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諏訪氏

索引 諏訪氏

諏訪氏(すわし)は、日本の氏族の一つ。信濃国諏訪地方の領主。諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。中世以降の通字は「頼」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「忠」(ただ)を通字としている。.

288 関係: 執権健磐龍命千野氏南北朝時代 (日本)南アルプス市南朝 (日本)右筆吉祥寺 (文京区)堀越公方塩尻市多氏大井信業天龍寺天正天正壬午の乱太平記奉公衆子爵宝治宝治合戦室町幕府室町時代宮騒動守矢頼真守矢氏守護代宗良親王安芸国安部氏富士見町寛元小笠原貞宗小笠原長基小笠原政康小県郡将軍山崎の戦い山梨市山梨郡上原城上原元秀上井覚兼上野国上杉憲政中先代の乱丹波国下諏訪町一蓮寺平安時代平山優...幕府久慈郡享禄京都康正今川氏今井信元今井氏仁科氏建武の新政他田氏仙石政固伊勢氏伊那谷伊那郡引付衆佐久郡依田実信御家人御内人御柱祭徳川家康後三年の役後土御門天皇後醍醐天皇得宗保科氏信濃国応永北条高時北条氏北条氏直北条早雲北条時頼北条時行北杜市北朝 (日本)分霊善光寺カジノキクーデタータケミナカタ内管領内藤信有出羽国出羽清原氏出雲国出早雄命八ヶ岳公卿元弘前田長徳勝山記国人知久氏社家神官神階神武天皇禰々織田信長甲州征伐甲府徳川家甲斐国相模国韮崎市鎌倉鎌倉時代菩提寺華族領主被官観応の擾乱駿河国角川書店評定衆諏訪大社諏訪市諏訪御料人諏訪忠厚諏訪忠尋諏訪忠倫諏訪忠礼諏訪忠粛諏訪忠誠諏訪忠虎諏訪忠林諏訪忠恒諏訪忠恕諏訪忠晴諏訪地域諏訪円忠諏訪神党諏訪神社諏訪直頼諏訪直性諏訪盛経諏訪盛重諏訪盛條諏訪盛政諏訪頼常諏訪頼久諏訪頼忠諏訪頼篤 (美濃守)諏訪頼隆諏訪頼高諏訪頼豊諏訪頼郷諏訪頼蔭諏訪頼重 (南北朝時代)諏訪頼重 (戦国時代)諏訪頼雄諏訪頼水諏訪頼満 (安芸守)諏訪頼満 (伊予守)諏訪頼意諏訪郡諏訪藩諏訪満隣諏訪満隆諏訪時継諏方大明神画詞高師冬高白斎記高遠城高遠頼継高遠氏越後国足利尊氏足利将軍家足利義満足利義昭足利義政足利義晴足利直義足利茶々丸鶴岡八幡宮跡部氏茅野市都留郡関ヶ原の戦い関東管領薩摩国藤沢頼親金刺盛澄金刺部氏長岌長享長野県雑訴決断所推古天皇東京都東光寺 (甲府市)東勝寺合戦村上義清栗原兵庫桑原城桓武天皇桔梗ヶ原梶原景時梅松論森川俊一欽明天皇正一位武士武家武田信玄武田信縄武田信虎武田信昌武田勝頼武田氏氏族江戸時代河尻秀隆油川信恵治承・寿永の乱温泉寺 (諏訪市)清和源氏源義家源義仲源為公源頼朝源氏源満快溝口直溥滋野氏朝廷木曽郡木曾義昌本能寺の変戦国大名戦国時代 (日本)明治維新明智光秀流鏑馬海野平の戦い新発田藩文安文京区文正文明 (日本)日野富子日本日本神話摂家慶長承久の乱曹洞宗1246年1247年1333年1335年1352年1355年1397年1449年1456年1464年1465年1479年1483年1484年1492年1501年1518年1527年1528年1531年1535年1540年1542年1546年1562年1582年1600年1934年 インデックスを展開 (238 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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健磐龍命

健磐龍命(たけいわたつのみこと)/武五百建命(たけいおたけるのみこと)は、日本の神または人物。阿蘇神社(熊本県阿蘇市)の祭神等として知られる。.

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千野氏

千野氏(ちのし)とは、日本の氏族の一つ。信濃国一ノ宮諏訪大社上社大祝家の神氏諏訪氏の一門である。千野氏は、出雲神話の神、建御名方神を祖とする諏訪社大祝有員の系統である、諏訪敦貞の二男の諏訪敦真の子・光親が、千野光親を称したことに始まるとされる。茅野諏訪氏。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南アルプス市

南アルプス市(みなみアルプスし)は、山梨県西部に位置する市。山梨県内の自治体としては最西端にあたる。人口は人。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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右筆

右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。.

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吉祥寺 (文京区)

吉祥寺(きちじょうじ)は、東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。山号は諏訪山。.

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堀越公方

堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。.

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塩尻市

塩尻市(しおじりし)は、長野県中部(中信地方)の市である。県央部における交通の要衝となっている。.

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多氏

多氏(おおし/おおうじ)は、「多」を氏の名とする氏族。 日本最古の皇別氏族とされる。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。.

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大井信業

大井 信業(おおい のぶなり)は、戦国時代の武将。甲斐国の国衆。武田信玄の母・大井の方の実兄にあたる。 大井信達の長男として生まれる。父の信達は駿河国の今川氏と結び甲斐守護・武田信虎と敵対していたが、永正14年(1517年)に信達は信虎と和睦すると、娘の大井夫人が信虎へ嫁いだ。『王代記』によれば、永正17年(1520年)には大井氏は逸見氏や栗原氏らの甲斐国人とともに信虎に反抗し、6月10日には敗退し、再び信虎と和睦した。信達はその後出家・隠居し、信業は家督を譲られて当主になったと考えられている。 「守矢家文書」によれば、年次は不詳であるが諏訪大社上社に「松井鹿毛」と呼ばれる名馬と具足を奉納しており、この時に「左衛門督」を名乗っている。 『一蓮寺過去帳』によれば、享禄4年(1531年)2月2日に病死する。『一蓮寺過去帳』『武田源氏一統系図』では法名は弥阿弥陀仏。『平塩寺過去帳』では「左衛門督信業」と記載される。 信業の子息・大井信為は幼少のため、一時的に弟の大井信常が跡を継いだ。.

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天龍寺

亀山天皇陵 後嵯峨天皇陵 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天正壬午の乱

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)に甲斐・信濃・上野で繰り広げられた戦いである。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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奉公衆

奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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宝治

宝治(ほうじ)は、日本の元号の一つ。寛元の後、建長の前。1247年から1249年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、執権は北条時頼。.

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宝治合戦

宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、『吾妻鏡』しか現存しない。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮騒動

宮騒動(みやそうどう)は、鎌倉時代の寛元4年(1246年)閏4月に起きた、北条(名越)光時の反乱未遂および前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放された事件。年号を取って寛元の乱、寛元の政変ともいう。北条氏内部の主導権争いと北条氏に反感を抱き将軍権力の浮揚を図る御家人たちの不満が背景にあり、この事件により第5代執権・北条時頼の権力が確立され、得宗(北条家嫡流)の専制権力への道を開いた。 宮騒動と称される理由は『鎌倉年代記裏書』で「宮騒動」と号すとあるためだが、「宮」を用いる由来は不明 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.53。事件の背後にいた九条頼経は九条家の一族で「宮」と称されることはあり得ず、結果的にこれより6年後に摂家将軍の追放と親王将軍の誕生へとつながったためではないかとされる。.

