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倭・倭人関連の中国文献

索引 倭・倭人関連の中国文献

倭・倭人関連の中国文献(わ・わじんかんれんのちゅうごくぶんけん)は、倭・倭人や倭国のことが書かれている中国の文献について解説する。.

177 関係: 劉ク博多湾印綬南史南京博物院南唐南斉書台湾史記史通多利思比孤大夫大陸大業太宰府天満宮太宗 (宋)太平御覧太伯・虞仲夫余好太王碑姚思廉学研ホールディングス宋 (南朝)宋史宋書山海経岩波文庫上表文帥升中央公論新社中国の歴史中国国家博物館帯方郡三国志三国志 (歴史書)平壌二十四史五代十国時代井上秀雄建安 (漢)建武中元任那日本府弁韓弥生人弥生時代後漢後漢書志賀島北史...北宋ユウ婁ワイ人刺史呉 (三国)呉 (春秋)儒教元史元帝 (南朝梁)元嘉元明天皇光武帝前漢前方後円墳国立故宮博物院倭の五王倭人倭・倭人関連の朝鮮文献倭国玄菟郡王充王沈王沈 (西晋)班固筑紫紀伝体紀元前108年紀元前202年縄文時代翰苑真番郡燕 (春秋)煬帝百越百済隋書職貢図荊州類書衛氏朝鮮裴世清裴松之西晋馬韓香椎高句麗論衡論語講談社学術文庫魚豢魏 (三国)魏 (戦国)魏徴魏志倭人伝魏略魏書讖緯越裳辰韓迷信范曄蜀漢阿曇氏閻立本開皇藤堂明保臨屯郡金印蕭衍長江通典老荘思想逸文陰陽五行思想東洋文庫 (平凡社)梁 (南朝)梁書楽浪郡正史武帝 (漢)歳時記歴史書一覧沃沮法家法興王洛陽市漢委奴国王印漢四郡漢書朝鮮半島朝鮮民主主義人民共和国朝貢木簡成王 (周)戦国時代 (中国)明徳出版社明治書院春秋時代新唐書新羅新釈漢文大系斉 (南朝)日本日本書紀旧唐書扶桑晋書369年391年414年439年487年502年521年562年591年608年636年8年 インデックスを展開 (127 もっと) »

劉ク

劉 昫(りゅう く、887年 - 946年)は、五代十国時代の涿州帰義(今の河北省保定市雄県)の人、後晋の政治家。字は耀遠。.

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博多湾

博多湾(はかたわん)は、福岡県北西部にある玄界灘に面した湾。福岡湾とも。特定重要港湾の博多港、和白干潟などを抱える。福岡市の市域拡張による埋立が繰り返し行われてきた。.

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印綬

印綬(いんじゅ)とは中国に於いて臣下に対して印章を授けることによって官職の証とした制度の事である。印は印章、綬はそれを下げるためのひものことであり、この組み合わせにより一目でどのような地位にあるかがわかるようにされていた。.

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南史

『南史』(なんし)は、中国の南朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全80巻で、本紀10巻・列伝70巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の南朝にあたる国家、宋・斉・梁・陳の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『宋書』・『南斉書』・『梁書』・『陳書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。とくに恩倖伝の増補などにそれは顕著である。.

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南京博物院

南京博物院(ナンキンはくぶついん)は中華人民共和国江蘇省南京市玄武区に位置する歴史博物館。北京故宮博物院と並ぶ中国最高峰の総合博物館である。中華民国時代に首都の総合博物館として計画・設計された。2008年2月8日より無料開放された。 南京市城内の東部、中山門の内側にある公園、半山園にある。南京博物院のすぐ近くにある中山門は、日中戦争時に旧日本軍がここから南京市内に入城した場所である。 場所は中山東路312号、敷地面積は8万3,000平方m。.

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南唐

南唐(なんとう、937年 - 975年)は、五代十国時代に江南に割拠した国であり、十国の一つである。首都は金陵(現在の南京)。国号は単に唐であるが、唐と名乗った他の政権と区別するために、特にこの国の名を南唐という。 十国の中では最大の勢力を誇ったが、華北の後周や北宋に攻め立てられて滅亡した。文化的・経済的には大いに繁栄していた。.

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南斉書

『南斉書』(南齊書、なんせいしょ)は、中国南朝の斉について書かれた歴史書。梁の蕭子顕が書いた紀伝体の史書。二十四史の内の一つ。原名は『斉書』であったが、李百薬の『北斉書』に鑑みて、宋の時に手直しされた。 本紀8巻、志11巻、列伝40巻の合計59巻(一説には著者である蕭子顕の自叙1巻があったものの、紛失して59巻になったと言われている)。高帝の建元元年(479年)から和帝の中興2年(520年)までの南斉の歴史が記されている。また、北朝に関しては「魏虜伝」に記載されている。 蕭子顕が斉の高帝の孫に当たることから、記事の内容は詳細を究めており、趙翼の『廿二史劄記』は隠諱・直書に優れているとしてその公正さを評価するが、同書の執筆対象である斉の旧皇族が書いた歴史書であることから、公正さは期待できないという厳しい評価を下す歴史学者もいる。趙翼も高帝の子は大勢いるのに、蕭子顕が自分の実父である豫章王蕭嶷のために、列伝一巻の編纂(列伝第三)を行ってその人物を賞賛した事は、親孝行ではあるが歴史家の執筆態度としては相応しくないと批判している。『南史』が編纂された後は読まれる事が少なくなったと言う。.

