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鍋島氏

索引 鍋島氏

鍋島氏(なべしまし)は、近世の佐賀藩藩主の氏族。血縁的には武藤氏の一族・少弐氏の男系である(系譜を参照)。.

105 関係: 側室堀田正恒多久茂矩多久茂文宇多源氏小城郡少弐氏少弐教頼山城国三宅直胖九州千葉氏幕末享禄佐々木氏佐賀藩侯爵徳川家康後多久氏信濃国石井忠躬石井信忠 (安芸守)田手畷の戦い鍋島吉茂鍋島宗茂鍋島宗教鍋島忠直鍋島忠茂鍋島信房鍋島元延鍋島元茂鍋島元武鍋島光茂鍋島勝茂鍋島綱茂鍋島経房鍋島直堯鍋島直堅鍋島直大鍋島直孝鍋島直宜鍋島直富鍋島直寛鍋島直与鍋島直之鍋島直亮鍋島直彬鍋島直彜鍋島直員鍋島直知鍋島直称...鍋島直紹鍋島直紀鍋島直道鍋島直賢鍋島直茂鍋島直郷鍋島直能鍋島直興鍋島直英鍋島直虎鍋島直柔鍋島直恒鍋島直條鍋島直正鍋島直永鍋島直泰鍋島直温鍋島直澄鍋島直朝鍋島直映鍋島直愈鍋島直晴鍋島茂真鍋島茂順鍋島茂里鍋島重茂鍋島村鍋島正茂鍋島治茂鍋島清久鍋島清房鍋島昭茂鍋島斉直華族豊臣秀吉龍造寺康房龍造寺隆信龍造寺氏藤原北家肥前国長崎港東京都松平俊子松平信子松本藩梨本伊都子横岳鍋島家武家武藤氏氏族水野忠直断橋1530年 インデックスを展開 (55 もっと) »

側室

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す。.

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堀田正恒

堀田 正恒(ほった まさつね、1887年(明治20年)10月21日 - 1951年(昭和26年)3月16日『平成新修旧華族家系大成』下巻、493-495頁。)は、日本の政治家、華族。貴族院伯爵議員。旧姓名・鍋島直言。.

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多久茂矩

多久 茂矩(たく しげのり)は、江戸時代前期の武士。肥前国佐賀藩士。多久鍋島家(後多久氏)3代当主。.

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多久茂文

多久 茂文(たく しげふみ)は、江戸時代前期から後期にかけての武士。肥前国佐賀藩士。多久鍋島家(後多久氏)4代当主。.

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宇多源氏

宇多源氏(うだげんじ)は、第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。源姓では清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて著名である。.

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小城郡

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少弐氏

少弐氏(しょうにし)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。.

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少弐教頼

少弐 教頼(しょうに のりより)は、室町時代の武将。少弐氏14代当主。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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三宅直胖

三宅 直胖(みやけ なおひろ、1907年(明治40年)9月7日『平成新修旧華族家系大成』下巻、702-703頁。 - 没年不詳)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島。.

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九州千葉氏

九州千葉氏(きゅうしゅうちばし)は、桓武平氏の末裔の一族である千葉氏の支族の一つ。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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享禄

享禄(きょうろく)は、日本の元号の一つ。大永の後、天文の前。1528年から1531年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴。.

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佐々木氏

佐々木氏(ささきし)は、日本の氏族のひとつ。家系は宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し全国に勢力を広げた。.

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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侯爵

侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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後多久氏

多久氏(たくし)は、江戸時代の肥前国佐賀藩家老、多久邑主。別称は水ヶ江龍造寺氏とも。同氏が多久地方を治める以前に存在していた多久氏(前多久氏)と区別するため、後多久氏(ごたくし)と俗称される。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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石井忠躬

石井 忠躬(いしい ただみ、天保8年(1837年) - 明治16年(1883年)は、幕末の肥前国佐賀藩の支藩・蓮池藩の家老(執政)。旧名は鍋島総若。通称は、総之助、久馬、靭負。.

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石井信忠 (安芸守)

石井 信忠(いしい のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名龍造寺氏の旗本部将。重臣石井石見守忠次の次男。同じ諱の石井四郎左衛門信忠の母方のおじにあたる。.

