88 関係: 壬生藩、大坂の陣、天保、天保騒動、天狗党の乱、天正、天正壬午の乱、天明、天文 (元号)、外様大名、子爵、上野国、中山道、下野国、廃藩置県、会津戦争、徳川家康、徳川氏、信濃国、北島正元、北越戦争、和田峠 (長野県)、児玉幸多、元和 (日本)、元治、筑摩県、筑摩郡、織田信長、甲州勝沼の戦い、甲府勤番、甲斐国、遺言、華族、諏訪大社、諏訪市、諏訪忠厚、諏訪忠礼、諏訪忠粛、諏訪忠誠、諏訪忠虎、諏訪忠林、諏訪忠恒、諏訪忠恕、諏訪忠晴、諏訪盛政、諏訪頼久、諏訪頼保、諏訪頼忠、諏訪頼蔭、諏訪頼重 (戦国時代)、...、諏訪頼英、諏訪頼雄、諏訪頼水、諏訪頼意、諏訪郡、諏訪氏、高島城、譜代大名、藩、長野県、松本藩、武田信玄、武田勝頼、武蔵国、本能寺の変、戊辰戦争、戦国時代 (日本)、明治、新人物往来社、文春新書、日根野吉明、日根野弘就、日根野高吉、慶長、1542年、1582年、1590年、1601年、1618年、1783年、1836年、1864年、1868年、1871年、1884年、1977年、1997年、2003年。 インデックスを展開 (38 もっと) »
壬生藩
壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した藩。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)。.
大坂の陣
大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.
天保
天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.
天保騒動
天保騒動(てんぽうそうどう)は、江戸時代後期の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し一国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。.
天狗党の乱
天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の乱ともいう。.
天正
天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.
天正壬午の乱
天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)に甲斐・信濃・上野で繰り広げられた戦いである。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。.
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天明
天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.
天文 (元号)
天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.
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外様大名
外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.
子爵
子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
中山道
五十五里塚跡、下諏訪宿 福島宿) 一里塚(岐阜県垂井町) 中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。「中仙道板橋駅の北側にある踏切が「中仙道踏切」という名称である。」、「仲仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有した。.
下野国
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
廃藩置県
廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.
会津戦争
戊辰戦争の白河口の戦いで焼失した白河小峰城 会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。 なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として別記する。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
徳川氏
徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.
信濃国
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.
北島正元
北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。.
北越戦争
北越戦争(ほくえつせんそう)は、戊辰戦争の局面のひとつとして長岡藩(現・新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘の総称である。.
和田峠 (長野県)
和田峠(わだとうげ)は中山道(中仙道)の峠で、長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある。最大標高1,531m。.
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児玉幸多
児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた文学博士。学習院大学名誉教授、学習院大学元学長、学習院女子短期大学元学長、品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。.
元和 (日本)
元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.
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元治
元治(げんじ)は日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.
筑摩県
筑摩県(ちくまけん)は、1871年(明治4年)に飛騨国および信濃国中部、南部を管轄するために設置された県。現在の長野県中信地方・南信地方、岐阜県飛騨地方と中津川市の一部にあたる。.
筑摩郡
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織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
甲州勝沼の戦い
州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つである。柏尾の戦い、勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争とも呼ばれる。板垣退助の軍勢と近藤勇の軍勢が戦った歴史に残る合戦。.
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甲府勤番
府勤番(こうふきんばん)は、江戸幕府の役職。江戸時代中期に設置され、幕府直轄領化された甲斐国に常在し、甲府城の守衛や城米の管理、武具の整備や甲府町方支配を担った。役職化される以前の、甲府城番についても本項で述べる。.
甲斐国
斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
遺言
遺言(ゆいごん、いごん、いげん)とは、日常用語としては形式や内容にかかわらず広く故人が自らの死後のために遺した言葉や文章をいう。日常用語としてはゆいごんと読まれることが多い。このうち民法上の法制度における遺言は、死後の法律関係を定めるための最終意思の表示をいい、法律上の効力を生じせしめるためには、民法に定める方式に従わなければならないとされている(民法960条)。法律用語としてはいごんと読まれることが多い。.
華族
華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.
諏訪大社
上社神紋「諏訪梶の葉」神紋は上社が四根の梶、下社は五根の梶。 諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社。式内社(名神大社)、信濃国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「梶の葉」。 全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。旧称は諏訪神社。通称として「お諏訪さま」「諏訪大明神」等とも呼ばれる。.
諏訪市
諏訪市(すわし)は、長野県南信地方の市。.
諏訪忠厚
諏訪 忠厚(すわ ただあつ)は、信濃諏訪藩の第6代藩主。第5代藩主・諏訪忠林の四男。.
