202 関係: 加納久成、加賀国、加賀騒動、加賀藩、お家騒動、右大臣、名古屋市、大名、大聖寺藩、大聖寺新田藩、威仁親王妃慰子、子爵、守護代、富山藩、尾張国、岩沢愿彦、上野国、上杉氏、中川区、丹波国、七日市藩、三つ葉葵、三条西実条、幕末、庶家、五奉行、伯爵、佐脇良之、御家門、侯爵、徳川家康、徳川将軍家、徳川御三家、徳川秀忠、後藤基次、前田吉徳、前田孝友、前田孝中、前田孝矩、前田孝行、前田孝貞、前田孝資、前田孝興 (旗本)、前田孝本、前田孝昌、前田孝敬、前田宗辰、前田安勝、前田寄孝、前田土佐守家、...、前田利友、前田利同、前田利好、前田利孝、前田利定、前田利家、前田利尚、前田利常、前田利平、前田利幸、前田利幹、前田利久、前田利久 (藩主)、前田利之、前田利広、前田利以、前田利建、前田利弘、前田利保、前田利嗣、前田利和 (吉徳三男)、前田利和 (七日市藩主)、前田利理、前田利祐、前田利秀、前田利章、前田利精、前田利義、前田利為、前田利男 (伯爵)、前田利物、前田利益、前田利直、前田利隆、前田利聲、前田利道、前田利行、前田利見、前田利鬯、前田利謙、前田利豁、前田利貞、前田利貴、前田利興、前田利與、前田利長、前田利英、前田利考、前田利極、前田利次、前田利武、前田利民、前田利治、前田利満、前田利明、前田利春、前田利昭、前田利昌 (大聖寺新田藩主)、前田利政、前田利意、前田利慶、前田光高、前田則邦、前田知好、前田玄以、前田玄長、前田秀以、前田秀継、前田綱紀、前田直堅、前田直之、前田直会、前田直作、前田直信、前田直知、前田直行、前田直養、前田直躬、前田直良、前田直正、前田直方、前田直時、前田菊姫、前田茂勝、前田重煕、前田重靖、前田重教、前田長定、前田長種、前田速念寺、前田村、前田正勝、前田正甫、前田正虎、前田治脩、前田斉広、前田斉泰、前田斉敬、前田慶寧、石田三成、珠姫、稲生若水、織田信長、織田氏、美作後藤氏、美作菅氏、美濃国、男爵、芳春院、華族、菅原氏、諱、高家 (江戸時代)、豊臣秀吉、豪姫、賤ヶ岳の戦い、越中国、越後国、能登国、関ヶ原の戦い、藤原叙用、藤原北家、藤原利仁、自昌院、酒井美意子、東京都、松平直方 (前橋藩主)、松平近信、村川浩平、村井長堅、村井長在、村井長穹、武家、氏族、江戸幕府、江戸時代、池田慶栄、溝口直正、滝川益氏、木村重勇、本草学、戦国時代 (日本)、明治維新、春香院、海東郡、斎藤氏、新発田藩、日本、摩阿姫、愛知県、愛知郡 (愛知県)、慶長。 インデックスを展開 (152 もっと) »
加納久成
加納 久成(かのう ひさなり)は、上総一宮藩の第2代藩主・加納久徴の養子であった人物である。 天保9年(1838年)、上野七日市藩主・前田利和の次男として生まれる。文久2年(1862年)閏8月に加納久徴の養子となったが、文久3年(1863年)6月に久徴に先立って死去した。享年26。 このため、上総久留里藩から黒田直静の四男・加納久恒が養子として迎えられることとなる。 Category:加賀前田氏 ひさなり Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1838年生 Category:1863年没.
加賀国
加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
加賀騒動
加賀騒動(かがそうどう)とは、江戸時代に加賀藩で起こったお家騒動のこと。伊達騒動、黒田騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。.
加賀藩
金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。.
お家騒動
お家騒動(御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代の大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業(同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。.
右大臣
右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
名古屋市
名古屋市(なごやし)は愛知県西部(尾張地方)にある市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。.
大名
大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.
大聖寺藩
大聖寺藩(だいしょうじはん)は、江戸時代に加賀国江沼郡にあって江沼郡及び能美郡の一部を領した藩である。加賀藩の支藩であり、石高は初め7万石、後に10万石となった。家紋は棒梅鉢。第三代藩主前田利直が宝永6年(1709年)に築いた別邸長流亭は国の重要文化財に指定されている。藩庁は大聖寺陣屋である。.
大聖寺新田藩
大聖寺新田藩(だいしょうじしんでんはん)は、加賀前田氏の加賀藩の支藩・大聖寺藩の新田支藩だった藩。内分分知。大名に列するも江戸定府で居所はなく、便宜上「新田藩」と呼称される。.
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威仁親王妃慰子
威仁親王妃慰子(たけひとしんのうひ やすこ、1864年3月15日(文久4年2月8日) - 1923年(大正12年)6月29日)は、日本の皇族。有栖川宮威仁親王の妃。有栖川宮家最後の皇族である。.
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子爵
子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.
守護代
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.
富山藩
富山藩(とやまはん)は、江戸時代に越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有した藩である。石高は10万石、加賀藩の支藩であった。藩主は前田氏で家格は従四位下・大広間詰・外様・城主。藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗藩の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。.
尾張国
尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
岩沢愿彦
岩沢 愿彦(いわさわ よしひこ、1921年 - )は、日本の歴史学者、東京大学史料編纂所名誉教授。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
上杉氏
上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.
中川区
中川区(なかがわく)は名古屋市を構成する16区のうちのひとつで、1937年(昭和12年)10月1日に誕生した。中川の名は中川運河から。中川区荒子は金沢100万石加賀藩の始祖前田利家の生まれ故郷である。区の西側は市内でも有数の田園地帯が広がっているが、近年になって宅地化が進んだ。庄内川の西に位置する富田地区(旧海部郡富田町)は、1955年(昭和30年)10月1日に名古屋市と合併、中川区に編入された。なお富田地区には富田支所が設置されている。.
丹波国
丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.
七日市藩
七日市藩(なのかいちはん)は、上野甘楽郡(現在の群馬県富岡市七日市)に存在した藩。藩庁は七日市陣屋(現在、跡地は群馬県立富岡高等学校となっている)。遺構として正面玄関付近1棟、中門1棟が現地に現存する。以下はすべて個人宅に移築されている。大手門(下仁田町)、裏門(富岡市七日市)、伝承南門(富岡市内)である。.
三つ葉葵
三つ葉葵・三つ葵(みつばあおい・みつあおい)は日本の家紋「葵紋」の一種で、葵の葉を3つ描いた図案の家紋のことである。通常「三つ葉葵」といえば徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」のたぐいの紋を指すことが多い。.
三条西実条
三条西 実条(さんじょうにし さねえだ、旧字体:三條西 實條 )は、安土桃山時代から江戸時代初期の公家。三条西家(家格は大臣家)当主。祖父は三条西実枝。.
幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
庶家
庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物から見て共通の祖先のいる者たちを言う(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。.
五奉行
五奉行(ごぶぎょう)は、安土桃山時代の豊臣政権末期に秀吉遺言覚書体制に基き、主に政権の実務を担った浅野長政、石田三成ら5人の政治家(奉行職にあたる)的人物達を指して呼ばれる言葉。ただし当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、「奉行」「年寄」などと呼ばれており、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで勢威の減殺を図ったのではないかと指摘されている。.
伯爵
伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.
佐脇良之
佐脇 良之(さわき よしゆき)は、戦国時代の武将。前田利家の弟。.