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守矢頼真

守矢 頼真(もりや よりざね、永正2年5月25日(1505年6月26日) - 慶長2年9月10日(1597年10月20日))は、戦国時代の神職。信濃国諏訪郡に所在する諏訪大社の神長官。諏訪史料叢書では守矢有実の子。子は守矢信真。初名は頼実。.

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守矢氏

守矢氏(もりやし)は日本の氏族の一つ。信濃国諏訪郡(長野県諏訪地域)を発祥とする地祇系の氏族で、代々諏訪大社上社の神長官を務めてきた社家。.

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守護代

守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.

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宗良親王

宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、応長元年(1311年)/正和元年(1312年) - 元中2年/至徳2年8月10日( 1385年9月14日)?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為子。一品中務卿。同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)など。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。法名は尊澄法親王。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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安部氏

安部氏(あんべし)は、信濃国の名族滋野氏系の武家の氏族。南北朝期には諏訪神党に属し、後に駿河に移住して江戸期は武蔵岡部藩として存続した。.

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富士見町

富士見町(ふじみまち)は、長野県中部にある諏訪郡の町。.

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寛元

寛元(かんげん)は、日本の元号の一つ。仁治の後、宝治の前。1243年から1247年までの期間を指す。この時代の天皇は後嵯峨天皇、後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、藤原頼嗣、執権は北条経時、北条時頼。.

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小笠原貞宗

小笠原 貞宗(おがさわら さだむね)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。.

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小笠原長基

小笠原 長基(おがさわら ながもと)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。信濃守護。府中小笠原氏当主。先代守護小笠原政長の長男。子に長将(持長の父)、長秀、政康など。.

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小笠原政康

小笠原 政康(おがさわら まさやす)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護。小笠原長基の3男で長将、長秀の弟。宗康、光康の父。 小笠原氏は曾祖父貞宗が足利尊氏に仕えた功績で信濃守護を世襲したが、隠居した父の後を継いだ次兄長秀が国人衆の反感を買い、大塔合戦に敗れて応永8年(1401年)に信濃守護職を取り上げられ、信濃は一時斯波義将の支配に置かれた後、翌応永9年(1402年)には室町幕府の直轄領となった。 政康は嘉慶2年(1388年)に13歳で元服し、応永12年(1405年)に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られた。 応永23年(1416年)に関東で発生した上杉禅秀の乱鎮定に駿河守護今川範政や越後守護上杉房方と共に出陣し、また応永30年(1423年)には鎌倉公方足利持氏と対立した京都扶持衆山入氏・小栗氏・真壁氏らを救援するため、幕府代官細川持有と共に常陸国に出陣するなど、足利将軍家に反抗的な関東足利氏への抑え役として4代将軍足利義持から重用され、応永32年(1425年)に信濃守護職に任命された。信濃の幕府直轄化は元々は守護による統治を嫌って幕府直臣化を望む信濃村上氏ら国人の動きに応えたものであったが、自立志向が強い彼らは幕府の命令にも従わず関東足利氏に通じて反抗することもあったため幕府にとって直轄支配のメリットがなかったこと、関東足利氏に対抗する軍事的再編の中で守護による軍事指揮権の再構築が図られたことによるとみられている。 正長元年(1428年)の正長の土一揆に対して上洛し一揆勢の鎮圧にあたった。また、この年に足利持氏が越後守護代長尾邦景や同国の国人を寝返らせようとして邦景から告発を受けると、政康を急遽帰国させて越後出陣の事態に備えさせている。 永享4年(1432年)には6代将軍足利義教の弓馬師範に推挙された(『林羅山撰 将軍家譜』)。永享8年(1436年)には持氏と通じた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、義教から感状を授かった。村上氏は永享9年(1437年)に幕府に降伏し、小笠原氏の信濃支配は一応達成することになる。これに先立つ応永24年(1417年)、在京していた武田信元の甲斐帰還を手助け、守護代として跡部氏を派遣している。甲斐では持氏の支援を受けた国人・逸見有直が勢力を強めており、その対抗的意味があったと考えられている。 永享10年(1438年)の永享の乱では上野国に出陣し平井城に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。永享12年(1440年)の結城合戦にも信濃武士を統べて参戦しており、『結城陣番帳』にその諸将の名が見える。 嘉吉2年(1442年)、小県郡海野で死去。享年67。長男の宗康が後を継いだ。しかし、正式な譲状を作成しなかったことから、この継承に異論を挟む余地を生んだ。その後、嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺された後に畠山持国が台頭、甥で長兄長将の子の持長が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏はお家騒動で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦いを起こすことになった。 信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺や筑摩神社を開基した。.

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小県郡

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将軍

将軍(しょうぐん)は、比較的大きな軍隊の指揮官に与えられる官職および称号の一つ、また軍閥の指導者の地位でもある。称号としての将軍を将軍号ともいう。 古くから東洋における軍隊の指揮官の役職名の一つであった。外交上または軍隊内の敬称としては閣下が用いられる。なお、古代中国では「将軍は皇帝に任命された官職」「将は王侯や地方領主に任命された官職」と区別されている。.

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山崎の戦い

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。.

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山梨市

笛吹川から見た市街 笛吹川 山梨市(やまなしし)は、山梨県にある市。甲府盆地の東部に位置する 山梨市オフィシャルサイト。面積は289.80km2であり、県内第4位である。甲州ワインの産地として知られる。 国宝の仏殿を有する清白寺、古今和歌集「しほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とぞなく」を代表に多くの歌人にも詠まれた名勝地差出の磯(さしでのいそ)、武田信玄の隠し湯ともいわれる県内最古の温泉である岩下温泉などがある。.

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山梨郡

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上原城

上原城(うえはらじょう)は、信濃国諏訪郡(現在の長野県茅野市茅野上原)にあった中世の日本の城(山城)。長野県指定史跡。上原城の支城として桑原城がある。.

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上原元秀

上原 元秀(うえはら もとひで)は、室町時代中期から後期にかけての武将。細川京兆家の家宰。.

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上井覚兼

上井 覚兼(うわい かくけん/さとかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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上杉憲政

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。 上杉謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死。 ※憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。.

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中先代の乱

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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下諏訪町

下諏訪町(しもすわまち)は、長野県諏訪郡の町。平安時代には土武郷と呼ばれていた。 諏訪湖や八島ヶ原湿原、下諏訪温泉、諏訪大社などがある観光地かつ鳥居前町。かつては中山道、甲州街道が分岐する宿場として栄えていた。.

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一蓮寺

一蓮寺(いちれんじ)は、山梨県甲府市太田町に所在する寺院。時宗系寺院(単立)で、山号は稲久山。一条道場。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平山優

平山 優(ひらやま ゆう/まさる)は、.

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幕府

幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.

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久慈郡

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享禄

享禄(きょうろく)は、日本の元号の一つ。大永の後、天文の前。1528年から1531年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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康正

康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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今井信元

今井 信元(いまい のぶもと)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。甲斐国逸見の領主。.

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今井氏

今井氏(いまいし)は、日本の氏族の一つである。.

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仁科氏

仁科氏(にしなうじ)は、日本の氏族。系統は仁品王系・皇極太子系・桓武平氏繁盛流(信濃平氏)・清和源氏・義光流・武田支流。また、清和源氏頼季流乙葉氏族の仁科氏もある。.

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建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

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他田氏

他田氏(おさだし)とは、日本の氏族のひとつで、神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする多氏に属する古代氏族とされる。.

