ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

結城氏

索引 結城氏

結城氏(ゆうきし)は、日本の氏族。平安時代末期から戦国時代にかけて、主に下総で活動した大身。通字として「朝」(とも)や「広」(ひろ)が名前に用いられている。.

160 関係: 千葉氏南部政長及川氏古河城古河公方多々良浜の戦い多賀谷重経多賀谷氏多賀谷政広大嶋勝吉大身天正室町時代守護守護大名宇都宮広綱宇都宮頼綱宇都宮氏安房国寒河尼小山市小山秀綱小山高朝小山氏小山氏の乱小山泰朝小山朝政小山政光小田原征伐山川氏山川朝信山川晴重山内上杉家屋形岩上朝堅上杉謙信上杉憲忠常陸平氏常陸国七宮ケイ三三重県下総国下館藩下野国平安時代久保田藩享徳の乱令旨建武 (日本)建武の新政...仙台藩佐竹義重 (十八代当主)佐竹氏徳川家康徳川氏後北条氏後醍醐天皇土浦城北畠顕家北畠親房北条氏北条氏康公卿六波羅探題元弘福島県糠部郡真壁房幹結城基光結城合戦結城宗広結城市結城広綱結城神社結城祐広結城秀康結城直光結城直朝結城親光結城親朝結城貞広結城郡結城氏広結城氏朝結城満広結城持朝結城朝広結城朝光結城朝勝結城朝祐結城朝道結城成朝結城明朝結城政勝結城政直結城政朝結城晴朝結城時広相模国白河市白河結城氏鎮守府将軍鎌倉時代補任高椅神社護良親王豊臣秀吉越前国足利尊氏足利義教足利氏足利満兼足利持氏足利成氏茨城県郡司興国関城関ヶ原の戦い関東八屋形関東管領関氏藤原北家藤原秀郷那須氏長沼宗政長沼氏陸奥国暦応松平忠直松平忠昌松平直基松平直良松平直政松本一夫栃木県武家氏族水谷勝俊水谷正村水谷氏水戸藩永享の乱治承・寿永の乱津市源義広 (志田三郎先生)源頼朝源氏戦国時代 (日本)新井白石新田義貞日本慶長1333年1334年1335年1336年1342年1590年1604年 インデックスを展開 (110 もっと) »

千葉氏

千葉氏(ちばし、ちばうじ)は、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族である。桓武平氏良文流。通字は「胤」。.

新しい!!: 結城氏と千葉氏 · 続きを見る »

南部政長

南部 政長(なんぶ まさなが)は、南北朝時代の武将。南部政行の四男。.

新しい!!: 結城氏と南部政長 · 続きを見る »

及川氏

及川氏(おいかわし)は、日本の氏族。清和源氏(摂津源氏)頼綱流。源三位頼政より出、馬場氏の分流。及川の「及」は「およぶ」ではなく「笈」の異体字(または略字)。古くは及川だけでなく笈川・及河・笈河などいろいろに書かれ、現在でも笈川氏と書く家もあるが、どの書き方が正しいということはない。読みも現在はオイカワが一般的であるが、清音のオイカワと濁音のオイガワ、どちらが本来の読みだったのかは不明である。全国人口順位282位、現在の日本では約2万軒、人口78,400人。.

新しい!!: 結城氏と及川氏 · 続きを見る »

古河城

古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城。 室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。.

新しい!!: 結城氏と古河城 · 続きを見る »

古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

新しい!!: 結城氏と古河公方 · 続きを見る »

多々良浜の戦い

多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)は、南北朝時代の1336年(建武3年)に行われた合戦である。.

新しい!!: 結城氏と多々良浜の戦い · 続きを見る »

多賀谷重経

多賀谷 重経(たがや しげつね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。結城氏、佐竹氏の家臣。常陸国下妻城主。.

新しい!!: 結城氏と多賀谷重経 · 続きを見る »

多賀谷氏

多賀谷氏(たがやし)は、武蔵七党野与党を祖とする一族である。.

