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藤原仲麻呂

索引 藤原仲麻呂

藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は、奈良時代の公卿。名は仲麿『尊卑分脈』『公卿補任』または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)。左大臣藤原武智麻呂の次男。官位は正一位太師。恵美大臣とも呼ばれた。.

187 関係: 即位右大臣参議叙爵吉川弘文館坂上石楯塩焼王大学寮大宰府大中臣清麻呂大仏開眼 (テレビドラマ)大伴古麻呂大伴犬養大御堂 (つくば市)大納言大県郡天平天平宝字天平勝宝天平神護天然痘天武天皇太政大臣太政官奈良時代孝謙天皇官吏官位官職官職の唐風改称宇治谷孟安史の乱安積親王密告尊卑分脈尚侍岸俊男崩御左右左大臣上道斐太都中務省中納言平城京平準署京職仏教式部省...御璽徳一従三位従一位従二位従五位従四位保良宮僧綱唐招提寺1200年の謎〜天平を駆けぬけた男と女たち内裏内舎人出家出挙問民苦使公卿公卿補任光仁天皇光明皇后勧進国司皇太子知識 (仏教)知識寺石川年足石川豊成火の鳥 (漫画)琵琶湖空海算術粟田諸姉紫微中台紀飯麻呂紀麻呂続日本紀田村第隠岐国遺言聖武天皇道祖王道鏡行幸養老律令駅鈴騎兵大将軍高島郡 (滋賀県)高橋克典講談社講談社学術文庫譲位越前国黄文王近衛大将近衛兵近江国都督阿倍宿奈麻呂阿倍御主人開山開眼法要藤原南家藤原宇合藤原宇比良古藤原小湯麻呂藤原巨勢麻呂藤原乙麻呂藤原仲麻呂藤原弟貞藤原御楯藤原刷雄藤原四兄弟藤原真従藤原真先藤原訓儒麻呂藤原豊成藤原麻呂藤原辛加知藤原薩雄藤原東子 (藤原南家)藤原武智麻呂藤原氏藤原朝狩藤原房前藤氏家伝蔵司脚気難波宮雑徭陰陽頭恭仁京東大寺東大寺盧舎那仏像東山道栄山寺桓武天皇橘奈良麻呂橘奈良麻呂の乱橘諸兄正三位正一位正五位正六位正四位毘盧遮那仏氏姓制度永島敏行民部卿河内国淳仁天皇朝廷木本好信最澄流罪新羅新田部親王文武天皇摂津国改名改姓慶雲手塚治虫拷問10月17日706年740年741年743年749年752年755年756年760年763年764年9月18日 (旧暦) インデックスを展開 (137 もっと) »

即位

即位(そくい)とは、亡くなったり、譲位した君主(皇帝、国王など)の跡を継いで、その君主位に就くことである。君主の第一子や弟が皇太子(王太子)や皇太弟(王太弟)に就任し、先代君主が亡くなった後に継ぐことがある。最大の式典という意味の「大典(たいてん)」の語を以て即位を指す(反対語は君主の死と葬儀を指す「大喪」)。 即位に際して儀式を執り行うことも多く、戴冠式(即位式)と呼ばれる。一般的に即位時期に合わせて行われるが、国内の政情不安や先代君主への服喪、財政難などを理由に数年後に実施されることもある。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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叙爵

叙爵(じょしゃく)とは、.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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坂上石楯

坂上 石楯(さかのうえ の いわたて、生没年不詳)は、日本の奈良時代の貴族。氏姓ははじめ石村(いわれ)村主、のち坂上忌寸。鎮守府軍曹・石村高足の子とする系図がある。官位は従五位下・中衛将監。勲等は勲四等。.

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堤(つつみ).

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塩焼王

塩焼王(しおやきおう)は、日本の奈良時代の皇族。のち臣籍降下し氷上 塩焼(ひがみ の しおやき)と称した。天武天皇の孫で、一品・新田部親王の子。.

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大学寮

大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行った。唐名は「国子監」又は「国子寺」。.