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仙石政固

仙石 政固(せんごく まさかた)は、但馬出石藩の第8代(最後の)知藩事。出石藩仙石家11代。.

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伊勢氏

伊勢氏(いせし)は、日本の氏族で桓武平氏維衡流の氏族。室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、江戸時代には旗本として仕え、武家の礼法である『伊勢礼法』を創始し、有職故実の家として知られた。.

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伊那谷

伊那谷(いなだに)とは、長野県南部、天竜川に沿って南北に伸びる盆地である。伊那盆地(いなぼんち)や伊那平(いなだいら)とも呼ばれる。 長野県歌「信濃の国」に登場する「四つの平」の一つである。古くは伊奈とも記された。.

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伊那郡

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引付衆

引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。.

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佐久郡

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依田実信

依田 実信(よだ さねのぶ)は、平安時代末期の武将。源為実(依田六郎)の子。信濃守源為公の孫にあたる。信濃国小県郡依田庄を本拠とする依田氏の当主。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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御内人

御内人(みうちびと、みうちにん)は、鎌倉時代に執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。.

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御柱祭

上社の木落し 下社の木落し 御柱(おんばしら、みはしら)または御柱祭(-さい、-まつり)は、長野県諏訪地方で行われる祭である。諏訪大社における最大の行事である。正式には「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行なわれる式年祭である。長野県指定無形民俗文化財。日本三大奇祭のひとつとされる。 大社での開催年を中心に、全国の諏訪神社や関連神社(通称:小宮)でも同様の祭(小宮祭)が実施される。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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後三年の役

後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。.

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後土御門天皇

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日))。諱は成仁(ふさひと)。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

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保科氏

保科氏(ほしなし)は、信濃国高井郡保科に発祥した土豪で、江戸時代には大名として存続した武家である。星名、穂科、保志奈とも表記された。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北条氏直

北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。.

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北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.

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北条時頼

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.

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北条時行

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.

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北杜市

北杜市(ほくとし)は、山梨県の北西部に位置する市である。山梨県内の自治体として最北端にあたる。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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分霊

分霊(ぶんれい、わけみたま)とは、神道の用語で、本社の祭神を他所で祀る際、その神の神霊を分けたものを指す。.

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善光寺

善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。.

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カジノキ

ノキ(梶の木、学名:Broussonetia papyrifera)は、クワ科コウゾ属の落葉高木。単にカジ(梶)またはコウ(構)とも呼ばれる。.

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クーデター

ーデター()は、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う。 フランス語で「国家の一撃」もしくは「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ) 、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup(クー)」と表記されることが多い。 社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦をそれぞれ参照されたい。.

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タケミナカタ

タケミナカタは、『古事記』等に伝わる日本神話の神。 『古事記』では「建御名方神(たけみなかたのかみ)」、他文献では「南方刀美神(みなかたとみのかみ)」・「御名方富命」・「建御名方富命」等とも表記される。また、建御名方彦神別命と称されることもあるが、この名称は御子神の名とする説もある。『日本書紀』に記載はない。 諏訪大社(長野県諏訪市ほか)の祭神として知られる。.

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内管領

内管領(ないかんれい/うちのかんれい)とは、鎌倉幕府の執権北条氏の宗家である得宗家の執事で、得宗被官である御内人の筆頭である。御内頭人(みうちとうにん)ともいう。「得宗の家政を司る長」の意味であり、幕府の役職名ではない。.

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内藤信有

内藤 信有(ないとう のぶすみ)は、江戸時代中期の旗本。陸奥国内藤家棚倉藩の分家当主・内藤信全の養子。 寛文13年(1673年)7月11日に遺領を継ぎ、同年徳川家綱に御目見する。同5年定火消となり、また布衣の着用を許される。貞享2年(1685年)小姓組番頭となる。同3年従五位下筑後守に叙任されたが、元禄1年(1688年)10月26日、配下の不祥事の責を問われて謹慎となり、のち許されて小普請に貶められたという。 元禄11年(1698年)3月7日、常陸国の采地をあらためて、駿河国富士郡および駿東郡の内に移された。 享保17年2月29日、江戸において死す。享年86。法名は直岸。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」)。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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出羽清原氏

出羽清原氏(でわきよはらし)は、平安時代の豪族である。出羽国(後の羽後国)の在庁官人、清原令望が俘囚長に任ぜられ、仙北三郡を支配したとする説があるが定説はない。.

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出雲国

出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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出早雄命

出早雄命(いずはやおのみこと)は、州羽地方の民間伝承(諏訪信仰)の神。.

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八ヶ岳

八ヶ岳(やつがたけ、八ケ岳とも表記される)は、山梨県と長野県に跨る山塊。南北30 km余りの山体で、大火山群である。深田久弥が選定した日本百名山の一つ。 「八ヶ岳」は特定の一峰を指して呼ぶ名前ではなく、山梨・長野両県に跨る山々の総称であるが、その範囲は「夏沢峠以南のいわゆる南八ヶ岳のみ」「南八ヶ岳及び北八ヶ岳の領域(蓼科山を除いた領域)」「蓼科山まで含んだ八ヶ岳連峰全体」など様々な定義がある。日本百名山でいう八ヶ岳は南八ヶ岳のみを指す。 「八ヶ岳」の由来は、「八百万」などと同じように、山々が多く連なる様子から「たくさん」という意味で「八」としたとも、幾重もの谷筋が見える姿から「谷戸(やと)」にちなんで名づけられたとも、文字通り八つの峰に見えるからとも、複数のいわれが存在する。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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前田長徳

前田 長徳(まえだ ながのり)は、江戸時代の高家旗本。高家前田家の第7代当主。 文化7年(1810年)、信濃高島藩主諏訪因幡守忠粛の三男に生まれる。天保5年(1834年)3月4日、高家旗本前田出雲守長義の婿養子となる。天保9年(1838年)5月15日、将軍徳川家斉に御目見し、表高家となる。天保13年(1842年)12月6日、養父の隠居により家督を相続した。安政3年(1856年)11月15日、従五位下侍従・上総介に叙任し高家役となる。慶応元年(1865年)10月29日死去、享年56。.

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勝山記

河口湖と富士山 勝山記・妙法寺記(かつやまき・みょうほうじき)は、戦国時代の年代記。甲斐国(山梨県)の河口湖地方を中心とした富士山北麓地域の年代記。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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知久氏

知久氏(ちくし)は、信濃国上伊那郡(現・長野県上伊那郡箕輪町)知久沢を発祥とする武家の氏族。.

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社家

家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家(氏族)のことである。明治維新後、現代まで世襲している神職家のことをいう。.

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神官

官(しんかん)とは、国家の官吏として、何らかの神に仕える、または神を祀る施設に奉職する者のことである。現在、日本には神官は存在しない。 日本の神道に関しては、古文献に神職(神社の祭祀や事務に従事する者)を指す語として用いられる例が散見され、現在も日常語では神職の通称として用いられている。明治時代初期に神祇官が再興された際、全ての神職が官吏(神職=神官)になったが、制度上の問題から伊勢神宮・官国幣社の神職に限定され、1894年(明治27年)以降は伊勢神宮の神職のみが官職としての神官とされた。太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦の後、GHQによって出された神道指令によって、制度上の神官は廃止された。 また、古代エジプト、古代ギリシア、古代ローマなどで神殿に奉職していた者(主として男性)のことも神官と呼ばれる。.

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神階

階(しんかい)または神位(しんい)は、日本において神道の神に授けられた位階。.

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神武天皇

武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日『歴代天皇・年号事典』 吉川弘文館、2003年、p.