諏訪忠礼
諏訪 忠礼(すわ ただあや)は、信濃諏訪藩の第10代(最後)の藩主。 嘉永6年(1853年)正月13日に諏訪頼威(第8代藩主諏訪忠恕の三男)の次男に生まれる。慶応4年(1868年)2月8日、先代藩主で伯父に当たる忠誠の養嗣子となる。同年5月15日の養父の隠居により家督を継いだ。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で高島県知事となる。同年11月20日、高島県廃止と共に免官され、東京へ移った。明治11年(1878年)10月10日に死去した。享年26。家督は養父の忠誠が再び相続した。.
諏訪忠粛
諏訪 忠粛(すわ ただかた)は、信濃高島藩の第7代藩主。第6代藩主・諏訪忠厚の長男。.
諏訪忠誠
諏訪 忠誠(すわ ただまさ)は、江戸時代末期の譜代大名、老中。信濃諏訪藩第9代藩主。.
諏訪忠虎
諏訪 忠虎(すわ ただとら)は、信濃高島藩の第4代藩主。第3代藩主諏訪忠晴の三男。.
諏訪忠林
諏訪 忠林(すわ ただとき)は、信濃高島藩の第5代藩主。高島藩分家の旗本・諏訪頼篤の次男。.
諏訪忠恒
諏訪 忠恒(すわ ただつね)は、江戸時代前期の大名。信濃国諏訪藩の第2代藩主で、初代藩主諏訪頼水の長男。.
諏訪忠恕
諏訪 忠恕(すわ ただみち)は、信濃高島藩の第8代藩主。第7代藩主・諏訪忠粛の長男。.
諏訪忠晴
諏訪 忠晴(すわ ただはる)は、信濃高島藩の第3代藩主。第2代藩主・諏訪忠恒の長男。.
諏訪盛政
諏訪 盛政(すわ もりまさ)は、信濃諏訪藩の家老。諏訪図書家第2代。藩主・諏訪頼水の娘婿。.
諏訪頼久
諏訪 頼久(すわ よりひさ、寛永21年7月18日(1644年8月20日) - 享保元年9月10日(1716年10月24日))は江戸時代の旗本。 信濃国諏訪藩2代藩主諏訪忠恒の三男。3代藩主諏訪忠晴の弟。母は吉田氏。正室は坂部広慶の娘、後妻は青木義継の娘。官位は従五位下、対馬守、壱岐守。通称は右衛門。養子を迎え、岡田善次の三男・頼等を長男とし、兄頼蔭の次男・頼深を次男とする。 承応3年(1654年)11月10日、将軍徳川家綱に拝謁する。明暦3年(1657年)3月25日、兄の忠晴が家督を相続した際、同国筑摩郡1,000石(百瀬知行所)を分知され、寄合に列する。 寛文3年(1663年)11月19日に御書院番、天和元年(1681年)1月11日、御小姓組頭となる。天和2年(1682年)4月21日上野国邑楽郡・下野国安蘇郡に500石加増される。元禄3年(1690年)7月16日桐間の番頭、元禄6年(1693年)8月9日小普請となる。 宝永3年(1706年)11月27日に致仕、享保元年(1716年)9月10日に江戸で死去。享年73。白金の瑞聖寺微笑院に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。.
諏訪頼保
諏訪 頼保(すわ よりやす)は、信濃諏訪藩の家老。諏訪図書家第8代。お家騒動「二の丸騒動」で切腹を命じられる。通称は、諏訪大助。.
諏訪頼忠
諏訪 頼忠(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将。.
諏訪頼蔭
諏訪 頼蔭(すわ よりかげ、寛永20年8月9日(1643年9月21日) - 享保10年10月1日(1725年11月5日))は江戸時代の旗本。 信濃国諏訪藩2代藩主諏訪忠恒の次男。3代藩主諏訪忠晴の弟。母は中嶋氏。正室は有馬康純の娘。子に頼戡、頼深(頼久の養子となる)がいる。官位は従五位下、下総守。通称は兵部。初名は頼尚(よりなお)。 承応3年(1654年)11月10日、将軍徳川家綱に拝謁する。明暦3年(1657年)3月25日、兄の忠晴が家督を相続した際、同国筑摩郡1,000石(埴原知行所)を分知され、寄合に列する。 寛文9年(1669年)9月11日、御小姓組頭となり、天和2年(1682年)4月21日上野国邑楽郡・新田郡に500石を加増される。元禄2年(1689年)閏正月26日には火付盗賊改方、御先銕炮頭、元禄5年(1692年)4月22日には盗賊追捕役、元禄8年(1695年)2月18日には御持筒頭、元禄9年(1696年)3月28日には長崎奉行に就任し、下野国河内郡に500石を加増される。元禄11年(1698年)9月26日、家臣の不祥事で解任され、閉門を言い渡される。元禄13年(1700年)5月9日に許されて小普請に入るが、出仕を憚り、元禄16年(1703年)4月25日に恩免となる。 宝永4年(1707年)12月14日に致仕。 享保10年(1725年)10月1日に江戸で死去。享年83。法名は節山。麻布の曹渓寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。.
