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旧唐書

索引 旧唐書

『旧唐書』(くとうじょ )は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。.

374 関係: 劉太真劉仁軌劉弘基劉ク劉禹錫劉胤之劉武周劉文静劉政会劉晏厳武厳挺之南詔南蛮史思明司馬承禎吐谷渾吐蕃吉温壬申の乱大庭脩天竺天武天皇天智天皇太宗 (唐)太平御覧太穆竇皇后契丹姚崇始畢可汗孟郊孟浩然孫逖孫思バク孔穎達宣宗 (唐)室韋宇文士及安禄山宋 (王朝)宋之問宋エイ封常清射匱可汗尉遅勝尉遅敬徳屈突通崔信明崔コウ...崔元翰崔義玄崔無ヒ崔行功中宗 (唐)中国中国の書家一覧丘和一行乙毘射匱可汗乙毘沙鉢羅葉護可汗于志寧于公異于邵康居二十四史五代十国時代亀茲代宗 (唐)令狐徳フン令狐楚張士貴張守珪張巡張九齢張亮張介然張公謹張倹張籍張説張柬之張果徐賢妃侯君集徳宗 (唐)後晋北宋ペルシアチャンパ王国チョ亮チョ遂良ネパール僖宗 (唐)ピューホータン王国咄陸可汗イスラム帝国ウイグルケイ賓タングート傅奕哥舒翰哀帝 (唐)唐倹処羅可汗元万頃元シン元載倭・倭人関連の中国文献倭国石重貴玄奘三蔵玄宗 (唐)王世充王忠嗣王キョ王キョウ (唐)王勃王皇后 (唐高宗)王維王績王縉王昌齢睿宗 (唐)神秀秦叔宝程千里程知節穆宗 (唐)突厥突利可汗竇威竇建徳第五キ粛宗 (唐)紀伝体羅士信羅希セキ真臘烏洛侯統葉護可汗疏勒焉耆牛仙客牛僧孺狄仁傑盧奕盧照鄰登利可汗白居易白村江の戦い百済韓愈韋堅韋皇后 (唐中宗)莫賀咄侯屈利俟毘可汗靺鞨頡利可汗順宗 (唐)顔師古顔真卿顔杲卿袁朗裴寂裴度裴休裴矩裴炎裴行倹西戎馬周馮立駱賓王許遠許敬宗高力士高叡高士廉高宗 (唐)高仙芝高適高麗高昌謝偃魏徴貞懿独孤皇后賈公彦賈曾賀徳仁賀知章車鼻可汗黒歯常之黄巣郭子儀郭孝恪郭虔カン阿史那弥射阿史那社爾阿史那骨咄禄阿史那賀魯阿史那默啜阿史那歩真阿史那思摩蘇定方蘇世長蘇味道閻朝隠薛収薛万均薛万徹薛仁貴薛逢蒋清蓋文達蔡允恭鄭世翼鄭注蕭ウ蕭穎士蕭銑長孫皇后長孫無忌長孫順徳鉄勒虞世南陳子昂陸徳明柳宗元柴紹李叔良李孝李孝基李孝恭李宝臣李宗倹李寧李密 (隋)李寛李上金李希烈李建成李弘 (唐)李徳裕李忠 (唐)李係李チョウ李バク李ヨウ (唐)李リン李嗣業李イン李エン (廬江王)李エン (棣王)李コン李コウ (唐の文人)李傑李商隠李元名李元吉李元嬰李元亨李元嘉李元則李元礼李元祥李元裕李元軌李元暁李元昌李元方李元懿李元慶李元景李光弼李勣李囂李玄霸李神符李神通李祐李福李簡 (唐)李素節李綱李義府李瑁李益李白李百薬李適之李道玄李華李靖李裕李貞李賢 (唐)李鳳李賀李軌李輔国李霊キ李重俊李重福李重潤李通李逵李暹李林甫李恪 (呉王)李栄李永李泰李淵李溶李明 (唐)李憲李慎李承李承乾李拯李晟李普李智雲東夷東女国杜如晦杜佑杜甫杜鴻漸森公章楊再思楊国忠楊纂楊炎楊炯楊貴妃楊慎矜楊思勗欧陽詢武士カク武宗 (唐)武元衡武則天武恵妃歴史書殤帝 (唐)殷キョウ段志玄段文昌毘伽可汗沈セン期沈法興沙鉢羅咥利失可汗渤海 (国)温庭イン朱泚房玄齢昭宗 (唐)新唐書新羅文宗 (唐)日本憲宗 (唐)懿宗 (唐)敬宗拂菻618年702年907年945年 インデックスを展開 (324 もっと) »

劉太真

劉太真(りゅう たいしん、生年不詳 - 789年頃)は、唐の詩人。本貫は宣州。.

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劉仁軌

劉 仁軌(りゅう じんき、ピンイン:Liú Rénguĭ、602年 - 685年3月2日)は、中国唐代の武将である。字は正則。楽城文献公。汴州尉氏出身。.

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劉弘基

劉 弘基(りゅう こうき、582年 - 650年)は、中国の唐の軍人。本貫は雍州池陽県(現在の陝西省咸陽市涇陽県)。凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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劉ク

劉 昫(りゅう く、887年 - 946年)は、五代十国時代の涿州帰義(今の河北省保定市雄県)の人、後晋の政治家。字は耀遠。.

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劉禹錫

劉禹錫(りゅう うしゃく、772年 - 842年)は中国の唐代(中唐)期の詩人、政治家。字は夢得(ぼうとく)。自身は中山(河北省定州市)出身と称したが、彭城(江蘇省徐州市)出身とも伝えられる。詩豪と呼ばれた。.

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劉胤之

劉胤之(りゅう いんし、生没年不詳)は、唐の政治家・文人。本貫は徐州彭城県。.

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劉武周

劉 武周(りゅう ぶしゅう)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。.

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劉文静

劉 文静(りゅう ぶんせい、568年 - 619年)は、中国の唐の政治家、軍人。字は肇仁。本貫は彭城郡(現在の江蘇省徐州市)。祖父の代から京兆郡武功県(現在の陝西省咸陽市武功県)に移住して、それを本貫としていた。.

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劉政会

劉 政会(りゅう せいかい、? - 635年)は、中国の唐の軍人。本貫は滑州胙城県(現在の河南省新郷市延津県)。凌煙閣二十四功臣の一人に挙げられた。.

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劉晏

劉 晏(りゅう あん、開元4年(716年) - 建中元年(780年))は、中国・唐の政治家。曹州南華(山東省東明県)の人。字は士安。.

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厳武

厳武(げん ぶ、726年 - 765年)は、中国・唐代の官僚。字は季鷹。玄宗期に用いられた厳挺之の子。蜀の地に流浪してきた杜甫を保護したことで知られる。.

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厳挺之

厳挺之(げんていし、673年- 742年)中国・唐代の官僚。名は浚。字で世に伝わった。その厳正さと諫言によって、左遷を繰り返しながらも、玄宗に重んじられる。宰相の李林甫の謀略により、閑職におかれ、失意のうちに死んだ。.

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南詔

8世紀のアジア 南詔(なんしょう)は、8世紀半ば、中国西南部、雲南地方の洱海地区に勃興したチベット・ビルマ語族の王国。最盛期には四川や東南アジアにまで勢力を拡大した。.

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南蛮

四夷の名称 南蛮(なんばん)あるいは蛮(ばん)は、四夷のひとつであり、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。 日本でも当初は同様の意味で用いられていたが、15世紀にヨーロッパ人との南蛮貿易が始まって以降は、主にヨーロッパや東南アジア・スペインやポルトガルの文物や人物を指す語となった。.

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史思明

史 思明(し しめい)は、唐代の軍人、燕の第3代皇帝。.

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司馬承禎

司馬承禎(しば・しょうてい、643年 - 735年)は、唐の玄宗の時の著名な道士。茅山派・第12代宗師。.

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吐谷渾

吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。.

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吐蕃

吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。.

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吉温

吉温(きつ・おん、生年不詳- 天宝14載(755年))は唐の官僚。李林甫、楊国忠につき、様々な疑獄事件で彼らの政敵を陥れることで出世した。安禄山に取り入ろうとしたが、安史の乱勃発直前に謀殺された。.

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壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。.

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大庭脩

大庭 脩(おおば おさむ、昭和2年(1927年)1月20日 - 平成14年(2002年)11月27日)は、日本の歴史学者。 専門は中国簡牘学・日本木簡学・中国法制史・日中関係史。皇學館大学元学長、関西大学名誉教授、大阪府立近つ飛鳥博物館元館長。正五位。勲三等旭日中綬章。文学博士(関西大学)。.

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天竺

天竺(てんじく)とは、インドの旧名。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではない。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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天智天皇

天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.

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太宗 (唐)

太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。 広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる。.

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太平御覧

『太平御覧』(たいへいぎょらん )は、中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰であり、977年から983年(太平興国2-8年)頃に成立した。.

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太穆竇皇后

太穆竇皇后(たいぼくとうこうごう、生没年不詳)は、中国の唐の高祖李淵の夫人。唐の太宗李世民の母。唐が建った後、皇后に追尊された。本貫は京兆郡平陵県。.

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奚(けい、拼音:Xī)は、4世紀から10世紀頃までモンゴル高原東部から中国東北部にあるラオハムレン(老哈河、遼河の源流)流域とシラムレン(遼河の支流)流域に存在していた遊牧民族。初めは庫莫奚(しゃまくけい、Šira Mö xī、Shèmò xī)と呼ばれていた。『ホショ・ツァイダム碑文』(オルホン碑文)では、12px12px12px12px(Ttbi:Tatabï、タタビ)と記されている。.

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契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.

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姚崇

姚 崇(よう すう、650年 – 721年)は、中国唐代の政治家。初名は姚元崇といい、その後、姚元之、姚崇と改名。.

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始畢可汗

始畢可汗(しひつかがん、拼音:Shǐbìkĕhàn、? - 619年)は、東突厥の可汗。啓民可汗の子。始畢可汗(シビル・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は咄吉世(『旧唐書』・『新唐書』では咄吉)という。.

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孟郊

孟 郊(もう こう、751年 - 814年)は中国・唐代の詩人。字は東野、諡は貞曜先生という。.

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孟浩然

孟 浩然(日本語読み:もう こうねん/もう こうぜん、中国語読み:モン ハオラン、ピンイン:Mèng Hàorán、689年 - 740年)は中国唐代(盛唐)の代表的な詩人。襄州襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身。字も浩然。一説には、名は浩だとも言われる。.

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孫逖

孫 逖(そん てき、696年? - 761年)は、中国・唐代の詩人。河南府鞏県(河南省)の出身。.

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孫思バク

孫 思邈(そん しばく、541年? - 682年?)は、中国唐代の医者、道士。生年は541年、581年とも。中国ないし世界史上有名な医学者、薬物学者、薬王とも称される。.

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孔穎達

孔穎達(くえいたつ、 574年(建徳3年) - 648年(貞観22年))は、中国初唐の学者である。冀州衡水(河北省)の出身、字は仲達、孔子の32世の孫と称している。漢音では「こうえいたつ」であるが、日本では平安時代以来の慣行で呉音の「くえいたつ」「くようだつ」で読み習わしている。 隋の煬帝の大業初(605年)、科挙の明経科に及第する。後、大学助教となる。唐になって、国子博士となり、国子監祭酒となり、また皇太子の侍講などになる。 彼は、しばしば諫言を述べたので、太宗李世民に信任されるようになった。魏徴と共に隋史の修撰に参画したことにより、名を残すこととなった。また、最も著名な業績は、「五経正義」170巻の撰述である。太宗は、儒教の流派が多く存在し、経典の解釈がさまざまにされていたのを統一させる目的で、孔穎達らに五経の義疏の撰述を命じ、完成したのが本書である。 これによって、儒教の経典のテキストの解釈が統一された。また、以後は、明経科の科挙試を受験する者に対して、この書を国定の教科書のような位置づけにしたため、受験者には便利であった。ただ、こういった気風によって学問の自由な発展は阻害される結果となった。.

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宣宗 (唐)

宣宗(せんそう)は、唐朝の第19代皇帝。憲宗の十三男で、穆宗の弟、武宗の叔父に当たる。 その治世に一定の成果を挙げたため、小太宗と呼ばれているが、戦乱で実録が失われたため、その業績の詳細は不明である。 『編年綱目』によると、高麗太祖王建の祖父王帝建は、宣宗の庶子であった。.

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室韋

室韋(しつい、)は、6世紀から10世紀まで中国東北部のチチハル周辺にある嫩江、アルグン川、黒竜江流域に存在していた民族。初めは失韋国と書かれた。また、モンゴル系民族の源流と考えられており、『オルホン碑文』にある三十姓タタル(オトゥズ・タタル、)にも比定されている。.

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宇文士及

宇文 士及(うぶん しきゅう、生年不詳 - 642年)は、中国の唐の政治家、軍人。本貫は雍州長安県。字は仁人。宇文化及、宇文智及、宇文恵及の異母弟。宇文禅師、宇文崇嗣の父。宇文測微の祖父。宇文鼎の曾祖父。宇文楊、宇文綜の高祖父。.

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安禄山

安 禄山(あん ろくざん)は、唐代の軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。「禄山」はソグド語の「ロクシャン(rwxšn/roxš(a)n 明るい・光の意味)」の音訳。唐の玄宗に対し安禄山の乱(安史の乱)を起こし、大燕皇帝に即位したが、最後は次男の安慶緒に殺害された。.

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宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

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宋之問

宋 之問(そう しもん、656年?-712年あるいは713年)は中国初唐の詩人。字は延清。虢州弘農(現河南省、『旧唐書』より)あるいは汾州(現山西省、『新唐書』より)の人。沈佺期とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。.

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宋エイ

宋 璟(そう けい、663年-737年)は、中国唐代の政治家。字は広平。邢州南和(現在の河北省南和県)の人。 17歳の若さで進士に挙げられて「博学にして文翰にたくみ」と評された。則天武后に抜擢されて監察御史などを務めるが、張易之ら則天武后側近の宦官を批判して名を知られるようになった。中宗期には黄門侍郎を務め、続く睿宗期には、吏部尚書兼同中書門下三品となり、姚崇とともに弊政改革に乗り出すが、太平公主の中傷によって江南の刺史に落とされた。 玄宗後に刑部尚書となり、716年には姚崇の引退を受けて吏部尚書兼黄門監となり、宰相の職に就いた。宋璟は皇帝の寵愛をかさに後宮の女性が政治に関与することを禁じ、刑法を整理簡単にして、人事を公正に行うことに務め、苛政を抑えて外敵に対しては軽々しい武力の行使を戒めて防備を固めさせた。だが、余りにも厳格であったために、玄宗もこれを憂えて720年に開府儀同三司の官品を与えて政府の中枢から退けさせた。729年には再度尚書右丞相に任命されて733年に引退した。 彼が宰相であった時、范知璿という人物が仕官を願って『良宰論』という著作を書いて宋璟を称えた。だが、宋璟は逆に自分の才能ではなく権力者に媚びて立身しようとしているとして激怒した。また、玄宗は金で作った頑丈な1対の箸を褒賞として下賜した。これは彼がこの箸のように剛直であると称えたもので、後世に「金箸表直」という故事として伝わった。当初の貞観の治の際には房玄齢・杜如晦という2名の宰相が太宗を支えて善政を行ったが、玄宗の開元の治では姚崇・宋璟という2名の宰相がこれを支えたと評された。 子に宋復、宋昇、宋尚、宋渾、宋恕、宋延、宋華、宋衡がいる。.

