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関西歌舞伎

索引 関西歌舞伎

上方歌舞伎(かみがたかぶき).

171 関係: 助高屋高助 (初代)けいせい恋飛脚南座双蝶々曲輪日記名題坂田藤十郎坂田藤十郎 (4代目)坂田藤十郎 (初代)坂東三津五郎 (8代目)坂東玉三郎 (5代目)大衆演劇大谷竹次郎大阪大阪歌舞伎座天下茶屋の仇討妹背山婦女庭訓實川延若實川延若 (2代目)實川延若 (3代目)實川延若 (初代)實川額十郎尾上卯三郎 (2代目)尾上多見蔵 (2代目)尾上多見蔵 (3代目)尾上菊五郎 (6代目)尾上菊五郎 (7代目)尾上菊五郎 (初代)尾上菊次郎 (4代目)尾上松緑 (2代目)尾上梅幸 (7代目)山田庄一上村吉彌上方落語並木五瓶中座中村吉右衛門 (2代目)中村吉右衛門 (初代)中村宗十郎中村富十郎 (4代目)中村富十郎 (5代目)中村富十郎 (初代)中村勘三郎 (17代目)中村勘三郎 (18代目)中村福助 (高砂屋5代目)中村芝翫 (4代目)中村魁車中村鴈治郎中村鴈治郎 (2代目)中村鴈治郎 (4代目)...中村鴈治郎 (初代)中村霞仙 (2代目)中村雀右衛門 (3代目)中村雀右衛門 (4代目)中村梅玉 (2代目)中村梅玉 (3代目)中村歌右衛門 (3代目)中村歌右衛門 (4代目)中村歌右衛門 (6代目)中村歌右衛門 (初代)中村成太郎 (2代目)中村扇雀 (3代目)市川右團次 (初代)市川壽海 (3代目)市川小團次 (4代目)市川左團次 (3代目)市川市蔵 (4代目)市川團十郎 (11代目)市川團十郎 (12代目)市川團十郎 (9代目)市川筵女市川箱登羅 (初代)市川猿翁 (2代目)市川猿翁 (初代)市川雷蔵 (8代目)三波春夫京都仮名手本忠臣蔵伊勢音頭恋寝刃強盗返心中天網島土屋逵直チョボ嵐吉三郎 (7代目)嵐小六 (3代目)嵐巌笑嵐三右衛門 (11代目)嵐三右衛門 (初代)嵐徳三郎 (7代目)嵐璃かく嵐璃かく (5代目)嵐璃寛 (4代目)嵐雛助 (10代目)嵐橘三郎 (初代)元禄勧進帳国立文楽劇場石川五右衛門神明恵和合取組立役美空ひばり義経千本桜猿之助四十八撰片岡仁左衛門片岡仁左衛門 (11代目)片岡仁左衛門 (12代目)片岡仁左衛門 (13代目)片岡仁左衛門 (15代目)片岡仁左衛門 (7代目)片岡仁左衛門 (8代目)片岡仁左衛門一家殺害事件片岡秀太郎 (2代目)片岡我童 (13代目)片岡我當 (5代目)片岡愛之助 (5代目)片岡愛之助 (6代目)瀬川菊之丞 (初代)白井信太郎白井松次郎芝居茶屋芳澤あやめ (初代)道頓堀道頓堀角座菅原伝授手習鑑鶴屋南北 (4代目)舞台阪東壽三郎 (3代目)関西歌舞伎藤山寛美長谷川一夫林又一郎 (2代目)東京松尾國三松下幸之助松竹松竹新喜劇松本幸四郎 (7代目)松本白鸚 (2代目)村田嘉久子桜姫東文章梅村蓉子権藤芳一武智鉄二歌舞伎江戸河竹黙阿弥法務局淺尾奥山 (4代目)渋谷天外漫才漫才ブーム澤村宗十郎 (9代目)澤村藤十郎 (2代目)朝日座戦後明治映画新歌舞伎座新歌舞伎座 (大阪)文楽摂州合邦辻曽根崎心中1949年1953年1954年1955年1958年1962年1967年1984年 インデックスを展開 (121 もっと) »

助高屋高助 (初代)

初代 助高屋 高助(しょだい すけたかや たかすけ、貞享2年〈1685年〉 - 宝暦6年1月3日〈1756年2月2日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。屋号は紀伊國屋、俳名訥子・高賀。初代澤村宗十郎としても知られる。.

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型(かた).

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けいせい恋飛脚

『けいせい恋飛脚』(けいせいこいびきゃく)とは、人形浄瑠璃の演目のひとつ。全二段、安永2年(1773年)大坂にて初演。菅専助・若竹笛躬の合作。近松門左衛門作の『冥途の飛脚』を改作したもの。.

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南座

南座(みなみざ)は京都府京都市東山区にある劇場。正式名称は京都四條南座(きょうとしじょうみなみざ)。松竹が経営している。近代建築に桃山風の意匠を取り込んだ地上4階地下1階の建物は国の登録有形文化財となっている。.

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双蝶々曲輪日記

双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょう くるわにっき)は、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目。1749年(寛延2年)7月に大坂竹本座で初演され、翌8月に京都嵐三右衛門座で歌舞伎として初演された。作者は二代目竹田出雲、三好松洛、初代並木千柳。全九段。.

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名題

名題(なだい)とは、次のいずれかを意味する歌舞伎用語。.

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坂田藤十郎

坂田 藤十郎(さかた とうじゅうろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は山城屋。四代目の定紋は五つ藤重ね星梅鉢、替紋は向い藤菱。 初代は上方歌舞伎の創始者の一人で、和事の芸を確立した役者としても知られ、かつてその名跡は江戸の市川團十郎と並んで梨園でも最も権威あるものだった。安永2年 (1774) に三代目が仙台で客死した後は襲名する者がなく、坂田藤十郎の名は伝説的な名跡として生き長らえたが、平成17年 (2005) に231年ぶりの四代目襲名となった。.

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坂田藤十郎 (4代目)

四代目 坂田 藤十郎(よだいめ さかた とうじゅうろう、1931年(昭和6年)12月31日 - )は、日本の歌舞伎役者。歌舞伎名跡「坂田藤十郎」の当代。屋号は山城屋。定紋は五つ藤重ね星梅鉢、替紋は向い藤菱。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 前名の三代目 中村 鴈治郎(さんだいめ なかむら がんじろう)としても、また今なお前々名の二代目 中村 扇雀(にだいめ なかむら せんじゃく)としても知られる。日本舞踊雁音流の家元としては雁音 歌扇(かりがね かせん)。本名は林 宏太郎(はやし こうたろう)。妻は女優で政治家の扇千景、妹は女優の中村玉緒。 現代歌舞伎の大看板のひとりでもあり、また上方歌舞伎の復興プロジェクトでも主導的な役目を務めるほか、近松門左衛門作品を原点から勉強し直すために劇団近松座を結成している。 日本中にブームを巻き起こした『曾根崎心中』のお初は当たり役とされている。.

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坂田藤十郎 (初代)

初代 坂田 藤十郎(しょだい さかた とうじゅうろう、正保4年(1647年) - 宝永6年11月1日(1709年12月1日))は、江戸時代の歌舞伎役者。俳号は冬貞、車漣。定紋は丸に外丸。元禄の時代を代表する名優で、上方歌舞伎の始祖の一人にかぞえられる。「役者道の開山」「希代の名人」などと呼ばれた。.

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坂東三津五郎 (8代目)

八代目 坂東 三津五郎(はちだいめ ばんどう みつごろう、1906年(明治39年)10月19日 - 1975年(昭和50年)1月16日)は、日本の俳優、歌舞伎役者。屋号は大和屋。定紋は三ツ大、替紋は花勝見。本名は守田 俊郎(もりた としろう)。青年期より敵役や老役を得意とし、重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定されたが、フグ毒にあたって急逝した。孫に女優の池上季実子がいる。.

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坂東玉三郎 (5代目)

五代目 坂東玉三郎(ごだいめ ばんどう たまさぶろう、1950年(昭和25年)4月25日 - )は、日本の歌舞伎役者、映画監督、演出家。歌舞伎名跡「坂東玉三郎」の当代。屋号は大和屋。定紋は花勝見(はなかつみ)、替紋は熨斗菱(のしびし)。重要無形文化財保持者(人間国宝)。 十四代目 守田勘弥の養子であり、本名は守田 伸一(もりた しんいち)。通名は守田 親市(もりた しんいち)、旧姓は楡原(にれはら)。.

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大衆演劇

大衆演劇(たいしゅうえんげき)とは、日本の演劇におけるジャンルの一つ。一般大衆を観客とする庶民的な演劇のこと。一般的には「旅役者」と呼ばれる劇団に当たる。.

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大谷竹次郎

大谷 竹次郎(おおたに たけじろう、1877年12月13日 - 1969年12月29日)は兄・白井松次郎とともに松竹を創業した日本の実業家。.

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大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

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大阪歌舞伎座

大阪歌舞伎座(おおさかかぶきざ)は、かつて大阪府大阪市南区難波新地四番町(のち三番町に変更。現・中央区千日前)にあった歌舞伎劇場である。 松竹の興行が行われていたが、経営はその傍系会社であった千日土地建物(千土地興行を経て日本ドリーム観光に改称)が行ってきた。千日前交差点の角地に立地し、まだ高層建築物が少なかった当時の大阪で、地上7階建のビルディングは正面の巨大丸窓と共に異彩を放っていた。劇場自体はビルの1 - 4階部分を占め、東京・歌舞伎座よりも芝居が見やすく、スケールの大きな劇場として知られた。.

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天下茶屋の仇討

天下茶屋の仇討(てんがちゃや の あだうち)は、慶長14年(1609年)に、林重次郎と源三郎の兄弟が父の仇である当麻三郎右衛門を大坂・天下茶屋で討った事件。.

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妹背山婦女庭訓

『妹背山婦女庭訓』(いもせやまおんなていきん)とは、人形浄瑠璃及び歌舞伎の演目のひとつ。全五段、明和8年(1771年)1月28日より大坂竹本座にて初演。近松半二・松田ばく・栄善平・近松東南・三好松洛の合作。「十三鐘/絹懸柳」の角書きが付く。.

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實川延若

實川 延若(じつかわ えんじゃく、新字体:実川)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は河内屋。定紋は重ね井筒、替紋は五つ雁金。「延若」は師匠だった二代目實川額十郎の俳名に由来する。.

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實川延若 (2代目)

二代目 實川 延若(新字体:実川、じつかわ えんじゃく、1877年(明治10年)12月11日 - 1951年(昭和26年)2月22日)は、大阪出身の歌舞伎役者。本名は天星 庄右衛門(あまぼし しょうえもん)。屋号は河内屋。定紋は重ね井筒、替紋は五つ雁金。.

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實川延若 (3代目)

三代目 實川 延若(さんだいめ じつかわ えんじゃく、1921年(大正10年)1月13日 - 1991年(平成3年)5月14日)は、歌舞伎役者。本名は天星昌三(あまぼし しょうぞう)。屋号は河内屋。定紋は重ね井筒、替紋は五つ雁金。舞踊の名取は藤間勘太郎(ふじま かんたろう)。俳名は正鴈、昌鴈(しょうがん)。.

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實川延若 (初代)

初代 實川 延若(しょだい じつかわ えんじゃく、新字体:実川、天保2年6月23日(1831年7月31日) - 明治18年(1885年)9月18日)は、大坂出身の歌舞伎役者。本名は天星 庄八(あまぼし しょうはち)。屋号は河内屋。定紋は重ね井筒、替紋は五つ雁金。俳名は正鴈。.

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實川額十郎

實川 額十郎(じつかわ がくじゅうろう)は、歌舞伎役者。屋号は井筒屋。.

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尾上卯三郎 (2代目)

二代目 尾上卯三郎(にだいめ おのえ うさぶろう、1860年3月14日(安政7年2月22日) - 1928年(昭和3年)1月16日)は、明治から大正にかけて関西で活躍した歌舞伎役者。俳名に濤昇。屋号は音羽屋。本名は木下 卯三郎(きのした うざぶろう)。 美濃国出身。はじめ力士志望で行司の木村庄之助に弟子入りするが、明治6年(1873年)9月に役者になるため初代尾上卯三郎の門人となり、尾上卯多市を名乗って子供芝居に参加した。明治9年(1876年)4月、師が座元となり舞台活動から引いたのを機に、二代目尾上卯三郎を襲名、養子となった。 関西の舞台で活躍するうち初代中村鴈治郎にその芸を見込まれ一座に加わる。役柄は広く、立ち回りをよくした。門閥外の出だけに、従来の型にはとらわれない、卯三郎独自の型を編み出した。その写実的な芸を民俗学の折口信夫は「脇役としての大きさと自由な技巧が横溢していた」と評した。また新派俳優に影響を与えている。 『天下茶屋仇討』の安達元右衛門が生涯の当たり役だった。 Category:歌舞伎役者 Category:美濃国の人物 Category:岐阜県出身の人物 Category:1860年生 Category:1928年没.

