目次
22 関係: チャガタイ、チャガタイ家、チャガタイ・ハン国、チュベイ、チンギス・カン、ハーン、バイダル、ムバーラク・シャー (チャガタイ家)、モンケ、モンゴル帝国、モンゴル帝国帝位継承戦争、アリクブケ、アルマリク、アビシュカ、オルガナ、カラ・フレグ、カラコルム、カイドゥ、クリルタイ、クビライ、サマルカンド、元 (王朝)。
- 1266年没
- 13世紀アジアの君主
チャガタイ
チャガタイ(Čaγatai / Ča'adai, 1178年/1185年/1186年? - 1242年)は、モンゴル帝国の皇族の一人で、チンギス・カンの次男。ジョチの弟、オゴデイとトルイの兄に当たる。ペルシア語表記では چغتاى خان (Chaghatāī khān) と綴る。チャアダイ、チャプタイとも。 生年は1185年、1186年など諸説ある。長兄ジョチとは、ジョチの出生の疑惑などをめぐって険悪な仲であった。また、チャガタイ自身が激しい気性と一本気な性格の持ち主であったため、一族の和を重んじる父チンギス・カンから後継者候補としては除外されていたという。しかし、法に対して厳格な一面があったため、それを父に見込まれてモンゴル帝国の法律・ヤサの管理を任され、「ヤサの番人」の異名を取った。
見る アルグとチャガタイ
チャガタイ家
チャガタイ家(-け)は、チンギス・ハーンの次男であるチャガタイから始まる家系である。
見る アルグとチャガタイ家
チャガタイ・ハン国
チャガタイ・ハン国は、13世紀から17世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家(ウルス)である。 モンゴル帝国の建国者であるチンギス・カンの次男チャガタイを祖とし、その子孫が国家の君主として君臨した。14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、東部のチャガタイ・ハン国はモグーリスタン・ハン国とも呼ばれる。内乱、外部の遊牧勢力の攻撃、スーフィー教団の台頭の末、18世紀末にモグーリスタン王家を君主とする政権は滅亡した。西部のチャガタイ・ハン国ではハンに代わって貴族が実権を握るようになり、地方勢力間の抗争とモグーリスタン・ハン国の侵入を経てティムール朝が形成された。の貴族やティムール朝の創始者ティムールは傀儡のハンを置き、ティムールはチャガタイの弟オゴデイの子孫をハンとしたが、1403年以降はハンを擁立しなかった。
チュベイ
チュベイ(Čübei、生没年不詳)は、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢語表記は豳王出伯、『集史』などのペルシア語表記はچوبی(Chūbaī)。チャガタイ家の第5代君主アルグの次男で、チンギス・カンの玄孫、チャガタイの曾孫にあたる。
見る アルグとチュベイ
チンギス・カン
チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、英語:Genghis Khan、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。死後は廟号を太祖、諡を法天啓運聖武皇帝と称した。日本語での名前表記については複数の表記揺れがある(#名前の節を参照)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。
見る アルグとチンギス・カン
ハーン
ハーン(汗、可汗、合罕、干、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に東北に住む騎馬民族の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。
見る アルグとハーン
バイダル
バイダル(Baidar、生没年不詳)は、チンギス・カンの息子チャガタイの第6子で、モンゴル帝国の皇族宇野伸浩「」『人間環境学研究』 10号、2012年2月、175-177頁。。 『集史』などのペルシア語史料では Bāīdār と表記されるが、『元史』には該当する人名は記されていない。しかし、バイダルの末裔であるノム・ダシュが建立した「重修文殊寺碑」には拝合里(「合」は答か荅の誤り)と漢字表記されている。また、『新元史』などの後世の編纂物では貝達爾、拝達児とも表記される。 子にチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)の第5代当主アルグがいる。
見る アルグとバイダル
ムバーラク・シャー (チャガタイ家)
ムバーラク・シャーは、チャガタイ家の第6代君主(在位:1266年)。本来はチャガタイ・ウルス君主の座を受け継ぐ正統な血統の出であったが、アルグとバラクの簒奪を経て影響力を失い、チャガタイ・ウルス君主に返り咲くことなく一生を終えた。
モンケ
モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān)。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で永遠を意味する。チンギス・カンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。