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大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

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大中臣清麻呂

大中臣 清麻呂(おおなかとみ の きよまろ、大宝2年(702年) - 延暦7年7月28日(788年9月6日))は、奈良時代の公卿。名は清万呂・浄万呂とも書く。氏姓は中臣朝臣のち大中臣朝臣。中納言・中臣意美麻呂の七男。官位は正二位・右大臣。.

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大仏開眼 (テレビドラマ)

『大仏開眼』(だいぶつかいげん)は、NHK大阪放送局制作による「古代史ドラマスペシャル」として、2010年にNHKで放送された日本のスペシャルドラマである。主演は吉岡秀隆が務めた。平成22年度文化庁芸術祭参加作品である。.

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大伴古麻呂

大伴 古麻呂(おおとも の こまろ)は、奈良時代の貴族。父親については複数の説があり確実なことは不明だが、大納言・大伴御行あるいは右大臣・大伴長徳の子とする系図が見られる。.

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大伴犬養

大伴 犬養(おおとも の いぬかい、生年不詳 - 天平宝字6年10月9日(762年10月30日))は、奈良時代の貴族。姓(カバネ)は宿禰。官位は従四位下・右大弁。.

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大御堂 (つくば市)

大御堂(おおみどう)は、茨城県つくば市筑波にある真言宗豊山派の寺院。山号は筑波山。本尊は十一面千手観音。坂東三十三箇所第25番札所。東京都文京区大塚にある真言宗豊山派大本山護国寺の別院である。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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大県郡

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天平

天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.

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天平宝字

天平宝字(てんぴょうほうじ、正字体:天平寶字)は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。.

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天平勝宝

天平勝宝(てんぴょうしょうほう、正字体:天平勝寶)は、日本の元号の一つ。天平感宝の後、天平宝字の前。749年から757年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇。 天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されたが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。.

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天平神護

天平神護(てんぴょうじんご)は、日本の元号の一つ。天平宝字の後、神護景雲の前。765年から767年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。.

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天然痘

天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。以降は羊毛の流通に乗って発疹チフスが猛威をふるった。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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太政官

太政官.

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

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孝謙天皇

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.

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官吏

官吏(かんり)とは、公法上の任命行為に基づいて任命され、官公庁や軍などの国家機関に勤務する者を指す。憲法により指す内容が異なる。「官人胥吏」の合成語。 大日本帝国憲法の下では天皇の官制大権および文武官の任免大権(大日本帝国憲法10条)によって任免される者を指し、軍務に服する武官とそれ以外の文官を包含する。 日本国憲法の下では公務員または国家公務員を指す(日本国憲法7条5号、73条4号)(高級官吏および各国の官吏については官僚の項目を参照のこと)。 また、天皇が認証する官吏を認証官という。.

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官位

日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.

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官職

官職(かんしょく)とは、官吏の職のことをいう。具体的には以下の通りに分類される。また、官職の名称のことを官名(かんめい)という。.

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官職の唐風改称

官職の唐風改称(かんしょくの とうふう かいしょう)とは、天平宝字2年(758年)当時の実力者藤原仲麻呂(恵美押勝)によって推進された、中央の官司名や職名を唐風に改称した政策である。.

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宇治谷孟

宇治谷 孟(うじたに つとむ、1918年 - 1992年11月5日)は、日本の歴史学者、国文学者。はじめて『日本書紀』の現代語訳を行ったほか、『続日本紀』の現代語訳も担当した。.

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安史の乱

安史の乱(あんしのらん)、ないし安禄山の乱(あんろくざんのらん)は、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明およびその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。.

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安積親王

安積親王(あさかしんのう、神亀5年(728年) - 天平16年閏1月13日(744年3月7日))は、奈良時代の皇族。聖武天皇の第2皇子。母は県犬養広刀自。.

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密告

密告(みっこく)とは、密かに告発すること。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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尚侍

尚侍(ないしのかみ/しょうじ)とは、日本の律令制における官職で、内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名。.

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尼(あま)、または尼僧(にそう)とは、20歳以上の未婚、もしくは結婚経験があっても沙弥尼(しゃみに)の期間を経て出家した女性のこと。比丘尼(びくに)とも呼ばれる。キリスト教の修道女(en:Nun)も尼と称することがある。 女性が髪を肩のあたりで切ることやその髪型を尼削ぎ(あまそぎ)というが、そのような髪形の童女を尼という場合がある。また近世以降少女または女性を卑しめて呼ぶときにも尼という語を用いた。.

