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芝居茶屋

索引 芝居茶屋

芝居茶屋(しばい ぢゃや)とは、江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかなった、今で言う劇場のお食事処。 その経営者や使用人のなかからは、後代に大名跡となる歌舞伎役者も生まれた。.

69 関係: 劇場名跡壊死大名大御所時代大阪女形守田座實川延若 (初代)實川額十郎尾上菊五郎 (4代目)尾上菊五郎 (初代)尾上梅幸山崎屋 (歌舞伎)岩波書店丁稚中村吉右衛門 (初代)中村座中村勘三郎 (17代目)中村歌六 (3代目)中村時蔵 (3代目)中村時蔵 (5代目)市川右團次 (初代)市川宗家市川小團次 (4代目)市川小團次 (5代目)市川左團次 (初代)市川團十郎 (2代目)市川團十郎 (4代目)市川團十郎 (5代目)市川團十郎 (6代目)市川團十郎 (9代目)市村座市村羽左衛門市村羽左衛門 (8代目)三都幕の内弁当京都待合茶屋俳名出前四肢動物立役紀伊國屋 (歌舞伎)献立片岡仁左衛門 (11代目)相撲茶屋音羽屋道頓堀萬屋...高嶋屋鶴屋 (歌舞伎)茶屋松本幸四郎 (初代)橘屋歌舞伎歌舞伎役者の屋号一覧江戸三座江戸時代河原崎権十郎 (2代目)河内屋澤村宗十郎澤村田之助 (3代目)成田屋明和明治座料亭日本橋 (東京都中央区)播磨屋 (歌舞伎) インデックスを展開 (19 もっと) »

劇場

プロセニアム・シアター(宝塚大劇場) 劇場(げきじょう)とは、演劇や歌舞伎、舞踊、オペラ、バレエ、コンサートなどを観客に見せるための施設。 オペラを上演するための劇場は歌劇場、日本の能楽では能舞台と称することが多い。また主に中小の劇団が公演を行う小規模な劇場を特に芝居小屋(しばいごや)と呼ぶことがあり、大きな劇場であっても演劇関係者は業界用語としてこれを「小屋」と呼ぶことがある。近年では、演劇が倉庫で上演されたり、小さなコンサートや大道芸が路上で行われたりすることもあるが、これらの場所は演出空間ではあっても劇場とは呼ばない。 演劇は日本では芝居と呼ばれ、古くから庶民の娯楽であり、各地に数多くの小規模な劇場が建設された。これらの劇場は各地域の芸能ばかりではなく、「ドサ回り」と呼ばれる地方を巡回して劇を行う旅芸人が、劇を行う場でもあった。後にこれらの劇場の多くは映画を上映する設備を備えるようになり、地方巡業の演芸者が減少するにつれて映画館へと役割を変えていった。このため、演劇を上演しない映画館であっても「劇場」と名付けられているものが多く残っている。。 現代においても、映画館を指して「劇場」と表現する場合は多い。テレビドラマやテレビアニメ等の映画化作品を「劇場版」と銘打つ、映画を放送するテレビ番組のタイトルに「…洋画(/邦画/映画)劇場」などと名付ける、といった例も挙げられる。.

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名跡

名跡(みょうせき)は、家制度と密接に結びつき、代々継承される個人名。もしくは家名。「めいせき」と発音するのは誤り。.

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壊死

壊死(えし)またはネクローシス(Necrosis、ギリシア語のνέκρωσις〔死〕由来)とは、自己融解によって生物の組織の一部分が死んでいく様、または死んだ細胞の痕跡のことである。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大御所時代

大御所時代(おおごしょじだい)は、江戸時代、寛政の改革と天保の改革の間の期間で、第11代将軍徳川家斉の治世。家斉は隠居して大御所となってからも政治の実権を握っていたため、後の人が「大御所時代」と呼ぶようになった(その通称から時々誤解されやすいが、「大御所時代」には家斉が将軍の地位にあった50年間も含まれる。一方、実際に大御所であったのはわずか4年である)。また同時期の代表的な元号より文化文政時代(ぶんかぶんせいじだい)、あるいはこれを略した化政時代(かせいじだい)という呼称が用いられる場合がある。.

