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橘諸兄

索引 橘諸兄

橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。.

140 関係: おうふう即位右大臣参議吉備真備多治比国人多治比縣守大宰帥大宰府大伴家持大納言天平天平勝宝天平感宝天皇天然痘天武天皇太政官奈良時代孝謙天皇官人官位宇治谷孟山城国左大臣上表中将姫中納言中西進万葉集一上平城京享年京都府井手町亀田隆之仙覚伊勢国弁官佐味宮守従三位従一位従二位従五位従四位北山茂夫僧正和銅公卿...元正天皇元明天皇光明皇后国母皇族知太政官事玄ボウ神亀紫微中台続日本紀綴喜郡美努王義親県犬養三千代牟漏女王直木孝次郎遣唐使遷都聖武天皇行幸養老馬寮講談社学術文庫謀反議政官黄文王近衛兵霊亀鈴鹿王藤原多比能藤原宇合藤原不比等藤原広嗣藤原広嗣の乱藤原仲麻呂藤原四兄弟藤原豊成藤原麻呂藤原武智麻呂藤原氏蔭位臣籍降下致仕長屋王恭仁京栄花物語森田悌横田健一橘奈良麻呂橘奈良麻呂の乱橘佐為橘氏正三位正一位正二位正五位正四位氏姓制度朝廷朝臣木本好信无位改姓敏達天皇1月30日1月6日 (旧暦)684年710年711年717年721年723年724年729年730年731年732年736年737年738年739年740年743年745年746年749年750年755年756年757年 インデックスを展開 (90 もっと) »

おうふう

おうふうは、東京都千代田区にある出版社で、国語学や国文学などに関する著作を刊行している学術出版社。旧社名の桜楓社でも知られている。桜楓社という社名は、日本大学の国文学者・鈴木知太郎がつけた。.

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即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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吉備真備

吉備 真備(きび の まきび)は、日本の奈良時代の学者・公卿。元の名は下道 真備(しもつみち の まきび)。氏姓は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲等は勲二等。.

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多治比国人

多治比 国人(たじひ の くにひと、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。中納言・多治比縣守の子。官位は従四位下・遠江守。.

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多治比縣守

多治比 縣守(たじひ の あがたもり)は、奈良時代の貴族。左大臣・多治比嶋の子。 養老の遣唐使(717年-718年)で遣唐押使として渡唐を果たしたのち、按察使・征夷将軍などを歴任して地方行政に従事する。 神亀6年(729年)の長屋王の変に際して臨時の参議になると、藤原四子政権で昇進し正三位・中納言に至った。.

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大宰帥

大宰帥(だざいのそち/だざいのそつ)は、大宰府の長官。唐名は都督、和名は「おほみこともちのかみ」。律令制において西海道の9国2島を管轄し、九州における外交・防衛の責任者となった。9世紀以降は親王の任官で、大宰府に赴任しないことが慣例となり、実権は次官の大宰権帥(だざいのごんのそち)及び大宰大弐(だざいのだいに)に移った。.

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大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

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大伴家持

大伴 家持(おおとも の やかもち)は、奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。 『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残すを生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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天平

天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.

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天平勝宝

天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.

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天平感宝

天平感宝(てんぴょうかんぽう、正字体:天平感寶)は、日本の元号の一つ。天平の後、天平勝宝の前。日本で初めて使われた四文字年号でもある。この時代の天皇は聖武天皇。 749年のことであるが、同年のうちに天平勝宝に改元されたため、後に書かれた書物では天平感宝の元号が使われることはない。『正倉院文書』や木簡には「天感」「感宝」と省略されている例が見られる。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天然痘

天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。以降は羊毛の流通に乗って発疹チフスが猛威をふるった。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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太政官

太政官.

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

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孝謙天皇

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.

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官人

官人(かんにん、かんじん、つかさびと)とは官吏・役人を指す言葉。 律令制では諸司の主典以上六位以下、平安時代には判官以下、特に近衛府の将監以下の官吏を指した。.

