通じた。しかし第4代ハーンであるモンケの時代には、モンケとその党派による漢人排斥の動きなどから弾圧され、不遇であった。モンケの死後、クビライとアリクブケとの間に争いが起こると(アリクブケの乱)、クビライに味方してその擁立に大きく貢献した。1262年2月にはその継承争いの最中に山東地方の漢人軍閥である李璮(りたん)の反乱が起こるが、史天沢はこれに呼応せず、むしろ鎮圧に功績を立てた。李璮討伐のためにモンゴル王族カピチ(親王 哈必赤:ジョチ・カサル家の王族か?)が史天沢は幕僚として扈従しこれを輔佐した。『元史』巻二百六 叛臣列伝の李璮の条によると、李璮が捕縛されて討伐軍の司令であった王族カピチの帳幕の前に引き出されたが、史天沢は「宜しく即ちに之を誅し、以て人心を安んず。」と言って、李璮は直ちに誅殺されたという。 クビライが第5代のハーンに即位すると、宰相に任じられて漢人の軍閥解体と華北の再編、漢人の人材推挙やモンゴルの漢化政策などで多くの功績を立てた。1268年から本格的に始まった南宋攻略戦である襄陽の戦いでは、アジュと共に将軍の1人として参戦した。南宋の名将・呂文煥の抵抗には手を焼き、足かけ5年を費やしたが、投石器の攻撃などで襄陽の重要な支城である樊城を陥落させ、そして呂文煥の妻子を使った調略により(呂文煥は襄陽の兵糧問題から妻子を城外に追い出していたが、史天沢はそれを保護していた)、1273年には呂文煥とその軍勢を投降させるという大功を立てた。 1274年、クビライより南宋攻略の大軍を率いる総司令官に任命されたが、高齢のためにまもなく病に倒れた。このため、クビライにバヤンを総司令官にするように推挙した。1275年に死去。享年74。 クビライはその死を惜しみ、鎮陽王に封じた。子の史格が後を継ぎ、史家は元王朝を支える名門貴族として続くことになる。 『元史』巻百五十五に列伝がある。.

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奇皇后

奇皇后(きこうごう、1315年頃 - 1369年もしくは1370年以降)は、14世紀の元朝最後の皇帝である順帝トゴン・テムルの皇后。モンゴル名を表した漢字表記は完者忽都(Ölǰei Qutuq、オルジェイ・クトゥク)皇后。諡号は普顕淑聖皇后。高麗出身で、北元皇帝アユルシリダラを生んだ。本貫は幸州奇氏。 モンゴル帝国の高麗征服以後、高麗王室は忠烈王が世子時代にモンゴル皇帝クビライの下で近衛集団であるケシクに入侍し、さらに高麗国王として退下・即位するとその公主の降嫁を受けることが習わしとなった。以後、高麗王室は元朝の皇帝家であるクビライ家を宗主とする「高麗駙馬王家」の称号を許され、元朝を支える姻族のひとつとなった。これに伴いモンゴル皇帝や皇族の公主が歴代の高麗王に降嫁していた高麗王は、元の征東行省の長官かつ元帝の女婿、という独自の国際的地位を確保した。高麗王家とモンゴル皇帝家との姻戚関係を結ぶことで、それまでの武臣政権時代のような、有力家臣集団から高麗王家への政治的干渉を解除することにひとまず成功した。 こうして高麗王国内から、ケシク要員や官吏等として元朝宮廷に出仕する王族や貴族が増加した。同時に元朝中央での動乱が高麗王室に直接影響を及ぼすようになり、忠宣王、忠粛王、忠恵王のように元朝宮廷での争乱の影響で後援する皇族の消長に伴って王位が改廃される事態が続くようになった。このような13世紀後半から14世紀前半にかけての元朝宮廷・高麗政権間の人的・政治的関係の中で出現したのが、奇皇后、「完者忽都皇后奇氏」という高麗人元室皇后である。.

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姚燧

姚 燧(よう すい、1239年 - 1314年)は、中国元初の学者・官僚。字は端甫、号は牧庵。柳城(現在の遼寧省朝陽市)出身。.

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姚枢

姚枢(ようすう、1200年 - 1280年)は、モンゴル帝国配下の官僚。クビライの漢人参謀を務めた人物である。字は公茂(こうも)。甥に姚燧がいる。.

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宋濂

宋 濂(そう れん、1310年(至大3年) - 1381年(洪武14年))は中国・元末明初の政治家・儒学者・文学者。字は景濂。号は潜渓・無相居・竜門子・玄真子。浦江(浙江省浦江県)出身(先代まで金華・潜渓村)。 貧しい家庭に生まれたが、学問を好み、儒学に精通するようになった。呉莱、柳貫、黄溍といった古文の大家に学び、1335年(至元元年)には義塾(私塾)の教師となった。順帝のとき翰林院編修に任ぜられたが、父母に孝養を尽くす事を理由に固辞して隠居し、著述に専念した。 1360年(至正20年)、浙東四先生のひとりとして名声が高まっていた宋濂は、有力な反乱勢力となっていた朱元璋(洪武帝)に招聘された。朱元璋が明を建国すると、江南儒学提挙に任ぜられ太子に儒教の経典を講じた。そして、明代の礼楽制度を多く裁定した。1369年(洪武2年)、『元史』の編纂を命じられ、その主任となった。官は翰林学士承旨・知制誥に至った。1377年(洪武10年)、老齢を理由に官を辞し故郷に帰った。1380年、孫の宋慎が胡惟庸の獄に巻き込まれ、家族全員が茂州(現在の四川省茂県)に流罪となった。そして流刑地に赴く途中夔州(現在の重慶市奉節県)で病死した。諡は文憲。 文学史の分野では、宋濂は劉基・高啓とならんで明初の詩文三大家の一人に数えられている。儒教においても、自ら儒教の伝統の正統な継承者を以て任じていた。唐・宋代の文を手本に「宗経」「帰古」をモットーとして多くの著作を残した。その他の著作は伝記や散文が主で、その文体は質朴簡潔であるが、おおらかで優雅な面ももつというそれぞれに異なった特色がある。朱元璋は宋濂を評して「開國文臣之首」(開国に功のある文臣の首席)とし、劉基は「當今文章第一」(当代随一の文章家)と賞賛し、当時の様々な学者たちは「太史公」(『史記』の作者司馬遷になぞらえる)と呼んでいた。著作には『宋学士全集』・『浦陽人物記』・『洪武聖政記』がある。 弟子に明代初期の有名な学者方孝孺がいた。 Category:中国の儒学者 Category:近代以前の中国の歴史家 Category:14世紀の学者 Category:明代の人物 Category:金華出身の人物 Category:1310年生 Category:1381年没.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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丘長春

丘 長春(きゅう ちょうしゅん、、1148年(皇統8年)-1227年(太祖22年))は、道教の一派、全真教の金末期から元初期の道士。 姓は丘、諱は処機、字は通密。道号は長春()、全真教における尊称として「長春真人」と呼ばれる。.

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亦憐真班

亦憐真班(イリンチンバル、1322年 - 1375年)は、高麗の第28代王忠恵王の妃。モンゴル人で、元の関西王焦八の娘。クビライの玄孫にあたる。忠恵王が1330年に即位した際に娶る。1367年、元より貞順淑儀公主に封ぜられる。.

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二十四史

二十四史(にじゅうしし)は、中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む。.

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マジャパヒト王国

マジャパヒト王国(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は、1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いたとの説があるが一方で、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。なお、表記に「マジャパイト」と書くこともある。綴りは"Majapahit"であるが、ジャワ語では、h音を発音しないからである。.

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チャンパ王国

チャンパ王国(、192年 - 1832年)は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだ。.

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チャブイ

チャブイ(Čabui, ? - 1281年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン(カアン)、世祖クビライの皇后。漢字表記は察必、『集史』のペルシア語表記では چابوى خاتون Chābū'ī Khātūn または چابون خاتون Chābūn khātūn として表れる。諡は昭睿順聖皇后。 コンギラト部族の出身で、父の・ノヤン(按陳那顏)はチンギス・カンの第一夫人ボルテの弟である。伯母ボルテの孫にあたるクビライと結婚し、夭折したドルジと、後にクビライ政権で活躍するチンキム、マンガラ、ノムガンの4子を産んだ。 チャブイはチンギス・カン家の姻族としてモンゴル帝国の中でも特に有力な部族の出であり、実家のコンギラト部族をはじめとする五投下と呼ばれる部族集団は、兄である皇帝モンケによって中国の経略を委ねられたクビライを支えて活躍した。特に同母姉が嫁いだジャライル部のムカリの子・ボオルの三男バアトルはクビライの腹心となり、1259年のモンケ死後のクビライのカアン位奪取に功があった。またチャブイ自身、その宮廷(オルド)にアフマドら有能な商人を個人的な用人に集めて利殖を行い、財産を蓄えて勢力があった。 1271年にクビライが樹立した元では、次男のチンキムが燕王、三男のマンガラが安西王、四男のノムガンが北平王に封ぜられ、それぞれが中国北部、中国西部、モンゴル高原を分担して統治した。中央政府ではチンキムが行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を統括し、さらにバアトル夫妻の子でチャブイの甥にあたるアントンが中書省の長官となった。加えて、クビライによって新設された財務部局の長官として、チャブイの用人であるアフマドが抜擢され、元の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。このような状況を指して、大元王朝とはチャブイを扇の要とするコンギラト政権であったと評価する歴史家もいる。 やがて、中央政府で実権を握るチンキムの権勢が高まり、1273年に皇太子の称号を与えられるが、同時にチャブイには皇后の印璽が与えられた。この頃、帝国の財務部門を握り、中書省の勢力をアントンと二分するアフマドの権勢も高まり、その党派がチンキム・アントンのもとに集まったモンゴル貴族・漢人官僚と反目を深めていくが、両者の接点としてチャブイがあったために、対立は決定的なものにはならなかった。 1281年にチャブイが死ぬと、たちまちチンキム派とアフマド派の反目は激化し、翌年にはアフマドの暗殺に至る。 1294年2月18日(至元31年1月癸酉)にクビライが没し、同年6月3日(5月戊午)に聖徳神功文武皇帝と諡され、廟号を世祖とすると、チャブイも昭睿順聖皇后と追諡を受けた。 チャブイの築いた莫大な財産は、同じコンギラト部族出身のチンキムの夫人ココジンが相続した。 Category:元の皇后 Category:クビライ Category:コンギラト部 Category:1281年没.