諏訪頼重 (戦国時代)
280px 諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。諏訪頼隆の子。宮増丸。刑部大輔。上原城城主。諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。信濃四大将のひとり。.
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諏訪頼英
諏訪 頼英(すわ よりひで)は、信濃諏訪藩の家老。諏訪図書家第7代。お家騒動「二の丸騒動」で永牢を命じられる。通称は、諏訪図書。.
諏訪頼雄
諏訪 頼雄(すわ よりかつ)は、信濃諏訪藩の家老。諏訪図書家初代。諏訪頼忠の四男。兄頼水に家老として仕え、領内の新田開発に功績があった。.
諏訪頼水
諏訪 頼水(すわ よりみず)は、江戸時代前期の大名。信濃諏訪藩の初代藩主。諏訪頼忠の長男。.
諏訪頼意
諏訪 頼意(すわ よりおき)は、信濃諏訪藩の家老。諏訪図書家第4代。.
諏訪郡
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諏訪氏
諏訪氏(すわし)は、日本の氏族の一つ。信濃国諏訪地方の領主。諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。中世以降の通字は「頼」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「忠」(ただ)を通字としている。.
高島城
島城(たかしまじょう)は、長野県諏訪市高島にあった日本の城。諏訪の浮城や島崎城とも呼ばれる。.
譜代大名
譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.
藩
藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.
長野県
長野県空撮画像。長野盆地、富士山、浅間山、日本アルプスなどを望む。 長野県の地形図 長野県(ながのけん)は、本州内陸部に位置する日本の県の一つ。令制国名の信濃国に因み「信州」とも呼ばれている。海に面していないいわゆる内陸県であり、大規模な山岳地があるため可住地面積率は小さい。県庁所在地は長野市。善光寺の門前町として発展し第18回冬季オリンピックの開催地となった自治体でもある。.
松本藩
松本城(現存天守) 松本藩(まつもとはん)は、江戸時代に信濃国に存在した藩。藩庁は松本城。延宝年間の人口は90,000人。.
武田信玄
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.
武田勝頼
武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.
武蔵国
武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.
本能寺の変
本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).
戊辰戦争
戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
新人物往来社
株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.
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文春新書
文春新書(ぶんしゅんしんしょ、Bunshun shinsho)は、1998年10月に創刊した文藝春秋発行の新書レーベルである。 創刊第1号は高橋紘・所功共著『皇位継承』である。通常月4点刊行だが、6点や8点の月もある。新書の中では比較的重版の率が高い。 2012年1月20日に発刊した阿川佐和子著『聞く力』は、160万部を超えるベストセラーとなった。通巻1000点目となる池上彰・佐藤優共著『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』は、2015年1月時点で31万部を突破している。2015年、ISILの組織の台頭を歴史的背景から解き明かした『イスラーム国の衝撃』(池内恵著)が話題になり、10万5000部を超えるヒット作となる。.
日根野吉明
日根野 吉明(ひねの よしあき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。信濃諏訪藩主、下野壬生藩主、豊後府内藩主。日根野高吉の長男。.
日根野弘就
日根野 弘就(ひねの ひろなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃本田城主。.
日根野高吉
日根野 高吉(ひねの たかよし)は、戦国時代の武将。信濃諏訪藩(高島藩)の初代藩主。 はじめ美濃斎藤氏に仕えた。斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え、信長没後は織田信孝を経て、羽柴秀吉に仕えた。天正18年(1590年)の小田原征伐で山中城を攻略した功績を賞されて、信濃高島に3万8000石(寛政重修諸家譜では2万7000石)を与えられ、「諏訪の浮城」と呼ばれた高島城を7年かけて築城している。文禄の役では肥前名護屋に駐屯した。伏見城築城でも功を挙げている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与していたが、本戦直前の6月26日に急死した。享年62。跡を嫡男の吉明が継いだ。.
慶長
慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.
1542年
記載なし。
1582年
記載なし。
1590年
記載なし。
1601年
17世紀最初の年である。.
1618年
記載なし。
1783年
記載なし。
1836年
記載なし。
1864年
記載なし。
1868年
記載なし。
1871年
記載なし。
1884年
記載なし。
1977年
記載なし。
1997年
この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.
2003年
この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.
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