201 関係: 型、増阿弥、大和国、大和猿楽、太鼓、宝生九郎知栄、宝生流、室町幕府、宮増、寛政、岩倉具視、岩波文庫、岩波書店、世子六十以後申楽談儀、世阿弥、京観世、二条良基、井上八千代、井上流、井筒 (能)、仙洞御所、式三番、伝書、佐々木道誉、佐渡島、征夷大将軍、徳川家康、徳川家重、徳川家治、徳川宗武、徳川綱吉、俊徳丸、和歌、免許、勧進能、国学、犬王、矢来観世家、砧 (能)、禁中、福王流、紅葉狩 (能)、維新、猿楽、片山九郎右衛門、片山幽雪、花よりも花の如く、花鏡、芸名、隅田川 (能)、...、音阿弥、融、道成寺、蝉丸 (能)、表章、風姿花伝、西行桜、観世宗節、観世寿夫、観世左近、観世信光、観世元章、観世元義、観世元雅、観世元正、観世元滋、観世四郎、観世紅雪、観世銕之丞 (9世)、観世銕之亟、観世銕之亟 (8世)、観世華雪、観世能楽堂、観世重賢、観世長俊、観世栄夫、観世清孝、観世清尚、観世清廉、観世清和、観世清長、観阿弥、駿府、高砂 (能)、高野山、謡、豊臣秀吉、賀茂真淵、足利義満、足利義持、足利義政、足利義教、鼓、近畿地方、近江国、能、能楽、能楽協会、能楽師、能楽書林、船弁慶、金春禅竹、金春禅鳳、金春流、長谷川強、連歌、耳嚢、東京、根岸鎮衛、梅若実 (初世)、梅若万三郎、梅若万三郎 (初世)、梅若六郎、梅若六郎 (54世)、梅若流、森田流、橋岡久太郎、檜書店、櫻間伴馬、江戸幕府、江戸時代、明治、明治維新、浜松、浜松城、1333年、1363年、1374年、1384年、1398年、1422年、1429年、1432年、1434年、1440年、1443年、1467年、1470年、1472年、1482年、1493年、1500年、1509年、1523年、1525年、1556年、1566年、1571年、1576年、1578年、1580年、1583年、1584年、1585年、1603年、1614年、1620年、1626年、1631年、1633年、1658年、1666年、1683年、1687年、1693年、1694年、1716年、1722年、1727年、1741年、1746年、1747年、1756年、1761年、1765年、1774年、1781年、1782年、1792年、1810年、1815年、1823年、1830年、1837年、1842年、1867年、1876年、1888年、1895年、1911年、1919年、1921年、1930年、1939年、1950年代、1954年、1959年、1986年、1990年、2006年、2009年。 インデックスを展開 (151 もっと) »
型
型(かた).
増阿弥
増阿弥(ぞうあみ、生没年未詳)は、室町時代の田楽法師、田楽新座の役者。世阿弥と同時期に活躍し、田楽能の名手として世阿弥と人気を争った。「冷えに冷えたり」(『申楽談義』)と評されるように、幽玄な芸風の持ち主であったらしく、応永20年代ごろ足利義持の後援を受けて活躍した。 生年未詳ではあるが、応永21年(1414年)の年紀を持つ『竹生島縁起』に勧進者として名が挙がり、逆算して世阿弥と同年代かあるいはやや年下と考えられる。詳細不明ながら、『申楽談義』によれば「閑花風」(『九位』の第三位)の芸風で、東北院の立合能では「感涙も流るるばかり」の名演を見せたという。また「冷えに冷えたり」という有名な評言で知られる「尺八の能」を演じたことからも推測されるように、尺八をよくしたらしく、『体源抄』や『ささめごと』には豊原量秋に師事して名手であった旨の記載がある。 『仮面譜』以来、女面の増の作者もしくはモデルとなった女性の夫に擬せられることがあるが、真偽不明。 Category:芸道 Category:室町時代の人物 Category:生没年不詳.
大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
大和猿楽
大和猿楽(やまとさるがく)とは、大和国(現在の奈良県)を中心として活躍した猿楽の座。大和猿楽四座は現在の能楽協会の直接の母体である。 古くから興福寺や春日大社などの神事に奉仕することを職務とし、外山(とび)座、坂戸座、円満井(えんまんい)座、結崎(ゆうざき)座の4座が特に知られて、大和四座と称された。室町時代に入って結崎座の観阿弥・世阿弥父子が将軍家に重んじられて猿楽を現在の能楽とほぼ同等の芸能に発展させている。以後、豊臣氏・徳川氏にも重んじられ、外山座は宝生座、坂戸座は金剛座、円満井座は金春座、結崎座は観世座となり、元和年間に金剛座から分かれた喜多流を加えた四座一流の系譜(原則として世襲)を継ぐ能楽師によって、現在の能楽協会が構成されている。.
太鼓
太鼓(たいこ)は、動物の皮などで作った薄い膜を枠(胴)に張り、それをたたいて音を出す楽器である。楽器分類学では「膜鳴楽器」と呼ぶが、実用上の楽器分類では「体鳴楽器」とともに打楽器に分類される。太鼓は古くから存在する楽器のひとつで、世界各地に広く分布し、その地域によって特色ある太鼓が存在している。楽器として使用されるほか、かつて西アフリカにおいては太鼓によって遠距離通信を行う、いわゆるトーキングドラムという使用法が広く行われていた。 胴と膜の枚数によって、以下のように分類される。.
宝生九郎知栄
16世 宝生 九郎(16せい ほうしょう くろう、1837年7月10日(天保8年6月8日) - 1917年(大正6年)3月9日)は日本の能楽師。能楽シテ方宝生流16世宗家。本名は知栄(ともはる)。 維新後衰退した能楽界にあってその復興の中心を担い、初世梅若実・桜間伴馬とともに「明治の三名人」と並び称される。また多くの後進を育て、宝生流のみならず、能楽界全体の発展に力を尽くした表・天野(1987)、366~7頁。.
