89 関係: 南宋、南京市、南漢、南昌市、墨、太宗 (宋)、太尉、安徽省、宋 (王朝)、山水画、中国語、中興 (南唐)、中書令、中書省、乾徳 (宋)、交泰、五代十国時代、建隆、徐鉉、徐温、後周、保大 (南唐)、北宋、ビン (十国)、刺史、呉 (十国)、呉越、唐、国号、国主、皇帝、福州市、福建省、禅譲、避諱、華北、顕徳、詞、鳳陽県、趙匡胤、開宝、開封市、門下省、長江、柴宗訓、柴栄、揚州市、李廷珪、李ベン、李イク、...、李ケイ (南唐)、楚 (十国)、楊溥 (十国呉)、江南、江西省、江蘇省、洪州、淮河、湖南省、湖北省、潘美、澄心堂紙、昇元、憲宗 (唐)、曹彬、10月 (旧暦)、11月 (旧暦)、931年、933年、937年、938年、943年、945年、950年、951年、955年、956年、957年、958年、959年、960年、961年、963年、964年、968年、971年、974年、975年、978年。 インデックスを展開 (39 もっと) »
南宋
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.
南京市
南京市(ナンキンし、、、)は、中華人民共和国の副省級市で、江蘇省の省都。古くから長江流域・華南の中心地で、かつては三国・呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、十国の南唐や明といった王朝や南京国民政府の首都であった。中国四大古都の一つ。14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。2016年の都市的地域の人口は678.14万人であり、総人口は827万人である。 金陵(きんりょう)は南京の別名である。また清朝のころには江寧(こうねい、簡体字:江宁)と呼ばれたことから略称は「寧(簡体字:宁)」である。夏はとても暑く、重慶、武漢と並ぶ中国三大ボイラー(三大火炉)の一つと言われている。.
南漢
南漢(なんかん、909年 - 971年)は、唐滅亡後の五代十国時代に広東省・広西チワン族自治区・ベトナム北部を支配した地方政権。.
南昌市
南昌市の衛星画像 南昌市の繁華街『勝利路』 南昌市(なんしょうし、、、)は中華人民共和国江西省の省都である。江西省の省人民政府が設置される江西省の政治・経済の中心。二千年の歴史を有し、国家歴史文化名城に指定されている。.
墨
'''墨''' 写真左手奥から「墨」「筆」。中央には「硯」。硯の一部分は窪み、硯の表面で水とすられた墨は窪みの「海」へ溜まる 墨(すみ)とは、菜種油やゴマ油の油煙や松煙から採取した煤を香料と膠で練り固めた物(固形墨)、またこれを硯で水とともに磨りおろしてつくった黒色の液体をいい、書画に用いる。 また墨を液状にしたものを墨汁(ぼくじゅう)または墨液と呼ぶ。 墨汁の原材料には化学的な合成物が使われている場合もある。化学的には墨汁の状態はアモルファス炭素の分散したコロイド溶液である。.
太宗 (宋)
太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからは炅(日の下に火)に改めた。.
太尉
太尉(たいい)とは、古代中国における官職名で、今風に言えば、軍事担当宰相であり、防衛大臣、国防長官、国防大臣などに相当する。主に文官が任命された。 秦及び前漢では三公の一つとして重要な役職であったが、『史記』や『漢書』を見る限りでは、丞相や御史大夫と違い、常設されなかったようである。他の三公同様、自らの府を開いて(開府)属官を任命することが許されていた。 武帝の建元2年に廃止された。『漢書』百官公卿表上によれば、その後は大司馬を冠した将軍が太尉に相当したようである。また、『漢書』黄覇伝によれば、太尉を廃止した後、武を休め文を興すためにその職務は丞相が兼ねるようにした、とされている。 後漢の建武27年、大司馬が太尉と改称され、太尉は再び三公の一つとなった。魏もこれを継承し、賈詡・鍾繇らが就任した。.