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尾上多見蔵 (2代目)

二代目 尾上多見蔵(にだいめ おのえ たみぞう、1800年(寛政12年) - 1886年(明治19年)3月2日)は幕末から明治初期にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。俳名に二朝、松玉、松朝、雅号、春風舎。 床山の子として京に生まれる。三代目瀬川菊ノ丞門人瀬川和市と名乗りちんこ芝居の舞台に上がる。才能が認められ三代目中村歌右衛門の弟子となり中村和市、さらに三代目尾上菊五郎門に移り江戸に下り、1830年(文政13年)11月江戸河原崎座で、二代目尾上多見蔵と名乗る。翌1831年(天保2年)大阪中の芝居での五変化の所作事が認められ若手の有望株として注目、大芝居に進出する。師の菊五郎が大川橋蔵を名乗った一時期には大川八蔵を名乗ったこともあったが、以後60年近く尾上多見蔵を名乗る。師の死後は大阪の舞台で活躍。86歳の長命を保ち明治以降は東西歌舞伎の最長老として尊敬を集め1879(明治12)年東京久松座出演時の出演料が80日間で4千円の大金だった。1885年(明治18年)11月、多見蔵死亡の噂が流れると、これを否定し、ついでに一世一代の舞台に立つつもりで、大阪中座の大切所作事『歳徳神』の舞台を務めたが、これが最後の舞台となった。 立役、敵役・女形を得意とした。小柄な体格で中年期から肥満するなど容姿にも恵まれなかった。長く格の低い浜芝居に出演していたので、観客受けをねらうあざとさが目立ち、品格は低いといわれたが、怪談物や早替わりなどのケレンに優れ、その研究熱心さもあって人気者であった。ケレンは四代目市川小團次・初代市川右團次父子に大きな影響を与えている。妖術使いに出演したとき、師の菊五郎をまね、身体に針金をまきつけ首筋に止めて空中回転を演じ、命がけで舞台を勤めていると大評判となるが、身体を壊して休演したという。 信心深い人柄で、毎月一度は生家近くの地蔵を礼拝して感謝の言葉を述べることを忘れず、弟子をとるときは、まず、相手の芸を見極めた上、「上手な奴よりも大根(技量が悪い役者の意)の方が上手くなる。」とのポリシーから、必ず下手な者を取っていた。 長寿をたもったのにあやかろうと多見蔵の舞台には赤ん坊を抱いた母親が詰め掛けた。 実子に三代目市川市蔵と初代尾上松鶴(元二代目尾上和市)。門人に三代目尾上多見蔵がいる。 Category:歌舞伎役者 Category:1800年生 Category:1886年没.

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尾上多見蔵 (3代目)

三代目 尾上多見蔵(さんだいめ おのえ たみぞう、1866年2月20日(慶応2年1月6日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は上方の歌舞伎役者。屋号は音羽屋、定紋は吉菱。俳名は梅笑。本名は吉川鶴之助(よしかわ つるのすけ)。 京で紀州藩家臣の子として生まれる。五代目坂東彦三郎に入門。坂東鶴之助と名乗る。明治3年(1870年)京都南座で初舞台。明治7年(1874年)に二代目尾上多見蔵の門人となる。その後尾上多見之助の名で主に関西の舞台に立つ。しかし武士の生まれだったため役者業に劣等感をいだき、関係者をたびたび困らせたが、やがて腰を据えて役者修業に打ち込むようになる。 大正7年(1918年)2月大阪浪花座『熊谷陣屋』の熊谷で三代目尾上多見蔵を襲名。このときは初代中村鴈治郎の義経、六代目尾上梅幸の相模という豪華版で大評判となった。その後は関西歌舞伎を中心に舞台活動を続けたが鴈治郎の陰に隠れ、鳴かず飛ばずのまま終わってしまった。 最後の舞台となったのは大正14年(1925年)5月大阪中座の『寿曾我対面』だった。十三代目片岡仁左衛門はその著書の中で、すでに多見蔵は体調がわるく引退同然だったが、中座の番頭が「最後になんとか華を飾らさせてやりたいのでこの舞台に出してはくれないか」と鴈治郎に頼み込み、一座で相談のうえ源頼朝で特別出演させた経緯を紹介している。この舞台は鴈治郎の曾我十郎、七代目幸四郎の曾我五郎、十一代目仁左衛門の工藤祐経、三代目雀右衛門の大磯虎、二代目延若の朝比奈三郎、六代目吉三郎の化粧坂少将、四代目我當の近江小藤太、初代扇雀の八幡三郎という、上方歌舞伎の大看板をずらりと並べた豪華版で、皆で多見蔵を見送るかたちとなった(『芝居噺』河出書房新社 1992年)。 芸風は実事や女形をこなし堅実だった。『和田合戦女舞鶴』の板額・『仮名手本忠臣蔵』の師宣・『神霊矢口渡』の頓兵衛などが当たり役。 category:歌舞伎役者 Category:山城国の人物 Category:京都府出身の人物 category:1866年生 category:1927年没.

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尾上菊五郎 (6代目)

六代目 尾上 菊五郎(ろくだいめ おのえ きくごろう、1885年(明治18年)8月26日 - 1949年(昭和24年)7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。 初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。歌舞伎界で単に「六代目」と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指す。.

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尾上菊五郎 (7代目)

七代目 尾上菊五郎(しちだいめ おのえ きくごろう、1942年10月2日 - )は、日本の歌舞伎役者。歌舞伎名跡「尾上菊五郎」の当代。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 本名は寺島 秀幸(てらしま ひでゆき)。妻は富司純子、長女は寺島しのぶ、長男は五代目尾上菊之助。.

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尾上菊五郎 (初代)

初代 尾上菊五郎(しょだい おのえ きくごろう、享保2年〈1717年〉 - 天明3年12月29日〈1784年1月21日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。屋号音羽屋、俳名梅幸。幼名は竹太郎。 京都都萬太夫座の芝居茶屋の出方音羽屋半平の子。初め若女形の尾上左門の門下となり、尾上竹太郎と名乗る。享保15年(1730年)京都榊山四郎太郎座で尾上菊五郎を名乗り若衆方として初舞台。同20年(1735年)からは若女形として舞台に立ち評判を取る。 その後寛保元年(1741年)、大坂で二代目市川海老蔵と同座し、翌年の寛保二年には、『鳴神』で海老蔵演じる鳴神上人を相手に雲の絶間姫を演じて大評判を取る。これをきっかけに同年海老蔵と共に江戸に下り、市村座に出て女形として売り出した。その後宝暦2年(1752年)に立役に転じる。しかし明和3年(1766年)、江戸堺町で営んでいた油屋からの出火により隣接する中村座と市村座の両座を焼失、これが「菊五郎油見世火事」といわれるほど反発を買い、帰坂せざるを得なくなった。その後は四年を経てふたたび江戸に下り大当りを取り、三都の舞台で活躍し、最後は大坂で没した。 当り役は『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、『ひらかな盛衰記』の延寿・畠山重忠など。子に二代目尾上菊五郎がいる。.

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尾上菊次郎 (4代目)

四代目 尾上 菊次郎(よだいめ おのえきくじろう、1904年(明治37年)9月29日 - 1981年(昭和56年)7月24日)は、主に関西歌舞伎で活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋、定紋は向い菊、替紋は裏菊菱。俳名に幸菊がある。本名は渡辺 良雄(わたなべ よしお)。 二代目坂東彦十郎の次男。東京・築地出身。1910年(明治43年)4月帝国劇場『心中天網島』「紙治」の勘太郎で坂東子鶴を名のって初舞台。1919年(大正8年)6月帝劇『一谷嫩軍記』の熊谷の遠見で四代目坂東竹三郎を襲名。これを機に菊五郎一座に入り活躍するうち才能を認められ、1924年(大正13年)5月市村座『義経千本桜』の小金吾と『娘道成寺』所化で名題昇進。1935年(昭和10年)10月歌舞伎座『三人形』の傾城で四代目尾上菊次郎を襲名した。 その後二代目市川猿之助一座を経て、1949年(昭和24年)関西歌舞伎に移籍。主として老女形として古風な芸で活躍した。 品格と情味を兼ね備えた芸風で、当たり役は、『恋女房染分手綱』(重の井の子別れ)の重の井や、『妹背山女庭訓』「吉野川」の定高などの片はずし、そして『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の母微妙などの三婆。立女形だが、晩年には幅広い役柄をこなし、『傾城反魂香』「吃又」の将監、『奥州安達原』「袖萩祭文」の謙杖直方、『夏祭浪花鑑』「三婦内」の釣船三婦、果ては『義経千本桜』「鮨屋」の梶原景時など、一見ニンに合わないのではないかと思わせるような役どころでもきちんとつとめて違和感がなかった。 1978年(昭和53年)勲五等双光旭日章を受章。1981年(昭和56年)1月京都中座『心中紙屋治兵衛』「河庄」のお庄が最後の舞台となった。 四代目中村富十郎は弟、五代目坂東竹三郎は名前養子にあたる。.

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尾上松緑 (2代目)

二代目 尾上松緑(にだいめ おのえ しょうろく、1913年(大正2年)3月28日 - 1989年(平成元年)6月25日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は四つ輪に抱き柏、替紋は藤輪に花菱。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 本名は藤間 豊(ふじま ゆたか)。六代目尾上菊五郎の薫陶を受け、恰幅のいい体つきで時代・世話を問わず立役として活躍した。踊りの名手としても知られ、日本舞踊藤間流の家元として四世藤間勘右衛門を名乗った。.

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尾上梅幸 (7代目)

七代目 尾上 梅幸(しちだいめ おのえ ばいこう、1915年(大正4年)8月31日 - 1995年(平成7年)3月24日)は、歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四ツ輪。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は寺島 誠三(てらしま せいぞう)。.

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山田庄一

山田庄一(やまだ しょういち、1925年9月25日ー )は、古典演劇の製作者、評論家。.

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上村吉彌

上村 吉彌(かみむら きちや、新字体:吉弥)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は美吉屋。定紋は折敷型世の字。.

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上方落語

上方落語(かみがたらくご)とは、大阪・京都を中心とする地域で主に演じられる落語。.

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並木五瓶

並木 五瓶(なみき ごへい)は、歌舞伎狂言作者の名跡。.

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中座

中座(なかざ・1661年開業 - 1999年10月31日閉鎖)は大阪府大阪市中央区にあった劇場である。.

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中村吉右衛門 (2代目)

二代目 中村吉右衛門(にだいめ なかむら きちえもん、1944年(昭和19年)5月22日 - )は、日本の歌舞伎役者。歌舞伎名跡「中村吉右衛門」の当代。屋号は播磨屋、定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。.

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中村吉右衛門 (初代)

初代 中村 吉右衛門(しょだい なかむら きちえもん、1886年(明治19年)3月24日 - 1954年(昭和29年)9月5日)は、明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は播磨屋。定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。大向うからの「大播磨」(おおはりま)の掛け声で知られた。.

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中村宗十郎

中村 宗十郎(なかむら そうじゅうろう、天保6年(1835年) - 明治22年(1889年)10月8日)は明治時代に上方で活躍した歌舞伎役者。同時期の初代實川延若、初代市川右團次とともに「延宗右」と呼ばれ、関西劇壇の重鎮として人気を集めた。本名は藤井 重兵衛(ふじい しげべえ)。屋号は末廣屋、俳名は千昇・霞仙。.

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中村富十郎 (4代目)

四代目 中村 富十郎(よだいめ なかむら とみじゅうろう、1908年(明治41年)6月11日 - 1960年(昭和35年)10月17日)は、関西の歌舞伎役者。本名は渡辺 亀蔵(わたなべ かめぞう)。屋号は天王寺屋。定紋は鷹の羽八ツ矢車。俳名に亀鶴。 二代目坂東彦十郎の三男として東京築地に生まれる。明治44年(1911年)名古屋末広座において『義経千本櫻・すし屋』六代君役に本名で初舞台。大正元年(1912年)坂東亀の子と改名。大正8年(1919年)6月坂東一鶴。昭和5年(1930年)東京劇場において三代目坂東鶴之助を襲名。四代目片岡我當らとともに新宿第一劇場の青年歌舞伎を結成。さらに関西歌舞伎に移り、昭和18年(1943年)正月大阪歌舞伎座で四代目中村富十郎を襲名する。しかしこれが興行側の意向とはいえ、東京生まれの役者が大阪所縁の富十郎の大名跡を継ぐことは物議をかもし、三代目中村梅玉が「鶴之助はんが富十郎襲名しはんのやったら、わてはどんな名継いだらよろしのや」と憤慨したという。 戦後の関西歌舞伎では、立女形として三代目市川壽海、三代目阪東壽三郎らと舞台を共にする。矢車座を結成し新作の上演をおこなったりして活躍したが、関西歌舞伎の低迷の中で思うように活躍できぬまま、巡業先の広島県福山市で急死した。 ねばっこい近代的な芸風で『心中宵庚申』のお千代。『箕輪の心中』の綾衣、『少将滋幹の母』の北の方、『番町皿屋敷』のお菊などが当り役。 先妻は十五代目市村羽左衛門の私生児で舞踊家の吾妻徳穂。駆け落ち結婚だった。この徳穂との間に長男・五代目中村富十郎と次男を儲けたが、その後徳穂が今度は内弟子と恋仲になっての駆け落ちしたため離婚。後妻は初代中村鴈治郎の末娘で女優の中村芳子。この芳子との間には初代中村亀鶴を儲けている。.