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田手畷の戦い

田手畷の戦い (たてなわてのたたかい)は、享禄3年(1530年)、北九州の覇権をめぐり周防国の大名大内氏と肥前国の大名少弐氏との間で起きた戦い。 大内氏と少弐氏とは、室町時代を通じて北九州(大宰府)の覇権を争う宿敵同士であった。明応6年(1497年)には大内義興は少弐政資を滅ぼし、かつては鎮西の覇者であった少弐氏を肥前の一地方勢力に転落させることに成功している。 大内義隆(義興の子)は宿敵の少弐資元(政資の子)に止めを刺すべく筑前国守護代杉興運に命じて大内方の北九州の諸将を率いさせ、資元の居城肥前勢福寺城を攻撃させた。少弐方の諸将(龍造寺家兼や馬場頼周など)が奮戦するが、兵力で劣勢の少弐勢は、敗色が濃厚であった。しかし、鍋島清久・清房父子や石井党らが率いる赤熊奇襲隊の活躍もあって、遠征してきた興連を敗走させた。大内方は横岳資貞・筑紫尚門などが戦死している。 この戦いの後、佐賀平野南部の有力領主らを味方につけ戦勝に貢献した龍造寺氏が、少弐家中での発言権を強め、戦国大名化していく契機となった。 この勝利に勢いづいた少弐氏は逆に大宰府に侵攻するなど一時勢力を回復させたが、大内家の周防国守護代陶興房が九州に乗り込んでくると再び劣勢になり、さらには義隆が自身で大軍を率いて攻勢をかけて来ると、頼みの家兼にも見放された。 天文4年(1535年)には、資元は自刃して果てたため、少弐氏は一時滅亡した。 Category:日本の戦国時代の戦い 戦たてなわて 戦たてなわて 戦たてなわて Category:1530年の日本 Category:1530年の戦闘.

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鍋島吉茂

鍋島 吉茂(なべしま よししげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。肥前国佐賀藩4代藩主。.

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鍋島宗茂

鍋島 宗茂(なべしま むねしげ)は、肥前佐賀藩の第5代藩主。第2代藩主・鍋島光茂の十五男。.

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鍋島宗教

鍋島 宗教(なべしま むねのり、享保3年4月20日(1718年5月19日) - 安永9年2月2日(1780年3月7日))は、肥前国佐賀藩の第6代藩主。 第5代藩主・鍋島宗茂の長男。母は久世通夏の娘・貞姫(貞樹院)。正室は中院通躬の娘・綱姫。子は娘(伊達村俊室)。幼名は萬吉。初名は教茂(のりしげ)。官位は従四位下、丹後守。 元文3年(1738年)、父の隠居により家督を相続し、第6代藩主となる。父と同じく将軍徳川吉宗より偏諱の授与を受けたが、父と同名になるのを避け、二文字目には「茂」ではなくもう一方の「教」をあてる形で諱を「宗教」とした。財政難は深刻で借銀高は増加、家中の献米・献銀に依存した。寛延3年(1750年)には諫早一揆が起こる。従四位下侍従丹後守に叙せられ、宝暦10年(1760年)隠居し、家督を弟の鍋島重茂に譲った。安永9年(1780年)に63歳で死去した。法名は光徳院殿瑞章良麟大居士。 むねのり むねのり Category:1718年生 Category:1780年没.

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鍋島忠直

鍋島 忠直(なべしま ただなお、慶長18年(1613年) - 寛永12年1月28日(1635年2月20日))は、肥前佐賀藩の世嗣。初代藩主・鍋島勝茂の四男。母は岡部長盛の娘・菊姫(徳川家康の養女)。正室は松平忠明の娘・ムリ姫(恵照院)。子は鍋島光茂(長男)。幼名は翁助。官位は従五位下、肥前守。 勝茂の四男であるが、徳川家から迎えた菊姫との間にできた男子であったため、長兄の元茂など3人の兄を差し置いて嫡男として扱われる。元和8年(1622年)、徳川秀忠から偏諱の「忠」の字と松平の氏姓を授けられた。この鍋島家の松平姓および将軍の偏諱拝領は、この時以降幕末まで代々継承される(一方、諱の「直」の字は祖父の直茂から取ったものである)。第2代藩主の座を約束されていたが、疱瘡にかかり早世する。享年23。法名は興国院殿敬英賢崇大居士。 代わって、忠直の長男の光茂が勝茂から嫡孫継承することとなった。.

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鍋島忠茂

鍋島 忠茂(なべしま ただしげ)は、肥前鹿島藩の初代藩主。.