御家門
御家門(ごかもん)は、名家の一族を指す。単に家門ともいう。 江戸時代においては、親藩の中で、特に徳川将軍家の一族及び徳川家康の兄弟の家系の大名家、旗本家を指していう。御家門は家康の元の姓である松平姓を名乗ることを許された。御家門筆頭の越前松平家をはじめとして、御家門の多くは幕府の役職につくことはなく、将軍家の一門としての格式を重んじられた。.
侯爵
侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
徳川将軍家
徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.
徳川御三家
徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。.
徳川秀忠
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.
後藤基次
後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。.
前田吉徳
前田 吉徳(まえだ よしのり)は、加賀藩の第5代藩主。加賀前田家6代。先代藩主前田綱紀の三男。母は側室の預玄院(町、三田村氏)。前田利常と徳川頼房の曾孫にあたる。.
前田孝友
前田 孝友(まえだ たかとも、宝暦9年7月8日(1759年7月31日) - 天保3年5月25日(1832年6月23日))は、加賀藩年寄。加賀八家前田対馬家8代当主。 父は前田孝昌。子は前田孝本。通称与十郎、大炊。官位は従五位下、伊勢守。.
前田孝中
前田 孝中(まえだ たかなか、天保10年12月6日(1840年1月10日) - 安政4年2月29日(1857年3月24日))は、加賀藩重臣。加賀八家前田対馬家10代当主。 父は加賀藩年寄前田孝本。養子は前田孝敬。幼名菊丸。通称菊之丞、大炊。.
前田孝矩
前田 孝矩(まえだ たかのり、寛永4年(1627年)- 元禄6年1月7日(1693年2月1日))は、旗本の苗木山前田家の祖。初名利房。亀次郎、帯刀、又兵衛。従五位下、伊賀守、相模守、日向守。 前田利孝の次男。母は本多康俊の娘。兄に前田利意、弟妹に前田寄孝(三男、利世、加賀藩士となる前田監物家祖)、娘(浅野長賢正室)ら。 承応3年(1654年)12月27日、蔵米2,000俵を給され寄合に列する。寛文3年(1663年)11月19日小姓組番士となり、寛文8年(1668年)9月5日、目付代となり肥前国島原に赴く。寛文9年(1669年)7月8日、書院番組頭となり、同年12月25日布衣を着ることを許される。天和2年(1682年)4月21日、上野国邑楽郡、下野国新田郡で500石を加増される。天和3年(1683年)、書院番頭となり、従五位下伊賀守に叙任される。貞享元年(1684年)、土屋政直が大坂城代に就任した時、彼の元に赴く。その後、再び書院番頭に復し、元禄3年(1690年)7月、職を辞し、元禄6年(1693年)、67歳で没する。 たかのり Category:江戸幕府旗本 Category:1627年生 Category:1693年没.
前田孝行
前田 孝行(まえだ たかゆき、寛文3年10月17日(1663年11月16日) - 享保6年9月14日(1721年11月3日))は、加賀藩大年寄。加賀八家前田対馬家5代当主。 父は加賀藩年寄前田孝貞。兄弟は前田孝和、小幡長時、前田孝近。子は前田孝資、村井長堅、前田孝寧、前田孝覩、三条西公福室(前田綱紀養女)、奥村温良室。幼名萬勝。通称与十郎、対馬。官位は従五位下、美作守。名は行孝とも。.
前田孝貞
前田 孝貞(まえだ たかさだ、寛永5年(1628年)4月 - 宝永4年8月19日(1707年9月14日))は、加賀藩大年寄。加賀八家前田対馬家4代当主。 父は加賀藩人持組頭前田直正。母は安見元勝の娘。正室は本多政重の娘。子は前田孝行、前田孝和、小幡長時、前田孝近、本多政敏室。幼名長松。通称対馬、佐渡。官位は従五位下、駿河守。.
前田孝資
前田 孝資(まえだ たかすけ、天和3年7月4日(1683年8月25日) - 宝暦3年3月9日(1753年4月12日))は、加賀藩年寄。加賀八家前田対馬家6代当主。 父は加賀藩年寄前田孝行。正室は前田綱紀の娘豊姫。子は前田孝昌、今枝直郷、村井長穹。通称市之助、大炊。官位は従五位下、対馬守。.
前田孝興 (旗本)
前田 孝興(まえだ たかおき、慶安5年(1652年)- 延宝7年1月10日(1679年2月10日))は、旗本の小川町前田家の祖。前田利意の三男。初名豊昌。内匠、伊織、采女。 寛文12年(1672年)、将軍徳川家綱に拝謁し、書院番士となり、延宝2年(1674年)に蔵米300石を賜るが、延宝7年(1679年)28歳で没す。墓所は上野国甘楽郡高尾村(現・富岡市)の長学寺。家督は弟の前田孝教(たかたか)が継いだ。 寛政重修諸家譜には、前田利意の四男として、孝興の名前が見える。初名豊嘉。通称、蔵人、織部。貞享4年8月11日、29歳で没するとある。 たかおき Category:江戸幕府旗本 Category:1652年生 Category:1679年没.
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前田孝本
前田 孝本(まえだ たかもと、文化5年4月8日(1808年5月3日) - 安政3年9月12日(1856年10月10日))は、加賀藩年寄。加賀八家前田対馬家9代当主。 父は加賀藩年寄前田孝友。子は前田孝中。養子は前田本文。幼名豊之助。通称大炊。官位は従五位下、美作守。.
前田孝昌
前田 孝昌(まえだ たかまさ、享保8年10月10日(1723年11月7日) - 安永6年9月16日(1777年10月16日))は、加賀藩年寄。加賀八家前田対馬家7代当主。 父は加賀藩年寄前田孝資。弟は今枝直郷、村井長穹。子は前田孝友。通称与十郎、大炊。官位は従五位下、駿河守。.
前田孝敬
前田 孝敬(まえだ たかのり、弘化4年11月14日(1847年12月21日) - 明治21年(1888年)1月5日)は、加賀藩重臣。加賀八家前田対馬家11代当主。 父は加賀家老前田孝備。正室は奥村栄通の娘。子は前田孝。幼名健之助。通称與十郎、弾番。家紋は「角ノ内梅鉢」。.
前田宗辰
前田 宗辰(まえだ むねとき、享保10年4月25日(1725年6月5日) - 延享3年12月8日(1747年1月18日))は、加賀藩の第6代藩主。加賀前田家7代。先代藩主前田吉徳の長男。母は側室の浄珠院(以与・上坂氏)。幼名は勝丸、犬千代。通称は又左衛門。初名は利勝(としかつ)。正室は会津藩主松平正容の娘・常姫(梅園院)。続く4代の藩主重煕、重靖、重教、治脩の異母兄・長兄にあたる。.
前田安勝
前田 安勝(まえだ やすかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。前田氏の家臣。前田利春の三男。.
前田寄孝
前田 寄孝(まえだ よりたか、寛永6年(1629年)- 元禄12年6月18日(1699年7月14日))は、七日市藩初代藩主前田利孝の三男。『寛政重修諸家譜』によれば利世。主膳、大膳。加賀藩4代藩主前田光高に藩主一門として召抱えられ、3000石と上屋敷と下屋敷を拝領する。前田監物家の祖。廃藩まで代々人持組として仕えた。法名は碧雲院殿。.