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禰々

々御料人(ねねごりょうにん、享禄元年(1528年) - 天文12年1月19日(1543年2月22日))は、甲斐国の戦国大名武田信虎の三女。信濃国諏訪領主諏訪頼重の正室。武田信玄の異母妹・次妹にあたる。武田義信・武田勝頼(後に諏訪氏の名跡を継ぐ)は甥。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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甲州征伐

州征伐(こうしゅうせいばつ)は、1582年(天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。武田征伐とも言われる。.

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甲府徳川家

府徳川家(こうふとくがわけ)は、江戸時代の大名。甲府宰相家。甲斐国甲府藩主家(甲府城主)。25万石(のちに35万石)徳川将軍家の一支系で、4代将軍家綱の弟綱重とその子綱豊(のちの将軍家宣)の2代を指す。単に甲府家ともいわれる。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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韮崎市

韮崎市(にらさきし)は、山梨県の北部に位置する市。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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菩提寺

菩提寺(ぼだいじ)は、代々その寺の宗旨に帰依して、(先祖の)位牌を納めてある寺。菩提所とも呼ばれる。ここでいう菩提とは「死後の冥福」を指し、菩提を弔う寺院という意味である。例えば、徳川家の寛永寺や増上寺が有名。古代・中世では一般的に氏寺と呼ばれていた。 香華院(こうげいん)は、仏前に香や花を供える役割を担う寺院のこと。香華寺(こうげじ)や香華所(こうげしょ)とも呼ばれる。陵墓・霊廟・墓所などに隣接して置かれる。例えば、皇室の陵墓に隣接する泉涌寺、伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」に隣接する瑞鳳寺などがこれにあたる。 檀那寺、旦那寺(だんなでら)は、檀信徒(檀家)の布施、すなわち檀那(旦那)によって運営される寺のこと。本来の意味では信徒と寺との経済的関係を示しているに過ぎないが、江戸時代に寺請制度によって個人は必ず1つの寺に管理されるようになり、多くの庶民は経済的支援をする寺と先祖の墓を管理してもらうそれが一致する。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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領主

主(りょうしゅ、Lehnsherr)とは、一定の土地と其処に生活する人々(領地)の封建的な支配権を有する者。.

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被官

被官(ひかん)とは、.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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角川書店

角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.

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評定衆

評定衆(ひょうじょうしゅう)とは、鎌倉・室町時代に置かれた役職の一つである。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた。.

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諏訪大社

上社神紋「諏訪梶の葉」神紋は上社が四根の梶、下社は五根の梶。 諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社。式内社(名神大社)、信濃国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「梶の葉」。 全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。旧称は諏訪神社。通称として「お諏訪さま」「諏訪大明神」等とも呼ばれる。.

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諏訪市

諏訪市(すわし)は、長野県南信地方の市。.

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諏訪御料人

諏訪御料人(すわごりょうにん、享禄2年(1530年)? - 弘治元年11月6日(1555年12月18日))は、武田晴信(信玄)の側室で武田勝頼の母。諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏の娘(太方様)。諏訪御「寮」人とも表記される。異母弟には、頼重の後室の禰々の産んだ寅王がいる。実名が不詳で、史料上においては諏訪御料人(御寮人)・諏訪御前(いずれも貴人の女性を指す尊敬語)と記されている。.

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諏訪忠厚

諏訪 忠厚(すわ ただあつ)は、信濃諏訪藩の第6代藩主。第5代藩主・諏訪忠林の四男。.

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諏訪忠尋

諏訪 忠尋(すわ ただひろ、元禄8年10月16日(1695年11月22日) - 享保2年4月23日(1717年6月2日))は、信濃高島藩の第4代藩主諏訪忠虎の三男で嫡男。母は越前松平昌勝の娘。正室は永井直敬の娘。官位は従五位下、出雲守。幼名は菊之丞、小太郎。 宝永元年(1704年)9月15日、将軍徳川綱吉に初御目見する。宝永6年(1709年)6月27日に従五位下出雲守に叙任されるが、享保2年(1717年)に家督相続前に早世した。戒名は景耀院霊淵空恵。代わって嫡子には分家旗本から忠林が迎えられた。.

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諏訪忠倫

諏訪 忠倫(すわ ただみち、元文5年7月26日(1740年8月18日) - 延享4年8月16日(1747年9月20日))は、信濃高島藩の第5代藩主諏訪忠林の長男で嫡男。母は第4代藩主諏訪忠虎の娘。幼名は小太郎。 信濃高島藩嫡子として生まれたが、幼少時に夭逝した。戒名は蘭香院妙峯仁秀童子。墓所は東禅寺。代わって、弟の忠厚が嫡子となっている。.

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諏訪忠礼

諏訪 忠礼(すわ ただあや)は、信濃諏訪藩の第10代(最後)の藩主。 嘉永6年(1853年)正月13日に諏訪頼威(第8代藩主諏訪忠恕の三男)の次男に生まれる。慶応4年(1868年)2月8日、先代藩主で伯父に当たる忠誠の養嗣子となる。同年5月15日の養父の隠居により家督を継いだ。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で高島県知事となる。同年11月20日、高島県廃止と共に免官され、東京へ移った。明治11年(1878年)10月10日に死去した。享年26。家督は養父の忠誠が再び相続した。.

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諏訪忠粛

諏訪 忠粛(すわ ただかた)は、信濃高島藩の第7代藩主。第6代藩主・諏訪忠厚の長男。.

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諏訪忠誠

諏訪 忠誠(すわ ただまさ)は、江戸時代末期の譜代大名、老中。信濃諏訪藩第9代藩主。.

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諏訪忠虎

諏訪 忠虎(すわ ただとら)は、信濃高島藩の第4代藩主。第3代藩主諏訪忠晴の三男。.

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諏訪忠林

諏訪 忠林(すわ ただとき)は、信濃高島藩の第5代藩主。高島藩分家の旗本・諏訪頼篤の次男。.

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諏訪忠恒

諏訪 忠恒(すわ ただつね)は、江戸時代前期の大名。信濃国諏訪藩の第2代藩主で、初代藩主諏訪頼水の長男。.

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諏訪忠恕

諏訪 忠恕(すわ ただみち)は、信濃高島藩の第8代藩主。第7代藩主・諏訪忠粛の長男。.

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諏訪忠晴

諏訪 忠晴(すわ ただはる)は、信濃高島藩の第3代藩主。第2代藩主・諏訪忠恒の長男。.

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諏訪地域

諏訪地域 諏訪地域(すわちいき)は、長野県南信地方の諏訪市、岡谷市を中心とした地域のことを指す名称で、県を10地域に分けるときに用いられる。旧諏訪郡全体と一致している。 域内人口は211,318人(2005年)。諏訪市と岡谷市を中心とする複眼構造を為すが、諏訪広域連合の本部もある諏訪市のほうがやや主力となりつつある。また最も人口が多い都市は茅野市である。.

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諏訪円忠

諏訪 円忠(すわ えんちゅう、永仁3年(1295年) - 貞治3年(1364年))は鎌倉幕府と室町幕府の奉行人。京都諏訪氏の祖。.

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諏訪神党

諏訪神党(すわしんとう)は、諏訪氏を中核として諏訪明神の氏人によって鎌倉時代に形成された武士団。神党に属する一族は「神」を本姓とする神氏を称した。また、通称に「神」を加えて(神左衛門など)諏訪神党であることを示す。.

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諏訪神社

諏訪神社(すわじんじゃ)は、「諏訪」を社名に持つ神社。.