新しい!!: 結城氏と多賀谷氏 · 続きを見る »

多賀谷政広

多賀谷 政広(たがや まさひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。結城氏の家臣。多賀谷重経の父・政経は従兄弟に当たる。.

新しい!!: 結城氏と多賀谷政広 · 続きを見る »

大嶋勝吉

大嶋 勝吉(おおしま かつよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。結城氏の家臣。.

新しい!!: 結城氏と大嶋勝吉 · 続きを見る »

大身

大身(たいしん).

新しい!!: 結城氏と大身 · 続きを見る »

天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

新しい!!: 結城氏と天正 · 続きを見る »

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

新しい!!: 結城氏と室町時代 · 続きを見る »

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

新しい!!: 結城氏と守護 · 続きを見る »

守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

新しい!!: 結城氏と守護大名 · 続きを見る »

宇都宮広綱

宇都宮 広綱(うつのみや ひろつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての下野国の大名。宇都宮氏21代当主。宇都宮尚綱の子。母は結城政朝の娘。幼名は伊勢寿丸。正室は佐竹義昭の娘・南呂院。子に宇都宮国綱・結城朝勝・芳賀高武。.

新しい!!: 結城氏と宇都宮広綱 · 続きを見る »

宇都宮頼綱

宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。.

新しい!!: 結城氏と宇都宮頼綱 · 続きを見る »

宇都宮氏

宇都宮(うつのみや)氏は、日本の氏族。摂関家藤原北家道兼流を称する大族。下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれる。.

新しい!!: 結城氏と宇都宮氏 · 続きを見る »

安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 結城氏と安房国 · 続きを見る »

寒河尼

寒河尼/寒川尼(さむかわのあま/さむかわに、保延3年(1137年)- 安貞2年2月4日(1228年3月11日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。八田宗綱の娘。下野国の豪族・小山政光の後妻で、結城朝光の母。源頼朝の乳母も務めた。本名は不詳。『吾妻鏡』で「寒河尼」と記されている。寒川郡の他にも地頭として補任された地である阿志土郷(小山市網戸)から網戸尼(あじとに)とも称された『郷土史事典 栃木県』。.

新しい!!: 結城氏と寒河尼 · 続きを見る »

小山市

思川 八幡町近辺(2006年7月) 国道50号に立ち並ぶロードサイドショップ(2007年5月) 小山市(おやまし)は、栃木県南部にある市。旧下都賀郡(境界変更を除く)。市域は首都圏に含まれ、人口は約16万7千人。2005年(平成17年)12月に宇都宮市に次いで栃木県第2位の人口をもつ都市となった。また、城南地区、美しが丘地区などの開発中のニュータウン地域もあり、周辺の市町と比較して労働人口が多く、人口増加がこれからも見込まれる都市である。 栃木県南部の中心都市であるとともに、東北新幹線・東北本線(宇都宮線)・両毛線・水戸線が通じ、東京方面と当地周辺部、栃木県南部及び茨城県西部を相互に結ぶ「結節点」、いわゆる玄関口となっている。 周辺の3市で小山都市圏を形成しており、その中心都市である。.

新しい!!: 結城氏と小山市 · 続きを見る »

小山秀綱

小山 秀綱(おやま ひでつな)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名。小山氏18代当主。下野国祇園城主。.

新しい!!: 結城氏と小山秀綱 · 続きを見る »

小山高朝

小山 高朝(おやま たかとも)は、戦国時代戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。小山氏の第17代当主。下野国を代表する勇将として知られた。.

新しい!!: 結城氏と小山高朝 · 続きを見る »

小山氏

小山氏(おやまし)は、平安時代に武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする地方豪族。1150年頃、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。政光は八田宗綱の娘(後に源頼朝の乳母である寒河尼)を妻とし、頼朝の信頼厚く鎌倉幕府において重用されることとなった。関東八屋形の一つ。.