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宝生流
宝生流(ほうしょう-りゅう)は能楽の流派の一。現在、シテ方とワキ方(下掛宝生流)とがあり、それぞれ別の流儀である。単に「宝生流」というときはシテ方の宝生流をいうことが多い。 また、かつて大鼓方にも「宝生流」「宝生錬三郎派」と呼ばれる流儀があったが、1986年に観世流の名に復した。.
室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
宮増
宮増(みやます)は、能「調伏曽我」「小袖曽我」「鞍馬天狗」「烏帽子折」「大江山」などの作者として、各種作者付に名前が見られる人物。計36番もの能の作者とされながら、その正体はほとんど明らかでなく、「謎の作者」と言われている西野春雄「中作能の作者と作品(四)宮増の能」竹本幹夫「『自家伝抄』の資料性と能作者宮増」。 その作風は先行する観阿弥、また後の観世小次郎信光などに通じるもので、面白味を重視した演劇性の強い作品が多い北川忠彦「謡曲作者宮増をめぐる試論」。 永享頃から室町後期にかけ、宮増姓を名乗る「宮増グループ」と呼ぶべき大和猿楽系の能役者群が活動しており、近年の研究では能作者「宮増」はその棟梁を務めた人物、あるいはグループに属した能作者たちの総称であるとも考えられている。.
寛政
寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.
岩倉具視
岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。.
岩波文庫
岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行する文庫本レーベル。1927年(昭和2年)7月10日に、ドイツのレクラム文庫を模範とし、書物を安価に流通させ、より多くの人々が手軽に学術的な著作を読めるようになることを目的として創刊された日本初の文庫本のシリーズ。最初の刊行作品は『新訓万葉集』などであった。.
岩波書店
株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.
世子六十以後申楽談儀
世子六十以後申楽談儀(ぜしろくじゅういごさるがくだんぎ)、通称『申楽談儀』は室町時代に成立した、世阿弥の芸談を筆録した能楽の伝書、芸道論。.
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世阿弥
世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。 幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。.
京観世
京観世(きょう-かんぜ).
二条良基
二条良基邸・二条殿址・京都市中京区両替町通御池上る東側 二条良基邸・二条殿御池址・京都市中京区室町通押小路下る東側 二条 良基(にじょう よしもと)は、の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。 最初の関白は在任13年間の長期にわたり、死の間際まで通算5度(数え方によっては4度(理由は後述))にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めた。.
井上八千代
井上 八千代(いのうえ やちよ)は、京舞井上流家元の名跡である。.
井上流
井上流(いのうえりゅう)は、日本舞踊における流派のひとつ。上方舞に分類され、京都で発展したことから「京舞」とも呼ばれる(京舞と呼ばれる分野には、他に篠塚流がある)。.
井筒 (能)
『井筒』 (いづつ) は、能を代表する曲の一つである。世阿弥作と考えられ、世阿弥自身が申楽談儀でこの曲を「上花也」(最上級の作品である)と自賛するほどの自信作であった。若い女性をシテとした鬘能で、序ノ舞を舞う大小ものである。.
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仙洞御所
仙洞御所(せんとうごしょ)は、譲位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいう。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。.
式三番
式三番(しきさんばん)とは、能・狂言とならんで能楽を構成する特殊な芸能の一つ。能楽の演目から転じて、歌舞伎舞踊や日本舞踊にも取入れられているほか、各地の郷土芸能・神事としても保存されており、極めて大きな広がりを持つ芸能である。なお、現代の能楽師たちはこの芸能を、その文化を共有する人たちにだけ通じる言葉、いわゆる符牒として「翁」「神歌」(素謡のとき)と呼んでおり、「式三番」と呼ぶことはほとんど無い。.
伝書
伝書(でんしょ、傳書)とは、日本の芸道などにおいて芸術や武術の流派の奥義や秘伝を記した写本や本である。 伝書は、今日的に言えば、一種の教科書、マニュアルとも言えるが、その内容は初心者向けや一般向けに書かれたものではない。主にその流派の形の名、口伝、奥義や秘伝を記し、師匠が流派の後継者、あるいは目録、免許を与えた者に限って授けるような書物である。また空手道の糸東流のようにあらたに伝書を作成し伝えることも行なわれる。.
佐々木道誉
佐々木 道誉/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。.
佐渡島
佐渡島(さどしま、さどがしま)国土地理院 「」、「」平成26年10月1日時点。「」は、新潟県西部に位置する周囲262.7kmの島で、その全域が新潟県佐渡市である。人口は58,047人(2014年12月1日現在)。 面積は854.76km。これは、島嶼部を除いた東京都(東京23区・多摩地域)の面積1791.47kmの約48%にあたり、大阪府の面積1897.86kmの約45%に相当する。本州などの主要4島と北方領土を除く日本の島の中で沖縄本島に次ぐ面積を持つ。 また周囲262.7kmの距離は概ね本州を横断する上越新幹線(大宮駅-新潟駅約100分)の路線距離269.5kmに相当する。最高標高は金北山の1,172mで、その西隣の妙見山(標高1,042m)山頂には日本海の一定空域を監視する自衛隊のレーダーサイトがある。.
征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
徳川家重
増上寺の墓所にある家重の石塔 徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍(在任:延享2年(1745年)- 宝暦10年(1760年))である。.
徳川家治
徳川 家治(とくがわ いえはる)は江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年) - 天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方(梅渓通条の娘)。.
徳川宗武
徳川 宗武(とくがわ むねたけ)は、江戸幕府第8代将軍・吉宗の次男。官位は従三位権中納言。松平定信の実父に当たる。江戸時代の御三卿・田安家の初代当主であり、田安 宗武とも呼ばれる。.
徳川綱吉
徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.