見る アルグとモンケ
モンゴル帝国
モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家(ウルス)である。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の領土。
見る アルグとモンゴル帝国
モンゴル帝国帝位継承戦争
モンゴル帝国帝位継承戦争(モンゴルていこくていいけいしょうせんそう、1260年 - 1264年)は、モンゴル帝国の第4代ハーンモンケの死後に、その兄弟クビライおよびアリクブケが共にハーン継承を宣言し、2人のハーンが並立する分裂状態となったことにより勃発した内戦。当初はアリクブケが優勢だったが、最終的にはクビライが勝利を収め、名実共に第5代ハーンとなった。 古来「アリクブケの乱」と呼ばれてきたモンゴル帝国の内戦を、歴史理論学の立場から言い換えた現代的表現である。『集史』を始めとするペルシア方面で書かれた多くの史書がアリクブケをカアンの一人として扱っており、開戦当初はジョチ家・チャガタイ家などほとんどの帝国の構成員がアリクブケを支持する立場をとったことを示す資料が数多く残っている。「アリクブケの乱」という名称はあくまで勝者のクビライとその子孫らによる自己正当化のための呼称である。
アリクブケ
アリクブケ(モンゴル語:, ラテン文字転写: )は、モンゴル帝国の第5代皇帝(カアン)。漢文史料では阿里不哥、ペルシア語史料では()と書かれる。書籍によってはアリクブカとも表記される。
見る アルグとアリクブケ
アルマリク
アルマリク(Almalik)は中央アジア、イリ川渓谷(イリ地方)の歴史的都市。モンゴル帝国時代の13世紀から14世紀頃にイリ川渓谷を経て天山山脈北麓を通る交易路の拠点として栄え、またイリ地方の周辺に広がる草原地帯の遊牧民たちが拠点として利用した。正確な位置は明らかではないが、現在の中国新疆ウイグル自治区北西部、サリム湖の南バットゥータ『大旅行記』4巻、229頁、カザフスタンとの国境に近いイーニン(クルジャ)の近辺に存在していたと考えられている松田「アルマリク」『アジア歴史事典』1巻、120頁。 アルマリクの前身は、唐の史書に表れる「弓月城」と推定されている。アルマリクの名は13世紀にはじめて歴史にあらわれ、耶律楚材や長春真人の旅行記には「阿里馬里城」、アルメニア国王の旅行記には「ハルアリク(Halualekh)」と記される。この名はテュルク語で「リンゴのなる町」を意味している。
見る アルグとアルマリク
アビシュカ
アビシュカ(Abišqa ? - 1260年)は、モンゴル帝国の皇族。チンギス・ハーンの次男であるチャガタイの孫ブリの息子。『集史』ではابيشقه Ābīshqeと記されるが、『元史』などの漢文史料には記載がない。
見る アルグとアビシュカ
オルガナ
オルガナ(Orγana, Orqïna 生没年不詳)は、中央アジアを支配したチャガタイ・ハン国の第4代君主(1252年 - 1260年)。オルクナ Orqïna ともいわれる。ペルシア語史料『集史』では اورقنه خاتون Ūrqana Khātūn/Ūrqina Khātūn と表される。 オルガナはオイラト王家の当主クドカ・ベキの次男トレルチと、チンギス・カンとその第1皇后ボルテとの第二皇女チチェゲンとの娘である。同父母兄弟には、ブカ・テムル、ボル・トゥア、バルス・ブカがおり、同父母姉妹にはトルイ家のアリクブケの第一正妃イルチガミシュや同じくフレグの第二正妃グユク・ハトゥンがいる。チンギス・カンは治世の後半に自らの息子や孫たちとオイラト王家の子弟たちとの通婚を緊密にしていたことが知られているが、オルガナは姉妹がトルイ家やジョチ家に嫁ぐ例が多かった中で、チャガタイ家に嫁ぐことになった。
見る アルグとオルガナ
カラ・フレグ
カラ・フレグ(Qara Hülegü, ? - 1252年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第2代君主(在位:1242年 - 1246年, 1251年)。チンギス・カンの次男チャガタイの長男であるモエトゥケンの四男、つまりチンギス・カンの曾孫である。オイラト王家出身のオルクナ・ハトゥンを娶り、彼女との間に後にムバーラク・シャーを儲けた。『元史』では合剌旭烈大王、『集史』などのペルシア語表記では قرا هولاكو Qarā Hūlākū、『高貴系譜(Mu'izz al-Ansāb)』では(一部、『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』でも) قرا هولاووQarā Hūlāwū とも書かれる。
見る アルグとカラ・フレグ
カラコルム