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鍋島信房

鍋島 信房(なべしま のぶふさ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。肥前国の大名龍造寺氏の重臣。佐賀藩家老神代鍋島家の祖。藤津郡の家臣団「藤津衆」を侍大将として統轄していた。.

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鍋島元延

鍋島 元延(なべしま もとのぶ)は、江戸時代中期の大名。肥前国小城藩4代藩主。.

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鍋島元茂

鍋島 元茂(なべしま もとしげ、慶長7年10月11日(1602年11月24日)- 承応3年11月11日(1654年12月19日))は、江戸時代の九州の大名。肥前国小城藩の初代藩主。 肥前佐賀藩主・鍋島勝茂の庶長子。母は瑞昌院(勝茂の正室(戸田民部小輔女)の侍女で、身分が低かった)とされる。正室は鍋島茂里の娘。子は鍋島直能(長男)、鍋島直朗(次男)、鍋島直治(三男)。官位は従五位下、紀伊守。始め直元・三平と称する。 当初は嫡男として扱われていたが、元茂が4歳の時、父・勝茂が徳川家康の養女(岡部長盛の娘)と再婚したとき、廃嫡された。これは、家康の養女である菊姫との間に生まれた子供を後継ぎにしようとしたためとも言われている。このため、家督を継ぐことができず、江戸に人質として送られた。のち、祖父である直茂の死去後、その隠居領であった1万石を与えられ、幾度か加増をされ、最終的には寛永19年(1642年)に肥前小城に7万3000石を与えられ(年代については異説あり)、同藩の初代藩主となった。これは鍋島家中ではかなりの高禄であり、廃嫡されたとはいえ、父から冷遇はされていなかったようである。島原の乱にも父・勝茂と共に従軍している。 剣の腕に優れた達人で、柳生宗矩から印可書を一番に受けたと言われている。木村友重とともに徳川家光の打太刀を務めた。柳生宗矩とは30年にわたる道縁で、死の直前に秘巻「兵法家伝書」を与えられている。承応3年(1654年)死去し、跡を長男・直能が継いだ。 *01 もとしけ Category:廃嫡された人物 Category:1602年生 Category:1654年没.

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鍋島元武

鍋島 元武(なべしま もとたけ)は、肥前小城藩の第3代藩主。.

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鍋島光茂

鍋島 光茂(なべしま みつしげ)は、江戸時代前期の大名・歌人。肥前国佐賀藩2代藩主。二条流の歌道の宗匠である三条西実教より古今伝授を受けた。.

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鍋島勝茂

鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥前国佐賀藩初代藩主。.

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鍋島綱茂

鍋島 綱茂(なべしま つなしげ、慶安5年5月5日(1652年6月10日) - 宝永3年12月2日(1707年1月5日))は、肥前国佐賀藩の第3代藩主。将軍徳川家綱より偏諱を授与されて綱茂と名乗る。 第2代藩主・鍋島光茂の長男。母は上杉定勝の娘・虎姫。正室は越前松平光通の娘・布与(寂光院)。子は娘(榊原政邦正室)。幼名は左衛門、号は至徳斎。官位は従四位下、信濃守、侍従。 元禄8年(1695年)、父・光茂が隠居したため家督を継承し、佐賀藩主に就任する。宝永3年(1706年)に56歳で死去した。男子が無かったため、実弟で養子の鍋島吉茂が跡を継いだ。法名は玄梁院殿卓巌道印大居士。 「学問を好み給ひ、詩をも能し、書画にも達し給ひぬ」(堤範房著『雨中の伽』「文学」、文化9年(1812年)自序)と評され、文事を得意とした藩主だった。絵事は、藩御用絵師の小原友閑斎が師範を務め、河村若芝門人である上野若元を召し抱えたことなどが知られる。綱茂自身の絵も」(鍋島徴古館蔵)など、狩野派をよく学んだ事が解る作品が残っている。 つなしけ つなしけ Category:1652年生 Category:1706年没.

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鍋島経房

鍋島 経房(なべしま つねふさ、生没年未詳)は、室町時代の武将。少弐氏の出身で藤原姓鍋島氏の祖。少弐教頼の子で鍋島直茂の曾祖父に当たる。少弐政資や千葉胤資(たねすけ)は実兄。 少弐教頼と、鍋島経直(つねなお)の娘との間に生まれる。のちに外祖父・経直より鍋島家の家督を譲られる。初めは鍋島清直(きよなお)、のちに経房と改名、いずれも経直より1字を受けて名乗ったものである。 子の清久の代から少弐氏の家臣である龍造寺氏に仕え、その孫・直茂以降は肥前佐賀藩主を務める家系として続いた。 category:室町・安土桃山時代の武士 つねふさ Category:生年不明 Category:没年不明.