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大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

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女形

女形・女方(おやま・おんながた)とは、歌舞伎において若い女性の役を演じる役者、職掌、またその演技の様式そのものを指す。.

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守田座

森田座・守田座(もりた ざ)は、江戸にあった歌舞伎の芝居小屋で、江戸三座のひとつ。座元は森田/守田)勘彌代々。控櫓は河原崎座。 万治3年(1660年)、森田太郎兵衛(初代森田勘彌)が木挽町五丁目(現在の中央区銀座6丁目、)に森田座を開場した。 森田座の経営は不安定で、資金繰りに行き詰まっては破綻・休座して控櫓の河原崎座に代興行権を委ねることが多く、時には20年近くにわたって河原崎座が興行していたこともあった。天保14年(1843年)に天保の改革で木挽町から猿若町(現在の台東区浅草6丁目、)へ移転させられた時も3度目の休座中で、実際に引っ越し一切を行ったのは河原崎座だった。 安政3年(1856年)5月に河原崎座が失火で全焼すると十一代目森田勘彌によって森田座が再興され、その2年後には「森の下に田んぼ」では陽当たりが悪く実りが悪いのも当然で、これを「田を守る」に改めればきっと勝手口も改善するにちがいない」との験をかついで名称を森田座から守田座に改称、これにともない姓の森田も守田に改めた。明治5年(1872年)にはやはり「新しい富を求める」という験かつぎで、新富町(現在の中央区新富2丁目、)へ移転し、3年後の明治8年(1875年)には座名も新富座と改めている。 守田座の定式幕は左から「黒・柿色・萌葱色」の三色の引幕だった 。これが現在東京歌舞伎座や京都南座をはじめとする多くの劇場で歌舞伎上演の際に使用される定式幕の組合せとなっている。.

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實川延若 (初代)

初代 實川 延若(しょだい じつかわ えんじゃく、新字体:実川、天保2年6月23日(1831年7月31日) - 明治18年(1885年)9月18日)は、大坂出身の歌舞伎役者。本名は天星 庄八(あまぼし しょうはち)。屋号は河内屋。定紋は重ね井筒、替紋は五つ雁金。俳名は正鴈。.

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實川額十郎

實川 額十郎(じつかわ がくじゅうろう)は、歌舞伎役者。屋号は井筒屋。.

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尾上菊五郎 (4代目)

四代目 尾上菊五郎(よだいめ おのえ きくごろう、文化5年〈1808年〉 - 万延元年6月28日〈1860年8月14日〉)とは、江戸時代後期の歌舞伎役者。屋号は音羽屋、俳名は梅幸・菊枝・梅婦。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。通称「梅幸菊五郎」。 大坂で生まれ、初代中村歌六に入門し中村辰蔵、のちに中村歌蝶と名乗る。京坂の宮地芝居で修業したが天保2年(1831年)正月、三代目尾上菊五郎の娘婿となり、同年3月に尾上菊枝と改名し大坂角の芝居に出た。その後、菊五郎とともに江戸へ下り、同年8月に三代目尾上栄三郎と改名し江戸市村座の舞台に立つ。弘化3年(1846年)、菊五郎の俳名である梅幸を襲名。この頃から名声を上げ、安政2年(1855年)9月に四代目尾上菊五郎を襲名した。 当り役は『与話情浮名横櫛』のお富など。おっとりとした気品のある風貌で、年増役、時代物を得意としたが、悪婆の役をやらせると落ち着きすぎ、科白廻しもべたつくようだといわれて不評だったという。死去の際はその妻のお蝶も同日に死去した。養子に初代實川延若がいる。.

