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今川貞世

索引 今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.

180 関係: かまど神半国守護南九州国人一揆南北朝時代 (日本)南北朝時代 (日本)の人物一覧南朝 (日本)古麓城名和顕興吉川弘文館吉川経見吉田兼好吉良俊氏堀越氏大友親世大宰府大内弘世大内義弘大内氏大隅国天授 (日本)太平記室町幕府室町時代室町時代の人物一覧守護守護大名安芸国寛政重修諸家譜尾崎貞兼少弐冬資少弐頼尚山城国島津伊久島津元久島津氏島津氏久川添昭二上杉憲定中風九州九州探題年中行事歌合久留米市京職京都康暦康暦の政変人物叢書二条良基...今川仲秋今川状今川範国今川範氏今川貞臣今川氏今川氏兼今川泰範今川満範延文建徳伊予国弘和引付衆征夷大将軍征西大将軍侍所徒然草応安応永応永の乱志布志城土岐頼雄北郷義久嘉暦周防国和歌備後国冷泉為秀元中国人倭寇福岡県筑後国筑前国管領細川頼之細川清氏群書類従経典田原氏能熊谷直明鎌倉公方鎌倉時代遠江国菊池城菊池容斎菊池武光菊池武朝菊池氏静岡県袋井市観応の擾乱駿河国高崎山城高麗高良山豊後国豊前国貞治足利尊氏足利将軍家足利義詮足利義満足利直冬足利直義足利満兼都城市都之城阿蘇惟村阿蘇惟武関東管領薩摩国肥後国肥前国蓑原の合戦鄭夢周長井貞広長門国良成親王難太平記逢坂関連歌李氏朝鮮松浦党正平 (日本)正徹武将歌川貞秀毛利元春水島の変永徳永和 (日本)渋川義行渋川氏渋川満頼明徳明徳の和約海蔵寺斯波義将文中文和日向国懐良親王10月5日1326年1355年1361年1367年1370年1371年1372年1374年1375年1377年1378年1379年1381年1391年1392年1394年1395年1399年1400年1402年1420年3月1日 (旧暦)3月3日 (旧暦)8月28日 (旧暦) インデックスを展開 (130 もっと) »

かまど神

札幌市西野神社の竈神鎮火札 かまど神(かまどがみ)は竈・囲炉裏・台所などの火を使う場所に祀られる神。.

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半国守護

半国守護(はんごくしゅご)とは、室町幕府が、本来は特定の国ごとに1名が定員である守護に2名の守護を補任した状態で、その片方を呼んだもの、ないし守護的な権力を持つものが二つあったため、外部からそう見なしたもの。 そもそも、一国を分割して一郡から数郡単位で守護を任命する分郡守護と呼ばれる制度があり、その延長線上で半国程度を占めたものや、一時的な措置として行われた場合など、その様態はさまざまである。分郡守護同様に、その多くが一族内部あるいは当該国に利害を持つ有力大名の間での勢力均衡の維持を目的として行われる事が多い。 近江国では、同じ佐々木氏族で北半分に京極氏が、南半分に六角氏が盤踞し、京極氏は出雲・隠岐・飛騨守護、六角氏は近江守護であった。京極氏も近江における守護権限を持っていたが、それは自己の領地に対する分郡守護にも満たない部分的なもので、京極氏自身や幕府は近江守護とみなしていなかったにも関わらず、事情をよくしらない他の者に近江半国守護とされることが多かった。 和泉国では細川氏一族2名が守護に任じられ、両名ともに和泉国全体に対する責任を負って共同統治を行っており、これも和泉半国守護として言及された。和泉両守護(和泉上守護家、和泉下守護家)の守護所はともに堺に置かれ、遵行の際も守護正員二名が共に行った。これは明徳の乱、応永の乱で反乱を起こした山名氏、大内氏がともに堺を拠点としたため、それを鎮圧した足利義満が単独守護による専制を防ぐ為に設けた特殊な複数守護体制であった。.