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官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

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宇治谷孟

宇治谷 孟(うじたに つとむ、1918年 - 1992年11月5日)は、日本の歴史学者、国文学者。はじめて『日本書紀』の現代語訳を行ったほか、『続日本紀』の現代語訳も担当した。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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上表

上表(じょうひょう)とは、東宮以下の皇親・百官より庶民に至るまでが天皇に対して文書(表)を奉ること、またその文書(表)自体を指す。.

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中将姫

中将姫(ちゅうじょうひめ、天平19年8月18日(747年9月30日)- 宝亀6年3月14日(775年4月22日))は、奈良の当麻寺に伝わる『当麻曼荼羅』を織ったとされる、日本の伝説上の人物。平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、様々な戯曲の題材となった。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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中西進

文化勲章受章に際して文部科学省より公表された肖像写真 中西 進(なかにし すすむ、1929年8月21日 - )は、日本文学者、比較文学者、万葉学者、奈良県立万葉文化館名誉館長、池坊短期大学学長、国際日本文化研究センター・京都市立芸術大学・大阪女子大学各名誉教授、高志の国文学館館長。.

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万葉集

元暦校本万葉集 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。.

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一上

一上(いちのかみ)とは、筆頭の公卿を意味する一ノ上卿(いちの しょうけい)を略した語で、通常は左大臣のことを指した。.

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平城京

平城宮跡 平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代の日本の首都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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井手町

井手町(いでちょう)は、京都府南部に位置する町。面積18.01 km2。 木津川の支流である玉川が町を東西に縦断している。春になると花見をする人たちで賑わう。町内の地域としては、多賀、井手、有王区域となる。町域の約七割は山林である、2009年3月5日、京都新聞。田園風景の中に井提寺(井手寺)跡や平城京にあった南都七大寺の一つ、大安寺の瓦を焼いたとされる石橋瓦窯の遺構などもある。奈良時代の貴族、政治家で、井手町に別荘をもち、「井手の左大臣」と呼ばれ万葉集の撰者とも伝えられる橘諸兄ゆかりの地である、2007年11月19日、京都民報Web。.

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亀田隆之

亀田 隆之(かめだ たかし、1929年 - 2000年4月13日)は、日本の歴史学者、関西学院大学名誉教授。日本古代史専攻。.

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仙覚

仙覚(せんがく)は鎌倉時代初期における天台宗の学問僧。権律師。中世万葉集研究に大きな功績を残した。建仁3年(1203年)生れとする説が有力。没年不詳。文永9年(1272年)、70歳の年まで存命したことは確実であるが、その生涯の伝記的事項には不明な部分が多い。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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弁官

弁官(べんかん、辨官)は、朝廷の最高機関、太政官の職である左大弁(さだいべん)・右大弁(うだいべん)・左中弁(さちゅうべん)・右中弁(うちゅうべん)・左少弁(さしょうべん)・右少弁(うしょうべん)の総称である。唐名(漢風名称)は尚書。通説においては四等官の中の判官(じょう)に相当するが、異説として弁官を含めた弁官局を太政官の別局として捉え、元は本来の四等官の系列には含まない品官であったする説もある。また、『延喜式』においても、季禄・時服・馬料・要劇料などの給与の支給手続やそのために必要な上日の集計・考文の送付などが太政官とは別個に行われ、人事・財政体系における太政官からの独立性が確認できる。 大弁は従四位上、中弁は正五位上相当、少弁は正五位下相当(養老令官位令)。 官庁を指揮監督する役を負っていたため、後には少納言より高位に位置づけられ、参議と大弁を兼任する者もいた。また、蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる者もおり、特に頭弁(とうのべん)と称された。 左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があり(右中弁以下にはない)、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門であった。.

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佐味宮守

佐味 宮守(さみ の みやもり、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。姓は朝臣。官位は従五位下・越後守。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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北山茂夫

北山 茂夫(きたやま しげお、1909年(明治42年)3月3日 - 1984年(昭和59年)1月30日)は、日本の日本史学者(日本古代史専攻)、立命館大学教授などを歴任する。.

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僧正

僧正(そうじょう)は、中国の南朝と日本で仏教の僧と尼を統括するために僧侶が任命された官職(僧官)の一つである。.