前田土佐守家
前田土佐守家(まえだとさのかみけ)は、前田利家の二男前田利政を家祖とする加賀藩重臣の家系である。大名であった利政は、関ヶ原の戦いでは東軍への出兵を拒否したことにより改易となった。直之の代に前田利常に仕えて加賀八家の筆頭となり、以後、代々筆頭重臣の地位を占めた(加賀八家は家老ではなく、より格上の存在である)。家禄は1万1,000石であり、加賀八家の中で最も少ない。 土佐守家は、藩主家の前田氏や、同じく加賀藩重臣で藩祖利家の女婿でもある前田長種を祖とする前田氏との区別の為もあり、歴代当主の内4人が土佐守を叙任されていることに因んで称され、別に「直之系前田家」とも称される。近江国にあった芳春院の化粧領を知行地としたため、近江守に叙任されることもあった。定紋は「瓜輪に梅鉢」。明治に至り、直行が男爵を授けられて華族に列した。現在も家系は存続している。.
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前田利友
前田 利友(まえだ としとも)は、越中富山藩の第11代藩主。.
前田利同
前田 利同(まえだ としあつ)は、越中富山藩の第13代(最後)の藩主。のち伯爵。.
前田利好
前田 利好(まえだ としよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏(加賀藩)の家臣。.
前田利孝
前田 利孝(まえだ としたか、文禄3年(1594年)- 寛永14年6月4日(1637年7月25日))は、上野七日市藩の初代藩主。七日市藩前田家初代。 前田利家の五男。母は明運院(お幸和)。正室は本多康俊の娘。子に前田利意(長男)、前田孝矩(次男、旗本の苗木山前田家祖)、前田寄孝(三男、利世、加賀藩士となる前田監物家祖)、娘(浅野長賢正室)ら。官位は従五位下、大和守。 父・利家の死後、兄の利長が徳川家康と本多正信が画策した「家康暗殺計画」の疑惑をかけられたため、その弁明の証として利長の生母・芳春院(まつ)と共に人質として江戸に送られて幼年期を過ごした。大坂の陣では徳川方として参戦して武功を挙げたことから、元和2年(1616年)12月26日、七日市に1万石の所領を与えられた。 寛永14年(1637年)6月4日に死去し、跡を子の利意が継いだ。享年44。利孝の七日市藩領は、加賀の前田本家が参勤交代する際の中継地として、以後重要な役割を果たすこととなる。 としたか *01 Category:1594年生 Category:1637年没.
前田利定
前田 利定(まえだ としさだ 1874年12月10日 - 1944年10月2日)は、日本の政治家、華族(子爵)。逓信大臣(第26代)、農商務大臣(第34代)を務めた。東京府出身。.
前田利家
前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。.
前田利尚
前田 利尚(まえだ としひさ)は、上野七日市藩の第7代藩主。七日市藩前田家7代。.
前田利常
前田 利常(まえだ としつね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩第2代藩主。加賀前田家3代。.
前田利平
前田 利平(まえだ としひら)は、加賀大聖寺藩の第11代藩主。 文政6年(1823年)12月22日、第9代藩主・前田利之の六男として大聖寺で生まれる。天保9年(1838年)、異母兄で第10代藩主の利極が死去したため、その養子として跡を継いで藩主となる。財政悪化により、倹約を強化し、さらに10万石の格式を元の7万石に戻して歳出を抑え、維持費のかかる居館の処分などを図ったが、いずれも本家加賀藩が反対したために失敗している。また、文治の奨励も行なった。 嘉永2年(1849年)7月7日、大聖寺で死去した。享年27。跡を本家からの養子の利義が継いだ。 としひら *11 Category:1824年生 Category:1849年没.
前田利幸
前田 利幸(まえだ としゆき)は、越中富山藩の第5代藩主。.
前田利幹
前田 利幹(まえだ としつよ)は、越中富山藩の第9代藩主。.
前田利久
前田 利久(まえだ としひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。前田利春の長男。養子に前田利益。.
前田利久 (藩主)
前田 利久(まえだ としひさ)は、江戸時代の大名。越中富山藩の第7代藩主。 宝暦12年(1762年)3月16日、第5代藩主・前田利幸の長男として富山で生まれる。父・利幸が死去した時に生まれて間もなかったため、家督は叔父・利與が継いだ。宝暦13年(1763年)8月16日に利與の養子となり、安永6年(1777年)11月8日、利與の隠居に伴い家督を継いで第7代藩主に就いた。 天明7年(1787年)8月7日に死去した。享年26。利與の子で従弟にあたる利謙が養子として跡を継いだ。 としひさ *07 Category:1762年生 Category:1787年没.
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前田利之
前田 利之(まえだ としこれ)は、加賀大聖寺藩の第9代藩主。.
前田利広
前田 利広(まえだ としひろ、正保2年9月19日(1645年11月7日)- 元禄6年7月9日(1693年8月10日))は、上野国七日市藩の第3代藩主。七日市藩前田家3代。 第2代藩主・前田利意の長男。正室は三浦安次の娘。子に前田利慶(長男)、前田利英(次男)がいる。通称、宮内。 正保2年(1645年)9月19日、七日市で生まれる。貞享2年(1685年)、父の死去により家督を継ぎ、藩主となる。元禄元年(1688年)、大坂御加番代を務めた。元禄6年(1693年)7月9日、49歳で死去し、跡を長男の利慶が継いだ。法号は鶴性院殿然山宗廊大居士。墓所は群馬県富岡市の長学寺。 『土芥寇讎記』に拠れば、女性に溺れることもなく、「善ありて悪なし」の「誉の将」とされている。その評価は「父親と比べて抜群に良い」ともされている。 としひろ *03 Category:1645年生 Category:1693年没.
前田利以
前田 利以(まえだ としもち)は、上野七日市藩の第9代藩主。七日市藩前田家9代。.
前田利建
前田 利建(まえだ としたつ、1908年(明治41年)1月15日 - 1989年(平成元年)9月19日)は、加賀前田家17代当主。17代当主前田利為の子で、母は漾子(前田利嗣長女)。夫人は侯爵で鳥類学者だった黒田長禮の長女、政子。嫡男は18代前田家当主前田利祐。 従四位侯爵。異母妹弟に酒井美意子、前田利弘がいる。宮内省式部官兼主猟官をつとめた。 夫人の政子は歌人でもあった。 石川県七尾市には『よもゝとせ過ぎにし昔しのびつゝ つといて祝ふ今日のよろこひ』の歌碑が建立されている。.
前田利弘
前田 利弘(まえだ としひろ、1929年(昭和4年)2月24日『平成新修旧華族家系大成』下巻、536頁。 - )は、昭和期の華族(子爵)。.
前田利保
前田 利保(まえだ としやす)は、越中富山藩の第10代藩主。.
前田利嗣
前田 利嗣(まえだ としつぐ、安政5年4月19日(1858年5月31日) - 1900年(明治33年)6月14日)は加賀前田家第15代当主。字は推永、号は育峰。.
前田利和 (吉徳三男)
前田 利和(まえだ としかず、享保20年9月17日(1735年11月1日) - 宝暦9年3月23日(1759年4月20日))は、加賀藩の第5代藩主前田吉徳の三男。母は側室の真如院。第6代から第10代の藩主5人の異母兄弟(宗辰、重煕の異母弟、重靖、重教、治脩の異母兄)に当たる。幼名は勢之佐。.
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前田利和 (七日市藩主)
前田 利和(まえだ としよし)は、上野七日市藩の第10代藩主。七日市藩前田家10代。.
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前田利理
前田 利理(まえだ としただ)は、上野七日市藩の第6代藩主。七日市藩前田家6代。.