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封常清

封 常清(ほう じょうせい、生年不詳 - 天宝14載(755年))は、唐の武将。西域で高仙芝に従い、功績をあげたが、安史の乱に際し敗戦の罪で処刑された。.

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射匱可汗

射匱可汗(漢音:しゃきかがん、拼音:Shèkuìkĕhàn、? - 619年頃)は、西突厥の可汗。都六(トゥルク)の子で、達頭可汗の孫、曷薩那可汗の諸父(『旧唐書』では曷薩那可汗の叔父)。姓は阿史那氏。.

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尉遅勝

尉遅勝(うっち しょう、生没年不詳)は、ホータン王国の国王。安禄山の乱のとき、唐を援助した。.

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尉遅敬徳

尉遅敬徳(うっち けいとく、尉遲敬德、Yùchí Jìngdé、585年 - 658年11月26日)、尉遅恭(うっち きょう、尉遲恭、Yùchí Gōng)は、中国の唐の軍人。姓は尉遅で、名は恭。敬徳は字であり、字をもって通称される。本貫は朔州善陽県。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。また、後世には『捜神広記』を基に秦叔宝とともに門神として信仰された。.

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屈突通

屈突 通(くつとつ つう、557年 - 628年10月19日)は、中国の隋から唐にかけての軍人。姓は屈突で、名は通。字は坦豆抜。本貫は昌黎郡徒河県(現在の遼寧省錦州市)。唐の凌煙閣二十四功臣の第12位に列せられた。.

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崔信明

崔信明(さい しんめい、生没年不詳)は、唐の文人。本貫は青州益都県。.

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崔コウ

崔 顥(さい こう、? - 754年)は、中国盛唐の詩人。汴州(現・河南省開封市)の人。.

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崔元翰

崔元翰(さい げんかん、729年 - 795年)は、唐の政治家・学者。姓は崔で、名は鵬。元翰は字であり、字をもって通称される。本貫は博陵郡安平県。.

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崔義玄

崔義玄(さい ぎげん、585年 - 656年)は、中国の唐の軍人、儒学者。本貫は貝州武城県(山東省武城県の西北)。.

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崔無ヒ

崔無詖(さい むひ、? - 天宝14載(755年))は、唐代玄宗朝の地方官。 楊国忠に用いられ、滎陽郡太守となったが、安史の乱において安禄山側に捕らえられ、処刑された。.

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崔行功

崔行功(さい こうこう、? - 674年)は、唐の文学者・政治家。本貫は恒州井陘県。.

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中宗 (唐)

中宗(ちゅうそう)は、唐の第4代・第6代皇帝。諱は顕。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中国の書家一覧

中国の書家一覧(ちゅうごくのしょかいちらん)は、中国の能書家を時代別に分類した一覧である。現存する書家は掲載しない。.

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丘和

丘和(きゅう か、552年 - 637年)は、中国の隋から唐にかけての政治家、軍人。本貫は河南郡洛陽県。.

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一行

一行(いちぎょう、いっこう、諡号:大慧禅師、683年‐727年)は、中国の唐代の僧であり、天文学者でもある。俗名は張遂則で、大衍暦を編纂した。 683年に魏州昌楽県(現在の河南省)、一説には巨鹿(現在の河北省)に生まれる。禅、律、天台教学、密教、天文学、暦学を学び、善無畏と共に『大毘盧遮那成仏神変加持経』7巻を翻訳し、内容を『大日経疏』20巻としてまとめた。善無畏・金剛智から密教を学んだ。真言八祖(伝持の八祖)の一人。 また、それまで使用されていた麟徳暦が日食予報に不備があるため、梁令瓚と共に黄道游儀や水運渾象(水力式天球儀)を作成して天体観測を行い、更に南宮説と共に北は鉄勒から南は交州に至る大規模な子午線測量を行って、緯度差1度に相当する子午線弧長が351里80歩(約123.7km)という結果を算出し、それらの観測結果に基づいて『開元大衍暦』52巻を作成した。.

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乙毘射匱可汗

乙毘射匱可汗(漢音:いつひしゃきかかん、拼音:Yǐpíshèkuìkĕhàn、生没年不詳)は、西突厥の可汗。莫賀咄乙毘可汗の子。乙毘射匱可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。.

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乙毘沙鉢羅葉護可汗

乙毘沙鉢羅葉護可汗(呉音:おちびしゃはちらようごかがん、漢音:いつひさはつらようこかかん、拼音:Yǐpíshābōluóyèhùkĕhàn、? - 641年)は、西突厥の可汗。沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)の弟の伽那設(カーナー・シャド Kānā Šad)の子。乙毘沙鉢羅葉護可汗(イビル・イシュバラ・ヤブグ・カガン)というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。薄布特勤(『新唐書』では畢賀咄葉護)というのは官名である。.

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于志寧

于志寧(う しねい、588年 - 665年)は、中国の唐の政治家。字は仲謐。本貫は雍州高陵県。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。.

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于公異

于公異(う こうい、生没年不詳)は、唐の文人。本貫は蘇州呉県。.

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于邵

于邵(う しょう、生没年不詳)は、唐の文人・政治家。字は相門。本貫は京兆郡万年県。.

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康居

紀元前1世紀の西域諸国。 康居(呉音:こうこ、漢音:こうきょ、拼音:Kāngjū)は、かつて中央アジアに在ったとされる遊牧国家。大宛の西北に在り、シル川の中・下流からシベリア南部を領していたと思われ、現在のカザフスタン南部にあたる。.

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二十四史

二十四史(にじゅうしし)は、中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む。.

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五代十国時代

五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。.

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亀茲

亀茲(きじ、きゅうし、拼音:Qiūzī)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ県(庫車県)付近にあたり、タリム盆地の北側(天山南路)に位置した。丘茲、屈茲とも書かれ、玄奘の『大唐西域記』では屈支国(くつしこく)と記されている。 紀元前1世紀の西域諸国。.

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代宗 (唐)

代宗(だいそう)は、唐朝の第11代皇帝。粛宗の長男。姓諱は李 俶(り しゅく)、のち李 豫(り よ)。.

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令狐徳フン

令狐徳棻(れいことくふん、583年 - 666年)は、中国の唐の歴史家。本貫は宜州華原県(現在の陝西省銅川市耀州区)。 祖父の令狐整は北周の大将軍に、父親の令狐熙は北周の吏部中大夫・儀同大将軍の位に就いていた。徳棻は唐の高祖の治世に、大丞相府記室に任じられ、後に起居舎人・礼部侍郎・国子監祭酒・太常卿・弘文館学士・崇賢館学士などの職を歴任した。唐の初め、梁、陳、北斉、北周及び隋の正史の修訂を奏請して認められた。龍朔二年(662年)、徳棻は八十の高齢で、金紫光禄大夫を加えられた。家で死去。『周書』の主編者であった。 徳棻は二つの歴史的に意味のあることをした。その一つは太宗の即位を奏請する書を募り、「宏文殿に四部の書を聚めて群書は二十余万巻」となった(『唐会要』宏文館)。二つ目は、修史で——「創修撰之源、徳棻より始まるなり」(趙翼《二十二史箚記》)。二十四史中で徳棻が貢献したものは『梁書』『陳書』『北斉書』『周書』『隋書』『晋書』『南史』『北史』の8部で、人はただ賛嘆するばかりであった。 category:近代以前の中国の歴史家 Category:7世紀の学者 Category:唐代の人物 Category:583年生 Category:666年没.

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令狐楚

令狐 楚(れいこ そ、766年 - 837年)は、中国・唐の詩人。原籍は敦煌(甘粛省)の人。しかし、一族は早くに宜州華原(陝西省耀県)に移り住んでいたので、華原の人とも言う。字は殻士(かくし)。 貞元7年(791年)の進士。太原(山西省)節度使の幕僚となって文才を徳宗に認められ、憲宗朝では中書舎人から同中書門下平章事(宰相)に至った。穆宗朝では朝廷内の派閥争いのため地方に転出、各地の節度使を歴任し、敬宗朝では一時復活したが、山南西道節度使に任ぜられて、任地の興元(陝西省南鄭)で没した。.

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張士貴

張 士貴(ちょう しき、586年 - 657年6月3日)は、中国の唐の軍人。本名は忽峍。字は武安。本貫は、虢州盧氏県。.

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張守珪

張 守珪(ちょう しゅけい、生年不詳-開元27年(739年))は唐代玄宗期の軍人。北辺で戦功をたて、節度使に就任した。部下の敗戦を隠蔽したことから、左遷させられた。安禄山を引き立てたことで知られる。.

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張巡

張 巡(ちょう じゅん、景雲3年(709年) - 至徳2載(757年)は中国・唐代の武将。字も巡。.

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張九齢

張 九齢(ちょう きゅうれい、678年 - 740年)は中国唐代中期の政治家・詩人。字は子寿。韶州曲江(広東省)の出身。諡は文献。.

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張亮

張 亮(ちょう りょう、? - 646年)は、中国の唐の軍人、政治家。本貫は鄭州滎陽県(現在の河南省鄭州市恵済区)。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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張介然

張 介然(ちょう かいぜん、生年不詳 - 天宝14載(755年))は唐代玄宗朝の軍人。 西域において活躍したが、安史の乱において、安禄山側に捕らえられ、殺された。.

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張公謹

張 公謹(ちょう こうきん、594年 - 632年)は、中国の唐の軍人。字は弘慎。本貫は魏州繁水。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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張倹

張倹(ちょう けん)は、中国の歴史上の人物。.

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張籍

張 籍(ちょう せき、766年? - 830年?)は、中国・唐代中期の詩人。字は文昌。.

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張説

張 説(ちょう えつ、667年(乾封2年) - 730年(開元18年))は、中国唐代の政治家である。字は道済(説之)。 667年に洛陽で生まれる。本籍は范陽(河北省)であるが、河東(山西省)に移住し、数代前に再び移住して洛陽に出た。 688年に科挙に第2階級で合格して太子校書郎となり、以降、文官、武官として順調にキャリアを重ね、工部侍郎、同中書門下平章事、中書令、按察使、節度使を歴任し、3度も宰相となった。 703年9月、魏元忠を疎んじた張易之、張昌宗の兄弟が武則天に魏元忠が謀反を企んでいると誣告した。 張説は官位を餌に偽証を求められたが、告発は虚偽のものであり魏元忠は無実であると主張して欽州に流罪となった。 このことから後に中宗や玄宗の信頼を得た。 713年には、玄宗に刀を送って太平公主に対する挙兵を決断させ、その功績で燕国公に封じられた。 また、詩人としても名を成し、作品として『張説之文集』がある。 子に、張均、張垍、張埱がいる。.

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張柬之

張柬之(ちょう・かんし、625年 - 706年)は、中国・唐代の政治家。字は孟将。.

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張果

張 果(ちょう か、生年不詳 - 没年不詳)、中国の代表的な仙人である八仙の一人。敬称を込めて、「張果老」と呼ばれる。唐代玄宗朝に宮廷に招かれ、様々な方術を見せた。天宝年間に尸解したといわれる。正史にも名を連ね、多くの伝承を残している。.

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徐賢妃

徐賢妃(じょけんひ、627年 - 650年)は、中国の唐の皇帝・太宗李世民の妃。名は恵。本貫は湖州長城県。.

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侯君集

侯 君集(こう くんしゅう、生年不詳 - 643年4月29日)は、中国の唐の軍人。本貫は豳州三水県(現在の陝西省旬邑県)。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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徳宗 (唐)

徳宗(とくそう)は唐朝の第12代皇帝。代宗の長男。.

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後晋

後晋 後晋(こうしん 936年愛宕他 (1997)、pp.17-18 - 946年愛宕他 (1997)、p.19)は、中国の王朝で、五代の一つである愛宕他 (1997)、p.3。国号は単に晋だが、春秋の晋などと区別するため後晋と呼び習わす愛宕他 (1997)、p.69。都は開封愛宕他 (1997)、p.18。前身の後唐と同様、突厥(テュルク)系沙陀族に近い部族の王朝である愛宕他 (1997)、pp.17,70。.

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* 志(こころざし).

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北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

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ペルシア

ペルシア、ペルシャ(ギリシャ語 Περσία)は、現在のイランを表す古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。.

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チャンパ王国

チャンパ王国(、192年 - 1832年)は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだ。.

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チョ亮

褚 亮(ちょ りょう、560年 - 647年)は、中国の唐の文学者、政治家。字は希明。本貫は杭州銭塘県。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。.

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チョ遂良

雁塔聖教序』(部分、拓本) 褚 遂良(ちょ すいりょう、596年 - 658年)は、唐代の政治家、書家。初唐の三大家の一人。字は登善。河南県公から河南郡公に封ぜられたため褚河南と呼ばれることもある。太宗に仕えて諫言をよくし、後の高宗の教育にもあたった。しかし武則天を皇后に立てることに反対したために左遷された。.

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ネパール

ネパール連邦民主共和国(ネパールれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称ネパールは、南アジアの連邦共和制国家。 東、西、南の三方をインドに、北方を中国チベット自治区に接する西北から東南方向に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。面積は約14.7万km。多民族・多言語国家であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教もヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズム等とその習合が混在する。 農業を主たる産業とし、ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。後発開発途上国であると分類されている。世界で唯一矩形(長方形)でない国旗を持つ国である。.

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僖宗 (唐)

僖宗(きそう)は、唐朝の第21代皇帝。懿宗の五男。.

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ピュー

ピュー(Pyu)とは、かつてミャンマー(ビルマ)のエーヤワディー川流域に居住していた民族集団である。本項ではピューの城郭都市についても述べる。 ピューは他称で、漢文史料の「驃」「剽」などの表記、ビルマ語のピュー(Pyu)に由来する伊東「ピュー」『新版 東南アジアを知る事典』新版、363頁。古くはPruと発音され、『ハンリン・タマイン(由来記)』には「微笑む」を意味するPrunに由来すると記されている服部「古代ビルマ概観」『大阪外国語大学学報』12巻、100頁。自称は古モン語の「ティルチュル(tircul、突羅成)」。 エーヤワディー川流域ではタイェーキッタヤー()、テーゴウン、ベイッタノー(ベイタノウ)、ワディー、マインモー、ハリン(ハリンジー)、ダガウンといった、10世紀以前に建設された7つのピューの城郭都市が発見されている。城郭都市と周辺の地域に共通する出土品から、かつてエーヤワディー川流域では一大文化圏が形成されていたと考えられており、その文化圏はピュー文化圏と呼ばれている。城郭都市の遺跡はエーヤワディー中流域にほぼ一直線に並んでおり、最南端のタイェーキッタヤーが最も新しい田村、松田『ミャンマーを知るための60章』、22-26頁。1-2世紀から3-4世紀にかけて存続していたベイッタノーが最古の城郭都市であるが、一部にはベイッタノーをピューの城郭都市と見なすことに疑問を投げかける意見もある。また、エーヤワディー流域以外に下ビルマの海岸地帯でもピューの城郭都市と同じ特徴を持つ遺跡が多く発見されている田村、根本『ビルマ』(暮らしがわかるアジア読本, 河出書房新社, 1997年2月)、94頁。 ピュー族の言語は完全に解読されておらず、歴史や社会の研究の大部分は考古学的発見と他民族が記した史料に依拠している。.