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尾上菊五郎 (初代)

初代 尾上菊五郎(しょだい おのえ きくごろう、享保2年〈1717年〉 - 天明3年12月29日〈1784年1月21日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。屋号音羽屋、俳名梅幸。幼名は竹太郎。 京都都萬太夫座の芝居茶屋の出方音羽屋半平の子。初め若女形の尾上左門の門下となり、尾上竹太郎と名乗る。享保15年(1730年)京都榊山四郎太郎座で尾上菊五郎を名乗り若衆方として初舞台。同20年(1735年)からは若女形として舞台に立ち評判を取る。 その後寛保元年(1741年)、大坂で二代目市川海老蔵と同座し、翌年の寛保二年には、『鳴神』で海老蔵演じる鳴神上人を相手に雲の絶間姫を演じて大評判を取る。これをきっかけに同年海老蔵と共に江戸に下り、市村座に出て女形として売り出した。その後宝暦2年(1752年)に立役に転じる。しかし明和3年(1766年)、江戸堺町で営んでいた油屋からの出火により隣接する中村座と市村座の両座を焼失、これが「菊五郎油見世火事」といわれるほど反発を買い、帰坂せざるを得なくなった。その後は四年を経てふたたび江戸に下り大当りを取り、三都の舞台で活躍し、最後は大坂で没した。 当り役は『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、『ひらかな盛衰記』の延寿・畠山重忠など。子に二代目尾上菊五郎がいる。.

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尾上梅幸

尾上 梅幸(おのえ ばいこう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四ツ輪。 「梅幸」は初代尾上菊五郎の俳名に由来する。この初代と、二代目、五代目の菊五郎は、それぞれ「梅幸」を俳名としては使ったが、実際にこれを名跡として襲名することはなかった。.

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山崎屋 (歌舞伎)

山崎屋(やまざきや)は、歌舞伎役者の屋号。 初代河原崎権之助が越前国山崎の出身だったことがその名の由来と伝わる。 山崎屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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丁稚

丁稚(でっち)とは、商家に年季奉公する幼少の者を指す言葉。職人のもとでは弟子、子弟とも呼ばれる。江戸時代に特に多かった『世界大百科事典』(平凡社)「でっち」の項目。 現代でも一般社員(ヒラ社員)が自嘲的に「まだ丁稚です」と比喩的に使う事もある。上方ことばの丁稚に対して江戸言葉では「小僧」である。.

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中村吉右衛門 (初代)

初代 中村 吉右衛門(しょだい なかむら きちえもん、1886年(明治19年)3月24日 - 1954年(昭和29年)9月5日)は、明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は播磨屋。定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。大向うからの「大播磨」(おおはりま)の掛け声で知られた。.

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中村座

復元された中村座(江戸東京博物館) 京橋) 中村座の定式幕 中村座(なかむらざ)は、江戸にあった歌舞伎劇場で江戸三座のひとつ。座元は中村勘三郎代々。控櫓は都座。.

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中村勘三郎 (17代目)

十七代目 中村 勘三郎(じゅうしちだいめ なかむら かんざぶろう、1909年(明治42年)7月29日 - 1988年(昭和63年)4月16日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は中村屋。定紋は角切銀杏、替紋は丸に舞鶴。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は波野 聖司(なみの せいじ)。.

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中村歌六 (3代目)

三代目 中村 歌六(さんだいめ なかむら かろく、嘉永2年4月16日(1849年5月8日) - 1919年(大正8年)5月17日)は明治時代の歌舞伎役者。俳名は獅童、屋号は播磨屋。定紋は揚羽蝶、替紋は蔓片喰。本名は波野 時蔵(なみの ときぞう)。.

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中村時蔵 (3代目)

三代目 中村 時蔵(さんだいめ なかむら ときぞう、1895年(明治28年)6月6日 - 1959年(昭和34年)7月12日は、歌舞伎役者。屋号は播磨屋。定紋は揚羽蝶、替紋は蔓片喰。俳名に獅童。本名は小川 米吉郎(おがわ よねきちろう)。 三代目中村歌六の次男。兄は初代中村吉右衛門、弟は十七代目中村勘三郎。.