前田利祐
前田 利祐(まえだ としやす、1935年(昭和10年)11月6日 - )は、加賀前田家18代当主。宮内庁委嘱掌典。全国石川県人会連合会会長。関東東京石川県人会会長。四高記念文化交流館初代館長。.
前田利秀
前田 利秀(まえだ としひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。前田氏の家臣。今石動城主。前田秀継の子(次男か)。通称は又次郎。秀次、俊秀、利次、利継とも。.
前田利章
前田 利章(まえだ としあきら)は、江戸時代の大名。加賀大聖寺藩の第4代藩主。.
前田利精
前田 利精(まえだ としあき)は、加賀大聖寺藩の第6代藩主。.
前田利義
前田 利義(まえだ としのり)は、加賀大聖寺藩の第12代藩主。 天保4年(1833年)2月18日、加賀藩主前田斉泰の三男として金沢で生まれる。嘉永2年(1849年)に大聖寺藩の第11代藩主利平が死去したため、その養子として跡を継いだ。安政2年(1855年)4月20日に江戸で死去した。享年23。 跡を弟で養子の利行が継ぐことになるが、後を追うようにすぐに死去した。 *12 Category:幕末の大名 Category:幕末加賀藩の人物 Category:幕末大聖寺藩の人物 としのり としのり Category:1833年生 Category:1855年没.
前田利為
前田 利為(まえだ としなり、1885年(明治18年)6月5日 - 1942年(昭和17年)9月5日)は、日本の華族、陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。旧加賀藩主前田本家第16代当主(侯爵)である。.
前田利男 (伯爵)
前田 利男(まえだ としお、1886年(明治19年)11月4日 - 1966年(昭和41年)12月29日『平成新修旧華族家系大成』上巻、533-535頁。『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』29頁。)は、大正・昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧姓・溝口、旧名・正男。.
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前田利物
前田 利物(まえだ としたね)は、加賀大聖寺藩の第7代藩主。.
前田利益
前田 利益(まえだ とします)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。小説や漫画の影響で、現在では前田慶次/慶次郎の通称で知られるが、宗兵衛、利益、利太、利大、利貞など複数の名前を用いており、道号でも、穀蔵院飄戸斎(こくぞういん ひょっとこさい)や穀蔵院忽之斎(こくぞういん ひょつとさい)、または龍砕軒不便斎(りゅうさいけん ふべんさい)と時期によって名乗りが異なる。 滝川一族の出身で、前田利家の義理の甥。子は一男五女をもうけた。兜は、南蛮笠式兜。.
前田利直
前田 利直(まえだ としなお)は、江戸時代の大名。加賀大聖寺藩の第3代藩主。.
前田利隆
前田 利隆(まえだ としたか)は、越中富山藩の第4代藩主。 元禄3年(1690年)11月11日、第2代藩主・前田正甫の五男として富山で生まれる。宝永2年(1705年)11月27日に元服する。宝永3年(1706年)8月21日、兄で第3代藩主の利興から150人扶持の知行を与えられる。享保9年(1724年)6月に兄・利興の養子となり、兄が7月18日に隠居したため家督を継いで第4代藩主となる。 しかし、自らが寵愛する藩士だけを重用し、頻繁に加増を繰り返したりして財政難を招き、借金や倹約令、年貢取立ての強化、享保16年(1731年)の銀札発行なども効果は無かった。延享元年(1744年)12月20日に死去した。享年56。跡を長男の利幸が継いだ。 としたか *04 Category:1690年生 Category:1745年没.
前田利聲
前田利聲(まえだ としかた)は、越中富山藩の第12代藩主。.
前田利道
前田 利道(まえだ としみち)は、江戸時代の大名。加賀大聖寺藩の第5代藩主。.
前田利行
前田 利行(まえだ としみち)は、加賀大聖寺藩の第13代藩主。.
前田利見
前田 利見(まえだ としあきら)は、上野七日市藩の第8代藩主。七日市藩前田家8代。名は利晃とも記される。.
前田利鬯
前田 利鬯(まえだ としか)は、加賀大聖寺藩の第14代(最後)の藩主。.
前田利謙
前田 利謙(まえだ としのり)は、越中富山藩の第8代藩主。.
前田利豁
前田 利豁(まえだ としあきら)は、上野七日市藩の第11代藩主。七日市藩前田家11代。.
前田利貞
前田 利貞(まえだ としさだ、慶長3年3月16日(1598年4月21日)- 元和6年8月2日(1620年8月29日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。前田利家の六男、母は側室・逞正院(阿千代。越前葛野坊円福寺の五女)。幼名は乙松丸、後に七兵衛、備前、利豊。子女は前田貞里。 利家の近習であった神谷守孝に養育され、神谷氏を称す。1611年(慶長16年)11月に衣服領500石を賜い前田氏に改める。大坂の陣に従軍し、特に大坂冬の陣では兄・前田知好の陣に属し、功により5000石を加増される。両陣とも直接戦闘には参加せず、後方支援だった。1618年(元和3年)には徳川秀忠に拝謁し、御服を賜う。しかし、大坂の陣で登用した家臣を養うのが困難なほど困窮し、1620年(元和6年)6月に食録返上を願い出、同年8月に死去した。墓は金沢の野田山墓地。法名は江月院照嶺永秋大居士。 としさた Category:1598年生 Category:1620年没 ---- 前田 利貞(まえだ としさだ、宝暦5年12月21日(1756年1月22日) - 宝暦9年12月25日(1760年2月11日))は、江戸時代前期の人物。大聖寺藩第5代藩主・前田利道の長男。母は前田利隆の娘。幼名は亀丸。加賀大聖寺藩の嫡子として生まれたが、1759年(宝暦9年)に夭逝した。 Category:大聖寺藩の人物 Category:1756年生 Category:1760年没.
前田利貴
前田 利貴(まえだ としたか、1917年(大正6年)2月4日 - 1948年(昭和23年)9月9日)は日本の軍人。最終階級は陸軍大尉。.
前田利興
前田 利興(まえだ としおき)は、越中富山藩の第3代藩主。.
前田利與
前田 利與(まえだ としとも)は、越中富山藩の第6代藩主。.
前田利長
前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は篠原一計の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589年)頃に利長と改名する。若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。.
前田利英
前田 利英(まえだ としふさ、元禄2年3月17日(1689年5月6日) - 宝永5年2月15日(1708年4月5日))は、上野国七日市藩の第5代藩主。七日市藩前田家5代。 第3代藩主・前田利広の次男。母は三浦安次の娘。幼名、長十郎。官位は不詳。 元禄8年(1695年)、兄で先代藩主の利慶が死去、もしくは病に倒れたときに家督を継いで藩主となったと言われている。元禄13年(1700年)、将軍徳川綱吉に御目見した。宝永5年(1708年)1月頃から病に倒れる。嗣子がなく、一族(初代藩主・利孝の曾孫で又従弟にあたる)の利理を養嗣子として迎えて、2月15日に七日市陣屋で死去した。墓所は群馬県富岡市の長学寺。 としふさ *05 Category:1689年生 Category:1708年没.
前田利考
前田 利考(まえだ としやす)は、加賀大聖寺藩の第8代藩主。.
前田利極
前田 利極(まえだ としなか)は、加賀大聖寺藩の第10代藩主。 文化9年(1812年)10月21日、第9代藩主・前田利之の次男として江戸で生まれる。長兄・造酒丞が早世したために世子となる。天保7年12月10日(1837年1月16日)の父の死去により、天保8年(1837年)2月13日に家督を継いで藩主となる。 天保9年(1838年)9月12日に死去した。享年27。跡を弟で養子の利平が継いだ。 としなか *10 Category:1812年生 Category:1838年没.