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南九州国人一揆

南九州国人一揆(みなみきゅうしゅうこくじんいっき)とは、南北朝時代の1377年(天授3年/永和3年)に結成された国一揆である。九州探題今川了俊と島津氏久の衝突に際して薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成したかつては了俊の主導で一揆が結成されたとする見方があったが、近年の研究では国人衆の自主的な動きから一揆が作られたとしている。。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南北朝時代 (日本)の人物一覧

南北朝時代の人物一覧は、日本の南北朝時代(1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚から1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまで)を中心とした人物の一覧である。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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古麓城

古麓城(ふるふもとじょう)は、熊本県八代市古麓町(旧 肥後国八代郡)にあった諸城の総称、近世に名付けられた城塞群である。古麓町の東側の山中に7城(曲輪)が存在したと一般に言われている。 平成26年(2014年)に「八代城跡群(やつしろしろあとぐん)」の名称で、八代城、麦島城とともに国の史跡に指定された平成26年3月18日文部科学省告示第30号。指定区域には、麦島城の瓦を製造していた平山瓦窯跡(八代市平山新町)も含まれる。。.

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名和顕興

名和 顕興(なわ あきおき、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。名和基長の子。子に名和顕年。法名は紹覚。検非違使、伯耆守、弾正大弼、従四位下に任ぜられた。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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吉川経見

吉川 経見(きっかわ つねみ)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての武将。安芸国国人・吉川氏8代当主。小倉山城主。.

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吉田兼好

吉田 兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔・卜部兼顕の子。本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。 卜部氏の嫡流は兼好より後の時代に吉田家と称するようになり、江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。また、兼好と呼ぶこともある。 日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集に『兼好法師家集』がある。.

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吉良俊氏

吉良 俊氏(きら としうじ、生没年不詳)は室町時代前期の武将。吉良満貞の子。西条城主。西条吉良氏(上吉良)2代目。幼名は三郎。従五位下、左兵衛佐。妻は今川貞世(了俊)の娘。子は吉良義尚、吉良頼氏、吉良義真。次男頼氏は奥州(武蔵)吉良氏の吉良頼治の養子となった。.

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堺(さかい)は、大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。 地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。.

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堀越氏

堀越氏(ほりこしし)は、清和源氏義国流、足利氏の一門今川氏の一派で、初代は今川貞世(了俊)である。遠江を本拠地とし当初は遠江守護職であったため、駿河今川氏に対して遠江今川氏とも呼ばれる。 また、瀬名氏(せなし)も堀越氏と同じ系統の一族のため本稿で合わせて記述する。.

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大友親世

大友 親世(おおとも ちかよ)は、南北朝時代・室町時代の武将・守護大名。豊後国大友氏の10代当主。 応安元年/正平23年(1368年)、父の氏時が死去した後、後を継いだ兄の氏継が南朝方に味方したので、北朝方として同年のうちに当主となった。 応安4年/建徳2年(1371年)、第3代将軍足利義満の命を受けて九州探題として赴任してきた今川貞世(了俊)の九州平定に協力して田原氏能らと共に南朝勢力の排除に努めたが、永和元年/天授元年(1375年)に島津氏久と共に了俊の元に招かれた際、同席した少弐冬資が了俊に暗殺されたため了俊に不信感を抱き(水島の変)、次第に了俊の勢力が拡大してきたことを恐れ、了俊に九州下向以来従っていた吉弘氏輔の弟・氏郷を殺害するなどした上、将軍義満や妻の兄弟大内義弘と共謀して了俊の失脚に一役を買った。 その後も幕府に仕えて功績を挙げ、豊後守護職の他に検非違使や惣追捕使などにも叙任されている。晩年には祖高と号した。 応永25年(1418年)に死去し、後を甥の親著が継いだ。.

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大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

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大内弘世

大内 弘世(おおうち ひろよ)は、南北朝時代の武将、守護大名。周防・長門・石見守護。多々良姓大内氏の第9代当主。大内弘幸の子。義弘、満弘、盛見、弘茂らの父。.

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大内義弘

大内 義弘(おおうち よしひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護。大内家の第25代当主。 第24代当主・大内弘世の嫡子。弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など。子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいる。幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗る。 室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築く。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎた事が有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。.

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大内氏

大内氏(おおうちし、おおうちうじ)は、日本の氏族・名字の一つ。.

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大隅国

大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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天授 (日本)

天授(てんじゅ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。文中の後、弘和の前。1375年から1381年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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室町時代の人物一覧

室町時代の人物一覧(むろまちじだいのじんぶついちらん).

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

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尾崎貞兼

尾崎 貞兼(おざき さだかね、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代初期の武将。今川了俊の四男。貞臣、名和貞継、言世は兄、満範は弟。官位は播磨守。.

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少弐冬資

少弐 冬資(しょうに ふゆすけ)は、南北朝時代の武将。少弐氏8代当主。少弐頼尚の次男。.