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鍋島直堯

鍋島 直堯(なべしま なおたか)は、肥前小城藩の第9代藩主。.

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鍋島直堅

鍋島 直堅(なべしま なおかた)は、肥前鹿島藩の第5代藩主。 元禄8年(1695年)4月28日、第2代藩主・鍋島直條の五男として江戸青山邸で生まれる。宝永2年(1705年)に父が死去したため、家督を継いで第3代藩主となる。しかし生来から病弱だった。享保12年(1727年)12月4日に鹿島で死去した。享年33。跡を長男・直郷が継いだ。 なおかた 203 Category:1695年生 Category:1728年没.

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鍋島直大

鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、幕末期の大名。肥前国佐賀藩第11代(最後の)藩主。明治・大正時代の政府高官。侯爵。 佐賀藩第10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。.

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鍋島直孝

鍋島 直孝(なべしま なおたか、文化6年(1809年)5月 - 万延元年(1860年)4月)は江戸時代の旗本。江戸北町奉行。初め帯刀(たてわき)、内匠(たくみ)、内匠頭(たくみのかみ)。室はクマ(黒田直方の娘で本多正意養女)。子に、直影(餅ノ木家第11代)、今(鍋島直正養女、鍋島茂生室)。.

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鍋島直宜

鍋島 直宜(なべしま なおよし)は、肥前鹿島藩の第8代藩主。 宝暦13年(1763年)2月21日、肥前小城藩の第6代藩主・鍋島直員の四男として小城で生まれる。明和7年(1770年)に鹿島藩第5代藩主・鍋島直熙が治茂と改名して本家佐賀藩の家督を継いだため、その跡を継いで鹿島藩第6代藩主となった。 享和元年(1801年)4月21日、家督を養子の直彜に譲って隠居する。文政2年(1819年)12月23日に死去した。享年57。 なおよし 206 Category:1763年生 Category:1820年没.

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鍋島直富

鍋島 直富(なべしま なおとみ、延宝元年(1673年) - 元禄7年(1694年))は、肥前国蓮池藩の世嗣。第2代藩主・鍋島直之の次男。母は榊原照清の娘(鍋島光茂の養女)。通称、勝之助。 直之の嫡子として育ち、貞享元年(1684年)に徳川綱吉に拝謁する。しかし、家督を相続することなく元禄7年(1694年)に22歳で早世した。代わって、叔父の直称が嫡子となった。 Category:佐賀藩の人物 なおとみ Category:1673年生 Category:1694年没.

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鍋島直寛

鍋島 直寛(なべしま なおひろ)は、肥前蓮池藩の第6代藩主。.

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鍋島直与

鍋島 直与(なべしま なおとも、旧字体: 鍋島直與)は、肥前蓮池藩の第8代藩主。蘭癖大名といわれ、著作に『仏蘭察誌』、『欧羅巴諸図』がある。.

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鍋島直之

鍋島 直之(なべしま なおゆき、寛永20年1月18日(1643年3月8日) - 享保10年4月28日(1725年6月8日))は、江戸時代前期の外様大名。肥前蓮池藩第2代藩主。5万2,600石を領した(ただし蓮池藩は独立した藩ではなく佐賀藩35万7,000石のうちからの知行であり、内分知行なので本来大名にはならないはずだが、幕府から特別に大名と認められていた)。 初代藩主・鍋島直澄の次男。母は奥平松平忠明の娘。正室は諫早茂敬の娘、継室は鍋島光茂の養女(榊原照清の娘)。子は鍋島直富(次男)。幼名・通称は、千熊丸。官位は従五位下、摂津守。.