新しい!!: 結城氏と小山氏 · 続きを見る »

小山氏の乱

小山氏の乱(おやましのらん)とは、室町時代前期に下野守護であった小山義政が鎌倉公方足利氏満に対して起こした反乱(小山義政の乱、天授6年/康暦2年(1380年) - 弘和2年/永徳2年(1382年))及び、義政の滅亡後に遺児の小山若犬丸(隆政)に引き継がれて続けられた反乱(小山若犬丸の乱、元中3年/至徳3年(1386年) - 応永4年(1397年))の総称。17年にわたって繰り広げられた結果、小山氏嫡流は滅亡することとなる。.

新しい!!: 結城氏と小山氏の乱 · 続きを見る »

小山泰朝

小山 泰朝(おやま やすとも)は、室町時代前期の武士。小山氏12代当主。.

新しい!!: 結城氏と小山泰朝 · 続きを見る »

小山朝政

小山 朝政(おやま ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。小山氏2代当主。 下野国寒河御厨(小山庄)を本貫地とする。源頼朝に挙兵の頃から仕え、下野国守護の他、播磨国守護に補されたほか、晩年に下野守にも任ぜられた。.

新しい!!: 結城氏と小山朝政 · 続きを見る »

小山政光

小山 政光(おやま まさみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。小山氏の祖。下野国・国府周辺に広大な所領を有し下野最大の武士団を率いていた。.

新しい!!: 結城氏と小山政光 · 続きを見る »

小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

新しい!!: 結城氏と小田原征伐 · 続きを見る »

山川氏

山川氏(やまかわ し)は、結城朝光(結城氏始祖・小山政光三男)の子である山川重光(しげみつ)を祖とする結城氏の庶流である。.

新しい!!: 結城氏と山川氏 · 続きを見る »

山川朝信

山川 朝信(やまかわ とものぶ)は、安土桃山時代の武将・大名。下野国山川領主。.

新しい!!: 結城氏と山川朝信 · 続きを見る »

山川晴重

山川 晴重(やまかわ はるしげ)は、安土桃山時代の武将。結城氏の家臣。.

新しい!!: 結城氏と山川晴重 · 続きを見る »

山内上杉家

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身 (2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。.

新しい!!: 結城氏と山内上杉家 · 続きを見る »

屋形

屋形(やかた)とは、公家や武家など貴人の館のことを意味する。室町幕府及び江戸幕府においては、名門或いは功績ある武家の当主、及び大藩の藩主に許された称号または敬称であって、屋形号という。屋形号の上位には公方号、御所号がある。 屋形号が成立したのは室町時代初期の頃であり、足利氏の一門や有力な守護大名、守護代、主に室町幕府の成立や謀反人討伐に功ある国人領主に許された。.

新しい!!: 結城氏と屋形 · 続きを見る »

岩上朝堅

岩上 朝堅(いわかみ ともかた)は、戦国時代の武将。結城氏の家臣。結城四天王の一人。.

新しい!!: 結城氏と岩上朝堅 · 続きを見る »

上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.

新しい!!: 結城氏と上杉謙信 · 続きを見る »

上杉憲忠

上杉 憲忠(うえすぎ のりただ)は、室町時代中期の武士・守護大名。山内上杉家9代当主。関東管領。5代鎌倉公方・足利成氏に謀殺されて、享徳の乱のきっかけとなる。.

新しい!!: 結城氏と上杉憲忠 · 続きを見る »

常陸平氏

常陸平氏(ひたちへいし)は、桓武平氏のうち常陸国を本拠とした高望王流坂東平氏の一族の呼称で、軍事貴族(武家貴族)の家柄である。後に惣領家が大掾氏を称した。伊勢平氏とは同族であり、鎮西平氏(伊佐氏)、越後平氏(城氏)、信濃平氏(仁科氏)、海道平氏(岩城氏)などの庶家を出した(ただし、信濃平氏と海道平氏は庶家ではなく、別系統とする説もある)。通字は「幹」(もと)。 もっとも、吉田氏改め大掾氏が常陸平氏の惣領として描く歴史観は、大掾氏自身が作成した系譜(『常陸大掾系図』・『常陸大掾系図』)に基づくところが大きく、常陸平氏の実態を示していないとする批判も存在する高橋修「『常陸平氏』再考」(初出:高橋 編『実像の中世武士団』高志書院、2010年)/所収:高橋 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻 常陸平氏』(戎光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-167-7)。 また、清和源氏や出羽清原氏とは縁戚関係でもあった。.