カラコルム( 転写:Qaraqorum)は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県北西部のオルホン河畔に位置する都市。また、かつてのモンゴル帝国の首都であり、古都としても知られている。 カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。ペルシア語資料では قراقوروم Qarā-qūrūm と表れ、漢語資料では哈剌和林、略して和林と表記される。また現代モンゴル語ではハルホリン(Хархорин)と表記される。 「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるという。
見る アルグとカラコルム
カイドゥ
カイドゥ(、? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・カンの三男オゴデイの五男カシン()の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(カアン)、チンギス・カンの四男トルイの四男クビライ率いる大元ウルスと対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。
見る アルグとカイドゥ
クリルタイ
クリルタイ(モンゴル語:、Хуралдай、Khuruldai、トルコ語:Kurultay)は、中世から近世にかけて開催されたモンゴルの最高意思決定機関である。有力者が集まってカアンの位の決定、戦争・法令などを議題にした。『元朝秘史』では忽隣塔、『集史』などのペルシア語資料では قوريلتاى Qūrīltāī などと表記される。 『元朝秘史』などの中世モンゴル語では qurilta と言うが、これは「(血縁関係の者が)集まる」を意味する語幹 quri- に、動詞から実詞を形成する接尾辞 -lta〜lte が付された形で、いわば動詞 quri- の名詞形にあたり、「集まり」ほどの意味になる。ただ、この qurilta とはただの「集まり」ではなく、「血族類縁者の集まり」である。
見る アルグとクリルタイ
クビライ
クビライ(漢字:忽必烈、モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝であり、元朝の初代皇帝(カアン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān など書かれる。死後は諡を聖徳神功文武皇帝、廟号を世祖と称し、モンゴル語での尊号は「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禅皇帝)。日本語での名前表記については揺れがあるため日本語による表記の節を参照。
見る アルグとクビライ
サマルカンド
サマルカンド(Samarkand, سمرقند (Samarqand), Samarqand/Самарқанд, Самарқанд(Samarqand))は、中央アジア、ウズベキスタンにあるシルクロードのオアシス古都。
見る アルグとサマルカンド
元 (王朝)
元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の直轄地として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。 正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。
見る アルグと元 (王朝)
参考情報
1266年没
- アリクブケ
- アルグ
- アンドロニコス2世 (トレビゾンド皇帝)
- ウード (ヌヴェール伯)
- エリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク (1230-1266)
- シフィエントペウク2世
- ビルイェル・ヤール
- ベルケ
- マルガレーテ・フォン・バーベンベルク
- マンフレーディ
- ムアイヤドゥッディーン・ウルディー
- ユーグ (ブルゴーニュ伯)
13世紀アジアの君主
- アバカ
- アラーウッディーン・テキシュ
- アラーウッディーン・ムハンマド
- アルグ
- アルグン
- イェス・モンケ
- ウラクチ
- エルトゥールル
- オルダ
- カラ・フレグ
- ガザン・ハン
- クルタナガラ
- ゲイハトゥ
- コニチ
- コンクラン
- シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ
- シーインタラーティット
- ジャガッジャヤ・マッラ
- ジャラールッディーン・ハルジー
- ジャラールッディーン・メングベルディー
- タヤン・カン
- チャガタイ
- テグデル
- ドゥア
- ニグベイ
- ノガイ
- バイドゥ (イルハン朝)
- バトゥ
- バラク (チャガタイ家)
- バルチュク・アルト・テギン
- バーンムアン
- フレグ
- ブカ・テムル
- マンラーイ
- ムイズッディーン・バフラーム・シャー
- ムカリ
- ムバーラク・シャー (チャガタイ家)
- ラームカムヘーン
- ルスダン
- ルータイ
- 忠宣王