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和銅

和銅(わどう)は、日本の元号のひとつで慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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元正天皇

元正天皇(げんしょうてんのう、天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月22日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日) - 養老8年2月4日(724年3月3日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。.

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元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.

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光明皇后

光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。.

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国母

国母(こくも/こくぼ)は、東アジアにおいて天皇や皇帝、国王の生母を指して用いられた呼称。また、「国の母」、「国民の母」の意で、皇后・王妃や国家指導者(国民の父)の配偶者等を指して使われることもある。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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知太政官事

知太政官事(ちだいじょうかんじ)は、飛鳥時代・奈良時代に存在した律令制の令外官のひとつ。太政官を統括するものとして、刑部親王(大宝3年)、穂積親王(慶雲2年)、舎人親王(養老4年)、鈴鹿王(天平9年)の4人の皇族が任命された。.

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玄ボウ

昉(げんぼう、生年不詳 - 天平18年6月18日(746年7月15日))は、奈良時代の法相宗の僧。俗姓は阿刀氏(安斗氏)。安斗阿加布の子とする系図や、善珠の父とする史書もある。僧官は僧正。.

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神亀

亀(じんき、しんき、正字体:神龜)は、日本の元号の一つ。養老の後、天平の前。724年から729年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。.

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紫微中台

紫微中台(しびちゅうだい)は、749年に設置された令外官。皇太后の家政機関の体裁だが、実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関。後に坤宮官に改称。長官は紫微令、後に紫微内相。.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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綴喜郡

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美努王

美努王(みぬおう/みのおう、生年不詳 - 和銅元年5月30日(708年6月22日))は、飛鳥時代の皇族。表記については『六国史』にて弥努王・美奴王・美弩王・三野王など様々な記載がされており、人物比定にも問題がある。敏達天皇の後裔で、四位・栗隈王の子。官位は従四位下・治部卿。.

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義親

義親(ぎしん)は、生物学的な親である実親(じっしん)に対して「義理」や「法律上」の親を指す。生物学的な親ではないため、対象者より年上であるとは限らない。男性の義親のことを義父(ぎふ)といい、女性の義親を義母(ぎぼ)という。義親の中にはいくつかのケースがあるので、それぞれについて詳述する。.

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県犬養三千代

養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ、天智天皇4年(665年)? - 天平5年1月11日(733年2月4日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。.

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牟漏女王

牟漏女王(むろ の おおきみ、生年不詳 - 天平18年1月27日(746年2月21日))は、日本の皇族。敏達天皇系皇親である美努王と県犬養三千代の娘。藤原房前の室。橘諸兄・橘佐為の同父母妹。光明皇后の異父姉。無漏女王とも。.

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直木孝次郎

木 孝次郎(なおき こうじろう、1919年1月30日 - )は、日本の歴史学者。大阪市立大学名誉教授。文学博士(京都大学、1969年)。日本古代史研究を代表する研究者。兵庫県神戸市生まれ。.

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遣唐使

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。.

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遷都

遷都(せんと)は、都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと広辞苑 第五版。、都を替えることを意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り大辞林 第三版。/都移り(みやこうつり)とも言った。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い(cf. #還都の一覧)、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられることもある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。.

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聖武天皇

聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.

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行幸

行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。.

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養老

養老(ようろう)は、日本の元号。霊亀の後、神亀の前。717年から724年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。.

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馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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謀反

謀反(むほん、むへん、ぼうへん)は、国家・君主・主君・時の為政者にそむくことである『大辞泉』小学館。謀叛とも表記するが、厳密には後述のように表記や読み方、また時代によって差異がある。特に武力・軍事力を動員して反乱を起こすことを指すことが多いが、少人数で君主・主君を暗殺する行為を謀反ということもある。ただし、近代の事件を指して謀反の語を使うことはまれであり、基本的に前近代の事件を指す言葉である。東アジアの人々に浸透した儒教の観念では大変重い罪であるととらえられた。.

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議政官

議政官(ぎせいかん).

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黄文王

文王(きぶみおう、生年不詳 - 天平宝字元年7月4日(757年7月24日))は、奈良時代の皇族。左大臣・長屋王の子。官位は従四位上・散位頭。.