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鍋島直亮

鍋島 直亮(なべしま なおすけ、文政12年1月9日(1829年2月12日) - 元治元年2月27日(1864年)4月3日))は、肥前小城藩の第10代藩主。 第9代藩主・鍋島直堯の長男。母は側室・日出島宗完の娘。正室は鹿島藩主・鍋島直永の娘・唯証院。子は娘(鍋島直虎正室)。官位は従五位下、加賀守。幼名は三平。 文政12年(1829年)正月9日、小城で生まれる。嘉永3年(1850年)4月、父の隠居により跡を継いだ。嘉永6年(1853年)、エフィム・プチャーチン率いるロシア帝国艦隊の長崎来航に伴い、帰国と長崎警固を命ぜられた。藩医に西洋医学の研究を命じ、後年、漢方医から蘭方医に切替える基礎を築いた。万延元年遣米使節に藩士を派遣し、同年、宗藩である佐賀藩にならい洋式軍備の軍制改革を行なった。元治元年(1864年)2月27日、36歳で死去した。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の子で養子の直虎が跡を継いだ。法号は謙光院殿恭岳良温大居士。墓所は佐賀県小城市鷺原の祥光山星巌寺。 *10 Category:幕末の大名 Category:幕末佐賀藩の人物 なおすけ Category:1829年生 Category:1864年没.

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鍋島直彬

鍋島 直彬(なべしま なおよし)は、肥前鹿島藩の第13代(最後の)藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の甥。.

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鍋島直彜

鍋島 直彜(なべしま なおのり)は、肥前鹿島藩の第9代藩主。諱の読みは「なおつね」ともいわれる(「彜」は上から彑、粉、廾と書いた漢字である)。 寛政5年(1793年)2月21日、肥前佐賀藩藩主・鍋島治茂の六男として佐賀城で生まれる。寛政12年(1800年)に義兄(姉の夫)で鹿島藩第6代藩主の鍋島直宜の養子となり、4月21日に直宜が隠居したため、家督を継いで第7代藩主となる。 文政元年(1818年)から倹約、リストラを中心とした藩政改革を行なったが成功しなかった。文政3年(1820年)2月17日に家督を養子の直永に譲って隠居する。文政9年(1826年)7月より病に倒れ、回復せぬまま11月19日に死去した。享年34。 なおのり 207 Category:1793年生 Category:1826年没.

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鍋島直員

鍋島 直員(なべしま なおかず)は、肥前小城藩の第6代藩主。 享保11年(1726年)3月7日、第5代藩主・鍋島直英の次男として小城で生まれる。寛保元年(1741年)12月、従五位下・紀伊守に叙位・任官する。延享元年(1744年)、父の死去により家督を継いだ。 宝暦14年(1764年)5月、家督を次男・直愈に譲って隠居する。安永9年(1780年)6月24日に小城で死去した。享年55。 なおかす *06 Category:1726年生 Category:1780年没.

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鍋島直知

鍋島 直知(なべしま なおとも)は、肥前小城藩の第8代藩主。 天明4年(1784年)5月4日、第7代藩主・鍋島直愈の長男として江戸で生まれる。寛政6年(1794年)4月、父の隠居により家督を継いだ。寛政11年(1799年)12月、従五位下・紀伊守に叙位・任官する。 文化元年(1804年)3月12日に江戸で死去した。享年21。嗣子が無かったため、異母弟の直堯が養子として跡を継いだ。 なおとも *08 Category:1784年生 Category:1804年没.

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鍋島直称

鍋島 直称(なべしま なおのり)は、肥前蓮池藩の第3代藩主。.

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鍋島直紹

鍋島 直紹(なべしま なおつぐ、1912年(明治45年)5月19日 - 1981年(昭和56年)11月16日)は、日本の政治家。佐賀県知事・科学技術庁長官。旧肥前鹿島藩主・鍋島家の第15代当主にあたり、地元では親しみを込めて「トンさん」(=殿様)と呼ばれた。.

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鍋島直紀

鍋島 直紀(なべしま なおただ)は、肥前蓮池藩の第9代(最後の)藩主。.

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鍋島直道

鍋島 直道(なべしま なおみち、寛政元年6月4日(1789年6月26日) - 文政3年10月27日(1820年12月2日))は、肥前国蓮池藩の世嗣。肥前国佐賀藩主・鍋島治茂の四男。通称、下総。 蓮池藩第7代藩主・鍋島直温の養子となるが、家督相続前の文化12年(1815年)4月に廃嫡された。代わって実弟の直与が養子に入り、嫡子となった。文政3年(1820年)、32歳で没。 実子に直与から偏諱を賜ったとみられる鍋島与善(ともよし、鍋島與善、幼名:敬之助、1811-1839)や女子(弥ゐ、石井儀助妻)がいた。 Category:佐賀藩の人物 なおみち Category:廃嫡された人物 Category:1789年生 Category:1820年没.