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岸俊男

岸 俊男(きし としお、1920年9月15日 - 1987年1月21日)は、日本史学者、京都大学名誉教授、古代史専攻。.

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崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

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左右

この写真の場合、1, 2, 3, 4, 5がある方向が右、7, 8, 9, 10, 11がある方向が左となり、6と12は左右の区別の内に含まれない。 左右(さゆう、ひだりみぎ)とは、六方位(六方)の名称の一つで、横・幅を指す方位の総称。絶対的な方向ではなく、おのおのの観測者にとって、上(同時に下)と前(同時に後)の方向が定まった時に、そしてその時初めて、その観測者にとっての左と右の方向が決まる。前後、上下とは直角に交差し、左と右は互いに正反対である。 アナログ時計に向かって、7 から 11 までの文字盤がある方向を左(ひだり)、1 から 5 までの文字盤がある方向を右(みぎ)という。あるいは南を下、北を上とした時、東の方向が右、西の方向が左となる。 左右の概念は、また鏡像関係にある二つの存在を区別するためにも援用される。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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上道斐太都

上道 斐太都(かみつみち の ひたつ、生年不詳 - 神護景雲元年9月23日(767年10月20日))は、奈良時代の貴族。名はのち正道。姓は臣のち朝臣。官位は従四位下・備前国造。.

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中務省

中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつ。和名はナカノマツリゴトノツカサ。唐名は中書省など。「中」は禁中の意。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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平城京

平城宮跡 平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代の日本の首都。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。.

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平準署

平準署(へいじゅんしょ)は、奈良時代に設置された官司。常平倉を管理し、物価の安定を図った。左右に分置され、長官は平準令と称した。.

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京職

京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓はミサトヅカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され(条坊制)、京内の東側を「左京(さきょう=南面する玉座より見て左)」、西側を「右京(うきょう=南面する玉座より見て右)」と呼び、「左京職(さきょうしき)」・「右京職(うきょうしき)」に分かれていた。なお、京職(きょうしょく)は京都所司代の別称。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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御璽

御璽 御璽(ぎょじ)とは、いくつかの国において、皇帝(または天皇)が公式に用いる印章(璽)を指す語。具体的には、.

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徳一

徳一(とくいつ)は奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。最澄とのあいだでやりとりされた所謂三一権実諍論や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られる。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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保良宮

保良宮(ほらのみや)は、奈良時代に近江国(滋賀県)に淳仁天皇が営んだ宮で、平城京の北の都「北京」(ほくきょう)とされた。保良京、保良離宮とも呼ばれた。また、天智天皇の大津宮に近かったことから、大津宮と記した古文書(天平宝字6年(762年)3月1日付「造東大寺司告朔解」(『大日本古文書』第5巻125))もある。.

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僧綱

僧綱(そうごう)とは日本における仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職である。.

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肖像画。1559年以降の作。 油彩画。1884年作。 喪(も、英語:mourning)とは、身近な者や心を寄せる者、尊ぶべき者等の死を受けて、それを悲しむ者が一定期間中を過ごすことになる、日常生活とは異なる儀礼的禁忌状態であり、人間社会においておよそ普遍的な現象である。親族を亡くしたときに遺族が身を置く場合が最も一般的。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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唐招提寺1200年の謎〜天平を駆けぬけた男と女たち

『唐招提寺1200年の謎〜天平を駆けぬけた男と女たち』は、2009年11月3日の19:55~22:54にTBS系列にて放送された特別番組。「JNN50周年記念・歴史大河スペクタクル」と銘打っている。.

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内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

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内舎人

内舎人(うどねり)は宮中における役職。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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出挙

出挙(すいこ)は、古代から中世の日本に見られた利子付き貸借を指す用語。.

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問民苦使

問民苦使(もみくし/もんみんくんし)とは、古代日本の律令制において、臨時に派遣された地方監察官。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公卿補任

公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.

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光仁天皇

光仁天皇(こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天応元年12月23日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日) - 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。.

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光明皇后

光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。.