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中村富十郎 (5代目)

五代目 中村富十郎(ごだいめ なかむら とみじゅうろう、1929年(昭和4年)6月4日 - 2011年(平成23年)1月3日)は、歌舞伎役者。屋号は天王寺屋。定紋は八本矢車。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 本名は渡邊 一1994年(平成6年)6月27日文部省告示第91号「重要無形文化財の保持者を追加認定する件」(わたなべ はじめ)。父は四代目中村富十郎、母は日本舞踊吾妻流家元の吾妻徳穂。正四位と旭日重光章追贈。.

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中村富十郎 (初代)

初代 中村富十郎(しょだい なかむら とみじゅうろう、享保4年(1719年) - 天明6年(1786年)8月26日(8月3日))は、享保中期から天明後期に活躍した上方の歌舞伎役者、絵師。屋号は天王寺屋。定紋は鷹の羽八ツ 矢車。俳名に慶子、雅号に琴嶺舎がある。また、画名として英(はなぶさ)慶子と称し、肉筆画のほか、摺物、挿絵を描いた。.

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中村勘三郎 (17代目)

十七代目 中村 勘三郎(じゅうしちだいめ なかむら かんざぶろう、1909年(明治42年)7月29日 - 1988年(昭和63年)4月16日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は中村屋。定紋は角切銀杏、替紋は丸に舞鶴。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は波野 聖司(なみの せいじ)。.

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中村勘三郎 (18代目)

十八代目 中村 勘三郎(じゅうはちだいめ なかむら かんざぶろう、1955年(昭和30年)5月30日 - 2012年(平成24年)12月5日)は、歌舞伎役者、俳優。本名は波野 哲明(なみの のりあき)。屋号は中村屋。定紋は角切銀杏、替紋は丸に舞鶴。舞踊名に藤間勘暢(ふじま かんちょう)がある。 子役時代から46年間名乗った前名である五代目 中村 勘九郎(ごだいめ なかむら かんくろう)としても知られた。愛称は本名からきた「のりちゃん」。 所属事務所は。.

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中村福助 (高砂屋5代目)

屋五代目 中村福助(たかさごや ごだいめ なかむら ふくすけ、1910年(明治43年)7月21日 - 1969年(昭和44年)1月1日)は大阪の歌舞伎役者。本名(戸籍名)は笹木 徳太郎(ささき とくたろう)。.

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中村芝翫 (4代目)

四代目 中村 芝翫(よだいめ なかむら しかん、天保2年3月3日(1831年4月15日) - 明治32年(1899年)1月16日)は、歌舞伎役者。屋号は成駒屋。俗に「大芝翫」(おおしかん)と呼ばれた名優。立役・実悪・女形。 大坂道頓堀に歌舞伎役者中村富四郎の長男として生まれる。中村玉太郎、中村政之助、中村駒三郎の芸名を経て、1838年(天保9年)、四代目中村歌右衛門の養子となる。同年江戸に下り翌年3月、初代中村福助を名乗る。1860年(万延元年)7月四代目中村芝翫を襲名。1863年(文久3年)には守田座座頭になる。以後は江戸の舞台で活躍する。美しい容貌で、いくらがんばっても本物のように描けないと浮世絵師を嘆かせたという。人気も物凄く、名人と呼ばれた四代目市川小團次も、芝翫には勝てず、一時は大坂へ帰ろうかと思ったり、他の俳優が、彼を舞台でいじめる役が居なくなって困ったほどだった。その美しい姿は今日も錦絵や舞台写真で窺うことができる。 立役・実悪・女形を兼ね、時代物世話物も得意。ことに父四代目歌右衛門から仕込まれた所作事は絶品だった。 口跡に秀でておらずしかも科白覚えが悪く、舞台では常に黒子が科白だしの後見をしていたほどであった。このことは、芝翫が初演時に演じた『白浪五人男』の南郷力丸でも「特に科白を覚えるのがきらいだ」と二代目河竹新七(黙阿弥)に書かれるほど知られていた。しかし複雑な踊りの手順はことごとく覚えていたという。後年、九代目市川團十郎と『二人道成寺』を踊った時は、團十郎が汗だくなのに対し芝翫は涼しげな顔で周囲を驚嘆させたという。 実生活でも逸話の多い人で、養子の四代目中村福助(後の五代目中村歌右衛門)が地球儀を見せて、ここが日本ですと教えると「べらぼうめ、日本がそんなに狭いわけがねえ」と怒り出す。そこでアメリカを指して日本ですと言ったら「あたりめえよ、そうでなくちゃいけねえ」と答えた。近所で火事が起ると、なにもかもほったらかして見物に行った。 温厚篤実な性格だったが、覇気に欠ける嫌いがあった。それがわざわいし、明治以降は古風な芸が時代に合わなくなっていった。また、口跡の悪さが年と共にひどくなり、科白覚えが悪いことが新作に向かないなどの理由で、大舞台からは遠ざけられ、小芝居に出るようになった。特に1893年(明治26年)、巡業中の多治見で『法界坊』を上演中に足を負傷し、演技に支障をきたすようになるなど、ますます精彩を欠き晩年は不遇であった。 それでも時折歌舞伎座の舞台に立った。実際の舞台に接した岡本綺堂は、芝翫の顔立ちの良さは九代目團十郎の比ではないほど立派なもので、あの鋭い目で見得をすると他の俳優が光を失うと述懐している。 当り役は『妹背山婦女庭訓』の大判事、『寿曽我対面』の工藤、『熊谷陣屋』の熊谷、『助六』の意休、『義経腰越状』の五斗兵衛、『山門』の石川五右衛門、『夏祭浪花鑑』の團七、『金閣寺』の松永大膳、『日高川』の船頭、『隅田川続俤』の法界坊、『鎌倉三代記』の佐々木高綱。所作事は『六歌仙容彩』、『京鹿子娘道成寺』。 Category:歌舞伎役者 Category:摂津国の人物 Category:大阪市出身の人物 Category:1831年生 Category:1899年没.

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中村魁車

中村 魁車(なかむら かいしゃ、明治8年 (1875年)12月21日 - 昭和20年 (1945年) 3月13日)は戦前の上方を代表する女形の歌舞伎役者。定紋は丸に剣片喰(まるに けん かたばみ)、替紋は八重裏梅(やえ うらうめ)。屋号は新駒屋。本名は桂 榮太郎(かつら えいたろう)。 明治8年 (1875) 生まれ。初代中村鴈治郎に入門し部屋子となる。明治16年 (1883) 初舞台を踏み、中村成太郎を名乗る。 その後東京の二代目市川左團次のもとで修業し、大正3年 (1914)、中村魁車に改名。魁車の名は贔屓の富岡鉄斎が付けた。改名に際して、師匠鴈治郎は実父の名跡から「四代目中村翫雀」、または共に尊敬する先輩の名跡から「二代目中村宗十郎」を勧めたが、独立心の強い成太郎はあえて代数のつかない独自の名跡「中村魁車」を選んだといわれている。 以後、初代鴈治郎一座の女形として活躍したが、つねに立女形を三代目中村梅玉に譲り、鴈治郎を中にして梅玉が本妻、魁車は妾のようだと言われた。しかしそこは門閥外から出世した努力の人で、梨園の御曹司だった梅玉とは常に張り合いながら芸を磨いていった。 昭和10年 (1935) に鴈治郎が死去してからは、梅玉や二代目實川延若とともに関西歌舞伎界の長老として活躍、『戀飛脚大和往來・封印切』の梅川、『御所櫻堀川夜討』(弁慶上使)のおさわ、『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の戸浪・武部源蔵、『双蝶々曲輪日記・引窓』のお早、『仮名手本忠臣蔵』のお石・塩谷判官・平右衛門、『夏祭浪花鑑・鳥居前・三婦内・泥場』の義平次・三婦、『伊勢音頭恋寝刃』(油屋)の喜助などが当り役。芸の上では品格に欠ける嫌いはあるも、女形のほか立役・老役・敵役・道化など幅広い役をこなすその万能ぶりは際立っており、『盛綱陣屋』の佐々木盛綱を師の鴈治郎と初代吉右衛門の二つの型で演じ分けるなどかなりの技量を持っていた。 昭和20年 (1945) 3月14日から15日にかけての大阪大空襲による戦災で死去。南区笠屋町(現中央区東心斎橋)の自宅防空壕内で孫を抱きしめて焼死するという非業の死だった。後日、その壕の前ではかつての好敵手の梅玉が泣きながらひざまずいて合掌していたという。折口信夫は『街衢の戦死者』という追悼文を読んだ。 養子が二代目中村成太郎、その子が二代目中村太郎だが、二人ともすでにこの世になく、「中村魁車」の名跡は継ぐ者がないままになっている。その結果、奇しくも本人が望んだとおりの「代数がつかない名跡」になった。 Category:歌舞伎役者 Category:第二次世界大戦の戦災死者 Category:1875年生 Category:1945年没.

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中村鴈治郎

中村 鴈治郎(なかむら がんじろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は三代目までが成駒屋、四代目は成駒家。定紋はイ菱、替紋は蝶花菱。.

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中村鴈治郎 (2代目)

二代目 中村鴈治郎(にだいめ なかむら がんじろう、1902年(明治35年)2月17日 - 1983年(昭和58年)4月13日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は成駒屋、定紋はイ菱。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は林 好雄(はやし よしお)。 上方歌舞伎の伝統を継承し、立役から女形まで幅広い芸域を誇ったが、特に父・初代鴈治郎譲りの二枚目役においてその本領を発揮した。.

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中村鴈治郎 (4代目)

四代目 中村鴈治郎(よだいめ なかむら がんじろう、1959年(昭和34年)2月6日 - )は、歌舞伎役者。屋号は成駒家。定紋はイ菱。本名は林 智太郎(はやし ともたろう)。 歌舞伎名跡「中村鴈治郎」の当代。.

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中村鴈治郎 (初代)

初代 中村 鴈治郎(しょだい なかむら がんじろう、安政7年3月6日(1860年3月27日) - 1935年(昭和10年)2月1日)は明治・大正の上方歌舞伎役者。屋号は成駒屋。定紋はイ菱。俳名に扇若・亀鶴、雅号に玩辞楼、浄瑠璃名に吉田玉太郎。本名は林 玉太郎(はやし たまたろう)。.

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中村霞仙 (2代目)

二代目 中村霞仙(にだいめ なかむら かせん、明治26年(1893年) - 昭和44年(1969年)8月28日)は、大阪の歌舞伎役者。本名は藤井 重兵衛(ふじい しげべえ)。屋号は末廣屋。 初代中村霞仙の子として生まれ、明治37年9月、大阪・角座で初代中村紫香(しこう)を名乗って初舞台。 『梶原平三誉石切』(石切梶原)の股野五郎は中年頃までの当り役となった。 1925年1月に二代目中村霞仙を中座で襲名し若手ながら主役で活躍、戦後は男女の老け役に徹し東西の舞台で活躍した。晩年、「ひらかな盛衰記・逆櫓」の船頭松右衛門を演じる役者がなく困っていたのを自ら買って出て演じ、関係者を唸らせた。 Category:歌舞伎役者 Category:1893年生 Category:1969年生.

