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史記

索引 史記

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.

325 関係: 加藤徹劇孟劉安劉交劉ビ劉キョウ劉賈劉肥劉邦劉武劉沢劉旦劉敬垓下の戦いちくま学芸文庫ちくま新書十七条憲法十八史略千字文南宋南越国史記 (横山光輝の漫画)史記延久点史記会注考証史記索隠史記集解史記正義史漢司馬穰苴司馬相如司馬遷司馬談司馬貞叔孫通合従連衡吉田光邦夏 (三代)夏侯嬰大宰府大宛大庭脩大修館書店大江氏大木康大日本史太平記夜郎外戚妙心寺...始皇帝孟子孟嘗君子産子貢孝謙天皇季布孫叔敖孫ピン孫武孔子孔安国孔門十哲宣帝 (漢)宮崎市定宮刑宋 (南朝)宋 (春秋)寧成寛平小川環樹小竹武夫専諸屈原岩波文庫川勝義雄上杉憲実中央公論新社中公クラシックス中国中国古典文学大系中行説主父偃世界の名著世界古典文学全集三皇五帝一海知義平原君平家物語平凡社平凡社ライブラリー平治物語享保二十四史五経今鷹真廉頗伍子胥伯夷・叔斉張儀張蒼張釈之張良張耳張湯彭越徐福徳川家康徳川光圀後漢後漢書信西信陵君匈奴レキ商レキ食其トウ通ビン越刎頸の交わり刺客列伝列子周勃周陽由呂不韋呂雉呉 (春秋)呉王僚呉起ショウ周シツ都傅寬儒教商鞅公孫弘元号元和 (日本)兵馬俑前漢勾践国宝国立歴史民俗博物館四書石奮王翦王温舒灌嬰班彪班固神護景雲福建省竇嬰筑摩書房管叔鮮管仲米沢藩系図紫式部紀伝体紀伝道紀元前91年紀元前97年紀元前98年紀元前99年続日本紀義帝義縦田単田叔田中謙二田フン田タン田斉甘茂燕 (春秋)盧綰直江兼続瀧川資言白居易白川静白起銭大キン韓 (戦国)韓嫣韓安国韓信韓王信韓非韓非子聶政聖徳太子荊軻荘子荀子頼惟勤項籍衛青衛氏朝鮮袁オウ西門豹馬鹿馮唐駿府角川書店諸侯講談魏 (戦国)魏ゼン魏豹魯仲連豫譲貝塚茂樹賈誼鴻嘉鴻門の会足利学校趙 (戦国)趙奢黄帝近藤光男 (中国文学者)霍去病范蠡范雎蜀漢郭解興譲館蘇秦藤原佐世藩校藺相如闔閭董仲舒蒙恬蔡沢鄭当時臥薪嘗胆蕭何酷吏酒池肉林英布老子虞卿陳 (春秋)陳平陳余陳勝陳勝・呉広の乱陸賈枕草子恵帝 (漢)李広李延年李牧李離李陵李斯東甌杜周楚 (春秋)楊僕楊ウン楽毅樊カイ樗里疾欒布正史武帝 (漢)歴史書一覧江戸城汲黯泓水の戦い淳于コン淳于意渡邉義浩清少納言源平盛衰記源氏物語漢書朝日選書朝日新聞社朱家成帝 (漢)戦国策明治書院春秋左氏伝春申君昭帝 (漢)新釈漢文大系新書漢文大系文安文帝 (漢)文心雕龍文選 (書物)斉 (春秋)日本日本国見在書目録慶元扁鵲曹 (春秋)曹参曹沫晁錯晏嬰景帝 (漢)晋 (春秋)晋書1195年1201年1446年1616年1728年768年769年889年897年 インデックスを展開 (275 もっと) »

加藤徹

加藤 徹(かとう とおる、1963年 - )は、東京都生まれの中国文学研究者、小説家、明治大学教授。小説家としてのペンネームは嘉藤 徹。.

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劇孟

劇 孟(げき もう、生没年不詳)は、前漢の人。洛陽の人。遊侠。.

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劉安

劉 安(りゅう あん、ピン音:Liú Ān、紀元前179年 - 紀元前122年)は、中国前漢時代の皇族(淮南王)、学者である。『淮南子』の主著者。後世、劉安に関する多くの伝説が生まれた。.

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劉交

劉 交(りゅう こう、? - 紀元前179年)は、劉邦(前漢の高祖)の異母弟。劉太公(劉煓)の末子。字は游。楚王に封じられた。諡号は元王。.

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劉ビ

劉 濞(りゅう び、濞はさんずいに鼻、紀元前215年 - 紀元前154年)は、前漢前期の皇族で、沛県の出身。呉楚七国の乱の首謀者。.

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劉キョウ

劉勰(りゅう きょう、生没年不詳)は、南朝斉から梁にかけての官僚・文人。『文心雕龍』の著者として知られる。字は彦和。本貫は東莞郡莒県。.

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劉賈

劉 賈(りゅう か、? - 紀元前196年)は、秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦(高祖)の従兄弟。荊王に封じられた。.

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劉肥

劉 肥(りゅう ひ、? - 紀元前189年)は、前漢の皇族。前漢時代の諸侯王である斉王。諡号は悼恵王。.

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劉邦

劉 邦(りゅう ほう、、)は、前漢の初代皇帝。 沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。.

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劉武

劉 武(りゅう ぶ、? - 紀元前144年)は、前漢の皇族。文帝の子で景帝の同母弟。.

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劉沢

劉 沢(りゅう たく、? - 紀元前177年)は、前漢初期の人。劉邦の従父兄(いとこ)『漢書』荊燕呉伝「劉沢伝」より。。.

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劉旦

劉 旦(りゅう たん ? - 紀元前80年)は、前漢の皇族。燕王。諡号は剌(らつ)王(在位30年)。.

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劉敬

劉 敬(りゅう けい、生没年不詳)は、中国前漢時代の政治家。斉の人。元の名は婁敬。.

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垓下の戦い

垓下の戦い(がいかのたたかい)は、中国楚漢戦争期の紀元前202年に項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間の垓下(現在の安徽省宿州市霊璧県南部と安徽省蚌埠市固鎮県北部)を中心に行われた戦い。この戦いで項羽が死んだことによって劉邦の勝利が完全に決定し、楚漢戦争が終結した。なお、近年佐竹靖彦らによって戦いの存在自体が疑われ始めている。.

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ちくま学芸文庫

ちくま学芸文庫(ちくまがくげいぶんこ)は、筑摩書房による学術部門・文庫判レーベル。.

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ちくま新書

ちくま新書(ちくま しんしょ、CHIKUMA SHINSHO)は、筑摩書房が発行している新書シリーズ。1994年9月に創刊された。装丁は間村俊一。姉妹レーベルにちくまプリマー新書がある。印刷は、精興社と三松堂印刷による。第1号は今村仁司の『貨幣とは何だろうか』。21世紀に入って、格差社会、高齢化社会、教育問題に対し問題提起を行う著作を、経済学・ルポルタージュ・社会科学・教育社会学の形などで、ほぼ毎月刊行している。2007年、業界初をうたった、他社(光文社発行の光文社新書)との新書合同フェアを催した。2009年9月、創刊15周年を記念して、新聞各紙に掲載された書評を収録した冊子「ちくま新書書評セレクション」が作成され、フェア開催書店の店頭で配布された。.

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十七条憲法

過去にあったとされる憲法である。.

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十八史略

『十八史略』(じゅうはっしりゃく)は、南宋の曾先之によってまとめられた中国の子供向けの歴史読本。三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約し、編年体で綴っている。.

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千字文

『千字文』(せんじもん)(中国語ピンイン:qianziwen)は、子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩である。1000の異なった文字が使われている。.

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南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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南越国

南越国(なんえつこく、漢語拼音:Nányuè、広東語イェール式:Nàahm-yuht、)は、紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部にかけての地方(嶺南地方)に自立した王国(帝国)である。南粤、趙朝とも記す。 首都は番禺(現在の中国広東省広州市)におかれ、最盛期には現在の広東省及び広西チワン族自治区の大部分と福建省、湖南省、貴州省、雲南省の一部、ベトナム北部を領有していた。南越国は秦朝滅亡後、紀元前203年に南海郡の軍事長官である南海郡尉の趙佗が勢力下の南海郡に近隣の桂林郡と象郡を併せることによって建国された。紀元前196年と紀元前179年に、南越国は2度漢に朝貢し、漢の「外臣」となるが、紀元前112年、5代君主である趙建徳と漢の間で戦闘が勃発し、武帝により紀元前111年に滅ぼされた。 南越国は嶺南で誕生した初めての封建国家であり、秦の中原地方出身の統治者により先進的な政治制度と生産技術をもたらされ、秦末の乱世の中で嶺南地方に秩序と安定をもたらしたといえる。南越国の歴代君主が推し進めた「和輯百越」政策は、漢族と南越国内部の各民族間の融和をも促進し、同時に漢文化と漢字が嶺南地方へと移入され、嶺南文化に大きな影響を与えることになる。.

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史記 (横山光輝の漫画)

『史記』(しき)は、横山光輝による歴史漫画作品。『ビッグゴールド』(小学館)に、1992年(創刊号)から1997年にかけて本編が、1998年から1999年(休刊号)にかけて「史記列伝」が連載された。単行本は全15巻(文庫版は全11巻)が同社から発売されている。.

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史記延久点

史記延久点(しきえんきゅうてん)とは、中国前漢の司馬遷が著した歴史書『史記』に対して、日本平安時代の延久5年(1073年)に大江家国が書写・加点した巻子本形式の訓点本。 元は全130巻分あったと推定されているが、現存するのは毛利博物館所蔵の呂后本紀第九・東北大学附属図書館所蔵の孝文本紀第十・大東急記念文庫所蔵の孝景本紀第十一の3巻のみが現存しており、いずれも国宝である。 年代が明記された『史記』の最古の写本であり、かつ最古の訓点本でもある。大江家国は大江朝綱の玄孫で大江氏の紀伝道の家学を継いだ1人であったと考えられている。原本は南朝宋の裴駰による『史記集解』を用い、訓点には朱筆と墨点が用いられ、ヲコト点は古紀伝点を採用している。紀伝道の宗家とされた大江氏に関する唯一の現存漢籍訓点本であり、当時の大江氏の紀伝道の実態を知る手掛りとなる。.

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史記会注考証

『史記会注考証』(しきかいちゅうこうしょう)は、『史記』の注釈書の1つ。日本の瀧川龜太郎(資言)が編纂した。初版は東方文化学院東京研究所より1932年から1934年にかけて刊行、全10冊。現代日本における『史記』研究の基礎となる書物である。 会注とは、注を集めたという意味で、『史記会注考証』には、『史記』本文と『史記』の3つの代表的な以下の注を収めている。.

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史記索隠

『史記索隠』(しきさくいん)は、唐の司馬貞による『史記』の注釈書。史記三家注のひとつ。30巻。先行の諸書を引用し、音韻や地理・人物の考証にすぐれる。.