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チャガン (タングート部)

チャガン(? - 1255年)とは、西夏国出身のタングート人で、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。『元史』などの漢文史料では察罕、『集史』などのペルシア語史料ではチャガン・ノヤン(Chāghān Nūyānچغان نویان)と記される。.

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チャガン・テムル

チャガン・テムル(Čaγan-Temür, ? - 1362年)は、元の将軍。漢字表記は察罕帖木児。河南沈丘(現在の安徽省臨泉県)の人。 チャガン・テムルはナイマン部の出身であるが、曽祖父の代から河南に土着して久しく、廷瑞という漢語の字ももっていた。元末、河南で紅巾の乱が起こり河南も騒乱に巻き込まれると、地方名士であったチャガン・テムルは沈丘の住民数百名を集めて義勇軍を率い紅巾軍と戦った。やがて賊軍を破った功績により汝寧府のダルガチ(行政官)に取り立てられ、河南地方における軍閥に成長し始める。 紅巾軍が北方に進出すると河北に出兵してこの地方を完全に平定し、中書刑部侍郎、ついで山東の一帯を転戦して1356年には大臣級の中書兵部尚書にまでのぼった。さらに同じ頃河南の旧都開封に韓林児を奉じて入城した紅巾軍の首魁劉福通を破り、韓林児の家族をはじめとして、その捕らえるところ数万という大勝利を収めた。1359年、チャガン・テムルはついに開封を奪還する。 晩年には河南から山西の南部に勢力圏を伸ばし、北部の大同を本拠地とする軍閥ボロト・テムルと対立した。その後、再び山東に現われた賊軍の討伐に向かい、その首魁田豊、王士誠を降伏させたため、それを賞した元朝のトゴン・テムル・ハーンから中央政府の宰相格である中書平章政事を授けられた。しかし、残敵の篭る益都の町を攻略中に軍中で田豊、王士誠によるクーデターが起こり、チャガン・テムルは王士誠によって刺殺された。 チャガン・テムルの軍は甥(妹の子)で養子のココ・テムルがすぐさま引き継ぎ、田豊、王士誠の逃げ込んだ益都を落としてその復讐を果たした。.

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チュンシャン

チュンシャン(? - ?)とは、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えた家臣の一人。『元史』などの漢文史料では粘合重山、或いは崇山と記される。また、『集史』などのペルシア語史料ではチュンシャン太傅(چونگشان طایفو Chūngshān Ṭāīfū)と記される。.

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チンカイ

チンカイ(Činqai/チンハイ、? - 1251年?長沢「チンハイ」『アジア歴史事典』6巻、371頁)は、モンゴル帝国の政治家。『集史』『世界征服者の歴史』などのペルシア語資料では چينكقاى بيتكچى Chīnkqāī Bītikchī、 چينقاى بيتكچى Chīnqāī Bītkchī と書かれる。漢語史料では鎮海と書かれ、田鎮海とも呼ばれた。漢語史料の『元史』ではケレイト部族の出身、ペルシア語の『集史』ではウイグル部族とされる史料に見られるチンカイの出自の違いについて、東洋史学者の村上正二はチンカイはケレイト部族に属していたウイグル人商人であり、チンギスのケレイト平定後にモンゴルに加わり、財政顧問として重要な役割を担うことになったと説明している。(村上正二「元朝における泉府司と斡脱」『モンゴル帝国史研究』収録(風間書房, 1993年5月)、58,93頁)。ネストリウス派のキリスト教徒だと伝えられているドーソン『モンゴル帝国史』2巻、257頁。.

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チンキム

チンキム(Činkim, 1243年 - 1286年1月5日)は、モンゴル帝国(元)の皇族。クビライと皇后チャブイの次男。漢字表記は真金。『集史』のペルシア語表記では چيم كيم Chīm-kīm と書かれる。父クビライの治世に皇太子の称号を帯びて中国の政務を委ねられ、絶大な権力を誇ったが、父に先立って早世した。没後、彼の三男で正妃ココジンとの子である成宗テムルによって、裕宗の廟号と文恵明孝皇帝の諡号を贈られた。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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ハンクス

ハンクス(杭忽思、昂和思、生没年不詳)は、アス国主。モンゴル帝国に服属した。.

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バヤン (バアリン部)

バヤン(Bayan, 1236年 - 1295年)は、モンゴル帝国の将軍で、元を開いた大ハーン、クビライの重臣。漢字表記は伯顔。元が南宋を併合したとき、南宋討伐軍の総司令官として活躍した。.

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バヤン (メルキト部)

バヤン(Bayan, ? - 1340年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は伯顔。アスト人親衛軍を率いる軍閥の長で、中国を支配した最後のモンゴル帝国大ハーンとなったトゴン・テムル(順帝)の治世初期に専権を振るった。 出自であるメルキト部は、元来チンギス・ハーンのモンゴル高原統一に抵抗して滅ぼされた部族(ウルス)であったが、バヤンの曽祖父は大ハーンの本営(オルド)に従士として仕えており、モンゴルの譜代部将の家柄に属している。祖父はモンケの南宋遠征に従軍し、父はクビライの皇太子チンキムの家に仕えた。バヤンも若くしてモンゴル軍人となり、アルタイ山脈方面の前線に派遣される懐寧王カイシャンに付属され、カイドゥとの戦いで戦功をあげて「バートル」(勇者)の称号を与えられた。 1307年、大ハーンのテムルが崩ずると政変が起こり、モンゴル高原の全遊牧民の軍団を後ろ盾とするカイシャンが勝利した。カイシャンのハーン即位により、カイシャンの部下であったバヤンも中央政府の高官である吏部尚書に任命され、カイシャン政権の有力者に列した。1309年には宰相格の尚書平章政事にすすめられるとともに、アスト人親衛軍の指揮官(阿速親軍都指揮使)に任命される。アスト人はバトゥの征西のとき征服された北カフカスのイラン系民族で現在のオセット人の先祖であり、バヤンが指揮を委ねられたアスト人親衛軍は、アスト征服の折りにモンゴル帝国に降伏したアスト人兵士からなるカイシャン子飼いの精鋭部隊であった。 しかし、1311年にカイシャンが急死を遂げ弟のアユルバルワダが即位すると、カイシャン政権の中核だった尚書省は解体され、カイシャン・アユルバルワダ兄弟の母である皇太后ダギの息のかかった将軍が取り立てられた。尚書省のメンバーだったバヤンのアスト人軍閥もカイシャン派として左遷され、中央から遠く離れた南方の地方官に転出する。1323年、晋王イェスン・テムルがハーンに即位すると、モンゴル高原から自らの子飼いの部将を引き連れてきたイェスン・テムルによってダギ派に属する有力者が一掃されたため、カイシャン派の残党であるバヤンの待遇も和らいで、1326年に中央に近い河南行省の平章政事に任ぜられた。 1328年、イェスン・テムルが上都で急死すると、再び大ハーンの座を巡って政変が起こり、大都に駐留していたカイシャン恩顧のキプチャク人親衛軍の将軍エル・テムルが決起を企てて江陵にいたカイシャンの遺児トク・テムルを迎えるための使者を送り出した。この使者が河南を通過する際にバヤンは計画を聞きつけ、エル・テムルの決起に協力、トク・テムルを河南に迎えてともに大都に向かった。こうしてトク・テムルがハーンに即位すると、朝廷ではハーンを擁立したエル・テムルのキプチャク人軍閥、バヤンのアスト人軍閥ら非モンゴル系の軍閥が実権を握ることになり、バヤンは中書左丞相、知枢密院事などの肩書きを与えられた上、ついには浚寧王の王号まで名乗って皇族なみの待遇を受けるに至った。 1332年にトク・テムルが没すると、バヤンはエル・テムルとはかってまだ幼児のイリンジバルをハーンに立てる。しかし、新ハーンはわずか2ヶ月で死んでしまい、翌1333年にはエル・テムルが病没した。エル・テムルに代わる朝廷の最有力者となったバヤンは代わりのハーンとしてイリンジバルの兄トゴン・テムルを擁立し、自ら中央政府の首班である右丞相に就任。1335年にはエル・テムルの遺児タンキシの起こしたクーデターを鎮圧し、ついに独裁権を掌握する。 やがてトゴン・テムルは成人するにつれてバヤンの専権を疎ましく思うようになったが、丁度バヤンの甥トクトが伯父を排斥しようとトゴン・テムルに接近してきた。1340年、トゴン・テムルの後援を受けたトクトはバヤンが宮廷を留守にした隙にクーデターを起こし、バヤンを失脚させた。バヤンは広東への流刑に処され、南に向かう途上で病死した。 バヤンは元では細々と実施されていた科挙を廃止したり、漢族を虐殺して人口を減らすことを提案するなど、中国文化を排撃したことで有名である。彼にかわって政権を握った甥のトクトが科挙を復活し、欧陽脩以来の正史となる『遼史』『金史』『宋史』の修史事業を行うなど、伯父とは対照的に中国文化に理解の深い為政者であったことから、トクトによるバヤンの追放は高原派と漢地派による対立であったと説明されることも多い。 はやん、めるきと はやん、めるきと はやん、めるきと.

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バイジュ (ジャライル部)

バイジュ(拝住、1298年-1323年)は、元朝中国末期の重臣。モンゴル・ジャライル部の出身。元朝初期の功臣・ムカリの子孫で、フビライ時代の右丞相アントンの孫にあたる。.

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バガトル (アス)

バガトル(抜都児、拔都兒、生年不詳 - 1297年)は、元の軍人。アス族の出身。.

