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北条時定 (時氏流)

索引 北条時定 (時氏流)

北条 時定(ほうじょう ときさだ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。北条時氏の三男。母は松下禅尼で、第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の同母弟にあたる。得宗家から鎮西に下向した阿蘇家の祖。諱はのちに為時(ためとき)と改名している。.

69 関係: 執権南小国町吉川弘文館宝治宝治合戦守護宗尊親王安田元久安貞寛喜尊卑分脈左衛門尉三浦氏五輪塔弘安弘長得宗従五位北条定宗北条経時北条随時北条氏北条氏 (阿蘇流)北条泰時北条時定北条時定 (時房流)北条時頼北条時氏北条時政元寇国司細川重男猶子熊本県隠居鎮西奉行鎌倉幕府鎌倉時代遠江国高橋慎一朗足利家氏足利泰氏阿蘇郡閏月開創藤原頼嗣肥前国松下禅尼村井章介檜皮姫...正応渋川義顕満願寺満願寺 (熊本県南小国町)惟康親王新人物往来社10月15日 (旧暦)11月18日1227年1230年1247年1264年1281年1285年1286年1287年1289年1290年2013年 インデックスを展開 (19 もっと) »

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所の別当の中心となるものの呼称であった。 ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。.

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南小国町

南小国町(みなみおぐにまち)は、熊本県阿蘇郡にある町。 農林業を主産業とする。観光地として、黒川温泉などの温泉地や「熊本緑の百景」第1位に選ばれた瀬の本高原などがある。.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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宝治

宝治(ほうじ)は、日本の元号の一つ。寛元の後、建長の前。1247年から1249年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、執権は北条時頼。.

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宝治合戦

宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、『吾妻鏡』しか現存しない。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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宗尊親王

宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉幕府6代将軍(在任:建長4年(1252年)4月 - 文永3年(1266年)6月、皇族で初めての征夷大将軍)。後嵯峨天皇の第一皇子。.

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安田元久

安田 元久(やすだ もとひさ、1918年10月19日 - 1996年1月23日)は、日本の歴史学者。元学習院大学学長。文学博士(東京大学、1962年)。専門は日本中世史・鎌倉時代史研究。.

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安貞

安貞(あんてい)は、日本の元号の一つ。嘉禄の後、寛喜の前。1227年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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寛喜

寛喜(かんぎ、かんき)は、日本の元号の一つ。安貞の後、貞永の前。1229年から1231年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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左衛門尉

左衛門尉(さえもんのじょう)とは、日本の律令制下の官職のひとつ。左衛門府の判官であり、六位相当の官職であった。五位の者が任ぜられた場合、左衛門大夫または大夫尉という他、検非違使と兼ねた場合には廷尉と俗称された。平家追討において活躍した源義経も任ぜられている。鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士の任官が広くなされるようになるにつれ、左衛門尉などの武官の職は武士から広く好まれるようになり、鎌倉~江戸期を通じて多くの武将たちが任ぜられるか、受領名として使用されるようになっていった。.

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三浦氏

三浦氏(みうらし)は、平安時代の相模国の武家。三浦党(みうらとう)とも呼ばれる。.

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五輪塔

西大寺奥の院) 五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓として使われる塔の一種。五輪卒塔婆とも呼ばれる。 一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。 石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。.

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弘安

弘安(こうあん)は、日本の元号の一つ。建治の後、正応の前。1278年から1287年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇、伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗、北条貞時。.

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弘長

弘長(こうちょう)は、日本の元号の一つ。文応の後、文永の前。1261年から1263年までの期間を指す。この時代の天皇は亀山天皇。鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条長時。.

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得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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北条定宗

伝北条時宗像、実際には定宗像とも。 北条 定宗(ほうじょう さだむね、文永5年(1268年) - 永仁3年8月19日(1295年9月29日))は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。阿蘇流2代当主。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の甥にあたる。 時宗の異母弟で、得宗家傍流である桜田時厳の子。阿蘇家の祖・北条時定の養子。阿蘇定宗とも呼ばれる。肥前国守護、修理亮、大友左近大夫将監。 元寇に際して鎮西に下向した大叔父である北条時定の養子となり、阿蘇家の家督を継ぐが、時定の死去から5年後の永仁3年(1295年)8月19日、現地で死去。享年28。 家督は子の随時が継いだ。墓所は熊本県阿蘇郡満願寺。 北条時宗像として知られる満願寺所蔵の肖像画は、各史料から実際には定宗の肖像と見られている。.