俊徳丸
天下無双佐渡七太夫正本『せつきやうしんとく丸』(正保5年3月刊、九兵衛板)挿図 俊徳丸(しゅんとくまる)は、「俊徳丸伝説」(高安長者伝説)で語られる伝承上の人物。河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘・乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、というのが伝説の筋で、この題材をもとに謡曲の『弱法師』、説教節『しんとく丸』、人形浄瑠璃や歌舞伎の『攝州合邦辻』(せっしゅうがっぽうがつじ)などが生まれた。説教節『しんとく丸』では信徳丸(しんとくまる)。おなじ説教節『愛護若』(あいごのわか)との共通点も多い。.
和歌
和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.
免許
免許(めんきょ)とは、以下の2つを指す。.
勧進能
勧進能(かんじんのう)は、寺社の建立、改築などの際に寄付を募るために、入場料を取って行われた田楽や猿楽の公演である。後には本来の目的が薄れ、猿楽師の収益のため行われるようになった。.
国学
国学(こくがく、正字・國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つで、和学・皇朝学・古学(古道学)などの別名がある。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。.
犬王
王(いぬおう、生年不詳 - 応永20年5月9日(1413年6月7日))は観阿弥と同時期に活躍した近江猿楽日吉座の大夫。猿楽能の名手として観世座の観阿弥・世阿弥と人気を二分した。阿弥号の「道阿弥」でも知られる。.
矢来観世家
来観世家(やらいかんぜけ)とは、能楽シテ方観世流の職分家のひとつ。観世九皐会を主宰し、分家観世銕之丞家の分家筋にあたる。梅若がかりの芸風を持ち、流内で宗家、分家、梅若両家に次ぐ格式と規模を持つ。.
砧 (能)
『砧』(きぬた)は、世阿弥作といわれる能楽作品。成立は室町時代。『申楽談儀』に曲名が出ており『糺河原勧進猿楽記』には音阿弥による上演記録がある。夫の留守宅を守る妻の悲しみが描かれており、詞章、節づけともに晩秋のものがなしさを表現して、古来人々に好まれてきた能である。 なお、タイトルの「砧」とは木槌で衣の生地を打ってやわらかくしたり、つやをだしたりする道具のこと。この作品では、女主人公が砧を打つことが情念の表現になっている。.
禁中
禁中(きんちゅう)は、禁門(禁闕)の内部、すなわち天子が住む宮中(きゅうちゅう)を指す。禁裏(きんり)とも呼ばれる。「禁」は厳しく出入りを制限する意味から帝王の住み処を指し、「中」、「裏」はいずれも内部、内側を意味する。.
福王流
福王流(ふくおう-りゅう)は能楽ワキ方の一流派。江戸時代には主に観世流の座付として活動し、現在でも芸系が近い。現宗家は十六世福王茂十郎。.
紅葉狩 (能)
『紅葉狩』(もみじがり)は、能の一曲である。平維茂の鬼退治を描く。 観世小次郎信光作。信光は『船弁慶』『鐘巻』(『道成寺』の原型)の作者でもある。本作もまた初期の登場人物が多い、ワキの積極的な関与が見られるなど、劇的構成を目指した比較的新しいスタイルの能である。美しい紅葉の情景、美女一行の姿と舞が前段の見どころ、一転して派手な激闘となる後段との対比が楽しい能である。.
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維新
維新(いしん)とは、「変革」の意味を持つ語である。和訓では「これあらた」と読む。.
猿楽
猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。.
片山九郎右衛門
片山 九郎右衛門(かたやま くろうえもん)は、シテ方観世流能楽師の片山家の当主が代々名乗る名である。片山家は初代以来現在に至るまで京都で活動し、江戸時代には禁裏御能に出勤するとともに、京阪地方の観世流の統括役でもあり、「観世流の京都所司代」と目された。また京舞井上流との関わりでも知られる。.
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片山幽雪
片山 幽雪(かたやま ゆうせつ、1930年(昭和5年)8月26日 - 2015年(平成27年)1月13日)はシテ方観世流能楽師。京都片山家九世当主(片山家能楽・京舞保存財団理事長)。重要無形文化財保持者(人間国宝)。日本芸術院会員。日本能楽会理事長。本名は片山 博太郎(かたやま ひろたろう)。.
花よりも花の如く
『花よりも花の如く』(はなよりもはなのごとく)は、能をテーマとした成田美名子による漫画。2001年より『月刊メロディ』で連載が開始されたが、同誌は本作連載中の2006年に隔月刊誌『MELODY』にリニューアルした。.
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花鏡
花鏡(かきょう)は能芸論書。一巻。世阿弥著。応永三十一年(1424年)までに段階的に成立。『風姿花伝』以後、約二十年間の著述を集成したもの。 花鏡は世阿弥が父と別れてから四十年の間に、彼が体得し、開拓し得た芸術論を集成したものといえる。とくに「奧段」と呼ばれる最後の段は、芸の奥義として「初心忘るべからず」と記され、世阿弥の芸能論の精髄と評されている。.
芸名
芸名(げいめい)とは、芸能人が芸能活動をする上で本名のほかに持つ名。 .
隅田川 (能)
14世喜多六平太による「隅田川」の一場面。荻島雄三撮影 『隅田川』 (すみだがわ) は能楽作品の一つである。観世元雅作。 一般に狂女物は再会→ハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描く。 各流派で演じられるが、金春流で演じられる時は、『角田川』(すみだがわ)のタイトルになる。.
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音阿弥
音阿弥(おんあみ、またはおんなみ、応永5年(1398年)- 文正2年1月2日(1467年2月6日))は室町時代の猿楽能役者。観世三郎元重。観阿弥の孫、世阿弥の甥に当たる。三世観世大夫。.