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中村時蔵 (5代目)

五代目 中村時蔵(ごだいめ なかむら ときぞう、1955年(昭和30年)4月26日 - )は、歌舞伎役者。屋号は萬屋。定紋は桐蝶、替紋は蔓片喰。 東京都出身。早世した歌舞伎役者四代目中村時蔵の長男で、現代の歌舞伎界における立女形の1人。七代目尾上菊五郎の女房役など、菊五郎劇団一座の舞台で数多くの役を務める。 二代目中村錦之助は実弟。子に四代目中村梅枝と中村萬太郎、また孫が1人いる(梅枝の長男)。.

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市川右團次 (初代)

初代 市川右團次(しょだい いちかわ うだんじ、天保14年7月16日(1843年8月11日) - 大正5年(1916年)3月18日)は、幕末から大正初期にかけて活躍した上方の歌舞伎役者。屋号ははじめ鶴屋、のち髙嶋屋。俳名に家升・采玉・米玉、雅号に夜霜庵。隠居名の初代市川 齊入(いちかわ さいにゅう)としても知られる。本名は市川 福太郎(いちかわ ふくたろう)。.

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市川宗家

市川宗家(いちかわ そうけ).

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市川小團次 (4代目)

四代目 市川小團次(よだいめ いちかわ こだんじ、文化9年(1812年)1月 - 慶応2年5月8日(1866年6月20日))は幕末の歌舞伎役者。幼名は榮太(えいた)、また榮次郎(えいじろう)とも。俳名は米升。屋号は高島屋。定紋は三升。.

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市川小團次 (5代目)

5代目市川小團次(ごだいめ・いちかわ こだんじ、1850年9月23日(嘉永3年8月18日) - 1922年(大正11年)5月6日)は、明治期の歌舞伎役者。本名 須原清助、屋号 高島屋、俳名 升若、米升。 名優4代目市川小團次の子。父の意見により初代花柳壽助(後の初世花柳壽輔)門で舞踊家になるべく修行していたが、父の死後1867年2月歌舞伎に転向し市川子團次と名乗る。初舞台は1866年江戸市村座。1878年6月新富座「松栄千代田神徳」で父の名跡を継ぐ。清助の小團次襲名はデビュー時に既に決められていたが、これは養母お琴の意向によるものであったという。明治以降は兄初代市川左團次と行動を共にした。 「籠釣瓶」の冶六、「壺坂霊験記」の沢市、「沼津」の平作、「新版歌祭文・野崎村」の久作の世話物の役のほか、「倭仮名在原系図」の蘭平などの舞踊を生かした役もよくした。小柄な体格から「ちい高屋」の渾名(あだな)で呼ばれた。 子に2代目市川米升、孫が戦後まで活躍した3代目市川子團次である。 category:歌舞伎役者 category:1850年生 category:1922年没.

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市川左團次 (初代)

初代 市川左團次(しょだい いちかわ さだんじ、天保13年10月28日(1842年11月30日) - 1904年(明治37年)8月7日)は歌舞伎役者。屋号は髙島屋。定紋は三升に左(みますに ひだり)、替紋は松川菱に鬼蔦(まつかわびしに おにづた)。俳名に松蔦・筵升。本名は高橋 榮三(たかはし えいぞう)。.

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市川團十郎 (2代目)

二代目 市川團十郎(にだいめ いちかわ だんじゅうろう、元禄元年10月11日(1688年11月3日) - 宝暦8年9月24日(1758年10月25日))は、正徳から享保年間にかけて江戸で活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。俳名は三升、才牛斎、栢莚、雛助。.

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市川團十郎 (4代目)

四代目 市川 團十郎(よだいめ いちかわ だんじゅうろう、正徳元年(1711年) - 安永7年2月25日(1778年3月23日)は、江戸の歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。俳名に海丸(かいがん)・五粒(ごりゅう)・三升(さんしょう)・柏莚(はくえん)がある。.