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北条経時

北条 経時(ほうじょう つねとき)は、鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権(在職:仁治3年6月15日(1242年7月14日) - 寛元4年3月23日(1246年4月10日))。 第3代執権の北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼(安達景盛の娘)で、第5代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄にあたる。.

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北条随時

北条 随時(ほうじょう ゆきとき)は鎌倉時代後期・末期の北条氏の一門。阿蘇流の3代当主。阿蘇 随時(あそ ゆきとき)とも。 正和4年(1315年)7月8日、二番引付頭人を経て、文保元年(1317年)2月もしくは3月に鎮西探題に就任。 元亨元年(1321年)6月23日、鎮西にて31歳で死去(死亡月は4月25日、5月25日説も)。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北条氏 (阿蘇流)

阿蘇流北条氏(あそりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一門。鎌倉幕府4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼の同母弟である北条時定(北条為時)を祖とする。 北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥後国阿蘇社領の預所・地頭両職を時定が継承し、苗字を阿蘇と呼ばれる。元寇にあたり、肥前国の守護となった時定が現地に下向して以降、九州に土着した。時定は阿蘇家と同じく得宗家傍流で鎮西に下向した桜田家で桜田時厳の子の定宗を養子に迎えて家督を譲り、阿蘇家は随時、治時と継承された。 歴代は鎮西に在住していたが、3代随時は鎮西探題就任前の短期間に鎌倉で二番引付頭人を務めており、また4代治時は得宗家の総領である北条高時の猶子となるなど、得宗家との結びつきがつよく、阿蘇家は得宗家による鎮西支配強化の役割を担っていたと見られる。 元弘の乱では当主北条治時が楠木正成の本拠地千早城を攻めたが、鎌倉陥落の報を聞き、般若寺で出家して降伏するが京都阿弥陀寺で処刑されて滅亡した。 ただし戦国期伊勢北畠氏の重臣に阿蘇流北条氏の子孫を名乗るものが複数存在する。 祖の時定が熊本県阿蘇郡南小国町に建立した満願寺には、時定・定宗・随時三代のものと伝えられる五輪塔と、時定・定宗の肖像画がある。.

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北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。.

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北条時定

北条 時定(ほうじょう ときさだ)は鎌倉時代の武将。北条氏の一族。.

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北条時定 (時房流)

北条 時定(ほうじょう ときさだ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。父は鎌倉幕府初代連署である北条時房。 嘉禎3年(1237年)3月8日、将軍・九条頼経の近習となる。暦仁2年(1239年)1月、従五位下・右近将監に叙位・任官される。寛元4年(1246年)にはその主君の頼経を鎌倉から京都に送り届ける責任者を務めた。 建長2年(1250年)12月27日には頼経の後を継いで将軍となっていた九条頼嗣の近習番頭に任じられた。康元元年(1256年)10月23日に出家して高野山に住んだという。弘安元年(1278年)閏10月15日に死去。.

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北条時頼

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。北条時輔、第8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。.

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北条時氏

北条 時氏(ほうじょう ときうじ)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男。嫡子だったが早世したため執権にはなっていない。.

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北条時政

北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時家か北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。 家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。.

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元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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細川重男

細川 重男(ほそかわ しげお、1962年『鎌倉幕府の滅亡』ISBN 978-4-642-05716-5 より - )は、日本の歴史学者。東洋大学・國學院大學非常勤講師。博士(文学)(立正大学、1997年)。東京都出身。 専門は日本中世政治史、古文書学。金本正之・百瀬今朝雄に師事。.

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猶子

子(ゆうし)とは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)という意味。 中国における本義は兄弟の子の意味。養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。 ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。.

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熊本県

本県(くまもとけん)は、九州地方の中央に位置する県。 県庁所在地は熊本市(政令指定都市)。令制国の肥後国に当たる。有明海、不知火海、東シナ海に面していて、また日本第2位の阿蘇カルデラを持つ阿蘇山が知られる。.

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隠居

居(いんきょ)は、戸主が家督を他の者に譲ること。または家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなど。隠退(いんたい)とも。 日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年法律第74号)により、日本国憲法の施行(1947年5月3日)と同時に、戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止された。.