融
融」(とおる)は能の演目の1つ。五番目物・貴人物・太鼓物に分類される松本(1987)、p.110。作者は世阿弥(1363年? - 1443年?)。 平安時代の左大臣源融とその邸宅・河原院をめぐる伝説を題材とする。荒廃したかつての河原院跡に月明かりの夜、融の霊が現われるという趣向で、情緒ある詩的な「佳品」と評される。.
道成寺
道成寺 (どうじょうじ)は、和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺院。新西国三十三箇所観音霊場の第五番札所である。道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(「宮子姫伝記」)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い、「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える古い話である。 拝観の際には縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法が行われる。.
蝉丸 (能)
蝉丸(せみまる)は、能の演目のひとつ。盲目の皇子「蝉丸」が山に捨てられ、哀しみの中で琵琶を弾いていると、狂人となった姉が現れ、二人の身の不幸を嘆き合う話。因果応報や姉弟の情、与えられた運命に従う悲しくも美しい姿を名文句で謳い上げる。高貴な姿から一変する様子や、二人が掛け合いで別れを惜しみ合う場面など、涙を誘うドラマティックな演出が見どころ。四番目物(五番立てと呼ばれる正式な演能の際に四番目に上演される曲で、亡霊などが主役になるもの)、狂乱物と呼ばれるジャンルの一作。世阿弥の作と言われる。.
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表章
表 章(おもて あきら、1927年4月26日 - 2010年9月7日)は、能楽研究者。法政大学名誉教授。能楽史、世阿弥伝書などの研究で著名であった。.
風姿花伝
姿花伝 (ふうしかでん、風姿華傳) は、世阿弥が記した能の理論書。世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品。亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。 成立は15世紀の初め頃。全七編あり、最初の三つが応永7年(1400年)に、残りがその後20年くらいかけて執筆・改訂されたと考えられている。「幽玄」「物真似」「花」といった芸の神髄を語る表現はここにその典拠がある。最古の能楽論の書であり、日本最古の演劇論とも言える。 多くの人に読まれ始めたのは20世紀に入った明治42年(1909年)に吉田東伍が学会に発表してからで、それまでは能楽流派の奈良金春宗家の相伝の「秘伝書」の形で、その存在すらほとんど知られていなかった。『花伝書』の通称が用いられていた頃もあったが、後の研究の結果現在では誤称とされる。 能の芸道論としても読める一方、日本の美学の古典ともいう。Kadensho、Flowering Spirit などの題名で何度か外国語訳もされ、日本国外でも評価されている。.
西行桜
『西行桜』(さいぎょうざくら)は、世阿弥作の能楽作品。成立は室町時代。詳細は右記を参照。.
観世宗節
観世 宗節(かんぜ そうせつ、永正6年(1509年) - 天正11年12月5日(1584年1月17日))は、戦国時代に活躍した観世流猿楽師。七世観世大夫。諱は元忠、法名は、一安斎宗節。現代に至るまで観世宗家の通り名となっている「左近」を初めて名乗った人物ともされるが、後代の誤伝の可能性が高い表章「観世元忠(宗節)は「左近大夫」に非ず」(日本文学誌要42号)、1990年。 戦乱によって苦境に立たされた芸界にあって、家に伝わる伝書、謡本などを書写・整理し、また徳川家康に早くから接近して、後代の観世座隆盛の礎を築いた。.
観世寿夫
観世 寿夫(かんぜ ひさお、1925年11月12日 - 1978年12月7日)は、観世流の能楽シテ方。53歳で早世した。 七代観世銕之丞(雅雪)の長男で、弟に観世栄夫、八代観世銕之丞(静夫)がいる。戦後の能楽復興期に「伝統芸術の会」、「能楽ルネッサンスの会」、「華の会」を結成参加。能楽以外の演劇人や音楽家たちと交流した。冥の会などで不条理演劇やギリシア悲劇を上演しつつ、「世阿弥伝書研究会」で、世阿弥の能芸論を軸に、能の本質を問い続けた著作を残しており、遺著で代表作「心より心に伝ふる花」は今日でも重版されている。「昭和の世阿弥」と言われる。.
観世左近
観世左近は、中世以来近代に至るまで、シテ方観世流宗家の当主がしばしば名乗った名。「左近」「左近大夫」の両形がある。近代以降では24世宗家観世元滋が特に有名。.
観世信光
観世信光(かんぜ のぶみつ、旧字体:觀世信光、永享7年(1435年)または宝徳2年(1450年) - 永正13年7月7日(1516年8月5日))は日本の室町時代の猿楽師(能楽師)、猿楽(能)作者。観世小次郎信光とも表記される。.
観世元章
観世 元章(かんぜ もとあきら、享保7年(1722年) - 安永2年1月18日(1774年2月28日))は、江戸時代中期のシテ方観世流猿楽師。観世流十五世宗家。観世左近と称する。 宗家十四世織部清親の子。初名清温。通称は三十郎・左近。国学を好んで考証を好み、田安宗武、賀茂真淵、加藤枝直等の協力のもと、「明和の改正」と言われる謡曲の詞章を大改訂を行い、『明和改正謡本』を刊行。しかし、詞章の大改訂は周囲には不評で、元章の没後数ヶ月で廃された。ただし、すべてが以前に戻されたのではなく、新しい演曲や舞台上の演出に関する詞章の改訂、節付記号などは後代に受け継がれて現在に至る。作品「梅」は観世流の現行曲。 十代将軍徳川家治の若い頃から能楽の指南を務めたことから、1752年(宝暦2年)分家を認められ、弟の観世織部清尚に別家させる。四座一流に次ぐ地位を認められ、幕府の演能にも出演する資格を得る。宗家伝来の面や装束も分与し、これがのちに観世銕之亟家となる。現在でも、観世流において「分家」といえば銕之亟家を指す。.
観世元義
観世元義(かんぜ もとよし、1873年 - 1920年1月26日)は、シテ方観世流能楽師。22世宗家で最後の観世大夫・観世清孝の三男で、24世宗家・観世左近(元滋)の実父。7世片山九郎右衛門。初名・寿。号は寿雪(雪号参照)。.