新しい!!: 結城氏と常陸平氏 · 続きを見る »

常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

新しい!!: 結城氏と常陸国 · 続きを見る »

七宮ケイ三

七宮 涬三(しちのみや けいぞう、1928年 -2011年2月16日)は、日本の歴史学者、作家。主に平安時代末期から戦国時代にかけての氏族に関する著書や、岩手県の政治家や経済人に関する著作が多い。.

新しい!!: 結城氏と七宮ケイ三 · 続きを見る »

三重県

三重県(みえけん)は、日本の都道府県の一つで紀伊半島の東側に位置する。県庁所在地は県中部の津市。.

新しい!!: 結城氏と三重県 · 続きを見る »

下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 結城氏と下総国 · 続きを見る »

下館藩

下館藩(しもだてはん)は、常陸国西北部(現在の茨城県筑西市、かつての下館市)に存在した藩。居城は下館城。.

新しい!!: 結城氏と下館藩 · 続きを見る »

下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 結城氏と下野国 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 結城氏と平安時代 · 続きを見る »

久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.

新しい!!: 結城氏と久保田藩 · 続きを見る »

享徳の乱

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因(もしくは直接の発端)となった。.

新しい!!: 結城氏と享徳の乱 · 続きを見る »

令旨

令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。 中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。 歴史上有名な令旨としては、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に諸国の源氏に挙兵を命じるために以仁王が発した「以仁王の令旨」があるが、これは皇太子でも親王でもない以仁王が命令の正統性を高めるためにあえて親王の身位を冒して発したもので、本来ならば王の命令書は「御教書」と呼ばれるべきものだった。 なお、天皇の命令を伝える文書に宣旨・綸旨などがある。.

新しい!!: 結城氏と令旨 · 続きを見る »

建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

新しい!!: 結城氏と建武 (日本) · 続きを見る »

建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

新しい!!: 結城氏と建武の新政 · 続きを見る »

仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

新しい!!: 結城氏と仙台藩 · 続きを見る »

佐竹義重 (十八代当主)

佐竹 義重(さたけ よししげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。常陸国の戦国大名。佐竹氏第18代当主。 北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金力を実現した。関東一の鉄砲隊を備えたという。.

新しい!!: 結城氏と佐竹義重 (十八代当主) · 続きを見る »

佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。.

新しい!!: 結城氏と佐竹氏 · 続きを見る »

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

新しい!!: 結城氏と徳川家康 · 続きを見る »

徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

新しい!!: 結城氏と徳川氏 · 続きを見る »

後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

新しい!!: 結城氏と後北条氏 · 続きを見る »

後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

新しい!!: 結城氏と後醍醐天皇 · 続きを見る »

土浦城

土浦城(つちうらじょう)は、常陸国新治郡(現:茨城県土浦市)にあった日本の城。室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。幅の広い二重の堀で守る平城である。天守は作られなかった。太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ。茨城県指定史跡第1号。.

新しい!!: 結城氏と土浦城 · 続きを見る »

北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

新しい!!: 結城氏と北畠顕家 · 続きを見る »

北畠親房

北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。.

新しい!!: 結城氏と北畠親房 · 続きを見る »

北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

新しい!!: 結城氏と北条氏 · 続きを見る »

北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。。.