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鎮西奉行

鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)とは、鎌倉幕府において、鎮西(九州)の御家人の指揮統制を行った職である。鎮西守護(ちんぜいしゅご)とも呼ばれる。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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高橋慎一朗

橋 慎一朗(たかはし しんいちろう、1964年 - )は、日本の歴史学者、東京大学史料編纂所教授。専門は日本中世史・都市史・鎌倉時代政治史。.

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足利家氏

足利 家氏(あしかが いえうじ、生没年不明)は、鎌倉時代中期の御家人。足利泰氏の長男で、足利尾張家の初代。子に義利、貞数、宗家。子孫は斯波氏、大崎氏、最上氏、石橋氏。弟に兼氏(義顕、渋川氏祖)、頼氏(足利5代当主)、公深(一色氏祖)、頼茂(石塔氏祖)、義弁(上野氏祖)、賢宝(小俣氏祖)、基氏(加古氏の祖)等多数。.

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足利泰氏

足利 泰氏(あしかが やすうじ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。足利家3代目当主足利義氏の嫡男。足利宗家4代当主奥富、2008年、p.92-111。小谷、1980年。。室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の高祖父。.

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阿蘇郡

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閏月

閏月(うるうづき / じゅんげつ)とは、太陰太陽暦において加えられる「月」のこと。これによって一年が13か月となる。.

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開創

開創(かいそう)とは寺院を創設すること。 寺院開創の創立者を開基、寺院の宗派のうえでの開創僧侶のことを開山という。.

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藤原頼嗣

藤原 頼嗣(ふじわら の よりつぐ)は、鎌倉幕府5代将軍。五摂家のひとつ、九条家の出身の摂家将軍。九条頼嗣とも呼ばれる。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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松下禅尼

松下禅尼(江戸時代菊池容斎画) 松下禅尼(まつしたぜんに、生没年未詳)は鎌倉時代中期の女性。鎌倉幕府の御家人・安達景盛の娘 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.2。北条時氏の正室。鎌倉幕府の第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の母。子は他に時定(為時)、檜皮姫、女子(北条時定 (時房流)室)など。.

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村井章介

村井 章介(むらい しょうすけ、1949年3月12日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史・対外関係史。立正大学文学部史学科教授、東京大学名誉教授、大阪市出身。.

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檜皮姫

檜皮姫(ひわだひめ、寛喜2年(1230年) - 宝治元年5月13日(1247年6月17日))は、鎌倉時代中期の北条一門の女性。北条時氏の娘で、母は松下禅尼。鎌倉幕府第5代将軍・藤原頼嗣の正室。第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼、北条時定の妹に当たる。.

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正応

正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.

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渋川義顕

渋川 義顕(しぶかわ よしあき)は、鎌倉時代中期の御家人。渋川氏初代当主。 足利泰氏の次男として誕生。上野国渋川荘を領し渋川を号する。動向は不明な点が多いが、兄・斯波家氏と共に御家人として鎌倉将軍に仕えたといわれ、吾妻鏡では寛元3年(1245年)の鶴岡八幡宮放生会に臨む5代将軍・藤原頼嗣の随兵を務めたとある。また康元元年(1256年)に6代将軍・宗尊親王が北条政村の邸宅に出向いた際に供奉したとあるが、これを最後に義顕の記述が消えるため、以降の行方は不明である。 家氏と同母兄弟であったが、父・泰氏が得宗家から正室を迎えたため足利家の家督は弟の頼氏が継いだ。そのため足利一門中での家格は高かったものと思われる。.

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満願寺

満願寺(まんがんじ).

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満願寺 (熊本県南小国町)

満願寺(まんがんじ)は、熊本県阿蘇郡南小国町にある高野山真言宗の寺院である。山号は立護山。本尊は地蔵菩薩。九州観音霊場三十三ヶ所第16番。.

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惟康親王

惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王の嫡男。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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10月15日 (旧暦)

旧暦10月15日は旧暦10月の15日目である。六曜は赤口である。.

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11月18日

11月18日(じゅういちがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から322日目(閏年では323日目)にあたり、年末まであと43日ある。.

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1227年

記載なし。

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1230年

記載なし。

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1247年

記載なし。

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1264年

記載なし。

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1281年

記載なし。

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1285年

記載なし。

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1286年

記載なし。

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1287年

記載なし。

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1289年

記載なし。

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1290年

記載なし。

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2013年

この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。.

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