前田利次
前田 利次(まえだ としつぐ)は、越中富山藩の初代藩主。.
前田利武
前田 利武(まえだ としたけ、元治元年12月11日(1865年1月8日) - 1890年(明治23年)4月23日)は、前田侯爵家の分家の男爵。金沢藩主前田斉泰の十二男。 1881年(明治14年)3月に分家し、特旨によって華族に列せられる『平成新修旧華族家系大成』下、p.532。明治16年(1883年)1月にイギリス、ケンブリッジのキングス・カレッジに留学する。明治17年(1884年)7月、華族令が公布されると男爵に叙爵され、同年暮にカレッジを卒業した。1890年(明治23年)に死去した。.
前田利民
前田 利民(まえだ としもと、文化3年9月3日(1806年10月14日) - 明治4年1月20日(1871年3月10日))は、富山藩9代藩主の前田利幹の次男。 幼い頃から鳥類を可愛がり、本草学を志し、文政10年(1827年)に江戸へ学びに出て、自分の屋敷で野鳥などのたくさんの鳥類を飼育し、その姿を写生し描いていた。「禽譜図解」など鳥類を描いた軸物などがある。子息の前田則邦は初代富山市長になった。利民の曾孫の神前啓太郎が、2001年に黒部市に「禽譜図解」や画帳20点を黒部市に寄贈した。 Category:幕末富山藩の人物 としもと Category:1806年生 Category:1871年没.
前田利治
前田 利治(まえだ としはる)は、江戸時代前期の大名。加賀国大聖寺藩初代藩主。小堀政一(遠州)から手ほどきを受けた茶人であった。 元和4年(1618年)、加賀藩2代藩主・前田利常の三男として誕生。 寛永16年(1639年)、父・利常が隠居するにあたり、江沼郡を中心に7万石を分封される。当初、鉱山の開発に力を注ぎ、領内に金山銀山を発見した。この鉱山開発の途上で見つかった良質の陶土と、利治が茶人であったことが、後の九谷焼の生産に結びついた。 万治3年(1660年)、死去。享年43。跡を弟で養子・利明が継いだ。 としはる *01 Category:江戸時代の茶人 Category:1618年生 Category:1660年没.
前田利満
前田 利満(まえだ としみつ、1905年(明治38年)1月24日『平成新修旧華族家系大成』下巻、536頁。 - 不詳)は、明治から昭和期の実業家、華族(子爵)。.
前田利明
前田 利明(まえだ としあき)は、江戸時代前期の大名。加賀国大聖寺藩2代藩主。 寛永14年(1637年)12月14日、加賀藩2代藩主・前田利常の庶子(五男)として金沢に生まれる。万治2年(1659年)、兄で大聖寺藩初代藩主・前田利治の養子となり、翌万治3年(1660年)に利治が死去したため跡を継いで藩主となる。 治水工事や新田開発、用水路改修や製紙業の導入など、富国政策を重視して藩政を確立した名君であった。元禄5年(1692年)5月13日に死去し、跡を子の利直が継いだ。 1917年(大正6年)11月17日、贈正四位。 としあき *02 Category:1638年生 Category:1692年没.
前田利春
前田 利春(まえだ としはる、? - 永禄3年7月13日(1560年8月4日))は、戦国時代の武将、尾張国荒子城主。別名利昌(としまさ)。蔵人、縫殿助。父は前田利隆とされるが、史料が乏しく実在したかどうかは疑問である。利春は事実上の加賀藩前田氏などの始祖。室は竹野氏の娘(長齢院)。子に前田利久、前田利玄、前田安勝、前田利家、佐脇良之、前田秀継、寺西九兵衛室。 尾張国で林秀貞の与力として、織田氏に仕え、2千貫を知行して尾張荒子城(名古屋市中川区)の城主を務める。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの後に死去。戒名は道機庵休岳居士。 跡を嫡男の利久が継いだ。墓所は石川県七尾市の長齢寺、肖像画も所蔵されている。 としはる category:戦国武将 Category:尾張国の人物 Category:1560年没.
前田利昭
前田 利昭(まえだ としあき)は、上野七日市藩の第12代(最後)の藩主。七日市藩前田家12代。子爵。.
前田利昌 (大聖寺新田藩主)
前田 利昌(まえだ としまさ)は、江戸時代中期の大名。大聖寺新田藩主。大聖寺藩の2代藩主前田利明の四男。 元禄5年(1692年)、3代藩主である兄利直から1万石を分知され大聖寺新田藩を立藩、大名となる。同藩は領地を持たず、大聖寺藩の収入分から1万石分を与えられただけで、独自の藩庁などの行政機関は持っていなかった。 宝永6年(1709年)1月15日、東叡山寛永寺で行われた5代将軍徳川綱吉の葬儀に際し、中宮使饗応役を命じられる。同役の大准后使饗応役は以前から仲が悪かった大和国柳本藩主の織田秀親であった。2月15日、翌日の将軍徳川家宣の参詣の行事について書かれた老中の奉書が届けられた際、饗応役はそれを回覧することになっていたが、秀親は利昌に見せようとしなかった。その場で利昌は一時小刀に手をかけるも、赤穂事件のことを考えて一旦踏みとどまった。翌2月16日、利昌は寛永寺吉祥院の宿坊で、家老の木村九左衛門に秀親を後ろから羽交い絞めにさせた上で刺殺した。その後山城国淀藩主石川義孝に預けられ、同月18日に切腹となった。凶行前日、利昌は家臣の木村九左衛門に赤穂事件について感想を求め、木村は「内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられた」と返答したという。 大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されたが、すぐに大聖寺藩に還付された。.
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前田利政
前田 利政(まえだ としまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。前田利家の次男、母はまつ。.
前田利意
前田 利意(まえだ としもと、寛永2年6月17日(1625年7月21日) - 貞享2年4月27日(1685年5月29日))は、上野国七日市藩の第2代藩主。七日市藩前田家2代。.
前田利慶
前田 利慶(まえだ としよし、寛文10年(1670年)- 元禄8年9月7日(1695年10月14日))は、上野国七日市藩の第4代藩主。七日市藩前田家4代。 第3代藩主・前田利広の長男。母は三浦安次の娘。右京。幼名は孫八郎。 元禄6年(1693年)、父の死去により家督を継いで藩主となる。同年11月28日、下総国古河藩主・松平忠之の改易のとき、古河の在番を務めた。元禄8年(1695年)8月頃に病に倒れる。嗣子がなかったため、家督をこの時に弟の利英に譲ったといわれているが、利英は利慶の死後に家督を継いだとも言われており、定かではない。元禄8年(1695年)9月7日、江戸滝口邸にて死去した。享年26。墓所は群馬県富岡市の長学寺。 としよし *04 Category:1670年生 Category:1695年没.
前田光高
前田 光高(まえだ みつたか)は、加賀藩の第3代藩主。加賀前田家4代。第2代藩主前田利常の長男。母は第2代将軍徳川秀忠の娘・珠姫(天徳院)。正室は第3代将軍徳川家光の養女で水戸藩主徳川頼房の娘・大姫。徳川家康の外曾孫で、藩祖前田利家の嫡孫である。 子に前田綱紀(長男、初め綱利)、万菊丸(次男)。幼名は犬千代(いぬちよ)。初名は利高(としたか)。.
前田則邦
前田 則邦(まえだ のりくに、弘化4年(1847年) - 大正4年(1915年))は、富山県の政治家、実業家、画家。.