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諏訪直頼

諏訪 直頼(すわ ただより、生没年不詳)は、南北朝時代の武将、諏訪氏当主、諏訪大社の大祝(神官)、信濃守。.

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諏訪直性

諏訪 直性(すわ じきしょう)は、鎌倉時代末期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。同一人物とされる諏訪宗経(すわ むねつね)についても本項にて取り上げる。.

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諏訪盛経

諏訪 盛経(すわ もりつね)は、鎌倉時代中期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。文永3年(1266年)以前には出家していたと推定され、法名は真性(しんしょう)。 史料における初見は、建長3年(1251年)、藤原頼嗣の祖母が死去した折、北条時頼の使者として上洛したという『吾妻鏡』の記載である。佐藤業連、平頼綱らと共に被官として政務の中枢に携わった人物であり、『建治三年記』には寄合衆としての活動が記載されている。.

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諏訪盛重

諏訪 盛重(すわ もりしげ)は、鎌倉時代中期の武士、諏訪社大祝職・北条氏得宗被官である御内人。嘉禎2年(1236年)以降に出家して蓮仏入道と号し、『吾妻鏡』においてはこちらの名前で登場することが多い。.

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諏訪盛條

諏訪 盛條(すわ もりえだ、正保2年12月5日(1646年1月21日) - 元禄8年4月3日(1695年5月15日))は江戸時代の旗本。 信濃国諏訪藩2代藩主諏訪忠恒の四男。3代藩主諏訪忠晴の弟。母は中嶋氏。子に盛就がいる。通称は右近、五郎左衛門。 寛文6年(1666年)8月21日、将軍徳川家綱に拝謁する。寛文7年(1667年)11月27日、御書院番士となり、寛文9年(1670年)12月21日廩米300俵を賜る。日光東照宮の仏殿修補の奉行を務めたことから元禄3年(1690年)黄金10枚を拝賜し、元禄4年(1691年)閏8月12日に小十人頭となる。元禄6年(1693年)12月18日には廩米200俵を加増された。 元禄8年(1695年)に江戸で死去。享年51。法名は接水。深川の恵然寺に葬られた。.

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諏訪盛政

諏訪 盛政(すわ もりまさ)は、信濃諏訪藩の家老。諏訪図書家第2代。藩主・諏訪頼水の娘婿。.

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諏訪頼常

諏訪 頼常(すわ よりつね、寛永17年9月22日(1640年11月5日) - 寛文6年5月23日(1666年6月25日))は江戸時代の旗本。通称は長次郎、右衛門太郎、求馬、主米介。 甲府徳川家家老諏訪頼郷の次男。母は内藤政長の養女(正木康盛の娘)。子に頼篤。 万治3年(1660年)6月23日、将軍徳川家綱に拝謁する。寛文元年(1661年)11月21日に父の頼郷から武蔵国本庄領・上野国藤岡領のうち500石を分知され、寄合に列する。寛文6年(1666年)死去。享年27。法名は照然。麻布の春桃院に葬られた。.

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諏訪頼久

諏訪 頼久(すわ よりひさ、寛永21年7月18日(1644年8月20日) - 享保元年9月10日(1716年10月24日))は江戸時代の旗本。 信濃国諏訪藩2代藩主諏訪忠恒の三男。3代藩主諏訪忠晴の弟。母は吉田氏。正室は坂部広慶の娘、後妻は青木義継の娘。官位は従五位下、対馬守、壱岐守。通称は右衛門。養子を迎え、岡田善次の三男・頼等を長男とし、兄頼蔭の次男・頼深を次男とする。 承応3年(1654年)11月10日、将軍徳川家綱に拝謁する。明暦3年(1657年)3月25日、兄の忠晴が家督を相続した際、同国筑摩郡1,000石(百瀬知行所)を分知され、寄合に列する。 寛文3年(1663年)11月19日に御書院番、天和元年(1681年)1月11日、御小姓組頭となる。天和2年(1682年)4月21日上野国邑楽郡・下野国安蘇郡に500石加増される。元禄3年(1690年)7月16日桐間の番頭、元禄6年(1693年)8月9日小普請となる。 宝永3年(1706年)11月27日に致仕、享保元年(1716年)9月10日に江戸で死去。享年73。白金の瑞聖寺微笑院に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。.

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諏訪頼忠

諏訪 頼忠(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将。.

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諏訪頼篤 (美濃守)

諏訪 頼篤(すわ よりあつ、寛文元年6月26日(1661年7月22日) - 宝暦3年5月19日(1753年6月20日))は、江戸時代の旗本。 高島藩初代藩主・諏訪頼水の次男・諏訪頼郷による分家。諏訪頼常(頼郷の子)の長男。通称は午之助、七左衛門。官位は従五位下・肥後守、後に美濃守。室は正木時清(内藤能登守家臣)の娘。子に頼均(婿養子、内藤信有3男)、頼均室、忠林、盛恭(諏訪盛就養子)、頼弼、江原寅親室。.

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諏訪頼隆

諏訪 頼隆(すわよりたか).

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諏訪頼高

諏訪 頼高(すわ よりたか)は戦国時代の武将、諏訪大社大祝。 天文7年(1538年)兄・頼重の命により、叔父の諏訪頼寛から諏訪大社大祝を継承する。天文11年(1542年)甲斐の武田晴信(信玄)の信濃に侵攻に抗戦するが敗れて降伏した。その後も諏訪に残るが、禰宜太夫の矢島満清の讒言にあい、甲斐に送られて自害させられた。 よりたか Category:戦国武将 Category:神職 Category:切腹した人物 Category:1528年生 Category:1542年没.

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諏訪頼豊

諏訪 頼豊(すわ よりとよ、? - 天正10年3月(1582年))は戦国時代の武将。諏訪満隣の嫡男で、諏訪頼忠の兄。信濃の諏訪氏当主。武田信玄・勝頼に仕える。官途名は越中守阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P440。通称は新六郎。.

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諏訪頼郷

諏訪 頼郷(すわ よりさと、慶長2年8月27日(1597年10月8日) - 寛文9年12月3日(1670年1月24日))は、江戸時代前期の武士。官位は従五位下若狭守、土佐守。通称は蔵千代、小源太、隼人。 信濃国諏訪藩初代藩主諏訪頼水の次男、2代藩主諏訪忠恒の弟。母は本多康重の娘。正室は内藤政長の養女(正木康盛の娘)。子に頼音、頼常。 慶長17年(1612年)に将軍徳川秀忠に拝謁する。慶長19年(1614年)には土岐定義軍に属し大坂冬の陣に参戦する。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には兄の忠恒と共に供奉する。元和6年(1620年)御小姓組に列し、廩米500俵を賜り、翌年組頭となる。 慶安元年(1648年)3月28日に御書院番頭となり、慶安2年(1649年)10月13日付で旗本から転じて徳川綱重家老となり、武蔵国・上野国に3000石を領する。さらに寛文元年(1661年)には甲斐国巨摩郡・信濃国佐久郡に替地され、6000石を領する。寛文9年(1669年)没。享年73。法名は性言。麻布の春桃院に葬られた。.