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ムカリ

フバートル広場の記念像 ムカリ(Muqali guy-ong、1170年 - 1223年)は、モンゴル帝国の初代ハーンであるチンギス・カンの家臣。チンギス・カンの左翼諸軍に属す24の諸千戸隊を統括する万戸(トゥメン)の長であった。『元朝秘史』に載る1206年のチンギス・カン即位時の功臣表では、モンリク・エチゲ、ボオルチュに次ぐ第3位に数えられる。『元朝秘史』『元史』などの漢語表記では木華黎、木合黎、木花里、謀合理、摩睺羅など。『集史』のペルシア語表記などでは「ムカリ国王」の音写である、 موقلىكويانك Mūqalī Kūyānk などと書かれる。『元朝秘史』『集史』によれば、チンギス・カンによって右翼諸軍を統括するボオルチュとならび、カラウン・チドンとよばれる地域を統べる左翼万戸長に任じられたと言う。ボオルチュとならぶモンゴル帝国創業の大勲臣のひとりであり、死後に東平王、魯国王に封じられる。 ジャライル部族の首長家であるジャアト・ジャライル氏族(チャアト〜ジャアト Ča'at〜Čaγat<Jaad, جات Jāt)の出身。ジャアト・ジャライル氏族長テレゲトゥ・バヤンの息子グウン・ウアの子。兄弟にタイスン、ブカなどがいたことが知られている。ジャアト・ジャライル氏族、なかでも彼を祖とするムカリ国王家は、大元ウルス時代を含めモンゴル帝国東部でもっとも影響力の強かったモンゴル諸侯家のひとつであった。.

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メリク

メリク(,, ? - ?)は、モンゴル帝国に仕えた千人隊長の一人。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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ヤクドゥ

ヤクドゥ(Yaqudu,,, ? - 1310/11年?)は、トゥルイの庶子ボチュクの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では牙忽都、『集史』などのペルシア語史料ではジャウトゥ(جاوتو,Jāwtū)と記される。シリギの乱やカイドゥの乱に従軍して功績を挙げた。.

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ボルテ

ボルテ・ウジン(、 1161年? - ?)は、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンの第一皇后。コンギラト部族出身。漢字表記は孛児台、『元朝秘史』では孛児帖旭真、『集史』のペルシア語ではと表記される。「ウジン」とは漢語の夫人に由来する称号でモンゴル王族の正妃が名乗る尊称である。元朝から光献翼聖皇后と諡名される。名はモンゴル部族の始祖として夙に有名な「蒼き狼(ボルテ・チノ)」のボルテと同じで、「灰色のまだら模様」を意味する。.

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ボロト・テムル

ボロト・テムル(Bolod-Temür, ? - 1365年)は、元の将軍。漢字表記は孛羅帖木児。 チンギス・ハーン以来のモンゴル譜代部将の子孫で、父のタシ・バアトルは四川・雲南方面の反乱鎮圧に活躍し宰相格の中書平章政事にのぼった軍閥である。ボロト・テムルは早くから父に従って反乱軍の討伐に活躍し、父の死後にその軍を引き継いだ。1358年には河南行省平章政事の肩書きを与えられ、河南に派遣されて開封を占拠する劉福通らの紅巾軍と戦って河南、山東の各地を転戦し、紅巾軍を打ち破って大きな戦功を残した。 1359年には元の首都大都の西にある要衝大同に入城し、山西の北部から内モンゴルの南辺を支配する大軍閥に成長する。しかし、やがて劉福通との戦いにともに活躍した河南の軍閥チャガン・テムルと山西南部の太原の支配をめぐって争うようになり、この軍閥同士の争いが宮廷における皇太子アユルシリダラと、その父トゴン・テムル・ハーンの側近たちとの権力争いと結びついて深刻な抗争となった。ボロト・テムルはもうひとつの首都上都に勢力を伸ばしたために中央政府の政治と軍事を一手に握ろうと目論む皇太子アユルシリダラと不和であり、反皇太子派の重要な後ろ盾となったので、皇太子は逆にチャガン・テムルおよびその後を継いだココ・テムルと結んだ。 1364年、宮廷において反皇太子派の高官が皇太子アユルシリダラによって処刑される事件が起こり、これをとりなして刑の減免を願い出たボロト・テムルも大同駐留を免ぜられる事件が起こった。これを聞いたボロト・テムルはついに決起して軍を居庸関に送り込んで大都に圧力をかけ、皇太子アユルシリダラを逃亡させるとともに政府に迫って皇太子派の高官を引き渡させた。ボロト・テムルが一旦兵を引くとアユルシリダラはココ・テムルに命じて大同を攻撃する一方、自らは大都に戻って対抗しようとしたが、かえってボロト・テムルが主力の大軍をもって大都に迫ったので、ついにアユルシリダラは大都を脱出して太原のココ・テムルのもとに逃げ込んだ。 ボロト・テムルは大都に入城するとトゴン・テムル・ハーンから中書右丞相に任命され、全権を掌握した。大都においてボロト・テムルは宦官やチベット仏教の僧侶を宮廷から追放してトゴン・テムルの宮廷の弊を払おうとしたが、ハーンの寵臣をはじめ多くの人々を些細な罪で殺害したため、宮廷の不満を買うばかりであった。さらにボロト・テムルに帰京を要請されたアユルシリダラは帰京を拒み、翌年ココ・テムルと結んでついにボロト・テムル打倒の兵をあげた。 ココ・テムルの軍が大都に向けて進軍してくると、ボロト・テムルは迎撃のために軍を送り出したが、迎撃軍はもとより戦意を持たず、アユルシリダラとココ・テムルに降った。ボロト・テムルはこれに驚き、自ら迎撃の軍を率いて出ようとしたが、悪天候のため大都を離れられず失敗した。 ボロト・テムルは苦境に陥ると疑心暗鬼に陥って恐怖政治をひきはじめたので、当初よりその政権に不満を募らせていたトゴン・テムル・ハーンはついにボロト・テムル誅殺の密命を下した。7月、上都において味方が勝利したとの報を受けたボロト・テムルはこれを上奏するために宮殿に向かったが、建物の前の樹下に伏せていた刺客に襲われ、殺害された。 ボロト・テムルの死後、その軍閥はことごとく討ち滅ぼされてアユルシリダラとココ・テムルが政権を奪った。ボロト・テムルはその抜群の戦功にもかかわらず、内紛の中で逆臣として殺害されたので、『元史』の「逆臣伝」中に伝が残されることとなる。 Category:元代の人物 Category:1365年没.

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ボロクル

ボロクルまたはボロウル(Boroqul, Buroγul〜Boro'ul、?-1217年)は、モンゴル帝国初期の武将。『元朝秘史』では孛囉忽勒、孛囉兀勒、『元史』では博爾忽などと記され、『集史』では بورقول نويان Būrqūl Nūyān または بورغول نويان Būrghūl Nūyān などと表記される。いわゆる四駿(Dörben külü'üd)の1人。フウシン部族出身。『元朝秘史』巻八に載る1206年のチンギス・カン第2即位での功臣リストでは第15位にあたる。.

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ボオルチュ

スフバートル広場の記念像 ボオルチュ(Bo'orču, Boγorču.

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トルイ

トルイ(モンゴル語:、Tolui、 1192年 - 1232年)は、チンギス・カンの四男。中国語表記は拖雷で、ペルシア語表記ではتولى خان (tūluy khān) またはتولوى خان (tūlūy khān) 、モンゴル語ではТулуй, Tuluiと綴られる。子孫が第4代以降のモンゴル帝国の皇帝位(大ハーン位)を世襲したために、睿宗の廟号を贈られ、景襄皇帝と諡された。日本語文献ではトゥルイ、ツルイと表記されている場合もある。トルイという名は、中世モンゴル語で「鏡」を意味する。ジョチ、チャガタイ、オゴデイの同母弟である。 幼少時から英邁で武勇に優れ、人望も厚かったという。チンギスの正妻ボルテから生まれた末子だったため、末子相続の慣行に従って父の死までウルスの分封を受けずにその手元にもつ、帝国の最有力皇族であった。.

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トレ (チャガタイ家)

トレ(Töre,,, ? - 1309年)は、チャガタイの孫ブリの曾孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では禿剌、ペルシア語史料である『ヴァッサーフ史』ではトレ・オグル(تولا اغولTūlā aghūl)と記される。.

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トク・テムル

トク・テムル(モンゴル語:、Toq-Temür、漢字:図帖睦爾、 1304年2月16日 - 1332年9月2日)は、モンゴル帝国(元)の第12代皇帝(大ハーン)。 武宗カイシャンの次男。母はタングト部の人(唐兀氏、文献昭聖皇后)で、明宗コシラの異母弟にあたる。.

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トクト

トクト(托克托・脱脱、1314年 - 1355年)は、元の宰相。漢名の字は大用。メルキト族の出身で、父はバヤンの弟であるマジャルダイ。.

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トゴン・テムル

トゴン・テムル(モンゴル語:、Toγon-Temür、漢字:妥懽帖睦爾、 1320年5月25日 - 1370年5月23日)はモンゴル帝国(元朝)の第15代皇帝(大ハーン)。廟号は恵宗であるが、明朝による追諡である順帝の名称が使用されることが多い。モンゴル語での尊号はウカアト・カアン Uqaγatu Qa'anで、『蒙古源流』『アルタン・ハーン伝』等ではオハート・トゴン・テムル・ハーン Uqaγatu Toγan Temür Qaγan 、トガン・テムル・ウハート・ハーン Toγan Temür Uqaγatu Qaγan と呼ばれている。 至正28年(1368年)に大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、『明史』では1368年に帝位を失い、元は滅亡したとして扱われる。.

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ブヤンケルミシュ

ブヤンケルミシュ(,, ? - ?)とはコンギラト部出身の晋王カマラの正妃であり、モンゴル帝国第10代皇帝イェスン・テムルの母。『元史』などの漢文史料では普顔怯里迷失と表記される。.

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ブルガン

ブルガン(ᠪᠦᠯᠭᠠᠨ 転写: bülγan、Bulγan, ? - 1307年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン、成宗テムルの皇后。漢字表記は卜魯罕、『集史』のペルシア語表記では بولوغان خاتون Būlūghān khātūn 。バヤウト部族の出身。.

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ブトゥ・キュレゲン

ブトゥ・キュレゲン(,,? - 1227年)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたイキレス部族長。チンギス・カンの娘を妻としたことから駙馬(キュレゲン)と称し、ブトゥの子孫はモンゴル帝国-大元ウルスにおいて「イキレス駙馬王家」として尊重された。『元史』などの漢文史料では孛禿/不図/不禿古堅/豹突駙馬/撥都駙馬、『集史』などのペルシア語史料ではBūtū Gūrkānبوتو گورکانと記される。.