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中村雀右衛門 (3代目)

三代目 中村 雀右衛門(さんだいめ なかむら じゃくえもん、明治8年(1875年)1月2日 - 昭和2年(1927年)11月15日)は、明治から大正の上方の歌舞伎役者。屋号は京屋。俳名に梅都・芝斗。本名は中島 笑太郎(なかじま しょうたろう)。 父は歌舞伎役者の嵐璃笑。明治12年(1879年)正月大阪中座で初舞台、嵐笑太郎と名乗る。父の死後京都の舞台で活躍中に二代目中村雀右衛門に認められ、その養子となり中村笑太郎と名乗る。明治23年(1890年)義兄の三代目中村芝雀が死去したので、義父の意向もあって翌年9月四代目中村芝雀を襲名する。このころは立役を主につとめていたが、東京で女形の芸を学び帰阪後は関西歌舞伎随一の女形として認められるようになる。 大正3年(1914年)10月、大阪浪花座『芦屋道満大内鑑』の葛の葉で三代目中村雀右衛門を襲名。その喉を締め付けるようなだみ声は物まねの定番となるほどのものだったが、そんな悪声と小柄な体格という負い目を背負いながらも、舞台に上がると絶世の美女になった。その美しさは『心中天網島』で舞台を共にした初代中村鴈治郎が「この女とやったら死ねる」といったという逸話からもうかがわれる。『鎌倉三代記』「絹川村」の時姫、『祇園祭礼信仰記』「金閣寺」の雪姫、『本朝廿四孝』の八重垣姫などの時代物や、『新版歌祭文』「野崎村」のお光、『義経千本桜』「すし屋」のお里、『桂川連理柵』「帯屋」のお半などの娘役、『摂州合邦辻』「合邦庵室」の玉手御前、『艶容女舞衣』「酒屋」のお園、『国訛嫩笈摺』「どんどろ大師」のお弓などの女房役のほか、人形振りも得意で『伊達娘恋緋鹿子』「火の見櫓」のお七などが当たり役だった。昭和2年(1927年)11月14日、『増補忠臣蔵』「本蔵下屋敷」の三千歳姫をつとめている最中に倒れて翌日死去。 従来の演出にとらわれることなく「京屋型」という新しい型を創造した。二代目中村鴈治郎は著書『八人の歌舞伎役者』のなかで「私の知っている限りでは、女形の名人ともいうべきお方でした。大抵の人は昔の型を伝えるだけですが、このお方は御自分でも新しく型を創作なすったのです」と三代目を述懐している。 子に出征中戦病死した中村景章(「五代目中村芝雀」を追贈)がいる。四代目雀右衛門はその景章の親友だった関係から、雀右衛門家に位牌養子に入って四代目を襲名したという経緯がある。 Category:歌舞伎役者 Category:1875年生 Category:1927年没.

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中村雀右衛門 (4代目)

四代目 中村 雀右衛門(よだいめ なかむら じゃくえもん、1920年(大正9年)8月20日 - 2012年(平成24年)2月23日)は、歌舞伎役者、映画俳優。七代目 大谷 友右衛門(しちだいめ おおたに ともえもん)としても知られる。立女形。 「中村雀右衛門」としての屋号は京屋。定紋は京屋結び、替紋は向い雀。「大谷友右衛門」としての屋号は明石屋。定紋は丸十、替紋は水仙丸。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 本名は青木 清治(あおき きよはる)。女形の大御所的存在として晩年まで若々しい美しさと、格調の高さ、芸格の大きさで人気を博した。.

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中村梅玉 (2代目)

二代目 中村梅玉(にだいめ なかむら ばいぎょく、天保12年12月28日(1842年2月8日) - 大正10年(1921年)6月8日)は、幕末から明治、大正にかけて活躍した上方の歌舞伎役者。屋号は高砂屋。俳名に三雀・鶯声。本名は笹木 徳数(ささき のりかず)。 京五条の生まれ。生家は鋲造りの鍛冶職人。嘉永元年(1848年)大坂に移住。同年、女形として藤岡菊太郎とを名乗って竹田芝居で初舞台。2年後初代中村玉七の門人となって中村玉蔵を名乗る。慶応元年(1865年)五代目三枡大五郎の養子に迎えられ四代目三枡他人(みます たにん)を襲名した。 慶応3年(1867年)、来坂した二代目中村福助に認められてその門人となるが、福助はまもなく急死。福助人気をあてこんでいた興行師はその突然の客死に頭を抱え、窮余の策として年格好が似ており、しかも並ならぬ技量があった三枡他人に白羽の矢を立てる。この興行師の説得に折れるかたちで翌年三代目中村福助を襲名。ところが時をほぼ同じくして江戸でも二代目福助の高弟が三代目福助を襲名したため、期せずして東西に二人の福助が立つことになってしまった。これが以後100年間にわたって延々と続くことになる東京の成駒屋中村福助と大阪の高砂屋中村福助の並立である(詳細は「中村福助」の記事を参照)。 その後は東西の舞台で活躍するが、初代中村鴈治郎が台頭すると、率先して脇に廻りその相方をつとめるようになる。明治40年(1907年)10月、大阪角座にて二代目中村梅玉を襲名。以後、『河庄』の孫右衛門、『土屋主税』の宝井基角、『伊賀越道中双六・岡崎』の山田幸兵衛、『菅原伝授手習鑑・道明寺』の覚寿『絵本太功記・尼崎』の操などで鴈治郎を助けた。 口跡・容貌とも優れ、役柄も広く、融通無碍の演技力で、鴈治郎が昨日と違う演技をしても「又変わったんやな」とさらりと受け流す度量があり、そのうえ聞けば助言もしてくれる。まさに梅玉は鴈治郎にとってなくてはならない相方だった。老いてもかくしゃくとして、舞台は最晩年まで休むことなくつとめたが、大正10年(1921年)神戸の自宅で朝風呂に入浴中に心臓麻痺で死去。80歳の大往生だった。鴈治郎の落胆ぶりは端で見ていても気の毒になるほどで「もう『紙治』もなんも、でけしまへんがな」と呟くのがやっとだったという。 鴈治郎の女房役は、手塩にかけて育てた養子の三代目中村政次郎(のちの三代目中村梅玉)によって引き継がれた。 Category:歌舞伎役者 Category:山城国の人物 Category:京都府出身の人物 Category:1842年生 Category:1921年没.

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中村梅玉 (3代目)

三代目 中村 梅玉(さんだいめ なかむら ばいぎょく、1875年(明治8年)1月14日 - 1948年(昭和23年)3月18日)は、大正から戦前昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は高砂屋。定紋は祇園守、替紋は銀杏守。俳名に三雀。本名は笹木 伊之助(ささき いのすけ)。 初代中村鴈治郎の女房役者をつとめ、後には関西歌舞伎の長老として大梅玉(おおばいぎょく)と呼ばれた。.

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中村歌右衛門 (3代目)

三代目 中村歌右衛門(さんだいめ なかむら うたえもん、安永7年3月3日〈1778年3月31日〉 - 天保9年7月25日〈1838年9月13日〉)とは、江戸時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は加賀屋、俳名は歌七・梅玉・芝翫。雅号百戯園。本名大關 市兵衛(おおせき いちべえ)。幼名は福之助。.

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中村歌右衛門 (4代目)

三代目歌川豊国画。 四代目 中村歌右衛門(よだいめ なかむら うたえもん、寛政10年〈1798年〉 - 嘉永5年2月17日〈1852年3月7日〉)とは、江戸時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成駒屋、俳名は芝賞・翫雀。雅号は魁香舎。本名平野 吉太郎(ひらの きちたろう)。.

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中村歌右衛門 (6代目)

六代目 中村 歌右衛門(ろくだいめ なかむら うたえもん、1917年(大正6年)1月20日 - 2001年(平成13年)3月31日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は成駒屋。定紋は祇園守、替紋は裏梅。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 本名は河村 藤雄(かわむら ふじお)、俳名は魁春(かいしゅん)。生涯を通じて歌舞伎に専念し、戦後の歌舞伎界における女形の最高峰と呼ばれた。歌舞伎と舞踊以外の演劇活動は行わず、映画やテレビドラマに出演することもなかった。.

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中村歌右衛門 (初代)

初代 中村 歌右衛門(しょだい なかむら うたえもん、正徳4年(1714年) - 寛政3年10月29日(1791年11月24日))は江戸時代中期の上方の歌舞伎役者。屋号は加賀屋、定紋は祇園守。俳名に一先・一洗など。本名は大關 榮藏(おおせき ひでぞう)。.

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中村成太郎 (2代目)

二代目 中村成太郎(にだいめ なかむら なりたろう、明治33年〈1900年〉9月1日 - 昭和55年〈1980年〉11月17日)とは、上方の歌舞伎役者。屋号は新駒屋、俳名は斗紅。定紋は丸に剣片喰(けんかたばみ)、替紋は八重裏梅。雅号は乾堂。本名吉野 乾太郎(よしの かんたろう)。 東京生まれ。明治43年(1910年)、市川介六の名で初舞台。のちに初代中村成太郎(後の中村魁車)の養子となる。大正2年(1913年)大阪浪花座において中村太郎と改名。一時病気により東京へ帰るが、昭和4年(1929年)関西に復帰。昭和7年(1932年)名題に昇進し、10月には二代目中村成太郎を襲名。花車方として戦中から戦後の関西歌舞伎で活躍した。昭和48年(1973年)、勲五等瑞宝章を受章。翌年大阪市民表彰。 当り役は『廓文章』(吉田屋)のおきさ、『恋飛脚大和往来』の「封印切」のおえんなど。結果として養父である師匠の名跡を継いだものの、不運にも芸が円熟する時期に関西歌舞伎の内部崩壊が重なり、充分な活躍の場が得られなかった。子に二代目中村太郎がいる。また娘が立花幸の名で、一時朝日放送を中心にタレントとして活躍していた。.

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中村扇雀 (3代目)

三代目 中村 扇雀(さんだいめ なかむら せんじゃく、本名・林 浩太郎、1960年(昭和35年)12月19日 - )は、日本の俳優、歌舞伎役者。屋号は成駒家。アオイコーポレーション所属(2011年8月31日まではブルーミングエージェンシー所属)。.

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市川右團次 (初代)

初代 市川右團次(しょだい いちかわ うだんじ、天保14年7月16日(1843年8月11日) - 大正5年(1916年)3月18日)は、幕末から大正初期にかけて活躍した上方の歌舞伎役者。屋号ははじめ鶴屋、のち髙嶋屋。俳名に家升・采玉・米玉、雅号に夜霜庵。隠居名の初代市川 齊入(いちかわ さいにゅう)としても知られる。本名は市川 福太郎(いちかわ ふくたろう)。.

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市川壽海 (3代目)

三代目 市川壽海(さんだいめ いちかわ じゅかい、新字体:寿海、1886年(明治19年)7月12日 - 1971年(昭和46年)4月3日)は、大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は壽海老、替紋は蝙蝠。本名は太田 照造(おおた しょうぞう)昭和35年4月19日文化財保護委員会告示第11号「無形文化財を重要無形文化財に指定し保持者を認定する件」。.

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市川小團次 (4代目)

四代目 市川小團次(よだいめ いちかわ こだんじ、文化9年(1812年)1月 - 慶応2年5月8日(1866年6月20日))は幕末の歌舞伎役者。幼名は榮太(えいた)、また榮次郎(えいじろう)とも。俳名は米升。屋号は高島屋。定紋は三升。.

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市川左團次 (3代目)

三代目 市川左團次(さんだいめ いちかわ さだんじ、1898年(明治31年)8月26日 - 1969年(昭和44年)10月3日)は、大正から昭和中期の歌舞伎役者。本名は荒川清(あらかわ きよし)。屋号は高島屋、定紋は三升に左(みますに ひだり)、替紋は松皮菱に鬼蔦(まつかわびしに おにづた)。俳号は「新車」。 初代市川左團次から二代目市川左團次と相伝された男性的な力強い芸風とは大きく異なり、江戸っ子で門弟から芸一筋で出世し門閥の養子として大名跡を襲名した三代目は、様々な役割を器用にこなしながらも、あくまで脇に徹する手堅さを持ち、苦労に裏打ちされた存在感のある独特の風があった。戦後歌舞伎を盛りたてた名優の一人である。.

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市川市蔵 (4代目)

四代目 市川 市蔵(よだいめ いちかわ いちぞう、明治元年10月15日(1868年11月28日) - 昭和19年(1944年)8月1日)は関西の歌舞伎役者。屋号は播磨屋。俳名に蝶升。本名は安部 楠松(あべ くすまつ/なんしょう)。初代中村鴈治郎の相手役として活躍した。 大阪北堀江の生まれ。明治10年 (1877)、二代目阪東壽三郎の門人となり阪東豊作を名乗る。明治22年 (1889) 10月には本名の安部楠松を名乗っていたが、明治23年 (1890) 11月角座において四代目市川市蔵を襲名。以降関西歌舞伎において活躍する。 当たり役に『桜鍔恨鮫鞘』(鰻谷)の古手屋八郎兵衛、『戀飛脚大和往來・封印切』の八右衛門、『心中天網島・河庄』の孫右衛門などがある。特に八右衛門と孫右衛門は初代鴈治郎の十八番である忠兵衛(封印切)、治兵衛(河庄)の脇を固める重要な役どころで、市蔵はこれを見事に勤めた。口跡に難があり演技面でもうまくなかったといわれているが、一代の名優を助ける名相方として評価を上げたのである。 なお『封印切』はSPレコードの録音版がある。市蔵は八右衛門で、初代鴈治郎の忠兵衛、中村魁車の梅川、三代目中村梅玉のおえんと舞台を勤めており、その芸風を偲ぶことができる。 晩年は関西歌舞伎の長老として重きを成した。   Category:歌舞伎役者 Category:1868年生 Category:1944年没.