前田知好
前田 知好(まえだ ともよし、天正18年12月8日(1591年1月3日) - 寛永5年6月23日(1628年7月24日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。前田利家の三男、母は利家側室の在(金晴院)。初名は利包(としかね)。通称は三九郎、修理。2度目の出家後は、有庵と号す。子女は前田好次(よしつぐ)、前田知辰(ともたつ)、前田辰正(たつまさ)。.
前田玄以
前田 玄以(まえだ げんい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶・武将・大名。豊臣政権の五奉行の1人。.
前田玄長
前田 玄長(まえだ はるなが)は、江戸時代中期(18世紀前半)に活動した高家旗本。公家の押小路家の出身で、享保16年(1731年)から宝暦2年(1752年)まで21年にわたり高家肝煎を務めた。武家となるのに際して前田玄以との所縁から前田を称し、高家前田家(藤原北家公季流)初代当主となった。.
前田秀以
前田 秀以(まえだ ひでもち)は、安土桃山時代の武将。前田玄以の長男。キリシタン武将でもある。.
前田秀継
前田 秀継(まえだ ひでつぐ)は戦国時代の武将。津幡城、今石動城、木舟城主。前田利春の六男。母は長齢院(竹野氏女)。前田利家の弟。.
前田綱紀
前田 綱紀(まえだ つなのり)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家5代。先代藩主前田光高の長男。母は徳川家光の養女・水戸藩主徳川頼房の娘、清泰院。.
前田直堅
前田 直堅(まえだ なおかた、天和3年5月17日(1683年6月11日) - 享保14年8月9日(1729年9月1日))は江戸時代の人物。加賀八家筆頭前田土佐守家の4代目当主。父は土佐守家3代・前田直作。兄弟は兄二人が確認されている。子は土佐守家5代・前田直躬、大音厚曹など。官位は従五位下近江守。直堅関係の現存する記録は石川県史に二点が確認できる。.
前田直之
前田 直之(まえだ なおゆき、慶長9年3月9日〈1604年4月8日〉 - 延宝2年10月18日〈1674年11月15日〉)は、江戸時代前期の加賀藩前田氏の家臣。前田利政の長男。前田土佐守家の2代当主。母は側室嶺雲院。幼名は又若。初名は利直、後に政之。通称は肥後、三左衛門。子は前田直作など。.
前田直会
前田 直会(まえだ なおより、弘化4年8月24日(1847年10月3日) - 安政3年2月13日(1856年3月19日))は、江戸時代後期の加賀八家筆頭前田土佐守家の第9代当主で、第8代当主前田直良の養子。実父は加賀藩13代藩主前田斉泰。母の名は不明。通称は静之介。旧字体表記は直會。 わずか1歳にして直良の養子となり、養父よりさらに幼い5歳にして家督を継承する。1856年、10歳で夭折した。 Category:加賀藩士 なおより なおより Category:1847年生 Category:1856年没.
前田直作
前田 直作(まえだ なおなり、寛永19年2月2日(1642年3月2日) - 元禄2年4月9日(1689年5月27日))は、江戸時代前期の加賀藩の加賀八家筆頭前田土佐守家の3代目当主。父は土佐守家2代・前田直之。母は直之正室・国(小幡氏)。子は4代・前田直堅、本多政質室。通称備後。 延宝7年(1679年)付けの知行充行状が現存する。貞享3年(1686年)、藩主前田綱紀が加賀八家の制を制定すると同時にこの筆頭となり人持組頭に就任した。 Category:加賀藩士 なおなり category:1642年生 category:1689年没.
前田直信
前田 直信(まえだ なおのぶ、天保12年閏1月5日(1841年2月25日) - 明治12年(1879年)12月9日)は、幕末の加賀藩における加賀八家筆頭前田土佐守家の第10代当主。第8代当主前田直良の長男。母は篠井氏。子は前田信兆、前田直行。 嫡男であったが、藩主前田斉泰の子静之介が養子として入ってきたため、母の実家に養子に出される。1856年、元服して前田直会と名乗っていた静之介が亡くなったため、呼び戻され家督を相続する。藩主斉泰が将軍徳川家茂に供奉して上洛する際には供を務めたり、京都守衛の藩兵を率いて上洛した。率兵上洛時には正確な情勢認識のもと文書を出しており、家臣に対しても町人とのトラブルを避けるよう注意を喚起している。 大政奉還後は加賀藩大参事、明治維新後は尾山神社の祀官となり祖霊に仕えた。 Category:幕末加賀藩の人物 なおのふ Category:1841年生 Category:1879年没.
前田直知
前田 直知(まえだ なおとも、天正14年(1586年) - 寛永7年9月23日(1630年10月28日))は、加賀藩人持組頭。加賀八家前田対馬守家第2代当主。 父は前田長種。母は前田利家の長女幸姫。弟は前田長時。正室は前田利長の養女牧村氏(祖心尼)、継室は前田利長の養女(長連龍の娘)竹(久香院、求光院)。子は前田直正、前田直成、前田恒知。幼名は長松。通称は美作、内記。.
前田直行
前田 直行(まえだ なおつら、慶応2年9月7日(1866年10月15日) - 昭和18年(1943年)3月10日)は、明治・大正期の華族。前田土佐守家の第11代当主。.
前田直養
前田 直養(まえだ なおやす、安永元年(1772年)12月 - 文化2年5月29日(1805年6月26日))は、加賀藩の藩士。加賀八家筆頭前田土佐守家の6代目当主前田直方の四男。幼名は内匠助。 寛政10年(1798年)7月6日に新知2,500石を受けるが、文化2年(1805年)5月29日、父に先立ち家督を継がずして34歳で亡くなった。法号は孝順院。土佐守家の家督は子の主税が継承した。.
前田直躬
前田 直躬(まえだ なおみ、正徳4年(1714年)3月 - 安永3年4月3日(1774年5月13日))は江戸時代の人物。加賀八家筆頭前田土佐守家の5代目当主。通称は主税。官位は従五位下土佐守。父は土佐守家4代・前田直堅。子は土佐守家6代・前田直方、次男前田直央(大学)、四男前田直賢、奥村栄輇室。.
前田直良
前田 直良(まえだ なおさだ、文政3年10月12日(1820年11月17日) - 嘉永4年4月6日(1851年5月6日))は江戸時代の人物。加賀八家筆頭前田土佐守家の8代目当主。父は7代目当主前田直時。母の名は不明。長男は前田直信。幼名は初丸。正室は奥村栄実の娘。官位は従五位下近江守。 父が若くして亡くなったため、9歳という幼年で家督を相続するが、父への藩主前田斉広の信頼が篤かったため、また奥村栄実の後見もあって無事職を務め上げている。父同様経済に明るかったようである。嘉永4年(1851年)、参勤交代の途上で病を発し、江戸で急逝した。遺書はあらかじめ書かれていたため家督その他の問題については何事もなかったが、周囲は相当に混乱した。現存する覚書に当時の混乱ぶりが記録されている。 なおさた Category:加賀藩士 Category:1820年生 Category:1851年没.
前田直正
前田 直正(まえだ なおまさ、慶長10年(1605年) - 寛永8年閏10月17日(1631年12月10日))は、加賀藩人持組頭。加賀八家前田対馬家第3代当主。 父は前田直知。母は牧村氏(祖心尼)。正室は安見元勝の娘。子は前田孝貞。通称左兵衛、対馬。.