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勧進

勧進(かんじん)は、仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つで勧化(かんげ)ともいう。勧請ともいう。直接民衆に説いて念仏・誦経などの行為を勧める者や寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。 なお勧請も、もともと仏教で仏に教えを請い、いつまでも衆生を救ってくれるよう請願することを指したが、日本では神仏習合によって神仏の霊を迎えての祈願を指すようになり、後に現在の意味に変化した。勧請は神道神社で使われることが多く、分霊ともいう。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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知識 (仏教)

知識(ちしき・智識)とは、仏教の信者が善業を積み重ねるために寺院や仏像の建立や維持、写経や福祉などの事業のために金品などを寄進すること。また、寄進者や寄進物を指す場合もある。.

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知識寺

知識寺(智識寺、ちしきじ)は、河内国大県郡にあった古代仏教寺院。現在の大阪府柏原市太平寺2丁目付近の仏教遺跡がその跡と言われている。.

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石川年足

石川 年足(いしかわ の としたり、持統天皇2年(688年) - 天平宝字6年9月30日(762年10月21日)は、飛鳥時代末期から奈良時代中期の貴族。壬申の乱以降蘇我氏の嫡流となった少納言・蘇我安麻呂の孫、権参議・石川石足の長男。官位は正三位・御史大夫。勲等は勲十二等。.

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石川豊成

石川 豊成(いしかわ の とよなり、生年不詳 - 宝亀3年9月8日(772年10月8日))は、奈良時代の公卿。従三位・石川石足の子。官位は正三位・中納言。.

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火の鳥 (漫画)

『火の鳥』(ひのとり)は、火の鳥(不死鳥)を物語の中心にした一連の編より成り立つ手塚治虫による漫画である。また、それを原作とした映画、アニメ、ラジオドラマ、ビデオゲームが作成されている。手塚治虫の代表作の一つである。.

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琵琶湖

琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある湖。日本で最大の面積と貯水量を持つ。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。ラムサール条約登録湿地。河川法上は一級水系「淀川水系」に属する一級河川であり、同法上の名称は「一級河川琵琶湖」で、滋賀県が管理している例えば、琵琶湖岸に構築物を無許可で設置すると、河川法に基づいて滋賀県から撤去命令が出される。例:。.

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空海

海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。.

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算術

算術 (さんじゅつ、arithmetic) は、数の概念や数の演算を扱い、その性質や計算規則、あるいは計算法などの論理的手続きを明らかにしようとする学問分野である。.

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粟田諸姉

粟田 諸姉(あわた の もろね、生没年不詳)は、奈良時代の女性。藤原真従の妻で、没後に淳仁天皇の妃となった。位階は従五位下。.

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紫微中台

紫微中台(しびちゅうだい)は、749年に設置された令外官。皇太后の家政機関の体裁だが、実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関。後に坤宮官に改称。長官は紫微令、後に紫微内相。.

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紀飯麻呂

紀 飯麻呂(き の いいまろ、持統天皇4年(690年)頃 - 天平宝字6年7月19日(762年8月13日))は、奈良時代の公卿。御史大夫・紀大人の孫で、式部大輔・紀古麻呂の長男。官位は従三位・参議。勲位は勲十二等。.

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紀麻呂

紀 麻呂(き の まろ、斉明天皇5年(659年)? - 慶雲2年7月19日(705年8月12日)は、飛鳥時代の公卿。御史大夫・紀大人の子。官位は正三位・大納言。.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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田村第

村第(たむらてい/たむらのてい/たむらのだい)は、平城京左京4条2坊の東半分にあったと推定されている藤原南家の邸宅。太政大臣になった藤原仲麻呂が居住していたことで知られている。.

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隠岐国

岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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遺言

遺言(ゆいごん、いごん、いげん)とは、日常用語としては形式や内容にかかわらず広く故人が自らの死後のために遺した言葉や文章をいう。日常用語としてはゆいごんと読まれることが多い。このうち民法上の法制度における遺言は、死後の法律関係を定めるための最終意思の表示をいい、法律上の効力を生じせしめるためには、民法に定める方式に従わなければならないとされている(民法960条)。法律用語としてはいごんと読まれることが多い。.

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聖武天皇

聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.