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ホータン王国

紀元前1世紀の西域諸国。 ホータン王国(ガンダーラ語:コータンナ、Kingdom of Khotan)はシルクロードの一つ西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在では中華人民共和国新疆ウイグル自治区にあたる。漢語では于闐(うてん)、于寘(うてん)。コータン王国とも書かれる。.

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咄陸可汗

咄陸可汗(漢音:とつりくかがん、拼音:Duōlùkĕhàn、? - 634年)は、西突厥の可汗。莫賀設の子。咄陸可汗(テュルク・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は泥孰(でいしゅく)という。大渡可汗(たいとかがん、タルドゥシュ・カガン)とも称した。.

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イスラム帝国

イスラム帝国(イスラムていこく、خلافة, caliphate)は、イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。.

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ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

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ケイ賓

紀元前1世紀の西域諸国。 罽賓(けいひん、拼音:Jìbīn)は、かつて北インドのカシミール地方もしくはガンダーラ地方に在ったとされる国。.

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タングート

タングート(Tangut)は、7世紀~13世紀ごろに中国西南部の四川省北部・青海省などに存在したチベット系民族である。 11世紀初めに西夏を建てた。中国語表記では党項。日本語ではタンガットという記法も散見される。同じくタングート族、タングート人とも。また。タングートの前身は羌である。 同時に、中国語表記で唐兀とも表記され、モンゴル化したテュルク民族とする説もある宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(2002年、刀水書房)137ページ、ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(1989年、平凡社)309-311ページ(ただし、311ページでは「タングートは実はチベット系である」と記述されている)。。.

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傅奕

傅奕(ふ えき, 555年(天保6年) - 639年(貞観13年))は、中国大陸の相州鄴(河南省安陽市)の人。唐代初めの天文暦法学者であり、また、官途に就く前は道士であり、激烈な排仏論者としても知られる。.

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哥舒翰

哥舒 翰(かじょ かん、 生年不詳 - 至徳2載(757年))は、テュルク系突騎施(テュルギシュ、西突厥の主流となっていた部族)出身の唐の将軍。吐蕃との戦いで活躍したが、安史の乱で敗北し、捕らえられ殺害された。.

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哀帝 (唐)

哀帝(あいてい)は、唐朝の第23代(最後)の皇帝。昭宗の九男。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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唐倹

唐 倹(とう けん、579年 - 656年10月3日)は、中国の唐の軍人。字は茂約。本貫は并州晋陽。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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処羅可汗

処羅可汗(しょらかがん、拼音:Chùluókĕhàn、? - 620年)は、東突厥の可汗。始畢可汗の弟。処羅可汗というのは称号で、姓は阿史那氏、名は不明。俟利弗設というのは官職名である。.

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元万頃

元万頃(元萬頃、げん ばんけい、生年不詳 - 690年)は、唐の文化人。本貫は河南郡洛陽県。.

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元シン

元稹(げん しん、またはげん じん 、779年(大暦14年) - 831年(大和5年))は、中国・唐代中期の詩人、文人、宰相。字は微之。郡望は河南洛陽(河南省洛陽市)であるが、長安靖安里に生まれた。.

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元載

元 載(げん さい、? - 大暦12年(777年))は、唐代粛宗朝・代宗朝の政治家。代宗朝に宰相として専権を振るった。鳳翔岐山(現在の陝西省)の人。字は公輔。.

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倭・倭人関連の中国文献

倭・倭人関連の中国文献(わ・わじんかんれんのちゅうごくぶんけん)は、倭・倭人や倭国のことが書かれている中国の文献について解説する。.

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倭国

倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。.

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石重貴

石 重貴(せき じゅうき)は、五代後晋の第2代皇帝。.

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玄奘三蔵

奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は。諡は大遍覚『全唐文』「s:zh:大唐三藏大遍覺法師塔銘(並序)」で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。 629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。.

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玄宗 (唐)

宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。 治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。.

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王世充

王世充(おう せいじゅう)は隋末唐初に割拠した群雄のひとり。隋朝の恭帝侗を廃して鄭国を建てた。 隋朝の有力な部将であり、煬帝の時代には反乱軍を撃破して活躍し、恭帝侗の時代には反乱軍団を保有していた李密を降伏させた。619年に恭帝侗を廃して鄭の皇帝に即位すると、李淵率いる唐の軍事的圧力を受けて夏国の竇建徳に救援を求めたが、竇建徳が唐の李世民(太宗)に敗れると王世充も唐に降伏した。李淵は王世充の一族を巴蜀(四川)の流刑に処したが、道中で父親を王世充に殺されていた独孤修徳に殺害された。.

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王忠嗣

王 忠嗣(おう ちゅうし、神龍元年(705年)- 天宝8載(749年))は唐の武将。元々は王訓という名であったが、玄宗に名を賜り改名した。突厥や吐蕃を相手に勝利を重ね、唐の国土を守った。しかし、兵の死を犠牲にする敵地への侵攻を拒否し、命令に背いたために左遷させられ、その地で没した。安禄山の反乱を予期していたことでも知られる。.

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王キョ

王琚(おう きょ、407年 - 496年)は、北魏の宦官。本貫は高平郡。.

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王キョウ (唐)

王 鉷(おう きょう、? - 天宝11載(752年))は、唐代玄宗期に経済手腕と権勢を振るった官僚。太原郡祁人県の人。唐の高宗期の名将・王方翼の孫で、中書舎人・王瑨の庶子。妻は薛氏、子は衛尉少卿・王準と王偁ら。兄は王錫、異母弟は銲。.

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王勃

王 勃(おう ぼつ、650年(永徽元年) − 676年(上元3年))は、中国・唐代初期の詩人。字は子安。「初唐の四傑」の一人。.

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王皇后 (唐高宗)

王皇后(おう こうごう、? - 655年)は、中国の唐の高宗李治の廃后。本貫は并州祁県。.

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王維

王 維(おう い、生卒年は『旧唐書』によれば699年 - 759年、『新唐書』では701年 - 761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、長安元年 - 上元2年)は、中国唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。また、画家、書家、音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。河東(現在の山西省永済市)出身。 同時代の詩人李白が“詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれている。.

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王績

王績(おう せき、585年 - 644年)は、中国・唐の詩人。絳州(こうしゅう)竜門(山西省河津市)出身。字は無功。 隋末の儒者・王通の弟。隋の官僚となったが、天下の乱れを察し、職を捨てて郷里へ逃げ帰った。唐になってから召し出され、門下省の待詔となったが、仕官を望まず、太宗の貞観初年に辞職して帰り、黄河のほとりの東皐(とうこう)に隠棲した。酒を好み、家の周りには黍を植えて春秋に酒を造り、鴨や雁を飼い、『易経』『老子』『荘子』だけを座右に置き、東皐子(とうこうし)と号して自由な生活を送ったという。 『東皐子集』一巻がある。.

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王縉

王 縉(おう しん、聖暦3年(700年)? - 建中2年(781年))は、唐代の政治家。代宗朝に宰相を務めた。唐代を代表する詩人王維の弟。太原祁県(現在の山西省)の人。字は夏卿。.

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王昌齢

王 昌齢(おう しょうれい、698年−755年)中国・唐代中期の詩人。字は少伯。就任した官職の地名から、王江寧、王竜標とも称せられる。.

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睿宗 (唐)

睿宗(えいそう)は、唐朝の第5代・第8代皇帝。高宗の第8子で、中宗の弟に当たる。.

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神秀

(じんしゅう、606年(大業2年) - 706年(神龍2年))は、汴州陳留尉氏県(開封市尉氏県)出身で俗姓は李。中国禅宗における六祖(北宗としては開祖)。.

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秦叔宝

叔宝(しん しゅくほう、生年不詳 - 638年)は、中国の唐の軍人。姓は秦で、名は瓊。叔宝とは字であり、字をもって通称される。本貫は斉州歴城(現山東省済南市)。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。また後世には尉遅敬徳とともに門神として信仰された。.

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程千里

程 千里(てい せんり、生年不詳- 至徳2載(757年))は唐代玄宗朝の軍人。西域で勲功を重ね、節度使に就任した。安史の乱でも唐側として活躍したが、捕らえられて殺された。.

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程知節

程 知節(てい ちせつ、589年 - 665年2月7日)は、中国の唐の軍人。姓は程で、名は咬金。本貫は済州東阿県。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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穆宗 (唐)

宗(ぼくそう)は、唐朝の第15代皇帝。憲宗の三男。.

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突厥

突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.

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突利可汗

突利可汗(呉音:どちりかがん、漢音:とつりかかん、拼音:Tūlìkĕhàn、602年 - 631年)は、東突厥の小可汗。始畢可汗の嫡子で頡利可汗の甥。突利可汗(テリスカガン:Tölis-qaγan)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は什鉢苾(しゅうはつひつ)という。.

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竇威

竇 威(とう い、生年不詳 - 618年)は、中国の唐の外戚。太穆竇皇后の叔父にあたる。本貫は岐州平陸県。字は文蔚。.

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竇建徳

竇 建徳(とう けんとく)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。.

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第五キ

五 琦(だいご き、Diwu Qi、712年/713年 – 782年9月19日)は、中国唐後期の政治家・財政家。字は禹珪。京兆長安出身。.

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粛宗 (唐)

粛宗(しゅくそう)は、唐朝の第10代皇帝。当初の諱は嗣昇(ししょう)であったが、後に浚(しゅん)、璵(よ)と次々と改名を繰り返し、即位時は亨(きょう)であった。生母の楊氏は楊貴妃とは別人である。.

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紀伝体

紀伝体(きでんたい)は、東アジアの歴史書の書式の一つ。.

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羅士信

羅 士信(ら ししん、生年不詳 - 622年)は、中国の唐の軍人。本貫は斉州歴城(現山東省済南市)。『説唐全伝』などの古典小説中では、羅成(らせい)として登場する。.

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羅希セキ

羅 希奭(ら きせき、生年不詳 - 没年不詳))は唐の官僚。李林甫につき、吉温とともに、様々な疑獄事件で政敵を陥れることで出世した。李林甫の死とともに、楊国忠の命で地方に出され、有名無実の地方官にまで降格させられた。.

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真臘

真臘(ចេនឡា、チャンラ /日本語読み: しんろう)は、初期のクメール人の王国。中国では真臘、ベトナムではChân Lạpとして知られている。.

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烏洛侯

5世紀頃の東夷諸国と烏洛侯の位置。 烏洛侯(うらくこう、拼音:Wūluòhóu)は、中国の北朝時代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区のフルンボイル市あたりに住んでいた遊牧民族。狩猟と農耕も兼業した。唐代は烏羅渾(うらこん、Wūluóhún)、あるいは烏羅護(うらご、Wūluóhù)と表記された。.

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統葉護可汗

統葉護可汗(漢音:とうようこかがん、拼音:Tŏngyèhùkĕhàn、? - 628年)は、西突厥の可汗。射匱可汗の弟。統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は不明。.

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疏勒

紀元前1世紀の西域諸国。 疏勒(呉音:しょろく、漢音:そろく、拼音:Shūlè)は、かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区カシュガル(喀什)市にあたり、タリム盆地の西端に位置する。漢代から唐代にかけてシルクロード交易の要所として栄えた。玄奘の『大唐西域記』では佉沙国と記されている。.

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焉耆

焉耆(呉音:えんぎ、漢音:えんき、拼音:Yānqí)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 バインゴリン・モンゴル自治州 焉耆回族自治県にあたる。玄奘の『大唐西域記』では阿耆尼国(あぎにこく)と記されている。別名イエンチー。 紀元前1世紀の西域諸国と焉耆国の位置(地図右上)。.

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牛仙客

牛仙客(ぎゅう・せんかく、神龍元年(675年)- 天宝元年 (742年))は唐代玄宗朝の軍人・政治家。県の胥吏から節度使になり、玄宗と李林甫の引き立てにより、中央に入って宰相にまで出世した。.

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牛僧孺

牛僧孺(ぎゅう そうじゅ、779年-847年)は、中国の9世紀、唐代の政治家である。.

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四夷の名称 狄(てき)あるいは北狄(ほくてき)は、四夷の一つ。古代中国において北方の中原的都市文化を共有しない遊牧民族を呼んだ呼称である。北方の民族は度々中原を侵略したことから、北方にいた異民族は総じて狄と呼ばれるようになり、北狄は蔑称としての意味合いが強くなった。.

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狄仁傑

仁傑(てき じんけつ、630年(貞観4年) - 700年(久視元年))は、中国唐代の政治家。高宗・中宗・睿宗・武則天に仕えた。唐代で太宗の時代に続いて安定していたといわれる武則天の治世において最も信頼され、長年に渡って宰相を務めた。.

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盧奕

盧 奕(ろ えき、生年不詳 - 天宝14載(755年))は唐代玄宗朝の官僚。五姓の一・范陽盧氏の出身。宰相となった盧懐慎の子。安史の乱に際し、洛陽を守ったが、捕らえられ処刑された。子の盧杞は宰相となり徳宗に専任されたが、「その奸を覚えず」の奸臣として知られる。その一方で嫡孫は賢人として知られ、四代は『唐書』本伝に仔細が見える。.

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盧照鄰

盧 照鄰(ろ しょうりん、637年? - 689年)は中国・唐代初期の詩人。字は升之。王勃・楊炯・駱賓王とともに初唐の四傑と称せられる。.

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登利可汗

登利可汗(とうりかがん、拼音:Dēnglìkĕhàn、? - 741年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。毘伽可汗の次子で、伊然可汗の弟。姓は阿史那氏、名は不明。登利可汗というのは唐から授かった可汗号で、テングリ・カガン(Täŋri Qaγan)を漢字表記したもの。初めは苾伽骨咄禄可汗(ビルゲ・クトゥルグ・カガン)と号した。.

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白居易

白 居易(はく きょい、772年2月28日(大暦7年1月20日) - 846年9月8日(会昌6年8月14日))は、中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。.

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白村江の戦い

白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。.

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百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

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韓愈

韓 愈(かん ゆ、768年(大暦3年) - 824年(長慶4年))は、中国・唐中期を代表する文人・士大夫である。字は退之(たいし)、諡は文公。鄧州河陽(今の河南省孟州市)の人であるが、昌黎(河北省)の出身であると自称した。唐宋八大家の一人。諡によって「韓文公」ともよばれる。.

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韋堅

韋堅(い けん、? - 天宝五年(746年))は、唐代玄宗期の官僚。運輸による功績で玄宗に重用された。李林甫と敵対し、政争に敗れる。配流中に自殺を命じられた上で、殺された。.

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韋皇后 (唐中宗)

韋皇后(いこうごう、? - 唐隆元年6月20日(710年7月21日))は、唐の中宗の皇后。韋玄貞の娘。京兆万年(現在の陝西省西安)出身。しばしば韋后と呼ばれる。 中宗が即位すると、皇后となったが、やがて中宗が廃位され、湖北に流された。それに随行した。夫婦は苦難の日々を送った。二人の仲が良かったという。 神龍元年(705年)、武則天より譲位されて中宗が復位すると、武三思らと結託し、従兄の韋温とともに朝政を掌握した。景雲4年(710年)には自らの即位を意図し、娘の安楽公主とともに中宗を毒殺、温王李重茂(殤帝)を皇帝に擁立した。しかし間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位した。韋后は殺害され、その身分も庶人に落とされた。.