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諏訪頼蔭

諏訪 頼蔭(すわ よりかげ、寛永20年8月9日(1643年9月21日) - 享保10年10月1日(1725年11月5日))は江戸時代の旗本。 信濃国諏訪藩2代藩主諏訪忠恒の次男。3代藩主諏訪忠晴の弟。母は中嶋氏。正室は有馬康純の娘。子に頼戡、頼深(頼久の養子となる)がいる。官位は従五位下、下総守。通称は兵部。初名は頼尚(よりなお)。 承応3年(1654年)11月10日、将軍徳川家綱に拝謁する。明暦3年(1657年)3月25日、兄の忠晴が家督を相続した際、同国筑摩郡1,000石(埴原知行所)を分知され、寄合に列する。 寛文9年(1669年)9月11日、御小姓組頭となり、天和2年(1682年)4月21日上野国邑楽郡・新田郡に500石を加増される。元禄2年(1689年)閏正月26日には火付盗賊改方、御先銕炮頭、元禄5年(1692年)4月22日には盗賊追捕役、元禄8年(1695年)2月18日には御持筒頭、元禄9年(1696年)3月28日には長崎奉行に就任し、下野国河内郡に500石を加増される。元禄11年(1698年)9月26日、家臣の不祥事で解任され、閉門を言い渡される。元禄13年(1700年)5月9日に許されて小普請に入るが、出仕を憚り、元禄16年(1703年)4月25日に恩免となる。 宝永4年(1707年)12月14日に致仕。 享保10年(1725年)10月1日に江戸で死去。享年83。法名は節山。麻布の曹渓寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。.

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諏訪頼重 (南北朝時代)

諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。諏訪大社の大祝とされるが不詳。諏訪盛重または諏訪宗経(直性入道)の子。.

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諏訪頼重 (戦国時代)

280px 諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。諏訪頼隆の子。宮増丸。刑部大輔。上原城城主。諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。信濃四大将のひとり。.

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諏訪頼雄

諏訪 頼雄(すわ よりかつ)は、信濃諏訪藩の家老。諏訪図書家初代。諏訪頼忠の四男。兄頼水に家老として仕え、領内の新田開発に功績があった。.

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諏訪頼水

諏訪 頼水(すわ よりみず)は、江戸時代前期の大名。信濃諏訪藩の初代藩主。諏訪頼忠の長男。.

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諏訪頼満 (安芸守)

諏訪 頼満(すわ よりみつ)は、戦国時代の武将。信濃の戦国大名諏訪氏の当主。諏訪政満の子で、諏訪頼重の祖父。.

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諏訪頼満 (伊予守)

諏訪 頼満(すわ よりみつ、生年未詳 - 文明15年(1483年))は、室町時代の人物。信濃国諏訪郡の諏訪氏の一族。諏訪有継の子。諏訪信満の弟。子に諏訪頼長・諏訪継満がいる。諏訪大社上社の神職の最高位である「大祝(おおほうり)」を務める。伊予守。 室町時代に諏訪氏は惣領職と大祝職が分離し、大祝を務めた後に惣領職を継承する慣行が確立していた。ところが、頼満の父・有継は応永4年(1397年)10月に大祝職になった4年後に下位すると、惣領職と大祝職は完全に分離した。文安6年(1449年)に諏訪大社下社の大祝職を務める金刺氏が諏訪氏と敵対し、金刺氏は信濃守護・府中小笠原氏の小笠原政康を味方につけた。これに対して諏訪氏は府中小笠原氏と敵対する松尾小笠原氏と結び、金刺氏と抗争を繰り広げた。 諏訪氏は金刺氏を圧倒するが、諏訪氏内部で惣領家と大祝家の対立が激化し、大祝家の頼満は惣領家の諏訪信満(安芸守)と対立し、「芸州・予州大乱」と呼ばれる抗争が発生する。この抗争は一時的に終息するが、諏訪信満は上原に居館を移転する事態に発展した。 両者の対立は頼満の子・継満が大祝職を継承すると再び勃発し、継満は松尾小笠原氏や高遠継宗と結び、惣領家に対抗した。『守矢満実書留』によれば、文明15年(1483年)正月8日、継満は一族の高遠継宗や金刺興春と組んで、政満とその子息の若宮丸、政満の弟である埴原田小太郎らを饗宴の場において謀殺した。これに対して諏訪一族や社家衆は反発して惣領家に帰属し、継満を干沢城へ追い込むと諏訪郡高遠へ追放する。この時に、頼満は討ち取られている。 その後、文明16年(1484年)には諏訪政満の次男・宮法師丸(伊予守頼満とは別人の諏訪頼満。出家号は「碧雲斎」)が惣領家を継承し、さらに宮法師丸は大祝職に就任することで、惣領家と大祝家の分離も解消された。.

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諏訪頼意

諏訪 頼意(すわ よりおき)は、信濃諏訪藩の家老。諏訪図書家第4代。.

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諏訪郡

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諏訪藩

諏訪藩(すわはん)は、信濃国諏訪郡周辺を領有した藩。高島藩(たかしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高島城(長野県諏訪市)。.

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諏訪満隣

諏訪 満隣(すわ みつちか)は、戦国時代の武将。信濃国諏訪氏の一族。『諏訪系譜』によれば、通称は新太郎・官途名は伊豆守・号は竺渓斎。.

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諏訪満隆

諏訪 満隆(すわ みつたか、生年未詳 - 天文15年(1546年))、戦国時代の武将。諏訪頼満の三男。通称、薩摩守。 諏訪頼重の叔父で、兄の満隣と共に頼重を支えたが、天文11年(1542年)、頼重が武田信玄によって攻められると抗戦むなしく敗れ、武田家に降伏した。諏訪での復権を目論んだ高遠頼継と矢島満清が反乱を起こすとそれの討伐に従軍する。天文15年(1546年)信玄と諏訪御寮人との間に生まれた子(諏訪勝頼)の諏訪家継承が決定すると、不満を抱いて反乱を起こしたが鎮圧され切腹を命じられた。 みつたか Category:戦国武将 Category:1546年没.

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諏訪時継

諏訪 時継(すわ ときつぐ、生年不詳 - 建武2年8月19日(1335年9月6日))は鎌倉時代から南北朝時代の武将。諏訪頼重の子。諏訪頼継(よりつぐ、大祝)、諏訪継宗(高遠氏祖)、諏訪信継(のぶつぐ)の父。安芸守。.

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諏方大明神画詞

諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)は、諏訪大社の縁起。「諏訪大明神画詞」「諏訪大明神絵詞」「諏訪絵詞」「諏訪大明神御縁起次第」等とも表記される。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高師冬

師冬(こう の もろふゆ、生年不詳 - 正平6年/観応2年1月17日(1351年2月13日))は、南北朝時代の武将、守護大名。関東執事、武蔵・伊賀守護。高師行(もろゆき)の子で兄弟に高師秋、三戸師澄(もろずみ)。高師直の従兄弟にあたる(後に師直の猶子となる)。妻は高師泰の娘明阿。甥(弟・師澄の子)にあたる師親(もろちか)を猶子としている。官位は播磨守、三河守。 従兄弟の師直と同じく足利尊氏に仕えた。尊氏の命を受けて延元3年/暦応元年(1338年)から関東の平定に乗り出し、翌年に関東執事に就任、北畠親房・小田治久と戦い、興国4年/康永2年(1343年)冬までに関東平定を成し遂げた。功績により武蔵、次いで伊賀の守護に任じられている。興国5年/康永3年(1344年)に関東執事職を従兄弟の高重茂に交代、翌興国6年/貞和元年(1345年)の天龍寺供養においても尽力した。 正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏の次男基氏が鎌倉公方として関東に派遣されると、上杉憲顕と協力して幼少の基氏の補佐に当たる。しかし都で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派であった憲顕と対立することになる。敗れた師冬は正平5年/観応元年(1350年)末に鎌倉から没落して甲斐国の須沢城(山梨県南アルプス市大嵐)に逃れたが、そこも諏訪氏(直義派の諏訪直頼)の軍勢に包囲されることとなり、翌年1月17日、逃げ切れないことを悟り、同地で自害して果てた。享年は30代か。.