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鍋島直賢

鍋島 直賢(なべしま なおさが)は、肥前鹿島藩の第12代藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の実弟。名は「なおかた」ともいわれる。.

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鍋島直茂

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。 なお数回改名しており、本項では便宜的に後期の名乗りである直茂で統一して解説する。.

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鍋島直郷

鍋島 直郷(なべしま なおさと)は、肥前鹿島藩の第6代藩主。.

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鍋島直能

鍋島 直能(なべしま なおよし)は、肥前小城藩の第2代藩主。.

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鍋島直興

鍋島 直興(なべしま なおおき)は、肥前蓮池藩の第5代藩主。.

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鍋島直英

鍋島 直英(なべしま なおひで)は、江戸時代中期の大名。肥前国小城藩5代藩主。.

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鍋島直虎

鍋島 直虎(なべしま なおとら、安政3年2月9日(1856年3月15日)- 大正14年(1925年)10月30日)は、肥前小城藩の第11代(最後の)藩主。明治時代から大正時代にかけての政治家。 肥前佐賀藩主・鍋島直正の七男。母は側室・木村矩欽の娘。正室は第10代小城藩主鍋島直亮の娘・春子、継室は南部利剛の娘。子は鍋島直庸(長男)、鍋島直顕(次男)、娘(本多忠昭正室)、娘(毛利元良室)。官位は従二位、紀伊守、子爵。幼名は欽八郎。 先代藩主の直亮に男児が無かったため、文久元年(1861年)9月にその婿養子となる。元治元年(1864年)、直亮の死去により跡を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与して秋田の戦いなどで武功を挙げ、その恩賞として明治2年(1869年)8月に5000両を与えられた。それより2か月前の6月には版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されている。 明治6年(1873年)7月、明治政府からイギリス留学を許可される。同年8月、実兄・鍋島直大や実弟・鍋島直柔と共にロンドンへ遊学する。明治8年6月、2年間の留学予定であったものの、1年の延長を願い出ている。帰国後に外務省御用掛となった。 明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した。明治23年(1890年)7月、貴族院議員に当選した。5期連続で当選した。大正14年(1925年)10月30日に死去した。享年70。法号は威徳院殿全機直雄大居士。墓所は佐賀県小城市鷺原の祥光山星巌寺。.

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鍋島直柔

鍋島 直柔(なべしま なおとう、1858年11月12日(安政5年10月7日) - 1910年(明治43年)2月7日)は、日本の子爵、蓮池藩鍋島家当主、貴族院議員。従五位。妻は鍋島直紀の娘。子に鍋島直和、堀田正恒、教子(鍋島貞次郎妻)、葉室直躬、文子(三島弥彦妻)がいる。.

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鍋島直恒

鍋島 直恒(なべしま なおつね)は、肥前蓮池藩の第4代藩主。.

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鍋島直條

鍋島 直條(なべしま なおえだ)は、肥前鹿島藩の第4代藩主。.

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鍋島直正

鍋島 直正(なべしま なおまさ)は、江戸時代末期の大名。第10代肥前国佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。.

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鍋島直永

鍋島 直永(なべしま なおなが)は、肥前鹿島藩の第10代藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の実兄。.

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鍋島直泰

鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年(明治40年)10月3日 - 1981年(昭和56年)5月1日)は旧佐賀藩主・鍋島家の13代当主。12代直映の嫡男。母は禎子(黒田長知の娘)。学習院・東京帝国大学を卒業、宮内省式部官を務めた後、1943年(昭和18年)に家督を相続・侯爵を襲爵し貴族院議員となり、貴族院の廃止までその任にあった。 名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の日本アマチュア選手権に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。また、蝶の研究・収集などでも有名。 夫人は朝香宮鳩彦王第一王女 紀久子(1911年-1989年)。嫡子は直要(なおもと・1936年-2008年・鍋島報效会会長、日本ゴルフ協会常任理事)。 直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年にはイスパノ・スイザK6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを二分割にする等の改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、直要が佐賀県立博物館に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になってトヨタ博物館に寄託されることになった。.

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鍋島直温

鍋島 直温(なべしま なおはる)は、肥前蓮池藩の第7代藩主。.