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莫賀咄侯屈利俟毘可汗

莫賀咄侯屈利俟毘可汗(漢音:ばくかとつこうくつりしひかかん、拼音:Mòhèduōhóuqūlìsìpíkĕhàn、? - 630年)は、西突厥の可汗。統葉護可汗の伯父(諸父)。莫賀咄侯屈利俟毘可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。莫賀咄というのは称号(バガトゥル:Baγatur)と思われる。.

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靺鞨

靺鞨(まつかつ、まっかつ、拼音:Mòhé)は、中国の隋唐時代に中国東北部、沿海州に存在した農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎,挹婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝,清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。.

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頡利可汗

頡利可汗(漢音:けつりかがん、拼音:Jiélìkèhán/Jílìkèhán、? - 634年)は、東突厥の可汗。啓民可汗の第三子。始畢可汗、処羅可汗の弟。頡利可汗(イリグ・カガン Ilig-qaγan)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は咄苾(とひつ)という。.

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順宗 (唐)

順宗(じゅんそう)は、唐朝の第13代皇帝。徳宗の長男。.

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顔師古

師古(がん しこ、581年 - 645年)は、中国・初唐の学者である。本貫は、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)、諱は籀、師古は字である。.

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顔真卿

『晩笑堂竹荘畫傳』より 顔真卿(がん しんけい、 709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))は、唐代の政治家、書家。字は清臣。中国史でも屈指の忠臣とされ、また当代随一の学者・芸術家としても知られる。.

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顔杲卿

杲卿(がん こうけい、天授3年(692年) - 至徳元年(756年))は、唐代の官吏・忠臣。字は昕。顔真卿とは5代前の祖先を同じくする。北斉の学者・顔之推の5世の孫である。子に顔泉明、顔季明、顔威明らがいる。.

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袁朗

袁朗(えん ろう、生年不詳 - 627年頃)は、南朝陳から唐にかけての文化人。本貫は雍州長安県。.

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裴寂

裴 寂(はい せき、569年 - 629年)は、隋朝・唐朝の官人。初唐においては建国の功臣の一人とされた。蒲州桑泉県の出身。字は玄真。祖父は裴融。父は絳州刺史の裴瑜。子は、裴法師ら。.

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裴度

裴度 裴 度(はい ど または はい たく、765年 - 839年)は、中国・唐代の政治家で宰相を勤めた。字は中立。.

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裴休

裴休(はい きゅう、791年 - 864年)は、中国・唐中期の政治家。 孟州済源県(河南省済源市)の出身で、本籍地は河東の聞喜県(山西省聞喜県)である。字は公美。浙東観察使裴粛の次男に生まれる。 長慶年間(821年 - 825年)科挙や賢良方正に合格して官僚となり、監察御史や地方の観察使を歴任し、849年に中央に復帰し、851年からは塩鉄転運使として漕米の法を改正し、また税茶の法を創設して財政を建て直し、その功で852年に同中書門下平章事(宰相)となった。宰相が自ら『時政記』を書くことは、彼が最初である。 5年後、宰相のまま、地方に出され、暫くして再び中央に返り咲き、戸部尚書等を経て、その後没した。 彼は、詩文にも長じ、宣宗から真の儒者であると賞されるほどの、儒教官僚であったものの、熱心な仏教徒の家庭に生まれたため、幼少時から肉や葷を食べず、黄檗希運や圭峯宗密と交流し、『裴休拾遺問』などの著作を残している。.

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裴矩

裴矩(はい く、557年 - 627年)は、中国・隋代より初唐代にかけて活躍した功臣。河東郡聞喜県(山西省聞喜県)の出身。字は弘大、敬と諡される。父の裴訥之は、北斉朝に仕えた。.

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裴炎

裴 炎(はい えん、? - 684年)は、中国・唐および武周期の宰相。字を子隆。絳州聞喜県(山西省聞喜県)の人。.

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裴行倹

裴行倹(はい こうけん、619年 - 682年)は、中国・唐初の官人、武将。本貫を絳州聞喜県(山西省聞喜県)とする名族の河東の裴氏を出自とする。字は守約、献と諡される。裴仁基の次子。.

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西戎

四夷の名称 西戎(せいじゅう)あるいは戎(じゅう)および犬戎(けんじゅう)は、四夷の一つ。中国西部に住んでいた遊牧民族で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。.

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馬周

周(ば しゅう、601年 - 648年)は、中国の唐代の政治家。字は賓王。.

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馮立

馮 立(ふう りつ、生年不詳 - 没年不詳)は唐の政治家。同州馮翊(陝西省大茘県)の人。 唐の李建成の幕臣。建成により車騎将軍に取り上げられる。忠義心が厚く、玄武門の変に際しては主人である建成が誅殺され、周囲が逃げ出した際に「生前に恩を受けた者が、難に際してどうして逃げようができるか」と奮戦し、敬君弘を殺害するなどの武功を上げてから「僅かながら太子の恩に報いた」と言い兵を退いたとの逸話がある。 玄武門の変後、太宗が馮立を呼び出し、兄弟の争いを招いた事、そして兵を率いて敬君弘らを殺害したことを問責したが、これに対し当初措計画通り太宗を殺害しておけば変は避けられたと答え、その態度と勇気を賞賀した太宗は罪を許し、逆に側近として取り立てた。 Category:唐代の人物 Category:渭南出身の人物  馮立,同州馮翊人也.有武藝,略涉書記,隱太子建成引為翊■車騎將軍,託以心膂.建成被誅,其左右多逃散,立歎曰:「豈有生受其恩而死逃其難。」於是率兵犯玄武門,苦戰久之,殺屯營將軍敬君弘,謂其徒曰:「微以報太子矣!」遂解兵遁於野。  俄而來請罪,太宗數之曰:「汝在東宮,潛為間構,阻我骨肉,汝罪一也。昨日復出兵來戰,殺傷我將士,汝罪二也。何以逃死。」對曰:「出身事主,期之■命,當職之日,無所顧憚。」因伏地歔欷,悲不自勝。太宗慰勉之。立歸,謂所親曰:「逢莫大之恩,幸而獲濟,終當以死奉答。」未幾,突厥至便橋,立率數百騎與虜戰於咸陽,殺獲甚■。太宗聞而嘉歎,拜廣州都督。前後作牧者,多以黷貨為蠻夷所患,由是數怨叛。立到,不營產業,衣食取給而已。嘗至貪泉,歎曰:「此吳隱之所酌泉也。飲一盃水,何足道哉。吾當汲而為食,豈止一盃耶,安能易吾性乎。」遂畢飲而去。在職數年,甚有惠政,卒於官。 -->.

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駱賓王

駱賓王(らく ひんおう、640年 - 684年?)は唐代中国の詩人松枝茂夫 編 『中国名詩選』中 1984年 岩波文庫 ISBN 978-4003203323 p.214 。。「初唐の四傑」の一人。.

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許遠

許遠(きょえん、景雲3年(709年)- 至徳2載(757年))は唐の政治家。安史の乱に際し、張巡とともに睢陽城防御で活躍したが、捕らえられ後に殺された。.

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許敬宗

許 敬宗(きょ けいそう、592年 - 672年)は、中国の唐の政治家、文学者、歴史家。字は延族。杭州高陽郡新城県(現・浙江省富陽市の西南)の出身。『高祖実録』、『文館詞林』、『西域図志』などの編纂に参与した。.

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高力士

力士(こう りきし、光宅元年(684年) - 宝応元年8月18日(762年8月31日))は、中国唐代の宦官。唐の第6代皇帝玄宗の腹心として仕え、権勢を振るった。.

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高叡

叡(こう えい、534年 - 569年)は、北斉の皇族、趙郡王。小名は須抜。.

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高士廉

士廉(こう しれん、576年 - 647年)は、中国の隋から唐にかけての官人、武将。諱は倹で、字の士廉をもって通称される。本貫は渤海郡蓨県。凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。北斉の清河王高岳の孫にあたる。.

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高宗 (唐)

宗(こうそう)は、唐の第3代皇帝。太宗の第9子。母は唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹の長孫皇后である。.

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高仙芝

仙芝(こう せんし、고선지、Gao Xianzhi、? - 天宝14載(755年))は、高句麗系の唐の軍人。西域で活躍し、タラス河畔の戦いでアッバース朝のイスラム軍と交戦した。.

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高適

適(こう せき、生年不詳 ‐ 765年)は、中国唐代の詩人。字は達夫。諡は忠。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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高昌

昌(こうしょう、拼音:Gāochāng、ウイグル語:Qara-hoja、khocho)は、中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区・トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウィグル語「Qara-hoja」の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)、「火州」、「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。.

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謝偃

謝偃(しゃ えん、生年不詳 - 643年)は、隋から唐初にかけての政治家・文化人。本姓は直勒氏。本貫は衛州衛県。.

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魏徴

魏 徴(ぎ ちょう、580年 - 643年)は、唐の政治家。字は玄成。祖父の魏釗は北周に仕え、父の魏琬は隋に仕えた。子に魏叔玉、魏叔瑜、魏叔琬、魏叔璘、娘(霍王李元軌夫人)などがいる。.

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貞懿独孤皇后

孤皇后(獨孤皇后、どっここうごう、? - 775年6月12日)は、唐の代宗の寵妃。生前には貴妃であったが、死後に皇后を追贈され、貞懿皇后(ていいこうごう)と諡された。.

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賈公彦

賈 公彦(か こうげん、生没年不詳)は、唐の儒家・。唐州永年(現河北省邯鄲市)に生まれる。太常博士を務め、周礼注疏や儀礼注疏の編纂に携わった。.

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賈曾

賈曾(か そう、? - 780年?)は、中国・唐代の詩人。洛陽(河南省)の出身。賈至の父。.

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賀徳仁

賀 徳仁(が とくじん、生没年不詳)は、陳から唐にかけての文学者・政治家。本貫は越州山陰県。.

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賀知章

賀 知章(が ちしょう、659年 - 744年)は、中国唐代の詩人、書家。会稽(浙江省)の人で、字を季真、または維摩という。中国語では贺知章(簡体字)と書く。.

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車鼻可汗

車鼻可汗(呉音:しゃびかがん、漢音:しゃひかかん、拼音:Chēbíkĕhàn、生没年不詳)は、羈縻(きび)政策下の東突厥の可汗。突厥別部の突利部出身。車鼻可汗というのは可汗号で、正しくは乙注車鼻可汗(いつちゅうしゃひカガン、Yǐzhùchēbíkĕhàn)といい、姓は阿史那氏、名は斛勃(こくほつ、Húbó)という。.

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黒歯常之

黒歯 常之(こくし じょうし、? - 689年(永昌元年)11月26日)は、百済の将軍。百済滅亡後には百済復興を掲げて反唐運動を率いた将軍の一人である。だが、復興の果たせないことを悟り、唐に投降し、唐の将軍として主に対突厥戦線で活躍した。.

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黄巣

巣軍の進路 黄巣(こう そう)は、唐末の反乱指導者。874年から10年間、全土を転戦しながら反乱を指揮した。 この一連の大乱を黄巣の名をとって黄巣の乱と呼ぶ。黄巣の乱により全国王朝としての唐は実質的に滅び、以後は各地に割拠する軍閥の中で長安一帯をかろうじて治める一地方政権に転落する。.

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郭子儀

郭子儀(かく しぎ、697年 - 781年)は、中国、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた。客家人。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐〜中唐期を代表する名将。憲宗(在位805年 - 820年)の皇后郭氏は子儀の孫である。.

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郭孝恪

郭 孝恪(かく こうかく、? - 648年)は、中国の唐の軍人。本貫は許州陽翟県。.

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郭虔カン

郭 虔瓘(かく けんかん、生没年不詳)は、斉州歴城の人で唐代の武将。智勇兼備の良将と称され重んじられた。戦術は巧みであったが、政略の才はなかったといわれる。玄宗の初期に西域、漠北の国境を守った。実封一百戸を玄宗より賜った。最終官職は右威衛大将軍。 正史における列伝は下記のとおり。.

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阿史那弥射

阿史那 弥射(呉音:あしな みじゃ、漢音:あしだ びしゃ、拼音:Āshǐnà Míshè、? - 662年)は、西突厥の可汗で、唐の軍人。室點密可汗の五代の孫。.

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阿史那社爾

阿史那 社爾(あしな しゃじ、生年不詳 - 655年)は、突厥の首長。唐に帰順して軍人として活躍した。.

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阿史那骨咄禄

阿史那 骨咄禄(呉音:あしな こちとちろく、漢音:あしだ こつとつろく、拼音:Āshǐnà Gŭduōlù、生没年不詳)は、東突厥の第二可汗国期の初代可汗。頡利可汗の族人。一時、唐によって滅ぼされた東突厥を復興させる(俗に突厥第二可汗国、突厥第二帝国と呼ばれる)。彼の事績は『オルホン碑文』にも刻まれており、クトゥルグ(Qutluγ:“幸得たる者”の意)またはイルティリシュ・カガン(古テュルク語: - İltiriš-qaγan:“国家を糾合した可汗”の意)の名で知られる。史書によっては骨吐禄、骨篤禄とも表記される。.

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阿史那賀魯

阿史那 賀魯(呉音:あしな がろ、漢音:あしだ かろ、拼音:Āshǐnà Hèlŭ、? - 659年)は、西突厥の可汗。室點蜜可汗の五世の孫で、曳歩利設射匱特勤(阿史那劫越)の子。可汗号は沙鉢羅可汗(イシュバラカガン)。.

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阿史那默啜

阿史那 默啜(呉音:あしな もくせち、漢音:あしだ ぼくせつ、拼音:Āshǐnà Mòchuò、? - 716年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。阿史那骨咄禄の弟。『オルホン碑文』におけるカプガンカガン(古テュルク語: - Qapγan-qaγan)にあたる。.

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阿史那歩真

阿史那 歩真(呉音:あしな ぶしん、漢音:あしだ ほしん、拼音:Āshǐnà Bùzhēn、生没年不詳)は、唐の軍人で、西突厥の可汗。阿史那弥射の族兄。.

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阿史那思摩

阿史那 思摩(呉音:あしな しま、漢音:あしだ しば、拼音:Āshǐnà Sīmó、? - 645年)は、羈縻(きび)政策下の東突厥の可汗で、唐の軍人。頡利可汗の族人で、咄六設(官名)の子。唐より国姓である李姓を賜り、李思摩と名乗った。.

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蘇定方

蘇定方(そ ていほう、592年 - 667年)は、中国の唐の軍人。名を烈といい、定方とは字で、字をもって通称される。本貫は冀州武邑県。.

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蘇世長

蘇世長(そせいちょう、生没年不詳)は、中国の唐の政治家。本貫は京兆郡武功県。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。.

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蘇味道

蘇味道(そ みどう、648年 - 705年)は、中国・唐の詩人。趙州欒城(河北省石家荘市欒城県)の出身。 若くから文名が高く、李嶠とともに「蘇李」とうたわれた。突厥(トルコ)族征討の軍に書記として参加し、才能を認められ、則天武后の聖暦の初め(698年頃)には宰相となった。しかし明確な政策を持たず、自ら宰相は決断してはならぬ、ただ模稜(ごまかし)していればよいのだと言ったため、模稜宰相と呼ばれたと言う。また親の墓を作ろうとして人民の墓地を壊したり、宰相らしからぬ行為が多かったため罷免され、武后の政権が倒れるとともに眉州(四川省眉山)刺史に流され、更に益州(四川省成都)に遷される途中で死んだ。.