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市川團十郎 (11代目)

十一代目 市川團十郎(じゅういちだいめ いちかわ だんじゅうろう、1909年(明治42年)1月6日 - 1965年(昭和40年)11月10日)は、日本の歌舞伎役者。本名は堀越 治雄(ほりこし はるお)。屋号は成田屋。定紋は三升、替紋は杏葉牡丹。俳名は五粒。 海老蔵時代、「花の海老さま」として空前のブームを巻き起こした美貌で知られ、品格ある風姿、華のある芸風、高低問わずよく響く美声などを売り物とした、戦後歌舞伎を代表する花形役者の一人。.

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市川團十郎 (12代目)

十二代目 市川 團十郎(じゅうにだいめ いちかわ だんじゅうろう、1946年(昭和21年)8月6日 - 2013年(平成25年)2月3日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は成田屋、定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょようぼたん)。日本芸術院会員。本名は堀越 夏雄(ほりこし なつお)、俳名に柏莚(はくえん)がある。.

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市川團十郎 (9代目)

九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎 1838年11月29日(天保9年10月13日) - 1903年(明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。 五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。 その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。.

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市川筵女

市川 延女(いちかわ えんじょ、1868年(明治元年) - 1944年(昭和19年)9月11日)は、明治から戦前の歌舞伎役者。 明治5年 (1872) 十代目片岡仁左衛門に入り片岡久我松。のち三代目澤村田之助門下で澤村小田之。のち養子となり沢村曙山。養父の死後は二代目市川左團次門人となり市川延女と名乗る。九代目市川團十郎の一座で専ら腰元を演じたり、小芝居の宮戸座に出演したりしていた。のち関西に移籍し初代中村鴈治郎一座で老女形として活躍。 『仮名手本忠臣蔵・六段目』のおかや、『双蝶々曲輪日記・引窓』のお幸などを得意とした。また昭和10年 (1935) 10月の明治座、『競伊勢物語』で初代中村吉右衛門の紀有常に相方で小よしを演じて評判を呼んだ。品格に欠けるが老巧な芸であった。 Category:歌舞伎役者 Category:1868年生 Category:1944年没.

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市川箱登羅 (初代)

初代 市川箱登羅(しょだい いちかわ はことら、1867年(慶応3年) - 1944年(昭和19年)4月24日)は大阪の歌舞伎役者。 はじめ東京で活躍していたが、明治28年 (1895)、大阪の初代中村鴈治郎の門下に。その後は鴈治郎の大番頭として活躍、その死後は子の四代目中村翫雀(二代目鴈治郎)を支える。 あくの強い容貌と芸風で、端敵や道化役にいい味を出した。演劇評論家の山田庄一は「あの優は顔はもちろん美男ではなく、愛嬌があるというものでもなかった。それでいて、あの独特の軽さは、東京の名人松助(四代目尾上松助)と同様な評価を与えても、決して過ぎはしないだろう。・・・関西の、最近の名人と称しても過言ではあるまい。」と評している。(山田庄一『上方芸能今昔がたり』岩波書店 2013) 昭和19年(1944年)3月大阪歌舞伎座『松平長七郎』の庭番が最後の舞台となる。『仮名手本忠臣蔵』の鷺坂伴内、『伊賀越道中双六・岡崎』の蛇の目眼八、『心中天網島・河庄』の太兵衛、『椀久末松山』の柴田定之進などを当たり役とした。 彼の残した『市川箱登羅日記』は明治時代の役者の生活を語る貴重な資料となっている。.

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市川猿翁 (2代目)

二代目 市川 猿翁(にだいめ いちかわ えんおう、1939年(昭和14年)12月9日 - )は、日本の俳優、演出家、歌舞伎役者。屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三ツ猿。俳名に華果(かか)がある。また、紫派藤間流二代目家元として二代目藤間紫を名乗る。「猿翁」は隠居名で、49年間にわたって使い続けた三代目 市川 猿之助(さんだいめ いちかわ えんのすけ)としても広く知られる。本名は喜熨斗 政彦(きのし まさひこ)。 慶應義塾大学文学部国文学科卒業。京都造形芸術大学の教授 学内の春秋座の芸術監督もを務めていたこともある。.

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市川猿翁 (初代)

初代 市川 猿翁(しょだい いちかわ えんおう、1888年(明治21年)5月10日 - 1963年(昭和38年)6月12日)は、明治から戦後昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三ツ猿。日本芸術院会員。本名は喜熨斗 政泰(きのし まさやす)、俳名は笑猿(しょうえん)。 「猿翁」は舞台で使われることが一度もなかった隠居名の名跡で、しかも改名直後に本人が死去したため実績もまったくない。逆に「猿之助」の方は53年間にわたって名乗り続けた名跡で、これが今日でも彼が二代目 市川 猿之助(にだいめ いちかわ えんのすけ)として語られることが多い所以である。 当代の二代目市川猿翁(三代目市川猿之助)と四代目市川段四郎の兄弟は孫にあたる。.

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市川雷蔵 (8代目)

八代目 市川 雷蔵(はちだいめ いちかわ らいぞう、1931年(昭和6年)8月29日 - 1969年(昭和44年)7月17日)は、歌舞伎役者・日本の俳優。出生名は亀崎 章雄(かめざき あきお)。後に本名を竹内 嘉男(たけうち よしお)、さらに太田 吉哉(おおた よしや)に改名した。身長170cm。.

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三波春夫

三波 春夫(みなみ はるお、1923年7月19日 - 2001年4月14日、本名・北詰 文司(きたづめ ぶんじ))は、新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身の浪曲師、演歌歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。自身の長編歌謡浪曲などの作詞・構成時のペンネームとして「北村 桃児(きたむら とうじ)」を用いた。俳号は「北桃子(ほくとうし)」。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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仮名手本忠臣蔵

『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演。全十一段、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。赤穂事件を題材としたもの。通称「忠臣蔵」。 大石内蔵助こと大石良雄の家紋「二つ巴」。この家紋のことは『仮名手本忠臣蔵』においても作中に記されている。.

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伊勢音頭恋寝刃

『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)とは、歌舞伎の演目のひとつ。全四幕。寛政8年(1796年)7月、大坂角の芝居にて初演。近松徳三ほか作。通称『伊勢音頭』。また歌舞伎から人形浄瑠璃にもなっており、同名の外題で上演されている。.

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強盗返

強盗返・龕灯返(がんどうがえし)とは歌舞伎で用いる舞台用語で場面転換の方法である「居所変(居所替, いどころがわり)」の1つ、若しくは強盗返を用いた仕掛け。一般的には短時間で行う場面転換で用いられる。.

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心中天網島

『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。享保5年(1720年)12月6日、大坂竹本座で初演。全三段の世話物。 同年に起きた、紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。また、道行「名残の橋づくし」は名文として知られる。後に歌舞伎化され、今日ではその中から見どころを再編した『河庄』(かわしょう)と『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)が主に上演されている。 「天網島」とは、「天網恢恢」という諺と、心中の場所である網島とを結びつけた語。近松は住吉の料亭でこの知らせを受け、早駕に乗り大坂への帰途で、「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は紫の」という書き出しを思いついたという。.

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土屋逵直

土屋 逵直(つちや みちなお、万治2年(1659年) - 享保15年8月3日(1730年9月14日))は、江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本寄合。通称は主税、一般には土屋 主税(つちや ちから)として知られる。上総久留里藩主土屋直樹の嫡男。妻は甲斐庄正親の女。子に亮直、好直、友直、伊奈忠正室。.

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チョボ

チョボ.

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嵐吉三郎 (7代目)

七代目 嵐 吉三郎(しちだいめ あらし きちさぶろう、1894年(明治27年)12月1日 - 1973年(昭和48年)2月11日)は昭和に活躍した上方系の歌舞伎役者。屋号は岡嶋屋。定紋は三ツ吉、替紋は三ツ柏。本名は北村 弥之助(きたがみ やのすけ)。 東京の生まれ。生家は電気商。1908年(明治41年)10月に初舞台。1910年(明治43年)10月大阪の十一代目片岡仁左衛門に加わり片岡當之助を名乗る。1917年(大正6年)名題となり以後東西の舞台で活躍。 1928(昭和3年)2月大阪中座で七代目嵐吉三郎を襲名。以後関西歌舞伎で活躍。1958(昭和33年)大阪府民劇場奨励賞。1970年(昭和45年)勲五等旭日章を受章。1973年(昭和48年)1月大阪新歌舞伎座の『義経千本桜』の川連法眼が最後の舞台となる。脇役として活躍する。芸域は非常に広く、とりわけ宇野信夫監修、二代目中村鴈治郎と三代目中村鴈治郎と共演した『曽根崎心中』では油屋九平次を通算500回以上も勤め、生涯の当たり役といわれた。晩年は関西歌舞伎の凋落で思うように活動できなかった。 子は映画俳優・北上弥太郎としても活躍した八代目嵐吉三郎。 Category:歌舞伎役者 Category:東京都出身の人物 Category:1894年生 Category:1973年没.

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嵐小六 (3代目)

三代目 嵐小六(さんだいめ あらし ころく、1741年(寛保元年) - 1796年5月6日(寛政8年3月29日))は江戸時代中期の歌舞伎役者。屋号は吉田屋。俳名に珉子・珉獅・小七。 五代目嵐三右衛門の子。嵐岩次郎から初代嵐雛助と改名。「雛助」の名は、父が二代目市川團十郎から譲られた俳名から付けた。宝暦2年(1752年)大坂三枡座『名古屋織雛鶴錦』で初舞台を踏み、このときの所作事が大好評となる。以後は順調に活躍。天明6年(1786年)叶雛助と改名。寛政5年(1793年)11月大坂淺尾文吉座『太平記忠臣講釈』で三代目嵐小六を襲名。同時に長男の三代目中村十蔵に二代目の嵐雛助を継がせる。「小六玉」の愛称で人気を集め、三都随一無類と評されたが、舞台稽古中に倒れ帰らぬ人となった。 所作に優れ、多くの役をこなしたが、肥満体で上品な芸であったので公家悪や天下をねらう謀反人を得意とし、『天満宮菜種御供』の藤原時平、『釜淵双級巴』の石川五右衛門などが生涯の当たり役だった。特に時平の演出は、一見善人を装いながら最後に大悪人の本性を見せ高笑いするという近代的なもので、これが通称の『時平の七笑』として今日に伝わることになった。石川五右衛門では、歌舞伎史上初めて尻をまくって花道を引っ込んだが、小六の身についた所作の美しさは尻を出しても絵になるほどだったという。 子に二代目嵐雛助・四代目嵐小六・三代目嵐雛助・五代目嵐小六が、門人には六代目嵐三右衛門・七代目嵐三右衛門などがおり、後継者に恵まれたことで上方歌舞伎に一大勢力をもった。 Category:江戸時代の歌舞伎役者 Category:1741年生 Category:1796年没.

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嵐巌笑

嵐巌笑(あらし がんしょう、文久2年10月15日(1862年12月6日) - 昭和5年(1930年)11月19日)は、上方の歌舞伎役者。本名は北村 保次郎(きたむら やすじろう)。屋号は小村屋。俳名に菊童。 京都の織物屋の子。はじめ實川郁若と名乗る。明治3年 (1870) 9月京都道場芝居で初舞台。同9年には實川延丈と改名。翌年12月四代目嵐璃寛門に入り嵐巌笑と名乗る。女形と立役を得意とし若き日の初代中村鴈治郎をしのぐ人気だった。立派な容貌で、五代目尾上菊五郎は「黙っていたらあんないい役者は東京にもいねえ」と激賞したという。後には敵役も得意とした。 晩年は悪い口跡と古風な芸が敬遠され役に恵まれなかったが、脇役として巧い演技を見せた。 Category:歌舞伎役者 Category:山城国の人物 Category:京都府出身の人物 Category:1862年生 Category:1930年没.