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鍋島直澄

鍋島 直澄(なべしま なおずみ、元和元年11月12日(1616年1月1日)- 寛文9年3月5日(1669年4月5日))は、江戸時代の大名。肥前蓮池藩の初代藩主。 肥前佐賀藩主・鍋島勝茂の五男。母は岡部長盛の娘(徳川家康の養女)・菊姫。佐賀藩世嗣・鍋島忠直の同母弟。正室は奥平松平忠明の娘。子に鍋島直守(長男)、鍋島直之(次男)、鍋島之治(三男)、鍋島之映(四男)、鍋島直称(五男)、鍋島之徳(六男)、娘(鍋島直條正室)、娘(深溝松平好房正室)。官位は従五位下、甲斐守。 兄の鍋島忠直が死んだとき、その未亡人を娶った経緯から鍋島氏の家督相続の候補者に推されたが、継ぐことはできなかった。寛永19年(1642年)、肥前国蓮池藩に5万2,000石を与えられ初代藩主となった(立藩年次については異説あり)。 寛文5年(1665年)東野ヶ里別院へ隠居し、家督を次男・直之に譲る。寛永9年(1669年)没した。 *01 なおすみ Category:1616年生 Category:1669年没.

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鍋島直朝

鍋島 直朝(なべしま なおとも)は、肥前鹿島藩の第3代藩主。前2代に鍋島忠茂・正茂がいるが、正茂系は5000石の旗本として存続したため、別家として扱われる。.

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鍋島直映

鍋島 直映(なべしま なおみつ、1872年(明治5年) - 1943年(昭和18年))は、旧佐賀藩主・鍋島家の12代当主。11代直大の嫡男。正二位勲三等侯爵。夫人は黒田長知の娘の禎子。弟妹に南部信孝、鍋島直縄(旧肥前国鹿島藩主鍋島直彬養子・子爵)、朗子(前田利嗣継室)、伊都子(梨本宮守正王妃)、茂子(九条良政室のちに牧野忠篤継室)、信子(松平恒雄正室)、俊子(松平胖正室)、尚子(柳沢保承正室)。.

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鍋島直愈

鍋島 直愈(なべしま なおます)は、肥前小城藩の第7代藩主。.

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鍋島直晴

鍋島 直晴(なべしま なおはる)は、肥前鹿島藩の第11代藩主。 文政4年(1821年)6月26日、第7代藩主・鍋島直彜の長男として生まれる。直彜は直晴が生まれる前年に隠居していたため、直晴は第8代藩主・直永の養子となり、天保10年(1839年)6月4日の直永の隠居により家督を継いで第9代藩主となった。 聡明で将来を期待されていた人物とされているが、家督相続後の8月21日に参勤交代途上の伏見で急死した。享年19。跡を養子の直賢が継いだ。 なおはる 209 Category:1821年生 Category:1839年没.

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鍋島茂真

鍋島 茂真(なべしま しげまさ)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩の執政。須古鍋島家13代当主。弟で10代藩主・鍋島直正を25年にわたり補佐した。.

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鍋島茂順

鍋島 茂順(なべしま しげより)は、江戸時代中期から後期にかけての武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏8代当主。27代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島越後の名で呼ばれることが多い。.

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鍋島茂里

鍋島 茂里(なべしま しげさと) / 石井 茂里(いしい しげさと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国の戦国大名龍造寺氏の家臣。佐賀藩主鍋島氏の家老。横岳鍋島家(鍋島主水家)の初代当主。.

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鍋島重茂

鍋島 重茂(なべしま しげもち「茂」は鍋島氏の通字で本来は「しげ」と読むが、家重の「重」と読みが同じであるため、重茂(と11代藩主茂実)に限っては「もち」と読ませている。徳川家茂およびその偏諱の授与を受けた人物(茂実ほか)と同様の読みである。、享保18年7月18日(1733年8月27日) - 明和7年閏6月10日(1770年8月1日))は、肥前国佐賀藩の第7代藩主。.

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鍋島村

鍋島村(なべしまむら)は、佐賀県にあった村で、佐賀郡に属していた。.

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鍋島正茂

鍋島 正茂(なべしま まさしげ)は、肥前鹿島藩の第2代藩主。後に5000石の旗本寄合となる。.

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鍋島治茂

鍋島 治茂(なべしま はるしげ)は、肥前国鹿島藩第7代藩主、のち肥前国佐賀藩第8代藩主。佐賀藩第5代藩主・鍋島宗茂の十男で、第6代藩主・宗教と第7代藩主・重茂の弟。藩政の抜本的な改革に着手した名君として知られ、佐賀藩中興の祖と呼ばれている。 鹿島藩主時代は直煕(なおひろ)、佐賀藩主となってからは将軍徳川家治から偏諱の授与を受けて治茂と名乗った。.