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ブダシリ

ブダシリ(Budaširi, ? - 1340年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン、文宗トク・テムルの皇后。漢字表記は卜答失里。コンギラト部族の有力家系である魯王家の出身。母はトク・テムルの父カイシャンの姉妹で、母方を通じてトク・テムルの従姉妹に当たる。 ハーン家と代々通婚してきた名門の娘であることから即位以前の王族トク・テムルの正夫人となり、トク・テムルが懐王に封ぜられて江南に住まわされたのに従った。1328年、トク・テムルが軍閥エル・テムルに擁立されて即位すると皇后に立てられる。夫との間にはエル・テグスらの子があった。 1332年8月にトク・テムルが没すると、権臣エル・テムルはトク・テムルの子エル・テグスの擁立を望んだが、皇后ブダシリはトク・テムルの遺言を尊重するとして、トク・テムルの兄、明宗コシラの遺児を後継者に立てることを主張した。エル・テムルは、コシラの遺児を擁立するにあたり、権勢を維持するために広西に流されている年長の兄トゴン・テムルの即位を望まず、わずか7歳の弟イリンジバルを選んだ。イリンジバルがハーンに即位すると11月にブダシリは皇太后に冊立されたが、即位からわずか2ヵ月後の12月にイリンジバルは病死した。 エル・テムルは再びエル・テグスの擁立をブダシリに望んだが、ブダシリはエル・テグスがハーン位を継ぐにはまだ幼いことを理由に固辞し、コシラの長男トゴン・テムルが13歳であるからこれを立てるのが適当であると主張した。このため、ブダシリの意志によりトゴン・テムルが広西から呼び戻されて即位し、ブダシリは太皇太后の尊号を奉られて摂政したが、 政治の実権は軍閥のエル・テムル、ついでエル・テムルの死後には別の軍閥バヤンの手にあって、ブダシリとトゴン・テムルは傀儡に過ぎなかった。 しかし、トゴン・テムルは成長して20代に入るころには実権がないことを堪え難く感じるようになり、バヤンの専制政治に不満をもっていたバヤンの甥トクトと結んでクーデターを起こさせ、バヤンを打倒した。この政変の煽りでバヤンによってトゴン・テムルの後継者に内定していたエル・テグスは皇太子を廃され、実母の太皇太后ブダシリとともに追放された。エル・テグスは高麗に流される途中で殺害され、ブダシリも追放先の東安州で急死した。 Category:元の皇后 Category:コンギラト部 Category:1340年没.

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パガン王朝

パガン王朝(ပုဂံခေတ်)は現在のミャンマーに存在した、ビルマ族最初の王朝である。ビルマ語による年代記(ビルマ語王統史)での雅称はアリー・マッダナ・プーラ(征敵の都)である大野『謎の仏教王国パガン』、100頁。首都はパガン。「パガン」とは「ピュー族の集落」を意味する「ピュー・ガーマ」が転訛したものと考えられている。国王が55代続いたと言うことが一連の伝統的な王統史には書かれてあるが、出土品と碑文によってこの論はおおむね否定されている大野『謎の仏教王国パガン』、130頁。43代以前の王で唯一碑文に名前が刻まれているのはソー・ヤハンであるが、それでさえも彼が王であったことを実証しているとは言い難い。.

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パクパ

パクパ (、(1235年3月6日 - 1280年11月22日)は、 チベット仏教サキャ派(赤帽派)の座主。元王朝の初代皇帝・クビライに招請された帝師。モンゴル語化したパスパの名前で表記されることも多く佐藤「パクパ」『世界伝記大事典 世界編』7巻、296-297頁、漢語史料では八思巴、発思八、抜合思巴とも表記される藤枝「パスパ」『アジア歴史事典』7巻、372頁。本名はロテ・ギャンツェンであり、幼年期に利発さを示したため、「聖者」を意味するパクパの名前で呼ばれた。 チベットの有力氏族の一つであるコン氏の出身であり、ソェナム・ギャンツェンを父に持つ。先代の座主サキャ・パンディタの甥にあたる。.

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テムル

テムル(モンゴル語:、Temür、漢字:鐵穆耳、1265年10月15日 - 1307年2月10日)は、モンゴル帝国の第6代、大元ウルスの君主としては第2代の大ハーン。『集史』などのペルシア語表記では تيمور قاآن Tīmūr Qā'ān。テムルはモンゴル語で「鉄」を意味する名前で、ペルシャ語などのティムールに通じる。.

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テムル・ブカ (淮王)

テムル・ブカ(Temür buqa,,,1286年 - 1368年)とは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの孫で、モンゴル帝国の皇族。大元ウルスの末期に有力皇族として叛乱鎮圧に功績を挙げ、最後には大都陥落とともに戦死したことで知られる。.

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デイ・セチェン

デイ・セチェン(Dei sečen,,, 生没年不詳)は、12世紀末のコンギラト氏族長。『元史』などの漢文史料では特薛禅/徳薛禅、『集史』などのペルシア語史料ではデイ・ノヤン(Deī Nūyān)と記される。娘のボルテがテムジン(チンギス・カン)に嫁いだのを始めとして、デイ・セチェンの子孫は多くの皇后を輩出する有力姻族として知られた。.

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フスン

フスン(? - 1255年)とは、ケレイト部出身でチンギス・カンに仕えた千人隊長の一人。『元史』では哈散納、『モンゴル秘史』では許孫と記され、モンゴル語のウスン(水、河の意)に由来する名前と見られる。.

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ドレゲネ

トレゲネ(モンゴル語:、転写: Töregene, ? - 1246年)は、モンゴル帝国の第2代大ハーン・オゴデイの第6夫人で、第3代大ハーン・グユクの生母。漢字表記では脱列哥那、禿納吉納。ペルシア語表記ではトゥラキナ(توراكنه خاتون 、転写: Tūrākina Khātūn)などと綴られる。諡号は昭慈皇后。史料によっては、ドレゲネと書かれることもある。.

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ダルマバラ

ダルマバラ(Darmabala, 1264年 - 1292年)は、元の皇族。漢字表記は答剌麻八剌太子、『集史』のペルシア語表記では ترمه بلا Tarma Balā 。世祖クビライ時代の皇太子チンキムの次男で、父の死後には祖父クビライの有力な後継者候補として将来を嘱望されたが、早世した。諡は昭聖衍孝皇帝、廟号は順宗。 ダルマバラは、チンキムがコンギラト部族出身の妻ココジンとの間にもうけた3人の嫡子のうちの次男で、兄にカマラ、弟にテムルがいる。幼い頃から常にチンキムのもとに留められて膝下に育てられ、子供のうちに名門コンギラト部族出身のダギを妻に迎え入れるなど、皇孫として恵まれた環境に育った。 クビライの後継者の最有力候補として権勢を誇ったチンキムが1285年に没すると、その子である皇孫たちが後継者として重要な候補となった。ダルマバラは皇孫たちの中でも最も祖父に愛され、しばしば宮廷に呼ばれたので、後継者候補として有力になった。 1291年、ダルマバラはクビライの命令を受け、所領である河南の懐州に赴いたが、旅程上で病を発し、大都に呼び戻された。翌年初頭、クビライの移動宮廷(オルド)が夏の都上都に向かって季節移動を始めた後も病気の治療のため大都に留まったが、まもなく病死した。 親王ダルマバラは妃のダギとの間にカイシャン、アユルバルワダの2子を残した。弟テムルの死後、1307年になってカイシャンが即位すると、亡父ダルマバラは順宗昭聖衍孝皇帝と諡され、皇帝に准ずる祭祀を受けた。.

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ダギ

ダギ(モンゴル語: 転写: taǰi、Dagi, ? - 1322年11月1日)は、モンゴル帝国(元)の世祖クビライの皇孫ダルマバラの夫人で、武宗カイシャンと仁宗アユルバルワダの母(皇太后)。漢字表記は答己。 コンギラト部族の出身で、チンギス・ハーンの正夫人ボルテの弟アルチ・ノヤンの曾孫にあたり、アルチ・ノヤンの四男ナチンの息子テムルの娘である。クビライの皇后チャブイは大おばにあたる。幼少のうちから燕王チンキム(のち皇太子)の宮廷に迎え入れられてその次男ダルマバラに近侍し、成人とともにダルマバラと結婚、カイシャンとアユルバルワダの2子をもうけた。 夫の早世後、遊牧民の間では一般的な嫂婚制(父や兄の未亡人を娶ることでその財産を引き継ぐ制度)により、夫の弟にあたる成宗テムルとの結婚が検討されたこともあったといわれるが、再婚は行われなかった。このためかテムルの皇后ブルガンとは不和であり、テムル晩年の1305年にはブルガンによって首都大都を遠ざけられ、次男のアユルバルワダとともに河南の懐州にあるダルマバラ家の所領にあった。 1307年、テムルが死ぬと、傍系の王族アナンダを即位させようと目論むブルガンに反対する重臣たちによってアユルバルワダとともにひそかに呼び戻され、大都に入ってブルガンとアナンダを打倒するクーデターに関与した。続いてアルタイ山脈方面に駐留していた長男の懐寧王カイシャンが帰国し大ハーンに即位すると、アユルバルワダは皇太子として立てられ、ダギも皇太后に立てられる(この時、亡夫ダルマバラも昭聖衍孝皇帝と追諡され、廟号を順宗とされた)。 ダギはかつて亡夫ダルマバラの母ココジンが領していた隆福宮を継承し、まもなくダギのために興聖宮が立てられて隆福宮を併せた。興聖宮は代々コンギラト部出身の皇后によって所有されてきた莫大な財産と所領を継承し、その管理のためにいくつもの官庁が設けられ、それ自体がひとつの王国に匹敵するほどの規模を誇った。 1311年にカイシャンが30歳ほどの若さで突如急死し、ダギの溺愛する弟のアユルバルワダがハーンに即位すると、カイシャンの側近たちは突如追放され、ダギの寵臣テムデルをはじめとする興聖宮の重臣が権勢を振るうようになり始めた。カイシャンが弟のアユルバルワダを皇太子に立てたとき、その次のハーンはカイシャンの子のコシラとするよう兄弟の間で約束されていたが、ダギはコシラが幼くして英気があり将来思い通りにならないことを怖れ、約束を破ってアユルバルワダの子で柔弱なシデバラを皇太子に立てさせた。 アユルバルワダの治世ではハーンにはほとんど実力がなく、ダギとその側近たちが政治を自由に動かした。ハーンの勅旨よりも皇太后の懿旨のほうが権威をもつと言われ、シデバラを皇太子に立てるのもダギの懿旨によって行われた。 アユルバルワダは即位して程なく、1315年4月(延祐二年三月)、ダギに皇太后に加えて、儀天興聖慈仁昭懿壽元全德泰寧福慶皇太后という尊号を贈った。 1320年にアユルバルワダがやはり若くして亡くなると、その遺児でまだ10代のシデバラがハーンに即位し、ダギは太皇太后に立てられた。シデバラの治世ではダギの権勢はますます盛んになり、アユルバルワダの末年に罷免されていたテムデルが右丞相に返り咲くなど、ダギの意志が押し通された。 しかし、シデバラは成長するとともに毅然として政治に乗り出そうとする傾向を見せ始めたので、ダギはシデバラを擁立したことを後悔しながら2年後に亡くなった。ダギが死ぬとシデバラはテムデルの遺族を追放し、その財産を没収するなど強硬的な改革を進め、ダギの党派は一掃されてしまった。 Category:元の追封皇后 Category:中国の皇族の妃 Category:コンギラト部 Category:1322年没.