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少弐頼尚

少弐 頼尚(しょうに よりひさ/よりなお)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。少弐氏6代当主。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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島津伊久

島津 伊久(しまづ これひさ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名。薩摩国守護。島津氏7代当主(総州家2代当主)。.

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島津元久

島津 元久(しまづ もとひさ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。大隅・日向・薩摩守護。島津氏第7代当主(奥州家第2代当主)。島津氏6代当主島津氏久の嫡男で、母は伊集院忠国の娘。久豊の兄。子に仲翁守邦。 至徳4年/元中4年(1387年)の父の死により奥州家を継ぐ。明徳4年(1393年)、従兄の総州家当主島津伊久・守久父子の仲介役をしたことで、伊久から薩摩守護職と島津氏家宝、更に領地の川辺郡(硫黄島を含む)を譲られた。また、日向庄内の支配を図って相良前頼と衝突、応永元年(1394年)に相良前頼と連携した九州探題今川了俊の4男尾崎貞兼に北郷久秀を討ち取られたが、前頼の戦死と了俊の九州探題解任で庄内の支配が確定した。その後も、両島津家は協力して了俊に協力していた国人の入来院氏ら渋谷五氏を平定し、応永4年(1397年)には伊久の次男・忠朝と元久の異母弟・久豊が総州家・奥州家の名代として肥前国で新しい九州探題渋川満頼と会談して関係を改善するなど協調関係が続いた 新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0。 しかし応永7年(1400年)、元久は養子としていた伊久三男の久照と伊久一族である夫人とを突然に離縁し、更に薩摩に清水城を作ったことにより総州家と不仲になった(久照もしくは夫人所生の子が奥州家を継げば、一転して奥州家が総州家の影響下に置かれる可能性があったが、元久は関係を破棄することで伊久の思惑を絶ったとも解される )。新名一仁は本来奥州家の家督を継ぐべき元久の嫡男(後の仲翁守邦)が応永2年(1395年)に出家させられて元久の母方の叔父である石屋真梁の門弟とされて後に修行名目で関東に送られている不自然さと後に擁立された後継者が伊集院家出身の初犬千代丸(煕久)であったことを挙げて、伊集院氏による工作があった可能性を指摘している 。 応永8年(1401年)、渋谷五氏のうち鶴田氏を除く四氏が伊久に味方したため、奥州家・総州家は絶縁状態になり、同年の鶴田合戦で元久側が敗れると鶴田氏と共に菱刈(現・鹿児島県伊佐市菱刈)に逃亡するなどしたが、伊集院頼久・伊作久義の支援で薩摩半島掌握に成功する 。また、樺山氏や新納氏も日向進出を認めて貰う代わりに元久支援に動いたが、異母弟の久豊とは、久豊が樺山氏や新納氏と敵対する伊東祐安の娘との婚姻を結んだことに反対したのをきっかけに関係が冷却化していった 。肥後の相良氏および幕府は伊久側についたが勘合貿易等への影響を恐れ、応永11年(1404年)に幕府の調停により両家は和睦した。同年6月29日、元久は大隅・日向守護となった。応永14年(1407年)に総州家の伊久が没すると、忠久は島津忠朝の平佐城を奪い、同じ時期に伊集院頼久も総州家の支配下にあった坊津・泊津を奪った 。応永16年(1409年)9月10日には薩摩の守護も務めるようになり、翌年に元久は自派の一門・家臣を引き連れて上洛して将軍足利義持に拝謁している。なお、この際、日向にいた久豊と会談して和睦している。 その後も、領国内の国人の被官化を図って支配力を強め、明・李氏朝鮮・琉球と貿易を盛んに行なった。また、福昌寺、鹿児島神社の社殿建立も行った。 応永18年(1411年)、出陣中に病没。天授5年/永和5年(1379年)に生まれた子の仲翁守邦は出家して福昌寺の3代目住持になったため、弟の久豊と甥の伊集院煕久が後継者争いを起こした。 奥州家が勝利したことにより、本拠地は大隅から鹿児島に移り、鹿児島が島津氏の城下町として栄えていくこととなる。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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島津氏久

島津 氏久(しまづ うじひさ)は、南北朝時代の武将、守護大名である。島津氏6代当主(奥州家初代当主)、大隅・日向・筑後守護。5代当主島津貞久の4男。母は大友親時の娘。川上頼久、宗久、師久の弟。元久、久豊の父。.

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川添昭二

川添 昭二(かわぞえ しょうじ、1927年3月10日 -2018年3月22日)は、日本の歴史学者、九州大学名誉教授。.