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市川團十郎 (5代目)

五代目 市川團十郎(ごだいめ いちかわ だんじゅうろう、寛保元年〈1741年〉 - 文化3年10月30日〈1806年12月9日〉)とは、江戸の歌舞伎役者。屋号は成田屋、俳名は梅童・男女川(おながわ)・三升・白猿。定紋は三升。.

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市川團十郎 (6代目)

六代目 市川 團十郎(ろくだいめ いちかわ だんじゅうろう、安永7年(1778年) - 寛政11年5月13日(1799年6月16日))は天明から寛政の頃に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升。 安永7年 (1778)、五代目市川團十郎の子として生れるが、妾腹だったためいったん門弟の二代目市川升蔵に引き取られ、そこから父のいとこにあたる芝居茶屋の和泉屋勘十郎の養子に入れられ、さらに天明2年(1782) に改めて父の養子として迎えられた。翌年、市川徳蔵を名乗って初舞台。同じ年に四代目市川海老蔵を襲名する。 寛政3年 (1791)、六代目市川團十郎を襲名。花やかな美男役者で人気が高かったが、同11年 (1799) に『助六』で当りを取ったのち、風邪をこじらせて急死してしまう。享年わずか22だった。 Category:江戸時代の歌舞伎役者 Category:武蔵国の人物 Category:1778年生 Category:1799年没.

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市川團十郎 (9代目)

九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎 1838年11月29日(天保9年10月13日) - 1903年(明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。 五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。 その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。.

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市村座

市村座(いちむらざ)は、江戸にあった歌舞伎劇場で、江戸三座のひとつ。座元は市村羽左衛門代々。控櫓は主に桐座だったが、都座と玉川座が代興行したこともある。明治時代以降も経営者が変わりながら運営されていたが、1932年(昭和7年)の焼失により廃座となった。.

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市村羽左衛門

市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者の名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。 屋号は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋。 十六代目以降の定紋は根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)。.

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市村羽左衛門 (8代目)

八代目 市村羽左衛門(はちだいめ いちむら うざえもん、元禄11年〈1698年〉 - 宝暦12年5月7日〈1762年6月28日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。また市村座の座元。屋号は菊屋、俳名は可江。雅号橘中庵。 芝居茶屋主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから、元禄16年(1703年)、父を後見人として5歳で四代目市村竹之丞を襲名し、市村座の座元となる。初舞台はそれから二年後の宝永2年(1705年)正月興行『万歳田村丸』の天童子だった。その後、座元と役者を兼ね江戸の芝居に重きをなすようになる。元文2年(1737年)、将軍家の若君竹千代の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748年)さらに名を「羽左衛門」と改めた。以後市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る。 座元を60年間勤める傍ら、舞台でも若衆、女形、実事、敵役など幅広い役柄をこなした。子に九代目市村羽左衛門、三代目坂東彦三郎がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺だが、ほかに江東区の自性院にも供養塔がある。なお八代目羽左衛門ゆかりの名所として、「曽我御霊社奉寄進石宝殿」がある。春の江戸の芝居に必ず取り上げられた「曽我物」の人物曽我兄弟を供養するため、八代目が駒込富士神社(東京都文京区本駒込五丁目)に寄進したものである。.

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三都

三都(さんと).

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幕の内弁当

幕の内弁当の一例 幕の内弁当の例(東海軒が静岡駅で販売している駅弁)。ご飯を俵型に見えるように型押ししている 幕の内弁当(まくのうちべんとう)とは、白飯と数種類の副食(おかず)からなる弁当である。長い歴史を持ち、細かな定義や特徴については諸説ある。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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待合茶屋