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ベルグテイ

ベルグテイ(1172年? - 1251年?)『モンゴル秘史 1 チンギス・カン物語』、119頁は、モンゴル帝国の皇族である。 イェスゲイ・バアトルの側室アバカイの子で、ベクテルの同母弟で、チンギス・カン(テムジン)の異母弟にあたる。 漢文史料では別里古台、別勒古歹、便古得那(顔)と表記される。フランスの東洋学者ポール・ペリオによれば、名前はモンゴル語で「印」「質草」を意味する「belge」のテュルク語形であるbelgüに由来するとされる。.

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呉澄

呉澄(ご・ちょう、1249年 - 1333年)は元代中国の学者。字は幼清。草盧先生と称せられる。.

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アユルバルワダ

アユルバルワダ(モンゴル語:、Ayurbarwada、漢字:愛育黎抜力八達、 1285年4月9日 - 1320年3月1日)は、モンゴル帝国(元)の第8代皇帝(大ハーン)。『集史』などのペルシア語表記では اجورپريه بتره Ayūrparīya-bhadra など。名はアユルバリバドラとも読まれる。.

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アラクシ・ディギト・クリ

アラクシ・ディギト・クリ(,,? - 1227年)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたテュルク系オングト部族長。チンギス・カンの娘を妻としたことから駙馬(キュレゲン)と称し、アラクシの子孫はモンゴル帝国-大元ウルスにおいて「オングト駙馬王家」として尊重された。 『元史』などの漢文史料では阿剌兀思剔吉忽里、『集史』などのペルシア語史料ではŪlāqūsh Tīkīn Qūrīاولاقوش تیکین قوریと記される。「アラクシ」が鵲を意味する本名で、「ディギト・クリ」が称号に当たる。「ディギト」はテュルク諸語の称号「テギン」の複数形で、書籍によってはアラクシ・テギン・クリ(アラクシ・テギン)と表記されることも多い。.

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アントン (ジャライル部)

アントン(Anton, Antum, Hantun, 安童、1245年 - 1293年)は、大元朝時代にその初代でもある第5代モンゴル帝国皇帝(カアン)クビライに仕えた政治家、宰相(中書右丞相)。『元史』などでは安童、『集史』などのペルシア語史料では هنتون نويان Hatūn Nūyān、 انتون نويان Antūn Nūyān などと書かれる。チンギス・カンに仕えたジャアト・ジャライル部族出身の功臣、ムカリ国王家の出身で、ムカリの曾孫。ムカリの子・ボオルの3男・バアトルが父にあたる。母親はチンギス・カンの第一夫人ボルテの姪で、クビライの皇后チャブイの姉にあたる。息子にウドゥルタイ(兀都帯、バイジュの父)がいる。 13歳で宿衛(ケシク)に入る。クビライの信任が厚く、それに近侍した。クビライがモンゴル帝国帝位継承戦争に勝利した際にアリクブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めてクビライに評価され、1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢され食邑四千戸まで加増を受けた。後に平章政事であるアフマド・ファナーカティーと対立するが、1274年に彼の不正行為をあばいて失脚させる。翌1275年には皇太子チンキムや北平王ノムガンとともにカイドゥ討伐に向かい、カラコルムに入ったノムガンとその庶弟である皇子ココチュに扈従し、カラコルム周辺を領していたモンケ家、アリクブケ家などの王族との調停に勤めた。しかし、1276年にノムガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前であるアルマリクに駐留していた時、軍中のモンケ家の四男シリギが、モンケ、クビライらの庶弟ソゲトゥの息子(ないし孫)トク・テムルの先導によっての他のトルイ家をはじめてとする王族たちと共謀して反乱を起こした。(シリギの乱) このため、アントンはノムガンとココチュらととも捕縛され、トクテムルとシリギはノムガンとココチュの兄弟をジョチ・ウルスの当主モンケ・テムルに引き渡し、アントンはカイドゥに引き渡して両陣営に対して自らの反乱への参加を促した。しかし、カイドゥもモンケ・テムルもこの誘いをほぼ黙殺し、シリギの乱はバヤンの派遣などによって鎮圧された。1284年に大都に帰還すると、右丞相に復職し、翌1285年にはアントン不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させて、獄死に追い詰めた。ところが、1287年に新しく平章政事となったサンガと対立してその不正を糾弾するも、フビライに取り上げられなかったことから権威が失墜し、1291年に右丞相を退いた。この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することができずに2年後に没した。.

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アフマド・ファナーカティー

アフマド・ファナーカティー(Ahmad Fanākatī, احمد فناكتى, 生没年: ? - 1282年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン、クビライに仕えたムスリム(イスラム教徒)の財務官僚。漢字表記は阿合馬。「アクマト」とも呼ばれる。.

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アダチ

アダチ(阿塔赤、阿答赤、生年不詳 - 1274年)は、モンゴル帝国の軍人。アス族の出身。.

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アジュ

アジュまたはアチュ(、現代モンゴル語: 転写: 、Aju、Aču)は、モンゴル帝国の武将。『元史』での漢字表記は「阿朮」。『集史』クビライ・カアン紀では آجو Ājū/ آچو Āchū 、同じく『集史』バアリン部族誌ほか『集史』系統の系図史料である『五族譜』『高貴系譜』記載のクビライの部将序列一覧では اوجو Ūjū と表記されている。 祖父はチンギス・カンに仕え、「四狗」(ドルベン・ノガス)の1人として有名な勇将・スブタイ。父はオゴデイ時代からモンゴル帝国の覇業に貢献したウリヤンカダイである。アジュも父と共にモンケの時代から仕えて、ベトナム遠征など各地を転戦して武功を挙げた。 第4代皇帝モンケによる南宋遠征では、父ウリヤンカダイと共に従軍し、精鋭を率いて先鋒軍に加わった。大理国征服(雲南・大理遠征)や陳朝(交趾)の降伏にも活躍し、モンケからその功を賞されて黄金300両を下賜された。1259年にモンケ没後の後継者争いでは父と共にクビライを支持した。金蓮川でのクビライの即位以後は親衛軍であるケシク(宿衛)に留まった。 1262年の山東の漢人諸侯・李璮(りたん)の反乱の際には、モンゴル王族カピチ(親王 哈必赤ジョチ・カサルの子?)を司令とする史天沢らが討伐軍として派遣されたが、アジュは王族バイジュ(拝出)、テゲ(帖哥)らの軍に従軍し李璮討伐でも功績を上げた。同年9月頃、宿衛(ケシク)将軍から征南都元帥に任じられ、汴州を治め、宿州を回復したほか、至元元年に入って1264年9月頃には両淮地方の計略に努め、さらに名声を上げた。 1268年よりクビライによる南宋攻めが始まると襄陽攻略の総司令官として襄陽を包囲・攻撃する。敵将・呂文煥の徹底抗戦に苦しんだが、史天沢と共に投石機による攻撃などで襄陽の支城である樊城攻略で大功を挙げ、その結果として1273年には遂に呂文煥を降伏させた。 1274年以降から「南宋攻略」では、丞相バヤンが南宋遠征軍の総司令となり、水軍を統括していた参政・阿里海牙とともに遠征軍を指揮することになった。1274年正月に阿里海牙から南宋遠征を奏上しているが、アジュもこれに遠征に賛意する上申を行っており、これを受けて丞相バヤンを総司令とする遠征が開始された。これに伴い、同年4月にはアジュも平章政事として丞相バヤンを補佐することとなる。アジュは呂文煥と共に先鋒を命じられていることから、襄陽平定に5年もかかったために解任されたと伝わる。アジュはこの攻略戦でも手柄を挙げた。 『集史』バアリン部族誌のバヤンの条によると、「スブタイ・バアトルの子孫アジュ( اوجو Ūjū)が彼(バヤン)とともに(クビライ)のノコルとなり、30テュメン(万戸隊)のモンゴル軍と70テュメンのヒタイ(軍)とともに南宋遠征(jang-i Nangiyās)に派遣した」とあり、『五族譜』のクビライの部将序列一覧でも「ウリヤンカト部族出身のスブタイ・バハードゥルの子孫で、テュメンのアミールであった。ナンギヤス(南宋)地方征服のための30テュメンのモンゴル軍の統率者として、 سمكه بهادر Samaka Bahadur(史天沢のことか?)とともに任命された」と説明されている。『集史』ではバヤンに比べてアジュへの言及は少なく、彼の出身部族である『ウリヤンカト部族誌』には事績が記載されていない。 1280年に死去。享年54。 死後、クビライより河南王の地位を追贈された。 『元史』巻百二十八に列伝がある。.

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イリンジバル

イリンジバル(モンゴル語: Rinčinbal、རིན་ཆེན་དཔལ། rin chen dpal、懿璘質班 Irinjibar、 1326年5月1日 - 1332年12月14日)は、モンゴル帝国(元)の第14代皇帝(大ハーン)。読みは、イリンジバル(中国語)、リンチンバル(モンゴル語)、リンチェンパル(チベット語)。.