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台湾

台湾(タイワン、臺灣 / 台灣、台: Tâi-oân)は、東アジアの国である。 1945年に当時中国大陸を本拠地とした中華民国の統治下に入り、1949年に中華民国政府が台湾に移転した。1955年以降、中華民国は台湾本島以外にも澎湖諸島、金門島、馬祖島、東沙諸島、南沙諸島の太平島を実効支配しているが、全体の面積に占める台湾(本島)の割合は99%以上になる。そのため、中華民国の通称として「台湾」と表記される(詳細は定義参照)。近隣諸国としては、東及び北東に日本、南にフィリピンがある。事実上の首都は台北市である。台北県が直轄市となったことにより成立した新北市は、台北市及びその外港である基隆市を囲む大都市圏を包含し、2018年時点では同島で人口最多の都市である。.

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史記

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.

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史通

史通(しつう)は、中国における歴史書であり、単なる記録にとどまらず、系統立った史学概論・史学理論を体系的に記した最初の書物である。 撰者は唐の劉知幾で、全20巻、成立は景龍4年(710年)である。.

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多利思比孤

多利思北孤(たりしひこ)は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「」と記述している。.

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大夫

大夫(たいふ/だいぶ/たゆう)とは、ほんらい古代中国における身分呼称のひとつ。日本では太夫(たゆう)とも表記し、人物の呼称として色々な意味を持つようになった。.

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大陸

大陸と海洋 大陸を色分けで表した動画。様々な考え方を反映するために一部が統合または分割される。例として、ヨーロッパとアジアを合わせてユーラシアとして表した赤系統部分、南北アメリカを一つの大陸と考える緑系統部分がある。 ダイマクション地図では、少ないひずみで各大陸の形状が表現できる。 大陸(たいりく、)とは、地球の地殻上に存在する陸塊である。一般的にはユーラシア大陸・アフリカ大陸・北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・オーストラリア大陸・南極大陸の6つの陸上部分を指すが、これは相対的な判断によるもので厳格な基準は設けられていない "Most people recognize seven continents—Asia, Africa, North America, South America, Antarctica, Europe, and Australia, from largest to smallest—although sometimes Europe and Asia are considered a single continent, Eurasia."。衝突や分裂など大陸の動きは、かつては大陸移動説として説明されたプレートテクトニクスで理論化され、地質学の研究課題となっている。.

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大業

大業(たいぎょう)は、隋の煬帝楊広の治世に行われた年号。605年 - 618年。.

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太宰府天満宮

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上、年間にすると850万人以上の参詣者がある。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。.

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太宗 (宋)

太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからは炅(日の下に火)に改めた。.

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太平御覧

『太平御覧』(たいへいぎょらん )は、中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰であり、977年から983年(太平興国2-8年)頃に成立した。.

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太伯・虞仲

太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。 太伯は長男で、呉(句呉)の祖とされる人物。泰伯とも。 虞仲は次男。仲雍、呉仲とも。.

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夫余

夫余(ふよ、朝鮮語: 부여、、正字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。 2世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。 4世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。.

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好太王碑

好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われ、付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)とも言われる。 4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。.

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姚思廉

姚 思廉(よう しれん、557年 - 637年)は、中国の唐初の歴史家。字は簡之。一説には名を簡、字は思廉。本貫は呉興(現在の浙江省湖州市)。.

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学研ホールディングス

株式会社学研ホールディングス(がっけんホールディングス)は、日本の教育事業・出版社を統括する持株会社である。2009年(平成21年)10月1日に学習研究社(がくしゅうけんきゅうしゃ)より組織改編・社名変更を実施した。.

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宋 (南朝)

宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康(現在の南京)。.

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宋史

『宋史』(そうし)は、中国、元代に編纂された正史(二十四史)の一つ。宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体の史書である。1345年完成。元のトクト(托克托・脱脱)が編纂した。16本紀47巻、15志162巻、2表32巻、197列伝255巻の計496巻。正史の中で最も膨大である。.

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宋書

『宋書』(そうしょ)は、中国南朝の宋について書かれた歴史書。宋・斉・梁に仕えた沈約(441年 - 513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂した。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。二十四史の一つ。 宋代のうちに何承天、山謙之、蘇宝生、徐爰らが『宋書』を書いており、沈約はそれらを元に作業することができた。本紀・列伝は1年ほどで完成したが、志の完成には10年の歳月がかかり、完成は梁代に入ってからになる。宋が滅亡(479年)して間もない、まだ多くの関係者が存命の時代に編纂されたために同時代資料を多く収録しており、資料的価値は高い。 北宋の時代には欠落が多くなっていたため、『南史』や高氏(高峻)『小史』などの書を使って補ったという。 日本については「夷蛮伝」(いばんでん)の記述の中に、倭の五王と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが記されており、この時代の日本の貴重な資料となっている。.

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山海経

『山海経』(せんがいきょう、山海經、)は、中国の地理書。中国古代の戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。.

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岩波文庫

岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行する文庫本レーベル。1927年(昭和2年)7月10日に、ドイツのレクラム文庫を模範とし、書物を安価に流通させ、より多くの人々が手軽に学術的な著作を読めるようになることを目的として創刊された日本初の文庫本のシリーズ。最初の刊行作品は『新訓万葉集』などであった。.

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上表文

上表文(じょうひょうぶん)とは、君主に文書を奉ること。またその文書をいう。上書(じょうしょ)ともいう。.

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帥升

帥升(すいしょう、生没年不詳)は、弥生時代中期・後期の倭国(まだ統一国家ではないクニの一つ)の有力な王と推測される。西暦107年に後漢に朝貢した。日本史上、外国史書に名の残る最初の人物。 後漢書東夷伝の記述からはこの倭国の所在地は明確でないが、九州の可能性が高い。また、帥升(師升)とは名前なのか職名なのかもはっきりしない。これより以前の西暦57年に後漢に朝貢して金印を授けられた倭(委)奴国との関係は不明。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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中国の歴史

中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)とは、中国または中国大陸における歴史のこと。 中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。 なお、その対象は、中国大陸の歴史であり、漢民族の歴史ではない。.

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中国国家博物館

中国国家博物館(ちゅうごくこっかはくぶつかん)は中華人民共和国北京市の天安門広場東側に位置する総合博物館である。2003年以前は同一建物に「中国歴史博物館」と「中国革命博物館」という別の博物館が設置されていたが、2003年に合併して国家博物館と改編された。.

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帯方郡

right 帯方郡(たいほう-ぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する)。楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある(後述)。.

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三国志

三国志(さんごくし、、、、転写: ilan gurun-i bithe)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。.

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三国志 (歴史書)

『三国志』(さんごくし)は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。.

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平壌

平壌(ピョンヤン)は、朝鮮民主主義人民共和国の首都、直轄市であり、最大の都市。 朝鮮八道では平安道、十三道制では平安南道に属するが、同国の行政区画においては道に属さず、平壌直轄市(ピョンヤンちょっかつし)として道級の直轄市となっている。 日本統治時代の行政区分は「平壌府」、当時の正式な読みは「へいじょう」である。.

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二十四史

二十四史(にじゅうしし)は、中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む。.

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五代十国時代

五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。.

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井上秀雄

井上 秀雄(いのうえ ひでお、1924年(大正13年)12月1日 - 2008年10月7日)は、日本の歴史学者。東北大学、樟蔭女子短期大学名誉教授。専門は古代朝鮮史、日朝関係史。.

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建安 (漢)

建安(けんあん)は、後漢の献帝(劉協)の治世に行われた3番目(永漢を除く)の元号。196年 - 220年。建安25年は3月に改元されて延康元年となった。ただし、蜀漢では延康の正統性を認めず、建安を26年(221年)まで使った。.

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建武中元

建武中元(けんぶちゅうげん)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた2番目の元号。56年 - 57年。『後漢書』の光武帝紀では中元となっているが、祭祀志・東夷伝(倭伝)では「建武中元」となっており、「中元」は「建武中元」の誤写か省略だと考えられている。.

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任那日本府

任那日本府(みまなにほんふ)は、古代朝鮮半島にあったとする日本の出先機関である。『日本書紀』の雄略紀や欽明紀など日本書紀・巻第十九《欽明天皇二三年正月》の条「二十三年春正月。新羅打滅任那官家」という表記も見られる。に見られる。.

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弁韓

弁韓 (べんかん)は、紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ。弁辰とも言う。 弁韓は12の諸小国に分立していたが、それらの諸小国の首長は称号を持ち、最大のものは臣智(しんち)と言ったが、臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことであり、それを諸国の首長の立場から表現したものである。.

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弥生人

弥生人(やよいじん、Yayoi people)は、狭義には弥生時代に中国大陸から日本列島に渡来してきた人々を指す。広義には、稲作などの弥生文化を受け入れた旧縄文人を含む、弥生時代の日本列島の人々全体を指す。.

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弥生時代

弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.

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* 志(こころざし).

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志賀島

志賀島の位置(赤色が東区) 海ノ中道上空からの志賀島(右)。他に能古島(左)と玄界島(右奥)も見える。 志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島である。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。.

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北史

『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。.

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北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

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ユウ婁

挹婁(ゆうろう、)は、後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在したとされる民族。.

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ワイ人

(わい、)は、中国の史書である『三国志』や『後漢書』などに記されている古代民族。現在の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から朝鮮半島北東部にかけて、北西から南東に伸びる帯状に存在したとされる。.

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刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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呉 (三国)

呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。.

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呉 (春秋)

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉(こうご、くご)。 勾呉の表記もなされる。 中国の周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。 紀元前12世紀から紀元前473年夫差王まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。 国姓は姫(き)。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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元帝 (南朝梁)

元帝(げんてい)は、中国の南朝梁の皇帝。姓は蕭(しょう)、名は繹(えき)。梁の武帝蕭衍の七男。.

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元嘉

元嘉(げんか)とは、.

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元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.

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光武帝

光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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前方後円墳

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、古墳の形式の1つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす。 主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。.

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国立故宮博物院

国立故宮博物院(こくりつこきゅうはくぶついん)は、中華民国の台北市にある博物館である。この博物館は、中華民国の国立博物館のうちの1つであり、最大のもので、697,000個以上の古代の中国の人工品および美術品を所蔵している.

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倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、.

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倭の五王

倭の五王(わのごおう)とは、中国の歴史書に記述のある倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。倭の五王が誰であるかに関しては諸説ある。.

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倭人

倭人(わじん)とは、.

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倭・倭人関連の朝鮮文献

倭・倭人関連の朝鮮文献(わ・わじんかんれんのちょうせんぶんけん)は、朝鮮半島に伝わる各歴史書から、倭・倭人と関係する部分のみを書き出している。.

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倭国

倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。.

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玄菟郡

菟郡(げんとぐん)は、漢朝により現在の中国東北部の南部から北朝鮮に設置された植民地。楽浪郡、臨屯郡、真番郡と共に漢四郡と称される。玄菟郡はその設置期間に3段階の沿革が存在し、それぞれ「第一玄菟郡」「第二玄菟郡」「第三玄菟郡」とよばれている。歴史研究ではこれらを混同を避けるべく明確な分類を行う必要がある。.

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王充

王 充(おう じゅう、建武3年(27年) - ?)は、後漢の文人、思想家。字は仲任。会稽郡上虞の出身。旧伝などの非合理を批判し合理的なものを追求した『論衡』を著す。その著書において儒教に対しても厳しい批判を行なっていることから、北宋代以降は異端視されて省みられることがなかった。逆に1970年代の中華人民共和国での儒教批判運動の中では、孔子批判の先駆者として評価されたりもした。.

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王沈

王沈(おう しん).

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王沈 (西晋)

王 沈(おう しん、生年不詳 - 266年)は、中国三国時代から西晋の政治家・歴史家・武将。魏・西晋に仕えた。字は処道。并州太原郡晋陽県(太原市)の人。祖父は王柔(後漢の匈奴中郎将)。父は王機(魏の東郡太守)。叔父(従叔父)は王昶。妻は荀氏(潁川の人)。子は王浚。.

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班固

班固 班 固(はん こ、32年 - 92年(建武八年 - 永元四年)は中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超、班昭の兄。班勇(班超の三男)の伯父。「漢書」の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。.

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(しん、、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は、氏は趙。統一時の首都は咸陽。.

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筑紫

筑紫(つくし、ちくし).

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紀伝体

紀伝体(きでんたい)は、東アジアの歴史書の書式の一つ。.

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紀元前108年

紀元前108年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前202年

紀元前202年.

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縄文時代

縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。 縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。 なお、沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。また東北北部から北海道では縄文時代の生活様式が継承されるため、続縄文時代と呼ばれる。.

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翰苑

翰苑(かんえん)とは、唐の時代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。.

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真番郡

真番郡(しんばんぐん)は、漢朝により朝鮮半島に設置された郡である。楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。.

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燕 (春秋)

燕(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国。春秋十二列国の一つ、また戦国七雄の一つ。河北省北部、現在の北京を中心とする土地を支配した。首都は薊(けい)で、現在の北京にあたる。燕都・薊城の遺蹟は北京市西城区に所在する。.

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煬帝

帝(ようだい、ようてい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。中国史を代表する暴君といわれる。煬帝は唐王朝による追謚であり、本名は楊広である。.

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百越

越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。 非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において(中国史にまつわる)「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。.

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百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

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隋書

『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である(後述)。.

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職貢図

職貢図(しょくこうず)は、古代中国王朝皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府へのみつぎもの」の意味 。貢職図とも呼ばれる。梁時代の梁職貢図が有名。.

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荊州

荊州(けいしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。現在の湖北省一帯に置かれた。.

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類書

類書(るいしょ)とは、各種の書籍より、一つないしは複数の部門の資料を集め、分類順または韻順に編集し、検索の便をはかった、中国や日本古来の参考図書のことである。一種の百科事典のようなものである。(ある書物と内容の類似する他の書物を指して「類書」と呼ぶことがあるが、本項では参考図書の一種としての類書について扱う) 内容は、史実・名称・成語・典故・詞賦・文章・名詞解釈などの項目により分類される。 歴代の類書中には、あらゆる領域の各種書籍からの引用文章が収められている。それぞれの類書の成立以後、引用した底本となった書籍が散逸してしまうケースも多々生じた。散逸した書籍を「佚書」、佚書より類書に引用された文章を「佚文」と呼び、その文献学的価値は高く評価されている。.

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衛氏朝鮮

衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。.

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裴世清

裴 世清(はい せいせい、生没年不詳)は、7世紀前半に、中国王朝隋の煬帝による命令で俀國(倭国)を訪れた使者。.

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裴松之

裴 松之(はい しょうし、372年 - 451年)は、中国の東晋末・宋初の政治家・歴史家。河東郡聞喜県(山西省聞喜県)の人。字は世期。裴珪の子。陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。自身の伝は『宋書』・『南史』二史にある。また、魏に仕えた裴潜の弟・裴徽の6世の孫に当たるという。子の裴駰は『史記集解』の撰者である。曾孫(裴駰の孫)には裴子野がいる。.

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西晋

西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.

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馬韓

韓(ばかん)は、紀元前2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方は倭に接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。 馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの馬韓諸国には首長がおり、大きな首長を臣智(しんち)と言い、それに次ぐものを邑借(ゆうしゃく)と呼んだが、臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことであり、それを諸国の首長の立場から表現したものである。 集落に城郭は無く、五十余国が存在した。その内の伯済国が百済になったとする説もある。 『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという。また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。.

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香椎

香椎(かしい)は、福岡県福岡市東区の北部に位置する地域。神功皇后縁の香椎宮があり古い歴史をもつ一方、戦後は海岸部の埋め立てが進み福岡市東部の副都心の一つとなっている。香椎地区にはJR鹿児島本線とJR香椎線の乗換駅であるJR香椎駅と、西鉄貝塚線の西鉄香椎駅、福岡都市高速1号線北端の出入口があり、福岡市東部の交通の要所でもある。 広域的に見た場合、南北では多々良川(たたらがわ)以北の名島・松崎から唐原(とうのはる)や下原(しもばる)にかけて、東西では舞松原(まいまつばら)・香椎台から香椎浜・香住ヶ丘などの博多湾沿岸、さらに人工島アイランドシティにかけての地域を香椎とすることが多い。狭くは、南部を除く旧香椎町の地域を、さらにはそのうち香椎宮周辺の地域もしくは香椎駅前の地域を指す。.

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高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

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論衡

『論衡』(ろんこう )は、中国後漢時代の王充(27年 - 1世紀末頃)が著した全30巻85篇(うち1篇は篇名のみで散佚)から成る思想書。実証主義の立場から王充は自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として徹底的に批判した。.

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論語

『論語』(ろんご、)とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。 四書のひとつである『孟子』はその言行の主の名が書名であるが、『論語』の書名が(たとえば「孔子」でなく)『論語』であるその由来は明らかでない。(『漢書』巻30芸文志に「」と門人たちが書き付けていた孔子の言葉や問答を、孔子死後に取り集めて論纂し、そこで『論語』と題したとある。) 別名、「倫語(りんご)」、「輪語」、「円珠経」とも言う。これは、六朝時代の学者、皇侃(おうがん)の著作『論語義疏』によると、漢代の鄭玄(じょうげん)という学者が論語を以て世務を経綸することが出来る書物だと言った所から、「倫語」という語が出現し、又その説く所は円転極まりないこと車輪の如しというので、「輪語」というと注釈し、「円珠経」については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らし出さないが、珠(玉)は一寸四方の小さいものでも上下四方を照らすものであり、諸家の学説は鏡の如きもので一面しか照らさないが、論語は正に円通極まりないものである、という所から「円珠経」と言うと説かれている。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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魚豢

魚豢(ぎょ かん、生没年不明)は、中国三国時代の魏の官僚・歴史家。雍州京兆郡(現在の陝西省西安市)の人。.

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魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.

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魏 (戦国)

魏(ぎ、紀元前453年あるいは紀元前403年 - 紀元前225年)は、中国戦国時代に存在した国。戦国七雄の一つ。紀元前453年に韓、趙と共に晋から独立し、その地を三分した。このため、この三国のことを三晋という。また魏は、東西に領土が広がっていたため東に斉、西に秦、南に韓と楚、北東に趙と国境を接していた。首府は安邑、のちに遷都して大梁。.

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魏徴

魏 徴(ぎ ちょう、580年 - 643年)は、唐の政治家。字は玄成。祖父の魏釗は北周に仕え、父の魏琬は隋に仕えた。子に魏叔玉、魏叔瑜、魏叔琬、魏叔璘、娘(霍王李元軌夫人)などがいる。.

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魏志倭人伝

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。.

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魏略

『魏略』(ぎりゃく)とは、中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。後に散逸したため、清代に王仁俊が逸文を集めて輯本を編したが、はなはだ疎漏であったため張鵬一が民国11年に再び編した。著者は魚豢(ぎょかん)である。魚豢については事績が伝わっておらず、『魏略』の作者であること以外はほとんど分かっていない。『三国志』の裴松之注に引用され残る文により、劉表と面識があったこと、その後魏に仕えたことが記述されている程度である。.

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魏書

『魏書』(ぎしょ)は、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。.

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讖緯

讖緯(しんい)とは、古代中国で行われた予言のことであり、讖緯の説、讖緯思想、図讖などと呼ばれている。.

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越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。 『史記』をはじめとする諸書では、夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。.

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越裳

越裳(えつしょう)は、中国後漢の王充の著書『論衡』にあらわれる、中国南部に居住していたとみられる民族の名称である。 西周の時代に、天下泰平の象徴として、白雉を献上した。東方に居住していた倭人が鬯草を献上したことと、一対のできごととして著者にとらえられている。 「越」は粤(えつ)とも書く。粤は『漢書』地理志に「その王は皆夏王朝の始祖禹の子孫であり、又その子孫、帝小康の諸子の後胤」と書かれている。その分派が多いので百粤とも言われた。 Category:中国史の民族 Category:漢朝 Category:夏殷周.

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辰韓

辰韓(しんかん、紀元前2世紀 - 356年)は、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていたという。『三国史記』と『三国遺事』によると、中国の王室の娘娑蘇夫人が海を渡って辰韓に渡来して、新羅の初代王赫居世居西干と王后閼英夫人を生んだ。.

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迷信

迷信(めいしん、英語:superstition)とは、人々に信じられていることのうちで、合理的な根拠を欠いているもの大辞林。一般的には社会生活をいとなむのに実害があり、道徳に反するような知識や俗信などをこう呼ぶ。様々な俗信のうち、社会生活に実害を及ぼすもの速水保孝『憑きもの持ち迷信: その歴史的考察』明石書店、1999である。.

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范曄

范 曄(はん よう、398年 - 445年)は、中国魏晋南北朝時代の南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は南陽郡順陽県(現在の河南省南陽市淅川県)の出身であり、会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)にて出生した。.

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蜀漢

蜀漢(しょくかん、221年 - 263年)は、中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州)に建てた国。 蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため、蜀漢と自ら名乗ったことはない『三国志』蜀志二「先主伝」。また、季漢(季は末っ子の意味)と称することもあった。.

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阿曇氏

阿曇氏(あずみうじ、安曇氏)は、「阿曇(安曇)」を氏の名とする氏族。 海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。阿曇族、安曇族ともいう。.

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閻立本

閻立本(えん りっぽん、生年不明 – 咸亨4年(673年))は中国の初唐の画家である。太宗に仕え、貴族ではあるが宮廷画家として活躍した。人物図・肖像画を得意とする。雍州万年(現在の西安市臨潼区)の人。.

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開皇

開皇(かいこう)は、隋の文帝楊堅の治世に行われた年号。隋朝最初の年号。581年 - 600年。.

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藤堂明保

藤堂 明保(とうどう あきやす、1915年9月20日 - 1985年2月26日)は、日本の中国語学者、中国文学者。.

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臨屯郡

臨屯郡(りんとんぐん)は、漢朝により朝鮮半島に設置された植民地。楽浪郡、玄菟郡、真番郡と共に漢四郡と称される。.

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金印

金印(きんいん)は金でつくられた印章のこと。 東アジアの冊封体制の元では、皇帝が諸国の王を臣下と認める証しとして、その定められた地位に応じ玉印・金印・銀印・銅印などが与えられた(印綬)。日本では、福岡県福岡市東区の志賀島で発見された「漢委奴国王印」が最も著名であり、国宝に指定され福岡市博物館(福岡市早良区)に収蔵されている。また、金印が発見されたとされる場所には現在金印公園がある。 滇に与えられた「滇王之印」、光武帝の子である広陵思王 劉荊に与えられた「廣陵王璽」が中国で出土しており、「魏志倭人伝」には卑弥呼に「親魏倭王」の金印を与えたことが記されている。 日本の現在の国璽・御璽、大韓民国の国璽も金印であり、中華民国の国璽は玉印である。 ヨーロッパにおいては、皇帝の出す文書に金印が付された。(→金印勅書参照)。.

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蕭衍

梁武帝 梁武帝真像 蕭 衍(しょう えん)は、南朝梁の初代皇帝。.

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長江

長江(ちょうこう、中国語拼音字母: )は、青海省のチベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でも第3位。 中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、Yangtze River)の名で良く知られる。古語では江(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。 青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。 その流域には成都、武漢、重慶などの重要工業都市、上海、南京などの商業都市を含む中国の19の省(市、自治区)があり、全流域の人口は4億5000万にも達している。古くから水上交易の盛んだった華中でも中心的な交通路として利用されてきた。.

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鉄(てつ、旧字体/繁体字表記:鐵、iron、ferrum)は、原子番号26の元素である。元素記号は Fe。金属元素の1つで、遷移元素である。太陽や他の天体にも豊富に存在し、地球の地殻の約5%を占め、大部分は外核・内核にある。.

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通典

通典(つてん)は唐の杜佑が書いた、中国の歴史上初めての形式が完備された政書で、十通の1つ。全200巻、加えて考証1巻。.

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老荘思想

老荘思想(ろうそうしそう)は、中国で生まれた思想。道家の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶ。道家の中心思想としてとりわけ魏晋南北朝時代に取りあげられた。 老荘思想が最上の物とするのは「道」である。道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もある。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。 『老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれた。玄学は魏の王弼・何晏、西晋の郭象らが創始した。.

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逸文

逸文(いつぶん、いつもん、佚文とも)とは、かつて存在していたが、現在は伝わらない文章のこと。伝わらない書物のことは、逸書(いつしょ)または佚書という。ただし、それらは書籍等の原本が伝えられていないとしても、他書などに引用され、断片的な形で伝えられている場合がある。例えば、風土記は、原本は5ヵ国分しか伝えられていないが、それ以外の国の風土記を、諸書に引用された箇所から部分的に復元する事が可能である。こうした作業のことを、輯佚(しゅういつ)と呼ぶ。また、輯佚の結果、復元を試みられた成果物のことを、輯本(しゅうほん)・輯佚書(しゅういつしょ)などと呼ぶ。同様の作業は、現存する書物についても行われる。前近代の書物は書写が繰り返される中で内容に変化が生じていることも多々あり、他書に引用された部分を参照することでその過程を復元できる。 日本近代文学研究のうえでは、個人全集に収録もれになった文章(特に新発見の場合が多い)のことを呼ぶ場合がある。.

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陰陽五行思想

陽五行思想(いんようごぎょうしそう)とは、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。.

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東洋文庫 (平凡社)

東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.

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梁 (南朝)

梁(りょう、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。蕭梁とも呼ばれる。.

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梁書

『梁書』(りょうしょ)とは、梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書。56巻。629年(貞観3年)に、陳の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が成立させた。.

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楽浪郡

楽浪郡(らくろうぐん)は、漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した、朝鮮半島北部の郡(植民地との見方も存在する一方で、完全に漢帝国が直轄する内地という見方も存在する)。真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たした。楽浪郡の住民は王氏が多く韓氏がこれに次ぎ、この二氏でかなりの率を占めていた。.

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正史

正史(せいし)とは、.

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武帝 (漢)

武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝。ら3人の同母姉がいる。彼の治世下で、前漢は最盛期を迎える。.

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歳時記

歳時記(さいじき)は、「歳事記」とも書き元々、四季の事物や年中行事などをまとめた書物のことであった。江戸時代以降の日本では、主として俳諧・俳句の季語を集めて分類し、季語ごとに解説と例句を加えた書物のことを指すようになった。現存する最古の歳時記は6世紀の中国・荊楚地方の年中行事を月ごとにまとめた『荊楚歳時記』であり、これが奈良時代に日本に伝来し「歳時記」という呼称が知られるようになった。日本独自の歳時記としては貝原益軒による『日本歳時記』(1688年)が始まりとされる。 一方、季語を収集した「季寄せ」や四季別の類題集句集は連歌のころから存在していたが、両者の要素を組み合わせたものとしては北村季吟の『山の井』(1647年)が最初であった。この種の書物で「歳時記」の名を最初に使ったのは曲亭馬琴の『俳諧歳時記』(1803年)で、明治になっても増補版が翻刻されていた。 1872年12月より日本に太陽暦が導入され、歳時記の内容に大きな混乱をもたらした。1874年の『俳諧貝合』(香夢)が陽暦による最初の歳時記であり、同年序の『ねぶりのひま』(四睡庵壺公編)では四季とは別に新年の部を立て、立春を2月において陰暦から1か月遅れで調整しており、現在の歳時記の多くがこの方法を引き継いでいる。その後改造社の『俳諧歳時記』(1933年、全5巻)が出て近代の歳時記の体裁が整えられた。 沖縄県では季節感や動植物、言葉遣いが日本本土と異なる点が多いため、2017年には沖縄県現代俳句協会編『沖縄歳時記』(文学の森)が刊行されている。な.

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歴史書一覧

歴史書一覧(れきししょいちらん)は歴史書の一覧。地域・年代順。一部厳密に分類すると「歴史物語」に属し、史料としては価値が劣るものも含むので取扱いについては注意する。なお、用語としての「歴史書」については歴史書の項目を参照。.

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殷(いん、、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。.

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沃沮

沃沮(よくそ、옥저)は、紀元前2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の日本海に沿った地方(現在の咸鏡道付近)に住んでいたと思われる民族。『三国志』や『後漢書』では東沃沮(とうよくそ)と表記される。.

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法家

法家(ほうか)は、中国の戦国時代の諸子百家の一つ。徳治主義を説く儒家と異なり、法治主義を説いた。 法家とは儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。秦の孝公に仕えた商鞅や韓の王族の韓非がよく知られている。商鞅は戦国の七雄に数えられた秦に仕え、郡県制に見られるような法家思想に立脚した中央集権的な統治体制を整え、秦の大国化に貢献した。韓非は性悪説に基いた信賞必罰の徹底と法と術(いわば臣下のコントロール術)と用いた国家運営(法術思想)を説いた。また、韓非は矛盾や守株待兔といった説話を用いて儒家を批判したことでも知られている。中国統一を果たした始皇帝も、宰相として李斯を登用して法家思想による統治を実施した。 ただし、秦において法が厳格すぎたがゆえのエピソードとして以下のものがある。.

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法興王

法興王(ほうこうおう、生年不詳 - 540年)は、新羅の第23代の王(在位:514年 - 540年)であり、姓は金、諱は原宗または牟即智。『冊府元亀』には名を募秦(『梁書』『南史』では名は秦)として伝えられる。先代の智証麻立干の長子であり、母は伊飡(2等官)の朴登欣の娘の延帝夫人、王妃は朴氏の保道夫人(『三国遺事』王暦では巴刁夫人)。514年7月に先王が死去したので、長子の原宗が即位した。『三国遺事』 興法・阿道基羅条や原宗興法条などには法興大王とも記される。.

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洛陽市

洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.

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漢委奴国王印

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある(印文と解釈を参照)。1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。.

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漢四郡

漢四郡(かんのしぐん)は、朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の郡(植民地との見方も存在する)のことである。各郡の位置については諸説ある。朝鮮四郡(ちょうせんしぐん)ともいう。 中国王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、また朝鮮半島南部に対して間接統制を行った。漢四郡に先立って、紀元前128年に漢は蒼海郡を置いた。漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、玄菟郡は朝鮮半島から西に移ったが、204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。楽浪郡と帯方郡は313年まで存続した。紀元前107年に設置され、高句麗の攻撃により遼東に撤退した313年までの400年間、平壌の存在した楽浪郡を通じて中国王朝の政治的・文化的影響を朝鮮に与え、また朝鮮も主体的にそれを求め、中国文明が朝鮮にもたらされ、高句麗の発展は、玄菟郡への服属抵抗が大きな意義を持つという研究があり、楽浪郡・帯方郡の漢人が高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与した。 楽浪郡と帯方郡の故地には、5世紀まで土着の漢人や新移住者の漢人が住み続けた。.

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漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。.

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朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

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朝鮮民主主義人民共和国

朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく、)、通称北朝鮮(きたちょうせん)は、東アジアの朝鮮半島北部を実効支配する、最高指導者による事実上独裁体制を取る社会主義共和国。冷戦下で誕生した分断国家である。ただし大韓民国は朝鮮半島全域の領有権を主張しているほか、後述の通り日本も国家として承認していない。 軍事境界線(38度線)を挟み分断した片割れの大韓民国(韓国)と、豆満江を挟んで中華人民共和国及びロシア連邦と、鴨緑江を挟んで中国と接している。首都は平壌で、人口は約2515万人とされる。行政区画は平壌直轄市、開城工業地区、金剛山観光地区、新義州特別行政区、羅先特別市、羅先経済特区、南浦特級(特別)市と八つの道に分かれる。.

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朝貢

朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.

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木簡

木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板である。紙の普及により廃れたが、荷札には長く用いられた。.

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成王 (周)

成王(せいおう)は、周朝の第2代の王。武王の子。「成王」とは諡号ではなく、生前からの称号である。 同母弟は晋の開祖の。他に邘叔、応叔、韓叔ら兄弟がいた。.

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戦国時代 (中国)

中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。 どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間でも意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。.

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明徳出版社

明徳出版社(めいとくしゅっぱんしゃ)は、儒教関連を中心に出版活動を行っている日本の出版社。東洋の思想学問の出版刊行を目的に、1954年(昭和29年)12月に安岡正篤の主導の下に設立された。安岡の初期・中期の著作を多数出している。 一大叢書「中国古典新書」(正・続併せ約130巻)を始め、朱子学の根本文献「朱子學大系」や、陽明学の祖「王陽明全集」を刊行している。日本の儒学では「叢書・日本の思想家」や、江戸時代に活躍した中江藤樹、二宮尊徳、佐藤一斎などの現代語訳も含む著作・伝記を多数出している。他には朱子研究者の「岡田武彦全集」などがある。.

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明治書院

明治書院(めいじしょいん)は、東京都新宿区にある日本の出版社。.

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春秋時代

春秋時代の諸国 春秋時代(しゅんじゅうじだい、、)は、中国の時代区分の一つ。紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年までである。 春秋の名称は、四書五経の一つ『春秋』に記述された時代、という意味を持つ。 春秋時代と戦国時代をあわせて、春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)といったり東周時代(とうしゅうじだい)といったりする。どこをもって春秋時代と戦国時代の境目とするかは歴史家の間で意見が分かれている。.

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新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。 周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、国内は混乱。また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、 具体的な政策としては、古代の名称にあわせた地名や役職名の頻繁な改名、小作農民のための農地の国有化、奴隷売買の禁止、高利貸しに対し、国家による安い金利での融資などを行った。また新貨幣を鋳造し(制度が複雑で経済が混乱したあげく、私銭鋳造を認めるまでになった)、塩や鉄を国が専売制とするなどの政策があったが、経済政策では地主や高利貸し等から、貨幣鋳造や塩鉄の統制では民衆から、大きく不満と反対が起きた。 遠征も繰り返しており、匈奴には30万人、西南の句町国には20万人の兵を派遣し、 やがて赤眉・緑林の乱が起こり、更始帝の軍により長安を落とされて王莽は殺され、1代限りで滅んだ。 新から後漢への移り変わりは新末後漢初を参照。.

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新唐書

『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.

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新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

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新釈漢文大系

『新釈漢文大系』(しんしゃくかんぶんたいけい)は、明治書院で出版する中国古典を網羅した「漢文大系」。 古代中国から宋代までの、著名な思想・歴史・文芸古典を、完訳・解説する。.

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斉 (南朝)

斉(せい、479年 - 502年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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旧唐書

『旧唐書』(くとうじょ )は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。.

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扶桑

扶桑(ふそう、フーサン、Fusang)は、中国伝説で東方のはてにある巨木(扶木・扶桑木・扶桑樹とも)である。またその巨木の生えている土地を扶桑国という。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。例えば『扶桑略記』は平安時代の私撰歴史書の一つである。.

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晋書

『晋書』(しんじょ )は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。.

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369年

記載なし。

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391年

記載なし。

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414年

記載なし。

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439年

記載なし。

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487年

記載なし。

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502年

記載なし。

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521年

記載なし。

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562年

記載なし。

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591年

記載なし。

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608年

記載なし。

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636年

記載なし。

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8年

8年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。 ユリウス暦制定直後の混乱により紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止した後、初めて4年に一度の閏日を置いた閏年であったと推定されている。詳細は「ユリウス暦」を参照。.

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