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上杉憲定

上杉 憲定(うえすぎ のりさだ)は、室町時代前期の守護大名。関東管領、上野国・伊豆国守護。山内上杉家6代当主。.

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中風

中風(ちゅうふう、地方によって「ちゅうぶ」、「ちゅうぶう」、「ちゅうふ」などと呼ぶところもある)は、現在では脳血管障害の後遺症(偏風)である半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやまひなどを指す言葉として用いられている。中気、卒中また俗に「よいよい」ともいう。.

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九州

九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。  国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学などでは九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は13,108,027人、沖縄県を含めた8県総人口は14,524,614人である。都道府県の人口一覧#推計人口(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。.

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九州探題

九州探題(きゅうしゅうたんだい)とは、室町幕府の軍事的出先機関である。当初は鎮西管領(ちんぜいかんれい)とも称された。.

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年中行事歌合

年中行事歌合(ねんじゅうぎょうじうたあわせ)とは、貞和5年12月22日(1350年1月30日)に北朝関白二条良基主催で開かれた五十番歌合のこと。公事五十番歌合・公事百首とも。.

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久留米市

西鉄久留米駅前 西鉄久留米駅前(西口) 久留米一番街 久留米に行幸した昭和天皇(1949年5月28日) 久留米市(くるめし)は、福岡県の南部(筑後地方)にある都市。福岡市、北九州市に次いで福岡県では第3位、九州全体では第8位の人口を擁している。.

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京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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康暦

康暦(こうりゃく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。永和の後、永徳の前。1379年から1380年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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康暦の政変

康暦の政変(こうりゃくのせいへん)は、南北朝時代の天授5年/康暦元年(1379年)に室町幕府管領・細川頼之が失脚した政変である。.

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人物叢書

『人物叢書』(じんぶつそうしょ)とは、吉川弘文館より刊行されている日本史上の人物の学術伝記叢書。1958年に刊行開始し、1980年代後半に新装版に切り替わった。日本歴史学会編集。100冊を刊行した時点で第11回(1963年)の菊池寛賞を受賞している。 日本史上の人物が対象のため、大半は日本人が対象となっているが、日本史での活動が見られる来日外国人や、国姓爺のように日本と関わりのあるのみの外国人もごく稀に対象となる。また、1冊で複数人や一族(奥州藤原氏・菊池氏・浅井氏)を題材としているものもある。.

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二条良基

二条良基邸・二条殿址・京都市中京区両替町通御池上る東側 二条良基邸・二条殿御池址・京都市中京区室町通押小路下る東側 二条 良基(にじょう よしもと)は、の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。 最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度(数え方によっては4度(理由は後述))にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。.

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今川仲秋

今川 仲秋(いまがわ なかあき)は、南北朝時代後期から室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、遠江・尾張守護。今川氏の分家・遠江今川氏の第2代当主。初名は国泰(くにやす)、後に頼泰(よりやす)、仲秋と名乗る。法名は仲高(ちゅうこう)。父は今川範国、兄に範氏、貞世(了俊)、氏兼。子に貞秋(さだあき)、氏秋(うじあき)、直秋(なおあき)、国秋(くにあき)。官位は中務少輔、右衛門佐。 正平23年/応安元年(1368年)に次兄了俊の後任として侍所頭人兼山城守護に就任。続く建徳2年/応安4年(1371年)には九州探題に就任した兄に従い長門から九州肥前に下向、翌文中元年/応安5年(1372年)2月に肥前に攻めてきた菊池武政を破って筑前に上陸していた兄の軍勢と合流、大宰府を落とした。以後は兄の代官として肥前に赴き、松浦党の結集と南朝勢力の駆逐に務めた。 元中3年/至徳3年(1386年)頃に帰京、元中5年/嘉慶2年(1388年)に遠江守護に任命、翌年の3代将軍足利義満の厳島神社参詣に同行、明徳4年(1393年)に尾張守護を務め、応永2年(1395年)の義満の出家にならい出家、同年に九州探題を解任された兄と遠江を半国守護として共同統治、後年は兄の養子となった。遠江今川氏当主となるも実権は兄にあったとされるが、甥で了俊の子貞臣の後見役として貞臣を養育している。但し、遠江はもう1人の甥泰範に取り上げられている。 在任中は目立った記録はないものの、堅実な中継ぎという評価がある。応永19年(1412年)、了俊の今川状は仲秋に与えられ、以後治世の教訓、手本となり継承されていく。 肥前に残された末子の国秋(くにあき、母は九州千葉氏)は、肥前佐嘉郡を幕府より与えられ、肥前今川家(今川佐賀家)の祖となった。.