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イェスン・テムル

イェスン・テムル(モンゴル語:、Yesün-Temür、漢字:也孫鉄木兒、 1293年11月28日 - 1328年8月15日)は、モンゴル帝国(元)の第10代皇帝(大ハーン)。『集史』などのペルシア語表記では ييسون تيمور Yīsūn Tīmūr。漢風の廟号はなく、一般に即位当時の元号を用いて泰定帝と呼ばれる。 伝統的な遊牧生活を重んじる人物であったが、しばしば研究者からは暗愚な人物と評価される。.

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ウヤル

ウヤル(,, 1163年 - 1258年)とは、モンゴル帝国に仕えた千人隊長の一人。『元史』などの漢文史料では吾也而、『集史』などのペルシア語史料ではウーヤール・ワーンシーاویار وانشی(Ūyār Wānshī)と記される。ワーンシー(Wānshī)とは漢語「元帥」の音訳であり、実際に『集史』と同一の史料源を持つ『聖武親征録』では「烏葉児元帥」と表記されている。.

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ウドゥルタイ

ウドゥルタイ(兀都帯、1271年-1302年)は、元朝中期の武将。アントン(安童)の子でバイジュの父。 父と同様に宿衛長を務める。『元史』安童伝によれば、父が没した際には一切の贈物を受け取らずに質素な葬儀を行い、母親には孝を尽くしたとされている。クビライの崩御、テムルの即位に際しては銀青栄禄大夫・大司徒を拝し、太常寺のことを掌ってクビライの葬儀や廟号決定などに深くかかわった。 その一方でテムルの時代に入ると、ウドゥルタイがテムルに反抗的な諸侯の1人として名前が登場するようになる。元貞2年(1296年)11月、ウドゥルタイらがオゴタイ以来3代のモンゴル帝国大ハーン(元朝皇帝)の実録を訳してテムルに進上したところ、テムルはその内容に錯誤が多いと激怒している(『元史』成宗紀)。翌大徳元年(1296年)閏12月には、テムルが2年連続(今年と直前に迫った翌年の)正月の朝賀に際してウドゥルタイが雪を理由に遅れていることを非難して崔彧に監察を命じている(『元史』崔彧伝)。その背景には父アントンの失脚後の一族の不遇に対するウドゥルタイの不満やテムルのウドゥルタイに対する不信感などがあったと考えられている。実際、ウドゥルタイが在世中には実務的な要素の強い官職には任じられていない。 大徳6年(1302年)に32歳で死去、当時5歳であった遺児バイジュには宿衛長は務まらず、直ちに継ぐことは許されなかった。7年後の至大2年(1309年)、バイジュが宿衛長に任じられ、その際にウドゥルタイにも保徳翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・東平王の称号と忠簡の諡号が追贈されている。.

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エル・テムル

エル・テムル(El-Temür, ? - 1333年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は燕鉄木児。キプチャク親衛軍を率いる軍閥で、1328年の内乱に勝利して大ハーンを擁し、独裁権力をふるった。 もとモンゴル帝国によって征服されたキプチャクの部族長の家柄で、祖父トクトガはモンケに従って中国に移り、モンケの弟クビライに仕えて諸戦役に活躍した。父のチョンウルもクビライの曾孫カイシャンが王族時代にカイシャンを助けてオゴデイ家のカイドゥを破るのに大きな功があったが、このとき少年だったエル・テムルも父に従ってカイシャンの幕下にあってカイシャンの寵愛を受け、カイシャンが即位すると知宣徽院事を経て左親軍都指揮使に昇進した。その後もキプチャク軍閥の司令官として軍中に重きをなし、泰定帝イェスン・テムルのとき軍政機関枢密院の要職である僉枢密院事にのぼる。 1328年夏にイェスン・テムルが夏の都上都で急死したとき、エル・テムルは子飼いのキプチャク軍団とともに冬の都大都に駐留して留守を守っていた。もともとカイシャン恩顧の将軍であって、イェスン・テムルの側近ダウラト・シャーらの専制をこころよく思っていなかったエル・テムルは、この機会をとらえてカイシャンの遺児を即位させることをもくろみ、反乱を起こして大都の政府機関を接収した。エル・テムルはその軍事力によって大都駐留の軍隊と官僚を味方につけると、カイシャンの次男トク・テムルを抑留先の江陵から迎えいれ、遠方にいる兄のコシラの到着を待ってハーン位を譲り渡そうと主張するトク・テムルを説得してハーンに即位させた。エル・テムルは擁立の功をもって開府儀同三司、上柱国、録軍国重事、中書右丞相、監修国史、知枢密院事に任ぜられ、さらに太平王の王号まで授けられてトク・テムルの政府の最高実力者となる。 時にダウラト・シャーらは上都に留まったままイェスン・テムルの遺児アリギバを即位させたので、元はふたつの首都を南北に分けた内戦となった。しかしエル・テムルが大都に進軍してきた上都側の軍を迎撃して打ち破ると遼東にいた王族が大都側について上都を包囲し、ついにアリギバとダウラト・シャーを降伏させた。大都側の勝利によって中国各地の諸軍はトク・テムルとエル・テムルに従ったが、今度はアルタイ山脈の西側という遠方にいたトク・テムルの兄コシラがモンゴル高原に入り、旧都カラコルムで高原の諸王族・有力者の支持を取り付けてハーン位を請求した。 1329年4月、エル・テムルは自ら高原に赴いてコシラに謁し、玉璽を奉じてハーンに推戴した。コシラは政権奪取の功を賞してエル・テムルに軍権の最高官である太師の称号を贈り、トク・テムルを皇太子としたが、8月に上都の郊外で兄弟会見した直後に急死した。コシラの側近たちに政権を奪われることを恐れたエル・テムルが毒殺したと言われる。皇太子トク・テムルはすぐさまハーンに復位し、コシラの側近たちはエル・テムルによって追放、処分された。 トク・テムルの朝廷のもと、エル・テムルはさまざまな特権を与えられ、ハーンをまったくの傀儡とする権力者として君臨した。エル・テムルはイェスン・テムルの未亡人を自ら娶り、トク・テムル・ハーンの長男エル・テグスを自邸で養育し、かわりにエル・テムルの子がハーンの養子として宮廷で育てられた。また、コシラの長男トゴン・テムルを実はコシラの子ではないと称し、高麗に追放した。 1332年、トク・テムルは29歳の若さで死亡するにあたり、兄コシラの子を即位させるように遺言した。しかしそれにもかかわらず、エル・テムルは自身の養い子であるエル・テグスを即位させようと試み、トク・テムルの未亡人でエル・テグスの母であるブダシリにエル・テグス擁立を提議した。しかし、ブダシリは亡夫の遺志を尊重してコシラの子を立てることを要求したので、エル・テムルはコシラの次男でわずか7歳のイリンジバルを即位させ、自らはその摂政となったが、幼帝イリンジバルは即位からわずか43日後に亡くなった。 ここにおいてエル・テムルは再びエル・テグス擁立をブダシリに要請したが、ブダシリは我が子が幼いことを理由に断ったので、エル・テムルはやむなく広西に流されていたイリンジバルの兄トゴン・テムルを呼び戻すことに同意した。トゴン・テムルが大都に至ると、エル・テムルはこれを出迎えて大都まで馬を並べて歩みながら今後のことを話したが、トゴン・テムルはエル・テムルを恐れて黙り込んだままだった。これを見たエル・テムルはトゴン・テムルが思い通りにならないことを恐れ、即位の式を先延ばしにしたが、その3か月後の1333年4月に病死した。 エル・テムルの死後も、その弟サトン、次いで子のタンキシが中書左丞相となり、また娘のダナシリはトゴン・テムル・ハーンの皇后となってエル・テムル家の権勢は続いた。しかし、行政機関中書省の長官である中書右丞相にはエル・テムルに協力した軍閥バヤンが就任し、バヤンが政権の最高実力者として振舞っていた。1335年、左丞相タンキシは右丞相バヤンから政権を取り戻そうとして反乱を起こしたが、バヤンによって鎮圧された。タンキシをはじめエル・テムルの一門は皇后ダナシリを含めてすべて殺害され、元で権勢をふるったエル・テムル家のキプチャク軍閥はエル・テムルの死からわずか2年後に滅亡した。 Category:元代の人物 Category:キプチャク Category:生年不明 Category:1333年没.

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エセン・ブカ (ケレイト部)

ン・ブカ(也先不花、生年不詳 - 1309年)は、元の政治家。モンゴルのケレイト部出身。.

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オゴデイ

デイ(Ögödei、Ögedei、20px)はモンゴル帝国の第2代モンゴル帝国皇帝(カアン、大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。 漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などでは اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān 、『五族譜』では اوُكَدى خان Ūkaday Khān などと綴られる。オゴタイ、エゲデイは、日本語表記。元朝によって贈られた諡は英文皇帝、廟号は太宗。 チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄。.