観世元雅
観世 元雅(かんぜ もとまさ、 応永元年(1394年)、あるいは応永8年(1401年)頃 - 永享4年8月1日(1432年8月26日))は室町時代の能作者、猿楽師。通称は十郎。初名は元次とも。法諱は善春。世阿弥の長男とされ、弟に『申楽談儀』を著した元能がいる。.
観世元正
土蜘蛛」。年少のため、直面で演じている 観世元正(かんぜ もとまさ、1930年(昭和5年)7月25日 - 1990年(平成2年)8月26日)は、シテ方観世流能楽師。二十五世観世宗家。観世左近を名乗る。 22世宗家観世清孝の次男・観世真弘の孫として東京で生まれる。旧名は藤田正司。1936年(昭和11年)当時実子に恵まれなかった24世宗家・元滋の養子となり、1939年(昭和14年)元滋の急逝により25世宗家継承。1988年(昭和63年)観世左近を襲名。1990年(平成2年)公演先の福岡で演能後に急逝。観世宗家公認の現行の観世流謡本である『観世流昭和大成版謡本』を刊行するなどの功績があった。また死後、その遺志により財団法人観世文庫が創設されている。 二十六世観世宗家観世清和は長男。山階弥右衛門(観世芳宏改メ)は次男、観世芳伸は三男である。.
観世元滋
観世 元滋(かんぜ もとしげ、1895年(明治28年)12月18日 - 1939年(昭和14年)3月21日)は、戦前のシテ方観世流能楽師。二十四世観世宗家。初名清久、後に元滋、そして観世宗家の通り名であった観世左近に改名。号は光雪(雪号参照)。混乱していた観世流の統一と発展に努め、当時の能楽界の指導者と目された能・狂言事典、前西芳雄の解説より。.
観世四郎
観世 四郎(かんぜ しろう、生没年不詳)は、室町時代前期の猿楽師。四郎大夫。諱には諸説がある(後述)。観阿弥の息子、世阿弥の弟。兄率いる観世座に所属して、その補佐役として活動していたものと考えられている能楽源流考。音阿弥の父として知られる。.
観世紅雪
観世 紅雪(かんぜ こうせつ、1843年(天保14年) - 1911年(明治44年)3月31日)は、シテ方観世流能楽師。 観世銕之丞家の五代目で、名は清永(きよひさ)。四代銕之丞清済の長男、1855年、父が没して翌年家督を継ぎ、1859年元服して銕之丞を襲名。 明治維新で観世宗家は静岡に移った徳川家についていったが、弟源次郎が梅若実の養子だったため当時六郎といった梅若と行動をともにし、明治5年(1872年)、梅若舞台で観世流として数十年ぶりに「道成寺」を披いた。妻は梅若実の姪で、弟が梅若六郎と改名した後、梅若家を離れて観世喜之家の祖となった後も梅若家と行を共にした。明治21年(1888年)、宗家の観世清孝が没した際には、年若の後継者観世清廉の後見役となった。 明治39年(1906年)、演能中に倒れ、明治43年(1910年)、長男織雄に銕之丞の名を譲って紅雪と号した。これが銕之丞家で存命中に雪号を名乗った始まりである。.
観世銕之丞 (9世)
九世 観世 銕之丞(かんぜ てつのじょう、1956年10月23日 - )とは、シテ方観世流能楽師。観世銕之丞家現当主。銕仙会主宰。本名、観世暁夫(あけお)。.
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観世銕之亟
観世銕之亟 (かんぜ てつのじょう) は能楽観世流宗家観世家の分家当主がもっぱら明治以降名乗っている名。家系上は九代目を数える。.
観世銕之亟 (8世)
八世 観世 銕之亟(はっせ かんぜ てつのじょう、1931年(昭和6年)1月6日 - 2000年(平成12年)7月3日)は、日本の能楽師。本名は観世 静夫(かんぜ しずお)。雪号に静雪(せいせつ)。.
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観世華雪
観世 華雪(かんぜ かせつ、1884年11月14日 - 1959年1月6日)は昭和期のシテ方観世流能楽師。観世銕之丞家六世当主、六世観世銕之丞。戦後の観世流を代表する名手であった。 1884年、五世観世銕之丞(後の観世紅雪)の長男として、東京に生れる。初名織雄。弟に後に養子となった七世観世銕之丞(観世雅雪)がいる。1910年、父の隠居をうけて当主名観世銕之丞を襲名。初代梅若実の次女・濱子と結婚し、父のほか、義父および義兄の梅若万三郎、二世梅若実に師事。1921年、梅若流創設の際には義兄二人とともにこれに参加するが、1929年、観世流に復帰。1939年に二十四世宗家観世左近が没した後、流儀の長老として二十五世宗家観世元正の後見役となる。 芸風は温雅で上品なやわらかみがあり、梅若万三郎、橋岡久三郎と並んで観世流の三名人といわれた。1947年、弟銕之丞に家督をゆずって隠居し、華雪の雪号を名乗る。1951年日本芸術院賞受賞。1952年日本芸術院会員。 1959年74歳で没した。戒名諦観院妍誉諍邦華雪居士。墓所は港区三田済海寺にある。.
観世能楽堂
観世能楽堂(かんぜ-のうがくどう)は東京都中央区銀座六丁目のGINZA SIX地下にある一般社団法人観世会(観世流)が運営する能楽専門の公演場である。以前は渋谷区に所在していた。.
観世重賢
観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年)表(2008)、p.275 - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る表(2008)、p.292。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。 宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳の若さでその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳の長命を保った。.
観世長俊
観世 弥次郎 長俊(かんぜ やじろう ながとし、長享2年(1488年)? - 天文10年(1541年)?)は、戦国時代に活動した猿楽師。父・小次郎信光と同様に観世座の「脇之為手」として大夫を支え、また能作者として「江野島」「大社」「正尊」「輪蔵」などの作品を残した。.