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道祖王

道祖王(ふなどおう、生年不詳 - 天平勝宝9歳7月4日(757年7月24日))は、奈良時代の皇族。天武天皇の孫で、一品・新田部親王の子。.

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道鏡

道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある。俗姓から、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。.

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行幸

行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。.

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養老律令

養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。.

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駅鈴

寺内 http://www.hyogo-c.ed.jp/~museum-ac/081-120/109.html 和田山郷土歴史館) 駅鈴、驛鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴である。 646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。 現在残っている実物は、国の重要文化財に指定されている隠岐国駅鈴2口(幅約5.5 cm、奥行約5.0 cm、高さ約6.5 cm)のみである。この駅鈴は島根県隠岐の島町の玉若酢命神社に隣接する億岐家宝物館に保管・展示され、同神社宮司で隠岐国造の末裔である億岐家によって管理されている。ただし、隠岐国駅鈴の真贋はいまだ諸説あって、はっきりしていない。 1976年(昭和51年)1月25日発売の20円はがきの料額印面の意匠になった。.

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騎兵大将軍

騎兵大将軍(きへいたいしょうぐん)とは、奈良時代、日本の律令制において設置された武官。外国の使臣入京や天皇行幸の列などの威儀を張るため、または警衛のために諸国より徴発された騎兵を率いる指揮官のこと。騎兵司。.

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高島郡 (滋賀県)

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高橋克典

橋 克典(たかはし かつのり、1964年12月15日 - )は、日本の歌手、俳優。神奈川県横浜市出身。所属事務所はケイダッシュ。身長175cm、体重68kg。趣味はツーリング。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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譲位

譲位(じょうい)は、君主が生きている間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。.

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越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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黄文王

文王(きぶみおう、生年不詳 - 天平宝字元年7月4日(757年7月24日))は、奈良時代の皇族。左大臣・長屋王の子。官位は従四位上・散位頭。.

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近衛大将

近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.

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近衛兵

近衛兵(このえへい)とは、君主を警衛する君主直属の軍人または軍団をいう。近衛府・御親兵・親衛隊・近衛師団・禁衛府・衛兵など、時代や国によってさまざまな名称がある。 君主制が廃止された国でも、歴史的経緯などから近衛兵や親衛隊などの名称が存続した例がある。ただし日本語では、「近衛」とは主に世襲の元首を警衛するものを指し、世襲ではない元首を警衛するものには通常この語を充てない。 法治国家が発展した現代では軍と警察の職務分離が進んでおり、平時の警護は警察などの法執行機関や国家憲兵が担当し、軍は儀仗や海外訪問や緊急時の警護を担当する国が多い。 本記事では、君主を警衛する近衛兵のほかにも、そこから派生した制度などについても紹介する。また過去においては兵権と警察権の区別が必ずしも明確でないことから、軍に属する兵卒以外についての記述も含まれる。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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都督

都督(ととく)とは中国の官職または称号。三国時代に現れ、軍政を統轄した。.

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阿倍宿奈麻呂

阿倍 宿奈麻呂(あべ の すくなまろ)は、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての公卿。名は少麻呂とも表記される。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の子。官位は正三位、大納言。.

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阿倍御主人

阿倍 御主人(あべ の みうし)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は布勢・普勢(ふせ)ともされ、阿倍普勢(あべのふせ)の複姓で記される場合もある。姓は臣のち朝臣。左大臣・阿倍内麻呂の子で、子に広庭・人主がいた。 672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)方の功臣。天武天皇の時代から政治に携わり、持統・文武朝の代に高い地位にあり、晩年には右大臣として太政官の頂点の座にあった。官位は従二位・右大臣。 平安時代初期に成立した『竹取物語』に登場する「右大臣あべのみうし」のモデルである。.

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開山

; 仏教用語; 神道・山岳用語; 比喩的用法; 相撲用語; 山岳名; 地名; 姓.

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開眼法要

開眼法要(かいげんほうよう)は、仏像、仏画、仏壇、墓などの完成の際に営まれる法要のこと。開眼供養、入魂式、魂入れとも言う。 例外として浄土真宗では、「開眼法要」・「入魂式」は営まない(詳細は#御移徙を参照)。.

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藤原南家

藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家(軍事貴族)の名族を多く輩出した。.