前田直方
前田 直方(まえだ なおただ、寛延元年閏10月27日(1748年12月17日) - 文政6年11月17日(1823年12月18日))は江戸時代の人物。加賀八家筆頭前田土佐守家の6代目当主。父は土佐守家5代・前田直躬。兄2人がいる。子は前田直養など。土佐守家7代・前田直時は孫である。幼名、母の名は不明。通称は九八郎、内匠、三左衛門など。官位は父と同じく従五位下土佐守。 宝暦13年(1763年)元服し、家禄11000石とは別に2500石を新規に与えられ出仕した。明和3年(1766年)7月京都芳春院において、前田利家正室芳春院の百五十回忌法要を、病身の父直躬に代わって藩主名代、御法事奉行として執り行う。安永3年(1774年)、27歳で家督を相続。土佐守に叙任され直之系前田氏当主で二人目の土佐守となった。.
前田直時
前田 直時(まえだ なおとき、寛政6年(1794年)4月 - 文政11年8月7日(1828年9月15日))は江戸時代の加賀藩士。加賀八家筆頭前田土佐守家の7代目当主で、6代・前田直方の孫。父は前田直養。母の名は不明。子に前田直良。通称主税。 藩主前田斉広の信頼篤く長さ数メートルにも及ぶ長文の手紙を送られたり、参勤交代の苦労について愚痴をこぼされるなど信頼され、隠居城である竹沢御殿の造営を任せられた。斉広はよほど直時を手元においておきたかったようで、隠居後直時を専属の年寄に任じている。御殿造営について議論する姿が前田直時等画像に描かれている。このほか奥方と並んで描かれた、当時としては大変珍しい肖像も残る。 なおとき Category:加賀藩士 Category:1794年生 Category:1828年没.
前田菊姫
前田菊姫(まえだきくひめ、天正6年(1578年) - 天正12年8月21日(1584年9月25日))は、安土桃山時代の人物。前田利家の六女。羽柴秀吉の養女。母は利家の側室の隆興院。 前田利家の子に生まれ、近江金物問屋西川重元のもとで生育され、子供が無かった羽柴秀吉の養女となるが、1584年にわずか7歳で没し、西教寺に葬られた。 西教寺に肖像画が残されており、髪を美豆良のように結い、その名に因んで、右手に一本の菊の花を持ち、上畳の上には、人形や独楽などの玩具が置いてある。 滋賀県の西教寺、石川県の西方寺に肖像画がある。.
前田茂勝
前田 茂勝(まえだ しげかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。丹波亀山藩のち八上藩主。前田玄以の三男(次男とも)。.
前田重煕
前田 重煕(まえだ しげひろ、享保14年7月24日(1729年8月18日) - 宝暦3年4月8日(1753年5月10日))は、加賀藩の第7代藩主。加賀前田家8代。第5代藩主前田吉徳の次男。母は側室の民(鏑木氏・心鏡院)。幼名は亀次郎、初名は利安(としやす)。婚約者に高松藩主松平頼恭の娘・長姫。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち2番目の藩主である。.
前田重靖
前田 重靖(まえだ しげのぶ)は、加賀藩の第8代藩主。加賀前田家9代。第5代藩主前田吉徳の五男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち3番目の藩主である。.
前田重教
前田 重教(まえだ しげみち)は、加賀藩の第9代藩主。加賀前田家10代。第5代藩主前田吉徳の七男で、母は側室の流瀬(辻氏・実成院)。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち4番目の藩主である。.
前田長定
前田 長定(まえだ ながさだ、生年未詳 - 天正12年7月3日(1584年8月8日))は、戦国時代の武将。前田氏。前田城主、下之一色城主。父は前田種利。通称、与十郎、種定。兄弟に前田長俊、佐久間信盛室、森可成室、玉竜寺四世。子に前田長種武田茂敬『蟹江城合戦物語』武田茂敬(2008年)。.
前田長種
前田 長種(まえだ ながたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。加賀八家・前田対馬守家の祖。.
前田速念寺
前田速念寺(まえだそくねんじ)は、愛知県名古屋市中川区にある浄土真宗の寺院。山号は岡部山。山号は織田家の家臣であった岡部忠昌が深く速念寺に帰依し、三つ巴の家紋・器具等を寄進したことに由来する。.
前田村
前田村(まえだむら).
前田正勝
前田 正勝(まえだ まさかつ、天正9年(1581年) - 慶長18年11月21日(1613年12月22日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。前田玄以の次男(三男ともいわれる)。通称は、半十郎、半右衛門。正室は小野四郎右衛門の娘。子に前田正信、前田勝次。.
前田正甫
前田 正甫(まえだ まさとし)は、越中富山藩の第2代藩主。.
前田正虎
前田 正虎(まえだ まさとら、生没年不詳)は、戦国時代末期から江戸時代初期の武士。加賀藩士。諱は安虎とも。通称は安太夫。父は前田利益。母は前田安勝の娘。 天正15年(1587年)、義理の祖父前田利久が死去すると、その旧領のうち2000石を引き継ぎ、前田利家に仕える。天正18年(1590年)、父利益が前田家から出奔した際、正虎ら利益の妻子は加賀に留まり、それに随行しなかったという。その後、義理の従兄弟にあたる前田利長、次いで前田利常に仕えた。また加賀藩士としては書家の活動が見られ、『前田家之記』(安太夫筆記)の著し、藩の故事を後生に伝えたといわれる。子はなく七尾で没したという。 Category:戦国武将 Category:加賀藩士 まさとら Category:滝川氏.
前田治脩
前田 治脩(まえだ はるなが)は、加賀藩の第10代藩主。加賀前田家11代。第5代藩主前田吉徳の十男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち最後の藩主である。.
前田斉広
前田 斉広(まえだ なりなが)は、加賀藩の第11代藩主。加賀前田家12代。第9代藩主前田重教の次男。.
前田斉泰
前田 斉泰(まえだ なりやす)は、加賀藩の第12代藩主。加賀前田家13代。第11代藩主前田斉広の長男。.
前田斉敬
前田 斉敬(まえだ なりたか)は、加賀藩の第9代藩主前田重教の長男。第10代藩主治脩の養嗣子であったが、襲封前に没した。婚約者は紀伊藩主徳川重倫の娘・備姫。.
前田慶寧
前田 慶寧(まえだ よしやす)は、加賀藩の第13代(最後)の藩主、のち加賀藩知事。加賀前田家14代。第12代藩主前田斉泰の長男。.
石田三成
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.
珠姫
姫(たまひめ、慶長4年6月11日(1599年8月1日) - 元和8年7月3日(1622年8月9日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。前田利常の正室。 徳川秀忠と継室江(近江浅井氏)の次女で、徳川家康の内孫。姉に千姫(豊臣秀頼正室、本多忠刻正室)、妹に勝姫(松平忠直正室)、初姫(常高院の養女で京極忠高正室)、東福門院和子(後水尾天皇の妃)、弟に徳川家光(3代将軍)、徳川忠長(駿府城主)、異父姉に豊臣完子(九条幸家室)、異母弟に保科正之(会津藩初代藩主)がいる。幼名は子々姫(ねねひめ)。.
稲生若水
生 若水(いのう じゃくすい、明暦元年7月27日(1655年8月28日)- 正徳5年7月6日(1715年8月4日))は江戸時代中期の医学者・本草学者・儒学者。名は稲生宣義、字は彰信。通称、正助。若水は号。別号としては白雲道人がある。.
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.
織田氏
家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.
美作後藤氏
美作後藤氏(みまさかごとうし)は、美作国の戦国大名。利仁流の播磨後藤氏の系統という。ただし家系図は同じ魚名流の一派である秀郷流の末裔となっている。.
