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大給松平家

索引 大給松平家

大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平親忠の次男・乗元を祖とする松平氏の庶流。十八松平の一つ。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称する。松平宗家(徳川氏)に仕え、甲陽軍鑑に「荻生の少目」として登場する松平親乗が有名であると新井白石「藩翰譜」にはある。当主は武勇に優れ、「藩翰譜」にはあちこちの戦いで兜首を多数挙げたことが特筆されている。 江戸時代には譜代大名4家のほか、数多くの旗本を出した。なお新井白石の藩翰譜では、「荻生松平」と表記する。.

118 関係: 加茂郡 (三河国)十八松平堀直起大給近孝大給恒奥平氏奥殿藩子爵寺社奉行岩村藩岩津松平家上杉茂憲三宅康之三宅康雄三河国府内城府内藩五島盛繁御家人斬九郎徳川義親徳川氏土井利見前田利幹竹谷松平家甲陽軍鑑牧野忠恭牧野忠永鍋島直紀華族裏千家西尾藩西福釜松平家譜代大名豊田市貞享鷹司尚武藩翰譜若年寄老中陸軍総裁林述斎松平定永松平家乗松平一生松平乗友松平乗友 (美濃岩村藩嫡子)松平乗孝松平乗完松平乗寿松平乗寛...松平乗尹松平乗久松平乗保松平乗利松平乗喬松平乗命松平乗全松平乗元松平乗祐松平乗秩松平乗穏松平乗紀松平乗美松平乗羨松平乗真松平乗統松平乗統 (子爵)松平乗賢松平乗薀松平乗邑松平乗長松平乗恒松平乗次松平乗成松平乗春松平乗政松平乗懿松平乗承松平張忠松平忠尚松平忠暁松平忠泰 (桑折藩嫡子)松平忠昭 (大給松平家)松平真乗松平盈乗松平親乗松平親忠松平親長 (岩津家)松平近形松平近信松平近儔松平近禎松平近義松平近訓松平近説松平近貞 (豊後国府内藩主)松平近陳松平近正松平長親松平氏松平成重武家永井尚志江戸時代渡辺綱光渡辺規綱清和源氏滝脇松平家朝日新聞社朝日新書朽木玄綱明暦新井白石旗本愛知県1658年1684年1868年 インデックスを展開 (68 もっと) »

加茂郡 (三河国)

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十八松平

十八松平(じゅうはちまつだいら)は、松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称。徳川宗家を含める場合もある。家康の祖父・松平清康までの庶家に限定する場合もある。また、十四松平ともいわれる。 「十八松平」は、「松」の字を分解し十八公とする中国の慣習から着想されたという説があり、十八という数は実数ではないとも指摘される。.

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堀直起

堀 直起(ほり なおのり、明和3年1月26日(1766年3月6日) - 文化4年12月23日(1808年1月20日))は、江戸時代の大名で、越後椎谷藩第9代藩主。直之系堀家11代。三河国西尾藩主・松平乗佑の七男。正室は堀親長の娘。子は娘(堀直温正室)、娘(堀田正衡正室)。通称、彦弥。初名、松平乗厚。従五位下、近江守。 寛政4年(1792年)、先代藩主・著朝の養子となり家督を相続した。文化4年(1807年)死去した。男子がなかったため、備前岡山藩から直温を婿養子に迎えて家督を継がせた。 *09 なおのり Category:大給松平氏 Category:1766年生 Category:1808年没.

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大給近孝

大給 近孝(おぎゅう ちかたか、1879年(明治12年)7月3日『平成新修旧華族家系大成』上巻、359-360頁。『大日本華族大鑑』60頁では7月13日。 - 1958年(昭和33年)3月25日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』38頁。)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。.

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大給恒

大給 恒(おぎゅう ゆずる)は、日本の大名、政治家、華族。三河奥殿藩の第8代藩主、のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主。奥殿藩大給松平家10代で最後の藩主。江戸幕府の老中格、老中、若年寄。明治維新後は伯爵となる。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)。.

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奥平氏

奥平氏(おくだいらし)は、戦国時代に三河北東部の作手地方(現・新城市)を中心に活動した日本の氏族の一つ。.

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奥殿藩

奥殿藩(おくとのはん)は、三河国額田郡の奥殿陣屋(愛知県岡崎市奥殿町)に藩庁を置いた藩。領地は三河国額田郡・加茂郡(現在の愛知県岡崎市)のほか信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)に存在し、信濃国の領地の方が大きかった。藩庁は何度か移転しており、江戸時代初期の立藩時には加茂郡の大給陣屋、幕末期には信濃国の龍岡城(田野口陣屋)に置かれた。大給藩(おぎゅうはん)、田野口藩(たのくちはん)・龍岡藩(たつおかはん)についても、実質的に同一の藩であることからこの項目で記述する。 大給藩としての立藩より幕末まで石高(1万6000石)は変わらず、一貫して松平家(大給松平家)が支配した。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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寺社奉行

延暦寺根本中堂 寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。.