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藤原宇合

藤原 宇合(ふじわら の うまかい)は、奈良時代の公卿。初名は馬養。右大臣・藤原不比等の三男。藤原式家の祖。官位は正三位・参議。勲等は勲二等。.

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藤原宇比良古

藤原 宇比良古(ふじわら の おひらこ/うひらこ、生年不詳 - 天平宝字6年6月23日『続日本紀』(762年7月18日))は、奈良時代の女官。袁比良とも記される。藤原北家の祖・藤原房前の娘。太政大臣・藤原仲麻呂の室。 藤原仲麻呂の妻となり、真従・真先・訓儒麻呂・朝狩(新田部親王の娘・陽候女王の子との説もある)・真文・児従の生母となった。尚蔵兼尚侍・正三位として、仲麻呂を支えるが、天平宝字6年(762年)に没してしまう。仲麻呂政権の衰退の原因のひとつとも言われ、宇比良古の死から2年後、仲麻呂の一族は滅亡することになる。.

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藤原小湯麻呂

藤原 小湯麻呂(ふじわら の おゆまろ)は、奈良時代の貴族。名は小弓麻呂、湯麻呂とも記される。藤原南家、太師・藤原仲麻呂の子。官位は従五位上・丹波介。.

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藤原巨勢麻呂

藤原 巨勢麻呂(ふじわら の こせまろ)は、奈良時代の貴族。名は許勢麻呂とも表記される。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の四男。官位は従三位・参議。.

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藤原乙麻呂

藤原 乙麻呂(ふじわら の おとまろ)は、奈良時代の公卿。名は乙万呂・弟麻呂とも記される。藤原南家の祖、左大臣・藤原武智麻呂の三男。官位は従三位・武部卿。.

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藤原仲麻呂

藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は、奈良時代の公卿。名は仲麿『尊卑分脈』『公卿補任』または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)。左大臣藤原武智麻呂の次男。官位は正一位太師。恵美大臣とも呼ばれた。.

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藤原弟貞

藤原 弟貞(ふじわら の おとさだ)は、奈良時代中期の皇族・貴族。左大臣・長屋王の子。初名山背王(やましろおう)のち臣籍降下して藤原朝臣姓となる。.

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藤原御楯

藤原 御楯(ふじわら の みたて)は、奈良時代の公卿。初名は千尋。藤原北家の祖である参議・藤原房前の六男。官位は従三位・参議。.

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藤原刷雄

藤原 刷雄(ふじわら の よしお)は、奈良時代の貴族。藤原南家、太師・藤原仲麻呂(恵美押勝)の六男。官位は正五位下・図書頭。.

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藤原四兄弟

藤原四兄弟(ふじわらしきょうだい、ふじわらよんきょうだい)は、奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指す歴史用語。藤原四子(ふじわらしし、ふじわらよんし)などとも呼ばれる。.

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藤原真従

藤原 真従(ふじわら の まより)は、奈良時代の貴族。藤原南家、藤原仲麻呂の長男。官位は従五位下・中務少輔。.

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藤原真先

藤原 真先(ふじわら の まさき )は、奈良時代の公卿。名は真光とも記される。初名は執弓。氏姓は藤原朝臣のち藤原恵美朝臣。藤原南家、太師・藤原仲麻呂の次男。官位は正四位上・参議。.

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藤原訓儒麻呂

藤原 訓儒麻呂(ふじわら の くすまろ) は、奈良時代の貴族。名は久須麻呂とも記される。初名は浄弁。氏姓は藤原朝臣のち藤原恵美朝臣。藤原南家、太師・藤原仲麻呂の三男。官位は従四位下・参議。.

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藤原豊成

藤原 豊成(ふじわら の とよなり)は、奈良時代の貴族。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男。官位は従一位・右大臣。別名難波大臣、横佩大臣(よこはぎのおとど)。.

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藤原麻呂

藤原 麻呂(ふじわら の まろ)は、奈良時代の公卿。名は万里とも記される。右大臣・藤原不比等の四男で、藤原四兄弟の末弟。官位は従三位・参議。藤原京家の祖。.