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近衛兵

近衛兵(このえへい)とは、君主を警衛する君主直属の軍人または軍団をいう。近衛府・御親兵・親衛隊・近衛師団・禁衛府・衛兵など、時代や国によってさまざまな名称がある。 君主制が廃止された国でも、歴史的経緯などから近衛兵や親衛隊などの名称が存続した例がある。ただし日本語では、「近衛」とは主に世襲の元首を警衛するものを指し、世襲ではない元首を警衛するものには通常この語を充てない。 法治国家が発展した現代では軍と警察の職務分離が進んでおり、平時の警護は警察などの法執行機関や国家憲兵が担当し、軍は儀仗や海外訪問や緊急時の警護を担当する国が多い。 本記事では、君主を警衛する近衛兵のほかにも、そこから派生した制度などについても紹介する。また過去においては兵権と警察権の区別が必ずしも明確でないことから、軍に属する兵卒以外についての記述も含まれる。.

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霊亀

霊亀(れいき、正字体:靈龜)は、日本の元号のひとつで和銅の後、養老の前。715年から717年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。.

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鈴鹿王

鈴鹿王(すずかのおおきみ/ すずかおう、生年不詳 - 天平17年9月4日(745年10月3日))は、奈良時代の皇族。太政大臣・高市皇子の次男。官位は従二位・知太政官事。.

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藤原多比能

藤原多比能(ふじわら の たびの、生没年不詳)は、藤原不比等の娘で、母は県犬養橘三千代。橘諸兄の正室、橘奈良麻呂の母。聖武天皇の皇后である光明皇后は同母姉にあたり、夫である諸兄は異父兄にあたる。藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂、藤原宮子らの異母妹である。『続日本紀』に出てくる女官「藤原吉日」は多比能と同一人物とする説が定説となっている(角田文衛説)。 諸兄の母は三千代であるため、諸兄との結婚は同母兄妹の近親婚となり、三千代の子とする説は疑問が残る。    たひの category:奈良時代の公卿の妻室 Category:生没年不詳.

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藤原宇合

藤原 宇合(ふじわら の うまかい)は、奈良時代の公卿。初名は馬養。右大臣・藤原不比等の三男。藤原式家の祖。官位は正三位・参議。勲等は勲二等。.

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藤原不比等

藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。.

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藤原広嗣

藤原 広嗣(ふじわら の ひろつぐ)は、奈良時代の貴族。藤原式家の祖である参議・藤原宇合の長男。官位は従五位下・大宰少弐。.

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藤原広嗣の乱

藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は、奈良時代に起きた内乱。藤原広嗣が政権への不満から九州の大宰府で挙兵したが、官軍によって鎮圧された。.

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藤原仲麻呂

藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は、奈良時代の公卿。名は仲麿『尊卑分脈』『公卿補任』または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)。左大臣藤原武智麻呂の次男。官位は正一位太師。恵美大臣とも呼ばれた。.

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藤原四兄弟

藤原四兄弟(ふじわらしきょうだい、ふじわらよんきょうだい)は、奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指す歴史用語。藤原四子(ふじわらしし、ふじわらよんし)などとも呼ばれる。.

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藤原豊成

藤原 豊成(ふじわら の とよなり)は、奈良時代の貴族。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男。官位は従一位・右大臣。別名難波大臣、横佩大臣(よこはぎのおとど)。.

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藤原麻呂

藤原 麻呂(ふじわら の まろ)は、奈良時代の公卿。名は万里とも記される。右大臣・藤原不比等の四男で、藤原四兄弟の末弟。官位は従三位・参議。藤原京家の祖。.

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藤原武智麻呂

藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等の長男。藤原南家の祖。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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蔭位

蔭位(おんい)とは日本の律令制体制のなかで、高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度である。蔭階(おんかい)とも。父祖のお蔭で叙位するの意。この仕組を蔭位制(おんいのせい・蔭位の制)とも呼ぶ。 大宝律令によって制定される。選叙令によれば子孫が21歳以上になったとき叙位され、蔭位資格者は皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子である。勲位・贈位も蔭位の適用を受ける。蔭位の制は唐の律令制にあった任子の制に倣った制度だが中国の制度よりも資格者の範囲は狭く、与えられる位階は高い。そこに、日本の家柄を重視する貴族社会の特性をみることができる。; 皇族・諸王.