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史記集解

『史記集解』(しきしっかい)は、南朝宋の裴駰による『史記』の注釈書。史記三家注のひとつ。80巻。徐広『史記音義』をもとにして、経書や諸史の記述や孔安国・馬融・鄭玄・服虔・賈逵らの説を引用している。.

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史記正義

『史記正義』(しきせいぎ)は、唐の張守節(ちょう・しゅせつ)による『史記』の注釈書。史記三家注のひとつ。30巻。 その序によれば唐の開元24年(736年)に成立。.

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史漢

史漢(しかん)とは、古代中国の歴史書である『史記』・『漢書』の併称。『春秋左氏伝』(左伝)・『国語』を加えて左国史漢(さこくしかん)とも称し、後に『後漢書』などを加えて三史(さんし)とも称した。西晋から六朝にかけて、『史記』と『漢書』を並べて「史漢」と呼ぶようになっている。(『晋書』何遵伝及び『世説新語』言語編) 『史記』と『漢書』はともに紀伝体の歴史書であるが、『史記』が通史であるのに対して『漢書』は断代史であった。また、『史記』が12本紀・10表・8書・30世家・70列伝からなり52万字余りに対して、『漢書』が12本紀・8表・10志・70列伝からなり80万字余りと、章の数は『史記』が勝り、文字数では『漢書』が勝った。このため、『史記』と『漢書』の両書を併称し、あるいはどちらが優れているかという議論(いわゆる史漢優劣論)が発生した。 唐の劉知幾は『史通』の中で『漢書』を評価して『史記』を批判し、北宋の程頤は『史記』に文字以外に微妙なところがあり、『漢書』の方が情旨が尽されていると評している。南宋の朱熹は「『史記』は疎にして爽、『漢書』は密にして塞」として双方優れたところがあるとしている。清の方苞は『史記』こそ『春秋』の後継として「春秋の義法」を守ったと評した。他に史漢優劣論の書物としては南宋・倪思の『班馬異聞』、同じく婁機の『班馬字類』(『史漢字類』)、明・許相卿の『史漢方駕』、清・揚琪光の『史漢求是』、同じく成蓉鏡の『史漢駢枝』が挙げられる。 また、六朝期の頃から『史記』・『漢書』に『東観漢記』あるいは『戦国策』を加えた3種類の歴史書を「三史」と併称した。唐以後には『後漢書』を加えた3種類を「三史」と呼ぶようになり、以後定着した。遣唐使として唐に渡った吉備真備が「三史」を学んで帰国して以後、日本でも広く読まれるようになり、後に紀伝道成立のきっかけとなった。日本の戦国時代にも読まれており、特に直江兼続が蔵書していた宋版の三史(国宝)は貴重書として有名である。.

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司馬穰苴

司馬穰苴(しばじょうしょ、生没年不詳)は中国春秋時代の斉の国の将軍。姓は嬀(ぎ、女偏に爲)、氏は田、諱は穰苴。斉の景公に仕えて大司馬となったので氏を司馬と称した(この記事中では司馬穰苴で統一する)。宰相晏嬰の推薦により登用され、斉の繁栄に功績を挙げた。兵法書『司馬法』の著者。田完の後裔である。.

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司馬相如

司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179年 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。 賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓文君との恋愛も有名である。.

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司馬遷

司馬遷 司馬 遷(しば せん、紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。 姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ李 (1988)、pp.46-49、第二章 司馬遷の父 1.世伝の歴史家、並びに天文家。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。.

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司馬談

司馬 談(しば たん、? - 紀元前110年?)は、中国前漢時代の太史令。姓は司馬氏、名は談。秦の武将司馬錯と司馬靳の子孫、司馬昌(司馬靳の孫)の曾孫、司馬無澤の孫、司馬喜の子、『史記』の著者の司馬遷の父。.

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司馬貞

司馬 貞(しば てい)は、中国唐代の文人。『史記』の注釈書である『史記索隠』を著したほか、『史記』三皇本紀を補筆した。字は子正、号は小司馬(司馬遷と比較して)。.

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叔孫通

叔孫 通(しゅくそん とう、生没年不詳)は、秦末から前漢初めにかけての儒者。薛(現在の山東省滕州市)の人。.

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合従連衡

合従連衡(がっしょうれんこう)は、中国の戦国時代の外交戦略である合従策および連衡策を併せていうもの。転じて、状況に応じて各勢力が結び、また離れるさまを示す故事成語となった。.

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吉田光邦

吉田 光邦(よしだ みつくに、1921年5月1日 - 1991年7月30日)は、日本の科学史家。京都大学名誉教授。専門は科学技術史。.

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夏 (三代)

夏(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃 )は、中国の史書に記された最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。.

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夏侯嬰

夏侯 嬰(かこう えい、? - 紀元前172年)は、秦・前漢時代の中国の武将。劉邦の部将。劉邦と同じく沛県の出身。.

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大宰府

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.

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大宛

大宛(呉音:だいおん、漢音:たいえん、)は、紀元前2世紀頃より中央アジアのフェルガナ地方に存在したアーリア系民族の国家。大宛(だいえん)とは固有名詞を漢字に転写したものではなく、広大なオアシスという意味らしい。しばらく中国史書では大宛という名を使用したが、『魏書』以降はフェルガナの転写と思われる洛那国、破洛那国、鏺汗国、拔汗那国、㤄捍国「㤄」の字は「忄+巿(ふつ)」。などが使用された。 紀元前1世紀の西域諸国。.

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大庭脩

大庭 脩(おおば おさむ、昭和2年(1927年)1月20日 - 平成14年(2002年)11月27日)は、日本の歴史学者。 専門は中国簡牘学・日本木簡学・中国法制史・日中関係史。皇學館大学元学長、関西大学名誉教授、大阪府立近つ飛鳥博物館元館長。正五位。勲三等旭日中綬章。文学博士(関西大学)。.

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大修館書店

株式会社大修館書店(たいしゅうかんしょてん)は、辞典類・教科書・参考書などを刊行する日本の出版社。.

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大江氏

大江氏(おおえうじ)は、「大江」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本の古代から近世の貴族。源、平、藤原、橘と同じく姓(本姓)であり、苗字ではない。.

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大木康

大木 康(おおき やすし、1959年1月4日 - )は、中国文学・文化学者、東京大学東洋文化研究所教授。 神奈川県横浜市出身。1981年東京大学文学部中国文学専攻卒、1983年同大学院人文科学研究科修士課程修了、1984-1985年上海復旦大学に留学。1986年東京大学博士課程単位取得退学、東文研助手、1988年広島大学文学部講師、1989年助教授、1991年東大文学部助教授、1998年「馮夢龍「山歌」の研究」で東大文学博士、2001年東大東洋文化研究所助教授併任、2002年東文研専任助教授、2003年教授。 2012-2014年所長。 明末江南地方における通俗文芸、出版文化、科挙制度と知識人、妓女などを研究。2000年東方学会賞受賞。.

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大日本史

『大日本史』(だいにほんし)は、日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。 『大日本史』は光圀死後の1715年(正徳5年)、藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。.

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天(Tiān、てん、あま)は、東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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夜郎

紀元前210年、秦帝国と周辺民族。 夜郎(やろう、)、または夜郎国とは、『史記』西南夷列伝に記述される前漢末期まで存在した小国(前523年-前27年)の名前。現代の貴州省もしくは雲南省あたりにあったと思われる。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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妙心寺

妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。.

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始皇帝

始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年Wood, Frances.

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孟子

孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代中国の儒学者。姓は不詳、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」は先生という意味。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうし)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。.

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孟嘗君

孟嘗君(もうしょうくん、)こと田 文(でん ぶん、、 ? - 紀元前279年)は、中国戦国時代の公族・政治家。戦国四君の一人。姓は嬀(ぎ、女偏に爲)、氏は田、諱は文。諡号が孟嘗君である。斉の威王の孫に当たる『史記索隠』が引く『竹書紀年』魏紀では、孟嘗君は桓公(威王の父)の孫と記されており、「威王の甥」、「宣王の従弟」とする。。.

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子産

子産(しさん、? - 紀元前522年)は、春秋時代の鄭に仕えた政治家。姓は姫、氏は国、諱は僑、字は子産。「公孫僑」とも呼ばれる。祖父は鄭の穆公、父は子国(公子発)、子は国参(子思)。弱小国の鄭を安定させる善政を行い、中国史上初の成文法を定めたとされる。.

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子貢

子貢(しこう、紀元前520年 - 紀元前446年 )は孔子の弟子にして、孔門十哲の一人。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて活躍した。子貢は字、本名は端木賜(たんぼくし)端木は姓、名は賜。。衛の人。弁舌に優れ衛、魯でその外交手腕を発揮する。また、司馬遷の『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。.

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孝謙天皇

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.

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季布

季 布(き ふ)は、中国の秦末から前漢初期にかけての武将。はじめ楚の項羽配下だったが、のちに劉邦に仕えた。.

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孫叔敖

孫叔敖(そんしゅくごう、生没年不詳)は、中国春秋時代の楚の公族、令尹。姓は羋、氏は蔿、諱は敖、または艾猟、字は孫叔。蔿賈の子。蔿敖、蔿艾猟、蔿孫叔とも呼ばれる。 荘王に仕えて楚の富国強兵を成し遂げ、荘王に天下の覇権を握らせた。楚屈指の賢相の一人。.

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孫ピン

孫臏 孫 臏(そん びん、紀元前4世紀頃)は、中国戦国時代の斉の軍人・思想家。兵家の代表的人物の一人。孫武の子孫であるとされ、孫武と同じく孫子と呼ばれる。『孫臏兵法』は孫臏の手によると推定されている。この他、『孫臏拳』も彼が創始したと伝えられている。現代中国の簡体字では孙膑と表記される。.

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孫武

孫 武(そん ぶ、紀元前535年? - 没年不詳)は、中国古代・春秋時代の武将・軍事思想家。兵法書『孫子』の作者とされており、兵家の代表的人物。斉国出身。字は長卿。孫臏の先祖。「孫子」は尊称である。 孫武(孫子)像 「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義、またスパイの重要視など、軍事研究において戦略や戦術、情報戦など幅広い領域で業績を顕し、ベイジル・リデル=ハート、毛沢東など、現代の軍事研究者、軍事指導者にも重要な思想的影響を与えた。その軍事思想は航空技術や核兵器など、古代に想定できなかった軍事技術の発展した数千年後の現代においても有効性を失わず、今なお研究対象とされている。.

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孔子

孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.

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孔安国

孔 安国(こう あんこく、生没年未詳)は、前漢代の学者。字は子国。孔子10世の孫。父は孔忠。兄は孔武。 呉音で「くあんごく」とも読む。.

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孔門十哲

孔門十哲(こうもんじってつ)は、「孔門の十哲」「四科十哲」ともいわれ、孔子の弟子の中でも最も優れた十人の弟子をさす。.

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宣帝 (漢)

宣帝(せんてい)は、前漢の第9代皇帝。武帝の曾孫。初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝に即位した。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ、中宗の廟号を贈られた。その数奇な生涯から逸話が多い。.