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岩村藩

岩村藩(いわむらはん)は、美濃国(現在の岐阜県)の岩村城を拠点として美濃国と駿河国の一部を支配した藩。.

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岩津松平家

岩津松平家 (いわつまつだいらけ)とは、室町時代(15世紀)に西三河地方に分出した松平氏の一流。古文書における関係人物の表記で、岩津は岩戸とも表記されている。三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親が岩津城(岡崎市岩津町東山(城山))を本拠にしたのに始まる。その後、信光・親長と継承されたが、今川氏の岩津城攻撃を受けて衰退し、松平氏庶流の安城松平家が岩津家に代わって惣領家化した。その後、岡崎の宗家第八代(安城家の五代目)・広忠の代には岩津家の跡が絶え、三木松平家とされる信孝によって遺領が押領されたという。.

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上杉茂憲

上杉 茂憲(うえすぎ もちのり、- )は、出羽国米沢藩最後の(13代)藩主。12代藩主・上杉斉憲の長男。母は於盤。維新後は正二位伯爵に叙せられ、沖縄県令、貴族院伯爵議員、侍従、錦鶏間祗候を歴任した。.

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三宅康之

三宅 康之(みやけ やすゆき)は、三河田原藩の第5代藩主。田原藩三宅家8代。.

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三宅康雄

三宅 康雄(みやけ やすお)は、三河田原藩の第2代藩主。田原藩三宅家5代。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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府内城

人質櫓(左)と天主台(右) 大手門 廊下橋 府内城(ふないじょう)は、豊後国府内(現在の大分県大分市)にあった日本の城である。大分城(おおいたじょう)、荷揚城(にあげじょう)、白雉城(はくちじょう)とも呼ばれる。.

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府内藩

府内藩(ふないはん)は、豊後国大分郡府内周辺を支配した藩の一つ。藩庁は府内城(現在の大分県大分市)。.

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五島盛繁

五島 盛繁(ごとう もりしげ)は、肥前福江藩の第9代藩主。五島家第29代当主である。.

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御家人斬九郎

『御家人斬九郎』(ごけにんざんくろう)は、柴田錬三郎による時代小説。.

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徳川義親

徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年10月5日 - 1976年9月6日)は、尾張徳川家第19代当主、政治家、植物学者、狩猟家。戦前の侯爵・貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に「最後の殿様」がある。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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土井利見

土井 利見(どい としちか早川『シリーズ藩物語、古河藩』、P127)は、下総古河藩の第2代藩主。土井家宗家9代。.

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前田利幹

前田 利幹(まえだ としつよ)は、越中富山藩の第9代藩主。.

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竹谷松平家

竹谷松平家(たけのやまつだいらけ)は、松平信光の長男の松平守家を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡竹谷(現在の愛知県蒲郡市竹谷町)を領したことから竹谷松平家と称する。松平氏の分家では最も古く、代々松平宗家に貢献した。 6代家清は小田原征伐で宗家の徳川家康に従軍し、家康の関東移封後、武蔵八幡山1万石の大名となった。家清は関ヶ原の戦いでも功績を立て、三河国渥美郡吉田3万石に移封されるが、7代忠清に嫡子なく絶家となり、忠清の弟松平清昌が三河国宝飯郡に5千石を与えられ、蒲形(かまがた)陣屋を構えた。清昌の系統は帝鑑間詰の交代寄合の上級旗本として幕末まで続いた。.

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甲陽軍鑑

『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。本編20巻全59品(59章)、末書2巻。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。.

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牧野忠恭

牧野 忠恭(まきの ただゆき)は、越後長岡藩の第11代藩主。長岡藩系牧野家宗家12代。.

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牧野忠永

牧野 忠永(まきの ただなが、明治44年(1911年)5月 - 昭和51年(1976年)11月22日)は、明治から昭和にかけての越後長岡藩牧野家の第16代当主。貴族院議員、子爵。妻は高倉永則の娘・元子。.

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鍋島直紀

鍋島 直紀(なべしま なおただ)は、肥前蓮池藩の第9代(最後の)藩主。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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裏千家

裏千家(うらせんけ)は、茶道流派の一つ。「裏千家」の語は、家元とその家族らで構成される宗家を指すことも、「一般財団法人今日庵」などの法人組織を指すことも、弟子・門下生を含む流派組織を指すこともある。茶道諸流派中最大の流派である。 裏千家の名称は、千利休からの家督を継いだ本家の表千家(不審菴)に対し、今日庵が通りからみて裏にある意。宗家は京都市上京区小川寺之内上ルにあり、表千家宗家と隣接している。その茶室・今日庵(こんにちあん)は裏千家の代名詞でもある。なお、今日庵の由来は、宗旦が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚に、所用があるとして留守にした宗旦が明日の来席を請うた際に残した清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」の書き付けから。「千家」といえば本来、本家の表千家のことであったが、裏千家の活躍もあり、近年になって分家である武者小路千家と併せて「三千家」というようになった。.