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嵐三右衛門 (11代目)

称十代目 嵐三右衞門(しょう じゅうだいめ あらし さんえもん、新字体:〜衛門、1906年(明治39年)10月23日 - 1980年(昭和55年)7月17日)は関西の歌舞伎役者。屋号は津の國屋。定紋は八角小の字、替紋は橘の三重ね。本名は大川 實(おおかわ みのる)。十一代目 嵐三右衞門(じゅういちだいめ あらしさんえもん)としても知られる。 大阪生まれ。はじめ三代目中村梅玉門人で、明治45年(1912年)大阪浪花座で中村福萬壽を名乗って初舞台。昭和4年(1929年)、大阪中座『二人袴』の雛鶴で七代目中村駒之助を襲名。昭和23年(1948年)正月大阪中座復興杮落しの『雪女五枚羽子板』で大名跡・嵐三右衛門を襲名した。三右衛門代々としては「十一代目」のはずなのだが、本人は一貫して「十代目」を称してはばからなかった。 立派な風貌で人気を集めていたが、関西歌舞伎が衰退する中、昭和29年(1954年)宝塚新芸座に移籍、大衆演劇の世界に入る。ここでは座頭として活躍。桂春坊(二代目露の五郎兵衛)や笑福亭松之助ら若手落語家と舞台をともにしたこともある。 昭和33年(1958年)には宝塚映画に参加。その後歌舞伎の舞台に復帰した。主に二代目中村鴈治郎の相方を勤め、『心中天網島・河庄』の太兵衛や『梶原平三誉石切』(石切梶原)の呑助などの脇役が好評だったが、往年の精彩はなかった。 Category:歌舞伎役者 Category:大阪府出身の人物 Category:1906年生 Category:1980年没.

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嵐三右衛門 (初代)

初代 嵐三右衛門(しょだい あらし さんえもん、旧字体:三右衛門1635年(寛永12年) - 1690年11月18日(元禄3年10月18日))は、元禄から享保にかけて大坂で活躍した歌舞伎役者。立役。本名は西崎 三右衛門(にしさき さんえもん)。 摂津国の尼崎出身。浪人の父と共に江戸に行き鈴木平左衛門の門人として役者になり、丸小三右衛門を名乗る。 役者として大成したのは寛文年間のことで、『小夜嵐』で踏んだ丹前六方が評判になり、外に出ればいつも人から「小夜嵐の三右衛門」と言われるほどの評判となった。そこで名跡の姓の部分「丸小」をこの「嵐」と差し替えて「嵐三右衛門」を名乗った。 延宝4年(1676年)に京へ上ぼるが、天和2年(1682年)に大坂に戻っている。以後、主に大坂に歌舞伎の芝居を定着させることに貢献、のちに京都で元禄歌舞伎を開花させた初代坂田藤十郎とともに、上方歌舞伎の創始者として名を連ねるようになる。その人気は「三右衛門の芝居と天王寺の塔を見なければ上方見物の土産話にならない」と旅人に言わせるほどのものだったという。 職人の所作や、立役二枚目を得意とした。 子に二代目三右衛門がいる。.

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嵐徳三郎 (7代目)

七代目 嵐 徳三郎(しちだいめ あらし とくさぶろう、1933年(昭和8年)12月20日 - 2000年(平成12年)12月5日)は上方の歌舞伎役者。屋号は葉村屋。定紋は三つ橘、替紋は九枚笹。本名は横田 一郎(よこた いちろう)。.

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嵐璃かく

嵐 璃珏(あらし りかく)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は豐島屋。定紋は五つ橘、替紋は五つ千鳥。 「璃珏」は二代目嵐璃寛の俳名に由来する。.

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嵐璃かく (5代目)

五代目 嵐 璃珏(ごだいめ あらし りかく、明治33年(1900年)9月3日 - 昭和55年(1980年)12月27日『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.129。)は、上方の歌舞伎役者、また嵐 珏蔵(あらし かくぞう)の名でサイレント映画俳優。「班蔵」は誤り。本名は大江 勝之助(おおえ かつのすけ)。屋号は豐島屋、定紋は五つ橘、替紋は五つ千鳥。俳名に佳香。.

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嵐璃寛 (4代目)

四代目 嵐璃寛(よだいめ あらし りかん、天保8年〈1837年〉 - 明治27年〈1894年〉5月21日)とは、幕末から明治にかけての上方の歌舞伎役者。屋号は葉村屋、定紋は三つ橘。本名淺川 璃寛(あさかわ りかん)。 三代目嵐璃寛の子として大坂に生まれる。弘化3年(1846年)7月、二代目嵐和三郎として初舞台。父とともに上方や江戸で活躍し、万延元年(1860年)2月に大阪筑後芝居で四代目嵐徳三郎を襲名。若手人気役者となり、その人気は徳三郎に恋焦がれるあまり死んだ娘の死に水を彼自身が取るという話が起きるほどだった。明治元年(1868年)9月、大阪筑後芝居で四代目嵐璃寛を襲名する。中村宗十郎、初代實川延若と初代中村鴈治郎、十一代目片岡仁左衛門とをつなぐ時期に活躍した。 当り役は『芦屋道満大内鑑』の葛の葉、『和田合戦女舞鶴』の板額など。立役、女形の別なく様々な役をこなした。少年期に名古屋に住んでいた坪内逍遥は四代目璃寛のことを『少年時に観た歌舞伎の追憶』に記しており、それによれば「頑丈作りの、首が突込んだ、肩幅の廣い、目と目の間が上方式にやゝ廣い、目じりの釣りあがつた」容貌で「絞り出すやうな風に間延びに言ふ」口跡、芸風は「ねばり気味の上方役者の中でも璃寛はねばり気の多い」という一方、「落着きもあり、深みも重みもあつて、堅實といふ感じには富んだ役者」だったと評している。養子に五代目嵐璃寛、弟子に嵐巌笑がいる。.

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嵐雛助 (10代目)

十代目 嵐 雛助(じゅうだいめ あらし ひなすけ、大正2年(1913年)10月4日 - 昭和61年(1986年)1月29日)は、昭和に活躍した歌舞伎役者。俳名は眠獅。屋号は吉田屋。定紋は橘、替紋は梅鉢。俳名に眠獅。本名は今井 正男(いまい まさお)。 東京都出身。本郷元町小学校後、四代目中村もしほに入門。大正9年 (1920) 2月、市村座『御所五郎蔵』の禿で中村蝶太郎を名乗って初舞台。昭和16年 (1941) から関西歌舞伎に移籍。昭和18年2月、『絵本太功記・十段目』(太十)の初菊、舞踊『梅ヶ枝』などで十代目嵐雛助を襲名。 当たり役は『仮名手本忠臣蔵』の顔世御前など。昭和33年 (1958) に大阪府民劇場奨励賞。 Category:歌舞伎役者 Category:東京都出身の人物 Category:1913年生 Category:1986年没.

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嵐橘三郎 (初代)

初代 嵐橘三郎(しょだい あらし きつさぶろう、明和6年〈1769年〉 - 文政4年9月26日〈1821年10月21日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。屋号は岡嶋屋、俳名李冠、のちに「璃寛」と字を改める。雅号金橘楼。その俳名から「大璃寛」(おおりかん)と称された。 初代嵐吉三郎の三男。安永5年(1776年)頃に嵐吉松の名で大坂の竹田芝居に出る。安永9年(1780年)に父吉三郎が死ぬと、二代目嵐三五郎につき修業する。天明7年(1787年)正月、二代目嵐吉三郎を襲名する。以後大坂を代表する人気役者となり、文政4年(1821年)、吉三郎の名跡を甥の三代目嵐大三郎に譲り、「吉」の字を「橘」に替え嵐橘三郎と名乗った。同年8月、大坂北新地芝居に出演中倒れほどなく死去。 美男で口跡も良く立役として活躍し「近世の稀人」と評され、三代目中村歌右衛門とは大坂の芝居で人気を二分した。なお初代橘三郎は実際には役者として「璃寛」を名乗ることは無かったが、通常「初代嵐璃寛」として数えられている。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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勧進帳

勧進帳(かんじんちょう)は、如意の渡しでの出来事を基軸にした能の演目『安宅』を元に創られた歌舞伎の演目。歌舞伎十八番の一つで、松羽目物の先駆けとなった作品である。.

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国立文楽劇場

国立文楽劇場(こくりつぶんらくげきじょう、National Bunraku Theatre)は、大阪府大阪市中央区にある劇場。4番目の国立劇場として1984年に開館、大小2つの劇場と展示室などからなる。大ホールではユネスコ無形文化遺産の「代表一覧表」に記載されている人形浄瑠璃・文楽の公演を中心に演劇や舞踊などが行われる。小ホールでは奇数月に落語・漫才・浪曲などの興行「上方演芸特選会」が開かれ、東京の国立劇場における国立演芸場的役割も担う。独立行政法人日本芸術文化振興会による運営。.

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石川五右衛門

石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。 従来その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。 江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。.

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神明恵和合取組

明恵和合取組(かみの めぐみ わごうの とりくみ)は歌舞伎の演目。1890年(明治23年)3月、新富座初演。作者は竹柴基水。通称「め組の喧嘩」(めぐみの けんか)。四幕八場。 文化2年に芝神明社で起きた「め組の喧嘩」事件を題材とする。すっきりした筋立ての中に実在の人物を登場させる、典型的な明治時代の実録風世話物。.

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立役

立役(たちやく)は、歌舞伎における尋常な成年男子の役、またその役を演じる役者。 対象とならない役は、芯からの悪人(敵役)、滑稽を主とするもの(道化役)、老人(老役)であるが、現在では役者の職掌としての敵役・道化役はなくなり、立役役者がこれをかねているものの、役の分類としては下記のような区別が存在している。その役柄の階級は武士から町人にいたるまで幅広く、多く劇中において善人方としてふるまい、白塗りのこしらえをもっぱらとする。立役役者は歌舞伎における中心的な存在であり、ほかの職掌にある役者よりも高い地位にあるものとされた。通常、立役が座頭をつとめる。.

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美空ひばり

美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、日本の歌手、女優。神奈川県横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。 12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長147cm。.

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義経千本桜

『義経千本桜』(よしつねせんぼんざくら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、延享4年(1747年)11月、大坂竹本座にて初演。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。「大物船矢倉/吉野花矢倉」(だいもつのふなやぐら/よしののはなやぐら)の角書きが付く。通称『千本桜』。源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。.

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猿之助四十八撰

三代猿之助四十八撰(さんだい えんのすけ しじゅうはっせん)は、三代目市川猿之助が平成22年(2010年)に撰した澤瀉屋・市川猿之助家のお家芸。 従前の「猿之助十八番」を新たに見直し、自らが深く関わった演目を 1) 通し狂言を復活させたもの、2) 古典歌舞伎を新しい演出で再構成したもの、3) 自身が得意とする舞踊劇、4) スーパー歌舞伎と新作歌舞伎、の4項目に分類し、それぞれに18種・10種・10種・10種を撰した。また各項目には「復活通し狂言」、「猿之助新演出」、「華果」(かか、三代目猿之助の俳名)、「スーパー歌舞伎」と、いずれも三代目猿之助の舞台とは不可分の表現となった文言で括られており、文字通り自身の舞台活動の集大成としてこれを前面に押し出したかたちの一覧ともなっている。.

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片岡仁左衛門

片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、旧字体:仁左衞門)は、歌舞伎役者の名跡。 屋号は初代と二代目は不詳、三代目から五代目までが土佐屋、六代目が富桝屋、七代目以降が松嶋屋。七代目以降の定紋は七つ割丸に二引、替紋は追っかけ五枚銀杏。.

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片岡仁左衛門 (11代目)

十一代目 片岡 仁左衛門(じゅういちだいめ かたおか にざえもん、安政4年12月4日(1858年1月18日) - 昭和9年(1934年)10月16日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した歌舞伎役者。主に立役。屋号は松嶋屋。定紋は七ツ割丸に二引。俳名に我當、萬麿。本名は片岡 秀太郎(かたおか ひでたろう) 養子に十三代目片岡仁左衛門。.

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片岡仁左衛門 (12代目)

十二代目 片岡 仁左衛門(じゅうにだいめ かたおか にざえもん、1882年(明治15年)9月9日 - 1946年(昭和21年)3月16日)は、日本の歌舞伎役者。八代目片岡仁左衛門の娘の子で、十代目片岡仁左衛門の養子。本名は片岡 東吉(かたおか とうきち)。東京出身。.

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片岡仁左衛門 (13代目)

十三代目 片岡 仁左衛門(じゅうさんだいめ かたおか にざえもん、1903年(明治36年)12月15日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は松嶋屋、定紋は七ツ割丸に二引。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は片岡 千代之助(かたおか ちよのすけ)。 昭和後期の歌舞伎界を支えた立役の名優。最晩年は完全に盲目だったにもかかわらず、立役として舞台活動を続けた。.

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片岡仁左衛門 (15代目)

十五代目 片岡 仁左衛門(じゅうごだいめ かたおか にざえもん 1944年3月14日 - )は、日本の歌舞伎役者。歌舞伎名跡「片岡仁左衛門」の当代。屋号は松嶋屋。定紋は七つ割丸に二引、替紋は追っかけ五枚銀杏。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。 本名及び旧芸名は片岡 孝夫(かたおか たかお)。半世紀近くにわたって本名のまま舞台に立ち続けていたので、大名跡「仁左衛門」を襲名した今日でも「孝夫」と呼ぶ人は多い。.