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藤原辛加知

藤原 辛加知(ふじわら の しかち)は、奈良時代の貴族。氏姓は藤原朝臣のち藤原恵美朝臣。藤原南家、藤原仲麻呂の八男。母は陽候女王(新田部親王の娘)。官位は従五位下・越前守。.

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藤原薩雄

藤原 薩雄(ふじわら の ひろお) は、奈良時代の貴族。藤原南家、太師・藤原仲麻呂の七男。官位は従五位下・右虎賁率。.

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藤原東子 (藤原南家)

藤原 東子(ふじわら の とうし(ひがしこ/あずまこ)、生年不詳 - 816年(弘仁7年)4月28日?)は、奈良時代の貴族、女官。藤原仲麻呂の娘。.

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藤原武智麻呂

藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等の長男。藤原南家の祖。官位は正一位・左大臣、贈太政大臣。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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藤原朝狩

藤原 朝狩(ふじわら の あさかり)は、奈良時代の公卿。名は朝猟、朝獦とも記される。氏姓は藤原朝臣のち藤原恵美朝臣。藤原南家、大師・藤原仲麻呂の四男。母は新田部親王の娘・陽候女王(一説では藤原宇比良古)。官位は従四位下・参議。.

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藤原房前

藤原 房前(ふじわら の ふささき)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖。官位は正三位・参議。贈正一位・太政大臣。.

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藤氏家伝

藤氏家伝(藤氏家傳・ とうしかでん)は天平宝字4年(760年)に成立し、古代から藤原氏に代々伝えられてきた、藤原氏初期の歴史が記された伝記であり、上・下とある。日本書紀や続日本紀には無い歴史が記述されている。 家伝とは、その家の歴史・伝承などをまとめた書物だが、特に藤氏家伝のことを指して家伝ということもある。.

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蔵司

蔵司(くらのつかさ)は、日本の律令官制における役所の一つ。後宮十二司の一つであり、令の制度ではその中の最上位であった。女官のみによって構成される。 蔵司の職掌は、神璽、関契(三関の割符)、天皇・皇后の衣服を管理することであった。准位は、尚蔵(定員1名)が正三位、典蔵(定員2名)が従四位、掌蔵(定員4名)が従七位である。この他女孺10名で構成されていた。皇位の象徴である神璽や、兵乱時に重要な関契を管理する職務の重要性から、令の制度では後宮十二司の中でもっとも高い地位を与えられていた。 しかし、天皇に近侍し、内外の奏請と伝宣を行う内侍司の権威が次第に上昇し、蔵司の職務も内侍司によって次第に代行されるようになった。奈良時代から平安時代初期にかけては、尚侍が尚蔵を兼ねる例も多い。また三関は平安時代に入ると機能が低下して廃絶され、平安時代中期以後、神鏡は内侍所のある温明殿に、神璽・神剣は天皇の側近く清涼殿に置かれた。そして、蔵司は村上天皇時代にいたって完全に見えなくなり、内侍司に吸収された。.

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脚気

脚気(かっけ、beriberi)は、ビタミン欠乏症の一つであり、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって足のむくみ、神経障害によって足のしびれが起きることから脚気と呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心、しょうしん)を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。最悪の場合には死亡に至る。 日本では、白米が流行した江戸において疾患が流行したため「江戸患い」と呼ばれた。大正時代には、結核と並ぶ二大国民亡国病と言われた。1910年代にビタミンの不足が原因と判明し治療可能となったが、死者が1千人を下回ったのは1950年代である。その後も1970年代にジャンクフードの偏食によるビタミン欠乏、1990年代に点滴輸液中のビタミン欠乏によって、脚気患者が発生し問題となった。.

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難波宮

難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿。跡地は国の史跡に指定されている(指定名称は「難波宮跡 附 法円坂遺跡」)。.

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雑徭

雑徭(ぞうよう、ざつよう)は、中国及び日本の律令制下での労役の形態を取る租税制度である。.

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陰陽頭

陽頭(おんようのかみ).

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恭仁京

恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城の1つ。山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。.

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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東大寺盧舎那仏像

東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏(ならのだいぶつ)として知られる。 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。 正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。.

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東山道

東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指す。.

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栄山寺

栄山寺(えいさんじ)は、奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院。藤原武智麻呂により創建された。山号は学晶山(がくしょうさん)。本尊は薬師如来。奈良時代の建築である八角堂(国宝)があることで知られる。.

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桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。.

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橘奈良麻呂

橘 奈良麻呂(たちばな の ならまろ、養老7年(721年)? - 天平勝宝9歳(757年)7月)は、奈良時代の貴族。左大臣・橘諸兄の子。官位は正四位下・参議、贈正一位・太政大臣。二代目橘氏長者。.

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橘奈良麻呂の乱

橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。.

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橘諸兄

橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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正一位

正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.

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正五位

正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.

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正六位

正六位(しょうろくい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従五位の下、従六位の上に位する。勲等では勲五等に、功級では功五級に相当。 律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。但し、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した。神階においては、正六位が最下位となる。 明治時代以降は、少佐の階級にある者などがこの位に叙せられた。また、今日では警察官では警視正、消防吏員では消防監などがこの位に叙せられる他、市町村議会議長にあった者、特別施設や学校創立者その他、業種等で功労ある者などが没後に叙せられる。.

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正四位

正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。 従三位の下、従四位の上に位する。贈位の場合、贈正四位という。.

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毘盧遮那仏

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、大乗仏教における仏の1つ。.

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氏姓制度

氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。「氏姓の制(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「氏・姓」を音読して「氏姓(しせい)」ともいう。 大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。.

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永島敏行

永島 敏行(ながしま としゆき、本名同じ、1956年10月21日 - )は、日本の俳優。血液型はO型。所属事務所は株式会社グランドスラム。身長182cm。.

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民部卿

民部卿(みんぶきょう)は、古代から近代までの日本にあった官職で、民政をつかさどる民部省の長官である。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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淳仁天皇

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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木本好信

木本 好信(きもと よしのぶ、1950年12月8日- )は、日本の歴史研究者、甲子園短期大学特任教授、龍谷大学特任教授。奈良時代政治史、平安朝日記が専門。.

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最澄

最澄像(能福寺) 哭澄上人詩(嵯峨天皇宸翰)(部分) 最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年 - 822年)。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。 先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。.

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流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

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新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

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新田部親王

新田部親王(にいたべしんのう)は、日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。新田部皇子(にいたべのみこ)とも呼ばれる。天武天皇の皇子。.

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文武天皇

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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改名

改名(かいめい)とは、名称を改めること。改称(かいしょう)も同義。.

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改姓

改姓(かいせい)とは姓を改める事を指す。.

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慶雲

慶雲(けいうん、きょううん)は、日本の元号のひとつで大宝の後、和銅の前。704年から708年までの期間を指す。この時代の天皇は文武天皇、元明天皇。「慶雲」とは夕空に現れ瑞兆とされる雲で、蚊柱のこととも。大宝2年(702年)に崩御した持統天皇の葬儀などが済んだ大宝4年(704年)に藤原京において現れ、改元される。大宝年間に律令の編纂や都城の完成など律令国家建設の諸改革を果たし、同年には大宝の遣唐使が帰国。慶雲年間には、遣唐使の報告や実際に律令を施行した上での諸問題を是正する政治改革が行われた(慶雲の改革)。また、平城遷都も立案される。.

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手塚治虫

手塚 治虫(てづか おさむ、本名:手塚 治(読み同じ)、1928年生前は1926年生まれと自称していた「現代漫画6巻 手塚治虫集」(筑摩書房)著者紹介など。(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督。 大阪帝国大学附属医学専門部を卒業、医師免許取得、のち医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。血液型A型。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画の草分け存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)、同市名誉市民。.

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拷問

拷問(ごうもん、torture)とは、被害者の自由を奪った上で肉体的・精神的に痛めつけることにより、加害者の要求に従うように強要する事。特に被害者の持つ情報を自白させる目的で行われることが多い。.

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10月17日

10月17日(じゅうがつじゅうななにち、じゅうがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から290日目(閏年では291日目)にあたり、年末まであと75日ある。.

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706年

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740年

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741年

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743年

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749年

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752年

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756年

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760年

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763年

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764年

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9月18日 (旧暦)

旧暦9月18日(きゅうれきくがつじゅうはちにち)は、旧暦9月の18日目である。六曜は友引である。.

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