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閻朝隠

閻朝隠(閻朝隱、えんちょういん、生没年不詳)は、唐の文化人・政治家。字は友倩。本貫は趙州欒城県。.

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薛収

薛収(せつ しゅう、592年 - 624年)は、中国の唐の文学者、政治家。本貫は蒲州汾陰県。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。字は伯褒。.

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薛万均

薛万均(せつ ばんきん、生没年不詳)は、中国の唐の軍人。本貫は雍州咸陽(現在の陝西省咸陽市)。.

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薛万徹

薛 万徹(せつ ばんてつ、生年不詳 - 653年)は、中国の唐の軍人。本貫は雍州咸陽(現在の陝西省咸陽市)。.

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薛仁貴

薛 仁貴(せつ じんき、Xuē Rénguì、614年 - 683年)は、中国の唐の軍人。名を礼といい、仁貴とは字で、字をもって通称される。北魏の薛安都の後裔であり、河東薛氏の出身であった。本貫は絳州龍門県。.

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薛逢

薛逢(せつ ほう、生没年不詳)は、唐の政治家・文化人。字は陶臣。本貫は蒲州河東県。.

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蒋清

蒋 清(しょう せい、生年不詳 - 天宝14載(755年))は唐代玄宗朝の官僚。安史の乱に際し、洛陽を守ったが、捕らえられ処刑された。.

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蓋文達

蓋文達(がい ぶんたつ、578年 - 644年)は、中国の唐の儒学者。本貫は冀州信都県。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。字は芸成。.

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蔡允恭

蔡允恭(さいいんきょう、生没年不詳)は、中国の唐の文学者、政治家。本貫は荊州江陵県。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。.

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鄭世翼

鄭世翼(てい せいよく、生没年不詳)は、唐の文人。本貫は鄭州滎陽県。.

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鄭注

鄭注(てい ちゅう、? - 835年)は、中国・唐代の官僚。本姓は鱼氏で、後に名門の鄭氏を称した。絳州翼城県(山西省翼城県)の出身。.

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蕭ウ

蕭 瑀(しょう う、575年 - 648年)は、中国の隋から唐にかけての政治家。字は時文。凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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蕭穎士

蕭 穎士(しょう えいし、717年 - 768年)は、中国・唐の詩人。蘭陵(山東省嶧県)の人。字は茂挺(もてい)。 梁の鄱陽王蕭恢の7世の孫とされる。蕭旻の子として生まれた。735年(開元23年)の進士で、秘書正学から集賢校理となったが、宰相・李林甫の意に逆らって広陵(江蘇省揚州市)の参軍に左遷された。李林甫の死後は河南府(河南省洛陽市)参軍に任ぜられたが、安禄山が勢力を持つのを見、世の乱れを予想して、嵩(すう)山の太室山にこもった。安禄山の乱のときには河南・南陽などで官軍に加わり、乱の後は金陵(南京)・揚州など江南の地に流寓し、また北へと帰ったが、放浪生活を続けるうち、汝南(河南省)の宿屋で死亡した。 韓愈に先立つ古文運動の開拓者として名高い。今、『蕭茂挺集』一巻が残っている。 子に蕭存があった。.

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蕭銑

蕭 銑(しょう せん)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。後梁(西梁)の宣帝(蕭詧)の曾孫にあたり、自立して梁の皇帝を称したが、唐によって滅ぼされた。.

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長孫皇后

長孫皇后(ちょうそんこうごう、601年 - 636年)は、中国の唐の太宗李世民の皇后。小字は観音婢。本貫は河南郡洛陽。唐の名臣として名高い鮮卑の拓跋を出自に持つ長孫無忌の妹である。.

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長孫無忌

長孫 無忌(ちょうそん むき、生年不詳 - 659年)は、中国の初唐を代表する政治家。唐の太宗の長孫皇后の兄であり、唐朝の外戚に当たる。字は輔機。本貫は河南郡洛陽。凌煙閣二十四功臣の第一位である。.

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長孫順徳

長孫順徳(ちょうそん じゅんとく、生没年不詳)は、唐の軍人・政治家。長孫無忌や長孫皇后の族叔であり、唐朝の外戚に当たる。本貫は河南郡洛陽。.

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鉄勒

鉄勒(漢音:てつろく、拼音:Tiĕlè)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシア北部に分布した突厥以外のテュルク系遊牧民の総称。この中から回鶻(ウイグル)が台頭した。「鉄勒」という表記は勅勒,丁零などと同じく、Türkを音写したものと考えられている。.

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虞世南

虞 世南(ぐ せいなん / Yú Shìnán、558年 - 638年)は、唐代の書家、政治家。字は伯施。越州余姚県(現・浙江省余姚市)の人。初唐の三大家の一人。.

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陳子昂

陳 子昂(ちん しこう、661年(龍朔元年) - 702年(長安2年))は、中国・唐代(初唐)の詩人。梓州射洪(現在の四川省遂寧市射洪県)の人。字は伯玉。.

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陸徳明

徳明(りく とくめい、生年不詳 - 630年)は、中国の唐の儒学者。諱は元朗。徳明とは字であり、字をもって通称される。本貫は蘇州呉県。秦王府十八学士のひとりに挙げられた。.

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柳宗元

柳 宗元(りゅう そうげん、Liú Zōngyuán;大暦8年(773年) - 元和14年11月8日(819年11月28日))は、中国中唐の文学者・政治家。字は子厚(しこう)。本籍地の河東(山西省)から、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。また、その最後の任地にちなみ「柳柳州」と呼ばれることもある。王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せた。散文の分野では、韓愈とともに宋代に連なる古文復興運動を実践し、唐宋八大家の1人に数えられる。.

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柴紹

柴紹(さい しょう、生年不詳 - 638年)は、中国の唐の軍人。字は嗣昇。本貫は晋州臨汾。隋の鉅鹿郡公柴慎の子。妻は唐の高祖李淵の三女平陽公主。凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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李叔良

李叔良(りしゅくりょう、? - 621年)は、中国の唐の宗室。隋の上儀同三司の李禕(李虎の六男)の子。唐の高祖李淵の従弟にあたる。.

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李孝

李孝(り こう、? - 664年)は、唐の高宗の次男。母は鄭氏。中宗と睿宗の異母兄である。 650年(永徽元年)、許王に封ぜられた。652年(永徽3年)、并州都督に任ぜられた。658年(顕慶3年)、遂州刺史となった。664年(麟徳元年)、世を去ると、益州大都督の位を追贈された。諡を悼といった。 神龍初年、原王に追封され、司徒・益州大都督の位を追贈された。.

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李孝基

李 孝基(り こうき、? - 619年)は、中国の唐の宗室。北周の梁州刺史の李璋(李虎の四男)の子。唐の高祖李淵の従弟にあたる。.

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李孝恭

李孝恭(り こうきょう、591年 - 640年)は、中国の唐の宗室。西平懐王李安の子。祖父は李蔚。唐の高祖李淵の従子にあたる。唐初に中国の南方を経略する主将をつとめ、凌煙閣二十四功臣の第二位に挙げられた。.

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李宝臣

李 宝臣(り ほうしん、718年 - 781年)は、唐代の藩鎮、河朔三鎮の一つ。范陽(現在の河北省涿州市)の人。 元の名は張忠志で、安禄山の部将であった。後に禄山の仮子となって安忠志と改名している。安史の乱では最初唐軍と対峙するも、安禄山の死後、同じく安禄山の部将であった李懐仙、田承嗣と共に投降。恒州成徳節度使に任じられる。その際、朝廷から李宝臣の名を賜り、改名している。 恒州、趙州、深州、定州、易州、冀州を支配し、後に滄州も得た。 幽州盧龍節度使に任じられた李懐仙、魏博節度使に任じられた田承嗣と共に地方勢力として割拠し、河朔三鎮を形成することとなる。 Category:唐代の人物 Category:718年生 Category:781年没.

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李宗倹

李 宗倹(り そうけん、生没年不詳)は、唐の皇族。第14代皇帝文宗の子である。 832年、文宗は長男の李永を立太子し、837年には李宗倹を蒋王に封じた。没年等は伝わっていない。.

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李寧

李寧(り・ねい、李宁、Li Ning、男性、1963年9月8日 - )は、中国の元体操選手、実業家。現役時代は「体操王子」として親しまれ国民的英雄だった。その後李寧有限公司を立ち上げ、現在は会長を務める。広西チワン族自治区の柳州市出身で、中国最大の少数民族である壮族に属する。.

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李密 (隋)

李 密(り みつ、582年(開皇2年) - 618年(武徳元年))は、中国の隋末に割拠した群雄の一人である。 遼東郡襄平県の出身。字は玄邃、法主。曽祖父は西魏の柱国の李弼、祖父は北周の邢国公の李曜、隋の蒲山郡公の李寛が父である。つまり、武川鎮軍閥中の名家の一つである李氏を出自とする。 若くして大人の風があったとされる。煬帝に疎まれて家に戻った後、黄牛の背で、その角に『漢書』の項羽伝を架けて読んだという故事が伝えられる。 613年(大業9年)に反乱を起こした楊玄感と交流があり、その乱に合流した。反乱が失敗に終わると、名を変えて民間に隠れたが、翟譲たちが東郡(河南省滑県)で反乱を起こすと、再び表舞台に現れて、州県を奪取した。617年(義寧元年)、興洛倉(河南省鞏県)を破り、貯蔵物資を民間に散財し、そこに拠って魏公を名乗り、永平と改元した。翟譲を廃して実権を掌握し、一時的には、本拠とする河南はもとより、山東省から江蘇省までを勢力下に収めた。 618年(義寧2年)、宇文化及が煬帝を殺害して秦王を擁立して江都に拠り、洛陽では王世充らによって恭帝侗が擁立され、長安に拠る李淵が恭帝侑の譲りを受けて唐を建国すると、それまで自ら尊号を名乗る事も隋朝に従う事も拒否してきた李密は一転して恭帝侗に恭順して太尉・尚書令・東南道大行台・行軍元帥・魏公を授けられる。これは、李淵や宇文化及に対抗するために自らも恭帝侗からの禅譲による新国家建国を目指したものと考えられている。だが、同じく禅譲を狙っていた王世充との会戦に敗れ、長安に拠る李淵のもとに降った。 唐朝からは光禄卿、邢国公を授けられたが、最期は、唐朝への謀反を誣告され、斬られた。.

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李寛

李寛(り かん)は中国史の人物。.

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李上金

李上金(り じょうきん、? - 690年)は、唐の高宗の三男である。母親は楊氏。中宗と睿宗の異母兄にあたる。 高宗が即位すると、上金は杞王に封ぜられた。652年(永徽3年)、益州大都督を遙領した。666年(乾封元年)、寿州刺史に任ぜられ、また漉州刺史を務めた。しかし武后に憎まれて官位と封号を奪われ、澧州に流された。 682年(永隆2年)、武后は上金と鄱陽王李素節を朝政に参加させるように上表した。しかしのちに上金を沔州刺史に、素節を岳州刺史として、彼らの朝政への関与を再び妨げた。684年(嗣聖元年)、高宗が亡くなると喪に服した。同684年(文明元年)に上金は畢王に封ぜられ、さらに沢王に改封され、蘇州刺史に任ぜられた。685年(垂拱元年)、陳州刺史に転じた。689年(永昌元年)、太子左衛率に任ぜられ、随州刺史となった。 690年(載初元年)、武承嗣が上金と素節に謀反の企みありと誣告し、2人を洛陽に召還して御史台に送った。素節が南龍門駅で殺害されると、上金は恐れて自殺した。上金の死後に、7人の子は顕州に流され、そのうち義珍・義玫・義璋・義環・義瑾・義璲は現地で死に、ただ義珣のみが生き残った。中宗が復位した後、上金の官爵は復され、義珣は沢王の位を継いだ。.

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李希烈

李希烈(り きれつ)は中唐期の河北平盧軍出身の軍人。唐に対して反乱を起こした。.

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李建成

李 建成(り けんせい、開皇9年(589年) - 武徳9年6月4日(626年7月2日))は、唐の初代皇帝高祖李淵の長子。高祖の即位に伴い皇太子に立てられたが、玄武門の変にて弟の李元吉とともに次弟の李世民(太宗)に殺された。.

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李弘 (唐)

李 弘(り こう、651年か652年? - 675年)は、中国・唐の皇太子。父は3代皇帝高宗、母は武照(武則天)。はじめ代王。義宗の廟号と孝敬皇帝の諡号を贈られた。同母弟に李賢(章懐太子)、4代皇帝中宗、5代皇帝睿宗らがいる。.

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李徳裕

李 徳裕(り とくゆう、787年 - 849年)は、中国・唐代の政治家である。趙郡(河北省寧晋県)を本貫とする、当代屈指の名門・李氏の出身。字は文饒。憲宗朝の宰相であった李吉甫の子である。.

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李忠 (唐)

李忠(り ちゅう、643年 - 664年)は、唐の高宗の長男で、最初の皇太子である。母親は劉氏。字は正本。 646年(貞観20年)、陳王に封ぜられた。その後650年(永徽元年)、雍州牧に任ぜられた。652年(永徽3年)に皇太子に立てられたが、656年(顕慶元年)に武則天が高宗の皇后となると、太子位を廃されて梁王に降格され、梁州都督に左遷され、次いで房州刺史に左遷された。 この頃には李忠は殺害されることを恐れ、常に女装していたという。660年(顕慶5年)、庶民に落とされ、黔州に流されて、以前に伯父李承乾(父高宗の兄で同じく廃太子)が幽閉された旧居に軟禁された。664年(麟徳元年)、黔州で死を賜った。享年22。 神龍初年、燕王に追封され、太尉・揚州大都督の位を追贈された。.

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李係

李係(りけい、? - 762年)は、唐の皇族。第10代皇帝・粛宗の子で第11代皇帝・代宗の弟。757年に趙王、後に南陽王に封じられた。当時は安史の乱が起こっており、759年に関東出兵を命じられて天兵馬元帥・越王に封じられた。 762年、父の粛宗が重病になると、張皇后は宦官の李輔国を殺害しようと計画し、李係もこれに応じて200人の私兵を集めた。しかし李輔国に事前に発覚し、皇后と共に殺害された。.

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李チョウ

李 憕(り ちょう、? - 天宝14載(755年))は、唐の玄宗の時代の官僚。安史の乱に際し、洛陽を守ったが、捕らえられ処刑された。.

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李バク

李 邈(り ばく)は中国の人名。.

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李ヨウ (唐)

李思訓碑』(部分) 李邕(り よう、678年 - 747年)は、中国唐代の書家。広陵郡江都県(現在の江蘇省揚州市江都区)の人。字は泰和。『文選』の注釈で有名な李善の子で、李岐(伯道)、李穎、李暁の父である。.