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カマラ (元朝)

マラ(Kammala, 1263年 - 1302年2月8日)は、元の皇族。漢字表記は甘麻剌、『集史』などのペルシア語表記では كملا (Kamalā)。名はカンマラとも読む。イェスン・テムルによって諡号は光聖仁孝皇帝、廟号は顕宗とされた。 世祖クビライの皇太子チンキムがコンギラト部族出身の妻ココジンとの間にもうけた3人の嫡子のうちの長男で、弟にダルマバラとテムルがいる。クビライの嫡長孫であるカマラは、幼い頃から祖母であるクビライの皇后チャブイによって育てられ、長ずると祖父クビライに侍したが、弁舌が苦手で無口であり、あまり聡明に見える性質ではなかった。 成人すると祖父クビライにより、オゴデイ家のカイドゥに西部の諸王が与して戦乱の激しくなっていたモンゴル高原での駐留を命ぜられたが、1289年にカイドゥに手痛い敗戦を喫した。1290年には梁王に封ぜられ、雲南への出鎮を命ぜられたが、翌年に晋王に改封され、高原に移鎮した。晋王の封は数年前に北平王ノムガンが死んで以来、無主となっていたチンギス・ハーンの四大オルドと、その配下にある高原の遊牧軍団を領する重職であり、その相続はチンギス・ハーンの遺産を受け継ぐとともに、モンゴル人の本土である北方における大ハーン(皇帝)の副王に就任したことを意味する。 1294年にクビライが死ぬと、上都で開かれたクリルタイで、先に祖父から皇太子の印綬を与えられていた弟のテムルとどちらが後継者にふさわしいか議論された。しかし、このクリルタイでは中央政府の軍権を握る知枢密院事バヤンがテムルの支持を表明し、他の将軍たちや兄弟の母ココジンもこれに賛成したので、カマラはテムルにハーン位を譲った。ラシードゥッディーンの『集史』によれば、摂政としてクリルタイを主催したココジンは、「誰であれ(モンゴルにとって重要な掟である)チンギス・ハーンの訓言を最もよく知っている者がハーンに即位すべきである」というクビライの遺言を持ち出して兄弟に訓言を知っているかを問うと、テムルは聡明で弁舌と記憶力にすぐれていたので多くの訓言を雄弁に答えたが、弁舌の苦手なカマラは口篭もって上手に答えることが出来なかった。そこで将軍たちは一致してテムルがハーンにふさわしいと認め、テムルがハーンに即位したという。 1300年、カイドゥが中央アジアの諸王の全軍を率いて最後の大攻勢をかけてくると、カマラの高原駐留軍は打ち破られて苦境に陥った。しかし、テムルによって派遣されてきたダルマバラの遺児カイシャン率いるハーン直轄のキプチャク親衛軍や安西王アナンダの中国西部駐留軍団の増援を受けて、元軍は翌年にはカイドゥの軍を撃退し、カイドゥを戦傷によって死去させた。カマラはこの戦争からまもなく、1302年初頭に亡くなった。 一連の戦争における不手際、晋王カマラの急死、年若いイェスン・テムルの即位と前後して、晋王家の所領は大幅に削減されてしまい、1323年にイェスン・テムルがハーンに即位するまで目立った活躍はなかった。イェスン・テムルは即位すると亡父カマラを顕宗光聖仁孝皇帝と諡し、皇帝に準ずる祭祀を行った。しかし、1328年にイェスン・テムルの子アリギバが倒されてトク・テムルが即位すると、晋王家のハーンたちは傍系の簒奪者とみなされ、皇帝の祭祀から外されてしまった。.

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カイシャン

イシャン(モンゴル語:、Qayšan、漢字:海山、1281年8月4日 - 1311年1月27日)は、モンゴル帝国(元)の第7代皇帝(大ハーン)。『集史』および『ヴァッサーフ史』『選史』などのペルシア語資料の表記では、ハイシャン(خايشانك Khāīshān, خيشان Khayshān)など。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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クイルダル

イルダル(? - 1203年)とは、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたマングト部族長。『元史』などの漢文史料では畏答児、『集史』などのペルシア語史料ではQūīrdārقویردارと記される。.

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グユク

1246年にグユクがインノケンティウス4世へ宛てた勅書に捺された印璽 グユク(Güyük、、 1206年3月19日 - 1248年4月20日)は、モンゴル帝国の第3代皇帝(在位1246年8月24日 - 1248年4月20日)。漢語資料の表記では貴由、古余克、谷由皇帝。ペルシア語資料での表記では كيك خان kuyuk khān ないし گيوك خان Guyūk khān など。大元ウルスによって贈られた廟号は定宗。 第2代皇帝オゴデイの長子で第6皇后ドレゲネとの間に生まれた長男である。グユクは第3代モンゴル皇帝であるが、先代のオゴデイがモンゴル皇帝として初めて「カアン」(Qaγan, Qa'an)を名乗ったものの、グユクはこの「カアン」(哈罕皇帝/合罕皇帝)を父オゴデイのみの称号と考えたのか、自らは名乗りとして用いず、もっぱらカン(ハン Qan/χan 〜 خان khān)の称号のみを名乗ったと考えられている。.

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コンチェク・ブカ

ンチェク・ブカ(Konček buqa,,,? - 1368年)とは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では寛徹普化、寬徹不花と表記される。.

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ココ・テムル

・テムル(Köke-Temür, ? - 1375年)は、元・北元の将軍。漢字表記は擴廓帖木児であるが、「王保保」という中国名も有していた。.

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ココジン

ココジン(Kökejin, ? - 1300年)は、モンゴル帝国(元)の世祖クビライの皇太子チンキムの妃。漢字表記は闊闊真。別名はバイラム・エゲチ(伯藍也怯赤)。 コンギラト部族の出身。大ハーンのクビライが出猟したときにその目に止まり、クビライの次男チンキムの妻に迎えられて、1263年から1265年までの3年間にカマラ、ダルマバラ、テムルの3人の男子を産んだ。賢夫人としても知られ、皇太子の称号を与えられてクビライの後継者の最有力候補となったチンキムの宮廷(オルド)をよく守るとともに、チンキムの母にあたる同じコンギラト部族出身の皇后チャブイに近侍してよく仕えた。 1281年にチャブイが亡くなると、君主の后妃のオルドとその所領・財産を同一部族出身の后妃が相続するモンゴルの伝統に従って、生前のチャブイが蓄えていた莫大な財産を受け継いだ。1285年にはチンキムがクビライに先立って没するが、チャブイの保護とチンキムの権勢の下、元において最も権力と財産のある勢力となっていた皇太子府の管理権はココジンが持ったので、チンキムの死後もココジンの3人の男子はクビライの最有力後継者候補であり続けることができた。 1294年に老帝クビライが没すると、ハーンの未亡人が主催する後継のハーンを選出するためのクリルタイをココジンが開いた。このクルリタイでは早世したダルマバラを除く、カマラとテムルの兄弟が候補となったが、ココジンはバヤンら重臣らと協力して、クビライが生前に皇太子の称号を与えていた弟のテムルを推し、即位させる。 テムルがハーンになると、その母ココジンは皇太后となり、皇太子府は隆福宮と改称された。ココジンは隆福宮の勢力を背景にテムルの後見者として活躍し、1300年に没した。 のちにココジンの領した隆福宮は、テムルの皇后でバヤウト部族出身のブルガンと、ダルマバラの未亡人でやはりコンギラト部出身のダギに相続の可能性があったが、1307年のテムル死後の政変でダギの領有に帰す。その後、隆福宮はダギの興聖宮に併せられ、ダギ率いるコンギラト派の重臣たちの牙城として、ココジンの遺産は仁宗アユルバルワダから英宗シデバラの時代に絶大な権力を保ち続けることになる。 Category:元の追封皇后 Category:中国の皇族の妃 Category:コンギラト部 Category:13世紀生 Category:1300年没.

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コシラ

ラ(モンゴル語:、Qošila、漢字:和世㻋、 1300年12月22日 - 1329年8月30日)は、モンゴル帝国(元)の第13代皇帝(大ハーン)。第7代大ハーン・武宗カイシャンの長男。.

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シデバラ

デバラ(モンゴル語:、Šidebala、漢字:碩徳八剌、 1302年2月22日 - 1323年9月4日)は、モンゴル帝国(元)の第9代皇帝(大ハーン)。名はシッディバーラとも読まれる。.

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ジャバル・ホージャ

ャバル・ホージャ(Jaʿfar Khwaja,, ? - ?)とは、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えた家臣の一人。『元史』などの漢文史料では札八児火者と記される。「ジャバル」とはアラビア語名「ジャファル」の転訛。.

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ジュルチェデイ

ュルチェデイ(? - 1203年)とは、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたウルウト部族長。『元史』などの漢文史料では朮赤台と記される。.

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ジョチ

ョチ( Jöči、現代モンゴル語:Зүчи 、1177年,1184年? - 1225年)は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの長男で、ジョチ・ウルスの始祖。ジュチとも片仮名表記される。 漢字史料では主に朮赤、アラビア語・ペルシア語史料では主にجوچى خان jūchī khān と綴られる。.

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スブタイ

ブタイ スブタイ(スベエデイ、Sübe'edei/Sübütei、1176年 - 1248年)は、モンゴル帝国の軍人。ウリャンカイ部の出身。漢文では「速別額台」(スベエデイ)や「速不台」「雪不台」(スブタイ)とも表記され、ペルシア語資料では سوبداى بهادر Sūbdā'ī bahādur として表れる。名前に含まれるSübe'eは「脇腹」を意味する『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』1、229-230頁。 同じチンギス・カン配下の軍人であるジェベ、ジェルメ、クビライ・ノヤンらとともに、「四狗」の一人に数えられる。ジェルメの弟。.

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スコータイ王朝

ータイ王朝(スコータイおうちょう、、13世紀〈1240年ごろ『タイの歴史』 (2002)、16頁〉 - 1438年)は、タイに存在した王朝。タイ族最初の王朝といわれる。.

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ソルコクタニ・ベキ

ルコクタニ・ベキ(モンゴル語: 転写: sölköktani beki、سرقویتی بیگی 転写: srquyti bigi、唆鲁禾帖尼 キリル文字転写: Сорхагтани、1192年? - 1252年)は、チンギス・カンの第4子・トルイの正妃『集史』トルイ・ハン紀によると、「トルイ・ハンのハトゥンたちのなかで最上位かつ最も愛された者は、彼女であった( بزرگترين و محبوب ترين خواتين تولوی خان او بود buzurugtarīn wa maḥbūbtarīn khawātīn-i Tūlūy Khān ū būd)」とある。。『世界征服者史』では سرقويتى بيكى Surqūytī Bīkī?、『集史』トルイ・ハン紀などでは سيورقوقتينى بيكى Suyūrqūqtīnī Bīkī、سورققتيى بيكى Sūrqaqtanī Bīkī など。『元朝秘史』(巻7・186段)では莎児合黒塔尼 別乞、『元史』后妃表では唆魯和帖尼妃子と表記される。ソルカクタニ・ベキ(Sorqaqtani Beki)とも片仮名表記される。至元3年(1266年)にクビライによって荘聖皇后と追諡された。.

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サンガ (元)

ンガ(Samgha, ? - 1291年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーンであるクビライに仕えた財務官僚。漢字表記は桑哥。ペルシア語資料の表記では سنكه sanka/sanga 。.

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サイイド・アジャッル

イイド・アジャッル・シャムスッディーン(سید اجل شمس‌الدین、Sayyid Ajall Shams al-Din, 1211年 - 1279年)は、モンゴル帝国(元)に仕えて中国の行政官を務めたムスリム(イスラム教徒)の官僚。漢字表記は賽典赤。ラカブ(尊称)はシャムスッディーン(赤贍思丁)、イスム(名)はウマル(عمر、Umar、烏馬兒)。ペルシア語資料では、サイイド・アジャッル・ブハーリー سيد اجلّ بخارى Sayyid Ajall Bukhārī の名で表れる。.