美作菅氏
美作菅氏(みまさかかんし)は、菅原道真で有名な菅原氏から派生した美作国の氏族。美作国勝田郡を中心に繁衍し、さまざまな支族を生んだ。 中世から武士団として活動し、美作菅家党(単に菅党・菅家とも)と呼ばれた。美作の武家の中でもその由緒は古く、名族として知られる。家紋は梅鉢紋。.
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
男爵
男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.
芳春院
芳春院(ほうしゅんいん、天文16年7月9日(1547年7月25日) - 元和3年7月16日(1617年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。名はまつ。篠原一計の子。戒名は芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼。母が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であった。.
華族
華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.
菅原氏
菅原氏(すがわらうじ)は、「菅原」を氏の名とする氏族。.
諱
諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.
高家 (江戸時代)
家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。.
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豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
豪姫
豪姫(ごうひめ、天正2年(1574年)- 寛永11年5月23日(1634年6月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。宇喜多秀家の正室。前田利家の四女。豊臣秀吉の養女。羽柴氏。南の御方、備前の方、京。樹正院。洗礼名「マリア」。.
賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。.
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越中国
越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
能登国
能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.
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藤原叙用
藤原 叙用(ふじわら の のぶもち、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。鎮守府将軍となった藤原利仁の次男。官位は従五位上・斎宮頭。敍用、信用とも呼ばれる。 10世紀の中頃、斎宮頭に任ぜられる。官職名と姓に因んで齋藤を号した。子孫は斎藤氏となり自身は斎藤氏の祖となる。その他、蔵人を務め、位階は従五位上に昇った。なお、叙用は鎮守府将軍を務めず、兄弟の有頼、有象が任ぜられている。.
藤原北家
藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.
藤原利仁
藤原 利仁(ふじわら の としひと)は、平安時代中期の武将。民部卿藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)の子。越前国敦賀の豪族藤原有仁(忌部姓?)の娘婿ともなっていた。.
自昌院
自昌院(じしょういん、元和5年12月15日(1620年1月19日) - 元禄13年7月27日(1700年9月10日))は、広島藩主浅野光晟の正室。加賀藩主前田利常の三女。母は徳川秀忠の次女・珠姫。実名は満姫(まんひめ)。 寛永12年(1635年)、徳川家光の養女として浅野光晟に嫁ぎ、三男三女を儲けた。 満姫は日蓮宗に帰依した。自昌山暁忍寺を国前寺と改名し、本堂は満姫が、その他諸堂は夫・光晟が建立し直した。.
酒井美意子
酒井 美意子(さかい みいこ、1926年(大正15年)2月18日 - 1999年(平成11年)10月5日)は、日本の評論家。旧姓・前田。侯爵・前田利為の長女。母は雅楽頭系酒井家宗家20代当主・酒井忠興の次女菊子。同家22代当主・酒井忠元の妻。.
東京都
東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.
松平直方 (前橋藩主)
松平 直方(まつだいら なおかた)は、上野前橋藩の第2代(最後)の藩知事。直基系越前松平家12代。.
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松平近信
松平 近信(まつだいら ちかのぶ)は、豊後府内藩の第9代藩主。一生系大給松平家11代。.
村川浩平
村川 浩平(むらかわ こうへい、1968年- )は日本の歴史学者(日本近世政治史)。 1992年東京理科大学理学部応用数学科卒業。 松平状の発見などで注目される。1999年歴史情報学研究所所長。.
村井長堅
村井 長竪 (むらい ながかた、元禄10年(1697年)- 宝暦7年1月4日(1757年2月21日)) は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第6代当主。 父は加賀藩大年寄前田孝行。養父は加賀藩年寄村井親長。養子は前田八十五郎、村井長穹。幼名右源太、通称主膳。初名孝通。官位は従五位下豊後守。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.
村井長在
村井 長在(むらい ながあきら、天保7年(1836年) - 明治26年(1893年)7月21日)は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第11代当主。 子に村井又兵衛。通称は雄次郎。明治維新後は恒と名乗った。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.
村井長穹
村井 長穹(むらい ながたか、元文4年(1739年) - 寛政2年2月12日(1790年3月27日))は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第7代当主。 父は加賀藩年寄前田孝資。兄は前田孝昌、今枝直郷。養父は村井長堅。子は村井長世。通称吉十郎、靱負、又兵衛。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.
武家
武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.
氏族
氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
池田慶栄
池田 慶栄(いけだ よしたか、天保5年3月23日(1834年5月1日) - 嘉永3年5月23日(1850年7月2日))は、因幡国鳥取藩11代藩主。鳥取藩池田家宗家13代。 加賀藩主・前田斉泰の四男。母は将軍・徳川家斉の娘・溶姫。正室は鹿奴藩主池田仲律の娘・聡姫(整子・延子・宝隆院)。官位は従四位上、侍従、因幡守。.
溝口直正
溝口直正 溝口 直正(みぞぐち なおまさ、安政2年2月25日(1855年4月11日) - 大正8年(1919年)10月17日)は、幕末維新期の大名。華族。越後新発田藩の第12代(最後)の藩主。第11代藩主溝口直溥の四男。幼名は誠之進。大名としての官位は従五位下伯耆守。維新後は伯爵。位階はのち従二位まで昇進した。母は側室で西村氏の娘。正室は旧近江大溝藩主分部光貞の娘久爾子、継室は某氏。.
滝川益氏
滝川 益氏(たきがわ ますうじ、大永7年(1527年) - 寛永12年(1635年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。滝川氏の一族。通称は儀太夫または新助(新介)。前田利益は次子とする説がある。妹あるいは娘は前田利久(利益の養父)室。.
木村重勇
木村 重勇(きむら しげとし)は、江戸時代後期の旗本。はじめ孝綱。七日市藩6代藩主前田利理の五男。義父は木村信祐。.
本草学
本草学(ほんぞうがく)は、中国および東アジアで発達した医薬に関する学問である。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
春香院
春香院(しゅんこういん、天正8年5月7日(1580年6月18日) - 寛永18年11月20日(1641年12月22日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。前田利家の七女、生母はまつ(芳春院)。名はおちよ。前田 千世(まえだ ちよ)。千世姫、千代姫、長姫とも。愛称はおちよ、かもじ:村井妻、しゅんもじ:春香院。.
海東郡
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斎藤氏
斉(セイ)」は「ととのえる」の意味で別の漢字であるが、江戸時代に「斎」の略字として「斉」が使用された(なお、簡体字ではそれぞれ「斋」と「斉」となり、共通性がさらに失われている)。 斎藤氏(さいとうし、)は、日本の姓氏のひとつ。。。 平安時代中頃の鎮守府将軍藤原利仁の子・叙用が齋宮頭であったことに由来する苗字とされる。藤原利仁の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展した。斎藤氏は平安時代末から武蔵など各地に移住して繁栄した。。。 斎藤氏から出た苗字は大変多いが、有力なものとして、加藤氏、富樫氏、林氏等が挙げられる。.
新発田藩
新発田藩(しばたはん)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部などを治めた藩。藩庁は新発田城。藩主は溝口氏。家格は外様大名で、石高は 6万石(のち 5万石 → 10万石と推移)。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
摩阿姫
摩阿姫(まあひめ、元亀3年(1572年) - 慶長10年10月13日 (1605年11月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。前田利家の三女、側室の子ともいわれている。初め豊臣秀吉の側室になり、秀吉の死後万里小路充房の側室となる。名は摩阿・麻阿とも。通称は加賀殿(かがどの)。.
愛知県
愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.
愛知郡 (愛知県)
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慶長
慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.