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李リン

李璘(り りん、? - 757年)は、唐の皇族。 第9代皇帝である玄宗の16子で第10代皇帝粛宗の異母弟。母は郭順義。生母は幼時に死去したため、異母兄の粛宗に養育された。容貌が醜く斜視だったが、聡明で学問好きで、開元13年(741年)、永王に封じられる。宮中で育ったため、人事に疎かった。 安史の乱が起こると、天宝15載(757年)、玄宗に命じられ、江南・山南・嶺南などの4道節度使兼江陵大都督に任命され、江陵に赴任する。 江陵には、江南からの租賦が充満しており、数万の募兵を集め、永王は独占し、半独立した政権を築く。さらに、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗、蔡駉の進言に従い、江南に自立し、唐王朝から次第に離脱を図るようになった。霊武にいた兄の粛宗は、すでに即位しており、この報告を聞き、永王に勅使を派遣して父の玄宗に謁見することを命じたが、永王は勅命を聞かなかった。永王の子である襄城王偒が勇敢で力があったため、軍を握った。襄城王偒は反乱を考え、金陵を奪うように勧めたと伝えられる。永王は5,000人の兵を率い、季広琛、渾惟明、高仙琦を将に任じた。 永王の長史であった李峴は、病気を理由として辞職し、粛宗のもとに赴いた。粛宗は、高適を、彼とともに永王の件を謀らせる。高適は情勢を分析し、永王が必ず敗北すると語った。粛宗は、高適を淮南節度使、来瑱を淮南西道節度使に任命し、江東節度使である韋陟ともに対処を命じる。 独断で兵を率いて、長江に沿って東に赴いた永王を呉郡太守兼江南東路采訪使である李希言が書面でとがめると、永王は渾惟明を派遣して、李希言のいる呉郡を攻撃させる。また、武将の季広琛に命じて、広陵を攻撃した。渾惟明は、李希言に命じられ丹陽を守った元景曜と閻敬之を破る。閻敬之は戦死し、元景曜は降伏した。季広琛も広陵長史・淮南采訪使の李成式に命じられて防戦を行った李承慶を降伏させる。高適、来瑱、韋陟は軍を安陸に集め、永王の討伐を誓う。 757年、粛宗は宦官の啖廷瑤を派遣して、李成式と謀らせて河北招討判官の李銑と兵を合わせて、永王に向かわせる。永王は対岸に軍を並べる。李成式は判官の裴茂に旗を長大に並べさせたため、永王は恐れるに至る。そのため、季広琛、渾惟明、馮季康、康謙は逃亡してしまい、永王は、制止することはできなかった。李成式の軍は篝火も盛大に並べたため、永王の軍は篝火を焚く。永王はこれを見て、唐軍が河を渡ったと思い、家族や配下とともに逃亡する。夜明けとともに、唐軍が河を渡っていないことが判明したため、軍を率い、船に乗って晋陵へと逃亡する。 唐軍の間諜が永王の逃亡を報告し、李成式の将、趙侃が河を渡ったため、永王は息子の襄城王偒と武将の高仙琦に命じて攻撃させる。趙侃は迎え撃ち、李銑が援軍に来て、襄城王偒は矢を受け、軍は壊滅する。永王は高仙琦ら残兵とともに、南方に逃れる。大庾嶺にて、江西采訪使・皇甫侁が遣わした兵に敗れ、襄城王偒は戦死し、永王は戦いの最中に矢に当たったために捕らえられた。このとき兄の粛宗は永王を避難先の蜀に送るように命じたが、皇甫侁自身の判断で永王はそのまま斬られた。薛鏐らも皆、殺された。 同時に永王の幕僚だった李白も連坐されたが、後に解放された。 皇甫先は永王の家族を蜀に帰したが、独断で永王を殺したために、粛宗に罷免された。.

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李嗣業

李 嗣業(り しぎょう、生年不詳 - 乾元2年(759年))は唐の武将。西域で活躍し、安史の乱において大きな功績を上げたが、戦死した。字も嗣業。.

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李イン

李愔(り いん、621年 - 667年)は、中国の唐の太宗李世民の六男。蜀王に立てられた。.

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李エン (廬江王)

李瑗(りえん、587年 - 627年)は、中国の唐の宗室。隋の柱国・備身将軍李悊の子。唐の高祖李淵の従兄の子にあたる。字は徳圭。.

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李エン (棣王)

李琰(りえん、生没年不詳)は、唐の第6代皇帝玄宗の四男。.

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李コン

李惲(り こん、生年不詳 - 674年)は、中国の唐の太宗李世民の七男。蒋王に立てられた。.

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李コウ (唐の文人)

李 翺(り こう、772年 – 841年)は、唐代中国の文人。字は習之。西涼の武昭王李暠の子孫とも、北魏の尚書左僕射であった李沖の10世の孫とも伝えられる。.

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李傑

李 傑(り けつ)は、中華圏の人物の名前だが、同姓同名の著名人が幾人かいる。.

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李商隠

right 李商隠(り しょういん、812年(元和7年) - 858年(大中12年)。ただし、生年は813年の説あり)は、晩唐の官僚政治家で、時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚と呼ばれる。原籍は懐州河内(現・河南省沁陽市)だが、滎陽(現・河南省滎陽市)で生まれた。官僚としては不遇だったが、その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体の祖となった。似たような婉約な詩風を特徴とする同時代の温庭筠と共に温李と呼ばれ、また杜牧と共に小李杜とも称される。.

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李元名

李元名(り げんめい、生年不詳 - 689年)は、中国の唐の高祖李淵の十八男。母は小楊嬪。.

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李元吉

李 元吉(り げんきつ、仁寿3年(603年) - 武徳9年6月4日(626年7月2日))は、中国唐の高祖李淵の四男。高祖の即位に伴い斉王に立てられ、太原を守ったが劉武周の侵攻を受けて失陥した。玄武門の変にて長兄の李建成とともに次兄の李世民(太宗)に殺された。.

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李元嬰

李元嬰(り げんえい、生年不詳 - 684年)は、中国の唐の高祖李淵の二十二男で、末子にあたる。滕王に立てられた。.

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李元亨

李元亨(り げんきょう、生年不詳 - 632年)は、中国の唐の高祖李淵の八男。母は尹徳妃。620年、酆王に封ぜられた。 628年、散騎常侍・金州刺史に任じられた。兄の太宗は、彼が幼いのを思いやって、しばしば使者を派遣して状況を尋ねさせ、金の杯を賜って喜ばせた。632年、世を去ると、子がなく、封国は除かれた。.

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李元嘉

李 元嘉(り げんか、619年 - 688年)は、中国の唐の高祖李淵の十一男。韓王に立てられた。字は元嘉。.

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李元則

李元則(り げんそく、生年不詳 - 651年)は、中国の唐の高祖李淵の十二男。母は王才人。字は彝。 621年、荊王に封じられた。633年、豫州刺史に任じられた。636年、彭王に改封され、遂州都督に任ぜられた。間もなく冠服が位階を越えて僭越であるとして免官された。643年、澧州刺史に任じられ、態度を改めて職務に精励し、名声をえた。651年に世を去ると、司徒・荊州大都督の位を追贈され、献陵に陪葬された。諡を思といった。高宗は望春宮に登って、彼の葬列が過ぎるのを望み、はげしく慟哭したという。 子がなく、霍王李元軌の子の李絢が後を継ぎ、龍朔年間に南昌王に立てられた。.

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李元礼

李 元礼(り げんれい、生年不詳 - 672年)は、中国の唐の高祖李淵の十男。徐王に立てられた。.

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李元祥

李元祥(り げんしょう、生年不詳 - 680年)は、中国の唐の高祖李淵の二十男。母は楊嬪。 631年、許王に封ぜられた。637年、江王に徙封され、蘇州刺史に任ぜられ、実封八百戸を受けた。649年、実封は千戸まで加増された。高宗のとき、金州・鄜州・鄭州の刺史を歴任した。性格は貪欲で、金宝を蒐集し、利殖に飽きることがなかった。ときに滕王李元嬰・蒋王李惲・虢王李鳳らはみな貪欲暴虐であって、王府の官にある者はかれらを嫌って行きたがらず、「儋州・崖州・振州・白州に流されたとしても、江王・滕王・蒋王・虢王に仕えたくはない」と言っていた。元祥の体はたいへん大きく、腰帯は十人分の長さで、食事は数人分を平らげた。当時韓王李元嘉・虢王李鳳・魏王李泰もまた体が大きかったが、元祥には及ばなかった。また元祥は片眼がすがめであったと伝えられる。680年、世を去ると、司徒・并州大都督の位を追贈され、献陵に陪葬された。諡を安といった。 子に李晫・李晈・李昕・李晧・李炅・李晃・李暹の7子がいた。李晫は永嘉王に封ぜられ、復州刺史となったが、禽獣の行いがあったとして、処刑された。李晈は武陽王に封ぜられた。李昕は任国公に封ぜられた。李晧は義興郡公に封ぜられた。李炅は広平郡公に封ぜられた。李晃は鉅鹿郡公に封ぜられた。.

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李元裕

李元裕(り げんゆう、生年不詳 - 665年)は、中国の唐の高祖李淵の十七男。母は崔嬪。 631年、鄶王に封じられた。637年、鄧王に改封され、実封800戸を受けた。鄧州・梁州・黄州の刺史を歴任した。学問を好み、論理学をよく談じ、典籤の盧照鄰と親しい付き合いをした。649年、実封1200戸まで加増された。高宗のとき、寿州・襄州刺史を経て、兗州都督となった。665年、世を去ると、司徒・益州大都督の位を追贈され、献陵に陪葬された。諡を康といった。 子がなく、江王李元祥の子の広平公李炅が後を継いだ。.

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李元軌

李 元軌(り げんき、生年不詳 - 688年)は、中国の唐の高祖李淵の十四男。霍王に立てられた。鄭国公魏徴の娘を妻に迎えた。李緒・李純・李綽・李綱・李絢・李繹の父。.

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李元暁

李元暁(り げんぎょう、生年不詳 - 676年)は、中国の唐の高祖李淵の二十一男。母は魯才人。 631年、密王に封じられた。635年、虢州刺史に任じられた。640年、実封800戸を受けた。649年、実封千戸まで加増され、沢州刺史に転じた。653年、宣州刺史に任ぜられた。のちに徐州刺史に転じた。676年、世を去ると、司徒・揚州都督の位を追贈され、献陵に陪葬された。諡を貞といった。 子の南安王李穎が後を継いだ。.

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李元昌

李元昌(り げんしょう、生年不詳 - 643年)は、中国の唐の高祖李淵の七男。漢王に立てられた。.

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李元方

李元方(り げんほう、生年不詳 - 629年)は、中国の唐の高祖李淵の九男。母は張氏。621年、周王に封じられた。628年、散騎常侍に任じられた。629年、世を去ると、左光禄大夫の位を追贈された。子がなく、封国は除かれた。.

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李元懿

李 元懿(り げんい、生年不詳 - 673年)は、中国の唐の高祖李淵の十三男。母は張宝林。 621年、滕王に封ぜられた。633年、兗州刺史に任ぜられ、実封六百戸を受けた。636年、鄭王に改封された。鄭州と潞州の刺史を歴任した。649年、実封千戸まで加増された。総章年間に絳州刺史となった。何度か大きな疑獄を裁き、処置は公平で適切だったので、高宗から褒賞を賜られた。673年に世を去ると、司徒・荊州大都督の位を追贈され、献陵に陪葬された。諡を恵といった。 10子があり、長子の李璥が鄭王を継いで、鄂州刺史となった。.

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李元慶

李元慶(り げんけい、生年不詳 - 664年)は、中国の唐の高祖李淵の十六男。道王に立てられた。.

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李元景

李元景(り げんけい、生年不詳 - 653年)は、中国の唐の高祖李淵の六男。荊王に立てられた。.

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李光弼

李光弼の肖像 李 光弼(り こうひつ、708年 - 764年)は、唐代の部将。契丹族出身。安史の乱の鎮圧に多大な貢献をし、郭子儀と「李郭」と並び賞賛された。.

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李勣

李 勣(り せき 594年? - 669年)は中国唐代の軍人。字は懋功(ぼうこう)。元の姓は徐、元の諱は世勣で、唐より国姓の李を授けられ、後に太宗李世民を避諱して李勣と改めた。李靖と共に初唐の名将とされ、高句麗征服など数々の功績を挙げた。.

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李囂

李囂(り きょう、生年不詳 - 632年)は、中国の唐の太宗李世民の十一男。母は燕妃。631年、江王に立てられた。632年、世を去った。諡は殤。後嗣がなく、封国は除かれた。.

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李玄霸

李 玄覇(り・げんは/げんぱ、599年 - 614年)は、中国の唐の高祖李淵の三男。生母は竇皇后。字は大徳。 幼いころから聡明で能弁であった。614年(大業10年)に16歳で死去した。618年、衛王に追封され、秦州総管・司空の位を追贈された。諡は懐といった。 子がなかったので、甥の李泰が宜都王となってその祭祀を継いだ。.

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李神符

李神符(りしんぷ、579年 - 651年)は、中国の唐の宗室。鄭孝王李亮(李虎の八男)の子。唐の高祖李淵の従弟にあたる。字は神符。.

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李神通

李神通(りしんつう、577年 - 630年)は、中国の唐の宗室。鄭孝王李亮(李虎の八男)の子。唐の高祖李淵の従弟にあたる。諱は寿、字は神通。李神符の兄。.

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李祐

李祐(りゆう、生年不詳 - 643年)は、中国の唐の太宗李世民の五男。斉王に立てられたが、乱を起こして自殺させられた。字は賛。.

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李福

李 福(り ふく)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての政治家。字は孫徳。父は豪族の李権(伯豫)。子は李驤。孫は李寿。益州梓潼郡涪県の人。.

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李簡 (唐)

李簡(り かん、生年不詳 - 631年)は、中国の唐の太宗李世民の十二男。631年、代王に立てられ、その年のうちに世を去った。後嗣がなく、封国は除かれた。.

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李素節

李素節(り そせつ、648年 - 690年)は、唐の高宗の四男。母は蕭淑妃。中宗と睿宗の異母兄にあたる。 651年(永徽2年)、雍王に封ぜられ、まもなく雍州牧に任ぜられた。徐斉聃に師事して学問を受け、古い詩や賦を暗誦した。勉学にまじめにいそしんだので、高宗に愛された。のち岐州刺史に転じ、郇王に改封された。しかし母の蕭淑妃が武則天と争って死ぬと、素節は申州刺史に流された。 666年(乾封元年)、素節は病のため入朝しなくてよいとする詔が下った。素節は実は病ではなく、『忠孝論』を著して自分の考えを述べた。倉曹参軍の張柬之がこの『忠孝論』を献上すると、武則天は不愉快に思い、素節を収賄事件に連座させて鄱陽王に降格し、袁州に身柄を移した。677年(儀鳳2年)、素節は終身禁錮とされ、岳州に移された。680年(永隆元年)、岳州刺史に転じ、のちに葛王に改封された。武則天が称制すると、許王に進封され、舒州刺史となった。 690年(載初元年)、異母兄の沢王李上金とともに逮捕され、洛陽の南の龍門駅で縊り殺された後、庶人の礼で葬られた。 子の李璟・李瑛・李琪・李琬・李瓚・李瑒・李瑗・李琛・李璡ら9人は処刑されたが、李琳・李瓘・李璆・李欽古らは幼かったので、雷州に流されて幽閉された。 中宗が復位すると、素節は生前にさかのぼって許王の封を回復し、開府儀同三司・許州刺史の位を追贈され、乾陵に陪葬された。李瓘が許王の位を継ぎ、実封400戸を受けた。.

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李綱

李 綱(り こう、1085年 - 1140年)は中国・南宋の宰相。字は伯紀。.

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李義府

李義府(り ぎふ、614年 - 666年)は、中国・隋末から唐初にかけての政治家。河北(瀛州饒陽県)の人。.