待合茶屋(まちあいぢゃや)とは、待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業のこと。待合と略される。 茶屋とも略されるが、異なる業態の茶屋との混同に留意が必要である。例えば大坂で茶屋(ちゃや)といえば色茶屋のことである。現在のお茶の葉を売る店は葉茶屋、茶店は水茶屋、掛け茶屋。近松の心中物の「茶店」は皆、色茶屋のことを指す。 待合は主として芸妓との遊興や飲食を目的として利用され、料亭・置屋とともにいわゆる三業の一角を占める。 かつては寝具が備わっており、芸妓や娼妓(送り込み制の場合)と寝ることも使用法の一つにあったが、現在では売春が禁じられていること、時代の変化等によりそのようなことはない。現在では上記の通りに飲食や芸妓遊びに使われる。 飲食の際は飲み物は備わっているが料理は直接提供できない。したがって仕出し屋などから取り寄せる必要がある。 各地の待合・お茶屋も不況や観光資源化により初めてでも入店できる。京都のお茶屋はトラブルを避けるため特に紹介がなければ入れない、一見さんお断りとする店も多い。.

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俳名

俳名(はい-みょう)は、本来俳号と同義であるが、江戸時代中期以降の芸能分野においては、.

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出前

出前(でまえ)とは、飲食店が自店で提供している料理などの飲食物を、希望する顧客の元へ配送するサービスのことである。仕出し(しだし)と呼ばれる場合もあり、あわせて説明する。.

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四肢動物

四肢動物(ししどうぶつ)Tetrapoda とは、脊椎動物中、足(脚)やそれに類する付属器官を有するものをいう。すなわち両生類・爬虫類・哺乳類、そして鳥類である。四肢を持たないように進化した蛇や鯨なども四肢動物に含まれる。四足動物または四足類ともいう。Tetrapoda (τετραποδη) とはギリシャ語で「四つの足」の意味。.

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立役

立役(たちやく)は、歌舞伎における尋常な成年男子の役、またその役を演じる役者。 対象とならない役は、芯からの悪人(敵役)、滑稽を主とするもの(道化役)、老人(老役)であるが、現在では役者の職掌としての敵役・道化役はなくなり、立役役者がこれをかねているものの、役の分類としては下記のような区別が存在している。その役柄の階級は武士から町人にいたるまで幅広く、多く劇中において善人方としてふるまい、白塗りのこしらえをもっぱらとする。立役役者は歌舞伎における中心的な存在であり、ほかの職掌にある役者よりも高い地位にあるものとされた。通常、立役が座頭をつとめる。.

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紀伊國屋 (歌舞伎)

紀伊國屋(きのくにや)は、歌舞伎役者の屋号。 初代澤村宗十郎が紀伊國の出身だったことがその名の由来。 紀伊國屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.

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献立

立(こんだて)とは、食卓に並べる料理の種類や順序のこと。.

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片岡仁左衛門 (11代目)

十一代目 片岡 仁左衛門(じゅういちだいめ かたおか にざえもん、安政4年12月4日(1858年1月18日) - 昭和9年(1934年)10月16日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した歌舞伎役者。主に立役。屋号は松嶋屋。定紋は七ツ割丸に二引。俳名に我當、萬麿。本名は片岡 秀太郎(かたおか ひでたろう) 養子に十三代目片岡仁左衛門。.

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相撲茶屋

撲茶屋(すもう ぢゃや)とは、大相撲の本場所において、入場券の売買仲介および会場での接客や案内を行う店舗である。単にお茶屋(おちゃや)ともいう。正式名称は相撲案内所(すもう あんないしょ)だが、あまり普及はしていない。なお、「相撲+茶屋」という連想からか「相撲茶屋○○」と名乗るちゃんこ料理店があるが、相撲案内所の業務とは無関係であり、本項の記述の対象としない。.

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音羽屋

音羽屋(おとわや)は、歌舞伎役者の屋号。 初代尾上菊五郎の父・半平は、京の都萬太夫座(みやこ まんだゆう ざ)付き芝居茶屋の出方を営んでいたが、生まれたのが東山の清水寺にほど近い地だったことから、その境内の「音羽の滝」にちなんで、自らを音羽屋半平(おとわや はんぺい)と名乗っていたことがその名の由来。 音羽屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.