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西尾藩

西尾藩(にしおはん)は、江戸時代に三河国に存在した藩。西尾城(現愛知県西尾市)を居城とした。藩主は、本多氏(膳所)、松平氏 (大給府内)、太田氏、井伊氏(与板)、増山氏、土井氏(刈谷)、三浦氏、松平氏(大給西尾)が就封した。.

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西福釜松平家

西福釜松平家(にしふかままつだいらけ)は、松平親忠の子・親光を始祖とする松平氏の庶流。鴛鴨城主(現在の愛知県豊田市)だったことから、鴛鴨松平家(おしかもまつだいらけ)とも称される山下昌也 編『家康の家臣団 - 天下を取った戦国最強軍団』学研M文庫、2011年、p.320。.

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譜代大名

譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.

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豊田市

豊田市のスカイライン 国道153号と豊田市中心部遠景 豊田市中心部 豊田市(とよたし)は、愛知県北部(西三河地方)に位置する市で、中核市である。トヨタ自動車が本社を置く企業城下町として有名であり、愛知県下で人口は名古屋市に次いで2位、面積は県内で最も広い都市である。 濁音で「とよだ」と誤読される事があるが、正しくは清音で「とよた」である。ただし、市名の由来であるトヨタグループの創始者豊田佐吉や一族の姓は「とよだ」と濁音である。.

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貞享

貞享(じょうきょう)は日本の元号の一つ。天和の後、元禄の前。1684年から1688年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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鷹司尚武

鷹司 尚武(たかつかさ なおたけ、1945年6月9日 - )は、日本の実業家。前伊勢神宮大宮司。五摂家の一つだった鷹司家の28代目当主。旧姓名は松平 尚武。日本電気通信システム(NEC通信システム)社長を務めた。 養母の鷹司和子は昭和天皇の第三皇女であり、今上天皇は義理の叔父にあたる。子供は、長男尚通の他、娘が1人いる。.

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藩翰譜

『藩翰譜』(はんかんふ)は、江戸時代の家伝・系譜書。著者は儒者の新井白石。全12巻。藩譜(はんぷ)との略称でも呼ばれる。 元禄15年(1702年)成立。元禄13年(1700年)、甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したという諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけたもの。慶長5年(1600年)から延宝8年(1680年)までの内容が収録されている。短時日に完成されたもので事実の誤呈があり、白石自身のちに補訂を加えた。第1巻が親藩(徳川諸家)、2〜6巻までが譜代大名、7〜10巻が外様大名の記述で、以下残りの2巻は廃絶された大名の記録となっている。写本で伝来したので巻次の差異や異本が多い。.

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若年寄

若年寄(わかどしより)とは.

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老中

老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.

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陸軍総裁

軍総裁(りくぐんそうさい)は幕府陸軍の最高職である。.

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林述斎

林 述斎(はやし じゅっさい、明和5年6月23日(1768年8月5日) - 天保12年7月14日(1841年8月30日))は、江戸時代後期の儒学者。林家8代。父は美濃国岩村藩主松平乗薀、祖父は享保の改革を推進した老中松平乗邑。諱は初め(松平)乗衡(のりひら)、後に(林)衡(たいら)。字は熊蔵・叔紞・徳詮。号は述斎・蕉軒・蕉隠など。晩年は大内記と称す。.

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松平定永

松平定永の墓(照源寺) 松平 定永(まつだいら さだなが)は、江戸時代後期の大名。陸奥白河藩、のち伊勢桑名藩の藩主。定綱系久松松平家10代。.

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松平家乗

松平 家乗(まつだいら いえのり、天正3年(1575年) - 慶長19年2月29日(1614年4月8日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。 大給松平家第5代・松平真乗の長男。母は戸田忠重の娘。正室は石川康通の娘。子に松平乗寿(長男)、松平知乗(次男)、娘(大久保教隆正室)、娘(知久直政室)らがいる。官位は従五位下、和泉守。幼名は源次郎。 天正10年(1582年)、父が37歳の若さで早世したため、家督を継ぐことになった。天正15年(1587年)、主君・徳川家康から偏諱を授かって家乗と名乗った。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、上野国那波郡内に1万石の所領を与えられる。慶長元年(1596年)には官位を叙任された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って従軍し、三河国吉田城の守備を務めた。戦後、家康からそれを賞されて美濃国岩村藩2万石に加増移封された。慶長19年(1614年)死去。跡を長男の乗寿が継いだ。 いえのり Category:戦国武将 Category:岩村藩主 Category:恵那市の歴史 Category:1575年生 Category:1614年没.

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松平一生

松平 一生(まつだいら かずなり)は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の譜代大名で、下野板橋藩の初代藩主。一生系大給松平家初代。 元亀元年(1570年)、大給松平近正の長男として生まれる。天正13年(1585年)から徳川家康の近臣として仕え、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで父が戦死したため、家督を継いだ。関ヶ原の後、父の武功を家康から賞されて、上野三ノ倉5500石から下野板橋1万石に加増移封されて大名となる。 慶長7年(1602年)、佐竹義宣が常陸水戸から出羽久保田に移封されたとき、水戸城番を務め、佐竹氏旧臣が画策した一揆を鎮圧している。慶長9年(1604年)4月25日に死去した。享年35。 跡を長男・成重が継いだ。 かすなり Category:戦国武将 Category:譜代大名 Category:下野国の藩主 Category:1570年生 Category:1604年没.