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高白斎記

白斎記(こうはくさいき)は、戦国時代の記録史料。甲斐武田氏の用務日誌などを基に成立したと考えられている日記。「高白斎」は、原筆者と考えられている武田家臣駒井政武の号。別称に『甲陽日記』、『高白斎日記』。.

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高遠城

遠城(たかとおじょう)は、長野県伊那市高遠町にある日本の城跡。兜山城の別名をもつ。桜の名所としても有名である。国の史跡に指定されている。.

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高遠頼継

遠 頼継(たかとお よりつぐ、生年未詳 - 天文21年8月16日(1552年9月4日)?)は、戦国時代の武将。信濃国の国衆で、伊那郡高遠城(長野県伊那市高遠町)城主。甲斐武田氏の家臣で信濃先方衆。諏訪郡の領主諏訪氏庶流の高遠氏の当主で、諏訪姓も称している。受領名は信濃守、紀伊守。父は満継(信濃守)で嫡男。正室は諏訪頼満の娘。.

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高遠氏

遠氏(たかとおし)は、日本の氏族の一つ。信濃国一ノ宮諏訪神社大祝諏訪氏の一門であり信濃国伊那郡高遠(現在の長野県伊那市高遠町)を中心に土着した国人である。高遠諏訪氏。 祖は高遠信員(のぶかず、名は貞信(さだのぶ)とも)とされる。彼は南北朝時代に南朝に味方した大祝諏訪頼継(よりつぐ、頼嗣とも)の子であるとも、その弟の諏訪継宗(つぐむね)の子であるともいわれる()。なお、諏訪氏の惣領は頼継と続宗の弟にあたる諏訪信継(のぶつぐ、信嗣とも、直頼の父)の系統が継承している(頼継・継宗・信継はいずれも諏訪時継の子である)。 諏訪氏の分家である高遠氏は、諏訪氏惣領職を巡ってしばしば宗家と戦い、高遠頼継の代には天文11年(1542年)に甲斐の武田晴信(信玄)と密約を結び諏訪頼重を滅ぼした。諏訪領は武田氏と分割され頼継は西半分を支配していたが、諏訪氏惣領を志向する頼継は伊那郡福与城の藤沢頼親らと武田領へ侵入し、同天文11年(1542年)9月25日の宮川の戦いにおいて武田方に敗退し、諏訪から退去した(『高白斎記』)。 天文13年(1544年)に頼継は藤沢頼親とともに武田氏に対して反乱するが敗れ、天文17年(1548年)には甲府へ出仕している(『高白斎記』)。頼継は高遠領を安堵されていたが、天文21年(1552年)には甲府へ召喚され、自害を命じられている(『高白斎記』)。高遠氏は従来頼継の死去をもって滅亡したと考えられていたが、近年は高野山成慶院に伝来する『甲斐国過去帳』の記載から、永禄5年(1562年)に諏訪惣領家を継いだと見られていた信玄四男の勝頼が高遠諏訪家を継いでいたことが指摘されている。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利義晴

足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であった『菅別記』とする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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足利茶々丸

足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)は、室町時代後期の武将。初代堀越公方の足利政知の子。父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続するが、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて各地を転戦の果てに自殺、堀越公方家は滅亡した。「茶々丸」は幼名であり、元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされる。.

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鶴岡八幡宮

岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東界隈で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある俗に三大八幡とは「大分の宇佐神宮・京都の石清水八幡宮」に「福岡の筥崎宮」または当社のいずれかを合わせた三社を指す。幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社(田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。)として官幣大社に列せられている3社は「宇佐・石清水・筥崎」であるが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」を八幡神社の代表例としている(『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。)。境内は国の史跡に指定されている。.

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跡部氏

跡部氏(あとべし)は日本の氏族。甲斐源氏庶流、小笠原氏の分流で、信濃国佐久郡跡部(長野県佐久市跡部)を本貫地とする。小笠原氏の嫡家であった伴野時長の次男、跡部長朝に始まる。.

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茅野市

茅野市(ちのし)は、長野県南信地方の市。八ヶ岳、白樺湖、蓼科高原、車山など観光資源を多く抱える諏訪地方有数の市である。本項では市制前の名称である茅野町(ちのまち)についても述べる。.

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都留郡

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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藤沢頼親

藤沢 頼親(ふじさわ よりちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国福与城主。.

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金刺盛澄

諏訪盛澄(金刺盛澄)/江戸時代『前賢故実』より。菊池容斎画 金刺 盛澄(かなさし の もりずみ、生没年未詳)は、平安時代後期の諏訪大社下宮の神官・武士。諏訪盛澄とも呼ばれる。弟に手塚光盛がいる。.

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金刺部氏

金刺部氏(かなさしべし)は日本の古代氏族の一つ。.

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長岌

長岌(ちょうきゅう、天文11年(1542年) - ?)は、戦国時代の人物。諏訪氏当主の諏訪頼重と武田信玄の妹・禰々の嫡子。幼名・寅王丸、後に千代宮丸と改名。.

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長享

長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1488年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。.

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長野県

長野県空撮画像。長野盆地、富士山、浅間山、日本アルプスなどを望む。 長野県の地形図 長野県(ながのけん)は、本州内陸部に位置する日本の県の一つ。令制国名の信濃国に因み「信州」とも呼ばれている。海に面していないいわゆる内陸県であり、大規模な山岳地があるため可住地面積率は小さい。県庁所在地は長野市。善光寺の門前町として発展し第18回冬季オリンピックの開催地となった自治体でもある。.

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雑訴決断所

雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)とは、日本の南北朝時代、いわゆる建武の新政期に朝廷に設置された訴訟機関。公家・武家出身者が混在した組織で、主に土地(所領)の相論を扱い、後には後醍醐天皇の綸旨の施行にもあたったが、建武政権の崩壊に伴い、短期間で消滅した。 ※以下、日付はすべて宣明暦によるものである。.

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推古天皇

推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。(神功皇后を含まない)歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)であるベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)、また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。『古事記』ではこの天皇までを記している。 天皇号を初めて用いた日本の君主という説もあるが、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。また、容姿端麗であった。.

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東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

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東光寺 (甲府市)

東光寺(とうこうじ)は、山梨県甲府市東光寺にある寺院。山号は法蓋山(ほうがいさん)。臨済宗妙心寺派。 本尊は薬師如来。甲府五山のひとつ。.

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東勝寺合戦

東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。.

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村上義清

村上 義清(むらかみ よしきよ)は、戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。 信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。信濃四大将のひとり。.

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栗原兵庫

栗原 兵庫(くりはら ひょうご)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。甲斐山梨郡栗原郷や東郡を支配した領主。諱は信友(のぶとも)か。栗原家は武田家の支流にあたる名族である。.

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桑原城

桑原城(くわばらじょう)は、信濃国諏訪郡(現在の長野県諏訪市四賀桑原)にあった中世の日本の城(山城)。別名を高鳥屋城(たかとやじょう)、水晶城(すいしょうじょう)など呼ばれる。長野県指定史跡。.

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桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.

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桔梗ヶ原

塩尻市の位置 キキョウは、塩尻市の花である塩尻市役所「http://www.city.shiojiri.nagano.jp/gyosei/shokai/gaiyo.html 塩尻市の概要」2011年10月1日更新、2013年6月28日閲覧。 塩尻市のアルプスが製造したワイン 桔梗ヶ原(ききょうがはら)は、長野県塩尻市の地名。.