安徽省
安徽省(あんきしょう、アンホイしょう、中国語:安徽省、拼音:Ānhuī Shěng、英語:Anhui)は、中華人民共和国の省。名称は安慶の安、徽州(現黄山市)の徽による。省都は合肥市。略称は皖。.
宋 (王朝)
宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.
山水画
山水画(さんすいが)は、中国で発達した絵画のジャンルである。現実の景色の再現を意図した作品もあるが、型による山岳樹木岩石河川などの添景を、再構成した「創造された景色」が多い。.
中国語
記載なし。
中興 (南唐)
中興(ちゅうこう)は、五代十国時代の十国のひとつ南唐において李璟の治世で用いられた元号。958年正月 - 2月。.
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中書令
中書令(ちゅうしょれい)は、中国の漢代から明代にかけて存在した官職名。 漢代の中書令は内廷(後宮など宮廷の皇帝の私的な部分)の秘書長であり宦官が就任し、宦官となった司馬遷も就任した。宣帝以降側近として重用され、中書令の弘恭や石顕が権力を握った。しかし成帝の時に廃止された。 その後、魏の文帝の時代に復活し、宦官ではない皇帝の側近が就任した(孫資、李豊など)。さらに、中書令の役所である中書省が創設された。当初、中書省の長官は中書監といわれ、中書令はその次官であった。西晋期の官吏目録に中書監に荀勗、中書令に和嶠という記録がある。 隋と唐早期には、皇帝が出す詔勅の起草を行うという役職から、非常に強い権限を持ち、実質的な宰相職となっていた。唐の太宗の治世では、中書令は参議朝政などの名で国政に参与するようになり、同中書門下三品もしくは同中書門下平章事を兼任しない宰相には実質的権限がなかった。 宋代になると名誉職となっていたが、元代には名前だけを流用されて行政の最高職になった。その後、皇帝独裁を目指す明の洪武帝によって廃止された。 Category:中国の官名.
中書省
中書省(ちゅうしょしょう)は、中国で魏代から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った。.
乾徳 (宋)
乾徳(けんとく)は、北宋の太祖趙匡胤の治世に行われた2番目の元号。963年 - 968年。.
交泰
交泰(こうたい)は、五代十国時代の十国のひとつ南唐において李璟の治世で用いられた元号。958年3月 - 5月。.
五代十国時代
五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。.
建隆
建隆(けんりゅう)は、北宋の太祖趙匡胤の治世に行われた、宋朝最初の元号。960年 - 963年。。.
徐鉉
徐 鉉(じょ げん、916年 - 991年)は、中国の五代十国時代から北宋代の政治家・学者・書家。字は鼎臣(ていしん)。 弟の徐鍇(じょ かい、「鍇」はかねへんに「皆」)とともに篆書によく通じて二徐と並び評され、弟に対し大徐と呼ばれた。篆書を中心とした後漢代の漢字字典『説文解字』の校訂者として知られる。.
徐温
徐 温(じょ おん、862年 - 927年)は、唐末から五代十国時代の人物。字は敦美。海州朐山県(現在の江蘇省連雲港市海州区)の人。淮南節度使楊行密の配下で右衙指揮使を務めた。祖父は徐志、子は徐知訓、徐知詢、徐知誨、徐知諫、徐知証、徐知諤ら。養子に南唐の建国者李昪(徐知誥)。 天祐2年(905年)、楊行密が死去すると長子の楊渥が継位した。しかしその性格は傲慢かつ奢侈に耽り、将領に前途不安を与えるものであった。徐温と左衙指揮使張顥は天祐4年(907年)に兵変を起こし、国権を掌握した。翌年には楊渥を殺害、楊行密の次子である楊隆演を擁立した。間もなく徐温により張顥も殺害され、ここに国権を総覧する地位を獲得し、その後は駱知祥、厳可求を重用し、楊氏勢力を漸次排除していった。 天祐12年(915年)、徐温は管内水陸馬歩諸軍都指揮使、両浙都招討使、守侍中、斉国公に封じられ潤州(現在の江蘇省鎮江市)を拠点とした。天祐16年(919年)、楊隆演が呉国王となると、徐温は大丞相、都督中外諸軍事、諸道都統、鎮海、寧国節度使、守太尉兼中書令、東海郡王に封じられた。 順義7年(927年)、徐温が死去すると斉王と追封、忠武王と追諡され、養子の徐知誥(李昪)が地位を継承した。徐知誥が南唐を建国した後、武皇帝と追諡され、廟号を太祖とされた。更に徐知誥が李昪と改名した後に、廟号を義祖と改められている。.