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松平乗友

松平 乗友(まつだいら のりとも)は、三河奥殿藩の第4代藩主。奥殿藩大給松平家6代。.

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松平乗友 (美濃岩村藩嫡子)

松平 乗友(まつだいら のりとも、天明2年4月23日(1782年6月3日) - 享和元年6月18日(1801年7月28日))は、美濃岩村藩の嫡子。第4代藩主・松平乗保の長男。正室は松平武寛の娘。官位は従五位下、兵庫頭。 岩村藩嫡子として生まれるが、家督相続前の享和元年(1801年)に早世した。享年20。代わって弟の乗美が嫡子となった。 のりとも Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:岩村藩の人物 Category:1782年生 Category:1801年没.

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松平乗孝

松平乗孝(まつだいら のりたか、延享2年(1745年) - 明和3年7月17日(1766年8月22日))は、三河西尾藩の世嗣。初代藩主・松平乗祐の次男。官位は従五位下、主水正。 長兄が夭逝したため西尾藩嫡子として育てられ、宝暦8年(1758年)徳川家重に御目見、叙任した。しかし、家督を継ぐことなく明和3年(1766年)に22歳で早世した。代わって、弟の乗完が嫡子となった。 のりたか Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1745年生 Category:1766年没.

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松平乗完

松平 乗完(まつだいら のりさだ)は、三河西尾藩第2代藩主。老中。大給松平家宗家12代。趣味は和歌・俳句。 西尾藩初代藩主・松平乗祐の五男。兄乗孝の早世により嫡子となり、明和6年(1770年)に家督を相続する。幕府では寺社奉行、京都所司代を歴任し、松平定信が老中首座・将軍補佐役に就くと、御三家の推挙により老中に迎えられ、寛政の改革の一翼を担った。 藩財政が窮乏していたため、倹約令を出したほか、藩士に上米、町人に御用金賦課、農民に年貢先納を強制した。和歌・俳諧・絵画・書を嗜むなど多芸であった。 寛政5年(1793年)死去し、跡を長男の乗寛が継いだ。.

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松平乗寿

松平 乗寿(まつだいら のりなが)は、江戸時代前期の大名。美濃国岩村藩第2代藩主、遠江国浜松藩主、上野国館林藩初代藩主。大給松平家宗家7代。 松平家乗の長男。慶長19年(1614年)、父の死により家督を継ぐ。同年冬からの大坂の陣に出陣して戦功を挙げた。寛永15年(1638年)、美濃岩村2万石から遠州浜松3万6000石へ加増移封された。寛永19年(1642年)には家綱付きの老中に任じられ、正保元年(1644年)2月28日には上野館林6万石に加増移封となった。家綱が4代将軍となると、正式に老中の一人として政務を取り仕切った。承応3年(1654年)、55歳で死去した。 林春斎からは「柔懦な人物」と評されている。.

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松平乗寛

松平 乗寛(まつだいら のりひろ)は、江戸時代後期の老中、三河西尾藩第3代藩主。大給松平家宗家13代。 2代藩主松平乗完の長男。寛政5年(1793年)10月、17歳で家督を相続した。乗寛が襲封した当時、藩財政は極度に悪化しており、藩士に対して高100石につき1割の上米と、増手当米の支給を停止した。農民に対しては、先納金の借り置きや調達金の元利の据え置き、支払うべき先納金の5年間の再延期を命じた。しかし、天保の飢饉のため効果を上げることはなかった。幕府では寺社奉行を2期務め、京都所司代を経て老中に就任した。天保10年(1839年)に死去し、家督は長男の乗全が継いだ。.

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松平乗尹

松平 乗尹(まつだいら のりただ)は、三河奥殿藩の第5代藩主。奥殿藩大給松平家7代。幕末に活躍した永井尚志の実父である。.

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松平乗久

松平 乗久(まつだいら のりひさ)は、上野館林藩第2代藩主、のち下総佐倉藩主、肥前唐津藩初代藩主。大給松平家宗家8代。 寛永10年(1633年)、館林藩主・松平乗寿の長男として生まれる。承応3年(1654年)、父の死去により家督を継ぐ。このとき、和泉守から宮内少輔に遷任した。寛文元年(1661年)閏8月、下総佐倉へ移封され、延宝6年(1678年)1月23日に肥前唐津へ移封となった。 貞享3年(1686年)7月17日に江戸で死去した。享年54。跡を次男の乗春が継いだ。 のりひさ Category:譜代大名 Category:館林藩主 Category:佐倉藩主 Category:唐津藩主 Category:1633年生 Category:1686年没.

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松平乗保

松平 乗保(まつだいら のりやす)は、江戸時代中期から後期の大名、老中。美濃岩村藩第4代藩主。岩村藩大給松平家5代。.