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内藤湖南

内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は日本の東洋史学者。名は虎次郎。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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石抹明安

石抹明安(せきまつ めいあん、1164年 - 1216年)は、初期のモンゴル帝国に仕えた契丹迪烈部出身の将軍。遼の皇后を出したウイグルの王族出身の契丹貴族蕭氏の末裔。子に石抹咸得卜。同族に石抹也先がいる。.

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王シュン

王綧(おう しゅん、1222年 - 1283年)は、13世紀高麗の宗室、元の廷臣。高麗の永寧公、尚書令。元の金符総管。.

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王恂 (元)

王恂(おう・じゅん、1235年 - 1281年)は、元代中国の数学者。字は敬甫。諡は文粛。.

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紀伝体

紀伝体(きでんたい)は、東アジアの歴史書の書式の一つ。.

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馬祖常

常(ば そじょう、1279年-1338年)は、元代の漢詩人。字は伯庸。諡は文貞。.

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許衡

許 衡(きょ こう、1209年5月8日 - 1281年3月23日)は、元代初期の中国の学者。字は仲平。魯斎先生とも称する。諡は文正。.

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高啓

啓(こう けい、1336年 - 1374年)は、中国・明代初期の詩人。字は季廸、号は青邱。江蘇省蘇州の出身。「呉中四傑」の一人。娘が一人いる。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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趙孟フ

『鵲華秋色図』 趙 孟頫(Zhào Mèngfǔ、ちょう もうふ、1254年(宝祐2年) - 1322年(至治2年))は、南宋から元にかけての政治家、文人(書家、画家)。字は子昂、号は松雪。呉興(現在の浙江省湖州市呉興区)の人。出自は宋の宗室で、南宋の2代皇帝孝宗の兄の趙伯圭の玄孫である。字から趙子昂、号から趙松雪と呼ばれることも多い。 妻のも画家として有名である。父は趙与訔。兄は趙孟頔、趙孟頒、趙孟碩、趙孟頌、趙孟頖、趙孟顥。弟は趙孟龥ら。王蒙は外孫にあたる。.

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郭守敬

郭 守敬(かく しゅけい、拼音:Guō Shǒujìng、1231年 - 1316年)は、元朝に仕えた天文学者、暦学者、水利事業家である。字は若思。邢台(河北省)出身。中国暦法の画期となる「授時暦」の作成で知られる。.

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阿塔海

阿塔海(Ataγai, アタカイ、アタガイ、アタハイ、1234年 - 1289年)は大元朝に仕えた政治家・軍人。弘安の役の際の江南軍総司令官。.

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葉仙ダイ

葉仙鼐(ようせんだい、生年不詳 - 1306年頃)は、元の軍人・政治家。ウイグル人。.

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重喜

重喜(じゅうき、生年不詳 - 1276年頃)は、元の軍人。束呂糾氏。.

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耶律留哥

耶律 留哥(やりつ りゅうか、1165年 - 1220年)は、金に属した遼の宗室につらなる契丹人であり、のちに金に反乱を起こし、東遼政権を樹立した人物である。妻は姚里氏、子は耶律薛闍ら。.

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耶律阿海

耶律 阿海(やりつ あかい、生没年不詳)は、初期のモンゴル帝国に仕えた太師(政治家)。 遼の宗室である契丹貴族の耶律撒八児の孫、耶律脱迭児の子。子は耶律忙古台、耶律綿思哥、耶律捏児哥ら。弟に耶律禿花、甥に耶律朱哥、耶律買住(禿花の諸子)。阿海の子孫は元の統治下で代々繁栄した。.

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耶律楚材

武夷山茶博園にある耶律楚材像 耶律 楚材(やりつ そざい、、1190年7月24日 - 1244年6月20日)は、初期のモンゴル帝国に仕えた官僚。字は晋卿。禅に深く帰依し、湛然居士と号した。モンゴル名はウルツ・サハリ、またはウト・サカル(「髭の長い人」の意)。.

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耽羅

耽羅(たんら、ちんら『古事類苑』、神宮司庁、1903年、269頁、「耽羅ハ一二耽牟羅二作ル、或ハ度羅二作ル」とされ、同頁の和漢三才図会 十三 異国人物 耽羅 耽牟羅の記載において、耽羅のふりがなに「ちんら」がみえる。、탐라)は、朝鮮半島沖の済州島に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀初め李氏朝鮮に完全併合された。耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記されるほかに、州胡(チュホ)、渉羅(ソムナ)、純羅(スルラ)、度羅(トラ)という表記も見られる。。.

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虞集

虞集(ぐ しゅう、1272年 - 1348年)は、元代中国の儒学者。字は伯生、号は道園、邵庵先生と称された。 宋代に活躍した虞允文の五世の孫にあたる。柳貫・黄溍・掲傒斯とともに「儒林四傑」と称せられる。楊載・掲傒斯・范梈とともに元詩の四大家ともいわれる。.

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陳朝

陳朝(チャンちょう、ちんちょう、、)は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝。国号は大越。首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)。.

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李冶

李 冶(り や、1192年-1279年)は、金末から元初にかけての数学者。字は仁卿、号は敬斎。真定・欒城の出身。 金の1230年に進士となり、河南・鈞州の知事となるが、1232年にモンゴル軍の侵入で鈞州が攻められると、脱出してそのまま隠退した。後、太原などに移り住むが、1251年に河北・元氏の封龍山に住みかを定め、以後は研究生活を送る。天元術を発展させて、幾何などの他の数学分野に応用した。1248年に『測円海鏡』12巻、1259年に『益古演段』3巻を著した他、元好問ら同じ隠遁文人らとの交流も多く、漢詩の作品も現存している。世祖(フビライ・ハーン)はたびたび彼を召して一度は翰林学士に任じたが、すぐにこれを辞退して遂に仕官には応じなかった。88歳で死去。.

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正史

正史(せいし)とは、.

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歴史書

歴史書(れきししょ)とは歴史を記述した書物のことである。 歴史書を記述するのは目的意識を持った、そして多くの場合職業的な歴史家である。執筆の目的は歴史そのものへの興味、過去を後世に伝えるため、独自の史観を表現するためなどさまざまである。為政者の支配の正統性を主張するなど、政治的動機による場合も多い。 時系列に従って事件が記述される。記述される内容は政治史・軍事史を主とすることが多い。基本的なスタイルとして、事項が時系列順に並べられたもの(編年体)と重要な個人の事績を追って記述するもの(紀伝体)の2つがある。 歴史書を記述する歴史家は既存の史料を収集・比較・批判し、ある基準によって取捨選択を行う。この作業がなされない場合は歴史書とは言えず単なる記述にとどまる。また、歴史家の想像はできる限り排除される。想像が勝つ場合は歴史文学となる。例えば『三国志演義』など。 原理的に歴史書は二次史料以下の史料となるが当時の史料が失われていることも多く、その場合一次史料並みの扱いを受けることもある。 上記の例外として、歴史記述を目的としたわけではない重要事件の記録がのちに歴史書と見なされることも多い。ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』などは、その顕著な例である。.

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段興智

段興智(だんこうち)は大理国の22代国王(後大理国としては第8代)。 大理国はモンゴル帝国のクビライの軍の侵攻を受けて、段祥興は相国の高泰祥に迎え撃たせたが、高泰祥は敗死した。段興智は鄯闡に逃れて抵抗を続けた。1253年、モンゴルのウリヤンカダイに敗れて捕らえられ、憲宗モンケの引見を受け、一命を許された。大理総管に任ぜられて、モンゴルによる雲南の平定に従った。1260年、クビライの謁見を受けるため、弟の段実(段信苴日)とともに北上したが、道中で世を去った。1261年、後大理国向義天定賢王の位を追贈された。 大理総管の地位は段実が継いで、以後も段氏によって世襲された。1267年、クビライの子のフゲチが雲南王に封ぜられると、段氏の大理総管もその麾下に組みこまれた。フゲチの子孫の雲南王国は梁王国とも称される。 こうち.

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洪福源

洪 福源(こう ふくげん、 1206年〜1258年)は、高麗の軍人。高麗北部の国境を守る軍人だったが、モンゴルの侵攻を受けると、1233年に高麗に背いて即座に降伏した。その後、モンゴルへ逃亡し、モンゴルの高麗侵攻の案内役を果たした。『元史』によると、先祖は唐から高麗に派遣された8人の才子の一人であり、生粋の高麗人ではなかった。.

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洪武

洪武(こうぶ)は中国、明代の元号(1368年 - 1398年)。初代皇帝である太祖・朱元璋の在世中に使われたため、朱元璋は洪武帝と呼ばれる。 元朝の至正28年(1368年)1月9日より使用開始。元年から一世一元の制を採用した。洪武31年(1398年)6月24日、洪武帝が崩御し、皇太子朱允炆(建文帝)が即位するが、明朝は踰年改元法(先帝が崩御した年の末まで従来の年号を継続する方式)を採用するため、翌年正月に建文に改元。ところが、靖難の変によって1402年に皇帝となった永楽帝は、対立者であった建文帝の即位を認めず、建文の年号もなかったこととし、建文年間を洪武32年から35年とした。しかし、万暦帝が再び洪武32年から35年を建文に戻した。 なお、明建国の1年前になる至正27年(1367年)、呉王を称していた朱元璋はこの年を元年とする在位紀年を建てている。.

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漢民族

漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)、シンガポールで大多数を占める民族。人類の20%を占める世界最大の民族集団である。 中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。.

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朱元璋

朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の始祖であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅ こうそう)と改名し、紅巾(こうきん)軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明史

『明史』(みんし、拼音:Míngshǐ)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から校正される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。.

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新元史

『新元史』(しんげんし)は、中華民国成立後に、柯劭忞(1850-1933、清史稿編纂メンバーでもある)が編纂して1919年に成立した元朝1代の紀伝体歴史書。従来の『元史』の不備を補うものとされて、1921年に当時の中華民国大総統・徐世昌によって正史に加えられて、従来の二十四史を「二十五史」と改めた。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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1206年

記載なし。

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1367年

記載なし。

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1369年

記載なし。

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