観世栄夫
観世 栄夫(観世榮夫;かんぜ ひでお、1927年8月3日 - 2007年6月8日)は、シテ方観世流能楽師、俳優。一時喜多流に転流して後藤得三の芸養子となり、後藤 栄夫(ごとう ひでお)の名で活動したが、その後後藤との芸養子を解消して観世流に復帰していた。.
観世清孝
観世清孝(かんぜ きよたか、1837年(天保8年) - 1888年(明治21年)2月11日)とは、シテ方観世流能楽師。観世流二十二世宗家。二十一世宗家観世左近清長の子。幼名・鋠之助。通称は三十郎。また維新後、一時的に代々の通り名である観世左近を名乗っている。号は普雪(雪号参照)。幕末〜明治期の宗家であり、「最後の観世大夫」と称される。.
観世清尚
観世 清尚(かんぜ きよひさ、享保12年(1727年) - 天明2年10月18日(1782年11月22日))は、江戸中期のシテ方観世流猿楽師。幼名は織之助。十七世観世宗家。観世銕之丞家の祖。観世織部を名乗る。織部清尚とも。 十四世宗家織部清親の子で十五世観世元章の弟。延享2年(1745年)、父・清親が没したことにより兄・元章が15世観世太夫となったが、元章が「左近」を名乗ったことから翌年、清尚が父の通称であった「織部」を称するようになった。 兄・元章が十一代将軍徳川家治の若い頃から能楽の指南を務めたことから1752年(宝暦2年)分家を認められる。四座一流に次ぐ地位を認められ、幕府の演能にも出演する資格を得る。これが観世銕之丞家となる。この際、面(おもて)や装束などの分与も受けている。 その後、甥である十六世・章学(あきのり)に嗣子がなかったことから宗家に戻り十七世となる。 長男に十八世宗家観世清允、次男に十九世宗家観世織部清興。.
観世清廉
観世 清廉(かんぜ きよかど、慶応3年(1867年)5月26日 - 明治44年(1911年)7月17日)は、シテ方観世流能楽師。二十三世観世宗家。二十二世宗家・観世清孝の長男。幼名・鋠之助。号は和雪、擔雪(雪号参照)。.
観世清和
観世 清和(かんぜ きよかず、1959年(昭和34年)5月21日 - )は、シテ方観世流能楽師。二十六世観世宗家で当代。 観世元正の長男。東京都出身。父に師事し、1964年4歳の時「鞍馬天狗」花見で初舞台。東京芸術大学音楽学部邦楽科別科を卒業。1990年9月家元継承。1995年「松浦佐用姫」「鵜羽」を復曲。1995年度芸術選奨新人賞受賞。1983年のフランスをはじめ、アメリカ、インド、中国など海外公演に多数参加。1999年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受章。2013年、芸術選奨文部科学大臣賞、第33回伝統文化ポーラ賞大賞受賞。2014年1月、観世清河寿に改名、一年で元に戻す。2015年春の褒章で紫綬褒章を受章。 社団法人日本能楽会常務理事。財団法人観世文庫理事長。社団法人観世会理事長。弟に山階弥右衛門、観世芳伸。.
観世清長
観世清長(かんぜ きよなが、文化 6年(1809年) - 天保13年(1842年))は、シテ方観世流猿楽師。二十一世観世宗家。観世左近を名乗る。 天保元年(1830年)21歳で宗家を嗣ぎ、翌天保2年(1831年)から3年にかけて幸橋門外で15日の勧進能を催す。好評であったので日延べ、江戸期最長の25日間の興行となった。従弟の四世観世銕之亟清済とともに将軍世子徳川家慶の能指南役に任じられるが、先に指南役に任じられていた宝生大夫の勢威を凌ぐには至らなかった。 早世し、子の二十二世宗家観世清孝が後を継ぐが幼年のため、清済が後見を務めている。.
観阿弥
観阿弥(かんあみ/かんなみ 觀阿彌陀仏 正慶2年/元弘3年(1333年) - 至徳元年/元中元年5月19日(1384年6月8日))は日本の南北朝時代から室町時代にかけての申楽師。息子の世阿弥とともに、いわゆる能を大成した人物である。名は清次。時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに観は観世に由来)は観阿弥陀仏。その略称が観阿弥で、早くから観世大夫、あるいは観阿弥、観阿として記録に登場する。観世家の祖。観阿弥最後の舞台となった静岡市葵区宮ヶ崎町の静岡浅間神社には、26世宗家観世清和による顕彰碑がある。.
駿府
駿府(すんぷ)は、駿河国(するがのくに)の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。.
高砂 (能)
『高砂』(たかさご)は、能の作品の一つ。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能である。古くは『相生』『相生松』と呼ばれた。 ワキ、ワキヅレがアイとの問答の後、上ゲ歌で謡う『高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり『謡曲集 上』224-225ページより引用。』は結婚披露宴の定番の一つである。江戸時代、徳川将軍家では『老松』とともに『松』をテーマにした筆頭祝言曲二曲の一つであった。.
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高野山
壇場伽藍 壇場伽藍 不動堂(国宝) 高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。 2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道(町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂が世界遺産に追加登録された。.
謡
謡(うたい)とは能の声楽(言葉・台詞)にあたる部分のこと。また、それのみを謡うこともいう。大和田建樹によると、「うたう」という動詞の名詞形であるが、詠歌や小唄などと区別するため「うた」でなくて「うたい」と読ませたという。江戸時代までは「謡」とだけ言い、謡曲という言葉が使われ始めたのはそれ以降である。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
賀茂真淵
賀茂 真淵(かも の まぶち)は、江戸時代中期の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した。 荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされ、その門流を「県居(あがたい)学派」、あるいは「県門(けんもん)」と称した。.
足利義満
足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.