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松平乗利

松平 乗利(まつだいら のりとし)は、三河奥殿藩の第7代藩主。奥殿藩大給松平家9代。.

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松平乗喬

松平 乗喬(まつだいら のりたか)は、美濃岩村藩の第6代藩主。岩村藩大給松平家7代。.

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松平乗命

松平 乗命(まつだいら のりとし)は、美濃岩村藩の第7代(最後)の藩主。岩村藩大給松平家8代。.

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松平乗全

松平 乗全(まつだいら のりやす)は、幕末の大名、老中。三河西尾藩第4代藩主。大給松平家宗家14代。3代藩主松平乗寛の長男。母は阿部正倫の娘。弟に越後長岡藩に養子入りし、老中を務めた牧野忠恭がいる。同じく老中の阿部正弘は母方の従弟で、老中で日本赤十字社創設者の一人でもある松平乗謨(後の大給恒)は外孫にあたる。 幕府では寺社奉行、大坂城代を経て老中を務めた。同列の松平忠優(後の忠固)と歩調を合わせ、対外問題では開国・和親を、将軍継嗣問題では南紀派に与して紀州藩の徳川慶福(後の家茂)を推し、海防参与の水戸藩主徳川斉昭と対立したため、安政2年(1855年)、斉昭に譲歩した阿部正弘の命令で忠優と共に老中を免職され、閣外に放逐された。 しかしその後、正弘死後に幕政の実権を握った老中首座堀田正睦により、名誉回復の意味をこめて、帝鑑間席より溜詰格に栄転している。また、安政5年(1858年)には大老井伊直弼の推挙により老中に再任している。しかし直弼の暗殺(桜田門外の変)後は閣内での影が薄くなり、万延元年(1860年)に辞任、文久2年(1862年)に1万石減封の上で隠居を命じられ、末弟の乗秩が養子として家督を継いだ。幕府滅亡を経て乗秩の死後、末子の乗承が大給松平家の家督を継承している。 明治3年(1870年)に死去、享年76。墓所は愛知県西尾市の盛巌寺。.

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松平乗元

松平 乗元(まつだいら のりもと、文安3年(1446年) - 天文6年4月15日(1537年5月23日))は、戦国時代の武将。松平親忠の次男。大給松平家の祖。幼名は源次朗。通称左近。兄弟に親長(岩津・惣領家)、長親(宗家)、乗清(滝脇松平家祖)など。子に乗正、親清、乗次(宮石松平家祖)。 三河国岩津(現在の愛知県岡崎市岩津町)に生まれる。岩津に侵攻した松平信光は、長坂新左衛門の拠る加茂郡荻生(おぎゅう)の大給城を攻略して三男の親忠に与えた。親忠は次男の乗元に細川城と共に大給城を譲った。乗元、乗正父子は、永正7年(1510年)頃まで城の大規模な修築を行った。墓は大給城にある。.

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松平乗祐

松平 乗祐(まつだいら のりすけ)は、下総佐倉藩第2代藩主、出羽山形藩主、三河西尾藩初代藩主。大坂城代などを歴任した。大給松平家宗家11代。.

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松平乗秩

松平 乗秩(まつだいら のりつね)は、三河西尾藩の第5代(最後)の藩主。大給松平家宗家10代。.

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松平乗穏

松平 乗穏(まつだいら のりやす)は、三河奥殿藩の第3代藩主。奥殿藩大給松平家5代。.

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松平乗紀

松平 乗紀(まつだいら のりただ)は、信濃小諸藩の第2代藩主、後に美濃岩村藩の初代藩主。岩村藩大給松平家2代。.

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松平乗美

松平 乗美(まつだいら のりよし)は、美濃岩村藩の第5代藩主。岩村藩大給松平家6代。.

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松平乗羨

松平 乗羨(まつだいら のりよし)は、三河奥殿藩の第6代藩主。奥殿藩大給松平家8代。.

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松平乗真

松平 乗真(まつだいら のりざね)は、三河大給藩の第3代藩主。のち三河奥殿藩初代藩主。奥殿藩大給松平家3代。.

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松平乗統

松平 乗統(まつだいら のりむね、宝暦9年(1759年) - 安永5年7月27日(1776年9月9日))は、三河国奥殿藩の第3代藩主・松平乗穏の世子だった人物である。 松平乗穏の長男として生まれる。母は太田資晴の娘。父から世子に指名され、将軍との御目見も済ませていたが、安永5年(1776年)7月27日に早世した。享年18。このため、弟の乗友が10月19日に世子となり、後に第4代藩主となる。 のりむね Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1759年生 Category:1776年没.

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松平乗統 (子爵)

松平 乗統(乘統、まつだいら のりつな、1883年(明治16年)1月27日『平成新修旧華族家系大成』下巻、627-628頁。 - 1961年(昭和36年)7月28日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』56頁。)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・源次郎。.

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松平乗賢

松平 乗賢(まつだいら のりかた)は、美濃国岩村藩第2代藩主、老中。岩村藩大給松平家3代。 岩村藩初代藩主・松平乗紀の長男。享保2年(1717年)、父の死により家督を相続する。奏者番、若年寄、西丸老中を歴任し、延享2年(1745年)に本丸老中となったが翌年没した。跡を養嗣子の乗薀が継いだ。.

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松平乗薀

松平 乗薀(まつだいら のりもり)は、美濃岩村藩の第3代藩主。岩村藩大給松平家4代。.

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松平乗邑

松平 乗邑(まつだいら のりさと)は、江戸幕府の老中。肥前唐津藩第3代藩主、志摩鳥羽藩主、伊勢亀山藩主、山城淀藩主、下総佐倉藩初代藩主。大給松平家宗家10代。.

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松平乗長

松平 乗長(まつだいら のりなが、1868年11月24日(明治元年10月11日『平成新修旧華族家系大成』下巻、629-630頁。)- 1928年(昭和3年)1月12日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』56頁。)は、明治・大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島、旧名・賢二郎。.

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松平乗恒

松平 乗恒(まつだいら のりつね、享保9年(1724年) - 元文5年11月5日(1740年12月23日))は、美濃国岩村藩の嫡子。第2代藩主・松平乗賢の次男。官位は従五位下、飛騨守。 岩村藩嫡子として育てられ、元文元年(1736年)徳川吉宗に御目見した。元文3年(1738年)には叙任するが、家督相続前の元文5年(1740年)に早世した。代わって、本家の下総国佐倉藩から乗薀が養子に迎えられ、嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 のりつね Category:岩村藩の人物 Category:1724年生 Category:1740年没.

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松平乗次

松平 乗次(まつだいら のりつぐ)は、三河大給藩の初代藩主。奥殿藩大給松平家初代。.

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松平乗成

松平 乗成(まつだいら のりしげ)は、三河大給藩の第2代藩主。奥殿藩大給松平家2代。 万治元年(1658年)、初代藩主(当時は4000石の旗本)松平乗次の長男として生まれる。寛文8年(1668年)3月30日に第4代将軍・徳川家綱に御目見する。寛文12年(1672年)12月28日に従五位下・石見守に叙位・任官する。延宝8年(1680年)に玄蕃頭に遷任する。貞享4年(1687年)、父の死去により家督を継ぎ、12月に縫殿頭に遷任する。 元禄7年(1694年)8月28日、大坂定番に任じられる。そして在任中の元禄16年(1703年)10月11日に大坂で死去した。享年46。跡を養子の乗真が継いだ。 のりしけ *02 Category:1658年生 Category:1703年没.

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松平乗春

松平 乗春(まつだいら のりはる)は、肥前唐津藩の第2代藩主。大給松平家宗家9代。 承応3年(1654年)、唐津藩初代藩主・松平乗久の次男として生まれる。兄が5代将軍綱吉の命により松平忠弘の婿養子になったため、元和2年(1682年)に嫡子となり、従五位下主水正に叙任された。貞享3年(1686年)、父の死去により家督を継ぎ、主水正から和泉守に遷任する。元禄3年(1690年)9月5日、江戸で死去した。享年37。 跡を長男の乗邑が継いだ。 のりはる Category:唐津藩主 Category:譜代大名 Category:1654年生 Category:1690年没.

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松平乗政

松平 乗政(まつだいら のりまさ)は、常陸小張藩主、後に信濃小諸藩の初代藩主。岩村藩大給松平家初代。祖母が石川康通の娘であったことから石川 乗政(いしかわ のりまさ)とも言われる。.

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松平乗懿

松平 乗懿(まつだいら のりよし、文政10年10月26日(1827年12月14日) - 嘉永3年6月3日(1850年7月11日))は、三河西尾藩の嫡子。4代藩主・松平乗全の四男。正室は大村純昌の娘。子は娘(松平親貴正室)。官位は左京亮。 兄3人が夭逝したため、西尾藩嫡子となる。しかし、家督を継ぐことなく嘉永3年(1850年)に早世した。その後、父・乗全が文久2年(1862年)に幕府から隠居を命じられたため、家督は叔父の乗秩が継いでいる。 のりよし Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1827年生 Category:1850年没.

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松平乗承

松平 乗承(まつだいら のりつぐ、嘉永4年12月8日(1851年12月30日) - 昭和4年(1929年)7月13日)は、明治から昭和時代初期の政治家、華族。子爵、貴族院議員。三河国西尾藩主松平乗全の五男。妻は大河内輝声の娘、みち子。子に松平乗統。.

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松平張忠

松平 張忠(まつだいら はるただ、生没年不詳)は、戦国時代の西三河地方の武将。国人領主松平氏の庶流矢田松平家の初代当主。松平宗家第4代(安城松平家初代)親忠の子。通称は右京亮、助十郎。.

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松平忠尚

松平 忠尚(まつだいら ただなお)は、陸奥白河新田藩主、のちに陸奥桑折藩の初代藩主。忠尚系奥平松平家初代。.