新しい!!: 結城氏と北条氏康 · 続きを見る »

公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 結城氏と公卿 · 続きを見る »

六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

新しい!!: 結城氏と六波羅探題 · 続きを見る »

元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

新しい!!: 結城氏と元弘 · 続きを見る »

福島県

福島県(ふくしまけん)は、日本の都道府県の一つ。県庁所在地は福島市。 東北地方の南部(南東北)に位置し、東北で宮城県に次ぐ2番目の人口と県内総生産を擁する。面積は北海道、岩手県に次ぐ全国3位、都道府県別の人口は全国21位、人口密度は全国40位である(いずれも2015年10月1日時点の国勢調査および全国都道府県市区町村別面積調による)。 市町村別では概ね、日本海側に面積の4割弱と人口の15%弱が、太平洋側に面積の6割強と人口の85%以上が分布する。.

新しい!!: 結城氏と福島県 · 続きを見る »

糠部郡

糠部郡(ぬかのぶぐん)とは、かつて陸奥国にあった郡。現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた。.

新しい!!: 結城氏と糠部郡 · 続きを見る »

真壁房幹

真壁 房幹(まかべ ふさもと、永禄12年5月4日(1569年5月19日) - 慶長17年7月5日(1612年8月1日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。佐竹氏の家臣で久保田藩重臣。真壁義幹の子。.

新しい!!: 結城氏と真壁房幹 · 続きを見る »

結城基光

結城 基光(ゆうき もとみつ)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての武将。下野国守護。下総結城氏9代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城基光 · 続きを見る »

結城合戦

結城合戦(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。.

新しい!!: 結城氏と結城合戦 · 続きを見る »

結城宗広

結城 宗広(ゆうき むねひろ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。白河結城氏2代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城宗広 · 続きを見る »

結城市

結城市(ゆうきし)は、茨城県の西部に位置する市である。.

新しい!!: 結城氏と結城市 · 続きを見る »

結城広綱

結城 広綱(ゆうき ひろつな)は、鎌倉時代中期の武士・御家人。下総結城氏3代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城広綱 · 続きを見る »

結城神社

結城神社(ゆうきじんじゃ)は、三重県津市にある神社である。白河結城氏の結城宗広を祀る建武中興十五社の一社にあたる。.

新しい!!: 結城氏と結城神社 · 続きを見る »

結城祐広

結城 祐広(ゆうき すけひろ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。白河結城氏初代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城祐広 · 続きを見る »

結城秀康

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。.

新しい!!: 結城氏と結城秀康 · 続きを見る »

結城直光

結城 直光(ゆうき なおみつ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。安房国守護。下総結城氏8代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城直光 · 続きを見る »

結城直朝

結城 直朝(ゆうき なおとも)は、南北朝時代の武将。下総結城氏7代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城直朝 · 続きを見る »

結城親光

結城 親光(ゆうき ちかみつ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。.

新しい!!: 結城氏と結城親光 · 続きを見る »

結城親朝

結城 親朝(ゆうき ちかとも)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。小峰氏初代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城親朝 · 続きを見る »

結城貞広

結城 貞広(ゆうき さだひろ)は、鎌倉時代後期の武士・御家人。下総結城氏5代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城貞広 · 続きを見る »

結城郡

*.

新しい!!: 結城氏と結城郡 · 続きを見る »

結城氏広

結城 氏広(ゆうき うじひろ)は、室町時代後期の武将。下総結城氏14代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城氏広 · 続きを見る »

結城氏朝

結城 氏朝(ゆうき うじとも)は、室町時代前期の武将。下総結城氏11代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城氏朝 · 続きを見る »

結城満広

結城 満広(ゆうき みつひろ)は、室町時代中期の武士。下総結城氏10代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城満広 · 続きを見る »

結城持朝

結城 持朝(ゆうき もちとも)は、室町時代中期の武将。下総結城氏12代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城持朝 · 続きを見る »

結城朝広

結城 朝広(ゆうき ともひろ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。下総結城氏2代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城朝広 · 続きを見る »

結城朝光

結城 朝光(ゆうき ともみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての武将・有力御家人。下総結城氏初代当主。 書物によっては小山朝光(おやま ともみつ)と記されている場合もあるが、結城家の家祖であるため、後の名乗りである結城朝光の方が、世上よく知られた名前である。.