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宮崎市定

宮﨑 市定(みやざき いちさだ、1901年(明治34年)8月20日 - 1995年(平成7年)5月24日)は戦後日本を代表する東洋史学者。.

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宮刑

宮刑(きゅうけい、castration)は、去勢する刑罰。この刑は世界的に実施例があるが、中国におけるものが最も有名である。.

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宋 (南朝)

宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康(現在の南京)。.

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宋 (春秋)

宋(そう、紀元前1100年ごろ-紀元前286年)は、中国大陸に周代、春秋時代、戦国時代に亘って存在した国である。都は商邱。.

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寧成

寧 成(ねい せい、生没年不明)は、前漢中期の人で、漢朝の酷吏と呼ばれた官吏の一人で、南陽郡穣(河南省鄧州市)の人である。.

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寛平

寛平(かんぴょう、かんびょう、かんぺい、かんべい)は、日本の元号の一つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間を指す。この時代の天皇は宇多天皇、醍醐天皇。.

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小川環樹

小川 環樹(おがわ たまき、1910年10月3日 - 1993年8月31日)は、日本の中国文学者。字は士解。京都府京都市出身。主著に「唐詩概説」、「蘇軾」など、初心者向けの啓蒙書や訳書も多数著している。.

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小竹武夫

小竹 武夫(おたけ たけお、1905年9月3日 - 1982年5月2日)は、日本の中国文学者。石川県金沢市生まれ。京城帝国大学卒。兄の小竹文夫とともに『史記』を現代語訳し、ついで単独で『漢書』を全訳、1978年中日文化賞、1980年読売文学賞を受賞した。金沢美術工芸大学教授などを務めた。.

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専諸

專 諸(せん しょ、? - 紀元前515年)は、春秋時代の呉の公子光(後の呉王闔閭)の側近で、呉王僚の暗殺を実行した刺客。.

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屈原

楚の屈原(清代) 屈原の肖像画(17世紀) 屈 原(くつ げん、紀元前343年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。.

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岩波文庫

岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行する文庫本レーベル。1927年(昭和2年)7月10日に、ドイツのレクラム文庫を模範とし、書物を安価に流通させ、より多くの人々が手軽に学術的な著作を読めるようになることを目的として創刊された日本初の文庫本のシリーズ。最初の刊行作品は『新訓万葉集』などであった。.

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川勝義雄

川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月8日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、日本の東洋史学者。京都市生まれ。.

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上杉憲実

上杉 憲実(うえすぎ のりざね)は、室町時代中期の武将・守護大名。関東管領、上野国・武蔵国・伊豆国守護。山内上杉家8代当主。足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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中公クラシックス

中公クラシックスは、中央公論新社(読売新聞グループ)が刊行している新書版シリーズ。 2001年4月に創刊。15年を経た2016年春時点で140冊を刊行(別冊を除く)。 1966年から1982年にかけ刊行した『世界の名著』、『日本の名著』の改訂新版を軸に、「名著」シリーズ以外で日本人の著作書目は、人文・社会科学系は宮崎市定、竹山道雄、林達夫、梅棹忠夫、高坂正堯、永井陽之助等、文学者では折口信夫、会津八一、谷崎潤一郎、坂口安吾等、中央公論社と関わりが深かった著者たちの代表作を多数刊行している。 当初は毎月1・2冊刊だったが、近年は数ヶ月に1冊である。別冊にテーマ別解説集「中公クラシックス・コメンタリィ」(現:「聖典」、「諸子百家~」、「鎌倉仏教~」、「ルネサンス」の全4巻)や、ガイドブック「古典の扉」(現:全2巻)がある。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中国古典文学大系

中国古典文学大系(ちゅうごくこてんぶんがくたいけい)は、平凡社が刊行した叢書の一つで、中国の主要な思想・文学の古典典籍を集成したものである。.

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中行説

中行 説(ちゅうこう えつ、生没年不詳)は、前漢前期の宦官で、のち匈奴の老上単于の側近として仕えた人物。燕の人。.

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主父偃

主父 偃(しゅほ えん、生没年不詳)は、前漢の人。斉国臨菑の人。.

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世界の名著

『世界の名著』(せかいのめいちょ)は、中央公論社が1966年から1976年にかけて刊行した全81巻の叢書である。.

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世界古典文学全集

『世界古典文学全集』(せかいこてんぶんがくぜんしゅう)は、筑摩書房が1964年から2004年にかけ刊行した叢書(全54冊)である。.

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三皇五帝

三皇五帝(さんこうごてい)は、古代中国の神話伝説時代の8人の帝王。 三皇と五帝に分かれ(誰が該当するかについては諸説ある)、三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされ、理想の君主とされた。 伝説では、最初の世襲王朝・夏より以前の時代とされる。.

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一海知義

一海 知義(いっかい ともよし、1929年5月15日 - 2015年11月15日)は、中国文学者、神戸大学名誉教授、河上肇研究で著名。九条の会賛同者。.

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平原君

平原君(へいげんくん、? - 紀元前251年)は、中国戦国時代の趙の公子で政治家。氏は趙、諱は勝。武霊王の子、恵文王の弟。食客を集めて兄恵文王、続いて甥孝成王を補佐した。戦国四君の一人。 人士を好み食客を数千人集めていた。その中には公孫竜や鄒衍などもいた。.

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平家物語

『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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平凡社ライブラリー

平凡社ライブラリー(へいぼんしゃライブラリー)は、平凡社が刊行する叢書レーベルである。.

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平治物語

『平治物語』(へいじものがたり)は平治の乱の顛末を描いた軍記物語。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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二十四史

二十四史(にじゅうしし)は、中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む。.

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五経

五経(ごけい・ごきょう)または六経(りっけい・りくけい)は、儒教で基本経典とされる5種類または6種類の経書の総称。すなわち『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』の六経から、はやく失われた『楽』を除いたものが「五経」である。すべて孔子以前からの書物であるが、伝統的な儒教の考えでは孔子の手を経て現在の形になったと考えられている。 ただし、実際に五経として読まれる書物の内容は時代によって異なっており、また孔子以後の儒家たちの注釈である「伝」を含めた形で読まれた。 現行のいわゆる五経は、唐代の『五経正義』以来の『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』である。.

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今鷹真

今鷹 真(今鷹 眞、いまたか まこと 1934年2月28日- )は、日本の中国文学研究者。名古屋大学名誉教授。.

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廉頗

廉 頗(れん ぱ、拼音:Lían Pō、生没年不詳)は、中国戦国時代の趙の将軍。藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。.

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伍子胥

伍 子胥(ご ししょ、? - 紀元前484年)は、春秋時代・呉の政治家、軍人である。諱は員(うん)。子胥は字。.

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伯夷・叔斉

伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は、古代中国・殷代末期の孤竹国(現在地不明、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である。高名な隠者で、儒教では聖人とされる。 一説には二人の姓は子、氏は墨胎、伯夷の諱は允・字は公信、叔斉の諱は致・字は公達で、夷・斉はそれぞれの諡であるとされる。なお、伯・叔は共に長幼の序列を示す字である。.

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張儀

張儀(ちょうぎ、? - 紀元前309年)は、中国戦国時代の遊説家、政治家。魏の人。蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされ、秦の宰相として蘇秦の合従策を連衡策で打ち破り、秦の拡大に貢献した。.

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張蒼

張 蒼(ちょう そう、? - 紀元前152年)は、秦から前漢にかけての人。陽武県(現・河南省新郷市原陽県東南)の人。.

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張釈之

張 釈之(ちょう しゃくし、生没年不詳)は、前漢の人。字は季。南陽郡堵陽(河南省方城県)の人。.

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張良

円山應擧筆 『張子房圖』 張 良(ちょう りょう、? - 紀元前186年)は、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(現在の江蘇省徐州市沛県の南東)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。.

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張耳

張 耳(ちょう じ、、拼音:Zhāng ěr、? - 紀元前202年)は、秦末から前漢初期にかけての武将及び趙王。.

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張湯

張 湯(ちょう とう、? - 紀元前115年)は、前漢の人。京兆尹杜陵県の人。酷吏として有名な人物で、張賀、張安世の父である。.

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彭越

彭 越(ほう えつ、? - 紀元前196年)は、中国秦末期から楚漢戦争期の武将。字は仲。秦末期の戦乱の中で盗賊として活躍し、劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。.

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徐福

徐福像(新宮市徐福公園内) 徐 福(じょ ふく)は、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身。別名は徐巿(じょふつ)。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川光圀

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.

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信西

信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。.

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信陵君

信陵君(しんりょうくん、? - 紀元前244年)は、東周戦国時代の魏の公子であり、政治家・軍人。三代昭王の末子。姓は姫、氏は魏、諱は無忌。戦国四君の一人。大国秦によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、兄王に疑われて憂死した。前漢の魏無知の父と伝わる。 兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて自分の手元においており、その数は三千人を超えた。.

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匈奴

匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.

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レキ商

酈 商(れき しょう、? - 紀元前180年)は、中国秦から楚漢戦争期の武将。陳留高陽(現在の河南省開封市杞県)の人。説客として活躍した酈食其の弟、酈寄と酈堅の父。.

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レキ食其

酈 食其(れき いき、拼音:Lì Yì-jī、紀元前268年 - 紀元前204年)は、中国秦から楚漢戦争期の儒者、説客。陳留高陽(現在の河南省開封市杞県)の人。通称は酈生(酈先生)。子は酈疥、孫は酈勃(酈遂)『漢書』酈食其伝。弟は酈商、甥は酈寄。.

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トウ通

鄧 通(とう つう、生没年不詳)は、前漢初期の人物。蜀郡南安県(現・四川省楽山市)の人。漢の文帝の寵臣。.

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ビン越

閩越(びんえつ)は、現在の中国福建省に存在した政権。 戦国時代に楚によって滅ぼされた越人がこの地に逃れ、現地の百越族と共同して樹立した。存在期間は紀元前333年から紀元前110年頃とされる。特に紀元前202年前後の半世紀は国力が充実し、当時の中国東南部最大の国家勢力となった。閩越王騶無諸が城村(現在の福建省武夷山市興田鎮)に築いた王城はこの地域最大の都市となった。.

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刎頸の交わり

刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)とは、中国の戦国時代に趙で活躍した、藺相如と廉頗が残した故事。刎頸の友ともいう。『史記』原文には「刎頸(之)交」とある。「お互いに首を斬られても後悔しないような仲」という成語として用いられる。.

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刺客列伝

刺客列伝(しかくれつでん).

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列子

『列子』(れっし)は、春秋戦国時代の人、列禦寇(河南鄭州人)の尊称(「子」は「先生」というほどの意)だが、一般的には、列禦寇の著書とされる道家の文献を指す。別名を『冲虚至徳真経』ともいう。.

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周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

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周勃

周 勃(しゅう ぼつ)は、中国の人物。.

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周陽由

周陽 由(しゅうよう ゆう、生没年不詳)は、前漢の酷吏。本姓は趙、後に周陽氏と称した。父の周陽侯の趙兼は淮南厲王劉長の母の趙夫人の弟にあたる。.

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呂不韋

呂 不韋(りょ ふい、、? - 紀元前235年)は、中国戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につける事に尽力し、秦で権勢を振るった。荘襄王により、文信侯(ぶんしんこう)に封じられた。始皇帝の本当の父親との説もある。.

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呂雉

呂 雉(りょ ち、紀元前241年 - 紀元前180年8月18日(旧暦7月1日(辛巳)))は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥姁(女偏に句)。謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。.

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呉 (春秋)

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉(こうご、くご)。 勾呉の表記もなされる。 中国の周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。 紀元前12世紀から紀元前473年夫差王まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。 国姓は姫(き)。.

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呉王僚

呉王僚(ごおうりょう、? - 紀元前515年、在位:前526年 - 前515年)は、中国春秋時代の呉の第5代の王。姓は姫。諱は僚または州于。ここでは『史記』呉太伯世家を中心に記述される。.

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呉起

呉 起(ご き、紀元前440年 - 紀元前381年)は、中国戦国時代の軍人、政治家、軍事思想家。孫武、孫臏と並んで兵家の代表的人物とされ、兵法の事を別名「孫呉の術」とも呼ぶ。死後兵法書『呉子』の作者に擬せられた。子は呉期。.

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ショウ周

譙 周(しょう しゅう、199年以前 - 270年)は、中国三国時代から晋の政治家、儒学者。字は允南。譙熙・譙賢・譙同の父、譙秀・譙登の祖父。.

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シツ都

郅 都(しっと、? - 紀元前146年?)は、前漢前期の人で、景帝時代の酷吏と謳われた官吏の一人。または“蒼鷹”(獰猛な猛禽類)とも呼ばれて周りから恐れられた。.

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傅寬

傅 寬(ふ かん、? - 紀元前190年)は、中国の秦・前漢時代の武将。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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商鞅

商 鞅(しょう おう、紀元前390年 - 紀元前338年)は、中国戦国時代の秦国の政治家・将軍・法家・兵家。 姓は姫、氏は公孫。名は鞅。また、衛の公族系のために衛鞅(えいおう)ともいう。なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられたため商君鞅という意味の尊称である。法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも秦軍に攻められ戦死した。.

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公孫弘

公孫 弘(こうそん こう、紀元前200年 - 紀元前121年)は、前漢の人。菑川国(諸侯国の1つ)薛(山東省滕州市)の人。.

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元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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兵馬俑

始皇帝陵兵馬俑坑1号坑 騎兵俑と軍馬俑 彩色された兵士 兵馬俑(へいばよう)は、古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったもの。狭義には陝西省西安市臨潼区の秦始皇帝陵兵馬俑坑出土のものを指す。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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勾践

勾践(こうせん、? - 紀元前465年)は、中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。句践とも表記される。越侯允常の子で、楚の恵王の外祖父にあたる。.

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国宝

建築:宇治上神社本殿覆屋(宇治市) 寺院建築:法隆寺金堂・五重塔(斑鳩町) 城郭建築:姫路城連立天守(姫路市) 絵画:源氏物語絵巻(徳川美術館) 彫刻:臼杵磨崖仏(阿弥陀三尊像) 工芸品:天寿国繍帳(中宮寺) 書跡・典籍:秋萩帖(東京国立博物館) 弘法大師筆尺牘「風信帖」(東寺) 考古資料:人物画像鏡(隅田八幡神社) 歴史資料:慶長遣欧使節関係資料のうちローマ市公民権証書(仙台市博物館) 国宝(こくほう)とは、日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである(文化財保護法第27条第2項)。建造物、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料および歴史資料が指定されている。 法的には、国宝は重要文化財の一種である。国宝・重要文化財の指定手続、指定制度の沿革などについては、重要文化財の項を参照。 なお、いわゆる「人間国宝」とは重要無形文化財に指定された芸能、工芸技術などの保持者として各個認定された者の通称であり、本項で解説する国宝とは異なる。.

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国立歴史民俗博物館

国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、千葉県佐倉市城内町にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する博物館。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館である。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にある。 法的根拠は、国立大学法人法第2条第3項及び第4項並びに第5条である。.

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四書

四書(ししょ)は、儒教の経書のうち『大学』『中庸』『論語』『孟子』の4つの書物を総称したもの。四子(しし)・四子書(しししょ)とも言われる。.

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石奮

石 奮(せき ふん 紀元前219年『漢書』斉召南注・洪亮吉注・王先謙注 - 紀元前124年)は、前漢の人。父は趙の人だったが趙が滅んだため河内の温に移り、その後長安の戚里、茂陵の陵里と移住した。高祖劉邦から武帝の代まで仕えた。また「万石君」と呼ばれた。.

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王翦

王 翦(おう せん、生没年不詳)は、中国戦国時代の秦の将軍。頻陽東郷(陝西省富平県)の人。王賁の父。王離の祖父。秦王政(後の始皇帝)に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、趙、楚を滅ぼすなど秦の天下統一に貢献した。.

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王温舒

王 温舒(おう おんじょ、? - 紀元前104年)は、前漢の武帝時代の“酷吏”と称された官吏である。長安近郊の陽陵県(現在の陝西省咸陽市の東部)の人である。.

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灌嬰

嬰(かん えい、? - 紀元前176年)は、中国の秦・前漢時代の武将。.

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班彪

班 彪(はん ひょう、3年 - 54年)、字は叔皮。後漢の歴史家。祖父の班況は成帝の時代に越騎校尉に任じられて、父である班稚は哀帝の時代広平太守に任じられた。また子に班固、班超、班昭が、孫に班勇(班超の三男)。 班彪は扶風安陵(現在の陝西省咸陽市)の儒家の子として生まれる。前漢末に戦火を避け竇融の庇護を受けていた。その後光武帝による後漢政権建設に功績があったことから徐県令に任じられた。しかし間もなく病気を理由に官を辞し、その後は『史記』の補充を行い『史記後伝』65編を編集、後に子である班固による『漢書』成立の基礎を築いた。 『後漢書』に列伝が掲載されている。 Category:近代以前の中国の歴史家 Category:1世紀から5世紀の学者 Category:漢代の人物 Category:咸陽出身の人物 Category:3年生 Category:54年没.

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班固

班固 班 固(はん こ、32年 - 92年(建武八年 - 永元四年)は中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超、班昭の兄。班勇(班超の三男)の伯父。「漢書」の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。.

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神護景雲

護景雲(じんごけいうん)は、日本の元号の一つ。天平神護の後、宝亀の前。767年から770年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。 この年号以後、四文字元号が使われたことはない。四文字元号の中では唯一「天平」の文字が入らないが、天平神護から「神護」の名称を引き継いでおり、この年号までがいわゆる『天平文化』の範疇である。.

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福建省

福建省(ふっけんしょう、中国語:福建省、拼音:Fújiàn Shěng、英語:Fujian)は、中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を中華民国(台湾)が統治している。省都は福州市。.

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(しん、、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼ぶ。国姓の本姓は、氏は趙。統一時の首都は咸陽。.

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竇嬰

竇 嬰(とう えい、? - 紀元前131年)は、前漢の人。字は王孫。文帝の皇后の従兄の子。観津の人。.

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筑摩書房

株式会社筑摩書房(ちくましょぼう)は、日本の出版社。筑摩書房のマーク(空を截る鷹)のデザインは青山二郎作。 文学者を中心に個人全集は、増補改訂し繰り返し刊行するので、「全集の筑摩」と称されている。特に『世界文学全集』は多くの類書シリーズを刊行した。ほかに古典・現代文の教科書を現在まで毎年出版している。月刊PR誌に『ちくま』がある。.

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管叔鮮

管叔鮮 (かんしゅくせん)は、周の文王の三男。姓は姫で、名は鮮(叔鮮)。また、関叔とも称される。.

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管仲

管 夷吾(かん いご)は、中国の春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。一般には字の仲がよく知られており、以下本稿でも管 仲(かん ちゅう)として記す。三国時代の管寧はその後裔という。.

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米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万7千石。.

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系図

系図(けいず)は、ある一族の代々の系統を書き表した図表。系譜(けいふ)ともいうが、系譜と言った場合は血縁関係のみならず、学芸の師匠から弟子への師承関係を表した図表をいう場合も多い。特定の家の家督相続の継承の系統(家系)を記した系図は家系図(かけいず)、家譜(かふ)ともいう。.

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紫式部

紫式部 (土佐光起筆 石山寺蔵) 紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人。正確な誕生年は特定できないが、近年の研究では、970年(天禄元年)から978年(天元元年)の間に生まれ、1019年(寛仁3年)までは存命したことがわかっている上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK出版「100分de名著」ブックス 紫式部『源氏物語』P26(2015/12/25発行)。。 「源氏物語」の作者とされ、藤原道長の要請で宮中に上がった際に宮中の様子を書いた「紫式部日記」も残している。源氏物語と紫式部日記の2作品は、後に「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」として絵画化された。また、歌人である紫式部には、子供時代から晩年に至るまで自らが詠んだ歌から選び収めた「紫式部集」がある。「小倉百人一首」にも和歌が収められており、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人でもある。 父の藤原為時は、官位は正五位下と下級貴族ながら上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人である。紫式部は藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。1001年(長保3年)に結婚後3年程で夫が死去する。その後「源氏物語」を書き始め紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて、一条天皇の中宮であり藤原道長の娘でもある中宮彰子(藤原彰子)に仕えている間に「源氏物語」を完成させた。 なお、「紫式部集」には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている和歌の意「夫が火葬により煙となった夜から塩釜をとても身近に思う」(塩釜:海藻を焼き塩を取ることで知られる地名で、現在の宮城県塩竈市)。.

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紀伝体

紀伝体(きでんたい)は、東アジアの歴史書の書式の一つ。.

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紀伝道

紀伝道(きでんどう)とは、日本律令制の大学寮において、歴史(主に中国史)を教えた学科。後に漢文学の学科である文章道(もんじょうどう)と統合して歴史・漢文学の両方を教える学科となり、学科は「紀伝道」・博士は「文章博士」と別々の正式名称を用いて、通称として「紀伝博士」「文章道」という呼び方も用いられた(ただし、統合当時には「紀伝道」「文章道」の呼称はまだ成立していなかったとする説もある)。 ただし、実際には通称に過ぎないとされている「文章道」という呼称が、明治以後には混同されて、文章道が紀伝道を吸収して「文章道」「文章博士」となったという誤った解釈がされていた時期もある。 本項目でも統合以後の記述については、本来の記述に従って学科は「紀伝道」・博士は「文章博士」と記述するものとする。.

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紀元前91年

紀元前91年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前97年

紀元前97年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前98年

紀元前98年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前99年

紀元前99年は、ローマ暦の年である。.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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義帝

義帝(ぎてい、生年不詳 – 紀元前206年)は、秦末の反秦勢力の名目上の盟主。西楚の君主。秦滅亡後の一時的な中国の傀儡皇帝。姓は羋(び)。名は心(しん)。楚の懐王の孫(一説では玄孫とも)。.

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義縦

義 縦(ぎ しょう、? - 紀元前117年)は、前漢の人。河東の人。漢の武帝の時代の酷吏と呼ばれた官僚の一人。.

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田単

単(でん たん、紀元前3世紀前半頃)は、中国・戦国時代の斉の武将。燕によって滅亡寸前に追い詰められた斉を優れた知略によって救った。.

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田叔

叔(でん しゅく、生没年不詳)は、前漢の人物。趙の陘城県の人。斉の田氏の後裔にあたる。.

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田中謙二

中 謙二(たなか けんじ、1912年12月6日 - 2002年11月17日)は、日本の中国文学者。.

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田フン

蚡(でん ふん、? - 紀元前131年)は、前漢の人。母は劉邦が皇帝に即位した時の燕王である臧荼の孫の臧児で、漢の景帝の王皇后の異父弟に当たる。長陵で生まれた。武帝の時に丞相に至った。.

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田タン

儋(でん たん、? - 紀元前208年)は、秦末期の斉の国王。子に田巿。従弟に田栄、田横。『史記』に列伝として立てられている。.

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田斉

斉(でんせい)は、中国の戦国時代、紀元前386年に田氏が姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして新たに立てた国。国号は単に斉であるが、西周・春秋時代の呂斉と特に区別する場合に嬀斉または田斉と呼ばれる。戦国時代中期には、湣王の頃に東帝を称するまでになるほど強盛を誇り、戦国七雄の一つにも数えられる。首都は呂斉の時と変わらず臨淄であった。.

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甘茂

茂(かん ぼう/かん も、生没年不詳)は、中国戦国時代の秦の政治家・武将。恵文王・武王・昭襄王の3代に仕え、秦から亡命した後も斉や楚に重んじられた。甘羅の祖父、呉の甘寧、東晋の甘卓の祖と伝わる。.

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燕 (春秋)

燕(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国。春秋十二列国の一つ、また戦国七雄の一つ。河北省北部、現在の北京を中心とする土地を支配した。首都は薊(けい)で、現在の北京にあたる。燕都・薊城の遺蹟は北京市西城区に所在する。.

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盧綰

盧 綰(ろ わん、拼音:Lú Wǎn、紀元前256年若しくは紀元前247年 - 紀元前194年)は、秦末から前漢初期にかけての武将。前漢初期の燕王。.

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直江兼続

江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。.

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瀧川資言

瀧川 資言(たきがわ すけのぶ、慶応元年11月12日(1865年12月29日) - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の漢学者。戸籍名は龜太郎、字は資言、号は君山。『史記会注考証』(『史記』の注釈書)を編纂したことで知られる。.

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白居易

白 居易(はく きょい、772年2月28日(大暦7年1月20日) - 846年9月8日(会昌6年8月14日))は、中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。.

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白川静

白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本の漢文学者・東洋学者。学位は文学博士(京都大学)。立命館大学名誉教授、名誉館友。福井県福井市出身。.

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白起

白 起(はく き、? - 紀元前257年11月)は、中国・戦国時代末期の秦の武将。公孫起とも表記される。秦国郿県(現在の陝西省眉県)の出身。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。.

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銭大キン

銭 大昕(せん たいきん、1728年‐1804年)は、中国の清代中期の考証学者。字は暁徴あるいは辛眉、号は竹汀である。.

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韓 (戦国)

韓(かん)は、中国戦国時代に存在した国で、戦国七雄の一国(紀元前403年 - 紀元前230年)。地方名としての韓は、現在の河南省北部の一部、山西省南部の一部、陝西省東部の一部にあたる。.

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韓嫣

韓 嫣(かん えん、? - 紀元前137年)は、前漢の人物。字は王孫。弓高侯韓頽当の孫で、韓王信の曾孫にあたる。騎射に長け聡明な人物であったという。弟の韓説も、同じく武帝に寵愛された。.

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韓安国

韓 安国(かん あんこく、生没年不詳)は、前漢の人物。字は長孺。梁国成安の人だが、のちに睢陽に遷った。漢の御史大夫に至った。.

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韓信

韓 信(かん しん)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。 なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される。.

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韓王信

韓王 信(かんおう しん、? - 紀元前196年)は、秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。楚漢戦争期の韓王。姓は姫で氏が韓、諱が信である。身長6尺5寸(約195cm)の長身であった。.

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韓非

韓 非(かん ぴ、拼音:Hán Fēi、紀元前280年? - 紀元前233年)は、中国戦国時代の思想家。『韓非子』の著者。法家の代表的人物。韓非子とも呼ばれる。元来は単に韓子と呼ばれていたが、唐代の詩人韓愈を韓子と呼ぶようになると韓非子と呼ぶことが一般化した。.

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韓非子

『韓非子』(かんぴし)は、中国戦国時代の法家である韓非の著書。内容は春秋戦国時代の思想・社会の集大成と分析とも言えるものである。 後世では、蜀漢の丞相の諸葛亮が幼帝劉禅の教材として韓非子を献上している。.

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聶政

聶 政(じょう せい)は、中国戦国時代の人。司馬遷の『史記』刺客列伝に登場する。.

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聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。.

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道(みち、どう、タオ、ド).

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荊軻

荊 軻(けい か、、? - 紀元前227年)は、中国戦国時代末期の刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政(後の始皇帝)を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺された。.

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荘子

荘子(そうし、紀元前369年頃 - 紀元前286年頃)は、中国の戦国時代の宋国の蒙(現在の河南省商丘あるいは安徽省蒙城)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。荘周(姓=荘、名=周)。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが中国文学、中国哲学関係者の習慣となっている。.

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荀子

荀子(じゅんし、紀元前313年? - 紀元前238年以降)は、中国の戦国時代末の思想家・儒学者。諱は況。尊称して荀卿とも呼ばれる。漢代には孫卿とも呼ばれた。.

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頼惟勤

惟勤(らい つとむ、1922年2月2日 - 1999年7月15日)は、日本の中国文学者。お茶の水女子大学名誉教授。.

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項籍

項 籍(こう せき、Xiàng Jí、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。 姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。.

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衛の位置 衛(えい、紀元前11世紀 - 紀元前209年)は、中国の周代・春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国。 衛の始祖は周の文王の九男の康叔である。三兄の管叔鮮等が殷より周を攻め、四兄の周公旦が乱を鎮めた後に、康叔は周より衛君に封じられ、二分された殷の遺民の一方を民とし朝歌を都とした。 第8代頃侯の時、多くの財物を周王朝に献上したことから侯爵に叙された。第10代武公の時には、周の幽王が犬戎に殺されると、兵を率いて犬戎討伐に駆けつけ、その功により周王室から公爵に叙された。 その領土は狭いとはいえ、黄河流域の中原の中心地であり、先進地帯であった。しかしそのため、衛は周辺諸国との折衝に忙殺されることになる。紀元前660年には狄により滅ぼされるが、斉の桓公の助力により国を復活した。のちには亡命時代の晋の文公を冷遇して他国へ移らせ、孔子を迎え入れた時にも冷遇して他国へ追いやるなど、優秀な人材が滞在してもすぐに出国してしまう状況であった。また、公族の一人であった商鞅は魏を経て秦に仕えて活躍している。 戦国時代には韓・魏の半属国状態となり、紀元前240年には秦に事実上滅ぼされるものの、名目的には細々と続き、最終的には最後の君主・衛君角が紀元前209年に秦の二世皇帝(胡亥)に廃されることによって滅んだ。.

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衛青

衛 青(えい せい、、 ? - 元封5年(紀元前106年))は、前漢の武帝に仕えた武将。河東平陽(現在の山西省臨汾市)出身。字は仲卿。爵位は長平侯。母親は婢であった衛媼(えいおん)。幼少時に下級官吏の鄭季(ていき)の家に引き取られていたため、父親は鄭季とされる。子は衛伉、衛不疑、衛登ら。.

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衛氏朝鮮

衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。中国の燕に出自を持つ中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。.

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袁オウ

袁 盎(えん おう、生没年不詳)は、前漢の人物。字は絲。兄は袁噲『史記』袁盎鼂錯列伝より。、甥は袁种(兄の子)。文帝、景帝に仕えた。.

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西門豹

西門 豹(せいもん ひょう、生没年不詳)は、中国戦国時代の魏の政治家。.

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馬鹿

鹿」の漢字。 馬鹿(ばか)とは、.

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馮唐

馮 唐(ふう とう、生没年不詳)は、前漢の人。祖父の代は趙の人だったが、父の時に代に移住して代の相(宰相)となり、漢の時代になり安陵に移った。.

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駿府

駿府(すんぷ)は、駿河国(するがのくに)の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。.

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角川書店

角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店についても解説する。.

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諸侯

諸侯(しょこう)とは、主君である君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された臣下である貴族のことである。 原義においては、古代中国において、春秋時代まで天子である周王朝などの王から封土を与えられて、封土の内側(国家)において天子にかわって「君」として振る舞うことが許された、あるいは許されたと観念されていた諸都市国家や都市国家連合の世襲的な首長のことであった。戦国時代に整理された周の理想的制度においては、諸侯は公・侯・伯・子・男の五等の爵位を与えられていたと考えられ、前漢以後は郡国制において王・公などの爵位と「藩国」と呼ばれる封土を与えられた者を諸侯と呼んだ。.

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講談

講談(こうだん)とは、日本の伝統芸能のひとつ。 演者は高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物や政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる。上方講談においては、張り扇と拍子木を併用する。.

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魏 (戦国)

魏(ぎ、紀元前453年あるいは紀元前403年 - 紀元前225年)は、中国戦国時代に存在した国。戦国七雄の一つ。紀元前453年に韓、趙と共に晋から独立し、その地を三分した。このため、この三国のことを三晋という。また魏は、東西に領土が広がっていたため東に斉、西に秦、南に韓と楚、北東に趙と国境を接していた。首府は安邑、のちに遷都して大梁。.

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魏ゼン

魏 冄(ぎ ぜん、、生没年不詳)は、中国戦国時代に秦に仕えた政治家。封ぜられた地から穣公・陶公とも呼ばれる。秦の恵文君(恵文王)・武王・昭襄王の三王に仕え、丞相、相国となり権勢を誇った。.

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魏豹

魏 豹(ぎ ひょう、? - 紀元前204年)は、中国の戦国時代後期から秦代にかけての政治家。魏王室の公子で後の西魏王。魏咎の弟または従弟。名の読みは呉音の「ぎひょう」に対して、漢音の「ぎほう」とも呼ばれる。 陳勝・呉広の乱に乗じて魏咎と共に挙兵し、周巿らに擁立された魏咎が魏王になるとこれに仕えた。 紀元前208年、秦の章邯の侵攻によって魏咎が焼身自殺すると、魏豹は楚の項梁を頼って逃亡した。そして、懐王より数千の兵を借り、魏の20余城を攻め落とした。章邯が項羽に降伏した報を聞くと、自ら魏王と称した。 紀元前206年に項羽が秦を滅ぼすと、魏豹は領土を削り取られて西魏王とされた。楚漢戦争が始まり、劉邦が韓信を得て章邯らの治める三秦を打ち破ると、魏豹は自ら劉邦と同盟を結び、彭城の戦いに加わる。しかし、彭城の戦いでは各国が自分勝手に陣を張ったために統率が取れず、項羽の3万の軍勢の前に連合軍は大敗した。 敗戦後、魏豹は母を看病すると偽って帰国し、劉邦から離反して項羽に味方した。魏豹の離反に危惧した劉邦は酈食其を使者として説得に訪れさせたが、魏豹は「私は傲慢で礼儀知らずで横柄な漢王(劉邦)に二度と会いたくもない」とこれを拒否した。 紀元前205年、韓信による諸国遠征が始まると、最初に西魏が標的となり、黄河を挟んで対岸に位置する蒲阪と臨晋に、それぞれ魏軍と漢軍が対峙した。蒲阪に魏軍が集中していることを知った韓信は、臨晋から大軍が渡河するように見せかけ、上流に回り込んで木樽(たる)で作った即席の筏で黄河を渡り、魏軍の背後にある首都安邑を衝いた。これに慌てた魏軍は引き返そうとしたが、前後から攻撃されて大敗し、魏豹は捕らえられて、西魏は劉邦の漢の直轄地の郡に編入された。魏豹は庶民に落とされた。側室の薄氏は劉邦の側室となり、のちに劉恒(文帝)を生んだ。 紀元前204年、魏豹は再び登用され、滎陽で周苛や樅公とともに守備を命じられ、漢軍をまとめさせた。しかし、間もなく項羽率いる楚軍に包囲されると、秋8月に周苛と樅公は「魏豹が反乱を起こす恐れがある」と判断して、魏豹を殺害した。その後、滎陽は項羽に攻め落とされ、周苛は煮殺され、樅公は処刑された。.

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魯(ろ)は、中国の王朝名・地名。地名としての魯は現在の中国山東省南部を指す。山東省全体の略称(雅名)としても用いられる。 王朝としての魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、中国大陸に周代、春秋時代、戦国時代に亘って存在した国である。代々の魯公(魯の君主)の爵位は侯爵であり、姓は姫(き)である。首府は曲阜。 周公旦(周王朝の開祖である武王の弟で、武王の子成王を補佐した)の子伯禽が成王によって封ぜられて成立した。 春秋時代に入ってからは、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となる。しかも、国内では、魯の公族である三桓氏が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱した。 しかしながら、この混乱した小国が思想史・文化史に果たした役割は大きい。周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、魯の出身である孔子であり、その一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化というものがあったからともいえる。ちなみに孔子が魯に仕えていたのは若年時のみで(?)、老年期まで各国に弟子と共に放浪していた。なお、「春秋」は、隠公元年(紀元前722年)から、哀公14年(紀元前481年)までの魯国の年次記録が基になっている。 孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上として三桓氏に分割されてしまう。魯公室は細々と生き残るが、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。.

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魯仲連

魯 仲連(ろ ちゅうれん、노중련)は、中国の戦国時代の遊説家。斉の人。朝鮮の氏族密陽魯氏と江華魯氏の始祖である。 魯仲連の同族の魯啓は、箕子が朝鮮を征服した時に、箕子と共に箕子朝鮮を建国して江華に定着し、詩書・礼楽・礼儀・祭祀・冠婚葬祭・政治制度を朝鮮に教えた。.

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豫譲

豫 譲(よ じょう、? - 紀元前453年頃)は、中国春秋戦国時代の人物。敗死した主君の仇を単身討とうと試みたが、遂に果たせなかった。.

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貝塚茂樹

貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年(明治37年)5月1日 - 1987年(昭和62年)2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者。専攻は古代中国考古学。京都大学名誉教授。文学博士。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。旧姓は小川、貝塚は1945年(昭和20年)に入り婿した妻の実家の姓である。.

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賈誼

賈 誼(か ぎ、紀元前200年 - 紀元前168年)中国・前漢時代の政治思想家・文章家。後漢の賈逵はその後裔にあたる。.

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鴻嘉

鴻嘉(こうか)は、中国、前漢の成帝劉驁の治世に行われた4番目の年号。紀元前20年 - 紀元前17年。.

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鴻門の会

鴻門の会(こうもんのかい)は、紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外(現在の陝西省西安市臨潼区)で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。.

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足利学校

足利学校(あしかががっこう)は、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。.

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趙 (戦国)

趙(ちょう)は、戦国時代に存在した国(紀元前403年 - 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。国姓は趙、または嬴(秦の王室と同祖とされる)。首府は邯鄲。もともとは、晋の臣下(卿)であった。紀元前228年に秦に滅ぼされた。.

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趙奢

趙 奢(ちょう しゃ、生没年不詳)は、中国戦国時代の趙の政治家・将軍。恵文王に仕えて閼与の戦いで秦の軍勢を撃退し、馬服君に封ぜられた。趙括、趙牧の父。.

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黄帝

帝(こうてい)は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年~紀元前2448年).

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近藤光男 (中国文学者)

近藤 光男(こんどう みつお、1921年(大正10年) - )は、日本の漢文学者、お茶の水女子大学名誉教授。 京都府京都市生まれ。東京帝国大学文学部支那哲学支那文学科卒業。北海道教育大学講師、北海道大学助教授、教授、1972年お茶の水女子大学教授。1987年定年退官、名誉教授。1997年春、勲三等旭日中綬章受勲。.

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霍去病

霍去病の像(甘粛省酒泉市) 霍 去病(かく きょへい、、紀元前140年 - 紀元前117年)は、前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。.

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范蠡

范 蠡(はん れい、生没年不詳)は、中国春秋時代の越の政治家、軍人である。氏は范、諱は蠡、字は少伯。越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者とされている。.

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范雎

范 雎(はん しょ、、? - 紀元前255年?)は、中国戦国時代に秦に仕えた政治家。字は叔。秦の昭襄王に対して遠交近攻策を進言して秦の優勢を決定的なものとした。.

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蜀漢

蜀漢(しょくかん、221年 - 263年)は、中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州)に建てた国。 蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため、蜀漢と自ら名乗ったことはない『三国志』蜀志二「先主伝」。また、季漢(季は末っ子の意味)と称することもあった。.

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郭解

郭 解(かく かい、生没年不詳)は、前漢の人。字は翁伯。河内郡軹の人。游侠として知られる。.

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興譲館

興譲館(こうじょうかん).

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蘇秦

蘇 秦(そ しん、? - 紀元前317年?)は、中国戦国時代の弁論家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を遊説して合従を成立させたとされる。.

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藤原佐世

藤原 佐世(ふじわら の すけよ)は、平安時代前期の貴族・学者。藤原式家、中納言・藤原種継の曾孫。民部大輔・藤原菅雄の子。官位は従四位下・右大弁。.

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藩校

弘道館(水戸藩) 藩校(はんこう)は、江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校。、、藩学校ともいう。 内容や規模は多様だが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられた。後に、皆に開放された藩校もある。広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。藩校は、藩の費用負担により藩地に設立されたが、一部の例外として江戸藩邸に併設された学校もあった。藩士に月謝の支払い義務はない上に、成績優秀者には藩から就学支援金を給し、江戸等に遊学させることがあった。 全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14〜15歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。 藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味であり、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げる。内容の解釈はともかく、読みの誤謬(読み間違い)、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まる。江戸幕府では10月頃に行われていた。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられる。特に三度の落第者には厳しい厳罰が設けられている。それは藩校によって様々だが、主な厳罰として、嫡男なら相続の際、家禄の減俸。更に親の役職を継ぐにもままならず無役のまま生涯を送ることもなりかねない。.

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藺相如

藺 相如(りん しょうじょ、拼音:Lìn Xiāng-rú、生没年不詳)は、中国の戦国時代の末期に趙の恵文王の家臣。「完璧」や「刎頸の交わり」の故事で知られる。 司馬遷は『史記』の中で、藺相如のことを文武知勇の将と賞している。.

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闔閭

閭(こうりょ、? - 紀元前496年、在位:紀元前514年 - 紀元前496年)は、中国春秋時代の呉の第6代の王。姓は姫。諱は光。家臣の孫武、伍子胥などの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王勾践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて没した。春秋五覇の1人に数えられることがある。闔廬とも表記される。.

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董仲舒

董 仲舒(とう ちゅうじょ、紀元前176年? - 紀元前104年?)は、中国前漢時代の儒学者、『春秋』学者。儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の最大の特徴は「災異説」。.

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蒙恬

蒙 恬(もう てん、拼音:Méng Tián、? - 紀元前210年)は、中国の秦の将軍。蒙驁(驁は敖の下に馬)の孫、蒙武の子、蒙毅の兄。匈奴討伐などに功績を挙げたが、趙高たちの陰謀によって扶蘇と共に自殺させられた。.

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蔡(さい、)、紀元前11世紀 - 紀元前447年)は周代に中国に存在した侯国。国姓は姫姓。首都は上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県の南西)にあり、そこを中心として現在の河南省上蔡県一帯を領土とした。後、首都を新蔡(現在の河南省駐馬店市新蔡県)に遷した。周の武王が実弟・蔡叔度を侯爵に封じたのが始まり。紀元前531年楚に攻められて新蔡を追われ、首都を下蔡(現在の安徽省淮南市鳳台県)に遷したが、のち楚の恵王に滅ぼされた。.

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蔡沢

蔡 沢(さい たく)は、中国戦国時代の秦の宰相。剛成君。燕の人。.

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鄭(てい、紀元前806年 - 紀元前375年)は、中国の西周時代から春秋戦国時代まで存在した国。姓は姫、爵位は伯爵。現在の中華人民共和国河南省に位置した。 周の宣王の同母弟、姫友(桓公)が鄭(現在の陝西省渭南市華州区)に封じられたことに始まる。幽王の時、桓公は西周滅亡の混乱を避け、国民とともに東虢(とうかく)と鄶(かい)の間に遷った。 次の武公は即位すると、まず東虢と鄶を攻め滅ぼし、都を新鄭に定めた。武公・荘公は東周の平王の卿士となり周の再建をたすけた。しかし荘公はやがて周朝と反目するようになり、親征してきた周王直卒の連合軍を大破した。荘公には即位時からの謀臣として祭仲という賢臣がいたが、荘公の子である厲公は祭仲と対立し、暗殺しようとしたが事前に露見し、君主の座から逃げ出して副首都に逃げた。厲公は祭仲がいなくなった後、復位した。 その頃、斉の桓公が東方の覇者となり、その会盟に参加したもののむやみやたらと強い自尊心の為に会盟から脱退していた。その後、周の恵王が即位した際に再度卿士として政権の中枢へ返り咲いた。その後も鄭は王族である自尊心が強くみられ、それにより晋の文公(この時は重耳と名乗っていた)が諸国放浪中に鄭国内に立ち寄った際にも、厲公の子である文公は「流浪中の老人」と重耳を揶揄して粗略な扱いをしたために重耳から睨まれ、重耳が晋君に即位した後に誅されることとなった。 以降、晋と楚の二大勢力の狭間で、晋に属しながらも楚に表向きには従う、という、いわゆる「面従腹背」を繰り返し、それを嫌った楚の荘王による討伐軍を受けることになり、いわゆる邲の戦いへと発展することになった。このように春秋時代初期は強国であったが、小国であるが故に晋と楚との二大勢力による争いに巻き込まれ、徐々に衰退・没落した。それでも、名宰相として有名な子産が、土地制度・軍制・税制・法制を改革して国力を整理・増強し、外交にも手腕を振るったことで一時は荘公以来の全盛期となった。しかしそれも子産の死後は再び振るわなくなった。 紀元前375年、韓に滅ぼされた。.

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鄭当時

鄭 当時(てい とうじ、生没年不詳)は、前漢の人。字は荘。陳の人。漢の武帝の時代の大臣。.

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臥薪嘗胆

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、復讐を成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、中国の故事成語である。紀元前6-5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来する。この成語の現在確認できる初出は、「嘗胆」のみならば『史記』巻41越王勾践世家であるが、「臥薪嘗胆」と揃った形では蘇軾(1037年 - 1101年)の詩『擬孫権答曹操書』中の句「僕受遺以来 臥薪嘗胆』(14世紀前半に成立)に求められる。明治時代の日本において、三国干渉が発生した時に、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運を表すスローガンとして広く使われた。.

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蕭何

蕭 何(しょう か、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を輔けた、漢の三傑の一人。.

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酷吏

酷吏(こくり)とは法律を威にかざし、人に罪を被せて処罰、処刑する役人に対する蔑称。.

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酒池肉林

酒池肉林(しゅちにくりん)は、酒や肉が豊富で豪奢な酒宴という意味の四字熟語である。「肉林」の「肉」に「肉欲」の意はなく、女性に囲まれて大騒ぎをする宴というのは誤用である。 中国語では、発祥から現在まで「酒池肉林」は、はてしなく過度な奢侈的生活を過ごす、贅沢三昧な生活をすることを意味している。.

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英布

英 布(えい ふ、、? - 紀元前196年)は、秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。通称黥布(げいふ、)。楚漢戦争期の九江王。前漢初期の淮南王。六(りく、現在の安徽省六安市)出身。.

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老子

老子(ろうし)は、春秋戦国時代の中国における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。 史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。.

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虞卿

虞 卿(ぐ けい、紀元前3世紀中頃)は、中国戦国時代末期趙の政治家・歴史家・弁論家。 後述するように「卿」は通称・尊称であり、本名は不明。趙の上卿・宰相を務め、また、歴史書『虞氏春秋』を著した。その史料と義侠に溢れた生き様は『史記』の著者司馬遷にも大きな影響を与えた小川・今鷹・福島、p.

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陳 (春秋)

陳(ちん、紀元前11世紀 - 紀元前478年)は、周代の諸侯国のひとつ。国姓は嬀。 周の武王が舜の子孫を捜索して嬀満を見出し、これを陳(現代の河南省淮陽県)に封じたのが国の始まりとされる。陳は小国の地位を脱することができず、南方で楚が台頭すると、これに従属するようになった。春秋時代には晋・楚の二大国の争いに翻弄され、さらには呉の台頭によって圧迫を受けた。紀元前478年に陳は楚の恵王によって滅ぼされた。 余談となるが、話はさかのぼって紀元前672年に陳の厲公の子の陳完が斉に亡命した。後にこの陳完の子孫が田氏を名乗るようになった。田氏は斉国内で大きな勢力を持つにいたり、紀元前386年には公室を簒奪して斉の君主となった。.

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陳平

陳 平(ちん ぺい、、? - 紀元前178年)は、中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。 当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂雉亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。.

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陳余

陳 余(旧字: 陳餘、ちん よ、、? - 紀元前205年)は、秦末から前漢初期にかけての武将及び代王。.

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陳勝

陳 勝(ちん しょう、Chén Shèng、? - 紀元前209年)は、秦代末期の反乱指導者。字は渉。劉邦や項羽に先んじて秦に対する反乱を起こしたが、秦の討伐軍に攻められて敗死した。.

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陳勝・呉広の乱

陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん、 中国語:陳勝吳廣起義; Chén Shèng Wú Guǎng Qǐyì)は、中国秦末期に陳勝と呉広が起こした、史上初の農民反乱。.

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陸賈

賈(りく か、拼音:Lù Jiǎ、生没年不詳)は、中国の政治家・説客・外交官。楚の人で、漢の高祖劉邦に仕えた。.

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枕草子

王子猷(王羲之の子)が竹を「此君」と呼んだ事に因む。 『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」、「枕冊子」、「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称された。.

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恵帝 (漢)

恵帝(けいてい)は、前漢の第2代皇帝。諱は劉盈(りゅう えい)。生年は紀元前210年、紀元前213年の2説がある。.

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杞(き)は、古代中国の殷代から戦国時代にかけて存在した国。国姓は姒であり、禹の末裔と称した。殷末周初に一時滅亡するが、周初に再興され、史料では東楼公より20代の王が記録されている。紀元前445年、楚によって滅ぼされた。 杞は小国であったため、史書での記述は極めて限定的である。『史記』には「陳杞世家」の記述があるが、杞についての記述は僅か270字であり、「杞小微、其事不足称述(杞は小微にして、其の事称述するに足らず)」と扱われている。このように国力も十分でない小国であったため、周辺諸国との外交圧力の中で遷都を繰り返している。当初は河南省杞県一帯に位置していたが、その後山東省新泰に、更に昌楽、安丘と都城が移動した。 小国の杞であるが、杞が夏王室の末裔であり、夏礼を保存していることから儒家にとっては大きな意義があった。孔子も夏礼を学ぶために杞を訪問した記録がある。 現在まで考古学の成果による杞の出土品は限定的である。しかし殷墟より発掘された甲骨文字の中に杞の文字を記したものが発見されており、殷代には杞が存在していた証拠とされるが、杞県での考古学上の発見は未だなされていない。新泰では清代の道光年間及び光緒年間に青銅器が、2002年には周家庄で杞の貴族墓葬群が発見され、新泰に杞が存在していたことを証明している。 後に杞の公子の一人が斉に仕え、鮑の地を与えられた事から鮑氏を名乗り、賢臣として名高い鮑叔を輩出している。.

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李広

李 広(り こう、? - 紀元前119年)は、中国前漢時代の将軍。文帝・景帝・武帝に仕えた。 飛将軍の綽名でも知られる。武勇に優れていたが戦功を認められることなく憤死した。秦の将軍の李信の子孫である。従弟に丞相になった李蔡、孫に李陵がいる。.

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李延年

李 延年(り えんねん、生没年不詳)は、前漢の人物で、武帝に仕えた楽人。中山の人。妹は武帝の寵姫李夫人。兄弟に将軍となった李広利がいる。.

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李牧

李 牧(り ぼく、? - 紀元前229年)は、中国春秋戦国時代の趙国の武将。大将軍でもあり、武安君の称号を持つ。『史記』「廉頗藺相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけている。.

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李離

李 離(り り、? - 309年)は、五胡十六国時代成漢の人物。李特の妹婿である李含の子。.

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李陵

李 陵(り りょう、? - 紀元前74年)は、中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷が宮刑に処される原因を作った人物である。字は少卿。.

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李斯

李 斯(り し、拼音:Lǐ Sī、? - 紀元前208年)は、中国秦代の宰相。字は通古。子はら。法家を思想的基盤に置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて、趙高によって処刑された。.

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東甌

東甌(とうおう、前472年 - 前138年)とは、越王勾践の後裔東甌王が封じられた国であり、現在の浙江省温州市付近に存在した。「甌越」とも表記される。.

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杜周

杜 周(と しゅう、? - 紀元前94年)は、前漢の人で、字は長孺。南陽郡杜衍県(河南省南陽市臥竜区)の人。武帝時代の酷吏。.

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楚 (春秋)

楚(そ - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。.

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楊僕

楊 僕(よう ぼく、生没年不詳)は、前漢の人。宜陽の人。漢の武帝に仕え酷吏と呼ばれた官僚、将軍。.

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楊ウン

楊 惲(よう うん、? - 紀元前54年)は、前漢の人。字は子幼。華陰の人。丞相楊敞の子。司馬遷の外孫で、外祖父の『史記』を広めた人物として知られる。.

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楽毅

楽 毅(がく き、、生没年不明)は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。子に楽間。.

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樊カイ

樊噲 樊 噲(はん かい(カイの字は)、? - 紀元前189年)は、中国の秦末から前漢初期にかけての武将。爵は賢成君、後に臨武侯、さらに後に舞陽侯。諡号は武侯。.

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樗里疾

樗里 疾(ちょり しつ ? - 紀元前300年)は、中国戦国時代の秦の王族・政治家・軍人。姓は嬴、氏は居住地から樗里、諱は疾。孝公の子、恵文王の異母弟。母親は韓の人。彼の屋敷が樗里という場所にあったため、樗里子とも呼ばれる。知恵者として有名。.

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欒布

欒 布(らん ふ/らん ぷ、? - 紀元前144年)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。.

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正史

正史(せいし)とは、.

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武帝 (漢)

武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝。ら3人の同母姉がいる。彼の治世下で、前漢は最盛期を迎える。.

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歴史書一覧

歴史書一覧(れきししょいちらん)は歴史書の一覧。地域・年代順。一部厳密に分類すると「歴史物語」に属し、史料としては価値が劣るものも含むので取扱いについては注意する。なお、用語としての「歴史書」については歴史書の項目を参照。.

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殷(いん、、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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汲黯

汲 黯(きゅう あん、生没年不詳)は、前漢の官吏。字は長儒。濮陽の人。漢の武帝の時代の大臣。.

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泓水の戦い

泓水の戦い(おうすいのたたかい、、)は、中国春秋時代の紀元前638年に宋の襄公と楚の成王が泓水(現在の河南省商丘市柘城県)にて激突した戦い。楚の大勝に終わり、宋は楚の影響下に置かれることになった。.

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淳于コン

淳于 髠(じゅんう こん、生没年不詳)は、戦国時代の人物。斉の威王に仕えた、稷下の学士の一人である。元々贅壻であったが、才能によって立身出世することができた。そもそもの姓は『淳于』で、名は『髠』だが、『髠』とは仮名のようなもので、丸坊主を意味する言葉である。『贅壻』とは、 いわゆる奴隷であり、奴隷は頭を丸刈りにするのでそういう名にしたのであろう。.

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淳于意

淳于 意(じゅんう い、紀元前215年-没年不詳)は、前漢初期の人。臨菑の人。斉の太倉長を務め、太倉公と呼ばれた。医者。.

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渡邉義浩

渡邊 義浩(わたなべ よしひろ、1962年1月4日 - )は、日本の中国史学者、早稲田大学教授。 東京都生まれ。1991年、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了。「後漢国家の支配と儒教」で文学博士。北海道教育大学講師、大東文化大学文学部助教授・教授、早稲田大学文学学術院教授。専門は中国古代史。三国志学会事務局長。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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清少納言

清少納言(せいしょうなごん-->、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つ。.

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源平盛衰記

『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。48巻。著者不明。読み本系統に分類される。(詳しくは『平家物語』を参照).

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源氏物語

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。 朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。 『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。文献初出は1008年(寛弘五年)。作者の紫式部にとって生涯で唯一の物語作品である物語の他には「紫式部日記」や和歌集の「紫式部集」があり「小倉百人一首」にも和歌が収められている(*)。後に、紫式部の「源氏物語」と「紫式部日記」の2作品は絵画化された。約150年後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」、約200年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記絵巻」が制作された。(*)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」。主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。紫式部日記。。 下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。最初は、当時紙が貴重で紙の提供者がいれば、その都度書き江戸時代の松永貞徳の源氏物語の写本全54冊(54帖)の1冊1冊の厚みが示すように、紫式部は当初多くの分量は書けず1冊(1帖)の厚みは薄いが、支援者の藤原道長により安定した紙の供給が行なわれて以降は34帖「若菜」のように1冊(1帖)の厚みが急激に増した。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。(参考)『源氏物語』与謝野晶子訳、各帖の総ページ数より、1帖「桐壷」26、2帖「帚木」44、3帖「空蝉」12、そして、34帖「若菜」上192、下190。(角川文庫 1999年(平成11年)5月10日)所収、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが紫式部日記より、当初、紫式部は仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合って楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」。上智大学文学部教授 三田村雅子、NHK 2012年4月4日放送「100分de名著 源氏物語」第1回。NHK出版100分de名著『源氏物語』 (2012/3/24)。、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』を完成させた中宮彰子は一条天皇の妻であったが、一条天皇のもう一人の妻であり後に亡くなった藤原定子の家庭教師は清少納言だった。なお、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部は、宮中の様子を中心に書いた「紫式部日記」を残している。。 なお、源氏物語は文献初出から150年ほど後の平安時代末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された 五島美術館。現存する絵巻物の内、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語を超える翻訳を通じ世界各国で読まれている 総合研究大学院大学教授 伊藤鉃也 日本文学研究専攻。2009年3月時点、刊行されたもの24種類、現在進行中のもの4種類、未確認(あるらしい、というもの)6種類。。.

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漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。.

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朝日選書

朝日選書(あさひせんしょ-)は朝日新聞社(現:朝日新聞出版)刊行の選書シリーズ。 1974年に創刊以来、文学・歴史・政治・思想・経済・芸術・科学史などの各分野の書き下ろしと、新古典での改訂再刊もある。 これまで刊行されたうち、91の書籍が、朝日オンデマンド・ブックス(オンデマンド版)として復刊されている。 (著) 易―中国古典選〈10.

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朝日新聞社

株式会社朝日新聞社(あさひしんぶんしゃ、英語:The Asahi Shimbun Company)は、全国紙『朝日新聞』を発行する日本の新聞社である。新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演、スポーツ大会の開催などの事業活動も行う例えば、全国高等学校野球選手権大会(いわゆる「夏の甲子園」)を日本高等学校野球連盟と共に主催している。。 新聞販売店の名称は「ASA」(朝日新聞サービスアンカー, Asahi Shimbun Service Anchor)であり、日本全国で約3000か所、従業員数約7万8,000人を擁する。日本ABC協会の調査によると海外を含む。 創立は1879年(明治12年)1月8日、日本国内の本支社数は5社、取材拠点は293か所、印刷拠点は24か所であり、日本国外機関は34拠点存在する。.

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朱家

朱 家(しゅ か、生没年不詳)は、秦から前漢にかけての人物。魯国の人。游侠として知られ、その行状は司馬遷の『史記』に記されている。.

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成帝 (漢)

成帝(せいてい)は、前漢の第11代皇帝。.

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戦国策

『戦国策』(せんごくさく)は、前漢の劉向の撰になり、戦国時代の遊説の士の言説、国策、献策、その他の逸話を国別に編集し、まとめ上げた書物。全33篇。「戦国時代」という語はこの書に由来する。.

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明治書院

明治書院(めいじしょいん)は、東京都新宿区にある日本の出版社。.

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春秋左氏伝

『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん、旧字:春秋左氏傳、)は、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。通称『左伝』。『春秋左氏』『左氏伝』ということもある。現存する他の注釈書『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれている。.

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春申君

春申君(しゅんしんくん、? - 紀元前238年)は、中国戦国時代の楚の政治家。姓は黄、諱は歇(あつ)。戦国四君の一人。考烈王を擁立し、国勢の傾いた楚を立て直した。.

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昭帝 (漢)

昭帝(しょうてい)は、前漢の第8代皇帝。  .

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新釈漢文大系

『新釈漢文大系』(しんしゃくかんぶんたいけい)は、明治書院で出版する中国古典を網羅した「漢文大系」。 古代中国から宋代までの、著名な思想・歴史・文芸古典を、完訳・解説する。.

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新書漢文大系

『新書漢文大系』(しんしょかんぶんたいけい)は、明治書院で出版している中国古典の原文と解釈と注解を併せた叢書『新釈漢文大系』の新書(抜粋)版。.

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文安

文安(ぶんあん、ぶんなん)は、日本の元号の一つ。嘉吉の後、宝徳の前。1444年から1449年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は空位。.

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文帝 (漢)

文帝(ぶんてい)は、前漢の第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。諱は劉恒(りゅう こう)。高祖劉邦の四男(庶子)。妻にがいる。.

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文心雕龍

文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)は、中国・南朝梁の劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書。全10巻。5世紀の末、南斉の末期に成立したと推測される。 中国文学史上で有数の体系的なおかつ総合的な文学理論の書として評価される。各巻は5篇からなり、全体で50篇から成る構成である。前半の25篇は「原道」(文学原理)以下、33種の各カテゴリーの文学に関して論じており、後半25篇では創作、修辞、文学環境や作者論などの諸問題を論述している。 六朝は中国文学史において、初めて文学が文学として自立した時代であるが、本書はその記念碑的な存在である。しかしながら、単なる文学理論にとどまらず、広く六朝時代の時代層を反映しており、この時代全般を考える上でも重要な書物である。.

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文選 (書物)

『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。.

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斉 (春秋)

斉(齊、せい、Qí、紀元前1046年 - 紀元前386年)は、周代、春秋時代、戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した国(諸侯)。周建国の功臣太公望によって立てられた国である。姓は姜、氏は呂であるため、戦国時代の斉(嬀斉・田斉)などと区別して姜斉または呂斉とも呼ばれる。紀元前386年に有力大夫の田和によって乗っ取られ、姜斉はこの時点で滅ぼされた。首都は臨淄。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本国見在書目録

『日本国見在書目録』(にほんこくげんざいしょもくろく)は、寛平3年(891年)ごろに藤原佐世によって作られた漢籍の分類目録。日本最古の漢籍目録であり、載せられた漢籍の多くは現存しない。 漢籍目録としては『隋書』経籍志と『旧唐書』経籍志の中間の年代にあたり、また中国の目録に見えない書籍も含まれるため、中国史上も重視される。.

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慶元

慶元(けいげん)は、南宋の寧宗趙拡の治世に行われた最初の元号。1195年 - 1200年。.

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扁鵲

扁鵲(へんじゃく)は、古代中国、とくに漢以前の中国における、伝説的な名医である。.

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曹 (春秋)

曹(そう、紀元前1046年頃 - 紀元前487年)は、中国大陸に西周から春秋時代にわたって存在した小国である。君主の姓は姫(き)、都は陶丘(今の山東省菏沢市定陶区の南西)。 創始者は周の武王の弟の曹叔振鐸。紀元前637年、晋の公子である重耳(後の文公)が亡命の旅の途中に曹を訪れた。時の君主共公は重耳の駢胸(一枚肋(あばら))を覗こうとして、臣下の釐負羈に諌められた。後に、紀元前632年、文公が攻撃し、共公を捕虜とした時には、釐負羈一族の住居は無事だった。また、同姓の国を滅ぼすようでは覇者となれないとの忠告もあり、共公を曹に帰国させた。最後の君主曹伯陽の時代、紀元前499年に、ある人が土地の神によって曹国の滅亡を相談している夢を見た。夢の中では、始祖の曹叔振鐸が滅亡は公孫彊が現われてからにしてほしいと神たちに頼んだので、その時は事なきを得た。後に、実際に公孫彊という人物が曹伯陽に気に入られ、政治の実権を取ることで世に出るようになった。公孫彊の勧めで晋との盟に背き、宋を攻撃した。その翌年の紀元前487年に宋によって滅ぼされた。.

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曹参

曹 参(そう しん、? - 紀元前190年)は、秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。姓は曹氏。諱は参、字は敬伯。前漢の2代目の相国となった。黄老の学を重んじた。子に曹窋がいる。爵位は平陽侯、諡は懿侯。.

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曹沫

曹 沬(そう かい、生没年未詳)は、魯の荘公に仕えた将軍。斉の桓公に、今までに奪った魯の領地を返すよう脅迫して承諾させたことで知られる。.

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晁錯

晁 錯(ちょう さく、? - 紀元前154年)は、中国の前漢の政治家。諸侯王の勢力を削る政策を進めたが、反発を受けて呉楚七国の乱を招き、自身は反乱鎮圧のためと称して殺された。本来の表記は鼂錯だが、晁錯と略字で表記されることが多い。以下晁錯で統一する。.

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晏嬰

晏 嬰(あん えい、? - 紀元前500年)は、中国春秋時代の斉の政治家。氏は晏、諱は嬰、字は仲、諡は平。莱の夷維の人。父は晏弱(晏桓子)。子は晏圉(あんぎょ)。妻の名及び生まれは史書に記載なし。霊公、荘公光、景公の3代に仕え、上を憚ることなく諫言を行った。名宰相として評価が高く、晏平仲、もしくは晏子と尊称される。.

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景帝 (漢)

景帝(けいてい)は、前漢の第6代皇帝。 父文帝と同様に漢の基盤を固める善政を行い、その治世は「文景の治」と賞賛された。また、後漢の創始者である光武帝劉秀と蜀漢の創始者である昭烈帝劉備は景帝の末裔と称した。.

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晋 (春秋)

晋(しん、紀元前11世紀 - 紀元前376年)は、現在の中国山西省に西周代、春秋時代にわたって存在した国家である。始めは唐と呼ばれていたが、後に晋と改める。国姓は姫である。首府は翼、後に曲沃の分家が翼の宗家に取って代わった際に名を改め、絳と呼ばれるようになった。.

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晋書

『晋書』(しんじょ )は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。.

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1195年

記載なし。

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1201年

記載なし。

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1446年

記載なし。

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1616年

記載なし。

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1728年

記載なし。

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768年

記載なし。

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769年

記載なし。

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889年

記載なし。

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897年

記載なし。

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