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松平忠暁

松平 忠暁(まつだいら ただあきら)は、陸奥桑折藩の第2代藩主。忠尚系奥平松平家2代。.

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松平忠泰 (桑折藩嫡子)

松平 忠泰(まつだいら ただやす、貞享元年(1684年) - 正徳2年9月26日(1712年10月26日))は、陸奥国桑折藩の嫡子。肥前国唐津藩主・松平乗久の九男。官位は従五位下、織部正。 長兄で桑折藩を立藩した松平忠尚の養子となり、元禄13年(1700年)に徳川綱吉に初御目見した。しかし、家督を継ぐことなく正徳2年(1712年)に早世した。代わって、忠尚と忠泰の甥にあたる忠暁が嫡子となった。 たたやす たたやす Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:唐津藩の人物 Category:1684年生 Category:1712年没.

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松平忠昭 (大給松平家)

松平 忠昭(まつだいら ただあき / ただてる)は、丹波亀山藩の第2代藩主、豊後亀川藩主、豊後中津留藩主、豊後高松藩主、豊後府内藩初代藩主。一生系大給松平家3代。.

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松平真乗

松平 真乗(まつだいら さねのり、1546年(天文15年) - 1582年4月6日(天正10年3月14日))は、戦国時代の武将。松平親乗の子。母は松平信定の娘。子に松平家乗、松平真次。幼名は源次郎。 早くから徳川家康(又従兄にあたる)に仕え、遠州平定戦では掛川城攻めで活躍した。その他にも姉川の戦い、諏訪原の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、徳川家の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げていた。天正8年(1580年)の田中城攻めの帰り、殿の石川数正の軍を朝比奈信置が襲撃した際には、真乗が反撃して破っている。天正10年(1582年)に37歳の若さで死去した。家督は長男の家乗が継いだ。 さねのり Category:戦国武将 Category:1546年生 Category:1582年没.

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松平盈乗

松平 盈乗(まつだいら みつのり)は、三河奥殿藩の第2代藩主。奥殿藩大給松平家4代。.

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松平親乗

松平 親乗(まつだいら ちかのり、永正12年(1515年) - 天正5年8月21日(1577年10月2日))は、戦国時代の武将。松平乗勝の長男。大給松平家第4代当主。官位は和泉守。通称は源次郎。母は松平清康の養女(松平信忠女)。室は松平信定女。子に松平真乗。.

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松平親忠

松平 親忠(まつだいら ちかただ)は、松平氏の第4代当主。第3代当主・松平信光の三男。母は一説によると一色氏。.

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松平親長 (岩津家)

松平 親長(まつだいら ちかなが、生没年不詳)は、戦国時代の武将。.

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松平近形

松平 近形(まつだいら ちかのり)は、豊後府内藩の第5代藩主。一生系大給松平家7代。第4代藩主松平近貞の長男。 はじめ家臣の津久井氏に養われ、津久井桃之助と名乗った。享保13年(1728年)に実家に戻る。延享2年(1745年)9月18日、父の隠居により家督を継いだ。父の代に破綻した藩財政を再建するため、倹約令を主とした法令を制定し、産業振興を奨励し、藩札の発行などを行なった。しかし道路問題から幕府と諍いを起こして逼塞を命じられた上、明和2年(1765年)には大洪水、明和6年(1769年)7月には大地震が起こって藩が大被害を受けるなど、藩政改革は失敗に終わった。 このような失意の中で、明和7年(1770年)7月21日、家督を長男の近儔に譲って隠居した。安永2年(1773年)6月10日(6月7日とも言われている)に51歳で死去した。 ちかのり Category:府内藩主 Category:譜代大名 Category:1723年生 Category:1773年没.

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松平近信

松平 近信(まつだいら ちかのぶ)は、豊後府内藩の第9代藩主。一生系大給松平家11代。.

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松平近儔

松平 近儔(まつだいら ちかとも)は、豊後府内藩の第6代藩主。一生系大給松平家8代。.

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松平近禎

松平 近禎(まつだいら ちかよし)は、豊後府内藩の第3代藩主。一生系大給松平家5代。 第2代藩主・松平近陳の次男。母は阿部重次の娘。 宝永2年(1705年)11月11日、父の隠居により家督を継ぐ。奏者番、寺社奉行を兼務した。藩政においては新川新港の建設や、城下でたびたび起こる火事に備えての防水路拡大建設に努めている。長男の虎之助は早世していたため、甥で婿養子の近貞が跡を継いだ。 ちかよし Category:江戸幕府寺社奉行 Category:府内藩主 Category:譜代大名 Category:1665年生 Category:1725年没.

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松平近義

松平 近義(まつだいら ちかよし)は、豊後府内藩の第7代藩主。一生系大給松平家9代。 明和7年(1770年)4月1日、第5代藩主松平近形の三男として生まれる。文化元年(1804年)12月6日、兄で第6代藩主の近儔の隠居にともない家督を継いだ。12月15日に従五位下、主膳正に叙位・任官した。しかし、近儔の次男の近訓が成長するまでのつなぎ的な存在に過ぎず、藩政の実権は近儔が握っていた。 文化4年(1807年)8月27日、参勤交代中に駿河の岡部で急死した。享年38。跡を近訓が継いだ。 ちかよし Category:府内藩主 Category:譜代大名 Category:1770年生 Category:1807年没.