足利義持
足利 義持(あしかが よしもち)は、室町幕府第4代将軍(在任:応永元年(1394年) - 応永30年(1423年))。父は3代将軍・足利義満。母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子。 父の死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。なお、義持の将軍在職28年は歴代室町将軍中最長の在任期間である。.
足利義政
足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.
足利義教
足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.
鼓
鼓(つづみ)は日本特有の伝統的な楽器のひとつで、もっとも狭義には小鼓を指す。砂時計型、または木製、ドラム缶型の胴の両面に革を張ってこれを緒で強く張る。緒は、能楽の世界では調緒(しらべお)または「調べ」という。この緒を締めたり緩めたりすることで音色を調節しながら、一方もしくは両方の革を手または桴で打って演奏する。その形態によって小鼓、大鼓、太鼓、羯鼓などがある。発音については、古代インドの打楽器 dudubhi または dundubhi から出たという説と、中国の都曇鼓(つどんこ)の音から出たという説がある。.
近畿地方
近畿地方の地形図 近畿地方(きんきちほう)は、本州中西部に位置する日本の地域である。かつての畿内とその周辺地域から構成される。難波宮、平城宮、平安宮、以降東京遷都までの王城の地で、現在は関東地方に次ぐ日本第二の都市圏・経済圏であり、西日本の中核である。 近畿地方の範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・三重県・滋賀県・和歌山県の2府5県(7府県)を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.408 ISBN 4-09-523101-7。構成府県については範囲節も参照。.
近江国
近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
能
能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。 能(翁奉納 春日神社 (篠山市)).
能楽
中尊寺鎮守 白山神社の能舞台(重要文化財) 日牟禮八幡宮の能舞台 日牟禮八幡宮能舞台の橋がかり 能楽(のうがく)は、日本の伝統芸能であり、式三番(翁)を含む能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。.
能楽協会
公益社団法人能楽協会(こうえきしゃだんほうじん のうがくきょうかい)とは、大和猿楽四座の流れを直接継承している流派に所属する能楽師によって構成される団体である。.
能楽師
能楽師(のうがくし)は、職業的に能楽を演じる人。.
能楽書林
株式会社能楽書林(のうがくしょりん)は、東京都千代田区にある、能楽関係を中心とする出版社。 従来の謡本の不備をただすため、1907年10月17日に初世観世喜之(矢来観世家当主)と丸岡桂が創業した「観世流改訂本刊行会」が前身。一時は「丸岡出版社」や「能楽社」を名乗る。また、合名会社だった時期もある。戦後の一時期は『三田文学』の刊行を請け負っていたこともある。 能楽の謡本、関連書籍、月刊新聞『能楽タイムズ』などの出版物の他、能楽のCD・DVD・カセットテープ、能楽の稽古用品・小物類なども取り扱う。.
船弁慶
『大物之浦ニ霊平知盛海上に出現之図』(月岡芳年『新形三十六怪撰』) 『船弁慶』(ふなべんけい)は、『平家物語』、『吾妻鏡』などに取材した能楽作品。表記は「舟弁慶」(また旧字で「船辯慶」、「舟辯慶」)とも。作者はほぼ観世小次郎信光と比定されている。源義経、武蔵坊弁慶、静御前、平知盛を主たる登場人物とし、前半と後半でシテの演じる役柄がまったく異なるなど、華やかで劇的な構成が特徴である。この記事では合わせて派生作品についても記述する。.
金春禅竹
金春 禅竹(こんぱる ぜんちく、応永12年(1405年) - 文明3年(1471年)以前)は室町時代の猿楽師、能作者である。童名は金春七郎、俗名は竹田氏信あるいは貫氏、法名は賢翁禅竹。金春大夫として活躍し、現在の金春流の中興の祖である。孫に金春禅鳳。.
金春禅鳳
金春 禅鳳(こんぱる ぜんぽう、享徳3年(1454年) - 天文元年(1532年)?)は、室町時代後期の猿楽師。童名は金春八郎、俗名は竹田元安で法名は桐林禅鳳。当時を代表する猿楽師であったとともに、能作者、能楽論の著者としても知られる。.
金春流
金春流(こんぱる-りゅう)は能楽の流派の一。古い文献には「今春」とも。シテ方と太鼓方がある。また、かつては大鼓方にも金春流があったが明治期に廃絶した。.
長谷川強
長谷川 強(はせがわ つよし、1927年 - )は、日本の国文学者、国文学研究資料館名誉教授。専攻は近世小説・演劇。.
連歌
連歌(れんが)は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。.
耳嚢
耳嚢(みみぶくろ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本・南町奉行の根岸鎮衛が、天明から文化にかけて30余年間に書きついだ随筆。同僚や古老から聞き取った珍談、奇談などが記録され、全10巻1000編に及ぶ。耳袋と表記もされる。.
東京
西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷/国会議事堂 東京(とうきょう、)は、日本の関東平野中央部の東京湾に面する都市、あるいは都市圏であり、江戸幕府の所在地・江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されたものである。 明治2年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された。そして現在の日本の事実上の首都である。 現在の東京は世界都市であり、都市圏として世界最大の人口・経済力を擁している。.
根岸鎮衛
根岸 鎮衛(ねぎし しずもり / やすもり)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。勘定奉行、南町奉行を歴任した。.
梅若実 (初世)
五十二世梅若六郎(うめわか ろくろう、文政11年5月26日(1828年7月7日) - 明治42年(1909年)1月19日)とは、観世流シテ方能楽師。明治5年(1872年)以後は初世梅若 実(うめわか みのる)を名乗り、こちらの名でよく知られる。.
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梅若万三郎
梅若万三郎(うめわか まんざぶろう)は能楽シテ方観世流梅若家の分家当主名。詳しくはおのおのの項目を参照のこと。.
梅若万三郎 (初世)
初世梅若万三郎(しょせい うめわか まんざぶろう、1869年1月3日(明治元年11月21日) - 1946年(昭和21年)6月29日)は、観世流能楽師。.