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道頓堀

道頓堀(どうとんぼり)は、大阪府大阪市中央区の繁華街および町名。または、同所の北を流れる道頓堀川の略称。 一部で「とんぼり」と略称される事もあるが定着しておらず、地元では略さずに「どうとんぼり」と表現している。(なお、かつては「どとんぼり」、「どとんほり」と呼ばれていたとする出典もある。).

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萬屋

萬屋(よろずや)は、歌舞伎役者の屋号。 三代目中村歌六の妻・小川かめの実家が市村座の芝居茶屋をしていた小川吉右衛門の「萬屋」だったことに由来する。 1971年(昭和46年)、初代中村錦之助ら小川家一門が播磨屋から独立するかたちで名乗りはじめた。 萬屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.

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高嶋屋

嶋屋(たかしまや)は、歌舞伎役者の屋号。.

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鶴屋 (歌舞伎)

屋(つるや)は、歌舞伎役者の屋号。 鶴屋南北の系統と、市川右團次の系統がある。.

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茶屋

茅葺きの茶屋(春日大社本殿西、奈良公園の「水谷茶屋」) 茶屋(ちゃや)は、日本において中世から近代にかけて一般的であった、休憩所の一形態。休憩場所を提供するとともに、注文に応じて茶や和菓子を提供する飲食店、甘味処としても発達した。茶店(ちゃみせ)とも言う。 現代の日本社会において茶屋はノスタルジーの対象であり、日本国外にあっては日本情緒の象徴の一つである。そのため、観光を主とした演出上の目的から、これを再現した店舗および観光施設は数多く存在する。.

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松本幸四郎 (初代)

初代 松本 幸四郎(しょだい まつもと こうしろう、延宝2年(1674年) - 享保15年3月25日(1730年5月11日))は、江戸時代中期の歌舞伎役者。屋号は大和屋。 下総国香取郡小見川(現在の千葉県香取市)の島田家に生まれ、10歳の時に佐原の小間物屋「高麗屋」に奉公に出た。元禄年間に江戸の久松多四郎に入門し、幼名から「久松小四郎」と名乗り女形を務めていた。後に「松は霜雪に操を変えず、本は本心の本の字」として、松本姓に改め立役となる。享保元年(1716年)、徳川吉宗が征夷大将軍になるとその子・小次郎(後の徳川宗武)に名前が通じると言う事で、「松本幸四郎」と改名した。墓は香取市の善光寺と東京都文京区の栄松院にある。二代目幸四郎(後に四代目市川團十郎)は養子。.

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橘屋

橘屋(たちばなや)は、歌舞伎役者の屋号。 市村羽左衛門の系統と、吉澤あやめの系統の、二通りがある。.

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歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.

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歌舞伎役者の屋号一覧

歌舞伎役者の屋号一覧(かぶき やくしゃの やごう いちらん)では、過去・現在に存在した歌舞伎役者の屋号をあげる。ただし、伝統的な歌舞伎の屋号を継承しない新派や前進座の役者の屋号は省いた。.

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江戸三座

江戸三座(えど さんざ)は、江戸時代中期から後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。官許三座(かんきょ さんざ)、公許三座(こうきょ さんざ)、また単に三座(さんざ)ともいう。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが、次第に整理されて四座になり、最終的に三座となった。 三座は江戸時代を通じて日本独自の伝統芸能である歌舞伎を醸成、明治以降も歌舞伎の殿堂として大正末年頃まで日本の演劇界を牽引した。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河原崎権十郎 (2代目)