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李瑁

李瑁(り ぼう、? - 大暦10年(775年))は、唐の玄宗の息子。武恵妃の子で、寿王に封じられた。太子に立てる運動が行われたが、立てられることはなかった。また、楊貴妃を妃としていたが、父に奪われたことで知られる。.

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李益

李益(り えき、748年 - 827年?)は、中国・唐の詩人。字は君虞(くんぐ)。鄭州の人物であるが、祖籍は隴西狄道(甘粛省臨洮県)。 大暦4年(769年)の進士で、鄭県(陝西省渭南市華州区)の尉となったが、昇進の遅いのに不満を抱いて辞職し、河北の地方を遊歴、幽州(北京)・邠寧(甘粛省東部)節度使の幕僚となった。その文名が憲宗に聞こえ、秘書少監・集賢殿学士に任ぜられ、傲慢な態度のために一時降職されたが、侍御史・太子賓客・右散騎常侍を歴任、礼部尚書に至った。 疑い深い性格で、妻や妾の部屋にはいつも鍵をかけ、戸口に灰を撒いて不義を防いだりしたため、「妬癡(とち)尚書李十郎」と呼ばれたという。 大歴十才子の一人に数えられ、『李君虞詩集』2巻が残っている。.

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李白

李 白(り はく、、、701年(長安元年) - 762年10月22日(宝応元年9月30日))は、中国の盛唐の時代の詩人である。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世『詩仙』と称される。.

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李百薬

李 百薬(り ひゃくやく、565年 - 648年)は、唐の官僚・歴史家。字は重規。本貫は定州安平県(現在の河北省衡水市安平県)。.

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李適之

李 適之(り てきし、生年不詳 - 天宝5載、746年)は唐代玄宗朝の政治家。皇族として生まれ、宰相になったが、李林甫に嵌められて失脚し、追いつめられ、自殺した。.

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李道玄

李道玄(りどうげん、604年 - 622年)は、中国の唐の宗室。河南王李贄(李虎の五男の雍王李絵の子)の子。唐の高祖李淵の従兄の子にあたる。.

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李華

李華(り か、715年? - 766年)は、中国・唐の詩人。趙州賛皇(河北省賛皇県)出身。字は遐叔(かしゅく)。 開元23年(715年)の進士。天宝11年(752年)には監察御史となったが、剛直な性格で、権臣・楊国忠に逆らい、右補闕に左遷された。安禄山の乱のとき、叛乱軍の占領地帯にいた母を救い出そうとして捕らえられ、鳳閣舎人の職を与えられたため、鎮定後には杭州(浙江省)司戸参軍に左遷されたが、節義を穢したことを深く後悔し、職を捨てて江南に引きこもった。その後、左補闕・司封員外郎として召されたが、辞退し、一時は江南観察使の幕下に入ったが、病気のため辞職して、山陽(江蘇省淮安)に隠棲、農耕に従事して世を終えた。蕭穎士の親友で、散文の名手として知られる。.

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李靖

李 靖(り せい、、 571年 - 649年)は、中国唐代に太宗に仕えた軍人・政治家。李勣とともに初唐の名将として知られ、突厥征伐などで戦功を挙げた。字は薬師。衛公に封じられた。李靖と太宗の対話は『李衛公問対』という書物にまとめられ、兵法書として高い評価を受けている。.

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李裕

李 裕(り ゆう、? - 天祐2年2月9日(905年3月17日))は、中国唐の皇族。第22代皇帝昭宗の長男。母は何氏。唐末の混乱期に皇帝に即位する(在位:900年12月4日 - 901年1月24日。ただし、李裕の帝位は一時的なものであったため、正史では歴代皇帝に数えられていない)。最後の皇帝哀宗の長兄・同母兄である。 乾寧4年(897年)2月に皇太子となる。光化3年(900年)11月に一部の宦官勢力のクーデターによって昭宗が廃位され、皇太子李裕が新皇帝に即位する。しかし、翌天復元年(901年)正月に反対勢力の宦官らが蜂起して、昭宗が復位した。李裕は退位させられ、皇太子の座にも戻ることなく、徳王に降格された。 やがて、天祐2年(905年)2月の戊戌の日に、父を殺害した朱全忠に招かれた李裕は、弟である棣王の李祤や李禊・李禋・李禕・李祕・李祺・李禛・李祥らと共に、洛陽苑内にて偽りの宴会の最中に、朱全忠が遣わした刺客の手によって絞め殺された。彼らの遺体は付近の九曲池に投げ込まれたという。 ゆう ゆう Category:廃嫡された人物 Category:暗殺された人物 Category:9世紀生 Category:905年没.

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李貞

李貞(り てい、627年 - 688年9月11日)は、中国の唐の太宗李世民の八男。越王に立てられたが、乱を起こして失敗し、自殺した。.

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李賢 (唐)

李賢(り けん、永徽5年(654年) - 文明元年(684年))は、中国・唐の皇太子。高宗の六男で、母は武則天。字は明允。諡号は章懐太子(しょうかいたいし)。中宗、睿宗の同母兄である。.

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李鳳

李鳳(り ほう、622年 - 674年12月29日)は、中国の唐の高祖李淵の十五男。字は季成。虢王に立てられた。.

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李賀

李 賀(り が、791年 - 817年。貞元7年 - 元和12年)は、中国中唐期の詩人。字は長吉。官職名から李奉礼、出身地から李昌谷とも呼ばれる。昌谷(現・河南省洛陽市宜陽県三郷鎮)の人。その詩は伝統にとらわれずはなはだ幻想的で、鬼才と評された。.

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李軌

李軌(り き)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。.

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李輔国

李輔国(李輔國、り ほこく、704年 - 762年)は唐代粛宗の時代に専権をふるった宦官。本名は静忠、後に護国と賜名され、更に輔国と改名している。 元来は宦官である高力士の僕役として宮廷に入り、40歳以降になり閑厩を掌握、後に太子李亨に入侍した。安史の乱の際に玄宗が蜀に逃亡した際、李静忠は太子に随い馬嵬駅(現在の陝西省興平)へと逃れ、太子に対し楊国忠の殺害を進言し、唐朝の復興に尽力した。太子が霊武(現在の寧夏回族自治区霊武)で即位すると、李静忠はその功績から元帥府行軍司馬に任じられ兵権を掌握、そして名も輔国と改めた。 安史の乱が終結し粛宗に随い長安に戻った李輔国は郕国公に封じられる。この時期李輔国は察事庁子を設置し、官人の活動を監視するようになった。まもなく玄宗が長安に戻り太上皇となったが、玄宗復位を恐れた李輔国は玄宗に対し西内太極宮に移ることを迫り、また玄宗が親信していた高力士らを免官にしている。 宝応元年(762年)、玄宗が崩御すると、粛宗もまた病床につくこととなる。この事態に張皇后は、太子の李豫(代宗)の殺害と越王李係の擁立を画策する。これに対し李輔国は、太子豫を即位させ、張皇后と李係を殺害する。このようにして権力基盤を不動にした李輔国は、その言動に傲慢さが表れ、これが代宗の不興を買い、禁軍の一部を掌握した程元振によるクーデターにより失脚、後に刺客により殺害されている。 Category:唐代の人物 Category:中国の宦官 Category:暗殺された人物 Category:704年生 Category:762年没.

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李霊キ

李 霊夔(り れいき、生年不詳 - 688年)は、中国の唐の高祖李淵の十九男。母は宇文昭儀。 学問を好み、草書・隷書をよくし、音律に通じて、若くして名声があった。同母兄の韓王李元嘉と特に親しかった。631年、魏王に封ぜられた。636年、燕王に改封され、実封八百戸を受け、幽州都督に任じられた。640年、魯王に徙封され、兗州都督に転じた。649年、実封は千戸まで加増された。655年、隆州刺史に転じた。のちに絳州・滑州・定州の刺史や太子太師を歴任した。685年、邢州刺史に転じた。688年、越王李貞らとともに起兵を謀り、事が洩れて捕らえられた。振州に流され、自殺した。 子に李詵・李藹がいた。李詵は、清河王となったが、早逝した。李藹は范陽王となり、越王李貞の乱が失敗することを察知し、その陰謀を告発する側にまわって、死を免れた。右散騎常侍などをつとめたが、酷吏によって殺害された。神龍初年、李霊夔の父子は爵位を生前にさかのぼって回復され、李藹の子の李道堅が後を継いだ。.

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李重俊

李重俊(り じゅうしゅん、? - 707年)は、中国の唐の中宗李顕の三男。 698年、義興郡王に封じられたのを皮切に、左衛大将軍に昇進し、揚州大都督を兼任するようになった。706年秋には、皇太子として立てられた。しかし韋后の実子でなかったため、韋后の猜忌心を生むことになった。また後に安楽公主が皇太女の地位を狙うようになると、自身の地位に危機感を抱いた李重俊は、707年7月に左羽林大将軍李多祚・右羽林将軍李思沖・李承況・独孤禕之・沙吒忠義らと結びクーデターを計画、韋后をはじめ武三思・武崇訓父子、安楽公主やを殺害しようと計画した。しかし実際に挙兵すると、軍勢は玄武門で宮殿への侵入を阻止され、李多祚・李承況・独孤禕之・沙吒忠義などが戦死し、集団は潰走した。 クーデターに失敗した李重俊は、わずかな部下を引き連れ終南山へと逃亡したが、中宗の命を受け追撃した趙思慎により殺害された。 睿宗が即位すると、節愍太子と追諡された。 Category:唐の中宗の子女 しゆうしゆん Category:7世紀生 Category:707年没.

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李重福

李重福(り じゅうふく、680年 - 710年)は、唐の皇族。第4代皇帝中宗の庶長子。生母は不詳。爵位は譙王。.

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李重潤

李 重潤(り じゅうじゅん、683年 - 701年)は、中国の唐の中宗李顕の嫡子(次男)。初名を李重照と称したが、武則天の諱を忌諱して李重潤と改名した。 中宗と韋皇后の間に生まれ、誕生直後に皇太孫に封じられた。しかし中宗が廃位され、房州に流されると、李重潤も皇太子を廃された。聖暦年間に中宗が皇太子に復位すると、李重潤は邵王に封じられている。701年(大足元年)、永泰郡主李仙蕙、魏王武延基とともに張易之、張昌宗に関し謀議を行ったとして武則天により死を賜った。 706年に中宗が即位すると、自殺に追い込まれた李重潤を悼み、懿徳太子と追封し、皇太子の格式で改葬し、乾陵に埋葬した。また死去に際し、正妃を娶っていなかったため、中宗は国子監の裴粹の早世した娘との冥婚を行い合葬している。 Category:唐の中宗の子女 しゆうしゆん Category:刑死した人物 Category:683年生 Category:701年没.

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李通

李 通(り つう、り とう).

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李逵

李 逵(り き)は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。 天殺星の生まれ変わりで、梁山泊第二十二位の好漢。二挺の板斧(手斧)を得意とする。渾名はで、李逵自身の剽悍性とその怪力、色の黒さからよくとも呼ばれる。怪力で武芸に優れた豪傑である。特に集団での乱戦において凄まじい実力を発揮する。一方で正式に武芸の修行を積んでいないためか、武芸を極めた達人級との一騎討ちでは苦戦したり敗れる事もある。水練は苦手でまったくのカナヅチである。 性格は幼児がそのまま大きくなったような無邪気さがあり、物事を深く考えることは無く我慢もきかないため失敗も多い。また幼児独特の残虐性や善悪の区別の曖昧さもそのまま残しているため、人を殺すことをなんとも思っておらず、無関係の人間を巻き添えにしたり女子供を手にかけることも厭わない。それゆえ宋江や晁蓋の叱責を買うことも多い(公孫勝の師である羅真人によると、下界の人間が悪事ばかり働くので、それを罰するため天殺星である彼が、天に代わり一身に殺劫を引き受けているらしい)。仲間意識が強く、特に同じ無頼漢タイプの鮑旭や焦挺等と非常に仲がよい。一方で入山時いざこざがあった朱仝とは不仲であり、温厚で平和的な性格の楽和も李逵が苦手らしい。また彼の保護者的立場である戴宗や、呉用、燕青等機転の利く人間には頭が上がらない。 宋江に非常に懐き、宋江を絶対的存在と認識しており、彼のためなら命を投げ出すことも辞さず、少しでも宋江の役に立ちたいと思うがため何にでも首を突っ込みたがる傾向にある。逆に宋江以外の権威は彼にとって全く無価値で、朝廷への帰順を考える宋江としばしば激しくやり合う。.

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李暹

李 暹(り せん、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。涼州北地郡の人。董卓の部将傕の甥(兄の子)。同じく李の兄の子李利との親族関係は不明で、兄弟とも従兄弟とも考えられる。.

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李林甫

李 林甫(り りんぽ、? - 天宝11載(752年))は、唐代玄宗朝の政治家であり、唐朝の宗室。貴族派の代表として、張九齢など科挙出身者の派閥との権力抗争に勝ち、その後も他の政治家たちを謀略の末に追い落とし、19年も宰相の地位にあった。しかし、楊貴妃のいとこである外戚の楊国忠との権力争いに苦戦し、死後に庶民の地位に落とされた。安史の乱の遠因をつくるなど、唐王朝を衰退に向かわせたとされる。 李淵(唐の高祖)の祖父である李虎の5世孫にあたり、李淵のいとこにあたる長平王・李叔良の孫。絵画の名手として知られた李思訓の弟・李思誨の子にあたる。兄は李林宗、子に李岫、李崿、李嶼、李崒がいる。.

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李恪 (呉王)

李恪(り かく、619年 - 653年)は、中国唐の太宗李世民の三男。呉王に立てられた。.

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李栄

李栄(り えい、リー・ロン、)は中華圏の人名。.

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李永

李永(り えい、生年不詳 - 838年)は、唐の皇族。第14代皇帝文宗の長男で、諡は荘恪太子。生母は王徳妃である。 830年に魯王に封じられ、832年に皇太子に立てられた。韋貫之が侍読として教育係となったが、李永は遊び好きで政務を怠り、家臣らを絶望させたという。しばらくして生母の王徳妃の寵愛が衰え、楊賢妃が帝の寵愛を受けたために、文宗は李永を廃嫡し、少陽院に幽閉した。そして838年に前太子の李永は早世した。.

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李泰

李泰(り たい、619年 - 652年)は、中国の唐の太宗李世民の四男。字は恵褒。魏王となり、のちに濮王に立てられた。太宗に愛されたが、皇太子李承乾と争い、追放された。.

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李淵

李 淵(り えん)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。.

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李溶

李 溶(り よう)は、中華民国の政治家。号は鏡泉。原籍は甘粛省蘭州府靖遠県。.

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李明 (唐)

李明(り めい、? - 682年)は、中国の唐の太宗李世民の十四男。曹王に立てられた。.

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李憲

李憲(り けん、調露元年(679年) - 開元29年(741年))は、唐の第5代皇帝睿宗の長男で最初の皇太子。母は皇后劉氏、異母の庶弟に李隆基(玄宗)がいる。死後に譲皇帝という謚号が贈られて皇帝に准じた格式での葬礼を受けた。.

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李慎

李慎(り しん、? - 689年)は、中国の唐の太宗李世民の十男。紀王に立てられた。.

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李承

李承(り しょう)は、中国史上の人物。.

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李承乾

李 承乾(り しょうけん、618年 - 645年2月8日(貞観19年1月5日))は、中国の唐の太宗李世民の長男。字は高明。皇太子に立てられたが、廃位された。.