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今川状

今川状(いまがわじょう)とは、遠江今川氏の祖とされる今川貞世が1412年、養子で弟の今川仲秋に与えた指南書である。他に武芸の心得を示した『今川大双子』がある。 主に内容は書の手本書であるが、その意味は深く、人生における教訓論や治世への心構え、君主の姿勢等、謂わば帝王学を示す物であり、道徳の手引きとして後世にも広く親しまれた。 江戸時代は、寺子屋をはじめ学問所で多くの者に愛読された。また、今川と言えば『今川状』を示す代名詞ともなったという。 他『女今川』や『万民今川』といった姉妹書もある。.

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今川範国

今川 範国(いまがわ のりくに)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名。駿河今川氏の初代当主。.

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今川範氏

今川 範氏(いまがわ のりうじ)は、南北朝時代前期の守護大名。駿河今川氏の第2代当主。.

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今川貞臣

今川 貞臣(いまがわ さだおみ)は、南北朝時代から室町時代初期の武将。遠江今川氏第3代当主。今川貞世(了俊)の嫡男。父の絶大な政治力と文化面での功績に加え、長期に君臨した存在に埋没しがちの人物だが、戦略、軍略に長けた名将という評価がある。 初めは今川義範(よしのり、「義」の字は足利将軍家(室町幕府第2代将軍・足利義詮か)より偏諱を受けたものとみられる)と名乗り、のちに父・貞世の1字により貞臣に改名するが、本項では後者に統一する。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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今川氏兼

今川 氏兼(いまがわ うじかね)は、南北朝時代から室町時代初期の武将。源姓蒲原氏の祖となる。.

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今川泰範

今川 泰範(いまがわ やすのり)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、駿河・遠江守護。駿河今川氏の第3代当主。今川範氏の次男。.

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今川満範

今川 満範(いまがわ みつのり、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代初期の武将。今川貞世(了俊)の末子。貞臣、名和貞継、言世、尾崎貞兼の弟。新野殿とも呼ばれる。.

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延文

延文(えんぶん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。文和の後、康安の前。1356年から1360年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮。.

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建徳

建徳(けんとく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。正平の後、文中の前。1370年から1372年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後光厳天皇・後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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弘和

弘和(こうわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。天授の後、元中の前。1381年から1384年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇・後亀山天皇、北朝方が後円融天皇・後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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引付衆

引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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征西大将軍

征西大将軍(せいせいたいしょうぐん/ 征西将軍(せいせいしょうぐん))は、奈良・平安時代に九州や四国地方を平定するために天皇(朝廷)から任命された将軍。征戎将軍ともいう。 六国史では、続日本紀養老4年(720年)7月3日条に「征西将軍以下抄士(かじとり)に至るまでそれぞれ物を賜う」とあり、これが「征西将軍」の初見である。 また、日本紀略天慶4年(941年)5月19日条には、瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を征伐するために藤原忠文を征西大将軍に任じるとある。後に南北朝時代に南朝方が、離反した足利尊氏を征伐するために延元元年(1336年)後醍醐天皇の皇子の懐良親王を任命し、さらに正平(1366年)頃には後村上天皇の皇子の良成親王を任命した。.

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侍所

侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。.

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徒然草

徒然草の作者 吉田兼好(『前賢故実』 菊池容斎画 明治時代) 『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(兼好法師、兼好、卜部兼好)が書いたとされる随筆。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。.

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応安

応安(おうあん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。貞治の後、永和の前。1368年から1374年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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応永の乱

応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱である。.

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志布志城

志布志城(しぶしじょう)は、鹿児島県志布志市志布志町に残る中世山城。国の史跡。.

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土岐頼雄

土岐 頼雄(とき よりかつ、生年不詳 - 天授6年/康暦2年(1380年))は、南北朝時代の武将。土岐頼清(頼宗)の子で頼康、明智頼兼の弟、康貞、直氏、頼忠の兄。子に康行、島田満貞、稲木光名、詮頼、娘(今川貞世室)ら。後に揖斐頼雄を称した。.

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北郷義久

北郷 義久(ほんごう よしひさ)は、南北朝時代から室町時代前期の日向の武将。北郷氏2代当主。初代当主北郷資忠の嫡男。別名は誼久(よしひさ)。本姓は島津であり、島津誼久とも称す。.