二代目 河原崎 権十郎(にだいめ かわらざき ごんじゅうろう、1880年(明治13年)8月6日 - 1955年(昭和30年)1月11日)は、歌舞伎役者。本名は長谷 幸太郎。屋号は山崎屋。俳名に紫扇コトバンク。 東京・日本橋の芝居茶屋の子として生まれる。九代目市川團十郎門人となり、明治18年(1885年)市川薫の名で新富座の『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の菅秀才で初舞台。その後十一代目片岡仁左衛門門人となり下阪。明治38年(1905年)大阪弁天座で二代目市川権三郎を襲名する。 大阪での修業ののち帰京、大正8年(1919年)4月歌舞伎座で師匠の九代目團十郎の前名をおそって二代目河原崎権十郎を襲名。浅草の宮戸座、常盤座などの小芝居で活躍、『源平布引滝・実盛物語』の実盛や『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)の辰五郎など、十五代目市村羽左衛門の当たり役を好んで演じ、しかも容貌や芸風までもが似ていたので「浅草の羽左衛門」と呼ばれ人気があった。それが縁で羽左衛門や六代目尾上菊五郎に目をかけられ大劇場に脇役で出演。晩年は菊五郎劇団に加わり老役や大阪での修業を活かした丸本物によい味を出した。三代目河原崎権三郎は長男。三代目河原崎権十郎は次男。.

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河内屋

河内屋(かわちや)は、歌舞伎役者の屋号。 大坂の大工の子として生まれた初代實川延若が三歳のとき芝居茶屋・河内屋庄兵衛の養子に出されたことにその名は由来する。 河内屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.

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澤村宗十郎

澤村 宗十郎(さわむら そうじゅうろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は紀伊國屋。定紋は丸にいの字、替紋は花有り足有りの笹竜胆。 代々の墓は田島山十一ヶ寺受用院にある。.

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澤村田之助 (3代目)

三代目 澤村 田之助(さんだいめ さわむら たのすけ、新字体:沢村、弘化2年2月8日〈西暦1845年3月15日〉 - 明治11年〈1878年〉7月7日)は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は紀伊國屋。定紋は釻菊(かんぎく)、替紋は波に千鳥。俳名に曙山。美貌の女形として人気を博したが、後年には脱疽により四肢を切断してなお舞台に立ちつづけた、悲劇の名優としても知られる。.

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成田屋

成田屋(なりたや)は、歌舞伎役者の屋号。歌舞伎における屋号の始まりといわれる。.

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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明治座

明治座(めいじざ、英語:Meijiza)は、東京都中央区日本橋浜町二丁目にある劇場、およびこれを運営する企業の株式会社明治座(かぶしきかいしゃめいじざ、英語:Meijiza Co., Ltd.)である。.

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料亭

料亭鍋茶屋 料亭(りょうてい)とは、主に日本料理を出す高級飲食店である。企業の接待、宴会や商談、要人や政治家の密談、タレント、芸能人の打ち合わせ等に使われることが多い。値段も店により異なり、店によっては芸妓による単価が大幅に異なる無形のサービスが提供されることに伴い、利用料が確実に回収される必要があるので、支払いを保証可能な紹介がないと利用できないところもある。 日本文化の集大成の場でもあり、料理・器・数寄屋造り・日本庭園・美術品・調度品・芸妓・邦楽などの正統派の日本文化を堪能できる。 今日では一般に、専任の板前を抱え、座敷があり芸妓を上げるような料理屋のことを指すことが多いが、芸妓衆のもてなしを主として、酒以外の料理は主に仕出しでまかなう貸席型の業態(いわゆる'''待合''')を料亭と呼称する場合もある。 法令上の用語(建築基準法など)では料理店(りょうりてん)という。.

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日本橋 (東京都中央区)

日本橋(にほんばし)は、東京都中央区の日本橋川に架かる橋、またはこの橋にちなむ東京都中央区の町丁、および同区北部の広域地名である。.

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播磨屋 (歌舞伎)

播磨屋(はりまや)は、歌舞伎役者の屋号。 初代中村歌六は、大坂三井の番頭・丹波屋甚助の子に生まれたが、播磨屋作兵衛の養子に出されたことにその名は由来する。 中村歌六は五代目のとき、中村歌昇は三代目のとき、中村時蔵は五代目のとき、いずれも「萬屋」に替わったが、このうち歌六・歌昇の兄弟は後年元の播磨屋に復帰している( → 詳細は「萬屋」の項を参照)。三代目中村歌六の長男が「大播磨」(おおはりま)と呼ばれた初代中村吉右衛門である。 播磨屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.

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