新しい!!: 結城氏と結城朝光 · 続きを見る »

結城朝勝

結城 朝勝(ゆうき ともかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。.

新しい!!: 結城氏と結城朝勝 · 続きを見る »

結城朝祐

結城 朝祐(ゆうき ともすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。下総結城氏6代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城朝祐 · 続きを見る »

結城朝道

結城 朝道(ゆうき ともみち)は、江戸時代後期の武士。水戸藩の執政。別名「寅寿」の読み方については「とらかず」や「ともひさ」とする説もある。.

新しい!!: 結城氏と結城朝道 · 続きを見る »

結城成朝

結城 成朝(ゆうき しげとも)は、室町時代中期の武将。下総結城氏13代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城成朝 · 続きを見る »

結城明朝

結城 明朝(ゆうき あきとも)は、戦国時代の武士。.

新しい!!: 結城氏と結城明朝 · 続きを見る »

結城政勝

結城 政勝(ゆうき まさかつ)は、戦国時代の武将・戦国大名。下総結城氏16代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城政勝 · 続きを見る »

結城政直

結城 政直(ゆうき まさなお)は、戦国時代の武士。下総結城氏16代当主と推定される。.

新しい!!: 結城氏と結城政直 · 続きを見る »

結城政朝

結城 政朝(ゆうき まさとも)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・戦国大名。下総結城氏15代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城政朝 · 続きを見る »

結城晴朝

結城 晴朝(ゆうき はるとも)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名。下総結城氏17代当主。下総国結城城主。.

新しい!!: 結城氏と結城晴朝 · 続きを見る »

結城時広

結城 時広(ゆうき ときひろ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士・御家人。下総結城氏4代当主。.

新しい!!: 結城氏と結城時広 · 続きを見る »

相模国

模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

新しい!!: 結城氏と相模国 · 続きを見る »

白河市

白河市(しらかわし)は、福島県中通り南部に位置する。奥州三関の一つ白河の関が置かれ、みちのくの玄関口として知られる。.

新しい!!: 結城氏と白河市 · 続きを見る »

白河結城氏

白河結城氏(しらかわゆうきし)は、日本の氏族。下総結城氏庶流で宗家と区別するため白河氏、陸奥結城氏とも呼ばれる。戦国時代には陸奥国南部の白河地方を支配する戦国大名となった。搦目城(白川城)を居城としたが、白河結城氏の衰退と共に同城は廃城になり、小峰城が白河結城氏の本拠地となった。.

新しい!!: 結城氏と白河結城氏 · 続きを見る »

鎮守府将軍

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.

新しい!!: 結城氏と鎮守府将軍 · 続きを見る »

鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

新しい!!: 結城氏と鎌倉時代 · 続きを見る »

補任

補任(ぶにん)とは、官人に官職・位階を与えること。補任のための儀式を除目という。.

新しい!!: 結城氏と補任 · 続きを見る »

高椅神社

椅神社(たかはしじんじゃ)は、栃木県小山市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。 「料理の祖神」磐鹿六雁命を主祭神とする最も古い神社であり、国常立尊・天鏡尊・天萬尊・木花咲耶姫神・経津主神・高龗神・火産霊神・豊受比売神を配祀する。 岐阜県に4つの分社があり調理関係者から信仰されている。.

新しい!!: 結城氏と高椅神社 · 続きを見る »

護良親王

護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

新しい!!: 結城氏と護良親王 · 続きを見る »

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

新しい!!: 結城氏と豊臣秀吉 · 続きを見る »

越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 結城氏と越前国 · 続きを見る »

足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

新しい!!: 結城氏と足利尊氏 · 続きを見る »

足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

新しい!!: 結城氏と足利義教 · 続きを見る »

足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

新しい!!: 結城氏と足利氏 · 続きを見る »

足利満兼

足利 満兼(あしかが みつかね)は、室町時代前期の武将。3代目の鎌倉公方(在職:応永5年(1398年) - 応永16年(1409年))である。.