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嘉暦

嘉暦(かりゃく)は、日本の元号の一つ。正中の後、元徳の前。1326年から1329年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時、北条貞顕、北条守時。.

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周防国

周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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冷泉為秀

冷泉 為秀(れいぜい ためひで)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。官位は従二位・権中納言。冷泉家2代当主。.

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元中

元中(げんちゅう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。弘和の後。1384年から1392年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後亀山天皇、北朝方が後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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国人

国人(こくじん、くにびと、くにゅうど)とは、広くその国の国民、住民のこと大辞泉(小学館)。 六国史(日本後紀および三代実録)において国衙領の国民または住民を指す言葉として用いられ、越前国人、大和国人、河内国人などが見える日本後紀三代実録。 また、国人領主(こくじんりょうしゅ)は中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(くにしゅう)や在国衆(ざいこくしゅう)とほぼ同義ないし明確な違いは無い。.

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倭寇

倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇.

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福岡県

福岡県(ふくおかけん)は、日本の九州地方北部にある県。県庁所在地は福岡市。2017年現在の人口は約511万人で、全国の都道府県中9位である。.

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禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である『広辞苑』「禅」。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。.

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筑後国

筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。.

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筑前国

筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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細川頼之

細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.

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細川清氏

細川 清氏(ほそかわ きようじ)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府2代将軍足利義詮の執事、伊勢・伊賀・若狭守護。.

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群書類従

『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。 塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。 歴史学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。.

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経典

経典(きょうてん、きょうでん、sūtra, スートラ、sutta, スッタ、経)とは、仏教において釈迦が説いた教えを記録した聖典のこと。.

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田原氏能

原 氏能(たわら うじよし、生年不詳 - 明徳4年(1393年))は、日本の南北朝時代から室町時代の武将。大友氏一族の田原氏出身。親貞、親昌の父。.

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熊谷直明

谷 直明(くまがい なおあき、貞和5年(1349年) - 応永10年(1403年?))は南北朝時代から室町時代の武将。安芸三入荘を根拠とする国人。熊谷氏当主。父は熊谷直経。子に在直。官途は尾張守。初名は直明(直会とも)で、後に宗直と名乗る。通称小四郎、四郎左衛門尉、二郎左衛門、法名は雲外。一般的には宗直としての名が有名だが、後代の熊谷宗直との差別のため直明を題とする。.

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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菊池城

菊池城(きくちじょう)は、熊本県菊池市隈府にある中世の山城跡で、菊池氏の本拠であった。通常、菊池氏の本城(居城)を隈府城とするので、別名で隈府城(わいふじょう)とも呼ばれる。.

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菊池容斎

菊池 容斎(きくち ようさい、天明8年11月1日(1788年11月28日) - 明治11年(1878年)6月16日)は、幕末から明治時代初期にかけての絵師。旧姓は河原。本名は量平または武保、別号に雲水无尽庵など。『前賢故実』の作者として広く知られている。.

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菊池武光

菊池 武光(きくち たけみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。菊池氏第15代当主。第12代当主・菊池武時の子で九男とも。.

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菊池武朝

菊池 武朝(きくち たけとも、正平18年/貞治2年(1363年) - 応永14年3月18日(1407年4月25日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。肥後守護代。菊池氏の第17代当主。16代当主菊池武政の子。兼朝の父。幼名は加賀丸。別名に武興。官位は右京大夫、肥後守。.

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菊池氏

菊池氏(きくち し)は、日本の氏族の一つ。本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。明治維新の立役者(維新の十傑の一人)西郷隆盛も菊池一族の末裔と伝わる。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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袋井市

袋井市(ふくろいし)は、静岡県の西部の中央に位置する市。.

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観応の擾乱

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。 この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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高崎山城

崎山 高崎山城(たかさきさんじょう)は、大分県大分市の高崎山にあった日本の城である。高崎城とも呼ばれる。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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高良山

良山(こうらさん)は福岡県久留米市の山。高牟礼山(たかむれやま)、不濡山(ぬれせぬやま)、青山山、梶山(かじやま)、琴弾山(ことひきやま)などとも呼ばれる。古来、宗教的な山として崇められ高良大社が築かれ、また、軍事的な要衝でもあったため神籠石式山城や住厭城などの遺跡が見られる。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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貞治

貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利将軍家

足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。.