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李拯

李 拯(り じょう、? - 866年)は、中国・唐の詩人。隴西(甘粛省)の出身。字は昌時。 咸通12年(871年)の進士。節度使の幕府を転々とする内、黄巣の乱に遭い、平陽(山西省臨汾)に避難していたが、僖宗に召し出され、尚書郎から老功郎中・知制誥となった。しかし光啓2年(886年)、玫(しゅばい)の叛乱に際し、叛乱軍に捕らえられて翰林学士に任ぜられ、節義を穢したことへの後悔と朱玫の横暴に対する不平とを抱いていたが、朱玫が滅ぼされた時、乱軍の中で殺された。 作品に、『朝より退いて終南山を望む』(七言絶句)がある。.

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李晟

李 晟(り せい、727年 - 793年)は、唐代の将軍。字は良器。徳宗年間、朱泚の乱を鎮圧した功績で西平郡王に封ぜられた。.

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李普

李普(り ふ、824年(宝暦元年)- 828年(大和2年))は、唐の皇太子。第13代皇帝・敬宗の長男で、諡は悼懐太子。生母は郭貴妃(郭義の娘)である。 晋王に封じられる。828年に5歳で夭折した。おじの文宗により悼懐太子の諡号を贈られた。.

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李智雲

李智雲(り ちうん、604年 - 617年)は、中国の唐の高祖李淵の五男。もとの名は稚詮。楚王に追封された。.

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東夷

四夷の名称 東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。夷(い)。 「夷」という漢字は「大」(人の象形)と「弓」(「己」、縄の象形)と書いて、好戦的な民族として、蔑んだ意味合いを込めている。 本来は古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。.

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東女国

東女国 (とうじょこく).

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杜如晦

杜如晦(と じょかい、585年 - 630年)は、中国唐代の政治家。字は克明。京兆郡杜陵県の人。隋の昌州長史であった杜吒の子として生まれる。 史書に親しみ、隋末には吏部に入ったが、間もなく官を辞し故郷へ戻った。李淵が長安を占拠すると、李世民の参謀役であった房玄齢により見出され、幕下に加わった。 玄武門の変の前、讒言により秦王府を追われたが、太宗が即位をすると中央政界に復活し、太子左庶子や兵部尚書という要職を歴任し、尚書右僕射まで上り詰める。左僕射の房玄齢とともに貞観の治を現出させた。 630年に46歳の若さで逝去した。死後司空、莱国公を贈られ、諡を成とした。 房玄齢が企画力に優れていたのに対して、杜如晦は決断力に優れ、軍事、政治に多難であった太宗の治世の初期をよく支えた。杜如晦の裁決はよどみなく同僚から敬服された。房玄齢に「秦王府から去る者が多くとも、それは惜しくはございません。ただ、杜如晦殿は聡明で見識に優れ、帝王の補佐としての才能がある人物でございます。もし、大王が諸侯で満足なさるのなら、彼を用いる場所はございませんでしょう。 しかし、帝王として天下を治めようと思いますなら彼以外に良い人材はおりませぬ。」と言われたという。 Category:唐代の人物 Category:西安出身の人物 しよかい Category:585年生 Category:630年没.

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杜佑

杜佑(と ゆう、735年(開元23年) - 812年(元和7年))は、中国・唐代の歴史家。字は君卿、諡は安簡。 京兆府万年県(陝西省西安市)の名族、杜氏の生まれである。曾祖父は荊益二州の都督府長史、祖父は右司員外郎・詳正学士、父の杜希望は鴻臚卿、恒州刺史等を歴任し、右僕射を追贈された。孫は晩唐の詩人として名高い杜牧である。 科挙によらず家格による恩蔭によって登用され、地方では嶺南節度使、淮南節度使、中央では御史大夫、司徒同平章事などの要職を歴任する。 憲宗に重用され、行政面では、宰相の楊炎を輔佐し、両税法の施行に関して尽力している。太傅を追贈された。 『政典』30巻(開元末年、劉秩撰)の欠を補って、大暦元年(766年)より30年余りを費やして『通典』200巻を著した。その他、『理道要訣』、『賓佐記』、『管氏指略』などの著書があったとされるが、定かではない。.

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杜甫

成都杜甫草堂 杜甫 杜甫の像 杜 甫(と ほ、、712年(先天元年) - 770年(大暦5年))は、中国盛唐の詩人。字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。幼少の頃から詩文の才能があり、李白と並ぶ中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して、「詩聖」と呼ばれている。また晩唐期の詩人・杜牧の「小杜」に対し「老杜」と呼ばれることもある。.

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杜鴻漸

杜 鴻漸(と こうぜん、708年 - 769年)、字は之巽、濮陽に生まれる、中国唐代の政治家。 仏教を信仰し、死に臨んでは儒教の伝統である土葬をせずに、火葬を選択した。.

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森公章

森 公章(もり きみゆき、1958年2月 - )は、日本の歴史学者。専門は、日本古代史。.

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楊再思

楊 再思(よう さいし、? - 709年)は、中国の唐代の政治家。本貫は鄭州原武県(現在の河南省原陽県の西南)。明経に及第し、694年、武則天の下で鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に上り、左粛政御史大夫を兼ねた。中宗が重祚すると、戸部尚書・同中書門下三品・京師留守に任ぜられ、弘農郡公に封ぜられた。のちに鄭国公に進んだ。死後、特進・并州大都督の位を追贈され、乾陵に陪葬された。諡を恭といった。 ---- 楊 再思(よう さいし、860年 - 954年)は、中国の唐末からの五代にかけての飛山蛮の首長。本貫は叙州(現在の湖南省黔陽県の西南)。楊居本の子。912年、叙州を誠州と改め、10人の子を分封して、十峒蛮酋と称した。 Category:709年没 Category:唐代の人物 Category:五代十国の人物 Category:860年生 Category:954年没.

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楊国忠

楊 国忠(よう こくちゅう ? - 756年7月15日)は、唐代玄宗朝の権臣。名は釗(しょう)。楊貴妃と曾祖父(別の説では祖父)が同じで又従兄に当たる。なお、武則天時代に佞臣と言われた張易之の姉妹の子とも言われる。.

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楊纂

楊 纂(よう さん、512年 - 578年)は、中国の北魏から北周にかけての軍人・政治家。本貫は広寧郡。.

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楊炎

楊 炎(よう えん、開元15年(727年) - 建中2年(781年))は、中国・唐の政治家。両税法の創設者として名高い。鳳翔郡天興(現在の陝西省)の人。字は公南。号は小楊山人。諡は粛愍。.

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楊炯

楊 炯(よう けい、生年不詳 - 692年)は中国・唐代初期の詩人。字は不詳。王勃・盧照鄰・駱賓王とともに「初唐の四傑」と称せられる。.

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楊貴妃

楊貴妃図」高久靄崖筆 静嘉堂文庫美術館蔵 楊 貴妃(よう きひ、719年(開元7年) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日))は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。世界三大美人の一人で古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、才知があり琵琶を初めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。.

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楊慎矜

楊 慎矜(よう しんきょう、生年不詳 - 天宝六年(747年))は、唐代玄宗期の官僚。経済手腕で玄宗に重用された。政界で中立的な立場を取ろうとしていたが、次第に李林甫に憎まれ、冤罪で玄宗に自殺を命じられた。.

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楊思勗

楊 思勗(よう しきょく、? - 開元28年(740年)))は、中国唐代の宦官。唐の皇帝、中宗、睿宗、玄宗に仕え、主に軍事面において功績をあげた。.

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欧陽詢

欧陽詢(おうよう じゅん、557年 - 641年)は、唐代の儒家、書家。字は信本。潭州臨湘(現在の湖南省長沙市)に生まれ、安徽で死去した。.

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武士カク

武士彠(ぶ しやく、577年 - 635年)は、中国の隋末から唐初にかけての政治家。武則天の父。字は信明。本貫は并州文水県。.

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武宗 (唐)

武宗(ぶそう)は、唐朝の第18代皇帝。穆宗の五男。.

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武元衡

武元衡(ぶ げんこう、758年 - 815年)は、中国・唐の詩人。河南緱氏(こうし、河南省偃師の南)の出身。字は伯蒼。 徳宗の建中4年(783年)の進士。徳宗に才能を認められ、比部員外郎・右司郎中・御史中丞を歴任。順宗朝では権臣・王叔文に従わなかった為、降職されたが、憲宗の元和2年(807年)には門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に至った。同年、宰相のまま剣南西河節度使に任ぜられて蜀に赴き、7年間、蜀に滞在した。淮西節度使(河南省汝南)・呉元済が反乱を起こした時、憲宗から全てを委任されて討伐を画策したが、呉元済派の朝臣の放った刺客に暗殺された。 『武元衡集』三巻がある。 作品に、『嘉陵駅(かりょうえき)』(七言絶句)がある。.

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武則天

武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照()。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。.

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武恵妃

武恵妃(ぶけいひ、690年代? - 738年1月5日)は、唐代玄宗朝に仕えた皇妃。姓は武、名は伝わっていない。恵妃は皇妃としての順位を表す称号である。玄宗の寵愛を得、皇子の寿王・李瑁を皇太子にしようと運動したが、失敗した。『旧唐書』では「貞順皇后武氏」、『新唐書』では「貞順武皇后」で立伝されている。.

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歴史書

歴史書(れきししょ)とは歴史を記述した書物のことである。 歴史書を記述するのは目的意識を持った、そして多くの場合職業的な歴史家である。執筆の目的は歴史そのものへの興味、過去を後世に伝えるため、独自の史観を表現するためなどさまざまである。為政者の支配の正統性を主張するなど、政治的動機による場合も多い。 時系列に従って事件が記述される。記述される内容は政治史・軍事史を主とすることが多い。基本的なスタイルとして、事項が時系列順に並べられたもの(編年体)と重要な個人の事績を追って記述するもの(紀伝体)の2つがある。 歴史書を記述する歴史家は既存の史料を収集・比較・批判し、ある基準によって取捨選択を行う。この作業がなされない場合は歴史書とは言えず単なる記述にとどまる。また、歴史家の想像はできる限り排除される。想像が勝つ場合は歴史文学となる。例えば『三国志演義』など。 原理的に歴史書は二次史料以下の史料となるが当時の史料が失われていることも多く、その場合一次史料並みの扱いを受けることもある。 上記の例外として、歴史記述を目的としたわけではない重要事件の記録がのちに歴史書と見なされることも多い。ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』などは、その顕著な例である。.

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殤帝 (唐)

殤帝(しょうてい)は、唐朝の第7代皇帝。中宗の末子。.

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殷キョウ

殷嶠(いん きょう、生年不詳 - 622年)は、中国の唐の軍人。字は開山。本貫は雍州鄠県。凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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段志玄

段 志玄(だん しげん、生年不詳 - 642年)は、中国の唐の軍人。本貫は斉州臨淄。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。.

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段文昌

段文昌(だん ぶんしょう、772年 - 835年)は、中国・唐代の宰相である。子に『酉陽雑俎』の撰者である段成式がいる。.

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毘伽可汗

毘伽可汗(呉音:びがかがん、漢音:ひきゃかかん、拼音:Pígākĕhàn、683年 - 734年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。阿史那骨咄禄の長子。姓は阿史那氏、名は默棘連(ぼくきょくれん)という。可汗号である毘伽可汗はビルゲ・カガン(古テュルク語: - Bilgä Qaγan、Bilge Kağan)の漢字表記名。.

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沈セン期

沈 佺期(しん せんき、656年? - 716年?)は、中国初唐の文学者。字は雲卿。相州内黄(現河南省内黄県)の人。宋之問とともに武則天の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。.

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沈法興

沈法興(しん ほうこう、生年不詳 - 621年)は、中国の隋末に割拠した群雄のひとり。本貫は湖州武康県。.

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沙鉢羅咥利失可汗

沙鉢羅咥利失可汗(呉音:しゃはちらでちりしちかがん、漢音:さはつらてつりしつかかん、拼音:Shābōluódiélìshīkĕhàn、? - 639年)は、西突厥の可汗。咄陸可汗(テュルク・カガン)の弟。沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。同娥設(トンガ・シャド Toŋa Šad)という官職に就いていた。.

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渤海 (国)

渤海(ぼっかい、698年 - 926年)は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。)」と記し、『新唐書』はより具体的に「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高(句)麗に付属していた。姓は大氏である。)と記しており、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出とある。 『大金国志』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。 渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。 「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。.

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温庭イン

温庭筠(おん ていいん、812年 - ?)は、中国・唐の詩人。太原祁県(山西省)の人。元の名は岐(き)、字は飛卿(ひけい)。 晩唐期を代表する詩人の一人で、李商隠とともに「温李」と呼ばれる。しかし試験場で隣席の者のために詩を作ってやったり、遊里を飲み歩いて警官と喧嘩をしたりするなど、軽率な行為が多く、科挙には及第出来なかった。宰相・令狐綯(れいこ とう)の家に寄食したが、令狐綯を馬鹿にしたので追い出された。大中13年(859年)頃、特に召し出されて試験を受けたが、長安で任官を待つ間、微行していた宣宗に会い、天子と知らずにからかったので、随県(湖北省)の尉に流された。襄陽(湖北省)刺史の徐商に招かれ、幕下に入ったこともあるが、満足せず、辞職して江東の地方を放浪し、最期は零落して死んだ。 現代には、『温飛卿詩集』九巻が残っている。.

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朱泚

朱 泚(しゅ せい、ピンイン:、742年 - 784年)は、唐代の部将であり朱泚の乱の指導者。当初は唐の盧龍節度使であったが、後に長安に仕えた。弟の朱滔が造反したために長安に留められたことから反感を抱き、徳宗が長安から避難すると大秦(後に漢と改名)の皇帝に即位した。784年に李晟などに敗けて長安を逃げ、配下に殺害された『旧唐書』巻200。.

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房玄齢

房玄齢(ぼう げんれい 578年 - 648年)は中国唐代の政治家・歴史家。玄齢は字で、諱は喬。杜如晦と共に太宗の謀臣として玄武門の変において太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者の一人とされる。また正史編纂にも関わり、『北斉書』などを総監した。.

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昭宗 (唐)

昭宗(しょうそう)は、唐朝の第22代皇帝。懿宗の七男で、僖宗の弟に当たる。.

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新唐書

『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.

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新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

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文宗 (唐)

文宗(ぶんそう)は、唐朝の第17代皇帝。穆宗の次男で、敬宗の同年の異母弟にあたる。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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憲宗 (唐)

憲宗(けんそう)は、唐朝の第14代皇帝。順宗の長男。.

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懿宗 (唐)

懿宗(いそう)は、唐朝の第20代皇帝。宣宗の長男。史書によれば暗愚な性格であったという。.

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敬宗

敬宗(けいそう)は、唐朝の第16代皇帝。穆宗の長男。.

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拂菻

拂菻(ふつりん)は、『隋書』『旧唐書』『宋史』『明史』など中国の史書に出てくる西洋の国の名前。東ローマ帝国に比定する説が有力である。 拂菻が東ローマ帝国を指すとすれば、「大秦王安敦」(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスを指すか)の使者が166年に入朝して以来、ローマ帝国およびその後身たる東ローマ帝国は、実に足かけ千年にわたって中国と断続的に交渉をもったことになる。.

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618年

記載なし。

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702年

記載なし。

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907年

記載なし。

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945年

記載なし。

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