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梅若六郎
梅若六郎(うめわか ろくろう)とは、シテ方観世流の一派、梅若家の当主が用いる名。 同名に付けられる序数は当代までで56世に及び、これは日本の世襲称号としては類を見ない数である。これは、同名が能はおろかその源流である猿楽が始められるよりも更に前から名乗られ続けた名であることを意味する。なお、この序数56は下記する橘諸兄から数えたものであり、実際に梅若六郎を名乗ったのは40数代とされる。 梅若家の祖は奈良時代の皇族・貴族である橘諸兄にまで遡るとされ、その10世孫である従五位下梅津兵庫頭橘友時により梅津氏が立てられたことを基とする。梅津氏はその後山城国から丹波国に移り、時期は不明だがいつしか猿楽を始めるようになり、能の大家の一つとなった。 当代の梅若六郎は梅若六郎 (56世)。1988年襲名。.
梅若六郎 (54世)
五十四世梅若六郎(うめわか ろくろう、1878年(明治11年)4月28日 - 1959年(昭和34年)8月16日)とは、観世流シテ方能楽師。二世梅若実。 東京生まれ。初世梅若実の二男。兄に初世梅若万三郎。義兄・五十三世梅若六郎の準養子となり、梅若六郎家を継承。1948年隠居し、二世梅若実を襲名。浅草厩橋に能楽堂を構えていたが戦災で焼失し、1949年に後援会長の親族の土地(東中野)に移転。1955年日本芸術院会員となる。 長男が五十五世梅若六郎。.
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梅若流
梅若流(うめわかりゅう)とは、大正14(1921)年から昭和29(1954)年まで存在した能楽シテ方の流派。観世流から梅若派の梅若万三郎、二世梅若実、六世観世銕之丞が離脱して創設。昭和29年に能楽協会の斡旋で観世流に復帰している。.
森田流
森田流(もりたりゅう)は能楽笛方の流儀。かつては千野流(ちのりゅう)、玄笛流(げんてきりゅう)などとも称した。.
橋岡久太郎
橋岡 久太郎(はしおか きゅうたろう、1884年7月12日 - 1963年9月15日)は、能楽師シテ方、日本藝術院会員。 香川県出身。旧姓は乃村。1898年(明治31年)大阪の観世流シテ方橋岡雅雪の後継者となる。のち上京し23代宗家観世清廉に師事。独立後、2代梅若実、観世華雪とともに観世流の発展に尽くした。1961年日本芸術院賞受賞、芸術院会員。淡交会主催。 子は橋岡久馬、橋岡久共(のちに橋岡慈観に改名)。 Category:能の役者 Category:日本藝術院会員 Category:香川県出身の人物 Category:1884年生 Category:1963年没.
檜書店
檜書店(ひのきしょてん)は、日本の出版社。観世流大成版謡本や、能楽関連図書などを発行している謡本出版・能楽専門出版社である。.
櫻間伴馬
櫻間 伴馬(さくらま ばんま、1836年1月6日(天保6年11月18日) - 1917年(大正6年)6月24日)は、シテ方金春流能楽師。1911年(明治44年)以降は櫻間 左陣を名乗る。 維新後低迷を続ける能楽界にあって、熊本出身の一地方役者ながら、その卓抜した技で観客の喝采を博した。能楽復興の立役者として、初世梅若実、16世宝生九郎とともに「明治の三名人」の一角に数えられる。子に櫻間弓川がいる。.
江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
浜松
浜松(はままつ)は、天竜川の西、浜名湖の東に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。もともと濱津に由来し、中世には濱松と呼ばれるようになった。 この地域以外にも東京都港区をはじめ、日本各地に浜松という地名や人名が存在する(後述)。.
浜松城
浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。.
1333年
記載なし。
1363年
記載なし。
1374年
記載なし。
1384年
記載なし。
1398年
記載なし。
1422年
記載なし。
1429年
記載なし。
1432年
記載なし。
1434年
記載なし。
1440年
記載なし。
1443年
記載なし。
1467年
記載なし。
1470年
記載なし。
1472年
記載なし。
1482年
記載なし。
1493年
記載なし。
1500年
15世紀最後の年である。.
1509年
記載なし。
1523年
記載なし。
1525年
記載なし。
1556年
記載なし。
1566年
記載なし。
1571年
記載なし。
1576年
記載なし。
1578年
記載なし。
1580年
金曜日から始まる。.
1583年
記載なし。
1584年
記載なし。
1585年
記載なし。
1603年
記載なし。
1614年
記載なし。
1620年
記載なし。
1626年
記載なし。
1631年
記載なし。
1633年
記載なし。
1658年
記載なし。
1666年
記載なし。
1683年
記載なし。
1687年
記載なし。
1693年
記載なし。
1694年
記載なし。
1716年
記載なし。
1722年
記載なし。
1727年
記載なし。
1741年
記載なし。
1746年
記載なし。
1747年
記載なし。
1756年
記載なし。
1761年
記載なし。
1765年
記載なし。
1774年
記載なし。
1781年
記載なし。
1782年
記載なし。
1792年
記載なし。
1810年
記載なし。
1815年
記載なし。
1823年
記載なし。
1830年
記載なし。
1837年
記載なし。
1842年
記載なし。
1867年
記載なし。
1876年
記載なし。
1888年
記載なし。
1895年
記載なし。
1911年
記載なし。
1919年
記載なし。
1921年
記載なし。
1930年
記載なし。
1939年
記載なし。
1950年代
1950年代(せんきゅうひゃくごじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1950年から1959年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1950年代について記載する。.
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1954年
記載なし。
1959年
記載なし。
1986年
この項目では、国際的な視点に基づいた1986年について記載する。.
1990年
この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.
2006年
この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.
2009年
この項目では、国際的な視点に基づいた2009年について記載する。.