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足利義詮

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利直冬

足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。 室町幕府将軍・足利尊氏の落胤尊氏の庶長子(長男)とする説もあるが、竹若丸に次いで次男であったとされる。。尊氏に実子として認知されず、尊氏の同母弟・直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させたが、尊氏の死後は勢力が衰え、消息不明となった。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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足利満兼

足利 満兼(あしかが みつかね)は、室町時代前期の武将。3代目の鎌倉公方(在職:応永5年(1398年) - 応永16年(1409年))である。.

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都城市

都城市(みやこのじょうし)は、宮崎県の南西端に位置する市。宮崎市に次ぎ、県内第2の人口を擁する主要都市である。.

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都之城

都之城(みやこのじょう)は、宮崎県都城市都島町にあった日本の城である。都城とも表記する。別名を鶴丸城。形式は山城。.

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阿蘇惟村

阿蘇 惟村(あそ これむら)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。室町幕府肥後国守護。阿蘇氏11代当主。.

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阿蘇惟武

阿蘇 惟武(あそ これたけ)は、南北朝時代の武将。阿蘇氏10代当主・阿蘇惟澄の次男。.

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関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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蓑原の合戦

蓑原の合戦(みのばるのかっせん)は、南北朝時代の天授5年/永和5年(1379年)3月1日と3月3日に現在の宮崎県都城市で行われた今川満範と島津氏久の合戦である。.

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鄭夢周

鄭 夢周(チョン・モンジュ、てい むしゅう、1337年 - 1392年)は、高麗末の儒学者である。号は圃隠。 慶尚北道の生まれ。朱子学を学び、科挙に首席で及第した。高麗末の内憂外患の中、軍人の李成桂(のちの李氏朝鮮王朝太祖)らとともに女真や倭寇(前期倭寇)の征伐に参加し、功績を立てる。1377年には日本に赴き、室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)と折衝にあたる。 1388年、李成桂がクーデターを起こし政権を掌握すると、彼とともに新王の恭譲王を支えたが、禅譲を受けて李氏朝鮮を開こうとする李成桂と対立したため、李成桂の子・李芳遠(のちの太宗)の手により善竹橋で暗殺された。 鄭夢周は教育にも力を注いで多くの弟子を育成したので、のちに「東方理学之祖」と称えられた。.

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長井貞広

長井 貞広(ながい さだひろ)は、大江姓長井氏の人物。鎌倉時代と南北朝時代に一人ずついる。.

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長門国

長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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良成親王

良成親王(よしなりしんのう/ながなり ―)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての南朝の皇族。 近世の南朝系図によると、後村上天皇の第七皇子で、母は越智家栄の女・冷泉局(新待賢門院冷泉)とされるが、同時代史料には名が見えないため、親王の実在自体を疑う説は少なくない。だが、征西将軍懐良親王(後醍醐天皇皇子)の跡を継承して九州南軍を指揮した後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)とは、良成親王に比定されるのが旧来の通説であり征西将軍良成親王について、宮内省図書寮編『後村上天皇実録』(『天皇皇族実録75』所収)の按文には、「親王ノ名、他ニ所見ナキモ、懐良親王ノ後ヲ受ケテ九州ニ号令セル将軍宮ハ蓋シ此親王ナルベケレバ、今姑ク南朝事跡抄所引ノ古本帝王系図、古物屋本皇胤紹運録ニ拠リ掲記ス、」とあり、また、『大日本史料』(6編41冊、文中3年12月25日条)の按文には、「征西将軍宮ノ御諱、泰成・師成等ノ異説アリテ一定シ難キモ、今姑ク通説ニ従フ、」とある。、他に有力な異説も見当たらないため(後述)、本項では後征西将軍宮の事績を親王のそれとして記述する。.

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難太平記

『難太平記』(なんたいへいき)は、今川貞世(出家後は了俊)が応永9年(1402年)に完成させた書物。.

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逢坂関

逢坂関(おうさかのせき、あふさかのせき)は、山城国と近江国の国境となっていた関所。相坂関や合坂関、会坂関などとも書く。 東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、平安時代中期(810年)以後には、三関の一つとなっていた事からも見てとれる。なお、残り二関は不破関と鈴鹿関であり、平安前期までは逢坂関ではなく愛発関が三関の一つであった。.

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連歌

連歌(れんが)は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。.