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鍋島清久

鍋島 清久(なべしま きよひさ)は、戦国時代の武将。龍造寺氏の家臣。鍋島直茂の祖父。鍋島氏4代当主。.

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鍋島清房

鍋島 清房(なべしま きよふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。龍造寺氏の家臣。鍋島氏5代当主。.

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鍋島昭茂

鍋島 昭茂(なべしま あきしげ、1964年12月8日 - )は、山陽放送の元アナウンサー。ホワイトマジックエンターテインメントジャパン所属。また、マーキュリングにも登録している。 東京都渋谷区出身。東洋大学卒業後、1988年山陽放送にアナウンサーとして入社した。 現在は、WOWOWやCSなどでスポーツ中継を担当している。 肥前鹿島藩主家の出身であり、佐賀県知事・参議院議員等を務めた鍋島直紹の孫に当たる。.

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鍋島斉直

鍋島 斉直(なべしま なりなお)は、肥前国佐賀藩の第9代藩主。第8代藩主・鍋島治茂の長男。母は側室・福岡氏。正室は池田治道の娘(浄諦院)。側室に石井尚方の娘、石井本昭の娘など。幼名は祥太郎。初名は直懿(なおたか)。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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龍造寺康房

龍造寺 康房(りゅうぞうじ やすふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。.

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龍造寺隆信

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。.

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龍造寺氏

龍造寺氏(りゅうぞうじし)は、日本の氏族。戦国時代に肥前国の東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長した一族である。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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長崎港

長崎水辺の森公園 長崎港(ながさきこう)は長崎県長崎市に位置する港湾である。港湾管理者は長崎県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。.

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東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

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松平俊子

松平 俊子(まつだいら としこ、1890年(明治23年)10月 - 1985年(昭和60年)5月)は、明治時代の華族。侯爵鍋島直大の六女。生母は側妾。伯爵松平賴壽の弟・海軍大佐松平胖と結婚した。賴壽の跡を継いだ伯爵松平頼明・公族李鍵公妃誠子らの母である。.

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松平信子

松平 信子(まつだいら のぶこ、明治19年(1886年)7月 - 昭和44年(1969年)5月8日)は、松平恒雄の夫人である。侯爵鍋島直大の四女、娘に秩父宮妃勢津子、姉に梨本宮妃伊都子がいる。.

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松本藩

松本城(現存天守) 松本藩(まつもとはん)は、江戸時代に信濃国に存在した藩。藩庁は松本城。延宝年間の人口は90,000人。.

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梨本伊都子

梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年(明治15年)2月2日 - 1976年(昭和51年)8月19日)は、日本の元皇族。旧名は鍋島伊都子。梨本宮守正王の妃。皇族女性随一の美人と謳われた。妹に松平信子。お印は桂小田部雄次 『天皇と宮家―消えた十一宮家と孤立する天皇家』 新人物往来社、2010年。。.

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横岳鍋島家

横岳鍋島家(よこたけなべしまけ)は、近世の肥前佐賀藩の武家である。本姓は藤原氏で、本来の名字は石井氏。佐賀藩祖鍋島直茂の正室石井氏陽泰院の連枝で、直茂夫妻の婿養子となった鍋島茂里(石井茂里)を祖とする。佐賀藩においては、「家老」六家の筆頭の家格にあり、一時期、格上の「親類同格」として遇せられたこともあった。別称は鍋島主水家(なべしまもんどけ)。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武藤氏

武藤氏(むとうし)は、日本の氏族の一つ。.

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氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

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水野忠直

水野 忠直(みずの ただなお)は、江戸時代の大名。信濃松本藩の第3代藩主。沼津藩水野家3代。 2代藩主水野忠職の次男。.

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断橋

断橋(だんきょう、承応元年(1652年) - 正徳5年(1715年))は、江戸時代の黄檗宗の僧。肥前国鹿島藩主鍋島直朝の長男。諱は直孝、家督を継がず若くして出家し法諱を格峰。延宝5年(1677年)師事した能古見福源寺の桂巌に依頼し、円福山普明寺を開基した。同寺は以後鹿島藩主の菩提寺となる。.

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1530年

記載なし。

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