新しい!!: 結城氏と足利満兼 · 続きを見る »

足利持氏

足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。.

新しい!!: 結城氏と足利持氏 · 続きを見る »

足利成氏

足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。.

新しい!!: 結城氏と足利成氏 · 続きを見る »

茨城県

茨城県(いばらきけん)は、日本の県の一つ。関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市。都道府県人口は全国11位、面積は全国24位である。.

新しい!!: 結城氏と茨城県 · 続きを見る »

郡司

郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)は、律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。.

新しい!!: 結城氏と郡司 · 続きを見る »

興国

興国(こうこく)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇、北朝方が後光厳天皇、光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 結城氏と興国 · 続きを見る »

関城

関城(せきじょう)は、日本国に存在した城。.

新しい!!: 結城氏と関城 · 続きを見る »

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

新しい!!: 結城氏と関ヶ原の戦い · 続きを見る »

関東八屋形

関東八屋形(かんとうはちやかた)は、室町時代、関東地方において屋形号を称する事が許された有力な大名をいう。.

新しい!!: 結城氏と関東八屋形 · 続きを見る »

関東管領

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.

新しい!!: 結城氏と関東管領 · 続きを見る »

関氏

関氏(せきし、旧字体:關氏)は、日本の氏族のひとつ。いくつかの血流があり、伊勢国の豪族で桓武平氏の平姓関氏および、藤原秀郷を祖とする常陸国の藤姓関氏、美濃国を根拠地とする美濃関氏などがある。.

新しい!!: 結城氏と関氏 · 続きを見る »

藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

新しい!!: 結城氏と藤原北家 · 続きを見る »

藤原秀郷

藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。 室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。.

新しい!!: 結城氏と藤原秀郷 · 続きを見る »

那須氏

那須氏(なすし)は、日本の氏族のひとつ。下野国那須郡を発祥とする。.

新しい!!: 結城氏と那須氏 · 続きを見る »

長沼宗政

長沼 宗政(ながぬま むねまさ)は、鎌倉時代前期の武将・御家人。長沼氏・皆川氏の祖。.

新しい!!: 結城氏と長沼宗政 · 続きを見る »

長沼氏

長沼氏(ながぬまし)は日本の武家のひとつ。本姓は藤原氏。家系は藤原北家の末裔 鎮守府将軍藤原秀郷の血筋で小山氏の支族である。関東八屋形のひとつ。家紋は「左三つ巴」 鎌倉時代は阿波守護を務め、室町時代は鎌倉公方 足利満兼から屋形号を与えられ関東八屋形のひとつに数えられた.

新しい!!: 結城氏と長沼氏 · 続きを見る »

陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

新しい!!: 結城氏と陸奥国 · 続きを見る »

暦応

暦応(りゃくおう、れきおう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。建武の後、康永の前。1338年から1341年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

新しい!!: 結城氏と暦応 · 続きを見る »

松平忠直

松平 忠直(まつだいら ただなお)は、江戸時代初期の大名。越前北ノ庄(福井)藩主。結城秀康の長男。徳川家康の孫、徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。.

新しい!!: 結城氏と松平忠直 · 続きを見る »

松平忠昌

松平 忠昌(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期の大名。越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主公式には福井藩第3代に数える忠昌以降を(相続時の混乱から)別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えばその系統の初代となる。。初代藩主結城秀康の次男で、2代藩主松平忠直の同母弟。.

新しい!!: 結城氏と松平忠昌 · 続きを見る »

松平直基

松平 直基(まつだいら なおもと)は、江戸時代前期の大名。直基系越前松平家初代。.

新しい!!: 結城氏と松平直基 · 続きを見る »

松平直良

松平 直良(まつだいら なおよし)は、江戸時代前期の大名。越前国木本藩主、越前勝山藩主、越前大野藩初代藩主。直良系越前松平家初代。.

新しい!!: 結城氏と松平直良 · 続きを見る »

松平直政

松平 直政(まつだいら なおまさ)は、江戸時代前期の大名。上総国姉ヶ崎藩主、越前国大野藩主、信濃国松本藩主を経て出雲国松江藩初代藩主。直政系越前松平家宗家初代。.