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

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松浦党

松浦党(まつらとう)は、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された松浦氏の武士団の連合。一族は48つに分かれており、松浦四十八党とも呼ばれた。水軍として有名。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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正徹

正徹(しょうてつ、永徳元年(1381年) - 長禄3年5月9日(1459年6月9日))は、室町時代中期の臨済宗の歌僧。道号(字)は清巌(岩)で、法諱は正徹、庵号は招(松)月庵。清巌正徹。俗名は正清。 石清水八幡宮に仕える祀官一族の出身で、父は小松(または小田)康清といわれ、備中国(現岡山県)小田郡の小田荘を知行していた。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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歌川貞秀

歌川 貞秀(うたがわ さだひで、文化4年〈1807年〉- 明治12年〈1879年〉?)とは、江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師。横浜絵の第一人者といわれ、精密で鳥瞰式の一覧図や合巻の挿絵を描いたことで知られている。戯作名に大海舎金龍、丹頂庵鶴丸、松亭寿山などがある。.

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毛利元春

毛利 元春(もうり もとはる)は、南北朝時代から室町時代の安芸国の国人。安芸国吉田荘地頭職。.

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水島の変

水島の変(みずしまのへん)は、南北朝時代末期の永和元年/天授元年8月26日(1375年9月22日)に、九州探題今川了俊が、筑前守護少弐冬資を肥後菊池郡水島(現在の熊本県菊池市七城町)で暗殺した事件。.

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永徳

永徳(えいとく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康暦の後、至徳の前。1381年から1383年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇、後小松天皇。南朝方が長慶天皇、後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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永和 (日本)

永和(えいわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。応安の後、康暦の前。1375年から1379年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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渋川義行

渋川 義行(しぶかわ よしゆき)は、南北朝時代の武将・九州探題。渋川氏6代当主。.

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渋川氏

渋川氏(しぶかわし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。室町時代に肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津などの守護職に任ぜられ、また九州探題職を世襲した。 足利将軍家御一家の家格を有した他、一族は九州、関東、中国など各地に点在した。.

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渋川満頼

渋川 満頼(しぶかわ みつより)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名、九州探題。.

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明徳

明徳(めいとく)は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1393年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。.

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明徳の和約

明徳の和約(めいとくのわやく)は、明徳3年/元中9年(1392年)に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について結ばれた協定。明徳の和談、元中一統とも。 この和約に従って同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られた。これによって、建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。.

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海蔵寺

海蔵寺(かいぞうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は扇谷山(せんこくざん)。本尊は薬師如来。.

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斯波義将

斯波 義将(しば よしゆき「義将」の読みに関しては、一般的には「よしまさ」と読まれる(平将門などと同様)ことが多いが、実際は「よしゆき」のようである。偏諱(「将」の字)を賜った人物についても同様のことが言える。)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。斯波氏5代当主。室町幕府創業の元勲である斯波高経の4男で室町幕府初代、3代、5代、7代管領。越前・越中・信濃守護。 幼少より父・高経の偏愛を受け、父の後見と推薦もあって13歳にして幕府管領職に就任する。後に父の失脚と同じくして自身も都を追われたが、まもなく復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させると管領に再任。以後、足利義満・足利義持と2代の室町将軍を補佐し、およそ30年間にわたって幕府の重鎮であり続け、斯波氏の最盛期を築いた。.

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文中

文中(ぶんちゅう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建徳の後、天授の前。1372年から1375年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が長慶天皇、北朝方が後円融天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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文和

文和(ぶんな、ぶんわ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。観応の後、延文の前。西暦では1352年から1355年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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懐良親王

懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。.

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10月5日

10月5日(じゅうがついつか)はグレゴリオ暦で年始から278日目(閏年では279日目)にあたり、年末まであと87日ある。.

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1326年

記載なし。

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1355年

記載なし。

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1361年

記載なし。

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1367年

記載なし。

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1370年

記載なし。

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1371年

記載なし。

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1372年

記載なし。

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1374年

記載なし。

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1375年

記載なし。

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1377年

記載なし。

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1378年

記載なし。

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1379年

記載なし。

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1381年

記載なし。

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1391年

記載なし。

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1392年

記載なし。

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1394年

記載なし。

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1395年

記載なし。

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1399年

記載なし。

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1400年

14世紀の最後でもある。.

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1402年

記載なし。

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1420年

記載なし。

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3月1日 (旧暦)

旧暦3月1日(きゅうれきさんがつついたち)は旧暦3月の1日目である。六曜は先負である。.

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3月3日 (旧暦)

旧暦3月3日(きゅうれきさんがつみっか)は旧暦3月の3日目である。六曜は大安である。.

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8月28日 (旧暦)

旧暦8月28日(きゅうれきはちがつにじゅうはちにち)は、旧暦8月の28日目である。六曜は大安である。.

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