後周
後周(こうしゅう、951年 - 960年)は、中国の王朝で、五代の最後の王朝である。国号は単に周であるが、古代の周と区別するために後周と呼ぶ。都は開封にあった。.
保大 (南唐)
保大(ほだい)は、五代十国時代の十国のひとつ南唐において李璟の治世で用いられた元号。943年3月 - 957年。.
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北宋
北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.
ビン (十国)
閩(びん 909年 - 945年)は、中国五代十国時代に現在の福建省を中心に存在した国。十国の一つ。.
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刺史
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.
呉 (十国)
呉(ご、902年 - 937年)は中国の五代十国時代に金陵(現在の南京)を中心に江蘇省・安徽省・江西省を支配した国。江南の豊かな経済力を背景に強勢を誇ったが、により簒奪され、南唐に取って代わられた。.
呉越
923年頃の勢力地図。ピンクが呉越 呉越(ごえつ 907年 - 978年)は中国・五代十国時代に現在の杭州を中心に浙江省と江蘇省の一部を支配した国。.
唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.
国号
国号(こくごう)とは、主に国の称号、あるいは名称のこと。2通りの意味において使用されており、1つは「帝国」、「王国」、「大公国」、「公国」、「首長国(土侯国)」、「共和国(民国)」などの統治体制(政体)を表す部分を含めた国の名称を指す場合と、もう1つは政体を除いた国の名称を「国号」ということがある。 政体を含めない用例としては「韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件」(明治43年勅令第318号)がある。同勅令は「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今朝鮮ト称ス」としており、政体(当時の韓国は帝政を布いていた帝国)を含めないで国号という語を用いている。なお、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)では互いの国名を「日本国・韓国」と表記しているが、それを遡る日韓議定書(1904年2月23日)では互いの国名を「大日本帝国・大韓帝国」としている。.
国主
江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、国持大名ともいう。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つである。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源。本国持10家(後12家)及び一国持ちではないが、大領を有した大身国持がある。 陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)を国主扱いにしている。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、志摩一国一円知行の稲垣和泉守(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)。 また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)も国主・国持という家格には加えない。 また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある。.
皇帝
皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.
福州市
福州市の衛星画像 19世紀後半の福州市の様子 金山寺(1871年頃) 台江区の夜景 福州市(ふくしゅうし、、、、閩東語: フッチュ)は、中華人民共和国福建省の省都である。榕城(ようじょう、)とも称される歴史の古い町で、国家歴史文化名城に指定されている。明清代には琉球館が設置され、琉球王国との交易指定港であった。.
福建省
福建省(ふっけんしょう、中国語:福建省、拼音:Fújiàn Shěng、英語:Fujian)は、中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を中華民国(台湾)が統治している。省都は福州市。.
禅譲
禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.
避諱
避諱(ひき)とは、目上の者の諱を用いることを忌避する、中国など東アジアの漢字文化圏にみられる慣習である。二字名の場合にどちらか一字を忌避することを偏諱(へんき)という。この項では中国の避諱を中心に記述する。.
華北
華北地域 華北(かほく、North China)とは、中国北部地域の呼称である。華北平原とは、多分に重なるが、必ずしも完全に一致しない。.
顕徳
顕徳(けんとく)は、五代の最後の王朝である後周において郭威、柴栄及び柴宗訓の治世で用いられた元号。954年 - 960年。.
詞
詞(し)は、中国における韻文形式の一つ、あるいは歌謡文芸の一つ。 宋代に隆盛したので宋詞(そうし)ともいう。唐・五代では曲・雑曲・曲子詞(きょくしし)とも呼ばれた。また詩に対して詩余(しよ)とも言われ、長短不揃いの句で構成されることから長短句(ちょうたんく)ともいう。曲に合わせて詞が書かれたので、詞を埋めるという意味で填詞(てんし)、音楽に合わせるという意味で倚声(いせい)とも言われる。日本語では詩(し)と同音であるため、区別しやすく中国語音からツーと呼ばれることがある。 後代には音楽に合わせて作られるのではなく、前人の作品の平仄に合わせて作られるようになったため、詩と同様、朗読される詩歌の一種となった。.
鳳陽県
鳳陽県(ほうよう-けん)は、中国安徽省の滁州市に位置する県。県人民政府は府城鎮にある。古くは鍾離県といい、唐代には濠州の治所が置かれた。明の太祖朱元璋の出身地。.
趙匡胤
趙匡胤(ちょう きょういん)は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)。廟号は太祖。.
開宝
開宝(かいほう)は、北宋の太祖趙匡胤の治世に行われた3番目の元号。968年 - 976年。.
開封市
開封市(かいほうし、)は中華人民共和国河南省東部に位置する地級市。中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、北宋の首都であった。11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。.
門下省
門下省(もんかしょう)は、中国の晋以後に設置された中央官庁の名称である。 南北朝を通して設置され、唐宋代でも設けられ、元代に廃止された。 その職掌は、臣下の上程した上奏文の審議および、中書省の起草になる詔勅の審議である。門下省の審議を経て承認を与えたもの以外は発効することがなく、その権限は非常に強かった。 その長官である侍中には、名流である門閥貴族出身者が任命された。南朝では、中書令と共に宰相の権限を与えられた。北朝でも、各省中において最も尊重された。 唐代でも、中書・尚書とともに「三省」を構成したが、次第に実権を喪失していき、中書省に権限を吸収され、その機能を同中書門下平章事に合併された。宋代では中書門下の職掌を併合した政事堂が設置され、宰相の職務を行使するようになった。 category:中国の制度史.
長江
長江(ちょうこう、中国語拼音字母: )は、青海省のチベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でも第3位。 中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、Yangtze River)の名で良く知られる。古語では江(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。 青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。 その流域には成都、武漢、重慶などの重要工業都市、上海、南京などの商業都市を含む中国の19の省(市、自治区)があり、全流域の人口は4億5000万にも達している。古くから水上交易の盛んだった華中でも中心的な交通路として利用されてきた。.
柴宗訓
柴 宗訓(さい そうくん)は、五代後周の第3代皇帝。後世の史家は恭帝と呼び習わしている。趙匡胤(宋の太祖)に帝位を禅譲した後は鄭王に封じられた。.
柴栄
柴 栄(さい えい)は、五代後周の第2代皇帝。廟号は世宗。五代で随一の名君とされる。.
揚州市
揚州市(ようしゅうし)は、中華人民共和国江蘇省に位置する地級市。本来「楊州」と書かれ、漢代に置かれた13州の一つであった。それが唐代に表記を「揚州」と改められた。.
李廷珪
李 廷珪(り ていけい、生没年不詳)は、10世紀前半の中国南唐の製墨家。五代十国南唐の後主李煜に重用された廷珪の墨は「李墨(りぼく)」と呼ばれ、卓越した品質で中国史上最高の墨と評されている。.
李ベン
李 昪(り べん)は、十国南唐の初代皇帝。廟号は烈祖。南唐を正統の王朝として認めない立場からは先主と呼ばれる。 幼少の頃に、淮南に勢力を張った呉の重臣の徐温の養子となる。後に徐温の実子を排除して、徐温の後継となる。そして、ついには呉の睿帝から禅譲を受けて、皇帝となって南唐を建国した。即位後は戦争を起こさず、善政を尽くした。.
李イク
李 煜(り いく)は、十国南唐(江南)の第3代(最後)の国主。後主とよばれる。君主としての政治的能力はほとんどなく、それよりも文学的・芸術的な才能のほうがはるかに優れていた。特に韻文の一種で、勃興しつつあったジャンルである詞の大成者として知られる。父の元宗李璟も芸術方面で評価されているため南唐二主と並称されている。.
李ケイ (南唐)
李 璟(り けい)は、十国南唐の第2代皇帝(国主)。烈祖昪の長男。初名は徐景通であったが、南唐建国後に李璟と改名し、さらに後周の臣下を称したあと後周の信祖郭璟(太祖・郭威の高祖父)の諱を避けて李景と再改名した。.
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楚 (十国)
楚(そ、907年 - 951年)は中国五代十国時代に湖南省・広西チワン族自治区を支配した国。茶の交易で栄えた。.
楊溥 (十国呉)
楊溥(よう ふ)は、十国呉の第4代(最後)の王(皇帝)。太祖楊行密の四男。.
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江南
江南(日本語:こうなん、中国語:チャンナン、朝鮮語:カンナム).
江西省
江西省(こうせいしょう、江西省、、Jiangxi)は、中華人民共和国中部、長江南岸に位置する内陸部の省。省都は南昌市。.
江蘇省
江蘇省(こうそしょう、、、)は、中国東部にある行政区。長江の河口域であり、北部は淮河が流れ黄海に面する。名称は江寧(現南京市)の江、蘇州の蘇による。省都は南京市(中華民国政府が公表している省都は鎮江市)。略称は蘇。.
洪州
洪州(こうしゅう)は中華人民共和国江西省にかつて設置された州。現在の南昌市一帯に相当する。.
淮河
河と長江に南北を挟まれる形で流れる 淮河(わいが、)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、長江・黄河に次ぐ第三の大河。古くは「河」が黄河の固有名詞であったので、淮水と呼んだ。長さは1,078km、流域面積は174,000平方kmに及ぶ。 淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。その下流は平坦な低地を通っており、流路が複雑なため洪水を起こしやすく非常に治水が難しい。このため「壊河(ピンインではHuái Hé)」の異名がある。.
湖南省
湖南省(こなんしょう、中国語:湖南省、拼音:Húnán Shěng、湘語(雙峰語):/ɣəu13 læ̃ 13/、英語:Hunan)は、中華人民共和国の省の一つ。省都は長沙市。略称は湘。.
湖北省
湖北省(こほくしょう、フーペイしょう、中国語:湖北省、拼音:Húběi Shěng、英語:Hubei Province)は、中華人民共和国中部地方にある第一級行政区画である。揚子江中流域に位置し、洞庭湖以北にあるため、「湖北」と言う名称がつけられた。略称は鄂、楚、荊で、荊楚とも呼ばれる。省都は武漢市である。.
潘美
潘 美(はんび、拼音:Pān Měi、925年 - 991年)は、北宋初期の将軍。字は仲詢。大名県(現在の河北省大名県)の人。北宋が南漢を滅ぼす戦いで指揮を任され、官位は客省使にまで到った。 潘美と宋太祖趙匡胤は親しく、趙匡胤が政権を取ってからも重用された。李重進の反乱平定の戦いにも参加し、揚州、潭州(現在の湖南省長沙)を守り、防禦使にまで昇進した。開宝3年(970年)、行営兵馬都部署になり、軍を率いて南漢を平らげた。これは、潘美が賀州を包囲するのから始まった。南漢の将軍伍彦柔率いる3万の軍が救援に来ると、潘美はこれより10キロメートル兵を退かせ、南郷岸に兵を配置し、南漢軍を大いに破って伍彦柔を捉えた。続いて、昭州、桂州、連州を下し、進んで韶州に迫った。李承渥を蓮花峰で再び破り、韶州を取った。ここで、南漢の主君は降伏した。 後に広州知州に任じられ、市舶司を兼ねた。山南東道節度使に昇進した。開宝7年(974年)、昇州(現在の江蘇省南京)西南面行営馬歩軍戦棹都監に任じられ、都部署曹彬の南唐征伐を助けた。南唐を平らげると、検校太傅、宣徽北院使に加えられた。太平興国4年(979年)正月、北路都招討制置使に任じられ、太宗趙光義に従い、北漢征伐に赴いた。北漢が降伏した後、知幽州(現在の北京)行府事に任じられ、宋太宗に従い、遼への北伐に参加したが、敗れて帰国。太平興国4年8月、河東三交口都部署に任じられ、西北辺防を守り、遼を圧迫した。雁門での勝利を以て、代国公に封じられ、後に忠武軍節度使に改められた。 雍煕3年(986年)、宋軍は三路に別れて北伐に向かったが、潘美は雲(現在の山西省大同)、応(現在の山西省応県)、朔(現在の山西省朔州市)などの州行営都部署になり、楊業がこの副将となった。西路軍を率いて雁門を出て、勝利を続けた。暫くして、曹彬率いる東路軍が岐溝関の戦いで敗れたので、潘美らは撤退し、雲、応の民を内地に連れ帰るべき内容の詔を受けた。撤退の途中、潘美と王侁などは、楊業にあえて敵を迎え撃つよう迫り、必敗の地に置いて見殺しにした。楊業の軍勢は陳家谷(現在の山西省寧武県)にて全滅し、楊業自身は捕われの身になり、絶食して死んだ。これにより、潘美は位を三階級削られ、検校太保に落とされた。翌年、元の官職に復す。淳化2年(991年)、同平章事に加えられたが、数カ月後死亡した。 真宗の最初の正室潘氏(章懐皇后)は、潘美の娘(あるいは孫娘)である。.
澄心堂紙
澄心堂紙(ちょうしんどうし)とは五代十国南唐の後主李煜が作成した紙。卓越した品質で中国史上最高の紙と評されている。.
昇元
昇元(しょうげん)は、五代十国時代の十国ひとつ南唐において昪の治世で用いられた年号。937年10月 - 943年2月。.
憲宗 (唐)
憲宗(けんそう)は、唐朝の第14代皇帝。順宗の長男。.
曹彬
曹 彬(そう ひん、931年 - 999年)は、後周・北宋の軍人。字は国華。諡は武恵。江南(南唐)攻略など数々の功績を挙げた宋初の名将で、北宋建国の元勲の一人。.
10月 (旧暦)
旧暦10月(きゅうれきじゅうがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から10番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、小雪を含む月を10月とする。新暦では10月下旬から12月上旬ごろに当たる。 10月の別名は神無月(かんなづき、かみなしづき)、島根県出雲地方においては神在月(または神有月、かみありづき)である。名前の由来は10月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、10月29日までで10月30日は存在しない年もある。.
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11月 (旧暦)
旧暦11月(きゅうれきじゅういちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から11番目の月である。 冬至を含む月が11月となる。新暦では11月下旬から1月上旬ごろに当たる。 11月の別名は霜月(しもつき)である。名前の由来は11月を参照のこと。異名は「ちゅうとう(仲冬)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、11月29日までで11月30日は存在しない年もある。.
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931年
記載なし。
933年
記載なし。
937年
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938年
記載なし。
943年
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945年
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950年
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951年
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955年
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957年
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960年
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961年
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963年
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964年
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968年
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971年
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975年
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