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梶原景時

梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。.

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梅松論

『梅松論』(ばいしょうろん)は、南北朝時代の軍記物語・歴史書、全2巻。『太平記』と双璧をなす軍記物語である。.

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森川俊一

森川 俊一(もりかわ としかず、享和2年5月29日(1802年6月28日) - 文政10年7月3日(1827年8月24日))は、下総生実藩の嫡子。信濃国諏訪藩主・諏訪忠粛の次男。幼名は為三郎。 諏訪藩庶子として生まれる。文政4年(1821年)4月27日、生実藩8代藩主・森川俊知の養子となる。文政5年(1822年)2月5日、養父俊知の娘と結婚する。同年4月28日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月15日、従五位下伊賀守に叙任する。しかし、家督相続以前の文政10年(1827年)に早世。代わって、肥前国島原藩・深溝松平家から森川俊民が養子に迎えられ、嫡子となった。 法名は天亮院眞元道如居士。 Category:諏訪氏 としかす Category:諏訪藩の人物 Category:下総国の人物 Category:1802年生 Category:1827年没.

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欽明天皇

欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明天皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。.

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正一位

正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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武田信縄

武田 信縄(たけだ のぶつな)は、戦国時代の甲斐国の守護大名・戦国大名。甲斐守護職・武田氏の第17代当主。武田信玄の祖父、武田勝頼の曾祖父。 室は実名不詳の崇昌院殿(広厳院殿)。父は不詳であるが、山梨郡の国人・栗原氏の娘とする説がある。天文14年(1545年)6月19日に死去しており、信縄の孫にあたる武田晴信(信玄)は弘治2年(1556年)11月に崇昌院殿の菩提を弔うために一宮郷(笛吹市一宮町)の地を同地の広厳院に寄進し、「崇昌院殿」の法名を「広厳院殿」と改めている。 側室に山梨郡岩下村(山梨市岩下)の地侍・岩下越前守の娘がいる。実名・生没年は不詳で、『菊隠録』によれば法名は「桂岩妙英大姉」。岩下氏は武田信虎の生母とする説がある。.

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

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武田信昌

武田 信昌(たけだ のぶまさ)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名(戦国大名)。甲斐守護。本姓は源氏。家系は甲斐源氏の嫡流武田氏で武田宗家である甲斐武田氏第16代当主。武田信玄の曾祖父。 第15代当主武田信守(弥三郎)の子。正室は河内領主穴山信介の娘(兄弟に穴山信懸)。子に信縄、油川信恵、岩手縄美、松尾信賢、帰雲軒宗存、娘(小笠原清宗妻)など。『寺記』によれば諸角昌清(虎定)と山梨県甲斐市竜王の有富山慈照寺開山の真翁宗見は庶子であるとされるが、真翁宗見に関しては武蔵国の岡部氏の出自であるため、誤伝であることが指摘される。通称は五郎、落合殿。官位は刑部大輔、従五位下。.

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武田勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河尻秀隆

河尻 秀隆(かわじり ひでたか)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。黒母衣衆筆頭で、のちに織田信忠の補佐役及び、美濃岩村城主や甲斐府中城(甲府城)城主も務めた。秀隆および河尻氏に関係する文書は少なく、事跡の多くは『信長公記』や『甲陽軍鑑』、徳川氏関係の記録に記されている。.

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油川信恵

油川 信恵(あぶらかわ のぶよし/のぶさと)は、戦国時代の武将。甲斐国勝山城主。武田信玄の大叔父。.

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治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。.

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温泉寺 (諏訪市)

温泉寺(おんせんじ)は長野県諏訪市湯の脇にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は臨江山、本尊は釈迦如来。中部四十九薬師霊場7番札所。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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源義家

源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.

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源義仲

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.

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源為公

源 為公(みなもと の ためとも)は、平安時代後期の武将。甲斐守源為満の子。母は河内守源頼信女。伊那源氏の祖。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

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源満快

源 満快(みなもと の みつよし/みつやす)は、平安時代中期の武将。源経基の五男。満扶(みつすけ)とも記される。.

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溝口直溥

溝口 直溥(みぞぐち なおひろ、文政2年1月2日(1819年1月27日) - 明治7年(1874年)4月26日)は、越後新発田藩の第11代藩主。第10代藩主溝口直諒の長男。幼名は錦之助。官位は従五位下主膳正。のち従四位下。母は側室で福山氏の娘・稲美(慶寿院)。正室は石見浜田藩主・松井松平康任の娘・愛姫(死別)、継室は常陸土浦藩主・土屋彦直の娘・増姫。.

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滋野氏

滋野氏(しげのうじ)は、「滋野」を氏の名とする氏族。信濃国小県郡の氏族。姓(カバネ)は朝臣。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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木曽郡

長野県木曽郡の範囲(1.上松町 2.南木曽町 3.木祖村 4.王滝村 5.大桑村 6.木曽町 薄緑:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入した区域) 木曽郡(きそぐん)は、長野県の郡。本項では発足時の名称である西筑摩郡(にしちくまぐん)についても述べる。 以下の3町3村を含む。.

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木曾義昌

木曾 義昌(きそ よしまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭、伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利、義春、義通、娘(毛利高政正室)などがいる。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

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流鏑馬

流鏑馬(鏑流馬、やぶさめ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる。 現代では、武田流や小笠原流などの流派、神職・氏子や保存会など各地元に受け継がれている流鏑馬や、騎射競技愛好家によりスポーツ競技として行なわれたり、和装をベースにしているものの時代考証を伴わない新造の馬上弓術を流鏑馬と称したものなどがある。.

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海野平の戦い

海野平の戦い(うんのたいらのたたかい)は、戦国時代の天文10年(1541年)5月に信濃国小県郡(長野県上田市)で起きた合戦。 天文年間に甲斐国を統一した甲斐守護武田信虎と、村上義清や諏訪頼重など武田と結んだ信濃国人の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する海野棟綱、根津元直ら滋野三家(海野氏、禰津氏、望月氏)や真田氏との間で行われた。別名:海野平合戦。.

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新発田藩

新発田藩(しばたはん)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部などを治めた藩。藩庁は新発田城。藩主は溝口氏。家格は外様大名で、石高は 6万石(のち 5万石 → 10万石と推移)。.

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文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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文京区

文京区(ぶんきょうく)は、東京都の特別区のひとつ。郵便番号(上3桁)は112・113。.

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文正

文正(ぶんしょう)は、日本の元号の一つ。寛正の後、応仁の前。1466年の期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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文明 (日本)

文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.

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日野富子

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政の正室。父は蔵人右少弁・贈内大臣日野重政、母は従三位北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍足利義尚の母。従一位。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本神話

日本神話(にほんしんわ)とは日本に伝わる神話のことである。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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承久の乱

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.

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曹洞宗

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。 中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。.

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1246年

記載なし。

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1247年

記載なし。

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1333年

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1335年

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1352年

記載なし。

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1355年

記載なし。

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1397年

記載なし。

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1449年

記載なし。

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1456年

記載なし。

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1464年

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1465年

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1479年

記載なし。

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1483年

記載なし。

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1484年

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1492年

記載なし。

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1501年

金曜日から始まる。16世紀最初の年。.

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1518年

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1527年

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1528年

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1531年

記載なし。

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1535年

記載なし。

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1540年

記載なし。

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1542年

記載なし。

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1546年

記載なし。

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1562年

記載なし。

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1582年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1934年

記載なし。

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