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片岡仁左衛門 (7代目)

七代目 片岡仁左衛門(しちだいめ かたおか にざえもん、宝暦5年〈1755年〉 - 天保8年3月1日〈1837年4月5日〉)とは、江戸時代中期から後期にかけての歌舞伎役者。屋号は松嶋屋、俳名は我童・萬麿・梅里。定紋は七つ割丸に二引。雅号を南麗舎と称した。 京の生まれで初代淺尾國五郎の弟。二代目中村十藏の門人となって中村松助と名乗り子供芝居に出る。安永6年(1776年)春、初代浅尾為十郎の門人となり、二代目淺尾國五郎を襲名。一時期、師匠爲十郎から破門され山澤國五郎と名乗ったこともあったがその後許され、京大坂の舞台で活躍する。天明8年(1788年)2月、大坂の叶雛助の許しを得て、長く絶えていた「片岡仁左衛門」の名跡を再興し七代目を襲名する。寛政6年(1794年)、並木五瓶とともに江戸に下り都座の舞台に出る。翌年には上方に戻り以後京大阪、名古屋などで活躍し、83歳という当時稀に見る長寿で死ぬ直前まで現役を勤めた。 門閥外から座頭まで這い上がった努力家で、時代物世話物さらに所作事をこなし、役柄も広く、立役、女形、実悪、敵役などあらゆる役に通じた。肥満体ではあったが、釣合いの取れた良い容姿だったという。実子に早世した初代片岡愛之助、養子に八代目片岡仁左衛門がいる。門人は初代片岡市蔵など。墓所は大阪市の薬王寺。.

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片岡仁左衛門 (8代目)

八代目 片岡仁左衛門(はちだいめ かたおか にざえもん、文化7年〈1810年〉 - 文久3年2月16日〈1863年4月3日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。屋号は松嶋屋、俳名は李童・我童・芦燕。.

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片岡仁左衛門一家殺害事件

片岡仁左衛門一家殺害事件(かたおかにざえもん いっか さつがい じけん)は、1946年(昭和21年)3月に発生した殺人事件である。.

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片岡秀太郎 (2代目)

二代目 片岡 秀太郎(にだいめ かたおか ひでたろう、1941年(昭和16年)9月13日 - )は、俳優、歌舞伎役者。屋号は松嶋屋。定紋は七つ割り丸に二引、替紋は追っかけ五枚銀杏。本名は片岡 彦人(かたおか よしひと)。 大阪府大阪市生まれ。十三代目片岡仁左衛門の次男。1946年(昭和21年)10月京都南座で『吉田屋』の禿役で本名の片岡彦人で初舞台。1956年(昭和31年)3月大阪歌舞伎座の『河内山』の浪路で二代目片岡秀太郎を襲名。 上方色の濃い柔らか味の有る女形として活躍中。女形では、『道明寺』の立田、『輝虎配膳』のお勝などの時代物、『心中天網島・河庄』の小春、『封印切』の梅川、『雁のたより』のお玉などの上方世話物のほか『仮名手本忠臣蔵』の力弥、『車引』の桜丸などの若衆役も得意とする。古風な女形を演じて秀逸との評価が高い。 女優高田美和と結婚するも子供に恵まれなかったことや秀太郎に起因したといわれる諸々の問題から不和となり破局、後年現在の夫人と再婚。2人の女児を授かる。 兄が五代目片岡我當。弟が十五代目片岡仁左衛門。養子に六代目片岡愛之助がいる。関西歌舞伎塾の講師として上方歌舞伎の人材育成にも努めている。.

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片岡我童 (13代目)

十三代目 片岡我童(じゅうさんだいめ かたおか がどう、明治43年(1910年)7月6日 - 平成5年(1993年)12月31日)は歌舞伎役者。本名は片岡 一(かたおか はじめ)。十三代目片岡仁左衛門とともに不振の上方歌舞伎の復興につとめ、また女形としても活躍した。 死後十四代目 片岡仁左衛門(じゅうよだいめ かたおか にざえもん)を追贈された(歴代仁左衛門では唯一の真女形)。.

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片岡我當 (5代目)

五代目 片岡 我當(ごだいめ かたおか がとう、1935年1月7日 - )は上方の歌舞伎役者。屋号は松嶋屋。定紋は七つ割丸に二引、替紋は五枚銀杏。俳名に壽蘭。本名は片岡 秀公(かたおか ひできみ)。.

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片岡愛之助 (5代目)

五代目 片岡 愛之助(ごだいめ かたおか あいのすけ、1904年(明治37年)10月10日 - 1973年(昭和48年)10月26日)は関西の歌舞伎役者。屋号は松廣屋。定紋は銀杏鶴、替紋は銀杏重ね。本名は三原 幸三郎(みはら こうさぶろう)。 大阪の骨董商の家に生まれる。初代中村鴈治郎の門人・中村成若(後の市川新昇)の養子となり明治42年 (1909年)8月大阪本町座で市川新左衛門を名乗って初舞台。その後養父の死をきっかけに廃業するが、大正9年(1920年)四代目片岡我童に入門、片岡我久三郎を名乗り舞台復帰。昭和3年(1928年)名題昇進。昭和18年(1943年)4月、東京歌舞伎座の『与話情浮名横櫛』(源氏店)の下女役で五代目片岡愛之助を襲名した。 主に関西歌舞伎で活躍、老役を中心に脇を固めた。地味ながらも演技は巧く新派にも出演したり、十七代目中村勘三郎と共演したりもした。 Category:歌舞伎役者 Category:大阪府出身の人物 Category:1904年生 Category:1973年没.

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片岡愛之助 (6代目)

六代目 片岡 愛之助(ろくだいめ かたおか あいのすけ、1972年(昭和47年)3月4日 - )は、歌舞伎役者。屋号は松嶋屋。定紋は追いかけ五枚銀杏。歌舞伎名跡「片岡愛之助」の当代。本名:片岡 寛之(出生名は山元 寛之)。血液型 はB型。上方舞の楳茂都流四世家元としての名取は三代目 楳茂都 扇性(さんだいめ うめもと せんしょう)。妻は女優・藤原紀香。.

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瀬川菊之丞 (初代)

初代 瀬川菊之丞(しょだい せがわ きくのじょう、元禄6年〈1693年〉 - 寛延2年9月2日〈1749年10月12日〉)とは、享保年間に活躍した歌舞伎役者。女形の名優。俳名は路考、屋号は濱村屋。通称は濱村屋路考。女形役者の初代瀬川菊次郎はその弟。.

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白井信太郎

白井 信太郎(しらい しんたろう、1897年9月14日 - 1969年6月23日)は、演劇・映画の興行師。松竹重役。.

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白井松次郎

白井 松次郎(しらい まつじろう、1877年12月13日 - 1951年1月23日)は、松竹の創業者の一人(松竹株式会社社長)。興行師、劇場経営者として活躍し、旧態依然たる明治の興行界に近代的なシステムを導入したことで知られる。また上方歌舞伎をはじめ人形浄瑠璃などの古典芸能の保護振興につとめ、その経済的な基盤を支えた面でも功績は大きい。.

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芝居茶屋

芝居茶屋(しばい ぢゃや)とは、江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかなった、今で言う劇場のお食事処。 その経営者や使用人のなかからは、後代に大名跡となる歌舞伎役者も生まれた。.

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芳澤あやめ (初代)

初代 芳澤あやめ(しょだい よしざわ あやめ、1673年(延宝元年) - 1729年8月9日(享保14年7月15日))は元禄から享保にかけて大坂で活躍した女形の歌舞伎役者。屋号は橘屋。俳名に春水。本姓は斎藤。通名を橘屋 權七(たちばなや ごんしち)といった。 紀伊国の中津村(和歌山県日高川町)の生まれ。5歳の時に父を亡くし、その後道頓堀の芝居小屋で色子として抱えられ、吉澤綾之助を名乗った。はじめ三味線を仕込まれたが、丹波亀山の筋目正しい郷士で有徳の人として知られた橘屋五郎左衛門が贔屓となると、その強い勧めで女形としての修行を重ねた。後年女形として大成したあやめは、この橘屋五郎左衛門の恩を一生忘れず、屋号の「橘屋」も彼にあやかって用いるようになったという。のち口上の名手・水島四郎兵衛方に身を置き、初代嵐三右衛門の取り立てで、若衆方として舞台を踏む。 元禄5年(1692年)に京に上り、同8年に太夫の号を取得して芳澤菊之丞と改名。同11年 (1698) には『傾城浅間嶽』での傾城三浦役が演じ人気を博す。正徳3年 (1713) 11月江戸に下り、翌年11月に帰京。その2年後には役者評判記『三ヶ津惣芸頭』で高い評価を受ける。享保6年(1721年)には立役に転じて芳澤權七を名乗るが不評で女形に戻る。この前後に「吉澤あやめ」を名乗ったといわれているが、詳細は不明。 享保13年 (1728年) 隠居、翌年死去した。 初代あやめは、舞台だけでなく日常生活でも常に「女性」を意識していなければならないと門人に教えていた。たとえば、食事をするときはみなから離れて一人で食べなくてはいけない。食べている時に男になってしまったら相方の役者がどう思うか、そこまで考えなくてはいけない、という徹底したものだった。初代のこうした「芸談」は、それを直に見聞きしたという狂言作者の福岡彌五四郎が晩年に口述、この他にも数人の役者の芸談を加て『役者論語』という一冊の本にまとめられた。同書の「あやめ草」の章を参照されたい。.

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道頓堀

道頓堀(どうとんぼり)は、大阪府大阪市中央区の繁華街および町名。または、同所の北を流れる道頓堀川の略称。 一部で「とんぼり」と略称される事もあるが定着しておらず、地元では略さずに「どうとんぼり」と表現している。(なお、かつては「どとんぼり」、「どとんほり」と呼ばれていたとする出典もある。).

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道頓堀角座

道頓堀角座(どうとんぼりかどざ)は、.

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菅原伝授手習鑑

四代目中村芝翫の舎人松王丸。「寺子屋」での松王丸の姿を描く。豊原国周画。 『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続。延享3年(1746年)8月、大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。.

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鶴屋南北 (4代目)

四代目 鶴屋 南北(よだいめ つるや なんぼく、宝暦5年(1755年) - 文政12年11月27日(1829年12月22日))は、江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者。 鶴屋南北を襲名した者は5名を数えるが、単に鶴屋南北または南北というと、通常はこの四代目のことをさす。また5代の南北のなかでもその業績が突出しているため、この四代目のことを特に大南北(おおなんぼく)ともいう。.

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奈落の底から見たラジオシティ・ミュージックホールの大迫り 迫・迫り(せり)とは、舞台の床の一部をくりぬき、そこに昇降装置を施した舞台機構。役者や大道具を奈落から舞台上に押し上げたり(迫り上げ)、逆に奈落に引き下ろしたり(迫り下げ)することにより、意表をついた演出や迅速な舞台転換を可能とする。.

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舞台

舞台(ぶたい、stage)とは、演劇やダンス、伝統芸能や演芸など、舞台芸術の表現者が作品を演じるための、一定の空間。転じて、舞台芸術に属する作品のジャンルを指し「舞台」と呼ぶこともある。また、演壇などの、舞台に類似する機能をもった一定の空間や機構を指し、舞台と呼ぶことがある。 ここから派生して、特定の人物や集団が盛んに活動を展開する場を指し、抽象的な意味において、舞台と呼ぶこともある。 機構としての舞台や、舞台の様々な様式については、劇場を参照。.

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阪東壽三郎 (3代目)

三代目 阪東壽三郞(さんだいめ ばんどう じゅうざぶろう、ばんどう じゅさぶろう、新字体:寿三郎、1886年(明治19年)12月10日 - 1954年(昭和29年)9月24日)は、大阪の歌舞伎役者。屋号は豐田屋。俳名に菊翠。本名は阪東 與三郞(ばんどう よさぶろう、新字体:与三郎)。妻のあい子は、伊藤道郎・伊藤熹朔・千田是也兄弟の姉妹。.

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関西歌舞伎

上方歌舞伎(かみがたかぶき).

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藤山寛美

藤山 寛美(ふじやま かんび、本名:稲垣 完治(いながき かんじ)、1929年6月15日 - 1990年5月21日)は、日本の喜劇役者。戦後昭和の上方喜劇界を代表する喜劇役者であり、数多くの名作を残した。弟子にはな寛太・いま寛大のはな寛太、山崎海童らがいる。女優の藤山直美は娘。俳優の藤山扇治郎は孫。.

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長谷川一夫

長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年2月27日 - 1984年4月6日)は、日本の俳優。旧芸名に林 長丸(はやし ちょうまる)、林 長二郎(はやし ちょうじろう)。愛称は長さん。身長162cm。 戦前から戦後にかけて、二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)。歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後、俳優では初の国民栄誉賞を受賞。 最初の妻は初代中村鴈治郎の次女・林たみ。のちに離婚し、新橋の名妓・飯島繁と再婚。俳優の林成年は長男、女優の長谷川季子と長谷川稀世は長女・次女、また稀世の娘に女優の長谷川かずきがいる。.

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林又一郎 (2代目)

二代目 林 又一郎(にだいめ はやし またいちろう、1893年(明治26年)7月3日 - 1966年(昭和41年)12月31日)は、明治末から昭和戦後昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成駒屋。定紋は花菱三ツ蝶、替紋は又一イ菱。俳名に五色・三蝶。本名は林 長三郎(はやし ちょうざぶろう)。.

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東京

西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷/国会議事堂 東京(とうきょう、)は、日本の関東平野中央部の東京湾に面する都市、あるいは都市圏であり、江戸幕府の所在地・江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されたものである。 明治2年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された。そして現在の日本の事実上の首都である。 現在の東京は世界都市であり、都市圏として世界最大の人口・経済力を擁している。.

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松尾國三

松尾 國三(まつお くにぞう、明治32年(1899年)6月8日 - 昭和59年(1984年)1月1日)は佐賀県伊万里市出身の、日本の歌舞伎役者・実業家・芸能プロモーター。旅役者から立身出世して興行界やレジャー産業で幅広く活躍、「昭和の興行師」、「芸能界の黒い太陽」の異名をもつ。.

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松下幸之助

松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家、発明家、著述家。 パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。 自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。.

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松竹

松竹株式会社(しょうちく)は、日本の映画、演劇の制作、興行、配給を手掛ける会社。歌舞伎の興行については現在ほぼ独占的に手がけている。創業は1895年で設立は1920年11月8日(帝国活動写真株式会社の設立日)である。.

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松竹新喜劇

松竹新喜劇(しょうちくしんきげき)は、松竹傘下の喜劇劇団。同じ上方を本拠地とする吉本新喜劇のコント主体の軽演劇と異なり、ときに涙を誘う物語性のある人情喜劇を売りにしている。.

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松本幸四郎 (7代目)

七代目 松本幸四郎(しちだいめ まつもと こうしろう、1870年(明治3年)5月12日 - 1949年(昭和24年)1月28日)は、明治から昭和前期の歌舞伎役者、日本舞踊藤間流家元。本名、藤間金太郎(ふじま きんたろう)。舞踊の名跡は三代目藤間勘右衛門 → 藤間勘斎。屋号は高麗屋。俳名に錦升・琴松・紫香、雅号に白鸚がある。.

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松本白鸚 (2代目)

ニ代目 松本 白鸚(にだいめ まつもと はくおう、1942年8月19日 - )は、日本の歌舞伎役者、舞踊家。歌舞伎名跡「松本白鸚」の当代。屋号は高麗屋。定紋は四つ花菱、替紋は浮線蝶。日本芸術院会員。 前名の九代目 松本 幸四郎(くだいめ まつもと こうしろう)としても知られている。本名、藤間 昭暁(ふじま てるあき)。俳名に錦升(きんしょう)がある。また舞台演出家としての名に九代 琴松(くだい きんしょう)がある。.

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村田嘉久子

村田 嘉久子(むらた かくこ、1893年(明治26年)4月16日 - 1969年(昭和44年)7月26日)は、日本の舞台女優。.

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桜姫東文章

『桜姫東文章』(さくらひめあずまぶんしょう)とは、歌舞伎の演目で清玄桜姫物および隅田川物のひとつ。七幕九場、四代目鶴屋南北ほか作。文化14年(1817年)3月、江戸河原崎座にて初演。.

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梅村蓉子

梅村 蓉子(うめむら ようこ、1903年10月21日 - 1944年3月8日、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年2月25日閲覧。)は、日本の女優である。本名は鈴木 花子(すずき はなこ)。.

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権藤芳一

権藤 芳一(ごんどう よしかず、1930年12月18日- 2018年3月30日)は、日本の古典芸能評論家。 京都生まれ。同志社大学文学部卒業。京都観世会事務所に30年勤務しながら能、歌舞伎評論を書く。大阪学院大学国際学部教授、2001年に定年退任。.

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武智鉄二

武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、大正元年(1912年)12月10日 - 昭和63年(1988年)7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。役者の型や口伝に影響されない狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎を世に問うたことで知られる。歌舞伎のみならず、能や文楽、オペラ、舞踏、映画の演出も手がけ、わいせつ図画公然陳列罪で起訴された「黒い雪裁判」の被告人の一人としても知られる。本名ははじめ武智 鐡二、のち西村 鐡二(にしむら– )、のち川口 鐡二(かわぐち– )。 日本演劇学会、伝統芸術の会、日本文芸家協会、日本オペラ協会、日本演劇協会、各会員。.

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歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.

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江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

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河竹黙阿弥

黙阿弥 河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、文化13年2月3日(1816年3月1日) - 明治26年(1893年)1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。.

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法務局

法務局(ほうむきょく、英語表記:Legal Affairs Bureau)とは、法務省の地方支分部局の一つ。法務省の事務のうち、登記・戸籍・国籍・供託・公証・司法書士及び土地家屋調査士、人権擁護、法律支援、国の争訟の事務を処理するための地方機関である。.

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淺尾奥山 (4代目)

四代目 淺尾奥山(よだいめ あさお おくやま、明治27年〈1894年〉1月4日 - 昭和49年〈1974年〉11月29日)とは、上方の歌舞伎役者。屋号は錢屋。定紋は木槌。本名は尾田木駒造。 京都生まれ。三代目淺尾大吉(浅尾関十郎)の門人となり、浅尾関三郎を名乗って初舞台を踏む。昭和5年(1930年)1月、淺尾奧山の名跡を襲名。以後関西歌舞伎で世話物の老け役、脇役として活躍する。昭和30年(1955年)から長谷川一夫の誘いで映画に転じ大映京都に所属し、映画や東宝歌舞伎に約10年間出演した。その後歌舞伎に復帰し東宝系で活躍。 堅実で老巧な芸で「名優奧山」と賞され、『治郎吉懺悔』の伝吉、『仮名手本忠臣蔵』の「六段目」のおかやなどが印象に残る舞台だったが、特に最晩年の昭和48年(1973年)7月、歌舞伎座で十七代目中村勘三郎と舞台を共にした『夏祭浪花鑑』の義平次は絶賛された。.

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渋谷天外

渋谷天外(しぶやてんがい)は、上方を代表する喜劇俳優の名跡。.

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漫才

漫才(まんざい)は、古来の萬歳を元にし愛知県の尾張万歳の影響を受け、日本の近畿地方で独自に発達したとされる、主に2人組で披露される演芸・話芸。2人の会話の滑稽な掛け合いの妙などで笑いを提供する。大正末期、映画の弁士によって始められた漫談にちなみ、1933年(昭和8年)頃に吉本興業宣伝部によって漫才と名付けられた。漫才を行う者を「漫才師」と呼ぶ。近畿圏の漫才を特に上方漫才(かみがたまんざい)という。.

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漫才ブーム

漫才ブーム(まんざいブーム)は、演芸界において、1980年 - 1982年のごく短い期間に漫才がさまざまなメディアを席巻し、またメディアに消費された一大ムーブメントである。.

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澤村宗十郎 (9代目)

九代目 澤村 宗十郎(くだいめ さわむら そうじゅうろう、1933年(昭和8年)3月8日 -2001年(平成13年)1月12日 )は歌舞伎役者。屋号は紀伊國屋。定紋は丸にいの字、替紋は花有り足有りの笹竜胆。舞踊の名取は藤間 勘嗣朗(ふじま かんしろう)。本名は澤村 壽一(さわむら じゅいち)。東京都出身。.

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澤村藤十郎 (2代目)

二代目 澤村 藤十郎(にだいめ さわむら とうじゅうろう、1943年(昭和18年)10月12日 - )は、歌舞伎役者。本名は澤村豪一(さわむら ごういち)。屋号は紀伊國屋。定紋は笹竜胆(ささりんどう)、替紋は波に千鳥。歌舞伎名跡「澤村藤十郎」の当代。.

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朝日座

朝日座は劇場・映画館の名称。.

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戦後

戦後(せんご)は、戦争の終結後の短期または長期的な期間を指す言葉・概念。戦争では多くの破壊や社会システムの大変革が行われるため、戦争が終結した後は社会体制などが新しく作り直され、価値観まで変化する。このため、大きな戦争を一つの時代の区切りとして、戦前・戦中・戦後という区分をする。「戦後」はしばしば、戦争による混乱を抜けきっていない時代という意味合いをもつ。しかし終わりを設けず現在までを含めることもある韓国人慰安婦問題や沖縄の米軍基地問題など、第二次世界大戦によって生じた問題が解決を見ていないため、右翼、左翼問わず現在を戦後に含めることがある。。一時は流行語となった。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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映画

映画(えいが)とは、長いフィルムに高速度で連続撮影した静止画像(写真)を映写機で映写幕(スクリーン)に連続投影することで、形や動きを再現するもの。活動写真、キネマ、シネマとも。 なお、本来の語義からははずれるものの、フィルムではなくビデオテープなどに磁気記録撮影されたものや映画館で上映される動画作品全般についても、慣例的に映画と呼ばれている。.

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新歌舞伎座

新歌舞伎座(しんかぶきざ).

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新歌舞伎座 (大阪)

大阪新歌舞伎座(おおさかしんかぶきざ)は、大阪府大阪市天王寺区上本町6丁目の上本町YUFURAにある劇場。2010年(平成22年)9月に開場した。 本項では大阪市南区(現:中央区の南側)難波に1958年(昭和33年)10月開場、2009年(平成21年)6月閉館した初代新歌舞伎座についても記述する。.

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文楽

文楽以外の人形浄瑠璃である。 『静御前』 JR新大阪駅 文楽(ぶんらく)とは、人形浄瑠璃文楽のこと。大阪で成立し本拠地とする人形浄瑠璃の系譜。 1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。2003年ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」、2008年「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」への掲載、そしてユネスコ無形文化遺産保護条約が発効した2009年9月の第1回登録であらためてユネスコの無形文化遺産に登録された。2017年現在は公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場を中心に公演を行っている。 1684年、古浄瑠璃を独自に発展させた「義太夫節」の始祖である竹本義太夫が、大坂に「竹本座」を建て、自らの義太夫節の演奏と人形による三業(後述)での人形浄瑠璃の興行を始めた。その後、竹本義太夫の弟子が独立し豊竹若太夫を名のって興した「豊竹座」と競うなど、隆盛の時代には複数の興行元を数えたが、明治初期には興行元が「彦六座」と「文楽座」の2座のみとなった。その後に彦六座が解散、興行が文楽座のみとなったため、「文楽」という2字の名称が、すべての人形浄瑠璃の代表的存在、ならびにその代名詞と化したものである。 なお、文楽および文楽座という名称の直接的由来は、兵庫県淡路出身の植村文楽軒という人物が興行元であった上述の文楽座ではあるが、前述どおり、義太夫節の始祖が大坂で直接成立させた人形浄瑠璃の一形態の系譜であるため、人形浄瑠璃文楽を成立させた源流=淡路ということではない(淡路には淡路人形浄瑠璃が存在する)。 しかしながら、大坂で成立したその「義太夫節+人形」という人形浄瑠璃の系譜をしめす呼称がない(あるいは消失してしまっている)ため、その系譜を示す語の実例として、たとえば現在の人形浄瑠璃文楽の技芸員における演奏的特徴を示す語として「文楽系」と呼ぶことがある(それに呼応する語には「彦六系」などがある)。 人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は日本の伝統芸能で、浄瑠璃と人形によって演じられる人形劇。明治以降、文楽座が一定規模以上の人形浄瑠璃の公演を行う唯一の公演団体となったため、「文楽」の名称が人形浄瑠璃と同義に用いられる場合もある。 この記事では文楽を中心に、文楽系統の成立以前の人形浄瑠璃、および文楽以外の人形浄瑠璃についても説明する。「人形浄瑠璃」については浄瑠璃も参照のこと。.

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摂州合邦辻

『摂州合邦辻』(せっしゅうがっぽうがつじ)とは、文楽及び歌舞伎の演目名。安永2年(1773年)2月、大坂にて初演。菅専助、若竹笛躬の合作。上下の二段続きで、現在は下の巻の最後「合邦庵室の段」(合邦庵室の場)が多く上演される。古くから伝わる「しんとく丸」や「愛護の若」などの伝説をもとにしている。.

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曽根崎心中

露天神の境内にあるブロンズ像 『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう/旧字曾根崎心中、そねざきしんぢゅう)は世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)。一段。近松門左衛門作。1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽。のちに歌舞伎の演目にもなる。相愛の若い男女の心中の物語である。 「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれている。.

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1949年

記載なし。

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1953年

記載なし。

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1954年

記載なし。

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1955年

記載なし。

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1958年

記載なし。

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1962年

記載なし。

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1967年

記載なし。

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1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.

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