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松平近訓

松平 近訓(まつだいら ちかくに)は、豊後府内藩の第8代藩主。一生系大給松平家10代。.

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松平近説

松平 近説(まつだいら ちかよし)は、豊後国府内藩の第10代(最後)の藩主。一生系大給松平家12代。幕末に大給(おぎゅう)姓に改名し、大給近説となる。.

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松平近貞 (豊後国府内藩主)

松平 近貞(まつだいら ちかさだ、元禄2年1月22日(1689年2月11日) - 宝暦7年5月13日(1757年6月29日))は、豊後府内藩の第4代藩主。一生系大給松平家6代。 三河田原藩主三宅康雄の次男で、母は2代藩主松平近陳の娘。正室は3代藩主松平近禎の娘。子に松平近形(長男)、三宅康之(次男)、娘(土岐頼煕正室)、娘(大給松平近朝室)、娘(久松松平定秀正室)、娘(堀田一敦室のち島津忠瑛室)、娘(加藤泰宦正室)、娘(阿部正賀正室)。官位は従五位下。主膳正。対馬守。 正徳2年(1712年)正月、先代藩主で母方のおじの近禎の婿養子となり、享保10年(1725年)の近禎の死去により跡を継いだ。享保の大飢饉や享保17年(1732年)の虫害による大被害で藩財政は一気に悪化し、幕府から3000両の金を借用して何とかする有様であった。寛保3年(1743年)4月にも城下で大火が起こり、幕府から2000両借用するなどして藩財政は破綻した。 このため、租税政策を重点において定免制度の制定や厳しい倹約令の制定、さらに商人から御用金をせしめて藩財政を再建しようとしたが、やがて失意のうちに延享2年(1745年)9月18日、家督を長男の近形に譲って隠居した。宝暦7年(1757年)5月13日、69歳で死去した。法号は雲晴院。墓所は東京都小石川の伝通院と大分県の浄安寺。 Category:府内藩主 Category:譜代大名 Category:三宅氏 ちかさた Category:1689年生 Category:1757年没.

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松平近陳

松平 近陳(まつだいら ちかのぶ)は、豊後府内藩の第2代藩主。一生系大給松平家4代。.

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松平近正

松平 近正(まつだいら ちかまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。松平親清(近清)の子。.

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松平長親

松平 長親(まつだいら ながちか)は、戦国時代の武将。松平氏の第5代当主。松平親忠の三男。徳川家康の高祖父。.

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松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

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松平成重

松平 成重(まつだいら なりしげ)は、江戸時代初期の大名。下野板橋藩2代藩主、三河西尾藩主、丹波亀山藩初代藩主。一生系大給松平家2代。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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永井尚志

永井 尚志(ながい なおゆき)は、幕末の旗本。三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。名前の読みは「なおむね」とも。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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渡辺綱光

渡辺 綱光(わたなべ つなみつ)は、江戸時代中期から後期にかけての武士・歌人。尾張藩士。渡辺半蔵家9代当主。.

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渡辺規綱

渡辺 規綱(わたなべ のりつな)は、江戸時代後期の武士・茶人。尾張藩家老、渡辺半蔵家10代当主。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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滝脇松平家

滝脇松平家(たきわきまつだいらけ)は、松平親忠の九男・乗清を祖とする松平氏の庶流。三河国加茂郡滝脇(現在の愛知県豊田市)を領したことから滝脇松平家と称した。須原屋版武鑑などで世良田松平氏と表記されている場合もある。.

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朝日新聞社

株式会社朝日新聞社(あさひしんぶんしゃ、英語:The Asahi Shimbun Company)は、全国紙『朝日新聞』を発行する日本の新聞社である。新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演、スポーツ大会の開催などの事業活動も行う例えば、全国高等学校野球選手権大会(いわゆる「夏の甲子園」)を日本高等学校野球連盟と共に主催している。。 新聞販売店の名称は「ASA」(朝日新聞サービスアンカー, Asahi Shimbun Service Anchor)であり、日本全国で約3000か所、従業員数約7万8,000人を擁する。日本ABC協会の調査によると海外を含む。 創立は1879年(明治12年)1月8日、日本国内の本支社数は5社、取材拠点は293か所、印刷拠点は24か所であり、日本国外機関は34拠点存在する。.

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朝日新書

朝日新書(あさひしんしょ、Asahi Shinsho)は、朝日新聞出版が刊行する新書。毎月10日前後に5点程度ずつ刊行している。.

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朽木玄綱

朽木 玄綱(くつき とうつな)は、丹波福知山藩の第5代藩主。福知山藩朽木家6代。.

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明暦

明暦(めいれき)は日本の元号の一つ。承応の後、万治の前。1655年から1658年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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新井白石

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

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1658年

記載なし。

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1684年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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