新しい!!: 結城氏と松平直政 · 続きを見る »

松本一夫

松本 一夫(まつもと かずお、1959年 - )は、日本の日本史学者。 栃木県生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2001年「南北朝・室町前期における東国守護の研究」で慶大博士(史学)。栃木県立宇都宮工業高等学校教諭など、栃木県公立学校教員を経て栃木県立文書館副主幹、館長補佐、栃木県立宇都宮商業高等学校定時制教頭、栃木県芳賀青年の家所長。中世から戦国期の下野国の歴史を研究している。.

新しい!!: 結城氏と松本一夫 · 続きを見る »

栃木県

栃木県(とちぎけん)は、日本の都道府県の一つ。関東地方北部に位置する。県庁所在地は宇都宮市。県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有する。.

新しい!!: 結城氏と栃木県 · 続きを見る »

武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

新しい!!: 結城氏と武家 · 続きを見る »

氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

新しい!!: 結城氏と氏族 · 続きを見る »

水谷勝俊

水谷 勝俊(みずのや かつとし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。常陸国下館藩初代藩主。.

新しい!!: 結城氏と水谷勝俊 · 続きを見る »

水谷正村

水谷 正村(みずのや まさむら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。結城氏の家臣。蟠龍斎(はんりゅうさい)の名でも知られている。「結城四天王」の一人。野心家であり「負け知らずの猛将」と後世に伝わる。常陸国下館城及び久下田城主。.

新しい!!: 結城氏と水谷正村 · 続きを見る »

水谷氏

水谷氏(みずのやし)は、藤原北家秀郷流近藤氏の氏族。日本の戦国時代から江戸時代初期の結城氏の重臣、特に結城四天王として数えられる水谷勝俊の一族がある。江戸時代には結城氏から独立して大名となるが、嗣子がなく廃絶。庶子が旗本として家名を残した。.

新しい!!: 結城氏と水谷氏 · 続きを見る »

水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

新しい!!: 結城氏と水戸藩 · 続きを見る »

永享の乱

永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.

新しい!!: 結城氏と永享の乱 · 続きを見る »

治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。.

新しい!!: 結城氏と治承・寿永の乱 · 続きを見る »

津市

津市(つし)は、三重県中部に位置する都市で、同県の県庁所在地である。日本で最初に市制施行地に指定された都市のひとつ。周辺自治体と共に人口約51万人(2010年時点)を擁する津都市圏を形成する。.

新しい!!: 結城氏と津市 · 続きを見る »

源義広 (志田三郎先生)

源 義広(みなもと の よしひろ/志田 義広 しだ よしひろ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代・源為義の三男。志田三郎先生(しだ さぶろう せんじょう)。またの名を義範、義憲(よしのり)とも。.

新しい!!: 結城氏と源義広 (志田三郎先生) · 続きを見る »

源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

新しい!!: 結城氏と源頼朝 · 続きを見る »

源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

新しい!!: 結城氏と源氏 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 結城氏と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

新井白石

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.

新しい!!: 結城氏と新井白石 · 続きを見る »

新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

新しい!!: 結城氏と新田義貞 · 続きを見る »

日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

新しい!!: 結城氏と日本 · 続きを見る »

慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

新しい!!: 結城氏と慶長 · 続きを見る »

1333年

記載なし。

新しい!!: 結城氏と1333年 · 続きを見る »

1334年

記載なし。

新しい!!: 結城氏と1334年 · 続きを見る »

1335年

記載なし。

新しい!!: 結城氏と1335年 · 続きを見る »

1336年

記載なし。

新しい!!: 結城氏と1336年 · 続きを見る »

1342年

記載なし。

新しい!!: 結城氏と1342年 · 続きを見る »

1590年

記載なし。

新しい!!: 結城氏と1590年 · 続きを見る »

1604年

記載なし。

新しい!!: 結城氏と1604年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »