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漢書

索引 漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。.

250 関係: 加藤繁劉友劉向劉如意劉屈リ劉交劉ビ劉キン (学者)劉賜劉賈劉肥劉邦劉長劉恢劉揖劉武劉氏劉沢劉敬劉拠ちくま学芸文庫卜式南越史丹史記史漢司馬相如司馬遷叔孫通吾丘寿王吉川忠夫増井経夫夏侯嬰夏侯勝大修館書店大木康太初暦外戚季布孔光宣帝 (漢)小竹武夫尹翁帰少帝弘少帝恭岩波文庫岩波書店師丹中央公論新社中国...中国古典文学大系常恵主父偃七略世界の名著三国志三統暦丙吉平帝 (漢)平当平凡社于定国京都大学学術出版会京房二十四史五行思想井上秀雄張禹張騫張蒼張釈之張良張耳張湯張敞彭宣彭越影印本何武後漢後漢書匡衡匈奴レキ商レキ食其テキ方進刀水書房周勃周昌呂雉呉ゼイ和帝 (漢)カイ通スイ弘傅寬傅介子傅喜哀帝 (漢)儒教冨谷至内田吟風内田智雄児寛公孫弘公孫賀元号元帝 (漢)前漢創文社倭・倭人関連の中国文献石奮王吉王尊王嘉王キン (前漢)王商王先謙王章王莽王褒王陵王政君灌嬰班彪班固班昭福井重雅稲葉一郎章帝竹内康浩竇嬰筑摩書房紀伝体翼奉終軍田千秋田叔田フン田タン田村実造申屠嘉甘延寿燕京狩野直喜狩野直禎盧綰芸文志韓安国韓延寿韓信韓王信韋賢荘助項籍顔師古衛綰衛青衛氏朝鮮袁オウ西域西脇常記馬宮馮奉世馮唐角川書店騎馬民族読売文学賞諸葛豊高木友之助 (哲学者)魏相魏豹鮑宣谷永貢禹賈誼賈捐之趙広漢趙充国路温舒辛慶忌霍去病霍光范曄薮内清薛宣薛広徳董仲舒蓋寛饒蔡義鄭吉鄭崇鄭弘鄭当時金日テイ蕭何蕭望之長沢規矩也英布雋不疑陳寿陳万年陳平陳余陳勝陳湯陸賈枚乗息夫躬恵帝 (漢)揚雄李尋李広李広利東夷東アジア東洋文庫 (平凡社)東方朔杜周梅原郁梅福楊王孫楊樹達楊敞樊カイ欒布正史武帝 (漢)歴史書段会宗永田英正江充汲古書院汲黯本田済朱博朱買臣朱雲成帝 (漢)明徳出版社明治書院昭帝 (漢)文帝 (漢)早稲田大学曹参晁錯景帝 (漢) インデックスを展開 (200 もっと) »

加藤繁

加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年9月3日 - 1946年3月7日)は、明治から昭和前期にかけての東洋史学者。名前の読み方については2説あり、戸籍上は「しげし」が正しいとする説もあるが、加藤自身は「しげる」と称していた。.

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劉友

劉友(りゅう ゆう)は、中国史上の人物。.

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劉向

劉 向(りゅう きょう、紀元前77年(元鳳4年) - 紀元前6年(建平元年))は、前漢の学者、政治家。はじめの名は更生、字は子政。多数の著作者で知られる。劉邦の末弟である楚元王劉交の玄孫。陽城侯・劉徳の第2子で、兄に劉安民が、弟(名は不詳)の息子に劉慶忌がいる。前漢の宗室の身分である。.

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劉如意

劉 如意(りゅう にょい/りゅう じょい、紀元前207年『史記』張丞相列伝 - 紀元前194年)は、前漢初期の諸侯王(代王、のち趙王)で、高祖・劉邦の庶子(第3子)。生母は戚夫人。隠王と諡された。.

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劉屈リ

劉 屈氂(りゅう くつり、? - 征和3年(紀元前90年))は、前漢の皇族。中山靖王・劉勝の子、武帝の甥。 .

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劉交

劉 交(りゅう こう、? - 紀元前179年)は、劉邦(前漢の高祖)の異母弟。劉太公(劉煓)の末子。字は游。楚王に封じられた。諡号は元王。.

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劉ビ

劉 濞(りゅう び、濞はさんずいに鼻、紀元前215年 - 紀元前154年)は、前漢前期の皇族で、沛県の出身。呉楚七国の乱の首謀者。.

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劉キン (学者)

劉 歆(りゅう きん、? - 23年)は、中国、前漢末から新にかけての経学者、天文学者、目録学者。字は子駿。漢の時の爵位は紅休侯、新では嘉新公。陽城侯・劉向の第3子。兄に劉伋と劉賜がいる。子に劉畳(新の伊休侯)、劉棻(新の隆威侯)、劉泳(新の伐虜侯)がいる。前漢の宗室の身分である。後に、名を秀に、字を穎叔と改める。.

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劉賜

劉 賜(りゅう し、? - 52年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。字は子琴。祖父は劉利。父の名は不詳。兄は劉顕。甥(劉顕の子)は劉信。子は劉閔。義弟は樊宏(劉賜の妹の夫)。更始帝(劉玄)の従兄弟で、後漢の光武帝(劉秀)の族兄にあたる。.

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劉賈

劉 賈(りゅう か、? - 紀元前196年)は、秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦(高祖)の従兄弟。荊王に封じられた。.

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劉肥

劉 肥(りゅう ひ、? - 紀元前189年)は、前漢の皇族。前漢時代の諸侯王である斉王。諡号は悼恵王。.

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劉邦

劉 邦(りゅう ほう、、)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。.

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劉長

劉 長(りゅう ちょう、紀元前199年 - 紀元前174年)は、前漢の人。漢の高祖劉邦の第7子。『淮南子』で有名な劉安の父である。.

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劉恢

劉 恢(りゅう かい、生没年不詳)は、前漢初期の諸侯王(淮陽王→梁王→趙王)で、高祖・劉邦の庶子(第5子)。生母は不詳。文帝のすぐ下の異母弟。諡は共王。.

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劉揖

劉 揖(りゅう ゆう、? - 紀元前169年)は、前漢の皇族。文帝の子で景帝の異母弟。劉勝とも呼ばれる。.

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劉武

劉 武(りゅう ぶ、? - 紀元前144年)は、前漢の皇族。文帝の子で景帝の同母弟。.

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劉氏

劉氏(りゅうし)は、漢姓の一つ。.

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劉沢

劉 沢(りゅう たく、? - 紀元前177年)は、前漢初期の人。劉邦の従父兄(いとこ)『漢書』荊燕呉伝「劉沢伝」より。。.

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劉敬

劉 敬(りゅう けい、生没年不詳)は、中国前漢時代の政治家。斉の人。元の名は婁敬。.

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劉拠

劉 拠(りゅう きょ、 紀元前128年 - 紀元前91年)は、前漢の武帝の長男で太子。母は武帝の皇后・衛子夫。悼皇考(史皇孫)劉進は子、宣帝は孫である。戻太子(戾太子、れいたいし)と呼称されることも多い。名の正字は「據」。.

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ちくま学芸文庫

ちくま学芸文庫(ちくまがくげいぶんこ)は、筑摩書房による学術部門・文庫判レーベル。.

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卜式

卜 式(ぼく しき、生没年不詳)は、前漢の人。河南の人。御史大夫に至った。.

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南越

南越(なんえつ).

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史丹

史 丹(し たん、? - 紀元前13年)は、前漢後期の人物。字は君仲。魯国の人だが杜陵に遷った。宣帝の祖母である史氏の兄の史恭の孫に当たる。.

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史記

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.

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史漢

史漢(しかん)とは、古代中国の歴史書である『史記』・『漢書』の併称。『春秋左氏伝』(左伝)・『国語』を加えて左国史漢(さこくしかん)とも称し、後に『後漢書』などを加えて三史(さんし)とも称した。西晋から六朝にかけて、『史記』と『漢書』を並べて「史漢」と呼ぶようになっている。(『晋書』何遵伝及び『世説新語』言語編) 『史記』と『漢書』はともに紀伝体の歴史書であるが、『史記』が通史であるのに対して『漢書』は断代史であった。また、『史記』が12本紀・10表・8書・30世家・70列伝からなり52万字余りに対して、『漢書』が12本紀・8表・10志・70列伝からなり80万字余りと、章の数は『史記』が勝り、文字数では『漢書』が勝った。このため、『史記』と『漢書』の両書を併称し、あるいはどちらが優れているかという議論(いわゆる史漢優劣論)が発生した。 唐の劉知幾は『史通』の中で『漢書』を評価して『史記』を批判し、北宋の程頤は『史記』に文字以外に微妙なところがあり、『漢書』の方が情旨が尽されていると評している。南宋の朱熹は「『史記』は疎にして爽、『漢書』は密にして塞」として双方優れたところがあるとしている。清の方苞は『史記』こそ『春秋』の後継として「春秋の義法」を守ったと評した。他に史漢優劣論の書物としては南宋・倪思の『班馬異聞』、同じく婁機の『班馬字類』(『史漢字類』)、明・許相卿の『史漢方駕』、清・揚琪光の『史漢求是』、同じく成蓉鏡の『史漢駢枝』が挙げられる。 また、六朝期の頃から『史記』・『漢書』に『東観漢記』あるいは『戦国策』を加えた3種類の歴史書を「三史」と併称した。唐以後には『後漢書』を加えた3種類を「三史」と呼ぶようになり、以後定着した。遣唐使として唐に渡った吉備真備が「三史」を学んで帰国して以後、日本でも広く読まれるようになり、後に紀伝道成立のきっかけとなった。日本の戦国時代にも読まれており、特に直江兼続が蔵書していた宋版の三史(国宝)は貴重書として有名である。.

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司馬相如

司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179年 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。 賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓文君との恋愛も有名である。.

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司馬遷

司馬遷 司馬 遷(しば せん、紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。 姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ李 (1988)、pp.46-49、第二章 司馬遷の父 1.世伝の歴史家、並びに天文家。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。.

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叔孫通

叔孫 通(しゅくそん とう、生没年不詳)は、秦末から前漢初めにかけての儒者。薛(現在の山東省滕州市)の人。.

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吾丘寿王

吾丘 寿王(ごきゅう じゅおう、生没年不詳)は、前漢の人。字は子贛。趙の人。漢の武帝の側近。.

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吉川忠夫

吉川 忠夫(よしかわ ただお、1937年1月5日 - )は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授、日本学士院会員。専門は中国中世思想史。父は中国文学者の吉川幸次郎。.

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増井経夫

増井 経夫(ますい つねお、1907年(明治40年) - 1995年(平成7年))は日本の東洋史学者。専攻は清代史。東京生まれ。.

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夏侯嬰

夏侯 嬰(かこう えい、? - 紀元前172年)は、秦・前漢時代の中国の武将。劉邦の部将。劉邦と同じく沛県の出身。.

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夏侯勝

夏侯 勝(かこう しょう、生没年不詳)は、前漢の人。字は長公。魯の人だったが出身地の所属が変わり東平国の人となる。儒者。.

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大修館書店

株式会社大修館書店(たいしゅうかんしょてん)は、辞典類・教科書・参考書などを刊行する日本の出版社。.

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大木康

大木 康(おおき やすし、1959年1月4日 - )は、中国文学・文化学者、東京大学東洋文化研究所教授。 神奈川県横浜市出身。1981年東京大学文学部中国文学専攻卒、1983年同大学院人文科学研究科修士課程修了、1984-1985年上海復旦大学に留学。1986年東京大学博士課程単位取得退学、東文研助手、1988年広島大学文学部講師、1989年助教授、1991年東大文学部助教授、1998年「馮夢龍「山歌」の研究」で東大文学博士、2001年東大東洋文化研究所助教授併任、2002年東文研専任助教授、2003年教授。 2012-2014年所長。 明末江南地方における通俗文芸、出版文化、科挙制度と知識人、妓女などを研究。2000年東方学会賞受賞。.

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太初暦

太初暦(たいしょれき)は中国暦の一つで、漢の武帝、太初元年(紀元前104年)の改暦によって採用された太陰太陽暦の暦法。治暦者の鄧平や方士の落下閎らによって編暦され、秦代から使われていた顓頊暦を改めた。太初暦は三統暦の補修を経ながら、後漢の章帝元和二年(85年)の改暦に至るまで190年間、施行された。 19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を(≒)日とし、1朔望月を(≒)日とする八十一分法を採用している。 太初暦の特徴は、音律と暦を結びつけて理論構築されている点にあり、黄鍾(音程名)の律管(音程を調律する竹管)の容積81寸から、日法である1朔望月の日数の分母81が導き出されている。よって、太初暦を八十一分律暦とも言う。 また顓頊暦が10月を年始としていたのを、太初暦では立春正月を年始とすることに改め、冬至を11月に固定して中気のない月を閏月とする歳中閏月法を採用した。 なお『史記』の著者、司馬遷も初期の改暦議論に参加しており、『史記』暦書・暦術甲子篇に載せられている四分暦は、この時、司馬遷が編纂して採用されなかった暦ではないかと考えられている。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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季布

季 布(き ふ)は、中国の秦末から前漢初期にかけての武将。はじめ楚の項羽配下だったが、のちに劉邦に仕えた。.

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孔光

孔 光(こう こう、紀元前65年 - 5年)は、前漢後期の人物。字は子夏。孔子の14代目の子孫。父は元帝の師となった孔覇。.

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宣帝 (漢)

宣帝(せんてい)は、前漢の第9代皇帝。武帝の曾孫。初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝に即位した。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ、中宗の廟号を贈られた。その数奇な生涯から逸話が多い。.

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小竹武夫

小竹 武夫(おたけ たけお、1905年9月3日 - 1982年5月2日)は、日本の中国文学者。石川県金沢市生まれ。京城帝国大学卒。兄の小竹文夫とともに『史記』を現代語訳し、ついで単独で『漢書』を全訳、1978年中日文化賞、1980年読売文学賞を受賞した。金沢美術工芸大学教授などを務めた。.

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尹翁帰

尹 翁帰(いん おうき、? - 紀元前62年)は、中国の前漢時代の人。字は子兄。河東郡平陽県の人だが、のち京兆尹杜陵県に移った。.

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少帝弘

少帝弘(しょうてい こう)は、前漢の第4代皇帝(歴代皇帝に含まないこともある)。諱は弘であるが、元来は山(常山王に昇格したときに「義」と改名)。少帝弘とその兄弟は、実は呂雉が密かに宮内に連れ込んだ者たちで恵帝の実子ではない、ともいわれるが真相は不明である。.

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少帝恭

少帝 恭(しょうてい きょう)は、前漢の第3代皇帝(歴代皇帝に含まない場合もある)。一般に諱は恭とされるが、『史記』『漢書』およびその注にその記録はなく、出所不明である。.

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岩波文庫

岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行する文庫本レーベル。1927年(昭和2年)7月10日に、ドイツのレクラム文庫を模範とし、書物を安価に流通させ、より多くの人々が手軽に学術的な著作を読めるようになることを目的として創刊された日本初の文庫本のシリーズ。最初の刊行作品は『新訓万葉集』などであった。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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師丹

師 丹(し たん、? - 3年)は前漢末期の人。字は仲公。琅邪郡東武の人。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中国古典文学大系

中国古典文学大系(ちゅうごくこてんぶんがくたいけい)は、平凡社が刊行した叢書の一つで、中国の主要な思想・文学の古典典籍を集成したものである。.

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常恵

常 恵(じょう けい、? - 紀元前47年)は、前漢の人。太原の出身。.

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主父偃

主父 偃(しゅほ えん、生没年不詳)は、前漢の人。斉国臨菑の人。.

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七略

『七略』(しちりゃく)は、中国前漢代の劉向・劉歆父子により編纂され、『漢書』「芸文志」の基礎となった書目(図書目録)である。.

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世界の名著

『世界の名著』(せかいのめいちょ)は、中央公論社が1966年から1976年にかけて刊行した全81巻の叢書である。.

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三国志

三国志(さんごくし、、、、転写: ilan gurun-i bithe)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。.

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三統暦

三統暦(さんとうれき)は中国暦の一つで、劉歆が太初暦を補修して作った太陰太陽暦による天体暦。王莽の新と後漢で用いられ、後漢の章帝の元和二年(85年)の改暦に至るまで使われた。従来の月日の配当に加え、日月食の予報や五惑星の位置計算が導入され、天体暦としての性格が強い中国の暦の規範となった。班固の『漢書』律暦志に記載されている。 三統とは、天統=夏、地統=殷、人統=周というように「三」を周期に王朝が循環するという三統説に由来する。劉歆はこの三統説に形而上学的な意味を付与し、五行説と組み合わせてさまざまな現象を解釈した。これによって三統暦では、暦と五声十二律や度量衡が連動して扱われている。 天体暦として予報のため食周期135月が導入されたり、紀年のため木星の運行を144年に一次(天球の十二分の一区画)を超えて145次とする超辰法、暦元をきわめて遠い過去に置いて暦計算する上元積年法が行われている。 category:中国暦 category:暦法.

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丙吉

丙 吉(へい きつ、? - 紀元前55年)は、前漢の政治家。字は少卿。宣帝擁立の功労者として丞相の地位に昇った。.

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平帝 (漢)

平帝(へいてい)は、前漢の第13代皇帝。元帝の孫にあたる。.

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平当

平 当(へい とう、? - 紀元前4年)は、前漢の人。字は子思。韓哀侯の末裔で、祖父の漢中太守平戩の時に財産家であったことから梁国下邑から平陵に移住した。 平当は若くして大行治礼丞となり、大鴻臚文学に遷り、県長、県令と出世し、経書に詳しいということで博士となった。その後、大臣が平当を推薦し、給事中になった。天変地異があるたびに経書に引き付けて解釈し、政治上の問題点を述べた。 元帝の時、丞相韋玄成が太上皇(劉太公)の廟などを廃止しようとした際に太上皇を尊ぶべきことを進言したため、元帝は太上皇の廟などを復活した。 使者となって流民を幽州へ行かせることとなった際、刺史や太守で勤勉な者の名を上奏し、また渤海の塩池を開封して民を救うべきことを進言した。この時の使者として11人中一番の業績を示し、丞相司直に昇進した。その後いったん法に触れて朔方刺史に左遷されたが、太中大夫給事中となり、長信少府、大鴻臚、光禄勲と昇進した。 成帝の皇帝陵である昌陵造営を止めるべきであると外戚の淳于長が進言し、その件について大臣に審議させた際、平当は昌陵は完成させるべきであると主張した。しかし造営中止が決定し、その功績で淳于長を列侯に封じる件についての審議では、「淳于長は良い進言があったとはいえ封侯には当たらない」と述べた。このことが前後の発言がかみ合わないものとされて鉅鹿太守に左遷された。 平当は『書経・禹貢』に詳しいということで黄河を治める使者に選ばれ、騎都尉となって黄河の堤防の事を司った。 哀帝が即位すると、平当は光禄大夫諸吏散騎となり、建平2年(紀元前5年)には再度光禄勲に遷り、その年のうちに趙玄の後任の御史大夫となった。更に2ヶ月後、その年の12月には朱博の後任の丞相に選ばれた。通常は丞相となると列侯に封じられるが、冬であったため関内侯を賜り、封侯は春を待つこととなった。しかし翌建平3年初めには平当は重病となっており、封侯のための使者が訪れても呼び出しに応じられない状態だった。平当は「高い地位にありながら、ここで無理に起きて列侯を受けてからすぐ死んでしまっては、万死に値するというものです。列侯を受けないのは子孫のためなのです。」と上書し、辞職を願った。哀帝は慰留したが、1か月あまり後に死亡した。前漢の丞相で列侯とならずに終わったのは平当だけである。 子の平晏は経書に詳しい事から出世し、平帝の時に大司徒となり防郷侯に封じられた。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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于定国

于 定国(う ていこく、? - 紀元前40年)は、中国の前漢時代の人。東海郡郯県(現山東省臨沂市郯城県)の出身。字は曼倩。丞相となった。.

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京都大学学術出版会

一般社団法人京都大学学術出版会(きょうとだいがくがくじゅつしゅっぱんかい、英称:Kyoto University Press)は、京都大学の出版部に当たる一般社団法人で、大学出版部協会の会員。主として京都大学における学術的成果を出版活動を通じて公表・普及することを目的とする。現会長は山極寿一、理事長は末原達郎。同会の出版活動に対して、梓会出版文化賞第20回記念特別賞、2011年度地中海学会賞が授与されている。.

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京房

京 房(けい ぼう、紀元前77年-紀元前37年)は、前漢の人。字は君明。東郡頓丘の人。元の姓は李であったが、自ら京氏に改姓した。易経の大家。.

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二十四史

二十四史(にじゅうしし)は、中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む。.

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五行思想

250px 五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。 また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。 西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想である。.

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井上秀雄

井上 秀雄(いのうえ ひでお、1924年(大正13年)12月1日 - 2008年10月7日)は、日本の歴史学者。東北大学、樟蔭女子短期大学名誉教授。専門は古代朝鮮史、日朝関係史。.

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張禹

張 禹(ちょう う、? - 紀元前5年)は、前漢後期の人物。字は子文。河内郡軹県の人。政治家にして『論語』学の大家。.

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張騫

張 騫(ちょう けん、? - 紀元前114年)は中国前漢代の政治家、外交官。字は子文。漢中郡城固県の人。武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらした。.

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張蒼

張 蒼(ちょう そう、? - 紀元前152年)は、秦から前漢にかけての人。陽武県(現・河南省新郷市原陽県東南)の人。.

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張釈之

張 釈之(ちょう しゃくし、生没年不詳)は、前漢の人。字は季。南陽郡堵陽(河南省方城県)の人。.

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張良

円山應擧筆 『張子房圖』 張 良(ちょう りょう、? - 紀元前186年)は、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(現在の江蘇省徐州市沛県の南東)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。.

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張耳

張 耳(ちょう じ、、拼音:Zhāng ěr、? - 紀元前202年)は、秦末から前漢初期にかけての武将及び趙王。.

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張湯

張 湯(ちょう とう、? - 紀元前115年)は、前漢の人。京兆尹杜陵県の人。酷吏として有名な人物で、張賀、張安世の父である。.

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張敞

張 敞(ちょう しょう、生没年不詳)は、前漢の人。字は子高。京兆尹杜陵県の人。京兆尹に至った。.

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彭宣

彭 宣(ほう せん、? - 4年)は、前漢の人。字は子佩。淮陽国陽夏の人。.

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彭越

彭 越(ほう えつ、? - 紀元前196年)は、中国秦末期から楚漢戦争期の武将。字は仲。秦末期の戦乱の中で盗賊として活躍し、劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。.

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影印本

影印本(えいいんぼん)とは、底本(通常は古い時代の貴重な書物)を写真撮影し、それを原版にしてオフセット印刷などの方法によって印刷した「複製本」のこと。景印本あるいは影印とも言う。 底本が書かれた当時の絵や文字をそのまま参照することができ、また、複製による新たな誤植や書き換えの生じる恐れが無いため、専ら研究用の資料として使用される。 木版印刷によって複製した場合は、覆刻本と呼ばれて区別される。また、複製本に限らないが、活字を用いて印刷した本は排印本あるいは鉛印本と呼ばれる。 底本は印刷本でも書写本でも関係なく、その複製本の寸法は原寸通りに再現されていなくてもよい。ただし、原本よりも縮刷されるのは構わないが、拡大印刷を行うことは好まれない。.

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何武

何 武(か ぶ、生年不詳 - 3年)は、前漢の政治家。字は君公。蜀郡郫県の人。 宣帝の時代、14,5歳の時に漢の徳を称揚するための詩を宣帝の前で歌った。のち、博士の下で易経を学び、郎となり、翟方進と友人となった。光禄勲の推挙で鄠県令となったが、違法行為があって罷免された。 太僕王音が何武を賢良方正に推挙し、諌大夫となり、揚州刺史となった。弾劾すべき太守がいた場合、先にそのことを発表し、罪に服した者は罷免するにとどめたが、服さない者は弾劾して死罪にまで至らしめた。罪があった太守は弾劾したが、それ以外は太守の能力に関係なく敬ったことから、各地では太守を重んじるようになり、州内が清らかになった。また、州内を視察する際にはまず学生に会い、そこで政治上の問題点を質問してから宿舎に入り、田畑の面積や作物の出来を質問し、それから太守に会うようにした。 儒学者の九江太守戴聖は彼を軽んじたが何武は戴聖の罪を探し当てたので戴聖は自分から免官した。のちに戴聖は朝廷で博士となり、何武を中傷したが何武は戴聖の罪のことを言わなかった。さらに、戴聖の子が罪を得た際、何武が公平な裁きを行い子を殺さなかったので、戴聖は感服した。 刺史を5年勤めたあと、丞相司直となり、丞相薛宣に大変重んじられた。その後清河太守となったが、郡中に災害が多発したことから罷免された。しばらくして大司馬驃騎将軍王根により推薦されて諌大夫となり、兗州刺史に移り、司隷校尉に昇進し、京兆尹になった。その後楚内史に左遷され、沛郡太守に移り、廷尉になった。 綏和元年(紀元前8年)、御史大夫孔光の左遷に伴い何武が御史大夫となった。何武は九卿の時に三公を置くよう進言していたが、このとき成帝は三公の官を置き直そうと考え、何武を御史大夫から大司空に改め、氾郷侯に封じた。 何武は丞相翟方進と共に、諸侯王国の内史を中尉に統合することや、刺史を廃止して州牧を置くことを進言し、裁可された。ただし、州牧や三公についてはまた元に戻されている。 宰相としてはわずらわしいとされ、また継母に対して孝行ではないと言われたため、哀帝の代になると大司空を罷免された。しかし諌大夫鮑宣による弁護や丞相王嘉の発言、董賢の推薦があり、元寿元年(紀元前2年)に再び御史大夫となり、すぐに前将軍に移った。 何武は王莽から自分を推挙してほしいという願いをはねつけていたが、哀帝が死に董賢が失脚すると、皇太后(王政君)から大司馬にするべき者について大臣に諮問があった。大司徒孔光ら多くの者は王莽を挙げたが、何武と左将軍の公孫禄は相談の上、お互いを推薦した。大司馬となった王莽はこのときの何武らの行動を弾劾させ、何武は罷免された。 元始3年(3年)、呂寛、王宇らの事件が起こると、何武も誣告され、何武は取り調べを受ける前に自殺した。冤罪だと言う者が多かったため、王莽は子の何況に列侯を継ぐのを許し、何武には剌侯と諡した。何況は王莽が簒奪すると位を失った。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.

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匡衡

匡 衡(きょう こう、生没年不詳)は、前漢の政治家。字は稚圭。東海郡承県の人。.

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匈奴

匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.

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レキ商

酈 商(れき しょう、? - 紀元前180年)は、中国秦から楚漢戦争期の武将。陳留高陽(現在の河南省開封市杞県)の人。説客として活躍した酈食其の弟、酈寄と酈堅の父。.

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レキ食其

酈 食其(れき いき、拼音:Lì Yì-jī、紀元前268年 - 紀元前204年)は、中国秦から楚漢戦争期の儒者、説客。陳留高陽(現在の河南省開封市杞県)の人。通称は酈生(酈先生)。子は酈疥、孫は酈勃(酈遂)『漢書』酈食其伝。弟は酈商、甥は酈寄。.

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テキ方進

翟 方進(てき ほうしん、? - 紀元前7年)は、前漢の政治家。字は子威。汝南郡上蔡県の人。.

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刀水書房

刀水書房(とうすいしょぼう)は歴史書を専門とする日本の出版社である。.

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周勃

周 勃(しゅう ぼつ)は、中国の人物。.

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周昌

周 昌(しゅう しょう、? - 紀元前191年)は、前漢初期の人物で、高祖劉邦の側近。沛の人。従兄に周苛がいる。.

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呂雉

呂 雉(りょ ち、紀元前241年 - 紀元前180年8月18日(旧暦7月1日(辛巳)))は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥姁(女偏に句)。謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。.

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呉ゼイ

呉 芮(ご ぜい、? - 紀元前202年、在位:紀元前202年)は、秦末から前漢にかけての群雄。初代長沙王で、漢代初めに高祖劉邦を皇帝に推戴した異姓諸侯王のうち、趙王張耳と並んで天寿を全うして子孫に王位を伝え、長沙王はその中で最も長く続いた王となった。.

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和帝 (漢)

和帝(わてい)は、後漢の第4代皇帝。諱は劉肇。章帝の子(四男)。生母は梁貴人。平原懐王劉勝、殤帝の父。 幼少時は継母の竇太后と竇憲ら竇一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆(ていしゅう)であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。92年(永元4年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。 鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。このようなことから「後漢は和帝の時から衰退を始めた」とする意見が多い。和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ことに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。 外征面は後漢で最も栄え、西域では永元6年(94年)の時点でその50余国が後漢に従うほどになった。これは西域都護である班超個人の力量に拠るところが大きく、班超が中央に召喚された後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。匈奴との戦いも匈奴の内紛に助けられ有利に進めた。 文化面では、班固・班昭兄妹による『漢書』の編纂(永元4年(92年)の班固の死後、班昭が完成)、永元17年(105年)の蔡倫による製紙法の改良が挙げられる。.

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カイ通

蒯 通(かい とう/かい つう、生没年不明)は、秦末から前漢初期にかけての説客。本名は蒯徹(かいてつ)であるが、漢の武帝の名と同じであるので、同じ意味を持つ通の名で後世呼ばれた。 後漢末に劉表や曹操に仕えた政治家・武将の蒯越・蒯良は蒯通の子孫であると伝わる。.

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スイ弘

眭 弘(すい こう、? - 紀元前78年)は、前漢の人。字は孟。魯国蕃の人。.

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傅寬

傅 寬(ふ かん、? - 紀元前190年)は、中国の秦・前漢時代の武将。.

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傅介子

傅 介子(ふ かいし、? - 紀元前65年)は、前漢の人。北地郡義渠の人。.

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傅喜

傅 喜(ふ き、? - 10年)は、前漢の人。字は稚游。河内郡温の人。漢の哀帝の祖母である元帝の傅昭儀の従弟。.

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哀帝 (漢)

哀帝(あいてい)は、前漢の第12代皇帝。元帝の孫にあたる。『漢書』哀帝紀の賛によれば、下半身に障害があったようである。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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冨谷至

冨谷 至(とみや いたる、1952年1月1日 - )は、古代中国史学者。京都大学人文科学研究所名誉教授。専門は中国法制史、簡牘学。 大阪府出身、1975年に京都大学文学部東洋史を卒業、1977年同大学院博士課程中退。京大人文研助手、大阪大学教養部助教授、京大人文研助教授を経て現職となる。1997年「秦漢刑罰制度考証」で文学博士を受けた。ケンブリッジ大学訪問研究員、ドイツ・ミュンスター大学客員教授、西北大学客員教授(中国)を歴任。2017年京大を定年退任、名誉教授。.

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内田吟風

内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月26日 - 2003年(平成14年))は、日本の東洋史学者、神戸大学名誉教授。.

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内田智雄

内田 智雄(うちだ ともお、1905年10月21日 - 1989年10月3日)は、日本の中国思想史学者。 愛知県岡崎市出身。同志社大学文学部卒業。1957年「中国農村の分家制度」で同志社大学法学博士。同志社大学講師、助教授、教授、76年名誉教授。専門は中国の制度史・法制史。.

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児寛

児 寛(げい かん、? - 紀元前102年)は、前漢の人。千乗郡千乗県の人。漢の武帝の時に御史大夫となった儒者。.

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公孫弘

公孫 弘(こうそん こう、紀元前200年 - 紀元前121年)は、前漢の人。菑川国(諸侯国の1つ)薛(山東省滕州市)の人。.

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公孫賀

公孫 賀(こうそん が、生年不詳 - 紀元前91年)は、中国の前漢時代の人間。北地郡義渠の人。字は子叔。武帝の時の将軍、丞相。.

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元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

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元帝 (漢)

元帝(げんてい)は、前漢の第10代皇帝。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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創文社

創文社(そうぶんしゃ)は、日本の学術出版社。哲学、宗教、歴史、東洋学などの人文科学関係の専門書のほかに、法律学、法制史、政治学、経済史など社会科学系も多数刊行している。 弘文堂の内紛により、当時社員だった久保井理津男が、独立退社し1951年(昭和26年)11月3日に創業した。 著名な刊行書目に、哲学・キリスト教思想関連ではトマス・アクイナス『神学大全』、訳者の山田晶、稲垣良典を主にキリスト教中世哲学研究、『ドイツ神秘主義叢書』(刊行中)、カール・ヤスパースの『哲学』3部作、『ハイデッガー全集』(全100数巻で刊行中)など多数がある。 西洋史学・社会学の訳書ではアンリ・ピレンヌの『中世都市論集』、マルク・ブロック、ベネデット・クローチェ、マックス・ウェーバー等が〈歴史学叢書〉他で出版し、東洋学・中国文学研究は、主に〈東洋学叢書〉や〈中国学芸叢書〉で出されている。 月刊PR誌『創文』を1962年8月より発刊していたが、2010年10月号で「小誌の持つ使命・役割は果しえたもの」とみなし、12月号にて終刊する事が告知された。2011年より季刊として再発足した。 2016年7月、国立大学の研究費削減などにより売り上げ減少が続き回復が見込めないことから、四年後の2020年をめどに会社を解散するという内容の文書を関係者に配布、創文社解散を事前告知した。『創文』は23号(2016年秋号)で終刊した。2017年3月、「会社解散のお知らせ」が公式サイトにも掲載された。.

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倭・倭人関連の中国文献

倭・倭人関連の中国文献(わ・わじんかんれんのちゅうごくぶんけん)は、倭・倭人や倭国のことが書かれている中国の文献について解説する。.

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石奮

石 奮(せき ふん 紀元前219年『漢書』斉召南注・洪亮吉注・王先謙注 - 紀元前124年)は、前漢の人。父は趙の人だったが趙が滅んだため河内の温に移り、その後長安の戚里、茂陵の陵里と移住した。高祖劉邦から武帝の代まで仕えた。また「万石君」と呼ばれた。.

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王吉

王 吉(おう きつ、生没年不詳)は、前漢の政治家。字は子陽。琅邪郡皋虞県(現・山東省青島市即墨区)の人。秦の武将王離の長子王元の後裔と伝わり、琅邪王氏の祖である。.

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王尊

王 尊(おう そん、生没年不詳)は、前漢後期の人物。涿郡高陽の人。字は子贛。司隷校尉、京兆尹となった。.

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王嘉

王 嘉(おう か、? - 紀元前2年)は前漢の政治家。字は公仲、平陵の人。.

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王キン (前漢)

王 訢(おう きん、? - 紀元前76年)は、前漢の政治家。 済南の人。郡県の吏から昇進して被陽令になった。武帝時代末期、各地で反乱が続発していたとき、繍衣御史暴勝之が皇帝の命で各地を廻り賊を捕え太守を誅殺していた。暴勝之は被陽に来ると王訢を斬ろうとしたが、処刑に臨んで王訢は「生殺与奪の権を握り全国にその名が轟く貴方にとって、私ごときを斬っても威信を増すことにはなりません。許してやって貸しを作り、自分のために力を尽くさせるほうがよろしいのではないでしょうか」と進言した。暴勝之は彼を許し、彼と親交を結んだ。 暴勝之は長安に帰還すると王訢を推薦し、王訢は右輔都尉に就任し、右扶風見習となった。武帝が右扶風の領域内を通過する際、通過する道や宿泊する館の整備が行き届いていたので、武帝は感心して彼を正規の右扶風に昇任させた。 元鳳元年(紀元前80年)、失脚した桑弘羊に代わり御史大夫となり、元鳳4年(紀元前77年)2月に前任の丞相田千秋の死により丞相となり、宜春侯に封ぜられた。翌元鳳5年12月に死亡。敬侯と諡された。 子の王譚が侯位を継ぎ、没後は子である王咸が継いだ。王莽の妻は王咸の娘であったことから、宜春侯王氏の一族は王莽の簒奪後は外戚として寵愛された。.

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王商

王商(おうしょう).

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王先謙

王 先謙(おう せんけん、Wang Xianqian、1842年 - 1917年)。字は益吾。清末の儒学者。葵園先生と呼ばれた。 湖南省長沙出身。1865年に進士となって、翰林院庶吉士、散館編修を歴任した。古今の書物に通じ、阮元のあとを継いで『続皇清経解』を、姚鼐のあとをついで『続古文辞類纂』を編纂した。1889年から官を辞して郷里の長沙に居を定め、岳麓書院の院長を十年近く務めた。戊戌の変法時には康有為や梁啓超の急進思想に反対した。とはいえ王先謙は空理空論に反対し、科挙の廃止と西洋の科学知識の学習を主張した。1902年以降、鉱山の開発や鉄道事業に関わった。.

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王章

王 章(おう しょう、? - 紀元前24年)は、前漢後期の人物。字は仲卿。泰山郡鉅平(山東省泰安市)の人。 若くして長安で学問を学んだ。妻と2人で住んでいたが、病気になってもまともな掛けものもなく、粗末な衣の上に臥せっていた。王章は妻に対し、泣いて今生の別れを述べようとしたが、妻は「都の大臣たちにだって貴方を超える人などおりません。今、病気で苦しんでいるからといって奮起せずに泣いているとは、なんと卑しいことですか」と叱咤した。 その後官に就き、諫大夫となり、直言をすることで朝廷で名声を博した。元帝の初めに左曹中郎将に抜擢された。御史中丞陳咸と仲が良く、権力を握る中書令石顕を弾劾したが、逆に石顕に陥れられ、陳咸は髠刑にされ、王章は罷免された。 成帝が即位すると諫大夫に就けられ、司隷校尉となって大臣や外戚に恐れられた。河平4年(紀元前25年)、王尊以後は人を得なかった京兆尹に選ばれた。 当時、外戚の大将軍王鳳が権力を握っていたが、王章は王鳳に推挙されたとはいえ、王鳳が権力を独占することを良く思っていなかった。王章の妻は「人は足るを知るべきです。粗末な衣に臥せっていた時のことを考えないのですか」と言って王鳳に逆らうことを止めたが、王章は聞かず、成帝に王鳳が成帝の弟の定陶王(劉康)を国に行かせたこと、王鳳が丞相王商と争い王商を死に追い込んだこと、王鳳が自分の妾の妹で結婚していたことがある女性、張美人を後宮に入れされたことなどを非難し、罷免して交替させるべきと主張した。 王商や定陶王の件で内心穏やかではなかった成帝はその言を納れ、「京兆尹の進言がなかったら、朕は社稷のための計を聞かずに終わるところであった」と王章に言い、誰に交替するべきか尋ねた。王章は成帝の弟・中山王の外戚に当たる馮野王を勧め、成帝も馮野王にしようとした。このやり取りは人払いして行われたが、侍中であった王鳳の親戚王音が耳をそばだてて聞いており、このことを王鳳に報告した。王鳳は自ら悲しみに満ちた文面の辞職願を出し、皇太后王氏(王政君)もそれを聞いて涙を流し、食が進まなかった。成帝は王鳳を廃するに忍びず、王鳳を慰留した。 王鳳は王章を「王の外戚を推薦するのは諸侯に阿ったものである。また張美人の件を批判する際に「羌でも女性が産んだ最初の子は(自分の子ではない疑いがあるから)殺すのに、天子の後宮に最近まで別の者に嫁いでいた者がいるとは」と言うべきではないことを発言している」と尚書に弾劾させ、王章は獄に下された。廷尉は張美人についての発言を「天子を夷狄になぞらえ、また天子の子孫繁栄を断とうとするものである」と大逆罪に当て、王章は獄中で死亡した。 京兆尹では彼が冤罪で死んだと思い、彼と優れた手腕を見せた王尊、王駿とを並べて「三王」と呼んだ。 王章の妻子も獄に下され、王章の死後は合浦に流された。その後、王鳳の弟の王商が権力を握ると、王章の家族を故郷に戻した。王章の家族はみな揃っており、真珠を採取して巨万の富を得ていた。当時泰山太守だった蕭育は、王章の田畑や宅地だったところを王章の家族に返還させた。.

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王莽

王莽が発行した貨幣。小刀を模した形状である 王 莽(おう もう)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。 前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父。孫(王宇の子)は王宗。娘に平帝の皇后王氏、王曄、王捷らがいる。正妻は宜春侯王咸の娘。また、王永の弟で、王光の叔父。.

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王褒

王褒(おう ほう)は、中国史上の人物。.

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王陵

王 陵(おう りょう)は、.

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王政君

王 政君(おう せいくん、紀元前71年 - 13年)は、前漢の元帝(劉奭)の皇后で、成帝(劉驁)の生母。孝元皇后(孝元王皇后)、元后、孝元皇太后、孝元太皇太后と称される。王莽の姑母にあたる。.

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灌嬰

嬰(かん えい、? - 紀元前176年)は、中国の秦・前漢時代の武将。.

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班彪

班 彪(はん ひょう、3年 - 54年)、字は叔皮。後漢の歴史家。祖父の班況は成帝の時代に越騎校尉に任じられて、父である班稚は哀帝の時代広平太守に任じられた。また子に班固、班超、班昭が、孫に班勇(班超の三男)。 班彪は扶風安陵(現在の陝西省咸陽市)の儒家の子として生まれる。前漢末に戦火を避け竇融の庇護を受けていた。その後光武帝による後漢政権建設に功績があったことから徐県令に任じられた。しかし間もなく病気を理由に官を辞し、その後は『史記』の補充を行い『史記後伝』65編を編集、後に子である班固による『漢書』成立の基礎を築いた。 『後漢書』に列伝が掲載されている。 Category:近代以前の中国の歴史家 Category:1世紀から5世紀の学者 Category:漢代の人物 Category:咸陽出身の人物 Category:3年生 Category:54年没.

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班固

班固 班 固(はん こ、32年 - 92年(建武八年 - 永元四年)は中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超、班昭の兄。班勇(班超の三男)の伯父。「漢書」の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。.

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班昭

班 昭(はん しょう、45年? - 117年?)は、中国・後漢の作家。中国初の女性歴史家。一名・姫。字は恵姫、または恵班。.

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福井重雅

福井 重雅(ふくい しげまさ、1935年12月11日 - )は、日本の東洋史学者、早稲田大学名誉教授。.

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稲葉一郎

葉 一郎(いなば いちろう、1936年5月3日 -2017年9月23日)は、日本の歴史学者である。関西学院大学名誉教授。文学博士。専門は、東洋史学思想史。 大阪市生れ。京都大学文学部卒、1966年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。学部・大学院では宮崎市定に師事。1967年立命館大学文学部助手、その後、同助教授・教授。1980年に関西学院大学文学部教授となり、2005年に退職、名誉教授。1989年、「中国史学史研究」により京都大学から文学博士の学位を取得。.

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章帝

帝(しょうてい)は、後漢の第3代皇帝。父は明帝で、その五男。生母は賈貴人。.

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竹内康浩

竹内 康浩(たけうち やすひろ、1965年 - )は、日本の米文学者。北海道大学大学院教授。愛知県出身。愛知県立半田高校卒業、東京大学文学部英文科卒業。朝日新聞記者、東京大学助手、一橋大学助教授、奈良女子大学助教授を経て現職。.

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竇嬰

竇 嬰(とう えい、? - 紀元前131年)は、前漢の人。字は王孫。文帝の皇后の従兄の子。観津の人。.

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筑摩書房

株式会社筑摩書房(ちくましょぼう)は、日本の出版社。筑摩書房のマーク(空を截る鷹)のデザインは青山二郎作。 文学者を中心に個人全集は、増補改訂し繰り返し刊行するので、「全集の筑摩」と称されている。特に『世界文学全集』は多くの類書シリーズを刊行した。ほかに古典・現代文の教科書を現在まで毎年出版している。月刊PR誌に『ちくま』がある。.

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紀伝体

紀伝体(きでんたい)は、東アジアの歴史書の書式の一つ。.

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翼奉

翼 奉(よく ほう、生没年不詳)は、前漢の人物。字は少君。東海郡下邳県の人。漢の元帝に仕えた儒者。.

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終軍

終 軍(しゅう ぐん、? - 紀元前112年)は、前漢の人。字は子雲。済南の人。若くして漢の使者となった。.

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田千秋

千秋(でん せんしゅう、? - 紀元前77年)は、前漢の政治家。車千秋とも称する。身長八尺(184cm)、極めて麗しい外見であったという。.

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田叔

叔(でん しゅく、生没年不詳)は、前漢の人物。趙の陘城県の人。斉の田氏の後裔にあたる。.

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田フン

蚡(でん ふん、? - 紀元前131年)は、前漢の人。母は劉邦が皇帝に即位した時の燕王である臧荼の孫の臧児で、漢の景帝の王皇后の異父弟に当たる。長陵で生まれた。武帝の時に丞相に至った。.

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田タン

儋(でん たん、? - 紀元前208年)は、秦末期の斉の国王。子に田巿。従弟に田栄、田横。『史記』に列伝として立てられている。.

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田村実造

村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 1999年2月24日)は、東洋史学者、京都大学名誉教授、元京都女子大学学長。 1930年代に中国東北部の実地調査を行い、契丹・遼代の遺跡墳墓を発掘、契丹文字を初めて学会に紹介した。 1940年に京都帝国大学助教授、1947年に教授、文学部長を務め、1968年に定年退官。1954年、日本学士院賞恩賜賞受賞。京都女子大学学長。1974年、勲二等瑞宝章受章。主著に『中国征服王朝の研究』、東洋史教科書作成にも多く参加した。.

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申屠嘉

申屠 嘉(しんと か、? - 紀元前155年)は、前漢初期の人。梁郡睢陽(現在の河南省商丘市睢陽区)の人。漢の丞相に至った。.

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甘延寿

延寿(かん えんじゅ、? - 紀元前24年)は、前漢の人。字は君況。北地郡郁郅の人。 若いときに騎射に長けていたことで羽林となり、ずば抜けた身体能力により郎となった。のち、期門となり寵愛され、遼東太守に至ったが罷免された。その後、車騎将軍許嘉の推薦で郎中、諫大夫となり、西域都護となった。 建昭3年(紀元前36年)、西域都護甘延寿は副校尉の陳湯と共に、匈奴内の抗争に敗れた後康居にいて漢の西域支配を阻んでいた郅支単于を西域の兵を動員して倒そうと考えたが、皇帝への上奏を経ようとする甘延寿に対し、陳湯は独断で行うべきと主張し、命令を偽って西域の兵や都護配下の屯田兵を動員した。甘延寿は止めようとしたが陳湯が恫喝したため従うこととなり、西域・漢の兵4万を率いて郅支単于を攻め、郅支単于の首を取った。 しかし命令を偽り独断で兵を興したことや、甘延寿がかつて中書令石顕の姉との結婚を断っていたことから、丞相匡衡や中書令石顕は彼らへ恩賞を与えようとしなかったが、劉向の進言があり、元帝は甘延寿・陳湯の罪を許すと共に甘延寿を列侯(義成侯)に封じ、陳湯は関内侯とした(竟寧元年(紀元前33年))。 甘延寿は長水校尉となり、城門校尉、護軍都尉と官を遷り、陽朔元年(紀元前24年)、在職中に死亡した。壮侯と諡された。 義成侯は子の煬侯甘建、節侯甘遷と継承され、甘遷の時、王莽により「誅郅支侯」と改名された。更にその子の甘相が後を継いだが、建武4年に兵士に殺されて断絶した。.

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燕京

燕京(えんけい、えんきょう).

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狩野直喜

狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1947年(昭和22年)12月13日)は、肥後国生まれの中国学者・歴史学者、京都帝国大学名誉教授。字は子温、号に君山、半農人がある。内藤湖南・桑原隲蔵と並ぶ京都支那学の創始者の一人。.

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狩野直禎

狩野 直禎(かの なおさだ、1929年11月8日-2017年2月7日)は、東洋史学者。.

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四夷の名称 狄(てき)あるいは北狄(ほくてき)は、四夷の一つ。古代中国において北方の中原的都市文化を共有しない遊牧民族を呼んだ呼称である。北方の民族は度々中原を侵略したことから、北方にいた異民族は総じて狄と呼ばれるようになり、北狄は蔑称としての意味合いが強くなった。.

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盧綰

盧 綰(ろ わん、拼音:Lú Wǎn、紀元前256年若しくは紀元前247年 - 紀元前194年)は、秦末から前漢初期にかけての武将。前漢初期の燕王。.

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芸文志

芸文志(藝文志、げいもんし)は、中国の紀伝体歴史書において、主な構成書目「志」篇目名で、史書が叙述する時代の朝廷の蔵書目録である。名称は異なるが、内容的には『隋書』に始まる「経籍志」と一致する。.

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韓安国

韓 安国(かん あんこく、生没年不詳)は、前漢の人物。字は長孺。梁国成安の人だが、のちに睢陽に遷った。漢の御史大夫に至った。.

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韓延寿

韓 延寿(かん えんじゅ、? - 紀元前57年)は、前漢の人。字は長公。燕の人だが杜陵に移住した。.

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韓信

韓 信(かん しん)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。 なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される。.

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韓王信

韓王 信(かんおう しん、? - 紀元前196年)は、秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。楚漢戦争期の韓王。姓は姫で氏が韓、諱が信である。身長6尺5寸(約195cm)の長身であった。.

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韋賢

韋 賢(い けん、紀元前140年 - 紀元前61年)は、前漢の政治家。字は長孺。 魯国鄒の人。5代前の先祖韋孟は楚王に仕え、楚王劉戊を諌めたという。 韋賢は儀礼、尚書、詩経に通じ、「鄒魯の大儒」と呼ばれた。中央に徴用されて博士、給事中となり、昭帝に詩経を教授した。 光禄大夫、詹事と昇進し、大鴻臚に至った。昭帝が跡継ぎなく崩御したので、大将軍霍光らと共に宣帝を皇帝に擁立し、その功績で関内侯を賜った。後に長信少府となり、本始3年(紀元前71年)に前任者蔡義の死により丞相となり扶陽侯に封じられた。 地節3年(紀元前67年)に高齢を理由に丞相を引退することを申し出て許され、金百斤と屋敷を賜った。丞相が自ら引退するようになるのは彼が最初であった。神爵元年(紀元前61年)に82歳で死亡。節侯と諡された。 子は4人おり、長男の韋方山は早くに死に、次男の韋弘は東海太守となり、三男の韋舜は魯の父祖の眠る墳墓を守り出仕せず、四男の韋玄成は丞相になった。漢において親子2代で丞相となったのは韋賢・韋玄成と周勃・周亜夫、曹操・曹丕の計3組だけである。 故郷の鄒魯では、韋氏が経書を学んで栄えたことから、「子孫に金を遺すよりも経書を遺す方が良い」という諺が生まれたという。 Category:漢代の人物 * Category:紀元前140年生 Category:紀元前61年没.

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荘助

荘 助(そう じょ、? - 紀元前122年)は、前漢の人。漢の武帝の側近。会稽郡呉の人。呉王濞や梁王武に仕えた遊説の士荘忌の子とも同族とも言う。姓の「荘」が後漢明帝の名であるため、『漢書』等では諱を避けて「厳助」と表記している。.

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項籍

項 籍(こう せき、Xiàng Jí、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。 姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。.

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顔師古

師古(がん しこ、581年 - 645年)は、中国・初唐の学者である。本貫は、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)、諱は籀、師古は字である。.

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衛綰

衛 綰(えい わん、?-紀元前130年)は、前漢の人。代国大陵の人。漢の文帝、景帝、武帝に仕えて丞相に至った。.

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衛青

衛 青(えい せい、、 ? - 元封5年(紀元前106年))は、前漢の武帝に仕えた武将。河東平陽(現在の山西省臨汾市)出身。字は仲卿。爵位は長平侯。母親は婢であった衛媼(えいおん)。幼少時に下級官吏の鄭季(ていき)の家に引き取られていたため、父親は鄭季とされる。子は衛伉、衛不疑、衛登ら。.

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衛氏朝鮮

衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。.

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袁オウ

袁 盎(えん おう、生没年不詳)は、前漢の人物。字は絲。兄は袁噲『史記』袁盎鼂錯列伝より。、甥は袁种(兄の子)。文帝、景帝に仕えた。.

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西域

西域(さいいき、拼音:xīyù)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。本来は東トルキスタンを指したが、拡張されて西トルキスタン、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。 紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地).

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西脇常記

西脇常記(にしわき つねき、1943年‐ )は、中国学者、京都大学名誉教授、同志社大学教授。 上海生まれ。1968年東京教育大学哲学科卒、75年京都大学大学院中国哲学専攻博士課程中退、99年「唐代の思想と文化」で文学博士。東海大学助教授、京大人文科学研究所教授、2009年定年退任、名誉教授。.

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馬宮

宮(ば きゅう、生没年不詳)は、前漢から新にかけての人。字は游卿。東海郡戚県の人。元の姓は馬矢(馬糞のこと)といったが、彼が学問を学んでから馬に改姓した。.

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馮奉世

馮 奉世(ふう ほうせい、? - 紀元前39年)は、前漢の人。字は子明。先祖は上党の人だが杜陵に遷った。秦の馮毋択、馮去疾、馮劫や漢の馮唐は同族である。漢の将軍。また漢の平帝の母方の曽祖父に当たる。.

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馮唐

馮 唐(ふう とう、生没年不詳)は、前漢の人。祖父の代は趙の人だったが、父の時に代に移住して代の相(宰相)となり、漢の時代になり安陵に移った。.

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角川書店

角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.

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騎馬民族

騎馬民族(きばみんぞく)とは、馬を移動手段とし、非定住生活を送る遊牧民である。.

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読売文学賞

読売文学賞(よみうりぶんがくしょう)は読売新聞社が制定した文学賞で、1949年に第二次世界大戦後の文芸復興の一助として発足した。小説、戯曲・シナリオ、随筆・紀行(第19回より創設)、評論・伝記、詩歌俳句、研究・翻訳の6部門に分類し、過去1年間に発表された作品を対象とする。 受賞作品は選考委員の合議によって決定される。受賞者には正賞として硯、副賞として200万円が授与される。年度受賞者は翌年の2月1日に発表するため、受賞年度の表記で混乱が生じることがある。.

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諸葛豊

諸葛 豊(しょかつ ほう、生没年不詳)は、前漢の政治家。字は少季。琅邪郡の人。三国時代に活躍した諸葛亮、諸葛瑾らの先祖とされている。 経書に通じていたことで郡文学となり、剛直と評判になった。貢禹が御史大夫となると、諸葛豊を御史属とし、侍御史に推挙した。元帝は諸葛豊を司隷校尉に抜擢した。諸葛豊は誰であっても忌避することなく監察弾劾し、都では「長いこと会わずにいたのは、諸葛に遭遇したからだ」と言われるようになった。元帝は彼を気に入り、光禄大夫の秩禄を与えた。 当時、元帝の外戚である侍中の許章の賓客が罪を犯し、許章も取り調べの対象となった。諸葛豊は許章を弾劾しようとしていたが、許章が外出するのに偶然出くわすと、諸葛豊は車を停め、司隷校尉が持つ節を掲げて許章に「車を降りろ」と詔を下し逮捕しようとした。許章は車を走らせて逃げ、宮殿に逃げ込んで元帝に助けを求めた。諸葛豊も追いかけ、元帝に上奏したが、元帝は諸葛豊から節を取り上げた。司隷校尉が節を持たなくなったのはこの一件に由来する。 それ以降、元帝は諸葛豊の言葉を取り上げなくなった。また朝廷では諸葛豊が春・夏に人を獄に下し取り調べていると欠点を述べる者が多く、元帝は諸葛豊を城門校尉に転任させた。 その後、諸葛豊は光禄勲周堪、光禄大夫張猛の悪事を上書したが、かつては周堪、張猛を誉めていたことから元帝の不信を買って罷免され、無官のまま死んだ。.

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高木友之助 (哲学者)

髙木友之助(たかぎ とものすけ、1923年4月29日-2000年2月10日)は、日本の哲学者。恩師は、阿藤伯海。元中央大学学長・総長。東京両国 (東京都)出身。高木友之助とも表記される。.

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魏相

魏 相(ぎ しょう、? - 紀元前59年)は、前漢の政治家。字は弱翁。 済陰郡定陶県の出身で、後に平陵に移住した。易経を学んで郡の卒史から賢良に挙げられ、茂陵令となった。茂陵は大いに治まったという。 河南太守に昇進し、豪族も憚る厳格な統治を行なった。しかし丞相田千秋(車千秋)が死亡した時、洛陽武庫令を務めていた車千秋の子が、父という後ろ盾をなくして魏相に罪で囚われるのを恐れて辞職したことが当時の権力者霍光の不興を買い、魏相は獄に下される。しかし河南郡の卒で長安で働いていた者3000人ほどが、自分達がもう1年働くことで魏相の罪を贖ってほしいと霍光に申し出、同じく河南郡でも1万人にも及ぼうかという者が魏相のために嘆願書を出していた。刑が決せずに冬を過ぎたため、許されて獄を出ることができた。 その後、再度茂陵令となる。次いで揚州刺史となり、郡国を監察して多くの者を退けた。 そこで魏相は親交のあった丙吉(霍光の部下)から「もう少し自重し、能力を見せないほうが良い」と言われ、厳格さを多少抑えることにしたという。 2年後に諫大夫になり、再び河南太守に昇進した。数年後、宣帝が即位すると大司農となり、翌年には御史大夫に昇進した。 霍光が死ぬと、息子の右将軍霍禹や兄の孫の領尚書事霍山らが権力を握っていたが、魏相は宣帝の舅である平恩侯許広漢を通じて宣帝に霍禹らを排除すること、及びそれまで領尚書事が上奏文を皇帝より先に検閲していたことを止めるよう進言した。 宣帝はその進言を納れ、魏相に給事中を加えた(内朝に入り皇帝の側仕えをすることを指す)。 宣帝は魏相の進言に従い霍光の息子たちを退け始め、また丞相韋賢が引退すると魏相を後任の丞相とした。霍光の息子たちは魏相を恨み、魏相を殺して宣帝を廃位するというクーデターを計画したが発覚し、誅殺された。霍光の息子たちを排除して宣帝が親政を始めると、魏相はその丞相として臣下を統率した。 魏相はこれまでの賈誼、鼂錯、董仲舒といった名臣の上奏などを再編集して施行したり、陰陽の調和を図ることを進言するなどの実績を挙げた。 また、丞相府の部下が各地に派遣されて戻ってきた後に各地の異聞や賊、天変地異などを報告させ、郡国が報告していないものなどがあれば上奏した。 魏相は紀元前59年(神爵3年)に死亡した。 Category:漢代の人物 Category:紀元前59年没.

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魏豹

魏 豹(ぎ ひょう、? - 紀元前204年)は、中国の戦国時代後期から秦代にかけての政治家。魏王室の公子で後の西魏王。魏咎の弟または従弟。名の読みは呉音の「ぎひょう」に対して、漢音の「ぎほう」とも呼ばれる。 陳勝・呉広の乱に乗じて魏咎と共に挙兵し、周巿らに擁立された魏咎が魏王になるとこれに仕えた。 紀元前208年、秦の章邯の侵攻によって魏咎が焼身自殺すると、魏豹は楚の項梁を頼って逃亡した。そして、懐王より数千の兵を借り、魏の20余城を攻め落とした。章邯が項羽に降伏した報を聞くと、自ら魏王と称した。 紀元前206年に項羽が秦を滅ぼすと、魏豹は領土を削り取られて西魏王とされた。楚漢戦争が始まり、劉邦が韓信を得て章邯らの治める三秦を打ち破ると、魏豹は自ら劉邦と同盟を結び、彭城の戦いに加わる。しかし、彭城の戦いでは各国が自分勝手に陣を張ったために統率が取れず、項羽の3万の軍勢の前に連合軍は大敗した。 敗戦後、魏豹は母を看病すると偽って帰国し、劉邦から離反して項羽に味方した。魏豹の離反に危惧した劉邦は酈食其を使者として説得に訪れさせたが、魏豹は「私は傲慢で礼儀知らずで横柄な漢王(劉邦)に二度と会いたくもない」とこれを拒否した。 紀元前205年、韓信による諸国遠征が始まると、最初に西魏が標的となり、黄河を挟んで対岸に位置する蒲阪と臨晋に、それぞれ魏軍と漢軍が対峙した。蒲阪に魏軍が集中していることを知った韓信は、臨晋から大軍が渡河するように見せかけ、上流に回り込んで木樽(たる)で作った即席の筏で黄河を渡り、魏軍の背後にある首都安邑を衝いた。これに慌てた魏軍は引き返そうとしたが、前後から攻撃されて大敗し、魏豹は捕らえられて、西魏は劉邦の漢の直轄地の郡に編入された。魏豹は庶民に落とされた。側室の薄氏は劉邦の側室となり、のちに劉恒(文帝)を生んだ。 紀元前204年、魏豹は再び登用され、滎陽で周苛や樅公とともに守備を命じられ、漢軍をまとめさせた。しかし、間もなく項羽率いる楚軍に包囲されると、秋8月に周苛と樅公は「魏豹が反乱を起こす恐れがある」と判断して、魏豹を殺害した。その後、滎陽は項羽に攻め落とされ、周苛は煮殺され、樅公は処刑された。.

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鮑宣

鮑 宣(ほう せん、生年不詳-3年)は、前漢の人。字は子都。渤海高城(河北省塩山県)の人。.

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谷永

谷 永(こく えい、生没年不詳)は、前漢後期の人物。字は子雲。長安の人。元の名は並であったが、樊並という人物が反乱した(永始3年(紀元前14年))時に永と改名した。.

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貢禹

貢 禹(こう う、? - 紀元前44年)は、前漢の政治家。字は少翁。琅邪郡の人。 同郡の王吉とは友人であり、世間では「王吉が地位を得たら、貢禹も官に仕える」と言っていた。経書に明るく清廉潔白であったことで著名となり、徴されて博士となり、涼州刺史に遷ったが病気となり職を退いた。その後また賢良に推挙され河南県令となった。一年ほどして、職務上のことで太守府に責められ、冠を脱いで謝罪したが、その時に貢禹は「ひとたび冠を脱いだら、どうして再び被ることができようか」と言い、職を辞した。 元帝が即位すると、貢禹を徴して諫大夫とし、政治上の事を質問した。貢禹は折からに不作について、皇帝の衣食住の経費や後宮の宮女の削減、皇帝の狩猟用の土地の貧民への解放などを進言した。元帝は馬に食わせる穀物の削減、皇帝の私有地の一部の貧民への解放、皇帝のための娯楽の削減などを行い、貢禹を光禄大夫とした。 貢禹は80歳以上という老年を理由に辞職して故郷に帰ることを願い出たが元帝は慰留し、彼を長信少府にした。初元5年(紀元前44年)、たまたま御史大夫陳万年が死去し、貢禹が代わって御史大夫となった。 貢禹はその後も数十回に渡り建策し、子供が3歳になると徴収していた人頭税である口銭を7歳からの徴収に変えること、租税の徴収や俸禄、下賜などを全て絹や穀物にして銭を使わないこと、離宮や長楽宮の衛兵や遊戯などのために養われている奴婢を削減すること、皇帝の側近の家が物を売るのを禁じることなどを提案した。 元帝は大臣に検討させ、口銭徴収の年齢を7歳としたほか、離宮の衛兵の削減などを実施した。また貢禹は郡国廟の廃止や、宗廟制度の制定について上奏したが、施行はされず、それらは韋玄成らに引き継がれた。 貢禹はその年のうちに死亡した。元帝は銭百万を下賜し、子を郎とした。その子はのちに東郡都尉になった。.

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賈誼

賈 誼(か ぎ、紀元前200年 - 紀元前168年)中国・前漢時代の政治思想家・文章家。後漢の賈逵はその後裔にあたる。.

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賈捐之

賈 捐之(か えんし、生没年不詳)は、前漢の人。字は君房。賈誼の曾孫。.

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趙広漢

趙 広漢(ちょう こうかん、? - 紀元前64年)は、前漢の人。字は子都。涿郡蠡吾県(現在の河北省保定市博野県)の人。.

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趙充国

趙 充国(ちょう じゅうこく、紀元前137年 - 紀元前52年)は、前漢の将軍。字は翁孫。隴西郡上邽の人で、後に金城郡令居に移住した。.

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路温舒

路 温舒(ろ おんじょ、生没年不詳)は、前漢の人。字は長君。鉅鹿郡東里の人。漢の宣帝の頃の人。.

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辛慶忌

辛 慶忌(しん けいき、? - 紀元前12年)は、前漢末期の武将。字は子真。狄道の人。.

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霍去病

霍去病の像(甘粛省酒泉市) 霍 去病(かく きょへい、、紀元前140年 - 紀元前117年)は、前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。.

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霍光

霍光(三才図会より) 霍 光(かく こう、? - 紀元前68年、Huò Guāng)は、前漢の政治家。昭帝・宣帝の2代を補佐し政治を取り仕切った。霍仲孺の子で霍去病の異母弟、霍禹の父、上官皇后の祖父。字は子孟。.

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范曄

范 曄(はん よう、398年 - 445年)は、中国魏晋南北朝時代の南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は南陽郡順陽県(現在の河南省南陽市淅川県)の出身であり、会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)にて出生した。.

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薮内清

薮内 清(やぶうち きよし、明治39年(1906年)2月12日 - 平成12年(2000年)6月2日)は、日本の天文学者・科学史学者(中国科学史)で、京都大学名誉教授。.

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薛宣

薛 宣(せつ せん、生没年不詳)は、前漢後期の人物。字は贛君。東海郡郯(山東省郯城県)の人。.

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薛広徳

薛 広徳(せつ こうとく、生没年不詳)は、前漢の人。字は長卿。沛郡相の人。漢の御史大夫に至った。.

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董仲舒

董 仲舒(とう ちゅうじょ、紀元前176年? - 紀元前104年?)は、中国前漢時代の儒学者、『春秋』学者。儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の最大の特徴は「災異説」。.

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蓋寛饒

蓋 寛饒(がい かんじょう、? - 紀元前60年)は、前漢の政治家。字は次公。魏郡の人。 経書に通じていたため郡の文学となり、孝廉に挙げられ郎となった。方正に挙げられて優れた策を示し、諌大夫に遷った。郎中戸将(光禄勲の属官)を代行した時、衛将軍張安世の子の侍中張彭祖が宮殿の門をくぐる際下車しなかったこと、および張安世が高い地位にありながら皇帝を補佐していないことを弾劾した。実際には張彭祖は下車しており、蓋寛饒は大臣の弾劾が真実ではなかったという理由で衛司馬(衛尉の属官)に左遷された。 衛司馬に着任すると、それまで慣例として衛尉が衛司馬を密かに使い走りにしていたが、蓋寛饒は使い走りを命じられた時にそのことを隠さずに尚書に報告したため、衛尉は尚書より責められ、以後使い走りにすることはなくなった。 また彼は短い衣を着て、大きな冠と長い剣を帯び、自ら兵卒の宿舎を見回り、病人があれば見舞って治療を施すなど、衛尉配下の兵卒の心をつかんだ。兵卒が1年間の務めを終えて交替の時期になり皇帝がもてなす際、兵卒数千人が自らもう1年勤めたいと申し出て、蓋寛饒の恩に報いようとするほどであった。 宣帝はそのことにより蓋寛饒を太中大夫とし、各地の風俗を見回らせる使者にした。そこでも良い事は称揚し、悪い事は弾劾し、使者としての職務を果たした。そこで司隷校尉に抜擢された。 司隷校尉になると相手によって弾劾を避けることはせず、大小なく弾劾したため、弾劾の案件がとても多く、実際に廷尉が取り上げるのは半数ほどであった。大臣や貴人、および長安に出張に来た地方の役人たちは、みな弾劾を恐れて罪を犯そうとせず、都は清らかになった。 外戚(宣帝の皇后許氏の父)の平恩侯許伯(許広漢)の屋敷が完成し入居する際、丞相魏相以下大臣はみな祝賀の会に参加したが、蓋寛饒は行かなかった。許伯が特にお願いしたので行くこととなったが、敢えて上座に座った。許伯に酒を勧められると「私にあまり飲ませないように。私は酒に酔うとおかしくなりますから」と言った。丞相魏相は「次公は酒に酔っていなくてもおかしいではないか」と笑って言い、他の者は目配せして蓋寛饒を卑下した。その後、長信少府の檀長卿が猿と犬の戦う様を舞い、一同は大笑いしたが蓋寛饒は喜ばす、屋敷を見て嘆息して「富貴はすぐに相手を変える。慎まないと長くはない。貴方も戒めなければなりませんぞ」と言い、帰った。それから檀長卿を高い地位にありながら猿の真似をしたのは不敬であると弾劾した。宣帝は檀長卿を処罰しようとしたが、許伯が謝罪したのでとりやめた。 蓋寛饒は剛直で高い志を持ち、家は貧しかったが給与の半分を吏や民に与えて自分の耳目として養っていた。司隷校尉でありながら、自分の子には歩いて北辺警備の兵役に行かせるほど清廉だった。しかししばしば人を弾劾していたので、大臣、貴人で怨む者は多く、また皇帝への進言でもしばしば皇帝の意を損なっていた。宣帝はそれでも彼が儒者であることから大目に見ていたが、昇進させることはなく、後輩がより上位に昇っていった。蓋寛饒はそれが不満で、多く上書して諌言するようになった。太子庶子の王生は彼に自重を勧めたが、彼は聞かなかった。 その頃、宣帝は中書宦官を信任していたが、それに対し蓋寛饒は「今や聖人の道はすたれ、儒学は行われていません。罪人を周公の地位に就け、法律を詩経、書経の代わりとしています」、「五帝の時代は天下を賢人に伝え、三王の時代は天下を子孫に伝えました。そもそも功績はひとたび成れば去ってしまうものであり、人が得られなければその地位にはいないものです。」と進言した。宣帝はこれを誹謗とみなし、大臣に書を下して処遇を議論させた。執金吾は蓋寛饒が自分への禅譲を求めるものだとみなし、大逆だと主張した。諌大夫鄭昌は蓋寛饒の忠節を惜しみ弁護したが、宣帝は許さず蓋寛饒を獄に下した。蓋寛饒は自殺し、大衆はみなこれを憐れんだ。神爵2年(紀元前60年)のことである。.

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蔡義

蔡 義(さい ぎ、? - 紀元前71年)は、前漢の人。河内郡温の人。「蔡誼」とも書かれる。.

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鄭吉

鄭 吉(てい きつ、? - 紀元前48年)は、前漢の人。会稽の出身。 兵卒として従軍して何度か西域に出征し、そこで郎となった。力と意思が強く、外国の事に詳しかった。 宣帝の地節2年(紀元前68年)、漢は鄭吉を侍郎とし、渠犁に派遣して刑を免除した罪人に耕作させて兵糧を集め、車師国を攻めようとした。収穫が終わると鄭吉は周辺の国々から兵を徴発し、自分が率いる屯田兵1500人と共に車師を攻撃した。車師は匈奴に援軍を要請したが、匈奴の援軍も鄭吉が迎撃に出ると前進せず、車師王は烏孫に逃亡した。漢は鄭吉を衛司馬とし、「護鄯善以西南道」(西域南道の監督役)とした。 神爵年間に匈奴が混乱すると、匈奴の日逐王(単于の従兄)が漢への降伏を鄭吉へ打診した。鄭吉は渠犁、亀茲の兵を徴発して日逐王と彼が率いてきた12,000人を迎え、途中で離反した者は斬刑に処して長安まで連行した(神爵2年(紀元前60年))。 日逐王の降伏により、鄭吉は「護車師以西北道」ともなり、以前の職と合わせて西域の南北両道の監督役となったことで、「西域都護」(「都」は大きい、全て、という意味)となった。また、以前の功績と併せて安遠侯に封じられた(神爵3年(紀元前59年))。また日逐王はこのとき帰徳侯に封じられた。 鄭吉は都護の幕府を西域の中心に置き、烏塁城を治所として西域諸国の鎮撫に携わった。 鄭吉は初元元年(紀元前48年)に死亡し、繆侯と諡された。安遠侯は子の鄭光が受け継いだが、彼には子がなかったので彼の代で断絶した。のち、王莽が断絶した功臣を復興させた際に、鄭吉の曾孫に当たる鄭永が安遠侯となった(居摂元年(6年))が、王莽が滅びると断絶した。.

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鄭崇

鄭崇(てい すう、生没年不詳)は、前漢末の人。字は子游。高密国(今の山東省高密市)の人。.

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鄭弘

鄭 弘(てい こう、生没年不詳)は、前漢の人。字は稚卿。泰山郡剛の人。御史大夫となった。.

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鄭当時

鄭 当時(てい とうじ、生没年不詳)は、前漢の人。字は荘。陳の人。漢の武帝の時代の大臣。.

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金日テイ

金 日磾(きん じつてい、紀元前134年 - 紀元前86年9月)は、字は翁叔で、前漢の匈奴系の政治家である。匈奴の休屠王の太子である。漢の武帝により金姓を授けられた。.

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蕭何

蕭 何(しょう か、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を輔けた、漢の三傑の一人。.

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蕭望之

蕭 望之(しょう ぼうし、? - 紀元前46年)は、前漢の政治家。字は長倩。東海郡蘭陵県の人で、後に京兆尹杜陵県に移る。.

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長沢規矩也

長沢 規矩也(ながさわ きくや、正字は長澤、1902年(明治35年)5月14日 - 1980年(昭和55年)11月21日)は、日本の中国文学者、書誌学者。号は静盦(せいあん、「ふた」の字)、書斎号は学書言志軒(がくしょげんしけん)。歌人長澤ちづは養女。.

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英布

英 布(えい ふ、、? - 紀元前196年)は、秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。通称黥布(げいふ、)。楚漢戦争期の九江王。前漢初期の淮南王。六(りく、現在の安徽省六安市)出身。.

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雋不疑

雋 不疑(しゅん ふぎ、生没年不詳)は、前漢の人物。字は曼倩。勃海郡の人。昭帝の時代に京兆尹となった。.

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陳寿

陳寿(ちんじゅ).

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陳万年

陳 万年(ちん ばんねん、? - 紀元前44年)は、前漢の人。沛郡相の人。御史大夫になった。.

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陳平

陳 平(ちん ぺい、、? - 紀元前178年)は、中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。 当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂雉亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。.

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陳余

陳 余(旧字: 陳餘、ちん よ、、? - 紀元前205年)は、秦末から前漢初期にかけての武将及び代王。.

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陳勝

陳 勝(ちん しょう、Chén Shèng、? - 紀元前209年)は、秦代末期の反乱指導者。字は渉。劉邦や項羽に先んじて秦に対する反乱を起こしたが、秦の討伐軍に攻められて敗死した。.

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陳湯

陳 湯(ちん とう、生没年不詳)は、前漢後期の人物。字は子公。山陽郡瑕丘(山東省兗州市)の人。 書を好み博学で、文章を得意としたが、家は貧しく、地元では称えられなかった。官を求めて長安に行き、太官献食丞となった。富平侯張勃は彼と親交を持ち、才能を認めた。初元2年(紀元前47年)に秀才の推挙を求める詔が出されると、張勃は陳湯を推薦したが、陳湯が父の死の報を聞いても葬式に駆けつけなかったため、司隷校尉が陳湯と張勃を弾劾し、陳湯は獄に下され、張勃も封邑を削られた上に「繆侯」という悪諡を贈られた。 その後、陳湯は推薦されて郎となり、しばしば外国への使者となった。西域副校尉に遷り、西域都護甘延寿と共に西域へ向かった。 建昭3年(紀元前36年)、副校尉陳湯は西域都護甘延寿と共に、匈奴内の抗争に敗れた後康居にいて漢の西域支配を阻んでいた郅支単于を西域の兵を動員して倒そうと考えたが、皇帝への上奏を経ようとする甘延寿に対し、陳湯は独断で行うべきと主張し、命令を偽って西域の兵や都護配下の屯田兵を動員した。甘延寿は止めようとしたが陳湯が恫喝したため従うこととなり、西域・漢の兵4万を率いて郅支単于を攻め、郅支単于の首を取った。 しかし命令を偽り独断で兵を興したことや、甘延寿がかつて中書令石顕の姉との結婚を断っていたことから、丞相匡衡や中書令石顕は彼らへ恩賞を与えようとしなかったが、劉向の進言があり、元帝は甘延寿・陳湯の罪を許すと共に甘延寿を列侯に封じ、陳湯は関内侯とした(竟寧元年(紀元前33年))。 成帝が即位すると、丞相匡衡は陳湯の独断専行や彼が鹵獲した財物を私したことを弾劾し、陳湯は罷免された。 陳湯は康居王が人質とした子は実の子ではないと摘発したが、これは事実ではなかったため陳湯は獄に下され、死罪に当たるとされた。太中大夫谷永が陳湯を弁護したため、爵位を剥奪するに留まり命を助けられた。 その後、西域都護段会宗が烏孫に包囲されるという事件があり、早馬で周辺諸国の兵を動員する許可を求めてきた。どうするべきか丞相の王商、大将軍の王鳳らが連日話し合ったが、結論が出なかった。王鳳が陳湯に意見を聞くことを申し出、成帝が陳湯を召し出した。陳湯は「憂うることではありません。5日以内には囲みが解けたという報告があるでしょう」と答え、4日後に実際に囲みが解けたという報告が届いた。王鳳は陳湯を従事中郎とし、王鳳の幕府の事は全て陳湯により決定された。 陳湯は王莽を列侯にすべきと上書したり、汚職で下獄した太守のために弁護するなど、金銭を受けて人のために上書をすることが多かった。しかし、成帝のお忍びを批判する言葉を述べたり、中止された皇帝陵造営をまた再開すべきと言ったことなどが罪となり、敦煌へ流罪となり、西域で威名が轟いていることから安定に遷された。 その後、議郎耿育が彼を弁護したことから陳湯は長安へ戻され、長安で死亡した。 王莽は陳湯に恩を感じており、政権を握ると陳湯を破胡壮侯と諡し、子の陳馮を破胡侯とした(元始5年(5年))。.

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陸賈

賈(りく か、拼音:Lù Jiǎ、生没年不詳)は、中国の政治家・説客・外交官。楚の人で、漢の高祖劉邦に仕えた。.

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枚乗

枚 乗(ばい じょう、生没年不詳)は、前漢の人。字は叔。淮陰(江蘇省淮安市)の人。賦や文章を得意とした遊説の徒。.

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息夫躬

息夫 躬(そくふ きゅう、? - 紀元前1年)は、前漢の人。字は子微。河内郡河陽の人。漢の哀帝に仕えた。.

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恵帝 (漢)

恵帝(けいてい)は、前漢の第2代皇帝。諱は劉盈(りゅう えい)。生年は紀元前210年、紀元前213年の2説がある。.

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揚雄

揚 雄(よう ゆう、紀元前53年(宣帝の甘露元年) - 18年(王莽の天鳳5年))は、中国前漢時代末期の文人、学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。字は子雲。また楊雄とも表記する。.

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李尋

李 尋(り じん、生没年不詳)は、前漢後期の人物。字は子長。平陵(咸陽市)の人。.

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李広

李 広(り こう、? - 紀元前119年)は、中国前漢時代の将軍。文帝・景帝・武帝に仕えた。 飛将軍の綽名でも知られる。武勇に優れていたが戦功を認められることなく憤死した。秦の将軍の李信の子孫である。従弟に丞相になった李蔡、孫に李陵がいる。.

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李広利

李 広利(り こうり、? - 紀元前88年)は、中国前漢代の軍人。中山郡(現在の河北省定州市)の人、妹に武帝の寵妃李夫人と兄に武帝の寵臣の李延年がいる。なお、李広の名と似ているが別人である。.

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東夷

四夷の名称 東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。夷(い)。 「夷」という漢字は「大」(人の象形)と「弓」(「己」、縄の象形)と書いて、好戦的な民族として、蔑んだ意味合いを込めている。 本来は古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。.

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東アジア

東アジア(ひがしアジア)は、ユーラシア大陸の東部にあたるアジア地域の一部を指す地理学的な名称である。北西からモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾列島、琉球諸島、日本列島などを含む。北東アジア(東北アジア)、極東、東亜などと呼ぶ場合もある。.

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東洋文庫 (平凡社)

東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.

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東方朔

東方 朔(とうほう さく、紀元前154年 - 紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県(現在の山東省恵民県)の人。.

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杜周

杜 周(と しゅう、? - 紀元前94年)は、前漢の人で、字は長孺。南陽郡杜衍県(河南省南陽市臥竜区)の人。武帝時代の酷吏。.

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梅原郁

梅原 郁(うめはら かおる、男性、1934年1月1日 - )は、東洋史学者、京都大学名誉教授。 京都市生まれで、父は東洋考古学者の梅原末治。1957年に京都大学文学部史学科東洋史学卒業。1962年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。神戸学院大学助教授、京都大学人文科学研究所助教授、同教授。1986年「宋代官僚制度研究」で文学博士。1997年定年退官、名誉教授、就実女子大学教授。2005年退職。 宋代史を主要な研究分野とするが、元・明・清朝の法制史・制度史研究でも大きな成果がある。2010年に、宋代における法制史の研究をまとめた『宋代司法制度研究』を中心に、日本学士院賞(第100回)を受賞した。2012年春瑞宝中綬章叙勲、.

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梅福

梅 福(ばい ふく、生没年不詳)は、前漢後期の人物。字は子真。九江郡寿春の人。.

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楊王孫

楊 王孫(よう おうそん、生没年不詳)は、前漢の武帝の時代の人。王孫は字であり、名は貴。葛洪『西京雑記』巻3 倹葬反奢京兆尹の人。自らを裸葬にさせた。.

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楊樹達

楊樹達(よう じゅたつ、1885年6月1日 – 1956年2月14日)は、中国の言語学者、訓詁学者。中国語の文語文法書である『高等国文法』などの著作がある。字は遇夫、室名は積微居。 甥の楊伯峻、孫の楊逢彬も古代中国語に関する著作のある学者である。.

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楊敞

楊 敞(よう しょう、? - 紀元前74年)は、前漢の人。華陰の人。.

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樊カイ

樊噲 樊 噲(はん かい(カイの字は)、? - 紀元前189年)は、中国の秦末から前漢初期にかけての武将。爵は賢成君、後に臨武侯、さらに後に舞陽侯。諡号は武侯。.

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欒布

欒 布(らん ふ/らん ぷ、? - 紀元前144年)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。.

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正史

正史(せいし)とは、.

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武帝 (漢)

武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝。ら3人の同母姉がいる。彼の治世下で、前漢は最盛期を迎える。.

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歴史書

歴史書(れきししょ)とは歴史を記述した書物のことである。 歴史書を記述するのは目的意識を持った、そして多くの場合職業的な歴史家である。執筆の目的は歴史そのものへの興味、過去を後世に伝えるため、独自の史観を表現するためなどさまざまである。為政者の支配の正統性を主張するなど、政治的動機による場合も多い。 時系列に従って事件が記述される。記述される内容は政治史・軍事史を主とすることが多い。基本的なスタイルとして、事項が時系列順に並べられたもの(編年体)と重要な個人の事績を追って記述するもの(紀伝体)の2つがある。 歴史書を記述する歴史家は既存の史料を収集・比較・批判し、ある基準によって取捨選択を行う。この作業がなされない場合は歴史書とは言えず単なる記述にとどまる。また、歴史家の想像はできる限り排除される。想像が勝つ場合は歴史文学となる。例えば『三国志演義』など。 原理的に歴史書は二次史料以下の史料となるが当時の史料が失われていることも多く、その場合一次史料並みの扱いを受けることもある。 上記の例外として、歴史記述を目的としたわけではない重要事件の記録がのちに歴史書と見なされることも多い。ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』などは、その顕著な例である。.

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段会宗

段 会宗(だん かいそう、紀元前74年-紀元前10年)は、前漢の人。字は子松。天水郡上邽の人。西域都護となった。関内侯。.

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永田英正

永田 英正(ながた ひでまさ、1933年- )は、東洋史学者、京都大学名誉教授。 鳥取県生まれ。1957年京都大学文学部東洋史学科卒。62年同大学院博士課程中退。京大人文科学研究所助教授、教授、90年「居延漢簡の古文書学的研究」で文学博士、97年定年退官、名誉教授、京都女子大学教授、2002年退任。藤枝晃、米田賢次郎(1919-90、元滋賀大学・佛教大学教授)と研究をともにした。.

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江充

江 充(こう じゅう、? - 紀元前91年)は、前漢の人。字は次倩。趙国邯鄲の人。元の名は斉であった。.

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汲古書院

株式会社汲古書院(きゅうこしょいん)は、日本の学術出版社である。主に日本古典・古典中国文学の学術研究に加え、文献学・書誌学の出版・販売を手掛ける。発足に大きく関わった長沢規矩也の「著作集」を始め、2001年から約15年かけ『後漢書』全訳書(全19冊)を刊行した。 中国からの古典・学術図書の輸入をしていた大安の活動を引き継いでいる。 同じ性格を持つ出版社に研文出版がある。.

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汲黯

汲 黯(きゅう あん、生没年不詳)は、前漢の官吏。字は長儒。濮陽の人。漢の武帝の時代の大臣。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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本田済

本田 済(ほんだ わたる、1920年1月7日 - 2009年9月21日)は、中国哲学者。 三重県生まれ、京都府宇治市出身。1942年京都帝国大学文学部哲学科卒。1964年「易経の思想史的研究」で京都大学文学博士。1949年高槻高等学校教諭、1952年大阪市立大学文学部助教授、1965年教授、1980年定年退官、名誉教授、梅花女子大学教授、1983年学長。号は鬳斎(けんさい)。.

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朱博

朱 博(しゅ はく、? - 紀元前5年)は、前漢後期の人物。字は子元。京兆尹杜陵県の人。.

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朱買臣

朱 買臣(しゅ ばいしん、? - 紀元前115年)は、前漢の人。字は翁子。会稽郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)の人。.

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朱雲

朱 雲(しゅ うん、生没年不詳)は、前漢の学者、政治家。字は游。魯の人だが平陵に遷った。.

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成帝 (漢)

成帝(せいてい)は、前漢の第11代皇帝。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明徳出版社

明徳出版社(めいとくしゅっぱんしゃ)は、儒教関連を中心に出版活動を行っている日本の出版社。東洋の思想学問の出版刊行を目的に、1954年(昭和29年)12月に安岡正篤の主導の下に設立された。安岡の初期・中期の著作を多数出している。 一大叢書「中国古典新書」(正・続併せ約130巻)を始め、朱子学の根本文献「朱子學大系」や、陽明学の祖「王陽明全集」を刊行している。日本の儒学では「叢書・日本の思想家」や、江戸時代に活躍した中江藤樹、二宮尊徳、佐藤一斎などの現代語訳も含む著作・伝記を多数出している。他には朱子研究者の「岡田武彦全集」などがある。.

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明治書院

明治書院(めいじしょいん)は、東京都新宿区にある日本の出版社。.

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昭帝 (漢)

昭帝(しょうてい)は、前漢の第8代皇帝。  .

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文帝 (漢)

文帝(ぶんてい)は、前漢の第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。諱は劉恒(りゅう こう)。高祖劉邦の四男(庶子)。妻にがいる。.

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早稲田大学

大隈重信立像(朝倉文夫作) 登台した学生は退学の内規あり 東京専門学校 大正時代の早稲田大学の正.

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曹参

曹 参(そう しん、? - 紀元前190年)は、秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。姓は曹氏。諱は参、字は敬伯。前漢の2代目の相国となった。黄老の学を重んじた。子に曹窋がいる。爵位は平陽侯、諡は懿侯。.

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晁錯

晁 錯(ちょう さく、? - 紀元前154年)は、中国の前漢の政治家。諸侯王の勢力を削る政策を進めたが、反発を受けて呉楚七国の乱を招き、自身は反乱鎮圧のためと称して殺された。本来の表記は鼂錯だが、晁錯と略字で表記されることが多い。以下晁錯で統一する。.

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景帝 (漢)

景帝(けいてい)は、前漢の第6代皇帝。 父文帝と同様に漢の基盤を固める善政を行い、その治世は「文景の治」と賞賛された。また、後漢の創始者である光武帝劉秀と蜀漢の創始者である昭烈帝劉備は景帝の末裔と称した。.

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