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臣籍降下

臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言った。また日本国憲法施行後は皇籍離脱(こうせきりだつ)の語が用いられる。.

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致仕

致仕(ちし/ちじ・致事)とは、官職を退いて引退すること。君主に預けた身体の返却を願うと言う意味により、俗に「骸骨を乞う」とも称した。.

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長屋王

長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ、天武天皇5年(676年)/天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。.

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恭仁京

恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城の1つ。山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。.

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栄花物語

『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代の歴史物語。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書。.

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森田悌

森田 悌(もりた てい、1941年4月12日 - )は、日本の歴史学者、群馬大学名誉教授。日本古代史専攻。商法学者森田果の父。文学博士。 1965年、東京大学文学部国史学科を卒業。1967年、同法学部公法課程卒業。1971年金沢大学助教授、教授を経て、1995年群馬大学教育学部教授。2008年定年退任、名誉教授。上代から平安朝を研究著述し、『日本後紀』、『続日本後紀』を初めて現代語訳した。.

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横田健一

横田 健一(よこた けんいち、1916年(大正5年)- 2012年(平成24年)2月6日)は、日本の歴史学者。専門は日本古代史。関西大学名誉教授。.

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橘奈良麻呂

橘 奈良麻呂(たちばな の ならまろ、養老7年(721年)? - 天平勝宝9歳(757年)7月)は、奈良時代の貴族。左大臣・橘諸兄の子。官位は正四位下・参議、贈正一位・太政大臣。二代目橘氏長者。.

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橘奈良麻呂の乱

橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。.

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橘佐為

橘 佐為(たちばな の さい)は、奈良時代前期から中期にかけての賜姓皇族、貴族。従四位下・美努王(三野王)の子。天平年間初頭に風流侍従の一人とされた狭井王と同一人物と想定される。.

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橘氏

橘氏(たちばなうじ)は、「橘」を氏の名とする氏族。 県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖とする皇別氏族で、飛鳥時代末から橘宿禰(のち朝臣)姓を称した。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正一位

正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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氏姓制度

氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。「氏姓の制(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「氏・姓」を音読して「氏姓(しせい)」ともいう。 大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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朝臣

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.

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木本好信

木本 好信(きもと よしのぶ、1950年12月8日- )は、日本の歴史研究者、甲子園短期大学特任教授、龍谷大学特任教授。奈良時代政治史、平安朝日記が専門。.

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无位

无位(無位・むい)とは、律令制において位階を持っていない者。特に官司に仕えて官職に在職しているにもかかわらず、位階を有していない者を指す場合がある。.

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改姓

改姓(かいせい)とは姓を改める事を指す。.

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敏達天皇

敏達天皇(びだつてんのう、宣化天皇3年?(538年?) - 敏達天皇14年8月15日(585年9月14日?)は、第30代天皇。 在位期間は、敏達天皇元年4月3日(572年4月30日?)から同14年8月15日(585年9月14日?)まで。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと。『古事記』では沼名倉太珠敷命)。別名、他田天皇。.

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1月30日

1月30日(いちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から30日目に当たり、年末まであと335日(閏年では336日)ある。.

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1月6日 (旧暦)

旧暦1月6日(きゅうれきいちがつむいか)は旧暦1月の6日目である。六曜は赤口である。.

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684年

記載なし。

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710年

記載なし。

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711年

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717年

記載なし。

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721年

記載なし。

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723年

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724年

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729年

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730年

記載なし。

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731年

記載なし。

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732年

記載なし。

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736年

記載なし。

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737年

記載なし。

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738年

記載なし。

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739年

記載なし。

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740年

記載なし。

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743年

記載なし。

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745年

記載なし。

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746年

記載なし。

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749年

記載なし。

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750年

記載なし。

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755年

記載なし。

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756年

記載なし。

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757年

記載なし。

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